反(アンチ)工場見学番組言論に対する反論 つまりは賛成

20120522DSC_0105.jpg

-はじめに-
 2013年5月現在では、工場見学番組に対する批判も下火になってきたのか、ここしばらくはあまり過激な運動を見せない問題ではあるが、工場見学系の番組を私たちがどのように受け取るのか、ここに一考を記しておきたい。
 特に顕著だったのが、2011年ごろから話題を呼んだ「潜入リアルスコープ」や「シルシルミシル」と言った番組である。これらの工場見学を放送する主なテーマに置いた番組の火付け役はおそらく「平成教育学院」などで扱われた問題が最初なのではないかと私は思う。このクイズ番組では、工場での製造過程を見せて、一体何をつくっているのかを早押しで当てるという問題があった。これが意外と難しく、こんな過程で商品をつくっていたのかと驚きに満ち溢れた問題だったのは確かである。この問題からインスピレーションを受けたのかどうかはこの際あまり問題ではないのだが、結果として工場見学のみを番組の内容とした「潜入リアルスコープ」や「シルシルミシル」などの番組が知名度を得て、お茶の間で流されるようになった。ただし、知名度を得るということは、日本人の良くも悪くもある民族性、「出る杭は打たれる」根性をここに遺憾なく発揮されることとなった。工場見学系の番組に対するアンチの動きがネットを中心に広がったのである。

-反(アンチ)工場見学番組-
 工場見学系の番組に対して嫌悪感や不安感を募らせている方々の言論はこうだ。
例のひとつとして、こちらのブログを挙げさせていただく。これは決してこの方を攻撃するという意味合いではなく、広く世間一般の方々の考えを代表していると思われたため、例として挙げたまでである。個人に対する攻撃ではないことを、読者の皆様には心得ておいていただきたい。
http://focuslights.blog102.fc2.com/blog-entry-320.html
 ここでは、メリットに比べてデメリットのほうが大きいのではないかという、至極最もな考えが述べられている。引用する。

普段あまり見ないような機械から次々生み出される製品。小気味良い景色でもあります。
自分も結構この手の番組を見ていますが・・・
各企業は、宣伝チャンスと捉えているようですが、デメリットも多いと思います。
わたしは、企業は、工場見学系番組の取材を拒否すべきじゃないかと思います。

デメリットの1つは、ノウハウの流出です。
すべて見せます。ということで、製造工程をかなり詳細に放送しているようですが・・・
ノウハウの流出にもほどがあると思います。
同業他社だけでなく、途上国に製造ノウハウが流出し、競争力が損なわれてしまいます。
それは、工場で日々工夫している社員の努力を無にする行為でもあります。
工場を公開することは、製造業の企業価値を毀損すると、経営者は心得るべきだと思います。

第二のデメリットは、製品のイメージダウンです。
特に食品では、バックヤードを見せることは製品のイメージダウンにつながります。
え、こんな汚いところで製造しているの?とか
え、こんな機械だらけのところで製造しているの・・・?
などなど。
先日の森永の工場紹介で、チョコフレークにチョコをかける「チョコフレーク洗濯機」が紹介されていました。が、その機械の脇に、「運転中は手を入れるな」という警告シールと共に・・・

労災発生
2005年10月27日
回転部接触
手指 骨折、脱臼
チョコフレーク製造機械で骨がボキボキ砕かれたかと思うと、チョコフレークを食べたく無くなってしまいます。

-反(アンチ)工場見学番組に対する反論-
 筆者はデメリットを大きく2つ挙げてこうした番組に対して批判している。一つはノウハウの流出である。ただでさえ、現在日本のトップ企業、特に電気メーカー系の大企業が中国や韓国の格安の企業に太刀打ちできず、倒産の危機に瀕するという大変な状況になっている。これらの原因は、労働者の賃金という問題もあるが、技術の流出が行われたということも大きい。日本で定年退職やあるいはそれ以前でリストラされてしまった人々を、中国、韓国は高い資金を支払ってヘッドハンティングしたのである。日本の企業はすでに世界に対してその名を轟かせているので、あまり冒険には出ない。これは日本人の性質的な面もあると思われる。しかし、それに対して中国や韓国の企業というのは、失敗など恐れずに、開発できた機能はすぐに搭載してみるという冒険に出ている。韓国では、すでにタブレット端末が学生に一人一台配布されており、携帯から家の電化製品のコントロールもできるような発達を見せている。
 特に情報化社会と言われる現在において、知識や技術の流出というものは、気を付けても気をつけすぎることはないほど重要な点だと思われる。こちらのブログの筆者の意見は、そうした知識や技術の流出が行われるべきではないという批判である。私はこれに対してさらに反論をしてみせよう。確かに技術、知識の流出はゆゆしき事態だが、この番組から奪われる知識や技術はないと私は思う。そもそも本当に見せてはいけない部分は見せないように加工されているし、機械や工程を見ただけで盗めるような知識、技術であれば、とっくに外国でも開発されていておかしくはない程度のものだということになる。流出してはいけない知識・技術というものは、例えば現場で10年間培った能力とか、そうしたものである。いくらこの番組で放送された映像を一生懸命研究して知識・技術を得ようとしても、それは限界があろう。そうして、たとえそこで盗まれたとしても、それは見てわかる程度の知識・技術でしかないのである。であるので、こうした工場見学系の番組から、日本の重要な知識や技術が流出するとはとても考えられない。
 例えば何かその商品の製造過程において重要なマシーンが放送されるとする。もちろん、本当に重要な部分は目に見える場所にあることは通常ないし、またたとえそれがカメラで捉えられたとしても、それを放送するとはとても思えないが、仮にその重要な部分が放映されたとしよう。これを他の技術者たちが、盗もうとすると、この映像から一体なにが盗めるのだろうか。なるほど、こうしたシステムであることはわかった。しかし、そのシステムを実現するだけの機械を創らなくてはならない。そうしてもし、そうした機械がつくれたとする。しかし、ただ見ただけで作れた機械というのは、おそらく見なくても作れたのとほぼ同義だろう。たった数分間の映像を見て、まねできるような機械というのは所詮はその程度でしかない。これは、最初から見なくても作れたということと同じ意味である。なので、これが決定的に重要な情報の流出であるとは結論づけられないのである。
 第二の問題は、企業のイメージダウンである。なるほど、筆者はたまたま写ってしまった、事故が起こってしまったという証拠を挙げて、はなはだ気分を害されたようである。確かに、これは私も気分を害する。そのようなステッカーは恐らく、その現場で働く人たちの安全を守るためにも多少強調して貼られているものだと思う。だが、それをお茶の間で流してしまうというのは問題ではないかという意見である。私もこれ対しては賛成である。これは単なる放送事故以外の何物でもない。その部分はモザイクをかけるなり、上手くカットするなりしなければならなかった番組側の責任である。
 ただ、このイメージダウンという意見は、たまたま写ってしまった事故の証拠を反論の的にしているように思われる。そうしてその的が、単なる放送事故であったのは明確なので、放送事故を非難しているということだけのように思われる。漫然と工場が汚いというのは、単なる個人の感想であり、工場が汚いことが放送していけない理由にはならないので、この意見には説得性に欠ける。食べ物をつくる場所が汚いから嫌だという意見は確かに生理的には理解できる。ただし、昨今は「きたなシュラン」なる番組もあり、汚いから放送してはいけないとは言い切れないだろう。また、工場の汚さというものは、無機的なものであるからそう印象を受けるだけということが多く、雑菌云々の点では、おそらく無菌に近い状態だろう。

-終わりに-
 これまで反工場見学番組の言論に対して反論してきたのであるが、確かに一理ある部分はある。また、日本人の性格からしても、すべてを「見せる」という行為はあまり日本人の性格を考えても受け入れられることではない。日本の文化は「見せない」文化である。見えない、見せないという部分に美的な感覚を持っていた日本人からすると、この工場見学の番組はあまりにも明け透けなように映るのであろう。また、工場見学番組を嫌悪する理由として、番組全体で何か一つの企業、商品の宣伝をしているようで嫌だという意見もある。これはもっともである。ほとんど予算を要らない安上がりな番組だと感じられるのも確かである。
 しかし、それにもかかわらず、こうした番組が人気を得ているのには理由があるように思われる。確かに、隠して見せないということは我々の有する美意識である。そうして、この番組はまるで何かの商品を宣伝しているかのようでもある。ただ、我々もまた反省すべき点はないだろうかと私は思う。
 それは現代社会のこの消費大国の状況である。コンビニにいけば、24時間なんでもそろっている。ものは安いものを買って、すぐに使い捨てる。商品の開発はすべて企業や工場まかせ。ものごとを大量に消費するので、大量に生産しなくてはならない。となると、人力ではとても追いつかないので、必然機械に頼らざるを得なくなる。機械に頼れば人間の生活からどんどん離れて行くので、どのようにして商品がつくられているのかわからなくなる。私たちは、今現在使っている商品が一体どのようにしてつくられたのか全く考えることなく生活している。果たしてその現状は何も問題のないことだろうか。野菜に生産者の顔写真が載せられるようになったのは、やはり私たちが口にするものは一体どんな人がつくったのかを知りない、見たいという感情からではないだろうか。今私たちが使っている携帯にしろ何にしろ、一体それがどのようにして作られているのか、まったく興味関心がないというのは、一種の病気であるように感じる。すなわち、自分が使用しているものがどのようにして生産されたのかを知ろうともしないということは、ものを大切にしていないということでもあるのだ。いくらでも代替可能な商品だと思うから、商品を大切にせず、どんどん消費していく。そんななかで、私たちが使っている商品は一体どのようにしてつくられたのか、知りたい、見たいという感情は、ある意味この消費社会に対して人間的な側面が発揮された結果だろうと思う。
 私は自分が使っているものがどのようにして作られたのかを知ろうともしない方が、問題があると感じられる。そのものがどのようにしてつくられたのかを知ることによって、ものを大切にするように考えるべきではないだろうか。大量消費のこの時代に、工場見学の番組を見たいという感情が高まってきていることは、非常に良いことだと私は感じられる。なので、この工場番組を否定することはできず、むしろ奨励すべきことだと私は思う。

アニメ映画『パーフェクトブルー(PERFECT BLUE)』への試論 感想とレビュー 理想と現実の乖離と、自己同一化の問題

1026205_l.jpg


-初めに-
 日本のメディアを論じる場合に、突出してすばらしい文化的、芸術的な作品を作っている媒体はアニメ映画であるということができるでしょう。限りある時間と資源のなかで、毎週毎週放送するアニメには、製作者たちがやりたくてもできなかったことというのがたくさんあります。お金をかけて作る、OVAやアニメ映画というのは、そうした製作者たちの全力が注がれている分、見るに堪える素晴らしい作品となっているのです。
 21世紀の素晴らしいアニメ映画のほとんどは、日本の者であると言う事が可能でしょう。アニメ映画を専門としている監督がこれだけいるのも日本くらいなものです。宮崎駿にしても、押井守にしても、そうして今回取り上げる今敏(こんさとし)にしても、まさしく天才と呼ぶにふさわしい芸術家たちです。
 眞に残念なことに、今敏監督は、2010年に亡くなっています。今監督の作品との出会いが遅かった分、監督が突然なくなってしまったことには、いまだにショックを隠せません。

