スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

有島武郎『或る女』に見るジェンダー規範 │ファム・ファタールは如何にして男を殺し、殺されるか│

41010ZZZZZZZ.jpg


はじめに
 『或る女』は有島武郎(明治一一(1878)・三・四ー大正一二(1923)・六・九)によって書かれた長編小説である。初出は『或る女のグリンプス』と題して明治四四(1911)・一から大正二(1913)・三「白樺」に掲載。これを増補改題し、大正八(1919)・三、有島武郎著作集第八輯『或女』、前篇として叢文閣から刊行。同六月には、書下ろしで同第九輯『或る女』後編を同出版社から刊行された。
 ご覧のように『或る女』は、十年ちかい年月をかけて創作された作品であり、有島にとっての十年とは、その作家人生のほとんどに当たる。『或る女』は、有島の代表作と目され、現在の日本近代文学史においては、作品として成功していると髙い評価を受けている。だが、この作品は、必ずしも同時代の人間には評価されなかったようである。石坂養平は『帝国文学』(大正八年十月) でこう評価している。
 

引用

「氏の作品中一番長い労作のやうに思はれましたから、私は、非情な期待をもって手にいたしました。然し不幸&にも私の期待は全く裏切られて了いました。(省略)私が非常にいやに感じたのは主人公葉子その他一切の人物に対する作者の快楽主義者らしい態度を十分に認め得たからであります。(省略)『或る女』には恋のトリックや豊潤な感覚性や生活の浪費に伴ふ快さなどがいかにも巧妙に、そして力強く写されてゐますが、そこに示された作者独自の芸術的世界は濁った不純なものになつてゐます」。

 このように必ずしも現在の髙い評価とは異なった評価がなされていた。本稿では、何故このような評価がなされたのか、また現在においては何故髙い評価を得ているのかに触れ、どのような部分が読者にそう評価させるのかを、細かく見て行きたい。それに際し、当時のジェンダー的な規範とともに、主人公葉子が当時の人びとの眼にどのように写り、また現代の読者にどのように写るのかを考えて行きたい。

葉子の性格
 先ずは主人公となった葉子の性格から考察していきたい。『或る女』は、今までの研究史では、モデル小説としての読みが圧倒的に強く、作品論よりも作者論的な立場から読み解かれてきた。そのため、作品そのものよりも、作品に登場する人物が、実在のどの人物と対応されるのかという方向に研究の関心が向けられてきた。それらの研究はもはや空白の余地はないほどに研究されたように思われる。よって本稿は、言語論的転回に始まり、構造主義の中から生まれたテクスト論的な視点から作品を考察していきたい。
 さて、葉子の性格というと、現代の読者が読んでもぎょっとするようなかなり強烈な感情と、行動の持ち主である。このテクストにおいて、葉子の性格を最も端的にあらわし、また後で触れる事項についても触れられている部分であるため、少し長いが本文を引用する。
 

引用

「葉子はその時十九だったが、既に幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手際よく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは十分に持っていた。十五の時に、袴を紐で締める代わりに尾錠で締める工夫をして、一時女学生界の流行を風靡したのも彼女である。その紅い唇を吸わして首席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮名を負わせたのも彼女である。上野の音楽学校に這入ってヴァイオリンの稽古を始めてから二ヶ月程の間にめきめき上達して、教師や生徒の舌を捲かした時、ケーベル博士一人は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と不愛想に云って退けた。それを聞くと「そうで御座いますか」と無造作に云いながら、ヴァイオリンを窓の外に抛りなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。基督教婦人同名の事業に奔走し、社会では男勝りのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人を全く無視して振舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指と食指との間にちゃんと押えて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。葉子の眼には凡ての人が、殊に男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男を可なり近くまで潜り込ませて置いて、もう一歩という所でつき放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏み躙るという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても自分との関係の絶頂が何処にあるのかを見ぬいていて、そこに来かかると情容赦もなくその男をふり捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼等は等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。何故というと彼等は一人として葉子に対して怨恨を抱いたり、憤怒を漏らしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者達は自分の愚を認めるよりも葉子を年不相応にませた女と見る方が勝手だったから」。 
 

 『或る女』二章で、語られ始める葉子の性格を表した部分である。ここからすでに、葉子は若いころから何人もの男性と交際していたことが伺える。この時代にそうした男女の交際というものは、控えられるべきことがらであったが、葉子はそのような不文律には頓着しない。一種の爆発的な感情のエネルギーを持って、自分にふりかかるそうした不文律、社会的規範というものを破壊していくのが彼女の性格なのだ。音楽学校でのケーベル博士とのやり取りは、今現在聞いても驚くべき事柄である。通常ならば、たとえ男性であっても教員から叱られれば時には反抗的な態度になることはあっても、程度がしれている。それを葉子は、何と博士の眼前で当時高級な楽器であったヴァイオリンを半ば壊すようにして放り投げ、そのまま退学してしまうのである。葉子の性格からは、一つには、葉子の行動を規制してこようとする社会的が外圧、女性とはこうあるべきだといった不文律に対する破壊的な衝動が浮かび上がってくる。二つ目には、他人の人心掌握術である。一見かっと感情的になって後先考えないように行動しているかのように思われる葉子であるが、反面非常に緻密な計画者であることが浮かび上がってくる。恋の駆け引きというものは、通常頭で考えてもなかなかうまく行かないものであるが、それを葉子はいとも簡単にやってのける。「直覚」という言葉に示されるように、葉子は、頭脳で考えるというよりも、こうした表現が赦されるのなら感情で考えるといった感じであろう。大人びている葉子が、自分よりも年下の男性と付き合っていたとはあまり思われない。もちろん幾人とあるから、その中で数人は自分より肉体的にも、精神的にも年下の男性と付き合っていた可能性は十分にある。だが、葉子が恋愛対象として、手駒にとって遊ぶのではなく一人の女性として付き合えたのは、彼女より年上の男性であったろう。それは後この作品で、登場する唯一の恋愛対象となりえた男性倉知を想像すれば良いことである。
 葉子にとっては、一度結婚し、子供まで設けた木部孤笻にしても、母親の言いつけで婚約者となった木村貞一にしても、親身になってくれる古藤義一にしても、皆恋愛対象ではなく、自分より低い人間、手玉にとって遊べる玩具のような存在でしかないのである。
 葉子にとっては、一種女性的ヒエラルキーの価値観を有しているように思われる。

引用

「岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
「えゝ」
  とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇やみの中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
  しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手うわてを行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。」
 

 ここからは、恋愛対象というよりは、更にその下である純粋無垢な岡という青年に対する葉子の眼差しが見て取れる。葉子は子供っぽいとか、幼いといった意味を表す「おぼこさ」という言葉を用いて岡を表現している。葉子にとって岡は恋愛対象以前の、子供という認識なのである。そして、岡の上にもう少し成長し、恋愛対象になりうべき、先に挙げた木部、木村、古藤がいる。葉子の認識では、その三人の男性の上に自分が居るということになるが、更に倉知は自分の上を行っているように思われて仕方がないのである。
 アメリカにつく以前の部分では、葉子は倉地に対しては恋愛というよりは、その裏返しとも取れる憎しみに近い感情を有していることがわかる。葉子にとっては、何が何でも自分の支配下になければ気が済まないのである。自分より上にあるもの、自分の行動を規制するものというのは、彼女にとっての外敵でしかない。その認識によれば、葉子は当初倉地を憎んだということが理解できるだろう。


葉子のジェンダー規範
 さて、今葉子の性格を簡単に見た。次は、葉子のジェンダー規範について視点をずらして考えてみたい。『或る女』は前篇と後篇とに分けられている。前篇では、アメリカに行くまでの話がそのメインとなり、アメリカに到着しそこで倉地と共に帰る決心をして帰ってきてしまうという所までが描かれている。アメリカに行くまでで、葉子はかなり自分の境涯について悩む。葉子は亡き母の遺言によって木村と婚約させられてしまっているのである。しかし、葉子自身は木村のことを愛してはいない。葉子は、なまじ「昔の女」でなかったばっかりに苦悩するのである。その苦悩する部分を取り上げ、考察していきたい。

引用

 「まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表うらおもての見えすいたぺてんにかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。(省略)こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめになった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細ささいな話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近みぢかには見当たらなかった。」(傍線部引用者) 


 さて、ここで葉子は二つの女を対比して見せて、自分の苦悩を語っている。今までの研究論文では、この「自由の女」というのを、作品の冒頭に引用されているホイットマンの詩のローファーと関連付けて考察しているものもある。だが、本稿では論旨から離れるのでその部分については割愛したい。
 ここでの葉子の価値観というものは、そのまま葉子のジェンダー規範になってくると思われる。「昔のままの女であらせようとするもの」とは、その前後で登場する親戚や、五十川女史が直接的には言及されているであろうが、より象徴的に考えれば、社会全体といったように捉えることができるだろう。一人特別な存在として生まれついてしまった葉子にとっては、「新しい女」になろうとすればするほど、周囲の人間が「昔のままの女」になろうと大手を振ってやってくるのである。葉子はその性格の上で、そのように自分を規制するものを極端に嫌う人間であることは先に述べた通りである。では、そうした外圧がやってきた際に葉子はどのように対応したのか。先ず葉子は自分の理想の状態を想像している。アメリカには、木村が居て、木村との関係は母親のいいつけであるから、木村に対して恋愛感情はない。そのため葉子にとっては木村の居るアメリカに行くことは気が進まない筈であるが、しかしここでは、アメリカにはもしかしたら自由でいられる女というものがあるのではないかという、希望のほうが上回っている。しかし、そのアメリカの自由な女を意識する際の葉子自身は、「古い良心」に縛られた「古い女」でしかないということが、ここで露見してしまうのである。
 さらに、次の行では、「葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った」と、決して「新しい女」が思ってはいけないことを思ってしまったのである。葉子にとっての新しい女が、経済的に、精神的に男性から独立していて、しかも男性と対等な立場にある女性のことを指すのであれば、このように思ってしまった時点で、すでに葉子は「新しい女」ではなくなってしまっているのである。これはまったく当時のイデオロギーを反映している。時代は下るが、芸妓の恋を描いたことで知られる廣津柳浪の『今戸心中』(明治二九)では、同時代表として『早稲田文学』同年八月に次のようなことが書かれてある。

引用

「男女の情交の自然にして自由なる成立およびそが発展を狭斜以外にて見るは甚だ稀なり、何となれば、儒教主義に基ける家庭の規律、社会の制裁は男女の交際を杜絶し、自然にして自由なる情交をば罪悪視するが故也」  

 いわゆる自由恋愛というものが、現在のようにはいかなかったのが『或る女』や『今戸心中』の時代である。当時は専ら個人の意思よりも、家制度においていかに子孫を絶やさずに残しておくかということと、家長制度のなかで親の意見が絶対視されていたのである。もし、葉子が「新しい女」になりたいと希望し、またなろうと努力するのならば、芸妓の恋愛を羨んでいてはいけないのである。それは既存のイデオロギーの枠組みを離れていないからである。これを西垣勤氏は「このキリスト者社会への反抗プロセスで生い育ったはげしい自我意識は、以前としてキリスト者社会の俗物共の圏内からの脱出を可能にしない。男性に依存する生活態度にぴしっと規定され、枠組みの中にはめこまれているからである」 と述べている。この部分からも、葉子はこの規則によって自分を縛りつけているイデオロギーに対抗したいと考えながら、しかし完全に脱却することなく物事を考えている人物だということが出来るだろう。孫悟空がお釈迦様の掌中のなかで騒いでいたのと同じことである。
 このようなことから、葉子の悲劇性とは、まさしくこの部分にあるのではないかと思われる。すなわち、葉子は、この時代に生まれてきてしまったから悲劇的だったのだということではなく、もちろんそうした面も多分にあることはあるが、それ以上にイデオロギーから脱却したいと願っていてもできていない自分がいることに気付けなかったという点にあるのではないだろうか。
 
葉子の謎の行動、その裏にあるものとは
 今見て来たように、葉子は残念なことに自分を支配しているイデオロギーから逃れたいと思っていても、その思っている段階がすでにイデオロギーに支配された思考であったため、根本的な脱却へたどり着くことが出来なかった悲劇的な人間であるということが判明した。さて、そのような矛盾、自己撞着のなかで葉子はどのように行動したのか。
 葉子の行動はその奇抜さ、非論理的な行動が目立つことから、今までの研究史においても多くの研究者が色々な論を展開して理解に努めて来た。葉子はこの時点ですでに空回りをしていたということになるが、あまりにも突飛な行動の連発には、作中のほかの男性も翻弄されるし、また読者も葉子に翻弄されるという構造が浮かび上がってくると思われる。余談を言えば、その葉子に翻弄されることが読者の愉しみでもあるし、翻弄されることによって、作者である有島の苦悩を疑似体験できるということにもなろう。
 だが、しかし、葉子の行動は何もすべてが全てその時の思いのままに行われていたのではない。八方塞がりになりながらも、彼女なりの理論で行動していたということが、次の引用箇所からわかる。

