夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その六

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漱石は珍しく遊郭や、芸者がいる世界には近づかなかった人らしいです。明治の時代から、そうした文化は日本にありました。それを容認してきたのもまた日本の文化的側面の一つですが、漱石は行かなかったようです。ですから、漱石の文学と芸者はあまり繋がりがありませんが、この作品では漱石作品のなかでは珍しく、芸者との関係が出てきます。直接芸者は出てきませんが、代助と芸者との関係は少なくないウェイトがあります。

3、代助と芸者 (性欲の問題)
代助は、漱石作品では珍しく芸者遊びをする男性として設定されている。
(『こころ』の先生とK、『三四郎』の独身男たち。愛の問題は出てくるが、「性」の問題は全く出てこない。自然主義文学が性欲の問題を大胆に扱っていた時代)
漱石は性欲をテーマにしなかった作家です。ですから、そこで自然主義文学と漱石文学との差があります。

P80ℓ15「実を云うと、代助は今日までまだ誠吾に無心を云った事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、その尻を兄になすり付けた覚はある。」
「学校を出た時」とは?
当然大学です。ただし、この時期は丁度三千代の結婚が急がれていた時です。その時に芸者遊びが一番烈しかったということです。時期を確認すると、そこに軽くない意味が出てきます。
P201ℓ9「代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を選んだ。彼等(芸妓のこと)のあるものは、生涯に情夫を何人取り替えるか分からないではないか。普通の都会人は、より少ない程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は渝(かわ)らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。」
(「渝らざる愛」は「偽善」)
ここで、代助は永遠の愛は偽善の最もなものだといっています。一人の女性を永遠に愛すのは偽善で、芸者は都会的であると言っています。芸者はかわらない愛など言わないし、かかげない人たちだからです。

仕組まれた歌舞伎見物のあと、代助は「たった一人」で「赤坂行」の電車に乗った
翌朝「車の中では、眠くて寝られない様な気がした」 車は人力車
P198ℓ3から、代助が赤坂行きの電車にのったことがわかります。そうしてその次の行では、車の中では~と続くので、一見すると見落としてしまうような部分ですが、ここでは一晩の時間が流れています。
赤坂で夜を過ごした
「赤坂」という記号 「待合」
P229ℓ14「彼はその晩を赤坂のある待合で暮らした。其所で面白い話を聞いた」
待合といいのは、男女の密会の場としての意味があります。約束をして、そこで逢うのです。一人で寝たわけではありません。当然面白い話は、誰から聞いたのかというと、芸者ということになるでしょう。

平岡夫妻の新居を初訪問して三千代の「長襦袢」を見た夜も外泊したらしい
門野「昨夜は何時御帰りでした」
ここでも、多分代助は芸者と遊んだと考えることが出来ます。

三千代と芸妓
三千代をイメージした際に、芸者遊びをするということが、多くの研究者によって発見されています。

◎三千代に告白を決意した時の告白場所についての代助の迷い
P270ℓ11「明日は是非とも三千代に逢わなければならないと決心した。その夜代助は寝ながら、どう云う手段で三千代に逢おうかと云う問題を考えた。手紙を車夫に持たせて、宅へ呼びに遣れば、来る事は来るだろうが、既に今日嫂との会談が済んだ以上は、明日にも、兄か嫂の為に、向こうから襲われないとも限らない。~代助は已を得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢うより外に道はないと思った。」
P271ℓ4「昨夕(ゆうべ)の計画を又変えた。彼は三千代を普通の待合などへ呼んで、話しをするのが不愉快であった」
ここから代助が落ち合う場所を待合と考えていたことがわかります。しかし、待合は性的な接触がなかったとしても、待合に二人でいること自体がすでにゴシックにされるようなものです。ですから、そんなところに三千代を呼び出したくなくなったのでしょう。今でいうと、待合はラブホテルのようなものと考えても良いかも知れません。

◎結婚しない場合の代助の未来図
生涯一人
妾を置いて暮す
芸者と関係をつける
P123ℓ11「生涯一人でいるか、妾を置いて暮すか、或いは芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画はまるでなかった」
ここから、どれを選ぶかの答えがでていなくとも、少なくとも三つの選択肢は提示されました。この場面は嫂の梅子がじれったくどうするのかと聞く場面ですが、代助本人にはあせりもなければどうしようという願望もありません。
生涯一人は簡単に理解できます。妾を置いて暮すというのは、結婚して妾を置くのではなくて、結婚しないで妾を置くということです。これを行った人は森鴎外です。はじめの妻と早くに別れた鴎外は、母親が探してきた女性、児玉せきと十年ほど暮しています。この児玉せきとは、結婚はしていませんが、身の回りの面倒と性の相手をしていたようです。ですから、これは愛ではなく、本質的には一種の雇用として成り立っています。今の愛人とは関係がことなります。
三つ目の芸者と関係をつけることですが、これはP201の「生涯に情夫を何人取り替えるか分からないではないか」を参考にしてください。ここでの関係をつけるというのは、情夫になるということではありません。
芸者との関係は、①情夫(いろ)と、②旦那(パトロン)というものがあります。自分がパトロンをしている芸者が情夫を持っていても、旦那はなんとも思わないのです。ここでは代助はパトロンの側になろうとしています。代助は芸者にたいして抵抗心のない人物として描かれています。この作品は「性欲がはっきりでている」小説です。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その五

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十四章
青山 P264ℓ14「姉さん、私は好いた女があるんです」
P260ℓ6「僕は今度の縁談を断ろうと思う」P266ℓ1「けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語らなかった。」
今まで煮え切らなかった代助が変化して、縁談を断ろうと思う意思を表明しました。そうして、自分には好きな女がいるんだという極めて重大な話を兄嫁にしています。しかし、ここでは三千代のことには触れていません。ですから、兄嫁側からすれば、その代助の好きな女性というのは独身だろうと考えます。まさか他人の妻だとは思いません。ですから、まだ事件や問題には発展しないのです。
父からの呼び出し
P298ℓ11「父は普通の実業なるものの困難と危険と繁劇と、それ等から生ずる当事者の心の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大地主の、一見地味であって、その実自分等よりはずっと鞏個(きょうこ)の基礎を有している事を述べた。そうして、この比較を論拠として、新たに今後の結婚を成立させようと力めた。『そう云う親類が一軒位あるのは、大変な便利で、かつこの際甚だ必要じゃないか』と云った。代助は、父としては寧ろ露骨過ぎるこの政略的結婚の申し出に対して、今更驚ろく程、始めから父を買い被ってはいなかった。最後の会見に、父が従来の仮面を脱いで掛かったのを、寧ろ快よく感じた。」
終に本音を吐いた父。それに対して代助は寧ろ快いとさえ感じます。しかし、それを断ります。本音は父の最期の切り札でした。
P301ℓ6「貴方の仰しゃる所は一々御尤もだと思いますが、私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなかろうと思います」ととうとう言ってしまった。~P302ℓ1「じゃ何でも御前の勝手にするさ」と云って苦い顔をした。~「己の方でも、もう御前の世話はせんから」
ここで、初めに確認しておいた代助の収入源にもどります。お前の世話はもうしないということはつまり、もう毎月お金をやらないよということになるのです。ですから、代助はもう来月からお金はありません。路頭に迷うことになるのです。

梅子からの手紙

2、姦通罪と平岡の手紙
現在ではなくなってしまった姦通罪。しかし、この小説が書かれた時代には、姦通罪という罪がありました。これを理解して小説を読まないと読み間違いをします。
既婚者の恋愛は、今ではただの不倫になりますが、かつては姦通罪、刑事犯罪として扱われました。道徳や倫理の問題ではないのです。実刑が伴って、身柄を拘束されるのです。
平岡からの手紙
小説冒頭 代助あての短い葉書
小説最後 青山あての長い(二尺以上)封書
作品の冒頭と最後が同じ平岡の手紙で結ばれるという象徴的な作品です。
P340ℓ3「手紙は細かい字で書いてあった。一行二行と読むうちに、読み終わった分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺余になっても、まだ尽きる気色はなかった。」
何度も言うようですが、二尺とは60センチほど。この手紙は時代劇に出てくるような巻紙だと思われます。細かい字でくるくるめくっていっても60センチほど垂れて、まだまだ終わりそうにないのですから、相当長い手紙だと思われます。
おそらくこの手紙には、代助の姦通についての事柄が書かれているのでしょう。前日にこの手紙が平岡から長井家に送られたとして、P338ℓ5「八時過に漸く起きた~所へ門野が来て、御客さまですと知らせた」とありますから、比較的のんびりやに見えていた兄が、非常に早い動きを見せたことになります。朝八時に来たのですから、手紙を受け取ってすぐに来たことになるのだと考えられます。
姦通罪があった時代
人妻(結婚した女性)だけが貞操を求められ、刑事罰(懲役刑)の対象
ただし、夫による親告罪 夫が訴えない限り犯罪にはならない
この姦通罪という刑事罰は非常に男女不平等な刑法でした。求められる貞操は女性のみに存在します。夫の貞操は求められないのです。夫からすれば、相手が誰かの妻でないかぎり、自分に妻がいようがいまいが、誰とどんな関係にあっても罰せられないのです。
また、婦女暴行罪のように、被害者が訴えないと犯罪にはなりません。この際の被害者とは、自分以外の男と姦通している妻を持つ夫です。ここでは平岡になります。だから、平岡には代助と三千代を訴える権利があるのです。訴えない権利もあります。
この刑罰は夫婦の貞操ではなくて、妻だけの貞操を法律で定めたものです。ですから、現在では誰と不倫しても刑罰にはなりませんが、この時代は刑罰になったということを認識していないと、この作品は読み間違えます。
平岡は三千代と代助を訴える権利と訴えない権利を保有

平岡の長い手紙
兄と代助の会話
P340ℓ10「其所に書いてある事は本当なのかい」
「本当です」
「どう云う了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」
「こんな不始末を仕出かす位なら、今まで折角金を使った甲斐がないじゃないか」
「親の名誉に関わる様な悪戯をしている」
小説を読んでいくと、恐らく代助の三千代の関係には肉体的な接触はないだろうと読めます。そのような描写もなければ、暗示されている部分もありません。しかし、下線を引いたように、兄は代助が三千代に愛の告白をして、三千代もそれを承認したということだけをもって、姦通罪を犯してしまったと認定しています。そうして、それを否定しない代助をみて、絶縁します。
ここでは性的関係があったかどうかよりも、代助の三千代との愛の告白があり、くれないかと平岡に頼んだことが姦通となるようです。ですから、罪と訴える権利が平岡にはあります。
平岡による選択肢(手紙による示唆)
平岡はあの長い手紙でおそらく三つの可能性を示唆したと思われます。
*姦通罪で三千代と代助を訴える
*長井は実業界で名を知られた存在だから、その次男のスキャンダルを自分が所属する新聞を使って報道する
*長井家から金を(ゆすり)取って一切を闇に葬る
あれだけ長い手紙ですから、これに似た内容のことはたぶん書いてあったろうと考えるのが普通です。三つ目の可能性は、当然あからさまに書いたらゆすりで逆に平岡の立場が危なくなりますから、暗示して書かれていたかもしれません。
P342ℓ11「もう生涯代助には逢わない。何処へ行って、何をしようと当人の勝手だ。その代り、以来子としても取り扱わない。又親とも思ってくれるな。」(父からの伝言)
「おれも、もう逢わんから」(兄) 長井家からの義絶
ここで、代助と長井家の関係は断絶します。月々貰っていたお金もなくなりますし、父だけでなく兄とも絶縁しましたから、青山家からの永遠の追放になります。脅しや警告ではなくて、ここでは通告になっています。
P341ℓ12「御父さんやおれの、社会上の地位を思ってみろ。御前だって家族の名誉と言う観念は有っているだろう」
この作品を読む限りでは、代助は恐らく一度もお金を稼いだことがありません。これは『こころ』の先生とも同じですが、代助には彼自身がもっている財産はありません。代助のように生活力のない男が、追放されたらどうなるのか、働いたことがないのにも拘わらず、贅沢ばかりを知っている人間が困窮したらどうなるのか、長井家は代助がそのような状態におかれた際に何をしだすかわからないという恐怖もあって、月々お金を渡していた側面も少なからずあります。追放してしまうよりかは、月々に安定したお金を送ることによって代助が何かをしでかさないように制御していたとも考えられます。
話しがそれますが、太宰治という作家は、実家が大地主ですが、太宰が何かをしでかさないか不安で月々兄たちがこっそりお金を送っていたというふしがあることがわかっています。
ところが、姦通罪になると、罪人になる可能性が出てきます。そうすると家族に罪人が出ることになりますから、兄は、いそいで、代助が罪人になるまえに家族との縁をきってしまおうと遣ってきたのです。ですから、兄の行動は一貫して長井家を守るという点で安定しています。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その四

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前回のおさらいから、長井本家が大変な資産家の家であることがわかりました。役人出身の人間が実業家になるというパターンは、明治の成功者のよくあるパターンの一つでした。長井家には、電話があります。電話というのは、現在ではとても考えられませんが、家にあるということだけで、当時はステータスになりました。電話は机においておくというようなものではなくて、電話室という部屋が設けられ、そこに設置されました。ですから、電話室という部屋を作れるだけの家であるという点からも、理解ができると思います。
余談ですが、電話はフランスで発明されました。19世紀の有名な作家、エミール・ゾラに電話にまつわる逸話が残されています。当時、作家は原稿料と印税で暮らしていたのではありません。芸術を擁護するパトロンがいて、そのパトロンに養われていたのです。ゾラのパトロンはお金持ちで、あるときゾラに新しく買った電話を自慢してやろうと思いつきました。そうして、ゾラが自分の家にくる時に電話をかけてもらおうと計画して、友人に時間を指定して電話をかけさせました。ゾラがパトロンの家に来た際に、計画通りにことは進み、パトロンはゾラに対して電話を自慢しようと思いました。しかし、そこでゾラがパトロンに言った感想は、「ベルがなる。するとあなたは出て行ってしまうのね」というものです。
電話という媒体が出て来たために、新しい人間関係がうまれました。今までは話している当人同士が主役でした。ですから、相手と話していれば、相手の主役は私になるのです。それが、電話が鳴ると、誰からの連絡かもわからないのに、対話をしていた目の前の人は置き去りにされ、電話に主権を奪われるということになります。
このゾラの感想はある意味、電話という媒体の本質を突いた言葉でした。ある側面から見れば、人間関係にとって、あまりに失礼な割り込み方をする媒体であるともいえます。
ピヤノと表記される、ピアノがこの小説には出てきます。漱石には娘が沢山いましたから、実際に漱石はピアノを買っているようです。手記に残されています。漱石が買ったピアノは400円。当時の400円がどのくらいかというと、現在のお金で換算するのならば、恐らく300万は越えていただろうと思われます。漱石が朝日新聞社の社員となる以前、彼は東大で講師として授業を持っていました。その時の年俸が800円です。「坊ちゃん」では、主人公が兄から600円の資金を貰い、三年間それで学費を全てまかないます。この際の学費とは、学校に納めるお金だけでなくて、食費から、住宅費から、光熱費まで全て含めたものです。600円で、一人の学生が三年間勉学に励むことができるくらいなのです。
長井家は、上流の家庭だということがわかりました。そうして、代助も中流の生活を送っています。ここで勘違いしていけないのは、平岡家が下流だと思うことです。平岡家は当然裕福な家庭で育った代助からは低くみられますが、一戸建ての家に住み、下女までいます。中流の生活であるということを決して忘れてはいけません。そうでないと読み違えが発生します。

1 代助の縁談
「三十歳」で無職の代助の収入源は何か?
数えで30ですから、満29歳です。代助は何か物を書いている作家というわけではありません。代助は完全に無職なのです。にも拘わらず、彼が贅沢な家で暮らしをしているのは何故でしょうか。彼の収入源が、この作品を読み解いていく上で、重要なポイントになってきます。
以前取り扱った「三四郎」は、父はなく、兄弟もいないと思われることから、三四郎自身が地主です。「こころ」の先生も、彼自身が大資産家なのです。先生は、恐らく一度もお金を稼いだことがない人物だと思われます。固有名詞の少ない小説で、先生の故郷が新潟と明記されているのは、新潟の地主は、他の地主とは一桁違うほど格差があったということなのです。これは当時の人々であれば、新潟と聞けば分かった知識なのです。
P33ℓ5「代助は月に一度は必ず本家へ金を貰いに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている。」作品の後半では、特別に兄嫁から小切手を受け取っている場面もありますが、常々は毎月代助が実家に赴いてお金を貰いに行っているのです。当時は振込みということはありませんでしたから、どのようにしてお金を貰うかということが問題になります。
ここで注意しなければいけないのが、代助は毎月貰っているということです。一度に財産のいくらかを貰って、後は代助が自由に使うということではないのです。家制度の時代ですから、戸主には家族を扶養する義務があります。ですから、父長井得は、次男である代助に対して扶養する義務があるのです。ところが、この義務と同時に、戸主には強い管理権もあります。戸主は必要であれば、御前はここに住めと、住む場所さえも決定する権利があったのです。ですから、代助と父の関係は、戸主と養われている人間という関係で、その関係が良好である限り代助は毎月お金をもらえますが、戸主の命令に背いたり、いうことを聞かない場合はこの扶養を取り消してもいいのです。これを「義絶」といいます。勘当や義断と同じ意味です。
ですから、以前言った「パラサイト・シングル」や、現在の「ニート」とは全くの別物であるということを認識しなければいけません。関係が悪くなれば、翌日から食べ物に困るという関係なのです。三四郎や先生は、誰と喧嘩しても何の問題もありません。しかし、代助は父には逆らえないという、強い父系性の元で暮らしているのです。代助自身には何の財産もないのです。リスクの中での生活だということを理解していなければ、この小説は読めません。

二通の書簡が同時に届くところから始まる物語
端書 平岡から      東京到着の知らせ
封書 青山の父親から  呼び出し
P16ℓ3~「端書と郵便を持って来た。端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、~平岡常次郎という差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。~封書の方を取り上げると、これは親爺の手蹟(て)である。二三日前に帰って来た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、この手紙が着いたら来てくれろと書いて、あとには京都の~」
二通の書簡のそれぞれを発端とする物語のラインが次第に接近交差していく
パソコンの時代となってしまった今では分かりづらいですが、当時は毛筆でしたから、ぱっと見るだけで誰が書いたものかがわかったのです。恐らく封書には、長井代助殿と書かれてあったのを見て、それがすぐに父親の手蹟であることがわかったのです。
この小説は、二通の書簡から始まります。象徴的な物語の始まりです。父親の封書は、京都に行った際に取り付けてきた縁談の話。もう一つは三千代関係の話し。この物語はこの二つのラインが段々接近してきて、交差する物語です。

代助の縁談
三章の父との階段(封書による呼び出し)
P38ℓ14「そう人間は自分だけを考えるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人の為に何かしなくっては心持のわるいものだ。御前だって、そう、ぶらぶらしていて心持の好い筈はなかろう。そりゃ、下等社会の無教養のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んでいて面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだからな」
決して代助に、こいつと結婚しろと直接言わない父親。得はいつまでも何とか代助のほうからOKを出させようと言葉を選らんで説得を続けます。
「例の縁談の事」 佐川(多額納税者)の娘
P49ℓ8「又例の縁談の事」
P50ℓ2「其所へ親爺が甚だ因縁の深いある候補者を見付けて、旅行先から帰った。」これが、冒頭の封書となって、送られてきた話したかった内容です。佐川の娘について、50ページから53ページにかけて長井家との関係がかかれています。
P53ℓ5「女の方(娘の母)は県下の多額納税者の所へ嫁に行った。代助の細君の候補者というのはこの多額納税者の娘である。」
当時の多額納税者は、多くが地主でした。実業家や役人よりも、多額納税者は地主のほうが多かったようです。ここからでも、おそらく佐川家は地主であろうことが窺えます。土地という財産は、景気に左右されないもので、収入の安定感は揺るぎがありません。下手をしない限り大幅に損をしたりすることもないのです。この縁談に対して青山家は何とか結ばせようと必死です。しかし、当の代助は乗り気ではありません。

七章の三千代に依頼された工面で青山を訪ねた時の梅子との会話
P122ℓ11「代助は最近の候補者に就て、この間から親爺に二度程悩まされている。」
P123ℓ10「だって、貴方だって、生涯一人でいる気でもないんでしょう。そう我儘を云わないで、好い加減な所で極めてしまったらどうです」と梅子は少し焦れったそうに云った。
この梅子の考えは一般的な考えです。理想を追い続けていないで、いいかげんなところで折り合いをつけて結婚しなさいという意味です。明治は恋愛結婚が非常に少ない時代でした。男女の交流が殆どなかったのです。共学は小学校までで、それからば別学。明治期の恋愛の3パターンは、
・男から見ると友人の妹、女から見ると兄の友人
・下宿する男と下宿先の娘
・いとこ同士
当時は兄弟が多い時代でしたから、兄のほうからすれば、友人の妹と、妹のほうからすれば兄の元へ遊びに来ている友人と恋愛で結ばれるということはありました。ただ、これ以外はほとんど男女が交流する場がありませんでしたから、いつまでも理想の相手を追い求めていないで、適当に結婚しろということになります。当時は、結婚式で初めて相手の顔を見るということもあったそうです。中には縁談中は恥ずかしくて顔を伏せていたという可愛らしい話しもあれば、妹のほうがルックスがいいからといって、当日になって姉が出てくるとかいう話もあったそうです。ちなみに後者の話は、仲むつまじく暮らしたそうです。
「それじゃ誰か好きなのがあるんでしょう。その方の名を仰ゃい」
いつまでも煮え切らない代助に対して、梅子はこの台詞を放ちます。この台詞は、2つの側面があり、一つは鋭い勘から発せられたという面と、もう一つは冗談半分です。この二つの意味が半々で出た言葉ですが、この言葉にドキッとした代助は、それまでなんともなかったのに、一つのことが浮かび上がってきます。
P124ℓ16「代助は今まで嫁の候補者としては、ただの一人も好いた女を頭の中に指名していた覚えがなかった。が、今こう云われた時、どう云う訳か、不意に美千代という名が心に浮かんだ。」