-今敏監督を追う-
 今監督の作品の特色は何と言っても、他の監督では絶対に表現できない「イマジネーションと現実の融合」です。これは、監督自身が筒井康隆の作品に小さいころからずっと触れてきたということも影響しているでしょう。どこからが現実なのか、どこから幻想なのか、この境界線のあやふやな、白昼夢でも見ているような感覚が表現できただけでも、作品として完成しているという事ができると思います。
 今回取り上げる作品『PERFECT BLUE』(1997)は、今監督の初監督作品です。今監督の作品を追っていくと、2001年には以前取り上げた『千年女優』、2003年の『東京ゴッドファーザーズ』、2006年の『パプリカ』などがあります。しかし、監督となってから、あまりにも若く、早くなくなってしまったために、映画として作成された作品はこのくらいしかありません。
 今監督は、生前から「自分のエンジンはアルコールとカフェインとニコチンで動いている」とブログで公言するほどの不摂生な生活を送っていたらしく、そのことがかなり死因となった膵臓癌(膵癌)に影響していたのではないかと思われています。
また監督は、インタビュー記事で「また非常に現実的な問題としては予算とスタッフ集めということでしょうか。CGなど新しい技術の導入、スタッフの人件費のアップ、納得の行く制作期間を確保するためには作品ごとに予算が増えてくれなければ困るのですが、興行的に回収が難しいなどの理由で、予算を思うように確保できないのは辛いですね。」というようにこぼしています。http://web.archive.org/web/20090424071117/http://konstone.s-kon.net/modules/interview/index.php/content0003.html
これだけ素晴らしい作品を作っていながら、これが日本人の悪いところなのですが、メジャーにならないと日本人はお金を払わないのです。ですから、経済的な面で相当苦労されたようで、おそらく、それも監督への負担となって、監督を死に追いやったのではないでしょうか。ここから見えてくることは、メディアの功罪といった面もあります。外国に対しては、日本の新しい文化だなんだと上っ面の良いことばかり言っておいて、実際的には特に何も援助しない。そうして、例えばいわゆるオタクのような人間が犯罪を犯すと、アニメのせいだとか、ゲームのせいだとか、これまた民衆の聞きたいようなことしか言わない。とかく、日本人は個人で判断し、きちんと価値を吟味して、お金を払うということをしなければなりません。今監督の死から、3年が経とうとしていますが、私は今監督の死は、時代や日本全体に殺されたように感じられる分、そのように受け止めて行く必要があると思うのです。

-作品内容-
 今回取り上げる『パーフェクトブルー(PERFECT BLUE)』は、宮部みゆきの同名作品とは別ものですので、そこを注意する必要があります。筒井康隆の作品をアニメ化するなどしていた監督だけに、これも原作があり、それをアニメ化したのかと思われがちですが、この作品は脚本から行われた作品です。
 作品内時間は、作品が制作された時とおなじ、1990年代の後半。インターネットが普及してきたという背景を取り上げ、ストーカーやもモチーフとしつつ、時代や、その当時の自己といったものを鋭く描写しています。
 簡単なストーリーを説明しますと、もともとアイドルグループとして売り出した霧越未麻(きりごえ みま)は、アイドルグループで伸び悩むなか、一人アイドル脱退を宣言。女優の道へと進みます。しかし、女優としても目覚ましい活動ができるわけではなく、自分で選択しているのだと自分に言い聞かせながらも、事務所のいいなりで、レイプシーンを撮影したり、望まない女優生活を送ることとなります。それと同時並行して、彼女の身の回りでは不可思議なことが起き始めます。同時並行的に、当時の気持ち悪いオタクのような人間のストーカー行為の描写があり、かなり作品が複雑になってきます。これが今監督の素晴らしいところだと私は思っていますが、何度見返しても、これは誰の視点なのかというのが曖昧になるほど、複雑なつくりをしていながら、しかし芸術的なセンスをもって見事に調和しているのです。
 美麻は、当時普及する最中であったインターネット上で、美麻の部屋とよばれるサイトを発見します。最初は、自分になりすましたファンが勝手に作ったサイトだと軽く見ていた彼女ですが、彼女が自分の思っていた道とやっていることの乖離が激しくなるにつれ、だんだんとその内容が、理想の自分の象になってきます。本当にやりたかったことがそのサイトには事細かに描かれていて、鬱状態となりかけていた彼女にとっては、やりたくないことをやっているのが現実の彼女なのか、それともウェブ上の美麻が本当の彼女なのか、区別がだんだんつかなくなってきます。ここには、一人女優として転落した自分と比較して、アイドルグループとして成功の道を歩み続けているグループのメンバーたちの姿も重なり、ひとつのアイドル論としても成立していると私は思います。
 また、理想との乖離が進み、今やっている仕事がだんだんと嫌になってくると、彼女を女優の道へと貶めた人物たちが次々と殺害されていっているという事件が絡んできます。美麻はその殺人に関して、まるで自分がやっているかのような夢を見始めます。サイト上には、今でも輝いている自分が存在していますし、夢の内容から、自分は美麻ではなくなってしまったのではないかと思われてきます。だんだんと美麻という人間が分裂してくるように描かれます。

 最後にあっと驚くような内容が描かれるのですが、それはここでは云わないでおきましょう。この作品は、見事に当時の空気感や雰囲気といったものを炙り出しているのだと思います。そうして、この作品がアニメでなければならなかったというのは、日本ではR15に指定、外国ではほとんどR18に指定されている内容であるのを、正面から描写しようとしたからなのではないでしょうか。ここには、人間の醜い部分がかなり鮮明に描かれています。やはりそれを実写で表現するのはいろいろな面でかなり難しいことだと思われます。
 また、アニメだからこそ表現しえた部分として、現実と幻想のあやふやな境目です。これは実写では決してできないことです。CGを多用すればできるかもしれませんが、自然さがなくなります。ですからこの作品は、アニメの表現の可能性を追求した作品だともいえるでしょう。
 人間には理想と現実というものがありますが、この作品はまさにその部分を描き出しています。そうして、今なおこの作品を見ていてちっとも古いと感じない、むしろあまりの斬新さで驚くのですが、その新鮮さを失わないのは、10年前と現在でもほぼここに登場する人物の葛藤が変わっていないからなのだろうと思われます。
 現在ではウェブ上の仮想空間が以前よりかなり発達したために、我々人間は現実逃避としてかなり生活しやすい空間を得たとも考えられます。この作品では、ウェブ上の理想の自分とどのようにして折り合いをつけて行くのかという、自己同一化の問題でもあったのですが、この作品を今見て思うことは、このあまりにも苦しい社会のなかで、どのようにしてそれぞれの人間が自己同一化をしていくのかという問題だろうと思います。

-終わりに-
 この作品に登場するアイドル、なんと漫画家の江口寿史がキャラクターデザインを手がけています。彼の作品は、多くの人間が指摘しているように、彼の奥さんであるアイドルであった水谷麻里がモデルとなっていることが多いのですが、この作品に登場するアイドルもまた、水谷麻里がモデルかも知れません。
 この素晴らしい作品が、正当に評価されていないということは、非常に残念です。ただ、この作品にはひとつ欠点があって、それは大衆的ではないという点なのです。とかく大衆的でないと日本人は振り向きませんから、やはりメディアの功罪や、アイドルの在り方、ひいては人間の在り方など、この作品から感じることは多いと思います。

佐野菜見『坂本ですが?』試論 スクールカーストからの逸脱が生み出す痛快感

httpimg.jpg


-初めに-
 佐野菜見による『坂本ですが?』は、2013年1月25日に発行された日本の漫画作品である。漫画誌「Fellows!」(エンターブレイン)で連載中のころから注目され、次第にツイッターなどのSNSを介して話題が高まった。作品の概要は、「とあるクール、いや、クーレストな高校生・坂本の学園生活を綴ったものであ」(株式会社エンターブレインhttp://www.enterbrain.co.jp/product/comic/beam_comic/12432401.html)り、全5章からなる単行本では、各章で坂本という主人公のスタイリッシュな学生生活を描写していくというのがメーンになっている。
 第二号からは、「Fellows!」から「ハルタ」で連載されているが、この「ハルタ」は新漫画誌であり、これだけの話題を呼んでいながら、『坂本ですが?』の二巻目が発売される見通しがついていないのが現状である。ツイッターでは内容のごく一部が取り上げられて拡散されてしまったために、購入した人々の期待に添わなかったという否定的な意見も多く見受けられる。
 たった一巻だけの作品でここまで話題性が高まった作品は珍しく、この作品が一発で終わらないことを願う限りであるが、2013年最も早くに人気を博した作品であり、今後の動向が注目される。

-『坂本ですが?』概略-
 漫画『坂本ですが?』があまりにも急速に話題性が高まったのには二つの要因があるように思われる。一つは、ツイッターというSNSメディアである。より拡散性が高いという点では、同じくSNSの主要なメディアたるFacebookやLINEと比べて圧倒的に優っている。簡単に画像を掲載することが出来、それを見たフォロワーがリツイートすることによって急速に話題になった。ツイッター上では、その性質上、笑いを取るためのネタと考えられる画像が多々あげられているが、本作の切り取られた一部の画像もまた、漫画『坂本ですが?』が話題となる以前にはネタとして考えられリツイートされていたのだろうと思われる。ちなみに、SNS上に漫画の画像の一部を無断転載することは法律上禁止されていて、違法ということになるが、今回はその功罪を鑑みて、話題となったことで出版社側は寛容な態度をとっているように思われる。
 もう一つの話題性が高まった要因としては、現在の教育現場における様々な問題が影響していると考えられる。私はこの作品が2013年序盤に登場したことにも意味があると感じる。2011年から2012年は、特にメディアの介入によって教育現場でのいじめ問題、自殺問題、体罰問題が次々と露呈され話題となった。いじめによって自殺した生徒をマスメディアが捉えたことによって、芋づる式にいじめ問題が発覚。今までいじめられていた生徒が次々といじめている生徒を訴えるということが起こり、教育現場に鋭いメスが介入した形となった。いじめ問題と並行して、マスメディアが介入したことにより、体罰問題もまた明るみになった。生徒が録画機器を持ち込み、いじめや体罰をしている映像を公開したことがよりこの問題を大きくした。
 しばらくの間、こうした問題で持ち切りだったマスメディアであるが、次第にその原因は何かと考えるようになり、同名の本が出版されるなどで一気に認知度が高まった「教室内(スクール)カースト」が背景にあるだろうということが言われるようになった。文学の世界では、若者の間で人気の高い朝井リョウが『桐島、部活やめるってよ』で教室内の上位のグループと下位のグループという区別を提示して、話題となった。
 知らず知らずの間に教育現場にはびこっていた様々な問題が一気に露呈したということもあり、閉鎖された教育現場に関する国民の興味関心が高まっている時期である。ちょうどその時期にこの作品が登場していることもまた、意味があると私は感じる。

-笑いに隠されたカタルシス-
 この作品がこれだけ話題となったのは、スクールカーストという背景のもと、その秩序社会からの逸脱が描かれているということが原因だろう。スクールカーストという秩序社会が教室内にも不文律の如く存在しているということは、大人の誰もが感じることだろう。そのカーストがより強まっているということが今回のマスメディアの報道で確認された。
 この作品にも、いじめやたかりという概念が如実に表れている。4ページ目には黒板消しを落とすという古典的ないたずらが描かれるが、それをスタイリッシュに回避してしまった坂本は、女子生徒たちの注目を集め、弱者をいじめることによって得ようとしていた優越感を得られなかった悪童たちはさらにエスカレートした行為に出る。6ページではトイレに入っている坂本に対してバケツの水を被せる。しかし、坂本は個室内で傘をさしていて、無傷である。ここから浮かんでくるのは、通常であれば「いじめる側」と「いじめられる側」という対比関係であるが、この作品に限っては坂本が「いじめられ」ないため、関係が成立していない。つまり、この作品には「いじめ」が不在なのである。
 「いじめ」の問題が話題となった際には、いじめの定義をどこに求めるのかという議論が盛んにおこなわれたが、「いじめられた側」が「いじめられた」と感じられたら「いじめ」が成立するということが強く主張された。その前提が読者にはあるぶん、「いじめ」を「いじめ」と感じていない坂本は、いじめの構造の破壊者である。現実問題としていじめられている人間がこのようにいじめを回避するのは不可能であるが、この作品ではいじめを受け流すという今までになかった連鎖の断ち切り方が描かれており、それが読者の求めるところと合致したのである。スタイリッシュないじめの回避の仕方は、確かにそれ自体がコメディとして成立していると考えられる。多くの読者はここで「笑い」、面白い作品であると感じていると勘違いしているが、実はここで多くの読者は「いじめ」の構造を破壊している坂本を見ることによって、カタルシスを享受しているのではないだろうか。いじめを知っていて黙っていたという、観客型のいじめに参加したということを含めれば、ほとんどの人間はいじめを経験したと言うことができるのではないだろうか。過去の記憶のなかで、回避できなかったいじめというものを、坂本が破壊し、笑いに転化してくれることによって、読者は単に笑いだけでなく、カタルシスをも享受していると考えられる。

