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アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』試論-4- 感想とレビュー どう解釈していくか 分析・ネタバレ・考察

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巨神兵に新たに付加された羽のイメージ

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セカンドインパクト時の羽の画像

-序・破・巨神兵・Qの流れ-
 前回は、序・破・Qの流れのなかの、空白の14年間を埋めるために『巨神兵東京に現わる 劇場版』があるということを述べました。さらに論を深めていきます。
 「巨神兵」は前回も述べたように、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』に登場する架空の人口生命体です。今回の劇場版は、ここに登場したキャラクターを使用しつつも、今までにはなかった意味を付加しています。それが、ここで挙げた画像です。これは、明らかに「巨神兵」が「使徒」化しています。もともと、槍状の物体は持っていましたが、このような光る羽は付いていませんでした。そうして、これは紛れも無く「巨神兵」=「使途」にするための戦略なのです。
 破のラストで、リツコが覚醒したエヴァに対して「純粋に人の願いをかなえる、ただそれだけのために」というセリフがあります。これは、綾波レイ役を務めた林原めぐみが、ナレーションを務めた劇場版巨神兵でも、おなじようなセリフがあったと記憶しています。想像する神も、破壊する神も、人の願いをかなえるというような意味あいだったと思います。すると、やはりここでも、破のラストから巨神兵へのつながりが見られます。
 エヴァンゲリオンという作品が、碇シンジ視点で描かれるのに対して、それを客観からみたらどのように見えるのかというのが、今回の『巨神兵東京に現わる 劇場版』になると私はおもいます。映画最後の覚醒によって、途中でカヲル君に止められてしまったためにQではニアサードインパクトとよばれることになった、サードインパクトがおこります。このとき、何故か爆心地に最も近いネルフの人間が生き残り、他の地球上の大半の人間がQでは巨人化しています。ここは、まだ謎が多い部分ですので、他に譲ります。

 ネルフ関係者でない人間にとっては、何気ない日常が突然崩壊で終わるという、まったくとんでもないことがおこるわけですが、それをあくまで名もない一市民の視点から見たのが、この劇場版なのです。ですから、あの弟としてあらわれる幻影は、ひとつには聖書的な天使のイメージがあります。予言をつたえにきたということです。また、人間が破滅を望んでいるというような旨のセリフがありましたが、それは恐らく種として限界に達した我々人類が感じる、リビドーに対するタナトスのようなものであったのかも知れません。この映画は、エヴァと比較せず、一つの作品として考えた際にも、非常に多義的に解釈できます。例えば、3・11による破壊をもういちど映像化して保存しておくということによって、われわれにあれを忘れるなよという警告をしているということです。
 話が戻りますが、エヴァQでは、サードインパクトによって人間は個としての限界まで強制的に発達させられたとされています。それが、暗い描写だったのでわかりにくかったのですが、町中に残存していた巨人たちです。どれもみんなエヴァシリーズのような格好をしていました。ですから、個としての限界の形態がエヴァであるという指摘もできます。そうして、これは劇場版巨神兵と比較した際には、あの巨神兵が、使徒でもあり、人類でもあったということが出来るのです。
 つまり、破壊を望んだ人間によって登場した使徒、これは紛れも無くエヴァの使徒と同質でありながら、また同時に人類そのものでもあるわけです。自ら種の破滅を願ったということです。そうして、巨人化して地球を滅ぼした挙句、人類は破滅。次の新しい生命が生まれることを待つということになります。


-人類補完計画-
http://homepage3.nifty.com/kiraboshi2/Abraxas/Seele_vs_Nerv.html
 先ずは、このサイトを閲覧することを薦めます。ここでは、ゼーレとネルフのすすめていた人類補完計画について、詳しく考察され、結論としてゼーレとネルフがやっていたことは同じだということを論じています。アニメ版、ならびに旧劇場版では、私もこの式が成り立つと思います。ただ、今回の新劇場版では、多少勝手が違ってきます。
 
ゲンドウ「死海文書の契約改定の時が来ました。これでお別れです」
ゲンドウ「あなた方も魂の形を変えたとはいえ、知恵の実を与えられた生命体だ」
ゲンドウ「悠久の時を生きることは出来ても、われわれと同じく訪れる死からは逃れられない」
ゲンドウ「死を背負った群れの進化を進めるために、あなた方は我々に文明を与えてくれた」
ゲンドウ「人類を代表し、感謝します」
ゲンドウ「死をもって、あなたがたの魂をあるべきところへ帰しましょう」
ゲンドウ「宿願たる人類補完計画と、定款された神殺しは私が行います。ご安心を」
キール「我らの願いは既にかなった。良い。すべてこれで良い。人類の補完。やすらかな魂の浄化を願う」

 ゲンドウが、沈黙を続けているゼーレの人間(生物学上のヒトかどうか別として)をなんらかの、支配下においていることがわかります。ここでは、すでに人間としてのからだは失われているようです。魂のみが保管されているという状況なのだろうと思いますが、そのゼーレの人間をあるべきところに帰すといいます。これはガフの扉とよばれる魂のいれものを指しているのでしょう。そうして、キールは既に願いが叶っていると言っています。
 アニメ、旧劇場版ではほとんど到達目的が客観視した場合差異のない人類補完計画でしたが、ここでは明確に、ゼーレの計画と、ゲンドウの計画が変わってきています。ゼーレはあくまでシンジが破の最後におこしたニア・サードインパクトで満足してます(しているように見せかけています。詳しくは後で述べます)。それはカヲル君のいうところの「この星での大量絶滅は珍しいことじゃない」のことでしょう。ゼーレの補完計画はこの先の新たな生命の誕生までは視野にいれていないということがここから読み取れると思います。
 
 ゼーレの後ろ盾を失ったネルフが、しかも、ミサトやリツコたち中間の人間を大量にうしなったうえでどのようにして存続しているのかはまったくの不明です。年をとったゲンドウと冬月と、綾波レイとされる少女がいるだけで、他に人影はいません。もうほとんど人力を失ってしまったネルフが、それでも計画の続行をできる理由というのは、すでに彼らの補完計画が、人力を必要としなくなったと考えるほかありません。

シンジ「操縦が効かない!どうなっちゃったんだ!?カヲル君!」
シンジ「カヲル君!」
カヲル「まさか第一使徒の僕が13番目の使徒に落とされるとは・・・」
シンジ「何言ってるの?カヲル君!」
カヲル「始まりと終わりは同じというわけか・・・さすがリリンの王。シンジ君の父上だ・・・」
マリ「DSSチョーカーのパターン青!?無いはずの13番目?ゲンドウ君の狙いはこれか・・・!」

DSSチョーカーは、本来シンジが覚醒して再びインパクト、すなわちフォースインパクトを起こすのを阻止するためにヴィレが付けたものです。しかし、それを見越してたのがゲンドウだったと考えるほうが自然でしょう。ヴィレがいずれシンジにチョーカーをつける。そうして、それを罪を引き受けるという極めてキリスト教的な行為を通じて、カヲル君がチョーカーをつけることを知っていた。このチョーカーがどのようにして作られたのかはわかりませんが、チョーカーがtypeblueと発すると同時にカヲル君が13番目の使徒に落とされるので、チョーカー自体が13番目の使徒を作るための装置であったことがわかります。これは恐らくヴィレが仕組んでいたということよりは、何らかのかたちでゲンドウが工作していたと考えるのが自然です。

アスカ「こいつ!疑似シン化形態を超えている!」
マリ「覚醒したみたいね・・・アダムスの生き残りが!」

シンジ「なんだこれ・・・」
シンジ「なんなんだよこれ・・・」
シンジ「僕のせいなのか・・・」
シンジ「僕が槍を抜いたから・・・!」
カヲル「フォースインパクト。その始まりの儀式さ」
シンジ「カヲル君!首輪が!」
シンジ「うわっ!ミサトさん!?」

 破では、月のゼーレの施設で建造されていたエヴァMKⅥ。カヲル君は破の最後に、カシウスの槍という(何の意味があるのかまだ不明ですが)槍を放つことによってガフの扉を閉めます。ちなみに、このガフの扉というのは、エヴァ作品内での想像上のものではなく、宗教的に魂がある場所という意味があるようです。このガフの扉というところに、仮に魂が戻り、そこから出たり入ったりしているのであれば、カヲル君はループの話でもしたように、このガフの扉から出たり入ったりできる特権的な地位にいることがわかります。ガフの扉を閉めることができたのも、こうした特権的な力があったからでしょう。そうして、それは彼自身もわかっています。ですから、再び開いたガフの扉を、自分が閉めようと言い出すのです。

シンジ「僕のせいなのか・・・僕が、僕が・・・」
カヲル「君のせいじゃない」
シンジ「えっ」
カヲル「僕が第13の使途になってしまったからね。僕がトリガーだ」
シンジ「どうしよう・・・ねえ、どうしよう・・・カヲル君、僕はどうしたらいいの・・・?」
カヲル「魂が消えても願いと呪いはこの世界に残る。意志は情報として世界を伝い、変えていく。いつか自分自身の事も書き換えていくんだ」
カヲル「ごめん。これは君の望む幸せではなかった。ガフの扉は僕が閉じる。シンジ君が心配することはない」
シンジ「カヲル君・・・カヲル君が何を言っているのか分からないよ!」
カヲル「シンジ君は安らぎと自分の場所を見つければいい」
カヲル「円(縁?)が君を導くだろう」
カヲル「そんな顔をしないで。また会えるよ、シンジ君」
シンジ「カヲル君!!」

マリ「ガフの扉がまだ閉じない!わんこ君がゼーレの保険か!」
マリ「後始末は済んだ!しっかりしろわんこ君!」
マリ「ぐずるな!せめて姫を助けろ!男だろ!!」
マリ「ついでに・・・ちょっとは世間を知るんだ!」

冬月「ひどい有様だな。ほとんどがゼーレの目論見通りだ」
ゲンドウ「だが、ゼーレの少年を排除し、第13号機も覚醒へと導いた。葛城大佐の動きも計算内だ。今はこれでいい」

リツコ「誰のおかげか分からないけど、フォースは止まった。ミサト・・・今はそれで良しとしましょう」

 この項では、補完計画について述べてきました。そうして、ゼーレの補完計画が人類の滅亡であることがわかりました。先ほど、ゼーレはすでに満足しているようなふりをキールがしていましたが、カヲル君がガフの扉を閉めようとした際にわんこ君ゼーレの保険になっていて閉まらなかったという点を考えると、ゼーレはフォースインパクトまでが目的だったのだろうと察せられます。
 そうして、それをマリは止めることに成功するのですが、この状態はほとんどゼーレの目論見どおりであると冬月は言います。ですから、やはり人類の滅亡がゼーレにとっての計画だったのでしょう。カヲルはゼーレから派遣された存在でありながら、ガフの扉を閉めようとしたということはゼーレを裏切ったということになるでしょう。これは、カヲル君がゼーレよりも、シンジ救済を目的としていたからであると考えられます。そうして、ゼーレとネルフ(ゲンドウ)は、カヲルがゼーレを裏切ってシンジ救済の行動に走ると予測していました。だから、特権的な力を持つはずのカヲル君はガフの扉を閉められないように、ゼーレに仕組まれていたのです。
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アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』試論-3- 感想とレビュー どう解釈していくか 分析・ネタバレ・考察

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-『巨神兵東京に現わる 劇場版』をどう読み解くか-
 今回の新劇場版は、極めて異例な二部構成になっていました。庵野監督と宮崎監督の交流は深く、その一端を以前紹介しましたからその点に関しは割愛します。庵野さんが、着目したのはなによりも、世界をわずか一週間、7日間で滅ぼしたとされる巨神兵。
(Wikiより)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E7%A5%9E%E5%85%B5
1000年前に産業文明を崩壊させた「火の七日間」で世界を焼き払ったといわれる巨大な人型人工生命体。
という設定になっています。庵野監督が天空の城や、そのロボット、或は他のジブリ作品に登場するものではなく、「巨神兵」を選んだというのは、非常に重要な意味を持つと思います。庵野さん自身は作家レベルで言えば、1983年に、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』に抜擢されていますから、庵野監督にとっても、はじめて宮崎監督と一緒に仕事をした言わば、記念すべき作品でもあるわけです。そのため、そこに込める思いが大きかったのは確かでしょう。
 なぜ今あえて実写なのかという問題があります。これは、2012年7月14日の朝日新聞よりフロントランナーを引用しつつ論じます。要約すると、庵野さんは、「ウルトラマン」を見て育ったといっています。「ウルトラマンがいなかったら今の僕はいない」「呪縛みたいなもの」と述べています。「呪縛」ということばを半年ほど前の記事にあったのを発見して、今大変びっくりしているのですが、これについては後で述べます。
 あえて実写でやるのは、ある意味彼にとってのオマージュでもあるでしょう。オマージュというのは、「まねする」のように捉えられている感じがありますが、本来の意味は「尊敬・敬意・讃辞」などです。(広辞苑より)
 自分の少年時代を築いてくれた特撮ものへの尊敬が今でも彼にあるわけです。だから、あえてCGを使用しないという課題を設けて撮影したということになります。

 -巨神兵の意味性-
 1000年前に産業文明を崩壊させた「火の七日間」で世界を焼き払ったといわれる巨大な人型人工生命体。
ここから論じられることは、まず文明社会を滅ぼしたという点。エヴァもその根本にあるのは、人間が人間の領域を超えて神になろうとしたことによるセカンドインパクトという代償です。そもそもエヴァの世界の根幹にあるキリスト教では、人間が神の所有する実を食べてしまったことから罪が始まります。
 人間が人間であるという意識を忘れて、或はそれを超えようとした際に罪が生じるのです。バベルの塔もしかりです。そうして、増長した人間を静めるのは何かというと、神の怒り、裁きということになります。聖書で言えば、洪水だったり、言語が異なってしまったりしたわけです。エヴァで言えば、それはセカンドインパクトでしょう。地球規模で人間が滅びてしまった。アニメ版では、南極で冬月先生が重すぎる代償だという旨の言葉を発しています。
 それが、現代で言えばこの巨神兵になるわけです。これだけ発達した現在の日本。しかし、私たち人間はこの発達をあたりまえのことと考え、他の自然や動物をないがしろにして、極めてエゴ的な発展をしてきました。その結果が、このような破壊の神を呼ぶことになって、全ての滅亡を導いたのです。フロントランナーの記事には3・11への言及もあります。ですから、この作品のおける「破壊」が3・11の影響を受けているということがいえると私は思います。
 ある意味では、「破壊」を描くということは、ふたたび3・11の状況を蘇らせるということでもあります。私たちはあのような災害を経験しましたが、東京の人間はすぐにそれを忘れているのかも知れません。人間は辛いことを忘れていかなければ生きていきませんから、ある意味では仕方のないことでしょう。しかし、やはり忘れてはいけない、そういう主張もこの作品から読み取ることが出来ると私は考えます。

 そうして、「火の七日間」という時間の設定。劇場版でも言及されていますが、これは明らかに聖書の最初を意識したものです。聖書の創世記では、1章から2章にかけて、神が七日間でこの世界を作ったことが記されています。そうして、この破壊の神は反対に七日間で世界を滅ぼすのです。
 もう一つ巨神兵で確認しておきたいのが、「巨大な人型人工生命体」であるという点。私は神と名がつくのでナウシカ内でも神的な存在として存在しているのだろうと思っていたら、人工生命体だったので大変おどろいています。この設定はそのままエヴァンゲリオンの「EVAシリーズ」にも当てはまります。よく勘違いされるのが、「エヴァ」は「ロボット」だろうという考えです。これは完全にガンダムやマクロスなどのロボットアニメの系譜から考えられたことによります。しかし、実はエヴァはロボットではない。人口生命体なのです。しかし、エヴァはある意味生きているのに動かない。そこがこの作品の重要な問題になってくるのですが、ここではそれは割愛します。
 『巨神兵東京に現わる 劇場版』においては、もともと人工物である巨神兵が神と位置づけられているという点が決して軽くない意味を持つと私は思います。劇場版では、ナウシカにはなかった「羽」が付加されています。これは、完全に「エヴァ」における「使徒」のモチーフと重なります。そうして、世界がこの「使徒」=「巨神兵」に滅ぼされるということが、『巨神兵東京に現わる 劇場版』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』というテクストを繋ぐ重要な問題になっていると私はおもいます。

-『巨神兵東京に現わる 劇場版』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の関係性-
 今回のエヴァで問題となるのが、新劇場版「序」「破」「Q」の時間の問題です。「序」「破」はアニメ版のリメイクのような感じの映画でした。多少細部に変更があるものの、ほとんど同じであるということから、これはアニメ版の映画化として考えてもいいでしょう。問題はその後です。「破」の最後にシンジは綾波を救うために、使徒と接触することによりガフの扉を開き、ニア・サードインパクトを起こしてしまいます。ただ、映画ではすぐにカヲル君がカシウスの槍を投下して鎮火させたようにも見えました。
 しかし、いざ目覚めてみたらなんということか、14年もの時間が経過して、しかもあの時のニア・サードインパクトのせいで世界中がめちゃくちゃ。しかも実際は綾波を救えてなかったということになります。
 一番の問題はこの14年の空白です。四部作ということで、物語の最も原始的な運び方、「起承転結」を用いていると考えられるこの作品は、ちょうど「転」にあたります。物語が転ぶことによって一旦別の部分からアプローチをかけ、再び物語をすすめるということになりますが、転びすぎてしまって一体どこに転んだのか、戻ってこれるのか?ということが観客の不安と無理解を招きました。
 「結」にあたる部分が「:|| (反復記号)」ということもあり、本当に結びになるか信じられないという点も指摘しておきます。

 さて、この空白の14年。これが一番の問題になるわけです。一応その間に何が起きたのかは、カヲル君によって間接的に説明はされます。しかし、何も知らない我々観客にとってはその程度の説明で満足できるはずはありません。ただ、エヴァという作品を考えた際に、何が起きたのかということは恐らく「:|| 」で説明されるとは考えられません。これ以上の説明は恐らくないでしょう。そもそも、アニメ自体が始まった時にすでにセカンドインパクトというわけのわからないものが起こったあとの世界であるという極めて説明不足な設定からスタートしています。
 では、この空白の14年をどう考えるか、それが問題になるのです。そうして、私はこの問題の解決の糸口は、同時公開した『巨神兵東京に現わる 劇場版』にこそあると思います。
 やはり、この映画に敢えて『巨神兵東京に現わる 劇場版』を持ってきて二部構成にする・またナレーションをエヴァで綾波レイを担当した林原めぐみが起用されている点も、観客にエヴァとの関係性をなんらかの形でイメージしてもらいたかったのだろうと考えます。

 これだけ話題性があり、意味性のある作品が放送されていながら、いまだに全ナレーションを公開したサイトがないのは、探していて不思議に感じました。一方では、「アルアル」だとか「酷い」という非難があり、また、他方では「すばらしい」と全く正反対の意見がネットをにぎわせています。
 空白の14年になにがあったのか。これはカヲル君のセリフからもわかりますし、また地上は放送された6分間の映像からも、地球の海がすべて真っ赤になってしまっていることからも、ニア・サードインパクトがおきたということがわかります。後にゼーレの人間が、なんらかの形で魂を保管されていて、ゲンドウと冬月に停止させられるという描写があります。ここで、アニメ版でキーツの役を担っていたゼーレの代表的な役割を果たしているであろう人物は、正確な文言を忘れましたが、すでに自分たちの願いは叶った、という旨の言葉を発しています。ということは、ゼーレが進めてきた補完計画は、すでに完了しているということになると私はおもいます。
 そうして、世界ではなにが起きていたのかというと、
http://evaqnetabare.blog.so-net.ne.jp/このサイトから引用します。


カヲル「君が初号機と同化している間に起こったサードインパクトの結果だよ」
シンジ「これじゃあ、街のみんなは・・・」
カヲル「この星での大量絶滅は珍しいことじゃない」
カヲル「むしろ進化を促す面もある」
カヲル「生命とは本来、世界に合わせて自らを変えていく存在だからね」
カヲル「しかし、リリンは自らではなく、世界の方を変えていく」
カヲル「だから、自らを人工的に進化させるための儀式を起こした」
カヲル「古の生命体を贄とし、生命の実を与えた新たな生命体を作り出すためにね」
カヲル「全てが太古よりプログラムされていた絶滅行動だ。ネルフでは人類補完計画と呼んでいたよ」
シンジ「ネルフが、これを・・・父さんは何をやっているんだ・・・」
カヲル「碇シンジ君。一度覚醒し、ガフの扉を開いたエヴァ初号機はサードインパクトのトリガーとなってしまった」
カヲル「リリンの言うニアサードインパクト。全てのきっかけは君なんだよ」
シンジ「・・・!!」
シンジ「・・・違う・・・僕はただ、綾波を助けたかっただけだ・・・」
カヲル「・・・そうだね。しかしそれが原因で・・・」
シンジ「そんな・・・僕は知らないよ!そんなこと急に言われたってどうしようもないよ!!」
カヲル「そう。どうしようもない君の過去。君が知りたかった真実だ」
カヲル「結果として、リリンは君に罪の代償を与えた。それが、その首のものじゃないのかい?」
シンジ「罪だなんて・・・何もしてないよ!僕は関係ないよ!!」
カヲル「君になくても他人からはあるのさ。ただ、償えない罪はない。希望は残っているよ。どんな時にもね」

 つまり、劇場版破で月からエヴァマークⅥに乗ってきたカヲル君がカシウスの槍でシンジの覚醒を食い止めたと思われていたものの、ガフの扉は閉まらずに、ニアサードインパクトが起きてしまっていたということです。しかし、あくまでエヴァは小説にしたら、シンジ視点で描かれている物語です。ですから、私たち観客は、シンジが覚醒したあと、もういちど目覚めるまで(すなわちQの冒頭まで)の時間になにがあったのかわからないわけです。
 そうして、その間に起こったニアサードインパクトを象徴的に表現したのが、この『巨神兵東京に現わる 劇場版』であるというのが、私の論です。



『「映画をつくる子どもたち」オーストラリアの挑戦』試論 現代教育にこそライティング・スクリーンを

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-はじめに-
 特に昨今、若者の活字離れが増加の一途を辿り、日本ではサブカルチャーというアニメや漫画の世界が非常に隆盛している。それを、本の世界に戻るべきだという考えはやはりおかしいだろう。私は、現在の状況を認め、ではそこから何を学んでいくのかという方向へ転換したい。
 横溢する情報化社会のなかで、どのように情報を取捨選択していくのかが問題となってきている。近頃気になったことは、NHKが画面のはじっこに視聴者のツイートを載せることになったことである。私はこれに対して大いに反対である。情報を取捨選択し、発進するはずのNHK,ニュース番組がこのように何の見識ももたない多くの人間の意見を「そのまま」垂れ流しにしているからである。考え抜かれ、誰が発したのかという責任がわかる意見ならよい。NHKは出来るだけ公正かつ正しい情報、主観ではなく客観的な情報を発信するべきである。
 このように、一つの例をとっても、現在はニュース番組さえ情報を取捨選択できていない状況にあるといえる。このような中で、私たちが情報に飲み込まれずに自ら選択し、自分に必要なものを見つけ出す能力が求められている。この能力は一般に情報リテラシーとよばれるが、私はこの情報リテラシーは、本質的に読み書きの能力と同じであると考える。つまり、読書をしてそこから必要な知識や、豊かな想像をすることなどと本質的には同じだろうと思っている。