引用

 「小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪のろわれているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々に通とおって行く道を通る事はどうしてもできなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方しかたも知らないような顔をしてただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回して見た。いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人ひとりで崕がけのきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活いきながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦わぼくを示そうとしているのだ。」(傍線部引用者)

 ここは、葉子の行動がどのような動機付けをもって行われるのかということと、これから行くアメリカでの木村との関係について語っている部分である。木村とは、母親の言いつけであるから、本当は行きたくない。しかし、行く。行けば別の何かが開けると思ったからであった。この一連の行動は、その外面だけを見れば、嫌がって見たり、急に行くようになったり、また今度は上陸せずに帰ってくるというあまりにも非常識な行動に思われよう。しかし、葉子は木村のために自分の考えを二転三転させていたのではない。葉子が常に念頭に置き、求めていたものとは、いわばお釈迦様の掌中から救出してくれる白馬の王子様であろう。環境打開者と言っても良いし、ある意味葉子以上の破壊力を持った人物を探し求めていたのである。このような目的があっての行動と考えると、木村のもとへ行くのを嫌がったのは言うまでもない、社会への反抗である。アメリカに行きたいと思い始めたのは、アメリカに行けば自由の女になれる、社会から自由になれると想像したからである。しかし船上での田川夫妻との壮絶なやり取りによって、アメリカに上陸しても田川夫人の影が付きまとうと悟った葉子は、丁度同時に自分より破壊力を持つ倉地という男を見つけており、今度はアメリカという土地ではなく倉地という男に自由を求め帰国したのである。


同時代作家とファム・ファタール
 ここで一端作品から離れて、大きな視点から作品を考察してみたい。すなわち今回副題にした、ファム・ファタールについて作品の外から俯瞰してみたい。
 ファム・ファタール(Femme fatale)とは、フランス語で男性にとっての「運命の女」と言ったような意味を持つ言葉である。原義では男性の運命を変えるというような意味しか持たないが、転じて男性の運命を狂わせる悪女、といった意味を含むようになる。代表的なファム・ファタールは例えば、メリメの小説に登場するカルメンや、聖書に登場し、後ワイルドによって戯曲家されたサロメなどがあげられるだろう。
 文学の歴史とは、ある一つの側面を切り取ればこのファム・ファタールの文学と呼ぶことが出来るのではないだろうか。これは何故人が物語をものがたるのかという根本的で、諸元的な問題にもかかわってくるのだが、論旨から著しく外れるので割愛する。ごくごく簡単に述べさせていただくと、人は何か運命や宿命と言った自分の力ではどうにもならないような大きな力、存在に相対したときにものがたりたくなるのではないだろうか。
 同時代作家を見てみると、夏目漱石や森鴎外、小泉八雲、有島武郎といった当時の人気作家たちは、いずれもこのファム・ファタールを作品の中に登場させているように考えられる。夏目漱石におけるファム・ファタールは、まさしく近代の「新しい女」の役割を背負わされた虞美人草の『藤尾』が典型例であろう。藤尾もまた、「或る女」の葉子のように、最終的に作者によって殺されてしまうという類似した構図を指摘できる(葉子に関しては彼女の死が描かれるわけではないが、恐らく死へ向かっていくであろうという読みの上での指摘である)。漱石においては、『三四郎』の美禰子、『草枕』の那美などもまた、「新しい女」であると同時に、主人公の男性を惑わすファム・ファタール的な存在として形成されている。森鴎外は、言うまでもなく『舞姫』のエリスである。主人公である太田豊太郎は、まさしくエリスのために翻弄されて、憔悴しながら日本に帰国しなければならない状態にまで陥る。小泉八雲に関してもファム・ファタールとの連関性が言える。八雲は日本人ではないが、日本の伝承の中に彼が好んだファム・ファタールの典型を見出したという点でここに挙げた。八雲は、「雪おんな」に代表されるような(これは八雲の創作であるという見解が現在の学説であるが、下敷きにした似たような話があることからも、完全な創作とは言えないだろう)、日本の古来から存在する男性の運命を変えてしまう恐ろしくも美しい女性を作品に描いている。
 かなりおおざっぱで独断的なことではあるが敢えて言わせていただくと、これらの作者には、ある共通したものがあると感じられる。それは、運命や宿命といったものが他の人間よりも激しく彼等の人生において現出したということである。鷗外に関しては立派に出世して素晴らしい地位も得たではないかという反論はあろうが、しかし、鷗外もまたかなり苦悩を感じていたようである。このように運命に翻弄されたような人物が、その作品において運命を象徴づけるような女性を登場させるのには、何かしら連関性があると考えられるとは言えないだろうか。
有島の『或る女』に関しても、このファム・ファタール的なイメージが付加されていると感じられる。有島に関して多少述べれば、彼は厳格な父親との間で葛藤し、子供を多くして妻を亡くしたことなどから、なかなか創作に時間がさけなかったりと、苦悩が続いた。最終的には、波多野秋子と心中をし、当時の社会に大きな影響を与えている。
 このように運命に翻弄された作者から、運命を翻弄する女性が生まれてくるのは何か因果のようなものを感じずにはいられない。


欲望の三角関係から見る『或る女』
 さて、葉子という主人公が、どのような性格で、どのような価値観を持ち、何によってその行動が規定されているのかということを、丁寧に見て来た。またファム・ファタールとして、男を弄び、男の運命を変えてしまう存在というような意味が込められているのではないかと考えた。これらの考察を踏まえたうえで、いよいよ本論の目指すところへ踏み込んでいきたい。それは、ファム・ファタールたる葉子が、如何にして男性を殺し、反対に男性に殺されたのかということである。この殺すというのは、何も物理的な殺害や殺人といったものではない。象徴的なレベルでの殺しである。
 もちろん葉子は実際には人を殺してなどいない。だが、木部にしろ、木村にしろ、古藤、岡、いずれも男性としては女性に殺されたようなものである。少なくとも木部や木村に関してはその度合いが酷く、精魂を葉子に吸い尽くされたような印象をテクストからは受ける。
 葉子がどのようにして男性陣を相手に戦い、また敗れたのかをどのように分析するのか。私はここで、フランスの文藝批評家・哲学者・人類学者であるルネ・ジラールの『欲望の現象学』で示された「《三角形的》欲望」の理論を駆使して考察してみたい。
 三角形というと、私たちは普段から恋の関係などにおいてあのカップルは三角関係だなどというように使用する。では、この三角関係というものが一体いつから存在するのか。三角関係という言葉が使用されて、その概念が広く普及されたのはここ一世紀にも満たない期間の話ではあるが、その構図自体は物語が語られている時点から存在している。つまり、三角関係というものははるか昔から存在していたのだ。我々はそれをルネ・ジラールが明文化したことによって知るようになったに過ぎない。とすると、この構図は以前から成立していたということが判明する。これはすなわち制度的なものではないだろうか。
 ルネ・ジラールは論文でドンキ・ホーテを実際に分析しながらこの三角形を論じている。なので、三角形だけを最初から論じているわけではない。氏の論旨をできるだけ忠実に、かつ簡潔になぞってみたい。ここで示されるのは恋愛関係ではないのだが、それを応用できると思われるのでここに書くのである。通常恋というものは、主体となるものと客体となるもの二人からなるように思われる。しかし、実は違うのである。もちろんそのような一直線上の関係もなくはないが、それは本質的なものではない。「一見、直線的に見える欲望の上には、主体と対象に同時に光を放射している媒体が存在するのである。こうした三十の関係を表現するにふさわしい立体的な譬喩といえば、あきらかに三角形である」 。この媒体というのは、実は主体におけるモデル、手本になっているのである。例えば、ある女性を男性二人が奪い合うとしたら、男性Aと男性Bはライバルであるが、同時にAはBの手本となり、BはAの手本となっているという構図である。
 夏目漱石の『こころ』はこの構図が非常に上手く当てはまる作品である。作中の先生は、テクストから推測するに一年ほどは、Kがいない状況でお嬢さんと三人で暮らしていることが判明している。もし、先生がお嬢さんに何かしらの感情があったなら、その一年間なぜ何もしなかったのかということになる。そして、Kが同宿するようになってから、先生もお嬢さんに対する恋の感情を抱き始めたのである。それは先生がKのお嬢さんに対する感情を感じたからである。ここでは、Kは先生のモデルになっている。
さて、この三角形の理論を転用すると何がわかるのか。それは、葉子が恋をする際には、必ずこの三角形が出現しているということである。三角関係という言葉を使用してはいないものの、武腰幸夫氏もまた同じ結論に達している。氏の論文から引用したい。
 「木部を激しく愛するようになったのは、その母を意識したときである。母がこの結婚に反対するや、彼女の心は逆に燃えることになる。また、船中、倉地を意識するのも、田川夫人という「女」に対する反発がその契機になっている。そして、倉地夫人の写真が、葉子の倉地に対する気持ちを高めていることになっていよう。倉地夫人の存在は、帰国してからも執拗に葉子につきまとい倉地執着への大きな要因となっている。さらに、後半、半狂乱になったのは、愛子やその他の女と倉地との関係妄想が大いに与って力があっただろう。(省略)葉子の心の動揺は、かように同性に対する「嫉妬」を根底とするといってさしつかえないと思われる」として、以下、女性同士の関係について非常に綿密な研究をなされている。
 氏の論文では、女性同士の関係について考察がされているが、異性間の関係については左程触れられていない。私はこの異性間の三角形にこそ注目したい。確かに一つには、葉子が恋をする際には、同性の存在が浮上している。だが、葉子が男性から他の男性に、言葉は悪いが乗り換える際には、男性が二人浮上しているのである。これは当たり前のことのように思われる。乗り換えるのだから、二つの男性が存在しなければならないのは当然だ。だが、二人の男性が現れてから、葉子の気持ちが変化したとしたらどうか。あるいは葉子が意図的に乗り換えるために自分の心の内部において、二人の男性を対比しているとしたらどうか。
 木部から木村への移行へは、更に複雑な古藤という媒体を通して段階的に移行している。先ずは木部から古藤へ。しかし、古藤と葉子の関係は、他人が見れば恋仲かと思われるようには演じられているが、実際のところ葉子がどのような感情を抱いていたのかはわからない。「紺の飛白に書生下駄をつっかけた青年に対して、素性が知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情を湛えたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすら牽かずにはおかなかった」とあることからも、二人が恋仲に見えたことは確かであろう。また葉子は演技の名人であるから、そのように演出していたのは、葉子の力だったと考える方が自然だと思われる。一端古藤に乗り移った葉子は、そこからさらに木村のもとへと移り変わる。すなわち乗船である。ここで田川夫人の役割とは、古藤という異性の媒体が居ない間に、何とか媒体となる男を探させないで木村のもとへ届けてくれというものだと、三角関係を駆使すれば理解できる。しかし、古藤や親戚一同の望みは、ことごとく打ち砕かれてしまう。一端古藤とも木村ともつかない空白の関係に陥った葉子は、その空白を埋めるために、乗船中の乗客を片端から手中に収めて行きます。「葉子は一等船客の間の話題の的であったばかりでなく、上級船員の間の噂の種であったばかりでなく、この長い航海中に何時の間にか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた」のである。葉子は、決して異性と二人の状況では、それ以上の恋愛には発展しないのである。であるから、この船においても、倉地とは最初決して近づかなかった。むしろ憎んでいた。だが、そこへ岡という純粋な青年が入ることによって、三角形が形成され、葉子はどちらかの男性と親密な関係を選べるようになる。そこで葉子は、自分の手玉になる岡ではなくて、自分を手玉にしてくれる倉地へと未知なる自由を求めたのだ。
 だが、葉子はこのようにたとえ付き合っている男性が居るとしても、他に男性が居なければならない存在だったのである。常に男性の比較対象を求めたのだ。だから、後半に入ると、倉地と二人暮らしをするが、そこにはただただ閉塞していくだけの関係しか描かれない。そこへ葉子は倉地の妻を入れたり、自分の妹たちを介入させたりして関係の維持を図ろうとするが、いずれも破滅への道を早めるだけであった。一応木村とは、金銭を通じて繋がってはいたが、しかし、小説中からは木村の影はすっかり消えてしまっている。
葉子が倉地との関係を維持するためには、倉地と比較対照する別の男が必要だったのだ。それに気が付けなかった葉子は、余計に「嫉妬」を掻き立てる同性を配置してしまい、自分で生んだ女性としての「嫉妬」に体内から焼き焦がされてしまうのである。
 このような関係を見ると、ファム・ファタールとは、男性と男性を常に比較して、二人を競争させるような女性であると同時に、同性である女性からは恨まれた存在であるということが出来るだろう。葉子が、ファム・ファタールとして死ぬのは、比較する男性がいなくなってしまったからともいえないだろうか。

