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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』試論 ~2~ 感想とレビュー 作品を読み解く

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-つくるの人物造形-
 少し無理な読み方をしましたが、次に作品内に入っていきましょう。この小説は、三人称多崎視点で物語られる作品です。主人公は多崎つくるという男性。この作品で何度も登場するのが人物と色のモチーフです。多崎つくるは、中学高校時代に、一生に一度得られるか得られないかというくらい運命的な共同体を気づきあげます。そこのメンバーは赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒栞恵理と多崎つくるの五人です。今までガールフレンドと二人きりだとか、共同経営者だとかで春樹作品に登場する主要人物はそこまで多くありませんでした。多くて3人くらいでした。それが一度に56人の主要な人物が登場したということからも、春樹作品の例外的な作品であることがわかります。
 この作品で印象的なのは、そこに登場する人物がそれぞれの色(カラー)を持っていることです。ガールフレンドの木元沙羅だけは例外的に色を有していません。それ以外に登場する人物たち、五人のグループではつくるを除いて、アカ、アオ、シロ、クロとそれぞれの名前に色が含まれていて、学生だったころのつくるはそのことを羨み、みなそれぞれ特有の個性を持っていることがとても素敵で、そうして自分にはそうした色や、特徴がないことに引け目を感じていました。
 つくるが、五人のグループから突然切り捨てられてしまったことから、彼は生に対する興味関心を失います。死の深淵まで自然に向かっていったということが、この作品の冒頭で語られることですが、彼は一度死を間近に見たのです。
 この作品は体の一部のようにも思えた共同体から切り捨てられたショックをずっと隠し、忘れようとしてきたつくるが、16年という歳月を経て、どうして自分が切り捨てられなければならなかったのか、その理由を探す旅になります。それが象徴的にはリストの『巡礼の年』ということになります。この物語の形は、自分が触れられなかったものにもう一度挑戦し、人間として成長していくという教養小説(ビルドゥングスロマーン)としても読めますし、自分を切り捨てた理由を探し求めるというミステリー小説としての側面からも読むことができます。

 多崎つくるの性格付けはこの作品内記号を用いて説明するとすれば、駅になるでしょう。彼はエンジニアとして駅を名の通り「つくる」仕事をしていますが、その駅という性質が彼を苦しめたのです。つくるが駅だとすると、他の登場人物、特にメンバーたちは何にたとえられるでしょうか。一つには駅を利用する人々、もうひとは駅に到着する電車たち。このどちらの解釈でも通用するのですが、それぞれ人々は自分の目的地があり、そこに向かって常に動いています。しかし、つくるはそんな人々が利用する駅のような性質を持った人物だから、自分が動いていないのがひどく不安でならないのです。回りの人物たちがそれぞれに自分たちんの進みたい道、目的地を歩いているなかで、自分だけが停滞しているように見えたのです。
 全く理由を聞かされないまま切り捨てられたつくるは、自分には色がなく、特徴がないからだと彼は解釈します。そのために、常に自分は色彩がないので、価値がない人間だと思い、現在において沙羅という年上のガールフレンドを相手にしていても、どこかうつつを抜かした感じがしてしまうのです。そうしてそれを女の観で見抜いた沙羅は、過去の未解決の問題と向き合うように差し向けるのです。

-余計なもの、欠いたもの-
 村上春樹文学に登場し重要な役割を果たすのは、どこかしら余計なものを持った人物か、ある欠損を抱えた人物です。過去の作品では、片腕がない人物が登場したり、片手、片指、片足がなかったり欠損がある人物が印象的でした。また、どこか「夢(春樹作品においての夢は重要なモチーフ)」を現実レベルまで引き下げてそのなかで影響を与えることができるような超能力ににた力を持った人物も多く登場しています。
 そうした登場人物の特徴はこの作品でも現れます。この物語のなかで最も印象に残るのは、6本指の話でしょう。作品内の情報によれば、P212から数ページにわたり、6本指自体はそれほど珍しいものではないらしいということが述べられています。その人よりも多いもの、余計なものを持ってしまった人物がこの作品では超能力的な何かを持っている可能性があります。過去②において、大学三年生であった多崎つくるは、一人の友人を持ちます。P55「灰田文紹(ふみあき)」という二歳下の友達です。この人物は345章と、灰田の父の語りを含めて78章と合計で5章分しか登場しませんが、この謎の人物が私には象徴的な意味があると感じています。
 灰田の父親は、灰田の語りによれば60年代の後半にP112「九州の山中の温泉でであった、緑川というジャズ・ピアニスト」という人物と交友を持っています。この緑川という色を持ったピアニストは、灰田の父に対してある不思議な話をします。「悪魔」という言葉が登場するのもこの話のくだりです。緑川自身は悪魔のようなものと解釈し、「トークン」だと言います。そのトークンとはP89「死を引き受けることに同意した時点で、~普通ではない資質を手に入れる」ことができる「特別な能力」です。「人々の発するそれぞれの色を読み取れるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にあるのは、~知覚そのものを拡大できるということだ」そうで、「知覚は混じり気のない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして~普通では見られ逢い情景を俯瞰すること」ができる能力です。そのトークンが一体どんなシステムなのか、もし人に譲らないで死んだ場合はその死んだ者と同時に消えてなくなるのか、あるいは他の誰かに引き継がれるのか、全く謎ですが、この命を代償に短期間するどい知覚の能力を手に入れることができるものが存在するのだというはなしが登場します。この話は、過去②の灰田が、さらに自分の父親が若いころの過去の物語を語っているという構図になりますが、語り手である灰田が、その人物造形のなかから信頼にたる人物かどうかが判断の難しいところです。
 少なくとも、感のようなものには優れていないと自覚している多崎でさえも、P113「ミスター・グレイ・灰色は白と黒を混ぜて作り出される。そして濃さを変え、様々な段階の闇の中に容易に溶け込むことができる」人物だと感じています。

 灰田の父がであった緑川というジャズ・ピアニストはトークンを有しており、そうして灰田父の前で演奏した際に、P77「緑川はショルダーバックから小さな布の袋を取り出し、それを注意深くピアノの上に置いた。上等な布地でできた袋で、口のところを紐で縛るようになっていた。誰かの遺骨なのかもしれないと灰田青年は思った。」とあり、この緑川が置いた袋には、もしかしたら六本目の指が入っていたのではないかと、話を聞いてから15年ほど経った現在において多崎は解釈しています。この緑川というピアニストが実際に六本指だったのか、それを切ってその袋に入れていたのかは全くの謎ですし、テクストからはわかりませんが、特別な能力を手に入れるにあたって、そうした人とは異なった部分があったと象徴的に考えられうると私は思います。そうして、この話は灰田によって、60年代が舞台となっていますが、灰田はその行動の謎の多さからいっても信頼にたる人物ではありません。そうしてそれを多崎もまた感じており、もしかしたら灰田は自分のことを父に仮託して話しているのではないかと疑っている部分もあります。多崎の疑いが正しいとするならば、灰田はおそらくここで自分の経験を語っていたのかもしれません。そうして、灰田の話では緑川とうピアニストはそのままトークンを渡さずに消え去りましたが、灰田は実はこのトークンを引き継いでいたのかも知れないと解釈できると思います。

-何故シロは死んだ-
 この小説が最もミステリ要素を帯びてくるのは、友人たちを巡っていくなかで、かつてグループ内で最も美人だったシロことユジが殺されていたという事実です。その答えを求めて多崎はシロの女友達であったクロのもとへはるばるフィンランドまで行きます。結論から言えば、このテクストのなかからは、だれにシロがレイプされたのか、なぜシロが殺されたのか、誰に殺されたのかはわかりません。
 ただし、そこを埋めていくような解釈をすると、恐ろしい解釈ができるのではないかと私は考えています。友人たちから切り捨てられたから、つくるは夢のなかで、シロとクロが二人出てくる性夢を見ます。その中ではつくるは二人を平等に扱っていたはずなのにも拘わらず、彼の意志とは反対に必ず射精はシロの中でします。この性夢を見ていたことが、シロがつくるにレイプされたと言う嘘を流していたことを知った際に、多少心にひっかかるものを感じさせます。
 春樹作品の特徴は、夢が現実にも少なからず影響を持つ可能性があるという点です。この作品でも、つくるが夢のなかでみたことは、現実と区別がつきにくいことがあったりと、ある程度夢と現実がどこかしらの領域でつながっている可能性が示唆されています。自分がシロをレイプした記憶や事実などは全くないとおもっていながらも、どこか自分の夢と彼女の夢がつながっていて、夢のなかでレイプしたということが彼女に伝わってしまったのかもしれないと悩みます。
 また、灰田という謎の人物の夢か現実かわからないことが起こったこともつくるにすくなからぬ影響を与えています。灰田は男性ですが、夢か現実か区別がつかないなかで、シロとクロを相手にしている最中に、射精したら、じつはそれは灰田の口のなかであったということがP118で描かれています。灰田という存在を象徴的に考えるとしたら、シロとクロを混ぜたものということから、灰田はシロとクロ両方が作り出した幻覚(それはつくるが作り出したとも考えらえますし、シロとクロの二人が作り出したとも考えらえます)だと解釈することもできます。あるいは灰田という人物は実際にいたのかもしれません。

シロが突然自分がつくるにレイプされたと言い始めた原因をクロとつくるは考えますが、明確なこたえはでてきません。つくるはこれに対して、完全調和が保たれていた関係性にひびが入っていくのをあまりにも繊細な感覚を持っていたシロが見るに堪えなかったのではないかと解釈しています。
P304ではエリがユズ(シロ)のことを「あの子には悪霊がとりついていた」と言っています。この悪霊は、どこか悪魔と似たイメージがあります。そうすると、もしかしたらユズ(シロ)もまた、緑川と同じように、「トークン」を持っていたのかもしれません。彼女は自分の欲しい能力をいくら頑張っても手に入れられない状況のなかで、悪魔的な契約をかわし、だれよりもするどい感性をトークンとして所有していた可能性があると私は思います。ですから、そのするどすぎる感性によって、調和が保たれていた友人たちのグループが壊れていくのを見ていることができなくなり、先にシロの方が耐えられなくなって壊れてしまったのです。緑川の場合は2か月でしたが、シロに残された時間は3年ほどだったのでしょう。シロが殺されたのは、そのトークンを誰にも渡せずに、最後の期限まできてしまったからです。そうして誰が殺したのかという問題は、ト-クンという言葉とともに登場した最も謎な人物灰田ではないでしょうか。
トークンは死と引き換えに能力を得られるものだと解釈すると、トークンの売買をしている悪魔的な存在が、死の深淵までやってきたつくるに対して交渉するのはなんの不思議もありません。もし、灰田が悪魔的なトークンセールスマンだったとすると、つくるにトークンを売りに来たものの売れなかったので帰って行った、その前にはシロにトークンを売っていたというようにも解釈できます。ですから、そのトークンの有効期限が切れ、回収しにきた灰田的な存在にシロは殺されたのだと私は考えています。
 
-終わりに-
 つくるが作っていた駅は、象徴的にはつくる自身だったのです。つくる以外の色彩を持った人物たちは、駅を利用する人々や列車にたとえられます。つくるは、人々が駅で重大な事故が起きて危険にまきこまれないように常にチェックし、問題があれば修正している存在です。つくるは、こんどは沙羅という人を向かい入れるために、沙羅に対して問題のある部分をつくりなおしていたというのがこの物語のストーリーではないでしょうか。
 震災やサリンという事件を絡め、またつくる自身が感じているように人生の警句や省察に対してはあまり良い意味を見出していないのにも拘わらず、最後の章でずいぶんメッセージ性の強い部分が現れているのには、少し違和感がありますが、それだけ作家レベルで話をすれば村上春樹は過去と向き合えと言っているのかもしれません。
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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』試論 ~1~ 感想とレビュー 春樹文学を読み解く

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ちょっとしばらく更新を怠ってしまい、申し訳ありません。忙しいと言う言葉は使いたくないのですが(人が亡くなると書いて忙しいですからね)、ちょっと優先すべき事項がいくつかありましたので、滞りました。前回の記事にはたくさんのコメントありがとうございます。これから返事をさせていただきます。今回は新鮮なネタを用意してきました。お楽しみください。