-終わりに-
 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ということわざがあり、また「出る杭は打たれる」ともいわれる。昨今は「KY(空気よめない)」や「DQN(あらゆる点で常軌とは逸した人間をまとめて指す蔑称)」という言葉が横行していることからも、非常に閉塞された空間において平平凡凡として、波を立てないように振る舞うことが求められているようなきらいがある。何事も安定や安全を第一とし、決して冒険的なことはしないというのが、現在の日本の全体の雰囲気である。ただでさえ閉塞された教室という空間のなかで、何事も人目に立つようなことをするなという強迫的な不文律の押し付けがあるとどうなるのか、それは今回のいじめや体罰の問題が嫌と言うほど知らしめているように私には思われる。あまりにも真面目すぎて、周囲を気にする日本人的な性質が全体的に押し出されている時期に、人々は窒息して、その圧迫されたものは弱者へのはけ口に集まる。そうした中で、何事も自らの信念に従い、教室内や学生の常識というものに囚われない坂本という人物は、まさしく我々が求めていた自由を実践している人物であり、我々がなりたかった自分である。
 この作品が今注目される意味を求めるとすると、もう少し教室の中で、さらに広げて考えれば社会の中で、人の目を気にすることなく、自分を持って生きるということがではないだろうか。スタイリッシュというのは、坂本が凝り固まった秩序社会に対してそんなものは意にも解さないとした反抗のスタイルである。我々もまた、坂本を見習ってどのようなスタイルで社会に向かっていくのかを考え、それを実践していかなければならないだろう。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 Part3 スターダストクルセイダース』試論 感想とレビュー 荒木作品のヒーロー像の変化

9cf6404e.jpg

-初めに-
 荒木飛呂彦のマンガ、『ジョジョの奇妙な物語』は2012年10月5日から2013年4月5日まで、part1の『ファントムブラッド』とpart2の『戦闘潮流』がテレビアニメ化され、それ以前からマンガファンの間では人気があったものの、ここ一二年で急激に認知度が高まりました。part1とpart2はかつて論じたので、今回は多少ブランクができてしまったものの、part3を論じます。
私がpart1とpart2を論じたのは、アニメ化される前だったので、非常に独特の表現をするこの漫画がどのようにアニメ化されるのか大変興味がありました。時間の都合上、アニメ作品を全部見ることはまだできていないのですが、かいつまんでみたところではまずまずよかったと思います。マンガファンの人たちの反応も落ち着いていますから、ファンの解釈と、アニメ制作者たちの解釈がほぼ同じものとなったのだと思われます。

-表現方法について-
マンガを読み解く際、技術的な側面を指摘する場合は一般的に「マンガの文法」とメディアを論じている人々は表現します。例えば、何かある物体が早い速度で移動しているのを表現しようとして、そのもののあとに線をいっぱい書き込む。これを「スピード線」と言ったりします。漫画は、これだけ日本のサブカルチャーとして世界に誇れるものだと認識されているにも関わらず、いまだアニメを含めこちらの分野の研究は発展途上です。これからは、研究に耐えるものなのだということを、多くの研究者が証明していかなければならないと私は思いますが、アニメやマンガの研究者というものは、学部がありませんからありません。こちらの方面もカバーできるとして、一部の文学系の研究者やメディア研究者が論じられる程度です。
さて、『ジョジョの奇妙な冒険(以下略「ジョジョ」)』は、漫画文法からかなり逸脱した部分があります。大抵こうした技術的に漫画の文法から大きくそれた作品というのは、一発屋で終わってしまうことがあるのですが、漫画家荒木飛呂彦の作品がこれだけ長い期間多くのファンを魅了してきたのには、下敷きとなっているモチーフや思想など、骨組みがしっかりしているのです。作品全体のテーマとしては「人間讃歌」が下敷きとなっています。
マンガ「ジョジョ」を読んでいて特に気になるのは、まずコマの振り方です。漫画は一枚の紙面にコマと呼ばれる箱型の枠組みによって、時間や視点のことなる絵をいくつか右上から左下へと読むという約束のもとに配置されています。しかし、この作品では、時にその約束を破壊して、縦一直線で絵の天が右、地が左という、90度回転された絵が登場します。今までの漫画でもこうした技法は多少はあったようですが、画面いっぱいを使って90度回転さえた絵を多く用いたのはこの作品が初めてのようです。各章のはじまりに多いこの90度回転された絵は、一見すると見づらいかもしれませんが、この作品は「冒険」がテーマですので、横に広く描かれた風景というのは、未知の領域に旅する際の、不安やときめきを読者に与えます。
また、何といってもこの作品を他の漫画とは差異化し「ジョジョ」たらしめているのは、漫画中の明暗・コントラストの強さです。トーンやベタを繰り返して、異様なまでの陰影をつけることで、立体感が芸術的と言っていいほど現れています。一枚一枚の絵がデッサンのごとく、立体感があり、それが戦う戦士たちの肉体美を際立たせているのです。精神にしろ、肉体にしろ「強さ」を表現するこの表現方法があったからこそ、この漫画が他の作品とは異なっているのです。

-三部の設定-
三部は1991年から1992年にジャンプに連載されました。三部となるこの作品では、副題が「スターダストクルセイダース」となっています。この副題は、後に着けられたもので、週刊少年ジャンプ連載当時の副題は「第三部 空条承太郎 ―未来への遺産―」となっていました。
三部では、今までの一部、二部とは異なり、主人公たちの操る能力が、波紋から、「幽波紋(スタンド)」というものに変化します。二部で青年だったジョセフ・ジョースターが、老人として主要人物として旅に同行するなど、時間軸は一つのものの上にあります。また、最大の敵となるDioは、一部でジョナサンの肉体を奪って100年間海底で眠り続けていたディオです。棺桶のような箱に入ったかたちでDioは発見されますが、この部分は、エリナとその子が入って救われたはずでしたので、船に二つの桶があったという描写がなかったことから、作品内の小さな矛盾であると思われます。ジョジョは同じく、ジャンプで人気の漫画ワンピースとはことなり、作品内で矛盾があることが多い作品ですが、それを作者は誤りだと認め、様々な部分で謝ってきました。それが別段作品を読む読者にとっての非難の的となっていないことは、作品の読者が若くこまごまとした部分にうるさい世代ではないということが多いのかもしれません。

100年の時を経て復活したDio。その肉体がジョスター家のものであったことから、Dioから発せられる何らかの影響があって、ジョセフ、ホリィ、空条承太郎の身体にも異変が生じます。「スタンド」といわれる能力は、一部、二部が肉体の強さをテーマとしたのとはことなり、精神面の影響を受けるものであるということが作品内部からわかります。スタンドは「その人を守ってくれる、守護霊のようなものである」と定義づけされ、スタンドが傷つくと、スタンドの使用者である本人もスタンドに対応する箇所が傷つきます。また、このスタンドの強さは、精神の強さと比例しており、さまざまな能力や性質が異なるものの、一般に、できるという意志の強さが影響していると思われます。
突如としてスタンドの能力が現れた三人ですが、他の登場人物たちは、Dioが復活する以前から、一人でにスタンドの能力を身に着けていたことが判明します。ですから、自然発生的な超能力であることがここからわかります。ジョースター家でなくとも、スタンドは使えるのです。ただ、波紋法のように、修行をすれば誰でも得られるということではなく、スタンドは運命によって、能力が与えられるということに大きな違いがあります。
この作品のテーマは、精神的な強さとともに、「運命」でもあると私は思います。登場する敵は、タロットカードをモチーフとした能力の持ち主たちですが、そのタロットカード自体もまた運命を占うものです。Dioの復活ということは、主人公である承太郎とジョセフにとってもまた、仕組まれた運命、先祖代々受け継がれてきたある運命の物語なのです。
現在映画化されて話題となっている『シュタインズゲート』ですが、これもまた運命という大きな流れのようなものに対してどのように立ち向かっていくのかということがテーマとなっていると私は思っています。『ジュタインズゲート』では、その運命を変えるために、時を操るタイムトラベルを使用しますが、「ジョジョ」では、運命に対して「スタンド」をもって、立ち向かっているのではないかと思います。
ここでは、「運命」を乗り越えたということが、最初から仕組まれていた運命だというよな、複雑な運命論はしません。ごくごく単純な、回避不可能と思われるような主人公たちにとって不利な運命と思われるものに対して、どのように立ち向かっていくのかということのみで考えたいと思います。

-ヒーロー像の変化-
一部、二部が、「あるべきヒーローの姿」や「強さ」を表現するために、多少うるさいと感じられるほどのナレーターがしばしばに登場し、不自然なリズムを作り上げていましたが、この作品でも不明なのは、主人公承太郎の精神の強さが描かれていないということです。ジョセフもまた、前作からの連続性があるのにもかかわらず、ほとんど波紋を使うということはしません。
一部、二部、また作家レベルで考えると『バオー来訪者』も含め、今までの作品の多くが、敵がやってくるという構図だったのに対して、この作品はこちらから出向いていくという構図に大きく流れがかわったということが指摘できます。今まではそれほど数の多くない強敵との死闘を繰り広げるという作風だったのが、今作では、それほど強くない敵が道中待ち受けるものの、少年漫画の王道のようなスタイルを取った作品に変化しています。運命を占うカードであるタロットや、エジプトの神々の名を冠された敵を順番に倒していく、途中で、敵だった人物が仲間になったりと、敵と戦い、強くなり、また敵と戦うという構図が明確に浮かびあがってきます。ただ、この作品が単なる王道作品とはことなるのが、先ほども述べたように、主人公承太郎の成長が描かれないという点です。
花京院やポルナレフが戦いの途中で、次第に強くなっていくという成長は多少見られますが、承太郎は最後のDio戦の時に、突然時間を操る能力をわずか短時間で身に着けるというめざましい成長のほかには、これといった描写はありません。そうしてまた、承太郎は今までのジョースター家の主人公が多弁で明るい性格付けがされていたのとは反対に、無口で暗いタイプです。ジョースター家の性格は、同行するジョセフが一人で負い、また敵の能力や作品の設定を説明するのは、占い師であるアヴドゥルが役割分担されています。この点からみても、承太郎が今までの荒木作品とも、また王道作品ともことなったヒーローとしてかなり異質な存在であるということがわかると思います。

 作品をより抽象的な観点から考えれば、無口で特にこれといった修行もせず、最初から最強にちかい強さが与えられている主人公というのは、今までの蓄積であると考えることができると思います。敵が襲ってくるという構図から、敵を倒しに行くという構図に変化したのもまた、今までの長い戦いのなかで、主人公側が蓄積したものがあったからでしょう。強さを蓄積した主人公側は、突然敵に襲撃されるということではなく、むしろ敵を襲撃しに行くようにと変化したのです。その冒険の間では、それぞれ個性的な、総勢30名近い敵が彼らを待ち受けています。これがこの作品の長い冒険を彩って、作品を魅力的なものへとしています。ただ、なぜか敵は一丸となって襲うということはせず、グループである承太郎たちに単体で攻撃を仕掛けてきます。これは、おきまりのパターンです。
 最後にDioを倒すことによって、見事運命に打ち勝った彼らのその先に、どのような冒険が待ち受けているのか、蓄積をしたヒーローが次にどのような敵を倒しに行くのか、ジョジョの冒険はまだ始まったばかりです。

雑記 大学生活に関する最近の出来事

default.jpg

↑参考画像ですが、まだ大学へ行ったことのない方はご安心ください。こんな明るいキャンパスライフはどこにも転がっていません。先ずは森実登美彦を読むことをお勧めします。


 私はネットという人類が作り出した素晴らしい技術を使うにあたって、一つ心がけていることは、ネットという極めて匿名性の高い空間において、個人の意見は良くも悪くも作用するということです。つまり、誰もが個人の意見を発表する機会が得られた代わりに、情報の信憑性や発言に対する責任の有無が曖昧になってしまっているということです。そのため、私はきちんと自分の名前も公表していますし、私がウェブ上で発言したことはすべて自分の責任のもとであると認識しています。そうすると、2ちゃんねるやスレッドで見られるような、情報の不確定で、しかも罵詈雑言が書かれてあるような状態にはならないのです。やはり、ウェブ上でも、個人の意見は尊重されるべきと同時に、発言に対して責任を負わなければならないと思います。

 そんな堅苦しいことはさておいておきたいのですが、一つ悲しいお知らせがあります。私は駒澤大学という大学へ通っているのですが、先日駒澤大学の吹奏楽部での事故があり、私と同じ学年の方と、それから1年生の方、二人もの若く尊い命がなくなりました。駒澤大学は、3つ自慢できるものがあります。それは駅伝、野球、そして今回の吹奏楽です。我が校の吹奏楽部は、全国コンクールで金賞をなんども受賞したり、様々な有名指揮者を招いてすばらしい演奏をしたりと、まさしく我が大学の看板となっていた部活でした。そこで事故が起こってしまったことは、眞に遺憾であります。現在大学側は情報の収集をしていると発表していますが、一体どうなることやら。実は私の友人にも、一人吹奏楽部に所属している子がいて、事故の後に逢ってお悔やみ申し上げたのですが、やはり憔悴しているようすが伺えました。今回の事故で亡くなった二人には、これからどんな未来でも開けていたことでしょう。その未来が突然閉じられてしまったことは、誠に残念でなりません。友人として、同じ学生として、冥福を祈ります。