終わりに
 ファム・ファタールは、男性を他の男性と戦わせることによって殺す。しかし、男性が別の男性と戦わない状況になってしまうと、その男性に殺されるか、あるいは同性によって殺されることになってしまうのではないだろうか。
 このように生まれついてしまったのは、果たして社会が悪かったのか、葉子が悪かったのか、これは永遠の謎であるが、どちらにも原因があったのだと考えるほかないだろう。
『或る女』は、自由奔放に生き、男性を弄んだために自業自得で処罰される訓戒的な意味があるのだという読みが一般読者の間で少なくない。あるいは、新しい女であった葉子が、時代や社会に殺されたのだという読み方がかなり流布している。
 しかし、私はそうした時代や社会によって殺されたことに悲劇を求めるのではなく、葉子がイデオロギーに相対しながら、実は相対することができていなかったという空回りの状態が悲劇なのであり、それを自覚できなかった葉子が、己の力を誤って使用したことによって自らを破滅へと導いてしまったということへの語り手の憐れみがあるのではないかと考えた。
 葉子は、自我に目覚めた女ではなく、あくまでも目覚めかけようとした女にとどまり、目覚めてはいない。葉子を越える存在として前篇と後篇ではうってかわった印象の変化をする妹の愛子は、自我にめざめかた女くらいにはなれるだろう。しかし、それでもまだ自我に目覚めるのには時間がかかる。『或る女』は、そうした自我に目覚めかけている黎明期の狭間で、苦悩し、その狭間のなかで殺されざるをえなかった悲劇的な女性たちのこと全般を指しているのではないだろうか。
 ファム・ファタールとは、その狭間の期間を生き延びるために生まれた、運命の女、ある意味そうしなければならないと逆に運命づけられていた女なのではないだろうか。
 もし、『或る女』が、自業自得の説教的な話であったり、ただ新しい女が時代に殺されたというだけのことであれば、評価することは難しいだろう。しかし、私にはそれ以上の見方が出来ると思い、その一端をここに示せたと思う。まだまだ触れられていない部分も多々あり、このようにどのような見方からでも変容し、別の答えを出してくれる非常に強力なテクストであるということが言えるだろう。テクストの持つ力がものすごく強いのだ。このテクストはそのような点で高い評価ができるだろう。

 石坂養平は『帝国文学』(大正八年十月)
『早稲田文学』明治二九年八月
西垣 勤 『有島武郎論』有精堂出版, 1971年
ルネ・ジラール 『欲望の現象学:ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』古田幸男訳 法政大学出版局 1971年

《参考文献》
『或る女(上・下)(新潮社)』
『増補改訂 新潮日本文学辞典』 新潮社 1990年
『日本現代文学大事典』明治書院 平成六年
有島武郎『或る女』について 山本容子
『或る女』論 衛藤浩美
『或る女』全編の内部構造│内部衝動と世界的幸福との間の不安│
『或る女』論 武腰幸夫




スポンサーサイト

映画『風立ちぬ』 感想とレビュー  テーマ探求の言説を巡って

img_1157895_68034764_0.jpg


-テーマはあるのか-
 この作品は、意味がわからないとか、ストーリーが薄いとか、何を描きたかったのかわからないといった意見が多くありました。それは、一つにはこの作品が今までのジブリ映画とはかなり異なる作品だったからだと思われます。
 例えば、今までのジブリ映画というのは、物語メインで描かれてきました。それに対してこの作品では物語やストーリーの流れといったものはあまり重視されていません。一応堀越二郎という実在した人物の半生が描かれます。一つには、戦争へ向かっていくというなかでの堀越の飛行機設計者としての流れ。もう一つは、ヒロイン里見菜穂子との出会いと、短い恋の物語です。
 一つ前提としなくてはいけないのは、この作品は完全なるフィクションであり、堀越二郎という実在した人物を描いたというよりは、堀越二郎という人物と、堀辰夫という人物、二人の人生にインスピレーションを受けて、宮崎駿監督が独自に作り出した物語だということです。
 多くの人は、この作品から反戦のメッセージといったものを一生懸命受け取ろうとしているようですが、私にはそのようなメッセージ性はほとんどないと思いました。主人公である堀越二郎は、飛行機の設計者ですが、戦争へ向かうという流れのなかで、否応なしに戦闘機の設計をさせられるようになります。しかし、堀越は、別段それに対して思うことはないように描かれています。堀越は時代の流れという仕方のない大波に対して、ただ流されるしかないのです。自分の仕事が殺戮の機械へとかわっていくというのは、飛行機をつくるものの望まない宿命であります。イタリア人設計者カプローニとの対話は、しばしば堀越が苦難に陥っている際に夢のなかに表れ、その道の先輩として堀越にアドバイスを授けてくれます。
 自分が一生懸命作り出した「美しいもの」は、それを使用する他人の手によって、「呪われたもの」に変換されてしまいます。しかし、それは仕方がないことなのです。それに反発して飛行機の設計をやめることもできなければ、設計を変えてしまうこともできない。時代の流れと言ったものに対して人間とは、おそろしく非力な存在でしかないのです。そこで、ただ「生きなければならない」ということになってくるのだと思われます。
 そのような生きることに困難な時、己の目指すことが出来ない時、ましてや自分のつくったものが、他人を殺す道具になってしまうような時、それでもただ生きなければならない。この作品のメッセ―ジはたったのそれだけなのです。ただ、生きなければならない。そこに何を見出すのか、そこからどのように生きて行くのか、それはこの作品では描かれません。テーマなどないに等しいのです。それは勝手に観客が決めればいいことなのです。
 たとえどんなに自分が頑張って作ったとしても、その映画は自分の意思とは関係なく、観客によって様々な形に変えられてしまう。そうした宮崎監督の思いもうかがえるのではないでしょうか。だからといって、そこで宮崎監督が、この作品はこうこうこういう思いで作ったとか主張し始めるのではなく、ただ、つくるという行為をつづける、そこに意味があるのだということなのだと思います。

 堀越二郎はゼロ戦の設計者ということで歴史上有名ですが、その知識を持って作品を見始めると、観客はきっとゼロ戦の話がたくさんでてくるだろうと思い込んでしまいます。しかし、ゼロ戦はこの作品ではほとんど登場しません。ラストにほんの数十秒出てくるだけ。
 二時間というジブリ映画ではまれにみる長さの作品のなかで、ゼロ戦はほとんど登場しません。ラストシーンではこのような対話がカプローニと堀越の間にあります。「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」「はい、終わりはズタズタでした」「国を滅ぼしたんだからな。あのだね、君のゼロ戦は」。
 自分が創ったゼロ戦が一機も戻ってこなかったということが、一体製作者にとってどのような感情を抱かせたのか、それはこの作品ではわかりません。堀越はただ、自分の夢、美しい飛行機をつくりたいということだけに生きた人物なのです。たとえそれが人殺しの道具になってしまったとしても、それは製作者のもとをすでに離れています。
 このように、堀越にとってゼロ戦とは、大きな意味を持つものではないのだということが映画では描かれます。彼は戦闘機として最も有名なゼロ戦をつくった製作者ではなかったのです。ただ美しい飛行機を作りたいという思いの中で、時代の要請によってそのようなものを創らざるを得なかったということだけなのです。ですから、自分の作品がたとえ戦争の道具に使われてしまったとしても、それを後悔したり、責任を感じたりして、死ぬわけにはいかないのです。ただ生きる。そこに意味があるのです。

 堀辰夫の原作を読んでいた私にとっては、菜穂子(小説では節子)との恋愛がメインになるかと思っていましたが、それもこの作品では一応描かれるものの、そこまで重要ではないように描かれています。あくまで物語のメインやテーマといったものは、生きるということ。菜穂子とは、途中電車で東京へ向かう時に初めて出会います。ちょうど、電車で出会った直後に、関東大震災と思われる地震が起こります。
パンフレットに書いてあったのは、ちょうどこの地震の場面を描いた直後に3,11が起こったということです。 宮崎監督はそのため、この場面をどうしようか考えたそうですが、結局何の変更もなく使用したと記されています。この作品には、今まであったジブリの世界観というものがあまり表れません。作中のほとんどは現実世界が舞台となっていますし、しかも主人公が非常に寡黙な人間で、行っている仕事も地味、アニメーションにする必要があるのかという謎が生じますが、しかし、アニメーションでなければできない表現というものが、この映画には存在しているのです。関東大震災の場面も、アニメでなければできない、日本アニメ史に残る素晴らしい場面だったと思います。
 地面に波が生まれて行くという描き方は、かなり誇張されてはいましたが、それが何を表現したいのか、どのような感覚だったのかを伝えるのに効果的な映像だったと思います。


-ただ生きること 残された生のなかで-
 宮崎駿監督は、現代の閉塞された時代と、当時の閉塞された時代が、同じ状況であるとして、この映画をつくったと述べています。多くの人々が、この映画を見て、そこから何かしらのテーマを引き出そうと躍起し、それを満たされないと駄作だという結論を下す中、そのように評価されることを恐れずにこのようなジブリらしくない作品をつくったのにはどのような意味があったのか、そこを考えてみたいと思います。
 この映画が反戦映画ではないということは、作中ほとんど戦闘場面がないことからもわかるでしょう。飛行機が攻めてくるという場面もありませんし、一か所だけの例外を除いて、飛行機同士が打ち合うという場面もありません。戦争の描写はないのです。
 そして、恋愛もまた描かれてはいますが、それは映画の後半からの部分だけで、恋愛がメインでないこともうかがえます。また主人公の寡黙さを印象付けるかのように、観客には、今がどのような時代で、どのような流れになっているのかという説明的なことは、一切排除されていて、パステル調で描いた淡い水彩画のような印象を受ける映画です。時には、ジブリが得意とする、気が付くと幻想の世界に入り込んでいたといったような描写が、堀越の夢という設定で描かれます。さらには、架空の上の堀越ではありますが、その半生を追っているために、かなり時間的な跳躍がいたるところであり、それがまた作品を難解なものにして、観客を混乱させていることは否めないでしょう。小説で言えば川端康成の『山の音』のように、一応一連のストーリーはあるものの、それぞれが独立した短編としてもよめるといった、短編の寄せ集めといった印象を受けます。
ここからも、私が述べてきた、「空白」がいたるところに存在していることがわかることでしょう。

 テーマを求めること自体、あまり重要なことだとは私は思っていませんが、強いていえば、ただ「生きること」でしょう。そうして、主人公の堀越は、どのように生きたのかが描かれているのです。堀越は、映画のなかで何度も表れるように「美しさ」を求めて生きています。
しかし、その美しさというものは、カプローニも言っているように、呪われたものでもあるのです。あまりにも激しい美しさを求めるということは、やはりそれなりに負の面も負わなければならないのです。堀越は、自分の作ったものが、破壊され、人の命を奪うものになることに耐えられません。自分の作ったものが空中分解してしまった事故では、しばらく療養のため軽井沢の避暑地に籠ります。このようにぼろぼろになりながらも、でも生きるということ、それが重要なのではないでしょうか。
 また、生きるということについても、この作品ではある条件が付加されています。それは、限られた時間のなかでということです。菜穂子は、結核という当時の死の病に侵されており、死にゆくのがわかっているのです。その中でも、二人は愛をはぐくみ、最後の生を美しいものであろうとするのです。堀越二郎もまた、一見生きているようには思われますが、カプローニのいうように、創作的人生は10年限りであり、その限られたなかで、美しく生きるということが描かれているのです。
 ラストの場面では、堀越二郎が夢のなかでカプローニと菜穂子に再会する場面がありますが、これは堀越もまた死んだのだという解釈もできますが、菜穂子が「生きて」といっていることと、カプローニとの10年という創作的人生の話を踏まえると、創作的な人間としての人生は終わったということなのだろうと解釈できるのではないでしょうか。その後も堀越二郎はただ、生きたのだということなのだろうと思われます。


映画『風立ちぬ』 感想とレビュー 賛否両論を越えて

main_img.jpg


-はじめに-
 多分にネタバレを含むので、まだ見ていない方、ネタバレがダメな方は読まないようにしてください。
今年の夏は、金曜ロードショーでジブリ祭りをしていて、ジブリ映画への熱が高まってきているかと思います。さる7月20日に公開した、ジブリ映画最新作『風立ちぬ』は、公開以前から話題となっていました。
 ネット上でも、今作の主人公が、トトロで出て来たサツキとメイのお父さんと同じだとか、ラピュタのムスカと同じだとか、キャラクターの類似性が指摘されてきました。日本の漫画、特に手塚治虫などは、似たキャラクターを別人物として描くことを多用した作家ですが、ジブリ映画にも、今までどこかで出て来たようなキャラクターを使用するということをしているようです。
 現在ネット上では、賛否両論に極端に分かれています。その点を踏まえたうえで、何が評価できるのか、何が評価できないのかととともに、作品への考察をしていきたいと思います。