-初めに-
 今最もノーベル文学賞に近い作家としてその動向が注目される作家村上春樹の3年ぶりの長編書下ろしが発売されて話題になりました。前作の『1Q84』から3年が経ち、前作と同様発売前にはその内容がほとんど知らされないということが話題になりました。通常本を買う際には、一般の読者は物語(ストーリー)を求めて購入していると感じるかもしれません。ですから、本の紹介にはその本がどのような内容なのか、あるいはどのような感情をもたらせてくれるのか、例えば「涙なしには読めません」という文句が帯に入っていれば感動できるのだなと思って購入する場合もあるでしょう。しかし、この本が証明しているように、実は本というのは物語がメインで購入の動機が決定するわけではないのです。
 一つにはもちろん現在の日本の小説家の中で最も有名なのは村上春樹だという認識があります。これは日本人の良い面でもあり悪い面でもあるのですが、とにかく有名な人のものはいいものだろうと認識するところがあります。しかし、これは非常に危険なことで、村上春樹は確かにビッグネームになってしまいましたが、だからと言って本当に彼が書くものが全ていいものだとは限らないということです。私が言いたいのは、他人の意見に追随しているだけで考えを放棄するのはやめて、自分でこれが良いものなのかどうかを判断する力を個人個人が身に着けて行かなければならないということです。
 二つ目に、これが私の言いたいことなのですが、実はストーリーというものはあまり重要ではないということがあります。例えば男女の物語だとすると、誰がどのように書いたとしても基本的には6通りのお話しかできないということがよく言われています。1、めでたく結ばれる。2、別れる。3、男が死ぬ(消える、その他)。4、女が死ぬ(消える、その他)。5、両方死ぬ(例、ロミオをジュリエット)。6、よくわからない(消息不明)。途中でどのようなことが起ころうとも、男女の物語は大体この6種類ほどに集約されます。これがいくつか重なって複合的になっているので私たちは物語を読んでいるんだと考えがちですが、実は物語の数は意外と少なく、私たちが読んでいるのは物語の種類というよりも、文体だと言うほうが近いのかもしれません。文体という言葉には、もちろん物語の運び方も含まれるし、何人称の語り手だとか、言葉遣いや書き方、例えば論理的な一般論が多いとか、が含まれています。
 物語内容が公開される以前から、何万部もの予約が殺到したり、購入のために並んだりと初版の50万部がすぐに売り切れるほどの大盛況だったのには、私たち読者は村上春樹の文体を読みたいという思いが反映されているのだと思います。中には村上春樹は肌に合わないという人もいますが、それは自分が好きな文体と村上春樹の書く文体が異なっていたということなのでしょう。村上春樹の文体は確かに何かを翻訳したかのように非常に読みやすく、淡々とした文体です。それは別の側面からみれば、重厚さに欠けているとも飄々としているとも言えます。私自身は、村上春樹の文体は好きですが、あの不思議な言い回しは読んでいて奇妙な感覚を得るものです。

-春樹文学を読み解く三つの視点・あるいは・無口↔多弁・音楽-
 村上春樹の作品を読み解く際にどのようにして読むのか、どこに注目して読むのかということが問題になります。生きている作家のなかで、現在最も多くの研究者が論文を書き、研究されているのは村上春樹です。私は学科柄そうした論文を目にするところにいるのですが、近現代の小説を研究している学者であればかならず村上春樹の作品の論文を提出しているような状態です。何故ここまで研究が熱心にされるのかというと、一つは作品のもつ多義性だと考えられます。読みやすいのだけれど、どこか核心を隠しているような感じがするのが春樹文学の特徴です。あそこはどうなったの?あの謎が解決されたようには思えないけれどという作品の隙間(いい意味での)がそこかしこに散りばめられています。ですから、研究者にとって俄然やる気がでるテクストなのですが、一般の読者からしたら肩透かしを食らったように感じられるかもしれません。
 今回の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(以下「多崎~」)』はどこに注目して読んだら良いのでしょうか。少し私の読み方を紹介してみたいと思います。
 まず最初に、村上春樹の文体の特徴である「あるいは」の使い方から。あるいはという言葉には、文法的に考えれば二つの使い方があります。一つは副詞として、一方や、ひょっとしたらとして、もう一つは接続詞としてもしくはの意味でも使われています。ここに文学的な意味を見出すとしたら、多数ある選択肢の中で、あるひとつのことを選んできたという意味にも解釈できます。人生は選択の連続です。そのことを作中ではアカがP207で爪を剥ぐたとえ話をして、「おれたちはみんなそれぞれの自由を手にしている」と述べています。ここには、アカが自分で道化を演じているとわかっていながらも、新興宗教じみた育成プログラムを行わなければならないという、自由を手にしていながらも不自由をも同時に手にしているという人生の省察が含まれていると解釈できます。
 作中で何度も対話をしている際に「あるいは」が登場するのは、あるいはもし、あそこで違った選択肢を選んでいたらという、人生におけるifの話をしているということになります。シロことユズが無残な最期を遂げたことを多崎とクロことエリが話している最中では、エリはもし自分がユズのそばにいてあげられたならというifを語ります。しかし、その時点でユズのそばにいてあげられたとしても、P312「またいつかどこか別の場所で、同じようなことは起こっていたかもしれない。君はユズの保護者じゃないんだ。二十四時間付き添っているわけにはいかない。君には君の人生がある。できることには限りがある」と多崎はのべ、また他の部分からも推測できるように、多崎は人生というもののある程度の収束性を意識しています。誰が何をやっても、どのような形であれ結果として引き起こされることは類似してくるということを多崎はさとっているのです。
 
 村上春樹文学は、大別して二種類の主人公に分けられます。主人公無口タイプと主人公多弁タイプです。前者は春樹自身が若かったころの初期作品に多く、後期の作品には多弁な主人公が多く登場しています。一般的に、村上春樹が若くして活躍している時代からのハルキスト(村上春樹文学のファンのこと)たちは、無口タイプが肌にあっているようで、割と年齢の高いハルキストの方の話を聞いていると、多弁なタイプ(1Q84など)はあまり肌に合わないようです。私のように若くして、後から春樹の文学を追っていったような世代には、『1Q84』の影響もあり多弁タイプのほうが親しみを感じているようです。今回の「多崎~」に登場する多崎つくるは無口タイプですから、これからこの本を購入した人たちの動向が気になります。評価していれば、無口タイプでもOKな人だということが考えられますし、つまらなかったとか否定的な感想を述べている方は、きっと無口タイプがだめな多弁タイプが好きなハルキストたちでしょう。

 また、春樹文学の特徴はなんといっても文章中に登場する音楽。村上春樹の文学は常に音楽と切りはなして考えることはできません。小説というものは、一般的に考えれば文章という言葉の羅列のなかにどのようにして生き生きとしたものを組み込むかが作家の模索するところになりますが、春樹はそれを音楽を文章に内包することによって、独自の文学を形成させたと言えるでしょう。初期の作品には料理をする主人公の姿がよく表れましたが、今回はほとんど主人公は料理をしませんでした。
 今回登場した音楽はフランツ・リストの『巡礼の年』。Années de pèlerinageはウィキペディアによると「《第1年:スイス》《第2年:イタリア》《ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)》《第3年》の4集から」なり、「20代から60代までに断続的に作曲したものを集めたもので、彼が訪れた地の印象や経験、目にしたものを書きとめた形をとっている」ようです。風景描写の音楽というわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E3%81%AE%E5%B9%B4

P202「シロがよく弾いていたピアノの曲~リストの『ル・マル・デュ・ペイ』という短い曲だけど」と多崎が述べたシロが弾いていたであろう曲をYouTubeから引用しておきます。


-作品内時間に仕組まれた巧妙なトリック-
 この作品の物語内時間がいつなのかという問題があります。その前に、読みの面白さですが主人公がどこに住んでいるかはこの物語では明らかにはなりませんが、何の沿線かはわかります。P42には多崎が日比谷線に乗って帰ることが書かれています。
 さて、物語内時間ですが、P45で、ここは現在の時間軸から、過去のことを省みているという構図ですが、死にかけて7キロも体重を落とした彼が自分の姿を見た際に感じたものは、「巨大な自信家、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離さなくなってしまった人のように」自分の姿を見ていたと述べています。もちろん、当時はそのように思ったはずはありませんから、回想している現在において、鏡を見た時点以降の記憶によりどころを見つけているということになります。このことから、回想している現在は、恐らくあの震災の後ということがわかりますから、2011年、2012年か2013年ということになるでしょう。2011年か2012か2013年の現在において、主人公の多崎つくるは36歳という設定です。
 この作品は三つの時間軸が重なり合って構成されています。
一つ目は2011・2・3年の現在。36歳
 二つ目は現在から16年前の大学二年生、1995・6・7年。過去①
 三つめは、過去①の翌年、灰田との思いで。1996・7・8年、過去②

 この作品で唯一登場する西暦は1995という数字です。P349で「悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」という部分がありますが、これは作家である村上春樹のことを含めて考えると、地下鉄サリン事件のことを述べていることは間違いありません。村上春樹は彼の著書『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件のインタビューをノンフィクション化した作品を執筆しています。
 1995年という数字を重要視するならば、その時点で多崎つくるは、地下鉄サリン事件で多くの人間の尊い命が奪われるなかで、彼もまた自分の身体の一部であった友人をなくしたということになります。そうして1995年に多崎つくるが20歳だと仮定すると、36歳である現在は、2011年という数字になるのです。ここに震災の影響がうかがえると私は考えています。この多崎つくるという存在は、1995年には地下鉄サリンとともに友人を無くすという象徴的な出来事があり、2011年の現在において、かつてなくしたものを再び見つめなおすという行為をしようとしているのです。
 ここにメッセージ性を見出すとしたら、この作品もまた、3・11以降続いている3・11文学と捉えることができるかもしれません。多崎つくるのガールフレンドである沙羅はP287「記憶に蓋をすることはできる。でも歴史を隠すことはできない」と述べています。ここに重点を置くとすれば、地下鉄サリンにしても、震災にしても、忘れることで解決しようとするのではなくて、時間がかかってもいいからそれらの問題と向き合わなければならないというメッセージだとも解釈できます。
 さらに多崎つくるという人物を象徴的に日本と捉えた場合は、今まではずっとサリンにしても震災にしてもずっと蓋してみようとしていなかったけれども、どうしてもそれではおかしな部分が生じてきている、それを見つめなおす時に来ているのではないかとこの作品は述べているようにも考えられます。多崎つくるが日本だとすると、沙羅は村上春樹と言ったところでしょうか。

 文學とは何か? RPG(ロールプレイングゲーム)は文学か?

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 さて、今回扱うテーマはRPGは文学か?という問いから発生して、文学はどこまでがその分野に入るのだろうかというジャンルの定義づけの問題です。私の薄弱なる知識、考えでは限界が生じましたので、このブログに訪問してくださった有識のある皆様に是非、コメントしていただき、考えを深めていきたいと思っています。皆様の考えをお書きください。

-初めに-
 以前から私はRPGは文学だと考えて来たのですが、大学でもいよいよ専門的な勉強になってきて、文学とは何かということをより深く考える必要が生じてきたために、一度整理、再考することになりました。
文學とは何かという問いを立てた際に、これは文学であるという作品を類型化して考えてみると、いくつかの文学の定義が見えてきます。

