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小説と映像というメディア媒体の差を考える 「まほろ駅前多田便利軒」を題材として

 ここしばらくは、女性作家が書いた作品をメーンに取り上げて論じてきました。その多くは、ドラマ化されたり、映画化されてりしていて、現在の広い意味での文藝というものは、小説や映画、ドラマと多岐のメディアに渡っての考察が必要になってきていると感じられます。
 昔から小説の映像化というものはあります。時には映像のために作成した脚本が小説化して逆に出版されるというパターンもありますが、ほとんどは前者の形態でしょう。最近取り上げた作品では、たとえば、越谷オサムの『陽だまりの彼女』は今年10月に映画化が決定しています。原田マハの『カフーを待ちわびて』は2009年に既に映画化されています。今最も旬な作家、三浦しをんは『まほろ駅前多田便利軒』が映画化の後、ドラマ化。ちょうど今週の金曜日に最終話が放送らしいので、時間がある方はチェックしてみてください。三浦しをんは、さらに『船を編む』が近日公開されます。有川浩の『阪急電車』も映画化されていますし、有川浩といえば代表作である『図書館戦争』シリーズがアニメで映像化されています。
『陽だまりの彼女』のレビューhttp://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-437.html
『カフーを待ちわびて』のレビューhttp://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-434.html
『阪急電車』のレビューhttp://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-432.html

 このように、映像と小説が切り離せない時代のなかで、媒体の差をどう考えて行くのかということが、今求められます。それは私たちのような文学を専門にしている学生だけに限った話ではありません。80年代あたりから、テクスト的な思考が学問のなかで広まり、様々な作品は、作者や作家の所有物という考えから、作品は独立した記号的な物体であるというように変化し、読者や読み手が積極的にテクストをどう分析し、解釈し、新たに創造するのかということになりました。私たち読者は、ひとりひとりが自分の「読み」や「見方」を持っていて、それをぶつけ合う事によって、作品を読者による創造物にすることができるのです。
 小説という文字の記号の配列を、一体どのように解釈するのか、これは永遠の謎であります。しかし、これを映像化するということは、何らかの解釈がそこに介入するはずです。ですから、例えば映像化された作品が、自分のイメージと異なるという場合は、読者の解釈と、映画を作った監督の解釈が異なっていたということになります。だから、この作品は小説の方がよかったという感想は至極最もなことなのです。自分はこういうように作品を読んだということを、それぞれの読者が積極的に発表する必要があります。その行為のために、非常に便利なのがこのブログの存在です。ネットという媒体は、私のようにとても簡単に個人の意見を発表することができます。ただ、私の情報もたかだか小さな人間の頭脳一つ分を駆使しているだけなので、非常にあやふやな部分もあれば、打ち間違えをはじめ、情報のソースも確かでない場合がかなりあります。出来るだけ気を付けているつもりですが、私が言ったことをすべて信じられてもちょっと困ったことになるかもしれません。ですので、そこは難しい部分でもあります。ただ、作品をどう読んでいくのかということは、そこらのブログにごまんと転がっています。ブログを開設していない、ブロガーでない方も、別々のブログの論を見比べて自分はどう考えるかということを自由に創造することができるのです。
 
 さて、閑話休題、前置きがずいぶん長くなりましたが、今回は三浦しをんの『まほろ駅前多田便利件』について、私はかつて映画版と、小説それぞれのレビューを書いたのですが、ドラマを良く見られているブロガーの方で、燃える朝やけさんという方からコメントを戴きました。この方が、私の小説のレビューを読んでくださった上、ドラマの分析をしてコメントしてくださったので、是非それを一つの記事としてみなさんに紹介したくてここに掲載します。もはやコメントを越えて、すばらしい分析になっていたので、それをコメントのままでみなさんの目に触れないのはどうも忍びなく、記事にさせていただきました。本文はコメントをそのまま引用させていただきます。
こちらが、コメントを投稿していただいた。燃える朝やけさんのブログ『Heart of the Sunrise エンタメ系なんでも見聞録』http://northernim.blog.fc2.com/です。
これは私が書いた小説版『まほろ駅前多田便利軒』のレビューhttp://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-433.html#comment73
映画版『まほろ』のレビューhttp://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-275.html

コメント本文

ドラマの「まほろ」と小説の「まほろ」
こんばんは。ドラマの最終回を待って投稿しようとしていたのですが先週になっても終わらず(今週金曜深夜が最終回らしいです)、こんなタイミングで投稿します。
しかしまほろといい、阪急列車といい、カフーといい、小説が本当に次から次へとドラマ化、映画化されるようになりましたね。
最近全然本を読めていないのですが、この企画に取りあげられた多くの作品を映画として観たことがあり、ちょっと愕然としました。いいやら悪いやら・・・

「まほろ」のドラマは深夜の放送+「モテキ」の監督。
雰囲気重視で、多田と行天の同級生設定や行天の親指事件が出てきません。バツイチや、互いの心の痛みの描写もなしです。
謎めいたやるせない男二人がやるせなく便利屋を営んでいて、変な依頼者の変な依頼を受け、ちょっとホロリとする皮肉な結末にまたやるせなくなって終わる、という日常の繰り返しです。
但し最終回前の先日、多田が意中の女性に「バツイチ」を打ち明けていたりするので、最終回で今までの流れが大きく変わる可能性も出てきましたが、それをやるには恐らく尺が足りないでしょうね(実質30分程度しかない)。
映画は・・・眠くなっちゃって・・・余計な空間が多すぎて退屈になっちゃいました。ホント、記事でご指摘の通りです。

夜中に放映しているドラマを録画して、翌朝になってぼんやりと観ているので、全然深く考えずにこの物語と向き合っていました。
改めて思い起こしてみると、多田や行天はもちろん、周りの顔見知りや依頼者なども皆少しずつ傷ついていたり冴えなかったりして「負けて」いる人間ばかりです。小説と同じかもしれませんが。
こちらで指摘されている小説の後半のテーマは放棄したかたちですが、前半のテーマは淡~く登場人物全員に託され、「それでもそうやってやるせなく皆生きていくんだよ、それでいいよ」といった曖昧でルーズな答えが、ムードとしてドラマ全体で提示されているように解釈することができそうです。
主題歌やOP映像なんかもそういう雰囲気があります。「夢の匂いなら少し覚えてる」(OP主題歌のフレーズ)、「まともがわからない」(ED主題歌のタイトルとフレーズ)って言ってるぐらいですから。
また、小説ほどテーマを明確に取りあげず、テンポよく進むように、わざと「雰囲気ドラマ」にしてあるような印象も受けました。

もうすぐ最終回、彼らに「希望」はあるのか?前回+予告を観ていると、下手すると死にオチさえありそうな展開なんですが・・・どうなるんでしょうね。
特に頼まれてもいないのにこんな報告を長々としてしまいましたが、「まほろ」ワールドを楽しんだり、考えたりする際に少しでもお役に立てば・・・と思い、あえて投稿させていただきました。

以上が頂いたコメントになります。
特に「まほろ」は小説、映画、ドラマと多岐メディアに渡ってメディア展開をしています。こうした同じ作品を異なるメディアでも作品化することを、広告業界用語で「メディアミックス」と呼びます。小説というメディアを考えた場合、とても省略して説明すれば、小説は読者に力がないと読まれないという、完全に読者まかせの媒体です。作品はありますが、まず読者が読んでくれなければいけない。そうして読者がそれなりの小説体験があり、文章からイメージが出来なければ作品は読まれません。それに対して、映画とドラマというのは、映像化されており、読書しない人でも作品が楽しめます。映画とドラマの違いは何かと考えた際に、映画は莫大なお金を投入して、濃密な2時間を作ることができる。それに対して、ドラマは長い時間を割くことができるので、細部や小説にはなかった部分を付け足すことができたりします。その反面、映画では小説の内容を大幅に削らなければならなかったり、ドラマでは原作になり場面を勝手に付け足したりすることによって、原作との差異が生じます。その差異は、それぞれの監督の作品解釈にゆだねられるわけです。
 現在最も注目されている作家三浦しをん。皆さんも、ご自分の目で三浦文学を愉しんでみてください。最後に4月13日から公開される、『舟を編む』映画版の公式ホームページを紹介して終わりたいと思います。
http://fune-amu.com/#toppage

 
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越谷オサム『陽だまりの彼女』試論 感想とレビュー 真緒は本当に猫なのか、擬人化とリアリズム

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-初めに-
 2008年に発売されてのち、帯にある「女子が男子に読んでほしい恋愛小説NO、1」というキャッチフレーズとともに未だ話題をよびつづける越谷オサムの『陽だまりの彼女』。2013年、すなわち今年の10月には映画化もされます。真緒役は上野樹里が演じるとあって、個人的に彼女のファンであるのと、猫という動物を印象付けられた主人公のキャラクターにマッチしているのとで、今年の秋は映画館に足を延ばさなければいけません。
 今回はこの小説がなぜ話題を呼んだのかということを考えてみたいと思います。今さら言う必要もないかと思われますが、私の評論はネタバレを含みますのでお気を付けください。

-人間と猫が交流する物語-
 この小説は、恋愛小説でありながら、ミステリ要素のある、いわゆるライトノベル的な小説であるという事ができるでしょう。描かれている内容は、ごくごく普通の読んでいる側がはずかしくなるような甘酸っぱい恋愛。しかし、彼女である真緒は、小さい頃の記憶を失っているという非日常が途中から色濃くなります。彼女の謎の出生が次第に存在感を増してくるさまは、この小説がハッピーエンドで終わるのか、バッドエンドになるのかと読者をはらはらさせます。
 この小説は、実は彼女が猫だったというオチがついているわけですが、こうした人間と人間ならざるものの種を超えた恋愛というのは、もともと昔話の話型から来ています。有名な雪女などは当然妖怪の類ですし、小泉八雲が集めた日本の昔話のなかには、様々な妖怪が人間と恋愛をする話があります。しかし、ここで傾向として気づける点は、大抵女性側が人間でないもので、男性は人間であることが多い点です。この点はなぜそうなのかという明確な答えを私は持っていませんのでなんとも言えないのですが、男性である私からすると、女性の方がどこか神秘的な力を有しているように感じられるということはあります。また、それまでの物語を紡いできた人間が、ホモソーシャルの社会だったこともあり、ほぼ男性であったという点にも、女性が人間ならざる力を有していると感じた男性が物語ったということも原因の一つではないかと考えられます。人間ならざる力とは、率直に言えば生命を生み出す偉大な力に他なりません。男にはそれができませんから、全く謎ですし、また神秘的であると感じるのかもしれません。そうしたことから、大抵の異種同士の恋愛には女性が人間でないもの、男性が人間という構図が多くあります。この小説も、帯には「女性が男性に読んでほしい恋愛小説」と銘打ってありますが、書いているのも男性ですし、男性が主人公ですし、なぜそれが女性が読んでほしいということになるのか少し謎ですが、男性向けに書かれていることは確かです。
 ちなみに、私が知っているなかで唯一男性側が人間でないパターンの物語は、女性作家である江國香織が書いた『デューク』です。女性が書けば男性側が犬になって登場するのかもしれません。

 この小説は彼女が実は猫だったというあまりにも非現実的な内容が最後まで隠されているために、二度目に読むといたるところに彼女が猫と印象付けられている伏線があることに気が付きます。タイトルである陽だまりという言葉も、猫が陽だまりの中で寝転がる状況をイメージしています。
 この小説は、彼女の正体が実は猫であるということが大前提として描かれていますが、何故彼女は猫だったのか、あるいは猫がなぜ人間になれたのかということをもう少し踏み込んで考えてみると、この小説もまた広い意味での「擬人化」なのではないかと私は思います。
 どうやら猫の寿命と同じく、人間のすがたをしていても12年ほどしか生きられないという設定がありようですが、真緒が人間としての姿を保てなくなると同時に、彼女は今までの自分の記憶を主人公である奥田以外から消してしまいます。真緒がそもそもどうして人間になる力を有しているのか、またおそらく真緒と思われる猫が最後に発見されるのですが、この猫も12年のインターバルを経たら再び人間として12年間過ごせそうなことが示されているのはなぜかということが問題になります。おそらく最初に奥田が小さいころに拾って、すぐに消えてしまったネコが真緒だったろうと解釈できますが、猫の姿としてこれ以上生きられないということを悟っていた真緒は、12歳くらいの少女になり、自分の最後に優しくしてくれた奥田に恩返ししようとしたのだろうと思われます。しかし、そうだとしても人間に姿を変えて恩返ししようと思うには若干説得力に欠ける動機です。猫は九生を持つという言葉が最後に紹介されますが、9つの命がある真緒。真緒は二つ目だったということが最後に描かれていますが、おそらく、それ以前から、9つのいのち以前からずっと輪廻転生のなかで何度も何度も真緒と奥田の魂はくっついたり離れたりを繰り返していたのではないかということも考えられると私は思います。

-擬人化とリアリズム-
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-307.html
以前アニメ映画で紹介した大島弓子が書いた『綿の国星』では、猫は猫のままという設定ですが擬人化されて登場するという作品がありました。ここでも記したのですが、擬人化をするという行為は、他の種族を我々人間の理解できる範疇に多少強引に入れるということなのだろうと私は思います。
 妖怪類の話は、妖怪や幽霊などの人間の力をはるかに超えたものをコントロールするために人間として登場させたのだろうと思われます。犬や猫が人間となって登場するのは、ペットとして普段から家族同然の付き合いをしていたとしても、やはりどうしても猫や犬とは会話ができませんから本質的な理解が生まれません。その種族の壁を物語のなかだけでも越えたいという願望の表れなのだろうと私は思います。
『陽だまりの彼女』のなかで繰り返し流れる印象的な音楽はザ・ビーチ・ボーイズの『素敵じゃないか』です。

 越谷オサムの日本語訳がテクストには載せられています。その歌詞には、二人でいることの幸せが表現されています。猫などのペットを飼うと我々と比べて命が短いですから、どうしても彼らの死を私たちは見なければならないことになります。ではその別離をどうにかして克服しようとしたらどうなるのか、それがこの小説に描かれていると私は思います。

 石神井公園が出てきたり、善福寺公園が出てきたりと、武蔵野に近い地域のご当地小説になるのですが、そうしたリアリティーのなかに非現実を巧みに組み込んでいるのがこの作品の素晴らしい点です。日常の中に非日常をそれがわからないようにうまく隠しこむというのは、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』などに見られる文学用語ではマジックレアリスムという手法です。ただ、かなり強烈な見解ですが、このリアリティーに着眼するならば、すべて奥田の妄想であったということもできると私は思います。少なくとも、真緒に関する記憶は奥田以外ありません。最後に猫になって登場する真緒と思われる存在も、客観的には人間の言葉を話しているとは思えません。全て本当だと信じることも可能であれば、すべて奥田の妄想だったと読者が考える可能性の余地は残されていると私は感じます。捨てられていた猫を拾ったものの、すぐに消えてしまったことを今でも悲しく思っていた奥田は、猫が九つの命を持つということを知り、自然と自分がなっとくできるように自分の前に猫だった真緒が現れて自分との思いを共有することができたのだということを妄想していたという可能性です。
 