-風立ちぬ、賛否両論-
 『風立ちぬ』の原作は堀辰夫の中編小説です。しかし、小説と映画とはまったく異なります。ほとんど別の作品と考えた方がいいでしょう。この小説『風立ちぬ』にさらに堀越二郎の人生の物語を加えて、かなり大胆に変更をしたものが『風立ちぬ』です。宮崎監督は、2009年から、漫画として『風立ちぬ』を公開しており、今回の作品はその漫画の映画化です。2008年の『借りぐらしのアリエッティ』からやく五年ぶりの映画になります。

 さて、映画はすでに賛否両論に激しく分かれ、厳しい意見の攻防が続いています。私の立場を先ず明確にしておくと、今までのジブリ映画の最高峰と言っても良いくらいにすばらしい作品だと感じています。
 一つ前提としておきたいのが、商品などは賛否両論に激しく分かれた方がいいものであるということです。また文学の立場から見ても、賛否両論、多様な読み方ができるというのは、テクストに力があるからだということになります。ですから、この作品が賛否両論を持っているということは、ある人には、とても感動を呼び、ある人にとっては、ものすごくつまらない作品に感じるということになるのだと思います。好きな人はとても好きになり、嫌いな人はとても嫌いになるということだと思います。
 多用的な解釈ができるということは、それだけ人によってどこを受け取るのかということが別れるのだと思います。酷評する人たちの意見をいくつか考えて、映画の見方といったものを考えてみましょう。

〈初期の才能はもう枯れてるので、ああいう冒険活劇は宮崎はもうとっくに無理だよ  今回は単純に泣かせに来てるんだろう〉
http://sonicch.com/archives/29416763.html
〈人物の描き方が浅く感情移入できませんでした。何に焦点を合わせて描きたかったかはっきりせず、全体に散漫な感じを受けました。2時間がこんなに長く感じたのは、しばらくぶりでした。初期の宮崎作品の大ファンなので残念です。期待が大きすぎたかも。それと子供さん向きではないかもしれませんね。〉
〈実在人物を参考にはしてるけど実際はフィクション、なのに話は淡々と進むだけ。飛行機設計の才能があっても現実的すぎるレベルで、映画やアニメらしい過剰さも無く驚けない。ちょくちょく出てくる夢のシーンで何とか現実離れを演出しようとしてるけど、段々しつこくなってくる。
主人公の庵野さんは普通に素人の棒読み。何が狙いなのか不明、肝心の告白シーンであの棒読みはきつかった。
戦争の悲惨さを伝えようとしたわけでも無さそうだし、中途半端感が否めない。子供と観たけど終始つまらなそう、可哀想すぎて早く終わって欲しかったほど。絶賛してる人は自分が通だと言い聞かせたいのかな。
ジブリにはやっぱり、空飛ぶ城や猫バスや魔女、顔無し、ファンタジーな話の上で細かい描写で更に驚かせる、それに徹して欲しいな…
これ、ジブリじゃなかったら売れないでしょ。ジブリ大好きだけど、今回はさすがにTVでも退屈なレベルの内容でした。平坦で真面目すぎ、残念。〉
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tymv/id344584/s5/p0/or1/ds2
と、このような酷評が目立ちます。

 こうした反対意見の人に共通するのは、『ナウシカ』や『ラピュタ』といった冒険もの。私たちとはことなった不思議な世界の冒険を通じて、主人公たちが成長していくような物語を求めているということです。主人公たちは完全に善いものであって、悪役がでてきて、最後にはやっつけるなり、和解するなりしてハッピーエンドがある、そうした黄金的な物語を求めて観に行っているのです。そのように激しい思い込みがあってから見るのでは当然作品を最初から受け付けないわけです。彼等は、自分の理想を満たしてくれないものはすべて駄目な作品、駄作になるわけですから、そのような個人の理想を勝手に持ち込んで、勝手に裏切られて勝手に酷評するという態度は、ある意味かなり傲慢のように感じられます。それは、個人に責任があり、作品に責任があるようには思われません。最初からこういう作品でなければだめだと思い込んで行くのですから、当然自分の理想以外の作品はつまらなく感じることでしょう。これは自分が作品をつまらないものにしているのだということに気が付かない限りずっとつまらないままになることでしょう。
 次に、主人公の庵野氏が下手くそだという意見。これは私も賛成です。確かにものすごく下手でした。それは当然です。声優経験などない素人ですから。
 庵野氏は、『ナウシカ』や、『ナディア』で宮崎監督のもとでアシスタントをしており、30年ほど前から師弟関係を築いてきたといってもいいでしょう。庵野監督独り立ちして、『エヴァンゲリオン』のようなヒット作を出してから、今さらになって声優に関しては素人の庵野氏を起用するというのは、ただの身内での自己満足に終わっているようにも思えます。
 しかし、映画が公開される以前から地上波放送などでたびたび放送されていたジブリ映画特集の番組などでは、しばしば宮崎監督と庵野氏の映像が流れていましたが、そこで一貫していることは、宮崎監督の庵野氏への評価が何十年と変わらずに「真面目であること」ということでした。そうして、宮崎監督はこの映画を作る際に庵野氏以外には思いつかなかったと語っていることなどから、宮崎監督がこの映画で登場させたかった主人公は、今までのような冒険をしたり、様々な登場人物と多様な会話をして成長していくような、明るい好青年ではないということです。
 大学で去年からエヴァンゲリヲンを研究していた私としては、庵野監督の人間性というようなものは、例えばゲンドウやシンジの両方にそれぞれ表れているのではないかと感じています。庵野監督というのは、とても繊細で、生真面目で、ある意味でくの坊のように融通の利かない人なのかもしれません。人との距離感もうまくつかめないような、今の言葉で言えばコミュ障(私はこの差別的な表現を非常に嫌悪しています)のような人物であるのかもしれません。しかし、そのような人とのコミュニケーションを上手くとれないような人物だからこそ敢えて彼が起用されたということには意味があったように思われます。酷評のなかには、主人公の声が庵野氏だということを公表しなかったほうがよかったのではないかという意見もありましたが、それを敢えて映画世界でのキャリアが長い宮崎監督が公表していたということを考えると、技術的な面というよりは人間性というものを重要視したのだといったことを伝えたかったように思われます。

-技術と空白-
 スタジオジブリは確かに日本のアニメーション映画の頂点に立つようなグル―プですから、相当な技術を持っているはずです。しかし、ここ数年の映画は、あまり技術というものを重要視していないように思われます。例えばポニョ。あれはすべて手書きに近い線で、CGなどの技術は使用していませんでした。今回も、使おうと思えばいくらでもCG技術を使ったり、声優だってもっとうまい人間を起用することだってできたのです。しかし、敢えてそれをしなかったという点のほうが重いと思います。
 問題は技術があればいい映画ができるのかということです。これはよく考えればだれにだってわかることで、あらゆる分野において技術があれば良いものができるのかというとそうではありません。確かに善いものには、すばらしい技術が使われていることがありますが、しかしその反対はそうではありません。たとえいくら技術があっても、そこに心がなければ意味がないのです。
 今回の作品では、そのことが作中でも語られており、作品内と作品において二重に技術よりも価値あるものが描かれているように思われます。作中では、主人公は飛行機の設計士となって飛行機を設計します。しかし、日本の技術というものは、ドイツに行った際にことごとく、それが二十年も世界に遅れているということを痛感させられます。しかし、たとえ技術が下手であったとしても、それを越える何かがある。主人公はそう思い、美しい曲線を求めるのです。
 棒読みだし、ロボットみたいで感情移入ができなかったという意見が多々あります。この意見の前半はまったくその通りです。いくら監督であろうと、声優に関しては素人ですから、庵野氏が棒読みになるのは当たりまえですし、下手ですし、まるでロボットです。しかし、主人公の堀越二郎を、上手い声優が演じたらどうなるのかということを考えてみると、やはりそちらのほうが違和感があるように思えます。主人公堀越二郎は、飛行機のこととなると、隣で友人や上司が話しかけていても全く頓着しないような、かなりの変人です。天才と変人は紙一重とよく言われますが、まさしく堀越二郎もそうした天才肌で、人間的にはどこか欠損をかかえたような人物だったのでしょう。
 自分の作品のためになると、周りの世界がみえなくなってしまうというような人物は、宮崎監督にとっては庵野監督の人物像と一致したのでしょう。作中では、主人公目線で物語描かれますから、ずいぶん多弁なように一見すると思えてしまいます。しかし、彼が多弁になるのは、自分の夢の世界のなかと、主人公の妻になる里見菜穂子との会話だけです。おそらく作品世界を実際にあるものと考え、私たち観客が、その世界の人物の一人になって主人公のことを観察してみたら、ほとんどしゃべらない不思議な人物だと思う事でしょう。彼は夢と妻との間以外はほとんどしゃべりもしない人物なのですから。
 ここが、観客にとってはロボットみたいだと感じる原因になっているのでしょう。しかし、ロボットだからといって感情移入ができないでしょうか。むしろ、私にはずいぶん感情を込めて、いちいち色々と説明してくるような主人公の方が感情移入できません。確かにいくらなんでもアニメーション映画の主人公としてこの主人公がいいのかという問題はあります。しかし、声も平板で感情があまり表れないからこそ、そこに生まれる空白を観客が想像することができるのではないでしょうか。
 ですから、その空白の埋め方によって、意見がわかれるのではないかと思われます。感動したという人々にとっては、その空白をそれぞれの観客一人一人の過去の経験と照らし合わせて埋めて行ったのでしょう。一方酷評をした人たちは、その空白を埋めようと言う努力をせず、ただ与えられるものを待っていただけなので、いつまでたっても空白を埋めてくれるどころか、どんどん空白を描いていく映画に対して、何も理解できなかったということなのだと思われます。
 感情移入できなかったという意見は、どちらかというと、これだけ空白があるのですからできるはずだと思います。ですから、移入という言葉ではなくて、理解ができなかったという意見なのだと思われます。

-どう評価するか-
 作品の評価とは、結局のところ個人の感想の集合でしかありません。ですから、その作品の評価というものは、個人がそれぞれのなかに生まれるものであって、決して全体の意見が評価を決めるということはないのです。なので、酷評の意見を見て、それで行きたくなくなってしまったという状態はとても危険です。もし、駄作だと思ったのなら、行ってから決めなければなりません。作品を見ずして、何か意見をいうということは、決してあってはいけない話です。
 作品の評価というものは、どこまで突き詰めても、こういう見方ができるのではないかという、可能性の提示にすぎません。観たうえで、その見解に納得し、自分の意見を補強することはあっても良いことでしょう。
まずもって、私は反対意見に対して別の見方ができるのではないかということを示しました。次は作品に入っていきたいと思います。

筒井康隆作 『時をかける少女』 試論 ―2― テクストの謎~ケン・ソゴル父親説~

4sd


-初めに-
 今まで国文学の世界では、真剣に筒井康隆の『時をかける少女』を分析した作品論はありませんでした。それは、ひとつには、現在のライトノベル的な要素が含まれるからなのかもしれません。つまり、研究者たちはこの作品は、文学史上においてそれほど重要ではなく、論じるに値しないと思っている節があると私は感じます。
 しかし、この作品がこれだけメディアミックス的な展開をし、刊行されてから50年ほど経過した現在においてもその新鮮さを失わず、若者を中心に語り継がれているということは、厳然たる事実です。そこには、なにか物語内容だけでなく、テクストに力があるのだと考えた方が自然でしょう。メディアから見た少女像のような論文はいくつかありました。私は今回、テクストのみに視点をおいて、このテクストがどのようなテクストであるのか、どのような謎、空白があるのかを明らかにしていきたいと思います。

-開かれたエンディング-
 さて、基本的な内容の確認からしていきますが、先ず主人公の芳山和子がいくつなのか、確認しておきましょう。(引用は角川文庫、平成18年改版以降の文庫本を底本としています。)
 7頁では、「三年の芳山和子」とあります。大人びた行動から、高校生かとも思われますが、41頁では「高校受験用の参考書」を読んでいることからも、中学三年生であることが判明します。
 家族構成はどうでしょうか。約100頁という短い作品では、数多くの空白が残されますが、この家族構成においても謎がひとつ残ります。同じく41頁には、地震が起きた場面で「母や妹たち」という描写があります。妹たちという表現から、少なくとも和子が三人姉妹以上であることが判明するでしょう。たちという複数形を使うからには、二人以上はいなければなりません。また、この「妹たち」という表現から、映像化された作品では、姪が登場可能になったことも指摘できるでしょう。ところが、この作品では、なぜか父という言葉が使われません。和子の家庭には、なぜか父が欠損しているのです。