九章の父との会談
独立できる財産分与 洋行費用
P143ℓ1「代助は又父から呼ばれた。代助にはその用事が大抵分かっていた。」
P151ℓ11「独立の出来るだけの財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答えた。すると、父が、では佐川の娘を貰ったら好かろうと云う条件を付けた。~次に一層洋行する気はないかと云われた。代助は無論好いでしょうと云って賛成した。けれども、これにも、やっぱり結婚が先決問題として出て来た。『そんなに佐川の娘を貰う必要があるんですか』と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなった。」
この独立という意味は、長井家の戸籍から出て、長井代助という戸籍をつくり、そこの戸主になるという意味です。余談ですが、よく勘違いされているのが、入籍という言葉。入籍は女性が夫となる人の家に入るんだと思ったら大間違いです。法律上そのようなことはできません。また反対に、婿養子のように、嫁の家に夫が入るということも法律上禁止されています。戸籍の中に夫婦は一組だけしか存在しえません。太平洋戦争以降に法律が改正されています。しかし、太平洋戦争以前の家制度の下では、これが成り立っています。その名残が現在でも、法律上禁止されていても何故か習慣としてそのように理解されています。実際は、男も女も自分の戸籍を一度捨てた上で、二人で新しい戸籍をつくり、そこにはいるということになります。その際、名字は二人の名字のうちどちらかを選んでよいということになっているのです。
洋行というのは、ただの海外旅行やハネムーンのようなものではありません。現在では外国へ行くことも簡単なことになりましたが、当時はドイツへいくのに約40日ほどかかりました。洋行というのは、長い期間海外で滞在するということです。その際学校へ入って勉強してもいいですし、どこかへ勤めてもいいのです。その費用は莫大なものとなります。そのお金を払ってもいいぞというのです。
「三十で独身という家族を持つことの迷惑」
P153ℓ6~「じゃ佐川は已めるさ。そうして誰でも御前の好きなのを貰ったら好いだろう。誰か貰いたいのがあるのか。」~「別にそんなに貰いたいのもありません」~「じゃ、少しは此方の事を考えてくれたら好かろう」
P154ℓ3「何も己(おれ)の都合ばかりで、嫁を貰えと云ってやしない。~そんなに理窟を云うなら、参考の為、云って聞かせるが、御前はもう三十だろう、三十になって、普通のものが結婚をしなければ、世間では何と思うか大抵わかるだろう。そりゃ今は昔と違うから、独身も本人の随意だけれども、独身の為に親や兄弟が迷惑したり、果は自分の名誉に関係する様な事が出来したりしたらどうする気だ」
表向きの父得の言い訳です。三十になって見た目の通常なものが結婚しないで考えられたことは、二つあります。一つは同性愛者なのではないかと疑われること。もう一つは悪い病気を持っているんじゃないかと疑われることです。健康そうにみえて、結婚しないと、人に言えない何かがあるのではないかと考えられると、ここでは言っているのです。現在と当時の違いも考えなければいけません。ただ、当時も30で独身の人間もけっこういたことは事実です。本心は別のところにあります。

十一章(日曜日)
歌舞伎座 仕組まれた縁談
十一章P189で突然呼び出される代助。行ってみるとP191ℓ8「じゃ、一所に歌舞伎座に行って頂戴」P195「金縁の眼鏡」P196ℓ1「兄が入り口まで帰って来て、代助一寸来いと云いながら、代助をその金縁眼鏡の男の席へ連れて行って、愚弟だと紹介した。それから代助には、これが神戸の高木さんだと云って引合した。金縁の紳士は、若い女を顧みて、私の姪ですと云った。女はしとやかに御辞儀をした。その時兄が、佐川さんの令嬢だと口を添えた。代助は女の名を聞いたとき、旨く掛けられたと腹の中で思った。」
一貫して消極的な代助。当然これから令嬢と逢ってくれといっても行かないというのが目に見えていますから、半ば騙すようにして、代助を歌舞伎座に誘います。代助は芸術が好きですから、行ってみて旨く掛けられたと感じました。
十二章
青山の長井邸での見合い
P216-217でその経緯が書かれています。
P223ℓ11~「大した異存もないだろう」と尋ねた。その語調と云い、意味と云い、どうするかね位の程度ではなかった。代助は、「そうですな」とやっぱり煮え切らない答をした。父はじっと代助を見ていたが、段々皺の多い額を曇らした。兄は仕方なしに、「まあ、もう少し善く考えてみるが可い」と云って、代助の為に余裕を付けてくれた。
222ページで、令嬢が帰った後に、品評を皆でします。その品評が終わって、父がすごいいい女性だろうとは言わずに、「大した異存もないだろう」と聞きます。いい女性だろというとそこに突っかかる部分が出来ますから、有無を言わせないようにうまく言葉を選らんで代助を促します。
ただ、代助も「そうですな」と言い、否定も肯定もしない答えをします。兄はこれ以上どっちかはっきりしろと攻めてもいけないと思い、先送りという手段を講じます。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その三

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三つの家の生活水準
長井本家 長井得(役人出身の実業家) 誠吾(父の関係する会社の重役)
       梅子 誠太郎 縫 代助の母は死去
青山というと今でもお屋敷街になっています。明治の成功者の典型的な例です。長井家の財産は全て得によるもの。誠吾も働いているとは言え、父親の会社で仕事をしているのですから、全ては得の財産ということになります。
自宅に電話がある
P16ℓ11「君、電話を掛けてくれませんか。家へ」「はあ、御宅へ。何て掛けます」この会話からわかることは、長井家に電話があるということです。明治の終りでも電話が家にあるというのは、並大抵のステータスではありません。106人に1人の割合になりますから、1パーセントよりも低いのです。そうして、代助側はというと、自分で掛けないということはつまり家には電話がないということです。代助の書生の門野が、外へでて電話を掛けてくるということになります。ちなみに、当時女性が夫にしたい男性が持つものに二つのものがあります。それは今述べた電話と、自転車です。『それから』の後には自転車は普及しましたが、それ以前は電話と自転車を持つ男性は大変女性からもてたそうです。
近頃建て増しした西洋作りの客間 P44ℓ8こうした増築を繰り返すことが出来る経済力が表れています。
ピヤノ 
P115ℓ10 ピヤノと表記されています。ピヤノは現在でも家にあればステータスになります。
自家用人力車とお抱えの車夫
P189ℓ1「御宅から御迎が参りまあした」~すると、そこに兄の車を引く勝と云うのがいた。
ここから、兄のとありますから、父のも存在しているだろうことが窺えます。すると、少なくとも長井家には二人の車夫と、二台の人力車があることがわかります。もしかしたら梅子のものもあるかもしれません。
小間使い P48ℓ11「十六七の小間使い」
小間使いは女中さんの一種と考えて差し支えありませんが、どちらかというと手の汚れない雑用をする人を指すようです。ですから、この小間使いのほかに、洗濯や食器洗いなど、手の汚れる仕事をする女中さんもいたということになります。

代助の家
P18ℓ7「中々、好い家だね。思ったより好い」と賞めた。
これは平岡が代助の家を訪ねた際に発した言葉ですが、独身者が一人で暮らすにはよい家だという意味だろうと読めます。
自宅に電話はないが風呂はある
P6ℓ16「風呂場へ行った」当時家に風呂がある自体がステータスでした。今では考えられませんが、当時の人は殆どが銭湯へ行きました。また、家に風呂のある場合でも、一回風呂を沸かすために水をはり、蒔だの燃料代などを考えると、よっぽど銭湯の方が安上がりになります。当時と現在では違うのです。現在では銭湯の方が高くなってしまいました。
茶の間と書斎と座敷がそれぞれ独立している
P85ℓ13、P17ℓ4、P7ℓ13にそれぞれ表記があります。それに門野の部屋もあるわけですから、一人暮らしの男としては随分贅沢な家です。
庭 植物豊富
P156に「薔薇の花~擬宝珠の葉~柘榴の花」などがあります。
書生(門野)と「婆さん」を置いている
書生は『三四郎』の佐々木与次郎に似た存在です。ただ、彼の場合は東大の学生でしたが、この門野という男は怠け者で学校には行っていません。青山の長井家と比べたら落ちますが、それでも通常を越えた相当に立派な家であることがわかります。

平岡夫妻の家
賃貸? 持ち家?
P60ℓ2家主の方へ~「君、家主の方へは借りるって、断って来たんだろうね」
家主からの賃貸であることがわかります。
P92ℓ14「平岡の家は、この十数年来の物価騰貴に伴れて、中流社会が次第々々に切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、尤も粗悪な見苦しき構えであった。~門と玄関の間が一間しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、横にも同じような窮屈な家が建てられていた。東京市の貧弱なる膨張に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割乃至三割の高利に廻そうと目論で、あたじけなく拵え上げた、生存競争の記念(かたみ)であった。」
漱石はこのあたじけないという言葉がお気に入りのようで何度か使用されますが、意味は簡単に言えばけちということです。代助はこのように、よく思っていはいません。
門と玄関はあり
風呂は?
ないとは書いてないので断定することはできませんが、三千代が銭湯から帰ってくる描写もありますし、おそらくないと考えてもよさそうです。
書斎と座敷は兼用
P94ℓ1「座敷へ通ると、平岡は机の前へ坐って、長い手紙を書き掛けている所であった」
座敷に机があるということです。座敷と書斎が混ざっています。
庭は?
P231ℓ15「土の和れない庭の色が黄色に光る所に、長い草が見苦しく生えた」
下女
P231に下女がいる描写があります。すると、代助からの視点では悪く写っても、一戸建てで、庭があり、下女がいることになり、決して下層に位置するわけではありません。中流の下くらいになります。東京の中でも下の下であると考えてはいけません。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その二

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『三四郎』は東大生と東大卒業生とその妹たち
『それから』は東大卒業生とその家族
『三四郎』が原口を例外として野々宮宗八や金縁など、東大生とその卒業生たちの物語でした。それに対して、『それから』は東大卒業生が中心の物語となります。またそのほかに、独身者が目立った『三四郎』ですが、『それから』は代助を例外として、殆どが既婚者です。
代助
P5ℓ1「代助の」ここで、主人公の名前が代助であるということが分かります。代助の名字は、P32ℓ6で長井であることがわかります。父親が長井得。その息子であるため長井の姓を引き継いでいるのです。しかし、代助という名からもわかるように、家制度における長男と次男の関係がそこにあらわれています。もし長男になにかあったときに、スペアとしての存在が強いのです。
代助が大学卒業生であるというのは、友人の寺尾との関係からわかります。P128ℓ13「森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。~教師は厭だから文学を職業とすると云い出して、他のものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。』P129ℓ12「寺尾は~帝国大学の原稿を書いていた。」
この寺尾が書いている帝国大学の原稿というものは、東京帝国大学文科大学の卒業生であるということをあらわしています。ちなみにここの原稿を書けたのは、東大生と東大卒業生と、東大の教員になります。
平岡
P16ℓ4「平岡常次郎」この常次郎の次郎に注目するならば、弟と読むこともできます。当然他の情報が提示されていませんから、断定することはできません。事実次郎と名前がついていても次男でないこともあります。しかし、フィクションでありますから、弟としての位置づけをされていたと考えることはできます。
平岡は始め銀行に就職しますが、後に退社。P240ℓ5では「僕は経済方面の係りだが」と言っています。新聞社に勤めて経済方面の記事を書いているということは、おそらく法科大学の卒業生であろうと思われます。当時経済学部というものは独立してありませんでした。法科のなかに経済が含まれていたのです。
代助の兄
P32ℓ9で「誠吾と云う兄がある」ことがわかります。この誠吾は梅子という妻がいて、その間に誠太郎と縫がいます。父親の長井得ですが、P50によれば、若い頃は誠之進という幼名であったことがわかります。誠之進の兄直記は殺されていますから、長井家の家督を引き継いだのは弟の誠之進となります。それ以後、長井家では、誠之進、誠吾、誠太郎と「誠」の文字が続いています。そうして代助は「誠」の文字を与えられていません。
三千代の兄
P111ℓ4「代助の学友に菅沼と云うのがあって、代助とも平岡とも、親しく附合っていた。三千代はその妹である。」
菅沼の兄の名前はわかりません。
『三四郎』じゃ独身者の世界
『それから』は既婚者が多い
独身の主要登場人物は代助だけ
『三四郎』は「兄妹」が目立ったが『それから』は「弟」が目立つ
代助が弟ですし、代助の父得も弟です。
親切な嫂(あによめ)の登場
梅子のことですが、この梅子は実に生き生きと描かれています。

美禰子と三千代の外見的特長
(共通点)二重瞼
(相違点)美禰子にはない三千代の外見的特長
 *肌の色 美禰子は狐色 三千代は?
 *金歯
漱石の多くの作品から窺えるように、どうやら漱石は二重瞼の美人が好きだったようです。
美禰子は狐色をした肌の持ち主でしたが、三千代は反対に色白です。病気のせいもあって、その白さが際立っています。
P65ℓ12には「昔の金歯を一寸見せた」とあり、今の常識から言えば、三千代は歯が悪いのかなと思われますが、どうやら当時の金歯はお洒落の一つだったようです。アクセサリーとしての金歯で、口元からきらっと金色の歯が見えるのがお洒落だったようです。お洒落は理屈ではありません。その時その時に流行ったものですから、金歯がお洒落だということを理解しておかなければいけません。そうしてまた、ちらっと見えるのですから、奥歯でないことはわかります。比較的前歯のほうに金があったというわけです。
眼鏡の男
漱石は眼鏡とあまり縁のない作家です。ですから漱石文学と眼鏡というのはあまり関わりがありません。そのなかで唯一の例外として「こころ」の先生が眼鏡を掛けた人物でした。漱石作品のなかで眼鏡を掛けた主要人物というのは大変珍しいことです。若い私が先生と話すきっかけになったのは眼鏡が原因でした。海水浴場にまで眼鏡をかけてきたということは、「先生」がかなり目が悪いことを意味しています。そうしてその当時の「先生」が読者の予想より若いということは既に明らかですあから、当然老眼によるものではありません。
この作品では、P18ℓ12「平岡は突然眼鏡を外して、脊広の胸から皺だらけの手帛(ハンケチ)を出して、眼をぱちぱちさせながら拭き始めた。学校時代からの近眼である。代助は凝とその様子を眺めていた。」
P195ℓ11「一軒置いて隣りの金縁の眼鏡を掛けた男の所へ這入って、」この二人が眼鏡を掛けた人物として登場します。

『それから』の空間
トライアングル 電車 人力車 現在の山手線の内側
長井本家 住所
P189ℓ16「青山の家へ着く時分」現在の港区になります。東京に住んでいる人で青山を知らない人はいないでしょう。誰もが知っている高級住宅地です。
代助の住居 住所 P126ℓ1「神楽坂へかかると」現在の新宿区になります。
平岡夫妻の住居 住所 P133ℓ4「伝通院」 でんづういんと濁ります。もともとお寺の名前ですが、現在ではそのお寺の周辺一体をも指します。お寺は現在でもあります。文京区、近くに後楽園や東京ドームがあります。
『それから』という長い小説は、実はこの三箇所をぐるぐるいったりきたりしていることがその殆どの流れになっています。長井家と代助の自宅は距離があります。徒歩では厳しい距離です。ですから人力車や電車を使って移動します。平岡の家と代助の家は近くです。事実代助は平岡の家に徒歩で何度か向かっています。ただ、病気中の三千代にとっては徒歩は厳しく、人力車などを使用しています。

夏目漱石 「それから」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その一

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夏目漱石の国民的に人気の高い三冊を取り上げて、そこからバイアスの解放をしようという講義を続けてきました。最もよく知られている「こころ」。しかし、それがためにバイアスも強くなります。読みやすいけれど、何が書かれているのか、実は難しい「三四郎」そうして今度は「それから」になります。
この記事は高田教授の講義ノートをもとに構成されています。

『三四郎』連載完結から半年後に『東京朝日』『大阪朝日』同時連載
 明治42(1909)、6、27―10、13
『三四郎』執筆当時から既に社員になっていた夏目漱石。小説は朝日新聞社に書かなければいけないことになります。随筆等は自由にどこに出してもよいことになっていました。小説の連載は、だいたい半年のインターバルで3ヶ月連載するというのが、漱石のスタイルのようです。
テレビ・ラジオもない時代。庶民の娯楽は連載小説にありました。各新聞は、載せる連載小説の如何によって、大きく発行部数が変わりました。今現在で考えれば、ドラマのような感じかも知れません。
物語の時間
学校騒動 高等商業学校のストライキ闘争 明治42、5
P6ℓ11「其所には学校騒動が大きな活字で出ている。」P345注には、「明治四十二年四月前後」とあります。現在ではとても考えられないことになってしまいましたが、当時は不当だと思えば学生が抗議しました。現在の学生は抗議というものを殆どしなくなりましたが、戦後まで学生の抗議は続いています。5月1日にはストライキをしています。学生が全員授業に出ないのです。サボりではありません。申し合わせてボイコットしているのです。この部分が書かれている小説が6月には連載されていますから、読者はつい先日起こった事件を、小説内でもまた触れることになります。つまり、今現在の物語として小説が連載されていたのです。
連載小説『煤烟』 明治42、1、1―5、16
P85ℓ16「どうも『煤烟』は大変な事になりましたな」P347注、森田草平(1881-1949)が明治四十二年一月一日より、五月十六日まで東京朝日新聞に連載した長編小説。平塚雷鳥との心中未遂事件が社会問題化したのに対して、漱石のすすめにより、事件の経緯を描いた作品。
漱石の弟子であった森田は、平塚雷鳥との心中未遂事件を起こします。平塚雷鳥は、どちらかというと作家というよりは、当時の女性解放をする人間というイメージが強いようです。高級官僚の御嬢さんであった平塚と心中未遂を起こしたのですから、大変な話題になりました。ちなみに、漱石も森田も同じく雑司が谷の墓地にあります。宜しければ足を運んでください。
『煤烟』は、心中未遂をした当事者が語るという小説ですから、普通の小説とは異なります。内容はすさまじいものです。ちなみにこれは読みの遊びですが、『煤烟』は朝日新聞に連載されていたので、この小説の主人公になる代助は朝日新聞を取っているということになります。そうしてその朝日新聞に今漱石が連載しているのですから、一種のジョークのようになっています。
大隈伯
P89ℓ5「大隈伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつつある生徒側の味方をしている。~代助はこう云う記事を読むと、これは大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる為の方便だと解釈する。」
大隈重信、自由民権運動でも有名ですが、早稲田大学の創始者です。この知識がないと、ここを読んでも意味がわかりません。早稲田大学の創始者である大隈伯が生徒の味方をするという意味を、代助はこのように解釈したのです。ちなみに慶應義塾大学は福沢諭吉です。当時も、早稲田や慶応義塾は大学と名乗っていましたが、法律上では専門学校になっています。「大学」という一言があらわすのは、現在のような制度としての大学ではなく、東京帝国大学ただ一つだったのです。漱石が死んだ後、私立も大学令で大学ということになりました。
日糖事件 明治42、4
P126ℓ15「日糖事件なるものがあらわれた。」大日本精糖株式会社の汚職事件が起こります。自分たちの都合のよい法律を通すために、役員などが会社ぐるみで国会議員を買収していたという事件です。社長はピストル自殺しています。当時の読者からは生生しい事件で、その事件を小説の中に書くことによって、まさに今が書かれている小説であるという印象が強くなります。
幸徳秋水の見張りの記事 明治42、6
『それから』の翌年「大逆事件」 幸徳等12名処刑
P241ℓ8「幸徳秋水という社会主事の人」
調度『それから』の幸徳秋水が連載される20日くらいまえに、朝日新聞は、幸徳の独占インタビューの記事を掲載しています。
「大逆事件」は多くの文人に影響を与えました。挑戦併合と同じ年に、あっという間に判決が出て、あっという間に死刑が執行されるという衝撃的な事件でした。影響を受けた代表格が、漱石、鴎外、石川啄木です。
P72ℓ10「朝鮮の統監府に居る友人宛」朝鮮併合が1910年ですから、その前年のことになります。しかし、すでに日本は統監府をソウルにおいて、事実上の支配をしています。韓国ではこの併合から、日本が第二次世界大戦で負けるまでの期間を、日帝36年と表しています。この背景をしっかりおさえないと、現在の領土問題等々が見えてきません。
相撲の常設館(国技館)
ドーム型常設館の完成は明治42年五月末
P34ℓ5「もし相撲の常設館が出来たら、一番先へ這入ってみたいと云っている。叔父さん誰か相撲を知りませんかと代助に聞いたことがある。」P91ℓ12「相撲が始まったら、回向院へ連れて行って、正面の最上等の所で見物させろというものであった。代助は快く引き受けた。」P204ℓ9「新聞に出ている相撲の勝負が、二人の題目の重なるものであった。」
相撲は奇数の月に場所があると決まっています。そうして当時の相撲は現在のように、いくつも場所があるわけではありませんでした。当時は一年に二回。一月五月をそれぞれ十日で行っていました。そこから「一年を二十日で暮らすいい男」という言葉もあります。
P204では、すでに物語内時間は梅雨に入っています。ですからどうしても6月に相撲が行われたということになり不自然になりますが、この年だけ例外で6月に相撲が行われました。
現在のように相撲はある特定の相撲をする施設があったわけではありません。ですから、小屋掛けといって、広場に幕をはって、その中にお金を払ったお客を入れるというシステムをとっていました。しかし当然屋根がありませんから、晴天のみになります。晴天10日間ですが、雨天の場合は中止になったり、あまり厳密さはありませんでした。それが国技館という、場所中でなくても相撲をとる場所が常にある施設が作られました。6月2日に完成した国技館、五月場所が一月遅れで6月に開催されました。この小説は国技館を小説の中に取り入れた最も早い小説のひとつといえるでしょう。それだけ国民の間では相撲の人気があったということにもなります。
『それから』は連載開始直前の出来事が積極的に取り入れられている
三四郎は、小説が連載されていたのは明治41年。物語内時間は明治40年でした。それに対して『それから』は今、まさにこの時に起こっている小説という印象が強く演出されています。当然今私たちが読んでもちっともそんなことは思いませんが、当時の人々は対この間話題になったことがすぐに書かれているというオンタイム小説として読んでいたのです。それを踏まえる必要があります。