-現在の教育とライティング・リテラシー-
 ジェーン・ミルス先生が行っていたシネリテラシーというのは極めて有意義な教育であると感じた。読み書きの能力が決して活字だけに限ることではなくて、映像媒体でも同じことが言えるということを見事に証明したのである。現在私は幸運にも、大学で映像を専門に読み解く授業を受けている。他にも国文学特講では評論家の榎本教授がアニメなどの映像媒体を読み解く授業も行っている。これらの授業はたいへん役立ったと私は感じている。こうした授業こそ、さらに教育現場でなされるべきであると私も考える。
 ただ、問題は現在の日本の教育現場の融通の利かなさ、非常にお役所仕事的で柔軟性の無さである。最も専門的で自由なことが出来る大学だから、このような映像を読み解くという授業がかろうじて成立している。それも、文学部、国文学科という極めて狭い分野だけである。これが、どうして他の文学部や、経済学部、法学部などのような分野でも行われないのだろうか。あるいは、こうした教育が必要なのはむしろ、小学生、中学生、高校生である。私は教員を目指しているので教職をとっているが、とても実際に国語の教師になったとしてそこでこのような映像を用いて授業をすることはできないだろう。総合の時間などを用いて行うことは出来るかもしれないが、国語としてやるのは現実問題難しいと感じる。このような教育現場における教育の質の「狭さ」、これが意識されなければならないと私は思う。

 今、ようやくアニメやドラマ、映画も文学であるという認識がされつつある。何故か国語というと、活字だけを眼中に、文章を読み、作者の心情を考えるという実に狭い教育がされている。これからは、このような映像も文学として読み解く必要がある。ただ、このように考えている私自身も実はかなり凝り固まった考えをしていたと、今回の映像を見て考えさせられた。私が考えていたのは、シェーン先生の言うところのリーディング・スクリーンだけだったからである。
 シェーン先生は、かなりリーディング・スクリーンの方は省略して、ライティング・スクリーンに時間と労力を割いていた。これは、映像最後のインタビューでリーディングをもう少しやらなければいけないということが自覚されていたので、そのバランスが問題になるだろう。ただ、私は完全にこのライティングということを考えていなかったのである。そうした考えの堅さを指摘されたようではっとした。
 文章も同じことで、いくら読み解きを練習していても、いざ書くとなると別問題になる。今まで特に意識もせずに読み流していた部分が、書くとなるとどのようにしたらよいのかわからなくなる。例えば文頭を一文字下げるということも、読んでいるときには意識しなくても、書き始めると「あれ?」と疑問が湧いてくる部分である。かぎ括弧がついていたら下げるのだろうか?そのままなのか?書くことによって発見されることは大きい。
 映像が今、極めて私たちの身近な存在となった。3・11やそれ以降の大きな事故、事件などが起こるたびに、報道関係で流れる映像は、その多くが視聴者による投稿になった。これは、携帯型の端末があの小ささでとても性能の良いカメラが通常装備されたことによるだろう。スマートフォンなどは、僅か1センチもないカメラであるにも拘わらず、テレビの画面に映してもそれなりに良い画質の動画が簡単に撮影することができるようになった。もう、カメラを買わなくとも映像を撮ることが出来る時代なのである。

-終りに-
 ライティング・スクリーンは、今までの勉強が出来る子達だけが活躍するという状況に終止符を打つ。この点に関して、映像のなかではそうしたエリートの子達の自尊心を損なわないように配慮する必要があると述べていた。その点に気をつけるとしても、このライティング・スクリーンは今までには発言の場が与えられなかった子どもたちが発展する機会を与えてくれるだろう。また、ライティング・スクリーンは私たち教師が教材がつくるのではなく、生徒たちが教材を作っていくという、極めて主体性の高いものとなっている。本を読んだらすぐ感想文という、極めて受動的でつまらない、時に子どもたちの苦痛になるような一元的な授業を打開するすばらしい可能性を秘めた教材である。
 ただ、こうした教育は、質の教育であるから、それを評価できる教員でなければいけない。点数化することが難しいことから、多くの教員はこれを敬遠するだろう。だからこそ、そうした部分を教育し、評価できる人間をつくっていかなければならないという逆説にもなり、この教育の必要性が認められるわけである。また、映像では学校と生徒と地域社会とが三角関係になって連携することが必要であると述べていた。今現在の日本の教育は、表向きには開かれた学校づくりが必要である、地域社会との連携が重要であると声高らかに叫んでいるが、実際はそのような方向へ少しでも行動をしようという教員はほとんどいない。そうした点をも、この教材は解決する糸口になると私は感じた。
 映像という媒体は、それを見る際には多くが受動的な体制になってしまう。何気なく見ているということになりかねない。しかし、それがライティングになると否が応でも考えざるを得ない。こうした場合はどのようなアングルから撮るべきなのだろうか、こうした心情を映したいときにはどこを写したらいいのか、時間は、光の強さは、などなど、実際に自分たちが作るということになると、見えていたものががらりと変わると感じる。この教育を現在の中学、高校にも持ち込むことが目下求められることであると私は考える。

金原ひとみ『蛇にピアス』試論 感想とレビュー 縦の関係性と横の関係性、人体加工の意味

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-はじめに-
 綿矢りさの研究者としては当然2000年代前半をにぎわせた二人の若き芥川賞作家を考察しなければなりません。ただ、私事で恐縮なのですが、どうも生理的というかグロい表現が苦手で、手術とかの映像を見ることも辛いですし、血などの表現もだめなものですからずっと避けてきました。ですが、まあ読まなければなと思い、かなり無理をして読みました。

-横の関係、縦の関係-
 特に最初の描写は非常にすばらしすぎるために、私はもう読むのが辛くてしょうがなかった。電車のなかで読んでいたら貧血になって倒れるかと思いました。それはさておいて、スプリットタンに引かれてアマという男と共生することになった主人公のルイ。この小説は女性アマの視点から語られる一人称小説です。
 このルイという女性は、客観的にはギャルと認識される10代の女性。しかし、このアマ同様、ルイも十代の割りにとても大人びて見える。この小説にでてくる人物たちは肉体的には若いのに、ひどく早熟した老成した人物として描かれます。二人が出会ったのも、黒人が勧誘しているようなディスコ。ルイはギャルとして、いわば当時の派手な十代らしく世の中を粋がって生きていたのです。ところが、このディスコでであった同じく十代の男アマ、見た感じでは若くも年取っても見えるという不思議な様相をしているようですが、この男のスプリットタン、蛇のように分かれた舌をみて、それに魅了されます。
 一般的なギャルで、人体加工にいままで興味の無かった少女ルイがどうしてそのようなものに興味を感じ始めたのか、これがこの作品を読み解く手がかりになっていくのではないでしょうか。
 
 人体加工というのは、この作品でも問題になりますが、ある意味人間ならざるものになろうとする、つまり神の力を得ようとする行為でもあります。少し宗教的に考えれば、自分のことを痛めつけることによって得る快感、エクスタシーのようなものがあるのでしょう。それは人間をトランス状態にして、神に近づけます。こうした思想は、極めて西洋的な思想でしょう。古くからの日本の思想とは相反します。先日ラフカディオ・ハーンの『小泉八雲集』を読んだのですが、ここには非常に日本人らしい思想のエッセンスがありました。こうしたものと真っ向から対立するそういうテクストです。
 日本の身体感覚は、例えば「親のからだ」と考えられる思想や、現代でも「貴方だけのからだじゃないのだから」といった言葉から、自分のからだは自分のからだであって自分のからだではないという考えがあります。自分のからだは、それを生んで育ててくれた親のからだでもあり、自分の配偶者や子供たちのからだでもあるわけです。だから、からだを大事にしなければいけないという思想になる。しかし、この小説ではそのようなくびきから完全に解放された世界が描かれます。そこには現代の家族のあり方に対するするどい批判も含まれているかもしれません。この世界は人と人とが線でつながらず、点と点の関係性しか築かれていないのです。

 ある意味では横のつながりと考えることも出来ます。人間同士の繫がりはない。実際、アマとルイは同棲していながら、お互いの本当の名前も知らないという関係です。しかし、それではあまりに寂しいから、縦の関係を考える。すなわち人間と神の関係です。だから、ここに登場する人物たちはピアス、スプリットタン、刺青などの身体加工を通じて神的な存在に近付こうとしているのかも知れません。

-同性愛的な視点-
 後半から多少サスペンス要素を含んでくるという点が、多少作品をありきたりなものにしているかなとも思われます。ただ、肉体関係がありつつも、恋人だとは認識していなかったアマが消えたことによって、突然その大切さに気が付いたように感情が乱れるルイは、やはり表面上は大人ぶっていても、まだ子どもであったと考えられます。
 犯人は最後までわかりません。状況証拠だけを考えると、もう一人の登場人物であるシバさんというアマの先輩のような人物であろうことは確かですが、少なくともルイはそのように判断したようですが、問題はどうしてシバがアマを殺したのかという点です。
 最も簡単な解釈は、ルイを奪い合うアマとシバという三角関係。アマという後輩が連れてきたルイという女性が可愛かったからその女を自分のものにしたいということで、男が邪魔になるのでアマを殺したというのが一番簡単な解釈です。
 ただ、このシバの攻撃性というものを少し考える必要があると私はおもいます。シバというのはシバ神のシバでしょう。破壊の神ですから、そうした性向が動機付けされている人物です。性交をする際にも、ルイの首を絞めて、苦しむ表情を見ないと勃たないという極めてねじまがった性癖を持っています。ただ、人というのは他人の苦しむ姿が快感であることは間違いはないので、これはある意味かなりねじまがっているようにも見えますが、最も根源的なことでもあります。やはり他人の不幸は蜜の味ですし、いじめの問題にしても他人をいじめるのは楽しいのです。これは否定のできないことです。仕方がないことなのです。
 そのような殺人的な衝動があるシバは、何度かの性交のなかでルイのことを殺したいと言います。本当に殺したいのかどうかはわかりませんが、シバにとって殺すということは愛情の裏返しでもあるわけです。ですから首を絞めつつ性交するわけです。

 私は、シバは本当はルイと同様に、あるいはそれ以上にアマのほうを愛していたのではないかと考えます。つまり、シバの同性愛説です。シバはどうしようもない、なんとか理性で抑えているもののすぐに野獣とかしてしまうような子どもであるアマの面倒をよく見てきた人間であることがわかります。バイト先を紹介したのも彼ですし、刺青を彫ってやったり、その他いろいろな面倒を見ていたのは彼です。ただ、二人の時には恋愛感情や肉体関係はありませんでした。その関係性に入り込んできたのが、ルイです。
 ルネ・ジラールの欲望の三角形を持ち出すと、ルイがメディエーターとなって、アマのことをシバとルイが奪い合うという構図ができるわけです。同時にシバはバイセクシャルですから、ルイにも手をだした。そうすると反対にシバを中心に、アマとルイがシバを取り合っていたということも擬似的に起こっていたとも考えられますが。ここでは、アマのことをシバとルイが奪い合っていたのだろうと私は考えます。
 アマのことがなんとなく気になっていたシバ。そこにアマに彼女のルイができることによって、シバはそれに刺激され、アマをうばいたくなってしまったということでしょう。だから、ルイには殺人的な衝動がおこっても、実際に殺すまでには至らない。その程度の愛情なのです。しかし、アマに対しては爪をすべてひっぺがし、殺すまでに至るほどの残忍さを見せている。これはそれだけシバにとっては愛情が深かったということの裏返しなのです。
 最終的にはアマはシバのことを受け入れ、幸せに死んでいっただろうということが予想されます。そうして、シバと共に歩んでいくことになるルイ。彼女は何故か何の根拠もないのにシバとの関係は大丈夫だと断言します。これは殺されるほどの愛情をもらえないということも気が付いているのではないかと考えられますが、ここは永遠の謎です。

-終りに-
 この小説に登場する人物たちは非常に痛々しい人間です。生きながら死んでいるようでもあります。さらに、ルイがつぎつぎに身体加工をして神に近付いていくなかで、生きる気力を失うというのもとても象徴的な構図になっています。この物語は上で述べたように、縦と横の関係性や、現代社会の家族のありかた、それから同性愛的な関係性の伏線など様々な視点から読み解けますが、根底にあるのは生死の問題でしょう。
 生きるのが下手な人間なのです。社会に適応することが出来ない。でもそうした人間に対して社会というのは非常に冷たい。だから、ある意味ではそうした社会への批判でもあり、アンチテーゼとして彼らは身体加工をして生きるしかないのです。

トーマス・マン『ヴェネツィア(ベニス)に死す』試論 感想とレビュー 本当に同性愛小説として読み解けるのか?

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-はじめに-
 以前映画を見て、大変感銘を受けたので、映画の記事を書いたのですが、今回はその原作を論じます。海外文学は、今のところ私が信頼を置いている光文社古典新訳文庫から出た岸美光氏の訳のものを読みました。
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-67.html
 
-アッシェンバッハという男-
 今までこの作品は同性愛の小説として読まれてきました。おそらく作者もそれをわかった上で書いているのでしょうし、そうした読み方が間違っていないとも思います。しかし、どうもそうした読み方が強すぎるような気がします。中には同性愛が描かれているのだろうと端からくくって馬鹿にするような人もいますから、今一度本当に同性愛かどうか確認する必要があると私はおもいます。
 私はこの作品は同性愛的な側面もありながら、実はそうではないだろうと考えています。もともとは別の言語で書かれたものですから、どうしても翻訳だと言葉の深い多義的な部分まで見ることができないのですが、限界を感じつつ論じてみます。
 
 先ず、この小説は三人称小説で、グスタフ・アッシェンバッハという高名な作家を描いています。小説が小説家を描いているため、どうもこの小説自体をアッシェンバッハが書いているという謎の解釈がありますが、それは違うでしょう。そうして、この主人公であるアッシェンバッハがどのような人物なのかをもう一度考える必要があります。
 アッシェンバッハがの精神状態は通常どのようであるのか、「キケロが雄弁の本質とよんだ「絶え間ない精神の運動」」をしていると書かれています。
 「完成できないという芸術家としての恐れ―自分の仕事を果たし、完全に自分を出し尽くす前に時計が止まってしまうのではないかという心配」が老齢になったアッシェンバッハを焦燥に駆り立てているとしても、完璧主義者的な側面がここから読み解けます。
 「そしてまた自分のしぶとく誇り高い、繰り返し実証されてきた意志の力と、次第に募ってくるこの疲労感との間の、神経を磨り減らす日々新たな戦いも嫌いではなかった。この疲労感は人に知られてはならなかったし、作品に淀みや弛みが現れて人に悟られてもならなかった。しかし、弓を張りすぎてはならないこと、これほどの生命力で飛び出してきた欲望は自分がそう望んだからといって押し殺すこともできないこと、それは自明の理であるように思われた。」これを一言で表すと「堅忍不抜」であると書かれています。このように、アッシェンバッハは非常に耐えるという性質の強い、意志の強い人間であったことがわかります。芸術派ある意味精神活動をかなり酷使して行われます。だから、多くの芸術家が精神崩壊してきたということを歴史が証明しています。そのなかで、アッシェンバッハはその精神の疲弊、これ以上もう描けないという状況になりつつも、まだ憤然として高みをめざさずにはいられない。そうした人物なのです。

 「彼らは体格に恵まれず、資産もままならず、それでも高みに昇る意志の力と賢明な自己管理とによって、少なくともしばらくの間は我が身を削って偉大さの効果を勝ち取るのである。彼らの数は多い。彼らは時代のヒーローである。孤独と沈黙の人が行う観察や、その人が出会う出来事は、仲間の多い人の観察や出来事よりも曖昧であり、同時に切実でもある。そういう人の考えはより深刻で、変わっていて、どこかに悲哀の影がさしている。ただ一度の視線、一度の笑い、一度の意見交換で簡単に片付けられるような映像や発見が、異常にその人を刺激し、沈黙の中で深められ、意味を持ち、体験となり、冒険となり、感情となる。孤独は独特なものを生み出す。大胆で異様に美しいものを、詩を生み出す。しかし孤独はまた倒錯したものを生み出す。均衡を欠いたものを、不条理で許されないものを生み出す。」
 こうした、人間の限界に挑むような極限での精神活動をするものにとって、彼らにはほんの些細なことが全てになりうるような感受性を持っているわけです。ここでふとであったのが、あまりにも美しい少年タジオでした。ほんの些細なことから、物語を紡ぎだすまでに高められた感受性に、このような誰もがはっとするような美男子が目に入ったらどうなるのか、想像に難くありません。暗闇になれて、ほんの小さな光でも見えるようになった眼が、突然通常の明るさでも眩しいと感じるような光を見るようなものです。感覚は麻痺し、下手をしたら失明するかもしれません。このアッシェンバッハも、美男子に遭遇したことによって、芸術家としての感覚を麻痺させられたことでしょう。そうして、即座にこのタジオの美しさが完全であることを認識したのです。完全や完璧については、上でも述べましたが、もう一つそこを言及している部分がありますので、それを載せます。

彼が海を愛するには深い理由があった。まず困難な仕事をつづける芸術家の休みたいという欲求。様々な出来事や人物を多種多彩に描き出すという課題の難しさのために、単純で巨大なものの胸に隠れたいと思うのである。次に、尺度もなければ分割することもできない永遠のもの、つまり無に向かおうとする、禁じられた、自分の課題に真っ直ぐ対立する、だからこそ誘惑的な性向。優れたものを求めて努力する人は、完全なものに触れて安らぎたいという憧れを持つ。そして無は完全さの一つの形ではないだろうか。」
 アッシェンバッハは海に対してこのような感情を抱いています。思えば、海という広大なものを眼にすると、人間のこころは休まります。大きな存在に対する時に何かを感じるのは人間の本質的なものでしょう。私が現在研究している「エヴァ」でも、主人公のシンジが、星空、宇宙を目の前にして安心するというような旨を述べていますし、オーストラリアの先住民があの大きな岩に対して神的な存在を見出すのもそうしたことがあるからだと私はおもいます。そうして、アッシェンバッハが、不思議と水の都であり、海と隣接したベニスという土地に足を運んだのは、そうした巨大な存在、ある意味では母なる存在を求めていたからでしょう。自分を抱擁してくれる大きな存在に引かれていったのです。この傾向は、同時に胎内回帰と考えることもできるでしょう。完璧な存在のなかにはいりこみたい。そうした思いは誰もがあるわけです。ましてや感性が洗練されたアッシェンバッハにとってはこのような休息が必要だったはずです。
 父親の家系は現在で言えば公務員のような、堅牢で忠実な家系で、母親が情熱的な詩人であったということからアッシェンバッハのような才能が現れたとこの小説では書かれています。だいたいアッシェンバッハの美への強い欲求、そうしてそこへ向かうだけの強烈な意志の力や、精神の破滅を防ぐ誠実さなどが備わった稀有な芸術家であるということがわかったと思います。

-アッシェンバッハ、美の保存-
 「自分を犠牲にして精神の中に美しさを作り出す人間が、美を体現した者に父親のように好意を寄せ、心からの愛情を捧げる、そう思うと彼の心は満たされ、感動にふるえた。」
 「「あの子はとてもひ弱で、病弱なのだ」と思った。「おそらく年をとるまで生きることはないだろう」。そう考えるとなぜか満足し、ほっとしたが、その気持ちに細かく説明を付けることは断念した。」

 この小説で最も謎だと思ったのが、このP68の部分です。この小説は三人称小説ですが、アッシェンバッハに寄り添う視点で書かれています。そうして、このアッシェンバッハは非常に高度な精神と観察力を持って、極めて論理的に説明ができる人物です。その彼が、何故かタジオと出会い、そのタジオが病弱で、これからあまり長く生きることがないと判断したあと、その思考を急激にストップさせてしまったのかが問題になるだろうと私は思いました。そうして、ここを解き明かすことが、この小説を本当に同性愛の小説であると読めるのかという部分に関わってくると思います。
 ここには、芸術家の本来の衝動があるのではないでしょうか。それはすなわち保存の衝動です。彼は後に「言葉は感覚の美をただ讃えるだけで、再現することはできないと思った。」と感じて落胆しています。私も小説や絵を描く人間なので、多少は分かるつもりでいますが、時にわたしたちはすばらしい風景や感情に出会うことがあります。それを何とか冷凍保存してしまいたい、こうした感情があったのではないでしょうか。タジオが歳をとらずに若くして死んでしまうことを悟ったアッシェンバッハは安心して思考するのを放棄しています。これはつまり、こういうように解釈できないでしょうか。タジオはアッシェンバッハの求めていた完全な美を有していた。しかし、当然タジオも大人になる。そうしておじさんになったタジオは当然その美を失うことになる。しかし、若くして死ぬということが分かったので、その美が失われずに済むということに安心したのではないでしょうか。ある意味では坂口安吾の『堕落論』的な考えにも近いでしょう。処女の美しさが失われてしまうのなら、処女のまま死んだほうが良いという考えです。美が失われるのなら、死んでしまったほうが安心できる。それがアッシェンバッハの思考を止めた原因ではないでしょうか。もし仮に、タジオが健康で、この先何年も生き続けるように感じられたなら、アッシェンバッハは急いでその美の冷凍保存をしようとしたはずです。すなわちアッシェンバッハにとっては小説を書くことによって、その美を閉じ込めるということをするはずなのです。しかし、この小説では、タジオについて短い論文程度のものは描いたという描写がありますが、それ以外でタジオのことを記したものはありません。ある意味で言えば、この小説自体がタジオの美を保存するというメタテクスト的な構造にはなっていますが、作家アッシェンバッハは保存をしていないのです。
 
 ですから、私は言いたいのは、アッシェンバッハがタジオに対して抱いた感情は、肉体的な感情、同性愛的な側面よりは(決してそれが全くないとは言いませんが)、美の保存という芸術家としての側面が強かったのではないでしょうか。それが偶然男同士だったから、こうした精神的な芸術的な感覚を理解できない人たちが同性愛という簡単なレッテルをはることによって理解しようとしているのだと私は思います。
 
-終りに-
 最後に、アッシェンバッハがタジオという完璧な美を見た結果、美に対する認識がどのように変化したのかを引用しつつ論じます。
 「私たちだって奈落は否定したい、威厳を獲得したいとは思う、しかしどこを向こうと、奈落は私たちを引きつけるのだ。だから私たちは、たとえば認識が解決してくれるという考えを退ける。なぜなら認識には、パイドロスよ、威厳も厳格さもないからだ。認識はものごとを知り、理解し、そして許す。矜持も形式もない。そこには奈落への共感がある。認識が奈落なのだ。だから私たちは断固としてこの認識を退ける。そうなると私たちの目指すものはただ一つ、美だけだ、つまり単純さと、偉大さと、新しい厳格さと、第二の率直さと、形式なのだ。しかし形式と率直さは、パイドロスよ、陶酔と欲望に導く、高貴な者をおそらくおぞましい感情の犯罪へと導く、それは彼自身の美しい厳格さが破廉恥として非難していたものなのに。そう奈落への導くのだ、その美しい厳格ささえも奈落へと。」
 アッシェンバッハはベニスにくる以前には、最初に引用したように、自分の体調や年齢を考えて完全な美を求めることができないかも知れないという意識を持っていました。それがベニスという海に囲まれた地で、考え方によって胎内に回帰した状態で、完全な美に出会うのです。そうしてその美を見た際に、すでにそこには完璧さがあり、そうしてそれを自分が保存する必要のないことを感じました。そうして、やはり堕落論のように、美しいままで死ななければならないという思想に帰結するのです。
 上で引用したのは、最後にアッシェンバッハがタジオとの関係を神話に仮託して話す部分です。パイドロスはタジオのことを述べていると考えられます。結局はタジオの美も奈落へと落ちていかざるを得ないということだろうと思います。
 ですから、ある意味ではアッシェンバッハは人生の最後にして彼が求めていた完全の美に出会うことになったのです。反対から言えば、完全な美を見てしまったがために、彼は自己同一化が完結されこれ以上この世に生きている必要性がなくなったために死んだとも考えられます。何もアッシェンバッハが死ぬ必要はなかったのです。これは小説・フィクションですから、生かしておいてもよかったはずなのにわざわざ殺すということは、彼の目的が達成されたためであると考えることが可能だと思います。