 さて、この小説を読んでいくと、最後に残るのがなんとも言えない虚しさや悲しさ、しかしそのなかに多少の希望が含まれているような感じがします。115頁では「―いつか、だれかすばらしい人物が、わたしの前にあらわれるような気がする。その人は、わたしを知っている。そしてわたしも、その人を知っているのだ……。どんな人なのか、いつあらわれるのか、それは知らない。でも、きっと会えるのだ。そのすばらしい人に……いつか……どこかで……。」とあります。テクストはここで終わりますから、和子がこの後どうなったのかは、読者が想像するだけになります。果たして和子は再びケン・ソゴルに会う事ができたのか?できたとしたらいつできたのか?という問題が残ると私は思います。
 問題の箇所を見てみましょう。
110頁「ねえ、ひとつだけ教えて。あなたはもう、時代へは、こないの?二度と、わたしの前に姿を見せることはないの?」
「おそらく、くるだろうね。いつか……」
111頁「きっと、会いにくるよ。でも、その時はもう、深町一夫としてじゃなく、きみにとっては、新しい、まったくの別の人間として……」
「いいえ、わたしにはわかるわ……きっと。それが、あなただということが……」
 文学作品を大別すると、大きく二つの作品にわけられると考えられています。一つには開かれたエンディング、もう一つは閉じられたエンディングです。この作品は、どこかラベンダーの香りを残して未来への希望を仮託した開かれたエンディングのように感じられます。ケン・ソゴルとの再会ができたのかどうかという問いへの答えは少し置いておいて、別の視点から見てみます。

-ラベンダーのかおり-
 さて、この作品には、ラベンダーの香りというとても印象的なモチーフがたびたび登場します。そのラベンダーの香りを追ってみましょう。
 12頁「それは、すばらしいかおりだった。和子はそのにおいがなんなのか、ぼんやりと記憶しているように思った。-なんだったかしら?このにおいをわたしは知っている。-甘く、なつかしいかおり……。いつか、どこかで、わたしはこのにおいを……。」
 ここでは、彼女がまだ何も知る以前の話です。その時点で彼女がラベンダーの香りを記憶しているということが描かれています。
 17頁「そうです。わたし、小学生のときだったかしら?いちど母にラベンダーのにおいのする香水をかがしてもらったことがあるんです。(省略)―それだけではない……。ラベンダーのにおいには、何か、もっとほかに思い出がある……。もっとだいじな思い出が……。」
一度ラベンダーの香りを嗅いで倒れた和子は、福島先生への説明で、以上のようなことを語っています。ここでは、母の香水を例にあげ、この香りの記憶はその香水にあるのだと自分で思おうとしている節が伺えると思います。しかし、そのように自分を納得させようとしても、できない何か重要な思い出があるのだと彼女が心のどこかで気が付いているのです。
 33頁「一夫の家は、しゃれた西洋ふうの二階建ての家である。玄関をはいると、右手の庭には温室があり、いつも珍しい花が咲いている。和子はふと、甘いにおいがあたりに立ちこめているのに気づいた。ラベンダーのかおりである(省略)なにか思い出があるとあのとき思ったのは、ここの家のことだったのかしら―。」
 三回目に登場するのは、一夫の家に赴いた時。ここでは、彼女は確かに本物のラベンダーを前にして、ここのラベンダーが今までの記憶にひっかかっていたものかと一つの納得をしていますが、しかし、最後まで読んだ読者はわかるように、一夫ことケン・ソゴルがこちらにきたのは、101頁で語られているように、「たった一ヵ月だけ」だということがわかります。そうすると、彼女にひっかかっていたラベンダーの記憶というものが、本当に一夫宅のものであるのかが非常に怪しいものであるということになるでしょう。もし、この一ヵ月の間に一夫の家にたびたび訪問していたとすれば、ラベンダーの香りは思い出せなくなるほどの記憶ではなく、ぱっと一夫の家の匂いだと思い起こせるレベルの比較的新鮮な記憶になるはずです。それが、なかなか思い出せないということは、やはりもっと昔の記憶だと考えるほうが妥当でしょう。
 確かに、101頁で「ぼくと関係のあるすべての人に、ぼくに関する架空の記憶をあたえた」ということが語られており、ラベンダーの香りは実は単なる架空の記憶だったのだ、だからなかなか思い出せなかったのだという解釈も可能でしょう。しかし、それが彼女をして、だいじな記憶であるとかなり切羽詰まった感情を呼び起こすものなのかというと、その解釈には限界があるように私には感じられます。
私は、このラベンダーの香りというのは、テクストの語りがはじまる以前に、彼女がもっと別のベクトルで記憶していた香りだと考えます。香りの記憶というのは、一般的にかなり記憶としては強力なものがあります。その香りが重要だと思わせるくらいのものですから、テクストの語り以前に何か重要なことが起こっていたのではと考えることができると思います。

-帰還するケン・ソゴル-
 さて、次なる問題として一体ケン・ソゴルはどこから戻ってきたのかという問題があります。
 一夫は何故一人だけ記憶を有していたのかという謎も問題ですが、これはSFの論理に集約されるため、文学評論では答えが出ない問題です。ひとつの指標を提示するとすれば、ケン・ソゴルが未来人であり、架空の記憶を集団に対して与えることができるなど、記憶に関して相当専門的な能力、技能を有していたために、一人だけ和子がタイムリープしても、それによって記憶がなくなるということが防げたのだということができるでしょう。
一夫はどの時点から土曜日の実験室へ戻ったかという点にしぼって考えて行きたいと思います、
 84頁では「自分の苦しみをずっとそばで見ていたくせに、今まで知らん顔をしつづけていた一夫が急に憎らしくなり、和子は恨みをこめた目つきで彼を見た。(省略)『うん、そうだ。でも、もともときみを困らせるためにやったことじゃないんだよ。きみがあんな超能力を持つようになったのは、ほんの偶然なんだ。悪意があったんじゃない。今まで黙っていたことだってこれから説明するけれど、ほんとに、きみのためを思ってやったことなんだ。信じておくれよ』」と言っており、和子が能力を得て、タイムリープしていることも全て知っていたという、小説における全能者的な役割を負っているという事ができると思います。
 105頁「きみがあの薬のにおいをかいで気を失った時、ぼくはきみに何も説明せず、きみからあの能力が消えてなくなるまで、そっとしておこうと思ったんだ。こんなにややこしい説明で、おとなしいきみを混乱させたくなかったからね。だけどきみは、思いがけずあんな交通事故に出会い、タイム・リープ(時間跳躍)とテレポーテーション(身体移動)をやってしまった。そのうえ自分から進んで過去へと跳躍しはじめた。このぼくに会うためにね―。だからぼくも、これ以上きみを悩ませたくなかったもんだから、時間をさかのぼって、ここまでやってきたんだ。すべてのことを、きみに話すために……」
 ここから、ケン・ソゴルはすべてを知っていたうえで、それ以上彼女を困らせないように指導するつもりだったのが、彼女の行動によって真実を話さなければならなくなったというような旨を語ります。ですが、よく考えてみると、ケン・ソゴルはすべてを知って、見ていたうえで、和子には自分が未来人であるということがバレないように演技していた相当肝の据わった人物であったということも言えるのです。
 ここで、大きく分けるとケン・ソゴル悪人説と善人説が浮上してきます。善人説は、一夫の言葉を信じればいいのです。本当にミスしてしまったことから、この時代に来てしまい、またミスしてしまったので、和子にもタイムリープの能力を与えてしまい、彼女を困惑のなかに陥れてしまった、おっちょこちょいな人物です。反対に悪人説は、実はすべてがケン・ソゴルの計画通りだったというものです。これだけの能力と技術を持っていながら、そんなところでミスするはずがあるのかということはいかにも怪しい点です。集団催眠をかけて架空の記憶を植え付けたうえで飄々と生活し、和子が能力を有してしまい苦悩しているのを知りながら、平然とした態度をしているというのは、よく考えればずいぶん冷徹な男のようにも思えます。
109頁では、和子へ恋をしてしまったのだと言っておきながら、「この時代のほうが好きだ」と言っておきながら、しかし「この時代と、ぼくの研究のどちらをとるかといわれれば、仕事のほうをとる。薬の研究は、僕の生きがいなんだ」と述べており、仕事を最優先にする人間であるということがわかります。恋よりも仕事が優先なのです。
 このようにいくつかの部分を総合して考えると、悪人というのは少しオーバーな表現かも知れませんが、冷徹な側面を持つ人間だということは言えるでしょう。悪人にするとすれば、これらの一連のことは、自分の薬をわざと現代の人間に投与してどのような反応が得られるのかという実験者という可能性もありますが、それは流石に言い過ぎなのかなと私は考えています。

-ケン・ソゴル父親説-
 さてしかし、このように深く考察してみるとケン・ソゴルが必ずしも良い人物とは限らないという状況のなかで、和子はそれでもケン・ソゴルに対して好意的な印象を持ち続けています。115頁で、記憶を失ってしまった彼女は、しかし「だれかすばらしい人物」がやってくるのだと感じています。すると、一見そんなにすばらしくないように感じられるケン・ソゴルがどうして感覚上すばらしい人物に置き換わるのかというのが謎になります。
このテクストにおいては、二重存在の矛盾というものがあります。タイムリープものには、必ずクリアしなければならない点がいくつかありますが、これもその一つです。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などでは、過去に戻っても、その当時の自分は同時に存在することになります。しかし、この作品においては、作者の筒井康隆は二重存在は同時に一人の人間しか存在しないことによって解消されています。77頁「つまり帰ってきた和子がこの時間に現れると同時に、もうひとりの和子の姿を消すことによって、解決されるのだ」ということです。
 このテクストにおいては、二重存在の矛盾はこのように解決されるものとしておきましょう。さて、そうすると、ラベンダーの香りが、テクスト以前において記憶されるようなことが起こったであろうこと、父親が何故か不在であること、同じ時間に同一人物が二人以上存在できないこと、ケン・ソゴルがもう一度この時代に別人として姿を現すことを約束している点などを考慮すると、次のようなことが言えるのではないかと私は思います。すなわち、ケン・ソゴルは和子の父ではないかということです。
 薬の研究を人生の最大の目的としていたケン・ソゴル。しかし、彼はこのテクストの最終部分で未来に帰った後、何かしらの改心をしたのではないでしょうか。自分が恋をした女性に対して、あまりにも自分がとった行動が独善的すぎたと考えなおしたのではないでしょうか。さらに、ケン・ソゴルは和子に対してふたたびこの時代に戻ってくるということを約束しています。しかし、この約束において重要なのは、和子の前に姿を現すとは約束しても、この時代という条件付きですし、和子との関係性はテクストでの関係性、つまり恋人のような関係であるとは指定していません。すると、一度未来にもどったケン・ソゴルはさらに薬の開発をすすめ、そのあとで、このテクストが語られる以前にまで舞い戻って、和子の母と結婚し、和子を産んだのではないかと考えることができると私は思います。
 二重存在の矛盾では、同じ人物は同じ時間にいられないということになります。その際、消えてしまった自分のほうはどうなったのかはわかりませんが、過去の自分がいつくるのかを知っているケン・ソゴルは、若い頃のケン・ソゴルが来るタイミングに合わせてさらにどこか別の時間軸に一時的に避難していればいいだけの話です。ですから、この作品において父親が不在なのは、ケン・ソゴルが父親であり、同時に二人が存在することができないからとは考えられないでしょうか。

 ラベンダーの香りを何故か和子がずっと前から知っていたというのは、父であったケン・ソゴルが薬のためか、何かしらラベンダーの香りを放っていた可能性があり、それを記憶していたということではないでしょうか。その父親の香りはすばらしいはずですし、また忘れるわけもありません。ですが、和子にはケン・ソゴルが父であり、それがさらに未来からやってくる青年と同じ人物であるということは判明してはこまるので、何かしら和子の記憶をあやつったという可能性があり、それでなかなか思い起こせないような状況になっているのではないかと考えることができると思います。

―終わりに―
 また、福島先生の謎もあります。福島先生は、突然相談に行った三人の話をいとも簡単に信じ、それどころか、なんの引用もなしにいきなりものすごく詳細なタイムリープに関する情報を述べ始めます。しかも、和子の状況を聞いただけで、彼女の能力が開花されるように、鉄骨が落ちてくると叫んでみたりするかなりの演技派です。福島先生は、また自分のノートに何かをメモしている癖がありますから、このテクストは、全知的な未来人が語り手である可能性があり、それがメモをする行為に特徴づけられる福島先生なのではないかと考えることができるのです。福島先生は、未来人ではないかと私は思っています。それもさらにケン・ソゴルよりも先の未来人です。薬を開発したケン・ソゴルが、何か問題を起こさないかを、チェックしているタイム・パトロールのような人物ではないかと思われるのです。ですから、和子が能力を手に入れても、必要最小限の問題におさまるように、的確なアドバイスをしたりしていた全能的な存在ではないかと考えられるのです。
 『時をかける少女』は、ただ単純に善い人だけの話ではありません。そこには何か謎めいた行動をする人物が多く、いずれにしても何かしらの思考を持って動いているように思われます。