『それから』連載予告
◎新小説連載予告
それから 漱石
色々な意味に於てそれからである。「三四郎」には大学生の事を描たが、此小説にはそれから先の事を書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はあそれから後の男であるから此點(てん)に於ても、それからである。此主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさき何うなるかは書いてない。此意味に於ても亦それからである。
新聞の連載予告の欄にはこのように一週間の告知がなされます。ここでわかることは、①、三四郎の後であるから大学を卒業した後の話かなと推測できること。②続編ではないが、何かしらそれから後の男の話なのだなと推測できること。③、結末は完結しないのだろうかと推測できることです。

『三四郎』の世界との比較
三四郎の年齢 『それから』の代助の年齢
三四郎が数えで23でした。満22歳です。現在でいえば大学の4年になります。当時の学校制度は小8、中5、高3でしたから、現役で三四郎の年齢になります。学校制度を頭にいれておかないと、勘違いしますので気をつけなければいけません。三四郎は文科の学生ですから、大学は3年で終わります。22で入ると25の卒業になります。
P40ℓ1「もう三十だろう」~「三十になって遊民として、のらくらしているのは、如何にも不体裁だな」数えの30ですから、満29歳になります。そうすると四年前に卒業したことになります。三四郎が順調に卒業したとすると、同じ年になります。

現代日本における個人の存在の問題とその解決へ

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-縦軸の時間・横軸の時間-
今回は、現代における人間がどのような状況に置かれているのかという視点から、それを実際に教育現場に立った際にどのようにしていくのかという視点で論じる。
私は以前、内山節の『時間についての十二章』を読んだことがあったので、縦軸と横軸の時間というのは、既に知っている概念であった。そうして、内山氏の言うことは極めて納得のいくことである。私はさらに、この時間軸というものを、別の視点から捉えた論文から見てみたい。私の専門である文藝で、アニメについて研究をしていた際にめぐり合った論文であるが。その論点が今回の時間の認識と交差する部分があったのでここに記しておく。十津守宏『新世紀エヴァンゲリオンの終末論』で、氏は「東」と「西」の宗教的感覚の違いを明確にし、それを作品に応用して論じている。氏の論によれば、縦軸の時間「絶えず一定方向へと進行し、不可逆性を示す直線的な時間―歴史という概念は」西洋的であると言う。これがキリスト教の伝統に基づいた「歴史」という概念がもたらしたものだそうである。つまり、キリスト教、ユダヤ教などの西洋文化は、元々が縦軸の時間の流れた文化であると言うことができるだろう。それに対して、死と再生を繰り返す円環的、循環的な時間軸が東洋の文化には根付いていると氏は言う。
 氏の論は、この西洋的な思想を振りかざして、その枠組みに入れこもうとした作品が20世紀、90年代をにぎわしたアニメ『エヴァンゲリオン』だと言う。このアニメは、西洋的な思想を構図としていながらも、最終的には実に不可解な終わり方をするのは、東洋的な円環する時間軸が勝利したからだと述べている。現在私は『エヴァンゲリオン』をその時代背景とともに研究している最中であるが、こう考えると、西洋的な思想と東洋的な思想、つまり縦軸の時間と横軸の時間という矛盾を孕んだがために、エヴァンゲリオンは作品として崩壊し、その矛盾が現代そのものであったために、多くの若者に熱狂的なブームを引き起こせたのだと考えている。
 私がここで述べたいのは、元々農耕民族で、円環する時間のなかにいた我々日本人が、西洋の思想を無理やり枠組みだけ借りてそれに当てはめようとしたために、無理が生じたのではないかということである。さらに、先の十津氏はキリスト教以前の古代文化は、すべて円環する時間軸であったと述べている。それが、内山氏のフランスでの体験とも重なってくるのだろう。すなわち、フランスという西洋文化の中心を担うような国でさえ、田舎の農村に行けば未だ円環的な時間軸が残っているということである。それが、フランスの都市、日本の都市になると、西洋文化の縦軸の時間に支配されるために、矛盾が生じる。この矛盾が現在、今までにないほどその差が開いてきてしまったのだと私は感じる。このことが、後でも述べるが自殺の問題に少なからず繋がっていると私は考える。

-日本における価値の問題-
 ここでは内山氏の『子どもたちの時間』を中心に、子どもだけに限らず人間がどのような存在であるべきなのかという視点で論じる。
 氏は実にフランスの農村の子どもたちを生き生きと描写している。フランスの農村では、子どもたちは大人から仕事を少しずつ与えられることによって、徐々に大人へと近付いていくことになる。これが、現代日本では鮮やかなほどの対比が為されている。日本では、子どもは今すぐには役に立たない存在である。言い方が悪いが、当然子どもたちは将来役に立つからということで、勉学に勤しんでいるのである。いい中学、いい高校、いい大学へ入って、いい会社に就職して、いい給料をもらう。これがまるで人生の最上のコースで、それ以外は無であるかのような認識が日本にはあると私は感じる。フランスの農村の子が、前期に学んだ職人よろしく、徐々に大人たちから仕事を与えられて、育っていくのと対比して、日本の学生は、ずっと勉強だけをやってきて、モラトリアムである大学が終了と同時に突然仕事を任されるようになる。
 日本の教育は、果たして仕事に役立つことなのであろうか。否である。いざ仕事を始めて役に立つ知識や経験は、6・3・3・4年間の中では殆ど学べていないのが現状ではないだろうか。私はここに大きな問題があると考える。つまり、将来のためと言って勉強させておきながら、その勉強の内容自体は全くと言っていいほど仕事には繋がらないのである。これが、勉強をやっても何の役に立つのかという最もな意見となって、教員や親に向けられることがある。そうした際に大抵の親や教員が明確な答えを出せないのは、親や教員もよくわかっていないからである。教育改革をするのであれば、役に立つ教育をしなければいけない。少なくとも、勉強している人間が、その学んでいる内容が必要であると感じることが重要である。ある点では、こじつけでもいいから、関連性を持たせるべきであると私は考える。何かをぶつぎりにする西洋的な考えではなくて、東洋的な、すべてはどこかで関連しているのだという思想をもう一度持つ必要があるのではないだろうか。
 現在勉強しているものが無駄だとは私は考えない。私の専門は近現代の文学や文藝だが、それらは当然歴史的な知識も必要になるし、数学的なものも直接的ではないが必要になってくる。これからの教育はまず、受けている人間が、今受けているものは将来なにかしらの役に立つ、或いは今役に立つという考えを持つことが重要になり、私たち教師となるものは、その関連性を伝えていかなければいけない。
 教育には教科カリキュラムか体験カリキュラムかという考え方がある。私はこの両方、つまり中道を目指すべきだと考える。今の日本の教育が比較的教科カリキュラムよりで、フランスの子どもの成長過程が体験カリキュラムの極端な例だとすると、やはり現実的には限られた時間の中で集団を教える必要があるので、いかに現在の教科カリキュラムのなかに体験カリキュラムを組み込めるかという問題になると私は考える。これが、なにより生徒が学ぶ意義について納得することにもつながり、今現在勉強をする必要性を感じることに繋がると考える。

-自我同一性の喪失-
アイデンティティーの問題が、今考えらるべき最も重要なものの一つであると私は考える。エリクソンの精神分析によれば、自我同一性の確立の問題になる。内山氏は「抽象的には価値ある人間であっても、具体的にはその価値がみえてこない、そんな世界のなかに日本の子どもがおかれている」と述べている。あまりに、社会が経済熱におかされてしまって、不可逆性の時間軸の中心となってしまったために、そこには具体性というものも消滅してしまった。常に向上、進行が求められる経済至上主義の社会においては、停滞は完全に排除されるべき存在ということになった。ここでは、常に向上、進行するものが求められる。人間は、具体的な個人としての人間から、抽象的な向上、進行しつづけるものへと変化した。
 このことが、加熱して崩壊したのがバブルである。神野直彦氏の『「分かち合い」の経済学』で氏はこの循環する社会について極めて高度な分析をしている。バブル以前は日本でも、会社の存在が大きく、それは一種の家父長制のようなものでもあったが、社員のことは永久雇用で、会社が面倒を見るという時代であった。しかし、バブルの崩壊後、その会社に残っていた家父長制的な制度まで排除されたのである。その次の時代は、アメリカナイズされた、実力至上主義である。つまり、「己」としての人間は必要となくなり、「もの」としての人間が求められるようになった。徹底的な合理化、無駄の排除により、人間の感情や自己というものも必要とされなくなったのである。この社会では、人間は取替え可能な歯車と見なされ、さらに、常に向上し続けることが要求されるようになった。要求されるだけであればまだしも、その要求に応えられない固体はどうなるかというと、リストラである。つまり、向上できなくなった時点で既に用済みなのである。
内山氏は「現代社会とは、何かを確立して安心感をえる社会ではなくなったのです。労働も人間存在のあり方も、価値観も、その他一切のものが、たえず新しく生まれ、たえず古くなり、たえず見捨てられていく、非確立系の社会が展開しているのです。この社会のもとでは、誰もが安定した自分の役割をみつけだせずにいるような気がします。なぜなら、自分の役割もつねに新しく創造しつづけなければならないにもかかわらず、その創造された役割も、たちまち古いもの、必要のないものとして見捨てられつづけていってしまうからです」と述べている。
 私はこれを常に更新ボタンを押し続けている状態であると感じた。自己というものが立ち上がる前に、更新ボタンを押されてしまうので、常に白紙に近い状態が続く。そうして、たとえ何か自己のようなものが立ち上がったとしても、それはその立ち上がった時点から過去のものとなり、再び更新が要求されるようになる。縦軸には、絶対的に終りがないのである。これを自我同一性の問題で考えると、自我同一性が確立した瞬間にそれが、社会という大きな力によって破壊され、再び作られるという構図になっているのだ。だから、私たちは本質的にはこの更新の求められる社会では自我を確立できないということになる。これが、自信の喪失という大きな問題になっている。
 この自信の喪失が、より社会を悪化させているのである。年長者でさえ、自信がないために、自己の地位保全を第一として思考し、行動する。すると後進への道が開かれない。トップが重い会社が出来、若い人材は不必要となくなる。そうすると、我々若い人間も自分が今までしてきたことはなんだったのか、自分は必要とされていないということを、思わなくても社会の状況から思わざるを得なくなる。そのことが総じて、私は年間3万人を越える自殺者の問題に繋がっていると考える。自我なき自我を持ち続けることに疲弊した人間は、どうしても自分は代替可能で、無用なものだとしか認識できなくなる。そのため、自我を更新しつづけるのであるが、それに疲れた人間が最終的には自殺という行為を得て、この終り無き世界に終りをもたらそうとするのだと私は考える。そうして、当然無意識であるにしろ、例えば交通機関などに飛び込む人間というのは、ある種のこの社会への報復と考えることもできるのではないかと私は思う。歯車として使用され、全く存在を肯定されなかった自分が、己の死というものをもって、他人への影響力を発揮する場所が最後の行為になるというのは、やはり無意識であったとしても考えられないことではないと私は思う。そうして、こうした自殺者を私は擁護したい。彼らは自分の手によって自殺を選んだのではなく、社会によって殺されたのである。それにもかかわらず、自殺はいけないと大手を振って述べている社会に対して、私は甚だ懐疑的である。まるで責任は自殺者にあるように聞こえるからである。

-まとめ・関係性の改善から具体策へ-
 そのため、現実レベルの話では、この経済至上主義の社会において、どのように自信を獲得、構築していくかという問題になる。ここでは、そのプロセスについて理念から教師としての立場での具体的な方法まで論じたい。
 先ずこの経済至上主義であるが、これを何とかしなければいけない。この概念に対抗すべきものは今までないかのように思われたが、今年発売された池澤夏樹の『氷山の南』という小説で、その「アイシスト」という概念が鮮やかに提示されている。この「アイシスト」というのは、池澤夏樹が考え出したフィクションの団体であるが、その思想はこの大きくなりすぎた経済社会を、氷(アイス)のように冷やして、停滞したものへかえていこうというものである。この小説があまり評判に上がっていないのは、現代文学を専門とする人間としては悲しいことであるが、池澤夏樹はここで経済至上主義へ対する概念を見出している。私もこの考えに賛成である。今、日本の政治は経済問題を何とかしなければいけないという局面に立たされている。しかし、私は敢えて経済大国を目指さなくても良いと思う。TVを観ていると、多くの知識人たちが文化の力で日本を盛り上げようと言っている。私も、経済で世界と張り合うのではなくて、そこから一歩退いて、経済的には多少貧しくなるかもしれないが、文化の力を盛り上げて文化大国として世界と張り合おうというのが、私も一致する考えである。
 この問題について教師個人ができることといえば、こうした考え方、お金がすべてではないのだという考え方を、永久に生徒へ伝えていくことのみである。この考えを受け継ぐ生徒たちが次第に大人になり、広まっていくのを見守るほかない。地道な辛い戦いとなるだろう。
 次に自信の問題であるが、これは関係性から改善していかなければいけない。私は関係の状態をチャーハンで喩えるのが好きなのだが、例えば濃密な関係が築かれた閉塞された空間の人間はべちゃっとしたチャーハンである。そうして、現代の日本人の関係はぱらぱらになりすぎたチャーハンである。これからは、適度にぱらぱらした中華のおいしいチャーハンの関係性を築かなければならない。要は中道なのだ。経済至上主義もだめ、かといって農村の関係性は現実的に持ち込めない。この折衷のなかで、中道を見出していくほかないと私は考える。
 現代の関係性は「自己を存在させるための関係の世界や、他者との関係が無視されてしまっています。フランスの農村でみてきたような、村のさまざまな関係とともに存在する自己という視点が失なわれ、他者は自分にとっては無関係なものになり、「裸の自己」が存在しているだけです。こうして誰もが孤独であり、バラバラになった社会が生み出されました。誰もが孤立した自分の人生を経営しようとしている」状況であると内山氏は言う。この他者との関係性を見つめなおさなければならないのであるが、一つ今回の授業でかけていた点があると私は指摘したい。それは人間の関係性を論じるうえで欠かせないもの、連絡媒体についての言及がなされていなかったことである。つきましては、今後の授業の際には子どもがどのような連絡ツールを使用しているのか、その状況についての言及もなされるとより考えのきっかけになると思われることを指摘しておきたい。
 私はこのバラバラの関係性のなかで、どうしようもなく不安であるからこそ、常に携帯を使用して他社とのコミュニケーションを図るという、ケータイ依存症が登場したのだと考えている。そうして、こうした連絡ツールへの依存は、さらに人間対人間の関係を脆弱にするという悪循環に陥っている。であるから、先ず教育現場においては、人対人のコミュニケーションの温かみから教えてなければならない。エンカウンターなどの効果的な関係性を結ぶものも考えられている。こうしたことを行うとともに、人間同士の関係性の重要さを伝え、そうして何よりも教師同士の良好な関係を生徒に見せることによって、生徒も関係について考えるきっかけになるのではないかと考える。当然生徒との関係を構築し続けるという努力が必要だ。その具体的な策は、私は文章を書くのが好きであるからクラス報を書くなどして、生徒との共通した部分を多く持つことである。
 他者との関係性が皆無になってしまっている個人至上主義の現在において、他者との良好な関係性を見出さなければいけない。他者との関係においては、信頼と依存があると私は考える。個人主義の次によろしくないのが、他者へ依存する関係である。ここには、自己というものは曖昧で、内山氏の言う「静かな多数派」を占めているのはこの関係性を有しているものたちである。ことなかれ主義と言ってもよい。常にマジョリティーに付き従うだけの存在である。そうではなくて、やはり自己というものがあり、それから他者との信頼できる関係性を築かなければいけない。自己の確立というものは、他者との信頼関係においても相互的にかもし出されていくものなのである。自己を持ち、他者と関わることによって、再び自己というものを認識強めていく。このサイクルのきっかけを私たち教員が作らなければいけない。
 教員が教育現場でできることは限られているが、例えば仕事を与えること。生徒を認めることが重要となってくる。自己を確立させ、自己とは異なる自己、つまり他者を尊重し、信頼して互いに刺激しあう関係性を構築させなければならない。具体例で言えば、課題を頑張った生徒へは公でその成果を認めるなど、小さなことを認めていくことからはじめる。そうして、他者の良い部分に働きかけることを継続しておこなうことによって、徐々にでも生徒にそのような関係性の重要さを認識させなければならない。それぞれがそれぞれのユニーク(他にはない自己)を持ち、他のユニークを認め、信頼し、時には信頼の上に批判をして、良好な質の関係を結ぶ必要がある。教師はこの良好な質の関係を結ぶ場を作ることと、きっかけをつくること、そうして教師自身がそうした関係を常に教師、生徒、保護者などの関係において築き続けることが求められる。

『新世紀エヴァンゲリオン』への試論 性的シンボルを排除したヒロイン・かぐや姫型ヒロインとしての「レイ」

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-はじめに-
1995年より放送された『新世紀エヴァンゲリオン』は、当時大ヒットし、2012年現在、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』が上映され、未だにヒットし続けている作品である。これほどロングヒットした作品は、多様な需要により多様化、細分化された現在の状況において、極めて例外的であると言えよう。
 私は、多くの作品から話形、類型を抽出する研究手法を得意としているが、『エヴァンゲリオン』は、簡単に~形・型と分類することの難しい作品である。多くのネットユーザーが指摘しているように、『エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』(以下エヴァ)であるという認識が強い。これは、エヴァが単にロボットものや、学園ラブコメなどに分類できないという例外性だけに留まらず、そのものでジャンルを作り上げてしまったという、大きな偉業を成し遂げたと考えることができる。
私はここ最近のアニメについて興味をもち、出来る限りテクストにあたるようにしているのであるが、2011年のアニメは特にここ数年のアニメの流れを大きく変えるテクストが多かった。というのは、例外性が強調されたためである。『魔法少女まどか☆マギカ』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『TIGER & BUNNY(タイガー&バニー)』などが、その良い例として挙げられる。これらの作品は、今までの~形・型という枠組みを根底から揺るがすという偉業を成し遂げた。今まで視聴者に何の疑問も抱かせずに信じられてきたことが、問われ始めたのである。その点で、これらのアニメは極めて革新的であり、アニメそのものへの「問い」をする力のあるテクストと考えることができる。しかし、これらの力強いテクストといえども、一つの世界観を構築するほどのアニメは皆無と言ってよいだろう。先に述べたアニメのテクストは、それまでの主流であったアニメに対しての、「対抗文化counterculture」でしかない。今までのアニメ文化の支配的な考え、黙認されてきた周知の事実への、対抗、反逆、破壊、また異質な文化創造を行うということでしかない。それは何らか対抗しなければならない文化があることが前提として成り立つものである。であるから、創造的行為と考えられたとしても、無からの創造ではない。あくまで有るものに対しての抵抗でしかないのだ。
エヴァがこれほどの人気を博し、テレビアニメ版の公開から15年以上経った現在でさえこれほどの人気があるのは、このような対抗文化ではなく、エヴァ自身が新たなジャンル『エヴァンゲリオン』を創造したからに他ならないのである。また、それゆえに、その後に出たアニメ作品が「エヴァっぽい」というエヴァへの帰結を起こすことにもなる。それほど影響力の強いエヴァについて、私はそのエヴァをエヴァたらしめている条件の一つを考察してみたい。


-エヴァンゲリオンにおけるヒロイン性-
エヴァは、これまで多くの研究者が指摘してきたように、性の問題がある。それは丁度この物語の主人公となる登場人物がいずれも14歳という年齢が設定されており、第二次成長期との関係が考えられるためである。
私はこの中で、エヴァにおけるヒロインの役割について分析したい。エヴァにおけるセクシャリティの問題は多くの研究者が指摘してきたが、特にエヴァの物語のメーン舞台となるNERVの組織におけるセックスの役割を論じたのが高橋準氏の『現代文化研究における〈文化〉概念と分析ツールに関する覚え書き―アニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』を手がかりに』である。ここで氏は最前線に立つ兵士の三人は一番低い地位で、末端の実戦部隊の長がミサトやリツコ、組織の上層部は男性という構図を図式して説明している。
だが氏は、そうした上層部の男性はほとんど物語りでは重要な地位にあるにも拘わらず、物語中にはほとんど登場せず、もっぱらこのアニメの主要なメンバーは女性がほとんどであると指摘している。
私はここに、女性が登場するものの、母としての女性が意図的に排除されていることを指摘しておきたい。エヴァにおける母の問題は、アニメ版の後半の話しになるので、本論ではこの問題については割愛する。そうして、このエヴァにおける女性の問題のなかでも、最も異端をなしているのが、主要なキャラクターの「綾波レイ」であろう。

前半部分を主に「綾波レイ(以下レイ)」がどのようなキャラクターとして動機付けされているのかを考察する。エヴァをエヴァたらしめている要素は何かと考えた際に、主人公のシンジだと答えるよりは、レイだと答えたほうが納得がいくのではないだろうか。それはシンジがまだ視聴者にとって理解できる範囲のキャラクターであるのに対して、レイがあまりに異質な存在であるからである。
レイは、これまでのどのアニメにもなかったキャラクターとして登場した。これがエヴァにおける最大の発明だと私は考える。レイの異種性、異質性というのはどこから来るのか。これはアニメの後半部分を見れば明らかになってくるのであるが、ここでは一先ず前半だけで考察することにする。
感情が欠如した存在として、レイは描かれる。冒頭から包帯を巻いて、シンジがエヴァンゲリオンに乗らなければということで、傷だらけの状態で搬送されてくるところから、この少女のキャラクター付けが視聴者になされる。一言で言い表すのであれば、彼女は「無」そのものである。人間から綺麗に感情を拭い去ったような存在である。人間から感情を排除したらそこにのこるものは何か、それは人の形をした魂の入れ物、人形である。
この物語は、後半になるにつれてレイの存在が徐々に明らかにされていくという謎の解決という構成をとっている一方、「無」であった少女が、次第に感情や自己を獲得していくという、自己同一性の確立の物語であるとも取れると私は考える。私は、レイという存在がどうして突然これまでのアニメ界になかった(少なくとも私が認識している限りでは)状況から生まれたのかということを考えたい。
レイの欠如性というものは、人間味らしさを完全に排除したことによって得られたものである。生命には、その生命を自然と維持する力「エロス」が備わっているといわれるが、それさえも綺麗にそぎ落とされた存在なのだ。だから、レイには生きたいという人間の本質的なものさえない。反対にタナトス、死にたいという欲求もないわけである。
レイの「無」性というものは、彼女の容姿からも動機付けられる。白という色は、色彩において最も無に等しいものである。「色が無い」のである。加えて、これが白の反対の黒になったということが、新劇場版では決して小さくない意味が付与されたのだとここでは指摘しておきたい。
レイの「無」性を象徴付ける白であるが、それは純粋、清純のようなイメージとも連関してくる。さらに、14歳という第二次成長期前の彼女は、まだ少女であって、女性ではない。子どもが産める状態を女性だとすると、レイには、まだ子どもを産める存在にはなっていないのである。まだ、女性にもなってない、少女のままの存在。ここから処女性、ヴァージニティがイメージ付けられているのではないだろうか。