 哀しい話は忘れずに、乗り越えなければなりません。さて、5月になって、私が所属している美術部にも新入生が入ってきました。先日は「新歓(新入生歓迎コンパ)」があり、今年もまた、多くの一年生が入ってくれました。やはりそれを見ていると、学生時代の1年、2年というものは大きいなぁと痛感します。
 皆さんは美術部というとどのようなことを想像しますでしょうか。まあ、美術部に所属している私が言うのですから信頼してもらってよいのですが、ほとんどの人間が変人です。私はそのなかでもかなりトップの法にいると自覚はしていますよ。でも、ベクトルの異なるというか、あらゆるジャンルの変人、奇人が集まっている集団と考えて、さしあたりないでしょう。しかも、全員個人主義者的な側面がかなりあるので、集団での行動が特に苦手。みんな「和を以て貴しとなす」なんて「何それ?おいしいの?」状態。そんな集団に対して我が部長は軍隊式の規律を求めるし、まあ大変です。
 そんな有象無象の妖怪のような衆ですから、一年生を歓迎するはずが、食って掛かっているような状態。最初はそれでびびって一年生は震え上がります。しかし、美術部に入部しようとしてくる人間もまた、最初からだいぶ変わっているので、なんだ自分の素を出してもいいのかということで、知らず知らず自分の居心地の良い場所になっているというわけです。

 バーテンダーを目指すんだといって、大学を飛び出し、夢に向かって着実に努力を積み重ねている人間として素晴らしい後輩がいるのですが、その後輩が先日一番くじをやったということを云っていました。この後輩、柔道がとても強く、冗談ではないレベルの強さなのに、何故美術部に来たというまったく才能の無駄遣いのように思えるのですが、しかし、やはり強者はいろいろなものを持っているということを痛感しました。
 一番くじというのはコンビニで引くことのできるくじ引きです。はずれは無し。しかしその代わりに、一回が800円くらいとなっていて、上手く調整できているくじです。この後輩がお目当てだったのは、E賞のコップ。このデザインが気に入ったらしく、これが欲しかったそう。それでこの後輩はくじを引いたのですが、なんとB賞という上から二番目の賞、今回は現在アニメ映画化で話題の「シュタインズゲート」のフィギュアを3つも当ててしまったのです。一番くじのシステムは全部で100個しかない賞品をくじびきで当てて行くというもの。この100個の賞品のなかで、B賞のフィギュアは3つしかありません。A賞B賞C賞はフィギュアのキャラクターが異なるだけで、ほぼ同位の賞です。そしてこれは3つづつしかありませんから、単純に3パーセントの確率です。100個中3つしかないB賞を、なんとその場で全部当ててしまったとのこと。店員も驚いていたと聞きました。いやはや、強者は運もまた持っているものです。
 しかし、この後輩が欲しいのはB賞ではないのです。確かにもらえればもらうけれども、E賞のグラスが欲しくてやっているのです。運がいいのか悪いのかよくわからないのですが、結局はE賞もゲットできたとのこと。一番くじは結果として、秋葉原か中野に行けば、フィギュアはお金で買えることになります。ほぼ全部のくじを引くつもりで大人買いする一部のオタクの方々が、あまった分を売るのです。個数とくじの値段を計算すればいいわけですから、大抵このフィギュアは中野や秋葉原では6・7000円くらいになります。
 いらないということなので、B賞のフィギュア、今回は「シュタインズゲート」のフェイリスといういわゆる萌えキャラのフィギュアを廉価で譲り受けました。私にとっては廉価でフィギュアを戴けるというただの幸運です。いやはや、運を持っているのか、持っていないのか・・・

ピエル・ロチ『お菊さん』試論 感想とレビュー 海外から見る日本

51Cc2TmV.jpg

-はじめに-
 ピエル・ロチ(ピエール・ロティ)作、野上豊一郎訳『お菊さん』は、1887年にフランス語で発表されました。現在、文学の中で比較文学という分野の勉強をしているのですが、そのなかでも影響研究という分野で今回のテクストが扱われました。大まかなあらすじとしては、海軍士官としておよそ120年前の長崎に寄港した、一人称の語り手である「私」が、3か月あまりの時を過ごすにあたり、日本の女性と同棲している間の出来事を日記的に描いた作品です。ですから、特にこれと言ったストーリーはありません。
 また、これは語り手の「私」とほぼ同じ経験をした作者ロチ自身がモデルとなっていることは明白です。今でいう私小説的な作品と考えていいでしょう。しかし、実際にロチが同棲した相手は「お金さん」という方だったらしく、この作品ではわざわざ名前を「お菊さん(マダム・クリザンテーム)」とし、語り手もロチであるということは本文に明記されていないので、いったん作者と切り離して、小説だけで考えます。

-比較文学の定義-
 比較文学という言葉から、例えば夏目漱石と村上春樹の小説の比較などが思い浮かびますが、実はこれは比較文学ではなくて、ただの国文学ということになります。比較文学という言葉の定義として、「二つ以上の国の間における文学の影響関係を研究するもの」であります。今回のテクストの場合は、フランス人であり、フランス語で書かれたロチの『お菊さん』から見た、日本像というものが研究の対象となるのです。さらにここで使用した「影響」ということばは「創造的な刺激を受けて、受容者が独自の内部世界をつくりあげる」こととあります。
 この小説は日本ではあまりなじみがなく、しかもお菊さんという名前だけに、あの会談のお菊さんの印象が強すぎるので、なかなか浸透していない部分はありますが、当時のフランスならびにヨーロッパ周辺では大ヒットしたようです。というのは、1880、90年代には、極東の日本という国をしる情報源はほとんどありません。そこでの生活の様子が事細かに書かれたこの作品は、異国情緒を愉しめるものとして広く普及したようです。また、話のパターン、話型もまた彼らにとって魅力的なものだったようです。何故かわかりませんが、ヨーロッパの人々は、このように最初から別れることがわかっているけれども、一時的な夫婦関係の末情がうつり、去って行ってしまう男性を悲しみに打ちひしがれながら送る悲劇の女性という話の展開が魅力的だったようです。
 寄港した先での一時的な恋愛とその悲劇という話型は、日本でも有名でふと思いつくのは、「蝶々夫人」です。ですが、この作品は「お菊さん」のヒットの後に登場した作品で、この作品から大きく影響をうけているということがわかっていますので、「蝶々夫人」のほうはモデルは居たとされていますが、どうやらそこまで史実的ではないようです。こうした類似的な話型を、「長崎物語(造語)」として文学畑の人間は呼ぶことがあります。この寄港した先での外国人との一時的な恋愛というものはしかし、ピエル・ロチのこの小説でも日本以外の国でもそのようなことがあったということが示されていますから、多くの国の港町で在った悲劇なのです。

 日本のことが書かれてある小説を私たちが読んで研究しなければならないのには次のような理由があります。それは、意外と自分のことは自分ではよく見えていないということです。また、単純に100年以上前の当時の日本を知る重要な資料にもなります。ただ、外国人の目に映った日本人、外国という鏡を通してみた日本の姿というものは、意外と私たちは気が付くことができないのです。
 歴史的な話をもう少しすれば、この作品がヨーロッパでヒットしたことによって、極東への関心がたかまり、その後開催されたパリの万博では、その興味と相まって日本の工芸品の素晴らしさに多くの文化人が感動し、ゴッホやモネなどは、彼らの作品のなかにジャポニスムとして日本的な情緒を取り込むことになりました。

-語り手の視点-
 この小説は、今私たちが読むと癪に障るような部分や、完全に現在の法に照らし合わせてもおかしい部分が描かれています。この小説では一人称の語り手「私」が物語を綴っているのですが、白人である「私」は異国である日本で、そこで目にするものすべてに驚き、それを事細かに描写してますが、どこかにバイアス(偏見)が見られます。彼らは、日本人のことを対等な存在とは思ってはいないのです。あくまでも一つ上の段階から見下ろしているという構図がここに生まれています。それを、この作品の研究者は、「見る私」と「見られる」日本人として見事に分析しています。
 「お菊さん」という名前はこの小説で作られた架空の名称で、実際のモデルとなった女性はお金さんといったようですが、この「お菊さん」という名前一つをとっても、当時の外国人が日本のことをどう思っていたのかを知ることができます。「菊=クリザンテーム」はその名前が現すように、花を連想、イメージさせます。いわゆる「長崎物語」の類似物語である「蝶々夫人」もまた、「マダムバタフライ」というように、昆虫がイメージされています。どうやら、当時の外国人、特にヨーロッパの白人たちにとって、日本の女性というのは、花や昆虫のように、小さくて可憐で、そうして守るべき対象となり、また昆虫標本のように思いのままに自分のコレクションの一つになるというような存在として認識されていたようです。この小説では、「人形(ブウペ)」という言葉が繰り返し使われます。そうして人形が並んでいるように感じている語り手は、日本人の女性たちのことを、自分とおなじ一人の人間としてではなく、その言葉通りに自分のままごとの相手である人形のような存在として認識しているのです。
 また、語り手の私は、西洋的なものの見方、つまり西洋の幾何学遠近法(透視図法)によって、日本のことを見ます。彼にとっては、お菊さんとの夫婦生活のすべてが発見の連続です。食事をするにしても、御膳から、漆を塗ったお椀やら、すべてが事細かに描写されます。しかし、それは図体の大きい彼にとっては小さくて、こまごまとしており、「ままごと」のようであったのです。扉ひとつにしても、取っ手の部分に細工が施してあったりして、日本人は特に普段気にもしないような細部にやたらと贅を凝らすと不思議がります。こうした部分がやたらと目につくのは、西洋の遠近法をもって日本を見たからなのでしょう。彼らにはそのような取るに足らない部分、遠近法でいえば近すぎて見えない部分に驚くほどの技術が使われていることが不思議だったのです。

-お菊さんとの関係は-
 そもそもこの物語は、語り手の私がいつ終わるともわからない数か月間の長崎での停泊の間、その間の寂しさを紛らわせるためにカンゴロウという仲介者によって、女性を買うということから始まります。しかし、この買う、あるいは借りるという行為は、売春とは少し様相が異なるようです。語り手の私自身がそう思っていないということも色濃く作品にベールをかけて日本の読者を現在になって迷わせていますが、それを鑑みても、「私」がその娘の両親に日給いくらとして預かった女性は処女ですし、単なる売春とは異なります。それに、「私」自身は「夫婦の関係はなかった」と言っています。このことばを本当だと鵜呑みにするのは危険ですが、少なくともそうであったと思いたいという語り手の願望が現れているとは考えていいでしょう。
 この物語が単なる恋愛ものとして考えてはいけないのはこの点にあるとおもいます。そもそも私とお菊さんの関係性が謎なのです。性的関係があるのかないのかもベールに隠されていますし、私の視点からみると、どこか子供らしさを残している、あるいは時には演じている可能性のあるお菊さん。そうして最大の謎は、語り手の私がお菊さんの心を見ることが全くできていないということなのです。