 まさしく芸術のための芸術作品です。理屈が多かったり、抽象論が多かったり、神話へ移行してしまったりと、中篇小説の割には非常に読みづらく難解な感じになっている小説ですが、そこに描かれているのは一代限りとは言え、貴族の称号を与えられるほどの大芸術家と、完全な美が封じ込められています。これを保存することができたトーマス・マンは、架空の人物アッシェンバッハを勝るとも劣らない作家であるといえます。光文社の古典新訳で非常にわかりやすくなりましたので、読んで愉しむことが出来ます。

アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』試論-2,5- 感想とレビュー どう解釈していくか 分析・ネタバレ・考察

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-「惣流」と「式波」のアスカ-

 この表記の問題は、他にも何点か指摘できます。一番問題となるのは、やはり名前が変わってしまっている「アスカ」についてでしょう。アニメ版が惣流・アスカ・ラングレーだったのに対して、劇場版では式波・アスカ・ラングレーになっています。
 エヴァの名前は、それぞれ軍艦や海に連関する名称が付けられているということは、もうすでに多くの指摘があり、公然としています。ただ、私はそちらの知識がないため、知恵袋のアンサーをヒントに考えて見ます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1025575225
綾波・・・特型駆逐艦の11番艦
敷波・・・特型駆逐艦の12番艦
巻波・・・夕雲型駆逐艦の5番艦
戦艦ではなく駆逐艦で、これは戦艦よりもはるかに小さく沈没しやすい艦で、実際にこの3隻とも沈没しました。
アスカの旧名である「蒼龍」は空母であったため、新ヒロインを増やす過程で名前を統一したかったのかもしれません。

 どうやら、ヒロインを「波」でそろえたかったというのが一つ有力な説のようです。ヒロインの名前をそろえる必要が出て来たのは、当然マリというアニメに出てこなかった人物が出てきたからです。そうして、この三人のヒロインに共通する「波」の字。そのほかに何がこのヒロインたちに共通して考えられるのか、いまだ不明です。
 ただ、海に関わる名称ということを考えると、一つ見えてくることがあるのではないかと私は考えます。この物語は、アニメ時から、胎内回帰の物語として読み解くことが出来ます。胎内回帰は人類が持っている願望のうちの一つです。胎内こそが、もっとも安全で気持ちの良い場所であるという潜在的な意識があると現在では考えられています。
そうして、このエヴァは、どのようにして胎内回帰するかという問題をテーマに扱っています。
 また、同時に考えておきたいのは、エヴァに登場するそれぞれの機関です。胎内回帰というのはつまり女性のもとへ帰っていくということです。ですが、そこへ戻るために躍起になっている機関がなにかというと、ゼーレとネルフです。このゼーレとネルフというのは、極めて男性主権の組織です。これは、同時にホモソーシャリティの問題にもなってくると私はおもいます。
 本当は女性の中に戻りたいのに、男性主権の組織がそれを実行している。ここに、現代のホモソーシャリティへの言及があるのではないでしょうか。ある意味これは皮肉として考えられるとも思います。男性性のおろかさのようなものと、またある面では女性性がもっと主張するべきだという考えです。
 話が戻りますが、それぞれ軍艦の名前がつけられている登場人物たち。その中で、「波」というのは、軍艦の名称であると同時に、「海」そのものをも連想させます。軍艦というのは、海の上を行く船です。そうして、軍艦は武器をつんでいますし、極めて男性的なモチーフと考えることが出来ます。それに対して、「波」=「海」は、女性性のイメージです。「母なる海」という言葉もありますし、海というのはあらゆる生命の源であると同時、それは羊水のイメージともつながります。ですから、必死に海に戻りたい男性=「軍艦」と、全てを受け入れる女性=「波」という構図も考えることができると私は思います。
 このような側面から考えると、この三人の「波」を持つヒロインたちは、物語の最後に何らかを受け止め胎内回帰へのキーになる存在になる可能性も考えられます。
 
 問題を元に戻すと、「アスカ」の惣流と式波の問題は、最初に述べたエヴァとヱヴァのように、同一人物ではないのだということを示唆するものでもあると思います。≒か≠かはわかりませんが=ではないということです。ですから、劇場版のアスカは、アニメのアスカとは違うということです。何が違うかという部分がこれから考えなければならない問題です。

アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』試論-2- 感想とレビュー どう解釈していくか 分析・ネタバレ・考察

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-エヴァンゲリオンとヱヴァンゲリヲン-
 アニメ時からその独特の文字スタイルや洗練された意匠が人気の一旦を担ったエヴァンゲリオン。今回は、アニメの「エヴァンゲリオン」の表記と、映画版の「ヱヴァンゲリヲン」の表記の違いについても考えたいと思います。
 「エ」が「ヱ」になることと、「オ」が「ヲ」になることに意味があるのだろうかという問題ですが、やはり表記にこ  だわってきた今までの状況を鑑みると、全く意味がないとは言いがたいと私は思います。ただ、これも一種のファンを惑わすための戦略であるとも同時に考えなければなりません。
 エヴァは庵野監督自身が言っているように、衒学趣味の作品です。衒学というのは、知識のひけらかしという意味で、いかにも、そこに何かメッセージがこめられているのではないかと思わせることがこの作品では重要なのです。ですから、どちらかというと、そこに意味を求めることよりかは、意味があるように見せているということ自体に意味があるということなのかも知れません。
 まあ、ただ一般的に考えれば、これは作品自体のループの問題にも繋がってくるのですが、「エヴァ」=「ヱヴァ」ではないということなんだろうと思います。≠なのか≒なのかは分かりません。ただ、=ではないという意味がここから読み解くことが出来るだろうと私は思います。

 また、予告で出た次回作となるエヴァは「シン・エヴァンゲリオン劇場版 :|| 」。「:|| 」は反復記号というらしいです。「直前のまたは曲頭に戻る。何も断りがなければ1回だけ戻って反復する。」(Wikiより)
 音楽に広くないので、浅はかな知識で論じることとなり非常に確証性の低い論になりますが、劇場版のタイトルが「ヱヴァ」から「エヴァ」に戻っているという点と、「:|| 」の意味性の二点が問題となってきます。
 「:||」については、意味をそのまま音楽で使用されている意味と同じ意味で考えると、この劇場版のヱヴァが、再び劇場版の「序」に戻るというループだけでなく、「ヱヴァ」が「エヴァ」になっていますから、アニメ版や、旧劇場版のエヴァへのループとも考えられるということです。
 私は、エヴァをある一点から始まって枝分かれした作品だと考えています。
   / ̄旧劇場版
・――――アニメ
 \_新劇場版

うまく図示できませんが、このようになっているのではないかと私は考えています。
もう一つの考え方としては、
・――――
・――――
・――――
このように、同時並行的に並んだパラレルワールドだという考え方です。SFなど、特に筒井康隆などがこのような並行世界を好んで作品に使用しました。可能世界ともよぶことができます。ありえたかも知れない世界が横並びでならんでいる。時にそれはまざりあったり、またはなれたりしてそれぞれの軸を貫いているという考えですね。だから、本質的には私の上の考え方も、途中で一度交わったと考えれば並行世界と同じということになると思います。

それで、問題となる「シン・エヴァンゲリオン劇場版 :|| 」これをわかりにくいですが、図示すると、
   / ̄旧劇場版 ̄\
・――――アニメ――――シン・エヴァンゲリオン
 \_新劇場版_/
というように、全体をまとめる作品になるかも知れないという可能性があります。新劇場版だけで、序に戻るという可能性ももちろん考えられますし、はたまたエヴァのことですからループなんてしないという裏切りもあるかも知れません。また、新劇場版がシン・~劇場版に変化している点も、今までの新劇場版とは別の世界になるという点を示唆しているとも考えられます。ここでは、この表題から何が考えられるかということを論じてみました。


-ループ説問題について・カヲルの特殊性-
 上で述べたように、SF的なパラレルワールドが展開されていると考えると、その並行世界同士を結ぶものは何かという問題が生まれてきます。これは、例えば今までの作品を見てくると「時間」の問題が一つあります。2011年アニメで私が最も感嘆した『魔法少女まどか☆マギカ』では、時間遡行者としての「暁美ほむら」がこの同時並行の世界のつなぎを担いました。彼女は過去へ戻ることができるという能力を使用し、「まどか」を中心に、同時並行の世界を結び合わせたのです。いくつもの同時並行の世界を「まどか」を中心にして一つの世界にしてしまった。だから、まどかは運命の糸がぐるぐるまきになり、その結果あのような神にも等しい力を得ることになったというわけです。
 例えばこのような時間が同時並行の世界を結びつけるということは、筒井康隆の作品にも多く見られることです。『時をかける少女』でも、少女が時をさかのぼることによって、同時並行の世界、可能世界がむすびつけられた、或は他の世界に移動したと考えることが出来ます。
 では、問題はもしこのエヴァもそうした世界軸があるとするとなにが、それを結び合わせているかという問題です。やはりこれは、渚カヲルという考えが妥当だろうと私も思います。
http://likeevangelion.web.fc2.com/final.htmlこのサイトに指摘されていることですが、
新劇場版カヲル君のセリフ
「また3番目とはね、変わらないな君は」/序
「今度こそ君だけは、幸せにしてみせるよ」/破
「またすぐに会えるよ」/Q

を考えてみても、カヲル君が中心となって、いくつかのエヴァの世界を一つにまとめていると考えることができます。あるいは、実はカヲル君の視点で、いくつもの世界に移動するカヲル君がこの物語の特権的な、神の視点を持った人物として存在していた可能性もあります。
カヲル君は、黒い月、白い月の問題を考えると、唯一アダムとリリス両方の性質を持った人物です。ヒトのからだに、アダムの魂を入れたということになると考えられます。ウィキペディアより。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%9A%E3%82%AB%E3%83%B2%E3%83%AB
ですから、ヒトをリリン・リリス・黒い月と考えると、唯一リリスとアダムが完璧でないにしても融合(ウィキではハイブリッドと説明)している存在なのです。
極めて特権的で例外的な存在ですから、もしかしたら時間遡行のような能力、別の世界軸に移動する能力を有していると考えることができます。

 そう考えると、エヴァの物語は、胎内回帰という物語と同時に、カヲル君のシンジ救済の物語でもあると読み解くことが出来ます。
 どうかんがえてもカヲル君はシンジと同性愛的な関係があります。これは、ホモだと言って笑いとばすより、より真剣に考える必要があるだろうと私はおもっています。肉体的な接触がなかったとしても、精神的な同性愛的な思考が描かれていると私は考えています。
 キリスト教やユダヤ教的な思想をふんだんに使用しているエヴァ。しかし、キリスト教において同性愛は禁忌です。ここをどうクリアするかという問題があります。それに対する答えとして私は、このエヴァという作品が、本当にキリスト教、ユダヤ教だけによって支えられているかという疑問を抱きました。もし、キリスト教・ユダヤ教的な思想、知識の上になりたっていると見せかけていて、東洋的な仏教的な思想の上になりたっていたらということです。ループという思想は、ある意味では仏教の輪廻転生のイメージです。なんどもなんども生まれては死に、死んでは生まれてぐるぐる回っているという生死観。問題はそこからの解放、解脱です。そうすると、苦しむシンジを見かねた仏的な存在であるカヲル君がシンジを苦しみの世界から解放させようとしているとも考えることが出来ます。
 この問題については、同時にキリスト教的にも考えることが出来るので、多義的でやっかいなのですが。キリスト教的に考えると、シンジの罪を請け負うカヲルというイメージです。キリストは愛の宗教であると同時に、罪の宗教でもありますから、「罪」の行方は非常に重要なテーマになってきます。シンジの罪をカヲルが被る、請け負うという罪の譲渡は、「Q」の首輪の継承で描かれます。
 一体どちらの宗教観で描いているのか、あるいは本当は宗教観などないのか、どちらにしても、カヲルとシンジの関係性が、このようにシンジを救おうとするカヲルという構図になっていることは確かです。

アニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』試論-1- 感想とレビュー どう解釈していくか 分析・ネタバレ・考察

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-はじめに-
もっと早くに書く予定だったのですが、あまりにも難しすぎてなかなか書けませんでした。現段階で3回劇場に足を運んで、大体分かってきたので、随時書き足していきます。いまだ論文の体を為さないものですが、エヴァ研究の少しでも発展に貢献できればと思い、記します。
興行収入がこの映画不況の時代にこれだけの記録を更新することが出来たということは、やはり一つの社会現象としてみるべきだと思います。ワンピースの劇場版といい勝負をしていますが、こうしたヒットした作品の条件を少し考えてみると、エヴァもワンピースも、それぞれ自分の世界観を作り上げたいわゆる「大きな作品」だということです。
2011年のアニメを私はいくつか見ました。まどかやタイバニ、あの花などはとても秀逸な作品です。しかし、これらのアニメとエヴァやワンピースが違うのは、世界観の問題です。まどか、タイバニ、あの花は、いずれもいままであった概念やアニメの常識を壊すという偉業は為しましたが、作るということはしていません。
ここがやはり一つおおきな違いなのだろうと考えています。

-エヴァQの異種性-
エヴァンゲリヲンを見た観客の多くが二つの意見に分かれました。面白いと感じた人と、つまらない感じた人です。余談ですが、ヒットする商品というのは意見がこのように二極化するというのはよく耳にすることです。
さて、どうしてこのように意見が二分化してしまったのか。面白いと感じた人は、恐らくあまりエヴァを分かっていない人だろうとおもいます。それはある意味では良いのです。エヴァを娯楽としてみている。だから、今回はかなり大きな動きもあり、戦艦も出てきて楽しいという見方です。それは大いに結構ですし、恐らく今回の映画の目的はこうした見方をしてくれる人をターゲットにしたものでしょう。
では、つまらないと感じた人の方を考えて見ましょう。1990年代にアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が公開され、一つの社会問題になりました。インターネットがまだそこまで普及していなかった時代、バブルが崩壊し、世紀末思想が敷衍し、オウムのサリン事件や新興宗教の発達により社会は不安定になりました。そんななかで、その当時の若者はどこに自分たちの精神の安定を求めたのか。そこがアニメ『エヴァンゲリオン』だったのです。
今までのアニメは、ガンダムもヤマトも、その他もろもろの戦闘ものは、苦悩しつつも戦うことを放棄しませんでした。ガンダムは多少異例でしたが。しかし、このエヴァは少年が苦悩し続ける作品です。これだけ内向的で、今でいうコミュニケーション障害で、ひっこみ事案でどうしようもないヒーローはいませんでした。
ですから、乗るか乗らないか、逃げるのか逃げないのかと苦悩しつづける少年の像に、当時のわかものは自分の存在意義を求めたのです。レイは、ある意味でいえば、人間の欲望の対象です。究極化したアイドル像なのです。

それは作中のゲンドウやシンジが向ける感情にも似ているかも知れません。レイは人間性というものを全て排除した存在です。レイの性質については以前詳しく述べた論文を書いたので、それを参照してください。
ともかく、レイは綺麗に人間的な部分を全て排除された存在で、これは観客の欲望の対象になりえたわけです。彼女はあらゆる人間の欲望をかなえるために作られた存在と言ってもいいかも知れません。レイに存在意義を求める人間の心理を心理学的に分析した論文があります。樫村愛子「自己啓発セミナーと『エヴァンゲリオン』」(「心理学化する社会」の臨床社会学2003)。ここでは単に、シンジがレイに自己同一化をしているということが述べられていますが、それは当然シンジに自己同一化した観客にも当てはまることだろうと思います。
そうして、エヴァという世界・作品のなかに自分の存在意義を求め、成長してきた大人たちが今回のQを見て、つまらないと思うのです。それは何故か、エヴァQが今までのファンを否定し、拒絶しているからです。

『新世紀エヴァンゲリオン』への試論 性的シンボルを排除したヒロイン・かぐや姫型ヒロインとしての「レイ」
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-366.html

-様々な作品へのオマージュ-
今までのエヴァのファンからしたら、今回の映画は全くエヴァらしからにものに見えたことでしょう。冒頭のヴンダーなる戦艦は、流石に研究者として見ていても違和感を隠しきれません。ある意味失敗しているなと私は思います。ただ、アニメ史的に考えると、これはヤマトへのオマージュに他ならないと私は思います。
今までの作品へのオマージュは続きます。
特に不思議の海のナディア
http://d.hatena.ne.jp/Harnoncourt/searchdiary?of=5&word=%2A%5B%A5%A8%A5%F4%A5%A1%5D
音楽図鑑:近況報告さんのブログにて指摘されています。

またYou tubeにも不思議の海のナディアとの比較動画がありますので参考にしてください。


ここでは、不思議の海のナディアの空中戦艦とノーチラス号が戦う場面です。ガーゴイル / ネメシス・ラ・アルゴールは声優を冬月コウゾウと同じ清川元夢が担当していますし、ノーチラス号のネモ船長は、今回Qで初めて登場した高雄コウジを勤めた大塚明夫が担当しています。ですから、ほとんど昔と同じキャストで一緒にやっているということなのです。
そうして、音楽は「バベルの塔」という同じ楽曲を使用し、いかにエヴァQの冒頭が、かつて庵野監督が作ったナディアをそのまま持ってきたのかが分かる資料となっています。ガイナックスでナディアが作られていた当時を再現したかのような感もあります。

そうして、エヴァQにおける宮崎駿へのオマージュもやはり論じないわけにはいかないでしょう。なによりも、エヴァQは二本立て、前半の『巨神兵東京に現わる 劇場版』は、スタジオジブリ作品『風の谷のナウシカ』に登場する巨神兵を起用したスピンオフ作品です。
庵野さんと宮崎駿監督の交流は、既にナディアから因縁深いものがあります。『ナディア』と『天空の城ラピュタ』が酷似しているのは、誰もが知っていることでしょう。そうして、その原因もウィキペディアにあるように有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AE%E6%B5%B7%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2
企画の原案は海底世界一周という宮崎駿がNHKでのTVシリーズとして用意したもの[1]。だがこの企画は当初実現せず、宮崎は後に本企画をスタジオジブリのアニメ映画『天空の城ラピュタ』として作品化した。一方、元の企画そのものはNHKと東宝に残され、後にNHKのプロデューサーが、この企画をガイナックスに持ち込み、それに次々アイデアを継ぎ足して作った、大体の企画にOKが出てしまい本作となった[2]。謎の青い石や超古代文明の設定、第1話のナディアが追われるシーンなど本作が『ラピュタ』に類似したストーリー展開を持つのはこのためである

私も自分で以前宮崎駿が出ているテレビで、宮崎監督がこのことについて述べていたのを記憶していますから、この情報の確証性は高いものだろうと思います。NHKテレビシリーズでやろうとした際には、予算や時間の都合上できなかった、それが悔しくてラピュタをつくったということを言っていたと記憶しています。

エヴァにおける庵野監督のオマージュは、何がオマージュされていることを見ることも重要ですが、それと同時に、どうしてオマージュしたのかということも視野にいれなければいけません。現段階では、どうしてかつての作品と、宮崎監督の作品へのオマージュがなされたのか、明確には分かりませんが、これからさらに研究を続けていく必要があります。

オスカー・ワイルド『サロメ』試論 感想とレビュー 聖書の物語から新しく構築される『サロメ』の文学性

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-はじめに-
最近は、海外文学にはまっていまして、特に光文社の古典新訳が読みやすいので、おすすめします。今回は、オスカー・ワイルド作『サロメ』を論じます。
芥川賞作家の平野啓一郎氏の訳により読みやすく復活しました。
訳者あとがきにもありますが、ワイルドの『サロメ』は森鴎外により初紹介され、日夏耿之介訳や三島由紀夫の論文などがあります。しかし、この『サロメ』の翻訳は、それからほとんどすすまなく、なぜか海外翻訳文学だけ旧仮名旧字の古い日本語が残っているという状況が続いてきました。
『サロメ』は、新約聖書の非常に有名な話を元にして作られています。四つの福音書のうち、サロメの話が出てくるのは「マタイによる福音書」(14章3-11)と「マルコによる福音書」(6章14-28)です。聖書では、「サロメ」という名前は直接出てきません。どうやら古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』に「サロメ」という名前が伝わっているようです。ここは確証に欠けるので鵜呑みにしないでください。
ただ、その異常性から多くの芸術家たちのモチーフになり、ワイルドが戯作化する以前から、多くの小説、詩、絵画、など様々な芸術で「サロメ」を題材とした作品はありました。さらに「サロメ」はその詳細は如何にせよ、実在はした人物だそうです。

-ワイルドの『サロメ』-
ここでは、ワイルドの作品を論じます。ワイルドが手がける前にも多くの「サロメ」の作品が作られていたなか、どうしてワイルドはもう一度自分で「サロメ」を作ろうとしたのでしょうか。ワイルドの『サロメ』が他の『サロメ』と大きく違うのは、二つあると指摘されています。
ひとつ目は、聖書などに登場するサロメは、母親ヘロディアの意見を聞き、それを義父ヘロデに伝える役割しかになっていなかったのに対し、この『サロメ』では、母親とは関係なく、自分の願望のままに動いていること。もう一つはその後サロメが殺されることです。

「サロメ」の文学性は、このサロメの性質の違いに大きくよるものでしょう。サロメを読めば、だれもがサロメはいろいろなものの象徴のように見えてきます。しかし、巻末の論考にもあるように、作中ではまた「何かの象徴を見るべきではない」という台詞もあり、安易にサロメを何かの象徴と結びつけることも出来そうにないのです。
非常に象徴性を有していながら、象徴してはいないと伝えているテクストなのです。ですから、何を言っているのかわかりやすいようで、わかりにくいのが、ワイルドの『サロメ』になっています。
聖書との決定的な違いは、やはりサロメの人間性です。サロメはここでは、男を妖しげな魅力で滅ぼす〈運命の女(ファム・ファタール)〉として描かれていると指摘があります。しかしまた、同時にサロメは非常に処女性の強い、少女としての側面をも持ち合わせているのです。
これは、元来サロメが清らかで罪の無いものであるのにもかかわらず、母ヘロディアが、夫亡き後その弟と姦通したことによる罪を背負っているという罪の継承の意識があるだろうと私は思います。聖書でいうところの原罪です。母ヘロディアのそうした部分を知らず知らず引き受けてしまっているサロメは、彼女に罪はないものの、生まれつき罪が備わっているということになるのです。
ですから、その罪を悔い改めなければならない。そのために預言者ヨカナーンはサロメに対して警鐘をならしつづけるのです。