こうしたキャラクター付けに対して、大塚健祐氏は「エヴァは男の性的幻想の塊だ」と評している。(ニフティサーブ、生涯学習フォーラム・総合、短期特設会議室「メディアの中のジェンダー」)。この作品は全体が、女性中心で動く物語であるのにも拘わらず、それを何とか上から権力という名の抑圧を用いてコントロールしようとする男性主義な考えがある。そうして、末端となって働く女性たちは、使徒によって攻撃、侵略される。これは後半に徐々に強まっていくのであるが、女性性の象徴である三台のコンピュータ「マギ」は侵入され、アスカも後に精神を犯される。ここにはレイプの構図があると、先の高橋氏は指摘している。
レイは、こうした女性に対する男性の欲望を受け入れるためだけに作られたような存在であると私は感じる。そのために、男性に対する反抗すべき手段を根本から根こそぎ排除されているのである。レイには感情は存在しない。しかし、同時にレイには処女性、聖母のイメージが連想されると私は思う。男性の欲望の対象でありながら、決して汚されない純正、純粋なるものを有しているのである。それが処女性であり、無である。男性の欲望のために作られた人形は、あまりに無駄を排除しすぎたあまりに、男性による支配すらも受け付けなくなったと考えることもできると私は思う。レイは「聖母」と「娼婦」という二つの相反するイメージを内包した存在ではないだろうか。



『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイ

-性的シンボルを欠如したヒロイン・かぐや姫型ヒロイン-
アニメは、文学と比較して視覚的な側面が強く影響するメディア媒体である。例えば何頭身か、髪の毛の色、服装、目の色、形、そうしてアニメ独自の声優の問題、こうした複合的な要素が絡まって一つの人格が形成される。アニメのキャラクターは文章だけによって構成されている人物と比較して、当然実像としてのヒロイン性が強まるので当然感情移入しやすくなる。そのため、感情移入に差が出るわけである。文章であれば、その余白を読み手が埋めることができるが、アニメだとほとんど視聴者の解釈に余地がないほど完成したキャラクターが一方的に提示される。この点で、文章の人物より、強く入れ込むか、相容れないかの差が出てくると私は考える。
レイはそうしたアニメのキャラクターが自己主張するなかで、極めてその主張をしなかった存在としても、やはり例外的である。レイが登場してから、世の中にはエヴァに影響された作品は多く出た。そのなかでも、私はレイが与えたであろう影響を、上で述べたヒロイン性から考えたい。

レイは、今まで存在してきたヒロインのヒロイン性というものを根本的に打ち崩した存在である。その後継者と考えられるものが、2000年代から登場し始める。その比較をこれから行いたい。レイ以前からも、髪の毛の色で言えば派手な色は存在した。また、真っ白というのもアニメにおいては少なからず存在した。しかし、主人公との恋愛対象となるべく性的な成熟がない存在としてレイは初めて登場し、私はこれを「かぐや姫型ヒロイン」の系譜だと考えた。これは私の造語で、このような要素を包括し、これらの生みの親になっているであろうキャラクターを探したときに、日本人であれば誰もが知っている「かぐや姫」がこれに該当したためである。
レイの性質を上で分析したが、性的に成熟していないということはつまり、本質的にはヒーローであるシンジとの恋愛関係には陥らないはずなのだ。物語では徐々に感情が芽生え始めるということで、シンジとのコンタクトを図っていくが、そこにはどちらかというと、母と子の関係性が存在するのである。
もう一度レイの性質をまとめてみる。レイというのはその名のあらわすように「0」「零」を連想させる。これはイコール「無」。感情もなければ性性も無であると考えることが出来る。一方では、服従欲や保護欲を満たすために、人間の人間たらしめている部分、つまり感情などを徹底的に排除された存在としての処女性のようなものを読み取ることも出来る。単純な言葉に変えれば「人形」だが、単なる容器としての入れ物ではなくて、視聴者の性欲の対象として造形された存在としてみることも出来る。これがレイへの「オタク」の異常な興奮を誘ったとも言えるだろう。
彼女の「無」のシンボルは、冷たさにも連想される。決して熱しない、温度変化のない極めて静寂な状態。それは寧ろ人間離れしていてどこか神的な存在をもイメージさせる。そうして月との関連性はエヴァを見た人であればだれもが感じるであろう。レイと月は、多くの場面で同時に登場し、そのイメージが刷り込まれるように作られていると私は考える。この月のイメージは、月の性質、例えば月は自分では決して輝けない、太陽の光を反射してしか輝けない陰の存在として、夜の存在として、陰陽で考えれば陰の側の存在としてのイメージに繋がってくるわけである。古代人にとっては、月は死と再生の象徴として表象されたと、十津守宏氏は述べている。(『新世紀エヴァンゲリオンの終末論』―終末論的伝統「東」と「西」との比較文化論的考察―)

『かんなぎ』より右がなぎ 『とある魔術の禁書目録』よりインデックス
 

『あの日見た花の名を僕たちはまだ知らない』『侵略イカ娘』
        メンマ
画像の出典はいずれもインターネット上から。

 ここでは、レイに似ていると考えられる4人のヒロインとの関連を分析する。
先ず初めに『かんなぎ』から。『かんなぎ』の「なぎ」は、レイのイメージを汲んでいながらもまた別のイメージをも内包している。レイは、無的存在でしたが、次第にシンジとの接触によって人間性の回復を目指した。であるからそこには人間的な関係性が結ばれるわけだ。しかし、なぎは、存在そのものが神と規定されているため、人間の主人公である仁とは根本的に対等な関係に立つことはできないはずである。つまり、ヒロインにならないのだ。彼女との恋愛関係は仁には築けないはずであるため、性的対象としての存在意義を失うことになる。
なぎは設定ではAAAカップとなっていて、そうしてそれを自分で認識しコンプレックスに思っている。また、作中において登場人物が高校生ということで性的な思考や描写が多少あるが、根源的にはそれは成立し得ないものとして無意識のうちに視聴者の側にも認知されているのだろう。このことが、なぎの処女性を支えていることになり、なぎが処女でないということが原作で言及されそうになったために、読者が激怒して原作者に対して問題を起こすという事件も発生したようである。
なぎもレイも、第二次成長期を越えていない、少女から女性へと成長していない存在である。そこには何の穢れもない処女性、純白性のようなものがあるため、それは保護対象となり、性的対象としての存在を基本的には剥奪されているのだ。そうして神性のようなものは、彼女たちの人間離れした存在から浮き彫りになる。それは例えば感情がないとか、あるいは髪の毛がありえない白やそれに近い色であるなど様々な要素から成り立つ。ここには、今までヒーローとの恋の成就を約束されたヒロインは欠如している。そうした要素は寧ろ他のキャラクターへ拡散している。エヴァにおいては、そうした要素はアスカやミサトへと譲渡されているわけである。

「かぐや姫型ヒロイン」の系譜をレイ以降明確にしたのが、なぎであるとすると、他にも視覚的に影響されたであろう存在があるのではないだろうか。例えば2010年10月よりアニメ公開した、安部真弘による日本の漫画作品。『侵略!イカ娘』である。他には、ライトノベルシリーズで大ヒットした鎌池和馬の『とある魔術の禁書目録』(とあるまじゅつのインデックス)。この作品は第一巻が2004年刊行であるから、『かんなぎ』に影響を与えていると考えることも出来るが、この作品が広く世間に知れ渡るようになったのは2006、7年以降なので、丁度同時期に登場したということになり、影響の関係は不明である。たまたまヒロインが似ているビジュアルになったと考えるのことも出来る。
ただ、ここでは、なぎよりさらに性的シンボルを排除された存在としての造形が際立っている。イカ娘はその名の通り人間ではなくイカである。この作品は『ケロロ軍曹』の影響を受けていると考えられ、少女と幼女の中間のような存在のヒロインがただ、画面のなかを動き回っているというような日常パロディーものとして作られている。
インデックスは、名さえ与えられないかなり特殊な存在として登場する、通常では幼女とも思える幼い言動を行い、よりヒーローとの恋愛が排除された存在として位置づけられる。この二人となぎに共通するのは、外部からの来訪者という点である。ある意味レイも、外から来たと言う事もできるが、ここでは置いておく。神的なモチーフが付加されるのには、我々の未知なる世界から来訪してくる必要がある。だから、こうした少女たちはある日突然外部から来訪してくる。これは、『あの日見た花の名を僕たちはまだ知らない』のメンマにも言えると私は感じる。彼女はもともと人間であったが、事故によりこの世を去ってしまう。死んだメンマが幽霊として蘇ってきているのである。だからここでは圧倒的他者として、さらに仁太が言うように、性的なシンボルは成長しておらず、どこか幼女的な感覚が抜け切れない存在として登場する。
ここには根本的には外来者、部外者という価値が付加されることになり、こちらに居た側のヒーロー、主人公との恋愛は出来ないようになっていると考えることはできないだろうか。こうした誰からも汚されないことを約束された純白性のようなものが視聴者には受け入れられたということではないだろうか。これはアイドル論的に考えても納得が出来る。大衆にさらされたアイドルから、自分個人の守れるアイドル、誰からも汚されないアイドルが時代に要請されて存在してきたのではないかということである。

-終りに-
当然、レイ以降に出て来たからといって、全てがレイの影響を受けたと断定することはできない。しかし、完全に影響がないとも言えないだろう。なにより、上で挙げた4つの「かぐや姫型ヒロイン」の系譜を有しているヒロインが登場する作品を作っているのが、年齢的に若い頃エヴァに代興奮した世代だからだ。
レイを中心に、視覚的に似ていると思ったアニメのヒロインを集めた結果、以上のことが言えるのではないかと私は感じた。つまりそこには、視覚的な類似性だけでなく、多少の異なり、ばらつきはあるものの、性質も類似しているということである。そうして、これら4人のヒロインの源流になっているのが、エヴァのレイではないかという試論である。そのレイもまた、月のイメージや、絶対的他者としての存在、処女性、神性、などを考えると、日本の昔話の「かぐや姫」の性質を有していると言うことが出来るのではないだろうか。
ここでは、エヴァにおける最も特殊な存在として、綾波レイを例に挙げて詳細に分析した。だが、エヴァは三角関係を巡る物語でもある。ここでは時間の都合上もう一人の重要なヒロインアスカを論じられなかった。他にも映画版では、マリという人物も登場し、三部目をして未だその存在意義が不明確であるという、謎の人物である。これらのヒロインについても、今後論じていきたいと思う。
(文字数約7600字)



参考文献
十津守宏『新世紀エヴァンゲリオンの終末論-終末論的伝統の「東」と「西」との比較文化論的考察-』
石橋さくら『子ども番組研究~ロボットアニメにおける対立構造の変容~』
高橋準『現代文化研究における〈文化〉概念と分析ツールに関する覚え書き―アニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』を手がかりとして』

綿矢りさ『ひらいて』への再論  『斜陽』との比較、恋と道徳革命・新たな関係性

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-初めに-
 私の作品分析をする際のスタンスは、作者を完全に抹殺した記号論的なテクスト論とは異なり、作者を含めた上で、作品そのものを論じるものである。前作『かわいそうだね?』が第6回大江健三郎賞を受賞し、綿矢りさは女性作家のなかでも最年少の純文学者として活動している。
 今回の『ひらいて』は、前作『かわいそうだね?』や『勝手にふるえてろ』が社会人としての女性の視点で描かれていたのに対して、再び綿矢作品の出発点であるいわゆる「学校小説」「教室小説」への回帰が見られる。
 『インストール』では、押入れに篭って、そこから外界との関係性を再び新たに構築するという構図があった。評論家の榎本氏はこれを村上春樹の『ねじまきどりクロニクル』で井戸に篭る主人公との関係から「ひきこもり文学」と指摘していたが、私はこれを「母体回帰」の構図でも読み解けると考える。『インストール』の主人公朝子は、高校から大学へと大きな大人の世界に羽ばたいていく際に、出て行った世界との関係が結べるのかどうか不安で引篭もる。そうして押入れという、暗く、狭く、自分以外の他者のない安全な空間、「母体」に回帰することによって、安心すると同時に、インターネットを通じてにせの人格を形成することによって、今までの自分でもなく、インターネット上のにせの人格でもない、第三の新しい人格形成をして、見事に自己同一性の確立をする。
 『インストール』におけるこの構図は、綿矢作品の全体でも見られるのではないかと私は思う。つまり、綿矢りさ自身が「教室」という場所から出て、「社会」「会社」を場として描いていたものの、新しい関係性を再び構築しなおすために、「教室」に戻ってきた(母体回帰)、というように考えることができるのではないだろうか。
 そのため、この作品の最後の部分をどう解釈するかという、本論の重要な部分とこの問題は関わってくる。


-綿矢作品と三角関係-
「やみくもに、自分本位に、あたりをなぎ倒しながら疾走する、初めての恋―。」という文句からはとてもかけ離れた内容である。白が基調の装丁、純白、純粋、そのような言葉が連想されるような、甘い初恋のような雰囲気を纏っていながら、内実そのようなイメージとは反対の、高校生独特のエネルギッシュで、多少のグロ的要素が含まれた作品だと私は感じる。
恋愛を扱った小説は今まではいて捨てるほどある。様々な作品の恋愛は、パターン化され、ヒロインの特性、物語りの構造、その話形は殆ど出尽くしてしまったと言える状況ではないだろうか。恋愛小説が既にありきたりになってしまった現在、恋愛小説にどのような新風を巻き起こすのかという問題が生じてきていると私は思う。
このような状況のなかで綿矢りさが採ってきたスタンスはどのようなものであろうか。恋愛を描く際に彼女が持ち込んだ視点は、「三角関係」である。綿矢作品は三人関係の恋愛が多く存在する。一作前の『かわいそうだね?』の三角関係もかなり特異なものだ。あまりに特異な関係性であるために、どうしても破滅的な終末を迎えなければならないようになってしまったが、それに比べて、今回の作品は、『かわいそうだね?』で恐らく表現し切れなかった部分を、彼女の本来の小説の場、つまり教室内へと持ち込むことによって、成功を収めたのだと私は考える。
綿矢りさの作品は、『蹴りたい背中』『インストール』共に、内側に閉じられた世界が小説の場となっている。この「教室小説」から出発し、そうして「社会」を描くことによって、内側に閉じこんでいただけの世界は、相対化されたのだと私は考える。つまり、教室は綿矢りさにとって一元的な世界でしかなかったのである。それが社会人となって、教室から飛びぬけた彼女の作品は、飛び出したことによって、新たな教室のあり方や、存在を見出し、いわば相対化した教室へ再び戻ってきたのだと考えられないだろうか。
そのため、今までにはなかった精密な描写や、主人公の心理の正確さなどが際立って表現されている。

ルネ・ジラールが提唱した「欲望の三角形」(『欲望の現象学-ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』)は、今まで三角関係を扱った作品を新たな枠組みで捉えなおすという偉業を成し遂げた。ジラールは「欲望する主体と欲望される対象の間に、主体にそれを指し示して欲望させる、媒体となる第三者の存在」を発見した。これがメディエーター(媒介者)である。つまり、主体と対象の間に、媒介者があるという指摘である。これで多くの三角関係の物語りは読み解けるようになった。夏目漱石の『こころ』にも、この三角関係から読み解く論文がある。
 『かわいそうだね?』では、主人公の樹理恵が隆大と結ばれなかったのは、この樹理恵が実は主体ではなくて、メディエーター(媒介者)であったからではないかと私は考えている。通常は主体が物語りの主人公になるのだが、『かわいそうだね?』では、メディエーター(媒介者)が主人公になっていたために、このような結末になったのではないだろうか。そうしてタイトルの「かわいそうだね?」は隆大に向けて樹理恵が放った言葉と考えることもできるが、私は語り手からメディエーターになってしまった樹理恵への語りかけであると考えることも出来ると思う。
 さて、問題は『ひらいて』である。この作品の三角関係は、愛、たとえ、美雪の特殊な関係を元に発展する。愛という主人公の視点で描かれる一人称作品。彼女の名前もまた、作品としてはあからさまなほどの動機付けが為されていると私は思うのだが、主人公の性質を如実に現す名として表出されている。愛は、たとえというクラスメイトのことが好きになる。しかし、そのたとえに近づいていくと、彼には中学時代から付き合っていた美雪という彼女がいることが発覚する。
そこで彼女はたとえ君を美雪から奪うのではなく、奪うのであればルネ・ジラールの法則が通用するのだが、逆に美雪へと感情の発露を方向展開する。一種の百合小説、レズビアン小説としても読むことが出来る作品であるが、興味深いのは、これまでの作品の傾向であれば、恐らく愛がバイセクシャルで美雪との関係にあまり抵抗を感じないものが多く描かれるはずなのだが、この作品ではあからさまな嫌悪感をもって美雪との性行為に望んでいるということである。
ここでは完全に論理が崩壊しているのだ。愛はたとえが好き。しかし何故か自分でも制御しきれなくて、愛の感情は彼の彼女の美雪へと向かう。それでも美雪が好きなわけでも同性愛者であるわけでもなく、嫌悪や憎悪を感じながらも彼女との関係を深めていかざるを得ない人間なのである。
そうすると、やはりここでは愛は「欲望の三角形」の主体ではないと考える方が妥当である。彼女がメディエーター(媒介者)であると考えると、たとえと美雪という硬直しきった関係を一度壊して、介入しようとした存在であると読み解くことが出来る。


-小説内記号、名前と手紙-
愛という少女を考えるとき、先ずその名から考えてみたい。愛という名前の特殊性について、綿矢りさはインタビューでも答えていますが、愛(LOVE)という人間の感情をそのまま名前に出来るのは日本くらいしかない。客観的に考えると、実は相当どぎつい名前であることがわかる。悪く言えば、一年中発情しているということである。こうした一方向性の極めて強力な情念が、この主人公には動機付けされているのである。それは高校生という少女の性質の本質を捉えたものなのかもしれない。不幸にも私は男性であるから、第二次成長期の少女の実際を体感することはできない。しかし、多くの作品と触れ合うなかで、第二次成長期の女性には非常に強力な、それこそ自分でもコントロール不可能な情念があると私は感じる。だからそこに物語が生まれる。ありふれた力が色々な話をつくる。昨今話題となったアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』も、第二次成長期の女性の本質を突いた部分があると考える。今まで少女だったものが、女性へと変化する。これは子どもを産める状態になるということで、生命を生み出す力を得るということである。だから、男にはない強力なエネルギーが、若さとも相まって、第二次成長期には表出されるのではないだろうか。
愛も、まさしく自分の力をコントロールできない少女なのである。この作品の後半で、最も盛り上がりを見せる場面の一つの、愛が夕方の学校でたとえを呼び出して彼の机の上に裸で坐っているという場面。これも、彼への屈折した愛情と、その形は非道徳的なものであったとしても、自分の傷つくことさえ怖れない裸という状態、純真無垢のような情念が表象されているのだと考えられる。

新潮社のインタビュー記事のなかで、綿矢りさが「太宰治の『斜陽』を読んで、手紙の文学っていいなと思っていました。美雪は、手紙によって、人のこころを温めようとしている。あまりにも古典的ですが、美雪ならそういうこともするだろうなと。愛という我の強い女の子の世界をずっと書いているなかで、美雪の手紙の部分のところにさしかかると、ようやくまともなことを書けるとほっとしました。」と述べている部分がある。
この作品を読み解く上で重要な視点の一つは、現代には珍しい書簡小説であるということだ。現代の小説を読み解く上で、ひとつ重要になるポイントは、登場人物たちが持つ連絡を取る媒体である。当然携帯がない時代は手紙がほとんど、時には電話も登場した。しかし、20世紀の終盤からは、インターネットが発達し、パソコンやメールがそれに取って代わることになった。『インストール』は特に顕著で、インターネットを媒体とした小説であると言うことができる。
このような情報媒体過多の時代に、この作品は珍しく主人公たちが殆ど携帯を使用しない。たとえを呼び出すために、最後に愛は緊急用として美雪の携帯を使用したが、それを例外とすれば、この作品は書簡を中心に物語が展開していくことになる。また、最後の緊急の携帯の使用は、そのほかでの使用が見られないことからも、重要な局面に変わるという小さくない意味が含まれていると私は考える。
書簡という媒体。現在では使用されなくなってしまったこの媒体がなぜ選ばれるのか。作者のレベルで考えれば上に挙げた綿矢りさの心の問題があるだろう。しかし、テクストで考える際に、書簡という媒体がもつ意味は、メールよりもより親密な関係性がそこにあるということなのではないだろうか。手紙は、当然その人の直筆であるから、字体にも感情が表れる。字面だけ読むことが出来る私たち読者と違い、美雪とたとえの間にはそのような言葉では表現できない、繊細な感情の糸のようなものが今にも切れそうなほど微弱に伝っていたはずである。明治期の小説には、手紙や書簡が連絡媒体として用いられているが、そこでは、文字を一瞬見ただけで、誰の手によるものかすぐにわかるという描写が多くある。たとえと美雪は、現代においては失われてしまった、文字で感情を読み取るという高度な感受性を、二人の非常に親密な、インティメイトな関係のなかで成し遂げていたのである。
ただ、美雪とたとえの関係性は、それ自体全く発展のないものであった。
P152美雪のセリフ「私たち、長く付き合ってきたけど、いつもどこか距離があったね。でも距離を埋めようとせずに、お互いの悩みを持ち寄って慰めあうことで、見て見ないふりをしていたね。これからはお互い、心をひらきましょう」
美雪は病気を、たとえは病的な父を持ったもの同志、仲間という意識のもとで関係性が築かれていた。その関係性において、たまたま二人が異性であるということから、二人の共感性や同情といった感情が混合して付き合うということに発展したと考えられるが、しかしそれは錯覚であって、恋愛感情から生まれた関係性ではなかったのである。外界からの恐怖、それは病気や父であるが、それらから逃げている最中に、たまたま自分と同質なものと出会った。その関係性でしかないわけである。だから、本質的には恋愛感情から発展したのではなくて、そうした同情性のようななかでの関係性でしかなかったのである。