 これまで、様々なことをずっと見続けてきた「私」ですが、なぜかお菊さんの内面だけは全くわからないと明言しています。今まで自分のものの見方、価値観で納得、理解してきた彼にとっては、お菊さんという存在はイレギュラーでした。そのことが最初カンゴロウの連れて来た娘を前にして、後ろにいたお菊さんに眼を惹かせた原因とも言えますし、またこの作品全体においてもお菊さんが際立って異種的な存在であるということを浮き彫りにさせています。
 時には子供らしく、時には大人らしく振る舞う彼女の言動を目の当たりにして、「ままごと」のような夫婦生活をしている私は、彼女の内面が見通せないことへのいらだちか、彼女に対して冷たくします。そのことが夜の生活はないというようなことを言わしめた原因でもあるでしょう。この小説は小説として成り立っているのか危ういほど、これといったストーリーもなければ、読者をひきつける構成もありません。極めて私小説的であり、また各章の最後に日付のあることから、語り手の私の手記であることが判明します。
 「人形」のようで、自分の支配下におけると思っていたお菊さんの心情がわからない「私」は、その裏返しか、自分の友人で同じ船乗りであったイヴとお菊さんをくっつけてみようとします。お菊さんが本当に自分のことが好きなのか、あるいは嫌いなのかがわからない「私」は、大親友であり、またお菊さんとも時を追って親しくなっていくイヴの心もまた試すのです。「私」がお菊さんとともに高い丘の上で夫婦生活をしている近所には、似たような外人の水夫と日本人の女性の一時的な夫婦の家が密集しています。長崎の奉行所も、このような外国人と日本人女性の一時の夫婦生活を認めることはしても、同じ場所に住まわせることによって管理していたものと思われます。
 作品の前半では、この周辺のおなじような家族と共に長崎を歩き回ることが何度かあるのですが、後半になると、そうした周辺の家族は次第に影をひそめ、私とイヴとお菊さんの三人が一緒にいるという描写が多くなります。イヴは友人ですが、私はもしかしたらお菊さんは私よりもイヴのほうが好きなのではないか、またイヴもお菊さんのことを恋しているのではないかと考え始めるようになります。私の家でイヴと三人で寝ることになった時には、わざとイヴ、お菊さん、私の順番で寝床をひいて試してみますが、お菊さんはその誤りをきちんと正します。小説らしい構図としては、「私」が無理やりお菊さんとの間にイヴを組み込むことによって、擬似的な三角関係を作り出して二人の仲を怪しむという構図ですが、もちろんこれは「私」の勝手な妄想にすぎず、結局イヴとお菊さんの関係には何の発展も訪れません。
 むしろ文学的な意味をここから見出すとしては、「私」自身のお菊さんへの愛情が自分でわからなくなったために、親友のイヴにお菊さんを取られると構図を疑似的に作り出すことによって、お菊さんを無理にでも好きだと自分を騙そうとしていたのかもしれません。

-終わりに-
 最後にいよいよ別れとなる場面で、「私」は「これまで世界のいろんな場所で、別れ際に其処此処で拾い集めた、凋んで落ちた滅茶滅茶になった花をたくさん保存している。私はその蒐集がおかしなでたらめなものではあるが、殆ど植物標本になっているくらいにたくさん保存してある。-私はどうかして此の蓮の花に対しても心を動かしてみようと努めたが、それは駄目である。而かもこれはナガサキに於ける私の夏の最後の生きた記念物であるにも拘らず」と述べています。これはもちろん象徴的に日本という異国の地でであった女性、お菊さんのことを指しています。「私」は他の国でも、港に停泊している数か月の間に、その国の女性と同じような生活をしていたということを回想で述べていますから、そうしたそれぞれの国での女性との生活もまた、「植物標本」の一部なのでしょう。しかし、ここに来て、お菊さんの異種性、自分がどうしても情を移せないという状況に陥ります。
 そうして最後は「おお、アマ・テラス・オオミ・カミ、私をこの小さい結婚からきれいに洗い清めて下さい、カモの川水で。・・・・・・」とつぶやいています。これは作中何度か登場した、自宅の下に住む女性の祈りの言葉を借りて述べたものですが、すべてを洗い流したいというこのつぶやきは、お菊さんとの生活を後悔しているようでもあります。自分の欲求のために買ったものの、その欲求が十分に満たされなかった数か月間を終えて、「私」が後悔しているものは一体何なのでしょうか。他の女性だったら、もっと肉体的にも精神的にも満たされたということでしょうか。あるいはお菊さんという女性に対して悪いことをしたとい思いでしょうか。「私」はほとんどの章の最後を「・・・・・・」三点リーダーで省略し、自分のこころも全てを書かないという謎を持たせています。「私」のあまりにもエゴイスム的な小説に日本人の読者が読むとカチンとくるものがありますが、このテクストには謎が多く、当時の日本人、あるいは外国人の様子を見ることができる素晴らしい作品となっています。
 ただ、この小説はしばらく絶版になっており、入手が困難でした。現在では岩波文庫から出ていますが、最新の版でも、旧かな旧漢字になっており、一般読者にはかなり読むのは困難かと思われます。ピエル・ロチの謎を読み解きたい方は是非挑戦してみてください。

雑記 最近廻った美術館と、美術館巡りの醍醐味

006f6510fbf4e4ad_S.jpg

 私のブログをご覧になってくださる多くの偏屈な方々に、いつも感謝しています。なんだか、最近の記事は、どれもこれも作品を分析したものばかりで、つまらないと思われていたかもしれません。私は質を高めるために、日々思ったことなどは、ツイッター程度でとどめておいてこのブログには、作品分析くらいしか載せないようにしていましたが、時にはブレイクタイム、特になんのとりとめのない記事というか、ノートのはしがき程度のことを記してみてもいいかもしれません。
 私のブログをずっと前から見ていただいている方はご存知かもしれませんが、以前は美術館やコンサートにいったら、その時の感想をひとつの記事として書いていました。しかし、この頃は、ひとつの作品の分析を書くのだけで結構時間もかかり、また疲れるので、美術館やコンサートにいっても、ツイッターでどこどこへ行ったくらいしか書かなくなりました。
 美術館に行くと、結構な学びになります。私は美術館にいくと展示会の図録を買うのが趣味なので、それがかなりの出費になっていて貧乏学生としては大変つらいことなのですけれども、後で読みかえすのが面白いのです。いろいろ、買い込んでしまう性質なので、部屋は本だらけで汚いですが、まあ知的インテリアだとおもって、ものに囲まれる生活も悪くはありませんよ。
 美術館にいくと、そこで出会ったすばらしい作品を、後になってブログでいくつかとりあげて、この絵にはどのようなことを感じたというようなことを書いていました。しかし、それらの記事は、通常の作品分析の記事よりも、ずいぶん多くの時間と手間がかかるため、面倒くさくなって最近は書いていません。長い記事を書いている間に他の美術館に行ってしまいますし、他の作品分析のほうに時間を割きたいし、また、創作活動もしたいので、なかなか時間が足りずにすぎてしまいます。このブログでは結構な頻度で自分が読んだ作品の感想などを掲載していますが、それでも書こう書こうと思いながら、結局書かなかった作品もたくさんあり、時間が足りない、一日30時間くらいはほしいななんてことを思っています。
 今日は、ここ最近で足を運んだ美術館たちをまとめて記事にして紹介しましょう。

国立西洋美術館 ラファエロ展 6月2日まで
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/raffaello2013.html
東京都美術館 ミラノ アンブロジアーナ図書館・絵画館所蔵 レオナルド・ダ・ヴィンチ展-天才の肖像 6月30日まで
http://www.tobikan.jp/
同じく 第43回 日彫展 終了
Bunkamura ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア 終了
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/13_rubens.html
森アーツセンターギャラリー ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り 5月19日まで
http://www.ntv.co.jp/mucha/

こんなところです。近いうちに、
国立新美術館 フランス国立クリュニー中世美術館所蔵 貴婦人と一角獣展 7月30日まで
http://www.lady-unicorn.jp/
サントリー美術館 「もののあはれ」と日本の美 6月16日まで
http://www.suntory.co.jp/sma/
Bunkamura 現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展 6月16日まで
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/13_lopez.html
にも足を運ぼうと思っています。

 簡単に感想を述べると、今とにかく上野が熱い!ということです。ラファエロとダヴィンチが同時に来ている。しかも、こんどはミケランジェロまでやってきます。巨匠時代と呼ばれる時代を打ち立てた三代巨匠たちが上野に集結するという、とても豪華で芸術というものの本質のようなものを学ぶことができるすばらしい機会になっています。是非皆さん足を運んでください。
 ラファエロ展とダヴィンチ展、どちらも同じ時期の巨匠ですが、展示会のコンセプトが異なったようで、一日ではしごしたのですが、どちらも楽しめました。ダヴィンチ展のほうは、今回は彼の手稿がメーンなので、色彩に欠けるという点がありました。ですが、彼の手稿は左書きだったりして、美術というよりは博物館に行ったというような感覚です。ラファエロ展は、印象的だったのが、ラファエロの絵はみんな同じような顔をしているなという点です。ラファエロの自画像が美術を知らない人でも見たことがあるくらい有名ですが、他の絵も自画像と対して変わらないじゃないかと思われるほど、よく似ていました。
 上野の美術館に行った際には、私は西洋美術館のなかのレストランすいせんでランチをします。本格的なフランス料理が比較的リーズナブルな価格で楽しめます。私が最も信頼しているのは国立西洋美術館くらいのものです。何故かというと、あの美術館は日本でも数少ない常設展を有しているからです。日本の美術館は、とかく経済的にもかわいそうな状況に置かれているので、自分の美術館で作品を購入し、常設するということができないのです。確かに日本の美術館の素晴らしい点は、有名な企画展、特別展をどんどん行うことができるということです。しかし、これは多くの企業のスポンサーがつき、そのため美術的な知見とは異なった、企業の思惑が介入することがあるので、キュレーターたちはあまりよく思っていないのが現状だそうです。日本にも、まずより多くの人が芸術関係にお金を払うようになって、美術館がそれぞれ独立できるようになり、常設展のある美術館が増えるといいですね。

 森ビルのミュシャ展。これはもうとにかく酷かったです。何がひどいって、展覧会自体はすばらしいのですが、人が入りすぎていて完全にキャパオーバー。しかも、美術館なのにもかかわらず、ビルの内部にあるために、コインロッカーの場所が非常にわかりづらくて、重い荷物を持ったまま人ごみにもまれたので、大変疲れました。もう、終わりが近づいていますから、どんなにうまい時間を狙っても混雑は避けられません。私が行ったときには満員電車のような状態でした。やはり日本人はミュシャが大好きなのですね。とかく日本人は話題になったものなら、自分の考えを放棄してでも追随していきますから、みんなよってたかってミュシャミュシャしていました。
 たしかに、ミュシャは100年前とは思えないほどの素晴らしく、モダンな作品を残しました。現在でも、あのステンドグラスのような作品の美しさというものは通用します。実際に現物をみて初めてわかったのですが、ステンドグラスのように太い線だけで絵が描かれていると思っていたら、意外とかなり細かい部分まで書いてあって、太い枠組みをつくりながら、細かい部分も書いているというコントラストに惹かれました。
 ミュシャ展を見て思ったことは、彼の絵はつねに美しい女性を描き続けているということです。そうして、彼の妻や娘もまた相当な美人であったことが伺えました。ですから、やはり芸術家というものは、美しい奥さんをもらって美しい娘がいないとだめなのでしょうね。

 森タワーは現在展望台ではなくて、スカイデッキが無料公開になっています。展望台というのは、建物の内部ですから、屋内になります。屋内から外を見るということは、意外とどこでもできることです。しかし、このスカイデッキというのは屋外です。森タワーの屋上、地上238mの部分というのは、高所恐怖症でなくてもヒヤリとする高さです。この高さで屋根はなし。強風吹きすさぶなか、ガラスも隔てることなく、あたりを見渡せます。森タワーのスカイデッキは、ちょうどペットボトルのキャップの上にいるような恰好になるので、ビル自体の幅はあるのですが、デッキからみると、下が内容に見えます。頂上まできたはいいものの、ダメだダメだといって目隠ししながら帰って行った人もいましたから、行く際には気を付けてください。ミュシャ展で、人ごみにもまれた後は、森タワーの頂上から、下界の人間を高みの見物していました。意外と楽しいです。都庁ビルの展望台よりも個人的には面白く感じました。
 このスカイデッキ、去年公開されたアニメーション映画「009 RE:CYBORG」の冒頭で登場していたのを思い出しました。005ことジェロニモが、記憶を封じ込められていた島村ジョーを覚醒させるために、荒療治で戦闘した場所です。なるほど、見方によっては、中心にヘリコプターが着陸する場所のある円形ににた空間は、コロッセウムのようにも思われました。まったく意識していなかったのですが、図らずも聖地巡礼(アニメーションで舞台となった場所へ行くことを、アニメファンたちがこう名づけたことからの呼び名)となりました。
 このようなところでデートするのもまた乙かもしれません。お勧めします。