しかし、この警鐘に耳を傾けたのは皮肉にもヘロデ自身でした。だから、彼は聖書にもあるように、自分の罪を指摘されたことに腹を立て捕縛こそするものの、殺すことが出来ないのです。ヘロデはある意味ではこの作品のなかで最も罪を認め、反省をしようとしている人間なのかも知れません。ただ、そんなヘロデも、自分の兄の妻と姦通し、さらにはその娘に好色の眼差しをおくっています。
ヘロデが執拗にサロメに踊りを要求しますが、なぜそんなにまでして踊らせたいかというと、この踊りというのは裸同然になってする踊りだからだということを認識しなければいけません。つまり、若い娘の裸が見たかっただけという、しょうもない話なのです。
まあ、しかし、その人間性の愚かさのようなものは、私たちも持っているものですし、理解することはできます。ヘロデはあくまで一般的な人間なのです。

-サロメの死をどうかんがえるか-
もう一つ考えなければいけないのが、サロメが殺されるという問題。巻末の論考では、サロメが女性性の解放の象徴であるという論を展開し、それをなしえたサロメに対してのホモソーシャリティによる抹殺と読み取れるのではないかと指摘されています。私も確かにそうした面があるだろうと思いました。今からちょうど100年ちょっと前、ジェンダーの解放ということで、女性の問題がかなり取り上げられていたようです。
そうして、サロメは自分の欲求に従い、自分のしたいことをするということで、女性性の解放の象徴になっていたようです。ただ、ヨカナーンの首が銀皿に載せられてきて、それにキスするというあまりに衝撃的な内容により、当時から公演をストップさせられたり波乱を呼んだ作品のようです。
私は、サロメの死は、女性性の解放の象徴を男性主権の社会が抹殺したという読み方のほかに、人間ならざるものへの恐怖がそうさせたのだろうとも思います。ヘロデは劇中唯一悪魔の羽音と考えられる音を聞いた人間です。上でもヘロデがこの作品のなかでは、最も汚らしくしかしそれゆえ人間らしいと述べました。
そうして、罪を背負いながらそれに気づかず、生まれ出る妖艶さで男を滅ぼしてしまう危険性を持った、ある意味人間ならざる性質を持ったサロメが、最終的に生首にキスをするという死者との交流を図ったことにより、ヘロデはこの娘に恐怖し、その恐怖により殺させたのだろうと思います。
こうして考えると、「サロメ」はその美貌によって人間を惑わす妖怪的な側面もあると考えられるのではないでしょうか。さらに月のイメージなどとも重ね合わせると、キリスト教、ユダヤ教的な思想から、ギリシャ、ローマ神話的な思想が入り込んできていると考えることも出来ると思います。

-終りに-
チェーホフが目に見えて多義的な戯作にしたてているのに対して、ワイルドは一見すると一義的、一元的な世界観を構築しています。しかし、突き詰めていくとどこかで謎が出るそうした構造になっているように感じます。
ほとんど同時代の作家二人を見て、その差異が多少なりとも明らかになったと思います。

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ『桜の園/プロポーズ/熊』試論 感想とレビュー 「家」という閉塞された空間での豊かな人間模様

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-はじめに-
http://www.kotensinyaku.jp/blog/books/book158.htmlから
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
[1860−1904] ロシアの作家。南ロシアのタガンローグ生まれ。モスクワ大学医学部入学と同時に新聞・雑誌への執筆を始め、生涯に600編にのぼる作品を残した。ロシア文学伝統の長編と決別し、すぐれた短編に新境地を開いた。晩年には戯曲に力を注ぎ、『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』の4作品は世界的な名作との呼び声が高い。44歳の誕生日にモスクワ芸術座で『桜の園』を初演。直後、体調を崩して病状が悪化し、7月療養先の南ドイツで死去。代表作に『退屈な話』『かわいい女』『犬を連れた奥さん』『中二階のある家』『いいなずけ』などの短編がある。

決して光文社の回し者ではありませんが、最近文学の研究者として海外文学とどのように触れ合っていくのかということを考えると、今までの古典的な訳で研究するよりも、多くの読者が読めることも鑑みて、光文社の古典新訳がおすすめだと考えています。
訳は浦 雅春氏によるもの。
太宰治の研究をしている身としては、『斜陽』を書くきっかけをつくった『桜の園』を読む必要があると感じ、読みました。ロシア文学とはドストエフスキーの『罪と罰』に敗北してからの再挑戦です。太宰は『人間失格』で『罪と罰』への言及があるように、かなり多くの本を読み、ロシア文学にも触れていたと考えられます。

-『桜の園』論考-
太宰はチェーホフの『桜の園』を読んで、日本版の『桜の園』を書くんだと意気込み、題名は『斜陽』だと口にこぼしたと伝えられています。ですから、テクストの関連性についても少し考えて行きたいと思います。
『桜の園』はチェーホフ最後の劇作品で、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』とともに「チェーホフ四大戯曲」と呼ばれています。作家論レベルで話をすれば、この本の末尾に載せてある論文にもあるように、チェーホフはこの作品を一貫して「喜劇」だと言っていたようです。ただし、当時その原稿をもらった舞台監督も役者も、読者も、それから現在に至るまでほとんどの人間が全員これを「喜劇」だとは感じられません。私も、どちらかというと「悲劇」だろうと思います。
演劇の世界での「喜劇」と「悲劇」の問題は非常にめんどくさい問題で先ず定義が曖昧ですし、専門でない私がとやかくいうこともできないのですが、『桜の園』が喜劇とは考えにくいでしょう。それは『桜の園』に日本版として書かれた『斜陽』を読んでもわかることだと思います。パロディ作家としての側面ももつ太宰ですが、やはり『桜の園』は悲劇性の強い作品として受け取って書き直しているのではないでしょうか。『斜陽』を読んで笑えたという人はおそらくいないと思います。

では、どうして悲劇的に感じてしまうのかを考えて見ます。これは『斜陽』でもいえることですが、没落していく貴族たちに明るい未来が見出せないということが一番大きいのではないでしょうか。『斜陽』に関して言えば、主人公のかず子とその母親が誰がどう考えても、経済的に自立していくことは難しく、これから生きていくことが困難だろうということが予測されます。
『桜の園』の女地主ラネーフスカヤは、その生まれ育った境涯からおそらく一度も自分でお金を稼いだことのない人物でしょう。お金に対する認識や感覚も一般人とはかけ離れて、いざ借金がたまって領地が売却されるという時でさえ、まったく現状を理解できていません。ラネーフスカヤの兄ガーエフは、比較的この作品のなかでは常識を持った人間として登場していますが、それでも商人のロパーヒンからみたら、二人とも決して自分たちの現状を認識できていない人物として描かれています。
ラネーフスカヤの娘であるアーニャとワーリャも、だれか男性に嫁いで家にはいることは出来たとしても、母を助けて生きていくことはできそうにありません。このような、完全に温室育ちの人間ばかりが集まっているのが、この作品の悲劇性が現れる原因となっているのではないでしょうか。
巻末の論考では、チェーホフの作品の場としての「家」について論じられています。この本にある三つの作品『桜の園』『プロポーズ』『熊』や、他のチェーホフの作品は今までのロシア文学からはなれ、「家」という場所を軸に話が展開するということです。私も、戯作にしてはやけに移動が少ないなと感じました。シェークスピアの戯作などでは、かなり場が変わるし、しかも野外もしばしばです。チェーホフは『桜の園』では例外的に「庭」が出てきますが、しかし「庭」というのも「家」の一部ないし付属物ですし、「外」と「内」で考えたらやはり「内」です。チェーホフの文学はひきこもり文学としても読めるのではないかと私は考えています。
話が戻りますが、温室育ちのぬくぬく生きてきた人間たちが、いざその温室が破壊される、或はそこから追い出されるというのが、この作品のメーンテーマだと私は思います。無菌の状態で生きてきた人間が、突然その安全地帯を奪われる。そうしたらどうなるか、そこは書かれていませんが当然だれにも予想がつくことです。恐らく長くは生きられないだろうということになります。

チェーホフは一体なにを持ってこの作品を「喜劇」だと言ったのでしょうか。ある意味喜劇性があると思われるのは、この閉塞された空間での人間性の問題です。特に『桜の園』に出てくる人間は、非常に不可解な行動の持ち主です。みんな精神的におかしいのではないかと思われるような奇怪な行動をとります。
これは、巻末の論考にも指摘されています。奇怪な行動の詳細はそこに書かれていますからそれを参照してください。ここでは、誰もが一貫した行動をとっていないということに着眼し、それが喜劇だといえるのではないかと考えます。チェーホフは、今までのロシア文学から脱却すると同時に、多面的、多義的な意味を短い作品のなかに持ち込みました。ですから、そこに登場してくる人間は一貫性に欠け、それが笑いとなると同時に、今までの文学へのアンチテーゼとしての意味や、チェーホフ自身の人間性の観察の集大成がそこに描かれるわけです。これは多くの研究者が指摘していることです。
人間は、そんなに簡単にこの人はこういう性格でこのように行動する人だとは言えないというのが、作家レベルで考えるとチェーホフが至った結末ではないでしょうか。人間は実に奇怪で、思いもよらぬ行動をする。その部分を誇張しているから、彼はこれを喜劇だといったと考えられると私は思います。

-『プロポーズ』論考-
『プロポーズ』は誰が読んでも楽しめる抱腹短編となっています。
隣り合う領地の領主が話すところから始まるこの短編は、人間のある意味での愚かさをあらわしているのではないでしょうか。
ある男が隣の領主のもとにやってくるのですが、本当の目的はその領主の娘と結婚したくてその申し込みにやってくるのです。しかし、臆病で、しかも心臓が極端に悪いため、心臓がばくばくして、なかなか話がすすみません。それで紆余曲折をするわけですが、話を逸らしすぎるあまり、ある領地の話になってしまいます。お互いにその領地は自分の家のものだと思っていたわけで、話がややこしいことになります。本当は、結婚してしまえばどちらのものでもよいことになるわけです。しかし、原則は家のものだった、歴史的にうちのものだったと、言い張って全然結婚の話にならないので先にすすまない。この領地の問題に関しては、はっとしたのが現在の日本の状況に似ていたということです。
それはさておき、怒りくるう三人。娘も加わって大喧嘩になります。一旦は男が立ち去ることによって納まるものの、再び今度は飼い犬の話で問題になります。どちらの犬がすぐれているかということです。最終的には極端に心臓に付加がかかったために、男は倒れてしまいます。一体どれだけ体調が悪いのだよと突っ込みたくなるところですが、男が倒れている間に父と娘の間で話がすすみ、結婚することになります。しかし、男が意識を取り戻すとまた果てしない言い争いになるというところで舞台は終り。
ある意味では、隣に住むもの同士の普遍的な仲の悪さを描いている戯作です。しかし、それを愛は乗り越えられるのでしょうか。

-『熊』論考-
『熊』も「家」を舞台にした作品。ある夫を亡くして喪に服している女性主人のもとに、かつてその夫のお金を貸していたという人間がやってきます。女は、夫が酷い人間であったために、敢えて自分は夫への愛情を貫くということを通じて夫への復讐のようなものをしています。訪問してきた男は、今までに何人もの女性と付き合ってきて、女性の不実なことを嘆いています。
お互いに、女こそ、男こそ愛に忠実で、男こそ、女こそ愛に不実だと真っ向から意見の対立している二人。しかも、女性は今自由に動かせるお金はないから明後日に渡すといい、男は今必要で、今くれないのなら帰らないといいます。
すべてが見事にあべこべな二人が対立しています。しかし、そんな二人がたった数十ページの間に惹かれあって、ののしりあいながら、キスをするというところで舞台は終わります。
正反対な人間が相手をののしりながらキスをしてしまうという終わり方は見事だと思います。ここでも、人間の多様性、多義性が窺えるのではないでしょうか。

成人になり、愛について考える

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-はじめに-
私事ですが、昨日成人式に出席し、晴れて成人と相成りました。私の住んでいる杉並区では、クリスタルキングの田中雅之さんが、30分近くのミニコンサートをしてくださり、「大都会」や北斗の拳のオープニング「愛をとりもどせ」や仮面ライダークーガの曲などを熱唱してくださいました。病気をして大都会の高音が出なくなってしまった田中さんですが、病にうちかち、全くそれを感じさせないほどの大熱唱は、人間としての可能性や強さを感じました。田中さんはもう三回目の成人式プラス2年だということで、やっと20年間生きてきたなと感慨深い私には、とても想像できないときを生きてきたのだなとあらためて感じます。
その後は私の母校にて、成人祝賀のつどいがありました。私の母校は明治学院ですから、ミッション系の学校です。私は中高と6年間おせわになりました。同じく二十歳になった同期の人間とともに、なつかしい祝賀会になりました。
今回は、成人を祝う会の礼拝で、久しぶりに読んだ聖書の箇所を引用し、感じたところがありましたので、それをここに記します。

-愛について-
コリントへの信徒への手紙1 13章 1節から13節

たとえ、人々の異言(いげん)、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益も無い。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは今、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようになっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

(傍線筆者)


聖書のなかでも特に有名な聖句です。これを根拠にキリスト教が愛の宗教であるといわれることもあります。
文学をやってきて、愛を考える時、私は愛と憎しみは表裏一体だろうと思い込んでいました。それをこの聖句を読んだ際にはっとしたのです。本当の愛は、憎しみをもたないということに気がつかされたのです。ここでいう「愛」は、もしかしたら「信仰」のような言葉に近いのかも知れません。少なくとも、異性に対する限定的な「愛」とは根本的に質を異にするものなのでしょう。
ありとあらゆる行為は、私たちが人間であるかぎり、完全とは言えません。完全ができないから、私たち人間は常に向上しつづけることができるとも考えられますが、時には完璧、完全が求められないからといって、極端な道に走ってしまうこともあります。しかし、ここでは愛は完全であると教えているのです。

特に潔癖主義者で完全主義者な私にとっては、最近感じることは自意識のどん詰まりです。自分の知識経験をすべて導入しても、乗り越えられない壁がある。他人の意見考えを学んで応用しても、どこかで行き詰まる。この自意識のどん詰まりというのは、今現在の日本全体にも言えることなのではないでしょうか。
このどん詰まりをどう解決していくのか、これが我々新成人の課題でもあると思います。
この課題を解決する方法の一つが、今回上げた「愛」の聖句に隠されていると私は思います。
恐らくここに書かれていることが出来たのは、歴史上イエス・キリストだけであろうし、またこれを実践することができれば、神そのものに極めて近い状態になるでしょう。ここに書かれていることは、とても我々一般人にはできたことではありません。
ただ、この「愛」のことを考えてみると、「愛」は、エントロピーという概念を破壊する、無限のエネルギーだということがわかります。普通の愛は、愛すれば愛するほど憎しみも強まり、相対化されています。しかし、この「愛」は、懇々と湧き出る清水のように、果てしなくあふれ出して、さらに無限なのです。今でも膨張しつづける宇宙のような存在なのです。
ですから、「愛」を少しずつでも多くの人間が実践していけば、人類はさらなる高みに向かうことができるのではないでしょうか。

話が大きくなりすぎましたが、個人レベルで考えたとしても、この「愛」の実践は、その人の人生を極めてすばらしいものにしてくれることでしょう。とても、現在の社会でこれを実践することはできません。こんなことをやっていたらきっと生活もままならないでしょう。しかし、だからこそこのとてつもなく難しい「愛」の実践を行うことが必要になるのではないでしょうか。
人を「愛」しても、けっして見返りを求めないで、負の感情に打ち勝つ。これができただけで、おそらくその人は人生に成功するでしょう。私たちは、どうしても、人を愛すれば、その見返りを求めてしまいます。ここではまだ損得、利害の価値観があるからでしょう。自分がこれだけ相手に尽したのだから、これだけ相手を思ったのだから、私のことも相手から当然なにかしらのことをされるべきだという考え。これを断ち切る。
こんなことを言うと信仰者には反感を買うかもしれませんが、誤解をおそれずに言えば、この「愛」の実践は、ある意味仏教的な因果を断ち切ることにも繋がっていると考えることも出来るのではないかと私は考えています。
「愛」を持てば、必然と憎しみを抱いて自分を攻撃してくる人間に対しても、柔和に受け止めることが出来るようになるでしょう。どうしても、目には目を、自分が攻撃されれば攻撃しかえすということから私たちは離れられません。しかし、この「愛」について、この言葉をこころに秘め、常に自分は今「愛」の実践が出来ているのかと自問自答し、己の感情をコントロールできるように日々鍛錬することが重要なのではないでしょうか。
克己(こっき)たる精神が必要だろうと私は思っています。自分と戦い、自分に打ち勝つ。有言の価値観から、無限の価値観を学んでいこうという心持が人生を豊かにするのではないかと感じました。

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』試論 感想とレビュー  今、自由を考える時

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-はじめに-
『自由論(原題On Liberty)』は、1859年に刊行され、当時のヨーロッパ、特にイギリスの政治・社会制度の問題を自由の原理から指摘することを試みた書物だったようです。私の専門は文学です。ですから、はっきり言ってしまえば当時の新書のような存在になる本書を私が読んでも、そこまで関係はないというのが現実でしょう。しかし、今、この本を読んで私ははっとしました。冷や水を浴びせられたように、はっとしたのです。現代社会は、なんとも形容できぬ漠然とした閉塞感があります。それは、もしかしたら社会が個人に対する要求を強めているからなのかも知れません。この本は、人間の自由を考える際には決してはずすことのできない名著です。ただ、こうした古典にありがちな難しい訳が、私たちと名著との壁になっています。今回は、私が自信と安心をもって進める
光文社古典新訳文庫から斉藤悦則氏の訳の本の紹介とともに、論じていきたいと思います。

-社会と個人-
多数派の専制政治」は一般に社会が警戒すべき害悪の一つとされている。通常、それは政治的な圧迫のような極端な刑罰をちらつかせたりしないが、日常生活の細部により深く浸透し、人間の魂そのものを奴隷化して、そこから逃れる手立てをほとんどなくしてしまうからである。~多数派が、法律上の刑罰によらばくても、考え方や生き方が異なるひとびととに、自分たちの考え方や生き方の行動の規範として押し付けるような社会の傾向にたいして防御が必要である。社会の慣習と調和しない個性の発展を阻害し、できればそういう個性の形成そのものを妨げようとする傾向、あらゆるひとびとの性格をむりやり社会の模範的な型どおりにしたがる傾向、これにたいする防御が必要である。集団の意見が個人の独立にあるていど干渉できるとしても、そこには限界がある。この限界を見つけ、この限界を侵犯から守ることが、より良い人間生活にとっては政治的な専制にたいする防御と同じくらい重要不可欠なのである。

はじめから多くの引用をしました。ミルは自由についていくつもの視点から論じていますが、はじめに社会と個人という問題から論じています。この本を今読んで、はっと思うところがあるのはなぜなのか、それはここに書かれてあることが、そのまま現代に通用することだからです。つまり、非常に普遍性の高いことが書かれていることと、現在も当時も、大同小異でほとんど個人の本当の自由というものが確保されていないからなのだと思います。
ここでは、社会の問題についてです。私はまだ学生ですが、どうしてもこの国の漠然とした閉塞感が拭えないと感じています。自由が無い。何をしていても息が詰りそうな、そんな感じがします。いつも映画館のシアターのなかにいるような感覚があります。ある程度の自由は認められているのですが、それはじつはごくごく閉鎖された空間でしかない。
太宰治の『女生徒』には「はっきりいったら死ぬる」という言葉が出てきます。この小説は当時の女生徒の心情を鮮やかに映し出した小説として高名ですが、まさしくこれなのです。いろいろ考え、国を思い、経済を思い、自分の職を思い、これからを思い、しかし、どうしても自意識のどん詰まりを感じる。はっきり言ったら死ぬほかに選択肢がないのではないかと考えざるを得ない。
この妙な暗さが、私がつねに考えている「自殺」の問題に繋がっているのだと思います。自殺者が今どのくらいいるか皆さんご存知でしょうか。毎年3万人以上の人間が自殺で命を絶っています。これは厚生省などの、国が出した資料からいつでも確認できます。地域の図書館の辞書などがおいてある資料室にありますから、一度みなさんも自分の目で確認するといいですよ。
そうして、この3万という数字は、この間の3.11大震災の死亡者よりも多いのです。つまり、毎年わが国日本では、大震災が起きていると考えられます。しかも、個人レベルでなのです。
我々日本人は、イギリス人どうよう生真面目な性格と世界的に言われます。そうして、この未来に希望がもてない状況のなかで、必死に己を社会の歯車として駆動させるも、生きる希望がないため、死という選択肢を選らんでしまうのではないでしょうか。

今、ミルの自由論を読んで思うのは、個人を活かす必要性です。社会が重くのしかかっている。だから、我々は自分たちの将来を考える際に、日本社会の未来と重ねて考えてしまう。だからどん詰まりを引き起こすのではないでしょうか。私も思想の自由は得られていません。おそらくいろいろ考えている私でも、その考えている範囲は実に狭いものでしょう。実は、このどん詰まりから解放されるのは簡単なことなのかも知れません。ハワイなりどこなりに行けばいいのだろうと思います。ただ、外国に行くのも、ずいぶん国がうるさくなり、個人の自由が守られていないと私は思います。そうすると、ただでさえ疲弊して億劫になった人間にとっては、また社会か、と意気消沈せざるを得ないのです。

-自由の原理-

原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。~物理的であれ精神的にであれ、相手にとってよいことだからというのは、干渉を正当化する充分な理由にはならない。相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、他の人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない。これらの理由は、人に忠告とか説得とか催促とか懇願をするときには、立派な理由となるが、人に何かを強制したり、人が逆らえば何らかの罰をくわえたりする理由にはならない。~そうした干渉を正当化するには、相手の行為をやめさせなければ、ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要である。個人の行為において、ほかの人にかかわる部分についてだけは社会に従わなければならない。しかし、本人のみにかかわる部分については、当然ながら、本人の自主性が絶対的である。自分自身にたいして、すなわち自分の身体と自分の精神にたいしては、個人が最高の主権者なのである。

言論の自由が認められていない中国は、はっきり言えば論外です。100年以上前のイギリスに遥かに劣ります。あるいは、フランス革命以前と同様かも知れません。ただ、自由を獲得しているはずの、現在の日本でも、こうした自由が本当に認められているかといわれるとはっきりと認められていると言い切れないのも実情ではないでしょうか。
私はこの自由論の個人の問題に、二つの矛盾した考えを抱きました。一つは肯定、当然であるという考えです。私は文藝を専門とする人間ですから、文学だけに限らず、映画やアニメ、漫画も研究対象になります。そうすると、必然オタク文化を考えなければいけません。オタク文化、自分の好きなものにお金を使用し、自分の好きな世界にこもる。ミルの自由論から言えば、まったく問題はありません。他人に迷惑をかけない限り自由が認められる自由論によれば、むしろそれが出来ている現在は自由論が遂行されている世界です。
そうして、私もある意味ではこれに賛成なのです。私の好きなことを私が好きであってなにが悪いのかということです。趣味趣向の自由は守られていますから、全く問題ありません。
ただ、もう一つ思うことがあります。それは、多くの偉人の言葉を読んで出て来た一つの答えなのですが、「強く生きる」ということです。ゲーテやニーチェを読んでいて感じることは、自分の生に積極的であれということです。自分だけの好きな小さな空間にこもっていることは自由です。そうして何より本人たちにとっては楽ですし安心できます。自分の小さな楽園なのです。しかし、そこにこもっていてはいけないよというのが、私が多くの本を読んできて得たひとつの答えでもあります。

