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駒澤大学オータムフェスティバル オノマトペ展への御誘い

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いつも忙しいなか、多くの来訪者の皆さんの貴重なお時間を頂き有難うございます。急に冷え込むようになり、気をつけていても風邪などにかかりやすくなっていますから、お体を大事にしてください。
さて、今回は、私が所属している美術部の展示会のお知らせです。
駒澤大学、8号館2階、8-256教場にて、11月3日と4日にオノマトペ展を開催します。
両日とも、私は展示会場に居ますので、お時間の空いているかたは、是非足を運んでみてください。私はベレー帽を被っているので、よろしかったら声をかけてみてください。
展示会場の三面あるうちの一面を大々的に使用させていただきますので、小さな個展のような感じになると思います。
此の頃ブログに載せていたオノマトペへの試論は、この展示のためのオノマトペの研究成果です。少し教室が分かりにくい場所になっていますが、皆さんの来場をお待ちしております。
アクセスはこちらから
http://www.komazawa-u.ac.jp/cms/campus/c_komazawa/

ごあいさつ
このたび開催の運びとなりました「オノマトペ展」は、駒澤大学美術部の毎年の一大行事となっております。
年数回ある展覧会でも最も大きな展覧会として、歴史ある駒澤大学のオータムフェスティバルで展示させていただく機会が得られていることに感謝をいたします。

多くの大学の美術部に、その学風とでも言うような雰囲気があります。我が駒澤大学の美術部は、豊かな個性が溢れる作風と称されています。伸びやかな校風と豊かな自然に囲まれて、私たち美術部は自分の感性の赴くままに作品をつくります。
100名弱の部員を抱える美術部ですが、それぞれが小さな世界観を持ち、そうしてそれらが不協和音となるのではなく、お互いに引き出しあうように磨かれています。

本展では、オノマトペというテーマを決めることによって、直接的なモチーフでの束縛から解き放たれ、全くことなる分野でのテーマを統一しました。美術はどうしても音との関連性が弱いものですが、今回は敢えてオノマトペという音を同一のモチーフとすることによって、別次元からの統一を図ります。
今回は、駒澤大学美術部の色彩溢れる豊かな感性と、それぞれの世界観、別次元を貫くひとすじのテーマを御覧いただければ幸いです。

最後になりましたが、ご後援、ご協力、を賜りました関係者各位をはじめ、様々な支援をいただきました関係者の方々に心から感謝いたします。
主催者 

オノマトペについて
石野幽玄
装飾班長
オノマトペという、美術とは一見関係性の薄いテーマをモチーフとしたことから今回の展覧会は始まりました。美術とオノマトペという音との結びつきは一見希薄に思えますが、芸術という広い表現を考えた場合、美術も音も同じ「表現をする」ことなのです。

オノマトペは、日本語で擬態語、擬音語、擬声語と呼ばれる言葉です。「オノマトペ」の意味はそれらの概念を全て含んだ上位概念語で、極めて広域を示す言葉です。語源はフランス語で、“onomatopèe”とつづり、英語だと“onomatopoeia”で、発音はオノマトピーアになります。おおもとは古代ギリシャ語までさかのぼり、「造語すること・名前を造ること」という意味があったとされます。

擬音語・擬態語は「ものの音・声などを表した語、音のない仕草や動作を音に表した語」と定義されます。つまり、オノマトペには、その元となるものや事象に、音のあるものとないものとがある、ということが出来るのです。オノマトペの最も典型的な用法は、何かの音声や、何かの様子を表すもので、文法的に言えば副詞と呼ばれる語群の働きになります。
オノマトペが私たちと共存している意義はなんでしょうか。インド・ヨーロッパ諸言語では通常表現しにくい音、動作の様態、物事の状態などの微妙なニュアンスも、日本人なら誰でも豊富なオノマトペを用いていとも簡単にあらわすことができます。

そうした精微な表現に鍛えられた言語と、美術の融合というものを今回の展示は目指しました。オノマトペを愉しむということは、言語を愉しむということであり、芸術を愉しむことです。オノマトペは言語のなかで創造性の最も必要とされる部分です。言葉と美術との触れ合いをお楽しみください。
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オノマトペへの試論 4 オノマトペを作る