-『斜陽』との比較・新たな関係性の構築-
そこに関係破壊者としての愛が登場する。ルネ・ジラール「欲望の三角形」で言うところのメディエーター(媒介者)である。
愛がなした行動は不可解で、論理性の欠片もない。全て感情の赴くままに動いている。しかもそれが第二次成長期からくる、抑圧から解放された爆発的なエネルギーであるため、そこには私たち読者が介入する隙はないかのようにも思われる。
ただ、愛の感情を説明できなくとも、その行為と結果を考えると、新しい何かが見えてくると私は思う。一旦美雪とたとえの関係を破壊した後、新たな関係を構築する。その際に自分の存在が介入できる新しい場所が作られたのは偶然でもあり、また破壊したのが彼女であるということから自然発生的に生まれでたのだとも解釈できる。このことは、実は太宰治の『斜陽』との連関性があると私は考える。
綿矢りさは書簡小説としての側面を『斜陽』からアイデアを受けたと述べているが、彼女が意識しているかどうかは別として、『斜陽』の主人公かず子の影響が見られると私は思う。

新潮文庫百二十五刷P134「何の躊躇も無く、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。(省略)破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、立て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば。永遠の完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起こさなければならぬのだ。(省略)P136ℓ12人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」
太宰治の『斜陽』のなかで、主人公のかず子は、P202で道徳革命をしなければいけないと述べている。かず子にとってはこの道徳革命は、妻のいる上原という男の子どもを産むことだと読むことができる(かず子と上原は不倫の仲)。すると、ここには今までの古い道徳を打ち壊し、新しい構造を構築しなければいけない、そのための革命であり、その革命の原動力は恋であるということになる。道徳革命をした後がどのような状態になるのか、『斜陽』のテクストのなかには描かれていないので、読者が想像するほかないのだが、P202「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます」と述べて私生児と、その母だけで生きていくことに価値を見出そうとしている。私は『斜陽』の述べる古い道徳とは、丁度戦後すぐに出版されたということもあり、戦前の日本の道徳のことも指し示していると考えるのだが、テクストの中だけで読めば、愛や恋という感情が、社会的な制度に縛られない自由な状態を目指しているのではないかと考えられる。
このかず子の原動力と同じものが、愛に共通して見られると私は思う。かず子は『斜陽』において道徳改革をする前の時点で小説が終了している。かず子はP202「革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます」と述べていることからもそのことが分かる。それに対して、『ひらいて』は一度関係性(古い道徳)を破壊した後の話まで続いているのである。つまり、道徳革命が遂行された後の世界まで描かれているのだ。だから、そこには古い道徳観念はない。この古い道徳観念というものは、私たちが通常考えられる、恋愛のこうあるべきだという考えだろう。通常三角関係で仲良くやっていけるはずがないと私たちは考える。しかし、この三人にはそうした古い道徳は関係のない境地まで辿り着いたのである。
私たちの道徳とは異なった世界がそこに構築されたのである。この小説の最後は、最も難解な部分となっている。字面が読めても意味がわからない。言葉の意味が分かっても、それが一体なにを意味するのかが本質的に理解できないのである。
そこで、私は綿矢りさがアイデアの発想を受けたという『斜陽』の道徳革命を持ち出すことによって、それが遂行されたのではという解釈を立てた。だからここには、私たちが理解できる世界ではなくて、愛、美雪、たとえの三人の新たな関係性が構築されたのだと考えられるのではないだろうか。
そうしてその関係性ですが、一つの言葉に表すとなると「ひらいて」になるわけである。三人の関係性は、御互いにひらきあっている状態になったのだ。私たちの実感では分からないが、三人にはそれが新しい関係性、彼等のいるべき準拠すべき関係性が築けたということなのである。

(文字数約6800字)




参考文献
・ルネ・ジラール著, 古田 幸男 翻訳『欲望の現象学―ロマンティークの虚像とロマネスクの真実 』(叢書・ウニベルシタス)
・[綿矢りさ『ひらいて』刊行記念特集]
【インタビュー】綿矢りさ/根源的で普遍的な愛をめぐる小説
http://www.shinchosha.co.jp/nami/tachiyomi/20120727_02.html
・太宰治著『斜陽』新潮文庫、百二十五刷

『プライム11』を見て 吉田茂の書簡を巡るドキュメンタリー

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-はじめに-
私の専門は文学なので、社会や政治についてよくわかっていないというのが、恥ずかしながら現状である。問題は、これらのことがらに対してわかっていない私を含めた人間が大勢いることと、自分たちがわかっていないということさえ認識していない人間が大勢いることである。
今、日本の政治がこれまでにない、極めて状況の読めない過渡期にあると私は感じる。今までの自民党が事実上の独裁をして、国を動かしていた時代とは異なってきた。今度の16日の選挙を控え、多くの政党が自分たちの主張することを論じている。だが、今までであれば予測が簡単についたはずの選挙が、今回は全く不明である。私たちの選択がここにかかってきているのだということを感じざるを得ない。

-政党乱立の不透明な時代-
私事ながら、先日二十歳を迎え、選挙権を得た。今回が権利を得てから初めての選挙だということもあり、私は少なからず運命的なものを感じている。戦後これだけの数の政党が一度に出現したのは、初めてである。2011年には未曾有の震災があり、原子力発電所、被災地福島、沖縄問題(領土問題)、TPP、消費税、その他もろもろの問題が一遍に表出した。震災やそれに付随する問題は仕方がないとして、それ以外は今までの政治が解決してこなかったもののつけである。だから、自民党に戻してよいのかという問題にもなると思う。震災については、全くどこの政党も経験したことのないことである。これについては、全く私もどのように復興していくのか皆目検討が付かない。
十いくつもの政党が出て来たことについて、私はこれは現代における細分化、分散化であると考えている。この傾向は昨今様々な分野で見られる傾向である。私は広く文藝を追ってきた人間であるが、例えばアニメーション。今までは子どものころみたアニメと言えばこれという、確たるもの、主となるものが存在した。しかし、現在では、アニメは多種多様なジャンルが用意され、それぞれがそれぞれの趣味趣向にあったアニメを享受し、それにのめりこんでいくという傾向が見られる。これは等しくアイドルの問題でもあると私は思っている。昔で言えば、吉永小百合には誰も叶わなかった。山口百恵は皆のアイドルであった。しかし、現在ではアイドルも多種多様に細分化、分散化している。特に顕著なのがAKB48である。このアイドルのモットーは「会いにいけるアイドル」ということで、今まで一方的にアイドルに憧れるという関係性から、アイドルに会いにいける、直接触れることができるという、極めて小さい規模での、個人主義的なアイドルとの関係性が構築されるようになった。
政治も同じことが起こっていると私は考える。自民党の事実上の独裁は、国民が自民党という大きなリーダー(アイドル)を支えていたからである。それがそれぞれの個人主張が強まり始めて、一点に人気が集中しなくなった。そのため、政党も極めて小さな規模において、政党の支持者(ファン)との関係性を構築せざるを得なくなった。つまり、自分たちの意見と極めて近く、自分たちの意見が反映されるように、大きなリーダーを引き摺り下ろして、小さなリーダーを乱立させたわけである。そうして、こうした状態を引き起こした原因は、大変遺憾ながら、我々国民に他ならないのである。
党首対談が多く行われているが、その中でも特にいくつかの新聞社の代表の記者との討論会が最も論理的で深い内容のものだったと記憶している。そのなかで、ある記者が、このようにいくつもの政党が出てきてしまったこの状況に対して、どのように思うか、また責任はどこにあると思うかという質問をしていたと記憶している。最もな質問である。野田首相は民主党にあるという旨を述べ謝罪していたが、ある意味ではその通りであろうし、またある意味では私たち国民の責任でもあったのではないかと、私は考えたい。

-リーダー性について-
私は教師を目指しているということもあり、どのように集団をまとめるのかという点に関して常に考えている。リーダーには二種類のタイプが存在すると私は考える。一つは強いリーダーシップを有する人。もう一つは弱いリーダーシップを持つ人。リーダーシップの強さというのは、時として歴史に登場する独裁者のように変質する危険性を常にはらんでいる。それに対して、独断専行で行くのではなくて、みんなの意見を出来るだけ汲んで、周囲との関係を大事にしながら皆で決めていくという、弱いリーダーシップである。どちらも一長一短で、最も理想的な形はその両方を兼ね備えた位置にあることは間違いないだろう。ただ、実際その理想が実現できないから、問題となっているのである。
自民党の独裁制が保たれていたのは、ある意味では小泉首相の時までかも知れない。それ以降の度重なる首相交代と、ついには民主党が与党になるなど、この期間のリーダーは弱いリーダーとして存在してきたように思う。
日本の首相制で強いリーダーシップを要求するのは根本的に間違っているという論もある。首相は大統領とは違うのだから、それを求めるのは本質的に間違っているというのである。だが、実際今必要となっているのは、強いリーダーであろう。

強いリーダーを考えた場合、そのモデルとなるのが、今回観た吉田茂であろう。
吉田茂がどうしてすばらしいリーダーであったのか。現在のリーダーとの差異は何なのか、これが問題になってくると思う。その吉田のリーダー性を考えた際に、吉田をリーダーたらしめていた要因の一つである書簡について、この映像では触れていた。であるから、私もそれを考えたい。
吉田が総理大臣となったときよりも、内閣を退いてから後輩にあたる議員との書簡のやり取りが今回の映像の主たるものであった。今現在で考えれば、一度首相を経験した人間が、現在の首相や大臣に個人的にメールを送っていたいなどしたら、散々問題になりそうなものであるが、当時はそのような批判はあったのだろうか。恐らくなかったのだろうと思うが、現在にこうしたやり方が出来るかどうか不明である。
書簡という媒体を考えた際に、それが現在でいうところのメールとどう異なるのかということを考えたい。吉田は毛筆で実に見事な文字を書いている。そうしてそれは時間にかかわらず、秘書に持たせて池田や佐藤に送りつけたという。やはり、すぐに届けさせるということを考えると、現在でいうところのメールのような感覚で書簡を書いていたのだろうと思う。では、それを実際にメールでやったらどうなるか。恐らく吉田の書簡ほどの威力はなかったであろう。ここには手書きと電子メールという媒体の違いの本質があると私は考えている。この二項対比は電子メールが登場してから長らく問題となってきてはいるが、未だ決定的な決着は付いていない問題である。どちらも一長一短あり、どちらが優れているとか、どちらがよいとか簡単に結論を出せる問題ではない。
ただ、電子化された文字より、自筆で、しかも達筆な毛筆で書かれた文字には、その文字の記号的意味だけでなく、吉田個人の感情が表れていると私は感じる。また、吉田は常に後輩に向けて、書簡を書き続けている。私はそれだけの量を、ずっと書き続けるのであれば、吉田自身が赴くなりして、直接話せばよいものだろうと最初考えた。しかし、どうして書くことにこだわったのかを考えることによって、いくつか吉田が意識するしないにかかわらず、認識していたであろうことをいくつか想定してみた。先ず、一つ目は、書くということによって、口から出て消えてしまうものとは異なり、そこには記憶された公なものが提示されるということである。つまり、その文章の内容の責任は常に吉田に帰属するということである。ここから、吉田自信の責任の取り方のようなものも私は感じることができると考える。次に書簡に書くということであるが、これは書くという行為を通して、論理的な思考をして、順序だてて、冷静に物事を組み立てていく時間の確保に繋がっていたのではないかと考えた。どうしても会話をしていると、話がもどったり、飛んだりして、論理性にかけるということが出てくる。それを吉田は一人熟考し、書くという行為を通じて再構築することによって、自己を見つめながら文章を書いていたのではないだろうか。そうして、自分の伝えたいことと、相手が受け取ることに差異が出ないように、文章化してそれを送ったのだと考えられる。

-終りに-
現在これをやれば、裏で操っているだの、糸をひいているだのバッシングに見舞われるであろうと私は思う。今の政治家たちがメール、或いは書簡で何某かの交流を行っているかはわからないし、知らない。ただ、自分が第一線から身を引いても、常に書簡を出し続けるという行為のモチベーション、動機付けは、吉田がなによりも自分のことや、書簡のおくる相手のことよりも、日本の国家というもの全体を考えていたからであろうことが考えられる。現在の政治家にはそのような考えを持っている人間がいないように思えわれる。せいぜい自分の党のことが限界であろう。それ以上、国、国民ということを本当に念頭においている政治家というのはいないようである。
私は失敗してもいいから、とにかく何か行動に移してくれと考える。たとえその結果が失敗に終わったとしても、その後に修正をしていけばよいことであるし、リスクを考え、何も行わないよりかはよいだろう。強いリーダー、大きなアイドル、こうした全体の共通した一つの大きなものというのを、私たちはもう一度つくることができるのか、個人主義的で細分化された現在でいいのか、未だ結論はでないが、私は今大きなリーダーが必要だと考える。

映画『男と女』への試論 感想とレビュー ヒーロー性とヒロイン性の外部委託



-はじめに-
『男と女』(原題Un homme et une femme)は、1966年制作のフランス映画。監督はクロード・ルルーシュで、この作品により、彼は映画界での地位を確立。フランシス・レイのボサノバ調の音楽や、モノクロームとセピアを織り交ぜた映像、縦や横の自由な動きなどにより、洒落た映像美を魅せた。

-映像と音楽の融合-
古い映画評などを探してみると、そこには当時この映画がどのように評価されたのかが映し出されてくる。この作品は、当時評論家にはあまり評価されず、それに反比例して多くの観客に受け入れられたのだという。この作品は、内容だけで考えれば、確かにベタな恋愛の物語に終始しており、ここから何かを論じようとするのは非常に難しい。『男と女』という最もシンプルかつ、この上ない根源的な二項対比によって、フランス・パリを舞台に、男女の恋愛が美しく展開される。
この映画はまた、映画史における転換の作品になったと考えられている。それは、現在で言うところのプロモーション・フィルム、MTVに見られる映像と音楽の一体がなされたからである。ちなみにこのMTVという言葉は、ミュージックテレビジョンという音楽専門番組の番組名でそこから、音楽と映像が一体となっているものをも指すようになっているようである。

そうして、ルルーシュ監督の一つの特徴であるカーレース。私はこれを恋との関連性からも考えたいが、その前に映像に与えるスピードとしての意味を考えておきたい。既にフランシス・レイのボサノバ調の音楽と、芸術的な映像について述べた。それにスピードが付加されるのである。内容は最も人間の根幹にある、恋の感情。
これだけ分かりやすく恋を描いた作品もまた稀である。ベタな作品であることには間違いない。であるから、当時の評論家が評論できなかったのも無理はない。そうして論理もへったくれもない恋をお洒落に描ききったからこそ、観客の感情を揺さぶる作品となったのである。誰もが共通して有する恋の感情を、映像、音楽、動き、この三点で見事に表現されている作品である。

音楽との融合というものを考えた際に、私の見たことのある映画から二つを挙げて考えてみたい。一つは、1971年公開の『ベニスに死す』(Death in Venice)である。トーマス・マン原作の、同盟作品を巨匠ルキノ・ヴィスコンティが描ききった作品である。私はここで、映画史においてクラシック音楽と映像の融合がなされたと考えている。マーラーの交響曲第5番、特にアダージェットと呼ばれる第四楽章は、静かにすすんでいくゴンドラと、比例してしずかに近づいてくる死の影とのモチーフを鮮やかに表現したものである。私は『ベニスに死す』を観た際に、クラシックと映像との融合がこんなにも美しいものかということを体感した。
そうして、今度はロック音楽との融合である。これは、1986年公開の『トップガン』(Top Gun)である。この作品では、ケニー・ロギンスの「デンジャー・ゾーン」が特に有名。テレビなどでも多様して使われるようになっているため、戦闘機が出て来た際には必ずといっていいほどこの音楽が流れるまでになった。音楽と映像が完全に一致した時の心地のよさというものは、観客が実際に戦闘機にのって操縦しているような感覚である。
『男と女』はまさしくこうした音楽と映像との一致の先駆として、語るべき作品である。比較に挙げた二つの作品も、どこかしらこの作品に影響されていると私は考えている。映画というメディア媒体が、音楽という媒体をも包括して、芸術性を高められることを証明したすばらしい作品である。

-ヒーロー性とヒロイン性の外部委託-
何故この作品が、そこまで観客の感情を揺さぶるのかを考えたい。私はこの作品のことを、「恋愛の商品化」であると考えたい。つまり、ここで登場する男女は、完璧に造形された男女なのである。本来ありえないほどの完璧なカップルを描いているのにも拘わらず、観客に嫌われないのは、共に伴侶を失っているという設定を負っているからにすぎないだろう。もしも、この二人に子どもがなくて、何も恋愛を邪魔するものがなければ私たちはこの作品を観ないだろうと思う。
ここでは、恋愛を通して結婚をし、子どもが出来た人間が登場する。だから、若々しい恋愛ではないのである。大人の恋愛が、ボサノバ調の「ダバダバダ」の気だるい歌い方にも表現されているように、どこか落ち着いた余裕とでも言うようなものが二人には備わっているのである。
一人は映画のスクリプト・ガール(脚本家)として、一人はテレビにも出る有名カーレイサーとして。ここには完璧なヒロインとヒーローが登場している。しかし、その二人の障害となるのは、亡き伴侶である。レース中のジャン・ルイが愛の告白である電報を貰い、急ぎ戻ってきて、浜辺でアンヌと抱き合う姿はこの作品の最も重要な場面の一つである。愛は成就したかのように思われたが、しかし、アンヌはスタントマンで撮影中の事故からなくなった夫のことが忘れられない。
この映画のキャッチコピーは当時、「たちきれぬ過去の想いに濡れながら 愛を求める永遠のさすらい ………その姿は男と女」ということだったらしいのだが、つまり、完璧なヒーローとヒロインが恋愛をするも、一筋縄ではいかないというところに観客は共感したのである。
もともと完璧なカップルであるから、観客は安心してその美しさに浸ることが出来る。しかし、そのカップルがなかなかうまくいかないということで、観客は頑張れ、成就しろと感情移入するわけである。アンヌが、ただの美しいだけの女性であってもこの作品は成功しない。彼女は深い貞操の持ち主で、亡き夫のことが忘れられない未練があるからこそ良いのである。
理性だけではどうしようもない、感情の部分で亡き夫への想いが募ってしまう女性の苦悩というものに、多くの女性は共感したことだろう。そうして、亡き夫も直接登場はしないものの、彼女の思いによって擬似的な三角関係がなされているのも面白い。
それに納得できないジャン・ルイは、一人車のなかでぽつぽつと愚痴を零すように自分に納得させていく。きっといかれたやつだったんだと最終的に判断する彼は、雨の描写と重なって、一人のヒーローが破れさった印象を受ける。それが最後のハッピーエンドへ持っていく動機付けになるのであるが、この作品にはそうした感情の浮き沈みが、巧みに描かれている。

最も効果的な心情描写は言うまでもなく天気である。雨というモチーフが男女の恋愛の感情の様々な感情を表現する。それは台詞より時には饒舌に語る。それと平行して、男女の恋愛という一種男性からは理解しがたいベタな作品を、男性視点でも分かりやすくしたのが、レースの存在である。この作品は『男と女』というタイトルであるが、恋愛を描いた作品がどちらかの性の視点に準拠しやすいのに対し、この面でも相対化されていると考えることが出来る。
無口な男として、ジャン・ルイは寡黙に運転し続ける。その際の音楽の合わせ方がまた上手いことは言うまでもないが、時にあらあらしい運転や、スピード感のある映像は、ただの恋愛ドラマに一風を差込み、ジャン・ルイの心象表現にもなっている。
車ほど男根思想の強いモチーフもまたないと思うが、それと対比してパリの雨は、慈母のイメージとして浮き立ってくる。この作品はこうしたモチーフの使い方や、心象の状態によってモノクロになるのかカラーになるのか、その絶妙な表現がすばらしい。通常の映画を「物語的」ということが出来るならば、この作品は「詩的」映画であると私は言いたい。

-終りとして、『男と女Ⅱ』との比較を通して-
せっかくなので、続編である『男と女II』(Un homme et une femme, 20 ans déjà)についても論じたい。前作では、最後にホームで抱き合うという感動的なラストを迎えた二人であったが、その恋の行方はどうなったのか全くわからない。
実際に20年経った1986年に、前作の俳優を再招集し、現実世界でも作品内時間でも20年の時間が経ったということでこの作品は始まる。
衝撃的なのが、あの後すぐに別れてしまったということである。どうやら青春はそれほど甘くないようである。これは全くあのベタな作風からは予想できない展開である。この20年後では、映画監督となったアンヌが自分たちの物語を描くことになる。
映画は、過去の自分たち『男と女』を撮影している現在と、作品内で起こった事件が同時平行で描かれる。そうして御互い老人となった今でも恋多き存在として、成熟した大人の魅力を失わない。しかし、それぞれに若い恋人がいるなかで、過去の自分たちを撮るという行為を通して次第に想いが募ってくる。
私はここに恋愛という、多くの人間が論を挑んで未だに明確な答えの出ていない未知の領域に一つの仮説を立てることが出来ると思う。当然といえば当然であるが、それは思い出の共有性である。同じ時を過ごし、同じ時代を過ごし、同じ風景を見た。男女の恋愛に歳の差は関係ない、歳の差カップルでもいいんだという風潮は映画公開時(80年代フランス)においてもあったようである。だが、この作品ではそれを描きつつ、一緒に歳をとることの重要性を説き、老人同士の恋愛をも肯定している。