AKBを問題に出すと分かりやすいと思います。ファンの方には顰蹙を買うことでしょうが、敢えて述べます。今まで大きなみんなのアイドルから、アイドル像はきわめて小さく、近いものになりました。先ず会うことができるようになったのが、大きかったのでしょう。私はアイドルの失墜と言っていますが、アイドルは大衆の偶像から、個人レベルの偶像に小さくなったのです。ここでは、極めてインティメイトな関係性が結ばれます。私とアイドルの関係性が非常に近くなり、濃密になったわけです。
これがオタク文化の原則ともいえると私は思っています。自分とアニメにしろマンガにしろ、そこで描かれる世界と自分とが非常に強い絆で結ばれるようになりました。ですから、そこは自分たちにとってとても過ごしやすい自分だけの楽園なのです。
でも、その自分の楽園にこもっていることは、たしかに他人の迷惑にはならなけれど、社会全体で見たときに大きな日本の損害になることは確かなのです。ここで自由論を展開すれば、自由論の勝ちになるでしょう。オタクの勝利です。そうして日本は終りです。
こうなると、個人レベルでは肯定したい自由論も、そのまま手放しにはできないということもいえます。私は、自由論で述べられていることは正しく、また必要であることだと考えています。その上で、自由だからと言ってこもっていてもいけないのだということを、私は追加するべきだったのだろうと考えています。

-最後に-
・自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。
・人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認めあうほうが、人類にとっては、はるかに有益なのである。
・どんな問題でも、全員が賛成してもよさそうなときに、なぜか反対する人がいたりする。そんなとき、たとえ多数意見のほうが正しくても、必ず反対意見にも耳を傾けるに値する何かが含まれていることはありうる。反対の声を封じたら、真理のうちの、その何かが失われるのである。

しかし、またミルはどんな問題でも対立意見があれば、それを聞かなければいけないといっています。そうして、自分たちの耳にいたいことほどそれは重要で、真理が隠されているかも知れないといいます。ですから、自分で言っていて自分の首を絞めているこの文章も、意味はあるのだろうと考えています。

・国家の価値とは、究極のところ、それを構成する一人一人の人間の価値にほかならない。だから、一人一人の人間が知的に成長することの利益を後回しにして、些細な業務における事務のスキルを、ほんの少し向上させること、あるいは、それなりに仕事をしているように見えることを優先する、そんな国家には未来がない。たとえ国民の幸福が目的だといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を萎縮させてしまう国家は、やがて思い知るだろう。小さな人間には、けっして大きなことなどできるはずがないということを。

恐らく、今はこの個人がこもることによって、個人の自由を体得し、そこで精神的、文化的な成熟を待つ時期なのだろうと私は考えています。いずれは、やはりここから出て、外界と向き合う必要があるのでしょう。そうして、このこもることは、それ自体は悪いことではなく、ものごとをおちついて静かに熟成させるために必要なことでもあるのです。
今、とにかくこの閉塞された社会において、個人の自由をどのように切り開いていくのかが、問題になっています。そうして、この自由の問題を考えるためには、より多くの人間がミルの『自由論』を読んで自分なりの考えを持つ必要があると私は考えています。ただ、これが他人にいいからと言って、私が他人にこの本を読ませることは自由論に反することなのです。
どうしたら、私たちは自由になれるのか、それを考え、実践していかなければいけないと思います。

ことなかれ主義へ待った! KY(空気読まない)人間の重要性

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-ことなかれ主義の横行-
私が昨今感じるのは、非常に自分の言いたいことが言えなくなっているなという雰囲気です。日本人らしさというものがあります。外人から見て、これが日本の美徳だという人もあれば、だから悪いんだという意見もある。今回私が言いたいことについては、この日本人らしさが、悪影響を及ぼしているのではないかと考えています。
私が今、ここで述べている日本人らしさとは、「出る杭は打たれる」精神です。集団に準拠し、己というものを非常に押さえつけることです。集団意識と言ってもいいかも知れません。良い意味でも個性がなくなってしまったのです。
2013年1月1日の読売新聞では、「周囲の顔色うかがう傾向」と題して、「周囲に同調し、摩擦を避ける傾向は近年様々な調査からも浮かび上がる」と述べています。昨今流行語になった「KY(ケーワイ)」という言葉。この意味は、「空気よめない」という意味で、その場にそぐわないことをしたり、述べたりした人間に対して「お前KY(空気読めない)だな」と使います。ここには、集団の輪を乱した人間に対するレッテル貼りと、警告の意味が込められているのだろうと私は思います。

しかし、このように誰もが自分の言いたいことも言えずに、ことなかれ主義を貫いてイツワリの自分を装っていれば、どうなるかは当然想像ができます。心理学的に考えれば、自己同一性の確立がずっと抑圧されているのですから、そのゆがみはどこかに出てくるはずです。最も簡単に想像できるのは、というか我々が感じているのは、本当の自分を表現できない「ストレス」でしょう。いつも、他の人との強調を意識して、何か意見を言うのにも他人の顔色をうかがい、他人と意見が分かれて口論になるのを怖れている。今、問題になっているのは、それで本当にいいのかということです。
そうしてまた、このイツワリのしわ寄せは、陰惨な「いじめ」に繋がっているのではないかと私は考えています。どうして、ここまでいじめが悲惨なものになり、命を奪うまでになってしまったのでしょうか。私は、このイツワリを要求される力が強まったために、そのストレスの解放が、クラスのほんの少しでも自分たちと異なる部分のある他者に向かったのではないかと考えています。
いじめはどうして起こるのか。いじめはある側面では、自分たちの共同体とは異なる部分を持った人間に対して行われることがあります。例えば、自分たちよりほんの少し勉強が出来ない、動作が鈍い、運動が苦手、話し方が独特、好きなものが変わっている、ETC。社会人になれば全く気にもしないようなことですが、それを閉塞された空間で、しかも極限にまでイツワリをかぶり続けることを長時間要求されると、このようになってしまうのではないでしょうか。

仲間はずれにされることへの恐怖心が非常に強いのが、現在の人間の心理だと私は思います。すべて、マジョリティーに属し、ことなかれ主義を貫き通す。上の人間の言うことに従い、機械のように働く。こんな状態でよいのでしょうか。しかし、答えはもう恐らくみんな知っていることなのです。それは良いことではないと。例えば、最近のテレビを見ていますと、ふつうこんな変な人間が出てきていいのかなと思われるような、言葉が悪いですが、社会不適合者が尊ばれています。どうして、このような極端に通常とはかけ離れた芸能人がテレビに出てくるようになったのでしょうか。私はここに、自分たちが抑圧されたものであり、本当はもっと個性を主張したいという欲求が表れているのだと思います。それが、ねじまげられて、社会不適合者がテレビに出て来たということなんだろうと私は思います。

-では、これからどうするのか-
では、どうしたらよいのかという問題です。先ほど挙げた読売新聞の記事では、「もめ事解決の知恵 革命の母」と題して、「悪口」の奨励をしています。山本幸二氏は「悪口を告げ口や陰口を含まず、公の場で使う物言い」としています。実は悪口は、物事を平和的に解決する手段なのだというのがここに書かれています。
現代社会では、あまりにも言葉の毒やトゲを抜きすぎた、いわば潔癖な状態です。だからみんな疲れてしまう。悪口というのは、他人に直接、対等な立場で言う意見です。この意見を言うことによって、他者理解が深まるのではないかと私は考えています。
他者理解の方法が、今の状態は極めて危険な状態なのです。現在の他者理解は、最初から出来ているものという不思議な前提が登場しています。「以心伝心」、私たちは話さずとも、もう御互いのことをわかりあって、わかるからあえて言わないというような状況になっています。これはある意味では、日本の美徳です。外国人ではできないことです。ですが、これが今悪い方向へ向かっている。極端になりすぎているのです。
私は文学が専門ですが、言葉を用いたものを扱っている関係上、本当に他人の気持ちというのは簡単に分からないものだということが実感としてあります。それなのにも拘わらず、みんなが知ったかぶりで、他人のことはわかっているという感情がどこかにひそんでいるのです。
これは、ある点ではコミュニケーショツールの発展によって引き起こされた弊害かも知れません。簡単に他人と繋がれるようになってしまったので、その簡単さが誤解して、他人のことも簡単に理解できるという意識に変換されてしまったのかもしれません。
ですから、今ここで振り返らなければいけないのは、他者はそう簡単に理解できるものではないぞという前提です。

これから求められることは、相手や空気のことを読みすぎることではなくて、一旦ぶつかることによって他者を理解するということです。人間なんて分からないことだらけなのですから、他人へ気兼ねなく意見を述べて、そうして全く異なる価値観、考え方、生活スタイルなどをぶつけ合わせることによって理解していくというやり方です。
ここで気をつけなければいけないのは、一方的な自己主張になってはいけないということです。ややもすると、では意見を述べればいいのだなという短絡的な考えに結びつきかねません。ここでは、本来の目的は何かをいうことを念頭におく必要があります。それは他者理解です。ですから、本当は相手の意見を聞いて、それを認めるということが必要になるわけです。そのためには、自分も意見を述べなければいけないよということなのです。

また、もう一つ注意しておきたいのは、相手との意見のぶつけあいで感情を爆発させてはいけないということです。感情の爆発と、心を閉ざしてしまうことは、相手との関係を絶つ点では同じです。順序を踏んで、御互い対等に意見を述べ合い、耳に痛いことも聴く忍耐が必要なのです。
今までの安易な関係の中に閉じこもっていて良い時代は終わりました。これからは、ある意味では辛い時代でしょう。他人とぶつかりあう必要があるのですから。しかし、そうした痛みを感じることによって、また他人の痛みも分かることになると感じます。そうしたぶつかり合いを通じることによって、豊かな人間性が育まれるのではないでしょうか。
ことなかれ主義の風潮があまりにも強いと感じたので、その危険性とどうしたらよいのかということを考えてみました。

綿矢りさ『勝手にふるえてろ』試論 感想とレビュー 綿矢文学を読み解く指標

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-はじめに-
他の作家に比べて比較的遅筆な綿矢りさですが、この作品も数年の空白の後に書かれて登場しました。「勝手にふるえてろ」という一瞬相当強い言葉にも感じられるタイトル。この作品は、江藤良香(よしか)という主人公の一人称小説です。

-綿矢文学を読み解くキーワード-
綿矢文学には、今のところ二つの段階があると私は感じています。一つは主人公の年齢が学生であること。ティーネイジャーと言ってもいいかも知れません。いまのところ大学生がモデルとなった作品がないのでこの大学生がかかれた場合は、学生小説に入れるのか、どうするか議論が分かれるところでもあると思います。もう一つは、OL小説。これはどちらかというと、作家レベルで考えれば綿矢りさ自身とほぼ同年代の女性がモデルになっている小説です。
大別すると、綿矢文学は、学生小説と、OL小説の二つに分かれると考えることが出来ます。そうして、この二つにはさらに、胎内回帰願望と、外界へ向かおうとするリビドー(情動)という二つの相反する概念が付加されていると私は思います。
今まで見た『インストール』と『蹴りたい背中』は内向の小説であったと考えられます。そうして、昨年出版された『かわいそうだね?』は完全な外向の作品。以前この『かわいそうだね?』を論じましたが、私はこの作品がどうして大江健三郎賞を受賞したのかまったくわかりません。私はこの作品は綿矢作品のなかで最もよくない作品だと考えているからです。それは、初めて完全な外向をしたために作品が大きく失敗していると感じたからです。それをある意味では、作者も感じていたのかもしれません。その次の作品となった、去年刊行の『ひらいて』は、再び内向作品となり、私はこの作品に大変感銘を受けました。
今回論じる『勝手にふるえてろ』は、内向から外向へうつろうとしていることが感じられます。この作品はちょうど『蹴りたい背中』から『かいわいそうだね?』の中間で書かれたのです。

また、綿矢文学を読み解いていく上で重要なキーワードは、三角関係と、ヴァルネラビリティです。ヴァルネラビリティ(vulnerability)とは、人類学では、攻撃を招きやすい性格のことををいいます。「攻撃誘発性」とか「被撃性」と訳される概念です。社会学や現代思想の分野では「可傷性・暴力誘発性・傷つきやすさ」などと訳されます。(広辞苑より引用)
綿矢文学のヒーローは、しばしばこのヴァルネラビリティを付加された造形になります。簡単に言えば、クラスのなかのいじられっこ、いじめられっこということです。この攻撃誘発性は、『蹴りたい背中』が最も顕著に現れました。にな川は、まさしく初実にとって攻撃を誘発させる存在だったのです。ところが、ここではまだにな川は、初実だけに誘発させる存在でした。それが、『勝手にふるえてろ』では、クラスの全員から攻撃を誘発させる人物へと変化します。このヴァルネラビリティを有したヒーロー像は、『ひらいて』にも継承されています。
三角関係については、『かわいそうだね?』と『ひらいて』に顕著でした。この『勝手にふるえてろ』は、妄想して三角関係を擬似的に作り上げるということをしています。

-三角関係から、理想と現実の問題-
三角関係がこの作品でも主題となりますが、この作品の三角関係はほかの作品とは異なり、現実的には三角関係ではないということになります。妄想で、自分は三角関係である、三角関係になりたいと考えているだけなのです。綿矢文学でこれだけ妄想が烈しかった作品も珍しいともいえます。妄想だったという作品は、森見登美彦の『太陽の塔』の系譜があるとも考えることができます。
この作品では、彼氏が1彼と2彼というように分別されています。現代の女性にはこのような思考があるかわかりませんが、これは理想と現実という意味でも、深い試論になっていると思います。
この作品では、1彼が自分の理想。だけれども決して手に入らない(と思い込んでいる)。そうして、2彼が、現実。いいかなと思ったりするのだけれど、やはり気持ちわるいという嫌悪感を抱いてしまう(と思い込んでいる)。あえて、私がどちらの最後にも思い込んでいると書いたのは、やはりこれだけ妄想の強いヒロインだと、書いてあることが客観的に見たら本当のことであるか不明だからです。彼女にとっては、もちろん真実でしょう。しかし、真実と事実は=では結ばれません。事実は一つしかありません。しかし、それは真実となった際に、いくつもの真実が生まれるのです。

そうして、この作品では、便宜的に理想と現実という対比がなされ、非常に明確化されています。結論は、理想を切り離して現実に目を向けるという穏当な方向へ向かうことによって作品は幕を閉じます。しかし、この二人の彼氏の脳内対比は、我々現実世界のある一面を捉えていると私は感じました。
この作品では、理想の彼と、現実の彼はどちらも実体として存在しており、別の人物です。しかし、もしこれが二人は別の人物ではなかったらと考えると非常に面白い考えができると思います。そうしてこの作品には、それを考えさせるテクストの空白があると私はかんじました。
私たちは彼氏、彼女と付き合っている際、本当に彼氏彼女を理解することはできません。本当の理解というのは、例えばエヴァで言えばATフィールドが無くなった世界、固体と固体の境界性が分からない世界にならないと得られないのです。そうして、私たちが普段他者を理解しているのは、自分のなかに作り出した他者のイメージを理解していることに過ぎません。
ですから、付き合っている人がいるとして、その付き合っている人を理解するということは、自分のなかに抱いた彼氏彼女のイメージを理解しているだけなのです。この作品は、その自己のなかのイメージと、物理的、現実的な彼との折り合いをどうつけるかという問題でもあると思います。ただ、それをそのまま描くのは非常にややこしく難しいことですから、あえて便宜上二人を別人としたのです。
だから、本質的には1彼と2彼は一緒だということもできると私は思います。自己のなかの他者のイメージと、客観的な彼。この二つがもしだんだんと離れていってしまったらどうするのか、それを問題にしているのです。

他者理解というのが、この作品の根底には含まれているのです。会社を辞めるというところで、すでに一から二、つまり理想から現実へ移行したことがわかります。そこから、ではどうやって現実を受け止めていくのかという問題です。ここで両親が電話で登場するというのは、親子の関係性が他者理解の根底にあるという意味を含んでいると私は指摘しておきます。
そうして、ヨシカを理解するにはどうしたらよいのかということで、ヨシカは二彼にアニメイトに2時間一緒にいたらわかるということを述べます。ただ、そのようなことをしても決して全て、完全に100パーセント分かり合えるわけではありません。それはヨシカも分かっているのです。ですから、理想からはなれて現実をとったとしても、その現実もやはり理想でしかないのです。100パーセント現実はないのです。最後の「二」という表象が、「霧島」という固有名詞に変わったのは、現実も1パーセントの理想が含まれているということに気が付いたからなのではないでしょうか。
完璧、完全から離れて、ある程度の現実でしかないということを認めることが出来たというのが、この作品の最後に繋がっている問題ではないかと私は思います。

-最後に-
一つ残る疑問は、この一彼が一体なんだったのかということです。一彼はヨシカが現実に目を向けるようになってから消えていってしまいます。この攻撃を誘発させるような、脆弱な少年の存在は一体なんなのか。どうして、綿矢文学に出てくる彼らはそのような引力を有しているのか、それがまだ分かりません。
また、この作品には短編『仲良くしようか』が同時掲載されています。この短編は、いくつかの場面が交錯しているために、非常にわかりにくい小説になっています。いずれこれを精読してみようとも思っていますが、ここではこの作品は少女マンガ的作品と指摘しておきます。特に80年代90年代の少女マンガは、内向が極限まで極められた時代です。いくつもの心理的な階層の言葉が同時並行的に羅列される。そのため、最後は読者もわからなくなってしまったくらいです。
そうした、自分の内面、記憶、心理的階層が幾重にも重なって出来ているため、わかりにくいのです。これはそれぞれ解きほぐして分別すると、そこから見えてくるものがあると思っています。

綿矢りさ『蹴りたい背中』試論 感想とレビュー 弱者の文学から攻撃性と攻撃誘発性

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-はじめに-
2001年の華々しい文学界デビューから3年。2004年に発表した今作『蹴りたい背中』で綿矢りさは芥川賞を史上最年少で受賞します。同時受賞となった金原ひとみの『蛇とピアス』とともに、日本の純文学会が若手の力で最ももりあがった時代といえるでしょう。
私はこの作品が綿矢文学の最高傑作であると思っています。それ以降の作品が、残念なことに作家レベルで質が落ちてきていると思われるからです。しかし、このように批判するのも、綿矢りさがまだ若く、作家としての力をさらに伸ばすことができると信じてのことです。

-綿矢文学の記号性-
「さびしさは鳴る」から始まるこの作品は、特に冒頭の数ページがすばらしいとの賞賛を受けています。私はそこまで感銘をうけはしませんでした。ですから私はマジョリティーの意見とは異なる感想を持ちました。さびしさは鳴るとは、あまりに文学的であるとも言えます。これは記号性の問題になると私は思います。
さびしさという言葉が、私たちが通常用いる用法とは異なった使われ方をしている。それは純文学でしか出来ない芸当です。これを翻訳することは出来ないでしょう。おそらく翻訳したとして外人が理解できるはずもありません。
綿矢文学の一つの大きな特色は、このように、記号が持っている意味を、ぶちこわしていくことにあるのです。そのぶちこわしかたは、宮沢賢治に似ていると私は思います。最も日本文学者のなかでオノマトペの使用に長けていたのは、間違いなく宮沢賢治だったでしょう。詳しくは宮沢賢治のオノマトペを研究した本がありますからそれを読んでいただきたいのですが、彼は人には想像できなかったオノマトペを使用しました。しかし、これは実はオノマトペを最初から作り出したのではなくて、今まで用いられていたものを再構築しただけだったのです。
太宰治も最もパロディのうまかった作家として位置づけられます。彼は、殆ど今で言ったら盗用、盗作、コピペといわれても仕方のないようなものを書いています。しかし、ほんのちょっと太宰がいじるだけで、立派な文学性を持つことになるのです。
太宰の文学性を否定する研究者もいます。やはりそのまま写しているだけだから創作性を認められないということです。しかし、現在では一般に、作家が独自の記号そのものを創作することはできないのだから、再構築した太宰は、そこに創作性があるとして認められています。
綿矢りさは、このような再構築に長けた作家であると私は思います。この通常とは異なった言葉の用い方が、当時の人々の感性を刺激したのでしょう。ただ、記号性を重んじている私としては、読みづらいというのはあります。さびしさが鳴ると聴いて、意味が理解できるかと言われたら、なんとなくはわからないでもないですが、咄嗟には理解できない。私はこの冒頭は特に何が書いてあるのかわかりませんでした。
しかし、言葉の芸術として考えた際には、やはりこれほど美しく言葉を紡ぎだすことは誰にもできないとも感じられます。綿矢文学の文学性を求めるとしたら、この記号性の問題があると私は思います。

-弱者の文学-
綿矢文学の全てに反映されているエッセンスがこの作品には濃縮してあります。ですから、このエッセンスを読み解くことが綿矢文学を読み解くことにもなると私は思います。
先ずは、「いたい子」としての文学。綿矢文学は、なぜか主人公や登場人物が「いたい」。この「いたい」というのは、俗な表現のようなもので、物理的に痛いのではなくて、説明がとても難しいのですが、精神的に見ていてこちらが辛くなるというような感じのことを言います。この作品の主人公長谷川初実とにな川は、クラスから除外されてしまった人物です。この作品は、そうした面で見ると、朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』のように、教室のヒエラルキーの敗北者たちに視点を当てた文学であるとも読み解くことができると思います。
強者の論理はもう終わったのです。作家が特に描いてきたのは常に発言することを抑圧されてきた弱者のことです。弱者の言葉を代弁することが作家の一つの大きな役割でした。00年代に入ってから、特にその弱者が若者のなかに存在していたことに、多くの作家が気が付いたということだと私は思います。
これが、綿矢文学で描かれる登場人物が、一般社会ではマイノリティーとされている弱者の言になっているのです。これは私の論ですが、綿矢文学を論じるうえでもう一つ考えたいのは、ルネ・ジラールの提唱した『欲望の三角関係』です。
ルネ・ジラールは今まで三角関係を扱った作品を新たな枠組みで捉えなおすという偉業を成し遂げました。ジラールは「欲望する主体と欲望される対象の間に、主体にそれを指し示して欲望させる、媒体となる第三者の存在」を発見しました。これがメディエーター(媒介者)です。つまり、主体と対象の間に、媒介者があるという指摘です。夏目漱石の『こころ』もKがメディエーターであったと読めることが出来ますが、今までの作品同様、「私」と「あの人」の関係のライバルとしてのメディエーターが登場しているだけでした。綿矢文学は弱者の言の代弁であると言ったように、ここでも、メディエーターとして片付けられてしまう、通常は恋が成就しない人間が主人公になっているということができないでしょうか。だから、綿矢文学で三角関係を描いた作品は、ことごとく主人公が破局するということになるのです。