小野不由美『魔性の子』試論 感想とレビュー 外伝的な作品から十二国記シリーズを読み解く

32752386.jpg

-はじめに-
 現在、新潮社から、「完全版」として再び発売されている小野不由美作十二国記シリーズ。作品自体の、長い歴史とともに、今再び注目を集めています。十二国記シリーズは、1990年代から書き続けられている長大な作品で、2013年現在でも未完となっています。2002年には、NHKからアニメ化され、その時点でも大きな話題を呼びました。現在は、新潮社からの完全版の出版により、長い期間にわたって書き続けられていたために読者がどの順番で読んでよいのかわかりにくくなっていた面を克服し、シリーズ化されて出版されています。
小野不由美という作家自体が、とても謎めいた方で、彼女の代表的な著作はほかに、「屍鬼」シリーズなど、本格的なホラーとミステリーの要素を含んだ作品などがあります。2003年には子供向けに書かれていながら、大人も十分楽しめる妖怪を巡るミステリ小説『くらのかみ』を発表し、2002年の十二国記アニメ化などもあり、現在の若者にも知られる作家だと思います。
 しかし、これだけ長い期間作品を書いてきてしかも、かなり有名な作家であるのにもかかわらず、顔出しは一切せず、画像検索では作者と思われる画像が一枚もヒットしないというある意味偉業を成し遂げています。覆面ではないにしろ、あまりにベールに隠された謎の作家です。今回は十二国記シリーズから、新潮社の完全版ではepisode0として紹介される、本編シリーズから外れた外伝的な作品「魔性の子」を論じます。

-故国喪失者、20年前と現在-
 十二国記シリーズとしては最も異端的な作品である本作は、異界の地十二国記が作品の舞台となる作品たちを十二国記シリーズと呼ぶのに対して外伝として考えられています。また、本作には十二国記という単語も登場しないことから、小野不由美の作品を網羅した読者でないと、その連関性がわからないという点もありました。新潮社の完全版では、本作を外伝的な扱いとしながらも、episode0と位置付けることによって、作品に連関性を持たせています。
 この作品は、外伝的な要素を含んでいるということもさりながら、この作品単体だけでも作品として成立しているという点がやはり注目されると思います。簡単なあらすじを述べてば、この作品は、教育実習で自分の母校に戻ってきた主人公広瀬が、その教育実習先の母校のなかで一人異彩を放っている少年高里を巡る不可解な事件と向き合っていくという話です。この作品では十二国記という異界の地は登場しませんから、この作品だけを読むと、高里という謎の少年を巡る不可解な事件、超自然的な現象を追っていくという、日本的な妖怪の悪行を暴いていくというホラーミステリーになります。

 この作品の代表的な登場人物、主人公の広瀬と、謎の少年の高里には、ある共通点があります。それは自分たちが、どこか本来は別の地にいるべき存在であるという感覚です。故国喪失者というキーワードが作中でも登場しますが、彼らは別の本来自分たちがいるべき地を知っているために、現在いる場所が、不自然に思えてしょうがないという葛藤や苦悩を持っている人物として描写されます。
 教育実習生である広瀬は、自分が幼いころに重い病気にかかり、死の瀬戸際まで陥ったためか、その際にいわゆる天国のような、非常に美しく、清らかな楽園を夢のなかで体感しています。彼自身には、これは夢としてはあまりにも鮮明な記憶であり、その病から立ち直った作中の現在においても、いまだそこが自分の本来いるべき場所であって、今いる場所は本来とは違う場所にいるのだということを認識し、苦悩しているのです。その描写は、冒頭から別の視点で鮮明になっています。同じく広瀬が教育実習先に行くという場面で、母校が引越しをしたために、自分の母校に帰ることは帰っているのだが、やはりそこは母校ではないという感覚が描写されています。ここからすでに、広瀬にとっては、自分がいるべき場所、いた場所に戻るということができていないことを苦悩する人物として位置づけられています。

 本作が1991年に発売されているということも鑑みると、作品の主題となっている故国喪失者というテーマは、広く当時の社会にも普遍していえることではなかったのかと思います。1991年ではまだ私は生まれていなかったものですから、詳しく当時の空気、雰囲気というものはつかめませんが、バブル経済があり、経済的な側面のみ発達して、精神的な部分がおろそかにされた時代のなかで、本来私たち日本人がいるべき場所はどこなのか、自分の拠り所となる、故郷や社会はどこなのかということが不明確になり、人心が荒んだ時期だったのではないでしょうか。この作品が20年以上も前に書かれた作品であるのにもかかわらず、今読んでも全く色あせていないどころか、より切迫感を持って読者に迫ってくるものが感じられるのを思うと、当時から20年経った現在でも、いまだに我々の拠り所となる「故国」が見つかっていないという点が明らかになるのではないでしょうか。
 安倍政権となり、まるで右翼的な国家主義を目指している現在、それは故国が見つからないのを焦り、無理やり拵えられた故国にすぎないような気がします。このような拠り所が見つからない不安、そうして自分は本来ここにいるべきではないのだという苦悩や葛藤は、日本人であれば、誰もが有するであろう感覚だと思います。そうした人間の心理を見事に描いたために、この作品は読者に揺さぶりをかけてくるのです。

-高里の本性-
 故国喪失者として登場する人物は、謎の少年高里です。しかし、彼は広瀬が死の縁で夢見た世界とはことなり、本当に異界から来た存在であるということが後に判明します。この彼がもといた異世界が、十二国記であるということが、他の作品を読んでいくうちにわかるのですが、この作品だけでは、それはどこか不明です。少年高里は、彼に害を加えた人物はそれが誰であろうが、必ず何者かによって報復されるという噂があります。そのような噂があり、どうしてもクラスに馴染めていない高里。しかし、彼もまた、それを撮りとめて気にするような人物ではありません。ですが、その取り澄ましたような態度が逆効果となって、他のクラスの人間に反感を与えるということになるのです。
 たとえば、大したことのない冗談やからかいであっても、高里にそうした害を加えたものは、必ず近いうちに釘が手に刺さったり、骨折などの怪我をしたりします。とてもその冗談やからかいには付き合わないほどの重い罰が下されるのです。そのような怪奇現象を目の当たりにして、怯える生徒もいれば、反対にそのようなものは偶然だといって、半分は肝試しのような側面があるものの、半分は友情として、高里にはそのようなジンクスはないのだということを証明してあげるために高里に対して毅然と立ち向かっていく生徒も現れます。高里を殴ってもなんの問題もない、それは高里自身もわかっているのだということを述べ、高里のためにと思って彼を殴った生徒はしかし、高里自身はその生徒に感謝していたものの、体育の授業中に全員の人間の下敷きとなり、死亡します。高里の報復が人を殺してしまったことや、それが彼の意志とは異なった部分で働いている力であるということが判明してきて広瀬は、高里との同居生活をし始めます。高里には、かつて神隠しにあったという過去があり、そのことも含めて彼の家族からは敬遠されていました。
 人を殺してしまったということもあり、自分の子供が怖くなった高里の家族は、彼を守るということを放棄します。そうしてやむなく広瀬の内に泊まるようになった高里ですが、そこでふたたび悲劇が起こるのです。高里の家族がまるで獣に襲われたかのように惨殺されるということが起こります。
このようにして高里を巡る人間がどんどん殺されていくという事態のなかで、広瀬もまた彼に恐怖せざるを得ません。しかし、唯一故国喪失者という点で彼との共通点を持っていて、彼と分かり合えると信じていた広瀬は高里を最後まで守ります。しかしその広瀬でさえ高里に憑いている何かに一度襲われるのです。高里がその場に居合わせ、広瀬を守ったことによって広瀬は助かりますが、その時点で高里に憑いているものが、高里の意志とは関係なく、しかもどんどん残忍性を帯びてきているということが判明するのです。
 このような不可解な事件の連続は、当然メディアが放っておくわけもなく、次第に事は大事になってきます。これ以上高里を守ることができなくなり、いよいよ被害が陰惨となってくる最後になって、ようやく高里は自分の故郷を思い出すのです。自分が本来なにものであり、自分を守護していたものたちが何だったのかを思い出し、自分の故国へと帰っていくという点でこの物語は幕を閉じます。
 彼の理解者であり、最後まで援助しつづけた主人公の広瀬は、自分の故国へ帰ろうとしている高里に対して、自分を置いていかないでくれ、自分も連れて行ってくれと懇願します。しかし、高里は広瀬のいる場所は、これから自分が行く場所ではなくて、この世界なのだということを述べて消えていきます。

-終わりに-
 主人公である広瀬が、結局は自分の故国には帰れない、しかもその故国はより実際には存在しないという可能性が強く打ちつけられて幕を閉じるこの作品は、最後は広瀬も自分の故国を見つけられるのではないかという読者の予想を打ち破り、その点ではバッドエンドになっています。この作品では、故国に帰れる高里も、それまで自分の記憶がなくなっていたために、かなりの無益な人々を殺してしまったという思いもあり、誰も救われない作品となっています。ここには、人間の倫理観や道徳観を越えた、一種生物界の弱肉強食のような論理が横たわっているのだと感じました。
 十二国記シリーズとは一種かけ離れた作品でありながら、この作品は他の作品よりも発表された時期は早いです。ですから、この時点から、これからの作品の大まかなストーリーを創造していたのだと考えると、その作品を越えた大きな伏線に、作者の技量の高さを感じさせられます。ここで登場した高里が登場し、主人公となるのは、episode2となる『東の海神 西の滄海』です。ここでは、十二国記という異世界の側から描いた高里の異なった側面が描かれます。

参考、十二国記新潮社公式サイト
http://www.shinchosha.co.jp/12kokuki/

朝井リョウ『何者』試論 感想とレビュー 「何者」から見る現代就活生の現状 ~2~

333061.jpg

-何が問題なのか-
 ここではっとさせられたのが、隆良のような自称クリエイターのような人間でなくても、隆良的な思考があるということです。私自身も、また私の友人にも、一斉に就活スーツを着て企業説明会に行ったり、インターンに行ったりしているのは何か違う、何かおかしいという考えがありました。おそらくこれは現在の多くの若者にある考えだと言ってもいいでしょう。右肩上がりの経済は終わり、今どこへ就職しても30年後、40年後が不透明な時代に、そこまでして一般企業に入らなければならないのだろうかと、価値観が変化してきています。また、エントリーシートを100枚、100社も出して、全部一次も受からなかったというような話があります。これも何かおかしいです。そもそもあんな紙一枚で人間を選定できるのかという点もありますし、100社も出さなければいけないという点もおかしいです。そうしてそれが全てはねのけられるというのは、聞いているだけでも、まるでその人物の全人格が否定されたような雰囲気を帯びてくるのが現状です。このこと自体がまずおかしいのですが、賢い人間は何とかこれを回避しようとします。それが今いっぱんで言われている「意識高い系」というやつです。この「意識高い系」という言葉は一体なんなのでしょうか。ここ数年で登場した言葉なことは確かです。この「意識高い系」というのは、常に自分は頑張っていますよ、ボランティアとかインターンとかたくさんやっていますよ、というようなアピールをしている人たちのことです。クラスでいいこちゃんぶっている子が、今までは委員長みたいだとか、教師にこびへつらっているとか考えられていましたが、この意識高い系というのは、会社にこびへつらっているというように、我々同年代は見ています。だから、この意識高い系の人間を見ると、私たちは腹立ちます。
何が悪いのかというのは、就活生側から考えてみるとやはり社会だとしか言いようがありません。私たちが悪いのかとは自分たちではなかなか思えないということもありますが、例えば「ゆとり世代だから」というような言葉をかけられると、私たちにはどうしようもありません。私たちが望んでゆとり教育をすすめたわけではありません。ゆとり教育をしたのは、当時の中等教育審議会や教育委員会、国家のお偉い歳たちです。責任を求めるとすればそこでしょう。何にもかかわらず、馬鹿だなんだと言われ、まるで役に立たないかのようなレッテルを張られているのが現状です。そうしてエントリーシートを一人が100枚も出すような時代は、やはりおかしいです。落とされる確率が高くなれば、できるだけたくさんのところに出そうとします。そうすればまた倍率が高くなるわけで、悪循環が発生しているのです。この悪循環はなんとか企業や社会がしなければなりません。学生たちにエントリーシートは一人何社までと制限はもうけられませんからね。
 さらに言えば、今の日本では新卒でなければならないとか、有名企業に就職していなければ負け組だとか、絶対に就職しなければもう人生終わりだとかそうした考えが非常に色濃いということです。社会全体が、学生に対して急ぐことや焦ることを要求しているように私たちは感じています。就職活動の解禁は3年の12月からですか。私たちの次の代は4年の4月からになるそうで、本当に私たちは不幸だなと感じていますが、3年の12月ということは、ほぼ、大学での勉強は2年までしかできないということです。私は現在三年なのですが、就職する気はありません。教員一本で行くつもりなのですが、もしこれが仮に就活組だとすると、もうそろそろいろいろな対策をし始めなければならないことになります。やはり、大学という日本における最高の学問機関において、4年間勉強すべき場所であるのにもかかわらず、おちついて勉強できるのが2年間しかないというのは間違っているように思えます。私はこのように勉強というか、考えることが大好きなので、文学部では自分で言うとちゃんちゃらおかしいですが、一応学年でも優秀な成績を納めていますし、勉強に身を入れいるつもりです。しかし、この私でも、一般の就活をするとしたら、まず大問題なのは英語ができませんから、TOEFL・TOEICの点数を書けという時点で、落とされます。自分で言うと単なる傲慢になりますが、それでもTOEFL・TOEICの点数だけが良い学生よりは仕事はできると思ってしまいます。
 何にしても、まず大学に入ったのだから、専門的な勉強をもう少し落ち着いてさせていただかないと、意味がないということです。大学は通常2年間で基礎・基本を学びます。発展的な学習・より専門的な分野に入っていくのは3年からなのです。ですからちょうど大学に入って右と左がわかってきたというタイミングで、すべてを就職活動に忙殺されてしまうというのが現状です。そうして日本の大学が特にだめだといわれているのは、企業が大学での勉強を評価しない→学生は評価されない大学での授業をおろそかにする→授業をきちんと受けてくれない学生たちにちゃんとした授業をする気がおきない教授→学生はつまらない授業を適当に受ける→企業が~というように、完全に負のスパイラルに陥っているというのが現状だと言われています。きちんと企業が大学での勉強の実態を評価する必要があります。それにはもちろん大学できちんとした授業をする必要があります。