-終わりに-
 真緒が猫であったということを念頭に置けば、この小説から考えることができるのは、人間とペットなどの命の長さの異なる存在の交流の問題でしょう。猫や犬を飼っている人ならわかりますが、私たちはどうしても彼らとは本質的には理解することができません。なんとなくわかっても、彼らの脳は人間でいえば永遠の二歳児ですから、ご飯とか寝るとかそうしたことしかわかりません。こちらがどんなにペットのことを家族だ、親友だ、恋人だと思っていても、向こうはそうおもっているかどうかわかりません。そうした人間とペットとの壁を乗り越えた物語をつくることによって、それを読んだ人間は人間と他の生き物もわかり合うことができるのだということを疑似体験することができるのです。ただ、真緒=猫のラインはそれ自体が実は主人公の妄想ではないかという可能性も捨てきれないと私は言いました。この構図をいったん頭の外に置くと、わずかな時間しか一緒にいることができなかった恋人との短い恋愛の物語として読み解くこともできます。
 ペットもまた短い期間しか一緒にいることができなかった恋人のような存在であることのは間違いありませんが、たとえ相手が人間であっても、死別とまではいかなくても、何らかの形で一緒にいることができなかった恋人はたくさんいます。
 愛し合っていた相手との別れは辛いものです。それが大嫌いになって別れたというような失恋程度ならまだ立ち直ることはできますが、世の中には愛しているのに別れなければならないこともあるのです。そうした大切な人との短い想いでは、別離があったからといって失われるものでもなく、むしろ大切にすべきものであるとこの小説は象徴的にあらわしているように私は思います。『素敵じゃないか』という音楽は、どんなに短い期間でも、別れがあったとしても、二人でいた時間は素敵じゃないかと言っているように思えます。
 

岩崎夏海「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」試論 感想とレビュー 文学と経済を見据えた見事な戦術、なぜもしドラが売れたのか

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-初めに-
 ここ数年世間を賑わし、一大ブームを呼び起こした岩崎夏海著の、略称『もしドラ』を今さら読みました。先日たまたま私の大学に岩崎さんがくるという機会があったのですが、残念なことに用事と重なってしまい、出席できませんでした。代わりに出席していた友人からはとても面白い話が聞けたと聞きました。本書の内容が経営の分野にかかわることから、経営の学生が主催していたようですが、この本を読んでその事情を知ると、それは完全にドラッカーのマネジメントの顧客を想定するということを怠っていると考えられました。私が聞いたところでは、むしろ文学部の人間、国文やメディア系の人間のほうがためになる話になっていたからです。

-作品を構成する三つの要素-
 この作品は、三つの要素から成り立っていると私は思います。一つ目は、ドラッカーの『マネジメント』、もう一つは、作者自身がオタクであると自認する野球の実況、そうして最後は、泣き落としという要素です。これらは非常に明確に表れています。それは、マネジメントにある、顧客を想定するということをしているからです。
 この作品の顧客は、中高大学生です。そのため、今この世代に受け入れられやすい工夫がたくさんなされています。ドラッカーのマネジメントを私は読んだことがありませんが、この作品の内容を伝えるということが主眼であれば、もっと難しく書くことも、内容を深めることもできたわけです。しかし、文学を専門とする私からは多少深みがないとも思えるほど、明快で、わかりやすく描かれていました。
 この作品のタイトルが長いというのが、まずライトノベル的要素です。現在ライトノベルだけに限らず、出版業界では、長い名前が売れる傾向が続いています。「『桐嶋』部活やめるってよ」や『ふがいないぼくは空を見た』などがいい例です。それがいいか悪いかは別として、そうした現状と、流行をよく理解しているからこそ、この本はヒットしたのです。
 そうしてまた、さんざん話題になってきたことですが、装丁の問題があります。わざとライトノベルのような、イラストを使用することによって、この本の対象が誰で、どこなのかということがはっきりと明示されたのです。
 そうして、作品内でも指摘がありますが、野球というスポーツを選んだのは、それが日本で最もメジャーがスポーツだったからです。作家レベルで話をすると、岩崎夏海自身は、先日のテレビで知ったのですが、スポーツ実況のオタクだそうです。ですから、どのスポーツにもある程度の知識があり、なおかつそれを実況、解説するのが得意だということです。作者にとっては、もちろん野球以外のスポーツを選んでもよかったはずです。しかし、あえて野球をモチーフにするというのは、マネジメントに裏付けされていることでしょう。
 そうして、最後の成分としての「泣き落とし」。これはずるいなと個人的に思いましたが、この作品では最も学生の情に訴えかけるヒロインの死が描かれます。冒頭から、身体が弱くて病院に入りっぱなしであった主人公の友人である夕紀。この作品の根底にあるのは、人の生きがいという、最も根源的で重要なことでありながあら、しばしば忘れられていることです。

-何をマネジメントするのか-
 夕紀は、作品の最後で明かされますが、実は作品が始まった当時ですでに余命三か月よ予告されていたのです。それが、主人公みなみの活躍によって、励まされ一年という時間をともに生きることになる。この9か月間も長生きさせたということはどういうことか、これが実はこの作品の隠された大事なテーマだと私は思います。
 主人公みなみは、運動万能で小さいころから野球をやってきたのですが、彼女自身はプロの野球選手になれると思って頑張っていたのに、それが実は現実では不可能だったということが発覚し、みんなにだまされていたと感じています。みんなにだまされていた、実は自分ひとりの思い違いだったというのが、この主人公の重要なテーマになるわけです。
 しかし、昔から病弱だったものの、入院が必要になって野球部のマネージャーを続けられなくなった親友の夕紀のために、みなみは再び嫌いだった野球とかかわります。そうして、夕紀のために、自分が代わりに野球部のマネージャーになるのです。ただ、マネージャーが何をしていいのかわからなかったみなみは、とりあえず本屋さんで、マネージャー、マネジメントに関する本を求めたところ、それがドラッカーの『マネジメント』になるという構図です。
 野球部のためにマネジメントを続けるみなみ、ここはお決まりの成功と失敗を繰り返す話型です。ドラッカーの『マネジメント』をもとに、野球部の顧客とは誰なのか、野球部とは何をする組織なのか、こうした一見当たり前と思われていたことが、実は大変難しい問いであったことに気が付かされます。
 しかし、作品の最後で、一緒に野球部を立て直して、甲子園が目前となった矢先に、親友であり、一緒にマネジメントをかんばってきた夕紀が死にます。ここでも、誰もが余命3か月ということを知っていながら、親友であったみなみにだけは隠されていたということにショックを受け、こころを閉ざしてしまいます。みなみは、実は野球のためにマネージャーをやっていたわけではなく、親友夕紀のために、マネージャーをやっていたということに気が付くわけです。そうして、野球のすべてを否定するみなみ、しかし、そこにはみなみの頑張りと、それを見越して夕紀がみんなに真実を伝えていたということから、みなみはみんなに受け入れられて、立ち直ることができます。ですから、みなみは夕紀をマネジメントしつつ、実は夕紀もみなみをマネジメントしていたのです。それに気が付いたときに、みなみは人の生きがい、真摯な態度を本当に実感することができたのでしょう。

-終わりに-
 ドラッカーの『マネジメント』、原作は大変な大著であるようです。それをわかりやすくしたものが、エッセンス版として出版されているようで、それをみなみは入手したということになります。組織とは何か、どのように組織を経営していくのか、これは私も考えるところであります。特に、岩崎氏も言っているように、日本の中高のマネージャーという存在の認識を、今考えないといけないと私は思います。中学や高校のマネージャーって一体なんなのだろうかと、私は常々思ってきました。特に女子、どうして、自分たちは部活の主役にならないのに、男子の雑用ばかりしているのだろうか。何を好き好んでやっているのだろうか、私は文科系の部活をしていた人間なので、そうした部分がまったくわかりませんでした。そうして、現在のマネージャーの状態というのも、また大きく間違った認識がなされているのが現状です。
 マネージャーは監督であり、組織をマネジメントする人間なのです。リーダーとは異なります。中高の部活という、組織で言ったら一番小さなものであっても、きちんとマネージすることによって、何が目的なのか、何をしたいのか、誰が顧客なのかを想定することによって、人々は生きがいを考える必要があると私は思います。

現代を読み解く女性文学 原田マハ『夏を喪くす』試論 感想とレビュー それぞれの喪失に対してどう向き合っていくか

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-初めに-
 2012年1月に発売された山本周五郎賞受賞作品『楽園のカンヴァス』で一躍時の人となった原田マハは、2012年という年に、今までの彼女の執筆ペースからは考えられないほどの作品を発表しています。4月には『旅屋おかえりthe long way home』、7月には『花々』と『ラブコメ』、9月には『生きるぼくら』、10月には『夏を喪くす』、11月には『独立記念日』、年が変わって2013、一月には『さいはての彼女』と、怒涛のスピードで発表しています。一躍有名となったので、出版社がこぞって彼女の本を売りたがっているのかもしれませんが、ここまで出されてしまうと、追い切れません。私も原田マハの作品はほんの数冊しか読んでいません。ですが、今回論じる『夏を喪くす』は、『楽園のカンヴァス』や前回論じた『カフーを待ちわびて』を考えるうえで重要な視点をもたらしてくれると思います。

-『天国の蠅』-
 『夏を喪くす』は、短編四編による作品です。『天国の蠅』『ごめん』『夏を喪くす』『最後の晩餐』の四編になります。
 『天国の蠅』は原田文学の一つの着眼点でもある親子の縦軸の関係を考えるうえで大きな意味を持ってくると思います。『楽園のカンヴァス』では、早川織絵という女性と、その織絵の私生児であるハーフの娘との関係が描かれています。作品のほとんどはティムの視点に移るため織絵と娘の関係はあまり描かれませんが、作品のメーンは美術を巡る謎解きだとしても、作品の外部には親子の絆という縦軸の関係が作品を構成していることがわかります。織絵は自分の母と、私生児である娘という三人で暮らしていましたが、この複雑な関係が作品を読み解く視点にもなります。この『天国の蠅』は、三人称主人公視点の作品です。主人公は範子と呼ばれるごくごく普通の母親です。自分の娘の明日香が雑誌をリビングにおいていった場面から物語がはじまります。その雑誌には明日香が投稿した詩が掲載されていました。普段はなかなか親子の会話がないものの、娘の意外な側面を見ることが出来た喜びを感じたという作品です。しかし、その雑誌の他の詩を見たときに、範子は回想を始めます。そこにはかつて自分が知っていた詩が載っていたからです。
 範子は現在母となっていますが、範子がまだ娘だった頃、父親は借金にまみれ、病弱な母親と暮らしていた貧しい過去を思い出します。自滅型の父親は、娘にいいことをしてやりたいと思いながらも、どんどん娘の信頼を失っていくことになります。太宰治型の父親といった感じです。娘のバイト代を掠めようとしたりします。しかし、最後の最後になって、父親は父親としての役割をはたして、娘の元を去ります。その後に度々会うことはないのですが、破滅していく父が最後に娘に残した思いが、時を経て再び母となった範子のもとへ訪れるという時間軸を巧みに操ることが得意な原田マハの作品構造がよく表れた作品です。

-『ごめん』-
 『ごめん』は、通常の読者であっても腹立たしさを感じる人格の持ち主が主人公です。陽菜子が病院に居る場面から物語は始まりますが、何故病院にいるのかというと、陽菜子の夫である純一が建設会社で事故にあって植物状態になってしまったからです。一命は取り留めたもののほとんど回復の見込みのない状態でこれからどうしていくのかという問題に直面します。純一が事故にあった際、陽菜子は、自分の不倫相手である正哉とプーケット島のコテージにいました。正哉は陽菜子より10歳年下で同じ職場で働いています。同じ時期に同じ場所にいくことがバレるとまずいため、二人とも別々の場所に行くと言って旅行に出ました。そのため、純一が事故にあった際に、連絡が付かなくて結局最後にはばれてしまったという状態にあります。
 病院では純一の母親にこっぴどく叱られ、酷い女だとなじられます。純一は真面目一筋が取り柄のような男で、遊びほうけている陽菜子に対して何も文句を言ったこともなかったような人物でした。ところが、その純一の口座から毎月定額振り込まれている謎のお金があります。この謎を解いていくというのが、この作品のメーンになります。この点は原田マハのミステリの要素を含んだ構成になっています。結局出てきた答えは、純一が一度だけ出張した先で一目ぼれした女性がいて、その女性が現在でも直向きに働いていたということがわかります。ここで考えたいのは、原田文学の特徴は、女性文学であると同時に、働く女性が生き生きと描かれるという側面です。陽菜子は一般的に考えても、悪い人間ですが、彼女もばりばりのキャリアウーマンです。むしろそのあふれ出るバイタリティーが純一だけでは満足できず、後輩に手を出すというスリルを求めたのかもしれません。パートナーがいたとしても、一人で働いているような女性、その女性が、社会から悪だなんだと非難されてももがきながら生き続ける。こうした側面に意味を見出す必要があると私は思います。
 結局この作品では、自分に落ち度はないと感じていた陽菜子も、完璧な善人であった夫純一にも自分に隠していたことがあったということを知って、自分の今までの行為を見直し、反省し、今までむちゃくちゃを好き放題やらせてもらったお返しに、植物状態になった夫を介護して行こうと決心する若いの物語としても読めます。

『夏を喪くす』
 作品全体のタイトルともなっている『夏を喪くす』は、それぞれ女性の在り方を見つめて来た作品のなかでも極めて働く女性という部分に着眼した作品だと言えます。主人公の咲子は、かつて勤めていた仕事場をやめ、先に他の職場に移っていた部下の青柳とともに起業します。地方の公共建設のコンペに出たり、リゾート開発に似た仕事をしたりと、仕事のために生きているような充実した生活の真っただ中にいます。特にパートナーはいませんが、妻と子供がいる渡良瀬一と不倫関係にあります。仕事に満足し、結婚したいとは思っているものの、それほど強烈な願望はないため、一応仕事と男とに充実した成功したキャリアウーマンとして描かれます。
 自分の年齢の割にはプロポーションもよいと自認している咲子は、新しい建築計画の下見で来た海岸で、部下である青柳と他二人とバケーションを愉しみます。その間に咲子は自分の不倫相手である渡良との逢瀬や、そのことで発覚した胸の異変、乳がんのことの回想が入り乱れます。摘出しなければならないほどに進行していた乳がん。もしそのことを告げたらどうなるのか、自分と渡良の関係は今後どうなるのかが常に念頭にあるため、晴れない様子の咲子に、青柳は声をかけます。
 この短編は特に内容が濃密なだけに、長編の容量がないとどうしても唐突すぎて不自然さが出てきてしまうのですが、この青柳という男も、近々失明するのだということがカミングアウトされます。何故この青柳が突然視力を失わなければならないのかが多少理解に苦しみますが、この作品はそれまで獲得しつづける人生にあった人々が何かをなくす=喪くすということに着眼すべきでしょう。前回論じた『カフーを待ちわびて』との類似点は先ず、前回の作品がリゾート開発をされる側の人間の視点であったのに対して、今回はリゾート開発をする側からの視点で描かれていることです。こうしたことからも、作家としての原田マハは、美術に造形が深いだけでなく、建築方面にもかなりの知識があるということが察せられます。また、『カフー』がすべてを失った人間が獲得しはじめるという方向に向かったのに対して、この作品はすべてを手に入れた人間がそれぞれの大切なものを失うということを描いている点です。このようなことからも、この作品が『カフーを待ちわびて』と対になる作品であると言うことができるでしょう。
 自分のプロポーションにも自信があった彼女にとって、乳房の摘出という衝撃は計り知れません。この点男性である私には本質的に理解することができるわけはないのですが、当然夏場にビーチに水着で出ることもできなくなるのでしょう。愛人である渡良との関係もどうなるかわかりません。渡良には家族がいますし、咲子と逢瀬を重ねる理由は肉体的なことが大きな目的であることは誰が見ても明らかです。もしかしたら渡良との関係は終わるかもしれない。それにもう一人の女としては男性に接することができなくなるかもしれない。そうした中でこれから自分はどうしていくのか。仕事を続けるのか、家庭を築くのか、そうした人生の転換期を迎えた中年の女性の心理が水水しく描かれています。