-攻撃性と攻撃誘発性-
弱者を描いた作品ですが、その弱者たる主人公初実とにな川の間にも上下関係があります。自分がクラスののけ者であることを認識している二人ですが、そのなかでも初実は自分のさらに下ににな川を位置づけようとしているのが、この少女のモチベートであると私は感じます。これが不思議なタイトルである『蹴りたい背中』に繋がってくるのです。
この少女もまた、綿矢文学に登場するほかの多くの少女と同様、エネルギーの有り余った少女です。突発的な情動が起こるのがこれらの少女の共通した特徴です。
この初実に関しては、そのエネルギーの発散される対象はにな川に向けられます。にな川は、悪く言えば確かにアイドルオタクで引きこもっていて一般人が見ても気持ち悪がるような男ですが、もちろん彼に罪はありません。しかし、初実は、彼の部屋まで入れてもらって、突然彼に暴力行為をしたくなる衝動に駆られるのです。
ここから、先ずひとつ少女の突発的な情動の攻撃性が窺えます。これは先ほども述べました。しかし、それと同時に、少年の側から見ると、少年にはヴァルネラヴィリティー(攻撃誘導性)という珍しい性質が備わっているとも考えられます。これが綿矢文学の男性の持つ性質なのです。これは『ひらいて』で特に顕著になり、私は綿矢文学がその出発点に帰ってきたのだと考えています。
突然接吻したりというのは、最も少女の攻撃性と、少年の攻撃誘発性が引き起こした行為の大きなものでしょう。しかし、綿矢文学を読み解くもう一つの視点、関係性から見ると、この少女はにな川を自分の方へ振り向かせたかったのだとも考えられます。にな川は、宗教的な崇拝に近い感覚でオリちゃんというアイドルの熱狂的なファンでした。そんなオリちゃんに思いを寄せるにな川を見て、初実はどうしても暴力の衝動が出てくるのです。それはつまり、最終的な行為であり、また根源的な行為でもある暴力によって、にな川をオリちゃんから引き離して自分に振り向かせようという行為なのだろうと私は思います。
この物語は、最後ベランダで二人の会話の場面で終わります。特にとりとめのない終わり方なので、多少このエンディングがハッピーなのかどうか不明な点がのこりますが、関係性から読み解くと、オリちゃんへの気持ちが遠のいて、初実に向けられ始めたと考えることができます。そうすると、これは関係性が新しく変動したということになりますから、一応初実の願望は叶えられつつあるというエンディングになっているのです。

-終りに-
この作品は、夏という限定された季節、さらに主人公たちが場所を移動しているとは言え、どうしても閉塞感を感じます。それは、おそらく描かれる場所が、教室、にな川の部屋、ライブ会場と、どれも閉塞された空間だからです。暑い夏に、このような場所にいたらどのように感じるか、暑苦しくてかなり辛い状態だと思います。この作品は、こうした意味でも全体的に引きこもる文学であると言うことができるのではないでしょうか。
この「引きこもる」意味について、綿矢文学は、これから社会に出たOLとして「引きこもる」ことをやめてしまいます。しかし、それはやはり綿矢文学から離れてしまったことなので、読者には受け入れられないことがあるでしょう。ただ、だからといってまた引きこもればいいのかということにもなりません。新たな空間を、作家が見つける必要があるのかも知れません。

綿矢りさ『インストール』への試論 感想とレビュー 母体回帰小説として

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-はじめに-
平成の文学を研究する上で、最も若い純文学の女性作家、綿矢りさは決してはずせない存在であると私は思います。作家という稀有な存在のなかでも、最も若い人間が、一体今何を見て、考え、それを書いているのかという問題があると思うのです。『インストール』を17歳で執筆し、一躍有名となった綿矢りさの、処女作品から作品順に綿矢文学を読み解いてみたいと思います。

-インストールされる少女・おしいれから新たな関係性の構築-
2001年に『インストール』でデビューした綿矢りさ。2001年といえば、もう10年以上も経過してしまいました。2001年では、まだコンピュータがそこまで普及している時代ではなかったと記憶しています。学校には、もうPCルームが作られていたとは思いますが、今のような携帯型のタブレットはなく、専ら今で言うガラケーが主流の時代でした。そうした時代に、時代の最先端を行くかのように表れた『インストール』。ここで問題となっているのは、やはり「わかさ」だと私は思います。
「若さ」を持て余した主人公の朝子は、そのエネルギーをどこに向けるのか、これがこの作品の主題となっているのです。若さというのは、最先端というイメージをも連想させます。しかし、この作品で登場するパソコンは最初ポンコツとして描かれるのです。それは丁度朝子と同じ。最先端であるはずの、朝子。つまりこれは高校生であることの若さのイメージ。しかし、変にいじくったためにポンコツになってしまったパソコンと、若さを持て余した朝子が見事に一致する造形となっていると私は思います。

この若さを持て余してしまった存在、ポンコツをどうしたらよいのか。この作品で、この少女を更新するのはさらに若い小学生の少年かずよしです。かずよしは、非常に不思議な存在として登場します。家族、特に母親の描写はありますが、ほとんど生活感の感じられない描写になっていると私は思います。ですから、ある意味外界から来た来訪者としての位置づけがされているとも言えるのではないでしょうか。
かずよしは、ただでさえ若いけれども、その若さを持て余してしまった少女を更新、インストールする役割を負うのです。この少女が若さを持て余してしまった原因は、大学受験という存在。自分の力を外界からの欲求に合わせることが、ふと正しいことなのか疑問に思ったことによって、この少女は力をそこに使うことをやめてしまったのだろうと思います。だから、外界からの自分を切り離して孤独になってしまった存在なのです。
この少女は、その社会との関係をどうするのかという問題に、かずよしの力を得て、母体回帰をしているのだと私は考えます。母体回帰は全ての存在が望んでいる一つの願望だといわれますが、時間と空間を超え、母親の胎内に戻ることがこの上なく幸せな世界であるのは納得のいく話です。
この小説では、朝子の母親の造形が実に母親らしくなく描かれています。ですから、ここには根本的に母親の不在が横たわっているのです。それが母胎回帰にも繋がっていると思われるのですが、ここでは直接自分の母親に向かうよりか、かずよしという外界からの来訪者の力を得て、おしいれの中に入り込みます。
これは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の井戸に篭る、引きこもり文学との共通性も感じられます。ここでは擬似化された胎内、おしいれに篭ることによって、一旦彼女は原点回帰するわけです。そうして、その母胎のなかで、彼女はパソコンというコミュニケーションツールを使用して、新たな関係性の構築を目指します。今までの関係性を破壊して、それから胎内に戻り、再び別の関係性を構築しなおすという作業をするのです。しかし、その胎内で構築した関係は、とても高校生や小学生が手を出すようなものではなく、大人の世界なのです。

暗闇のもつイメージが、エロティシズムと関連していると感じられます。胎内というのも、ある意味ではエロティックです。生命というのは、そもそもエロスそのものです。ですから、そうした意味でもおしいれの中で築き上げる関係性が非常にエロティックなものであるということは、理解できます。
しかし、彼女がこの小説の最後で選ぶ関係性は、この大人の関係でもありません。今までの関係でもなく、大人の関係でもない。大人の関係を構築してみたことによって、今まで一元的だった彼女の関係性が多様的になったと私は考えます。ですから、一元的で自意識のどん詰まりから抜け出せなかったのが、新しい世界、価値観に触れることによって脱却することが出来たという構図がこのテクストの構造だと思います。

-終りに-
綿矢りさの最初の作品から、その根底には関係性の問題が横たわっていると私は思います。それは、新潮文庫版で塀録されている『You can keep it.』にも見られます。綿矢りさの短編は非常に読みにくいと私は感じます。それは、おそらく主語が不明確になっているのと、綿矢文学の独自性でもある、言葉の使い方の問題だと思います。
この短編も非常に読みにくいと私は感じますが、これを関係性で読み解くことが出来ると思います。他人との関係をどうむすぶのか、これは社会的動物である人間にとって最も根源的な問いであります。この短編では、城島という男が、他者との関係を結ぶのに、何かものをプレゼントして、あげるものともらうものという簡単でわかりやすい構図を作ることを多様している部分から物語が展開します。ここでも、結局はそんな安易な「モノ」による関係性の構築の否定と、「イツワリ」への厳しい指摘がなされていると感じます。物語最後で、好きな女の子綾香に話のきっかけを作るためについた嘘がばれて、今までの関係性の構築がすべて否定されます。今までの関係が「モノ」による関係から、「モノ=イツワリ」という意味を持ち出します。それが、結局は彼の破滅を導き、そうして本音をこぼすというところから、新たな関係性が生まれるかもしれないという場面で物語りは終わります。
他者との関係という、もっとも根源的で、それでいてあまり普段意識されない問題に綿矢文学は試論をしているのだと私は思います。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十五

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平岡への手紙
P313ℓ13「筆を持ってみたが、急に責任の重いのが苦になって、拝啓以後を書き続ける勇気が出なかった。」
驚いた三千代の表情に押されるかのようにして書き始めた平岡への手紙ですが、やはり臆病風に吹かれて拝啓以降書くことが出来ません。小説内時間では、ちょうど代助がこの手紙にてこずっている時に、三千代が倒れたということになります。
平岡、代助の呼び出しに応じて来訪
平岡の語る三千代情報
P323ℓ14「三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾を持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。その晩は遅く帰った。三千代は心持が悪いといって先へ寐ていた。どんな具合が悪かと聞いても、判然(はっきり)した返事をしなかった。翌日朝起きて見ると三千代の色沢が非常に可くなかった。平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎えた。医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血のためだと云った。随分強い神経衰弱に罹っていると注意した。平岡はそれから社を休んだ。本人は第十部だから出てくれろと頼む様に云ったが、平岡は聞かなかった。看護をしてから二日目の晩に、三千代が涙を流して、是非詫(あや)まらなければならない事があるから、代助の所へ行ってその訳を聞いてくれろと夫に告げた。平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかった。脳の加減が悪いのだろうと思って、好し好しと気休めを云って慰めていた。三日目にも同じ願いが繰り返された。その時平岡は漸やく、三千代の言葉に一種の意味を認めた。すると夕方になって、門野が代助から出した手紙の返事を聞きにわざわざ小石川まで遣って来た」
三千代は代助訪問の翌朝卒倒した
翌日医者の診察 「随分強い神経衰弱」
看護をしてから二日目の晩 三千代の涙の謝罪
三日目にも同じ事が繰り返された
「君の用事と三千代の云う事とは何か関係があるのかい」
「どうせ間違えば死ぬ積りなんですから」
平岡の情報が伝える三千代像と代助が見た三千代像との落差
覚悟を決めた、死ぬ積りであるといった強い意志を見せていた三千代。代助はその強い三千代に押されるようにして、平岡への手紙を書き始めます。しかし、上で引用した部分では、三千代の像がいままでの代助が見ていた三千代とはかなり異なります。上の引用部分は長いナレーターによる要約です。平岡の言葉を要約しています。ですから、平岡がどのように語ったのかは読者に開示されません。平岡が情報を操作しているとも考えることが出来ます。
平岡の情報は事実か、作り話か
結論から言えば、これはどちらとも言えません。答えが小説内にはないからです。これを文学用語ではテクストの空白といいます。事実か嘘かはわかりませんが、平岡はこの話しにおいて第三者ではありません。平岡は当事者なのです。ですから、どちらの可能性もあるとしか言えません。
平岡来訪は、代助が手紙を出してから六日目(考える時間は十分ある)

事実だとしたら
可能性① プレッシャーに神経が堪え切れなかった(この可能性は低い)
可能性② 臆病な代助の退路を断って平岡への告白を確実にするため
 「君の用事と三千代の云う事」との「関係」を糺す平岡
  助けは告白するしかない
可能性①は、代助がみた三千代像からはちょっと想像できない状態です。罪悪感に押しつぶされてしまうほど弱い三千代ではありません。ですから、三千代が「驚いた」ように見えたという部分も考慮すると、臆病で行動にふみきらない代助へ平岡を差し向けたと考えることができます。ここでは代助から逃げ場を奪ったという可能性が出てくるのです。

作り話だとしたら
三千代と代助の関係を察知した平岡の「かまかけ」または先制攻撃
ここで一つ注意してみておかなければいけないのが、代助は封書を何処に出したのかということです。P316ℓ1「代助はわざと新聞社宛でそれを出したからである」とあるように、家ではなくて社に出しています。同じ封書を家にだすのと、社にだすのと違いはどこにあるのでしょうか。それは三千代がいるかいないかということです。家に出せば、当然代助から平岡宛に封書が届いたことが三千代にもわかります。三千代は夫宛の封書を開けることはありませんが、代助から来たということさえわかれば、その内容はおのずとわかります。そうして、平岡がこの封書の内容を三千代と話すという場面を作り出したくなかったというのが、代助が社へ送った理由だと考えられます。しかし、そうすると、三千代からは二人がどうなっているのか全くわからないというようになります。
三千代の謝罪が事実がどうか不明
確かなことは三千代不在の場で、男同士だけで「三千代さんをくれないか」「うん遣ろう」という所有権譲渡の会話をしていること
三千代の謝罪が事実かどうかは永遠の謎です。それをこのテクストから読みとることはできません。作り話の線で考えると、三千代の言動が気になります。三千代は合計で四回の訪問をしていますが、一回目の訪問が借金の工面で、平岡との間になんの緊張関係もありません。二回目はその借金の工面のお礼とお詫びです。これも平岡とはなんの緊張関係はありません。三度目は、ゆり、告白です。ここでは迎えにやった際には、車をだしていますから公然とした、秘密性のない迎えでした。四度目から、三千代は普段着のままでないと出られないというような、平岡から外出を以前より厳しく管理されている印象があります。そうすると、P311で「気づいているかも知れません」は、気づいていないかも知れないという50:50で考えるのではなくて、平岡は気が付いていると考えられます。そうして、平岡は代助と三千代に何かあるだろうと考えて、見当がおおよそ付いていたと考えることができます。そこで、はげしく三千代を、それこそ暴力的に問いただした可能性も出てきます。三千代の病気の原因はこの平岡の問い詰めに対するものとも考えられるのです。
P329では、三千代が居ない場で、男同士が勝手に所有権譲渡の話しをします。この小説は女たちが消えていく小説になっていて、一人は三千代、もう一人は嫂が消えていきます。この女性排除は、代助が平岡宛の封書を社に出したところから始まります。情報のみでは出てきますが、本人たちはもう出てきません。

小説の終末部 女たちの排除された世界で「赤」一色
平岡、代助、誠吾
梅子も退場している
P337で再び代助がストーカーのような行為をする場面ですが、「忽ち時分は平岡のものに指さえ触れる権利がない人間だと云う事に気が付いた。代助は恐ろしさの余り馳け出した」とあり、象徴的に三千代のいる世界から逃げ出すという構図が出てきます。そうしてP342で勘当される代助。三千代という単語は、勘当される前のℓ4を最後に、その後出てきません。そうして勘当された後は、「門野さん。僕は一寸職業を探して来る」と言って、三千代のところへは向かいません。P344で一種の狂乱状態に陥っている代助は、最後の行で、「代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した」となっています。ここでもやはり三千代のところへは行こうとしていないのです。三千代の三の字も出てこなくなり、代助、平岡、三千代のその後の関係が不明になっています。
やはり、ここで考えられるのは、代助が男同士の話し合いにしようとした時から三千代との関係は絶たれているということです。
P291ℓ13「あらゆる場合に於て、彼の決して仕損じまいと誓ったのは、凡てを平岡に打ち明けると云う事であった」
ここからホモソーシャルの問題が出てきます。
ホモソーシャルとは、ホモセクシャルとは異なり、同性愛を嫌悪します。ホモソーシャルは男同士の親密な関係が優先されて、女はそれに従属するものであるという家父長的な傾向があります。男らしさというジェンダーから解放されいているように見えた代助ですが、彼もホモソーシャルです。女性より、男性同士の関係が優先されているということです。これは『こころ』にも『三四郎』にもいえることです。今日でもホモソーシャルの問題はあります、100年前の小説を読んで現在のことを考える必要が私たちにはあるのです。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十四

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代助なら満点の夫候補 (財産家の次男、三千代の財産を必要としない)
しかし「平衡を失った」=喜びではなく不安定
代助は平岡から三千代を奪われたのではありません。これは以前にも見ましたが、反対に尽力したのです。これは『こころ』とは反対の構図です。「恋愛よりも友情の優先」をしたと一見すると読めますが、実はこれは再現の昔で、違うということを認識しておく必要があります。
三千代は結婚を急がれていました。そうして、当時は水商売でない堅気の世界で女性が独りで生きていくことが難しい時代だったということを考慮しなければいけません。代助は、そんななか候補としては満点でした。次男ということは嫁姑の問題も少ないです。しかし、代助は結婚に重きを置いていて、渝わらぬ愛を誓えないと考えた時に、恐ろしくなって逃げ出したのです。

P80ℓ15「学校を出た時少々芸者買いをし過ぎて」
芸者買いは平岡と三千代の結婚の周旋を開始する前
本心を抑えた周旋の反動として芸者買いをしたのではない
漱石小説では珍しい芸者買いをする人物として代助は登場します。漱石は明治の人間としては珍しく、芸者などの世界とは関係の無い人間だったようです。ここで、注意して見たいのは、代助が急に芸者遊びに夢中になった時期です。恐らく無計画に兄にお金の工面をしてもらわなければならない程に芸者遊びをしたということは、誰の目からみても公然としていたのでしょう。当然それは三千代に目にも映るはずです。そうしてそれを行った時期が、学校を出た時、三千代との結婚が急がれていた時です。しかし、ここで注意しなければいけないのは、平岡のために周旋している際に本心を抑えたための反動ではないということです。
代助は三千代との結婚を考えた際に、恐ろしくなってびびってしまったと考えられます。ですから、その恐怖から逃げ出すための芸者買いであって、恐らく平岡が三千代のことを欲しいと言ったときには、奪われたというより寧ろ安心したと考えられます。
不変の(渝わらぬ)愛を誓えなければ結婚してはならない
自分には三千代に不変の愛を誓えない
結婚からの逃走としての芸者買
代助の行動を見て三千代は、代助三千代を「棄ててしまった」
自分には三千代に対して永遠の愛を誓えないと考えた代助は、露骨に公然と芸者買をし始めるのです。そうして、当時、身寄りがいなくなって今すぐにでも結婚しなければいけないという状況下ので、三千代が代助の行動を目にすれば、代助が自分のことを捨ててしまったと考えれるのは当然のことです。
P279ℓ3「あの時兄さんが亡くならないで、未だ達者でいたら、今頃私はどうしているでしょう」~「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」
あの時というのは、代助がこれ見よがしといわんばかりに芸者遊びをしている時だと考えられます。

三千代と平岡の結婚に尽力したことがなぜ「今日でも」「鮮やかな名誉」なのか
不変の愛を誓えないままでは結婚しないという「道念」を守った
友情のためと今では考えている代助ですが、現在は偽善を否定するようにもなっています。ではどうして平岡と三千代の結婚への尽力が偽善ではなくて、メッキではなくて、鮮やかな名誉なのでしょうか。それは恐らく代助の、自分は不変の愛が誓えないままでは結婚しないという「道念」が守られたからだと考えられます。ある意味では、これは代助のエゴイズムです。

平岡から三千代との結婚希望を告白された代助の尽力
a 死んだ親友の妹の危機を救う努力をする自分に満足
b 平岡との友情に厚い自分に対する満足
平岡への友情を三千代への愛よりも優先させた美談ではない
三年前の心象の解釈はこの二つが出来ると考えられます。代助の尽力が鮮やかな名誉であるのは、代助内でのこのような満足があったからなのです。ですから、代助が言うような友情のための尽力ではなくて、つきつめて言えば彼のエゴイズムの問題になります。平岡の告白は、ですから三千代との結婚におびえていた代助にとっては、さらに彼を苦しめたというよりは、むしろ喜ばしいことであったはずです。平岡に代助は救われているのです。

8 三千代の涙の謝罪
三千代の最後の代助訪問
P311ℓ5「―この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」「平岡君は全く気が付いていない様ですか」「気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫よ。だって何時殺されたって好いんですもの」
ここで、三千代は読者もびっくりするくらいの、覚悟を持っていることが述べられます。平岡が気が付いていないというのは、一つには指環が、紙の指環を通して、三千代と代助の秘密の指環になったことと、もう一つは愛の告白がなされたことについてです。ここで、三千代は気が付いているかも知れませんといっているので、恐らくこの文脈からすると、平岡は気が付いていて、そのことに三千代も気が付いていると考えられます。平岡もすでに、三千代と代助の間になにかがあるなと感じているはずです。
P312ℓ7「僕が自分で平岡君に逢って解決を付けても宜う御座んすか」と聞いた。「そんな事が出来て」と三千代は驚いた様であった。「出来る積りです」と確り答えた。
ちなみに、御座んすかという語尾は、当時は男性も使用したようです。三千代が驚いたと表記されているのは、代助の目からみても驚いた様に見えたということです。三千代の驚きは二つの解釈が出来ます。代助の台詞が予想していなかったことに対する驚きと、演技することによって代助をそそのかすということです。どちらにしても、代助には驚いたように見えたのは事実です。

P37ℓ5代助は無論臆病である。臆病で恥ずかしいという気は心(しん)から起こらない。
P291ℓ13「あらゆる場合に於て、彼の決して仕損じまいと誓ったのは、凡てを平岡に打ち明けると云う事であった。」
平岡に話すということは姦通罪(姦通ではなく)への道
代助は臆病で、彼自身それを認めていますし、男だからといって強くなければならないという考えはありません。臆病で結構という心持の人間として描かれます。これは、ジェンダーの問題で、代助は比較的ジェンダーからは解放されていると考えることができます。
しかし、その臆病な代助が、何があっても決してやり遂げると決めていることは平岡への打ち明けなのです。これは臆病な代助からしたら、相当勇気が必要なことです。そうして、たとえ三千代と代助の間に、性的な関係がなかったとしても、つまり姦通していなかったとしても、姦通罪へ進む道なのです。姦通罪は刑事犯罪ですから、自ら犯罪を作りにいくことになります。
三千代は代助をその方向に進ませている
代助は三千代に対して、平岡に告白すると宣言しています。しかし、まだここでは代助の心の中の決心です。ですから、それを実行へと移させるためにも、三千代は驚いて見せたと考えることもできますし、これだけ意思の強かった三千代がその翌日に、泣いて平岡に謝っていることにも繋がってきます。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十三

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7 代助はなぜ平岡と三千代との結婚実現のために尽力したのか
P281ℓ11「僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」「打ち明けて下さらなくっても可いから、何故~何故棄ててしまったんです」
代助が三千代をどうして平岡と結婚させたのか、ここを考える必要があります。ここの会話から、三千代は当時代助から棄てられて、しかも代助と結婚したがっていたことが明らかになります。
平岡との最後の会見(座蒲団に坐った後)
P330ℓ16「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ~その時の僕は、今の僕ではなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みをかなえるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。」
再現の昔
ここで代助が述べていることは、そのまま鵜呑みには出来ません。再現の昔ということを以前にも述べましたが、これは現在の代助によって作り直された過去のイメージです。本当にこう代助が思っているのではなくて、紫の座蒲団を見て、その座が欲しいという欲望を喚起され、それを正当化するために変容させた気持ちなのです。

真鍮とメッキの比喩
P97ℓ13「けれども今の自分から三四年前の自分を回顧してみると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使い回していた。鍍金を金に通用させようとする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。と今は考えている。」
三四年前の代助 自己の道念(道徳のようなものと考えられます)を誇張して・・・鍍金(メッキ)を金に通用させようとしていた。
                            ↓
今の代助      真鍮は真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽

自分をよく見せようとしちえない今の代助にとって「三千代を平岡に周旋した」ことは、「今日に至って振り返ってみても、自分の所作は、過去を照らす鮮やかな名誉」
P142ℓ3「三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であった。それを当時に悔る様な薄弱な頭脳ではなかった。今日に至って振り返ってみても、自分の所作は、過去を照らす鮮やかな名誉であった」
三千代を平岡に周旋したことは「鍍金」ではなかった
かつては、鍍金を塗ってでも金に見立てようとしていた代助ですが、現在においては真鍮なりの相当なものを甘んじて受け入れたほうがいいと考えるにいたっています。つまり虚飾や偽善を否定するようになったのです。しかし、そんな彼でも、かつて平岡に三千代を周旋したことは鮮やかな名誉であると考えています。今思ってもメッキではない、心からの行動だということです。
ですから、
「友達の本分」という「道念」が「周旋」の真相ではないだろう
ということになります。