 また、ニートやフリーターが増えている現状も見つめなければならないでしょう。企業側が求めているのは即戦力だとか、インターンシップや海外留学やボランティアをしてきた人物たち。私はこのいずれも経験していません。私はネット上でこのような評論活動めいたことをしていますが、これらは何も評価されないでしょう。だから結局私は何の強みもないまま就活をしなければならないことになります。私はまだ多少物事を考えることが得意ですからいいですけれども、そうした能力もない人々は何の武器、この作品で言えばカードを持たないまま就活をします。当然なんの武器もカードもない人間ははじかれつづけます。そうするとどうなるか、いくら強靭な精神を持った人でも、はじかれつづければ自分の全人格が否定されたような気がして、心がくじけてしまいます。結局自分はだめなんだ、社会には適応していないんだと自己判断し、就活を放棄、就職も放棄し、自宅に引きこもってしまうと言う構図なのです。
 とかく私が感じることはこの社会全体が若者を焦らせ、すべての自信やプライドをずたずたにしているということです。その点では本当に個人の力ではなにも、どうしようもありませんから、極めて腹立たしいと感じています。こんな状態で就活なんかしたいとは思いません。馬鹿がやることではないかと思えてくるのも事実なのです。

-SNSの問題-
 かなり激しい持論を展開しましたが、作者である浅井リョウ自身は執筆活動だけでも生活していけそうな気がしますが、就活をして見事に会社勤めをしています。そんな作者が、作品で示した一つの方向性は、物語最後に描かれますが、就活生の心持です。
 物語中盤では、SNSに映し出される現状を拓人は見事に考察しています。SNS,ツイッターやフェイスブック、ブログなどでは、どの人間もなんだか立派に見えるのが現代にはびこる人間の闇の部分だと私は感じています。拓人自身もまたそれに気が付いていながら、どうしても毒を吐かなければならない状態に追い込まれているのです。ブログ、ツイッター、フェイスブックこれらのSNSでは、どうしても自分を必要以上に飾りたててしまいます。それをしていて、あるいは見ていて人間のそうした過度な装飾に疲れてくるのを「SNS疲れ」と言うそうですが、例えばツイッターなどでは、誰々さんとお話させていただいた、とても刺激になるお話だった、何々に向けて一歩前進だと言った書き込みがあるとします。ツイッターのもともとの概念は個人的なつぶやきですから、本来はこれは誰かに向けてというより自分だけで所有すべき情報なのです。しかし、こうしたつぶやきは、自分自身ががんばっているという事を誰かに知ってもらいたい、尊敬されたいという欲求の表れでしかないのです。こうしたことを言っている私もまた、自分のツイッターで少しでも人に良く見られようと、ごくごくささやかな部分で言わなくてもいいことを言ってみたり、物事を大きく言ってみたりするのです。この拓人もまた友人たちのそうした部分を常に「見て」、馬鹿にしています。現在のツイッター使用者は、多くが二つ以上のアカウントを有していると言われています。この作中に登場する人物も2人が裏のアカウントを持っているのですが、一つ目のアカウントで外聞きのよいツイートをしている反面、もう一つのアカウントではそのアカウントが自分のだとわからないようにしたうえで本音をこぼしているのです。
 具体的にはこの作中では、たった一回あっただけで、名刺交換したくらいの交流のことを「人脈」と言ってみたり、ただのバイトを「仕事」と言ってみたりすることが指摘されています。
 この作品が見事なのは、一つはギンジという友人が、重要な人物であるのに最後まで登場しないという、一種ミステリめいた手法がとられているのと、常に傍観者でありつづける語り手の拓人の自分自身の本音はどこにあるのかという問題です。この拓人の本音は、最後に裏アカウントにツイートしていたことが作中であぶりだされるため、そこで読者は初めて拓人の人間性を垣間見ることが出来るのですが、決して拓人を笑えないのは、実は多かれ少なかれ、現代の若者、ないしSNSを利用しているユーザーが抱えているものと同じであるということなのです。

-終にでる本音-
 この作品はまた、話型としては最後に最大の盛り上げを持ってくると言う構図を取っています。最後を最大の盛り上げとした文学作品で有名なのは泉鏡花の「女系図」が挙げられます。泉鏡花もそうですが、最後に最大の山場を持ってくるのは、フィナーレという言葉がイタリア語であるように、西洋手な芸術の概念から来ています。オペラや歌劇などの影響だと考えられます。
 この作品でも、ずっと淡々と就活の描写がなされていくのですが、物語、ストーリーというものはあまり浮かんできません。この物語はどこに落ち着くのだろうかと読者は全く見当が付きませんが、就職活動での人の成り、SNSの問題等から、衝撃的な終末がやってきます。
 就職活動はいわばありもしないような人間になりきることに近いように、この作品を読むと感じられます。そのことが人間性、個性が失われているように隆良や主人公には見えたのでしょうが、自己分析というのは、自分が他人よりも少しでも優っている部分を探し、それを最大限に引き延ばして自分はこんなにも偉大だと見せなければならないのが就活の現状なのだろうと思います。それを「見て」、人間の愚かしい部分でも見た気になって辟易している拓人自信もまた、自分がそうやって企業や社会にこびへつらってでもやらないと現在の就活は乗り切れないと認められない弱い人間でもあるのです。そうしたことが、最後にすべてそれぞれの異なった考え方を持っていた5人の間で避けられない軋轢となって、激しい爆発が起こります。
 これまでずっと何かをしている人間になりきってきたそれぞれの人間が、それぞれに対してそれではだめだと本音をぶつけ始めるのです。
 「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんあそれをわかっているから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままあがくんだよ。だから私だって、カッコ悪い自分のままインターンしたり、海外ボランティアしたり、名刺作ったりするんだよ」「それ以外に、私に残された道なんてないからだよ」これらはすべて拓人がさんざん馬鹿にしてきた理香という女性による言葉ですが、この理香という女性は他人の裏アカウントを調べたりする陰湿な側面を持っていながら、最後は鮮やかに拓人に対して、また自分自身の反省も含めてその人間性を隠すことなく、本音をぶつけてきます。
 「思ったことを残したいなら、ノートにでも書けばいいのに、それじゃ足りないんだよね。自分の名前じゃ、自分の文字じゃ、ダメなんだよね。辞意ぶんじゃない誰かになれる場所がないと、もうどこにも立っていられないんだよね。」この一文は、非常に現在の若者の心理を突いた部分です。この一文だけでもこの作品が直木賞を取るに値すると思われるほどの鋭い分析です。この部分はこの作品のタイトルである「何者」という言葉ともリンクしてくるのですが、とかく現代の社会ではどうしてもネット上でいつもの自分ではない自分になるのです。そうして通常の無力で、誰にも相手にされなくて何の権限もない自分とは異なり、どこか強そうで、偉そうで、みんなに必要とされている自分を演じることによって、救われているのもまた事実ですし、反対のいいかたをすればそうしてでもいないとやっていけないのが現状なのです。SNSで自分のことを少しでもよく見せようとする人々は、やめたくてもやめられないのです。それは一種麻薬のようなものでもあるからですが、ではどうしてそうせざるを得ないのかという問題は、この社会が生み出しているのだと私は分析しています。つまり、若者はすべての自信、プライドというものを失ったのです。それは社会が自分たちを評価しないようになってしまったからということが大きいでしょう。だから、本当によく考えればちっぽけでうすっぺらいものであっても、SNS上だけでは何かとても重要な人物のように演じてしまうのです。

-最後に-
 「カッコ悪い姿のままあがくことができないあんたの本当の姿は、誰にだって伝わってくるよ。そんな人、どの会社だって欲しいと思うわけないじゃん」「私だって、ツイッターで自分の努力を実況中継していないと、立っていられない」
 この作品では、就活を通じて二つのタイプの人間が生じてくるということが如実にあらわされていると私は思います。物語の最後は意識高い系の理香と、高みの見物をしている拓人の二人による言葉の応酬になるのですが、極端に言えばこの二つのタイプに分かれるのだろうと思われます。あとの人々はこのどちらの属性が強いかということになるのでしょう。理香は、いくつか例を挙げましたが、学生なのに名刺を作ってみたり、それでOB訪問などをしてSNS上でもどんどん絡んでいくという、傍からみたら大変嫌な感じがする人物です。しかし、彼女もまた、それしか方法がないのだと必死なのです。その必死さが高みの見物をしている人々から見るとそんなにがっついてとひけて見えてしまうのです。そうしてもう一つは拓人の高みの見物をしているタイプ。これは自分が理香タイプのようにあくせくして、もがき苦しんでも就活をするのがどうしても耐えられないタイプです。あるいはもがいてでも就活をすることが出来ないとも言えます。いつまでも自分のやりたいことしかしたくないというタイプなのです。しかし、これはどちらも本質です。やはりここまで若者を追い詰めてまで就職活動というものをしなければならないのかと、ふと疑問を感じます。就職活動はなんのためにあるのでしょうか。企業側は人間性を見たいのでしょうか、しかしそれを強いている現状は、若者の人間性を大きくゆがめて、否定しているようにしか私には見えません。
 唯一救いとなるのは、最後に拓人が本音と本音をぶつけあった後、素の自分を出すことを恐れなくなったということです。ただ、それだからといって内定が決定するわけではありません。おそらく彼はこれから内定を落とし続けるであろうことが予測されます。他の人間がめくるめくアピールをしているなかで、素の自分だけで戦う拓人は、いわばほとんどアピールしないのに等しいのです。それでもそれを選択した時点で拓人は人間として成長したと私たちは心洗われますが、現実ではそれを突き通してもきっとうまくいかないことでしょう。ですから、この作品は就活をした人が読んで過去を振り返り、今に生かすという読み方もできますし、私たちのようにこれから就活する人間にとって、就活をするとは何なのか、どこに本質があるのか、自分たちが行っていることは本当にそれでいいのだろうかと問いかける、考える本にもなりますし、また団塊の世代、今ちょうど会社の経営者である世代の人々が読んで、これからの就職活動をどのように変化させていくのかという考える材料にもなる作品です。
 この作品は、現在の就職活動の現状を切り取っています。それを読み手である私はこの現状はおかしいと読み解いただけにすぎません。ただ、何が問題なのか、今現状がどなっているのか、それを是非多くの人々が考える必要があると私は思います。