『時をかける少女』論  ―1― 表象の系譜


-初めに-
 筒井康隆の『時をかける少女』は、1967年に刊行されました。『時をかける少女』は日本の文芸史上、多様なメディア展開を今なお続けており、メディアやメディアにおける少女論のようなものを如実に表している非常に稀有な作品であると感じ、これを考えます。
 1967年刊行ですから、すでに半世紀が経とうとしています。やく50年前の作品にして、いまだに新しく映画化されるなど、現在でも形を変えて表象され続けているのです。ここでは、この『時をかける少女』がどのように表象されてきたのかの、一端を考えて行きたいと思います。

-ジュブナイルというジャンル-
 先ずはジャンルから。『時をかける少女』は、ジュブナイル小説というジャンルに属すると考えられてきました。このジュブナイルとはそもそも何なのか、これをまず考えて行きたいと思います。「小説の一種を呼ぶための日本での呼称。英語では young adult fiction やjuvenile novelあるいはjuvenile fictionと呼ぶ」とWikipediaにあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%96%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AB
 「「juvenile」の本来の意味は「少年期」」で「児童あるいはヤングアダルト向けジャンルの呼称として使われてい」ます。対象となるのは、児童文学と成人向けの作品との中間に位置し、ティーンエイジャーが最初の読者対象となったようです。このようなジャンルは、海外には存在せず、ジャンル分けが好きな日本独自のジャンルと考えた方がよさそうです。
 しかし、70年代から90年代にかけて、徐々にこのジュブナイルというジャンルが、ヤングアダルトという名称に変化しました。そして、さらに時代が下ると、ライトノベルという名称がこれにとってかわります。専門家によって、これらは別々のジャンルだという主張もありますが、私は一応同一線上のものと捉えて考えています。ですから、御幣を恐れずに言えば、『時をかける少女』は約50年前のライトノベルと言ってもいいと思います。

-メディア展開-
 次に原作を始点として、『時をかける少女』がどのように他メディアに展開していったのかを先ず羅列してみます。

テレビドラマシリーズ
・1972年 『タイムトラベラー』『続 タイムトラベラー』(NHK少年ドラマシリーズ) 主演:島田淳子
 NHKの少年少女向けテレビドラマ枠『少年ドラマシリーズ』の第一弾として、初映像化。
 続編は筒井原作とクレジットされているが、実際は正編に続いて脚本を担当した石山透によるオリジナルストーリー。1978年、石山のノベライズが鶴書房盛光社刊。2011年、復刊ドットコムより再刊。
・1985年 『時をかける少女』(フジテレビ単発ドラマ、「月曜ドラマランド」) 主演:南野陽子
・1994年 『時をかける少女』(フジテレビ「ボクたちのドラマシリーズ」) 主演:内田有 紀
 原作者の筒井が住職役でレギュラー出演している。
 チーフディレクターには『世にも奇妙な物語』シリーズなど多数を監督している落合正幸が起用された。
・2002年 『時をかける少女』(TBS単発オムニバス「モーニング娘。新春! LOVEストーリーズ」内の一篇) 主演: 安倍なつみ


映画化作品
・1983年 『時をかける少女』((旧)角川春樹事務所) 主演:原田知世、監督:大林宣彦
 原田知世主演による大ヒット映画。大林監督の代表作「尾道三部作」の一つと数えられる。
 出演:尾美としのり、岸部一徳、根岸季衣、高林陽一、上原謙、入江たか子、高柳良一

・1997年 『時をかける少女』((新)角川春樹事務所) 主演:中本奈奈、監督:角川春樹
 大林版をプロデュースした元角川書店社長の角川春樹が自ら監督として制作。制作に角川書店は一切関わってお らず、大々的な宣伝を打つことも無く公開されたため、存在自体を知らない人も多い“幻の作品”。
 原田知世がナレーションを担当している。白黒作品。また、主題歌「時のカンツォーネ」は、かつて、松任谷由 実が、原田知世主演映画に提供した楽曲「時をかける少女」を、自身の手で、歌詞は変えずに、新たにメロディ をつけたもので、松任谷由実自身が歌っている。
 出演:野村宏伸、伊武雅刀、中村俊介、早見優、久我美子、浜谷真理子、榎木孝明、渡瀬恒彦、山村五美、倍賞 美津子

・2006年 『時をかける少女』(アニメ映画)製作:「時をかける少女」製作委員会、配給:角川ヘラルド映画、監 督:細田守
 大林版実写映画の約20年後、2006年を舞台とした新たな物語。主人公の紺野真琴は、芳山和子の姪の設定である。
 原作者の筒井も本作を、「本当の意味での二代目」と語っている。
 声の出演:仲里依紗、石田卓也、板倉光隆、原沙知絵、谷村美月、垣内彩未、関戸優希

・2010年 『時をかける少女』 製作:映画「時をかける少女」製作委員会、監督:谷口正    晃
 出演:仲里依紗、中尾明慶、安田成美、勝村政信、石丸幹二、青木崇高

漫画
・1984年 タイムトラベラー 別冊アニメージュ『SF&FANTASYリュウ』(徳間書店)で連載。作画・早坂未紀。
 ストーリーは、ドラマ「続 タイムトラベラー」を、時代設定を80年代に置き換えたものだが、3回の連載にまと めるため、一部のストーリーが、割愛されている。未単行本化。
・2004年 月刊少年エース増刊『エース特濃』(角川書店)で連載。作画・ツガノガク。
 ストーリーは原作にほぼ忠実だが、時代設定は21世紀初頭に置き換えられている。
・2006年 時をかける少女 -TOKIKAKE- 『月刊少年エース』で連載。作画・琴音らんまる
 アニメ映画版の漫画化。
・2009年 時をかける少女 after 『ヤングエース』で連載。作画・橋口みのる
・2010年映画版の漫画化。

以上Wikipediaより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%82%92%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E5%B0%91%E5%A5%B3

-表象の系譜-


 最も早く、『時をかける少女』がメディア媒体を変えて作り直されたのは、NHK少年ドラマシリーズで放送された1972年の 『タイムトラベラー』と『続 タイムトラベラー』です。続という名がつくドラマが後を追うようにして放送されているということが、当時の人気ぶりをうかがわせます。
この作品に限っては、タイトルを原作のまま使用するのではなくて、タイムトラベラーと名称を変更しています。また、原作を筒井康隆とはしているものの、その内容は脚本家が独自の解釈を入れてつくったものであり、原作にインスピレーションを受けて二次創作した作品と捉える方がより実際的だと思います。
また、『時をかける少女』は、それぞれの年代によって受け取り方が異なります。現在の50代、前後の方は、この原作とこの72年のドラマ作品が、『時をかける少女』象に最も近いのではないでしょうか。



img_763860_32596033_1.jpg
 次にこの作品を原作として作られた作品で、最も有名な作品が登場します。1983年に(旧)角川春樹事務所から公開された映画 『時をかける少女』です。主演を原田知世が演じ、音楽を松任谷由実が担当し、有名な『時をかける少女』の楽曲が創られました。

 現在の40代くらいの世代の方にとっては、この映画が世代全体の『時をかける少女』象になっているのではないでしょうか。
 その後の映像化作品は、この映画にはとても及ばず、またこの映画に追随したような感じで映像化がなされたため、あまり注目するにはあたらないと私は思います。40代くらいの世代にとっては、原田知世以外には、1985年の 『時をかける少女』(フジテレビ単発ドラマ、「月曜ドラマランド」) で主演の南野陽子が、『時をかける少女』象としてもう一人浮かび上がってくる程度でしょうか。


20080725212018.jpg

 さて、時代が下ると、こうした長い期間メディア媒体を変容させつつ生き残ってきた作品がどう変化するのか、それをよく表したのがこの作品化でしょう。私を含め、20代前後の世代にとっての『時をかける少女』象とは、細田守のアニメーション映画にほかなりません。
 2006年には細田守監督がアニメーションで映画化をした 『時をかける少女』が登場します。
「大林版実写映画の約20年後、2006年を舞台とした新たな物語」という設定で、主人公の紺野真琴は、芳山和子の姪のにあたると、作中に言及されます。原作では、芳山和子には、妹たちが居るという文章があります。ですから、その妹たちのだれか一人の娘ということになるのです。原作をアニメーションだけにするのでは、すでに40年近くの差がありました。その差を埋めるためには、大ヒットした83年の映画のさらに次の世代を描くことによって、現代の人間が見ても問題のない映画にしたのです。
 ここで面白いのは、その時代時代の時をかける少女が、どんな部活をしているのかという点です。83年の映画では、芳山和子は弓道をしています。原作では部活の描写はないのですが、映画化するに際して、より細部を描き、リアリズムを付加するという点で、それぞれ少女は部活動をしています。83年には弓道だったのが、この細田守のアニメーションでは、部活ではないのですがキャッチボールをしている場面が描かれます。何か特定の部活に所属せず、空き地で男子の友人とキャッチボールをするという自由に溢れた感じも、時代を表象しているとも言えるでしょう。このようにして、時をかける少女の少女像というのは、常に変化しつづけており、そうした意味でも「時をかけ」つづけていると言えると私は思います。

 
original.jpg

 現代に入ってからの時をかける少女には、さらに別の視点からみると、またずっとおもしろくなる点があります。2006年のアニメ映画の大ヒットの後、2010年には再び、実写で『時をかける少女』が制作されます。 この作品の主人公は芳山和子の娘という設定で、アニメ版の主人公の声を務めた仲里依紗が演じています。2006年のアニメでは、細田守監督は声優ではなく、まだ新人に近かった仲里依紗を起用しています。この声優でない人間からの起用というのは、少しジブリ映画を踏襲した感じが残ると思います。
 ですが、実際に見ていると、仲里依紗の演技はとてもうまく、作品を成功させていたと言えるでしょう。その2006年の時をかける少女を演じた仲里依紗が、今回は実写、女優として演じるのです。記憶を消されたはずの芳山和子は、しかし、どこかで覚えていたのか、薬学の研究をしていてついにクロッカス・ジルヴィウスを完成させます。その娘である芳山あかりがふとしたことから、母がつくった薬を嗅ぎ、過去にタイムリープしてしまうという話なのです。しかも、現実のレベルにおいては、ここで共演した仲里依紗と中尾明慶は、その後関係が続き、先日ついにめでたく結婚に至っています。
 このようにしてみると、島田淳子、原田知世、南野陽子、仲里依紗といったように、つぎつぎと時をかける少女の少女像というものが浮かび上がってくるのではないでしょうか。今後も『時をかける少女』は、さらに時代を変え、ヒロインを変えて語り継がれることでしょう。そうした意味でも、『時をかける少女』は、いまだに時をかけつづけているのです。

伝統的な言語文化としての歌舞伎鑑賞

H25-6momizigari-hon-omote.jpg


 今回は、国語の教員になるのであれば歌舞伎くらい見ておいたら良いだろうということでの鑑賞であった。その感想を私の過去の経験も含めて記したい。私は高校の自分一度歌舞伎教室へ行ったことがあった。同じ国立劇場である。しかも、名前が石野であるから、今までの学生生活のなかではあいうえお順で常に最初のほうに何かやらされることが嫌だったものではあるが、この時だけは感謝した。なんとかぶりつきである。最前列で歌舞伎をみた。今から四年前になるだろうか。歌舞伎の演目は西遊記で、蜘蛛の怪物と戦うという今回の戦いに引けをとらない壮絶な殺陣だったのを今でも覚えている。
 西遊記の見世物では、最後に蜘蛛がしゅるしゅると手の内から紙でできた糸を客席にはく場面があった。くるくると巻いてあった細い紙が私たち前列の人間にもろにかかった。歌舞伎役者はそれを回収せんとする。こちらもせっかくのお土産だからと持ち帰ろうとする。お互いが白い糸を引っ張り合う。ところが、それで綱引きになるかというと、紙なのですぐにきれてしまいそういうことにはならなかった。私の歌舞伎体験はこんなものである。
また、私は大学へ入ってからも自主的に演劇や演芸などを見ておこうと思い、様々なところへ赴くようにはしていた。駒澤の国文には近衛先生の教え子であり、狂言役者として活躍している方がいる。駒澤の狂言研究会というサークルでは、そのプロの狂言役者を講師として迎えて狂言を実際に演じているらしい。実は私の友人がその研究会の部長なのだ。大学へ入学したての時からの友人だが、一年の時には私も狂言研究会に入らないかと誘われた。今思えば入ってもよかったかも知れないが、しかし私の舞台は教壇なので遠慮しておいた。ともかくその縁があって、毎年夏、海の日に行われる観世能楽堂の善竹狂言会へ見に行っている。今年も行く予定だが、今年行けば三回目になる。友人と狂言の役者が師弟関係ということもあり、私は狂言の舞台裏へ入れてもらったことがある。舞台左の幕を、内側から上げさせていただいたこともある。そんなことだから、今回の歌舞伎教室は少し他の学生よりかは知識も経験もあったのではないかと思う。
 高校時に見た演目が西遊記だったのは、わかりやすかった半面、少々残念でもあった。せっかくなのでもっとなにか日本めいたものが見たいと思っていたのである。今回は、長野出身の友人の資料もあり、長野に伝わる怪談のようなものを下敷きにした物語だというのが一つポイントだったように思う。私と怪談との接点は、近現代をやっているとなかなかないのだが、しかし小泉八雲などの方面からいくつか知るところである。西洋の知識がはいってくるまえの、混沌としていながらもどこか人間味のあるこうした話にはとても興味がわく。ハーンが求めた日本の古き物語への憧れというようなものは、ハーンを読む我々も感じるところである。
だが、今回の歌舞伎もそうした日本日本めいたものが見られるのかと思っていたら、突然の「ガリレオ」の音楽でびっくりした。私はまた、日本めいたものを見にいくつもりでいたら、最初の説明から、歌舞伎は当時から新しいものを取り入れる三谷幸喜がつくるような演劇のようなものであったとまで言われたらこちらも終わりである。
解説をしてくれた中村隼人君と虎之助君は、いずれも我々より若かった。それがなによりの衝撃であった。自分がこんなに歳を取ったものかということが心を傷づけた。冗談だが、それにしても、我々より若い人がこんなにも一生懸命になにかをやっている姿というのは、凛として美しいものがあった。私の友人には茶道や書道をやっている人間がいるが、やはり道というものをやっている人間はその一挙一動が異なる。歌舞伎は道ではないが、伝統芸能である。こどものころから私たちの受験勉強の比ではないくらい、身体に仕込まれた芸がある。一緒に歌舞伎を観に行った女子などは、彼らを見ていると自分が何をしているのかわからなくなると言っていたが、それを聞いた友人がさらに、こんな私たちと比べたらあちらに失礼だとまで言ったから驚いた。何もそこまで卑下することはないと思った。