三四年前の代助―「結婚」からの逃走
P123ℓ1「代助はこの二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になった如く、結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めていなかった。」
          ↓一年の差・裏返せば
*「三四年前」は、「結婚」に対して重きを置いていた
ここでの、一年の差は大きいと考えたほうが良いでしょう。
P287ℓ15「遂に三巴が一所に寄って、丸い円になろうとする少し前の所で、忽然その一つが欠けたため、残る二つは平衡を失った。」ここで、どうして平衡を失ったのかを考えなければいけません。
当時代助が三千代への「渝わらぬ愛」を確信していたら、求婚していたはず
代助は「愛」に確信がなかったのではないか
まだこの時は、結婚に重きを置いていたため、重要なのは渝わらぬ愛、永遠の愛でした。この時すでに結婚に重きを置いておかなければ結婚はできははずです。代助は渝わらぬ愛を考えた際に、それを持ち続ける勇気が無かったのです。ですから、バランスを失い、三人の関係から撤退せざるを得ない状況になりました。逆から言えば、渝わらぬ愛、永遠の愛を三千代に対して確信できなかったとも言えます。

菅沼の病死によって「残る残る二つは平衡を失った」
三千代は結婚を急がねばならない環境
兄と母の死  父親の北海道移住
P235ℓ16「三千代の父はかつて多少の財産と称えられるべき田畠の所有者であった。日露戦争の当時、人の勧めに応じて、株に手を出して全く遣り損なってから、潔よく祖先の地を売り払って、北海道へ渡ったのである。」
一見すると見落としてしまう箇所ですが、三千代の父がどうして北海道に行かなければならなくなったのかは、上の通りです。人の勧めには当然騙しも含まれますし、ほとんど知識のなかった株に手を出して失敗したのが原因です。
P113ℓ10「思わざるある事情」とは何か
親類はあれども無きが如し
東京に三千代の保護者がいなくなる
父の北海道移住前に三千代が結婚する必要
父親は潔く北海道に向かうことを決めます。当時北海道にいくというのは、開拓をするためでした。政府からお金が支給されると聞いて行くものが多かったようですが、現地での暮らしぶりはあまり良いものとはいえません。そうしてそこに自分の娘を連れて行くことができないので、三千代はすぐにでも誰かと結婚させる必要がありました。当時んは女性が堅気の世界、水商売ではない仕事をして生活するということは殆ど考えられなかった時代です。ですから、女性は保護者が必要だったのです。父がいなくなるとすると、誰か夫をつくるほかありません。
『三四郎』の美禰子は兄が結婚するからということで、妹が追い出されるという構図でした。三千代の場合は父親はすぐにでも北海道に行かなければならない状況なので、物凄い大急ぎで結婚がすすめられたのです。代助は資産家ですから、三千代との結婚は両者とも最高の条件が揃っていました。にも拘わらず、ここで代助が平衡を失ったと考えるのは、永遠の愛を確信できなかったからです。P201ℓ7で、代助が現在渝わらぬ愛は偽善だと考えるようになっています。三四年前は、渝わらぬ愛を信じていた代助は、結婚に重きをおいていたため、渝わらぬ愛を貫ける自信がなく、そのために結婚から逃げたと考えることができます。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十二

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三千代の夫の座の象徴としての「紫の座蒲団」
何故紫でなければいけなかったのか、それを考える前に、座蒲団が象徴するものを考えましょう。
一種の政権奪取願望
この小説はややもすると、三千代にかつて恋していた代助が、平岡に三千代を奪われたと読み取られてしまいますが、そうではありません。代助は、むしろ平岡と三千代が結婚するのを周旋した人間です。ですから、奪われたのではなくて、逆にくっつけようとしていたのです。そうして、二人を結婚させた後、代助と夫婦の関係が重要になってきます。P21ℓ6「一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行の、京坂地方のある支店詰になった。」ここで、結婚した平岡と三千代はすぐに関西へ向かっているのです。ですから、結婚をさせたのは代助ですが、平岡と三千代の結婚生活、夫婦としての二人を見たのは、二人が帰ってきてからなのです。
代助は、それまで二人の友人でもあり、結婚を取り持った存在でもあったので、恐らく自分では夫婦に対して特別な立場にあると考えていたとおもわれます。特権的な位置にいると思っていたのです。しかし、紫の座蒲団を見ることによって、そこは自分の居場所ではないということを痛感し、自分には何の席も与えられていないということを悟ったのです。特別な立場にあると思っていた自分の位置が、何もなかった。それを痛感し、座蒲団の位置が欲しくなったと考えられます。

P237ℓ3例の「思い出した」ののち「必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでいたも同じ事だと考え詰めた時」。ここで、代助は、自分のなかで平岡より自分がその位置にふさわしいと論理立てて自分を納得させます。そうしないと、座蒲団を見た際の不愉快から、その位置を欲しいという欲望、自分の願望へ変化したことを正当化できないからです。

三千代に進められた座蒲団に坐った直後に青山から呼び出し(縁談)
父との会談
P299ℓ8「けれども三千代と最後の会見を遂げた今更、父の意に叶う様な当座の孝行は代助には出来かねた」
縁談拒絶
最後の会見を遂げた今更=座蒲団に坐ってしまった今更
最後の会見とは、三千代への告白よりかは、その後三千代を訪ねた際に、夫の象徴である紫の座蒲団で、それに坐ってしまったためと考えることができます。

運命を決めた座蒲団
「最後の会見」の場所は百合を飾られた神楽坂の書斎ではなく、平岡不在の伝通院の紫の座蒲団
P303ℓ16「三千代は精神的に云って、既に平岡の所有ではなかった」
このように代助が考える理由は、座蒲団に坐ったということによって支えられた自信によるものでしょう。そうして女性はその後この小説から姿を消して行き、男たちの権利を巡る物語へと展開します。

再度反転する「紫」
平岡に告白し、平岡が帰った翌日、代助は三千代が心配で平岡の家に行くが、家の中には入れない
ふたたびストーカー的構図
P336ℓ14~「代助は三千代の門前を二三度行ったり来たりした。軒燈の下へ来るたびに立ち留まって、耳を澄ました。~凡てが寂としていた。~忽ち自分は平岡のものに指さえ触れる権利がない人間だと云う事に気が付いた。代助は恐ろしさの余り馳け出した。」
ここでは、平岡の門前ではなくて、三千代の門前となっています。そうして、前回は音がしたのと比較して、今回は凡てがしずまりかえっています。
座蒲団は平岡のもの
紫はふたたび「青」→「赤」
紫は青と赤という両義的な色です。そうして、紫の座蒲団が夫の象徴として存在していたときには、赤の面が強くでていました。それが座蒲団の奪取ということで、青の意味に変化しました。しかし、それがふたたび、ここで赤に戻ります。
P338ℓ1「その晩は火の様に、熱くて赤い旋風(つむじかぜ)の中に、頭が永久に回転した」 
赤の連鎖の始まり
赤→青、青、→赤と二度反転した紫は、最後は赤一色になって視界をつつんでいきます。

平岡の「長い手紙」
代助がストーカーの様な行為をしていた際に、平岡は何をしていたのかと言うと、象徴的に考えれば「長い手紙」を書いていたということになります。当然そのような記述もありませんし、1分1秒という正確な時間は考えることは出来ません。しかし、小説として象徴的に考えた場合、ストーカーをしている際に、平岡は紫の座蒲団に座り、長い手紙を書いていたと考えることができるのです。
その翌日の朝「八時過ぎ」兄の訪問P338
早朝の配達 (速達はなかった)
代助が家の前を徘徊していた時間、平岡は家の中でこの長い手紙を執筆
姦通罪は刑事犯罪になるので、家の問題に関わってくるため、兄の動きは大変早かったと考えられます。そうすると、前日に届いていたとすれば、いくら遅くなったとしても夜に確かめにくるはずです。当時は速達の制度がありませんでしたから、この手紙は朝届き、そうしてその足で兄がやってきたと考えられます。二尺(60cm)にも及び、それでもまだ続くとされる長い手紙。便箋ではありませんから、一枚の巻紙です。このような長い手紙ですから、執筆にも時間がかかります。そうすると、やはり手紙を書いている時間と、ストーカーの時間は重なってくると考えられます。

六章の平岡
「平岡は机の前に坐って、長い手紙を書いていた」
もちろん「紫の座蒲団」の上で
P94で、代助が始めて平岡の家を訪ねた際に先ず目に入ったものが、手紙を書いている平岡の姿でした。そうして、わざわざ両方に「長い」という形容詞を語り手がつけるのかということは、小説内において、先取りの映像としての意味が付加されていると考えることができます。つまり、最後のストーカーをしている際に、物理的には見ることができない平岡の映像を、6章で見ているということです。当然P94の手紙は、青山宛でもなければ小説には何の影響を与えるものではありません。しかし、このように先取りの映像として、語り手が語っていると考えれます。
この日も紫の座蒲団の上で机に向かって青山あての「長い手紙」
〈赤い〉座蒲団

P69ℓ8「ダヌンチオと云う人が、自分の家の部屋を、青色と赤色に分って装飾していると云う話を思い出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、この二色に外ならんと云う点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云うものは、なるべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付けをする。」
ここを作家レベルで考えたとき、漱石が何を根拠にしたのかを発見した研究者がいます。その研究者の論文によれば、ここの原典となったのは、A・V・プットカールメン著『ガブリエーレ・ダンヌンツィオ』という本です。漱石はこの本の勉強会を開いていたようだと記録されています。この本には、ここに該当する部分があります。ただ、この本は翻訳がされていないので、研究者の訳による文章でしかありません。
「家の中を、生の二つの大きな基調の表現としての二つの色に支配させるという考えは非常に特異なものである、あらゆる色調の緑と赤が、カッポンチーナのそれぞれの空間を飾っているのである。居間や、仕事や研究、或いは何か精神力を必要とすることをやる気にさせなければならない部屋は赤が支配している。特別の愛情をもって設えられた音楽室やアトリエも赤である。逆に緑は、この上なく厳格な黒いオリーブ色から、五月の葉の最も明るい色合いまでを含めて、落ち着きや安楽、或いは休養のためにあるあらゆる空間を支配している」
漱石は当然この本の原文を読んでいたはずで、ここに書かれているのが緑と赤だということを知っていたはずです。しかし、漱石はなぜかここを青と赤に変化させて書いています。
この小説を読んだ際に、代助と緑との関係は多くの読者が気が付くところです。代助の家の庭には緑溢れる草花が生えていて、小説内にも多くの植物の描写があります。ですから、代助にとっては、安心の色は緑なのです。そうであるならば、原文は緑になっているのですから、それを変えないほうが寧ろいいはずです。何故変えたのかということを考えます。
日本語の「青」は「緑」を含みます。ですから、グリーンを青と訳すことはありえます。ただ、ブルーを緑と訳すのはあまり考えられません。ここで問題となるのが、紫の座蒲団です。紫は青と赤をまぜることによって生じます。緑と赤は、補色ですから混ぜれば現実では暗い灰色になります。ですが、このように原文の緑を青に変えることによって、赤と緑ではなりたたない紫を、青という色を使うことによって成り立たせました。この青には、緑の色も含まれるのです。ですから、文学的に考えれば、紫は、代助の赤と緑を混ぜると生じることになります。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十一

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この短いページの間で何があったのか、これは今まで『それから』の研究では触れられてきませんでした。
「三千代に逢わなければならないと決心」する直前の代助の行動
平岡夫妻の家の「塀の本に身を寄せて、凝と様子を窺」う代助
声と音だけを聴く  「下劣な真似」  ストーカーに似た構図
P268ℓ7「代助は夕飯を食う考えもなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院の焼跡の前へ出た。~平岡の家の傍まで来ると、板塀から例の如く灯が射していた。代助は塀の本に身を寄せて、凝と様子を窺った。しばらくは、何の音もなく、家のうちは全く静かであった。代助は門を潜って、格子の外から、頼むと声を掛けてみようかと思った。すると、縁側に近く、ぴしゃりと脛を叩く音が聞えた。それから、人が立って、奥へ這入って行く気色であった。やがて話声が聞えた。何の事か善く聴き取れなかったが、声は慥(たしか)に、平岡と三千代であった。話声はしばらくで歇(や)んでしまった。すると又足音が縁側まで近付いて、どさりと尻の卸す音が手に取る様に聞えた。代助はそれなり塀の傍を退いた。そうして元来た道とは反対の方角に歩き出した。」
当時はストーカーというような言葉はありませんでしたが、今で考えたらストーカーのようなことをしています。今までの代助からはとても考えられないような行動をしています。この行動が決心へと繋がっていくわけですが、後に代助は自分の行動に対して反省しています。P269ℓ3で「下劣な真似」と自己評価しています。

代助の伝通院訪問
①初訪問「平岡の家」 平岡在宅 「平岡は机の前へ坐って、長い手紙を~」
P92で平岡の家に初訪問します。平岡の家はそれほど空間的に余裕がないので、お客を通す座敷と、主人の部屋である書斎が一緒になっています。これが少なくない意味を持つのです。
②200円の小切手「平岡の玄関」 平岡不在  座敷には上がらない
P133ℓ12「その時上り口の二畳は殆んど暗かった。三千代はその暗い中に坐って挨拶した~平岡は不在であった。~下女が帰ってきて」。二回目の訪問では、下女がその後に帰ってきているように、誰もいないなか二人で真っ暗な玄関で話しをしています。
③「紙の指環」 「平岡の家」 平岡不在
P207ℓ6代助は座蒲団を敷居の上に移して、縁側に半分身体を出しながら、障子へ倚りかかった。
「紙の指環」としてお金を渡しに行った際に、代助は座敷へ入りました。ここで初めて座蒲団が出てきます。これはお客用の座蒲団だろうと思われますが、代助は縁側と座敷の中間にある敷居のところまでわざわざ座蒲団を持っていって、随分奇妙な格好をしています。
④「平岡の家」 平岡不在
座敷に上がる
「平岡の机の前に、紫の座蒲団がちゃんと据えてあった。代助はそれを見た時一寸厭な心持がした」
なぜ「厭な心持」がしたのか?
P230から四度目の訪問をしています。座敷に通された代助は、そこで紫の座蒲団をみて厭な心持になります。「ちゃんと据えてあった」という箇所は、前も見て、その前にも見たものが今もちゃんとあるという意味だと考えられます。ですから、前にこの紫の座蒲団を見ているとしたら、③の時なのです。そうして③では、代助は恐らく紫の座蒲団を見て、そこから逃げ出すようにして縁側まで移動しているのです。
この紫の座蒲団は、三千代の夫の座としての象徴なのです。この座蒲団はもちろん定員一名です。だから、紫の座蒲団を見ることによって、代助は三千代の夫としてのポジションを認識せずにはいられないのです。そうして、時に人というのは誰か人が居ないほうが返って強く意識してしまうということがあります。紫の座蒲団というのは、平岡が居ない状態で余計に、三千代の夫というポジションを強調する象徴物として存在しているのです。
秘密の指環
P209ℓ4「少し及び腰になって、掌を三千代の胸の側まで持って行った。同時に自分の顔も一尺ばかりの距離に近寄せて、『大丈夫だから、御取んりなさい』と確りした低い調子で云った。三千代は顎を襟の中へ埋める様に後へ引いて、無言のまま右の手を前に出した。紙幣はその上に落ちた。その時三千代は長い睫毛を二三度打ち合わした。そうして、掌に落ちたものを帯の間に挟んだ」
秘密の指環を共有する場面ですが、ここは三千代との身体の接触は全くないのにも拘わらず、姦通、エロティックなイメージが連想される場面です。ここでは、紫の座蒲団から遠ざかりたかった代助の行動とともに、二人きりだけれども、不在の平岡の存在もまた認識せずにはいられないということが影響しているのです。平岡の視線、文学的に表現すれば紫の座蒲団の視線があるのです。ですから、第三者の視点があり、それによってエロティシズム、姦通のイメージがより強められたのです。明らかに代助は視線を気にしています。

⑤ストーカー的行為の夜  「平岡の家」 家に入らないで去る
代助の視覚は、物理的には塀がありますから何か見えているわけではありません。しかし、代助の脳内には、紫の座蒲団があり、そこに平岡が坐っているという光景を思い浮かべたのです。ですから、三千代の夫の座は平岡のもので、そうして自分は家に入れてもらえない部外者としての存在を認識してしまったのです。このことが、代助を決心へと駆り立てます。
⑥告白から三日目 「三千代の所」 平岡不在
P292ℓ16三千代はわざと平岡の机の前に据えてあった蒲団を代助の前へ押し遣って、「何でそんなにそわそわしていらっしゃるの」と無理にその上に坐らした。
②の際には来客用に坐っていたと思われる代助は、⑥では三千代の夫の象徴である座蒲団に坐ります。「わざと」や「無理に」という表現から、明らかに代助が紫の座蒲団の象徴性を認識していることはたしかです。そうして、ここでは蒲団と表記されていますが、もちろん座蒲団のことです。その紫の座蒲団、夫の象徴としての座蒲団に坐ることによって、
「代助の頭は次第に穏やかになった。」とあります。前はいらついていました。

同じ「紫の座蒲団」が、「厭」から「穏やか」に変化
この座蒲団は紫でなければいけないのです。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十

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銀杏返しは「昔を思い出」させたが、百合の思い出は戻らない
「再現の昔」=「今」の影響を受けて造形された過去のイメージ
         記憶の修正
P272ℓ14「彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに」。この小説を読み解く上で重要なキーワードとなるのが、「再現の昔」です。記憶というのは、ビデオテープの再生ではないのです。記憶というものを冷凍保存しておいて、それを再び解凍するわけではなく、昔を再現するプロセスに「今」が介入していくのです。これは当たり前といえば当たり前のことです。今の状態に合わせて過去の記憶を再現していくという捉え方のほうが近いのかも知れません。
七章における回想
P112ℓ9「平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。~四人(よったり)はこの関係で約二年足らず過ごした。」
明治の作品を読む際には、恋愛のパターンを念頭においておかなければいけません。当時の男女の出会いの場は非常に限られていました。小学生までが男女共学で、その後は男女が一緒にいてはいけないという考えがありましたから、男女別学です。
男女の出会いの場は、①下宿先の娘、②いとこ、③友人の姉妹の三通りです。『それから』では、③のパターンです。

十四章―愛の告白の直前―における回想
P278ℓ13「三人はかくして、巴の如くに回転しつつ、月から月へと進んで行った」
「残る二人は平衡を失った」
七章の回想は平岡を含む「四人」の物語
十四章の回想は平岡を排除した「三人」の物語
ここでは、七章での四人の関係が、何時の間にか三人の関係になってしまっています。これは記憶がもともとあったものの回想ではなくて、今を受けて昔の再現をするために、今に影響されているということなのです。平岡が完全に排除されてしまっているというのは、この時の代助の気持ちに影響されていることは明らかです。
「僕は君(平岡)より三千代さんを愛していた」という過去のイメージの造形
過去の自分が実際にそうだったという単純な記憶の提示よりも、今現在の代助が作り上げた過去のできごととして読めると多くの研究者が指摘しています。
arbiter elegantiarum
P278ℓ10「兄は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した如くに見えた。代助を待って啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来るだけ与える様に力めた。代助は辞退はしなかった。後から顧みると、自ら進んでその任に当ったと思われる痕迹もあった。三千代は固より喜んで彼の指導を受けた。」
当時はそのような認識はなかったのです。今になってからの過去の意味づけをしているということです。過去のイメージは今がどんどん修正していくものです。これは記憶力云々の問題ではなくて、当たり前のことなのです。この小説は記憶の修正が明確に行われている描写がある小説なのです。

6 「紫の座蒲団」の物語
今までずっと、指環を巡る物語として読んできました。しかし、これらは多くの研究者が指摘していますし、然程目新しい読み方ではありません。また、植物に注目して読み解くことも多くなされています。次は、『それから』研究史のなかで、まだ指摘されていない、高田教授独自の読み方をしていきます。
十四章冒頭 P251ℓ「自然の児になろうか、又意志の人になろうかと代助は迷った」
 自然=三千代との愛  家からの義絶と姦通罪 「死」
 意志=佐川の娘との縁談承諾 社会の中に安定
ここでは、代助は自分の感情を優先して三千代との愛へ走るか、或いは佐川の娘との縁談を承諾して無難に生きるかの選択でまよっています。三千代との愛を取れば、家からの断絶だけでなく、姦通罪として刑事法の対象にもなってきます。下手をすると、社会的にも生物学的にも死の危険性が全くないとは言えないのです。それに対して、家族の進めるように縁談を承諾すれば、社会との関係も安定しますし、なにより父親との関係も安定します。

梅子に「姉さん、私には好いた女があるんです」P264ℓ14
P266ℓ1「けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語らなかった」
「好いた女」が人妻であることは打ち明けていない
まだ「人の掟」に背いていない
代助は、作品では臆病な人物として描かれています。彼には男らしいとか、そういった観念はなく、優柔不断なのです。しかし、代助はそれでもいいと考えている人間なので、臆病でけっこうだと思っています。そんな代助が、犯罪にもなりかねないことをしでかすまでの行動をとった理由はなんなのか。その原動力となったのは何かを見ていった際に、座蒲団の存在が浮上してくるのです。
嫂に自分には好いた女がいるという告白は、代助にとっては相当な勇気のいることであったとしても、まだその女が人妻であることを言っていないのですから、そこまで問題になることではありません。何の問題にもなりませんし、何よりもまだ引き返すことも出来ます。
P267ℓ3「自分は今日、自ら進んで、自分の運命を半分壊したも同じ事だと、心のうちに囁(つぶや)いだ」
まだ半分は壊されずに残っている  まだ引き返し可能
梅子との電話「もう一遍よく考え直して下さらないか」P271ℓ12
この電話の前日、代助は「明日は是非とも三千代に逢わなければならないと決心」してしまっており、この日三千代を呼びにやっている
残っていた「半分」の運命を壊させた力は何か?
まだ、引き返せることが出来た代助は、P266の段階ではまだ半分残っていました。しかし、それが決心、つまり残り半分も壊してしまったのはP270でのことです。こんなに短い期間に一体なにが代助の残りをも壊してしまったのか、これを見て行きます。男らしさというようなものとはほど遠い代助が、嫂からの説得も突っぱねて反対の方向へ向かっていってしまった理由が浮かんできます。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その九

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④代助、三千代を訪ねる
昔し代助の遣った指環がちゃんと這入っていた。
夫には言いそびれている。
四度目の訪問の時には、三千代が質に入れた代助の指環がちゃんと取り戻されたということが描写されています。紙の指環が、もとの指環に戻ったのです。しかし、用箪笥にしまっているのは、夫に隠しているからです。夫に隠さなければいけない理由は、代助にお金をもらったことを隠しているからです。ここから新たな問題が生まれてきます。

「紙の指環」は「真珠の指環」に戻ったが、新しい意味
(以前)平岡と一緒に代助が三千代に買った贈り物
(いま)平岡に内緒で代助と三千代が共有する秘密
P232ℓ15「この間の事を平岡君に話したんですか」「いいえ」。ここで、三千代が平岡に代助からお金を借りたことを言っていないということが分かります。そうして、
代助は三千代との差向で、より長く座っている事の危険に、始めて気が付いた
ここで、先に述べた、姦通のイメージが代助にも認識されるのです。頭と心が矛盾していて、これ以上頭で会話をしていても、こころが、姦通の方向へ向かって行っているのです。これは公然たる指環が、夫に隠していることによって、秘密の意味を持つ指環になったことを代助が気づいたからです。
P237ℓ6「淋しくって不可ないから、又来て頂戴」
この台詞は、夫以外で親族でもない男性に使う言葉ではありません。親族は兄弟や親です。ここから、三千代が代助を兄弟のようにしたっていたと考えることもできなくはありませんが、やはり不自然です。