-『最後の晩餐』-
 原田マハ自身キュレーターとしての経歴を持つ経験を生かした作品が話題になった『楽園のカンヴァス』でした。美術業界の裏側に精通していなければとても書けない、日本では原田マハ以外にはかけない我々がまだ触れたことのない新鮮な世界を紹介してくれた作品です。この『最後の晩餐』は『楽園のカンヴァス』に登場する織絵のような女性キュレーターである麻里子が、アメリカニューヨークへ訪れた際の数日間の記録といったところです。織絵のその後と考えることもできるような作品ですので、まるで私たちも美術界の一員となった感じで美術界の裏側に入っていけるような感覚に襲われます。
 この作品は、ニューヨーク近代美術館、MOMAで働いたことのある作家原田マハが9・11に対してどのような思いを抱いているのかを少しうかがわせる内容にもなっています。9・11の後帰らなくなったルームメイトのクロ。あの事件から何年も経った今、まだクロとの思い出のアパートの一部屋の家賃を払い続けている人間がいます。事件ぶりのニューヨークで昔の知り合いに一人ずつあって、過去の話に花を咲かせ、現在の状況を話し合い、そうしてあのアパートの家賃を払っているのはあなたではないかということを繰り返す麻里子。多くの旧友と話しているうちに、クロとの記憶が回想してきます。
 クロは女性ですが、どこか麻里子とは同性愛的な関係があったかもしれないという可能性も捨てきれないと私は思います。肉体関係はなかったかもしれませんが、非常に濃密な関係であったことがうかがえます。美術界の人間ですから、登場してくる人物はそれぞれ個性的な人間が多く、オカマっぽい人物もいれば、きれきれでハンサムでも腹黒い人物もいたりします。この小説は、クロが死んだことを誰もが認められないという心の傷をどうやって癒すのか、クロが消えてしまったことによって空いた空洞をどうやってうめるのかという問題が描かれているのだと思います。
 クロは9・11後から行方がわかっていませんが、遺体も見つかっていません。普通に考えれば亡くなったと考えるのが最も妥当ですが、当事者であるほどクロは死んでいない、生きているかもしれないというように思いたがるものです。そうしてそれを信じるかのように、払い続けられるアパートの家賃。その家賃を払い続けているのが誰なのかを探すという、原田文学特有のミステリ要素もあります。

-終わりに-
 この短編四編は、それぞれ失うということがテーマになっています。失うことを、ここでは「喪」ということばを当てて喪くすと表現されています。『天国の蠅』では父親との関係や、少女として踏みにじられた心などの失われたものを「今」になって送られてきた詩によって向き合うということになります。『ごめん』は、普段気が付かなかった夫の気持ちや大切さというものを失って初めて気が付くということがテーマになっています。
 『夏を喪くす』は女性として女であることを失うことにどう立ち向かっていくのかという女性の最大の悩みを描いた作品です。『最後の晩餐』は、失われてしまったものとどう向き合うか、亡くなった人間を生きている人間はどう考えて行けばよいのか、現在の3・11震災にも通じる普遍的な内容が描かれています。
 何かをなくしたり得たりするということは相対的で、常に起こり続得ることです。人類の初めから終わりまである課題です。それにどう立ち向かうのか、それを考える一つの指標になると私は思います。

現代を読み解く女性文学 原田マハ『カフーを待ちわびて』試論 感想とレビュー 突然やってくる外界からの来訪者、主人公はいかにして自分の殻から出ていくのか

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-初めに-
 現代文学を読み解くうえでは女性の文学を無視することは決してできることではなくなりました。明治時代の男性主権的な文壇の状況は、かつては文豪と呼ばれた知識人たちがその座を占有していた時代から、戦後文学へと移行し、平成に入ってからは、女性作家が文学の中心を担うようになりました。今しばらく、女性文学を中心に論じて来ました。有川浩、桜庭一樹、三浦しをん、柳美里、小野不由美、宮部みゆき、辻村深月、綿矢りさ、などなど数を挙げればきりがありません。そのなかでも、特筆すべきは今現代最も売れに売れている作家としてのキャリアはもちろん、その華々しい経歴も魅力的な作家、原田マハでしょう。
 2012年に発表された『楽園のカンヴァス』は新潮社からの出版ということもあり、同社が主催している第25回山本周五郎賞を受賞。文學畑の人間は略して山周賞というのですが、この時に争ったのが同じく勢いのある辻村深月の『オーダーメイド殺人クラブ』でした。この戦いは原田マハが勝利しましたが、同年行われた第147回直木三十五賞、芥川賞と直木賞と略される直木賞のことですが、ここでは、原田マハの『楽園のカンヴァス』は同じく辻村深月の『鍵のない夢を見る』と拮抗。最後にこの二つの作品が残ったのですが、惜しくも『楽園のカンヴァス』が敗れました。昨年は特にこの二人が熱烈な勝負をしているのを興奮しながら見守った記憶があります。どうも山周賞をとってしまうと、直木賞をとりにくくなるというような側面もあるようですが、それは大人の事情というものでしょうか、私にはわかりません。とにかく、こうした戦いを魅せてくれた作家原田マハとはどういう作家なのか、今回はそのデビュー作となった『カフーを待ちわびて』を論じます。

-作品構造分析-
 『カフーを待ちわびて』。『楽園のカンヴァス』を読んでから挑んだ作品でしたので、カフーという言葉は誰か外国人の名前かなにかと思っていました。しかし、最初のページにも記されているように、カフーとは【果報】与那喜島の方言。いい報せ。幸せ。という意味です。
 三人称主人公視点で描かれる作品です。主人公は友寄明青。35歳にもなって、まだ一人寂しく暮らしている男性が主人公です。この友寄は、生まれたときから指がくっついて、右手は四本しか指がありません。彼はその手を不細工な手だと考え、そのこともあって女性に対して奥手になってしまっています。この手が女性を怖がらせないか、女性をこの手で触ったら嫌がられないか、というように苦心しています。ある意味これは、この手によって女性から怖がられたり嫌がられたりして傷つくのを防ぐために自分からは女性に近寄れないということにもなっていると私は思います。
 そんな明青は、一匹の黒いラブラドール犬のカフーと隣に住むユタであるおばあと三人で静かに暮らしていました。このおばあとは血縁関係はないのですが、血縁関係以上に深い関係があるのがこの作品からは伝わってきます。それは一つの島という閉塞された空間のなかで、さらに隣同士ということがあり、小さいころから面倒を見てもらっていたために生まれた関係です。明青の祖母は7年前に亡くなっています。明青の父は出稼ぎで漁に行って事故死、弟の死産のあと、母親もふいにいなくなってしまいます。その後祖母もなくなって、明青の血縁関係者は誰もいません。明青はそうした大切なものを失い続ける人生でした。島からはほとんど出たことがなく、本島に行ったことが初の遠出になるくらいの非常に小さな活動範囲の中で過ごしてきた人物です。
家族が無くなる度にそれを予言してきたおばあ。おばあは何の悪気もなく、ただ事実を伝えるだけですから、それを理解している明青も、そうした一般的に考えれば不幸しか予言してこなかったおばあに対しては寛容です。そのおばあが突然いい報せ、果報(カフー)がつげられたという部分から物語は始まります。
そうして突然送られてきた一通の青白い封筒。明青には手紙をもらうような人間は一人もいませんでした。その内容は、遠久島の飛泡神社という場所に行った際に絵馬に「嫁に来ないか」とウケ狙いで書いたものに対する手紙でした。まったく見ず知らずの女性、手紙には幸と書かれていた人間から突然、絵馬を見ました。お嫁さんにしてくださいという内容のものが送られてくるのです。冗談だと思って一喜一憂した後に、間をあけずしてその幸という女性は明青の前に現れます。

こうした「ある日少女が(この作品に限っては少女ではありませんが)」という物語の話型を、私は「かぐや姫型物語」と勝手に命名しています。こうした傾向の作品には、例えば『天空の城ラピュタ』や『とある魔術の禁書目録』のような作品にも見られます。文学用語を用いれば異界訪問譚としても考えることができます。外界、異質な世界からの来訪者が主人公と出会う。そこから物語が始まるわけです。
こうした突然やってくる少女は、大抵謎を秘めているのですが、反対から考えれば、あるコミュニティーを追放ないし、それに近い形で出て行かざるを得なくなったという過去を持っているわけですから、秘密があるのはある意味では当然です。逆にやってきた少女が全然謎を持っていなかったらそっちのほうが謎になります。どうして来たのということになりかねませんから。
この小説に登場する幸という女性も、謎が多い人物として描かれます。しかし、大切なものを失いつづける人生で、初めて手に入った幸福に対して、明青はその幸福を失いたくないという思いから謎解きはしません。大抵こうした物語は、謎を解明した時点で、鶴の恩返しと同じくその場にも居ることが許されなくなることになりますが。しかし、その幸という謎の女性がやってくるのと前後して、リゾート開発を手掛ける俊一という男が島に戻ってきます。この俊一という男は、明青の同級生で、クラスでは常にもてた人間です。その俊一が島を生き返らせて見せると息巻いて戻ってきます。俊一の口車に乗せられて、島民のほとんどは俊一がいう事を信じますが、唯一おばあと、明青だけは、自分の場所から離れたくないと拒み続けます。次第に島民さえもがおばあと明青のことを疎ましく思うようになってくる部分は、閉塞された空間においていじめの対象が次第に明確になっていくプロセスにもにて、この島全体が一つのクラスというようにも考えることが可能だと思いました。もちろん俊一はクラスでは常に皆の脚光を浴びている中心人物です。


-殻からいかにして外界へと出ていくのか-
 原田マハの作品を分類するのは非常に難しいのですが、エンターテイメントでありながら、恋愛を描いた純文学作品に近い感じもします。大衆性があるというのが原田文学の強みです。『カフーを待ちわびて』は彼女のデビュー作となりましたが、代表作となった昨年の『楽園のカンヴァス』にも色濃く出ているミステリの要素が途中から強まってきます。
 俊一は明青が立ち退きを拒否して自分のプロジェクトの邪魔になることを予測していたために、とても同じ幼少期をともに過ごした人間とは思えないほどの卑劣な行為に及びます。明青は、もしかしたら自分を籠絡するために女性を差し向けた可能性に気づき、どうしても謎であった幸が自分のところへ来たことへの理由づけとして、俊一の策略と幸とを結びつけます。俊一の女として自分をだますためにやってきたのだと思い込んだ明青は、厳しく幸にあたり、彼女を追いだしてしまいます。しかし、すべてのことが終わった後で、俊一が差し向けたことは確かですが、実はその女性は金を持って逃亡しており、明青にやってきてはいなかったということが判明します。では幸はなんだったのかというと、本島に絵馬を頼ってやってきた女性だったということになるのですが、そこは物語として少し出来すぎな感じもします。ただ、その欠点を見事に凌駕するほど、この小説は年をとっても青春さを失わないさわやかなあどけなさや、人が人を信じるということの重要性などが表出していますので、小説としては決して失敗しているわけではありません。
 私が指摘したいのは、この小説が一人の人間がいかにして殻から出るかという問題だと思います。そうした点では、デビュー作ということもあり、綿矢りさの『インストール』との類似点が挙げられると思います。『インストール』は目に見える形で押入れという暗所、閉所に閉じこもり、そこから世界との関係の結び方を変更することに成功した物語です。このテクストは、一つの島、とても閉塞された空間、関係のなかですべてを失った人間が、そこから出ていくという物語です。やはり殻にこもっていた状態から、外へ働きかけるという方向性に変化したという一人の人間の成長が描かれていると私は感じます。
 
 タイトルにもある「待ちわびる」という言葉ですが、この小説では、しばしば犬のカフーが待ちわび顔をしているという描写があります。カフーはいつも主人を待っているのです。そのカフーの待ちわびるという姿勢は、主人である明青のことを象徴的にあらわしていると思います。明青は家族を全員なくしていますが、唯一母だけは生きている可能性があります。出て行って帰ってこない母がいつ帰ってくるか、母の帰宅を待ちわびているのです。母の欠如という意味では、自分の島、自分の家に閉じこもっているという引きこもる性質は、胎内回帰願望としても考えることが出来ます。自分の帰るべき場所、母親の胎内という場所へもどりたいという欲求が、母不在のため満たされず、自分の場所にひきこもりつづけることで疑似的に自分を胎内にいると感じさせている構造になると思います。『インストール』が外界とのかかわりを見直すツールとしてインターネットを登場させたのに対して、このテクストでは幸が外界との関係の結びつきの手掛かりになります。
 幸が外界からやってきた謎の存在です。その存在が「待ちわびていた」明青のもとへやってきたわけです。明青の世界にやってきた外界という意味が幸にはあります。明青の世界でその外界の象徴である幸と交流することによって、ただ自分の殻に籠ってひたすら待ち続けるという消極的な姿勢から、外界に働きかけていくという積極性に変質したことが、このテクストの最も重要な部分であると私は思います。

-終わりに-
 通常人間は年を取ればとるほど外界に働きかけていく力というものは弱まっていくのではないでしょうか。作家レベルで話をすれば、原田マハは非常に精力的な、時には多少力溢れすぎるほどのバイタリティーにあふれた人間です。少なくとも彼女の経歴を見る限りでは、どんどん押していくような人物に見えます。この小説を読んで思うことは、人間はいくつになっても、たとえそれまで自分の世界に自閉していた人間でも外へ働きかけてもいいのだということを教えてくれているような気がします。
 また、待つということですが、待つということは待たれる人間がいるから成立することです。一人の人間では成り立たない関係性です。この小説では幸を追い出してしまってから、幸は二度と登場しません。そこには一抹の悲しさを感じますが、これから探しに行くというところで小説は終わっています。もしかしたら、消えてしまいそうな存在だったので、これから見つからないかもしれないという可能性も捨てきれません。ハッピーともバッドとも言い難い結末ですが、きっと幸は明青のことを待ちわびているのだろうと考え、読者としては明青が幸を探し出すことを願ってやみません。
 この小説はそうした、誰かを待っている、あるいは待たれているという関係、自分のことを待っていてくれるひとがいるという関係性を重視した作品です。現在、コミュニケーションツールが横行し、ありとあらゆる関係性がちらばっている時代ですが、そのなかで最も根源的なもの、自分を待っている人がいることの大切さを感じさせられる作品です。

現代を読み解く女性文学 三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』 感想とレビュー 心に損失を抱えた人間るはいかにして立ち直るのか

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-初めに-
 前回の有川浩の『阪急電車』では小説を構成する二つの糸、横の糸=人物の視点と縦の糸=場所に注目して、場所に視点を置いた小説であるということを述べました。今回論じる『まほろ駅前多田便利軒』は、カメラという点では主人公である多田を追いかける格好になりますが、場所という視点も意識された小説だと私は思います。
 映画化されたことで、この作品は普段から小説を読まない人にも親しめる作品となりましたが、私の個人的な感想を述べさせていただくと映画はひどいの一言に尽きました。http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-275.html
 映画では一体何が描きたかったのかまったく不明でした。原作はきっと面白いのだろうと思っていたのですが、とにかく映画は「間」の取り方が異常にながく、内容がないのを時間をとってごまかしているようにしか見えませんでした。しかし、小説ではもっと物語があり、余計にこれだけ描くものがあるのに何故内容を少なくしたうえで変な間を入れて引き延ばしたという製作者たちの謎が浮き彫りになったように思えます。
 こうした文学と映像というメディア媒体の壁や差異をどのように考えていくかが、今後の文藝を見つめていくうえでの重要な視点になると思います。

-閉塞された空間、まほろ市-
 読み進めていくと一見ふつうの小説のようにも思えますが、私にはどうしても閉塞感というものが感じられてなりませんでした。どこか息詰まる感覚、主人公たちが動いているのですが、ある小さな箱庭でしか動けていない感じがします。それがまさしく「まほろ」という架空の町から出ることができないという象徴的なことがらを現しているのではないでしょうか。
 まほろのモデルは実際にあります。町田市がモデルとされているようですが、まほろ市というのはまぼろしと掛けた言葉で実際には存在しないことを現しています。この部分を強調して考えると、架空の場所でおこっていること、つまりこの小説の内容自体も架空のことという面が強まり、フィクション性、虚構性を強めているとも考えられます。そう考えて行くと、有川浩の『阪急電車』がリアリティーを追求していったのに対して反対の効果を演出する方向に向かっているということが出来ると思います。

 また、まほろ市という架空の町での出来事を描いていますが、登場人物たちがこのまほろから出られないことが象徴的に描かれています。文庫版60ページから描かれるまほろ市の描写が端的に表現しています。
まほろ市はどっちつかずだ。まほろ市は東京の南西部に、神奈川へつ出すような形で存在する。東京の区部から遊びにきた友人は、まほろ市に都知事選のポスターが貼ってあるのを見て、「まほろって東京だったのか!」と驚く。~まほろ市の縁をなぞるように、国道16号とJR八王子線が走っている。~おおげさに言えば、まほろ市は国境地帯だ。まほろ市民は、二つの国に心を引き裂かれた人々なのだ。外部からの侵入者に苛立たされ、しかし、中心を目指すものの渇望もよく理解できる。まほろ市民なら、だれしも一度は経験したことのある感情だ。それで、まほろ市民がどうしたかというと、自閉した。外圧にも内圧にも乱されない心を希求し、結局、まほろしないで自給自足ができる環境を築いて落ち着いた。~まほろ市民として生まれたものは、なかなかまほろ市から出て行かない。一度出て行ったものも、また戻ってくる割合が高い。~外部からの異物を受け入れながら、とざされつづける楽園。文化と人間が流れ着く最果ての場所。その泥っこい磁場にとらわれたら、二度と逃れられない。

 東京のへき地にあるため、そこに住んでいる人々の感覚としても東京であるという感覚はせず、かと言って小さくない町であるため隣の神奈川からは東京に出るという名目でまほろ市にあつまってくる人間が居る。都会と田舎のちょうど中間地にあり、中間的な存在になってしまったためにアイデンティティーが喪失されてしまっているのです。だから、自閉します。まほろ市ハアイデンティティーを確立するために縁にそって見えないバリアのようなものを張り巡らしているのです。だから、行天も多田もまほろ市から出ないのです。
 実は自由に見えていながらも閉塞された空間であるということが判明します。そうしてよくよく読んでみると、この小説にはホモセクシャル、同性愛的な側面も浮かび上がってきます。むしろホモセクシャル的な側面を浮きだたせるために、敢えて閉塞された空間であるということを隠しながら表現したとも考えられます。

 多田と行天の関係ほど謎な関係はありませんが、この小説が一部のファンの間ではホモセクシャル的な読み方をされるのはあながち間違いではないと私は考えています。ここに登場する人物たちは、どこか以前論じた窪美澄の『ふがいない僕は空を見た』に登場するような「ふがいなさ」があります。そのふがいなさが一体どこから生じているのか、この小説の中では、この二人の男性がそれぞれ心に癒えない傷を持っていたことが明かされています。人間というものが一体なんなのかということを考えた際に、ある程度パートナーという言葉からも理解できるように、一対の夫婦になるということは安定することのようであります。私は結婚していないのでよくわかりませんが。ここに登場する多田と行天は、それぞれパートナーを無くしてしまった人間なのです。人間として完成というか安定しないそれぞれの損失を抱えた男が自分と同じ境涯にある人間を見つけて、その欠損を補い合う、あるいは傷の舐め合いをしているというのがこの小説に登場する人物たちの現状なのではないでしょうか。

-心の欠損、小指と親と子-
 行天という人物は小指が一度切断されるという読んでいて目をそらしたくなるような事件を少年時代に経験しています。そうしてその原因をつくったのは、子供心の特に理由もない意地悪してやろうという文学的な表現をしてみれば悪意のない悪意を差し向けた多田にありました。多田はそのことが常に気がかりで、行天に対して負い目を感じています。行天にしろ多田にしろ、二人の本質は、次に引用する状態だと思います。
一度肉体から切り離されたものを、また縫い合わせて生きているとはどういう気分だろう。どれだけ熱源にかざしても、なお温度の低い部分を抱えて生きるとは。
 二人はこころに欠損を負った人物だと私は述べましたが、もしその欠損のありかたが上のようであったらどうしたらよいのでしょうか。むしろ小指が無くなっていたほうが良いのかもしれません。変に付けてしまったために、不完全ながらも損失が補われている。それはまさしくまほろ市の説明でもあった「どっちつかず」の状態なのです。傷を負ったと言えば負っているし、治ったと言えば治っているとも言えなくはない。しかし、変な治り方をしたために、それが余計に問題を引き起こしているのです。壊れたなら壊れたままの方がどうしたらよいのかわかりやすいものです。完全に治ったのならそれで終わりです。しかし、変に治ってしまった。もう一度小指をはずすわけにはいきませんし、これから違和感を常に抱えながら生きていかなければいけない。ではその中でどうやって生きるのか。これを探すのが二人の目的なのだろうと私は思います。

 またもう一つのこの作品の重要なテーマは、「子供が親を選び直すことができるのかどうかを。できるとしたら。なにを基準にするのか」という部分に集約されています。情報のソースが確証できないので余談程度で流しておいていただきたいのですが、作家レベルでどうも三浦しをん氏は父親との関係に何かしら問題があるということを聞いたことがあります。もしかしたら彼女のそうした部分が多少表れているのかも知れません。
 それは置いておいて、行天は自分の両親から、多田は自分の子に対して酷い行い、償えない行いを受け、または与えてしまったということが、この二人の心の欠損になっています。行天からすれば、自分が親を選ぶ直すことができたならばという問いになりますし、多田からしたら自分の子がもし他の親のもとに生まれることが出来たのならばという問いになります。この問題は急に後半になって浮上しますが、途中でちょっと不自然さがありますが、今の時代に病院で取り換えられてしまった人間が登場します。自分の親が実の親ではないとDNA鑑定の結果わかってしまった子供が、取り換えられたもう一人の家族、つまり本当の自分の家族をそっと見つめるという場面があります。少し不自然さがありましたが、これが多田と行天が望んでいたIFが実際に起きてしまった場合として象徴的に描かれています。
 
-終わりに-
 親と子の問題というのは生物が親から生まれる限り永遠に続く課題の一つになります。誰だってお金持ちの家庭に生まれて自分の好きなものが欲しいだけ手に入るような家庭、有名人のいる家庭、優しい父母のいる家庭に生まれていたらどんなによかったかと思うものです。特に両親との確執があって、まだそれが解決できていない人は今でも大きな問題となっているでしょう。私は自我同一性の問題をよく考えるのですが、思えば自分の両親がこの人で良かったと感じられることもまた自我同一性の確立の一つなのではないでしょうか。お金がなく、厳しい親であっても、自分はこの家に生まれてよかったと思えたなら生まれて来た意味があったと言えるような気がします。もしそれがかなわなかったとしても、この小説の最後には「幸福は再生する」と描かれています。
 多田と行天はなんとか自分たちが幸福になる道筋のかけらを見つけたようにも思える場面で物語は終わりますから、開かれたエンディングであるという事ができるでしょう。続編やドラマ化などがされていますが、それはきっと二人が希望を見つける道中の描写になることだろうと思います。

現代を読み解く女性文学 有川浩『阪急電車』試論 感想とレビュー 群像劇からみる多義性の重要性

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-初めに-
 『図書館戦争』シリーズで一躍有名となった有川浩。ライトノベルのジャンルで活躍してからは、『旅猫リポート』や今回論じる『阪急電車』などの大衆文学へも進出してその才能を発揮しています。部類の本好きで、紛れもなく現代の本のソムリエの中でも最高の眼を持っていた児玉清に絶賛され、もはや彼が手放しで評価するレベルの信頼を得たのが有川浩です。有川浩の小説の解説には、いつも児玉清の解説か、対談がのります。しかし、児玉さんの死去によってそれもかなわなくなってしまったことが残念でなりません。
 児玉清が評価したのは、読みやすさと面白さという二点だと私は感じています。おそらく児玉清なら『abさんご』は評価しなかったのではないかと予想していますが、読みやすさや面白さを評価して大衆文学をより多くの人々に広めることに尽力した人間といっていいでしょう。私は文学を専門にしていますから、そうした一義的な価値観はいけないと言っているのですが、児玉清が行ったことはある意味すばらしいことだと思います。

-有川浩という作家、どこにカメラを置くのか-
 有川浩にしては珍しい群像劇的な小説です。阪急宝塚線を舞台として、一駅ごとに乗客のある一人の眼を借りて物語が進むというショートショートの形式でもあります。しかし、それらの短い話同士は、おなじ車内にいた人間が少しずつ絡んでいて、映画『マジックアワー』の映像の切り替えにも似た、ある人間の視点でみえていた人間に視点が移っていくというような手法を採用しています。ですから、読者はさっきあの人の視点でああいうふうに見えていた人の視点に変更したんだと理解することが出来、物語を別の角度から眺めることができるため、感情移入もしやすいですし、なによりも物語を楽しむことができると思います。
 図書館戦争もある意味あの長大な物語のなかで、笠原郁、堂上篤、柴崎麻子、手塚光などの主要な登場人物たちの視点を巡る物語として様々な視点を取り入れるということには成功していました。有川浩は、児玉清との対談でも話していますが、プロットをつくる作家ではないということを本人は言っています。ですから、そうした点においては、今回の『阪急電車』は最初から一駅分のお話と細切れにされた枠組みがすでに決まっていたのですから、作家としてはプロットに本格挑戦したということになるのではないでしょうか。そのためかわかりませんが、前半では、一度電車を降りたはずの人間が電車に乗り続けていた人間と後で会うという矛盾が生じていますが、物語の面白さには傷をつけてはいないと思います。

 小説という不思議な生き物にも似た存在を分析するとき、最も大きく考えられる二つの糸は、人物という視点の糸と、場所という糸です。人物が横の糸だとすると、場所は縦の糸です。小説はこの二つの糸が複雑に絡み合ってできた布のようなものと考えることもできます。通常の小説はこの横の糸、人間の視点がほとんどです。ですから、人間の視点に合わせて移動しますから、場所はとぎれとぎれになるのが当たり前です。ところが、この小説は縦の糸、場所をつたっていく物語です。ですから、その縦の糸にぶつかる範囲でしか人間は描かれません。語り手はそれぞれのカメラをどこにおくかを考慮するものですが、例えば作家が主人公の後をつけていくような感覚であれば、三人称小説になります。ある人物の眼をカメラに見立てた場合は一人称小説になります。この小説は、場所にカメラを設置した小説と考えることができるでしょう。阪急電車の中にカメラを持った語り手がいます。この語り手は阪急電車から遠くへは離れることができないのですが、ある車両で注目した人物の後ろからカメラを回します。そうしてその人物が電車から降りるなりなんなりして小さな物語が終わると、今移していた中で次にその人の目線からカメラを回すためにちょっとだけポジションを変更するのです。通常小説の語り手というものは概念的で一体なんなのかまだよくわかっていないものですが、この小説では作家の眼というか、語り手の視線というものが、あぶりだされる格好になっているとも考えることが出来ます。
 ある意味ではカメラをどこにおくのかということを認識するのはノンフィクションライターの手法でもあります。もし自分がその場所に立っていたらという前提で事実であろうことを描こうとする。当然その場にいたことはないのですから、ノンフィクションというのは突き詰めればフィクションなのですが、それは置いておいて、そうした手法に似ていると考えることもできます。とにかくものすごい資料を入念に調べ、その精緻な知識からリアリティーを創造していた作者が、別の手法を用いてリアリティーを創造しようとしているという点は、作家の研究としてはおもしろいかもしれません。

-群像劇からみる多義性の重要性-
 小説の構造としては最初と最後の従志という人物だけ一人称と三人称がまざった形式で描かれ、後の登場人物はすべて三人称で描かれるという手法になっています。この形式であれば、ネズミ算式に登場人物を増やすこともできますが、敢えてそれはせず、途中で登場人物を制限しています。後半は反対方面を走る電車にカメラが移りかわりますが、そこでは約半年ほど経った後の話になっています。前半ではじまったそれぞれの物語がどのように変容したのかというものを楽しめる形になっています。
 それぞれの視点で描かれるということが一体どのようなことを浮き彫りにするのでしょうか。こうした群像劇は映像化すると非常に細切れ的な映像になっていまいますから、映画版はどのようにその点をクリアしたのか確認してみたいです。ある主人公の視点で物語を追っていくとその主人公の主観でしかものを判断できなくなります。その主人公と作家の考えがことなれば、作家が語り手として登場して、主人公はこう思ったが、実際は違ったというような説明を入れることでしょう。しかし、こうした群像劇ではある登場人物はその登場人物のままかなり強い断定的なものの見方をすることができます。なぜなら、その断定的な見方も別の視点の価値観によって相対化されるからです。恋をする若い男性、恋を捨てる女子大生、元教師の正論を付く老婆、寝取られたOL、恋が始まる男子大学生、これらの人物が代わり登場しますが、それぞれがそれぞれの考えを持っていて、それらが視点が変わるごとに相対化されます。ですから、ことなった考えの持ち主たちが生き生きと動いているように見えるのです。
 
ここに文学的な意味を見出すとしたら、相対化された価値観の重要性だろうと私は思います。単にそれぞれの登場人物が個性的で、それらの人物は主に恋愛に関係した話が多いですのでただ単に面白い。しかしそうではなくて、恋愛もより大きな視野で捉えれば人間と人間の関係ですから、この小説の本質は、人間同士の関係性を巡る物語であると考えることもできます。ある主人公がいると、関係性はその主人公の回りにしか展開されません。その主人公の視点からしか関係性を見ることはできないのです。しかし、場所にカメラを設置したことによって、人間同士の関係性というものが浮き彫りになります。本来ならば、主人公の眼を通していったほうが人間同士の関係が浮き彫りになりそうなものですが、敢えて場所に設置することによって逆に人間の関係が浮き彫りになるというのは面白いことです。その結果としてはその後その関係がどうなったのかということを追うことが出来ないという欠点はありますが、折り返しによって半年後の関係をも描くことによって、この点を見事にクリアしています。場所に視点を置くというのは、少し形がことなりますが、三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』にも採用されている手法です。あの小説は地域という場所にカメラを設置しています。
まったく同じことがらが起こったとしても、観る人間、観る立場によって見え方が違う、解釈が異なるという点がこの小説の極めて重要なテーマではないでしょうか。中にはある一定の同じ考えが生まれることもあります。しかし、立場によってそう考えてはいてもなかなか行動に移せないというようなこともあるわけです。事実は一つです。しかし真実は一つではありません。歴史は一つです。しかし、それを様々な立場からみたら解釈は異なります。事実と真実が一緒ではないということを深く認識させられる小説だと思います。

-終わりに-
 3・11もあり、今までの価値観がすべて崩れてしまったのが10年代、現在の状態だと私は思います。今まで信じていたもの、良いと思っていたものはすべて崩れました。綿矢りさの『大地のゲーム』に登場するリーダーという男は、すべてを疑えという価値観を示しています。大きな価値観がなくなった現在、それは例えば今まで存在していた大きなアイドルがいなくなって、グループ化されたアイドル、細分化されて個別化されたアイドルの台頭が象徴的ですが、そうした個人主義の時代になっています。私もこうしたブログを書いて、自分の見方考え方を示していますが、これを他人に話すと価値観を押し付けるなと言われてしまいます。本当は価値観をぶつける必要があるのですが、相手にぶつけるだけの価値観がないと私の押し付けという形になってしまうようです。
一元的なものは安心できます。神は一元的です。だからやはり人間はそうしたものに憧れます。しかしその一元制が崩れたなかで、多元的な価値観が今の価値観ですが、そこからどうやっていくのかということが誰にもわかりません。作家たちも多元的な世界を描いて、そこからどうするのか試行錯誤している状況でしょう。誰も自分の見方を持たないからいけないのです。それが悪い見方でも、何かあればそれに対抗する見方が出てくる。ですから、常に何かの見方考え方が出ることはたぶん必要なことなのだろうと私は思っています。私の見方、考え方が間違っていたとしても、それはある取っ掛かりになるのでいいのだろうと思います。多義性の世界の中でどう生き抜くのか、この問題が小説を通じて、また震災を通じて考えるべきことだと私は思います。

3・11どう考える どう向き合う 一人の人間としての試論

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3・11、あの未曽有の震災からはや二年が経った。思えば私の被災の状況は極めて幸運な形であった。ちょうど卒業式から数日経った日であった。私の部屋にはいくつもの卒業の祝いの花束が活けられていた。2;46、その時私はゲームか何かをしていたと思う。緩やかな揺れが続いたかと思うと、いきなり突き上げるような揺れが襲い始めた。私の部屋の本棚からいくつもの物が零れ落ちた。本棚が倒れてしまうと外へ出られなくなるため、私は本棚を支えた。支えるそばから本が落ちていった。

ちょっと過激的なことを書くので性に合わない方には見逃していただきたいのだが、私が震災に対して思うことは、あの地震のように深くから湧き上がってくるような怒りである。何に対する怒りなのだろうか。東電か?政府か?あのうざったるいCM達だったのか?それとも大地や日本、あるいは運命や神といった観念的なものか?違う。その怒りの矛先はどこだろうか。もしかしたら自分の内側かもしれないとも思った。何もできないというか、敢えて何もしない自分か?確かに非力であるということは感じた。しかし、私は別段それに対して腹を立てているわけではない。何もできないというよりかは、何もしないという選択を取ったが、それに対しては腹をたてなかった。偽善のような気がした。身近なところでは募金から私たちは協力することが出来た。確かに募金はいくらかしたと記憶している。しかし、被災地に乗り込んで何かしたいとは思わなかった。むしろ何もしたくないと思った。

2:46にみんなが黙祷している。しかし、私は敢えて黙祷はしない。原発にしても同じだった。日本の汚い部分を見せない、隠すという文化が遺憾なく悪い方向に発揮された瞬間であったと私は思う。「大丈夫ですが、念のため原発から3KM離れてください」が次第に10キロ20キロと増えていった。結局何も大丈夫ではなかった。話がそれるが今回のPM2・5も初めに取りざたされたのはネット上である。ネット上では早くからやばいやばいということが騒がれていた。半ば本当なのか、それともやはり大げさに言っているだけなのか判断がつかなかった。テレビのニュース番組でやっぱりやばそうだという放送がされ始めたのは、ネットで情報がまわってきたのよりいくらも遅かった。やっぱりやばかったということが判明した。それまでテレビはPM2・5に対してはほぼ沈黙を守っていた。
2年が経って何が変わったのだろうか。何も変わってはいない。むしろ一年前の震災から一年目の3・11と二年目の今日この二日くらいしか震災を思い起こすような日はなかったのではないかと思われるほど静かな二年間であったと私は思う。当たらず障らずできるだけ音便にというのが丸出しである。被災地の瓦礫の処分が不当に行われていたという。それに対して怒りを発信する人間はほぼ皆無であった。
 黙祷というのも目を瞑っているだけのような気がする。一体だれに対して黙祷しているのか。震災によって亡くなった人のためなのだろうか。言い方が極めて悪いがご了承の上、3万人程度の人間の命は、毎年自殺によっても失われている。私はこの震災を考えた際に、あの震災で亡くなった方々よりも多くの人々の命が毎年自殺によってここ数十年なくなり続けているということを常に考えている。数だけでいったら、毎年自殺で亡くなっている人間の方が多いのだ。祈ることが悪いことだとは言わない。不幸にもなくなってしまった人たちの魂があるのだとしら、その平安を祈るのは残された者、生きるものの負うべきことなのかもしれない。しかし、何か黙祷というものには日本の臭いものには蓋理論が働いているような気がしてならない。押し黙って目を瞑ってしまう。まるであのすさまじい光景から目をそらしているような感覚がしてならない。
 被災によってなくなった人に対して祈っている自分の姿がなんとなく想像したいだけなのではないだろうか。祈っている自分というものを他人に見てもらいたいだけなのではないだろうか。そのような気がしてならない。

私は中高ではミッション系のスクールに大学では仏教の大学に通っている。祈るという行為はほぼ身に付いた行為であると認識している。この10年近くは形式だけというものも含めてほぼ毎日祈るということと接してきた人生であった。それがまったく関係のない、普段手もあわせたことのないような人々がこの時だけ合わせているのを見ると、どこかずれているような感覚にさいなまれる。ツイッター上で黙祷という言葉が流れて来た。キリスト教を学んだ人間としては、祈りというものは他人に見せるべきものではなく、誰にも気が付かれずに行うべきものであるという意識がある。黙祷している自分という存在を、他者に見てもらいたい、そうして黙祷を見てもらっている自分を自分で好きになる、あるいは見てもらうことによって安心しているというのが現実のような気がする。だから、私は敢えて黙祷しない。私は皆が黙祷している間、沈黙して黙視している。黙祷している人間を括目している。みんなが目を瞑っている間に、私は敢えて目を開いて、何が起きているのか、何を祈っているのか、祈っている人間の姿をこの目で見つめている。

全ての価値観を崩壊させた震災。ある意味ではそれまでに暗黙の了解としてまかり通っていたおかしなことがらを打ち壊してくれたという側面もあった。私はむしろおかしなことがまかり通っていたおかしな世界だから、何か大きなものによって壊された、怒りに触れたとも思うところもある。もちろんこんなことは本来言ってはいけないことなのであるが、私個人としてそう認識しなければ納得がいかない部分がある。この価値観を他人に押し付けようとしているわけではないので、批判は甘んじて受ける。
ふと人生とは何かということを考えさせられる。ことに命の危機を本気で体感したためでもあろう。私は常に主役になれない人間であった。クラスではあの中心のグループと呼ばれるようなものに属したことはない。属せなかったと言えるし、属そうと思ってもできなかったともいえる。いじめにあったこともある。友人だとおもっていた人間に裏切られたこともあった。私は自分のなかにおいても主役にはなれなかった。自我同一性の問題であるが、まだ画一したとは言えないだろう。物語に出てくれば、私は重要で裏で糸を引いているような人間であっても主役ではない。料理であれば素材ではなくスパイスと言ったところ。ハリーポッターで言えばスネイプ先生。ナルトで言えば大蛇丸。エヴァンゲリオンで言えば冬月先生。マクロス7で言えばエキセドル参謀。これらの人物に感情移入をするし、自分自身が物語に登場したと想定すればおそらくこのポジションだろう。主人公には成れず、あくまでも参謀、ブレーン的な役割を果たすことになる。最近はそれが自分の人生かなとも思い始めてきた。
兎に角、この問題に相対するとき、私はブレーンとして参謀として、皆を黙視し、分析し、評論せざるを得ない。黙祷。黙祷したくない。つながろう日本。つながりたくない。私の生まれは12月9日、あの柔道の創始者加納治五郎と同じ誕生日である。加納治五郎は「なに、くそ」の精神の持ち主だったが、私もまた自分を偏屈と認定するようなねじまがった根性の持ち主である。どうにも何かに対して反抗せざるを得ない星の元に生まれついたようであるが、私が言いたいことは、括目せよということである。

目を瞑るな。そうしてつながろう・がんばろうという安易な言葉に甘えるなということである。
何が悪かったのだろうか。東電か、政府か、報道機関か。確かにこれらの悪はあった。しかし、それらをのさばらしていたのはだれか、ほかでもない我々であった。私たちは見事に騙された。通常騙す騙されたの関係では騙す側が100%悪いことになるが、この場合その理屈はどうも通らないらしい。もしかしたら騙されているのではないかと疑おうとしなかった私たちも当然悪いのである。つながろう日本、がんばろう日本。一体なにをつながって、何をがんばるのか私には毛頭理解できない。今回の震災は一人一人の震災であっただろうと考えている。何か大きなものの蓑に隠れるのは楽で安心できる。しかし、その状況が続いたからこそこの震災があったとも考えられる。また、つながる、がんばるといった大きなものに組み込まれて安心しようとはしていないだろうか。だから、私はこの意味においてつながらないし、がんばらない。ここ数十年は文化的にも個人主義の時代になってきた。自ら大きなアイドルを引き摺り下ろして、自分の個人用の細分化されたアイドルを作り出しておいて、今さらやっぱりということでは学習がなさすぎる。個人主義がいいか悪いかはまだ判断が付かないが、個人主義をやってきたならば、一度それでこの震災に向き合う必要がある。それがだめならまた他の方法を模索すれば良いだけのことである。だから、個人個人が震災に立ち向かえということを私は述べたい。自分がどうするのか、どう考えるのか、何をするのか、どんなアクションを取るのか(取らないというアクションもある)、こうしたことを自分たち一人一人が考えなければならないと私は思う。それを考えようとしない人間に対する思いが、初めの怒りであると感じている。

 こんな文章書かなければいいとお思いになるかもしれない。偏屈な考えだと思われるだろう。しかし、一人一人が声を上げていかなければいけない時代になってきていると思う。沈黙は金雄弁は銀だろうか。沈黙していたから今回の原発があったのではないだろうか。今、すべての価値観が一回無に帰している。もはや沈黙は金雄弁は銀という概念も怪しいものである。兎に角疑い、それは本当に正しいことだろうかと自分に問わなければならない。自分で答えがでなければ他人と話し合わなければならない。答えはまだでない。それは私たち1億数千人の人間が知恵を結集して導き出すものである。

現代を読み解く女性文学 綿矢りさ『大地のゲーム』試論 感想とレビュー 現代の震災から人間の本質を問う綿矢文学新たな地平

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-初めに-
 2013年3月号の雑誌新潮は、川端康成の未発表作品『星を盗んだ父』と綿矢りさの最新長編書下ろし『大地のゲーム』が同時掲載ということもあり、かなり力の入った雑誌になりました。文学の意味や意義というものが多少示されるような形になったと私は思います。
 未曽有の大震災から約2年。この間に私たちは何をしてきたのか。ふと立ち止まって考える必要があります。まず第一に大震災から何を学んだのかということ。原発の問題もあれば、津波の被害を過小評価していたという認識の問題もあります。帰宅難民が出たり、その他さまざまな震災への心持と対策の不備が露見しました。次に、震災から2年間で私たちは何を学んだのかということです。がれき撤去がまだちっともできていないのが現状です。「復興」「復幸」と言っても、何一つ前進していない。なぜなのか。「絆」や「つながり」を声高く上げてきれいなもので蓋をしていないだろうか。「がんばろうにっぽん」一体何をがんばるのだろうか。日本という文化はもともとから、できるだけ音便に、事なかれ主義が根強い文化です。ふと気が付くと、あの震災から二年しかたっていないのに、もうだいぶ前のような感覚がします。なぜでしょうか。すでに震災は前のこととなり、今のことではありません。みな何不自由なく生活しているし、今さら震災を蒸し返そうともしません。しかし、本当にそれでよいのか、確かにあの震災によって心に傷を負った人もいるでしょう。ですが、それを忘れてしまったふりをし続けていてもよいのでしょうか。デビューが早かったためにもはやベテランの域に居る綿矢りさですが、年齢的にはまだまだ若手としてのみずみずしい感性も有しています。その綿矢りさが、震災というものをフィクション化することによって、様々な側面を炙り出すことに成功したのがこの『大地のゲーム』です。

-綿矢文学を読み解く二つの指標 場所と関係-
 3・11後にその影響を受けた作品は俗に「3・11文学」として呼ばれています。あらゆる作家に影響を与えた大震災。小説はもちろん、文学という言葉の範囲には映画も、漫画も、アニメも大きな意味での「文学」になります。例えば『おやすみプンプン』では、震災が描かれることによって、作品の時間軸が現在であることが判明しました。桜庭一樹作品も、『傷痕』『無花果とムーン』などは震災の影響を受けていると考えられます。『あの日みた花の名を僕たちはまだ知らない』も、死者の霊との交流という面で、3・11文学作品と呼ぶことができるでしょう。こうした震災の影響を受けて、作品の内部に震災を多少なりとも入れたものは数多くあります。逆に全く震災を無視しているというものも、ある意味では3・11文学と言えるかもしれません。作家がわれ関せずという主義を保ち、あるいは沈黙することによって、震災に対する何らかのメッセージを逆説的に表出させていると考えることもできます。
 しかし、そうした3・11文学とよばれる作品群のなかで、真っ向から震災に立ち向かった作品というのはありませんでした。震災はすべての価値観を覆してしまいましたから、何が良いのか、悪いのかが誰にも判断できなくなってしまったのです。その中で、震災に対する何かしらの言説を述べると、批判されるおそれがありますから、作品の内部に多少組み込むことはあっても、震災そのものをテーマに、そのものから作品をつくるということはありませんでした。2年というインターバルを経て、もはや風化しそうになっているこの震災を「テーマ」として選択し、そこから構造した作品が今回の『大地のゲーム』です。

 一体いつの時間軸かは小説内からはわかりませんが、3・11と思われる震災が主人公たちの親の世代が若いころにおこったということがわかります。しかし、その震災も3・11とは断定できません。ですが、一般的に考えれば、西暦でいえば2000年代の後半にあたるであろうことがわかります。
 綿矢文学には、固有名詞が描かれる作品と排除される作品とに分かれますが、この作品は作品内から固有名詞がかなり削除された作品です。その点では、つい先日発表された『abさんご』に似ている側面もあります。主人公の名前もわかりません。作品は女子大生である「私」の語りによって進行します。主な登場人物は、「私」との「私の男」という彼氏。それから、大学内で「反宇宙派」というグループを立ち上げている「私」が「リーダー」と呼ぶ男。そうして、今までの綿矢文学の三角関係からは登場しなかったはずの第四番目の人物マリの四人です。
 小説の時間軸がいつかは明確にはわかりませんが、
人称と固有名詞の冒険―綿矢りさ「大地のゲーム」
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-7aa0.html
参考したブログではこのような指摘がされています。
―12ページ目のはじめに「大学創立二百周年記念タワー」という固有名詞を持っていることが不意に判明します。ここで日本における最初の大学の設立が、1877年の東京大学であったことを思い出しましょう。すなわち、「大学創立二百周年記念タワー」は、固有名詞が不明などんな大学であろうとも、2077年以降にしか存在しないことが判明するのです。―
 ここで重要な指摘がなされていますが、このタワーの形容から、少なくとも2077年以降の時間であることが判明します。
 場所はどこでしょうか。この大学には14号館と呼ばれる「私」たちが住み込んでいる会館があります。少なくとも14以上は会館があることから、かなり大きめの大学であることが判明します。また記念タワーなども鑑みると、作者である綿矢りさが卒業した早稲田大学を彷彿させます。おそらく作者レベルでは大学内の描写においては自分の記憶を頼ったことでしょう。しかし、作中では時間軸も異なりますし、現実の早稲田は都会にありますが、この小説内では舞台となる「大学」はかなり田舎にあることが判明しています。回りを運動神経のかなりある男でなければ飛び越えていけないほどの囲いがなされているような閉塞された空間であるということもわかります。
 
 綿矢文学を考える場合は場所が特に重要だと私は感じてきました。綿矢文学は私が勝手につけた名称ですが、「ひきこもり文学」として読み解くことができます。「インストール」は押入れの中にひきこもりました。「蹴りたい背中」は教室と、にな川の家の二か所にひきこもります。「ひらいて」は教室の中にひきこもっているのです。この『大地のゲーム』では、登場する人物が大学生ということもあり、多少活動の幅が広がっていますが、意識的に大学が閉塞された空間であることが描かれており、大学にひきこもるという典型的な綿矢文学の特徴を引き継いでいます。この作品は、大地という命の温床、海と対比される大きな自然の世界を描いていながら、たったひとつの小さなキャンパスに閉じこもっているという二面性を有しているのです。
 また、綿矢文学を読み解く際の手掛かりが人間同士の関係性ですが、今まで綿矢文学で多用されてきたのは「三角関係」でした。今までの作品ではルネ・ジラールの「欲望の三角関係」の理論から、主人公は大抵の場合ルネ・ジラールのいうメディエーターというポジションに位置し、三角関係の中では恋愛に敗れる役を演じてきたと私は考察しています。
 以前綿矢りさ氏のインタビューを聞かせていただいた機会があったのですが、「ひらいて」執筆後で、彼女は「次は三角関係にもう一人足して四角関係を描きたい」というようなことを述べていたことを記憶しています。今までの作品がどれも三角関係の構図を含んでいたのに対して、今回の登場人物たちがどこか不思議で謎めいているのは、新たに今まで存在しなかったはずの四人目が登場したことに原因があると私は思います。

-三角関係から変化した四角関係を巡る物語-
主人公が女性であることから、便宜的に四人目はマリだろうということを述べましたが、それはあくまで主人公の「私」の主観から見た場合です。誰が四人目なのかということはあまり議論になりませんが、この作品では、「私」と「私の男」と「リーダー」と「マリ」という四人の関係性を巡る物語として読み解くことができます。
今までも固有名詞が謎めいた作品が多かったものの、今回の『大地のゲーム』では、「マリ」以外の主要人物が、「私」を含め、彼氏である男も、反宇宙派を率いて大学を統治しているリーダーの名前も一切描かれません。一体「私」と関係のある男たちがどのような存在であるのか、名前を奪われることによって、漠然としてきます。そうしてそれと同時に、「私」と二人の男の関係性もどこか明瞭としません。「私の男」とは当然「私」にとっては付き合いをしている彼ということになりますが、本当に好きなのかどうかが一向に描かれません。付き合って一年くらいであるということが震災後の冬の回想で描かれていますから、震災の半年ほど前から付き合っていたということになるでしょう。しかし、なぜ付き合っているのかはなぞですし、あまり好きなようでもありません。「私の男」の人物造形は、どこかがさつで言葉が少なく、語彙力も少ないために「私」に言い負かされて尻に敷かれているような人物です。しかし、プライドが高いため、尻に敷かれることは彼にとっては嫌なことで、怒鳴ることによって自分が上位にあることを知らしめているようなタイプの男です。それに対して、リーダーは大震災の中でグループをまとめ上げ、無法地帯となった大学内を自力で秩序だったものにするほどの能力の持ち主で、しばしばかぎ括弧を使用して演説の言葉が切り取られていることからも、弁舌の立つ有能な人物として描かれます。そうして肝心なのが、「私」はこのリーダーを「狙っている」のです。好きや愛しているという感情ではありません。そうした言葉も登場しませんし、リーダーとどのような関係になりたいのかは不明ですが、「狙っている」と言ったほうがしっくりくるような感情をリーダーに投げかけています。自分の彼氏のことを「私の男」という所有物として命名していることから、リーダーを自分の手中に入れたいという感情なのかもしれません。
今までの綿矢文学で登場したどこかなよなよした男というのは登場しません。攻撃を誘発させる弱弱しさというのは、今回「マリ」の存在に引き継がれています。男はたくましく描かれますが、その反面今までの弱弱しい存在は女性であるマリが請け負っています。このマリはしばしば綿矢文学で登場する「ハーフ」です。容姿が非常に美しいということが判明しますが、リーダーのファンである女子大学生三人のグループに大学中を追い回され、常にいじめられています。そうしてしばしば「私」のもとに逃げ込んでくることが判明します。

 この小説は、「私」と兄の幼少のころの回想から始まる典型的な階層型の小説です。作品における主な現在は、未曽有の夏の震災から約半年たった冬です。夏の震災によって学園祭が延期になり、冬の学園祭からカウントした時間軸で回想がなされます。学園祭二週間前と一週間前。途中で夏の震災の記憶も回想されます。最後は夏の震災、冬の震災が来た後の時間が多少描かれます。その中で四人の関係が徐々に変化していくのがこの小説のメーンになっています。
 今までの作品よりもあらゆる面で規模が大きくなっています。閉塞された空間という縛りは、震災の後大学の周辺の治安が悪くなったこともあり、極めて緊迫した空気の中で強まっています。さらに、今までの攻撃性は「蹴りたい」やいじめたいレベルのものでしたが、閉塞感が強まったためか、手段リンチにより殺人までに強まっています。「私」の攻撃性は、今までの三角関係であれば、男であるリーダーか「私の男」に向かうはずでしたが、今回は同性であるマリに向かっています。そうして、四人に増えたことから、攻撃する人間が増えました。「私」はマリに。「私の男」とリーダーはお互いに攻撃しあっています。
 作中ではかなりおとなしくしていた四人ですが、夏の震災の後に必ず来ると政府が予測した同規模の地震が発生した瞬間に急にその攻撃性を発揮します。震災があって治安が悪くなったことから、この小説内においては、日本でも護身用に銃を持つことが許可された世界になっています。その点では多少ライトノベル的な要素があると言えるかも知れません。
 その攻撃力の極めて強い武器をただでさえ攻撃性のある登場人物たちが持ったらどうなるのか。冬の震災の時、「私」はマリを殺そうとします。地震に紛れて行えば、後々犯行がばれる可能性が少ないからです。「私」にとってマリは自分が所有したいリーダーを横から奪っていく人物でした。そのマリを自分しかしらない彼女が逃げ込んできた際にかくまう場所で殺してしまえば、リーダーを狙うのは自分だけになるという魂胆です。しかし、また男同士も壮絶な決闘を行います。「私の男」はリーダーを殺したがっていました。それは、自分の彼女である「私」をリーダーに奪われないための行動と考えることもできますし、もしかしたらマリを好きだったという可能性もなくはないと私は思います。リーダーが何故「私の男」を殺しに行ったのか謎ですが、もしかしたらリーダーもまた「私」を奪うためにその彼氏を殺したかったというラインが浮上してきます。三角関係では明確だった人間同士の関係性が、四人になったために重複し始めました。ある意味ではこの不明確さが作者が狙った小説上の技巧だったのかもしれません。そうした面でも作家綿矢りさに磨きがかかってきたという事ができます。

-終わりに、『大地のゲーム』とは何か-
 タイトルにある『大地のゲーム』が一体何を指しているのでしょうか。この小説は、3・11があったであろう世代の次の世代の物語です。そうして、作品内ではすでに夏に3・11レベルの震災が起こったという設定がなされています。政府の報告によれば、1年以内に夏の震災と同規模の震災が再び起こることが予測されて、その際には特別なサイレンがなるということが、ニュースを通じて日本国民全員が認識している世界です。
 作品内では、次におこる震災に怯えながらも、着々と学園祭の用意をする登場人物たち。小説では、学園祭の当日、中でも最も盛り上がっている部分、リーダーの演説中に大震災が訪れます。あまりにも都合がよすぎる震災という点ではリアリティーに欠けますが、リアリティーの排除というのは、ライトノベル的な設定にも表れていますし、また固有名詞が排除されているというのも具体性を無くすためと考えることもできます。ではなぜ、リアリズムを排除したのか。それは一つには、まだ日本人の心に3・11の影響があまりにも残りすぎているという点です。この作品は震災を真っ向から描いた作品です。ある意味不謹慎な作品と考えることもできるでしょう。ですから、これを3・11のこととして描くと、被災者の方やまだ立ち直っていない人たちにあの恐怖を思い起こさせることにもなります。ですので虚構性を強めたというのが現状だろうと私は思います。
 『大地のゲーム』というのはつまり、大地側がそのうえに住んでいる人間たちに対してゲームをしているということです。ゲームというのは、playではなく、末尾に表記されるように「bit(賭け)」です。大地がディーラーで、その上にいる私たち人間は賭けをしている存在です。その上では、様々な駆け引きも行われています。四人の関係は、その関係性を巡る賭け事だったのです。
 
通常ではありえないような設定の上で、極限の状態に置かれたらどうなるのかという「if」の世界を描いたというのが、この作品の最大のテーマではないでしょうか。それは、もしも大震災が起きて、さらにもう一度同じものがおこることが予想されていたならば、人々はどのようにそれに対して臨むのかということでもあります。現実でも、近いうちに再び地震が起きるということがわかっていますが、果たして私たちはあの震災から何を学んだのでしょうか。ほとんどの人間が震災を忘れ、次にいつ来るともわからない地震に対して何も準備をしていません。この作品では近いうちに地震が来るとわかっていれば人間がどのように動くのかというシミュレーションでもあります。
またifの世界を描くという点では、今まで三角関係がメーンだった綿矢文学にもしもう一人を持ち込んだらということもその一つではないでしょうか。もし、大学という場所に閉塞されたら人間はどう動くのか。今までも必死に動いてきた綿矢文学に登場する人物たち。しかし、その人物たちは平穏な日々の中では、その必死さはどこか滑稽味を帯びていました。だから、綿矢文学に登場する主人公は「ちょっと痛い子」というようなレッテルが張られていましたが、今回の極限の状況下においてはその必死さは生きるための必死さとして、まったく滑稽味をうしなっています。極めてシリアスで、みんなどこか神経が擦り切れている状況の中で、人はどう生きるのかということを真剣に問うた人間の本性を暴いた作品です。勿論それを操っているのは皮肉として大地というディーラーであるということもいう事ができると私は思います。
これこそ綿矢文学新たな地平と呼ぶにふさわしい、綿矢ファンならびに、現代の震災を考える人間が読むべき書物であると思います。

質問に対する返答

http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-420.html
現代を読み解く女性文学 黒田夏子『abさんご』試論 感想とレビュー 今この作品が受賞することの意味性と相対的な関係性から読む物語

『abさんご』の記事に対する質問の返信がうまくできず、どうしてよいのかわからなかっため、記事として投稿させていただきます。何故「関係性」という言葉を使うのか、その意味は?という質問に対する返答です。 


池上彰先生のように「いい質問ですね」と答えたいところですが、私も多少この言葉に対して認識が甘かったようです。学問によっても、使い方が異なり、そもそも関係性という言葉自体が言葉として正確には成立していないようでもあります。
ただ、私が考えていた「関係」と「関係性」の差異は、関係が、AとBの間の何かしらの具体的な関係であるのに対して、関係性は、AとBの間の「何かしらの関係」自体を指す、言い換えれば具体性をなくしたより抽象的な関係の状態や状況を指していると解釈していました。
他にも私は男性性や女性性という言葉を使用しますが、これも男性が生物学上(セックス)の男と、社会学上(ジェンダー)の両方を指すのに対して、男性性はジェンダーだけの、男性の性質という意味で使用しています。
関係自体がすでに性質ですが、それをさらに強調と抽象をして、その関係の性質を述べていると自分では解釈して使用していました。
また、文学は特にフィクションで非現実ですから、そこには確かに登場する人物同士の関係があるものの、それはそうした性質を現したものであろうという認識もあり、関係という言葉ではなく関係性を使用しました。
「abさんご」に関しては、おそらく語り手とその父と母になった女性が登場していますが、その「関係」は父と子あるいは母と子というようなものです。しかし、その関係においても、性質が少しずつ変化しているのがこの小説の醍醐味のような部分です。大きな「関係」よりも、そのさらに細かい部分への言及も含み「関係性」という言葉を使用しています。今回はこの3つの意味で使用したと自分では思います。ただし、あまりよくない表現であるのは確かです。どうしてこの言葉を使うのかということを考えるように心がけてより慎重に言葉を選ぼうと反省しました。

『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 4

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-なぜ世界の住人は全く行動しようとしないのか-
 世界の危機だというのにも拘わらず、一体その世界に存在する人間は町の同じ場所にいて、主人公が話しかければ同じことを繰り返して喋って、同じ動作を繰り返しているだけという、冷静に考えれば極めてそっちのほうが恐ろしい世界ですが、主人公以外誰も何もしようとしないのかということが、RPGゲームの本質的にはらんだ問題だと言えるでしょう。当然誰か他の主人公がいて、私たちがプレイしなくてもだれか他の人間が魔王を倒してくれるということでは、ゲーム自体が成り立ちませんからある程度は仕方のないことです。しかし、全部が全部主人公任せではあまりにも迫真性に欠けるということになります。
 ドラクエⅦはそうした部分をある点で克服した作品と言えるでしょう。それは、なんども短期間に仲間になる人間の存在です。ドラクエⅦは今まで他の人物は一体なにをしているのかというリアリティーの問題を解消するために、多くの人物が途中で仲間になるシステムになっています。彼らには彼らの生活があるわけですが、彼らの生活も脅かされている状況下において、主人公たちの目的と、彼らの目的が重なる場面がある。そこで、ある町の兵士だったり、きこりだったり、神官だったりが、ともに戦うという選択をするわけです。そうするとプレイヤーとしては、ああ、この人たちにも魔王に対して何かしら対抗する力を少なくとも有しているのだなと感じることが出来るのです。

 ドラクエ史上かなりシビアな状況が展開された作品で最も浮いた存在は、なによりも神様の存在でしょう。あれならまだオルゴデミーラが化けていた神様の方がいいよと私は思いましたが、あのとぼけたおじいさんの神様には、あまりにも威厳が欠けています。しかも、あれから鍛えたからなとか言っておいて、じゃあなぜ魔王を倒しに行かない、とつっこみたくなるところ満載です。唯一なぜ倒しにいかないというこちら側のつっこみを見事に跳ね返したのが、Ⅵのダークドレアムの存在です。明らかに強いのだからお前が何故魔王とかほざいているやつを倒さないという突っ込みを見事にひるがえしました。ダークドレアムは自らデスタムーアを倒しに行きます。
 神様が一体何をしたかったのかよくわかりませんが、人間は無限の可能性を秘めているとか、わかりきったことを述べて終わりです。全知全能の神様が本当に善なる存在なのかというのは極めてグレーゾンーンに近い状態にあると思えます。

-Ⅶのダメ出し-
 リメイク版ということもあり、ドラゴンクエストが迷走していることは、Ⅹのオンラインチャットの導入から騒がれていたことですが、特にⅨⅩは酷いと私は思います。Ⅸでは、ドラクエ初のポータブル機器進出ということで、すれちがい通信なるものによって、洞窟の地図を交換するということをやってみたはいいものの、数十階もある洞窟に辟易したことすさまじかった思い出があります。
 今回のⅦも、すれ違いを導入して石版の交換というものをやっていますが、それが別段楽しいわけでもなく、ゲームの世界観の崩壊を招く一つの要因となっています。特にゴールデンスライムとプラチナキングの世界観崩壊率ははんぱではなく、一体3000ゴールドのゴールデンスライムがかなり簡単に倒せることによって、銀行に行かなければすぐに手持ち金が満帆になるという大盤振る舞い振り。プラチナキングもひつじかぞえの歌で簡単に眠るうえに、ほとんど逃げ出さない。もはやメタルキングの方が倒しにくいほど。しかも、それだけが登場するような洞窟を石版でつくることができるのですから、ほとんどの人間が数時間やればレベル99というつまらなさが今回のなによりの欠点でしょう。石版も次のものがどこにあるのかということが簡単にわかるようになっていて、自由度の観点からみたら、非常につまらない。ドラクエⅥがやはりおもしかったのは自由度の高さです。ドラクエⅤの自由度が少なかったとしても面白かったのは、ストーリーが重厚だったからです。ドラクエⅦはストーリーもいまいち判然とせず、自由度も低い。ゲーム崩壊するモンスターが登場するし、なによりもすれ違いということが諸悪の根源になっていると私は思います。
 ゲームプレイヤーが一体何を求めているのか。少なくともドラゴンクエストに対しては、一人で楽しむものですから、通信面ではあまり求めていません。特にⅨの相手のところへいって戦うというわけのわからないシステムには度胆を抜かれましたが、終わった話はいいでしょう。

-終わりに-
 総括として、一体ドラゴンクエストⅦとはなんだったのかということをまとめます。見ての通り、ドラゴンクエストの主人公は、今までは筋肉強靭のごつごつした人間たちです。当然そうでなければモンスターと戦えるとはとても思えません。しかし、このドラゴンクエストⅦは、モンスターズの系譜を感じさせるように、主人公は子供です。16歳という設定だそうですが、どうもそれより小さく見えます。
 わけのわからない石版というものを探し集めて、過去にまでタイムスリップして現在を変えていく。途中で消えていく友人の存在感。
 ショートストーリーの集大ということだとすると、小説形式で言えばショートショートの寄せ集めがひとつの大きな作品になっていると考えることが出来るでしょう。Ⅳは群像劇。Ⅴは親子三代にわたる物語。Ⅵは4つの世界を巡る大横断。Ⅶはショートショートと考えることが出来ます。ただやはり、私が述べているのは、SFですら時間を扱うと痛い目にあうからできるだけよしておけばいいと思われるタイムスリップを導入したことが問題の一つでしょう。
 ドラクエの中でも異端となった作品。Ⅷが集大成だとすると、ⅨⅩは迷走を極めています。これからのドラクエシリーズがどのように展開するのかを考えて行くことが、ロールプレイングゲームをする現代の人間をも映し出す鏡になると思います。

『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 3

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-キーファ=オルゴデミーラ説を考える-
 キーファの存在は、ドラクエ史上最大の問題です。パッケージにも描かれる人間がまさか途中で離脱するとはだれも考えないからです。プレステの時代は種泥棒と呼ばれていたそうな。命の木の実などの、限界値の上限を上げる使うとなくなる道具を多くのプレーヤーがキーファに使用したのでしょう。幸い私の場合は、種は記念として全部とっておく人間なので使わなかったので、離脱には驚きましたが、種に関しては大丈夫です。
 キーファは、まさしくドラクエの主人公が負うであろう条件を悉く有しています。王族の出、好奇心が旺盛、冒険が大好き、さらにはキーファはドラクエⅡの主人公である王子と同じく、完全なる戦士タイプだったのです。MPが0ですが、強力な攻撃力と豊かな攻撃力、守備力を有するタイプ。そのキーファが離脱とはやはり、あらゆる面から考えても納得できません。しかも、その後のグランエスタードでの父の王や、妹のイネスの言動は、何時までもキーファにこだわっていて、いつか別の大地を復活させるために戻った過去で、年月を経てでもキーファが再び仲間になるのではないかという可能性があるとしか考えられません。しかし、実際は最後まで出てこないのです。
 ここまできて、キーファの存在性の理由が一体なんだったのかという大問題に発展します。あれだけひきずっておいて一度も出てこないキーファ。このキーファの存在性を考えた際に登場してくるのが、ネット上で話題になっている、キーファ=オルゴ・デミーラ説です。こうしたゲームの解釈というのは、学問的にはまだ確立さえた分野ではありませんから、ゲームを解釈した文章というのは出版社から出ているものはほぼありません。やはり、私はそうしたいまだ光をあてられていない分野の解釈についても論じたいと思っています。

 キーファがオルゴデミーラではないかという説は、いくつもありますので、別段盗用ということではなくて、参考文献たるサイトも多くありますので一つにしぼって載せるということもせず述べます。ドラクエ初心者には新鮮な説ですが、わりとやりこんでいる人間には開かれた説です。
 第一にキーファが人間形態であるオルゴデミーラと酷似しているということが指摘されています。確かに赤い服を着て、割とどちらも美形の感じがするキャラクター。キーファが主人公たちと冒険していたのが18歳のときですが、そのまま30代40代まで年を取らせたらなりそうな感じがします。
 それ以外には確たる根拠はありません。この説が正しいとすると、ではなぜキーファが人間を恨み、魔王にまでなったのかという理由が不明確です。勿論予想することはできます。例えばユバールの民が、キーファが守りびととなったあとで何者かによって襲撃され(相手が人間だとなお論が通る)、ライラを守れずに殺されるなりしたこと。その結果、もっと自分に力があれば、という思いと人間への恨みがまざって魔物と化し、力を求めた結果、神と拮抗するまでの力を得るとかです。そうすれば、エスタード島のみが世界に残された理由は、自分の出身地だったため思い入れがあって消せなかったか、あるいはエスタード島を封印してしまうと、自分が消えることになって、タイムパラドクスが起きるのでできなかったというような理由が考えられます。
 キーファとライラの邂逅により奏者であるジャンはユバールの民を去ります。そうして、ジャンが再び主人公たちと会うのは、ジャンが老人になった状態の時です。このジャンが老人の時に魔物たちの活躍がピークに達するときです。すなわち、ジャンが若かった時代、キーファとライラがであった時代は、魔物たちはあまり活躍していなかった。神と魔王との決戦は、ジャンが老人の時に近いですから、まだジャンが若かった時にはそんなに問題になっていなかった、あるいは魔王がまだ誕生していなかったと考えられます。
 もし、ジャンがユバールを出てから例えばの話でライラを守れなかった→もっと力あれば+人間憎い→魔王だとすると、時間軸的にも論が通ります。
 思えばキーファと別れた後にすぐに書かれたであろう石版が、エンディングで登場しますが、この文面がなんともチープです。これだけ多くの人間が制作にかかわっているのですから、もっと何かしら名分を思いついたはずでしょう。しかし、もしキーファ=デミーラ説を考えると、オルゴデミーラを倒した後に「何があってもずっと友達だよな」というあまりにも当たり前のセリフが、当たり前でなくなってくるのです。かつての親友が、魔王と勇者という戦わなければいけない立場になり、そうして魔王を滅ぼした直後に、キーファが友情をおもって書いた石版が見つかるという構図は、魔王を倒すことが本当に善なる行為なのかという一元的な価値観をも揺さぶる可能性を有してきます。

 しかし、これらはあくまで推測の域を出ません。なぜなら決定的な証拠が欠けるからです。もし、キーファ=オルゴデミーラという構図を明確にしてしまったらどうなるのか。多くのドラクエファンは、そうしたら普及の名作となるだろうと言っていますが、それだけの悲劇をつくってしまうと、ドラゴンクエストというシリーズもののゲームの世界観自体を崩壊させかねないことになります。私が考えているのは、キーファ=オルゴデミーラ挫折説です。これも別段新しい意見ではありませんが、やはりキーファ=オルゴデミーラで行くとあまりにも悲劇性が過ぎるということで、そのラインで進めていたものを急遽なかった方向、あるいは極端に隠すことになってしまったというのが現状だろうと私は考えています。
 魔王を倒したけれども、実はかつての親友で、しかも最後にその親友が友情をおもって書いたものが発見されるという構図では、あまりにバッドエンディングすぎることになってしまいます。今まで暗黙の条件で約束されていた、魔王=悪、神=善という構図を揺るがすことになります。ドラゴンクエストというのは、ドラゴン=魔物=悪であるからこそ、そのドラゴンと戦って討伐しなければいけないという理由ができるのです。ドラゴン=魔物=もしかしたらかつての親友では、それを倒すことが善ではなくなってしまいます。そうした暗黙の価値観を揺るがすことは、まだ2000年発売当時ではできなかったのだろうと私は思います。『まどか☆マギカ』が今まで信じられていた価値観を徹底的に破壊することに成功したのが10年代ですから、私はドラゴンクエストⅦは発売が10年早かったため挫折せざるを得なかった作品だと思います。

-魔王の存在とは一体なんなのか-
 思えば、魔王という存在は一体なんなのかという根源的な問題になります。ドラゴンクエストのⅠⅡはドラゴンや悪霊といった明確なる悪が存在していました。しかし、これらのラスボスたる存在は竜王であっても魔王ではなく、大神官ハーゴンや破壊神シドーであって魔王ではなかったのです。魔王が登場するのは、Ⅲから。魔王バラモスは実は裏で大魔王ゾーマに操られていただけの魔物のような存在であったことがわかります。では、大魔王ゾーマや、天空シリーズに登場してくる魔王とはなんだったのでしょうか。
 エスターク、デスピサロ、ミルドラース、デスタムーア、オルゴデミーラ名だたる魔王たちです。魔王というポジションは人間に対する神のように、魔物の最も頂点に君臨する存在と考えてよいのでしょうか。すると魔物とはそもそもなんなのかということも考える必要があります。
 魔物は概念としては、何か悪そうなものというイメージがあります。例えばドラキュラなどのように、西洋の神に対する悪魔的な存在としての認識もできます。ドラゴンクエストの魔物をみてみると、タチトルのドラゴンはそのまま西洋の伝説に登場する竜です。他にもいろいろなモンスターが登場しますが、どれもそこまで極悪な存在とはどうしても認識できない。スライムなんて倒すのが本当はかわいそうなくらいかわいいマスコットキャラクターではないですか。ドラゴンクエストのモンスターは、おそらく二つのルートからなると私は思います。スライムはおそらくドラクエ世界での、一般的な動物というような認識でよいのではないでしょうか。ドラクエにも一応猫や犬が登場しますが、例えばそうした動物に何か悪い影響があると、モンスターになると考えられると思います。中には物質に魂がやどったかのような、人食い箱やツボック、エビルバイブルなどの存在もあれば、一般的な動物から魔物になったと考えられるものがあります。それからどんどん進化していったなれの果てが、例えば高度な知能を持っているであろうヘルバトラーなんかになっているのではないでしょうか。
 しかし、説明できないのは、そうした動物、物体から登場したモンスターが本当に魔王になったのかということです。ヘルバトラーのような存在であっても、いくら頑張っても魔王になるとはどうしても考えられません。モンスターになるルートは一つはものや動物だとします。私は実はもう一つあるのではないかと考えています。くさった死体や、ナイトリッチなどの存在は、どう考えても人間のなれの果てとしか考えられません。今回のⅦでは、マチルダが実は魔物になってしまっていたということが判明します。ドラクエでは人間が魔物になってしまうということが、しばしばあるのです。エスタークとデスピサロは、進化の秘宝を使用したなれの果てでしょう。あれもおそらくはかなりの武芸者であった人間なのだろうと思います。ミルドラースの存在は謎ですが、第一形態は人間のようでもあります。ミルドラース自身は別として、Ⅴは、ゲマやイブールなど人間らしいボスが多く登場する作品でもあります。Ⅴだけは小説版を読んだことがあるのですが、そこではイブールはマーサと同じエルヘブンの人間だったということが記されていたと記憶しています。デスタムーアもおじいさんの姿をしていますから、もともとは人間だったのでしょう。そうして、オルゴデミーラもまた、人間だったのかもしれません。

 なぜ魔王になるのか。これは永遠の謎ですが、もし究極的な力を得られる世界があったのだとしたら、その世界のなかでは努力してしまう存在が登場してもおかしくはないということなのでしょうか。残念ながら人間が有している能力は非常に少ないですから、現実世界では誰が一人が圧倒的な力をもったりすることは、なかなかありません。どんなに強靭な肉体を鍛えたとしても、武器がありますから、その人物が中心となって何かやるということはないでしょう。ただ、力ある世界では、どうしても究極的な力を身に着けた存在が悪となって登場します。スター・ウォーズの皇帝や、ハリーポッターの闇の帝王。どうもへんなところで努力をする人間がいるようです。彼らは一体なにがしたいのか。おそらくは自分が一番頂点にいるヒエラルキーを作りたいということなのだろうと思います。
 そうすると、ドラゴンクエストに登場する数々の魔王は、世界で一番強い力の持ち主となって、全世界を自分の手中に入れたいということになるでしょう。
 ドラクエⅦのオルゴデミーラは、大地を切り離して封印することによって、人々を絶望に陥れていました。中にはマチルダのように魔物に心を売って人間ならざる力を得る代償に身体を魔物にしてしまったという存在も出てきます。オルゴデミーラはどうやら人々の絶望を糧に生きていた節がありますから、象徴的に、人間のこころの負の側面というのは、魔物なのではないかということが考えられます。魔物というのは、実は人間の負の面のなれの果てなのではないかということです。身を落とした人間が直接魔物になるというわかりやすいものがある一方、人間の負の感情全体が集まることによって、魔王を作り出していたということが言えるかもしれません。今回の作品はとかくドラクエ史上最も暗いストーリーの多い作品ですから、人間のこころの闇が、実は魔物を作り出してたということになるかもしれません。

『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 2

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-物語のおおすじ・タイムパラドクスの物語-
 神様と魔王オルゴデミーラの最終決戦の前の時間に舞い戻って、封印された大地で魔物を倒すことによって未来を変え、大地を封印から解放するということをしていきます。エスタード島の人間が復活した島の存在に対して、主人公たちと同じ記憶しか保有していないのに対して、復活した側は、前からエスタード島のことを知っているという、記憶の非対称性があり、その部分の説明がもう少し必要だったと思いました。
 過去の時間では、オルゴデミーラがそれぞれの大地を切り離して封印することによって、そこに住んでいる人々を絶望に陥れ、その負の感情を自分のエネルギーとして神様との戦いに備えたと考えられます。神様は恐らく過去の時間軸においては敗れたのでしょうが、一つの希望を残すことによって、未来を変化させようとします。主人公たちは神様が残した希望ということになるでしょう。その主人公たちが過去を変えることによって、現在をも変えていくという構図です。
 封印されてしまったそれぞれの地域を、そこに赴いて魔物たちの手から解放することによって、未来を変えて現実世界で復活させます。神と魔王の決戦は、おそらくほとんどの島が封印された時点での戦いだったのでしょうが、その決戦より前に主人公たちがもどって、解放をしていることから、神と魔王の決戦時には、封印したはずの大地が解放された状況で決戦を迎えたということになると思います。人々の絶望からエネルギーをもらっていたと思われる魔王は、当然封印した大地が解放されていれば、そこから得られるエネルギーを吸収できないはずですから、弱体化し、神を滅ぼすことができなくなるということになります。時間軸の問題を入れると非常にややこしくなりますし、論理的にできないことになっていますから、やっぱりどこか矛盾が生じますね。まあ、別の時間軸に移動したと考えればなんとかなります。

最後の大地を復活させる時点では、神と魔王の決戦の直後であることが示唆されています。神を完全には滅ぼせなかったものの、なんとか勝利を得られたオルゴデミーラは力を使い果たし、かなり弱った状態で自分の居城に舞い戻ります。そこに未来からやってきた主人公たちが丁度その弱り目に祟り目のごとく来訪し、弱っている魔王にとどめをさすことによって、物語は終わったかに思えます。
ところがどっこい、その後に復活させた神様が、実は魔王との決戦で敗れた神様ではなくて、オルゴデミーラだったということになります。一体オルゴデミーラがどこで何をしたためにこうしたことが出来たのかはまったく不明ですが、倒したはずのオルゴデミーラが実は神様の姿をして復活していたということになります。
本物の神様が敗北するまえに残した精霊たちの復活によって、魔王が化けていた神様は正体が暴かれます。神様の姿で偽って人心を惑わしていた間に養生したのか、だいぶパワーアップしたオルゴデミーラ。物語はそのデミーラの現実の世界での居城に侵入し、討伐するということで終わります。

-なぜ人はRPGのゲームをするのか-
 この年にもなると、今までただの娯楽でやってきたRPGのゲームがふと、どうしてそうなるのだろうかという研究の対象になります。それが年を取ったということなのでしょうか。久しぶりにゲームをやって、そこまで熱中することにならなかったので、少し感慨深い思いを抱いています。
 RPGというのはもちろんロールプレイングゲーム(role-playing game)の略称です。ウィキペディアには-参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。-と定義づけられています。
 人が何故ゲームをやるのかということを考えたとき、私は「疑似体験」が最も大きな原因だろうと思います。例えば、あらゆる特技を使ってモンスターと戦ったり、あるいは人間と戦ったりする。こうしたことは現実ではできないことです。そうした現実ではできないことをゲームという媒体によって、主人公という自分がコントロールできる存在を通じて疑似体験する、これがゲームをやる最も根源的な理由ではないかと思います。
 疑似体験というのは、まさしく文学そのものです。文学というものは一体どこから文学なのかというのは、文学史の研究分野ですが、神話からが文学だと大体考えられています。日本では古事記が一応文学のはじまりのように考えられています。こうした神話というのは、どうして生まれたのか。これもまた疑似体験だと私は思います。
 こうした神話が何故必要だったのかというと、そこに登場する主人公たる神的な存在が、様々な苦難や困難を通じて成長し、時には克服し、あるいは死ぬということもあります。神話の中で登場する主人公たちに多いのが、どこかを旅して苦難を克服するという話型です。これを民俗学者の折口信夫が彼が造った「貴種流離譚」という概念によって紹介しています。

貴種流離譚とは、折口信夫の造語で古伝承や物語等の発想の一類型。若い神や男女主人公が何かの事情で所属する社会を離れ、異郷に流離し、多くの艱難を経験した後に、尊い地位に到達する。または悲惨な死に逢うもののやがては神にまつられる場合もあった。このような類型は世界的に偏在するが、日本の古来の文学の趣向・筋立ての基本的な話形として一つの伝統を形成している。以下略  
【参考文献】折口信夫「日本文学の発生序説」(折口信夫全集7 昭和30年)

 この貴種流離譚という話型、お話のパターンというものは、最も根源的な神話から、現代の小説、映画、アニメ、マンガ、ゲームなどに多く影響を与えています。この話型を知っておくとそれだけで多くの発見があります。例えば現在公開している『ベルセルク』もまたこの話型です。柔道を描いた漫画『姿三四郎』もまた、この話型で読み解くことができます。RPGのゲームは多くのこの貴種流離譚の物語で読み解けるのです。
 人間は本質的にこの貴種流離譚の物語が好きなようです。神話に登場するぐらいですからね。このもともと高貴な身分、あるいは何か特別な出生をした人間が、彼らの属するコミュニティーから離れ、あるいは追放され、様々な土地を旅、流離することで、多くの苦難とぶつかり、立ち向かい、克服し、時には死をもって物語を終えるという話の形は、人間が好むようです。文学は疑似体験です。詰まる所、こうした一人のヒーローが背負いきれない運命を負い、それに立ち向かうという話を読む、または聞くことによって擬似体験していたということなのでしょう。その疑似体験を通じて何を得るか、最も大きいところはそれによって、自分の人生では経験できないことを体験することによって、ストレスの発散をしていたのだろうと思います。古くから社会はありましたから、そこから抜け出すことは通常できない。今のように便利な時代ではないですから、社会から出ていく、追放されることは、一人で生きることを意味します。自然の中で生きることはできませんから、それはすなわたち死です。ただ、やはり昔の人間もストレスは当然あったはずです。どんなストレスかはわかりませんが、娯楽施設もありませんから、発散する場所がない。だから、自分たちができないことをするヒーローをお話としてつくることによって、そこに感情を移入し、それを読むことによって自分ができないことを疑似体験し、ストレスを発散したということなのだと思います。
 もちろんストレスの発散という言葉のなかには、感動した、怒った、悲しかったというような感情の悲喜こもごもがあるでしょう。それを総括してストレスの発散とここでは便宜上述べておきます。

-貴種流離譚の物語としてのドラゴンクエスト・隠された『レ・ミゼラブル』の文学性-
 ドラゴンクエストはまさしくこの貴種流離譚の典型的な例です。Ⅶも、謎の出生が関わってきます。大海賊シャークアイと同様水の精霊と何かしらの関係があることが示唆されています。四つの精霊の血なり力なりを分けているであろう一族の出なのです。シャークアイの妻であるアニエスは、自分の夫が魔王と戦って封印されたことに対して、自分の子供を未来に贈って父親と再会できるようにしたことと、自分の身も人魚になりながら長い年月夫の封印が解かれるのを待つために海底王に援助されます。シャークアイは、本当の主人公の父親ということになるでしょう。そうした特別な生まれ、運命を持った存在が、仲間とともにそのコミュニティ、楽園と呼ばれたエスタード島から離れることによって、世界を救い、魔の根源であるオルゴデミーラとの戦いに挑むということになります。
 本来であれば、このようなわかりにくい出生の人間よりも、王族であるキーファの方が貴種流離譚としては話が締まります。Ⅰの主人公は出生が謎ですが、Ⅱでは、まぎれもなくかつての伝説であるⅠの主人公の血筋の人間、しかも王族です。Ⅲは知りません。Ⅳは例外的に群像劇ですので、貴種流離譚の話型は薄いです。Ⅴは典型例。パパスという王と、不思議な力を持つマーサによって生まれた主人公は、王族の出身です。ほとんどが王族と何かしらの関係があるのです。それは、王族への憧れとも考えることができますし、そうした高貴な身分の人間が、自分たちの階級におりてきて、そこで苦労をするという共感性を求めているとも考えられます。
 また、一つ指摘しておきたいのが、今映画が大ヒットしている『レ・ミゼラブル』も貴種流離譚の話型に似ていますが、ドラクエⅦはこの『レ・ミゼラブル』の文学性をも反映していると私は思います。ビクトル・ユゴーの大著作『レ・ミゼラブル』は、その後の文学に大きな影響を与えています。主人公たるジャン・バルジャンではなくて、脇役ながらガブローシュというテナルディエ夫妻の子供がいるのですが、この子供は小生意気で、元気いっぱいで、やんちゃな人物として造形されています。この小説が大ヒットしてから、ガブローシュという登場人物は、主人公のジャン・バルジャン以上に、物語の典型的な登場人物としての立場を獲得しました。ガブローシュというユゴーの創造の人物は、文学辞典に乗るほどです。主人公の仲間となるガボは、いつもなにかを食べているような、野性的で元気いっぱいの存在として登場します。ガボという名前がまずガブローシュに似ていますし、その性格や小さい子供であるということも鑑みると、『レ・ミゼラブル』から発展した典型的な登場人物であるガブローシュの性格がガボには受け継がれているのではないでしょうか。また、所属するユバールの民から半ば追放されたような演奏者であるジャンも、名前が名前だけに、どこかやはり『レ・ミゼラブル』と関連があるように思えてなりません。これを言っているのは恐らく私だけではないでしょうか。みなさんのご賢察をお願いします。

『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 1

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-初めに-
 先日、2月7日に発売された3DS版のドラクエⅦを購入し、裏ボスまで攻略して大体やりこんだと思ったので、その覚え書きとしてこれを記します。一般的に言われているのは、まず大別してドラクエ派とFF派というわかりやすい構図でしょう。面白いのが、大体ドラクエ派というのは、FFをやったことが無いのでドラクエ派で、FF派というのはドラクエもやったことがあるけどFFの方がより好きというグループが多いことです。これはあくまで私の身近な人間を見ていて感じたことですから、もちろん何の根拠もありませんけれども。
 かくいう私も典型的なドラクエ派の人間です。FFはPSPで出た零式とDS版のⅣしかやったことがありません。それに対して、モンスターシリーズと名作と呼ばれるⅢを除いてほとんどドラクエはやっています。なぜⅢをやっていないのかというと、DSでリメイクされていないから出来ないというのが現状です。
 最近ではテイルズシリーズもかなりの人気と知名度を誇ってきましたから、日本のRPGの大御所はドラゴンクエストとファイナルファンタジーとテイルズシリーズの三つということになるのではないでしょうか。

-ドラクエシリーズの系譜-
 『ドラゴンクエストⅦエデンの戦士たち』は特にドラゴンクエストシリーズのなかでも異色を放っています。プレイステーションで初めに発売されたときには、データが多すぎて一つに入りきらなかったとか。途中でディスクを変えるということをしなければならなかったようで、プレイステーション版ではやったことはないのですが、やったことのある友人の話を聞いていて一体どういうシステムになっているのかよくわかりませんでした。今回のDS版では特別なことは必要なく、快適にゲームが出来ました。
 先ず、普段のドラクエと異なったのが、モンスターが出てくるのに1時間以上かかるという点。大体のドラクエは、いったんフィールドでスライムなり、そこらへんの最弱モンスターを数匹相手にするところから始まったり、あるいはフィールドにでることが割と早くにあります。しかし、今回のドラクエ7は最初の島でしばらく冒険をしないと、モンスターさえ出てこないという異色の作品です。ドラクエ史上クリアするのに最も時間がかかると言われるほどの作品です。平均して大体クリアする時間が100時間ほどということのようです。ドラクエはかなりやってきたほうですから、町の人間全員と話したり、すべてのタンスやツボ、タルなどをチェックするのは当たり前、サブストーリーも確認するためある程度冒険が進んだらもう一度今までの町を訪れてみるといったことをしていた私も、かなり早くやったとは言え、100時間くらいになりました。

 今回のドラクエ7は、DS版でリメイクされてきた他のドラクエ作品の技術をさらに高めて導入しています。ドラクエ8が技術的に最も完成した作品だと私は思っているのですが、8に劣るとはいえ、全体を見渡せる360度の視野というのは、冒険を楽しませてくれる一つであります。DS版の7は、ドラクエモンスターズシリーズの要素である、モンスターのシンボルがフィールドに現れるという方法を採用しています。モンスターズシリーズに対して、今までのローマ数字が付されてきたシリーズをなんと呼ぶのかしりませんが、まあヒストリーシリーズとでも冠しておきましょうか。今までのローマ数字が付されてきたヒストリーシリーズは、フィールドにはモンスターが現れませんでした。かなりグラフィックの力があった8でさえ、スカウトできるモンスター以外は、フィールドを歩いていると突然エンカウントするという方式をとっていました。こちらの方が、ファミコンからドラクエをやってきた人間にはなじみ深いのですが、今回の8は、モンスターズシリーズの方式をとっています。ですから、うまいことモンスターのシンボルをよけ続けていれば戦わずして冒険を進めることができるということです。今思えば、ドラクエ5で仲間にしたいモンスターが出る地域ににおい袋をたくさん購入して赴いたことが懐かしく感じられます。歴代のドラクエファンの人間は、私を含めてですが、あまりこのシンボルに対してはいい印象を持っていないようです。突然戦闘になって、何が出てくるのかというのも一つの愉しみでもありますしね。さらに、シンボルの欠点としては、メタル系の珍しいモンスターの登場をどうするかという問題があって、かなりの速さでシンボルに走らせるのですが、それをいちいち追いかけたりするのも面倒くさければ、洞窟などの狭い場所では意外と簡単にエンカウントすることができるなどの側面があります。また、もう一つは、戦いの際に、多くの種類のモンスターが出にくくなったという点です。あるシンボルとぶるかるわけですから、当然そのシンボルのモンスターが登場しなければいけない。だから、ある種類のモンスターにぶつかったら、それ以外が出にくいということになります。反対から言えば、自分の戦いたいモンスターを選別することが出来るようになったとも言えます。

-ドラクエシリーズとⅦの関係性-
 Ⅲをやっていないので、何とも言えないのですが、ドラゴンクエストはⅠⅡⅢがロトシリーズ、ⅣⅤⅥが天空シリーズとしてひとつまとまった世界であることがわかっています。ではⅠⅡⅢとⅣⅤⅥの二つの世界軸の関係性はどうなっているのかということが問題になりますが、ネット上でいろいろな説が上がっています。例えば実はこれらもつながっているというように言う意見もあれば、SFの並行世界的な感覚で捉える見方もあります。私は後者です。Ⅷで登場したレティスは、別の世界ではラーミアと呼ばれていたとのことを述べているので、この神の鳥レベルであれば、異世界、あるいは並行世界を横断する力があるのかもしれません。
 唯一例外的な存在となったⅦはどこに属するのか。私は冒頭の島が一つ孤立して存在していることを象徴的にとらえると、ドラクエシリーズのなかでも一つだけ孤立しているのではないだろうかと考えることができると思っています。ただ、天空に浮かぶ島や、神様の存在などから、天空シリーズの一番前、Ⅵよりも前の時間軸にあっても良い気がします。天空シリーズでは、夢の世界の一部が残って天空の城となり、Ⅳまでの間に神様が魔王との戦いの末なくなり、後をマスタードラゴンが引きついだ。それがⅤで主人公と再び出会うという大きな流れになっていると思います。ⅦはさらにⅥよりもまえ、夢の世界もできる前と考えることもできるのではないでしょうか。あるいは別次元の話で片づけた方が楽かも知れませんが。
 クリアするまでに100時間もかかる長大なストーリーにしては、最後がいまいちよくわからないという認識が多くのプレイヤーに共通したことのようです。私もこれだけ長くやってきて、??という感想になりました。

 Ⅶの世界は、魔王オルゴ・デミーラが島を闇の世界に封印しているという状況から始まります。現実の世界に残されたたった一つの島、それがこのタイトルになるエデンという意味なのだろうと思いますが、物語の大筋はそこから封印された島々を復活させていくというもの。最大の謎である、どうしてこの主人公たちが住んでいる島だけがこの世界に残されていたのかという問題は、また後でも述べますが、神様側の力のみを考えると、ここでは神様の庭という意味での楽園が何とか神様の力と、また水の精霊の力によって封印から間のがれたということだと思います。
 ドラゴンクエストというタイトルは、直訳すればドラゴン討伐のようになります。これはドラゴンクエストⅠのボスが竜王というドラゴンだったからだと思われますが、Ⅱでは、その物語の直系にもかかわらず、ドラゴンはどこかに消え去って、悪霊の神々が登場し始めます。ドラゴンの討伐という神話的物語から、悪霊の神々が登場するという伝説的な物語に移行してきたと考えることができると思います。その後ドラゴンクエストと名が冠されているにも拘わらず、実際に登場するドラゴンは、モンスターレベルでしかなく、ボス級の存在は大体ドラゴンではないという状態が続きます。唯一Ⅷは裏ボスが竜の形態だったので、原点回帰した感じがしました。
 ⅠⅡⅢの後に続いた天空シリーズⅣⅤⅥは、別の世界を行き来するということに重点が置かれています。Ⅴは親、自分、子供という三世代の絆と、指輪を巡る物語としてJ・R・R・トールキンの『指輪物語』の影響を受けたストーリーという二つの視点があるため、そこまで異世界は強調されませんでした。魔王ミルドラースが存在する魔の世界が申し訳程度につけられています。Ⅳは、ゲームに群像劇的な視点を持ち込んだことによって、今までのRPGとは異なった視点を導入しました。それまで主人公の一つの視点しか描かれなかった物語が、主人公以外の人間がその世界のなかでどのように生きているのかという側面をあぶりだすことに成功しています。進化の秘宝や、ダークヒーローといった幾重にも重なるストーリーが楽しめます。Ⅵが最も世界感としては大きかったように感じられます。現実の世界と、人々の夢が作り出した上の世界、さらにデスタムーアが作り上げた狭間の世界に、船で行くことができる海底の世界。四つの世界を渡り歩くということで、非常に大きな世界感を感じさせました。Ⅶは、ドラクエ初のSF的な概念、時間移動の概念を入れていきました。そのせいで大分論理的に破たんしている部分があるようにも感じますが、現在の世界と、過去の世界という二つの時間軸の世界を移動することによって、世界感に深みを持たせています。
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