 歌舞伎には、常磐津、武本、長唄という三つの彼らの説明いわくバックミュージックなるものが存在するのだと初めて知った。どれも似たようなものに思えたが、しかしその差異を実演してもらうとなるほど、少しづつ違いがある。こういうものを見てしまうと、歌舞伎役者にまではなろうとは思わないが、しかし、あの長唄の連中に交じって演奏してみたいとは感じる。
 狂言は、歌舞伎よりも聞きやすいように私には感じられる。現代の日本語に近い気がする。今回の歌舞伎は、台本があったからよかったものの、また電光掲示板などがあったからわかったものの、おそらく何もない状況で見せられたら、特に唄はまったくわからなかっただろう。この点、もう少し知識というか、判別する能力をつけないものである。
 しかし、狂言と異なる歌舞伎の魅力というものは、見事な衣装、派手な立ち回り、激しい殺陣などの動的なものが含まれてくることである。今回は、前半では女性的な美がメーンとなり、後半では打って変わって男性的な激がメーンになっていたと感じた。中川俊宏氏の随想として、「鬼女の誘惑」という面白い文章が配布された資料に含まれていたが、こうした物語にもどこか普遍的なものを感じられて仕方がない。あまりも美しい女性というのは、どこか怪しいものである。私も美しい女性には男として惹かれていくことは認めるが、しかしあまりにも美しすぎる女性を見ると、この人とは付き合ってみたいとは思わない。何をされるかわからない。
 それでもなお、あまりにも美しいものへの憧憬というようなものは捨てきれない。これは怖さの本質とはなにかという点にもかかってくるだろうが、一見とても美しく非の打ちどころがないようなものが、突然鬼に変容するというのは、最初から鬼がでてくるよりももっと怖い。その落差、あるいはギャップというものに人間は惹かれるのかもしれない。現代風に言えばギャップ萌えである。
 
 歌舞伎はある意味で非常に日本的だと感じる。日本の文化というものは、なんでもよさそうだとおもったら取り込んでしまうという傾向がある。歌舞伎も新しいものを取り入れながら徐々に新しいものへと変化している。伝統を守る一筋の芯と、新しいものを取り入れるその勇気というようなものが、素晴らしいと感じた。西洋では、古い演劇形式は新い演劇形式が生まれるとともに衰退して上書きされていくと聞いたことがある。それにたいして、日本は新しい演劇形式が生まれても別のフォルダとして保存するので、けっして古いものがなくなったりはしないのである。歌舞伎は四百年も続いている演劇の形式である。それだけでもすごいが、更にすごいのが、今なお進化を続け、現代でも受け入れられる普遍性を持っているということである。歌舞伎の見どころはいろいろな箇所があろう。もっと歌舞伎の知識経験を重ねて行けば別のことが見えてくるだろう。とても奥の深いものである。今回『紅葉狩』を見てこのように感じた。

浅羽莢子訳 ジョナサン・キャロル『死者の書』 感想とレビュー 語りのパースペクティブの謎

61P.jpg


-はじめに-
 「ジョナサン・キャロル(Jonathan Samuel Carroll、1949年1月26日 - )はアメリカ合衆国ニューヨーク生まれ、ウィーン在住の小説家、ファンタジー作家、ホラー作家である。メタ・フィクション的なダーク・ファンタジーを得意とする」とWikipediaにあります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%83%AB
 私も初めて読んだ作家だったので、まったくプロフィールも知りませんでした。最初にこの本にであったのは、ウェブ上でのこと。先ずなによりもそのタイトルに惹かれました。『死者の書』、一体なにが描かれているのか、とても気になりませんか。私はエジプトの『死者の書』なんかにも興味があるのですが、まだそこに何が書かれているのか知りません。兎に角なにか、神秘的な知恵が描かれているのではないかという淡い希望を抱いて、図書館に依頼したところ、すぐに買ってくれました。

-導入-
 ごくごく一般的な文学論を述べますと、作品というものは読者を何かしらの方法で作品に引き込ませるように描かなければなりません。なぜなら作品というものは読者に読まれて初めて存在していることが確約されるわけなので、読者がつまらないと言ってほうってしまえば、それで作品は成り立たなくなってしまうからです。
 この作品に登場する主人公トーマス・アビイも、「本を読み始めたら最後まで読まなければ」気が済まない性質だと自分で述べています。どんなにひどい作品でも、一度読み始めたら最後まで読まなければ気が済まない。私も多分にこうした感覚の持ち主なので、本当につまらない作品を最後まで読んでしまった時の時間の浪費感、空虚感といったものは計り知れないのですが、最近の若い人は簡単に挫折してしまう傾向にあるますから、その点に関してはもう少し辛抱が必要かなと、私自身に対してはもう少し適当にできるよう神経の緩ませなければならないかなと思っています。
 ところで、この作品というのは最初から読者を突き放すような、そんな冷たさを感じさせる作品です。アニメーション映画で言えば、先日話題となった『ヱヴァンゲリヲンQ』といった感じ。あの作品では観客にわざと情報提示を少なくして、またシンジ自身の内面へと向かっていく方向性、内向性から観客をはじきだすといった構図が浮かびあがると思います。この作品も同じく、一人称の語り手である「ぼく」は始終つまらないことでイライラするような、常識的な人間と比較すれば心の狭い人間だなという印象を与えます。ではなぜ、あまり自分のことを読んでもらいたくないような態度をとりながら語り続けるのか、この問題が浮かんでくると思います。
 他の作品を読んだことがないので、ジョナサン・キャロルについてはこれ以上の言及はできませんが、ウェブ上の情報を信頼すれば、他の作品でもメタフィクション的な構造を得意としているようです。この作品でも、作品の内部に作品が存在します。こんかいの作品は、作品内作品、メタフィクションが、非常に重要な意味を持ってきます。これ以降は、多分にネタバレを含みますのでお気を付けください。

-謎の語り手、語りの謎-
 一人称作品というのは、基本的にはそこに描かれている事物がすべて終了した時点以後にその物語が書かれているということになります。『金閣寺』であれば金閣寺を燃やした後ですし、『こころ』であれば、「先生」が死んだ後に書いていることになります。一人称でも、時間軸が同時的、オンタイム的になる作品は、一応一人称でありながら、それを書いているのは誰か別の語り手ということになります。今回のこの作品も、主人公が手記を書くという仕事をしていることから、非常に判断し辛い状況となっています。一度も「私はこれを書いている今、」というような言葉は出てこないものの、別の誰かがかいているのか、あるいはここに登場する「ぼく」が自分のことを書いているのか、最後まで判然としません。

 出版社が創元推理文庫ということもあり、ミステリー要素を多分に有しているので、重大なネタバレになってしまうのですが、それでも良いかたは読み続けてください。
 このタイトルの「死者の書」というものも、象徴的な言葉で、作中には登場しません。作中では、トーマス・アビイという架空の人物が物語を語っているわけですが、さらにその作品のなかに、架空のマーシャル・フランスという人物が描かれます。アビイはかねてより大好きだった、今は亡き絵本作家フランスの伝記を書こうと、ひょんとしたことからフランスが住んでいた町、ゲイレンに向かいます。しかし、終盤になり、そのゲイレンという町自体が実はフランスが描いた文章の神秘的な力によって具現化された限りなく実体にちかい幻想であるということ、創造物であることが判明します。今までゲイレンは、フランスのきわめて変質的な孤独主義ということもあり、他の町の人間、すなわち本当に生きている人間を受け付けませんでした。では何故アビイという主人公だけは町に入れ、今まで断り続けて来た伝記を書くことを許したのか、この謎が最後まで解けないのですが、最後の最後に謎解きがある前にある事件がおきて、謎が解けます。そのことによって、アビイは恋人で一緒に伝記を書くために仕事をしていたサクソニーを失います。その復讐劇がはじまるというところで作品が終わると言う、なんとも鬱な展開が期待できる作品です。
 どうやらネット上ではその鬱加減がすばらしいと、一部のコアなファンから熱狂的な支持を受けているようです。この作家の作品はどれも、大衆受けするというよりかは、一部の熱狂的な支持者にうけるといったコアなファンを持つタイプのようです。事実作中で描かれる亡き作家フランスは、そうした人物として描かれています。ある意味では自分を投影して描いたのかもしれません。
 タイトルの「死者の書」ですが、この作品自体が、今は亡きフランスという作家のことを書いているという意味でも、「死者のことを書いている書」というようにも解釈できます。また別の考えでは、フランス自身が書き残した「今は死んでしまったものが書き残して行った」という意味での死者の書とも考えられます。おそらくどちらにもかかってくるようにわざとタイトルをつけたのだと思いますが、更にラストと今後の展開を考えると、「死者をよみがえらせる書」としての意味も含まれているのではないかと私は思います。

 一応一人称で描かれているこの作品ですが、一体この作品の語り手が誰なのかという謎が最後まで残ります。通常の作品も語り手の存在は謎のまま終わるのですが、この作品においてはその性質上、物語ることの重要さが他の作品とはまったくことなります。この作品では、本当にあますことなく物語を描くことができると、そこで描かれた人物が実世界にも生まれるという設定があります。フランスはそうして自分の町をひとつつくりあげたのです。アビイはフランスの娘にだまされてフランスをよみがえらせる手伝いをさせられていたわけです。その結果恋人のサクソニーを失うこととなってしまいます。この物語が書かれているのがすべてが終わった後だとすると、この「死者の書」は、さらなる別の意味を持ってくるのではないでしょうか。小説最後の部分で、アビイがどうやら物語るという行為によって人を復活される力を有したことが示唆されています。自分の父親を生き返らせたであることがわかります。とすると、自分の父を復活させた後に、その力を何につかったのかというと、この「死者の書」をアビイが書くことによって、サクソニーを復活させようとしていたのではないかと私は思います。


-終わりに-
 これだけ内容が奇抜であり、完成度の極めて高い作品が処女作だと知ると、この作家の能力の高さが思い知らされます。物語ると言う行為の重要さ、あるいはその行為がもつ力というのが、この作品では誇張され、描かれることが現実となるというような設定があります。ジャンル分けをしようとすればSFということになるでしょうか。
しかし、本当に作家が命を込めてものを書けば、そこに描かれていることが具現化するという発想は、昔からいくつかの作品で見られた構図ですが、この作品は徹底したつめたさ、人間の悪さといったものに裏打ちされているので、決して気持ちが良いものではありません。しかし、この不気味な読後感の印象を持ちうる作品というのは、それだけ力ある作品であり、やはり何かしら人のこころを揺さぶるものがあると思います。