「思い出す」の連続表現
P237ℓ10~「必竟は同じ事であったと思い出した。~既に発展していたのだと思い出した。~と思い出した。」
ここでの「思い出す」という表現は、記憶が蘇ってきた、過去の記憶を思い起こしているということではありません。
これは、石原千秋氏が指摘しているように、思うことのスタートなのです。この思い出したの出したという表現は、走り出す、笑い出す、食べだすといったように、物事のスタートという意味です。ですから、思い始めたというのは、記憶が蘇ったということではなくて、思うことを始めたということです。そうでなければ、日本語の文脈としてここは成立しません。

⑤三千代、三度目の訪問
代助 愛の告白
三千代はこの日、指環を穿めてきたか?
百合という実際に香りが強い花を部屋においている状態ですから、相当香りの立つ部屋で、代助は三千代に愛の告白をします。この小説を愛のドラマとして読めば、ここがクライマックスとなる場所です。
三千代の指環は、生活費のために質に入れられていましたが、それは「紙の指環」によって戻ってきました。それではこの日に、三千代が戻ってきた指環をしていたかどうかに注目してみましょう。「紙の指環」によって、物理的には同じ指環が、そのもつ意味が変わってしまったということを前回述べました。平岡と一緒に買った指輪ですから、公然とした指環だったものが、二人の秘密を共有することを意味するアイテムへと変化したのです。
P285ℓ15「しばらくして、三千代は手帛(ハンケチ)を取って、涙を奇麗に拭いた」
ここには、指環の記述がありません。ですから、指環をしているかしていないかの確立は5050ということだと思ってはいけません。ここは、三千代が二度目に訪問してきた際のP168ℓ16「繊い指を反して穿めている指環を見た。それから、手帛(ハンケチ)を丸めて、又袂へ入れた」と対比してみた際に、その書確立が変わってきます。
この小説は三人称ですが、代助の視点をもとに書かれていますから、当然代助は三千代の手をよく見ているのです。二度目の訪問の際に指環の描写があり、同じハンケチを見ているここで指環の描写がないということは、書かれてはいませんが、恐らく指環を穿めてはいないだろうと考えることができます。家の箪笥においてきたのでしょう。

5 白い百合と銀杏返し
二度目の訪問の時の三千代
白い百合(手土産)と銀杏返し(髪型)
P165ℓ1「大きな白い百合の花を三本ばかり提げていた。~結ったばかりの銀杏返しを」
P169~P170で例の百合を巡る二人のやり取りがあった後、P171ℓ1「昔し三千代の兄がまだ生きていた時分、ある日何かのはずみに、長い百合を買って、代助が谷中の家を訪ねた事があった。その時彼は三千代に危しげな花瓶(はないけ)の掃除をさして、自分で、大事そうに買って来た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直って眺めさした事があった。三千代はそれを覚えていたのである。」
「代助はそんな事があった様にも思って」(「思い出した」のではない)
ここで、代助は百合と銀杏返しを見ても、当時の記憶が戻ってきているわけではありません。

三千代の三度目の訪問(代助の愛の告白) 百合で部屋を飾る
P276ℓ3「兄さんと貴方と清水町にいた時分の事を思い出そうと思って、なるべく沢山買って来ました」(まだ思い出していない)
三千代への告白の際に、代助は百合の花を沢山買ってきています。しかし、その理由は思い出そうと思っているのであって、思い出したわけではないのです。P171で三千代が話した過去の記憶は、まだ戻っていないのです。

P276ℓ10「貴方は派手な半襟をかけて、銀杏返しに結っていましたね」
ℓ12「この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか」「あら気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ」
ℓ16「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」
ここで、代助は三千代の格好についての記憶が戻ってきたことを述べています。ここでの思い出したは、思い始めたのではなくて、実際に記憶が蘇ってきたということです。ちなみに、この半襟というものは、襟カバーのようなものだと考えてください。着物の襟が垢で汚れないように、カラフルな襟カバーをつけていたのです。当時は女性への贈り物として、現在でいうところの男性のネクタイのような感覚の手ごろさがあったようです。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その八

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ダンヌチオの「赤と青」
代助の赤と緑
P69でダンヌチオの赤と青の話しが登場します。これは後で詳しく述べますが、この赤と青は小説において重要な役割を担ってきます。そうしてこの小説の一面では、植物をめぐる物語として読むとくことが出来ます。青と緑は日本では区別されません。ですから、代助にとっては、ダンヌチオの青を緑と解することが出来ます。
君子蘭の緑の葉 情調
代助はP137で君子蘭の緑にある感情を抱いています。ℓ12「只不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係の無い情調の下に動いていた。」ここで、代助は緑の液体の香りを嗅ごうとしています。そうして、その香りによって代助は一時的に安心しているのです。ですから、緑と白い(赤を内包している)百合は正反対になります。代助にとって緑は嗅いでいいものであって、白い百合は明らかに赤い百合という側面も持つために、代助は三千代を止めたのです。

③代助、三千代を訪ねる
平岡の就職
「貴方には、そう見えて」 三千代の意味
指環を嵌めていない指
代助は平岡家の経済的な問題がどのようになっているか気にしています。そうしてP207ℓ15で、平岡が就職したこともあり「この頃は生活費には不自由あるまい」と尋ねています。しかし、その後の三千代の行為、指環が嵌められていない手を見ることによって、経済的事情がわかります。P208ℓ3「湯から出たての奇麗な繊い指を、代助の前に広げて見せた。その指には代助の贈った指輪も、他の指環も穿めてなかった。自分の記念を何時でも胸に描いていた代助には、三千代の意味がよく分かった。」
ここで先ずわかることは、お金が無くて生活が苦しいという意味です。ですが、更に一番お金に変えたくなかった指環も、お金にしてしまったというメッセージ性も付加されます。ここには代助からもらった指輪をお金にしたくなかったというメッセージがあるのです。

「紙の指環」
紙幣(旅行費用)を渡す場面のエロティシズム
P208から209で代助は自分の旅行費用のための紙幣を、紙の指環として受け取れと言います。この場面が、物理的には何の接触もなくて、ただお金を渡したというだけなのにもかかわらず、非常にエロチックなイメージが連想させられるのは、ここにイメージとしての姦通があるからです。
ここで確認しておきたいのが、P201の渝らざる愛の問題です。代助は、永遠の愛を信じていません。そうしてP202ℓ1
「彼の頭は正にこれを承認した。然し彼の心は、慥にそうだと感ずる勇気がなかった」と考えています。ここで、代助は頭と心の矛盾に気が付いています。ですから、その次の「代助は嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れ」るのです。なぜなら、嫂の肉薄や、三千代の引力は姦通罪に結びつくからです。ここでは、平岡の前で買った公然とした三千代へのプレゼントの指環が、紙の指環を通して、別の意味に変わってしまったのです。三千代と代助の秘密を共有するアイテムになってしまいます。ですから、紙の指環は、秘密の共有として平岡への姦通のイメージが付加されるのです。
P210ℓ2「明日も御止めだ」 旅行中止
紙幣を紙の指環に替えてしまった代助は旅行の中止をします。

この翌日、青山で佐川の娘と見合い
「大して異存もないだろう」に同意しない代助
当時は異存がなければOKするというのが一般的な考えだったようです。

「馬鈴薯が金剛石より大切になったら、人間はもう駄目である」
質素と贅沢という比喩ではない
P226ℓ12「もし馬鈴薯(ポテトー)が金剛石(ダイヤモンド)より大切になったら、人間はもう駄目であると、代助は平生から考えていた。向後父の怒に触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼は厭でも金剛石を放り出して、馬鈴薯に齧り付かなけれならない。そうしてその償には自然の愛が残るだけである。その愛の対象は他人の細君であった。」
ここから、馬鈴薯(ポテトー)と金剛石(ダイヤモンド)の対比が質素と贅沢という意味ではないことがわかります。
金剛石  精神的な高尚さ
馬鈴薯  生活上の必要
金剛石は決して上流社会の象徴ではありません。これは文化的な、例えば演劇を見に行くことなどを意味しています。そうして馬鈴薯も、下流の象徴ではなく、生きるために食うものという意味です。ですから、代助にとってはどちらも必要なことです。そうして、金剛石を放り出して馬鈴薯に齧り付いたのが、指環を質に入れてお金に変えた三千代になります。
代助自身も、縁談の話を断れば、父子絶縁になります。P226ℓ9「彼は隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像してみた。そうして其所には一種の苦痛を認めた。けれども、その苦痛は堪え得られない程度のものではなかった。寧ろそれから生じる財源の杜絶の方が恐ろしかった」。こう代助が述べているように、代助にとって恐ろしいのは、金剛石を放り出して馬鈴薯に齧り付くことです。そうせざるを得なかった三千代との対比がなされています。

代助の職業観
あらゆる神聖な職業な労力は、みんな麺麭(パン)を離れている
食う為の職業は、誠実にゃ出来悪(にく)い
代助は食うために働くのは良くないことだと考えています。P107ℓ11「衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」という有名な台詞があります。食うための仕事は、食うことが目的のため、楽をしようという方向に働きます。だから駄目だと代助は考えています。そうして、代助の知人の寺尾も、そのように考えています。
代助は働かないことに対してコンプレックスを持っていません。そうして父親に依存していても構わないと考えているのです。

寺尾「何しろ食うんだからね。どうせ真面目な商売じゃないさ」

佐川の娘との縁談を拒否したら「金剛石を放り出して、馬鈴薯に齧り付かなければならない」
その償い 自然の愛 愛の対象は他人の細君
代助の考えは、食う目的なしに生活するということです。「ダイヤモンドの生活」を送るためには、父親に依存しても構わないと考えています。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その七

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『三四郎』にもいくつものアイテムが登場してきました。この作品を少なくとも二回以上読んだ人であれば、必ず指輪というアイテムに気がつくことでしょう。
4、指輪をめぐる物語としての『それから』
三千代が代助に指輪を見せる場面がたびたび出てくる

①三千代がはじめて代助の家を訪ねてきた日(五百円の工面依頼)
平岡の借金の始末
二つの指輪
重ねた両の手の上(代助によく見える方)
細い金の枠に比較的大きな真珠を盛った当世風のもので、三年前結婚の御祝いとして代助から送ったもの
三千代への結婚祝い
(夫) 平岡 時計
(友人)代助 指輪
「平岡と連立って其所の敷居を跨ぎながら互いに顔を見合わせて笑った事を記憶している」
P64ℓ4「三千代は今代助の前に腰を掛けた。そうして綺麗な手を膝の上に畳ねた。下にした手にも指輪を穿めている。上にした手にも指輪を穿めている。上のは細い金の枠に比較的大きな真珠を盛った当世風のもので、三年前結婚の御祝いとして代助から贈られたものである。」
P65ℓ15「小さな時計を出した。代助が真珠の指輪をこの女に贈りものにする時、平岡はこの時計を妻に買って遣ったのである。代助は、一つ店で別々の品物を買った後、平岡と連れ立って其所に敷居を跨ぎながら互いに顔を見合せて笑った事を記憶している。」
500円のお金を借りにきたとありますが、当時でいうと大体400万くらいかと考えられます。三千代は両手に指輪をはめていますが、明らかに代助に目立つように、代助からもらった指輪のほうを上にして手を重ねています。見せ付けているのかとも考えられます。このプレゼントは平岡と代助が同じ店で一緒に買ったということがわかります。平岡は三千代の夫で、代助は両人の友達という関係です。
現在で考えると、代助が指輪を贈ったことは不思議です。普通反対です。値段は分かりませんが、指輪の正確な描写から、指輪がそうとう凝ったもので高いものであることは間違いなさそうです。現在の読者は、実は三千代は自分の妻なのだという代助の主張だと読みことがありますが、しかし、この当時はまだ結婚に指輪を贈るという習慣はありませんでしたので、この読み方はすこし現代すぎる、歴史的背景を無視した読みだということができます。
さて、それを差し引いたとしても、平岡のいる前で、別々であればまだわからなくもないのですが、夫より高いものを贈るというのは、普通ではありません。指輪を夫が妻に贈るという行為は、まだ当時は習慣になっていませんでした。大雑把にいって、漱石だ死んだ後の話です。指輪を贈るという行為自体は一般的ではなかった時代ですが、やはりここは普通ではありません。

*代助の金策
園遊会 兄 拒絶
梅子     200円の小切手
三千代を訪ねて小切手を渡す
三日後平岡が代助を訪問(冷淡な礼)
「本当の御礼には、いずれ当人が出るだろうから」  代助 「心待ち」
代助はお金を借りようと園遊会に出ている兄のもとへお金を無心しに行きます。しかし、兄には断られてしまいます。嫂の梅子にも一旦は断られるような感じになりますが、彼女は彼女の夫とは関係のない、つまりへそくりを代助に200円分渡すのです。
それを三千代に渡した後に、代助宅を訪ねる平岡ですが、自分が作った借金のためにお金を工面してくれた代助に対して、通常であれば感謝するはずのところを、まるで他人のように冷淡に挨拶します。そうしてお金を借りた当人がくるだろうからということを述べ、平岡の冷淡さよりそちらのほうに心が動いた代助は、三千代の訪問を心待ちにします。

②三千代、二度目の訪問 百合持参 小切手のお礼と釈明
P168ℓ16「繊(ほそ)い指を反して穿めている指環を見た」
この小説は、三人称代助視点で描かれていますから、当然代助は、三千代の指環についてしっかりと見ているのです。最初の指輪のうちのどちらを指しているのか、ここではわかりませんが、小説の文脈上恐らくここでは代助が送ったものと考えられます。
P165ℓ1「大きな白い百合の花を三本ばかり提げていた。~結ったばかりの銀杏返しを」
百合や、ヘアスタイルは小説の後の部分から分かるように、過去の記憶を印象付けるものとして登場します。三千代はそれを意識して、百合を持ってきて、髪の毛を結っているのです。
P170ℓ16「あなた、何時からこの花が御嫌いになったの」P171ℓ5「貴方だって、鼻を着けて嗅いでいらっしゃったじゃありませんか」
代助はなぜ百合の花に鼻をつけて嗅ぐ三千代を止めたのか?これが重要になってきます。

白い(純潔)けれども赤い(エロティシズム)百合
甘たるい強い香(か)
    ↕
すずらん(「花から出る香(におい)が、好い具合に鼻に通った」)
最も多い論は、白百合は純血の象徴であるというものです。ですが、白い百合は同時に真っ赤な雄しべも内包しています。白百合のなかの赤が、ここでは代助に影響を与えたのです。

旅行記  太宰治ゆかりの地を巡って 

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安田屋旅館のホームページ
http://mitoyasudaya.com/
静岡は沼津市、三津浜にて、太宰治ゆかりの地を巡る旅行をしてきました。三津浜は、みとはまと読みます。ここの旅館、安田屋旅館は、太宰治が『斜陽』を執筆した宿屋として有名で、太宰治が『斜陽』を執筆した部屋が現在でも見られます。
『斜陽』は昭和25年に出版された、太宰治戦後作品の代表作の一つです。この作品が流行し、没落していく人々のことを示す「斜陽族」という言葉さえできたほどです。
『斜陽』は、太宰作品の中でも、多くの換骨奪胎を行った作品です。この作品は、太田静子という女性がモデルになっていますが、この太田静子の『斜陽日記』というものが、発表され、ほとんど太宰がその日記そのままを写している部分があることがわかりました。太宰文学における換骨奪胎を巡る議論は一応は落ち着いたものの、はじめて知る人にとっては驚くことでしょう。このような換骨奪胎を行った作品の一つに、中篇の『女生徒』があります。これも有明淑という文学好きで太宰ファンの少女の日記からほとんどを引用し、手を加えただけの作品です。
この換骨奪胎の問題は、はじめこれは創作ではないという意見が多く出され、剽窃だと非難されましたが、ほんの僅かの手を加えることによって、極めて高度な文学性を帯びていることや、作家が新しい独自の記号を作ることは不可能で、今ある記号を使用せざるを得ないという記号論的な立場からも、太宰治のパロディであるとして文学性が認められています。

さて、この『斜陽』のモデルとなった太田静子という女性。太宰治の編集者の野原一夫によれば、「決して美人ではなかったが、育ちのよさからくるやわらかな気品があり、たえずなにかを夢見ているようなあどけなさと、まるで童女を思わせるようなおさなさが、およそ肉感を伴わない不思議な魅力となっていた」と記されています。
太田静子は『斜陽』のモデルといわれていますが、貴族ではありません。裕福な医者の娘だったそうです。太宰を語る上で欠かせない、太宰治の最初の妻である小山初世、二度目の妻である石原美知子よりも一歳年下でした。ですから、太宰よりは四歳年下ということになります。彼女は22歳の時に歌集『衣裳の冬』を刊行しているなど、文学好きな人だったようです。
一度太宰とは違う男性と結婚していますが、出産した子が生後間もなく死に、どうやらそれが原因の一つとなって翌々年には離婚したようです。太宰と初めてであったのはこの後です。

太宰との出会いは、1941年(昭和16)で、静子が28歳の時です。28歳というのは、数え年で29、斜陽のなかでヒロインは29だといっています。友人たちと一緒に、三鷹の太宰宅を訪問したのが最初。その後妻に内緒で密会しています。これは明らかに、妻美知子との結婚を周旋してくれた太宰の師の井伏鱒二との誓約書に違反しています。
静子は43年に母とともに現在の小田原市に編入されている土地の大雄山荘で二人暮らしをはじめます。翌44年には、太宰がやってきて山荘に一泊しています。これは紛れも無く不倫です。
45年の終戦四ヵ月後には静子の母が病死します。金木の実家に疎開している太宰宛に手紙を出しています。その返書として、太宰からは46年の一月に、「一ばんいいひととしてひっそり生きていて下さい コイシイ」という文面が送れらています。このようなものを返されたら、女性はたまったものじゃありません。太宰も罪な男です。妻美知子には内緒で変名して文通を行っていたようです。

『斜陽』と静子と安田屋旅館
46年11月に太宰一家が青森から三鷹に戻ります。そうして、チェーホフの戯曲「『桜の園』の日本版を書きたい」と言って、その作品の「題名は『斜陽』だ」と述べています。47年1月に三鷹で静子と会い、静子の「日記が欲しい」と言ったところ、「山荘に来てくれたら」ということで、『斜陽』の材料としての静子の日記を得るために行きます。
2月21日には、太宰が山荘に静子を訪れています。ここで五泊した太宰ですが、このときに静子は懐妊します。『斜陽』の末尾のかず子の手紙の日付には、「昭和二十二年二月二十日」となっていますが、これは太宰が太田静子の山荘を訪ねる前日の日付です。
26日から3月の7日まで、三津浜安田屋旅館、当時の「松の弐番」に滞在して静子から借りたノートを材料にして『斜陽』を執筆します。安田屋旅館は、太宰の弟子の田中英光という作家が紹介しました。この田中英光は、オリンピックにも選手として出場した経験を持つ、体育会系の作家で、太宰の猛烈なファンだったようです。この田中が借りて住んでいた桜井書店の別荘の前にあったのが安田屋旅館ということで、これはいい宿屋だと思った田中が太宰に勧めたようです。ちなみに、この田中は太宰が自殺した翌年に、太宰の墓の前で自殺をしています。
3月6日には、安田屋旅館で『斜陽』連載第一回分(1章、2章)を新潮社編集部員に手渡しています。3月30日には、妻美知子との間に次女の里子が生まれています。この人は後の作家津島佑子です。しかし、そのめでたいことと前後して、3月20日過ぎに、山荘に立ち寄った際に、静子から妊娠を告げられています。自分の妻との間に子どもが生まれているのに、愛人の妊娠を告げられ、それが井伏鱒二の誓約書に反していることですから、太宰は戦々恐々としていたことでしょう。しかし、静子との面会はこれが最後になりました。太宰はこの年の翌年の6月に自殺しています。ですから、太宰は静子の子どもとは直接顔を合わせないまま新でしまったのです。
5月には静子が弟と三鷹に来ています。静子は自分のお腹の子の父が太宰だということを認知してもらいたかったようです。6月には『斜陽』の原稿が完成。7月から10月にかけて『斜陽』が『新潮』にて連載されました。

「斜陽の娘」太田治子
11月12日に、静子は女児を出産します。この年、太宰は母の違う娘を二人もち、二人とも作家になりました。15日には、静子の弟が「認知と命名」を求めて三鷹に来ます。山崎富栄(太宰の愛人)の部屋で認知と命名の文書を渡します。「治子(はるこ)」には、太宰治の「治」の字がつけられました。これは本名の津島修治の「治」でもあります。太宰は美知子夫人との間の子どもには自分の名前をつけてはいません。ここから何を受け取ることが出来るのでしょうか。
作家太田治子は、「たえず何かを夢見ているようなあどけない」母が幼い娘を抱えて、戦後を二人だけで生きることの大変な苦労を経験し、父太宰のことを快く思っていないようです。

太田静子の『斜陽日記』
太宰が大雄山荘で静子から借りた日記(ノート)は、太宰没後に太田静子著『斜陽日記』として刊行されました。太宰は換骨奪胎の名人(見方を変えれば「パクリ」の天才)ですが、特に『斜陽』は静子の日記の文章をほとんどそのまま使っている箇所が多いのです。このようなわずかな書き換えで、剽窃ではなく太宰の作品にしてしまえる点が太宰の天才性だと高田教授は言っています。


安田屋旅館
安田屋旅館には、太宰縁(ゆかり)のものが多くあります。宿屋の玄関の前で出迎えてくれる石には、『斜陽』から「海は、かうしてお座敷坐ってゐると、ちやうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらゐの高さに見えた。」という文字が刻まれています。
宿屋には、太宰が見た景色を、見てインスピレーションを得た画家たちが描いた富士の風景画が沢山飾られていて、それを見るのも一つの楽しみです。はなれのようになっている資料室があります。ここでは、太宰に関する本や、古い書籍などが集められています。部屋には、それぞれ太宰の作品からとった名称がつけられています。温泉にも、『思い出』や『満願』という名称がつけられていました。しかし、流石に『人間失格』や『HUMANLOST』や『グッド・バイ』などはありませんでした。
今回は、折角三島まで来たということで、そのまま電車にのって、修善寺にも行きました。修善寺は、私が最も好きな作家夏目漱石が、養生しに行ったにもかかわらず、吐血して往生しそうになった場所です。その際の体験を漱石は後に短編集で描いています。漱石先生が、担架に担がれて電車で東京まで帰ったという描写は少し滑稽でもあります。さらに、修善寺は、『伊豆の踊子』などにも地名として登場しますし、なんといっても石川さゆりの『天城越え』の天城もすぐ近くにあります。
修善寺自体はあまり観光する場所はありません。さびれた温泉街というイメージでしたが、こうした場所であれば、小説に静かに向き合って製作することができそうだと感じました。やはり、太宰がとまった部屋の眺めはすばらしく、そうしたするどい感性があったことが窺えます。山、海、富士山を一度に一望できる場所というのは限られていますから、太宰が気に入るのもわかります。小説を書いて疲れたら景色を眺める。そうしたすばらしい環境でした。
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