また、この作品は、メタフィクションを作り上げていくという入れ子構造的な複雑なものとなっている。結局メタフィクションとしての『男と女』は20年後の現在では大衆受けしないということになる。これは、一種の製作者側の当時の社会に対する批評であると考えられるが、同時に時代の流れによって作品が変容していかなければいけない宿命をも明示している。そうして作中でおこった事件をもとに、『男と女』の作中時間における現在の作品として作りかえられる。この事件はメタメタフィクションとなり、余計にややこしいことになっている。
観ていないのだが、『男と女』シリーズには、『続・男と女』という作品があるあらしい。これは『男と女』を西部劇でやったらどうなるかというリメイクだったらしいのだが、それを踏まえて考えると、『男と女Ⅱ』におけるメタフィクションとしての『男と女』も、今作ったらどうなるかというリメイクだということが出来る。
既に80を越えてしまったクロード・ルルーシュであるが、出来ることならさらに20年後の『男と女』も製作してもらいたい。孫世代が現在における恋愛をしてもいいのである。『男と女』には映画史における変革をもたらしたと同時に、恋愛という人間の根源的なテーマを扱っているから、何度も姿かたちを変えて描き続けられるのである。
アヌーク・エーメ:アンヌ
ジャン=ルイ・トランティニャン:ジャン・ルイ
ピエール・バルー:ピエール
ヴァレリー・ラグランジュ:ヴァレリー

テーマ : 映像・アニメーション
ジャンル : 学問・文化・芸術

映画『ツレがうつになりまして。』への試論 感想とレビュー うつと関係性からの考察

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-初めに-
この作品は細川貂々が2006年3月に幻冬舎より出版したコミックエッセーが原作。2009年のドラマ化、2011年に映画化され、大ヒットした。略称は「ツレうつ」として、若い人々に人気があるようである。

-うつというテーマ-
この作品を観たとき、先ず感じることは何だろうか。うつという感じは欝、鬱のように、実にうっそうとしている。ただ、実際のうつの病気は多様で、このようにうっそうとした症状の人もいれば、他人から見た場合そのように感じられないこともある。
うつ病というものを考えたとき、作中でも触れられていたが「心の風邪」であるという。誰もがひくものであり、そんなに珍しいものではない。日本は特にうつ病の多い国で、4人に一人はうつ病になっているといわれている。それにも拘わらず、うつ病への理解が低いことは全くおかしな状況である。日本人は国家を挙げてうつ病にかかっているような状態なのにも拘わらず、一向にうつに対して興味関心を示さないのである。そのような社会的な構造に、まったをかける金字塔のような作品になっているのではないかと私は思う。
実は私もまだ二十歳前後にして、去年うつ病に近い状態までなっていると診断された。高校から大分人間関係に難があり、かなり無理をしていた。それに加え受験、そうして環境の変化や大震災。自分の予想していた環境と異なるキャンパスの現状をみて、精神的に参ってしまったのであろう。眠れない、食べれないという日々が続いた。現在では大分回復しているが、このような軽度のうつ病を罹ってみて初めて、うつ病についての一部を知ることが出来たと思っている。
うつ病になったからといって、特別扱いして欲しいわけではない。非常にわがままのように思われるが、出来るだけ自分で何かを行いたい代わりに、出来ないものはやらせないでほしいという心情である。これが、私の最も共感できた部分である。もう少しこうしたうつ病の患者からのどうして欲しいのか、という視点を汲み込めばよかったのではないかと思う。
ただ、多くの人間がうつ病になるなかで、全く理解がすすんでいない現状に対して、それでよいのかという問題の提起になっている。私は、この点において非常に評価できると思う。うつ病というテーマは非常に重いテーマである。そのような暗いテーマで映画を作ることをよく会社が認めたと思うが、通常であればこのようなテーマを扱っている時点で重たくて誰も見ようとは思わない。当然観客は軽く、楽しめるものを求めるのである。深くて重い作品はそのぶん疲れるから、だれも見ようとはしないのである。そのうつというテーマを、この作品は実に鮮やかに軽妙に描いてみせている。そのぶん、映画に対して批評的に観ると、うつのことがちっとも描かれていないじゃないかという問題にもなるが、商業映画としての限界がこのあたりだったのではないかと私は思う。
若者に人気の宮﨑あおいと堺雅人というキャスティングから、うつは連想されない。うつというテーマを扱いながらも、そこにはどこかユーモアがある日常を描き、うつへの理解の第一歩を、主人公の二人と一緒に観客が踏み出していくという構図になっているのではないだろうか。

-うつを越えて、関係性-
うつという病気がどうして起こるのか、その原因は未だ明確に解明されたわけではない。実に不思議なことであると私は思うが、実に取りとめのない病気なのである。ただ、環境や関係から生じてくるのではないかと私は考えている。そう考えると、この作品も関係性の面からアプローチできるように思える。
うつというテーマを扱っていながらも、そのうつを探求するのではなく、別の部分の描写が多かったこの作品は、関係性の変遷を描いているのではないかと感じた。先ずは社会のつながりと他人とのつながりである。
何の問題もないように思われた円満な夫婦は、しかしどこか社会とのつながりにおいて無理が生じていたのである。そのためツレはうつになった。彼は彼の会社とのつながりに無理があったのである。その無理を押し通していったためにうつという心の病となって表出したのである。
また、ハルさんの側から言っても、読者アンケートを気にしたり、編集者の言いなりに近いかたちで、彼女の個性というものが排除されたような描かれかたをしていた。彼女も、社会と上手く付き合えていなかったのである。ツレがうつになったことによって、彼女もまた自分の社会との関係性について考え直す。そうして、二人は他者との関係性、ここでは初めに会社や、家族や、兄妹、から始まり、ひいては夫婦の関係性にも繋がってくる。
後半の重要な場面になるツレの自殺は、一旦二人の関係性が崩壊したことを意味しているのではないだろうか。それまでぶつかりそうになるとどちらかが上手くかわして、なんとなしに落ち着いていた二人の関係が、一旦解体されて、一度本音を言い合うことによって新たな関係を構築したのだと思う。であるから、彼は「今まで妻のために生きてきたが、これからは自分のために生きる」という台詞が出てくるのである。
二人の関係性は、翻れば自分の関係性になる。内側の自分と外側の自分と言っても良い。こうでありたい自分と、現実の自分でもいい。このずれが問題となっていたのではないだろうか。例えばハルさんも、ツレとのぶつかりあいがあった後「読者がどうのではなくて、作家が書きたいものを書けばよい」ということを指摘され納得する。だれかのために書くのではなく、自分のために書いてもいいのだということに気がついたわけである。
現実はこうだとか、こうしなければだめだとか言った他人の尺度で自分の行動を決めるのではなくて、自分の出来うる最善のことを行えばよいのだということに気がついたのである。これは翻ってこの作品のテーマに関わってくる。この映画のキャッチコピーは「ガンバらないぞ!」「すこやかなる時も、病める時も、君と一緒にいたい。」というものである。無理をせずに出来るだけすればいい。出来ないことはしなくてもいいのだということが、この作品の最も伝えたかったテーマである。

-終りに-
それは佐藤教授の指摘にもあったように、奇しくもこの作品の公開が、丁度震災後数ヵ月後になっている。何に向かって頑張るのだか明確なイメージが見えてこないのであるが、なんとなく日本全体ががんばるぞ日本という言葉の元にd団結していた時期である。その中で、当然悲惨な状態をテレビで何度も流されて、無力感をあまりにも、必要以上に味わわせられていた人々に、何にもできなくてもいいのだよという新しい価値観を見出させてくれたのではないだろうか。
当然うつというテーマだけでも成り立つ話であるが、このように関係性から見ると、公開時の状況や、あるいはもっと人間の根幹的な部分への大事な問いかけではないかと考えることができる。心理学的に言えば、自己同一性の問題になるのではないだろうか。これは自己同一性が確立されるまでの過程を描いた作品である。今、現在の日本が社会が求める人間像という強力な暴力的観念を押し付けようとしているなかで、たった二人の夫婦が愛を通してそれに立ち向かっていくという、非常に勇ましく、爽快な物語である。
最後には自己同一性が確立され、新しい自分、本当の自分を獲得することが出来たので、非常に後味の良い作品となっている。

映画「浮雲」への試論 感想とレビュー 男女を巡る関係性と終末

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-初めに-
1955年に公開された成瀬巳喜男監督による日本の映画。原作林芙美子。森雅之、高峰秀子という豪華な俳優を揃えた名作である。

-ゆき子から見る関係性-
世の中に男女を巡るものがたりははいて捨てるほどあるが、この作品はそんな男女の仲をでも、最も道徳的にも倫理的にも低い男女の物語である。戦後という混乱の時代のなかで、日本は復興へ向けての新しい道のりを歩もうとしていた。ところが、戦後間も無いこともあり、今までの価値観はすべて消え去り、いまだ秩序だったものは出来ていない頃であった。世の中は極めて不安の中にあったと思う。
その不安のなかで、高峰秀子演じる幸田ゆき子は、戦時中、仏印(ベトナム)で出会った森雅之演じる富岡兼吾に会いに行く。
ここから既に人物の性格づけが行われる。妻と子があることを知りながら、ゆき子は富岡の実家をおとづれる。当然そこには、富岡の妻が居る。その妻との邂逅というあまりに危険な道のりを経てまでして、彼女は富岡に会いに行くのである。ここからゆき子は、自分の恋に極めて従順な人であることがわかるが、同時に彼女は恋愛のために周りが見えなくなるという危険性もはらんでいる。
どうしても、私はこの富岡というどうしようもない男に共感が得られないので、何故ゆき子が彼をしたって、富岡の妻に会う可能性があるのにも拘わらずこのような危険を冒したか理解しがたい。それに戦時中に、タイピストとしてベトナムに派遣されていることから、当然英語に堪能であり、実際外国人とのコミュニケーションも取れている場面もあり、そのような高学歴を持った頭の良い女性がこのような男にひっかかってしまうのに、私は感得できない。
ただ、ゆき子が男性との一般的な恋愛が出来ない女性であったという可能性もある。義兄に貞操を犯されたことにより、彼女は本質てきに男性への不信感を有していると考えられる。途中一所に仲良く食事をしている場面や、その後大日向教という新興宗教の教祖となっている彼のもとへ転がりこむという部分も同時に考えると、そうした本来であれば恨みきっても恨みきれない相手でさえ、頼りにせざるを得ない状態が彼女にはあるように思われる。それは当然経済的理由もあるだろうが、どこかで彼女の精神がすでにおかしくなっていると私は考える。通常であればこのような義兄を許せるということはありえない。やはりどこか精神的にまいって正常な判断が出来ていないのではないだろうか。
富岡の家の訪問後、富岡が妻や母と暮らしていることに傷ついたゆき子は、その後町で話しかけてきた外国人の男性と関係を結ぶ。戦後アメリカ人兵士が日本で、かわいい娘に声をかけてガールフレンドにしようという魂胆であると思うが、英語に堪能な上に、外国で暮らしていた知識経験もありながら、その要求を素直に受け入れてしまっているゆき子は、すでに自分の身体についてあまりに無頓着である。諦念にも似た、虚無感のようなものが彼女の身体を覆っているようである。それは戦後日本の状況と重なり、さらには富岡という人間にも当てはまる。

-富岡からみる関係性-
今度は富岡という男から映画を見てみたい。彼もまた頭の悪い人物というわけではない。戦時中の体験をもとに何か文筆活動を行っているあたりからすると、何か物書きかもしれない。このあたり、作家太宰治のイメージと混合する。退廃的で、無頼派のようで、酒とタバコと女を愛するというような人物である。
国に妻や母を残しながらも、戦争で訪れたベトナムでタイピストの女性と関係を結ぶ。戦後も妻と別れることなく、また彼女の突然の訪問にも然程驚いていない様子から、こうしたことには平常から慣れきっていることなのかも知れない。中盤ゆき子との縁が戻した二人は、伊香保温泉へ旅行に行く。しかし、そこで意気投合した清吉という男の若い妻おせいとも関係を結んでしまう。
ゆき子という女性と旅に出た先で、そのような関係を結ぶとは全く常人の私からは理解できない。こういう点、富岡という男もまた自分の欲求にあまりに素直すぎる男として造形されている。理性というものがほとほと感じられない作品であるのは、こうした男女間においてもモラルもなにもあったものではないからである。そこに先行するのは自分のひと時の願望、欲求である。この異性と関係を結びたいという、一般にある感情であるが、それが極端にデフォルメされ、強調されている。
私たちはそれをたとえ心の内で思ったとしても、行動には移さない。それは理性が働いているからである。その理性が崩壊する原因となったのは、やはり戦後日本の破壊された価値観のためだったのだろうか。富岡という男は、男性の代表である。確かにこの女性がいいなと思うことはだれにでもある。それを行動に移すかどうかが、私たち一般人の悩みどころであるが、富岡は行動に移すのに悩むのではなくて、行動に移した後に悩むのである。
結局おせんと同居するという考えられない展開をした後、ゆき子の妊娠騒動があり、清吉はおせんを殺し、妻は死に、そうして飲み屋の小娘も惹かれてやってくるという、一大人事異動が起こる。この人間の関係性の混雑から、結局富岡は逃げざるを得ない状況になる。当たり前のことといえば当たり前のことであるが、これは彼自身がまいた種でもある。
しかし、自分で自分の首を絞めようとも、彼はそれすらも反省することはないのである。中絶をして泣くゆき子の、全部僕が悪いんだ、僕という男は空だから、そんなに僕に責任をおしつけたってしょうがないじゃないかというセリフを吐く。今で言うところの開き直りである。
ゆき子はこの場面で、富岡に見切りをつけて別れるべきであった。しかし、彼女はまた富岡のことを求めずにはいられないのである。ここから究極的な崩壊へと突き進む。結局二人は似たもの同志だったのだと私は考える。自己の中に何も入っていないから、自分で自分を認識することができない。自分のアイデンティティーとなるのは強く依存した恋人であるほかないのである。

-最終場面へ-
戦後日本という中で、この二人の男女は、不幸な男女の代表である。今までの価値観が全て崩壊し、秩序のなにもないなかで、しかし懸命に生きた強い男女であった。価値観の崩壊は彼等のアイデンティティーをも奪った。そのよすがとするために、男女は御互いを求め合わざるを得なかったのである。であるからして、彼等二人は戦争の被害者であると言ってもよい。
かろうじて理性の残っていたほうは、むしろ富岡のほうであった。こういうことをしていてはいけないという理性が少なからずあったから、何度も同じことをしてしまったのである。その間にはこんなことをしていてはいけないという気持ちが強く働いて、何度も途中で女遊びをやめたために、何度も女遊びをするという皮肉が存在しているのだろう。ゆき子が連れて行ってくれと懇願するなかで、彼が返答を渋るのはこの最後のなけなしの理性が抵抗したからである。ゆき子を連れて行けば、彼女が崩壊することはすでに富岡には見えていたのではないだろうか。自分と付き合うことによって、映画のなかで次第に成長していった彼女が、盲目的に破滅への道にいることを似た道を歩いてきた彼は感覚的に感じていたのではないかと私は思う。しかし、それでもということで結局最後の破滅を迎える。
最後の死化粧を施す富岡の姿には、全ての哀愁が込められている。それはこの戦争を始めた日本に対する怒りや憎しみでもあり、彼女の運命でもあり、島につれてきてしまったことへの後悔でもあったろう。
白のワンピースをきて舞う彼女の幻影は、かつての幸福だった彼女の姿を思い出すことによって、あまりにつらかった帰国後の二人の記憶を多少でも純化しようという気持ちの表れである。幸福だったことに立ち返らなければとても現実を見つめることはできないという反抗でもあると私は感じる。

「ドキュメント“天皇の世紀”をドキュメントする」を観て 感想とレビュー 現代に歴史的偉人を登場させる意味

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-初めに-
大佛次郎の大作、『天皇の世紀』。私はまだ原作を読んでいないが、この歴史小説がどのようにして、このようなドキュメントに変容したのか、そこを考えて行きたい。「テレビは生の真実を見せる力を持っている。『天皇の世紀』はドキュメンタリーでやってほしい」。そう語る大佛の肉声が残されているという。未完のままこの世をさってしまった大佛次郎は、どうして自分の作品をドキュメント調にしてくれと頼んだのであろうか。ここには媒体を巡る重要な意味があると私は感じる。

-歴史の見方、写し方-
『天皇の世紀』をドラマ化した第一部は1971年に放送されている。このドラマ版は特にこれといった表現上の特色は少ないように思われる。ただの大河ドラマである。時代設定も100年前。背景も道具も全てその時代のものに合わせて造られる。今回のドキュメント番組の中ではこの第一部にはあまりに費用がかかりすぎたという指摘がされていた。なるほどセットを全て造っては撮り、また別の部分を造っては撮るというようなことを繰り返していれば費用もかさむ。
私は先日、もとNHKの社員だったという人との縁があったのでNHK本社の大河ドラマの撮影所を見学させていただいた。通常は入れないらしい。後日、見学した際に撮影していた場面を見たが、ほんの数十秒しか放送されなかった。にも拘わらず、見学時には、何十分もかけて撮影していた。役者が入る前になんだかんだと大忙しであった。
撮影スタジオは一つしかないということなので、一度セットを作ってしまったら、ストーリー上そのセットが必要になるすべての場面を撮るのだという。時間もかかるし、お金もかかる。時代劇というのは大変なものなのだと実感した。ドラマであるからには、資金的な面での限界がある。人気を集めた『天皇の世紀』の第二部を造るにいたってどのようにしたらよいかというのが、製作スタッフたちの心境であったろう。

今みても、歴史上の人物が現在の町を堂々を歩いている姿には驚嘆する。画面内で道行く人々がちらちらと覗き込んでいる映像を見て、私たちもやはり何かおかしいのだと感じるわけだるが、当人たちはいたって堂々としているので、なんだか妙な説得力を持っている。
番組名を忘れてしまったが、現在ではこのような歴史をドキュメンタリー調で描く番組で、こちら側の人間が当時の世界に入りこんでいるというものがある。これはなかなか面白いと思って見ていたのであるが、それよりも40年近く前に、歴史上の人物がこちらの世界にやってきているという映像を見て驚いた。さて、その番組であるが、現在のレポーターが歴史上の場面に立ち会ってインタビューをしてまわるという方式をとっている。戦国時代が割りとよくとりあげられているが、武将同士の戦いに、両陣営に対してレポーターが配属され、現状はどうだとか、敵に勝てそうかとか、そのような質問をして、それに武将が答えるというものである。
この方式をとったことも、それ自体かなり秀逸な表現方法だと私は感じている。現在の人間の視点から、どのようにして過去の人間が行動したのかということを理解しようとしているのである。私たちの代表となったレポーターが当時の世界に赴き、そうして何を考えているのかを聞くことによって、過去を理解しようというのである。
当然この番組が、ドキュメント天皇の世紀からその表現方法のアイデアを得たことはだれでも理解できる。

-歴史と時間-
何を思ったか、第二部の製作スタッフたちは歴史上の人物を現在にひっぱりだしてきた。時代錯誤ではないかと批判するひともいたのではないだろうか。どう考えても初めてみた場合は動揺するに決まっている。しかも、その登場人物たちが、未来にきてしまったという認識をしていないのだからなお更おかしい。
登場人物は100年前と変わらないのである。だから、現代に置き換えたらとかいうような転換をしているわけではない。実に説明が難しいが、100年前の人物が、現在において100年前のことを行い、時代が動こうとしているのである。
歴史を考えるのは面白い。なぜなら見る人、考え方、どこから見るかなどによって、一つの事実が大きくいくらにでも変容するからだ。このドキュメントは今野勉が考えた現場主義という考えに基づいて行われている。実際にその事件が起こった場所にいって、考える。そうしてそこに人物を登場させて演じさせる。しかし、ここに演技というものが感じられない。演じている役者たちが自然と、坂本竜馬なり西郷なり桂なりになっているのである。
それは現場にいるからこそそういう心持になるのかも知れない。いくらセットがすばらしく準備されていたとしても、それはセットでしかない。これはフィクションであると誰もがおもう。それを見ている私たちもフィクションだと思えば、演じている人間もこれはフィクションであると思うだろう。
それに対して、その現場に人間を置く。そうすると、100年という歳月のために風景は全くことなってしまったものの、何か感じるものがあるのだと思う。よく考えてみれば、100年も10年も1年も1日も同じ時間の流れの上でそう変化のあるものではないのかも知れない。
今野勉は「現代と過去が断絶したものではなく、つながり、重なっている。その臨場感、緊張感を出したかった」とインタビューに答えている。何か事件があった。その翌日そこに行ったら、これは現場検証と同じである。まさしくドキュメントである。そうして時間の流れがあっても、やはりその場に行くことに重点を置くのであれば、100年も1日も大した差はないのかもしれない。そういう点で、この作品はまさしくドキュメントなのである。
レポーターとして伊丹十三が我々観客を導入する。そこに歴史上の人物が登場する。あえてセットなどを完全に排除することによって、逆にリアリティーが増すという不思議な現象がそこには起こっているのである。

-終りに、立場から空間へ-
大佛次郎が人生の最後にドキュメントにしたててくれと頼んだのにはわけがあるだろう。それは大佛次郎の歴史観というものなのではないだろうか。その歴史観がどんなものであったのか、私は原作を読んでいないからまだ知らない。しかし、激動の時代と呼ばれる明治維新への転換期に、幕府からみたらどのように見えるか、薩摩から、長州から、土佐から、あるいは志士からというような、もう出尽くした見方に待ったをおいたのではないかと私は考える。
どのような立場から歴史を見るかということは、とても重要なことであろう。私は歴史の専門ではないからあまり詳しいことは述べられないが、そうした立場という見方に捉われるのではなくて、その「場」、空間からものを見ようとしたのではないだろうか。
そうしてそれを表現するのに適していた媒体が、映像で、そのなかのジャンルでいうところのドキュメントということだったのだと思う。だから、レポーターも登場し、場を取材していくのである。それが歴史というものを新たに捉えなおす大きな指標になったのである。