・言葉を使用した表現である
・物語(フィクション)である
・「本」というメディアである

 このように考えた際に、いくつかの反論が生じてきます。・言葉を使用した表現であるという定義を考えると、では言葉が使用されていない作品は文学ではないということになるのでしょうか。例えば絵画。言葉がありません。おそらく絵画は誰が考えても文学ということにはならないのでしょう。
次に・物語(フィクション)であるという点について。たとえ言葉によるものであったとしても、電子家電のマニュアルや法律、憲法と言ったものは文学とは呼べないと思われます。文學という定義の内には、その作品がなんらかの物語を有していて、フィクションだと受け手が考えられる必要があるようです。マニュアルに書いていることがフィクションで、こうした動作をしてもそこに書いてある通りにならなかったり、あるいは法律がフィクションで、人を殺しても別に刑罰には処せられないなどということがあってはなりません。マニュアルや法律というものは紛れもなく現実なのです。
 次の「本」というメディアであるという定義、これは多少問題があるようです。前提として文学史の教科書に掲載されている作品は文学と捉えてもいいだろうという地点から出発していますが、例えば『万葉集』や『古今和歌集』などを考えてみましょう。これらの作品は誰が考えても文学ということになるでしょう。言葉を使用していますし、フィクションですし、本の形態です。しかし、今現在は確かに「本」という形状をしてはいますが、今から約1000ほど前には本としては存在していなかったでしょう。長い年月を経る間に、それぞれの断片化された和歌が集められ、そうしてそれが本の形態になったに過ぎないのです。こうした和歌一首を取り上げた際に、それは本の形態ではないから文学ではないという事ができるでしょうか。おそらく和歌一首だけ取り上げたら文学ではないということにはならないでしょう。和歌はたとえ一首であっても文学と考えることはできると思います。
ここで少し難しい部分のお話をします。絵画は文学ではありません。しかし、漫画はどうでしょうか。絵にちかい状態から考えると、漫画も文学ではないと考えることが出来るかもしれません。しかし、反対に言葉の観点から考えて行くと別の見方ができます。例えば絵巻物を考えてみましょう。一口に絵巻物といっても多様な種類があるのですが、一般的には文章と絵が交互に描かれています。文章でストーリーが語られ、そこにどんな状態なのかという挿絵が入るという感覚です。絵と文章の割合は、文章が多い現代の挿絵の感覚のものもありますし、絵のほうが多く、それに文章が添えられているようなものもあります。しかし、おそらく多くの方が、絵巻物を出されてきたら文学だと考えるのではないでしょうか。私も文学だと思いますし、文学の研究者のなかには絵巻物語を研究している学者さんもいますから、文学と呼んでも差し支えないと思います。これを考えると、漫画という媒体は、絵がメーンではありますが、きちんと言葉も含まれているので、「文学」だという事ができるのではないでしょうか。小説に挿絵が入っているものも文学と呼べるのならば、絵が多くなったとしても言葉が漫画における一般的な量があれば文学と呼ぶことができると私は思います。

-ゲームのアンチ文学性-
 アニメは文学でしょうか?漫画が文学と言ってもいいだろうというところまで来ましたが、今度はアニメです。私の論では、漫画の絵を動かす、すなわちアニメーションにしただけであるので、これも列記とした文学であろうと考えています。
 なかでも文学部で最もよく研究されるアニメである『新世紀エヴァンゲリオン』は文学と考えても差し支えないだろうと思われます。
 この論を続けていくと、そのアニメーションの主人公を自分がコントロールすることが出来るようになったものがゲームですから、ゲームも文学という事ができるのではないかということになります。ゲームには、言葉が使用されています。どこそこの町に行って、住人たちの話を聞き、物語を進めていく。RPGは、当然フィクションですし、そこで行ったことが現実になるとは限りませんし、誰もがフィクションと考えてゲームをプレイしています。
 しかし、私が多くの学生と話していて感じたことですが、どうも一般的にはゲームは文学だとは考えづらいという傾向があるようです。その要因はなんでしょうか。例えば、分岐するという点。RPGでは、時に主人公の選択によって物語が分岐するという場面が登場します。ただ、ほとんどのゲームの場合は、ドラクエなどを考えると主人公の選択というものはほとんど物語には影響しません。中には、主人公の選択によって物語の最後が異なるという、よく作りこまれた作品もあります。どうやら、一般的にはこの主人公の選択によって物語が変質するという部分が文学ではないという感覚につながるようです。しかし、これに対する反論としては、少し専門的な話をしますが、1980年代ごろから主流となった文学研究の手法でテクスト論的、記号論的な考え方というものがあります。それは、テクスト(小説)をいったん作者から切り離して、作品そのもの自体を取り扱おうと言う考え方です。この考え方は、それまで作品が作者の所有物として考えられていたものを、読者の自由な解釈によって、読者が主体的に創造していく創作的な活動であるという新しい読み方を提示しました。ある作品Aがあったとしましょう、たとえ同じテクストであったとしてもこれを10人で読めば10人の読み方が生まれるということは当たり前なのですが、おわかりいただけるでしょうか。例えば主人公に感情移入して読む読み方もあれば、主人公の恋人に感情移入して読む読み方もあるでしょう。あるいは主人公は嫌な奴だと感じながら読む人もいますし、時には自分の過去の経験を思い出しながら読む人もいれば、今後の自分の行動を考えながら読む人もいます。実は、ひとつの作品を読んでいても、それぞれが主体的にその作品を自分の読み方で読んでいるのです。この点を考えると、主人公が選択して物語を進めると言う形式は、ゲームという媒体のなかでは明確に分岐として現れますが、実際は私たちも小説を読む際には自分の読み方を選択しているということになるのです。ですから、この分岐ということがそれだけでゲームは文学ではないという証明になるかというと、それだけではなりそうにありません。

 RPGは文学なのかという問題ですが、少し別の観点から見てみましょう。ではアクションゲームはどうでしょうか。これは、RPGは文学だと主張している私も流石に文学であるとは言えない気がします。シューティングゲームなどには、確かに作戦を立てたり、どのような状況かを説明したり、あるいはその戦闘がはじまるまえには各国の情勢など歴史的背景があったりします。単純なアクションゲームであれば、文学ではないだろうと考えることが用意ですが、これがメタルギアのような作品になってくると、ちょっと答えが出てきません。確かにアクションゲームでしょうが、RPG的な要素もある。しかも、映画的であります。
 映画は文学か?ということを考えてみると、おそらく広い意味の文学のなかには映画も含まれるだろうと考えられます。映画と文学は別物だとは断言しきれないのが現状ではないでしょうか。現代文学の作品は、多くが映画化されたり、アニメ化されたりしています。ですから、映画化された作品も、アニメ化された作品も純粋な文学とは言えないまでも文学となんらかのかかわりはあるであろうということが考えられます。時には、映画やアニメが先行し、それがノベライズ化されることもあります。そうした場合、その作品には文章化できる物語が内包されていたということになりますから、おそらく文学的な作品だということまではできるのではないでしょうか。
 音楽は音楽です。クラシック音楽は文学とは言えません。しかし、ポップミュージックなどはどうでしょうか。現代のアーティストたちが歌う歌は文学ではないと言えるでしょうか。あの歌詞をみるととても詩的で素晴らしい作品がたくさんあります。歌詞のみを取り上げた場合は当然文学ということになりますが、それに音楽が加わった場合、突然文学ではなくなるのでしょうか。先ほど取り上げた例で、『万葉集』を再びあげてみましょう。『万葉集』は和歌の集まりです。当時の和歌は当然なにかしらのメロディーに合わせて歌っていたと考えられます。それが文学ではないとは考えらえないことからも、どうやら歌は文学と言ってもよさそうだという考えになります。
 映像が付き、音楽が付いても、おそらく物語であり、言葉を使用しているという観点からも、映画は文学と呼ぶことができるのではないでしょうか。また、映像を動きと捉えてみると、動きと音楽という点では演劇も文学に入ってきます。また、文学史の教科書には演劇の作品も掲載されています。このことからも、演劇は文学と呼ぶことができるでしょう。その演劇を場所を変えて、カメラを使用して録画したものが映画ですから、やはり映画も文学のうちにはいるのではないでしょうか。
 話を戻しますと、映画は文学と呼ぶことができそうです。では映画的なRPGであり、アクションゲームであるメタルギアは文学なのでしょうか。私は一応文学だと言いたいのですが、これはどうも煮え切りません。みなさんの意見をお聞かせください。
 ではドラクエやファイナルファンタジーは文学なのでしょうか。私は以上のような理由から文学と呼ぶことができると考えています。

-さらに考えるための指標-
 さらに、この問題にやっかいで、重要な観点を持ち入れたいと思います。それは娯楽と芸術という観点です。なんでもいいですが、例えば漱石の作品は、娯楽というよりは芸術という側面の方が強いように思われます。森鴎外だったり、谷崎であったり、太宰であったり、どれも娯楽作品だというよりは芸術だと考えられるようです。これらの作品はだれが考えても文学でしょう。では、最近のミステリ小説、東野圭吾などは文学なのでしょうか。娯楽小説として書かれたこうした作品は、読んでいた楽しいですし、言葉による作品ですし、フィクションです。しかし、どうも文学作品だと言うのにはどこか抵抗があるような気もします。娯楽のために作られた作品というのはどこか文学的でない感じがするのです。
 そうするとゲームはやはり娯楽ですから、文学的でないと感じる人もいるでしょう。おそらく多くのゲームは文学ではないと思っている人はこうした考えがあるからではないでしょうか。
 これ以上の考察を現在の私の力ではできないため、考えを深めるため、また新たな視点や考えを確保するために、どうか皆様の意見をお書きください。RPGは文学なのか、または文学とは何か、どこまでが文学なのか、それぞれ自由に意見してください。私の論に対する反論なら、なおさら待ち受けています。

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~6~ 感想とレビュー 最後に

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-最後に、胎内回帰と近親の戦い-
生命というテーマから翻って、最終的に私はこの作品は胎内回帰願望の物語として読めると解釈しました。黄川人が京の人間と神々に対して飽くまでも復讐することにこだわり続けた原因、あるいは要因はなんなのかということを考えてみますと、その原動力は自分が帰るところであった母を取り上げられた、殺されたということになると思います。
黄川人が母であるお業と離ればなれにならなければならなかったのは、まだ赤ちゃんのころです。ですから、彼は最後まで母親の愛情というものに触れることができなかったのです。ですから、心理学のエリクソンのライフサイクルを参考に考えれば、黄川人は人生の一定の時期に克服すべき課題を、両親の愛情が受けられず、あまりの不遇によってすべて達成できなかったということになります。乳児期においては不信感を獲得、幼児前期では恥辱感を獲得、幼児後期では罪悪感、児童期では劣等感などです。
黄川人が中性的なすがたのままであったのも、自分のあらゆるものを受け入れられず、自己を男性として認めることがないままであったからだと考えることもできます。

彼の復讐の動機は、常に母の愛情と、このあまりにもひどい運命のために現実逃避をし、最も安心できた場所と空間である母親の胎内に回帰したいという願望によるものなのです。ですから、最後のボス戦で、黄川人がお輪の胎内に入るというかなりえげつない行為にでるのも、自分の生命が究極的に脅かされた状況のために、最も実現したかったことを行動したということになります。もともとお輪とお業は双子ですから、自分の伯母にあたるお輪の胎内に入るということは、かなり近似的な胎内回帰をなし得たということになります。
お輪と黄川人の最終形態を討伐した際、黄川人が赤ちゃんの姿で復活しているのは、一つには討伐されることによって、今までの恨みや辛みを晴らす前の状態まで戻ったというようにも解釈できますし、直前に自分の母に近い人間の胎内回帰をしたので、自分の願望が満たされてなんの穢れもない状態まで戻ったと考えることもできます。

また、黄川人とのあまり関わり合いのないボスの存在などを考えると、近しい血縁での憎しみあいというテーマも浮上してくると私は思います。崇良親王は、ゲーム内時間の京より、およそ100年前の帝の時代の話です。その崇良親王と黄川人とは全く直接的な関係はありません。しいて関係性を求めるとしたら、おなじ皇族たる身分で生まれたということくらいでしょうか。
この作品に崇良親王という存在が登場するのは、彼が彼の兄の妬みによって殺されたからにほかなりません。近親によって殺されたという不幸が、彼を悪霊足らしめているのです。
この作品は、最後の場面で、今までに登場した鬼たちがどうしてあんなに強かったのかという謎解きが黄川人によってなされます。朱点童子以前に登場した鬼たちがどこから湧いて出て来たのかはわかりませんが、お輪が捉えられてからは、おそらく黄川人によってお輪は鬼たちを孕まされていたということになります。大変恐ろしいことではありますが、黄川人のこの行為は、胎内回帰願望をかなりゆがめた形で表出させていると考えることもできますし、また母犯し、近親相姦の禁と捉えることによって、近親での憎しみ合いという側面も現れてきます。
この物語は、見方によっては黄川人と昼子の壮絶な兄弟げんかと考えることもできると以前述べました。また、主人公初代当主は黄川人とは従兄弟にあたります。従兄弟同士の戦いと考えることもできます。あるいは、黄川人討伐までに行く手を阻んだ鬼たちは、お輪が生んだ鬼たちであり、異父兄弟の戦いと解釈することもできるのです。いずれをとっても、戦う相手はかなり近しい関係の存在であり、近親による悲しい悲劇の連鎖を映し出した作品とも考えることができます。
そうすると、もちろんこのゲームは1000年ほど前の京を舞台としたために、そうした歴史的背景による影響を受けていることは重々承知ですが、現代の家族の問題にも言及しているように思えてなりません。一方で、家族の繋がり、一族というものがテーマ化されるなかで、他方では戦い続けている相手もまた家族と言える関係であるという二面性があります。この二面性こそ、このゲームの最大の特徴であり、特色であり、神ゲーと呼ばれる所以であり、またこの作品を一層深く、暗いものにしているのです。