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さて、ここではオノマトペの根源的な部分に迫って行きたいと思います。オノマトペの元来の意味が、古代ギリシャ語で「造語すること・名前を造ること」という意味を持っていたということはすでに述べました。そうして、オノマトペは日本語の擬音語や擬態語を含む上位概念語です。擬音語・擬態語が「ものの音・声などを表した語、音のない仕草や動作を音に表した語」と定義されたとき、裏返して言えば、その定義に反しないように作られた言葉はオノマトペになるということです。
つまり、音のあるなしに拘わらず、その様子や動作を表すために作られた言葉はオノマトペになりうるということです。
最も典型的なオノマトペを考えたとき、例えば「カンカン」とか「トントン」と言ったものが思い浮かびます。こうした同じ言葉の繰り返しは、文法用語で「畳語(じょうご)」と呼ばれます。ただ、畳語が全てオノマトペになるかというと、A=BはB≠Aで、そうはいえません。畳語のなかには「我々」のような、単語として明確な意味をもつ言葉が存在します。これらはオノマトペではありません。ただ、オノマトペの一つの要素として、言葉の繰り返し、「畳語」があるのです。
小野正弘氏は、「畳語」について『日本語オノマトペ辞典』のはしがきで、「しらじら」を例に挙げて解説しています。その一部を引用します。
「しらじら」の語源は、いうまでもなく「白々」で、漢字で書かれる場合もあり、その時は、「白(しろ)」という言葉との結びつきが、強く感じられます。また、「夜がしらじらと明ける」の場合は、現実に闇夜がだんだん白くなっていきますから、語源との関わりも、分かりやすく思われます。しかし、「しらじらとした気分」の場合は、実際にmその場が白くなっているわけではありませんので、なにか「しらじら」が、オノマトペのような気にもなります。けれども、これをもう少し深く考えてみますと、ある場の雰囲気について、その状況を音そのものに持っているイメージを用いて表すと「しらじら」となる、というのではどうもなさそうです。
「しらじら」は普通名詞「白(しろ)」の母音が変わった形である「しら」を用いて二次的に造られた語であるということになします。
ここではっきりとすることは、その言葉に明確な意味がないものがオノマトペになりうるということではないでしょうか。「しろ」という言葉は、「白」という意味を持っていますから、「しらじら」は、様態や様子を表すために造られた言葉ではなくて、白を重ねることによって強調のために作られた言葉であったということです。

しかし、だからといって、全く意味のない言葉の羅列がオノマトペになるのかというと、それもまた違ったように思われます。「ガウェハオイウノイガオイヘイア」と適当に打ってみました。ただ、これを見て、誰もがこれはオノマトペだとは決して思わないでしょう。オノマトペは意味の不明確な言葉であっても、ある程度の規則性があるのではないかと考えることが出来ます。最も典型的な型が先ほど述べた「畳語(じょうご)」だったのです。
次に「畳語」以外のオノマトペの典型的な型を見て行きましょう。
キラン ドカーン バン ゆったり くるり ふっくら べりり ぼきん
今、思いつくままにいくつかの「畳語」以外のオノマトペを挙げてみました。どれも典型的なオノマトペといえるでしょう。これらには、よくよく観察してみると、形の上で特徴となるものを有していることに気がつきます。
すなわち「り」「っ」「ん」「ー」「ら」のような要素が、ときには最後に、ときには途中に現れるのです。この要素が、普通の語の要素に加わって、いわば、元の形をこわしてしまうと、オノマトペらしさが高まるのです。
小野氏は、オノマトペのもとがあると指摘しています。オノマトペにはオノマトペになるもとが存在するというのです。そうしてその「もと」に先ほどの「り」「っ」「ん」「ー」「ら」「畳語」等の要素が加わるとオノマトペらしくなるというのです。