偏屈文化人誕生日の御祝い 偏屈なる愛を込めて

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私事ですが、本日、二十歳に相成りました。
多くの御祝いの言葉を頂き、大変感謝しております。
二十歳と聞いて驚くかたもいらっしゃるかもしれません。年齢を隠していたことは謝ります。
このブログは、私が自分の文章力向上のためと始めたものですが、私の稚拙な研究、解釈にもかかわらず、今では一日200人に届きそうなほどの多くの方が来訪してくださり、到底自分のためだけでは続けてこられなかったことが今でも続けることが出来ております。
これは、一重にブログを来訪してくださる多くの方の御支援のためです。おかげさまで始めたころと比べたら幾分文章力が向上したと思います。これからは、研究、解釈だけでなく、実作のほうにも力を入れていきたいと思っています。いい本を書いて、そうして応援してくださっている皆様に少しでも恩返しが出来たらと考えています。そのためにも、さらなる精進と、鍛錬を行いつづけていきたいと思っています。
思えば20年もの時間を生きてきたのだなと、感慨深いものがあります。20年という年月が長かったのか、短かったのかまだわかりません。今まで年齢を言ってこなかったのは、私が単にひねくれているからで、10代の人間が書いた文章を読んでくれる人が居ないかもしれない、馬鹿にされるかも知れないということで、公開してきませんでした。これからは法的にも責任を求められ、成人したということになります。
やっと大人になったという思いは、不安もありますが、また社会的にも一人の大人として認められたという自信にもつながり、これからの活動に更なる躍進をしていきたいという情熱へと変化します。芸術と文化の発展のために、少しでも私の力が及べばという思いで、私は毎日活動しています。
これからも、多くの作品と触れ合い、そこから人間理解をなし得たいと考えています。他のブロガーさんたちや、ブログに足を運んでくださる皆さんとは、これからも御互いを刺激しあい、さらなる発展をしていきたいと思っています。

どうぞ皆様、これからもよろしくお願い致します。

石野幽玄

アニメ映画『ねらわれた学園』への試論 感想とレビュー 他者との関係性―「自己」の存在・シャボンの膜、ATフィールド

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-初めに-
『ねらわれた学園』は、眉村卓作の同名小説を原作とした、2012年11月10日公開の日本のアニメーション映画。原作『ねらわれた学園』は、眉村卓のジュブナイルSF小説。1973年刊。
現在アニメ界では、今までのアニメにまつわること、例えばジャンルやキャラクターたちからアニメのあり方についてまで「問い」の時代であると私は考えています。この作品も、今まで何度も映像化された作品であり、今更どうしてアニメ化なのかという問題が生じてきます。この作品には、アニメの表現の可能性を提示するだけの力があり、アニメの新たな展望を示していると私は感じました。今回は『ねらわれた学園』について、様々な視点から論じます。

-時間を巡る物語-
『ねらわれた学園』は、前述のように何度も映像化されています。しかし、今回のアニメ映画版では、未来人による学園支配というテーマは踏襲するものの、他は新しい解釈、オリジナルストーリーとしての展開をしています。この現象は、この作品とよく似た作品で、同じような経歴を辿っている筒井康隆のジュブナイルSF小説(1967年刊)『時をかける少女』との比較が出来ると私は考えます。
ちなみに、このジュブナイル小説という日本小説の分類のひとつですが、現在ではヤングアダルトやライトノベルとの便宜上の区別がなされているものの、殆ど差異はなく、ジャンルとして実に曖昧な状態にあることを指摘しておきます。現代におけるライトノベルと考えても然程問題はないようにも思われます。
さて、この『時をかける少女』ですが、同時代作品であり、また様々な映像化が今までなされてきました。近年、映像化する際には、こうした今までずっと映像化されてきた作品というのは、原作の通りに忠実にやれば良いということではなくなってきます。また、当時オンタイムでその本を、映像を愉しんでいた人々の世代から、一つ、二つ下の世代にまで時間は経ちました。そうすると、製作者側としての自分たちより一つ上の作品ですから、どうしても時間の経過というものを認識せずにはいられないのだろうと思います。それが、原作の主人公だった人間の、子どもや孫が現在の主人公になるという構図を生み出しているのだと私は思います。
『時をかける少女』アニメ映画版や、2010年版では原作の主人公芳山和子の姪や娘が主人公となって活躍します。この『ねらわれた学園』でも、原作で主人公だった関耕児は、主人公の祖父として登場します。つまり、かつての主人公の孫が主人公なのです。
こうした世代を超えた作品が作られる背景には、もう一つ時間の問題が存在していると思われます。この二つの作品に共通するのは、どちらも時間の移動が描かれているということです。時間の移動は本来ありえないことですが、SF作品ではしばしば描かれます。
どちらの作品も未来からの来訪者が登場します。この作品では、未来は壊滅的な状態であり、その状態になるのを防ぐためにどこかで歴史を変えようというのが目的。この点歴史を変えてはいけないとする『ときかけ』とは異なる思想です。この作品では、最後に未来人が帰っていくのですが、記憶は消さずとも自動的に消えてしまうように描かれています。ある固体が、別の時間軸に移動したら、残された時間軸の人間はそのものの記憶を有していることが出来なくなるということなのでしょうか。この点原作を読んでいないので、まだ不安的な解釈です。

-ファンのための映画として-
やはり、アニメ映画の業界は世界が狭いといえば狭いです。ですからどうしても興行的にお客を入れなくてはいけなくなる。そんなことを意識しているかわかりませんが、この作品は様々な作品へのオマージュが散りばめられていたと思います。
先ず、これはファンの獲得のためでしょうか、ヒロインの涼浦ナツキの声は渡辺麻友(AKB48)が担当します。私はそれとは知らずに見に行ったものですから、最後にエンドロールを見てびっくりしたのですが、演技はうまかったです。何の違和感も感じませんでした。
いくつか感じたオマージュは、例えば新海誠作品。この作品はアニメの表現の可能性を新たに模索するための作品として位置づけられます。
―アニメ映画『ねらわれた学園』の試写会が京都の立命館大学で開催―より
http://megalodon.jp/2012-1118-0237-22/animeanime.jp/article/2012/11/11/12034.html
―中村監督は「実写ではなんども映像化されている中で、今の時代にアニメでやることの意義が見た人にわかるようなアニメにしたかった。」中村監督がアニメ業界に入ったとき、3DCGはほとんど使われていなかったが、現在はむしろ、「なぜ、いまになっても3Dでやらないの?」と言われる程、3DCGが使われるようになったという。そこで、2Dアニメの魅力を改めて示したかったとのこと。「写真のような背景ではなく、絵画的に描かれた背景や、リアル+αが可能な2Dの表現力によって、キャラクターの心情や、+αで自分が込めたい思いを示すようにしたんです。」と中村監督は2Dアニメによる表現方法の魅力について語る。
更に+αとして本作で表現したのは“青春”だったと中村氏。「“青春”は言葉として発するだけでも恥ずかしい位だが、アニメでは光や輝きにこだわることで自然に表現できた」と2Dアニメによる表現の可能性を改めて強調した。―

ここで監督は光の描写を行っているのです。この描写の仕方、特に冒頭は新海作品の表現と非常に似ているものがありました。
また、例えば舞台設定となっている場所が海岸沿いでヒロインの春河カホリがサーフィンをやっている姿なども、『秒速5センチメートル』の第二部のイメージが連想できます。他には、未来人の京極リョウイチ。どことなく達観した存在で、全てを知っているようで、飄々と生きている。またその白っぽい髪の毛や、甘い声などから、エヴァンゲリオンのカヲルを連想できます。
これらは、関係性がないと考えるよりかは、様々な作品へのオマージュとして考えたほうが自然だと私は思います。やはりキャラクターというのは、似る傾向があります。それは当然物語を作る上で、無から全てを作ることではなくて、様々な要素が様々な物語から集められているということになるからだと思います。ですから、私よりアニメの研究をしている人間が見ればもっと多くのオマージュを指摘することが出来るでしょう。この作品はそうしたオマージュをしていて、なおかつそこから躍進しようというのがテーマなのです。

-他者との関係性、シャボンの膜とATフィールド-
作品について、今回最も重要になるのは超能力です。この超能力は人類の破滅から救う力として京極がこの中学へもたらしたものです。能力は、人の心を知ることが出来るというもの。この作品の重要なテーマは他者との関係の構築なのです。
作品の冒頭、携帯電話で事件を起こし不登校となった山際ゆりこの自殺未遂から物語は始まります。携帯という媒体をよく考察された上で出来た作品と言えるでしょう。例えば携帯という媒体は私たちにどのような関係性をもたらしたのでしょうか。こうしたメディア媒体は過去にはなかったものです。原作にも当然登場しません。
作中では、シャボン玉の例が出てきます。シャボン玉はひとりひとりの人間である。人間は膜を張って生きている。しかし、それではいけない。他人が分かるようになって、人間の膜シャボンの膜をなくしてしまおうということなのです。
他者との関係を考えた際、私たちは他者のことを、本質的には理解できないということになります。それは私が他者ではないからです。あくまでも他者は、自己の内部における他者の像を理解するに過ぎないのです。ですから当然、その自分の中の他者と、現実の他者には食い違いが生じます。それが、例えば自分のことを悪口いっていたりした場合は、他者を信用することが出来なくなります。そうした悲しみから解放しようというのが、他者との隔たりをなくしてしまおうということになるのです。
ただ一つ指摘しておきたいのは、京極とカヲルの共通性にも関わってくるのですが、この作品がエヴァンゲリオンとある重要な部分で一致しているということです。エヴァンゲリオンも他者との関係性を巡る物語として読み解くことが出来ます。エヴァンゲリオンにおける、ロンギヌスの槍というのは、多くの指摘があるように、「自己」「ATフィールド」を破壊するものとして特殊性があります。そうしてエヴァにおける死というのは、「自己」の崩壊になります。これが翻って考えれば、この作品では「自己」の膜をなくすことによって、人格から解放されて、大きな存在としての人間になろうというわけです。ですから、ある意味では自己は無くなっていますから、死んでいるとも考えられるわけです。

この作品で注目すべきは携帯というアイテムです。これは、いま説明したような他者との関係性を象徴するものとして登場します。能力者となった生徒会の委員たちは、携帯の持ち込みを禁止します。というのは、それまで携帯は常に身の回りにあるものとして、学校のなかになくてはならないものだったのです。実際考えてみれば、私たちは携帯なしでも生きられるはずなのです。しかし、実情では携帯を手放せない人は思ったより多く存在します。携帯というアイテムは、他者との繫がりを意識できるアイテムとして存在していると私は考えます。この作品でも言及されていますが、他者との関係を常に構築していなければ安心できない、他者とつながっていない、自分は一人だと感じることが恐怖以外のなにものでもないのです。
そうして、その恐怖に負けた人間は、携帯の代わりに超能力を手に入れることによって、常に他者との関係の中に身をおくことができるようになるのです。自己と他者との区別、この作品で言えばシャボンの膜、エヴァで言えばATフィールドをなくしてしまうという話なのです。
それに対して自己がなくなることに恐怖を感じた主人公やヒロインたちは、彼等に対して反撃をします。今までなす術もなかったと思われた主人公サイドが、実は関ケンジは超能力者で、その力を祖父と犬シロによって抑えられていたことが示されます。
京極と戦うケンジ。ここでは、非常に解釈が多義的で難しいのですが、過去に何か事故があって、涼浦ナツキの能力とも複雑に関係してきます。結果的に、歴史を変えるように父から言われていた京極は、ケンジたちの幸せを考えてしまったがために、敗れます。京極はこの時代の人間から幸福を奪うことが出来なかったのです。
これは京極が春河カホリと恋をすることによって生まれた心情の変化が影響していると思います。京極は恋をすることによって、他者というものを認識してしまったのです。全員が超能力者になって、他者との境界線が崩壊すれば、当然恋もなくなるわけです。恋というのは、私は心理学者ではありませんからよくわかりませんが、ある意味では他者性というものが強く関わってくると思います。自分と同じ存在であれば恋は恐らくしません。自分とは異なった異質なものだから、知ってみたい、触れてみたいという思いがあるのではないでしょうか。その恋をしてしまったことによって、カホリの人格をなくしてしまうことはできなくなったのではないでしょうか。

-終りに-
この作品はラストが多義的です。アニメにおける多義的な終わり方というのは、時としてはっきりしない、わかりにくいということから、今まであまり好まれてはきませんでした。しかし、ここでは観客の解釈ができる余地があり、見終わった後に誰かと話したくなる作品として成功していると私は思います。
京極は力の使いすぎでこの時代では原型を保つことが出来なくなるまでに疲弊します。京極を未来まで送るケンジは片道ならば二人を移動することが出来るといいますが、最後には戻ってくることが出来ます。恐らく祖父関耕児が心臓麻痺で倒れる描写があることから、未来へは祖父の力、もしかしたらケンジの妹も力を与えているかも知れませんが、によって送られたということなのではないでしょうか。だからケンジは自分の力で帰ってくることが出来たということではないでしょうか。
また、記憶の問題ですが、この作品では別の時間軸に移動するとその人物の記憶が自動的に消えてしまうということがあるようにも思われます。それは能力がない人間だけに限定されていることでしょうが、ケンジは帰ってきてナツキだけ記憶を戻しています。
どこか論理的に説明しきれない部分ではあります。SFの作品の問題となるのは、論理的にどうやって観客を納得させるかということですが、この作品ではあえてそれを不透明にしているように感じられます。最後の部分は私もまだよくわかっていないので、ぜひとも他の方の見解を知りたいです。

参考、今までの映像化
Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%82%89%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%AD%A6%E5%9C%92
テレビドラマ [編集]
1977年 『未来からの挑戦』 (NHK、少年ドラマシリーズ) 主演:佐藤宏之
1982年 『ねらわれた学園』 (フジテレビ、連続ドラマ) 主演:原田知世、伊藤かずえ、本田恭章  脚本:伊藤和典他
1987年 『ねらわれた学園』 (フジテレビ、月曜ドラマランド枠での単発ドラマ) 主演:新田恵利、藤代美奈子、京本政樹
1997年 『ねらわれた学園』 (テレビ東京、連続ドラマ) 主演:村田和美
映画 [編集]
1981年 『ねらわれた学園』 ((旧)角川春樹事務所) 主演:薬師丸ひろ子、監督:大林宣彦
1997年 『ねらわれた学園 THE MESSIAH FROM THE FUTURE』 (ギャガ) 主演:村田和美、監督:清水厚
2012年 『ねらわれた学園』 (松竹、アニメーション) 監督:中村亮介

アニメ『かんなぎ』への試論 性的シンボルの欠如したヒロイン性を中心に

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-はじめに-
Wikipediaよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%8E_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)
―『かんなぎ』は、武梨えりによる日本の漫画作品。副題は「Crazy Shrine Maidens」。『Comic REX』(一迅社刊)にて創刊号(2006年1月号)より連載開始。2009年1月号より、「作者の病気療養」という理由で長期にわたる連載休止の状態となっていたが、2011年7月27日発売の『Comic REX』9月号より連載を再開した。2008年10月よりテレビアニメが放送。―今回は未完の作品ということもあり、一応完結しているアニメを中心に、他の作品との関連や、ヒロイン性を中心として論じていきます。

-民俗学的アニメとして-
前回、私はアニメの歴史的な変遷の一部を論じました。この作品もまた、ヒロイン性の問題において、重要な視点を内在した貴重なテクストとしての側面があるのですが、その前に、ジャンルとして一つの側面をもこの作品は見せてくれます。
日本という極めて稀な風土、文化的素養を持ったわが国は、アニメなどのサブカルチャー作品においてもそうした文化的、民族的な側面が影響しています。例えば、宮崎駿作品の『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などは、非常に「日本的」ということが出来るでしょう。柳田國男が創始した日本民俗学的な知識に基づいたこれらの作品は、八百万の神など日本的神秘が描かれています。
アニメという媒体と実写の媒体の差異は、それが記号であるか否かです。アニメはCGの技術により大分革新してきてしまったので、一概に述べることが難しくなってきましたが、本質的には記号によって構成されています。すなわち点と線です。それに色が付け加えられ、連続した似通った画を立て続けに見せられることによって、動いているように私たちの眼は錯覚します。
ですから、フィクションという側面は本質的に内在しているといってもいいのだろうと私は思います。もとからそこには記号的な絵しかないのです。ですから、フィクションとこれだけ交わりやすい分野もまたないのではないでしょうか。

『かんなぎ』はまさしく、民俗学的な「神」の表出です。主人公の御厨仁が神社で切られてしまった神木をそれとは知らずに持ち帰り、「手彫り製樹の精霊像」を作るところからこの物語は始まります。その仁の作った木彫りの精霊像に、それを依り代として神であるかんなぎが宿ってしまうという話し。
ちなみにこのかんなぎとは、柳田國男 『定本 柳田國男集 第9巻』223頁によれば、(Wikipediaより)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%8E
―巫(かんなぎ 古くは清音でかむなき)は、神の依り代、または神の憑依、または神との交信をする行為や、その役割を務める人を表す。詳しくは巫(ふ、かんなぎ)を参照。 南方熊楠は、『巫女(いちこ)に関することども』で、神社に仕える巫女を「かんなぎ」歩き巫女の類を「みこ」とする。―だそうで、完璧に神かといわれればそうでもなさそうという不思議な存在。しかし、そうした学術的な部分はさておき、この作品ではそうした神聖な存在が登場するのです。

こうした作風で、私が系譜として指摘したいのは『夏目友人帳』と『ぬらりひょんの孫』です。話は変わりますが、国語ブームというものが、大体10年くらいのスパンでやってきます。前回来たブームは、齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』全5巻、草思社 2001によって引き起こされたものだと思われます。こうした日本語に敏感になるブームというのは、大体10数年単位でやってきているのです。こうした古き良き日本、日本の文化・伝統というようなものが十数年単位で流行るのは、誰もがそんなに理解に苦しむことではないと私は思っています。そうして、こうしたものがアニメ界にも当然あるだろうというのが私の考えです。
『かんなぎ』はアニメ界での、そうした日本的な神話を取り込んだ作品として重要なものです。そうして、取り扱った題材も重要なことながら、どのような姿で出てくるのか、ここにこれから注目していこうと思います。

-レイ、なぎ、イカ娘、インデックス、メンマを通じて-
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アニメは、私の専門の文学と比較してやはりビジュアル的な側面が非常に強く影響すると感じます。例えば何頭身なのかとか、髪の毛の色はどんなだとか、着ている服装は、そうしてアニメ独自の声優はどんなだとか、そうした複合的な要素が絡まって一つの人格が形成されます。ですから、文章だけによって説明されている人物と比較して、当然実像としてのヒロインが存在するのですから、当然感情移入しやすくなります。それは、例えば好きになれないということもあれば、反対にもうこの子だというようにはまってしまうということにもなるわけです。
この作品のヒロインは私にとってある意味衝撃でした。かんなぎのなぎ様は、今まで存在してきたヒロインのヒロイン性というものを根本的に打ち崩した存在であると私は思っています。以前から、髪の毛の色で言えば派手な色が多々ありました。また、真っ白というのもアニメにおいては多くヒロインとして存在してきました。しかし、主人公との恋愛対象となるべく性的な成熟が完全にそこにはないのです。これは、エヴァンゲリオンの綾波レイの系譜だと私は考えました。
90年代に若者の心のよりどころとまでなったアニメ『エヴァンゲリオン』に登場する綾波レイは、アニメのヒロインにおける革命でした。感情のない存在として、人形としてのヒロインが登場したのです。ですから、本質的にはヒーローであるシンジとの恋愛関係には陥らないはずなのです。エヴァでは徐々に感情が芽生え始めるということで、自我同一性などが描かれていてそれが感動的な要素になるのですが、レイは一種の革命だといえるでしょう。
レイというのはその名のあらわすように「0」「零」を連想させます。これはイコール「無」。感情もなければ性性も無であると考えることが出来ると思います。一方では、服従欲や保護欲を満たすために、人間の人間たらしめている部分、つまり感情などを徹底的に排除された存在としての処女性のようなものを読み取ることも出来ます。単純な言葉に変えれば「人形」なのですが、単なる容器としての入れ物ではなくて、観客の性欲的なものの対象として造形された存在としてみることも出来ます。
彼女の「無」のシンボルは、冷たさにも連想されます。決して熱しない、温度変化のない極めて静寂な状態。それは寧ろ人間離れしていてどこか神的な存在をもイメージさせます。そうして月との関連性はエヴァを見た人であればだれもが感じたことでしょう。レイと月は、しばしば多くの場面で同時に登場したりするため、そのイメージが刷り込まれるように作られているのです。この月的イメージは、例えば月という存在を考えたときに、自分では決して輝けない、太陽の光を反射してしか輝けない陰の存在として、夜の存在として、陰陽で考えれば陰の側の存在としてのイメージに繋がってくるわけです。

かんなぎの「なぎ」様は、レイのイメージを汲んでいながらもまた別のイメージをも内包しています。レイは、無的存在でしたが、次第にシンジとの接触によって人間性の回復を目指しました。ですから、そこには人間的な関係性が結ばれるわけです。しかし、なぎ様は、存在そのものが神と規定されていますから、人間の主人公である仁とは根本的に対等な関係に立つことはできないはずなのです。つまり、ヒロインにならないのです。彼女との恋愛関係は仁には築けないはずなのです。ですから、性的対象としての存在意義を失うのです。
なぎ様は設定ではAAAカップとなっています。そうしてそれを自分で認識しています。また、作中において高校生ということで性的な思考や描写が多少ありますが、根源的にはそれは成立し得ないものとして無意識のうちに観客の側にも認証されているのだろうと私は思います。
彼女はもレイも、第二次成長期を越えていない、少女から女性へと成長していない存在なのです。処女性と言ってもいいですし、そこには何の穢れもない、純白性のようなものがあります。ですから、それは保護対象となり、性的対象としての存在を基本的には剥奪されているのです。そうして神性のようなものは、彼女たちの人間離れした存在から浮き彫りになります。それは例えば感情がないとか、あるいは髪の毛がありえない白やそれに近い色であるなど様々です。ここには、今までヒーローとの恋の成就を約束されたヒロインは欠如しているのです。そうした要素は寧ろ他のキャラクターへ拡散してしまいます。そのため、こうした作品のなかではしばしば青春の恋愛は存在しえないということになります。