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~5~ 感想とレビュー ゲームのテーマを読み解く 

 
-世襲制という概念-
 
 
この作品の本質は、「生きる、死ぬ、託す」。親や子、世代の問題です。私も後から知ったのですが、この作品のCMは、とても素晴らしいものになっていて、作品の本質を見事に表現、伝えています。この作品は1999年にプレイステーション用に販売されています。そうして、2011年にプレイステーションポータブル、PSPでリメイク発売されました。1999年のCMに出演した岸部一徳は、2011年のCMにも出演。この若い青年が同一人物なのかはわかりませんが、約12年という月日を同じ人物が演じるという構図は、それだけでもとても強い印象を与えます。2013年現在66歳ですから、2011年時には64歳で、1999年には52歳で出演していることになります。
このゲームの最大の特色、オリジナリティ、神ゲーと呼ばれる所以は、世代という概念をゲームに持ち込んだためでしょう。通常RPGというものは、主人公は主人公で、物語の最初から最後まで同じ人物をコントロールすることになります。小説でいえば、一人称小説でしかありえないのです。ドラクエ4では、それぞれの視点でプレイしたあと、次第に集まってくるという、群像劇的な展開をして、話題を呼びました。しかし、それもあくまで主人公という存在があっての話です。また、世代という概念は、ドラクエ5で色濃く導入され、成功を収めています。RPGは、自分の親はいても、子供はなかなか出てきません。ドラクエ5は、主人公の奥さんから、子供という概念までゲームに導入することに成功しました。それでも、やはり視点は主人公の一人称視点です。
これらのRPGは、すべて西洋思想に裏打ちされた世界での出来事でした。しかし、それが東洋的な思想によって裏打ちされるとどうなるのか、このシステムを考え出したゲームデザイナー桝田省治は素晴らしい才能を持っていると言わざるを得ません。
日本には古くから世襲制というものが制度として存在していました。もともとは、皇族などの一部の特権階級が一族や血族同士の争いなどを避け、安定化させるために行われたものと考えられます。それが、市民のレベルにおいては、職業や役職を引き継ぐことへと発展しました。現在でも世襲制、襲名制が残っているのは歌舞伎の世界です。例えば、市川団十郎、先日亡くなりました。この団十郎は12代目の団十郎でした。そうして、その団十郎は今度はかつて海老蔵と呼ばれ様々な問題を引き起こしたあの人物が団十郎という役職をもらいうけるということになります。
歌舞伎の世界においては、もともと役柄というものが先行して存在しているのです。その役職にあわせて、歌舞伎をおこなっている人間が割り振られていくことになります。現在の私たちが先にあって、そこに役職が割り振られていくという構造とは反対の構造なのです。平安時代は、職業は世襲制ですし、家族制度も言葉としては存在していなくともありましたから、一族において当主というものが襲名制になっていました。

このゲームが他のゲームと異なる点は、簡単に主人公たちが死んでしまうということです。これは圧倒的に他のゲームと比べ物にならないくらい死というものが明確にテーマ化されています。死んでしまったら本当に生き返らない。当然死んでしまえば一族のメンバーは減りますから、少ないメンバーで戦わなければならない。少ないメンバーで戦えばそのぶん戦いは不利になります。だからなかなか戦勝を得られずに、月が経過していく。月が経過していくと、歳をとり、寿命が近づいてくるというサイクルで、どんどん一族が弱まっていってしまうのです。通常のRPGならば、どんどん仲間が強くなっていくということは当たり前のことですが、このゲームにおいてはその当たり前は通用しません。下手をするとどんどん弱小化していってしまいます。ですので、細心の注意を払って一族の状態に配慮し、いつ神と交わって子供を授かるのかということを慎重に決定しなければならないのです。
一族がへいきでどんどん死んでいくなか、家長たる当主の存在がこのゲームでは際立っています。当主は、家の長であり、その他の家族に対して圧倒的な権限を有しています。その代わり、家族全員の面倒をきちんと見なければいけないという義務があるわけです。このゲームでは基本的には一人一人に名前がつきます。しかし、その名前を持った個人が当主となると、初代当主の名前を襲名することになるのです。その際には、個としての存在は消え、公の当主としての存在になりかわるわけです。
いわゆる没個の世界と考えることもできます。個人的な人間であった存在は、当主に襲名されるとともに、一族の長として家をまとめ、率いて行かなければなりません。ことに、この一族に課されたのは、朱点童子討伐というあまりにも重い使命です。この使命を遂行するためには、まさしく限りある命を賭して立ち向かわなければなりません。責任重大なのです。それは医療技術も発達し、経済も豊かになり、個人の自由をかなり発揮しても個人が生きていける生活環境がととのった現在であれば感じることができないことでしょう。しかし、昔は国も貧しく、決して一人では生きていけないような時代です。そのなかで家族全員を養っていかなければならない。当然娘は、家の安定を図るために良い家との婚約を当主が決定することもあったでしょう。しかし、そうしなければ一族を路頭に迷わせ、全員を没落や餓死させる危険性があったのです。


-命を伝える哲学のゲーム-
世襲制についてまったく知識がないながらにも少し論じてみました。このゲームは世襲制とともに重要なテーマがあります。それは世襲制という制度から切り離せないのですが、「継承」するということです。では、何を継承するのか、まずは名前、家族、命、使命、運命、技、武器、などなどです。
CMでのキャッチフレーズは「生きる、死ぬ、託す」。このゲームはゲームという虚構の空間で、生と死という非常に重要なテーマを扱いました。そうしてその死というものは、決して蘇生呪文などでごまかされるものではなく、ゲームといえども本当に死ぬのです。2000年を目前とした90年代最後の年に、社会の情勢はどのようであったのでしょうか。バブル経済が崩壊して後、自殺者の数が二倍程度にはねあがり、以後ずっと年間3万人の自殺者をだしつづけているのが現状です。現在も経済は冷え切っていて、雇用も不安定、このようなことを書いている私もきちんと職に就けるのか不明です。しかし、90年代はちょうどバブルという良い時期を見てしまったがために、冷え切った状態というものはより凄惨に人々の心に映ったのではないでしょうか。もちろんこれは当時を生きていない私にとっては憶測でしかすぎませんが、上げて落とすというのは、様々な作品においても最も効果的な裏切りの仕方です。
他にも様々な問題があったのでしょう。教育現場では80年代、90年代というのは、ある意味表面化しやすいという点では陰惨な現在よりわかりやすいという側面もあるかもしれませんが、暴力や非行などが横行した時代でした。生命というものが軽視されるなかで、私たちはどのように生き、そうしてそれを後世に伝えて行かなければならないのか、これを考えなければならなかったのだと思います。

私たちは紛れもなく今、生きています。しかしそれは同時に、疑いもなく死が待ち受けているということなのです。死がいいものなのか、わるいものなのかはわかりませんが、私たちは死んでしまいます。このゲームでは一族の人間は短命です。ものすごいスピードで成長するかわりにわずか2年もせずに寿命が尽きてしまいます。私たちは人生が70年、80年という長い時代ですから、すぐになにかを自分の子供たちに託しておかなければというような状況にはなりませんが、もし与えられた使命に対して寿命が短かったらという虚構のなかで、キャラクターをコントロールすることによって、考えさせられるものがあります。
そうしてこの命という壮大なテーマを扱った作品が3・11があった2011年にリメイクされて発売されるということには象徴的な意味があるだろうと私は感じます。3・11後、震災の影響を受けた作品はすべて3・11文学と呼ばれています。それだけあの震災が多くの作家や漫画家、演出家など様々なアーティストに影響を与えたのです。今、震災によって失われた3万人近いひとびとの死とどう向き合うのかということが問題となっています。
私たち生き残った人間、生者は、死者とどのようにして向き合っていくのかということが問題なのです。彼らのことを忘れないで、復興だと口々に言われています。たしかにそうでしょう。しかし、一方で震災で傷ついた人は今すぐにでも忘れたいと思っている人たちもいる。また、口には忘れないでといっておきながら、現在ほぼすべての人は、一日に一度あの震災のことを思い出すかどうかというのが現状でしょうし、今現在なにごともなかったかのように平然と生活しています。
このゲームはそうした点では、あまりにもわかりやくす明確です。彼らには朱点童子討伐という使命があります。当主が死ぬと同時に、新しく襲名される当主には、その使命が課されるのです。しかし、我々は違う。死者が私たちに残していった、あるいは託していったのはなんだったのか、まずこれがわかりません。私たちは何を残されたのか、何を託されたのか、これを考えなければならないのです。そうして、それはあと50年、60年経った際に、きちんと下の世代に引き継がれているのかを確認していかなければならないのだと思います。
このゲームはそうした命の重さや、生きることと死ぬこと、そうして死者は生者に使命を託しているということを象徴的に描いた作品です。これはもはやゲームというよりは、一種人生哲学の指南書のようなものでもあります。こんなにもゲームで命について考えさせられる作品は今までありませんでした。そうした通常であれば、重いテーマですから、プレイヤーも製作者も忌避してしまうことがらに対して、本気で向かい合った作品です。たいていの作品は、そうしたテーマを少しスパイス程度に加えるだけか、変に逃げ腰になって失敗するかのどちらかです。しかし、このゲームは真正面から立ち向かいました。ですから、作品全体はこのうえなく暗く、悲しい雰囲気に包まれています。それでもやる意義がある、プレイしなければならない、そうしたプレイヤーにも命というテーマにきちんと向き合わせる力がこのゲームには存在するのです。

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~4~ ストーリーを追う、黄川人を中心として

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-黄川人の視点-
 この作品は、今までの西洋的なRPGから一変、日本的なRPGを一から作ったために、HPやMPとというものにもすべて日本語の名称をつけなければならなくなりました。HP,MPだったらば、体力と技術といった感じ。アイテムにもすべて日本的な名前が付けられています。このゲームの一つの側面としては、西洋的なRPGに対応するシステム、アイテムの日本名を比較対象して楽しむことができるというものです。
 このゲームはこうした面でも、名称や名前にこだわっている作品と言えるでしょう。また、ゲームのなかにリアリティを持ち込むために、神の名前や物語に、実際に伝わっている伝承や事実を織り交ぜています。
 この物語の重要な朱点童子、イツ川と黄川人は、二人合わせて「いつかきっと」というメッセージになるように作られています。いつかきっと、そのあとに何がくるのでしょうか。戦いがなくなる日に、憎しみがなくなる日に、あるいは救いが訪れるように、そうした未来性が込められた作品ということができるでしょう。
 黄川人が大江山を襲われた際にどうなったのかは謎です。お輪が子供を救うために身を挺しているあいだに、信者がどこかへ隠したのでしょう。捨丸が情けをかけて殺さなかったとは思えません。そうしてどこかへ捨てられた黄川人はまず、九尾吊りお紺に拾われます。黄川人を拾った九尾吊りお紺は、宝くじがあたったりと当初は幸福に恵まれますが、次第に不幸が重なり始め、しまいには夫に持ち逃げされた挙句、稲荷で自殺を図ります。何故幸運が舞い降りたのか、また不幸が重なったのかは黄川人の力によるものなのでしょうが、具体的になにによるものかはわかりません。
 子供にも手をかけたと黄川人は述べていますから、彼は一度殺されそうになったということです。しかし、結局赤子と無理心中できなかったお紺は、一人自殺し、地縛霊として稲荷に残りました。残された赤子は、どういう経緯かは不明ですが、天界から降りて人間に慈悲をかけていた氷ノ皇子に拾われます。
氷ノ皇子は天界屈指の実力者であり、美男子であったとの評判です。人間に対して慈悲をかけて自らの血を与えたいたようです。そうして、どんないきさつかは不明ですが、黄川人を拾いまだ赤ん坊だった彼に自分の残っていた血を吸わせます。ただでさえ朱点として生まれ、人間と神の力を持つ黄川人が、天界最強レベルの存在の血、すなわち力を吸い尽くしたらどうなるのか。黄川人は氷の皇子が自分の力の半分ほどであるということを述べています。力の根源たる血をすべて失ってその状態ですから、完全であればかなり強い力の持ち主でしょう。天界の神を馬鹿にしている黄川人も、彼だけは一目置いているようです。
 しゅてんどうじという言葉は、私もうわべの知識しかないのですが、平安時代に実在したとされる酒呑童子(これでしゅてんどうじと読む)からインスパイアを受けています。酒呑童子の伝説は、地方によっていくつも説があり、細部がことなっていたりして、収拾がついていないという状態もありますし、民俗学を専門にしている人に研究していただかないと何とも言えないのですが、古事記や日本書紀に登場する「八岐大蛇が、スサノオとの戦いに敗れ、出雲国から近江へと逃げ、そこで富豪の娘との間で子を作ったといわれ、その子供が酒呑童子という説もある」(カッコ内Wikipediaより)らしいです。諸説ありますが、俺屍に限りはここからインスパイアを受けていると思われます。
 朱点童子として赤い鬼に閉じ込められたの黄川人の封印を解放してしまってから、新しいダンジョンが登場しますが、その最後で待ち受けているボス(黄川人はそれを髪と表現している)は、それぞれ蛇をモチーフにした存在として登場します。また、黄川人が身に着けている服にも、蛇のがらが現れており、この神話をイメージしてキャラクターデザインをしたことがうかがえます。