例えば「ハラ」という言葉を考えた時、「ハラ」はオノマトペのもとと考えられますが、それにオノマトペの代表的な付属語を付けてみます。すなわち「り」「っ」「ん」「ー」です。すると「ハラリ」「ハラン」「ハラッ」「ハラー」となり、「ハラン」と「ハラー」はあまり見かけずオノマトペとして厳しい感じがします。今度は今つくったものにさらに一度使用した以外のオノマトペ付属語をつけてみます。オノマトペとして自然なものは「ハラリン」「ハラリッ」「ハラリー」、「ハランッ」となります。ハラ一つを考えただけでこのように多くの多岐的な変容が見られます。さらに、畳語と言って同一の単語、語根を重ねて「ハラハラ」とすることも可能ですし、そこからオノマトペ付属語をつけ「ハラハラリ」や「ハラハラッ」のようなオノマトペを作ることも可能になります。日本語には、さらに濁音と半濁音があり、オノマトペのもととなる「ハラ」の段階で「パラ」「バラ」の三種類のもとができあがるのです。これらが先ほどのように多岐的に枝分かれしていくのですから、「ハラ」をもとにしたオノマトペはかなりの量になります。

他に「きら」を考えて見ましょう。「り」をつけると「きらり」です。「きらり」だけであれば、漫画等によく表現されますが、文章のなかでは「きらり光る才能」は少し不自然です。これに「と」を付けて「きらりと輝いた」のようにすれば文章中においても使用することが可能となります。
次に「っ」を付けて「きらっ」となります。これも文章では「きらっと輝いた」か「きらっ、あそこで何かが煌いた」のようにそのまま直接使われるということではないようです。今度は「きら」の繰り返し、畳語です。「きらきら」はもっとも「きら」という言葉が使用されるオノマトペのなかでイメージしやすい言葉ではないでしょうか。「きらり」や「きらっ」と比べると、いくぶん「きら」と光輝く様が継続しているように思えます。「きらり」と「きらっ」も、「きらり」のほうがスピードが緩やかな感じがします。これは個人差があるものですから一概にはいえませんが、どうやらオノマトペの造り方によって、少しずつ意味が異なるようにも感じられます。
「きらきら」の場合は、「きらきら輝いていた」と「きらきらと輝いていた」の差異は明確にあらわすことができません。どちらも文章としてなりたちますし、その差異はほとんどないようにも思われます。小野氏は、「きらきら」のほうが、より目の前で起こっているような臨場感があるのではと指摘しています。
次に「ん」を付けて「きらん」とします。この言い方は可能でしょうか。絶対に使用してはいけないということはできませんが、あまり聞かないオノマトペであることに変わりはありません。ちなみに「らん」で終わるオノマトペのいくつかを挙げてみますと、
からん がらん じゃらん だらん ぶらん ぷらん ばらん ぱらん
等が挙げられます。これらを眺めてみますと、ずっと続く状態であったり、なにか、ある種の余韻が残るようなものであったりと感じることが出来ます。「ぶらんと腕がさがった」「ネジが落ちて、からんと音を立てた」のような例を挙げて考えて見ますと、その様子が確認できます。「きらん」を使用するとすれば、何かか輝きが余韻を持つような効果をだしたいようなときに、ということになりそうです。
夜空に瞬く星々は「きらきら」が一番あっているように思われます。「きらり」宝石が輝くように、「きらっ」は何か刃物などが光にあたってその光を反射した際に、「きらん」は流れ星が流れていくさまなどに使用できるのではないでしょうか。もう一つの例にあげた「ハラ」も同様に、少しずつ同じオノマトペのもとを使用していても、その言葉を変化させる「り」「っ」「ん」「ー」等の言葉によって、少しずつ意味が異なってくるようだということがわかります。
「きらん」を考察すると、現在ではあまり聞かない言い方でも、絶対にいえないのではなく、潜在的には言いうるが、言う習慣がないだけであるというオノマトペは、数多く存在するように思われます。通常では使われないからといって、使ってはいけないということはないのです。「ら」を付けてみますと、「きらら」となります。これはあまり使用されないと思われますが、意外と名詞として使用されている例が多く存在しました。
「きららと光輝く」という言葉の使われかたこそあまりされませんが、固有名詞として、お米や、病院、各施設等の名称に使われているのです。これは「きらら」の言葉のもつイメージが大きな影響を持っているからだと考えることが出来ます。なにか澄んだ輝きのイメージというものが、この言葉からは感じられます。
こうしたことからも、オノマトペの重要性が窺えるのではないでしょうか。
次に日本語の特徴でもある、濁音、半濁音を付加してみましょう。「きら」の場合は濁音しか造れません。「ぎら」としてみると、それだけで「きら」との明らかな差異が出て来たのではないでしょうか。先ほどの例に従って「ぎらり」「ぎらっ」「ぎらぎら」、どれも清音のものよりも、強さや迫力がある光を感じます。例えば少女マンガの登場人物の目が光るときは「きらっ」かもしれませんが、戦闘漫画の敵のキャラの目が光る際は「ぎらっ」でしょう。このように、オノマトペのもと+オノマトペ的要素+清音・濁音・半濁音のように、ひとつのオノマトペのもとからいくらでも分岐がなされていることがわかります。

こうしたオノマトペのもと、+オノマトペ的要素+清音・濁音・半濁音が、日本語のオノマトペ表現を豊かにしているといえるでしょう。英語では、この接尾語はあまりみられませんが、かわりにオノマトペの要素としての接頭語の存在が認められます。ただ、オノマトペのもととなる言葉が少ないこともあり、日本語がいかに豊かなオノマトペ言語であるかが伺いしれます。
また漫画表現などにおいて、オノマトペはさらに変化を遂げます。それは表記方法です。そのことは後で詳しく述べますが、ひとまずここでは、ひらがなに加え、カタカナに変化させるだけでも、また少し印象が変わってくるということを指摘しておきます。「きらっ」と「キラッ」では、その言葉が指す内容に何かしらの変化があるように思われます。

オノマトペへの試論 3 オノマトペの定義・擬音語・擬態語からの視点

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ここでは『日本語オノマトペ辞典』のはしがきの部分を参考にオノマトペについて考えて見ます。オノマトペの定義はさまざまできますが、ここではオノマトペを別の観点からみます。オノマトペは擬音語・擬態語の上位概念後となります。ですから、擬音語・擬態語の定義からみると、より具体的な部分の定義が出来るようになります。
擬音語・擬態語というものの定義は、ものの音・声などを表した語、音のない仕草や動作を音に表した語、のように定義されます。つまり、オノマトペには、その元となるものや事象に、音のあるものとないものとがある、ということになります。
音のあるほうから考えていきます。
ニャーオ(猫の鳴き声)
ワンワン(犬の鳴き声)
コケコッコー(鶏の鳴き声)
ゴーン(鐘をつく音)
トントン(肩をたたく音)
カチカチ(ボールペンをノックする音)
これらの音や声は、人間が口やのどなどの発声器官を用いて出しているものとは異なります。つまり、「あめ」や「そら」という音は、人間が日本語を用いて口の開け方や舌の位置、のどの絞り方などを巧みに組み合わせてだしているものです。
ここでの猫の鳴き声は、猫が人間と同じ発声器官を使って「ニャ」と発音しているわけではないのです。それとは反対に、私たち人間が人間の発声器官を用いて猫の鳴き声に近似的な「ニャーオ」という音の模写をしているわけです。
ゴーンのような鐘の音のほうがより分かりやすいでしょう。ゴーンは間違いなく発声器官など用いられてはいないのですから。本来言葉では表現できない音をなんとか形にしよとしたものがゴーンなのです。そうしてそのように定型化されたオノマトペは文化的に広まり、根付きます。日本語では犬の鳴き声は「ワンワン」ですが、外国では「バウワウ」であったり「サンサン」であったりするのです。
ここで一つ言えることは、これらのオノマトペは人間の発声器官以外から出た音を、人間の声で表現したもので、さらにそれは言語ごとに表現の仕方が決まっているということなのです。また反対から考えて、日本語では猫は「ニャーオ」、鐘は「ゴーン」と教えられることによってそのように聞こえるようにもなるのです。よく動物が人間の言葉を喋るという映像が流されることがありますが、大抵テロップがありそれに紛らわされてしまいます。あのような動画を見る際に、テロップをみずに音だけで聞いてみると、そんなこと言っているようにはとても思えないのです。
ですから、鐘の音がゴーンと表されることを知らなければ、鐘の音を聞かしてどのように聞こえたか発音してみてと言うと全く別のオノマトペを使う可能性もあるのです。
話がずれましたが、オノマトペ一つ目の定義は、人間の発音器官以外から出た音を表現した言葉です。