この系譜をレイ以降明確にしたのが、なぎ様であるとすると、他にもビジュアル的に影響されたであろう存在があると私は感じます。それは例えば2010年10月よりアニメ公開した、安部真弘による日本の漫画作品。『侵略!イカ娘』です。他には、ライトノベルシリーズで大ヒットした鎌池和馬の『とある魔術の禁書目録』(とあるまじゅつのインデックス)。この作品は第一巻が2004年刊行ですから、もしかしたら『かんなぎ』に影響を与えていると考えることも出来ますが、この作品が広く世間に知れ渡るようになったのは2006、7年以降なので、何とも言いがたいのが現状です。たまたまヒロインが似ているビジュアルだったと考えるのは実際どうなのか、そこはまだわかりません。
ただ、ここでは、なぎ様よりさらに性的シンボルを排除された存在としての造形が際立っています。イカ娘はその名の通り人間ではなくイカです。この作品は『ケロロ軍曹』の影響を受けていると考えられ、少女と幼女の中間のような存在のヒロインがただ、画面のなかを動き回っているというような日常パロディーものとして作られています。
インデックスは、名さえ与えられないかなり特殊な存在として登場しますが、通常では幼女とも思える幼い言動を行い、よりヒーローとの恋愛が排除された存在として位置づけられます。この二人となぎ様に共通するのは、外部からの来訪者という点です。ある意味レイも、外から来たと言う事もできますが、ここでは置いておきます。神的なモチーフが付加されるのには、我々の未知なる世界から来訪してくる必要があるのです。ですから、こうした少女たちはある日突然外部から来訪してきます。これは、先日論じた『あの花』のメンマにも言えます。彼女はもともと人間でしたが、死にました。死んだメンマが幽霊として蘇ってきているのです。しかし、そこでもやはり仁太が言うように、性的なシンボルは成長しておらず、どこか幼女的な感覚が抜け切れない存在なのです。
ここには根本的には外来者、部外者という価値が付加されることになり、こちらに居た側のヒーロー、主人公との恋愛は出来ないようになっているのだと思います。こうした誰からも汚されないことを約束された純白性のようなものが、観客には受けたということなのです。これはアイドル論的に考えても納得のいくことで、大衆にさらされたアイドルから、自分個人の守れるアイドル、誰からも汚されないアイドルが時代に要請されて存在してきたのではないかということです。
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-終りに-
アニメにおけるヒロインというものを追うと、似通った存在がちらほらと点在していることに気がつきます。それらはしかし、まねたとかそういうレベルのものではなくて、何故似たようなヒロインが登場しなければいけないのかというと、そこには我々観客からの要請があるのだろうと私はおもいます。
今回は、真っ白に近いような色をモチーフとした少女的なヒロインについて考えてみました。当然レイとアスカという対比があります。アスカ的ヒロインの系譜もまたあることでしょう。映画版でいうところのマリの存在もまた、珍しいですが似たような存在は他の作品にも点在していると思います。こうした登場人物の特性、特質というものを追っていくこともまた、一つのメディアを読み解くことになるのではないでしょうか。

アニメの歴史的変遷 アイドルと作品規模の側面から

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-漫画からアニメへ-
00(ゼロゼロ)年代、或いは0(ゼロ)年代と呼ばれる2000年から2010年までのアニメ界は、ある意味2010年代のアニメ界の変革の前提となる土台作りと考えることもできると思います。00年代のアニメは、非常に狭められら世界への追求がなされたといっていいでしょう。それはたとえば『けいおん』に始まり、アニメは今までの仮想で壮大な物語から、現実で日常化された世界が描かれるようになりました。
思えば、アニメにおいてどうして日常が描かれなかったのかということも不思議ですが、もともとアニメの前身となったのは漫画(マンガ)です。漫画はその媒体の特質として、動きを求めました。漫画は、モノクロの二次元的な記号のみによって構成されたメディア媒体ですから、非常に表現力に欠けたわけです。それを補ったのが、まず一つは動き。漫画は必要以上に動きを求めた媒体です。そうしてその動きと相互補完的に発達したのが、オノマトペ表現です。音愉と呼ばれる音の模写です。絵と言葉だけでしか表現できないために、読者をあきさせないための動きと、それらが躍動感を持てるように音が書き込まれたのです。
そうした漫画から発展して、二次的なものが一繫がりで動き出したのが、初期のアニメです。ですから、アニメは漫画の延長線上でしかなかったのです。ところが、それが60年代、70年代、80年代、90年代と続いてくると、アニメ界だけでの熟成がなされるようになったのです。ですから、アニメ表現は、漫画の持っていた動きから離れることができたと私は考えています。
また、一方で、フィクションばかりで現実感がなく、感情移入が出来ない作品から若者は遠ざかったとも考えられます。ロボットだ戦艦だという男の浪漫や、魔法少女ものといったものは、もはや大衆受けしなくなってきたとも考えられます。そうしてフィクションにあきた観客は、より写実的な、現実感のある作風を求めるようになったのだと私は思います。

-アイドル性-
アイドルとの関連からもこれは言うことができると思います。偶像としてアイドルは常にごくごく限られた人間が頂点にたつという、中央集権的なアイドル像が今まで構築されてきました。吉永小百合には誰も勝てないのです。アイドルといったらこの人という、共通した巨大なアイドルがあったのです。当然ヒーローにもそうしたことが言えると思います。しかし、それが次第に個人主義のようなものの台頭によって、細分化されてきたというのがここ数十年の流れではないでしょうか。おにゃんこクラブに始まり、モーニング娘、そうしてAKB。AKBのファンというのは、私はアイドルの追っかけではないので本質的にはよくわかっていないのですが、恐らくAKB全体が好きということではなくて、その中のだれだれが好きということなんだろうと思います。そうしてAKB自体も、その理念が、会いに行けるアイドルというもの。アイドルは、今までの神格化された状態から、人間として共感できるレベルまで降りてきたのです。
これがアニメの作風でも大きな流れを作っていると思います。神格化された世界から、より自分の身近な世界が描かれるようになったのです。もしかしら、その場所で、その人がという、極めて起こりうる可能性の高い物語が広く享受されるようになります。そうした作品が求められるようになった要因の一つには、所有欲の強さもまた影響していると私は感じます。
全員が知っていると、自分ひとりのものには出来ません。ですからアイドルは全体のものです。しかし、それが細分化して、より小さなアイドルになってくると、知っている人も少ないし、なにより応援してきた自分が育てたという、保護としての側面が出てきます。小さくなったアイドルは自分と対等か或いは、自分の擁護すべき存在としての側面が付加されたのではないでしょうか。存在依存といってもいいでしょう。自分の存在のよりどころとなるアイドル、作品を求める力が強まったのではないでしょうか。

-00年代10年代を比較して-
これは、90年代の『新世紀エヴァンゲリオン』からアプローチすることが出来ると考えています。当時の若者は、まさしく自分たちの存在のよりどころとして、この作品のなかに自分たちの心の居場所を得たのです。エヴァンゲリオンはその作品上フィクション的要素がまだ強かったですが、それが次第に、より小さな作品となるにつれて、自分が居るべき作品とでも言うようなもの、自分の存在依拠としての作品が強まったのです。そうして、そのような作品のほうが、実際グッズなどの販売の効果も良かったのだろうと思われます。当然自分の依拠した作品は、少数に限られるけれども、その少数の人間たちは必ずその作品のグッズを大量に買い求めるのです。作品と観客の密着度が強まったといってもいいでしょう。こうしたことを、例えばアニメなどに理解を示さない人たちは「オタク」という言葉で一括りにしたのです。
そうして、00年代は言わば「日常の商品化」です。ありふれた日常が、アニメで描かれることによって、理想化された日常を疑似体験することが出来る。そこに自分の居場所を見つけることもできるし、何より自分たちと主人公たちとの距離感があまりに近いのです。当然若者の心との距離が皆無な作品をつくることが出来れば、たちまち大ヒットということで、『けいおん』は成功したのだと私は考えます。
そこには、どこにでもありふれた少女たちが、何のフィクション的な物語展開もなく、ただ日常を平和に暮すというほのぼのした内容が展開されます。そうしてそこに、自分の求めるアイドル像を発見し、その閉鎖された居心地のよい日常への同化をしているのです。それが00年代の特徴といえるでしょう。
ただ、そうした流れに対して、私が驚いたのが、10年代のアニメの「問い」です。今まで誰も何も疑問を持たずにただ了解していたアニメ、漫画の存在に対してまったを掛けたのが、ここ2年の作風といえるでしょう。丁度それは震災と前後していることも念頭においておきたいと私は思っています。前回までで取り上げた『まどか☆マギカ』や『タイバニ』などは、今まで魔法少女ものや、ヒーローものといった一つのジャンルに対しての一つのアンチテーゼをしています。ジャンルの根幹を揺るがす、構築し続けてきたアニメの世界をもう一度ある意味では破壊しようとしているのです。
また、これは『新劇場版ヱヴァンゲリオンQ』にも関連して述べることが出来ると思います。またエヴァンゲリオンの新劇場版についてはそれのみで論じますが、今回の作品は、ある意味でいえば「突き放し」です。90年代に多くの若者が、心のよりどころとして享受したエヴァンゲリオンは、製作者側、作品側から観客を突き放すように変容したと考えることが出来ると私はおもっています。ですから、アニメは今までの流れのような閉鎖された、ごくごく少数の人間に享受されるための作品から、また再び大衆の作品へと生まれ変わろうとしている流れがあるということが確認できるのです。
アイドルもまた、そうした流れがあと数十年の間に出てくるのではないかと、ここで予想しておきます。アイドル性の回復がなされる日が来るかも知れないのです。

アニメ『あの日見た花の名を僕はまだ知らない』への試論 感想とレビュー バスターズの関係性を巡る物語

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-はじめに-
Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A6%8B%E3%81%9F%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%82%92%E5%83%95%E9%81%94%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82
―『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』は、A-1 Pictures制作の日本のテレビアニメ作品。2011年4月から6月までフジテレビ・ノイタミナ枠などで放送された。全11話。略称は「あの花」、「あのはな」
埼玉県秩父市が舞台設定のモデルとなっており、実在する建物、風景などが多く登場す。監督を務めた長井龍雪は舞台について、東京との微妙な距離感や山に囲まれた土地の閉塞感といった雰囲気を舞台に重ねたとしている。―
2011年はあらゆる面において、異例の年でした。前回見た『まどか☆マギカ』や『タイバニ』などで、アニメ界における「問い」がなされていると私は述べました。今回は、死者とのかかわりについて、重要な視点を有する『あの日みた花の名を僕はまだ知らない』を論じます。この作品で最も重要なテーマ、「死者との対話」を、桜庭一樹氏の小説『無花果とムーン』との関係でも論じていきます。

-アニメの作品としての可能性-
3月に震災があったあとに、この番組が深夜で放送されていたということを知ったとき、私は衝撃を受けました。このアニメの内容が、直接震災への大きな試論となっていたからです。災害で多くの方が亡くなりました。この死者たちと私たち生者はどのようにかかわっていけばよいのかということが問題となります。この作品では、ひとつのかかわり方が提示されています。
製作者もアニメらしくないといっている通り、この作品はドラマの要素を多分に含んだすばらしい作品です。アニメというのは、媒体として考えた際にマンガとよく似た媒体であると考えることが出来ると思います。つまり、「動き」を求める媒体であるのです。アニメーションは動きがなければ面白くない。この作品では、動きが他のアニメと比べて少ない。動きを出す設定が少ないのです。通常のアニメは横の移動が多くあります。それは例えば戦闘だったり、身体的運動によって表現されます。この作品では、そうした動きがあまりない代わりに、最後のカタルシスとなるロケット花火の打ち上げが用意されています。動きが少ないなかでの、大きな縦の動きは、それ自体が象徴的ですし、この作品における際立ったシンボルとしての重要性も付加されやすくなっていると私は思います。

この作品は、冒頭外界からの来訪者というよくあるパターンを使用して、本間芽衣子という少女を登場させます。よく作られているのは、この少女の正体が宿海仁太の口から説明される前から、ガラスに映った際などに、芽衣子の姿が写されていないということです。
この作品は、いわゆるゴーストストーリーに分類されますが、アニメ全体の流れからしても、本当に芽衣子は幽霊としての存在を確保されているのかということが問題になると私は思います。実際に幽霊が蘇って、それで主人公の仁太と対話して、それを通じて仲間たちと話し、すくわれたという単純な物語かということです。
一つ考えられるのは、共同幻想としての幽霊ではないかということです。皆それぞれ、メンマに対して何らかの罪意識を有しています。ですから、それが仁太の言うところの夏のケモノとして、仁太の眼前に表れることによって、そこから拡大していって、共同幻想にまで発展したとも考えられるということです。当然そこには何もいなかった、ということを言いたいのではありません。彼等のなかに何かがあって、メンマがいると幻想したのだとしたら、やはり彼等のレベルでは実際になにかがいたということになりますから、この物語は成立することになります。一つの指摘としては、全体の共同幻想を描いた作品としても読み解くことが出来るのではないかということを私は言いたいのです。

秩父という空間で、この作品は実は非常に狭まれた空間の作品であるということが出来ると思います。山に囲まれて、主人公たちが電車をしようしても出て行けるのはごく限られた空間でしかないのです。私は今まで物語を考察する際に、空間というものを念頭において考えてきました。この作品は、実に狭い空間に閉じ込められた少年少女たちの物語としても読み解くことが出来るのです。
狭まった空間と同時に、「平和バスターズ」もまた、狭い関係性のなかにおいて成立します。ですから、そこには大変濃密な関係性が描かれるわけです。大抵の作品の場合は、それが上手く描けなくて、ドン詰まりとしての崩壊が描かれますが、この作品ではアウトサイダーとしての異種性、メンマが再来することによって、破滅的な関係性の崩壊ではなくて、新しい生成方の関係性が構築できたのだと思います。
また、この作品を見ていくと、唯一例外的存在とも言えるポッポ(久川鉄道)は、唯一この狭い空間からの逃避を、失敗していると自覚しているとは言え、果たした存在であることが指摘できると私は思います。主人公の仁太の逃避は、さらに閉じこもること、家から出ないことでした。鳴子は、別の濃密な関係性のなかに身を委ねること、松雪集と鶴見知利子は学問への逃避などが考えられます。特に松雪集は、女装という、自己を一旦捨て、メンマという仮面を被ることで精神を納得させようとまでしました。
この作品ではそれぞれの苦悩が、丁寧に描かれ、そうしてそのどん詰まりからの解放がある作品だということが出来るのです。

-メンバーを巡る関係性-
この作品には二つの矛盾する写実がなされています。一方ではこの作品は大変リアルに作られているということです。この作品には、例えば一話目での「だってばよ」とメンマが言う台詞など、忍者マンガ『ナルト』のオマージュがあります。他にもガリガリ君などの商品や、風景描写が実際の秩父と同じであるほか、ポケモンを彷彿させるゲームや、「ぼぼぼーぼぼーぼぼ」など、多くの作品へのオマージュが組み込まれています。この作品の登場人物たちは、2011年放送当時、実際に高校1年生だと考えることが出来ると私は考えます。この当時の世代がこうしたネタを知っているとすると、丁度当時の高校生を描いていると考えることが出来るのです。また、さらに言えば、エンディングの「secret base 〜君がくれたもの〜」は2001年に井上真央が主演したドラマ「キッズ・ウォー3」の主題歌でもあります。「secret base 〜君がくれたもの〜(10 years after Ver.)」と銘うってわざわざ表示されているということは、彼等が実際に、10年前、小学生のころに「キッズ・ウォー3」を見て育ってきた人間であるということを、如実に表していると考えることが出来ます。
それに対し、幽霊というあまりに非現実的な存在が何の変哲もなく、私たちには仁太の視点で描かれます。通常、幽霊などの非現実的なものを描く際には、こうした写実的な作風とは合わないと思われますが、何故かこの作品ではそれが見事に融合されているのです。

この作品を読み解いていく上で重要な視点となるメンバー内の関係性があります。この作品の最も重要な部分は、この複雑な関係を経て、それらがメンマの登場とともに再び移動、変動を繰り返し、最終的に落ち着くということになります。
第五話『トンネル』では、ゆきあつが鳴子に告白することにより、明確にこの関係性が動き出し始めました。それは、このタイトルの『トンネル』内での告白があったことを意識してのものだとも考えられます。
ここでは、鶴子→ゆきあつ→鳴子→宿海⇄メンマ
このような関係図になると思います。ここでは、後に論じますが、成仏をしなければいけないという問題への認識の仕方も関わってくるのです。
9話では、再び鶴子→ゆきあつ→鳴子の関係性がはっきりと描かれます。
10話では   鳴子→宿海⇄メンマ
鶴子→ゆきあつ(↑)――――↑
ゆきあつが、これまでのメンマへの屈折した感情から、一旦脱却して、恋愛対象としてのメンマへの思いが明確になることによりこのような関係図が作れます。
この物語の最後は、この関係性がぐるりと変容しますが、その前に、今まで見た関係図のなかで、唯一平和バスターズの中で登場しない人物がいます。それはポッポです。超平和バスターズは全員で6名。男女3対3ですから、メンマが死んでいるとは言え、蘇ったとされる物語内においてはカップルはあますことなく成立するはずなのです。しかし、ぽっぽはこの関係性の仲からの排除された存在として位置づけられています。それは先ほど述べた、ポッポの特殊性が問題だと私は思います。ポッポは、唯一この閉鎖せれた空間、秩父から脱出できた人間として、半ば自立した存在であるからなのです。ですから、彼は常に女性への想いというものを感じさせません。メンマが好きだったろうことはなんとなく予想は出来ますが、作品内から明確な根拠は出ませんし、小学生時みそっかすであった彼を仲間にしてくれた仁太への飽くなき敬意のようなものがあります。ポッポと仁太の関係は、ある意味で言えば、未だに続いている兄弟のような一方向的な関係性があると考えることもできます。
こうした関係性が、最終、11話で
仁太  →メンマ
ゆきあつ→↑
ポッポ ―↑
鳴子  ―↑
鶴子―――↑
全員がメンマへ向かうことになります。一度全員が一致した関係性を有することによって、今までの思い違いなど、すべてのわだかまりが浄化されます。それはメンマが成仏するという光景を全員で認知したことによる全員のカタルシスなのです。このことによって、その後、ラブホテルに連れて行かれようとしたところを見られたことが噂になり不登校になった鳴子と、受験を失敗して引きこもりになっていた仁太が再び学校へいけるようになったのです。

-死者と生者の関係性-
次に、メンマという死者、幽霊を生者はどうするのかという問題を論じていきます。
当然私たちが存在しているのは生者の世界ですから、ここには死者は存在していてはいけないのです。死者の世界がどこにあるのかという話しは私には皆目検討が着きませんからできませんけれども、生者である私たちの世界には死者は存在しません。
ところが、稀に何らかの理由で死者がこの世に留まってしまうことがあります。それらを総称してゴーストストーリーと呼んでいいと思っていますが、この作品ではその幽霊との関わり方が問題となります。
本当に物理的に存在しているのかという点に関しては、この作品はそうだということもできますし、私の主張するように共同幻想ではないかと考えることも出来ると思います。メンマが手記を通じて何かを書いたというのも、幻想だったと考えることは無理ではないと私は考えています。
この作品で問題となるのは、メンマの願いと、仁太たちからの成仏です。メンマがどうして蘇ったのかというのは、メンマの願いが原因だとこの作品では言及されています。メンマの復活は仁太たちの願いでもあったと考えることも出来ると思いますが、それは置いておいて、メンマの願いは最終場面まで謎のままです。本人さえも願いがあったことは覚えているのですが、その内容を覚えていないのです。物語はメンマの願いを叶えるということと平行して、メンマの願いを探すというラインで進められます。しかし、なかなかそれが上手くいかないなかで、生者は、死者であるメンマを恐れ、成仏しなければいけないと考えるようになります。特にゆきあつやポッポは、5話あたりから、生きている側の人間が成仏をしてメンマを返してあげなければいけないと主張するようになります。ここには一種の、メンマが仁太だけにしか見えないというジレンマも二人の心にあっての強硬手段だったとも言えます。
最後のロケット花火の打ち上げは、感動に値するラストとして描かれますが、実はメンマの願いはそれではなく、しかもメンマが成仏しないことに今までの上塗りの塗装が全て払拭されます。ここで、ロケット花火は、ある面で見れば、今までの屈折した主人公たちのわだかまりやしがらみを開放するためのモチーフとしても考えることが出来ます。実は皆メンマを思って成仏させようとしていなかったということを悟るのです。自分たちの都合のためにメンマを成仏させようとしていたことをはっきりと自覚し、それを仲間で集まってさらけ出すことによって、全てが一旦リセットされ、もう一度再構築することになるのです。
そうして、ラストのメンマの願いが叶ったことにより、メンマが誰からも見れなくなってしまって、最後に全員が見つけるという感動のシーンでは、どうして今まで仁太以外見れなかったメンマが全員に見えるようになったのかという問題があると思います。これは、それぞれのメンマへの思いが、一度壊されて、リセットされ、全員が共通した認識をしたことによって、メンマを共通して見ることが出来るように変容したと考えることが出来るのではないでしょうか。この作品は、全てを一旦解放し、そうして新しい関係性の構築がなされるようになったという、美しい物語なのです。死者への感情を、全員が共通して持つことに意味があると考えることが出来ます。

-終りに-
この作品が、まさしく震災直後に流されていたことは、当時オンタイムで見ていた人たちの心持がどのように変化したのかを考えさせられることです。死というものをどのように私たちが受け止めるのか、そこには確かに共通した認識が必要なのかも知れません。個人で死に向き合うのではなくて、何でもいいから死者を忘れようとするのではなく、生き残ったものたちで共通の認識をしなければいけないと考えることが出来ます。ドラマ性が重要視された、2011年を代表するすばらしい作品です。映画版はどのようになるのか、まったくわかりません。一旦メンマの物語は終わってしまいましたから、また願いが出来たとかいって戻ってこないといいのですが、楽しみですね。
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