-ちりばめられたストーリー2-
 赤子として拾われた黄川人は氷の皇子の血をすべて吸い尽くすと、まだ子供にも関わらず忘我流水道を飛び出し京の町へと繰り出します。一度出て行こうとする黄川人と氷の皇子は対峙しているようにも解釈できる言葉がちらと出てきたような気がします。(多少あやふやなので鵜呑みにしないでください)。ちなみに、朱点童子という言葉は、氷に囲まれた忘我流水道の奥底にあって、一点の朱い髪をした童子(こどもの意)から来ていると考えられます。氷の皇子は自分がかくまい、自分の血を飲ませて育てたと認識がありますから、黄川人のことを自分の息子だと考えています。もちろん直接の血は繋がっていませんが、血を飲ませたということもあり、より濃密な関係性が構築されていると考えられます。しかし、黄川人にとっては、氷の皇子もまた、憎むべき天界の神であるため、利用したにすぎないと思っているようです。
 赤子であった黄川人がどうして自分たち一族が滅亡させられた出来事を覚えていたのかはわかりませんが、彼は自分たちの家族を殺し、自分の命を奪おうとした京の人間と、天界の神々たちに対して復讐をしようと試みます。この時点ではまだ黄川人は中性的な人間の恰好をしていたことになります。また、部下である鬼や怪物をどのように生成したのかわかりませんが、人間に対する怨霊や、人間でありながら悪の道にそれていった者たちとうまくやりあって、再び大江山で鬼のコミュニティを構築。京に対して悪さを働いていたのだろうと推測されます。あるいはすでにこの時から、人間の娘をさらっては、その娘たちに怪物たちを産ませていた可能性すらあります。実際の伝説にある酒呑童子は、娘をさらっては食べていたそうです。
 どちらが先だったのかは不明ですが、この大江山であばれはじめた黄川人こと朱点童子を倒そうとした組織が二つありました。一つは、ちょうど天界にのぼって夕子の後ろ盾のもと天界の新たなリーダーとなりはじめた黄川人の実の姉である昼子です。そうしてもう一つは、時の帝です。この帝がお業一族を殺した時の帝と同一人物なのかはわかりませんが、その討伐対として討伐にむかったのは、どちらも大江ノ捨丸であったことがわかります。昼子たちが先か、大江ノ捨丸たちが先だったのかは不明です。ただ、大江ノ捨丸は、朱点童子を倒すことなく殺され、そうして朱点の呪いにより骸骨の姿となり人間に綽名す鬼の類になりました。実の弟をとめるために昼子率いる20の柱神が黄川人を止めに向かいます。ただ、すでに最強の力を手に入れていた黄川人相手に、神20柱でもかなり苦戦したようです。昼子はなんとか黄川人を赤い鬼の姿をした入れ物に封じ込めることに成功しました。しかし、黄川人は封印される前に、ほかの神たちをも道連れにします。昼子は黄川人の力があまりに強く、自分たちに何の損害もなく封印することは不可能だったため、他の神ごと黄川人を封印したと解釈することもできます。
 赤い姿をした、冒頭でお輪と源太と対峙した角の三つ生えた朱点童子は、封印された状態でした。しかし、あの赤い姿をした馬鹿で力だけが強い鬼のような姿でも、かなりの力を有していたことは確かです。瞬時に赤ん坊を町から移動させる術や、神でも解けない二つの強力な呪いなどを扱えていますから、封印といっても、力は半減できたところが良いところだったのではないでしょうか。
 ここは解釈がわかれるのですが、あの赤い鬼の朱点は、黄川人の自我なのか、それとも別の自我なのかという問題です。封印されている人物が黄川人であることにはかわりませんが、昼子の封印により新たな自我を上からかぶせた可能性、あるいは黄川人の自我の一部のみを残す方法などを行った可能性があります。どう考えても赤の朱点と黄川人の自我が同一だとは解釈しづらい部分があります。あるいは道化を演じるのが得意だった黄川人の身に合った演技だったという可能性も考えられますが。私は、封印された黄川人が霊体として物語の前半主人公の前に現れていたことを考えると、別の人格が上からかぶせられていたのではないかと考えています。霊体がこちらにでてきているときに、肉体はどうなっていたのかという謎がありますが、人格が別のものだったとすると、肉体のみ封印されていたということになり、つじつまがあいます。

 人格がどうなのかは永遠の謎ですが、多くの神も同時に封印するという昼子の行為により黄川人の力は弱まりました。しかし、完全に封印できなかったうえに、結構つよい。ちっとも懲りた様子もなく、京の町を再び荒らし始めます。あんまり封印した意味がないことになってしまったので、完全に黄川人の息の根を止めるために、策士昼子は第三の朱点童子育成計画を立案します。
 第三の朱点童子は、紛れもなくプレイヤーがプレイすることになる主人公たちです。お業の双子の姉であった、お輪に昼子は計画を持ち掛けます。下界におりて人間の男性との間に子供をもうけよということです。お輪の気持ちを察すると、双子の妹は天界の掟を破り、愛する男のため下界まで下りて行ったのに、夫や子供を殺され、お業もさんざん人間にいたぶられたあと(一応不死身の身体を持っていても、限界はあるようです)、殺されてしまいました。そんなあまりにもかわいそうな妹や、不運から道をはずれてしまった自分の甥にあたる黄川人をせめて少しでもはやく楽にしてあげるために地上に降りたことでしょう。
 この作品の最大の謎は、お輪は昼子に作戦をきかされてすべてを知っていた存在なのにもかかわらず、なぜ自ら朱点童子討伐に向かったのかという問題です。昼子の計画では、黄川人はすでに神々の力を終結しても勝てないほどに強力なものになりました。弱めるための封印でさえかなりの神々を道連れにしなければならなかっため、天界の勢力はガタ落ち。これ以上の損害がでないためにも、お輪に第三の朱点童子を産ませ、それを持って第二の朱点を打つはずでした。それをわかっていたはずのお輪は、何故第三の朱点たる息子を生んだのにも拘わらず、その教育をほったらかして自ら黄川人討伐に向かったのかということです。本来であれば、当然息子が黄川人を倒すはずでした。ですから、その教育を第一に優先して行わなければならないはずです。
 考えられる可能性としては、親と子という理屈ではない愛情の問題です。いくら朱点討伐のためだと割り切っても、初めからあまりにも重い運命を背負わされた自分の息子を見て、母親たるお輪が指をくわえて自分の息子が成長するまでの20年近い年月を待っているかということです。わかっていても、自分の息子を死地においやることが出来る親なんていないのでしょう。私はまだ自分の子供をみたことがありませんからわかりませんが、きっとそういうものでしょう。1999年版のCMと2011年版のCMの両方に出演した岸部一徳は、「そのうちお前にもわかるさ」という言葉を残しています。子を持つとわかるものがあるのでしょう。
 それに、お輪は男のために天界の掟までやぶって地上へと降りて行ってしまったお業の双子の姉です。そうした思い立ったら何をしでかすかわからないという攻撃性、血は争えないということでしょう。また、お輪が結婚した相手は、人間では最強のレベルの人物。剣士として奥義を創作するほどの力量のあった源太は、紛れもなくかなり腕の立つ人間でした。そうして、お輪自信も天界の神であり、その身は不老不死です。それなりに武術にも自信があったのでしょう。そんな状態で、自分の息子には危険を冒させたくない、自分たちでももしかしたら倒せるかもしれないと錯覚してしまった二人は、黄川人の討伐へと向かってしまったのではないでしょうか。よかれと思って行ったことではありますが、結果としては自分の息子一族に二つの呪いをかけられてしまうという、より悪い方へと展開してしまいました。
 黄川人が主人公たち第三の朱点童子をその場で殺さなかったのは何故でしょうか。おそらく、本来の自分を取り戻すために、赤い鬼の形相を一度倒して貰いたかったからだと思います。封印をといてもらおうとしたのです。昼子たちの思惑は、封印を解いた後、さらに封印を解かれた黄川人まで討伐してもらうことで、黄川人の思惑は、封印のみ解いてもらう事です。ですので、短命の呪いによって、自分の封印を解いてもらう程度で強くなってほしかったということになるでしょう。そうして、物語はここから始まるのです。
 

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~3~ ストーリーを追う、昼子を中心として

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-ちりばめられたストーリーを追う-
私も一度プレイしただけでは判然としなかったのですが、ストーリーのネタバレをしているサイトはたくさんありますので、ストーリーを知りたいと言うかたはそちらをご覧ください。簡単に追っていきますと、物語冒頭で語られる一人の恋におちた天女というのは片羽のお業のことです。このお業が、天界から下界におりて人間の男と子供をもうけました。ちなみに天界と下界を分け隔てたのは、不老不死の術を持ちえたかどうかという問題です。ゲーム内で言及されますが、かつての人間で、不老不死の術を何らかの方法で獲得した人間が天界に上がったと言うことが述べられています。ですから、天界にいる神と呼ばれる存在たちは、もともとは人間とそうかわらない存在と考えることもできます。もちろん長い時間の末に人間をはるかに超える技や術、生命を獲得しているわけですが。
このお業と男の間に生まれたのが後の太照天昼子と黄川人です。この作品をプレイする上でもっとも重要なのが「朱点童子」というキーワードですが、この「朱点童子」、このゲームのなかでは黄川人が定義づけしています。このゲームをプレイすると「朱点童子」はすなわち黄川人が入れられていたあの赤い鬼かなとも思われるのですが、実はそうではないのです。朱点童子とは、黄川人の定義によれば、神と人間の間に生まれた子のことを指します。
ですから、間違いなく黄川人は朱点童子です。すると、実は表面化されてはきませんが、黄川人がちらりと発した言葉のなかで、一番目の朱点童子というものは、ほかでもない太照天昼子のことをさします。ですから、最初の朱点童子は太照天昼子ということになります。朱点童子と特別に名前が付くのにはわけがあり、人間と神との間に子供が生まれると、なぜか神を超える強い存在が誕生するという設定があります。もともと不老不死の術をみつけた人間が神になったのですから、その神と人間が交合するとどうして神よりも強い存在になるのか少し解釈がむずかしいですが、こう考えることができます。不老不死とは、種としては完全になることを指します。死ぬことがなくなるということは、生殖機能が必要ではなくなるということです。死ななければ子孫を残さなくてもよいということに論理的に考えればなります。しかし、それが人間と交わると、(ここで生殖機能を失ったはずの神がなぜ人間との間に子供をもうけられるのかという問題が最大の矛盾ですが)ただでさえ最強の存在が生殖によって増えることが可能ということになってしまいます。当然神たちはそれぞれ単体ですから、一族レベルの神と同等の集団ができてくれば、そちらのほうが強くなるわけであります。
なぜ個体レベルで神よりも強くなるのかという問題は謎ですが、そういう設定なのだと飲み込んでおきましょう。両方の遺伝子をもらうことができるためということでしょうか。

さて、物語も終盤になると二番目の朱点童子であった黄川人も、生命の危機を感じてか次第に言動に余裕がなくなってきて、物語の本質をさらけだすようになります。黄川人は、天界の神々が自分を討伐させるために、三番目の朱点童子を造った、それがお前たち主人公一族だといいます。黄川人の「朱点童子」という定義によれば、主人公一族は、お輪と源太の子供の一族で、お輪は実は天女でしかも黄川人の母お業の双子の姉ですから、朱点童子ということになります。
そうして、この第三の朱点童子を第二朱点童子討伐のために意図的につくらせたのが、第一の朱点童子であった昼子ということになるのです。見方によっては、スターウォーズが壮大な親子喧嘩であるように、この作品も、昼子と黄川人という姉弟の壮大な喧嘩であるということもできます。少しフォーカスを広くすれば、昼子と黄川人と主人公は従姉弟ということになりますから、壮絶な家族ぐるみの戦いと考えることもできます。