大衆的とはどういうことか

e9d71784.jpg


-音楽というジャンル-
 大衆的という観念は、実に曖昧模糊としたもので本当に存在するのかも謎ではあるが、確かに我々は「この作品は大衆的だね」などという言葉を使用し、それをそれほど困ったことにならずに使用している点から、だいたいある意味を持っている観念だろうと推測する。大衆的という観念に対して、最初芸術と娯楽という二つの概念を提示してアプローチを試みた。しかし、芸術と娯楽という二項対立的な二元論ではこの問題に対して解決の糸口が見つけられないと思い、さらにもう一つの概念を提示しつつかんがえて行きたい。
 先ずは音楽から考えたい。音楽の方が他のジャンルよりもより普遍性が高くて、大衆的ということを考えやすいだろうと予測したからである。音楽というジャンルにおいて大衆的とは何か。これはアイドル論にも関わってくると感じる。例えば、日本の音楽界において最も大衆的であった人物はだれであろうか。国民栄誉賞にも輝いている美空ひばりを超えるスターはいないのではないかと私は感じる。戦後からスターと呼ばれるみんなの憧れの的が日本の歌謡界には存在したように思われる。(ちなみにスターというと、映画スターのほうを一般には指していたようである。ここでは映画についても言及したいが、割愛せざるを得ない。また、スターの存在は70年代あたりまでと考えられるとの指摘を戴いた。)そのスターは、美空ひばりを頂点として徐々に一般人に近づいてきた、あるいはその地位の価値をはく奪されてきたというのが私の考えるアイドル論である。美空ひばりの次は、山口百恵、それから松田聖子、SMAPとなった。松田聖子をはじめとするアイドルたちは、大衆的であったが、徐々にその色を特定の分野の人間に絞り始めている。美空ひばりが全年齢に大衆的であったのに対して、SMAPまで時代が下るとある特定の女性のための大衆になってくる。ただSMAPや嵐などはまだ普遍性が強く、これらは大衆という言葉の中に集約することができると思う。
 そしてアイドル論並びに今回の大衆という事を考えるうえでその草分け的な存在になるのがAKBの存在である。果たしてAKBは大衆的であるのか。AKBはここ数年メディアにおいて非常に強力な影響力を有しているように思われる。どの番組を見てもAKBのメンバーのだれかは写っている。しかし、AKBが大衆的で在り得るのはその存在形式によってという側面が大きい気がする。すなわち、AKB全体として見た際には大衆的であっても、それを構成する個々人のメンバーは決して大衆的ではないということである。これはアイドルグループすべてに言えることである。アイドルが一人で、対象となる人物が一人であればそのアイドルは大衆的な人物であり、音楽でありえた。しかし、グループと化したために、アイドルは全体では大衆的だが、個人はそこまで大衆的ではなくなってしまったのだ。

-メディアから見る大衆性-
 アイドル論から大衆的を考えてみた。次にメディアの側面から見たい。大衆的という概念を生み出しているのはメディアの力が大きいと感じる。テレビを付けた際に比較的写っていて目に入るというのは大衆的ではないだろうか。すると紅白に出場するアーティストは大衆的だろうと仮定ができる。しかし、例外も多い。去年出場した美輪明宏が大衆的かと聞かれると首肯し辛い。また、かつては大衆的であったかも知れないが、時が経つと大衆的でなくなるということもあり得そうである。また紅白はNHKが提供しているということもあり、アーティストに偏りがあることは認めざるを得ない。他には歌謡祭などの音楽番組も大衆的という概念を創り出しているのに影響しているだろう。また、ミュージックステーションなどに登場することもまたアーティストにとっては大衆的になるための要因かも知れない。
 大衆的という概念が、メディアへの露出度で左右されるのではないかと考えた。これは比較的正しいように思われる。B’zなどのメディアへの露出が少ないアーティストなどは、こちらから赴かない限り情報が手に入らないことが多い。B’zはコアなファンも多く、その音楽も有名であることからかなり大衆的に近い存在と思われる。しかし、今のメディアの露出というものを考えると、B’zがはやった時期を知らない我々よりも若い世代にとっては認知されないということになるだろう。
 また、一部の音楽ファンから人気のあるテクノとよばれるようなジャンル(この点に関しては薄学なため誤解が含まれることもあると思うので了承願いたい)で活躍する平沢進などは、「ステルス・メジャー」なる言葉を使い、コアなファンは知っているが、全体的にみた時には隠れていて見えない、つまりメジャーではないということを自認している。
 大衆的という言葉とメジャーという言葉はニアイコールの関係で結べる気がするが、そのメジャーというのは、一般的にはテレビで放送され、お茶の間での認知度のことを差し、次にはネットなどを通じて一部の人間のみによる認知という段階があるように思われる。

 今まで特に断りもなく日本の現代音楽のみを扱ってきた。次は音楽をより広く見て考えてみよう。大衆的≒メジャーと考えられる音楽形態はおもに近現代のポップな音楽である。戦時中は軍歌が大衆的であったこともあろうが、大衆的という概念が時代や世代によって変化するということからもこれはもう大衆的とは言えないだろう。
他にも、かなりハードなソウル音楽や、ロック音楽などは、queenなど大衆的と思われるアーティストも存在するなかで、ジャンルとしてはややポップ音楽よりも普遍性の面において劣るかと思われる。
 音楽の源流と言えば、クラシック音楽が思い浮かぶ。もともと原始的な音楽であったのを極限まで芸術的に高めたのがクラシック音楽だろう。これもまた、かつては大衆的であったと考えられる。日本においてこそ小難しい感じがするが、国家予算の三分の一を芸術に投資して擁護しているオーストリアなどでは、今なおクラシック音楽はいたるところで上演され、大衆的と言わないまでもかなり親しみのある音楽のジャンルなのではないかと考えられる。さらに、時代をさかのぼっていけば、音楽に声をのせてうたうという形式は古くから宗教的な儀式等であったかも知れないが、それが芸術にまで発展したのは時代の下ってからのことだろうと思われる。クラシック音楽もまた、かつての宮廷文化内においてはメジャーであったのではないだろうか。

-文学というジャンル-
 大衆的という言葉、概念に対して音楽という媒体からアプローチをかけてみた。音楽においても、さらにその下位層のジャンルから考えてみた。このことによって、大衆的がどのような側面や傾向を持つのか、ある程度考える視座が確立されたと思う。次に、私の専門である文学からもアプローチをかけてみたい。ここでは、芸術、娯楽という二項対立を超えた考えができるのではないかと思う。
  先に見た音楽というのは、そのもの自体がそれほど難解でもなく、またこういう見方をすると音楽を専門になさっている方からは反論がでるだろうが、媒体自体としては受身でも享受できるという点は共通した理解をできるだろうと感じる。もちろん、音楽も歌う、演奏するという段になると主体的になる。けれども、聴く行為に関してはどこか受動的である感覚がする。少なくとも多くの人びとはそう思っているだろう。なので、音楽の本質のようなものは見えてこない、また意識することなどないにしても、音楽を聴くという行為は、比較的楽な行為であるように思われる。「今日はちょっと疲れたからテレビでも見ようか」と同様「音楽でも聞こうか」というセリフは往々にしてまかり通るように感じる。
 対して、文学はどうだろうか。私個人は本を読むことが慣れているので、「疲れたから本でも読もうか」ということは通常のことであるが、多くの人にとってこれはちょっと考えづらいのではないかと察する。本を読むという行為はどうしても、こちらから働きかけなければならない。音楽はこちらの意識が瞬間的に飛んだとしても流れ続ける。それに対して、本を読むという行為は意識が飛んでしまえば成立しえない。この受動的、主体的な差というものが音楽と文学の媒体の一つの差になると思われる。
 そうすると、音楽とは異なって、文学というジャンル自体がそもそも媒体として難しい、主体性を求める、大衆的ではないということになる。活字離れが叫ばれる昨今、ますます文学というジャンルは大衆的という概念から離れたものとなってきているだろう。約100年前は、テレビもない、ラジオもない時代だったので、小説以外には娯楽はなかった。しかし、今ではPCもタブレットもある。そのなかで小説の占める割合が少なくなるというのは必然のことであろう。
 このように文学というジャンルはその存在すら危ぶまれるような状況にはあるが、しかし決して廃れないであろうと私は思う。動画が発明されたとき、写真は廃れると思われたそうだ。しかし、写真は決して廃れなかった。いくら他のジャンルの娯楽などが隆盛しようが、やはり人間の真理、精神の機微、普遍性などを描くことのできる文学というジャンルは消えようがないだろう。


 少々話がそれたが、文学の中においての大衆的という言葉を考えて行きたい。
 文学において大衆的というと、例えば村上春樹などが思い浮かぶ。文学というジャンルにも、音楽と同様一応のジャンル分けのようなものが存在する。まさしく今回の問題となっている、大衆小説というようなジャンルもあれば、純文学、ライトノベルというようなものまである。
 音楽で使用した際の手法と同じものを用いてみよう。有名であれば大衆であり得るだろうか。村上春樹は有名である。小説の内容は作家自身がわざと狙っているのかはわからないが、ジャンルをまたぐような微妙な小説を書いている。純文学と言えなくもないが、大衆小説とも言えなくもないというものである。だが、多くの人間は村上春樹は大衆的だというだろう。大勢の人間が大衆的だというのだから、大衆的でいいように思われる。
 次に有名という事で言えば芥川賞と直木賞である。最近は文學畑でない人も本屋大賞など別の賞にも興味を持つ方が増えて来たように思える。とてもいいことだと感じる。芥川賞と直木賞は、一応は直木賞が中堅で売れている大衆小説、直木賞が新人純文学作家ということになっている。一応はと先に断ったのには、このことが断定して言えない理由があるのだが、それはあまりにも本論からかけ離れるためここでは割愛する。
 すると直木賞はどうやら大衆性がありそうに感じられる。2000年代に入ってから本をあまり読まない人でも知っていそうな名前を挙げてみる。2003年、石田衣良、村山由佳、江國香織、京極夏彦、2004年、角田光代、2005年、東野圭吾、2006年、三浦しをん、森絵都、2007年、桜庭一樹・・・。勿論文学を専門とする私からすれば他の作家もぜひ知っておくべき作家であることは言うまでもないが、誰もが知っているとなるとこのあたりになるだろう。これらの面々を見た際に、確かに多くの人に読まれているし、大衆的であるとは感じる。しかし、文学を専門とする私としては、これらの作品が必ずしも文学的に素晴らしい作品であるとは断定できない。どうやら、大衆的であることと、芸術的であるということは、必ずしも同一線上にあることではないようである。もちろん例外もある。芸術的に素晴らしい作品が大衆的であるということは往々にしてあることである。
 さて、それに対して、芥川賞で受賞するような作家はどうであろうか。昨年度メディアを賑わせた作家の例が、この賞の性質をよく表しているだろう。黒田夏子の「abさんご」は、文学部の人間としては、こんなものが書けるのか、すごいという驚嘆、すばらしい文学性を感じたものであるが、これはおそらくほとんどの本を娯楽として読んでいる人々にとっては苦痛以外の何物でもなかったと思う。どうもこのあたりに、芸術性と、大衆性というものの差異が見えてくるのではないか。
 文学的な価値があるというのは、芸術性が高い、強いという要素を持つ。それに対して、大衆性が高い作品というのは、往々にして娯楽的な側面が強い。芸術と娯楽というのは、しばしば同一線上で、しかも二極に位置しているかのように考えられることが多い。しかし、私はその考えから脱却したいと思う。作品が芸術的であるか、娯楽的であるかという二項対立は、一見明快なようであるが、思考をストップしているように思われる。さらに、私はもう一つの概念、しばしば否定する際に使われる「通俗的」という概念を提示して考えてみたい。
 そもそも文学における芸術性とは何かという論までやっていると収拾がつかないので、これも割愛させていただく。しかし、なんとなく芸術性というものはあるように感じられる。文学作品は普段は読みたいとは思わなかったとしても、なにか芸術性があるのだろうなとは感じるだろう。それに対して、多くの人々が普段読む大衆小説は文学的な価値があるのかというと、そこまであると思っている人はそういないだろう。また、ここ20年ほどで突如として沸き起こった新しい文学のジャンル、ライトノベル。これは多くの人々が文学的な価値はなく、大衆的というよりかは通俗的であると考えるかも知れない。決してこのジャンルを否定するものではないが、確かに文学に限らずとも、大衆的なものよりもさらに軽薄で、内容が無く、そのぶん使い捨てのような軽い気持ちでその場限りで楽しめるものが通俗的なものとして存在するようである。
 私は大衆的とは、この芸術と通俗の間で、より多くの人々が受容できる限られた範囲に過ぎないのではないかと感じる。色が徐々に変化していっている一直線上の表を想像してもらいたい。そこで例えば赤から青に変わる際、色は徐々に変化していっている。しかし、そのどこかにはみなが紫だと認識する部分があり、その境界などは永遠に引くことはできないだろう。大衆的もこのようなことではないだろうか。赤が芸術で、青が通俗とすると、みなが紫と認識できる範囲が大衆的であるという概念を与えてもさほど問題はないと思われる部分である。村上春樹はここで言えば、赤と紫の間くらいだろう。人によっては文學だと言うし、人によっては大衆的だと言う。この色彩の定規は人それぞれ異なるだろう。だから、そういないとは思うが、村上春樹が通俗的だと見える人が居てもおかしくはない。人とかなり判断基準が異なることにはなるが。
 私はこのように大衆的であるとは、本質的に線引きができない段階において存在する概念であると考えた。
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
237位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
16位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。