朝井リョウ『何者』試論 感想とレビュー 「何者」から見る現代就活生の現状 ~1~

4103ZZZZ.jpg

-初めに-
 第148回直木賞を受賞した朝井リョウの「何者」。同時受賞は、安部龍太郎氏の「等伯」と、芥川賞では話題を呼んだ黒田夏子の「abサンゴ」です。メディアでは75歳の黒田夏子と、直木賞は戦後で最年少、平成生まれ初の朝井リョウという見出しで話題を呼びました。
 年齢が近しいということもあり、また今回の作品は現代の就職活動の現状を見事にあらわしていることから、今回は私個人の大学生としての感覚も取り入れての作品紹介、考察文にさせていただきたいと思います。
 私もこのような評論めいたものを書くような活動をしていますから、どうして朝井リョウのような私とほとんど歳のかわらない人間が直木賞を取るのだろうかと最初は驚きというよりも、多少嫉妬ににた感覚を持っていましたが、この作品を読んで直木賞を受賞した意味が理解できました。私の文学部での教授は、彼はこの作品を超える作品はもうかけないのではないかなと感想を述べられていたのですが、その点私も同意したくなるほど、すばらしい作品です。
 直木賞の概要だけ説明しますと、直木賞は芥川賞とおなじく、上半期、下半期に出版、発表された作品のなかからそれぞれ日本文学振興会というところが勝手に選ぶ日本で最も有名な文藝賞です。芥川賞が新人・純文学の作品に贈られるのに対して直木賞は著名・大衆的な作品に贈られる文芸賞です。ですから、私個人としては、何故浅井リョウに芥川賞をあげないのかなと思っていたのですが、ある意味与えそびれたのかなとも思えましたが、直木賞を与えるために時間的に稼いでいたのが実際だと思われます。この二つの賞はご存知の方も多いとは思いますが、応募できるものではありません。出版・発表されている作品のなかから、よさそうだなと思われるものが、選考会の委員のもとへおくられてきて、そこで決定するという、うがった見方をすれば、かなり厚かましい賞です。
 一般的に芥川賞は一発屋と言われているのが現状です。もちろん芥川賞をとってからも作家として活躍している人も多いですが、それだけで消えてしまう人も多いのもまた事実です。それに対して直木賞は、著名で、現在売れている作家、中堅作家に与えられる賞ですから、これははずれがないと言われているのが実情です。また文壇の世界でも、直木賞を与えるのは文壇全体が残しておきたい人間というようなまことしやかな噂があったりもします。どちらにせよプロパガンダですから、文学を学んでいる人間はそこまでシリアスには考えていませんが、文学作品を普段読まない多くの人たちにとっては有効な手段であることは確かです。

-作品紹介-
 この作品、若くない世代が読み進めて行った場合どのような感覚を持つのかまだこの本を読んだ別の世代の人に聞いていないのでわからないのですが、同じ世代にとっては本当に腹立たしい、神経を逆なでしてくるような感覚におちいりました。
 先ず装丁から見てみましょう。現代文学を評論する際には、ハードカバー本の装丁も見る必要があります。文學部での専門的な評論ではそのような点には触れることはできませんが、ここは自由に読み解いていく私個人のブログなので、そうした点にも注意して読んでいきたいと思っています。表紙は、タイトルの他、目だけ書かれていない証明写真の絵が羅列されています。この時点から、証明写真であるということと、事前知識として就活の話だという情報がありますので、就活をする若者が登場するのだろうということが予想されます。また、目だけ描かれていない人々の写真の絵は、タイトルの「何物」が示す通り、その人物が一体「何者」であるのか見当が付きません。
本のもくじにあたる部分には、ツイッターのアカウントらしきものが6つ掲載されています。この6つのアカウントは、この物語に登場する人物たちのプロフィールでもあります。ツイッターの自己紹介の部分が掲載されていることになります。もしこのブログ記事をお読みの方で、どのようなものかわからなければ、左上の私のツイッターを見ていただくと、私の写真とともに簡単な自己紹介がされていますから、それが掲載されていると考えていただくと良いです。
 このプロフィールの時点ですでに、若い世代の私としてはイラッとくるところがあります。いわゆる大二病と言われるものがありますが、それを満開にしたような感じがします。大二病とは、ネットスラングで、中二病の大学バージョンと認識しています。中二病の特徴は、自分の世界に入り込んでいたり、北欧神話系の名前をやたら使用したり、血とか、契約とか神とかそうしたものを日常にとりこんでしまっている痛い感じの人たちのことです。大二病はそれの大学バージョン。大二病で特徴的といわれるのは、例えばやたらインターンシップやボランティア活動をしているアピールとか、すぐに自分たちの学生団体をつくるとか、クリエイティブな仕事をしていることをやたら主張するなどです。アジア圏に一人で旅に出たりするのも大二病だとか。中二病にしろ、大二病にしろ、これらは基本的に自分は他人とは異なっている、自分は今の生活を充実して送っているという他人への優越感や差異化を図ろうとする心理から生まれるのだろうと私は感じています。

 そんな大二病満開なプロフィールを持った人々が登場します。物語は俺という語り手の二宮拓人という人物の一人称で語られます。学年は後々わかるのですが、ここに登場する人物はいずれも大学5年生。それぞれに理由があり、4年生で就職できなかった人々が登場します。語り手でもある二宮拓人は物語最後に明かされますが、一年間就活をして失敗し、内定をひとつももらえなかっためにもう一年就活をしているという状態です。こうした情報は開示されないまま、ルームシェアをしている友人光太郎との日常から物語は始まります。御山大学という(二年からキャンパスが変わることや発音が似ていることからも青山大学がモデルかとも思われますが、ちなみに作者は早稲田卒です)大学に通っている拓人と光太郎は、ルームシェアをしています。そうしてひょんなことから光太郎の彼女であった瑞月という女性を通して、おなじアパートの上の階で恋人同士で同居していた宮本隆良とその彼女理香と出会います。物語はこの5人を主軸として進んでいきます。
 物語初盤は、就活へ向けて準備をすることになります。語り手でもある拓人は、のちに自分でもそれを鼻にかけていたことが描かれますが、分析力に優れていると思い込んでいます。その彼は、面接の準備をする理香と瑞月をみて、「就活がつらいものだと言われる理由は~そんなにたいしたものではない時分を、たいしたもののように話さなくてはならないことだ。自分を騙し続けることになるスタート地点が早くなる分、面接を受けることにはもうその点のつらさに麻痺することができるかもしれない」と感じ、「心のどこかがもやもやと黒ずむのを感じた」とあります。就活に向けて一生懸命準備している就活一年目の彼女たちをみて、彼は自分が去年も就活をしたということもあり、「こんな、自分の未来を信じて疑わない目が、日本全国そこらじゅうにある。それだけで、きゅっと心臓が小さくなる気がした」と述べています。この時点から、既に語り手である拓人は、ともに就活をする仲間である二人の女性に対して批判的な眼差しを向けていることが描写されます。

-隆良にみる現代学生にありがちな思考-
 着々と就活の準備を始める友人の女子たちをみて、「海外留学にインターンに、両手が武器でいっぱいのその姿は、開戦が待ち遠しくてしょうがない兵士」のように感じている拓人は、そのどこから湧いてくるのか不明なプライドをただ見つめています。拓人は一貫して「見ている」人間であって、彼もまた就活生であるということが一人称の語りですから、見事に隠されています。
 また、この作品を貫くもう一つの大きなことは、SNSの問題です。「アドレス教えて、という言葉に含まれるどこか疑わしいニュアンスは、『ツイッターやってる?』『フェイスブック』やってる?という言葉によって過去のものとなった。アドレス以上の情報がこれでもかと詰まっているものなのに、俺たちは、誰かと知り合ったらまずSNSのアカウント名を教えあう」と指摘されています。また、この作品でしばしば登場するのが、先にもくじの部分で挙げられたアカウントのツイートです。このツイートの内容が作品内で重要な意味を持ってくるのですが、ツイートの内容をそのまま描写して、それに対する拓人の分析というものが、また痛烈な友人批判になってきます。こうしたツイートをそのまま描写するという手法は、作家柳美里の手法に似ている部分があると私は感じています。物語内での手紙の全文を掲載したりする手法はありましたが、00年代あたりからは、携帯小説が流行したこともあり、そこに掲載される作品内作品(メタフィクション)的なものが、手紙の内容からメールや、ツイッターになったということが、注目すべき点だと私は思います。

 この作品は最初に6つのアカウントが登場しますが、そのなかの一人だけが作品内では直接登場しないという構造を持っています。まるで「桐島~」を読んでいるかのようにも感じられます。浅井リョウの作品で最も有名になったのは、「桐島、部活やめるってよ」ですが、この作品の中で主人公たるべき桐島は登場しません。主人公たるべき存在が直接登場せず、飽くまでその周りにいた人物による語りで外堀をずっと埋め続けるという不思議な小説だったのです。この作品でも、主人公拓人の友人であり、また劇団で一緒に活躍していたギンジという男は、直接は登場しません。しかし、拓人は、ツイッターでギンジのつぶやきを「見る」という行為をしていて、それに対して「寒い」と判断しています。
 ギンジは自分がやりたいのはこんなことではないと、大学とサークルをやめ、自分一人で劇団【毒とビスケット】を創立します。そこに書かれている内容は、「~新しい劇団を創りました。そのために今、自分にしかできない表現方法を模索しています。舞台は無限に続いています。俺はそれをどこまでも追い続けたい」と確かに一般的に見ても少々何を調子のってしまっているのだろうかという冷たい批判をしたくなるような文章が掲載されています。このギンジのブログやツイッターを「見て」、拓人はその批判を自分の第二のアカウントや2チャンネルで誹謗中傷するのです。

 また、この物語を巡り登場する人物は誰もが拓人からみたら痛々しい人間。特に中盤の痛々しさの大部分を引き受けている上の階に住む、隆良理香のカップルは、彼の目を通してかなり痛々しく思えます。中でも隆良は「俺は就活しないよ。去年、一年間休学してて、自分は就活とか就職とかそういうのに向いていないって分かったから。いま?いまは、いろいろな人と出会って、いろんな人と話して、たくさん本を読んでモノを見て。会社に入らなくても生きていけるようになるための準備期間、ってとこかな。原発があんなことになって、この国にずっと住み続けられるのかもわからないし、どんな大きな会社だっていつどうなるのかわからない。そんな中で、不安定なこの国の、いつ崩れ落ちるかわからないような仕組みの上にある企業に身を委ねてるって、どういう感覚なんだろうって俺なんかは思っちゃうんだよね。いまちょうどコラムの依頼とかもらえるようになって、人脈も広がってきたところ。ていうか逆に聞きたいんだけど、いまこの時代で団体に所属するメリットって何?」と持論を展開する人間です。しかし、これは私自身こうした考えには、多少賛成すべきところもあり、また現代のちょっとうがった若者に多くありがちな思想です。この人物は傍から見ると「痛く」描かれていますが、こうした人物はかなり多くいるし、またそうしたリアリティーを作品内に持ち込めたということがこの作家の強み、若さと鋭敏な感性なのです。
この隆良の持論はさらに続きます。「突き詰めて考えると、俺は、就活自体に意味を見いだせない。何で全員同じタイミングで自己分析なんかはじめなきゃいけないんだ?ていうか、自己分析って何?誰のためにするもの?俺なんかちょっと色々引っ掛かっちゃうんだよね」「数うかつするタイミングも自分の人生のモットーも何もかも、会社のほうに合わせていくなんて、そんなの俺には耐えられない」「俺は流されてたくないんだよね、就職活動っていう、なんていうの?見えない社会の流れみたいなものに」
 ここで堪り兼ねたのか、ただ傍観して批判するだけの拓人が、語りの内部においてですが、これに対して自分の意見を表明しています。「就職サイトがオープンする十二月一日が近づいてくると、就職活動は個人の意思のない世間の流れだと言い始める人が出てくる。自分は就職サイトに登録しなかった、というさりげない一言を利用して、自分は就職活動に興味がないちょっと変わった人間です、というアピールをしてくる人が出てくる。まるで、興味、関心がないことが優位であるというような話しぶりで、『企業に入るのではなく、何者かである個人として生きていく決断をした』という主張をし始める人が出てくる。~やっぱり想像力が無い人間は苦手だ。どうして、就職活動をしている人は何かに流されていると思うのだろう。みんな同じようなスーツを着るからだろうか。何万人という学生が集まる合同説明会の映像がニュース番組などで流されるからだろうか。どうして、就職活動をしないと決めた自分だけが何か知らの決断を下した人間なのだと思えるのだろう。~たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、『就職活動をする』という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分はアーティストや企業家にはきっともうなれない。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の『何者か』になれるかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。『就活をしない』と同じ重さの『就活をする』決断を創造できないのはなぜなのだろう。」
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
333位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
17位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア