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綿矢りさ『夢を与える』試論 感想とレビュー 綿矢文学の特異点としての側面から綿矢文学を読み解く

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-初めに-
 『インストール』『蹴りたい背中』に続いた綿矢りさ三作目となった『夢を与える』は、今までの一人称小説の形式から変わり、三人称で描かれています。作品形態が大きく変化しているということもあり、綿矢文学を語るうえでは決して外すことのできない重要な作品です。今回はこの作品から綿矢文学を読み解いていこうと思います。

-綿矢文学の三角関係は幹子が負う-
 作者初の三人称小説ということもあり、その形態に慣れるのにかなり苦労したであろうことが察せられます。綿矢文学を読み解く指標としては三角関係があります。この小説にも三角関係が登場しますが、それは最初の夕子の母幹子の物語です。
 フランスと日本のハーフで、主人公夕子の父親である冬馬。この冬馬をどうやって獲得するのかという幹子の戦いからこの小説は始まります。綿矢りさのそのほかの作品を観ると、この三角関係こそ彼女が書きたがっているものだというのがわかりますから、『夢を与える』時点においてもやはりこちらの方が活き活きと描写されています。途中で主人公が幹子から夕子に変わる部分に違和感があるのは、書き手がこちらの幹子の方を描くのに入り込みすぎたからだと考えられます。ここは作家の未熟な部分と考えてもいいと私は思います。
 幹子がフランス人のハーフである冬馬を、フランス人で日本語の講師をしている女性と取り合うというのは、その後の『かわいそうだね?』に引き継がれる構図となっています。この小説のあとに『かわいそうだね?』を執筆していることからも、やはり綿矢文学においてはこの三角関係がテーマだということがわかります。
 
 やむなく主人公が夕子に引き継がれます。夕子は今までの綿矢文学には登場しない少女として存在します。綿矢文学の女性像はどこか攻撃性を持っていて、困窮した際にはちょっと常人では理解しがたい行動をとる、いわゆるいたい人として登場します。しかし、この夕子は、自分の母幹子がそのような性質を請け負っているためか、とても素直な少女として登場します。『インストール』の少女から、攻撃性を取り除いたような感じの少女です。この少女が成長していく様を、作中のチーズのCMのように、私たち読者は見ていくのです。衆人環視の中で成長する人間がどのような感覚であるのか、これが活き活きと描かれるのは、やはり作家である綿矢りさ自信が、17歳のデビューと同時にそうした生活を送ってきたからでしょう。
 また『夢を与える』というこちらから一方的に向かう方向性も、綿矢文学における攻撃性を考えるうえで重要なものだと私は思います。夢というのは本来貰ったと感じたとしても、与える側からしたらそんな意識はありません。アイドルやタレントから私たちが夢をもらったと感じることはあっても、本人たちは自分が誰かに与えたとは思っていないでしょう。ある意味では傲慢になるかもしれませんが、この夕子は夢を与えるという立場に立った数少ない人間として描かれます。幹子によって綿矢文学の攻撃性を奪われた夕子は、夢を与えるという攻撃にもにた方向性を有しています。
 ただ、夕子がそのような方向性を持っていても、受け取る側は今回それを拒否することになります。『蹴りたい背中』にしろ『ひらいて』にしろ、攻撃性の対象となるのは常に男でした。今回の作品でも、幹子は冬馬に対してかなり強くあたっています。これが綿矢文学の本質だと私は感じていますが、夕子にはその攻撃性を向ける相手がいないのです。物語後半から登場し、夕子をスキャンダルで貶める原因となったダンサーの正晃は、今までちやほやされて育てられてきた牙のない夕子からの攻撃を拒否するのです。ですから、夕子の攻撃性は今回正晃に拒否されるという初めての構図が浮かび上がります。これは象徴的に、夕子が与える夢を作中では登場もしない多くのファンが、現実レベルでは私たち読者が拒否するという構図を現していると私は思います。

-相互補完する幹子と夕子-
 この作品は今までの綿矢文学に登場する女性と共通する幹子の方が活き活きと描かれます。夕子が主人公となってからも幹子の存在感は偉大です。しかし、その幹子の生き方の限界を作者が悟ったためか、幹子を登場させることによって、今までの綿矢文学の攻撃性を幹子に負わせることによって、他の生き方を模索しているとも考えられます。夕子はまさしく、幹子の他の生き方と考えられることが出来るのです。それは、作家レベルで話をすれば、綿矢りさ自身の二面性ともいえるでしょう。
 ですから、この作品は幹子だけでも、夕子だけでも成立しないのです。二人がお互いに補完しあって成立しているという状況です。幹子一人では、冬馬をどうやって奪うかという話だけで終わってしましますし、夕子だけではまず芸能界には入れないでしょう。幹子と夕子は正反対の人間ですが、お互いの存在によって成り立っています。これは綿矢りさの内面にあるジレンマや葛藤とも考えることが出来ると私は思います。
 
 たった一つの恋によって、失墜していく様は多少強引とも感じられますが、ここでは丁度夕子が幹子からの脱却を図ろうとしている時期と重なります。二人で一人であった片方の人間からの脱却を図ろうとしているのですから、それはすなわち死を意味します。最後に病室で二人の親子がいる場面は、再びこの二人が一人になるということを象徴的にあらわしていると私は思いますが、そうすると、少女夕子の自我同一性はどこにあるのかという問題になります。おそらく母幹子からの脱却は、作家の二面性ということを考えてもできないでしょう。夕子は母から脱却できない存在として登場しているのです。一人になろうとして、失敗し死にそうになった彼女ですが、母と再び一つになることによって、死にながら生きるといった壮絶な状況になります。それが最後のやせ細って眼光だけがするどくなった夕子の姿です。
 夕子にとっての自我同一性は母と再び芸能界に殴り込みに行くということになりますから、ここで同一性が画一されます。だからここで物語が終わり、それまで夕子視点で書いていた語り手が突然夕子を離れて記者について行ってしまうのです。夕子の物語はここでおしまいということになります。

-終わりに-
 綿矢文学の指標の一つにラストの描き方があります。『ひらいて』ではオープンエンディングと言われるように、作品がひらいていくような感覚を与えました。この作品では、語り手が自己同一化を確立した少女から離れて行ってしまうという構図になります。この親子二人はこれからきっと芸能界に必死に抵抗なり、攻撃なりをしていくことでしょうが、その成果はおそらくないでしょう。しかし、それでも攻撃せざるを得ないというあまり良い未来は予想できません。記者たちがあの子はもう終わりだというのはまさしくその通りなのです。しかし、そのラストを描かずに、記者が離れると同時に逃げて行ってしまう語り手は、使うだけ使っておいて用が済んだら捨ててしまうという、芸能界そのものをも象徴的にあらわした視点になっている点が、この作品全体を通して今の芸能界に対する強い批判となっていると私は思います。
 この小説のテーマである、チャイルドモデルもまた、現代のアイドルへ対する批判と読み解くこともできます。この作品は綿矢りさ自身が経験したであろう苦労や悲運などを彷彿させる彼女の自伝的小説としての側面もあるのではないでしょうか。
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現代を読み解く女性文学 角田光代『空の拳』への試論 感想とレビュー 内容空疎の物語に対する批判

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-初めに-
 2012年に発表された『空の拳』は角田光代氏の最新作。日本経済新聞夕刊での連載を経て、ハードカバー本で500ページに及ぶほどの文量のある長編小説です。実際に作者自身がボクシングを10年間続けていたということがあり、写実性に富んだ作品として紹介されていますが、私はこの作品を作者のこれからの向上と成長のために、この作品に対して批判的にならざるを得ません。単なる誹謗中傷ではなく、私個人としては角田さんの作品は好きですしすばらしいと思っていますが、この作品だけはいただけないと感じ、何がいけないのかを論理的に論じます。

-空の拳はからのこぶし-
 産経ニュースの書評にはこのようなことが書かれています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121125/bks12112511030013-n1.htm
物語は大手出版社に就職した青年がいきなりボクシング雑誌の編集部に配属になる場面から始まる。ボクシングなどに全く興味がなく、むしろ馬鹿にしていた青年が次第にのめりこみ、選手たちの試合に夢中になっていく。いわば青年がボクシングを通して成長するさまを描いた小説となるけれど、メインは同じジムの選手たちの試合にある。
 ふつうなら、ジムの経営やマッチメイクの不透明さを際立たせ、なおかつ友情や恋愛の脇筋を盛り込んで、大試合を終盤にもってきてカタルシスを与える物語にするのに、作者はそれを選択しない。波瀾(はらん)に富む物語ではなく、拳闘の肉体性と精神性を捉えた細部で読ませる。エンターテインメントの手法を駆使せず、作者の出自である純文学的な方法で拳闘の無垢(むく)の美しさを追求しているのである。
 すなわち「不思議なものだ。ボクシングというスポーツは、その人の、自分でも気づかないような特性を際立たせる」「強いやつが勝つんじゃないんです、勝ったやつが強いんです」「強さ弱さとは、試合内容とは、勝ち負けとはまったく関係ないところで評価される」といった思索がめぐらされ、青年の内面を鍛えていく。いわばジムでの経験と試合観戦が魂の成長を促す。さしずめ精神のロードノヴェルだ。きわめて清新で独創的な小説といえるだろう。(日本経済新聞出版社・1680円)


物語のあらすじは上に譲りますが、私が指摘したいのは、この物語の主人公は一体だれなのかという点です。この小説は三人称空也視点で描かれる小説です。編集者として記事を書いていることから、もしかしたらこの作品が空也自身が客観視して後年書いたものと考えることもできると私は思います。
ただこの作品は主人公たるべき空也がほとんど活躍しません。彼は主人公でありながら、貧弱で、どちらかというと私のように非力で文章ばかり扱っている人間ですし、どこかおかま的であります。その彼が自分の望んでいないスポーツ部門の配属となり、いやいやながらボクシングの観戦をしていく中で一体何が描かれるのかということがこの作品の根幹になってきますが、私はその中身が欠如しているのがこの作品の決して隠すことができない大きな欠陥になっていると思います。
空也の視点からジム内の三人のボクサーをメーンに描いていきます。それぞれ空也が通うこととなったジムの生徒です。一人は最後まで勝ち進んでいくことになり、この物語の主人公になりますが、それを見ている空也もまた主人公になってしまっているため、主人公同士邪魔しあって、何がメーンなのかを不明にしています。他の二人は、空也の友人たるべき存在ですが、空也が別段本気でボクシングをしているわけでもなく、またどこか自分は記者としてここにきているからという逃げの姿勢をとっているために、どうしてもこの二人との関係性が構築できません。二人のうちの一人は結局ジムのトレーナーによって才能をつぶされるという結果に終わります。しかし、そのことの不条理さを空也は見ていながらそれに対して何のアクションも取りません。もう一人のジムの同期の人間もあまり派手な活躍はせず、「だから?」の一言で終わってしまうという残念さです。

これだけ多くの文章が書かれていながら、内容は実は何も無いというのがこの作品の正体なのです。空也がいやいやボクシングの観戦を続け、それに熱中するも、その部署がなくなることとなって、最終的に自分が行きたかった文芸部へ入ることができます。この作品では空也の存在がまったく不明確ですし、自己同一化が出来ていないというのが最大の欠点です。結局空也がなにをしたかったのか、作中の長い時間の中でそれが明確にならないままに終わってしまいます。空也はボクサーとしての自己同一化もできなければ、スポーツ部門の記者としての自己同一化もできない。最終的に自分が行きたかった文芸部に入ることができたものの、そこに自己同一化ができるはずがないのです。作品上9,9割をボクシングを観ることをしてきた空也が突然最後の最後に文芸部で自己同一化が出来たらこの作品は消えてなくなります。結果文芸部にも自己同一化ができなくなる。空也はその名前が現す通り、内容空疎な存在なのです。無です。だから、この作品のタイトルの『空の拳』は恐らく空也の拳という意味に読むことができますが、私が指摘したいのは、からの拳という側面です。実際は何にもないということがこの作品の本質なのです。

-内容空疎の物語を一体だれが読むのか-
 描かれている内容が無であることがわかりました。ではこの小説は何を描いているのか。そのほとんどはただ単にボクシングを写実的に描くというだけです。作者レベルではフィクションとノンフィクションの中間を書いたというようなことを述べていますが、今回の作品はそれが見事に失敗してしまったということになると私は思います。フィクションとノンフィクションの間でものを書くことの意義とは一体なんでしょうか。これ自体は決して否定できるものではありません。フィクションという作り物のなかに、どれだけリアリティーを求めるのかという、ものづくりをする人間が求める心情はごく当然のものです。しかし、今回の作品に限っては、この長大なボクシングの描写と、それに不釣り合いな空也の内面。ただボクシングをしている描写を描いただけで終わりというものになっています。その部分ばかり肥大し、内容「空也」になってしまっているのです。

 私個人としては運動が大の苦手で、スポーツをほとんどやりませんから、この小説を読んでも一体何が起きているのか読んでいて全く想像できませんでした。おそらくボクシングというスポーツを題材とした時点で、ファンの方には誤解を与える可能性がありますが、一般的にそこまでメジャーなスポーツでないことからも、多くの読者にこの描写を想像することはできないでしょう。この小説は一体だれが読むのか、誰のための小説なのかということが完全に不明になっています。ボクシングをしている人間であれば、読むことによって描写の内容を想像することができるでしょう。しかし、想像できたところで内容空疎ですから、読んでもなんにもなりません。特にボクシングをしている人間がこの小説を読むとも限りませんし、読んだとしてもその本人に対して何かフィードバックされるものがあるかというと、私が読んだ限りないだろうと思われます。

-終わりに-
 スポーツを描写するという作家としての試みはすばらしいものです。音楽評論家であり先日亡くなった吉田秀和は、彼の評論よりも多いかもしれないと本人がいうほどの量を相撲を描写するということにささげています。彼は相撲を文章化することを通じて文章力を向上したのです。しかし、それは自分の文章を鍛えるためであって、それ自体は作品にはなりません。やはりこの作品も、その試み自体は大変すばらしいものですが、本来であればこれを練習としてなにか別のことを書くべきだったのです。その練習をそのまま出版してしまったために、内容のない、ただ空想のボクシングを描写しただけの作品になってしまっています。
 精神的に向上しなかった空也の視点で描いたというのもまったく理解に苦しむことです。通常であれば物語の主人公になる立花という唯一きちんとボクシングに打ち込んだ人間を描くはずです。彼は実際に精神的な向上も見られますが、ボクシングを嫌っている空也の眼を通して見られるので、それがよくわからない。なぜ立花視点で描かなかったのかというと、フィクションとノンフィクションの間で描こうとしたからです。立花の視点になると物語が狭まってしまいます。私はその方がひとりの人間の成長を描けて良いと思っていますが、空也の視点を選択した時点でその可能性は消えました。何もかも失敗した挙句に内容空疎になってしまっているというのがこの作品の本質だと私は思います。

現代を読み解く女性文学 角田光代『八日目の蝉』への試論 感想とレビュー 現代家族の在り方への厳しい批判としての小説

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-初めに-
 角田光代文学最高峰とまで呼ばれる『八日目の蝉』。まずドラマ化がされ、大ヒット。その後映画化もされました。原作、ドラマ、映画と、それぞれのラストが異なっている点なども本当は論じていきたいのですが、ドラマ、映画を全部見ていないのでそれはほかの研究者に譲ります。
 一つ私が言えることは、そのようにラストが変化するということは、いずれも解釈が自由である点と、それぞれの製作者が、新たに物語を構築できるという多義性があるということでしょう。

-罪の問題-
 赤ちゃん泥棒というのが、一時期話題になったことがありました。この作品もそれをモチーフにして書かれていることは確かです。赤ちゃんというのは人間の神秘です。私は男ですので、子供を産むことは当然できません。子供を産むという行為がどういうことなのかも実感としてわかってはいません。
 この作品は、0章、1章が希和子の物語、2章が薫ことリカちゃんこと恵理菜の物語です。さらに正確にわければ0章は三人称、1章は希和子の日記体の文章です。
 秋山丈博という恵理菜の父親が、不倫した相手が希和子でした。そうして希和子との間に子供ができたのですが、丈博は自分の本妻との間に恵理菜ができたばかりで、希和子の子供も認知することができなかったので降ろすように頼みます。
 丈博の妻であり、恵理菜の母である秋山恵津子は、夫の浮気相手である希和子に対して執拗なまでの攻撃をします。電話をかけ、時には夫との性生活を自慢し、時には別れろと怒り、時にはなく、このような精神攻撃と同時に、希和子は子供を降ろすことによって二度と子供を産めないからだになってしまいました。それを恵津子は「がらんどう」と希和子のことを指して攻撃しました。
 一体だれが悪いのか、1章と2章とで共通しているのは、優男です。1章では丈博が、2章では岸田という男が、諸悪の根源でしょう。しかし、そのような男が悪いとはいえ、一種のヒステリーを持った恵津子もなんの責任もないと言えばウソですし、また丈博と関係をもった希和子も責任がないと言えばウソになります。すなわち、この三角関係は全員が何がしかの罪を負っているのです。その中から生まれた恵理菜は、激しい人生に翻弄されます。
 
 「がらんどう」と言われ、自分の存在自体を否定された希和子は、窮鼠猫を噛むごとく、秋山夫妻の赤ちゃんを奪って自分の子供として育ててしまいます。もちろん法律上裁かれるのは希和子だけです。ただ、それは法律の話であって、文学は裁かれない人間の罪をも描き出すのです。希和子をそこまで追い詰めた秋山夫妻になんの責任もないとは言えません。
 2章で明かされる恵理菜自身の語りには、希和子のほうが優しい母として記憶に残っています。この二人の母を持つという経験をした恵理菜が見て、そうして考え、これからをどのように生きていくのかということが問題なのです。
 ある意味で言えば、これは文学作品ですから非常に異端な例を取り上げていますが、これだけ広く読まれヒットしたということを考えると、普遍性があることになります。それはやはり現代の家族のありかたでしょう。核家族化などに、ある意味では非常に厳しいメスを入れた作品でもあります。

-過去と向き合う-
 1章は、希和子による一人称の日記体の物語です。あとで裁判の証言として2章で1章の内容が客観化されるのですが、1章ではなかった部分が2章で明らかにされたりと、ミステリーの要素も一部あります。希和子自身は赤ちゃんを取り去ったあとに、火をつけたということは全く記憶していないのですが、どうやら秋山宅は火災が発生しています。2章では裁判の記録として、もしかしたら赤ちゃんを取り去ったときにストーブを倒したかも知れないとして、希和子が実は放火していたというように考えることもできます。希和子は「がらんどう」だったのですから、それを埋めるために恵理菜を連れ去らなければいけないことになりました。そうして自分の証拠を残さないため、あるいは事件の発覚をかく乱するため、あるいは恨みのために放火したとも考えられます。私はさらに、家に戻ってきた恵津子が、動転して自宅に放火したとも考えることが可能だということを指摘しておきます。
 しかし、この三角関係と赤ちゃんの奪取、これで得をするのは誰かというと、実は誰もいないということに気が付きます。希和子との一時的な母子関係が構築できるということはありますが、逮捕されるのが前提で行っていることですから、やはり誰も徳をしないのです。みんな損をするという関係がここに浮かんできます。1章は希和子の日記のような物語ですから、私たち読者は希和子の逃亡劇の一部始終を資料として読むという格好になります。
 もしかしたら、これは2章で登場するマロンことフリージャーナリストの安藤千草が集めた資料の一部かも知れません。それをもしかしたら恵理菜は読んでいるのかもしれません。
 
 15年という年月を経て、かつて犯罪者によって連れ去られ、育てられたという過去を持った恵理菜というひとりの人間がどのようにその人生に向き合っていくのか、これは、私たち核家族された家族の問題をもつ現代人と共通する問題なのです。だから、この小説には普遍性があり、恵理菜の追体験を読むことによって読者もまた救われるということがこの作品の共感性でしょう。
 なかでも面白いのが、エンジェルホームの存在。これは、作品の時代性を強調するために、すこしいかがわしい新興宗教てきな要素としてももちろん考えられますが、それ以上に、そこでの関係性が問題になるのではないでしょうか。赤ちゃんを連れ去ってしまうという心の荒廃した人間、しかし、その人間だけが悪いわけではないかもしれないという示唆が一つ。それから、時代性を強調するように見せておいて、実はエンジェルホーム内の人間の関係性が現代への批判になっているというのが、重要だと私は思います。
 男性を排除した、一種キリスト教的な修道院を彷彿とさせる修行団体。しかし、ここで青年期を育った安藤千草は男性恐怖症と戦っています。そうして、そのような場所につれていった母もまた、自分の娘を巻き込んだことに後悔し、娘の自由にさせているのです。こうした破壊された関係性とどうむきあうのか。
 恵理菜にとっては、自分の母親が二人いることになります。優しし母は犯罪者、怖い母は実の母。どうしようもない父、唯一まともに話すことができるものの、一人暮らしをしてからはめんどくさくなってほとんど接点を持たないようにしている妹。はっきり言って彼女は何も悪くないはずなのに、こうした不運に見舞われたために、人間との関係をうまく構築できないようになってしまいました。しかし、では誰を恨むのか、そういう問題にはならないのです。
 自分が子供のころ希和子とともにたどったルートを再び大人になった今追体験するということを通じて、過去と向き合う姿勢を見せます。そうしてこれは血なのでしょうか、父とにた優男、本妻のある岸田という男の子を授かります。しかし、「がらんどう」にならないためにも、シングルマザーになることを決意するのです。

-終わりに、八日目の蝉-
 八日目の蝉とは、誰のことでしょうか。誰も経験しなかった、みんないなくなってしまった世界にひとりでいることです。それは希和子でもあり、恵理菜でもあります。恵理菜はだれも経験しなかったことを経験することによって、それは確かに不幸ではありますが、それを見つめて向き合うということが重要なのだと気が付きます。これが、やはり現代の家族の問題にも共通していえることなのではないでしょうか。

現代を読み解く女性文学 黒田夏子『abさんご』試論 感想とレビュー 今この作品が受賞することの意味性と相対的な関係性から読む物語

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-初めに-
 一年を半期に分けて年二回、その期間に出版された純文学作品の中で最も素晴らしいと評価されたものに与えられる芥川賞。芥川賞はその賞の特質性もあり、今回も大きくメディアに取り上げられました。
 芥川賞は原稿用紙換算でおよそ200枚前後の純文学、中編小説に贈られる賞ですが、募集をしているわけではなく、委員会側から一方的に授与されるという不思議な賞です。146回芥川賞で受賞した田中慎弥が発言した「もらっといてやる」は、一躍有名になりましたが、賞の形態を考えるとこれほど厚かましい賞に対する態度としてはむしろ正当なものでもあります。頼んでもいないのに向こうから一方的におしつけてくるのですから、これほど厚かましい賞はほかにはないということもできるのです。ただ、一応新人の素晴らしい作品に贈られるという了解があるから、今までの受賞作家はありがたく受け取っていただけだったという構図になるわけです。受賞者の中には一人だけ辞退した人がいるらしいですが、もちろん辞退してしまったので名前はわかりません。しかし、この一方的に与えられる高圧的な賞が、今回もまたメディアをいいように使って話題を提供してくれました。
 
-現在にこの作品が受賞した意味-
 2000年代に入って綿谷りさと金原ひとみという二人の若い女性作家を輩出して話題を呼んだ芥川賞ですが、今度はその反対の75歳という高齢の作家を賞に選び話題を呼びました。芥川賞は今までにも言われていたことですが、娯楽というものがあふれる世界で文学の生き残りのために話題性を創るためのいわゆる出来レースだと考えた方がいいでしょう。メディアがそれに乗っかって、多くの文学に関心のない人々に作家の名前や文学の情報が少しでも伝われば成功だと言えます。私は文学を専門に勉強していますから、この出来レースには無関心でもいけませんし、熱中しすぎてもいけません。あくまで客観的に見て、どのような状況なのかを冷静に判断する必要があるだろうと思います。
 今回の「abさんご」は非常に読みにくい作品です。しかし、これが受賞したということはやはりそこに何かしらの意味があると考えた方がよいでしょう。まだ二回しか読んでいないので、テクスト分析まではもっていけませんが、この作品が今受賞することの意味性について少し論じてみたいと思います。
 
 現在の文壇の状況は非常にシビアなものがあると私は常々感じていました。それは、「読みやすい、わかりやすい、おもしろい」のおおよそ三つがすべてであるかのように読者に感じられている側面です。現在の若者は、特に国文学科という文学を専門にする場所に居ながら感じることですが、ライトノベルのような簡単でわかりやすくてすぐよめて、楽しめるというごくごく簡単なものしか読みません。それは一般読者もそうです。だから、私は国語力が国民的に落ちてきていると思って、英語なんかより国語をまず先に勉強しなければいけないのではないかと考えることに至っているわけです。それはさておいて、先日読んだ有川浩の「阪急電車」の解説には児玉清が「理屈や難解な言い回しや気取りにどれほどの意味があろうか」と述べて、かつての文学と呼ばれるものを否定し、有川氏のおもしろい文学を称賛しています。児玉清は個人的に好きですし、亡き人に対して何かを言うつもりはありませんが、このような文学が嗜好されるなかで、極めて難解で、読みづらく、わかりにくい作品が受賞したことの意味は大きいと私は思います。そうして、私自身はこの作品に重きを置いています。

-相対的な関係性から読み解く文学-
 この文学が出てきたことの意味、それは「対抗文化 counter culture」として理解できると私は思います。この「対抗文化」とは一般的に「ある文化圏の支配的文化(dominannte culture)に対して異議申し立てをしたり、対抗・反逆・破壊したい、異質な文化創造を行おうとしている主体がもつ文化のこと」などを定義しているものです。引用 高橋準「現代文化研究における〈文化〉概念と分析ツールに関する覚え書き」
 今までの主流が男性主権的な文豪の世界から、わかりやすい文学に移りそれが横行していました。この主流の文学に対抗するために登場したのがこの作品の存在意義だろうと私は思います。読みやすい、わかりやすい、かんたん、たのしい、こうした文学はもう終わりなのです。いわゆる「攻略本世代」と言われる現在の若者は(自分も含めて)、「簡単に楽しめる」ことばかり要求して、少し難しい問題にぶつかったりするとすぐに攻略本に頼る。そうしてそれがなければやめるか諦めるということになります。今回の作品を読もうとして挫折した人がどれだけいたのか気になります。きっと読めないと感じてすぐにあきらめてしまった人が多かったのではないでしょうか。これから求められるのは、こうした難解なものにぶつかった際に、おあつらえむきだと反対に立ち向かっていく力なのです。

 この作品の存在意義性というものはほかにもあります。一つは今述べたことです。二つ目はそれと関連しているのですが、「対抗」であると同時に、これはまだ「解体」でもあります。この作品は、その作品を通じて「解体」を行っているのです。まず一つ目は文壇の状況に対する解体です。これは上で述べました。もう一つは言葉の解体です。今まで当たり前のように使用されてきた言葉を、今一度考えなおそうじゃないかという問題提起だと私は思います。多くの記事や人々が指摘していますが、例えば「へやの中のへやのようなやわらかい檻」「天からふるものをしのぐどうぐ」という言葉は、おそらく作中では「蚊帳」と「傘」のことを示していると思われます。このような言葉の言い回しは、どこへいってもまずばつを付けられることでしょう。こんな言い回しはだめだと否定されるのがおちです。でもどうしてだめなのか。私も考えたことがなかったのですが、なぜダメなのでしょうか。この作品はそうした暗黙のうちに勝手に作り上げられてきた「常識」の解体(あるいは破壊)をしているのです。

 この作品の文学性は関係性から読み解けると私は思います。言葉を解体したことには一体どのような意味があったのか、それを考える一つの視座でもあります。思えば、固有名詞というのは、ある言葉という記号が、あるものと対応するために作られたものです。しかし、そうした常識からの脱却を図っているこの作品は、ものごとを関係性から描いています。先ほど述べた上の二つの例も、「傘」とは一体どういうものなのか、何をするためのものなのかを考えたためにこうした表現が出て来たのです。この作品のなかには固有名詞がほとんど登場しません。「私」という言葉もありません。そこに登場する人間と思われる存在は三名ほどいるのですが、これらの三名は、常に関係性から描かれます。例えば父親と子ということを現すためには、この作中では「~するもの」と「~されるもの」と現しています。これは父と子という関係性が、常識的にあるのではなくて、相対的なものでしかないということを示しているのです。「~するもの」と「~されるもの」というのは主体と客体です。一種歌舞伎の襲名制にも似ているものがここにはあります。その「もの」とは人であっても物体であっても、それ自体が最初からあるのではなくて、何か働きかけがあって他のものとの比較として描かれるのです。そのものは最初からそこにあるのかもしれません。しかし、常にあるのではない。傘は常に傘であるわけではないのです。人間によって天から降ってくる雨を防ぐために使用されたときに「傘」になるのです。

-終わりに-
 この作品は対抗文化と考えることができることからも、今までの読みやすいわかりやすい作品がすばらしいという事を述べていた人々にとっては腹立たしいこと限りないでしょう。私も確かにびっくりしました。ただ私が腹を立てたのは、この作品にではなくて、これを読めない自分に対してです。10年代の文学がどのように移り変わっていくのか、この作品はちょうど転換期の節目に出て来た最も極端な例だと私は感じています。アニメもすでに「まどか☆マギカ」や「タイバニ」など今までのアニメに対抗する作品が多く登場し始めました。2010年代の文学は、震災の影響もあり、価値観の解体と再構築へ向かうものだと私は感じています。この作品を読まずしてこれからの文学は語れないほどの重要性をもっていると私は思います。
 もちろん面白いか、楽しいかと言われたらおもしろくもないし楽しくもありません。つまらない作品だと言えるでしょう。詩を文章化したようなひどく抽象的な文章、さらには関係性からものを書いているので、一体何が主体で何が客体なのかという古文の主語さがしをしているような腹立たしさがあります。しかし、私はこうした作品こそ文学であり、また現代を読み解くうえで極めて重要な作品だと思います。

太宰治「女生徒」試論  ―秘められた反戦メッセージ― 2

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ジェンダーの女性性
 ジェンダーとセックスの違いは、広辞苑によれば「ジェンダーは社会的・文化的に形成される性別。作られた男らしさ・女らしさ。セックスは生物学的な性別」と定義づけられている。
 この小説は、アンチ・ジェンダー小説としても読める。この女生徒が、強いジェンダー意識を持っていることは、多くの研究者が指摘している。ところが、よく見ていくと、この少女が実に曲解したジェンダー意識の持ち主であることが分かる。それは、出産に対して、とてつもない嫌悪感を抱いているという点である。
 先ずジェンダー意識。「理窟はないんだ。女の好ききらいなんて、ずいぶんいい加減なものだと思う」という部分から始まる女性性への嫌悪感がある。ところが、女性性のみに対しての言及はことのほか少ない。他の女性性への嫌悪感は、「子ども」が現れるとともに表出する。

「子供脊負ってねんねこ着ているおばさん。おばさんは、年よりのくせに厚化粧をして、髪を流行まきにしている。顔は綺麗なのだけれど、のどの所に皺が黒く寄っていて、あさましく、ぶってやりたいほど厭だった」
「いやな女のひとを見た。襟のよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪を櫛一本に巻きつけている、手も足もきたない、それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い顔をしている。それに、ああ、胸がむかむかする。その女は、大きいおなかをしているのだ。ときどく、ひとりで、にやにや笑っている。雌鳥。こっそり、髪をつくりに、ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女のひとと変わらないのだ。」

 行き帰りのバスで、女生徒は子どもを連れた女性と、妊娠している女性と出会う。そうして、どちらの女性に対しても、通常では考えられないような烈しい嫌悪感をあらわにしているのである。では、何に対して嫌悪感を抱いているのであろうか。最初に検討が付くのが「子ども」である。自分自身が大人になれていない少女で、そのために少女である自分に対してジレンマを抱きつつ、子どもを批判するという構図であるが、たびたび用いられる「娘」というキーワードを考えた際に、この構図はなりたたないだろうと私は思う。この少女は母親との関係においての「娘」になることには嫌悪感を抱いているどころか、「いい娘さんになろうと思った」という部分や、風呂につかりつつ「いつまでも、お人形みたいなからだでいたい」と言っていることから、「娘」というポジションにいることは、それほど彼女にとっては厭なことではないと考えることができる。そうすると、少女が嫌悪感を抱いているのは、「子ども」ではなく、子どもを産む「母」である。
 この小説は、亡き父親を取り合うというエレクトラコンプレックスの小説としても読めると私は思うが、ここでは、この小説の時代背景をも含め、子どもを産む「母」に対しての嫌悪感のほうが強調されていると感じる。「妊娠」という行為は、人間の最も根源的で、自然な行為である。これ自体には、そもそも善悪もないものであると考えられる。ところが、この小説が発表された一九三九年の戦時下において、「妊娠」や「出産」が単純に生命を育むという意味ではなくなってしまったということが大きいだろう。
 駒澤大学国文学大会 公開講演 資料 「戦争にあらがう女性表現-宮本百合子の場合-」の戦時下女性政策によれば、一九三八年、すなわちこの作品が発表される前年に、様々な女性政策が行われていることがわかる。「人工増殖政策とむすびついた国民の体力向上策が図られ、保健婦の育成に力が注がれた。(省略)保健所による保健指導は「産めよ増やせよ」政策を支え、戦争遂行体制の一環に組み込まれていく」「女性には、人口増加政策が次々と図られ、早婚多産の奨励、傷痍軍人の妻になること、満州開拓移民の妻になること等が奨励された」とある。
 そうして、これらの政策を推進していたのは、なにより国家であり、その国家の代表は近衛文麿なのである。この当時は、ちょうど第一次近衛文麿内閣(一九三七,六―一九三九,一)に重なる。そうして、一日の初めに、唯一実在する人物として登場する男性は、少女が新聞を読んだ際にあらわれる「近衛さん」なのである。
 このテクストは何資宜氏の論文にあるように、『「円環するテクスト」としての一面がある。氏は「眠りに落ちるときの気持ちって、へんなものだ。鮒か、うなぎか、ぐいぐい釣糸をひっぱるように、(中略)ぐっと大きく引いて、こんどは朝まで」という結末は、「あさ、眼をさますときの気持ちは面白い。」という書き出しに見事に繋がっている。』と述べ、眠る際と起きる際の、「また」の多様の入れ子構造についても言及している。この指摘からも、このテクストが円環していることがわかる。氏は、「きっと誰かが間違っている。わるいのは、あなただ」というこの作品の大きな謎について、作家論のレベルで悪いのは「川端康成」や「文壇常識」や「世の中」「お客様」だと述べている。しかし、テクストの円環性を重んじるのであれば、「悪いのは、あなただ」と述べた後に、最初に登場する固有名詞が「近衛さん」ということになる。つまり、このテクストは、円環する構造を用いることによって、「近衛文麿」ないし当時の国家を批判しているのではないだろうか。
 そうして、この近衛内閣がした様々な政策が女性の「妊娠」「出産」に自然性以外の何の意味を付加したのかという点を考える。何者にも強いられることなく子どもは生まれるべきである。望まない出産は女性への暴力である。それが、この時代はまかり通ったのである。女性は子どもを産み、育て日本の国力を増産させるためのマシンーンになった。これらの政策は、女性を日本のために子どもを産むための機械にするという意味を付加したのである。すなわち、これは「自然」ではなく「人工」である。
 しかし、これが誰もに知れ渡ってはいけないため、この作品には、「悪い人」=「近衛」ラインを隠す工作がなされている。それが、「妊娠」する「母」=「本能」という構図である。本来「妊娠」=「自然」である。しかし、反戦メッセージを隠すためには、「妊娠」を「本能」に置き換えて、それに嫌悪する少女という像を作り上げなければならない。ここで、つくり上げられているのが、男性に媚びる女性への嫌悪である。「キン子さん」と一緒に「ハリウッド」という美容院とおもわれる場所で「髪をやってもらう」少女。しかし、この髪を綺麗にするという行為が、少女のなかで男性に性的アピールをする、男性に媚びる女性としてのイメージと重ねられる。この性のアピールを、本能と位置づけることによって、「妊娠」する「母」を「自然」から「本能」へと結びつけることに成功しているのである。
 「本能」は「雌鶏」として動物性の強いイメージと重ねられる。そうして、「女の中にある不潔さ」は「金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さ」がして「雌の体臭」がするものとして、嫌悪の対象になっている。この「臭さ」は少女の好きな「苫小牧のお姉さん」にもつきまとう。「年ちゃん」が生まれたことによって、自分の姉という位置から、家庭に入ってしまった姉は、「海岸に近い故か、始終お魚の臭いがしてい」る。そうして、寝る前には、魚に釣糸をひっぱられるように、眠るという部分が、自分が次第にこの臭さ、「妊娠」する「母」に近付いているということを象徴的にあらわしているのである。それを断ち切るために、次の部分が重い意味を持ってくる。


王子様のいないシンデレラ姫
 このテクストは円環するテクストであると述べた。そうして、ここに登場する女生徒は、「道徳が一変」しないために、永遠に苦しみつづけるという構図が出来上がっている。彼女がこの円環から抜け出すことができそうになったのは、冒頭で、何度も同じ事をくりかえしているというフランス語のテジャビュのような感覚に襲われた際である。ここでは「哲学のシッポ」によって一瞬この円環から抜け出せるような気がしている。この「哲学のシッポ」は「錯覚」や「ピュウッと走り去」る「インスピレーション」のようなものであると考えられるので、一言で言えば神がかりのようなトランス状態のことを指していると考えられる。それが、「女のキリスト」状態になることである。しかし、女のキリストが「いやらしい」のは、少女の想像で聖母像と重なり、「妊娠」のイメージが出て来たからであろう。
 「マッチ売りの娘さん」と共に登場する「王子さまのいないシンデレラ姫」。先ず「シンデレラ姫」のみで考える。シンデレラストーリーという言葉は、およそ有名でない一般人女性が、短期間で(あるいは長い年月で)成長と幸福を手にし、芸能界や社交界、その他の一流の場などにデビューしたり、あるいは資産家と結婚する成功物語を指す。もし、『女生徒』が王子さまのいるシンデレラ姫であれば、少女はこの円環するテクストから、王子様が連れ出してくれるという成功譚になるはずである。しかし、この作品に登場する二つの童話の共通項は、「マッチ売りの娘」と「王子さまのいないシンデレラ姫」はどちらも救われていないという点にある。この作品では、「王子さまのいない」という条件付の童話が紹介されるのである。
 靴をめぐる物語として、お母さんが寝るときに靴の話をし始めるが、女生徒は「いいの、そんなに欲しくなくなったの」と靴を拒む。これは、「シンデレラ姫」がガラスの靴を手がかりにシンデレラを見つけ出し、靴を履かせるという行為を拒否するという構図になる。そうして、靴の拒否のすぐ後で少女は「幸福は一生、来ないのだ」と述べている。
 「おやすみなさい。私は王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?もう、ふたたびお目にかかりません。」という部分は、この作品最大の謎の一つであるが、今まで一人称が「私」であったのが、突然「あたし」に変貌している点を考えると、幼稚さをだすための演出として考えられる。これは、つまり少女のままで、「母」にはならないという意志の表れである。そうして、「もう、ふたたびお目にかかりません」というのは、こちらからの拒否の意志の表れに他ならない。
 つまり、王子様を拒否することによって、自分は円環するテクストのなかから出られずに苦悩する日々を送り、「道徳が一変」するのをただひたすらまつほかないという状況になるが、子どもを産むための「母」にならないということを表明し、さらに「近衛」に対して批判しているのである。こうした点から考えても、この作品は戦時下において作家レベルで言えば、太宰治が女性の独白を用いて、子どもを産まない選択をすることによって反戦のメッセージを隠したテクストということができると私は思う。

参考文献
・宮内淳子「『女生徒』論―カラッポを語るとき―」(『太宰治研究4』和泉書店、平成9年7月15日)
・広辞苑より
・岡村知子「二『女生徒』-間主観的語りの地平へ―」(『太宰治の表現と思想』2012年4月12日)
・何資宜(かしぎ)「太宰治「女生徒」試論-『有明淑の日記』からの改変にみる対川端・対読者意識-」
・榎本隆司「『女生徒』論」(『作品論太宰治』双文社出版、昭和49年6月)
・岩淵宏子 「駒澤大学国文学大会 公開講演 資料 「戦争にあらがう女性表現‐宮本百合子の場合‐」平成24年12月8日」

太宰治「女生徒」試論  ―秘められた反戦メッセージ― 1

 
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 本気の評論とか記事に内容紹介に書いていながら全然本気を出していなかったので、たまには私の本気をお見せしましょう。二回に分けて載せますが、これ読めたら逆に私が読んでくださった方に拍手ボタンを押したいくらいです。覚悟ある方は太宰治『女生徒』を読んだうえで私の論文を読んでくださるとうれしく思います。
 ここしばらく映画についての記事が多かったですが、丁度『人間失格』からの流れで文学へ戻ります。記事どうしの脈絡に欠けるブログですが、広い視野でみればアニメも漫画も映画も「文学」だと私は考えていますから、ご了承ください。


「女生徒」は一九三九(昭和一四)年、四月一日に「文學会」で発表された。この作品は作家太宰治が得意とした「女性独白体」の作品である。その語りから、読みやすい作品ではあるが、なにが書かれているのかわかりにくい作品である。同時代評では、川端康成をはじめ、多くの文壇の人間が当時の女性徒の心情を見事に表現したとして、高く評価している。
 本稿では、時代背景も含め、「女生徒」が実は反戦小説として読めるのではないかということを述べる。

 「自然になりたい、素直になりたい」への願望
 「女生徒」に登場する語り手である少女は、常に自然になりたいという欲求がある。これは、宮内淳子氏の男性/女性=文化/自然といった二項対比から考えることが出来る。日本語の自然という言葉には、英語のNaturalとNatureという二つの意味があるが、この少女は、この二つを混合して考えている、あるいは別段二つを区別しているとは思えない。寧ろこの二つをイコールで結び付けていると考えることもできる。
 はじめに確認しておきたいのが、少女が土に対して自然性を見出している点である。「目に浸みる青葉を見ていると、情けなくなって、土の上に坐りたいような気持ちになった」「大地は、いい。土を踏んで歩いていると、自分を好きになる。どうも私は、おっちょこちょいだ。極楽トンボだ」という箇所からも、土を自然とイコールで結び付けている少女の像があらわになっている。
 後にも触れるが、作品の終盤での母親との会話で、「靴がほしいと言っていたから」「いいの、そんなに欲しくなくなったの」という部分は一つには靴という人工物を履いて、自然との接触を絶たれてしまうことよりも、はだしでいるほうが土に触れていられるという考えから、このような会話になっていると考えることができる。そうして、このすぐ後で、「お庭をカアの歩く足音がする。パタパタパタパタ、カアの足音には、特徴がある」という表記がある。これは、やはり庭を裸足で歩いているカアの姿が蒲団に入った少女の脳内にイメージとして連想され、自然のままに、あるがままに生きているカアを良いものとして考えていると読むことができる。
 では、反対に自然ではないものに対してこの少女はどのような感情を抱いているのだろうか。先ずは、冒頭の眼鏡である。
 「眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。汚いものなんて、何も見えない。」「青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れて写る。鳥の影まで、はっきり写る。美しい目のひとと沢山逢ってみたい」
「眼鏡は、いや。眼鏡をかけたら顔という感じがなくなってしまう。顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。」
 この二つの箇所では、眼鏡が悪いものとして象徴的に描かれている。眼鏡は、自然である人間の顔を覆って、かくしてしまう人工物として登場する。眼鏡は、少女にとって、人間と人間が自然なままで関係性を構築することの間に入って邪魔立てするものとして考えられているのである。
 ただ、先にあげた宮内淳子氏の男性/女性=文化/自然といった二項対比は、文化/自然まではなりたつものの、それが男性/女性とイコールで結ぶことはできないと私は考える。自然性に対応するものとして、文化的男性の象徴である「サラリイマン」に対してはこの女生徒も嫌悪感を持っている。ただし、男性一般に嫌悪感をもっているかと言えば、そうではない。自然性の象徴として登場する植木屋と抗夫であるが、この男性に対しては、厭な感情を抱いていないことからも、男性を否定している、あるいは男性に対して恐怖ないし、嫌悪感を抱いているという女生徒像は成り立たないだろう。女生徒は、「恋をしているのかも知れない」という箇所からも、確実に男性と恋愛の対象としての異性と認識し始めており、恋愛が不潔なものだというような感情は抱いていない。


 ロココの痛快・共感
 ロココとはフランス語のロカイユに由来する、フランスルイ15世時代の装飾様式を指す。「曲線過多の濃厚・複雑な渦巻・花飾・簇葉・唐草などの曲線模様に淡彩と金色とを併用」と広辞苑にある。
 「女生徒」に登場する女生徒は、このロココ様式をいたく気に入っている。
 
「ていさいだけでも美しくして、お客様を眩惑させて、ごまかしてしまうのだ、料理は、見かけが一番である。たいてい、それで、ごまかせます。けれども、このロココ料理には、よほどの絵心が必要だ。色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。せめて私くらいのデリカシイが無ければね。ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。名答である。美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。だから、私は、ロココが好きだ」
と、お客様が来た際には、見事な手腕を発揮しているように描かれている。しかし、そのすぐ後に、
「いつもそうだが、私はお料理をして、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無にやられる。死にそうに疲れて、陰鬱になる。あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。ついには、ええっ!と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばらばたやってしまって、じつに不機嫌な顔をして、お客に差し出す」

と、今度は態度が一変している。ここでは、やはり「無道徳」であることに対して、「だから好きだ」と決定を下した自分の判断に無理があったことを悟っているように感じられる。
 ロココは明らかに自然/文化の対比で言えば、文化的なものである。そうして、ロココは「内容空疎」とあるように、人間が作った大きな無駄であるという側面がここで浮き彫りにされている。
 ロココの象徴は、この小説内に多くちりばめられている。
「一字一行で、百円二百円と広告料をとられるのだろうから、皆、一生懸命だ。一字一句、最大の効果を収めようと、うんうん唸って、絞り出したような名文だ。こんなお金のかかる文章は、世の中に、少ないであろう。なんだか、気分がよい。痛快だ。」ここでは、ロココという言葉は直接出てこないが、このように人工的な力が多くかかって作られた言葉をロココの象徴としてみている少女を読者は読むことができる。
 少女が学校へ行く途中、きのうお母さんからもらった「古風なアンブレラ」が登場する。そこで少女はどのような服が似合うかという想像をするが、直後に、「現実は、この古ぼけた奇態な、柄のひょろ長い雨傘一本。自分がみじめで可哀想。マッチ売りの娘さん。」と客観的に見れば古ぼけていて、それを大事にしている自分の像がマッチ売りの少女の童話の娘とそうかわらないような、みじめさを感じている。
 学校へ着くと、少女が持っている風呂敷のように綺麗な小杉先生が登場する。小杉先生は、「山中、湖畔の湖上に住んでいる令嬢」と少女は感じている。この小杉先生は、胸につけているカーネーションなど、共通項が多いことから、女生徒の無意識のモデルとして存在していると私は思う。そうして、自分のモデルを小杉先生に無意識のうちに見出していながら、「つくる」ことをしている小杉先生を非難している。それは結局自分の「つくる」=「ロココ」を否定することにも繋がっている。こうしたことからも、小杉先生の存在は、この小説内において決して軽くない存在である。そのため、その先生に「愛国心」について語らせている点が重要であると私は感じる。「愛国心」について語りだす小杉先生に対して、女生徒は「つまらない」という言葉だけで、それに対してはあまり深く言及していない。それよりも、庭の薔薇を見て花を愛することを見つけた人間は、良いという判断を加えている。
 ここで薔薇を愛する人間は良いと判断しておきながら、その反対の悪いが明記されていないことは、秘かに「愛国心」が悪いと言っていると考えることが出来る。ただ、一九三九年当時、反戦感情を公な文書でかけたはずがないので、良いという言葉を使うことによって、その反対の悪いを隠すことに成功している。ここからも秘かな反戦のメッセージがあると言うことが出来るだろう。


 ロココの象徴としての、小さい白い薔薇の刺繍
 宮内淳子氏は「白い薔薇の花の刺繍を下着にしている女生徒は、この花を胸に秘して、根づくべき大地を探している」と論じているが、私は根付くべき大地を探しているというよりは、根付くべき大地がないことをさらに明らかにしていると考える。
 「上衣を着ちゃうと、この刺繍見えなくなる。誰にもわからない。得意である」刺繍は、その次に登場するのは、文脈上「自然になりたい、素直になりたい」の後である。ポーズを「つく」りつつも、尊敬の念をもっている小杉先生に対して、美術の先生であろう伊藤先生は、自分の胸にある薔薇の刺繍が存在していることすら気づくことができないとして、「ばかに見えて仕様がない」と考えている。これは、美術をやってきた人間であるのにも拘わらず、「薔薇」の美しさを愛すことが出来ていないという点と、「ポオズに引きずられている」と言っていること自体もポオズになっていることへの反感であろう。小杉先生がポオズを「つけ」ているのに対して、伊藤先生はポオズに「引きずられている」。
 論が薔薇の刺繍から離れるが、このポオズに「引きずられている」ことについて、「可愛い風呂敷」とともに論じておく。「風呂敷」は、女生徒が学校へ行く途中のバスのなかで登場する。ここでは、「本能」という言葉が出てくる。少女は何故か、自分のもっている「可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったなら、私は、その人のところへお嫁に行くことをきめてもいい」と思う。そうして、文脈上、それが「本能」で、それには「私たちの意志では動かせない力」があるのだと言う。
 そうして、「引きずられながら満足している気持ちと、それを悲しい気持ちで眺めている別の感情と。(省略)本能が、私のいままでの感情、理性を喰っていくのを見るのは、情けない」と感じる。ここから、一般には、本能=自然と考えられるが、この小説内ではこの式が成り立たないことがわかる。少女は自然に対して、良い感情を持っていた。であれば、一般的に考えれば自然のまま、本能のままに行動しているのは良いことになる。しかし、少女は本能に対して、「大きなもの」で「否定も肯定もない」が、「本能」に喰われている状態は情けないと言う。
 少女の考える自然性が、本能でないとすれば、自然とは、理性や感情をコントロールして、自分の思い通りに自分を制御することができるということになる。「自然になりたい、素直になりたい」というのは、本能のむくままに生きたいということではなく、寧ろ本能を理性と感情でコントロールできるようになるということなのである。そうすると、さんざん少女が批判してきた文化的なもの。これらはロココが示すように、内容空疎のくせに過剰にしている。ポオズを「つける」のは、決して少女にとっても自然ではないが、どちらかといえば、まだポオズを多少なりともコントロールしている状況である。それに対して、ポオズに「引きずられている」のは、本能に引きずられている状態と同じであるという構図が浮かび上がると私は思う。
 論が逸れたが、最後に登場する薔薇について論じておく。家に帰ってきて、「しんとしている。お父さんいない。(省略)家の中に、どこか大きい空席が、ポカンと残って在る」と、父の不在を確認した後に、少女は下着の薔薇にきれいなキスして」いる。ここから、内容空疎であるロココが、薔薇の刺繍とイコールで結ばれ、それを秘している女生徒は、内容空疎であるという式が成り立つ。ここから、白い薔薇の刺繍が、「からっぽ」を強調するために登場する象徴物であると言うことができる。

映画『人間失格』試論 感想とレビュー 原作との比較と胎内回帰の物語

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-初めに-
 太宰治生誕100周年ということで2010年前後で太宰作品の映像化が話題を呼びました。一応大学では太宰を勉強している身ですから、太宰治最後の完結作品『人間失格』がどのように解釈され映像化されたのかを確認してみました。
 すでに人生で4、5回読んだ『人間失格』ですが、読むたびに異なった表情を見せます。この重厚な文学性と多様性はやはり作家太宰治の技量が大変優れていたということを現しているでしょう。『人間失格』は『斜陽』や『ヴィヨンの妻』と並び解釈がとても難しい作品です。様々な解釈が出来ます。その解釈を戦わせるのがいわば文学を勉強する大学でも主なことがらになるのですが、映像化というのは明確に一つの解釈を提示するということになります。10人いれば10通りの解釈ができる文学作品を、一つの解釈として映像化するのです。もちろん映像化されたものをまた解釈する際にはそこからいくつも解釈は生まれますが、やはり文学作品と映画作品では解釈の幅が異なります。今回の映画『人間失格』は私の解釈と似ていた部分がありました。

-胎内回帰を巡る物語-
 『人間失格』は女性を巡る物語ですが、私はこの作品を胎内回帰の物語だと解釈しています。映画『NINE』でも指摘しましたが、女性から女性へ渡り歩くというのは、やはり女性性を求めているというより、女性のもつ母性性を求めていると考えられるだろうと私は思います。主人公である大庭葉蔵には、母の影がちらりとも見えません。彼は大きな資産家の家で何不自由なく育ちましたが、肝心な母の愛が欠落しているのです。多くの姉がいますが、それらの姉も縛りの厳しい家のためにヒステリーになっている描写がこの映画ではなされています。
 葉造は子供のころには物質的に豊かで精神的に貧しい生活をしています。大人になってから物質的に貧しく、精神的な豊かさを求めようともがいている姿は見事な対比になっていると私は思います。
 バーの常子、下宿先の礼子、編集者の武田静子、薬屋の寿、たばこやの良子、マダムこと律子、下女鉄、これらの女性を巡る物語です。原作と大きく異なる点は下宿先の礼子という女性が登場していることです。
 エリクソンの発達段階で言えば、あらゆる段階において母親からの愛情が欠落したために、基本的不信、恥と疑惑、罪悪感を抱いていると思われます。そうした子供のころの愛情に欠落しているために、女性を求めてしまうのではないでしょうか。「女のいないところに行くんだ」と良子が犯された後で自殺を図って病院で言います。ここで注意しておかなければならないのは、原作ではこのセリフの前に「うちにかえる」と言っています。そうしてそれを言った場所は病院ではなくて自宅だということです。当時は何かあったらすぐ病院ということではなくて、医者がそれぞれの家を訪問するという形式でした。現状とはあまりに異なっているため映画では便宜上病院に連れ込まれていますが、おそらく原作では自宅のはずです。
 そうしてこの「女のいないところに行くんだ」の後に、脳病院へ入れられて、その後津軽で療養することになります。津軽での療養先で鉄という老婆と一緒に生活していることがわかる部分で原作は終わっていますが、この映画では、ここを引き延ばして原作にはない映像を挿入しています。下女鉄との濃密な関係です。鉄は直接原作には出てきません。葉造の手記の中でも間接的に語られるだけですし、そのセリフもかぎかっこを使用して語られてもいません。
 「うちに帰る」が映画では消されてしまっていましたが、私はこれを原作では胎内に戻りたいという願望だろうと読んでいました。自宅にいるのにもかかわらず「うち」に帰りたいと無意識ながらに言ったと手記にはあります。それは時間と場所という二つの軸を超えて、母親の胎内というもっとも安全な場所に戻りたいという意味だろうと私は解釈していました。今回の映画でも胎内回帰を想起させるような映像が最後に描かれました。鉄との濃密な関係において、鉄は葉造の母なる存在として描かれています。
 子守唄を歌いながら、葉造を寝かしつけ、夢とも幻想ともつかない映像で、裸で鉄が葉造を抱え込むようにしている場面がありました。この物語は最終的に葉造は胎内回帰を果たしていると読み解くことができます。ですから、そのあとに葉造がどこかへ旅立ったのは、死と再生で言えば再生だろうと私は思います。一度胎内に帰ることが出来たので、自己同一性が画一され人間としてまた外界に出ていくことができるようになったのだと思われます。

-原作との比較-
 原作が1章と3章を語り手不明の人物が葉造という人間の手記を2章に引用するかたちで紹介しているという構図だったのに対し、この作品では2章だけを映像化しています。ですから、この映画では葉造の手記というメタフィクションの構図は排除されているのです。最初から葉造の物語になっています。また、少し危惧を感じたのは、葉造=太宰という構図がかなり濃密に描かれていると思われる点です。確かに原作でも、「人間失格」は太宰の遺書というような構図で読まれているのですが、それは文学の読みとしては解釈を狭める危険な行為として考えられています。ですから、この記事を読んでくださった方は、葉造=太宰という安易な構図で解釈するということに対して懐疑的になってほしいと思います。
 いちいちメモしなかったので忘れてしまいましたが、いくつもの太宰作品へのオマージュが見られました。バーの映像では「Hollywood」という文字が表示されていますが、これは『女生徒』に出てくる美容院「ハリウッド」だと思われます。また真偽のほどは定かではないのですが、太宰治は中原中也と議論したことがあると言われています。それを葉造と中原中也が議論している映像を流したために、余計に葉造=太宰という構図につながりやすくなっていてあまりよろしくはないのですが、この映画では中原中也や井伏鱒二まで登場しています。
中原中也との邂逅が決して小さくない意味を持っていますが、原作ではそんなものはありません。この映画ではトンネルを中原中也に導かれて潜るという構図がありますが、トンネルも考え方によっては隧道ですから、どこか胎内と外界とをつなぐ役割を果たしているとおも思えます。トンネルを潜った先には、どこか幻想的な(桃か桜かどちらか判然としませんでしたが)花弁が散る場面があります。命のはかなさのようなものもここにはイメージされているのではないでしょうか。そのあとの中原中也が突然死ぬことが暗示されていたわけです。
原作では手記がマダムに送られてきたということになっていますが、手記そのものが存在しない映画では、おそらく最初と最後にマダムのバーでつぶれている葉造と思われる人物は、物語の後に津軽から舞い戻ったと考えることが出来ます。あるいは物語途中でマダムのバーで居候している際の時間がなにかしら超越して、作品の前後に配置されているのかもしれません。原作でもマダムは特別扱いですから、バーでのマダムとの時間が最も重要な意味を持つことは確かです。

-終わりに-
 最近話題の生田斗真が主演したということもあり、話題を呼びました。現在生田斗真主演の『脳男』が公開されていますが、私はもう『悪の経典』でグロテスクな表現には参ったので行きません。予告ですでにだめでしたからね。『ベルセルク』でのガッツが腕を切るシーンも目を瞑りました。
 最近『脳男』に登場する「サイコパス」と呼ばれるような精神の持ち主がテーマとなった作品がはやっていますが、これは一体どういうことでしょうか。例えば2008年の秋葉原通り魔事件や今話題になっているグアムでの無差別殺人事件などが影響しているのでしょうか。先行きが見えない状況はバブル崩壊からリーマンショクで続いています。そうした不安的な時期になるとこれが絶対、唯一というようなものが尊ばれます。サイコパスは完全主義者ですから、そうした社会的な状況が何か作品に影響していると考えられるのでしょうか。社会の影響も考えて行きたい私としては、この問題に対してみなさんの意見を聞きたく思います。正しいとか正しくないとかありませんから、是非皆さんの意見をコメントしてみてください。

アニメ映画『ベルセルク 黄金時代編Ⅲ 降臨』試論 感想とレビュー 物語話型と三角関係の構図から作品を解釈する

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-初めに-
公式映画サイト
http://www.berserkfilm.com/index.php
 いわゆる「ダークファンタジー」の代名詞とも言える巨大な作品である『ベルセルク』は、漫画史上においてもエロティシズムとグロティシズムを極限まで描き切った稀有な作品です。現在ではたばこを吸っている絵を表紙絵に用いることにもいろいろと問題が発生する表現の自由がかなり規制された時代になりましたが、漫画『ベルセルク』は1989年という時代性から、突き詰めた表現を用いることが出来た漫画です。
 黄金時代編をすべて映像化するという一連の企画の中で、ついにその黄金時代編の最後となったこの映画は、今までのⅠⅡ作で鍛えられた技術により、さらに深みのある表現になっていました。
 ⅠⅡではまだCGらしさ、質感の問題で難がありましたが、今回のⅢでは、今まで日本人が馴染んできたセルアニメのような質感に似せることに成功しています。CG技術によってセル画ではとても表現できなかったような映像美を見事に演出しました。

-物語話型から見るベルセルク-
 前回のドルドレイ攻略の際にも書いたのですが、この物語は貴種流離譚の物語として読み解くことが出来ます。
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-251.html
貴種流離譚とは、折口信夫の造語で古伝承や物語等の発想の一類型。若い神や男女主人公が何かの事情で所属する社会を離れ、異郷に流離し、多くの艱難を経験した後に、尊い地位に到達する。または悲惨な死に逢うもののやがては神にまつられる場合もあった。このような類型は世界的に偏在するが、日本の古来の文学の趣向・筋立ての基本的な話形として一つの伝統を形成している。以下略  
【参考文献】折口信夫「日本文学の発生序説」(折口信夫全集7 昭和30年)

貴種流離譚とは、多くの神話においてもちいられる物語話型の一つです。「古事記」に現れるように、スサノオノミコトやオオクニヌシのヒーローの悲劇性というものがあります。これらのヒーローはいずれも高貴な生まれで(例外はいくらでもありますが)、何かしら流離(さまざまな地方を放浪し)、そうして苦労をするという物語です。思えば、今大ヒットしている『レ・ミゼラブル』もこの話型の一つです。主人公ジャン・バルジャンは生まれこそ高貴ではありませんが、生まれ持った力持ちという特異性や、様々な土地を流離しつつ苦労を重ね精神的に成長していくという物語です。こうしたヒーローの悲劇性が何故神話や古典に多いかというと、それは物語の最も根源的な意味に関わってきます。物語が何故生まれるかというと、人々がそれを読みたいからです。なぜ読みたいのかというと、そこに感情移入したいからです。ヒーローが様々な場所で苦労し、時には死に、そうしてまたよみがえったりするというのは、通常我々が経験できることではありません。ですから、多くの読者は人生の苦労や苦難をヒーローに仮託することによって、擬似的な体験をいているのです。それが神話の最も根幹となる意味性です。ですから、RPGのゲームもこの神話によく似ているためにヒットすると考えることが出来ます。ドラゴンクエストにしろFFにしろ、主人公が各地を歩き回って苦労して、成長する。私たちが経験できないことをゲームという極めて疑似体感度が高い動作を通じることによって仮託しているのです。
『ベルセルク』はまさしく漫画における貴種流離譚、神話系の物語なのです。通常では考えられない力を持っているという性質はまさしくこの話型の典型的な特質です。そのガッツがグリフィスやキャスカ等と旅をし、様々な戦いを切り抜けて成長するという物語なのです。

さらに、この漫画はそうした神話系の物語を下敷きにしつつ、悲劇性をより強めるために様々な物語の話型を導入しています。いわゆるダークファンタジーという物語の話型は、もとは神話の話型から発展したものだと私は考えていますが、漫画やアニメなどのサブカルチャーが発展し、爆発的に物語が増えるなかで70年代80年代に色彩が濃くなった物語の種類です。これは社会性も考えると、例えば戦後を経験した人間が描いたためや、バブル崩壊によって社会の見通しがつかなくなったという心理状態に影響していると私は考えています。

-三角関係を巡る物語-
 人間関係を見てみます。この黄金時代編を一貫する視座は、三人の人間を巡る関係性の問題なのです。すなわちガッツ、グリフィス、キャスカです。
 三角関係についてルネ・ジラールが提唱した「欲望の三角形」(『欲望の現象学-ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』)は、今まで三角関係を扱った作品を新たな枠組みで捉えなおすという偉業を成し遂げています。今回はその論理を使用しこの作品を読み解いていきます。ジラールは「欲望する主体と欲望される対象の間に、主体にそれを指し示して欲望させる、媒体となる第三者の存在」を発見しました。これがメディエーター(媒介者)と呼ばれるものです。つまり、主体と対象の間に、媒介者があるという指摘です。これで多くの三角関係の物語りは読み解けるようになりました。
 男1と女1がいる場合はその関係性は深まらないことがあります。しかし、そこにメディエーターとよばれる自分のモデルにもなりライバルにもなる人間が登場するとこの関係性が一気に深まるというお話なのです。例えば通常ではここに男2が登場します。そうするとよく知られる一人の女性を巡る男二人の取り合いの物語になるわけです。マクロスプラスはこの話型です。漱石の「こころ」もこの形です。
 ただ、「ベルセルク」が面白いのは、この論理をあてはめたときに最初に出てくる関係図が全くことなるという点です。ⅠⅡで提示された関係図は、グリフィスを巡りキャスカとガッツが取り合うという構図でした。男を巡り女と男が取り合うという極めて異例の形が提示されたのです。そうしてⅡではこの関係がグリフィスとガッツのラインが結ばれて、キャスカが除外されるという形になりました。腐女子の方々がこの物語をBLの物語として読み解いているのはまさしくこのためです。あながちその読み方は間違っていないのです。
 しかし、グリフィスが求めていた関係とガッツが求めていた関係は形のことなるものでした。グリフィスは所有欲の非常に強い人間ですからガッツのすべてを自分のものにしたいと思います。しかし、ガッツは自分と対等な関係を構築したかったのです。この矛盾が雪山での決闘になるわけです。そうしてガッツを手に入れられなかったグリフィスは自分の欲望が満たされなかったために軽薄な行動に出て、姫と関係を結びます。それが原因となって牢獄に入れられてしまうわけです。
 1年間の空白の後、キャスカが率いることとなった鷹の団に戻ってくるガッツ。Ⅲの映画はここから始まります。グリフィスを求めて取り合ったガッツとキャスカはライバルという関係でしたが、グリフィスが不在となることで、その攻撃性が共感性に変質し、二人は結ばれます。それが冒頭のエロティシズムで表現されているわけです。
 グリフィスを救出するものの、拷問によって回復不能なまでに傷づけられてしまったグリフィス。グリフィスはガッツとキャスカが結ばれて自分が除外されていることに気が付きます。そのことによって、もっともわかりやすい構図、キャスカを取り合うガッツとグリフィスという関係性になるのです。おそらくガッツとキャスカが出来ていなければ、欲望は生まれないわけですから、グリフィスはベヘリットの元へ導かれなかったことでしょう。仮に導かれたとしても、生贄を求めなかったはずです。しかし、この関係性によって欲望を刺激されたグリフィスは再びキャスカを手に入れたいと思います。それが最後のガッツの前でキャスカを犯すという行動に表れているのです。さらに私は、キャスカを犯すことによってガッツをも精神的に犯しているという構図になると思います。もともとグリフィスはガッツに対しても精神的な所有を求めていました。ですから、ガッツがキャスカに取られたという構図も同時になりたっているわけです。ガッツの前でキャスカを犯すことによって、ガッツに注目してもらいたい、自分に対して強い思いを抱いてほしいというグリフィスの欲望が現れていると私は思います。

-終わりに-
 日食と共につながる異世界という発想は面白いです。原作を読んでいないので髑髏の騎士の正体がなんなのか気になりますが、あの再生の塔の地下にあった町の王が髑髏の騎士の正体だとすると、髑髏の騎士もまた生贄に国規模の人間をささげたゴッドハンドになるのでしょうか。かつて生贄をささげて人外の力を手に入れたものの、1000年という長い月日を経て、その罪滅ぼしのためにゴッドハンド討伐をしようとしているのかもしれません。あるいはガッツに対して強い入れ込みがありますから、かつて自分の友を
ゴッドハンドにしてしまった男という構図も成り立ちます。
 216という数字は、何を参考にしているのか、また何が意味されているのか私にはわかりませんでした。キリスト教的な意味があったかと検索してみたのですが、特に見当たりませんでした。これから断罪編が映画化されるのかまだ不明ですが、早く映画化されることを望みます。

映画『NINE』試論 感想とレビュー 破滅型ヒーローを巡る女性と胎内回帰の物語

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-初めに-
 『レ・ミゼラブル』が大ヒットして注目を浴びている「ミュージカル映画」というジャンル。この映画のジャンルが今後どうなるのか、注目しておく必要があると思います。
 『RENT/レント』『ドリームガールズ』『ヘアスプレー』『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』『マンマ・ミーア!』『ロック・オブ・エイジズ』『ドリームガールズ』『ヘアスプレー』例を挙げればいくらでもあります。ミュージカル映画が突然登場人物が歌い出すという点で不自然さを解消できていないという欠点はいまだ残りますが、それでも今回の『レ・ミゼラブル』によって多くのひとびとがミュージカル映画の新たな側面を見つけたことでしょう。それはなにより見ていて楽しいということです。中には悲しいという感情も勿論ありますが、歌が入るとやっぱりどこか違います。思えば音楽がこれだけ発達し、残っているのは、やはり音に対して人間が感情移入しやすくなるからなのでしょう。音を楽しめる動物というのはそういません。高度な音階の認識力によって、言葉では言い表せない感情や思いが音には込められるのです。
 そうして、また映画というメディアの可能性も広がりました。映画は総合芸術と呼ばれるオペラにも勝るとも劣らないメディアです。ミュージカルの要素も取り込んだ今、映画の可能性を考える必要があります。

-7人の女性を巡る物語-
 『NINE』は大ヒット作『シカゴ』を撮ったロブ・マーシャルによる三作目の作品です。この映画はなによりも映画の魅力の一つである鮮やかさというものを全面に出したものではないでしょうか。豪華さ、絢爛さ、艶やかさ、鮮やかさ、このような要素がたっぷりと詰まったエンターテイメントです。しかし、描かれている内容も以外と深いと私は思います。
 公式映画サイトでは、こんなに流していいのと思われるくらい、映画で使用された楽曲を垂れ流しています。http://nine-9.jp/home.html

 一体何が「ナイン/9」なのか、よくわからないのですが、一応説明としてはこの映画の主人公であるグイド・コンティニというスランプに陥った名監督の9つめの作品を撮るということだと書かれていますが、そこだけがよくわかりません。この表題の9という意味が何か意味性を持つのか私にはわかりませんでした。9人の女性をめぐる物語であれば一目瞭然でしたが女性は7人しか出てこないので、やはり何が9なのかよくわかりません。

 話は簡単です。スランプに陥ったマエストロと呼ばれるほどの大巨匠が7人の女性を巡るドタバタの恋愛映画と言ったところでしょうか。マリオン・コティヤール演じるグイドの妻にして女優のルイザ。ペネロペ・クルス演じるグイドの愛人にして夫を持っているというW不倫をしているカルラ。肉体関係はないものの、母のような存在でもあり、今までの仕事のパートナーであり、最大の理解者のリリー。これはジュディ・デンチが演じています。ファッション記者としてインタビューした先でちょっとした恋に陥るケイト・ハドソン演じるステファニー。グイドの映画の花形女優であるニコール・キッドマン演じるクラウディア。グイドの母にして、一人の女を愛することを息子に教えたソフィア・ローレン演じるマンマ。グイドが子供のころの男心で恋をしたステイシー・ファーガソン演じる娼婦のサラギーナ。この7人の女性が、スランプに陥った監督グイドの前に、現実レベルでも、回想や追想レベルでも次々に姿を現していく映画です。
 どうしてこれだけ仕事で成功してきた名だたる女優として設定されている女性たちが、一様にこのグイドにひかれてしまうのか謎ですが、スランプに陥る前は非凡な才能の天才映画監督だったグイドは確かにかっこいいのかもしれません。しかし、その才能に魅せられて彼を愛した女性たちですが、グイド自信が真摯に向き合わなかったために、全部がだめになってしまいます。
 行き当たりばったりで女性と恋をしていたグイドは、ある意味では恋愛の根無し草なのです。そんな中突然映画が書けなくなってしまったために、グイドは逃亡先のホテルで妻ルイザを呼び寄せて慰めてもらおうとするものの、妻ルイザが来る前にプロデューサーがスタジオごと彼を追いかけてやってきてしまったというハチャメチャな展開。
 愛人や今まで映画を一緒に作り上げて来た女優達、リリーという最高の仕事のパートナー、今の自分を形成したかつての記憶にあるサラギーナや自分の母の記憶を集めてもどうしても映画が書けない。あっちにもこっちにも手を出して結局はすべてだめにするという最悪のパターンを演じます。

-胎内回帰の物語-
 結局この映画では、7人の女性がそれぞれ登場してグイドに何等かの気持ちを伝えるためにそれぞれのミュージカルがあるのですが、グイドは映画を完成させられません。二年の空白を経た後に、やっと一つの大事なことに気が付いて映画を再開するという部分で終わるのです。
 どうしてこのように女性に対して手が出てしまうのでしょうか。ある意味では太宰治の書いた『人間失格』と同じようにも感じられます。これだけ女性に手を出し続けるということは、誰か一人の女性が必要なのではなくて女性性というものに対して何かを求めていると考えた方がいいでしょう。つまりグイドは自分の亡き母に対してずっと何か思うところがある。胎内回帰願望があるのだと私は思います。しかし、自分の才能に魅せられて関係を結んだ女性は、グイドの母たる存在になることが出来ませんでした。だから、リリーが最後に彼のところに訪れたことによって、自分が必要だったのはリリーの母性性で、胎内回帰願望が満たされるわけです。そうして一度満たされたことによって次なる自分の目標ができ、それは自分の妻との関係の修復になるのです。だから、最後に妻との関係をやり直すという映画を作ることになります。一人の男として一人の妻を愛するという関係性の構築に戻っていくのです。
 グイドの母マンマは、自分の夫に愛人がいることによってグイドへの母なる愛情よりも、妻としての女性性の方が強かったのかもしれません。ですから、荘厳とも呼べるほどのすごい登場を最後にもしますし、グイドの母としての役割をあまり果たせなかったのかもしれません。母に甘えたいという欲求を満たされないために、グイドは砂丘の娼婦のサラギーナの元に行くのです。そこで母性に満たされないまま男性として目覚めてしまう。だからいつまでたっても女性に母親像を求めるものの、才能に魅せられてよってきた女性とはそのような関係性を構築できないため、結果として多くの女性と関係してしまうのです。
 リリーも、仕事仲間として働いていた時には、グイドに対して母としての役割ではなく、あくまでパートナーとしてしか接していません。ですから、グイドは結局破れかぶれになって2年休むのです。

-終わりに-
 完全なる破滅型ヒーローとしてグイドは描かれます。最初からマンマの言う通り一人の女性、すなわち妻ルイザを愛せばいいと思われるかもしれませんが、上で述べたように胎内回帰をしてからでないとだめだったので結果としてあのような形になってしまいました。
 モテていたはずの男が才能と女を一気になくしていくという喪失を描く映画のために、私たちは引き込まれます。これが反対でどんどんモテていったり、成功していったりする映画だと嫉妬して感情移入できないでしょう。無くしていくヒーローとそれを取り巻く華やかな女性との対比が鮮やかです。最後は人間性の回復とでも呼べるような、人間として自立した大人になることによって自己同一性が確立されています。
 ミュージカル映画の中でも『シカゴ』と並び、特に派手な部分を集めたものです。これからのミュージカル映画を考える一つの指標となるでしょう。

映画『ショコラ(Chocolat)』試論 感想とレビュー チョコレートが埋める宗教の対立・人間関係・自己同一性

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-初めに-
 バレンタインを主題にした映画はいくつもあります。またチョコレートを主題にした作品もいくつもあります。その多くの作品のなかから一つ取り上げて紹介してみたいと思います。
 物語のあらすじなどはウィキペディアで確認してください。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%83%A9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
 2000年のアメリカ映画です。

-宗教の対立-
 フランスのある小さな町に二人の真っ赤なコートを着た親子がやってくることからこの物語は始まります。北風とともにやってくるこの親子は北風に印象付けされています。この親子がこの小さな町にやってきた理由はわかりませんが、この町でチョコレートのお店を開きます。
 しかし、静かで娯楽施設のない小さな町で、住人のほとんどが出席する日曜のミサに出席しなかったり、静かな景観の町のなかで一際目立つ装飾の店だったり、断食の期間にも関わらず、町の住人にチョコレートを食べさせようとしたりして、初めは好奇の眼で見られていた親子と店は、村長をはじめ多くの町人から反感を買うことになります。
 作品内でも言及されますが、この親子はいくつもの町を渡り歩いてきたことが示唆されます。ある町でチョコレート店を開いて、そうしてまたしばらくたったら移動して違う町でまたチョコレート店を開く。静かな町の住人にとっては、真っ赤なコートを着て訪れ、チョコレートという不思議なものを配り始める二人の親子は悪魔にしか見えません。それでも、何人かの人々が騙されたと思いながらチョコレートを口にすると、たちまちその魅力に魅せられてしまうのです。物語はこの二人に対抗する村長他頭の固い人間との攻防によって進められていきます。

 この作品では宗教の対立が一つ物語を読み解く指標になります。このフランスの小さな町はキリスト教によっておさめられています。村長は厳格な人間で、古くからこの町に続く家柄ということもあり、常に町の安全を一人で守っているような人物です。彼は常に住人への気配りをし、様子を見て、何か悪事が起こらないようにしています。そのためには宗教も利用します。毎週日曜のミサへの出席を住人に知らず知らず当たり前のことと刷り込ませ、神父の説教の内容も自分で考え、住人をあるべき姿にとどめようとしています。
 そうした閉塞された空間においての静けさは、禁欲的で道徳的なものです。それに対して、この外来からの来訪者はあまりに異端だったのです。静かで、つつましく生活することが徳とされている町で、この二人は全く別の思想や生活スタイルをもちこみました。村長や保守的な人間は、彼女によっていままで自分たちが築いてきた平和が侵されると恐怖し、二人をつまはじきしようとします。この二人の親子は、南米のルーツをもつ古い民族に伝わる神聖なもの、チョコレートの秘伝を継承する人間だったのです。
 ごく穏やかに描かれていますが、実はキリスト教徒、南米の神話との対立という構図が成り立っているのです。結末は、この二つの歩み寄りだと私は思います。一見するとこの南米の神話がキリスト教を打ち破ったかにも思えますが、この親子が宿命づけられた放浪癖を最後に克服できるという点を考えると、二つが融和することが出来たのだと私は思います。

-チョコレートがもたらす効用-
 この閉塞された空間のなかで、一見静かで平和に見えたこの町は、実は様々な問題を抱えていたのです。偏屈な老人であるアルマンド(007シリーズのMでお馴染みジュディ・デンチが演じています)は厳格な娘との間に埋められない溝を持っています。その結果孫とも碌に話すことが出来ません。頭がおかしいと思われていたジョセフィーヌは、夫の暴力に苦しみながらも外界からの強い要求で良い妻であれということを押し付けられていたためにヒステリーを起こしています。老人は老人たらしくあれという古い因習のなかで、何十年も前になくした夫の喪に服し続ける老婆に恋をした老人。しかし、村長に買収されている神父に相談しても、何の助けにもなりません。
 ふらりとやってきた外界からの来訪者であるヴィアンヌは、そんな閉塞された空間のなかで困窮した人々に、それぞれに合ったチョコレートを渡し、それぞれの心を開いていきます。不思議な円盤を回して、そこに何が見えたのかという質問によって、それぞれに合ったチョコレートを導きだすという方法は、儀式のようでもあります。夫婦の仲が冷め切っていた人々はよりが戻り、老婆に恋した老人にはその恋が伝えられるようになります。偏屈なアルマンドはまずホットチョコレートによって心を開きます。そうして、村長の秘書でもある厳格な娘によって、孫と会えなかったものの、その孫がこっそり店にやってくることによって、二人の関係性が構築されます。頭がおかしいと町中の人間から考えられていたジョセフィーヌは、強すぎる外界からの要求、つまり超自我によってヒステリを引き起こしていただけなのです。暴力夫との関係を続けなければいけないジョセフィーヌに逃げ場をつくってあげたヴィアンヌは、ヴィアンヌの娘アヌークとともに三人でチョコレート店を切り盛りしていくことになります。
 このように少しずつ住人の凝り固まった思想や、心をチョコレートの力によって開いていくヴィアンヌ。しかし、その町にジプシー集団が訪れることによって、状況が一転します。二人の親子に対してはまだ心を開くことが出来た住人も、ジプシー集団には開けません。明確な外敵が出現することによって、再び町は一つに団結して、来訪者を排除するようになります。そこをヴィアンヌがなんとか取り持つことによって関係が結ばれるのですが、ジョセフィーヌに付きまとう暴力夫が、自分が受け入れられなかった腹いせにジプシー集団の住処である船を燃やすことによって大火事を引き起こしてしまいます。村長とつながっていたこの夫ですが、そこまで過激なことを求めていなかった村長はこの夫を追放します。しかし、その村長も、自分の秘書で、保守的な人間と思っていたアルマンドの娘が、ヴィアンヌの力によってアルマンドと和解し、チョコレート店に入るところを見て、ついに自分の味方がいなくなったと思いつめ、夜襲します。しかし、自分がやっていることの愚かさに気づき、自暴自棄になってチョコレートを口にしてその場に倒れてしまいます。
 これによってこの町を村長の道徳によって縛っていたのが解放されます。しかし、物語はここで終わらないのです。普通であればこれでめでたしめでたしになるはずですが、ヴィアンヌは北風によって再び新たな旅へと出かけようとします。この町の住人達は、閉塞された空間のなかでのきわめてシビアな因習に縛られていた状態から、外界からの来訪者によって解き放たれ、新しい自我を確立しました。しかし、この来訪者たるヴィアンヌは、自分自身の自我を確立できていなかったのです。彼女もまた、古い因習、北風とともに町から町を渡り歩くという放浪から解き放たれていなかったのです。
 
-自己同一性の問題-
この物語は母と子をめぐる物語でもあります。アルマンドとその娘との対比は見事です。ヴィアンヌはその二人をチョコレートによって仲直りさせることに成功しますが、自分と自分の母との関係はそのままなのです。キリスト教によって縛られた古い町の因習を解き放ちながら、自分が縛られている放浪の人生からは解き放たれていません。ヴィアンヌは、どこへ行くにも自分の母の骨壺を持っています。これは恐らく、ヴィアンヌが語る物語に出てくる女性でしょう。おじいさまの話というのを作中でヴィアンヌが娘アヌークにしますが、おそらくそこで放浪する二人の親子は、ヴィアンヌとその母でしょう。
昔から放浪しては、儀式に用いられる神聖なチョコレートの配合を伝承してきた一族です。その血筋が生き残ってどこに行くのかというのが問題です。町を因習から解放したため、ヴィアンヌは再び他の町に行かなければならなくなりました。彼女たちにはどこかに落ち着いて腰を据えるということがないのです。それは自分の母の骨壺を持っていることからもわかります。
しかし、娘のアヌークが母に激しく抵抗しました。母からの自立を成し遂げようとしたのです。映画ではどうしてアヌークがそのような意志を持つに至ったのかをもう少し描かなければいけないだろうと思われましたが、それによって、骨壺が落ちて割れます。アヌークが母ヴィアンヌから独立しようとする行為によって、象徴的にヴィアンヌも自分の母、つまり放浪する血からの解放がされたのです。北風とともに放浪するという運命から解放されたのです。また、この物語ではヴィアンヌが多くの人々をチョコレートによって救うと同時に、実は救われていたということがわかります。人の関係性を修復できても、自分と他者との関係を構築できなかった彼女は、徐々にそれが出来ていたということを悟るのです。
そうして、ジプシー集団の長であるルー。このルーはジョニー・デップが演じています。『チャーリーとチョコレート工場』という映画を撮影する前に、このようにチョコレートと縁の深い映画に出ていたことに、どこか運命的なものを感じますが、このルーも再び町に戻ってきます。彼もまた自分の居場所、すなわちヴィアンヌと一緒に生活するということを選択したのです。

-終わりに-
 この作品では、ヴィアンヌが善で村長が悪というわかりやすい構図は成り立たないと私は思います。町を平和に保つために尽力していた村長は、その方法が多少凝り固まっていたとは言え、何よりも町のことを思ってやっていたことですし、それが悪とは言えないでしょう。またヴィアンヌも、客観的に見れば、結婚せずに娘を一人連れて町から町へと渡り歩くというあまり勧められる生活スタイルをしていません。彼女もまた何から問題を抱えているのです。いいところも悪いところもあるという中で、変化を恐れずに、心を開くことの重要性がチョコレートという甘く、人を幸せにする食べ物によって成し遂げられるという心温まるストーリーです。この映画を見ると、それぞれが抱えている人間関係を再び考え、仲良くなるためにチョコレートを渡してみようという気持ちになります。愛する人にチョコレートを渡すのも勿論いいことですが、普段仲が良くない人との関係を少しでも良くするためにチョコレートが幸せを運ぶかもしれません。

映画『レ・ミゼラブル』試論 感想とレビュー 2 作品を貫く二つの視点、正義と自由

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-正義をめぐる物語-
 多くの人々が感動し、それをなんとか言葉で表そうとして、映画の評論や感想を書いている多くのブロガーの方々が自分なりの意見を述べています。これが本来はあるべき姿だと私は思っています。映画や小説などの作品は、よくランキング付けされますが、それぞれの人々の中にそれぞれのランキングがあるというのが最も好ましい状態です。この映画がそのように人々の心を打ち、それを何とか言葉にしようとするということは非常に良いことだと私は思います。多くの人々が様々なことを述べていますが、私も一つここに描かれている普遍的なものとは何なのかを論じてみます。
 まずは正義の問題です。正義の反対は何か。正義の反対とは実は悪ではなくて、別の正義だということがこの映画では描かれていたのではないでしょうか。小説だとジャベール警部はもう少し悪い人間に描かれるのですが、この映画のみだと、ジャベールも決して悪人とは言えません。まさしく法と規則の人間で、人間が作った人間を正すものを最上のものとし、崇高にかつ公平に法の力を行使します。あのような時代には、登場はしませんでしたが、ティナルディエ夫妻よりも凶悪な犯罪者は当然ながらごまんといます。そうした悪人を捕まえて社会秩序を守っていたのは誰か、紛れもなくジャベール警部たちなのです。ですから、一概にジャベールが悪人で、ジャン・バルジャンが善人という対比は成り立ちません。
 ジャン・バルジャンはパンを盗んだことによって19年投獄されたとありますが、流石にいくら国家の権力が大きくて法律絶対の時代といえどもそれはありません。映画では明かされていませんが、原作では何度か脱獄を図ったのです。ジャン・バルジャンは確かに、神父にであって神の愛を感じる前はある程度の悪いことはしていたのです。
 ジャベール警部が自殺する場面をどう解釈するかということですが、これは私は自我同一性の問題だと思っています。自分が信じて来た国家、法、規律、社会というような体制が、実は正しくないのではないかと悟ってしまったために、自分が生きている必要性がなくなってしまったのだと私は思います。ですから、悪がジャン・バルジャンという正義によって倒されたという簡単な構図は成り立たないでしょう。ジャン・バルジャンの正義を理解した際に、自分の今まで信じて来た正義が正しくなかったかもしれないと悟った。しかし、今となってはもう自分を変えることができなかったということも同時に悟るのです。自己同一化が国家権力を守る番人としての人間になされていて、今からそれを変えることはできなかった。しかし、だからといってこのままそれを続けていればバルジャンとまた戦わなければいけなくなる。だから自分は死んでそれを食い止めるしかないという非常に悲しいことになるのです。

 正義をめぐる物語はまだ続きます。マリウス、アンジョルラス等が起こした革命。これは社会に対する革命です。1787年のフランス革命によって打破されたはずの王政。しかし、1832年の作品内においては再び自由が奪われた社会になっていました。そこから脱却するために若者たちが立ち上がり国家を打破するための革命は、まさしく正義です。それに向かい合ったジャベール率いる警察もまた、社会秩序を守る正義なのです。正義と正義の戦いのなかで、ジャン・バルジャンという正義もまた、そのなかで自分の正義を貫きます。
 ある意味ではテナルディエ夫妻もまた正義と言えるかもしれません。彼らにはどうしても生きていくうえで必要なお金を稼がなければいけない。そのためには中流階級の人間からいろいろなものを盗みながらも生きていかなければならないという辛さがあります。意地が悪く、やっていることも悪いことです。しかし、それをしなければ生きていけない人間にそれをやめろと誰が言えるのでしょうか。社会が本当は悪いのですが、そのなかで必死に生きようとしているテナルディエ夫妻もまた、単純に悪と呼ぶことはできません。彼らにとってはあれが正義なのです。

-自由をめぐる物語-
 別の側面はやはり自由をめぐる物語としての視点です。1800年代前期はジョン・スチュアート・ミルが『自由論』を発表するなどして個人の自由が尊ばれる時代でした。
ミルの『自由論』を読んだ際の記録
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-388.html
 『レ・ミゼラブル』でも、とにかく国家の権力が強すぎるのです。パンを盗んだだけで数年間投獄されたり、自由を簡単に奪うくせに、弱者を擁護する部分にあまりにも手を抜いていた時代です。国からの大きな抑圧や規制に対して、個人がどのようにして自由を獲得していくのかという問題でもあります。
 国や権力によって自由をはく奪され、貧しさと苦しさのなかで生きた人間はどうなるのか。ジャン・バルジャンのような悪人になるのです。しかし、バルジャンは完全に何物をも包む神の愛に触れて、人間性を回復します。通常であれば悪の道に走るところを神は救ってくださったとバルジャンは悟るのです。息苦しいなかでどのように自由を獲得していくのか。身分を隠しながらも徳によって市長まで上り詰めたものの、冤罪によって捕まった自分と間違われた人間を助けるために正体を明かします。本当の自由というのは、おそらく市長であり続けることではないのです。冤罪によって捕まった自分と間違われているかわいそうな人間をすくわずして本当の自由は得られないのです。
 些細な手落ちがファンテーヌというかわいそうな女性を貶めてしまいます。彼女はその運命に嘆き悲しみ、バルジャンに唾を吐きます。その原因が自分にあったかもしれないと考えたバルジャンは、ファンテーヌを救うことはできなかったものの、その娘であるコゼットを救います。自分には家族がいませんから、父や母に対する愛情も、妻に対する愛情も息子や娘に対する愛情もすべてをコゼットに注ぎます。それが一つのバルジャンにとっての自由だったのかもしれません。しかし、革命の若者と恋に落ちたコゼット。バルジャンは父の誰もが経験する愛する娘を男にやるということを経験します。ただし、バルジャンにとってはコゼットはすべてでした。妻がいる父ではないのです。自分にとってのすべての存在であるコゼットを若者に託す。初め若者とコゼットが近づくことを恐れたバルジャンですが、娘の幸せを自分が勝手に決めていいのかという葛藤に悩まされ、ついにマリウスを救出します。そうしてコゼットをマリウスに託したバルジャンは、自ら身を引き、死んでいくのです。ここには何物にも束縛されず、精神的な自由を手に入れた一人の男の姿があったわけです。
 若者たちが革命によって得ようとしていた自由は終には失敗に終わります。この若者たちが求めていた自由は結果としてもう少し後の時代に得られることになりましたが、しかし、今の私たちが本当に自由かと言えばそうではありません。やはり国による支配的なものはなくなったとしても、私は自由だと言える人はいないでしょう。本当の自由とはやはり国家の権力が大きくなりすぎないことももちろん重要ですが、それ以外に目に見えない部分であるような気がします。ジャン・バルジャンはその人生において精神的な自由を手に入れたのだろうと思います。この作品の普遍性は、自由をいかにして獲得するのか、それをバルジャンの人生を通じて私たちは考えなければいけないのです。

-終わりに-
 私はこの映画の本質は自由というものに主眼を置きたいですが、その自由の獲得の仕方はさまざまです。ジャンバルジャンは死ぬ際になってようやく本当の自由を手に入れたようにも考えられますし、ジャベールも自由になるためには死ななければいけなかった。若者たちも自由を獲得しようとしたために、みんな殺されてしまった。ではどのようにして自由を獲得したらよいのでしょうか。結論が出ていない問題です。ここ百年ちょっとでは自由を獲得できていないというのが現実なのだと私は思います。
 たとえジャン・バルジャンのように社会から自由をはく奪されなかったとしても、貧困の中で生きればどのようになるのか、それをテナルディエ夫妻が証明しています。彼らが悪い人間ながらどこか憎めない愛嬌sがあるのは、私たちとそう変わりはしないからなのでしょう。では、同じ貧困や苦しみのなかに生きていても、どうしたらジャンバルジャンのように生きることが出来るのか、これを考えなければなりません。
 ここから得られる、そうしたものを考えるヒントのいくつかは、例えば国や法律があまりにも人間を縛るなよということと、人間を愛することによって得られる精神の自由です。そうしてそれを手放せる自由や、キリスト教的な信仰心もあるのかもしれません。

映画『レ・ミゼラブル』試論 感想とレビュー 1 『レ・ミゼラブル』大ヒットをどう考えるか

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-初めに-
 作品を読み解く視座、文藝評論というのは、本質的に何を意味するのでしょうか。作品は、作者の内面の言説化できない感情や思想などをこの世界でみえる形、形而上のものを形而下にする行為と考えることができます。ですから、その作品を読み解くということは、人間の内面を読み解くということなのです。この際注意しなければいけないのは、だれそれという作者の内面を読み解くということではないということです。その作品を読んで、観て、聞いて感動する人間が居る限り、作品を読み解くという行為は作者の内面ではなくて、より普遍的な人間の内面を読み解くことになります。文藝評論の本質は、作品を通じて論理的に人間理解をしようという部分にあると思います。人文系と呼ばれる学問の分野に属しているということもありますし、人間理解がその最もな目的であると思われます。
 しかし、実学ではないと言われるように、多くの人文系、特に文藝評論をする人間を排出する文学は理系や実学の学問に差別されている節もあります。それは確かに一理あります。人間理解が究極の目的だと言っても漠然としていますし、なぜ文学をやるのかという質問には、誰も明確な答えを出せません。私は、文学をやる意味は誰にもわからないからやるんだという逆説的な考えを持っています。最初からやる目的がわかっていたら、そんなつまらないことはないですし、目的が発見できた時点でやらなくても良いと思われるくらいです。どうしてやるのかわからないから、やるべきなんだと私は思います。いずれ、あと何世紀も経ってからその目的や意義、価値のようなものは後世の人間が決めればいいのでしょう。
 現実問題として即座に役立つ副次的なものとして文藝批評というのは、2つの側面を持っています。一つは、作品を論理的に読み解くことによって、どうしてその作品を見てどのような感情になったのかを説明することです。どうしてこの作品は悲しくなったのか、感動したのか、それを説明するということです。この分野をより深めて、読み方の違いを戦わせるのが私の学問の専門です。そうして、もう一つは分析した作品を他の人々に紹介すること。その作品がどんな作品で、観ることによってどんな感情が得られ、いかに見る必要があるのかということを、多くの人々に知ってもらうために、現在の文藝批評家たちの仕事はあります。ですから、文藝批評家にとっては、批評を読んでもらってそれに触発され作品を見たということでも、作品を見た後でどのように解釈すればよいのかという一つの視座のために批評を読んでもらってもいいわけです。
 今回論じるのは、『レ・ミゼラブル』ですが、この作品は誰も予想していなかったほどに、多くの人々が作品に触れました。ですから、文藝批評の2つ目の多くの人々に見てもらうという役割については最初から必要がないのです。これだけ文学的で難しい作品が、多くの人々に見られたというのは、それ自体がすでにどうしてそうなったのかという研究対象になります。今回はこの作品が、どのように解釈できるのか、またなぜ大ヒットしたのかを考えてみたいと思います。

-作品概論-
 『レ・ミゼラブル』はビクトール・ユゴーの小説が原作です。これを機に読み進めているのですが、とにかく長い。あまりにも長いので、かなり省略された要約された訳の本が出回っていますが、これを読むわけにもいきません。文学の本質は作家がそれでよいと思ったものが一応の完成だからです。そんなことを言ってしまえば、翻訳をした時点で言語が違いますから本当に私たちが『レ・ミゼラブル』を読むことはフランス語が母国語でない限りできない話ですが、そこまで考えると何を言えなくなるので置いておきます。要約しない日本語訳は、大まかに計算してざっと130万字ありました。まだ読み終えていませんが、一ページ当たりの文字数から計算したものです。漱石の『こころ』が約17万字ですから、漱石の小説7、8冊分くらいと考えればいいでしょう。
 今回の映画『レ・ミゼラブル』は、しかし、このユゴーの『レ・ミゼラブル』を原作としたものではありません。この映画が下敷きとしたのは、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を原作として作られたミュージカルの『レ・ミゼラブル』です。
参考Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB_(%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB)
このミュージカル版の『レ・ミゼラブルは』1980年にアラン・ブーブリル(作詞)とクロード=ミシェル・シェーンベルク(作曲)らによって作られました。今回の映画『レ・ミゼラブル』はこのミュージカル版の『レ・ミゼラブル』を下敷きにして制作されました。原作を映画化した作品は今までにいくつもあるのです。今回の映画がそのような原作の映画化ではないという点に注意しておく必要があります。

 
-リアリズムを追求した撮影方法-
 この作品がこれほど観客の感動を引き起こすのはなぜでしょうか。映画が終わった際に拍手をする観客がいたのを見たのは初めてでした。私も拍手をしたくなりました。そうして会場全体が涙しているというこの現象。これはこの映画が人間ならだれもが知っている感情や思想に直接訴えかけてくる、かなり普遍的なものがあったのだと考えるべきです。
 技術的な側面から考えれば、リアリズムの追及でしょう。原作の映画化はたくさんあるうちの一つを私も見たことがありますが、号泣できたかと言われるとそうではないのです。やはり通常の映画ですから、泣けると言ってもそこまでではない。今回のミュージカルの映画は、約3時間近くに及ぶ上映時間のほとんどが歌になります。感動する一つの原因はこの歌にあるでしょう。
 ミュージカル映画は、なぜ突然映像の中の役者たちが歌い出すのかという「不自然さ」が常にありました。ですから、観客が劇中で突然歌い出す俳優たちについていけなくて、感情移入ができないということが問題だったのです。ところが、この映画では、通常のミュージカル映画がはじめに音を撮った後にそれに合わせて演技する手法とは反対に、演技しながら歌い、それにあとで音楽をつけるという手法を用いました。それによって、感情とちぐはぐな歌声が流れ出すことなく、歌ってはいるものの、非常に現実的な歌い方になったのです。それが私たち観客の心を打ったということです。中でもアン・ハサウェイが歌った「夢やぶれて」は、冒頭の最も盛り上がる部分。この曲はイギリスのスター発掘番組でスーザン・ボイルがかつて歌ったこともあって『レ・ミゼラブル』を知らなくても耳にしたことのある人が多かったのではないでしょうか。そのなじみの曲が、こんなにも悲しく、激しく歌われるのを見て、私たちは感動したのです。

ミュージカル映画の「非現実感」について詳しく描かれているサイト。シネマ・トゥデイhttp://www.cinematoday.jp/page/N0048970

映画『SKYFALL (007スカイフォール)』試論 感想とレビュー 過去と現在・胎内回帰をめぐる物語

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-初めに-
 007シリーズ50周年目ということで、今までよりも内容に重点を置いた作品となった今回の『スカイフォール』。今までのハチャメチャスパイアクションという点から少し遠ざかり、今までの歴史を感じさせる重厚な作品となりました。50周年ということもあり、時代や世代というものに主眼が置かれたのと、これまでの長い時間で触れられてこなかった諜報機関MI6の内面や歴史に触れることになります。
 私はまだ若いですから、ピアース・ブロスナンのボンドからしか知りませんが、それでも、長い歴史をただひたすら歩んできたのだなという感慨を感じることが出来ました。2012年秋の最も注目される映画の一つだったと思います。

-時代と世代-
 何よりもまず時代や歴史、世代というものが今回のテーマになりました。嘗ての冷戦時代から続けて来た映画だけに、ロシアやアメリカの諜報機関と戦うこともあったボンドですが、現在の大きな国家同士での戦いのなくなったある意味平和に思える世界では、MI6の存在というのはどこにあるのか、これを考えさせられる作品でした。
 作品内でも、イギリスの政府から、今MI6という諜報機関は時代遅れではないかとしてその必要性を説明しろと政府の人間に迫られています。今までの作品が明確な敵がいたのに対して、現在ではそのような大きな敵、目に見える敵はいないのです。だから一見すると、平和になったようにも見えますし、またこのような諜報機関が必要ではないだろうとも思えます。しかし、それに対してMは敵は集団ではなく、個人であるというのです。目に見えない個人が敵となる、それはつまり全世界に敵が存在するということでもあります。だから、諜報活動を行わなければいけないということなのです。
 今回の敵は元諜報部員のシルヴァという男です。ですから身内から敵が出てしまったということになります。それもMの失態とも言っていいものです。作品内においては、じゃあこのような諜報機関がなければシルヴァという悲運な男を生み出す必要もなくて済んだじゃないかということは可能ですが、そうではないのです。今回に限っては身内から敵が出てしまったということになりましたが、こうした諜報機関があることによって、攻撃の対象は一般市民からこの機関に集約され、市民を守ることにもつながりますし、敵をあぶりだすということにもなるのです。ただ、どちらにせよ、敵が変わったということは、それを諜報する機関もまた変わるということです。それが、今回のMからマロリーに指揮官が変わるということで象徴的にあらわされています。

 時代と世代について。この作品ではシルヴァだけが唯一例外として、過去と今の両方の性質を持っています。過去の男でありながら、現在の敵として脅威を発揮するシルヴァ。しかし、どうしてMI6を攻撃するのかというと、過去の確執があるわけです。Mに対しては愛憎の感情を持っています。シルヴァはかなりMに対して自分の母親的な存在としての認識をしていたようですが、母性を拒否したMによって捨てられたと思い込み、シルヴァはその母を殺そうとするわけです。
 ボンドは、今回過去の男として登場します。髭剃りをするのも、古いナイフを使い、ボンドカーも、昔のボンドカーを引っ張り出してくるという筋金入り。古き良きものを愛する男として、現在、今を求められている作品においてそれに拮抗するかのように存在しています。
 かつては老人が勤めていたQは、二十代後半か三十代前半と思われる若い男が担当になりました。ベン・ウッショーが演じるQは、現在のコンピュータオタクのような知識技術には洗練されているものの、まだ人間との関係性をうまく構築できていないような青年。これもまさしく現在の人間です。
 組織がどんどん現在化する中で、どうしても過去の人間は使えなくなってきてしまいます。そのために、過去の人間は入れ替えるか、誰かがサポートしなければいけなくなるのです。現在の人間としてQが登場しました。また、今回のボンドガールでもあるイヴは、現在の人間です。このイヴはしかし、誤ってボンドを撃ってしまうというへまをやり、戦闘要員からサポート要員へ移動します。この組織の中で過去の人間はボンドとMです。ですので当然Mは組織のトップとして過去の女が居られては困るわけですから、退陣を求められます。最後にMI6の組織のトップとなるマロニーはまさしく現在の男です。
 ただ、現在の中にも、過去を引きずった男としてシルヴァが登場します。ある意味では現在と過去と両方の性質を持ったシルヴァは過去最強の敵かもしれません。現在だけで立ち向かおうとするQやマロニーだけでは倒せない相手です。ですから、過去を背負ったボンドが戦うことによってはじめて勝てるということになるのです。

-母権的組織と胎内回帰-
 時代や世代というテーマのほかに、組織というテーマが今回は描かれていました。MI6という組織がどのようなものなのか、時代と世代が変わることによって変質するために、その組織の内部が少し描かれました。Mの上には持っと影になって出てこないような裏で糸を操っている人間がいるのかなと予想していたのですが、意外にも組織のトップはMそのままでした。組織というものを考えた際に、このMI6は母権的な組織であるということが出来るでしょう。エヴァの研究をしているので、ネルフという特務機関が実に父権的な組織であるということがわかります。通常の組織というのは、男性が主権となる組織が大半です。それは様々な企業や会社を見てもわかることです。男性による家父長的な制度が、日本だけでなく外国でも多く存在しています。その中で、MI6というのは、実は母権的な組織だということが判明しました。Mは、まさしくあの組織の母なのです。今までに登場したボンド全員の母でもあったのでしょう。
 シルヴァとMが過去に何があったのかをもう少し描いてもよい気もしましたが、シルヴァにとっては母と思ったMに捨てられたという感情があって、愛していながらも憎むという感情によってMの殺害を実行します。今回は敵が何か利害の関係があって登場するということではなくて、ただの母親に捨てられた子供が自分の母に対して振り向いてほしいだけがために復讐するという極めて人間的な私情によって突き動かされているものでした。ですから、Mは常に存在してきて、最後まで母でありつづけた最大のボンドガールとして考えることが出来るのです。今回のスカイフォールのボンドガールは表向きはイヴですが、本当のボンドガールはMだということなのです。

 そうして、組織に触れるということはボンドという位置に立つ人間をも描くということです。今までのボンドにどのような過去経歴があったのかはわかりません。しかし、今回のダニエル・クレイグの演じるボンドは、冒険の最後になって「スカイフォール」という故郷の地へ行くことによって、その過去が明かされます。
 古い名家の出身であったボンドは、その出生はどこかバッドマンのようでもあります。彼が古き良きものにこだわるのは、自分が捨てたと思っていた過去に対して、まだ何かしらひかれるものがあってそこから脱却できていないということなのです。この作品は、いくつかの点で胎内回帰の物語であります。一つには、ボンドが捨てて来た過去というものともう一度向き合うために、古い故郷の家に戻って、その中に閉じこもり敵を迎え討つという構図です。また、シルヴァにとっても、自分の母的な存在のMのもとへ形としてはかなり乱暴ながらも戻ろうとしています。MI6自体が実はMという母の胎内でもあったというわけです。ですから、Mが女性から男性に代わるということは、決して軽くない意味を持つと私は思います。思えば、ボンドが女性に対して多くの関係を持つのも、女性性、母性性を求めての行動とも考えることが出来ます。
 
-終わりに-
 ボンドは今回の作品で、自分の過去と向かい合うためにかつての家に閉じこもります。これが胎内回帰です。そうすることによって再び外界とのつながりを確立していくわけです。Mと共に過去を見つめるということは、自分一人ではできなかったので、自分の母なる存在に一緒にいてほしかったのだと私は考えています。そうして何某かの新しい関係を構築できたために、ボンドは母であったMが亡くなっても、再び戦闘に立ち戻ることが出来たのです。
 Mが口にした「傷ついたのはプライドだけ」という言葉は感動しました。Mは母でありながら、しかし強くあろうと男性的に振る舞っていたのです。その強さと弱さが一緒になったMという役がこれから見られないというのは非常に残念ですが、これも一つの時代と世代の変化なのでしょう。これからの007がどのように展開していくのかが愉しみです。

映画『009 RE:CYBORG』試論 感想とレビュー マクロコスモストミクロコスモスという視座・その二つの世界をつなぐ天使としてのサイボーグ

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-初めに-
 石ノ森章太郎原作の『サイボーグ009』のリメイクである『009 RE:CYBORG』は、原作での悪の組織黒い幽霊船との戦い後、冷戦の中を戦い抜いた後の現代のサイボーグたちを描いています。石ノ森章太郎の原作をまだ読んでいないので、原作との比較はまだできないのですが、パンフレットにある神山健治監督のインタビューから、現代にサイボーグがいたらという予想から成り立っているとのこと。この作品のそうしたリメイクという点は、一つには2012年秋公開のほかの映画との類似性も指摘できます。特にエヴァンゲリオンとの類似性があるのではないでしょうか。前回の作品から現実世界でも同じくらいの時が流れたという設定で映画が作られる点。この作品も、原作の戦いのあと、冷戦が終わると同時に戦う相手がいなくなって、それぞれのサイボーグはばらばらになっただろうという予想のもとに成り立っています。前回の戦いから27年というインターバルがあったとこの作品内では言及されています。
 
-サイボーグ再び-
 原作を読んでいないので話がわかるかどうか不安だったのですが、完全オリジナルストーリーだそうで安心しました。そうして、この作品は非常に多義的な解釈ができる、反対から言えばかなり難しい作品になっていると感じました。石ノ森章太郎のテーマを受け継いでいると神山監督はインタビューで答えています。石ノ森原作の『サイボーグ』には、神や天使といったテーマがあったようで、今回はそれに対する一つの答えを示していると私は感じました。
 物語内時間は2013年の1月2月と設定されていますので、丁度今現在です。世界同時多発テロが再び始まり、世界中のあらゆるビルで爆発が起こっています。日本では六本木ヒルズが爆破されます。その爆破をするのが、なんと島村ジョーこと009なのです。サイボーグが正義だと思っていた私には驚きでしたが、実はそれは記憶を取り戻して正気になった後にジョーの言葉から、「彼の声」に従ったのだということが明らかにされます。結局六本木ヒルズはアメリカの軍艦からのミサイルによって襲撃されます。
 こうした事件が起こったために、再びサイボーグシリーズが収集されますが、そこには27年間の空白と不和が生じているのです。このあたりが今現在本当にサイボーグシリーズが生きていたらというリアリズムに基づいているため、昔のファンも、知らない若者も楽しめるのではないでしょうか。
 
 この同時多発テロを引き起こしているのが誰なのかという問題がこの作品のテーマです。この多発テロを起こしている実行犯は、多くは内部の人間です。そこに務めるふつうの人間が突然犯行を犯すのです。そうしてそれらの人間には、人種、宗教などの共通点がありません。しかし、作品内で「彼の声」を聴いたということが共通点として浮かび上がってきます。
 最初これらの「彼の声」を発信しているのは、アメリカのNSAが関連しているだろうと思われます。しかし、そこにはサイボーグ002のジェットが所属しています。もしかしたらかつての仲間とも戦わなければならないという状況のもとで、それぞれのサイボーグたちは疑心暗鬼になりながらも情報収集を進めます。一方ジェットも自分なりに情報を集めるのですが、そこで犯行を行った人間たちが彼の声を聴いたという証言をしていることがわかります。
 破壊工作が行われたビルの残骸を碌に調査もせずに回収している企業が事件を起こしているのではないかと探りを入れるサイボーグたち。サムエル・キャピタル社という会社が怪しいというところでジェットが乗り込むと、そこには翼の生えた天使の象が飾られており、そこの会社の人間は「彼の声」に従っているのだと言い、彼の声が天使の象から発せられていたことがわかります。
 
-天使と神-
各地で発見されるこの天使の象。終盤で004、アルベルトが自分の解釈を述べる重要な部分があります。この天使の象を調査していた008ピュンマは、天使の象についてかなり調査を進めていたようですが、自分もおそらく天使の象の声によって姿をくらましてしまいます。残された資料をもとにアルベルトが答えを導きます。天使の象自体は、突然変異によって生まれたものなのか、あるいは太古の人間が作り出したモニュメントなのか明らかにはなっていません。しかし。この天使の象を見ることによって人間以上の存在を想起させるトリガーとなっているのです。そのトリガーがひかれるとある種の人間は「彼の声」を感じ始めるのです。この天使の象を見ることによって、人間は神の概念を脳に宿らせることにつながったとも、反対に人間の脳内に神の概念があったからこのような象が生まれたとも、鶏と卵の話になると言っています。
監督は、「神」を内包する脳を持つことと、時にその神に異議申し立てをする天使のような捨て石たらんとする存在が、互いが互いを生み出しながら続いていく、そういう連鎖こそ「神」を求めた人間像なのではないか、という解釈をもって制作をしているようです。
 神は、人間を作りましたが、その進化を促しています。彼の声には、聖書に近い内容の言葉が語られています。
「はじめに声ありき。言葉は“彼”なりき。人は皆“彼”の言葉につき従い、これを拝せん。されど地に住むものども、虚栄と傲慢、奸智と壟断により、あまたの塔の頂を天へと達することを試み、地上の富を積む。人心地上に散りて荒涼び、人“彼の声”に耳を貸すことなし。“彼”人に悔い改むる機を与う。焔と煙と獅子の吼ゆる大きな声とが地に降りくだり、もろもろの塔、蹂躙らん。災い過ぎされど、おのが業を看過し、なお耳あるものなくば、“彼”と共に歩む忠実なる聖にて真の証人よ。地と地に住む者をして報いを与え、新しき天地へと導け。願わくば、人々を罪より解き放ち、栄光と導きと裔限りなくあらんことを」
 神は人間の創造主ですから、人間を自由に作り、また滅ぼすこともできるのです。今、神が人間の過ちを見て人間を作り直そうとしているために、やり直すということで人間の技術の結晶であるさまざまな塔、ビルを破壊しているのです。しかし、人間は滅ぶことを望みません。種として限界を感じつつ、過ちを犯すことを防げないけれども、それでも生きていくのだということが結論になるのです。だから今まで人間は生きて来たわけです。最後にフランソワーズが天使の象は、人間の祈りの形の具現化だということを述べています。
 神による人類の滅亡を防ぐために、時には天使というものが人間の言葉を代弁して、神に対して異議申し立てをするのです。それが天使の象なのです。つまり、ここでは天使は人類を守り、存続させるために神に対して異議申し立てをしたサイボーグたちということです。

-ミクロコスモスとマクロコスモス-
 私はこの物語をマクロとミクロのコスモスの物語だと考えました。マクロ、広大な世界にある神様というのは、何が神様なのかはこの作品内では明確な存在としては登場しませんでしたが、宇宙全体のようなものであると考えらます。人間に対して試練を与える神ですが、フランソワーズは乗り越えられない試練は与えないといいます。
 ミサイルが発射されたことによって核戦争が起こりかねない状況になって、009は宇宙へ出てミサイルを食い止めようとします。そこで煌々と現れた太陽に向かって「神よ!」と叫ぶ部分はこの作品の盛り上がる部分の一つですが、これが一応マクロコスモスの神ということになります。
 対してミクロコスモスは、人間の脳です。人間の脳内にはもう一つの宇宙が広がっていて、そうしてまたそこにも神がいるのです。あるいは脳自体が神だとも言えます。もし物理的に神が存在しないとすれば、そうした神を創造したのは人間の脳なのですから、脳が神だということです。そうして、このマクロコスモスの神とミクロコスモスの神とが、実はイコールでつながるのだということを示しているのだと私は解釈します。そうして天使の象とは、そのマクロとミクロを行き来する、あるいはやり取りをする媒体となる人でも神でもないものを指すのです。それがつまりここではサイボーグたちなのです。神は人間が過ちを犯しているとして人類の滅亡を望みました。そうして一部の天使の象を見たことによって覚醒した人間が、神の声に従って人類のやり直しとしてテロを起こしたのです。ただ、人類はそれでも生きたいと願っているということを伝えるために、生き続ける姿を見せることによって神に異議申し立てをする。それがサイボーグたるものたちが天使になることであり、またそれがサイボーグ作品の根幹のテーマにある正義であるのだと私は思います。

-終わりに-
 この作品はエヴァとの比較ができます。最後に、今までに消えていったサイボーグたちが集まる不思議な空間にみんなが集合しますが、これは一種の精神世界です。エヴァのアニメの最終話は、精神世界に逃げ込んだということで話題を生みましたが、この作品もどこか別の精神世界に逃れてしまったというように考えられます。
 ヴェネチアにあるフランソワーズのセーフハウスだと説明がされていますが、それは現実世界の話ではないでしょう。精神世界はこの作品内においてはある意味神の国ともいえます。神を創造することができた脳が神であるのなら、その内部の世界もまた神の国なのです。しかし、宇宙にまで出たサイボーグたちが精神世界に入り込んでしまうというのは、今までの単なる精神世界に逃げ込むのとは違います。マクロコスモスとミクロコスモスがつながっているということが証明されている作品ですから、精神世界は閉じられた世界であると同時に、限りなく無限に近い開かれた世界でもあるのです。どちらにせよ、これを機に再びサイボーグの物語が紡がれることを望んでいる監督ですから、数年後にはまた次回作があることでしょう。

映画『悪の経典』への試論 感想とレビュー 一方的な立場からの暴力性と裁かれない悪・作品が今存在する時代の意味性

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-初めに-
2012年の秋は、洋画邦画ともに、話題性の高い作品が多く上映されました。中でも圧倒的なグロテスク表現で、話題を読んだ『悪の経典』はその作品としての価値と、また今の時代に登場したという存在意義性を考える必要があると思わせるテクストでした。
今回は映画自体と、その作品が今登場したこと、この二つの意味性を考えて行きたいとも思います。

-今出て来たその意味-
 今原作も読もうとしているのですが、この作品の原作は貴志祐介の2010年刊行の作品です。映画予告では、これから公開する『脳男』と非常に似ている点が気になりました。どちらの主人公も、感情が欠如しているということです。人間が人間に対して行える悪や暴力というのは、通常限界があります。
 数年前に話題となった『バトルロワイヤル』も、通常では考えられない暴力性が描かれています。私個人としてはこのようなグロテスク表現は気持ちが悪くなるので嫌いなのですが、やはりこうした作品がヒットしている点を鑑みると、その価値は否定することはできません。
 こうした作品に出てくる暴力性というのは、おそらく「暴力性の仮託」というように考えることが出来ると思います。アメリカ映画でグロテスク表現が盛んなのは、アメリカ人が国民的にそうした激しいものを持っているからでしょう。アメリカでは点数が入りにくい野球やサッカーよりも、たくさんの点数がはいるバスケットボールの方が人気です。だから、一般の人間は、そうしたスポーツやバイオレンス映画を見ることによって、ストレスを発散しているのです。
 物語の最も原始的なものは、神話ですが、こうしたものにヒーローの悲劇性などが多いのは、自分たちでは体験しえないことを、物語に仮託することによって擬似的に体験するということが必要になるからです。ゲームがこれだけ根強く多くの人間にとって楽しいのは、自分たちがその物語内で通常では体験できないことを、自分を主人公と同化して疑似体験することができるからです。ですから、数年単位でこうしたバイオレンス映画が登場するというのは、何かしらフランとレーションが溜まってきたことを示しているとも考えられると私は思います。
 
 この映画は、丁度現在のいじめ問題、体罰問題と前後して登場しました。このあまりにも狙い澄まされたように同時に登場する映画と諸問題の関連性は、無いとは言えないでしょう。やはりここには、教育現場での大きな問題があり、それが表出したのが今回の映画であり、諸問題であると私は考えます。
 『悪の経典』は、あまりに内容がグロテスクで酷いですが、ここには一方的な力関係の暴力性が描かれています。通常であれば生徒が主人公となって悪い教師を倒す、と言ったような体制批判や力への抵抗が描かれますが、この作品がほかの作品とは異なる最も重要な点は、絶対的な力を持った教師が生徒を殺していくという構図です。これは、あまり描かれませんでした。現在の諸問題の多くは、教師が生徒を殴った蹴ったの体罰問題です。その問題が出てくると前後して、この教師からの一方的な生徒への暴力性が描かれた作品が登場したということは、偶然ではないでしょう。
 
-都合の悪いものを消す行為・裁かれない悪-
 一見良好な教師に見えた蓮実聖司は、しかし、都合の悪い人間を次々に殺していくという猟奇的な人間です。仮面を被った良い教師としての一面と、人間を殺すことになんの躊躇いもない一面の二面性があります。 この人物の特徴を現代の問題と重ねて考えるのならば、必死に人間の悪い面を隠そうとしてきた仮面の化けの皮がはがれて来たということでしょう。
 そうして都合の悪いことをもみ消していくというのも、これまで日本が全体としてやってきたことにほかなりません。3・11の問題にしても、政府や企業は必死になって自分たちの都合の悪いことを隠してきました。時には口封じのためにいろいろなことをしたのかも知れません。日本の国民性というのは、ことなかれ主義ですから、何よりも無用な混乱を避けることが主眼になっています。大丈夫なはずがないことでも、大丈夫だ落ち着いて、安心してと取り繕います。こうした状況が、どこにおいても、この作品で言うのならば教育現場においても行われていたということへの鋭い批判になっているのです。
 この教師も、自分に都合の悪いことを隠そうとします。その隠し方というのが、殺人ということになります。ただ実はこれ五十歩百歩なのです。究極的に考えた場合殺人になるということであって、実は何か権力でもって黙らせることも、金などで口封じすることもまた、本質的には一緒なのです。自分に都合の悪い人間の口を封じるということは、本質的にはその人物の人間性を殺すということになります。この作品は、それをわからせるために、敢えて極論を持ち出しているのです。
 ただ、この自分に都合の悪い人間を殺すということ。これは実はまったく意味のないことであると誰もが知っています。この問題はドラえもんで素晴らしく鋭い指摘がなされています。「どくさいスイッチ」という道具があるのですが、のび太君が自分に都合の悪い人間を消すためにこれを使用します。消された人間は消した本人には記憶が残っているのですが、その世界には最初からいなかったことになるという道具です。初めにジャイアンを消すのび太ですが、しかしそのジャイアンの位置には、ジャイアンが消えたあとまた別の人間がそこを埋めます。こうした連鎖によって、結局はのび太君は全員消えちゃえと言って、地球上の全員を消してしまうのです。
 都合の悪い人間を消していくというのは、つまりどこかでその連鎖が切れることはありませんから、一人を殺したら地球上の全員を殺さなければならないということになるのです。ですから、最初数人だったのが、最終的には学校に残っていた自分のクラス全員を殺さなければいけないことになるのです。

 昨今の教育現場はとかく教員が責められる状況ですが、しかし、この作品が問題提起しているのは、教師側だけの問題でもないということです。学校でさまざま起こる問題は、一つには保護者が原因のものもありますし、生徒が原因のものもあります。もし、この作品内で、保護者、生徒の問題がなければ、この教師は生徒を殺さなくても済んだのではないかという予想が立てられます。そう考えると、反対に、教師が生徒に対して復讐するという構図が浮かび上がってくるのです。
 この作品の問題性は、何よりも最後まで悪が裁かれないという点にあります。クラス全員を殺すという猟奇的なことを行っておいて、映画ではこの教師蓮実聖司は最後まで裁かれないのです。通常であれば生徒に殺されるなり、警察に殺されるなりしなければいけないものですが、ここではただ捕まるだけという、あまりにお粗末な結末が待っています。
そうして、カラスの眼というイメージが、この教師から片桐怜花という少女に伝承されます。何ども登場していたカラスのイメージですが、この作品内では北欧神話オーディンの二羽のカラスをモチーフにしていることが示唆されています。神話では記憶と思考を司る二羽のカラスです。ここではそこまで深い意味はないでしょうが、罪の継承のようなものは感じさせます。カラスが実は蓮実聖司をのっとっていたというようにも解釈できます。そのカラスが、こんどは生き残った少女怜花に乗り移ったというように解釈できるのです。ですから、この時点で蓮実を罰しても意味がない。なんの罪もない少女をすぐに殺しでもしない限り殺人の連鎖は止まらないということが示唆されています。『悪の経典』はまさしく、悪が決してなくならず、裁かれないという絶対的に有利な立場からの一方的な攻撃性を描いた作品なのです。

-終わりに-
 正直グロテスクな表現が苦手だった私には、映画中何度も目を瞑ったり、気持ち悪くなることがあり、観るに堪えませんでした。AKBの大島優子も途中退出したとか。バトルロワイヤルやこの作品、脳男など、人殺しを主眼とする作品が数年のインターバルで流行るのは、どうしても仕方のないことなのでしょう。普段押さえつけられている感情の爆発をこれを見ることによって外部仮託するということが、ある点では必要になっているのかも知れません。

映画『ONE PIECE FILM Z』試論 感想とレビュー 多元的世界を一元化へしようとする師と、過ちを正す弟子の関係性

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-初めに-
 2012年は秋から様々なアニメ映画が登場し、ブームとまではならなかったものの、多くの人々がアニメ映画を観に映画館に足を運んだことでしょう。中でも突出していたのが、冬に公開された『ヱヴァンゲリオン新劇場版Q』と今回の『ONE PIECE FILM Z』。私はエヴァの方が興行収入は上だろうと予測していたのですが、エヴァのリピーターの数よりは、ワンピースの視聴者の幅の方が広かったようで、ワンピースの劇場版の方が興行収入を上回りました。
 アニメ映画がこれだけの興行収入をたたき出すというのは、外国ではあまり考えられないことでしょう。これは日本のアニメ業界が非常に洗練されていて、サブという名が冠されているものの、カルチャー(文化)に近い位置にまでたどり着いてきたからです。日本のアニメーションというのはとても素晴らしいものですし、私にとっては広い意味での文学ですし、誇りをもっていいものだと思っています。
 この二つのアニメ映画が特に突出した理由は、それぞれの世界観を作ったいわゆる大きな作品だからだと私は思います。エヴァはそれまでのロボットアニメでもなければ、どのジャンルにも分類することが出来ません。エヴァンゲリオンというジャンルを作ったのです。そうして、ワンピースもそれまでの海賊ものや、冒険ものというくくりの中には入りません。やはりワンピースという一つのジャンルを作ったのです。今、大きなヒットをする作品というのは、この世界観を一つ作り上げた作品に多いということがわかっています。また、それと同時並行的に、それまでの大きなジャンルに対して疑問を投げかける作品、例えばまどか☆マギカや、タイバニなども規模は小さないながらも重要な意味を持っています。これからのアニメがどのように発展していくのかが、今後見ていく重要な視点であります。

-ワンピースフィルム概略-
 ワンピースの映画は、それまでが主要キャラクターのひとりひとりを追ってきた物語だったものが、次第と映画だけで独立した作品になってきました。それまでの映画が、漫画、アニメの別の視点から描かれたというのに対して、それだけで独立するようになったので、劇場版という意味性が強まってきたと思います。
 前回の『ONE PIECE FILM STRONG WORLD』では、金獅子をCV竹中直人が特別出演するということで、大変な人気を博しました。私個人の感想としては、悪役というのは根から悪に染まった人間よりも、多少ユーモアのある人間の方が迫真性がありますから、とてもよかったと思います。ナミに対するときの軽い感じと、どすの利いた時の差異がメリハリがあって素晴らしかったです。
 今回の映画では、最大の敵であるゼファーことゼットを大塚芳忠が務めていてしびれました。こうした声優とは関係ない人間を起用することで成功したのが宮崎アニメなのですが、それを小手先だけでマネると大抵失敗するということになります。そうした部分に私はきちんと声優を起用したらいいじゃないかと思ってきたので、今回の大塚さんの起用は、流石に大ベテランだということもあり、見事でした。そうしてやはり、一つ失敗であると指摘しておきたいのが、アインを務めた篠原涼子とビンズを務めた香川照之両氏です。もし、この二人を起用するのであれば、このような脇役ではなく、ゼットレベルの人間に起用しなければいけません。こんな脇役に起用したばっかりに、二人とも演技で培った技術や経験のほとんどを活かせずに、むしろプロの声優を起用したほうがしっくりくる結果となってしまいました。これから未来のあるワンピースフィルムには、なんでもかんでも吸収するのをやめて、きちんと選別して質を高めて行ってもらいたいと思い、指摘しておきます。

-悲しみから一元化への道筋-
 今、ワンピースの映画の流れをごくごく簡単に追いましたが、作品内において、今の海軍をつくったのは誰かというのが、今回の主題です。前回の金獅子はある意味わかりやすい悪役でした。最初から最後まで悪役なのです。しかし、今回のゼファー、ゼットを映画を観終わった後で悪役だと断言できる人間はいないでしょう。今回の作品では初めて明確な悪役がいないという悪不在の戦いになりました。正義の反対は悪であるというのは、実は非常に断片的な問題であって、正義の反対はほかの正義なのです。私たち観客は海賊視点でこの作品に長い間触れてきましたから、海賊は悪ではないという視点が確立されています。海賊同士のなかで悪があるとしても、少なくともルフィ一味を悪だとはもう誰も考えられないでしょう。
 ではルフィ一味が悪ではないとすると、正義という文字を背負った海軍はどうなるのでしょう。ルフィの祖父がいることもあり、海軍もまた、内部でのいざこざがあるにしても海軍を悪だとは言えません。今回の映画は、元海軍の人間であり、現在の大将クラスの人間を育てた人間が、海軍にも海賊にも属さない新たな一派を立ち上げたという三つ巴の戦いが描かれます。ここには悪はやはりいないのです。

 そうして、またこの作品で言及された重要な視点は、何か一つの悪や悲しみという側面を見て、それは般化させて悪や悲しみのない一元化された世界にしてもいいのかどうかということがあります。たとえばエヴァは、他者との関わりがうまくいかない、他者があるから自分が傷つく、そんな傷つく人生なら、傷つかないように他人と自己を分け隔てているものをなくしてしまったらいいじゃないかというのが作品の根底にあります。それがATフィールドでもありますし、人類補完計画でもあります。『ねらわれた学園』でも、他者があるから、傷つく。だからテレパシーでお互いがわかるようにしようということがテーマです。『NARUTO』も同じで、悲しみが続くから、悲しみのない皆が平和に暮らせる世界、地球上のみんなを幻術にかけて一元化された世界にしようというのがテーマになっています。今回の映画Zも、海軍や海賊といった対立する構図があるから、それらをなくしてしまおうというのが、ゼット先生の目論見なのです。だから、ゼット先生は、海軍でもなく、海賊でもない第三局を作ったわけです。
 憎むべき海賊の抹殺をしようとしていたとパンフレットにはありますが、ゼット先生の最初の動機はそうだとしても、やろうとしていることの根幹にある思想は、このような多元的な世界から一元的な世界にしようということだと私は思います。エンドポイントのマグマによって海をなくしてしまえば、海賊も海軍もなくなるわけです。もし、海賊だけの抹殺を目的としているのならば、海軍にのこって自分が育てた大将レベルの人間を全員かき集めて海賊討伐に向かえばいいはずですから、やはりそうした単純なことではないと私は思います。

-多元的な世界を一元化へ・師と弟子の関係-
 ただ、多元化された世界を一元化するという物語は、大抵の場合失敗します。なぜならそれがなされた瞬間物語が終わってしまうからです。文学作品やアニメの中にはそうした一元化がラストにされることもあります。まどかは一元化されました。そのあとも別の可能性があることを示唆しているために、完結したという感じを抑えるのに成功していますが、一元化されると物語は終わってしまいます。まして、ワンピースはまだ続きますから、勝手に終わられては困るわけで、最初からゼット先生の目論見は完結できないことが最初からわかっていたという、実に明確で明快な作品です。作品の深みがないと言えばそういうことにもなりますが、続き物の劇場版を作るのは、原作のストーリーに影響しないように制作するために多くの制約が生まれますから仕方のないことです。
 その代わり、この作品が非常に感動できるのは、別な普遍性を内包しているからです。それは師と弟子の関係です。通常師匠の側の人間が主人公になるという物語は少ないです。それは師匠が人間としての成長を弟子を教えることによって得られる度合いが少ないからです。当然物語は弟子の成長にフォーカスされます。しかし、この作品は敢えて師匠の側の人間をフォーカスしました。もし、自分たちの師が、間違った道を歩んだら、一体だれが師を止めるのかということです。
 自分を導いてくれて、今の自分があるのはあの先生のおかげだと言う人間が道を誤った場合どうしたらよいのでしょうか。この作品はそれに対して、弟子たちが先生の過ちを正すという一つの視座を与えています。青キジが登場したのは、漫画で言及された赤犬との戦いのあとどうなったのかを示すためでもありましたが、それ以上に、自分ではかつての師匠を正すことが出来ないので、ルフィたちに頼みにきたということにこそ意味を見出すべきでしょう。
 黄ザルは唯一大将のなかでは二年前とポジションが変わっていないために、動きやすく、自ら非情とも思えるほど自分のかつての師と戦闘を繰り返します。ある意味ではあの非情さのなかに、せめて自分の手で師匠の過ちを正したいという気持ちがあったのかも知れません。結局は、ルフィとの戦いのあと、自分の理想がかなわないということをわかりつつも、男として自分のそれまでに為したことの責任を取るために自分のかつての生徒たちに殺されに行きます。ルフィとの戦いによって、過ちは正されたのです。しかし、だからと言って、じゃあ海軍に復帰するということにはなりませんから、最後まで過ちを犯した人間がどのようにしてその責任を取るのかということを、生徒に最後の教えとして残すために、生徒たちに全力で向かっていったということになるのです。大将クラスの人間が流した涙は、自分の師匠を自分の手で殺さなければいけないということもありますが、既に過ちに気が付いた先生が、最後の教えとして責任の取り方を教える姿に涙したと私は考えます。黄ザルの登場はあまりに遅いですし、ルフィとの戦いを見守っていたと考えることもできるでしょう。敢えて黄ザルは嫌な役を買っていますが、ある意味ではそうでもしないと泣いてしまうために、演技しているとも考えられます。この普遍的な師と弟子の関係性が描かれたため、この作品は非常に感動できる作品になっているのです。
 海軍が歌っている海導(かいどうではなく、うみしるべだそう)は、師匠と弟子との教えの導きというテーマを、海と人間との関係で唄っただけであると私は思います。

-終わりに-
 今回特に無理が生じたのが、アインとビンズ。派手なキャストを起用したわりには全く存在感がなく、存在価値もなく、何とかそれを捻出させるために、アインには「モドモドの実」という、作品を崩壊させかねない恐ろしいものを出してしまいました。大体「時間」を操れるものを出すと作品は崩壊します。ハリーポッターでも、あの時間を戻せる時計を登場させたがために、じゃあなぜダンブルドアはそれを使用して、ヴォルデモートと戦わなかったのかということの理由を言うためにほぼ理解できない内容を口にしています。なのでSF出ない限り、時間を問題とするのは私は大きな駆けなのでやらない方がいいと思っています。この作品でも、それだったら何よりもまず自分の身近にいるゼット先生を最盛期の状態に戻してあげればいいわけで、何も老人にあそこまでやらせなくてもと思いました。ロビンちゃんがどうしてあの年代の身体ではいけないのかというのはわかりかねましたが。
 ゼットは単なる恨みではないのに、わかりやすいように恨みとしている点や、アインとビンズの問題などかなり無理が生じていると私は思いました。これからのワンピースフィルム発展のために、論じました。

映画『ふがいない僕は空を見た』試論 感想とレビュー 群像劇から見る生=性の構図・現実逃避とコスプレ

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-初めに-
 窪美澄原作の『ふがいない僕は空を見た』が2011年の文学界を賑わしてから、短いスパンで映画化がなされ、原作を読んで感動した多くの人々が映画を観に行ったのではないでしょうか。文学作品の映画化というのは、メディア媒体を考えるうえで非常に重要な視座になってきます。媒体を超えるということがどういうことなのか、今回の映画化は作品それ自体だけでなく、こうした側面をも考えさせられる出来事でした。
 特に原作は文学のなかでも純文学です。エンターテイメントではないので、一般読者が読んでも面白味や愉しみというものはありません。そこには人間が描かれているのです。こうした人間の深い部分を現すのに映像がどこまで表現できるのかということが問題となってきます。
 大学に客員講師として来ている映画の監督も、自ら映像を撮りながら、その媒体としての限界を感じていると話していました。心理描写が言葉ではなく、映像でしなければいけないということになります。私たちは笑っていたって内心では怒っているかも知れない。それは文学では表現しやすいですが、映像では表現しにくいということになります。

-作品をめぐる5つの視点-
 『ふがいない僕は空を見た』というタイトル、現在文学やアニメなどの作品のタイトルが徐々に長大化している流れにのっています。ただ、原作では空を見上げるという描写はほとんどなく、その代わりに映像では、それぞれの主人公の章ごとに空を見上げた際の空の映像が映し出されました。
 この作品は原作がそれぞれの人間をめぐる群像劇として描かれます。この群像劇の中心になるのは、一つには斉藤卓也という男子高校生を中心とした人間関係。そうして、もう一つは川の近くという場所をめぐる人間関係です。
 一章が卓也の視点から描かれる物語。30代のコスプレイヤーあんずとの恋を描きます。この作品がR指定になるのは、この二人の性交渉があるからです。そうして、次は一章と被る部分があるものの、視点が変わって描かれるあんずの物語。あんずの視点から見ることによって、卓也との関係のほかに、彼女の夫との関係や、姑との関係が浮かび上がってきます。次は卓也の母寿美子の視点。寿美子は助産師という、今では病院での出産が当たり前となってしまった時代に、ほぼ独力で助産師としての仕事をしています。この一見強そうに見える母も、実は夫、つまり卓也の父と別居中であったり、コスプレイヤーあんずとの関係がネットに晒されて大問題となっていたりと大きな悩みを抱えています。
 次の章は、卓也の友達の福田良太という高校生の視点の物語。彼は卓也がネットでさらし者になって、家に引きこもってしまった代わりに現実を見るための存在として視点を提供しています。しかしまた、彼の視点からは、その土地独特の暗闇が照らされることになるのです。川のある田舎として設定されている舞台は、作家レベルで言えば窪さんは明確にどこをモデルにしているか明らかにしていますが、この作品内では、水との関係性が重要になってきます。その土地をめぐる物語として、団地地区の人間は一種阻害された存在として描き出されます。団地の人間は、碌に勉強もできずに、それは自分の問題でも周囲の問題でもありますが、良い仕事も得られず、悪いことをする巣窟として町の人間から忌嫌われています。良太はそのなかでたくましく暮らす存在として登場します。ここでは一つのミステリ要素として、ネットで晒された卓也のコスプレをして性行為をしている写真を町中にばらまいている犯人は誰なのかということが問題となります。それは視点がバトンタッチのように移り変わる過程で明らかになるのですが、良太と同じく団地にすむあくつという女子高生なのです。
 
-生=性をめぐるテーマ-
 この作品に流れているのは、生命というテーマ。原作者も今回の映画監督も、生=性という「せい」を善悪なく賛歌するというテーマだと述べています。原作ではこの生=性のテーマを強調するものとして、水の横溢という事物が付加されていました。それはこの町に台風が来ることによって川の水が氾濫し、洪水のようになるという描写です。これは出産時の羊水をイメージさせるものです。
 文学を読み解く一つの視座としては「胎内回帰願望」があります。これは、人間が無意識のうちの母親の胎内を覚えていて、人間が最も安心していた状態に帰りたいという願望です。しかし、この作品はそうした観点から見ると、胎内回帰願望の反対の概念はまだ提示されていませんが、どちらかというと回帰するというよりかは、この世に生まれてくる方にテーマを置いた作品だと私は思います。
 この物語は卓也の母寿美子が助産師ということもあり、常に出産というラインが同時並行しています。妊婦として登場するのは、一人は卓也の担任の教師です。この教師はあまり人間として成長していない、子供がそのまま大人になったような存在として描かれますが、その教師が母になるという経過がこの作品の別ラインとして平行しています。また、卓也とは全く関係のない、一組の夫婦も出てきます。この夫婦は自然出産にだけ視点が固定化していて、絶対に自然分娩でなければいやだと言います。確かに自然に生まれてくるということはいいことなのかも知れません。それは現在の科学至上主義へ対して懐疑心をもったために起こったごく自然な感情でしょう。しかし、人間の自然性というのは本当はなんなのかよくわからないことになります。よく人間と自然を対比させて考えますが、そうすると人間の自然性とはなにかよくわからなくなるのです。人間がやることはすべて人工的であるともいえるし、自然であるともいえます。いざこの妊婦が出産間際になって自然分娩が難しいということが判明しますが、そうすると突然手のひらを返したように、この夫はだから病院できちんとやってもらったほうがよかった、こんな信用のおけない助産師なんかに頼むからこうなったと怒り始めます。そうして運んで行った病院でも看護師からいざ、最後に困った際には病院に頼みこんでくると嫌味を言われます。
 私は人間の出産とはもっとも根源的で自然な行為と考えていますが、この出産というひとつの生命を新たに育むという行為をどのように行うのか、この問題での争いに過ぎないのだと思います。しかし、この作品で重要なのは、このように一方では子供の生み方でこれだけもめている反面、子供がまずできなくて苦しんでいる女性がいるということです。

-現実逃避とコスプレ-
 それがあんずの苦悩になっているのですが、あんずは子供ができません。そうして子供ができないことをその姑は非常に古典的な人間として子供をなせない女性は昔は出ていかなければならなかったというように責めるのです。子供ができない原因はその姑の息子である、あんずの夫の精子にもあったのです。それを聞いて激昂する姑などは、迫真性がすさまじかったです。
 子をなせないこととそれへの姑の強いプレッシャー、夫との性生活の問題から、あんずが卓也との性交渉を一時的にでも癒されるためにしていたということがわかります。このコスプレというのも非常に重要な視点だと私は思っていて、コスプレというのは、つまりほかの皮を被ること、演じることになります。それは古くから文学世界ではシェイクスピアの登場人物がほかの衣装を着たり、仮想したりすることによって、普段の自分とは異なった人格を演じるということが言われています。コスプレも、衣装をきることによって、演じることによって、普段の自分とは別人格に変質するということになるのです。それは日常、非日常ということもできますし、また、このようなプレッシャーから逃れるために演じざるを得なかったということにもなります。

 この作品が素晴らしいのは、妊娠できる女性と妊娠できない女性の苦悩を描いて相対化している点、そうしてもう一つが現実逃避のためにコスプレして何とか自分の逃げ道を確保できた人間と、確保できなかった人間の対比、相対化をしている点です。
 あんずはそれが彼女の人生にとって良かったのか悪かったのかはわかりませんが、一時的にでも辛い現実から逃げることはできました。しかし、コスプレという手段にたどり着かなくて現実から逃避できなかった人間はどうなるのでしょうか。それが、この土地での暗闇として描かれる団地の人間です。高度経済成長期に都心の地方にベッドタウンとして多く建造された団地。しかし、バブルが崩壊したのち、そこで生活している人間の面倒を見る人間はいませんでした。だから、金がない、教育ができない、学歴がないから働けない、金がない、悪いことをするという負の連鎖がそこでは根付いているのです。その犠牲となったのが、良太とあくつです。この二人は団地の人間というだけで、町のバイト先で「団地の人間は」と根拠なき批判をされます。団地の子供がコンビニの商品を盗んだ際には、まるで良太が悪いように叱られます。あくつはそれを黙ってみていました。
 この二人は団地という場所から抜け出せない存在なのです。団地はアリ塚のように、どこまでも人間を負と暗闇のなかに取り込もうとします。そんななで、あくつが自分の友人である卓也のスキャンダルを発見した際に、憂さ晴らしのためかネットの画像をばらまくのです。そうして卓也の親友でもあった良太は、ビラをばらまいているのがあくつだとわかった時、この作品の大きく解釈の分かれる部分の一つ、親友の卓也をかばうためにあくつを糾弾するのではなく、あくつのビラくばりを手伝うのです。
 良太は卓也の親友ですから、普通の感覚で行けば、そのせいで学校にこれなくなっているのですから、あくつを止めるはずです。しかし、良太は何故かあくつのビラ配りを手伝うのです。これは親友良太を裏切る行為にもなります。しかし、そのあと何の罪悪感もないようなまま、卓也の家に行って、いつまでひきこもっているのかと叱咤激励したりするのです。一つは、団地というだけで批判されることへの反抗的な感情が、憂さ晴らしの形となってこの行為に代弁されたのでしょう。また、この抜け出せない地獄からもがき、外界への働きかけとして現れた行動かもしれません。もう一つは、卓也にとってスキャンダルとなることをしていながらも、こんなことに負けるなよという相反する、好きだからいじめるみたいな感情に似たものがあったのかも知れません。

-終わりに-
 この物語は、このように現代の問題を抱えた五人のふがいない人間を描いた物語です。しかし、そこではふがいないながらも、必死に生きようとしている姿があります。それは醜くもあり、汚くもあります。望まない性行為によって子供が生まれることもあるでしょう。しかし、それでも生=性を肯定する。これは3・11があった後のどの文学も言及しなかったテーマです。人間はやはり生きているだけで偉いと私は思います。
 原作での心理描写、例えばあんずが自分の心を自分でだますためにわざとらしい語りをしたりする部分は映像では描かれません。それに台風や洪水といった羊水の横溢というテーマも現実レベルで時間と費用がなかったためか映像化されていません。その代わりに、それぞれの章では晴れ渡る空の、ほんの数秒の映像が実に印象的で、こころがふっと軽くなるようなカタルシスがそこにはあります。
 映画は、最後に卓也の担任の教員が生んだ男の赤ちゃんの映像で終わります。男性器を見て、卓也は厄介なものを付けて生まれてきたなというのです。男は子供を産めません。しかし、いついかなる場所で女性を妊娠させてしまうのかという責任は男性のほうがあるでしょう。自分で子供を産むという責任が取れない分、余計に厄介なのかも知れません。どちらにせよ、生きること自体が素晴らしいという作品です。この映画と原作が、より多くの人間に触れるように願い、論じました。

絵本『たいせつなこと』 マーガレット・ワイズ・ブラウンさく 自己同一性の確立の物語 

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-初めに-
 先日絵本の読み聞かせをする機会があったので、その際に本屋さんでじっくりと吟味して、購入した本の紹介をします。時間が限られていたので、できるだけシンプルでわかりやすいものをと思って選びました。
 普段本屋にはよく足しげく通うのですが、絵本のコーナーはほぼ無縁でした。新宿新南口の紀伊國屋の一階は、まるごと絵本のコーナーになっていて、絵本というジャンルが決して小さくないことを感じました。
 今回は、『たいせつなこと』
 マーガレット・ワイズ・ブラウンさく
 レナード・ワイスガード え
 うちだややこ やく

-自我同一性の問題-
 絵本も当然文学です。むしろ絵が挿入されている分、文学より感受性に訴えかけてくるかもしれません。私がこの絵本を選んだ理由の一つは、まず絵と文章が分化されていないということです。どちらかというと、文章が主体で絵が挿入されるというスタイルが多いと思われますが、この絵本は、文章が絵の中に溶け込んでいます。ですから、そうした点でも違和感なく絵と文章が楽しめるのです。
 特に小さな子にとっては、こうした絵の中に文章があるほうが探すのが楽しかったりしていいのではないでしょうか。

 それぞれのページ見開きごとに、ひとつのテーマがあって、たいせつなことを教えてくれます。私たちは今の生活というものを、ごくごく当たり前に生きています。朝起きて、顔を洗って、食事をして、学校へ通い、勉強して、友達と遊んで・・・しかし、それは本当に当たり前のことなのでしょうか。
 先日誕生日を迎え、私はだいぶ生きてきたなと少し感慨にふけたことがありました。当たり前のように生きてきたなと感じました。少し体の調子が悪いので、苦しみつつも生活していますが、それでも通常の生活が送れるということが、どれだけ当たり前でないことか、しばらく忘れていました。
 思えば、震災があり当たり前が当たり前でなくなったのはついこの間のことでした。しかし、現在ではまるで何事もなかったかのように、当たり前の生活をしています。この絵本は、私たち大人が読んでも、そうした部分をはっと気づかせるような素晴らしい絵本なのです。
 
 中でも最後のページ、私がこの絵本を選んだ決定的な部分を、引用します。
あなたは あなた 
あかちゃんだった あなたは 
からだと こころを ふくらませ
ちいさな いちにんまえに なりました

そして さらに
あらゆることを あじわって
おおきな おとこのひとや おんなのひとに
なるのでしょう

でも あたなに とって
たいせつなのは
あなたが
あなたで
あること


 私たちが最も重要なのにも関わらず、忘れているもの、それは自我同一性の問題です。あなたがあなたであること。こどもにとってはまだ何を言っているのかわからないでしょう。大人になるにつれて、こんなの私ではないと、わたしとわたしがだんだん分裂してきてしまう。社会のなかで生活することは、時として自分をなくさなければいけないことにもなります。しかし、そうした不幸な人間が社会の全体であったなら、いったいどうして幸せな国になりえるでしょうか。自分の好き勝手にやるということではありません。ただ、自分があるべき自分であること、自分の解放、こうした面があまりにも今の日本では注目されていません。
 今日一日、本当に自分が楽しかった、よかった、うれしかった、または悲しかった、つらかった、おこったというようなことがあったでしょうか。常にSNSなどを利用して他者とのかかわりを要求され、あるいは就活のためのまるで個を無視したようなエントリーシート、社会のなかで歯車として利用されているだけの生活、やりたくないことばかりで面白くない毎日、そのような状況で社会がよくなるはずがありません。
 ジョン・S・ミルの『自由論』では、個人の自由が幸福な社会を生むとしています。今一度、あなたがあなたであるのかどうか、考える必要があると私は思います。

桜庭一樹『無花果とムーン』への試論 感想とレビュー 2 異界訪問譚・成長譚として

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-夜のイメージ・生者の思い-
 この小説は、それぞれの段落に意味の不明な記号が付されています。「ΣξÅ」具体的に同じ記号を名前もわからないので探すことができないのですが、今挙げたような記号によってそれぞれの段落が始まるわけです。ここには、もはや意味をなさない、あるいは何らかの意味をなしているとしても、読者にはそれがわからない情報の提示がなされています。これは、ある意味では少女が自分だけがわかる世界に入り込んでしまっているというように考えることもできますし、また、UFOのような未知なるものが出てくる小説ですから、そうした未知なる情報の提示と考えることもできます。
 この作品は、少女の視点による一人称ですが、この少女は非常に人間ならざるものとしての存在感があります。それはまず、彼女がパープル・アイ、紫の眼を持った少女であるという点や、八重歯が発達したのか、「自慢の牙」があったりする点、さらにはその出生が不明で、「若いときのおとうさんが、修学旅行の引率先でうっかり拾って、さらにうっかり情がうつって引き取っちゃったとき、あたしはまだ三歳だった。入れ替わるようにおかあさんが急にいなくなって、それからずっと、四人家族」という部分からもわかります。
 主人公の少女は月夜という名前からも、このように月や、夜、どこか狼男の物語を彷彿させるようなイメージが重ね合わされています。この物語は突然の兄の死から始まります。その死の謎を解き明かすという一つのミステリとしても読むことができるのですが、彼女はその原因を知っているのです。ただ、激しい思い込みによって客観的な事実がゆがめられて読者には情報が提示されない。兄の名は奈落。奈落というのはそのまま奈落の底の奈落のことです。そうした死者の世界のイメージが関連づけられています。小説が始まった時点でこの奈落はすでに死んでいるのですが、その奈落がまさしく、奈落の底からよみがえってくるというのがこの物語の根幹なのです。
 
 突然の兄の死に納得できない月夜は、強い思いで兄を思い続けます。そのため、「魂を半分に裂かれて。死んでいる半分はごーごー焼かれてお骨になったのに、まだこの世に残っている半分は、水の中をゆっくりと、悲しむあたしの隣を流れているところ」と彼女は解釈し、兄の魂が残っているというように感じます。それが、兄としか思えない口笛が図書館で聞こえたりすることにつながるわけです。私は一つ指摘しておきたいのは、この図書館で流れた兄の口笛、「スタンド・バイ・ミーの曲」と月夜は言っていますが、これは原題は「死体」ですし、作品の内容も死んだ友人を探しに行くという物語ですから、そうした関連性もあると思います。
 こうした死者への以上の執着は、ほかの生者に対しては理解されません。月夜はほかにもう一人の兄と父との四人家族でした。その兄や父はこういいます。「―生者が死者に対してできる唯一のことは、”忘れること”だよ」と。しかし、そのように言われると余計に反感を感じる月夜はさらに奈落のことを思うわけです。そうして月夜は夢を見ます。「祈りがあんまり強いから、もどってこられたよ。おまえ、すげぇな。とんでもないパワーを持ってたんだな。生きているときは知らなかったよ。天使様もビックリって感じで、向こうでもなかなか注目を集めてた。」このように兄が夢の中で語りかけてきます。そうして月夜のおかげで少しだけこっちへ帰ってくることができるといい、夢は覚めてしまいます。
 この町はおそらく日本のどこかなのでしょうが、アメリカの田舎にある孤立した町というイメージを抱かせます。この町はほかの町から離れているため、一年に一度旅をする銀色のトレーラーがやってきてしばらく野宿をします。夢のあとに偶然遭遇したトレーラーに乗っていたのは、あまりにも奈落に似た少年でした。しかし、その少年は月夜のことをまったく知りませんし、さらにはほかの人間がみると奈落とは似ていないと言います。
 
-恋をめぐる物語として-
 このトレーラーに乗っているのは、二人の少年「密」と「約」です。この二人の会話は、少女には判別できなような、あの記号の羅列が続くことがあります。これがいったいなにを意味しているのか、現実的に考えたなら、月夜が使用している言語とは全く異なる言葉を使用しているということでしょう。またもう一つはこの世ならざるもの、異世界の言語を用いている、月夜には判別できない、言語化できない言葉を発していると考えることができます。この二人には、その名前があらわすように、一つの密約があります。この二人は旅をし続ける同性愛者なのです。
 この物語のもう一つの恋愛は、月夜と兄奈落の禁断の恋です。奈落がなぜ死んだのかというと、それはそれとなくほのめかされているのですが、アーモンドバーを食べた月夜にキスをしたからです。奈落は極度のアーモンドアレルギーでした。だから気を付けていたはずなのですが、不意にキスした妹が、アーモンドバーを食べていたために、死んでしまったのです。それを自分の責任だと感じている月夜はこのことを隠してしまいます。それが罪悪感となって、兄を呼び寄せることにつながるわけです。また奈落も、言いたいことがあったんだと言ってそのままショック死してしまうので、メッセージが残された状態で死んでいきます。死者のメッセージを聞きたいという願望、あるいは奈落側から伝えたいという願望が、この物語の交流の根源なのです。
 拾われてきた月夜は、奈落とは血縁関係がありません。ですから、法律上は結婚できるはずですが、ずっと一緒に育ってきたということもあり、近親相姦としても読み解けます。また、この小説の舞台となる町は、非常に閉塞された空間です。そこに入り込んでくるトレーラーというのは、外界からの訪問者であり、異界訪問譚としても読み解けます。この閉塞された空間のなかでの禁忌というのが、奈落を殺したとも考えられます。奈落がアレルギーをもっているということは、この町では誰もが知っていることなのです。そうした、濃密な人間関係のなかで、禁忌を起こそうとしたということが奈落を殺したとも考えられます。
 
-成長譚としての側面-
 この小説のカタルシスになっているのは、少女の成長譚としての側面のためでしょう。この小説は、月夜の激しい妄想によるひとり語りと考えることができます。すべて月夜の言っていることが本当だと考えてもそれはそれでいいですが、私は妄想だと解釈しています。
 奈落と思ってかかわったトレーラーの若者。しかし、町の人間たちはこの外からの来訪者に対して非常に冷たくあしらいます。中には、町の少女をたぶらかして連れて行ってしまうものもいると月夜を脅します。ただ、これらの回りの人間の助言はすべて、奈落のあとを追いかけて死者の世界に行こうとしていた月夜をとどめようとしていたとも考えられるのです。テクストの最後で、奈落と二人で旅立とうとするのを、かろうじてほかの人間たちが救出します。そうして、奈落の語りが挿入されます。死者になろうとしてしまった月夜をみて、兄も父も、また残された人々も、考えがかわります。死者を忘れるのではなくて、自分の中に存在を見つけて、共生していくこと、死者を生きた者たちで覚えていて、ともに悲しむことが必要だというように変化するのです。
 そうして、月夜は奈落を追いかけることをやめ、またこの閉塞された空間としての町から旅立つことを決心します。月夜は「十八歳は制服の夏服。十九歳はみんな喪服。一歳違いなのによくわからない一線がビシッとひかれているみたいだった」と冒頭で述べていて、そこからずっとこの一歳の壁というものを考えていました。奈落は十九歳です。そうして奈落の友人たちも十九歳です。月夜はこの一つの年齢が、自分にとって大きな意味を持つと考えていました。拾われっこである彼女は、自分が十八歳というこどもであり、庇護の対象となる存在から、十九歳となりこどもとして扱われなくなることに対して異常に恐怖を感じています。それは十九歳になったら、自分は家を出ていかなければいけなくなると考えていたからです。その根拠がどこからきているのかは不明ですが、このような閉塞された空間のなかで、彼女が町中の人間に拾われた子として位置づけられていることから、社会的な抑圧やまなざしを感じているのは確かでした。だから、その世界から抜け出すために、一種自殺願望にも似た、奈落との交流もありました。ただ、それは結果としては外界からやってきたトレーラーの若者、ある意味では奈落によって、死者の世界に旅立つことよりも、町から出てほかの世界を知ることの必要性を感じさせたのです。これは少女が大人の女性へと成長していく成長譚としての側面もあるのです。

-終わりに-
 桜庭一樹の作品を二つ論じてみました。いずれも少女が主人公になりますが、『八犬伝』のほうでは、14歳なのに立派な大人としての少女が、他方『無花果』では18歳なのに子供のような少女が登場しました。どちらにも共通しているのは、多義性を重んじているという点です。どのようにも解釈できる。読者の自由な読みが可能なのです。それがやはり桜庭作品の文学性なのではないでしょうか。

桜庭一樹『無花果とムーン』への試論 感想とレビュー 1 桜庭一樹文学を読み解く指標

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-初めに-
 装丁からどこか引き寄せられるものをすでに秘めている作品です。黒地にピンクの光沢の文字。どこを見ているかまなざしのはっきりしない怪しげな少女。白いワンピースに紫の瞳。細長く投げ出された手足。装画は有名な酒井駒子さんです。以前論じた川上弘美の「七夜物語」も酒井さんが担当でした。
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-250.html
そうして帯には、「月夜(あたし)は、奈落(お兄ちゃん)がだぁい好き―。」とあり、いよいよ怪しい雰囲気が漂ってきます。現代文学を読む際には、こうした装丁からもすでに文学性のうちに入っていますから、そうした視点を持って本を読むということも大切です。こうした視点が最も鋭い評論家は子供たちです。この本を読みたいと思わなければ読まないというとてつもなく厳しい批評家たちです。私たちは次第に大人になるにつれてそうした視点を失ってしまいます。この小説にもそうした大人になるということの意味とはなんだろうかと考えさせられるものも描かれます。

-桜庭文学への視座-
 この小説は月夜という少女による一人称小説です。ただ、一人称という構造を用いて、うまく客観性を隠すという技を使用しているので、そのまま鵜呑みにしてはいけません。さらに月夜という主人公は、明らかにだれかに対して語っているのですが、何を語っているのかわからせないようにしている部分があります。それは彼女の意図でもあり、また無意識でおこなわれているものであもあるのです。というのは、彼女は常に大人になろうとする自分をだましていますから、このようなことが生じるわけです。
 夏目漱石の『三四郎』は、どうも感覚の鈍い大学生の視点を借りた三人称小説ですから、多義性が生まれるのです。この作品は自分にウソをついている少女の一人称独白のため、自分の理想をも織り交ぜての語りになります。読者はそこに気を付けないと、月夜ワールドに引きずり込まれてしまいますから、気を付けなければいけません。

 この作品は去年公開された桜庭一樹の最新作ですが、そこにはまず作家レベルで桜庭一樹が考えている一つの視座を考えなければいけません。2012年には、桜庭一樹はもう一作『傷痕』を公開しています。この二つの作品には一つの大きな重要な共通点があります。それは、評論家の榎本先生が言うところの3・11文学です。これは2011年に起きた大震災の影響を受けて作られた文学作品や映画、漫画、アニメなどを指します。桜庭一樹は『傷痕』でちょうど世界的なポップスターマイケルジャクソンの死をモチーフに取扱いました。ですが、ちょうどその執筆最中に大震災が起き、大きな存在の喪失というテーマをもとに最後まで書き上げています。その後、この『無花果とムーン』が執筆されますが、これは死者と生者がどのように交流していくのかという非常に重要な問題をテーマにしています。
 角川文庫の『無花果とムーン』特設サイト
http://www.kadokawa.co.jp/sp/201210-01/
下のスペシャルインタビューに注目

あらすじや内容の一部は、上のリンクから作者である桜庭一樹本人の映像でお楽しみください。
死者との交流というテーマですが、その死者とは震災で亡くなった人のように、突然の死によってこの世から旅立った人間に対しての交流がここで描かれるわけです。誰もが予想していなかった突然の死。病気であったり、長生きした人間の死というものは、ある程度覚悟もできていますし、納得がいくものです。ただ、若者の突然の死というのは誰も慣れないし、納得ができない。私たち生きている人間というのは、ある意味置いて行かれた人間なのです。この置いて行かれた人間がどのようにして、死者と交流するのか、これがこの作品だけに限らず、震災後の文学が取り組んでいかなければいけないテーマとして浮上しています。


-ライトノベル的要素-
 桜庭一樹文学が今再び彼女の出発点であったライトノベルに回帰しつつあります。桜庭一樹文学の面白いところは、ライトノベルから入って純文学をも書くことによって多様な文学の幅を見せることです。今回の『無花果とムーン』がライトノベルにまた近づいているというのは彼女の文学においてどのような意味があるのでしょうか。
 ライトノベルというのは、今でも明確には定義づけられていませんし、また明確に定義づける必要もありません。ラベリング理論というものがありますから、ジャンル分けは大まか便宜的に使用される範囲でいいものだろうと私は思っています。ただ、それだけではあまりに漠然として論の立てようがありませんから、要素を検討してみましょう。ライトノベル的な要素を取り上げてみると、いくつかあります。一つは、もともとライトノベルが歴史的にどのような文学ジャンルにあったかという歴史的な側面から見ていきます。ライトノベルは、もともと70年代80年代で流行したジュブナイル小説から始まっていると言われています。それが次第に90年代あたりにヤングアダルトと呼ばれるようになり、現在ではライトノベルというように呼ばれるようになりました。この三つはそれぞれ異なっているのだという論を唱える人もいれば、明確な差はないという論もあります。ただ、これらに共通するのはSF的な要素があるということでしょう。本格的なSFは、またライトノベルとは別にSFそれ自体として確立されています。ライトノベルはそれぞれのいいとこどりですから、SF的な要素を含むということに限られるでしょう。この作品でも、「荒野のど真ん中にぽつんとあるちいさな町」が舞台になり、その町にはUFOが多くみられることで町おこしをしているというどこか不思議な町です。こうした宇宙的、未知なるものとのつながりのある場所が舞台となっているのです。
 また、ライトノベル的要素ですが、二つ目は名前によって主人公たちの性格や動機付けがなされるという点でしょう。純文学にはあまり名前によって、すぐにこの人物はこのようなキャラクターだと判断できるものはありません。ライトノベルは明確にわかりやすくするために、こうしたイメージの連関性を持たせるのです。それは、一人称小説でありながら、誰かに向かって突然自分の名前を明言するこの主人公の様子からもうかがえます。「あたし、前嶋月夜っていう。」
 ひらがなと、一人称が「あたし」を使用するということがあり、どこか幼さを感じさせます。

つづく

桜庭一樹『伏 贋作・里見八犬伝』への試論 感想とレビュー 多義的テクストから因果の物語を俯瞰する

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-初めに-
 最近アニメでも八犬伝をモチーフにしたものが公開し、今なぜか滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のブームが到来しています。その火付け役となったのが、桜庭一樹の『伏 贋作・里見八犬伝』でしょう。2010年に発表したこの作品は、その後アニメ映画化され、先日まで東京ではテアトル新宿をはじめとして公開されていました。残念ながら私は映画を見損なったのですが、この原作をどのように映画化したのかが非常に気になっていたぶん、悔しいです。
 
-桜庭作品の文学性-
 今、力のある作家のひとりに数えられる桜庭一樹が、どうしてこのような古典文学を基礎にした作品を書いたのでしょうか。私は原作の滝沢馬琴『南総里見八犬伝』を読んでいないので、本来であれば批評できないのですが、あくまでこの作品にみを論じるという点から考察していきたいと思います。
 桜庭一樹の最近の小説は、彼女がデビューしたジャンルであるライトノベルに多少近づいている感じがします。あとで桜庭さんの最新作『無花果とムーン』も論じますが、いずれも純文学の分野からライトノベルに近づきつつあると感じました。その存在意義性を考えると、純文学という、今出版業界が厳しく、活字離れが進行しているなかでもっとも読まれにくい分野を、ライトノベルの要素を取り込むことによって活性化させようということになると私は思います。人気作家がジャンルという壁に立ち向かっているといえるでしょう。
 古典文学作品を下敷きにした作品を残した作家は、まず思い当たるのが三島由紀夫や芥川龍之介でしょう。いずれも当時の流行作家でした。桜庭一樹のこの作品は、ライトノベルという要素を入れ込みつつ、歴史小説調の作品に仕立て上げられています。江戸時代の市民の生活をいきいきと描写しながら、視点が14歳の少女の眼からのため、だれでもわかる娯楽小説になっています。

 現在文学界では、この作品のように一つの世界観を構築できるいわゆる「大きな作品」が出てきていません。私はそうした「大きな作品」、つまり一つの世界観を構築できたのは、小野不由美の『十二国記』が今のところ最新であると思っています。それに続くライトノベルの作品はいくつもありますが、いかんせんライトノベルだけという小さなジャンルのなかでしか成立しえない作品の普遍性のなさを考えると、やはりそれらの作品には一つの世界を構築できていないと考えるのが妥当だろうと私は思っています。
 この作品も、ひとつの世界観を構築しているとは言え、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を下敷きにしているので、すでにある一つの世界に便乗したということになります。それがいけないというわけではありません。芥川にしろ太宰にしろそうしたコラージュでもあり、オマージュでもあるパロディの文学性を極めた人間ですから、ここにももちろん文学性はあります。問題となるのは、私たちがそのような状況にあるということを認識することだろうと考えています。

-テクストの多義性-
 この作品は、三人称浜路視点の物語です。それぞれの段落ごとに、巻名がついていて、まるで巻物を読んでいるような雰囲気が出ています。これがこの作品の一つの世界観を作り上げている要素の一つでもあります。さらに、この作品は、作品自体が滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』という古典を下敷きにして、インターテクスチュアリティとしているのに、さらに作品内にもう一つの滝沢冥土の『贋作・里見八犬伝』というテクストを組み込むことによって、メタテクストの構造をつくりあげるという、非常に複雑で多重的なテクスト構成になっています。
 ひとつは三人称浜路視点の物語、一つは滝沢馬琴の息子という設定の滝沢冥土の『贋作・里見八犬伝』、そうしてもう一つが犬人間である信乃の語りという三つのテクストが展開されています。さらにこれに、テクスト外として『南総里見八犬伝』があるという構成です。
 ですから、いくつもの異なった視点のテクストを三つないし、四つならべることによって、私たち読者は客観的に状況を眺めることができ、それぞれの語り手には知りえなかった情報を統合することによって、ひとつの物語を紡ぎだすことができるのです。作家レベルで桜庭さんの作家としての態度がよく表れていると思います。つまり、作品は作者のものではなくて、読者がそれぞれに構築していくものであるということです。それを成し遂げることができたというのは桜庭さんの作家としてのレベルが高いからでしょう。

-因果をめぐる物語-
 作品はこのようにいくつものテクストから織りなされていますが、その根底にあるのは、一つは仏教的な因果の物語です。前世に悪い行いを行ったから、現世に禍が起こる。だから仏教に帰依して徳をつもうというような思想です。この作品は非常に明確な二つの力の対比が描かれます。一つはもちろん主人公である浜路側、人間です。そうしてもう一つは人間ならざるもの、つまり犬と人の間のもの、犬人間になります。この対比は、さらに人間が犬人間を狩るという対比になります。犬人間は身体能力を高く、非力な市民を次々に殺していくのですが、狩人である浜路とその兄は、彼らを狩るというこういう対比になります。これは非常に明確でわかりやすいのですが、この対比が確定しているのは、一つ目のテクストまで。
 ひたすら暗躍して犬人間のことをくまなく調べている浜路たちと接触のある滝沢冥土は、父馬琴の『里見八犬伝』の完成を間近にして、ひそかに自分の『八犬伝』すなわち『贋作・里見八犬伝』の筆を急いでいます。父が記した『八犬伝』がいわゆる正史のようなものであるとすると、子冥土が書いた『八犬伝』はその裏を記しているような構図になるのです。すなわち見られなかった視点に光を当てる。まさしくこの作品全体がそのような構図になっているのと、ここでも対比がなされています。
 いったいどうして犬人間が生まれたのか、この生き物は何なのか、何が目的なのか、そうした原因を突き止めるための書物なのです。そうして、今まで語るすべもなく、光も当てられてこなかった部分に冥土がメスを投入した際に、その作品が狩人である浜路のこころに深くしみます。この明確であった狩るものと狩られるものという二項対比が揺るぐのです。
 そうして、最後のテクスト、犬人間である信乃の語りによって、さらにその対比は揺らぎます。狩るために信乃を追っていた浜路は、ひょんなことから江戸の地下に位置するという洞窟に落ちてしまいます。仕方がないので、敵同士であった二人が、協力してここからの脱出を図るのですが、その際に信乃は自らの一族の悲運な因果を語り始めます。
 一つ前のテクスト『贋作・八犬伝』で、犬人間の生まれが分かった読者は、その後彼らがどのようになったのかということを、信乃の語りによって知ることができます。そうすると、本当に彼らは殺され、狩られるべき存在なのかという疑問が生まれます。そうしてこの小説の最後も、一つとした明確な答えを出していません。浜路は、それでも狩る旅はおわらないと旅に出ますが、もしかしたら、彼ら犬人間との共存もできるかもしれないという可能性をも秘めています。そうした狩る、狩られるもまた、生まれという因果によって決まります。その因果を断ち切ることができるのかというのが、この作品の根底に流れているものだと私は思います。ある意味では、その因果はみっつの視点から支えられることによって断ち切ることができているとも思えます。

-終わりに-
 桜庭作品の文学性は多義性と、読者の読みの自由さがポイントになると私は思います。浜路が多様する「ん」というセリフ。これはうんともすんとも判断が付きません。はい、なのかいいえなのかはっきりしないのです。どちらにも解釈できる。一応狩りをして育ってきたために、勉強などはしていませんから、彼女はあまり頭が良い人間としては描かれません。そうして、「ん」という言葉で判断を濁す。この作品は浜路の成長物語としても読めます。彼女は最初からずっと悩み続けて判断を遅らせているのです。それがいくつもの人間や犬人間、話をきくことによって一つの答えを見つけていく。こうした面が、一種ミステリの要素も含みすばらしい作品を構成しているということになっているのです。

池澤夏樹『スティル・ライフ』試論 感想とレビュー ミクロとマクロからの視座・成長物語としての視座

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-はじめに-
 現代小説のなかでも、極めて異端な部分の小説を書いている作家のひとりは、池澤夏樹でしょう。彼の文体は、もともと詩から発展したもので、読み人間に散文調では味わえない詩的なうつくしさを感じさせます。「彼女」のことをガールフレンドと呼んだりする点はどこか、村上春樹とも共通しています。池澤夏樹と村上春樹は非常に文体が似ていると私は思います。
 池澤夏樹が詩的散文なのに対して、翻訳調の村上春樹の文体が似ているというのはどこか不思議でもあります。これは、個人の問題ですから、彼らの文体が肌に合わないという読者もいます。私個人としては、村上春樹の文体はあまり好きではないのですが、池澤夏樹の文体は好きです。比較的抽象的な文章が好きだということなのかも知れません。

-『スティル・ライフ』ミクロコスモスとマクロコスモス-
 中公文庫から出ている『スティル・ライフ』は、『ヤー・チャイカ』を含んでいます。本作で芥川賞を受賞した池澤夏樹、まだ作家の若々しさが伝わってくるようなみずみずしい作品です。
 『スティル・ライフ』というのは、直訳すれば、静かなとか平穏な生活ということでしょう。この小説は、語り手のぼくと佐々井という男二人の関係性を描いた作品です。冒頭で突然この世には二つの世界があるという始まりには驚きました。語り手は二つの世界を木に喩えて説明していますが、私は人間の内側の宇宙と外側の宇宙、つまりミクロコスモスとマクロコスモスのことを指しているのだろうと解釈しています。この二つの対比が象徴的にはじまるこの小説は、二人のまったく異なった人間の関係性が構築されます。
 タイトルの通り、語り手のぼくは、とても受動的な存在として安穏な生活を送っています。二十台後半にもなって、バイトをするだけの生活で、仕事でミスして上司にしかられるくらいが、大きな出来事なのですから、およそ平凡な生活ということができると思います。そこに突然の異種としての佐々井という男が来訪してきます。これは、異界訪問譚としても読み解くことができると私は思います。まったく性質の異なる他者が、自分の世界に入ってくるということなのです。ですから、上で述べた宇宙の話をすれば、自分の世界に、自分の外の世界の住人が来訪してきたということになります。
 この佐々井という男は、全く地に足を付けないで生活している不思議な男です。生活感もなく、別段隠しだてているわけではないのだけれど、秘密のベールに覆われている。本当はかつて違法な仕事をして金を使用したことにより逃亡生活をしているということがあとで分かりますが、それを聞いてもあまりおどろかないぼくと、その後も変わらない二人の静かな関係性は奇妙でありながら、どこか霧かかった湖畔の空気のようなおももちを私は感じました。
 異界訪問譚として読むと、やはり最後はまたどこかへ旅立つというのが必定です。佐々井は、ある意味鶴の恩返しのような典型的な話形の異種に相当します。突然ぼくのもとへやってきて、ぼくの広い家に住み、そうしてそこでぼくがかわりに佐々井の仕事をすることによって、お金をもうけて、ふたたび佐々井はどこかへ旅立っていく。ただ、この小説が、古典的話形と異なるのは、ぼくにとってお金が全く必要のないものだという点です。ぼくは、金持ちの叔父の家にただで居候させてもらっている身分で、およそ財産には困りません。そうして佐々井とともに働いて稼いだお金も、別段必要とはしていないのです。では、ぼくにとって、佐々井が与えたものはなんだったのか、ここが問題になると思います。
 