-昼子の視点-
少し話がそれました。ストーリーを追うと、お業、男、昼子、黄川人の家族は、天界にとっての大問題となりました。神たちが何故神と人間の間に生まれた子供にとてつもない力が宿ることを知っていたのかは謎ですが、昼子と黄川人をこのまま野放しにしておけばいずれ自分たちをも超える存在となるだろうと予測した神々たちは意見がわれました。これは出典が不明なので憶測にすぎませんが、いろいろなサイトを見ていると、神のなかには革新派と保守派ができたそうです。昼子に追放された神々たちが保守派だったということが根拠らしいですが、この保守派は二人が若いうちに殺してしまうべきだと主張したらしいです。この時まだ昼子は人間として地上にいますから、天界にはいません。革新派が唱えたのは、新しい力をもったこの二人を人間の王として、人間をまとめる存在にしようとしたということになります。ただ、どちらがおこなったかはわかりませんが、結局は朱点童子たちは人間によって滅ぼされてしまいます。
神の御神託がどちらの派閥によるものかわかりませんが、神の子だという評判がひろがったこの家族は、大江山にひとつのコミュニティを形成して生活していました。多くの人間がその信託を信じて、彼らを神だと祭り上げていたようです。しかし、時の帝は当然自分たちよりも大きくなっていくおそれのあるこのコミュニティが気に食いません。帝が勝手に動いたのか、それとも帝のほうにも神の信託があったのかはテクストからはうかがい知れませんが、帝は大江ノ捨丸らに討伐対を組ませてお業一族を滅亡させます。この際に、大江ノ捨丸はお業の夫を殺し、お業を捕獲。昼子を殺します。昼子はまだこの時は、イツ川です。その魂が天界に上り、神になった際に、人間として死んだはずの肉体に神の力によって魂の一部が残り、それがイツ川として独立した存在になったようです。イツ川の肉体が、死んだときの肉体そのものなのか、それとも生まれ変わった別の肉体であるかは不明です。
当時の展開は夕子が天界のリーダー的存在で、彼女は昼子を後見人として立てることからも革新派だったようですから、おそらくお業一族が神の子であり、まつるようにと信託を出したのは革新派でしょう。お業一族を無きものとしたい保守派が、革新派に内緒で帝に殺すようにと信託をだしたとするとつじつまがあいます。
朱点童子として生まれているので力が相当ある昼子は、殺されると神として天界に上がりました。ここで、突然やってきた昼子を嫌ったのが保守派の神たちでしょう。昼子は、夕子の娘ではありません。あくまで後見人という形式なので、そこに惑わされる人が多いようです。突然神となった昼子、しかし、当然ながら新参者に対して保守的な神の多い天界は彼女に対してつめたかったことでしょう。おそらく昼子が殺された朱点だと知っていたのは夕子くらいなのではないでしょうか。昼子が朱点だということがばれると、保守的な神はきっと昼子を封印なりしようとたくらむはずです。夕子は昼子に自分の名字である太照天を授けます。夕子はおそらく昼子を不憫におもい、人間のリーダーとなりえなかった彼女を天界のリーダーにするために自分の地位を譲ったのだと考えられます。
赤猫お夏は、もともと由緒正しい天界の神の一族。おそらくこれもまた保守的な神の一員だったのでしょう。いきなりでしゃばってきた昼子をよく思わなかったのは、お夏に原因があるのか、それとも保守的な神によって殺されたことを許しきれていない昼子がお夏たちを無碍にしたのかは、卵と鶏の論でしょう。昼子は実質の天界のリーダーとなると自分たちを殺させた保守的な神を天界から追放します。もちろん自分を殺したからとは言えませんから、いろいろな理由を付けてです。お夏はその荒々しい気性を利用して放火させ、追放。雷電五郎と太刀風五郎は人間に神の術である火と風の操り方を教えたため幽閉とありますが、これも革新派の夕子であれば許していたはず。やはり彼らもまた保守的な神の一員だったため、昼子によって封印されたのではないでしょうか。

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~2~ RPGを支える西洋思想と東洋思想

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-RPGを支える西洋思想と東洋思想-
 このゲームがRPGゲームのなかでも特に「神ゲー」と呼ばれるわけは一体なんなのでしょうか。ちなみに「神ゲー」とは、ネット用語で素晴らしい作品のことを指す用語ですが、神とは、すごい、すばらしい、これ以上ないなどの意味として付加されたものだと思います。人間業ではないすごいプレイをした動画などを、神プレイなどとも呼ぶようです。
 このゲームがRPGであって、今までのRPGと異なる点はなんでしょうか。例えば今までのRPG、特に顕著なのがドラゴンクエスト、これは完全に西洋思想に影響された作品です。例えば作品をみても、Ⅴはトールキンの指輪物語の影響をうけていたりと、ストーリー自体が西洋的であると考えることもできますし、セーブをするさいに教会に行ってお祈りするという点は、特に西洋的な考えがそのまま表れている部分です。
 タイトルにあるドラゴン自体が、西洋の怪物です。それを討伐するということは、西洋神話のような、騎士の物語になります。ファイナルファンタジーには教会はありませんが、クリスタルという西洋的なものをめぐる物語になっています。これがもし日本的であったのならば、水晶などを出して来ればいいわけですが、RPGゲームのほとんどは西洋的な思想の影響を受けた作品になっています。
 なぜRPGが西洋的なのか、その理由は定かではありませんが、ゲームというのは根本的には疑似体験です。プレイヤーがどんな疑似体験をしたいのかというと、自分がヒーローになって悪者を倒すという勧善懲悪の騎士物語です。だから、多くのゲームは西洋的なモンスター、怪物を倒すということが基本のスタイルとなったのではないでしょうか。
 そんななか、このゲームが1999年に登場したというのは、まさしく画期的で革新的なことだったろうと思います。このゲームはRPGが全体として西洋的な思想のなかにあるのに対して、初めてと言っても過言ではないくらい日本的な思想を下敷きにした作品です。確かに、ヒーローが倒すべき存在はモンスターでなければなりません。いきなり倒す相手が人間というのは、ちょっと一般的なゲームではハードすぎます。人間を殺す、倒すゲームというのはその後たくさん出てきますが、やはりドラクエやFFほどの普遍性は保てないでしょう。子供や女子が行うには内容がハードすぎるからです。
 この倒すべき相手となる悪者、モンスターとして最初に考えられるのが、日本から離れたためにより空想で、ファンタジー要素を帯びた西洋の魔物だったということなのでしょう。しかし、灯台下暗しと言いますか、日本にも考え方によっては、鬼などの怪物がいたことを我々は忘れていたのです。このゲームは、日本の古事記や日本書紀に登場するような鬼が悪者として描かれます。ここに視点が持ってこられただけでも、このゲームは素晴らしい存在価値を持ちます。しかし、それ以上にこのゲームには、深い内容が付加されます。

戦闘システムから言及すれば、例えばFFやドラクエはエンカウントした敵すべてを倒さなければ戦闘は終わりませんでした。これは、考え方によってはとても恐ろしいことです。中国的な子孫まで根絶やしにするといった極めて強烈な破壊思想がうかがえます。レベル99の存在が冒険初期にであった雑魚モンスターを根絶やしにするのは、もはや虐殺以外の何物でもありません。それに対して、俺屍では、日本的と言いますか、それぞれエンカウントした敵のなかに大将が存在します。でてきた魔物が4匹なら4匹、5匹なら5匹の集団を一応率いるリーダーがいるのです。戦闘はこの大将を倒せばほかに魔物が残っていても戦闘は強制的に終了します。
ここには、根絶やしにするといった破壊衝動は見られません。大将を討ち取ればその部下は魔物といえど殺す必要はないのです。現実的に考えれば、大将が打たれて残った魔物はそのままどこかに逃げていくのかどうか謎ですが、魔物にもリーダー制があるというシステムを導入したのは斬新です。その代わり、こちらも隊長を殺されるとその場で敗北が決定し、強制的に京(京の都が主人公たちの拠点)に戻されます。
このゲームで面白いのは、死んだ人間が決して生き返らないという点です。ドラクエやFFでは仲間のHP(ヒットポイント、ライフポイント)が0になったとしても、蘇生呪文によって復活することが簡単にできました。現実的に考えると大変恐ろしいことですが、無理を通して考えれば、0になって倒れるということは、気絶するくらいかと解釈することもできました。
しかし、このゲームにはそもそも蘇生呪文が存在しません。それに戦闘でHPが0になった場合は、そのほとんどが京に戻ると死んでしまいます。外へ出ている場合は、一応死地を脱したとして、健康度とよばれるこのゲーム独自のメーターが1になって行動は可能になりますが、健康度が低い状態で京にもどると亡き人になってしまい、二度と復活しません。
このゲームでは、ライフポイントのほかに健康度というものがあります。新しい概念ですし、ほかのゲームにはないので説明しづらいのですが、例えばライフポイントが8割程度になると健康度が注意になり、すばやくフィールドを走ることが出来なくなったりします。このゲームではHPが0になれば取り返しがつかなくなりますから、今までのゲーム以上にHPには気を付けなければなりません。そのため、ドラクエやFFではHPが半分くらいでも特に気にしなかったのが、ここでは常に8割以上を保っていなければならないことになります。かなりリアリティをゲームのなかに持ち込んだシビアなゲームになっているということができるでしょう。ゲームとは本質的に虚構、フィクションの世界ですが、そこへリアリティを持ち込むというのは、ゲームという概念を越えようとしている試行だと思います。

-ゲームの時代性-
今年の春にプレイし、考察したドラクエⅦは、発売が2000年。ドラクエⅦは私が考える限り、キーファ=オルゴ・デミーラ説をしようとしたものの、あまりの鬱展開に何らかの圧力がかかり、直前で有耶無耶にして挫折してしまったということだと思います。ドラクエ史上最も鬱展開な作品となり、それは同時に神ゲーになるチャンスだったものを、ドラクエという大きなブランドの規制によってなし得なかった時代性というものを考えてみたいと思います。
2010年付近を境に、まどか☆マギカなど今までの概念を覆す作品が登場しました。広い意味での文学に大きな革新がおこった10年前後から約10年前、2000年前後でも大きな革新があったと私は感じています。
当然1000年代が、2000年代に変化するということもあり、コンピュータが正常に作動しなくなるのではないかなど、終末的な思想がはやりました。何か終わるのではないか、バブルがはじけて右肩下がりの状態であった90年代後半は、社会的な状況や状態からも、文学に大きく影響を及ぼす時期にあたったのだと思われます。このあまりにも異色なRPG『俺の屍を越えてゆけ』が登場したのは、そうした時代性があったからだと私は感じました。俺屍は、冒頭で自分の父が殺され、母が鬼の手に落ちるという事実からはじまります。いきなりこんな鬱展開のゲームはそうありません。そうして、主人公は、ここはオリジナリティーが高くよく創造することができたと感心しますが、二つの特殊な呪いをかけられます。一つは短命の呪い。おそろしく早く成長するかわりに、二年たらずで寿命を迎えてしまうというものです。ゲームの設定上では舞台は平安の京となっていますから、当時の人間の平均寿命が50以下だったとしても、2年という寿命はあまりに短すぎる。常人の20倍以上の速さでおいていくという呪いです。
そうしてもう一つが種絶の呪い。人間とは交われないようにして、徹底的に主人公一族を根絶やしにするという魂胆です。ここで一つ浮かびあがる疑問は、なぜ朱点童子はこの時初代主人公を殺さなかったのかという点ですが、これは、ある程度成長して「入れ物」である赤い姿の朱点童子を倒してもらうためにわざと残したということでしょう。
このゲームの問題点は、複雑で重厚なストーリーがあるのにもかかわらず、プレイ時間が長くかかってしまう点と、それぞれの重要な人物によってそれぞれの視点から語られるため、プレイヤーが断片化されたストーリーを自分のなかで構築できないという問題です。

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~1~ 4つのモードから攻略本世代を切る

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-初めに-
 ここしばらく更新を怠ったのはほかでもない、このゲームをやっていたせいです。ドラクエⅦの時にはストックしてあった記事があったのでなんとか持ちましたが、長期休暇とはいえ、やはりゲームの二本こなすのはなかなかハードなものがありました。
 私は、性格が完璧主義者的な側面があるので、ゲームはとことんやりつくさないと気が済まないタイプなのです。こうした性格を持っている人間に対してやりこみ要素があるゲームというのは、本当に危険。かつてはまったモンスターハンターは、プレイ時間1000時間を優に超えるという素晴らしき人生の無駄遣いを成し遂げました。おかげで高校時代は学内最強の名をほしいままにしたわけですが、モンハンがDSに逃げた際に、私もなんとか離れることができました。
 私のブログの読んでくださっている方にはゲームもやるのかと不思議に思う方もいるかも知れませんが、私の強みは、文学とは決して文章だけではないと広い視野を持てていると自覚していることです。小説はもちろん文学のメーンですが、ほかにも映画、ドラマ、漫画、アニメ、ゲームなどなど、これらもれっきとした文学なのです。そうした広いジャンルにわたって作品、テクストにあたっていける強い意志と自由な精神、食わず嫌いで特定のジャンルを否定することのない柔軟性が必要だと認識しています。私が論理的で感情をあまり見せない人間のように思われている方もいるかもしれませんが、そんなことはありませんよ。

-4つのモードから攻略本世代を切る-
 前回プレイしたドラクエは百数十時間で一応やり終えました。もちろん全員99レベル、人間の職業はすべてマスターしました。今回の『俺の屍を越えてゆけ(以下略称、俺屍)』は、プレイ時間が表示されないのでわからないのですが、じっくりモードでやったので、おそらく100時間弱だろうと思っています。
 さて、じっくりモードとは何だろうかと思われるでしょうが、このゲームには、難易度設定ができるのです。
 俺屍はRPG,ロールプレイングゲームですが、RPGにも難易度設定があるのかと最初おどろきました。モードには、あっさり、しっかり、じっくり、どっぷりの四モードがあります。それぞれ参考時間が表記されていて、あっさりだと、20から30時間、どっぷりだと100時間以上となっています。いきなりどのモードがいいか設定で聞かれるので不思議だなと思ったのですが、やりはじめてすぐにその意味がわかりました。私もRPGゲームには自信があったので、最初どっぷりではじめたのですが、如何せん相手が強すぎてまったくはなしが進まない。これでは時間がかかりすぎてしまうと感じたので、じっくりでクリアしました。設定は途中で変更可能です。
 このどっぷりモードというのは、説明にもあるように、RPGゲームの黎明期である1980年代のゲームの難易度をもとに設定しているとあります。確かに昔のゲームは難しく、時間がかかりました。ドラクエで言えば、Ⅱのむずかしさがちょうどいい例になるのではないでしょうか。ファミコン世代というのは、ゲームがかなり難しく、だれもが簡単にクリアできる時代ではなかったのです。
 いわゆる攻略本世代と私たちの世代は言われています。この言い方は言われる側としては大変腹立たしい名称なのですが、確かに周りをみているとそうだなと思わざるを得ないところがあります。この攻略本世代というのは、ゲームでもなんでもすぐに攻略本をみて解決するということを皮肉ってつけられた名称です。ゲームは、攻略本をみてクリアするタイプと攻略本を観ないでクリアするタイプと大別できます。コアな人は、一回見ないでクリアして、それから二回目以降攻略本を見て、徹底的にクリアするという人もなかにはいます。ただ、現代人は、なにか行き詰まるとすぐに攻略本を見てしまう世代だと言われています。それは、受験勉強もおなじことで、わからない問題というものは、本来自分の力で考えるだけ考えて解いていかなければ力はつきませんが、現代人はわからない問題があればすぐに答えを見る、あるいは参考書を見て丸写しするということになります。忍耐力や、自分で解いてみようという積極性がなくなってきていることはたしかです。ゲームというのは本来楽しむためにあるものですが、それさえも、難しいとクリアできない。できないというよりかは、むずかしいと思ったらゲームを途中でも放り出してしまうというのが、攻略本世代なのです。
 そうした初心者で、むずかしければすぐにあきらめてやめてしまうという人のために4つの難易度が選べるというのは、時代を反映していると私は思いました。かくいう私もどっぷりでは無理だと思ってじっくりに逃げた人間です。自分ではそれなりに忍耐力はあるほうだと思っていたのですが、そう自覚している私でも辛く感じたので、攻略本世代と呼ばれる典型的な人にとっては、あっさりですぐに済ませてしまう人がおおいのでしょう。

 もう少しこの攻略本世代について述べれば、広い文学において全体的にいえる傾向です。かつての文豪が書いた難解ですが、重厚で人間の深みがひしひしと伝わってくるような名作は読まれません。文學を専門に勉強している学科にいても、まわりの人間が古典の作品を全然読んでいないと痛感させられます。では、そうした人間がなぜ国文学科にいるのかと言うと、多くの人間がライトノベルを読んで文学が好きだと誤解しているのです。これだけは、どうしても看過できない事態なのですが、日本全体が今そのような傾向にあると私は警鐘を鳴らしています。みんな、かんたんで、わかりやすく、すぐよめる作品しか手に取りません。時間がない、忙しいということが大きな原因になっているのかもしれません。しかし、実は本当のところ忙しくもなく、時間がないわけではないのです。時間がなく忙しいと感じさせる状況に置かれているので、だれもがそう信じ込んでいるという側面は捨てきれないと思います。当然本当に時間がなく忙しい人もいます。しかし、そうした忙しく何のために働いているのかもわからないような状況で人間を働かせ続ける社会というのは、極めて危険な状況だということを認識しなければなりません。
 自殺者が年間三万人から減らないのは、こうした忙しさ、ストレスを感じさせる構図が出来上がっているからです。私は文学しかやっていないので、何がどうなれば改善するのか明快なことはわかりません。しかし、若者の雇用をきちんと確保して、不安を解消する必要があるのだと私は思います。今、団塊の世代がお金を持っています。彼らが自分の老後のためとお金を貯めるのはわかりますが、それを動かしてなんとか低いところを埋め、全体を慣らす必要があるのだと思います。
 話が大きくそれましたが、今これからの課題になるのは、攻略本からの脱却と、インスタントな文学の世界だけで満足せず、重厚で難解なものに立ち向かっていける精神の涵養だと私は考えています。今の若者は私も含め、むずかしく、手間のかかりそうなものが出てくるとうわぁと思ってひいてしまう。そうではなくて、よしおあつらえ向きだとそれに立ち向かっていける精神が必要です。
 このゲームは、ゲームの内容が難しいながらも徐々に徐々に強くなっていく一族をコントロールすることで、そうした精神の涵養につながるゲームでもあります。ゲームは遊びではなく、ゲームから学べることがあるのだとこのゲームに関してはいう事ができます。もちろん簡単なパズルゲームなどからではだめですけれども。

映画『Ted』試論 感想とレビュー 27年の悪友か4年の彼女か。汚い友情を描く

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-初めに-
 もっと早くにかけばよかったのですが、遅筆になってしまいました。前回は『アリス・イン・ワンダーランド』という頭がいかれた作品を取り上げたので、その連続として、今年もっともぶっとんだ作品を論じます。ここ10年は、私が注目している大きなアイドル像が解体されてきていて、実に多様な人物が主人公になることが出来る時代になってきています。これは、日本のことだけかと思っていたのですが、どうやら全世界的にも、今までの大きなアイドル、大きなヒーローの象は解体されてきているようです。多様化したと考えることができるでしょう。
 しかし、この作品がその多様化された時代でも異彩を放つのは、テディベアが本当に命を持ったらという冗談を冗談で済まさずに描き切ったからです。本当にくまのぬいぐるみに命が宿ったらどうなるのかということを、全く美談なしで描き切ったブラックジョーク満載の映画です。
 
-テッド、誰もが欲しかった人形の友達-
 誰もが一度は願ったことがあるであろう、自分の一番のお気に入りのおもちゃがもし生きて、友達になることが出来たならという願い。しかし、これが本当になったらどうなるのか、この作品は作品自体がそうした冗談によって、成り立っていますが、その冗談を冗談で終わらせない現実に対する非常に鋭利なメスをもって写実的に現在を映し出しています。
 もしもくまのぬいぐるみに命がやどったら。動き回るぬいぐるみを見て、まず両親は拳銃で撃ち殺そうとします。その迫真振りが本当に面白い。次いでどうなるのか、当然メディアの話題になります。一躍子供であるぬいぐるみは、アメリカ中の人気者になりますが、やさしげな声で皮肉を言うナレーションが、一躍有名になったものは、すぐに忘れ去られると述べます。そうして十数年後、中年になったテッドと主人公のジョン・ベネットは二人で仲良く暮らしているだめな大人になっていました。ここから、R指定の謎が解けますが、一見すると、くまのぬいぐるみに命が宿っていじめられっこだったジョンに友達ができ、その二人の友情をあたたかく描いた作品のように予測されるこの作品は、すごい裏切り方をします。いきなり、R指定の言葉を連発し、テレビを見ながら薬をやっている二人。完全に犯罪者です。平気で薬をやっているのですから、びっくりします。テディベアというのは、子供のおもちゃですが、その愛くるしい姿のまま薬を吸っているのですから、その落差が強烈なインパクトを与えます。
 この映画が世界中で悪いにしろ良いにしろ話題になったのは、この裏切りがあったからでしょう。まどか☆マギカも、3話で観客の期待を見事に裏切りました。魔法少女もので観客が絶対に予測しない、主要キャラクターがモンスターに食べられてしまうということが、あらゆる面に観客を裏切りました。この作品でも、テディベアという私たちの愛玩の対象となるぬいぐるみが、突然薬を吸いながらRワードを連発している姿を見せられ、観客は見事に裏切られたわけです。
 
 この作品の一つの側面としては、そうした落差を描き出した点があります。テディベアというぬいぐるみのかたちをとって象徴的にしている部分はありますが、この作品では、没落したスターというテーマが含まれていると私は思います。途中で登場する、かつてテッドとジョンが夢中になったヒーロードラマの主人公は、老人になりながらも、筋肉隆々としていますが、見事に没落しています。薬をきめて騒ぐさまは一見明るく見えますが、内実とても暗黒な場面でもあると私は思います。ちなみのこのヒーローは、「フラッシュ・ゴードン」という80年代の映画だそうです。私は若い人間なので知りようがなかったのですが、B級すぎて逆にコアなファンに愛された作品だそうです。ここで主役を務めたサム・ジョーンズ本人がカメオ出演しています。
 テッドも子供のころからメディアにひっぱられ、神の奇跡だなんだと騒がれた挙句に、とたんに忘れ去られる。メディアの恐ろしさというものをよく描いた作品だと思います。メディアは知らず知らずのうちに、テッドやサム・ジョーンズをヒーローに祭り上げておいて、自分たちの興味がなくなったらとたんにしっぺ返しを食らわせる。一旦人生の甘みを見せられた人物たちは、とたんに酸いの世界に落とされるのです。最初から人生に黄金時代を持たない人間は、ある程度の逆境に持ちこたえますが、黄金時代を経験してしまった人間というのは、なかなかどん底にある自分を認めることができません。認めることができなければどうするのか、薬によって現実をごまかそうとするのです。これが芸能界の人間に不祥事が絶えない理由なのだろうと私は思います。

-奪われるパートナー、擬似三角関係-
 『テッド』がメーンテーマとして描き出そうとしているのは、何よりも友情だろうと思います。私はよく三角関係を説明するのに、「欲望の三角関係」の理論を作り出したルネ・ジラールの論を用いますが、この作品でも性別は異なりますが、三角関係ができていると思います。
 主人公ジョンを少年からの付き合いであるテッドと、ミラ・クニス演じるロニー・コリンズという彼女が奪い合っている構図です。自分の親を持つわけでもなく、突然精神は少年としてこの世に生まれたテッド。彼には身内と呼べる人間が親友であるジョンしかいません。テッドには本質的に親の存在が欠如しているのです。ですから、親からの愛情がありません。そのことが悪いことを行う原因にもなったと考えられます。テッドにとっては、ジョンは人生のすべてなのです。
 テッドにとって、ジョンは自分が存在することを望んでくれた存在でもありますし、27年間ずっと一緒に生活してきた親友でもあります。そのジョンを付き合って4年の彼女に奪われてしまうというのは、ジョンとテッドが恋人関係でなかったとしても、辛いことです。テッドにはその容貌から仕事もありませんし、今まで仕事をしてきた経験もありません。それなのにパートナーであるジョンを奪われてしまったらどうやっていきていったらいいのかわかるはずがありません。テッドはジョンから離れることが本質的にできないのです。
 しかし、ジョンからテッドが離れて行かない限り、ジョンとロニーは恋人としての関係が成立しません。ロニーはまじめな人間で、ジョンのユーモアな部分にひかれていますが、テッドがいると寝室に入ってきたり、ジョンを薬などの悪いものでダメにしてしまいます。
 ジョンとロニーのデートから帰ると、家でテッドが娼婦を呼んで遊んでいたという場面がありますが、これはテッドのジョンが奪われてしまう寂しさを埋めるための行為とも考えられますし、擬似的な恋敵であるロニーに対する反抗や嫌がらせとも考えることが出来ると私は思います。
 