 佐々井がぼくに与えたものは、物質的なものではなく、ある一つの価値観だったのだろうと私は思います。それは、冒頭の世界の話にかかってくるのです。つまり、自分の内側の世界しかしらず、そうしてそれに満足していたぼくに、佐々井は外の世界を見せるという役割を担っていたということです。語り手が、この小説を佐々井がいなくなった後に書いているとしたら、「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない」という言葉は、語り手がかつてのぼくに対して発しているのか、あるいはこの部分だけ外界=佐々井が発しているのかという問題になると思います。
 ここに登場する二人は、お金を稼ぐという極めて実利的なことをしていながら、なぜかこの小説はまったくそうした生活感や、地に足をつけているという感覚がしません。これは、ネット上の用語でいわれるいわゆる「世界系」としての側面もあるのではないでしょうか。「世界系」というのは、自己と他者の関係性が、そのまま中間的な世界、実生活の世界=社会をはさむことなく、大きな世界、つまり世界の崩壊などとイコールで結ばれるということを指します。この二人の関係性は、社会をはさむことなく、そのまま内面の宇宙と、外面の宇宙とにイコールで連結されているのです。だから、どうしても飄々とした人間になる。
 佐々井が見せたのは、外の世界です。小説では写真をスライドしてぼくに見せる場面がなんどかあります。肉体としての佐々井が去った後、ぼくは、一人部屋のなかで雲のように成文化された佐々井と対話をすることになります。これは、佐々井の空気が家にのこっていたと考えることも出来ますし、ぼくのなかに残存した佐々井の断片だったのでしょう。ぼくが、佐々井という存在によって、外界との繫がりを回復していくという自我同一性の問題をも含んだ作品であると私は思います。

-『ヤー・チャイカ』 成長譚としての側面-
 池澤夏樹が他の作家とまったく異なる点は、「北方」の要素を作品内に取り込んだことでしょう。「ヤー・チャイカ」という言葉は、この作品ではヴァレンチーナ・ヴラヂーミロヴナ・テレシュコーヴァが1963年に宇宙船ヴォストーク6号で女性で初の宇宙飛行を果たした際に無線交信で彼女の言った言葉として紹介されます。池澤夏樹文学は、こうしたロシアやアイヌなどの北方の知識を含んだために、どこか寒い地方の秘められたものを感じさせる部分があります。
 この小説は全く何を言っているのかわからない不思議な小説です。一人称小説ですが、ひとつは鷹津文彦という男の一人称小説、もうひとつは「わたし」の日記的な小説、もうひとつは「わたし」の一人称小説。
 非常にわかりにくくなっているのが、ふたつの「わたし」の物語です。ひとつは、恐竜を飼っているという少女の、理科の観察日記のようなもの。これがまったくわかりません。もうひとつの「わたし」のものがたりは、鷹津という男の娘である「わたし」の視点から書かれた小説です。この三部がそれぞれおりまぜられながら展開していく小説になっています。
 ここで分析できる問題のひとつは母の不在です。離婚したと思われますが、鷹津にとっては妻がおらず、少女といっても高校生の女の子にとっては母がいない。そこに、やはり異界訪問譚的な話形が組み込まれます。ロシア人のパーヴィル・イワノヴィッチ・クーキンという中年の日本が堪能な男性がこの関係性の間に入り込むのです。
 
 ひとつこの「わたし」の恐竜観察日記がなんであるのかを考えるとすると、母不在の欠落した関係性のなかで、父鷹津との関係が何らかの限界を迎えたということです。むすめの「わたし」は第二次成長期にあり、あたらしい自己を確立しなければいけないという時期。そこに母がいないのですから、それがうまくいかず、少女は別段なんの問題となって表面化しているわけではないものの、父と子(まだ性的に画一していない)としての関係性を乗り越えられません。そこに、母ではなくて外界から、ロシアからの男性が介入することによって、少女が性的に発達していくということなのでしょう。
 それが少女の内面で象徴的に描かれていたのが、あの恐竜日記のような一人称の部分です。少女は、恐竜をかっているわけです。この恐竜というのは、なにを象徴するものなのか、多義的に解釈できますが、私は父鷹津であると考えます。父との関係性はいつも良好なのです。たまにどちらかが、いつもの時間にえさをやらなかったり、こなかったりすると、心配になって探しに出かけたりする。それが、小説最後では、少女の「わたし」が二分化します。恐竜となかよくしている「わたし」を見守る「わたし」が突然登場するのです。これが、かつての父との関係性から、独り立ちするということを象徴的にあらわしているのだと思います。
 それがタイトルの「ヤー・チャイカ」にもかかってくるのではないでしょうか。「私はかもめ」と宇宙飛行士が言ったということは、まぎれもなく人類史上最高の解放を得たということと同じです。このセリフを言ったのが、女性飛行士であると言う点でも、実はこの小説の主人公は鷹津に思えますが、少女「わたし」が成長する成長譚として読み解けると思います。

 また、この側面を反対から見ればこの少女の成長を、二人の大人が見守っているという構図にもなります。二人が共通して共有している湖面での経験。霧につつまれて、少年心に死と恐怖を覚悟するも、そこから何らかの外界からの手助けがあってそこから生還する。これも一つの異界訪問譚でしょう。霧に囲まれるという幻想的な世界のなかで、ふたりの少年は自分のいた世界から旅立つわけです。そうして、恐怖や死の恐ろしさを経験することによって、ひとまわり大人になってかつて自分がいたコミュニティーに戻ってくる。死と再生の物語がここにはあるのではないでしょうか。少年が大人になるのには、そうした異界訪問が必要になります。それは『スティル・ライフ』でいうところの外界の世界、マクロコスモスなのでしょう。しかし、それと対比される少女は、マクロに飛び立って大人になるというよりは、自分のうちがわの世界での解放が必要になるわけです。だから、妄想を続ける少女に、そとからのクーキンという異性(あるいは、鷹津の代わりになる新たな父=母)を取り入れることによって、成長することが出来たということになるのです。

-終りに-
 科学的な知識と、民俗学的な非科学的な思想とが、おりまざり美しい布を織成しているような文体が、池澤夏樹の文体ということができるでしょう。そのため、大変わかりにくいという点もあります。どこか主人公たちはみな飄々としていて、浮かんでいるような感じもする。それは、自己と世界との関係性に主眼がおかれているからなのでしょう。
 池澤夏樹に宇宙の描写をさせたら私は日本一うまいのではないかと思っているのですが、こうした詩的で抽象度の高い文学作品は、村上春樹、池澤夏樹以降、出てきていません。こうした文学がこれから出てくるのか、それが注目される動向ではないでしょうか。

アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』試論-6- 感想とレビュー どう解釈していくか 分析・ネタバレ・考察

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-赤木リツコ、蓮舫化-
 私たち観客は、この作品がシンジ視点で描かれるということもあり、14年の空白を知らない側の人間です。その間に起こったことは、簡単に言えば破のラストに流れた予告に集約されていることでしょう。
 リツコの髪がベリーショートになっていたということから。
 リツコ博士はもとからボブスタイルですから、あまり長いとは言えません。しかし、14年経った今、蓮舫のような髪型になっています。私はこれを蓮舫化と呼んでいるのですが、髪をこのようにばっさりときってしまう、ましてやかりあげてしまうということは、女性一般にとっては、かつての過去の女を捨てるということを意味しているのではないでしょうか。アニメ版や、旧劇場版とは同一線上の時系列になっていないとしても、あのゲンドウの女としてネルフで暗躍していたころの自分とは決別して、男の所有物である女を捨て、新しい自己を手に入れたということでしょう。そうして、同僚でもあり、親友でもあり、ライバルでもあった葛城ミサトとともに、ネルフを離れ、ヴィレを組織。
 これはかつてのネルフの立ち上げ時の状況に似ています。同僚ではありませんでしたが、多く指摘されていることは、ネルフのゲンドウと冬月の関係と、ヴィレのミサトとリツコの関係がにているということです。リツコはゲンドウのもと、ネルフの表ざたにはならない計画を進める裏の人間でした。しかし、それから決別し、ミサトのサポーターに徹することによって、現在の状況になりました。赤木ナオコが女としての自分に負けたことによって自殺したことに対して、旧劇場版ではそのあとを追うように女として利用されたリツコですが、髪をあのようにカットして過去と決別するということは、おそらく同時に女としてのリツコも棄てていると考えられます。ですから、今までライバル視していたミサトに対しても、奪い合う男、梶がいなくなったことも含めて女として張り合う必要がなくなったのだろうと私はおもいます。
 こういう見方をすると、冬月先生がゲンドウと行動を共にしたのも、男同志のユイの取り合いから、身を引いたということになるでしょう。

-冬月先生-
 今回の冬月先生は、計画書をもはや持っていないようにも感じられます。
冬月「ゼーレはまだ、沈黙を守ったままか」
ゲンドウ「人類補完計画は死海文書通りに遂行される。もはや我々と語る必要はない」
冬月「碇、今度は第13号機を使うつもりか?」
冬月「まあいい。俺はお前の計画についていくだけだ。ユイ君のためにもな」
もはや諦念と言ってもいいような、人生に疲れてしまった雰囲気を与えました。それは単に年をとったということなのでしょうか。
そんな冬月先生の趣味が今回初めて明かされるわけですが、なんと将棋を打つと明言してしまいました。これがネットで大分話題を呼んだようです。私はシンジ君レベルしか将棋ができませんから、どちらが適当なのかわからないのですが、正しくは将棋は指すものだそうです。
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20070410/1176210594参考ブログ

「第3の少年。将棋は打てるか?」「結構だ。付き合いたまえ。飛車角金は落としてやる」
今までシンジに対して、ここまで冷たい言動はありませんでした。第三の少年と固有名詞も使わずにシンジのことを呼ぶということに、多くの人間が違和感を感じたでしょう。
「三十一手先で、君の詰みだ」
これもネットで話題を呼んだ問題の一つです。三十一という数字がなぜ突然でてくるのか、これを謎に思った人々が調べたところ、ちょうど三十一分後にカヲル君が死ぬという場面になるようです。私も時計をもっていって測りましたが、たしかに三十一分経過していました。ただ、三十一という数字は、他にも月と関わりを持っていると指摘しておきます。エヴァという作品は、月をモチーフにしていますから、月との関連性もあると私はおもいます。つまり、月は最大でも31日で終わるわけです。だから、どのみち「終わる」という意味づけがここにされているのではないでしょうか。

 冬月先生がおもむろに出した写真。これもまた多くの議論を呼びました。先に会話から見て行きましょう。
シンジ「!この人は・・・綾波?」
冬月「君の母親だ。旧姓は『綾波ユイ』大学では私の教え子だった。今は、エヴァ初号機の制御システムとなっている」
シンジ「!!」
冬月「うむ。ようやく電源が復旧したか。「ヱヴァのごく初期型制御システムだ。ここでユイ君が発案したコアへのダイレクトエントリーを自らが被験者となり試みた。君も見ていたよ。記憶が消去されているがな。結果、ユイ君はここで消え、彼女の情報だけが綾波シリーズに残された。君の知っている綾波レイはユイ君の複製体の一つだ。その娘も君の母親同様、初号機の中に保存されている。すべては碇の計画だよ」
シンジ「そんな・・・」
冬月「世界を崩すの事は造作もない。だが、作り直すとなるとそうもいかん。時と同じく、世界に可逆性はないからな。人の心にも・・・。だから今、碇は自分の願いを叶えるためにあらゆる犠牲を払っている。自分の魂もだ。君には少し、真実を伝えておきたかった。父親の事も・・・」

 ここでは、ユイの旧姓が『綾波』であったことが判明します。アニメ版では、旧姓は『碇』でした。六分儀ゲンドウがユイと結婚して、『碇』の姓を名乗っていました。それが、新劇場版では『碇』と『綾波』が結婚して『碇』になっています。『綾波』の姓が一体どこからきたのか謎だったアニメ版とは違い、『綾波』はユイの旧姓に変化しました。ここが大きな違いです。
 また、このセリフから、ミサトとリツコがシンジには嘘をついている可能性も上がります。初号機のなかにはシンジとレコーダーしかなかったというのが彼女たちの説明でしたが、おそらく初号機には冬月先生の言葉が正しければレイがまだはいっていると考えられます。また、心に可逆性がないということは、一旦ダイレクトエントリーをしてしまったら、そこから取り出すことは不可能だということなのでしょうか。そうすると、レイも本来は取り出せなかったということにもなるかもしれません。ユイが初号機のなかから出て来れないということなのかも知れません。だから、ゲンドウはユイにもう一度逢うために、引き出すことができないのなら、人類全体を一つの魂にして、ユイとふたたび逢おうとしているのだと私は思います。全部が一つになったらユイの魂がどれかもわからないのではないかとも思えますが。

-真希波・マリ・イラストリアスの正体は?-
http://d.hatena.ne.jp/type-r/20121123このブログを参考にしつつ
 水前寺清子の「365歩のマーチ」や天地真理や「グランプリの鷹」のテーマ曲を鼻歌交じりに歌うマリ。一体マリとは何者なのか、新劇場版で突然出現してきたキャラクターに誰もがとまどいました。今回のQでも、マリ自身についてはほとんど言及されず、おそらく次回作でもこのまま説明なしでつっぱしるのではないかなと私は思っています。基本的に説明しないというのが、エヴァの作品性ですから。そのテクストの空白を観客に委ねるというのが、庵野さんの作家性です。
 ただ、ひとつはエヴァの呪縛が出てきました。それからもうひとつは、冬月先生が取り出した写真、シンジを抱っこするユイの右側の赤縁の眼鏡をかけた女性が謎を呼んでいます。写真の女性は、現在アスカの母親説と、マリ説にわかれています。
 母親説というのは、つまりアニメ版ではエヴァ二号機とダイレクトエントリー後に精神崩壊を起こし、7歳のアスカがパイロットとして選ばれた日に自殺してしまった、惣流キョウコ・ツェペリンの姿であるという説です。アニメ版では自殺してしまいましたが、これはその精神崩壊を起こす前。二号機にダイレクトエントリーを試みるほどの人物であることから、研究の中枢にいただろうという予想がなりたち、それがこの女性ではという説です。
 それに対して、これはかつてのマリだという説。エヴァの呪縛によって、身体が老化しないことが判明しました。もし、この当時のマリが何歳であるかはわかりませんが、この写真に写っている前後でエヴァのパイロットになったとすると、この当時から身体年齢は変化していないことになります。コードビーストを使用するなど、マリが異常にエヴァの知識を知っていることや、ゲンドウに対して「ゲンドウ君」と親しみを込めた呼び方をしている点からも、マリがネルフ創設時から研究者として参加していた可能性があげられています。
 さらには、マリがアスカの母親だというこの二つの論を合わせたものまであります。アスカのサポートをしている点からこれを考えているようです。私はかつてのマリが写真に写っているという論が最も妥当かと思っています。

 マリの存在意義は、作品内ではいまだ明かされていませんが、作品外から論じると、これも時代を象徴したものになっていると私はおもいます。というのは、マリの特徴は、眼鏡、巨乳、語尾がニャなど、あまりにもエヴァンゲリオンという作品のなかでは極めてキャラクターづくりがあざとい存在です。これは、やはり、現代のファンが好みそうなものをわざと集約して登場させたと考えることができるのではないでしょうか。つまり、お前らが求めているのはこんなやつだろと、作者側がわざと提示した存在であるかも知れません。そうして、それはかつてのファンにエヴァの呪縛という批判をすると同時に、現代のファンに対してもこうしたキャラクターを登場させておけばいいのだろうという批判になっていると私はおもいます。

アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』試論-5- 感想とレビュー どう解釈していくか 分析・ネタバレ・考察

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-AAAヴンダー-
 ニアサードインパクトから14年たち、世界の情勢は大きく変化したようです。ゼーレは魂だけの存在となり、ネルフはほぼ無人とかしました。そうして、ネルフで働いていた、またはインパクトから生き残った人々は、葛城ミサトが主体となって組織したであろうヴィレという組織に属し、更なるインパクトを防ぐためにゼーレに対抗しています。ただ、ここでやはり問題となるのが、エヴァの作品性、すなわち「セカイ系」の問題です。
 ここでは、利便性を考えて、「セカイ系」の定義をウィキペディアから引用します。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。セカイ系の図式に登場する「きみとぼく/社会領域/世界の危機」という3つの領域は、それぞれ「近景/中景/遠景」(別役実による)や「想像界/象徴界/現実界」(ジャック・ラカンによる)といった用語に対応させて言及されることもある。

エヴァはここでいえば、近景(シンジたちの状況)=遠景(セカイの状況)ということになります。その間にあるべき中景(社会の状況)が示されていないのです。だから、ゼーレがどのようにして、ゲンドウと冬月だけで動いているのか、他ヴィレがどうして組織されたのか、また、ヴィレ以外に生き残った人間はいないのか、などの私たちが納得できる設定をすべて省くということをしています。だから、エヴァは観客が「!?」という感情を抱き、その謎を埋めるために必死になって考えるということを繰り返してきたのです。

 先ずヴィレの主力戦艦であるAAAヴンダーを指摘します。冒頭6分の計画で、アスカは何某かの物体を回収することに成功します。この十字架状の物体には、何故か碇シンジが閉じ込められていました。まだ、確証はもてませんが、おそらく破の最後にインパクトを起こしたために、人類から危険視され、ネーメジスシリーズと呼ばれる使徒ににた存在まで保険としてかけられ、宇宙空間に放りだされていたと考えられます。ただ、この放り出したのが、誰かという問題は、非常に難しいのですが、ゲンドウひきいるネルフかゼーレかと思われます。ヴィレがやったのだとしたら、そのままほおっておけばいいことだろうと思います。ネルフの線も難しいのですが、ネーメジスシリーズが保険としてかけてあったということを考えると、ネルフかなとも思えます。アニメ版で梶さんが持ってきたスーツケースの中にはいっていたアダムは、アニメ版ではそれ以降でてきませんでしたが、映画版ではこのネーメジスシリーズをつくる媒体になっていると考えられます。漫画版ではゲンドウがそれを食べることによって使徒化しましたが。
 ゼーレがやったという線だと、ニアサードでは目標が達せられないために、一時的に覚醒するのを先延ばしにしたという理由が考えられ、これが一番納得できる考えだと私は思っています。
 さて、話が逸れましたが、ヴィレの戦艦ヴンダーには、その動力として初号機が使用されています。劇中では主機システムと呼ばれていました。おそらくここに、綾波レイは入ったままであると冬月先生のセリフから推測できます。初号機の魂には誰が入っているのかという論争がいまだ続いていますが、仮に碇ユイだとすると、さらにそこに綾波レイの魂が込められることになります。それが、原動力となっているということなのだろうと思います。
 私が指摘したいのは、エヴァらしからぬ戦艦についてです。エヴァは今までこのような戦艦を登場させませんでした。それがどうして、登場させたのかという理由の一つとしては、もちろんヤマトやナディアへのオマージュです。しかし、私が言いたいのは、世界がインパクトによって破滅した後に、赤木リツコが「希望の艦」と呼んでいる関係性から考えて、これは聖書の「ノアの箱舟」のイメージだろうということです。ノアの箱舟は、神の怒りから種族を守るためにノア一族が作った船です。インパクトという神の怒りをうけつつも、生き残った人間がそれにのって、復興をしようという状況はこの箱舟のイメージがあるのだろうと思います。そうして、「神殺しの力」と言っている部分から、ノアの箱舟はただ神の怒りから逃れるだけだったのが、このヴンダーでは自分たちを危険にさらした神にたいして牙を向けるということになるのだろうと思います。当然人間(リリス)にとっての神とは、敵(しろきつき)の神になるでしょう。

-エヴァの呪縛-
破から14年の歳月が流れたQ。しかし、そこで登場したエヴァのパイロットたちは、他のキャラクターが老けて描かれるのに対してかつての姿のまま登場します。
冒頭で
シンジ「アスカ・・・さっき14年って・・・でも、眼帯以外変わってない・・・」
アスカ「そう。エヴァの呪縛」
シンジ「呪縛・・・?」

また、終盤で
アスカ「ここじゃあL結界密度が強すぎて助けに来れないわ」
アスカ「リリンが近づけるところまで移動するわよ」
アスカ「ほら!」

このふたつから考えて、エヴァのパイロットは何らかの呪縛を受けることによって、人間ではなくなってしまったということになります。破の最後で、覚醒していくシンジにたいしてリツコが人間にもどれなくなるわといいます。おそらくここで、シンジは人間、リリンではなくなっているのでしょう。このエヴァの呪縛というのが一体なんなのかよくわかりません。
 あえて14歳という年齢にこだわる理由はなんでしょうか。かつてアニメエヴァンゲリオンが流行った際には、14歳という年齢が、ちょうど第二次成長期にあたり、新しい自己を確立する時期と重なるため、多くの心理学的なアプローチがかけられました。エヴァンゲリオンは、それぞれのパイロットがエヴァという自分の母の魂が込められている「母胎」にプラグインすることによって、つながるという母胎回帰の物語です。そこから新しい他者との関係性を構築するというのが、この物語の根幹になっていたわけです。
 新劇場版では、この14歳から変わっていないという点が重要になってくると思います。作品の外からのアプローチになりますが、「呪縛」という言葉を、監督の庵野秀明氏は、エヴァQ公開のおよそ半年前の7月14日朝日新聞のフロントランナーにて使用しています。「ウルトラマンがなかったら今の僕はない」「呪縛のようなもの」と公言しているのです。そうして、この記事には「―『エヴァ』には、現実に背を向けて、『エヴァ』という作品に逃避するファンへの批判が込められていました。そうした意識は今も変わらないですか。」という問いに対して「旧作の『エヴァ』では、僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。そういう人々を増長させたことに、責任を取りたかったんです。作品自体を娯楽の域にもどしたかった。ただ、今はそれをテーマにするのは引込めています。そういう人々は言っても変わらない。やっても仕方がないことが、よくわかりました」と述べています。
 ここで「呪縛」という言葉を使用していることも鑑みると、やはり「エヴァの呪縛」というのは、作品内では当然アスカやシンジパイロットが人間ならざるものになってしまったという、キリスト教的な呪いの概念に相当しますが、作品外レベルでは、旧作「エヴァ」から同じように14年ほど経った現在においても「エヴァ」から離れることができていない「オタク」への批判であると考えることができます。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は1995年10月4日から1996年3月27日にかけて全26話がテレビ東京系列(TXN)で放送されました。そうしてそれから12年後の2007年から新劇場版が公開。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序EVANGELION:1.0 YOU ARE (NOT) ALONE. 』2009年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.0 YOU CAN (NOT) ADVANCE.』2012年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.』が公開。
 このように、アニメのファンは、当時から十数年たった現在でも、いまだに「エヴァ」のなかに自己の存在依拠をしているということが問題になっているのです。ですから、Qが全く対立した二つの評価になったのは、作家レベルでは庵野監督の思い通りであるでしょうし、また必然だったのです。新旧の作品に対して、「僕と作品とは全然別です。ただ、新作のファンは旧作と質が違う。具体的にどう違うかは言えませんが」と述べています。
 Qを肯定した人間は、私のようにテレビ版に存在依拠しなかった世代の人間でしょう。そうして、Qを否定するファンは、かつての自己の存在依拠としての「エヴァ」が、ことごとく製作者によって、ファンの存在依拠する場所を排除されてしまったことに対する怒りなのだろうと私は思います。Qはファンをはねつけていると私は感じました。それは、アニメ版の最終2話のように、自己の閉ざされた空間が描かれなくなったからです。煩悶し、悩み続け、自分の殻の内部を守っている領域が映画版ではほとんど描かれなくなりました。ですから、かつてのファンは自分たちの影を投影する場所がなくなってしまったのです。戦艦が出てきて、数少ない登場人物たちだけで勝手にすすめられるストーリーのなかに入り込めなくなってしまったということなのです。
 
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