 この三角関係は、ロニーが落脱することによって変化が生まれます。ロニーがジョンにトッドとこれ以上一緒にいるのなら、私は別れるといって喧嘩します。ただ、それだけではロニーの大切さを悟ることのできなかったジョンはテッドとともに悪い生活へと逆戻りをしてしまします。ここで登場するのが、もう一つの三角関係です。ロニーの上司で、金持ちであるレックスは、パワハラとセクハラでロニーを奪おうとします。ロニーを奪う恋敵が登場することによって、ジョンもまたロニーに対する意識を強く持ち始めます。テッドの助けもあり、ロニーとの仲直りが出来たと同時に、こんどはテッドが彼のファンだった親子に連れ去られます。この映画は、ジョンの二人の精神的なパートナーであるロニーとテッドが交互に奪われるという構成になっています。そうして、奪われるということを通じてはじめてそのものの価値気づくという関係が出来ているのです。
 テッドを連れ去った親子とカーチェイスをしたりとアクション要素まで盛り込むという、ハチャメチャなエンディングになりますが、最後はテッドがこのまま死んでしまうのかと思われるなか、ロニーの祈りによってテッドが復活します。ここでは、奪われることによって三人の関係が更新され、落ち着いたことがわかります。テッドは自立していくための決心がつき、ジョンとロニーは恋人としての関係が深まりました。

-終わりに-
 私はこの映画を字幕で見ました。日本語吹き替え版では芸人の有吉弘行が担当しているそうですが、字幕と吹き替えの両方を見た友人は、有吉の吹き替えが下手だったと言っていました。なので、字幕をおすすめします。
 また、この映画の最大の特徴は、R指定をすることによって、ふんだんに駆使される禁句の連発です。『レ・ミゼラブル』の著者ビクトール・ユゴーも述べていますが、隠語や禁句などこそ実は注目しなければいけないのです。この映画では、英語の汚い言葉を使用することによって、一つの笑いを提供しています。禁句は音が大事です。英語圏では嫌がられる音が禁句になっているのですから、やはりそれを吹き替えてしまうと、そのぶん音の魅力が減ってしまうと私は思います。私の基本的なスタイルは、字幕でみることです。やはりセリフの音、声の抑揚などが最も活かされたものが映像化されているので、日本の声優陣を蔑ろにしているわけではありませんが、映画だけはそのまま見たいというのが私の考えです。これから見る人はレンタルでしょうか。吹き替えよりも字幕版をお勧めします。

映画『アリス・イン・ワンダーランド』試論 感想とレビュー 現実逃避の末、妄想の世界で手に入れる新たな自己

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しばらく更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。
-初めに-
 ティム・バートン監督の得意技、映像の専門用語ではモーションキャプチャと呼ばれる、実際の動きをデジタル化して、CGとして映像化する手法を多用する彼の作品は、ただ単にCGだけを使った作品とはことなり、私たち観客の目を楽しませてくれます。ティム・バートン監督と、ジョニー・ディップというコラボは、2005年の『チャーリーとチョコレート工場』以来、5年ぶりのことです。「チャーリー」にしても、「アリス」にしても、どちらもおとぎ話、ファンタジーです。そのファンタジーである嘘の世界をどのように映像化するのか。単なるCGでは薄っぺらくていけません。しかし、それを巨匠ティムが手掛けることによって、おとぎ話をそのまま立体化させたかのような、非常に奥行きの感じられる作品になります。
 そうして、そのファンタジーのなかで異彩を放つのが、ジョニー・ディップという俳優です。彼が登場する映画を今までいくつも見てきましたが、観れば見るほどどれが本当の彼なのかわからなくなります。これほど演技のうまい人物はそういるものではありません。「チャーリー」と「アリス」はどちらも頭がふっとんでいるので、似たような印象を抱かせますが、そこからは、彼がどんな人間なのかということは見事に隠されています。ディップのファンはそうした謎に満ちた彼が好きになるのでしょうか、一俳優として見ても、一体彼の本性はどこにあるのか、舌を巻くほどの演技です。

-現実世界か妄想世界か-
 『アリス・イン・ワンダーランド』は誰もが知っているルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の後日談としてつくられました。ですから、この作品は映画オリジナルです。
 アリスがかつてワンダーランドを旅してから13年の月日が経ったという設定になっています。6歳でワンダーランドを旅したアリスは、それが夢の出来事だったと思うようになり、19歳の少女になっていました。企業家だった父が亡くなり、父の会社は父の共同経営をしていた貴族の友人に買収されました。アリスの家は、存続が難しくなり、アリスには秘密で、アリスの母と姉がその貴族の息子と結婚させるためにパーティに行く場面から物語は始まります。アリスとの婚約はすでに出来レースで決まっているのです。ここには、彼女の意志の意見もありません。家同士の勝手な思惑が働いているのです。そうしたなか、アリスは衆人環視のなかで貴族の不細工な息子に求婚を申し込まれます。みんなにだまされていたことを悟ったアリス、みんなの期待に応えなければと思う一方、その求婚の直前から視界にちらつきはじめた白いうさぎの姿が気になります。はいかいいえかと答えなければいけない状況で、アリスは周囲の目に耐え切れず、その場からに逃げ出します。
 その後は、だれもが知っているアリスの物語とほぼ同じようにワンダーランドへの旅が始まります。しかし、アリスが付いた先のワンダーランドはかつてとは大きく変化し、赤の女王が支配する恐怖と圧制の国へと変貌していました。この状況を、どうにかして打開しようというのが、この物語の大きなテーマになります。
 
 アリスインワンダーランドは、世の中に最も知られる有名なファンタジーの物語ですが、それと同時に謎の多い話でもあります。この映画『アリス・イン・ワンダーランド』もある側面では、この謎のテクストをどう解釈するのかという一つの解釈でもあると思います。ワンダーランドも現実と同様に年月を経る世界であることがわかりますし、現在赤の女王が王権を握っていますが、かつてはその赤の女王の妹である白の女王の王政が敷かれていたことも判明しています。
 ワンダーランドってなんなんだと考えたときに、通常の人間が考えるのは、アリスの思い込み、精神の世界なのか、あるいは本当にそうした世界が木の根の間からつながっているのかという2パターンです。多くの人間が、アリスを含めて、これは幻想であり、アリスの創造の産物であると解釈しています。アリスもワンダーランドの中で自分の幻想なのだろうと解釈し、なんども強く思い込めば目覚められるだろうと試行錯誤しています。作品上それを認めてしまえばなんともつまらない作品になってしまうので、その禁だけは破られませんが、やはり普通に考えればアリスの妄想と考えるのが一般的でしょう。
 アリスがこうした強烈な一つの世界を作り上げるだけの妄想に没頭しなければならなかった理由は、冒頭で描かれる非常に閉塞されたコミュニティのためでしょう。一体いつがこの作品内時間なのかが明確にはわからないのですが、アリスがどこの国の人かも映画ではわかりませんが、中国との交易をしたらすごいことになるのではないかというようなことが会話されていますから、まだ18世紀後半か19世紀前半くらいの時代ではないでしょうか。そうした時代では、女性が働くという権利も当然認められず、とても苦しい想いをしたことでしょう。アリスは、その父親譲りの先見の明があったために、こうした古い慣習がどうしても肌に合わなかったのです。自分の意志でなく結婚させられるということは、どちらかというと現代人の感覚に似たものを持っていたアリスにとっては、とても信じられない暴挙以外の何物でもありません。ですが、彼女だけが先見の明をもっていても、非常に閉塞されたコミュニティのなかでは、どうしても回りの人間に合わせざるを得なくなる。そこで周囲が結婚を望み、自分は結婚などしたくないという、これまでならばなんとなくかわしてきた周囲の外圧とアリスの自己が衝突してしまったのです。
 彼女は自分のこれからをどう生きていくのかというアイデンティティーを確立するために、いったん妄想の世界へと入り込んでいきます。

-異界で獲得する新たな自己-
 こうしたファンタジーは、多くの場合文学用語である「教養小説」としての側面から理解することができます。この「教養小説」というのは、ドイツ語でBildungsroman(ビルドゥングスロマーン)とされ、自己形成小説とも呼ばれます。こうした物語の特徴は、主人公が何らかの体験を通じて、内面的に成長していくということです。これは、物語がなぜ成立するのかという原始的な話に通じると私は感じていますが、このアリス・イン・ワンダーランドも例外ではないと思います。アリスは、先見の明を持った人間です。しかし、周囲の古い慣習が残っている閉塞された空間では、どうしても違うと思いながら最終的には彼らに合わせざるを得ません。しかし、それがどうしても自分が譲れない部分と対立した時に、彼女は一旦妄想の世界、別の価値観の世界に異界訪問することによって、新たな自己を形成するのです。
 ワンダーランドは見方によってはアリスの創造の産物ですが、今回の映画では、そのワンダーランドでアリスではない、偽のアリスだとワンダーランドの住人からは非難されます。自分の妄想のなかであると思っているアリスにとって、自分の世界のなかで自分が自分ではないと言われるのは相当のショックがあったでしょう。しかもその世界では、予言書があり、アリスが近いうちに恐ろしいドラゴンと戦うことが決定しているのです。現実の世界では不細工な子供と結婚させられそうになり、自分の妄想の世界にきたと思っても、おそろしいドラゴンと戦わなければならないことが決定している。アリスにとってはふざけるなの連続だったことでしょう。
 最終的にドラゴンと戦うことを決心するアリス。それまでの様々な苦難が彼女の本当のアリス足らしめるための成長の物語になっていきます。彼女は、いったん別の世界に渡り、そこで新しい価値観と触れ合うことによって、自己を同一化させていくことになるのです。そうした点では、アリスが6歳の時にワンダーランドに来たのは、エリクソンの発達段階的な考えを用いれば、ちょうど遊戯期で、自分の世界をつくってそこで遊ぶという行為になりますし、19歳になったアリスが再びワンダーランドを訪れてそこで新しい自己、本来の自己を確立していくという面では、自我同一性を獲得していく物語ということになります。
 ですから、ドラゴンを倒すことによって、自我同一したあと、すぐに現実の世界に戻ることになります。自我同一ができていなければ、そのままワンダーランドに居座るということになったことでしょう。現実の世界では、アリスが逃げ出してから数分も時間が経っていないことになっています。そこで彼女は、不細工な貴族の求婚をきっぱりと断り、その場に居合わせ、自分たちの勝手で結婚を押し付けようとした人間たちに、それは間違っていると断言するのです。これが、この作品のカタルシスになっているわけで、多少極端に描きすぎてはいますが、周囲の外圧に対して、自分は自分であることを高らかに述べたアリスの姿はすがすがしく感じられます。

-終わりに-
 唯一の謎であるのが、赤の女王が何故ジャバウォッキーを手なずけられたのかということです。ジャバウォッキーが敵視している剣を用いたのかわかりませんが、ジャバウォッキーほどの力のあるドラゴンが、特になんの魔力ももたない赤の女王の言いなりになっているのは謎です。
 また、この作品では、赤の女王が悪、白の女王が善のような二項対比で描かれますが、赤の女王が何故王権を奪わざるを得なかったのかと、彼女のセリフを考慮すると、白の女王が本当に善なる存在なのかという疑問が発生します。赤の女王が穿っていたとしても、赤の女王と白の女王の両親から白の女王は王権を授与しました。それは姉であった赤の女王にとっては、策略を用いて両親に付け入ったと見えたと述べています。白の女王は、風貌こそ純白ですが、小さくなる薬をアリスの目の前で作るさいには、結構汚い行為をしています。実は白の女王もよさそうに見えて、策士なのではないかと二重の解釈ができると私は思います。

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