人間の発声器官以外から出たものがオノマトペになると今定義しました。そうすると人間の発声器官から発音されたものはオノマトペではないのでしょうか。例えば感動詞、「おい」「はい」「やあ」などのひとつひとつの音に分解できる言葉はオノマトペにはなりません。ですが一つ一つに分解されない、
ワーン(泣き声)
オギャーオギャー(赤ん坊の泣き声)
ウーム(考え込むときの声)
ガヤガヤ(多くの人の話し声)
のようなものはどうでしょうか。
声をあげてなく赤ん坊は「オ」「ギ」「ャ」「ー」をひとつづつ分解して泣くことができるでしょうか。考えてみてください。そうして今ウームと考えたなら、それは「ウ」を伸ばしたあとに「ム」といい納めているか確かめてください。これらの言葉は表記上分割できたとしても、それを表記の通りに発音しているわけではないということがわかります。このようなひとつひとつの音に分解できない音声を、人間の声の範囲内で社会的にある一定の言い方に決めたものもオノマトペなのです。
二つ目のオノマトペの定義は人間の発声器官から出した音声でひとつひとつの音に分解できない音を表した言葉になります。

次に漫画などでよく見られる実際に音声としては成り立たないものや、現実には音など出ていないのに、それを音にあらわしたものを見ましょう。
きらっ(ものが光るさま)
ひらひら(はなびらが舞うさま)
バーン(迫力をもって登場するさま)
たらっ(冷や汗が出るさま)
ガーン(感動したり、衝撃を受けるさま)
ぎくり(動揺するさま)
これらの語が表す場面では、上のような音は実際には出ません。テレビドラマなどで、「ガーン」と聞こえる効果音を流すことがありますが、これは文字を使ってオノマトペを書き表せない映像媒体がその変わりとして為した変則的なものであると考えたほうが良いでしょう。これらは従来擬態語と呼ばれてきたものです。事物の容態を表すという意味からきていて、さらに下位分類して「きらっ」「ひらひら」「ぶるぶる」のような擬容語、「たらっ」「ガーン」「ぎるり」のような擬情語のように分けることも可能です。(ただ、厳密には判別不可能なものが多々あります。)
例外は置いておいて、第三のオノマトペの定義は音のないもの、または聞こえないものに対してその状態をある音そのものが持つ感覚で表現した言葉ということになります。
ただ、『日本語オノマトペ辞典』の編纂者である小野氏も述べているように、オノマトペと通常の言葉との差異はもっとも難しくやっかいな問題になるのです。「ざあざあ水を浴びている」は音を伴ったオノマトペであるのかとか、「ピカリ」という言葉。「ひかり」はハ行の言葉ですが、は行は今から千三百年前、奈良時代にはぱ音でした。ですから現在使われている「ぴかり」をつきつめて考えていくと、本当に手放しでオノマトペだといえなくなってくるのです。

オノマトペへの試論 2 言葉におけるオノマトペの存在~実例にみるオノマトペの使用

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言葉におけるオノマトペの存在
私たちが言語活動を行う上であまり重要視されないものの、なくては絶対に困るものがオノマトペの存在です。オノマトペは、日本語では擬態語、擬音語、擬声語のように訳されます。オノマトペの意味はそれらの概念を全て含んだ上位概念語で、極めて広域を示す言葉です。語源はフランス語で、onomatopèeとつづり、英語だとonomatopoeiaで、発音はオノマトピーアのような感じになります。おおもとは古代ギリシャ語までさかのぼり、「造語すること・名前を造ること」という意味があったとされます。
擬音語・擬態語というものの定義は「ものの音・声などを表した語、音のない仕草や動作を音に表した語」のように定義されます。つまり、オノマトペには、その元となるものや事象に、音のあるものとないものとがある、ということが出来るのです。オノマトペの最も典型的な用法は、何かの音声や、何かの様子を表すもので、文法的に言えば副詞と呼ばれる語群の働きになります。
このような性質を持つオノマトペ。一般的に言葉としての重要性はあまり感じられていないのが現状です。それはオノマトペが言葉の研究分野においても極めて研究事例が少ないことにも如実に表れています。オノマトペが軽視される理由を、その使用方法から考えたのが「日本語の書きことば・話しことばにおけるオノマトペの分布について―ローレンス・スコウラップ」です。他にも同じような指摘がオノマトペ研究者にされていますが、オノマトペが軽視される理由は、その殆どが幼稚語として使用されているというバイアスが非常に強いからだということになります。
「オノマトペ《擬音語・擬態語》をいかす クオリアの言語心理学」では、オノマトペの分布を研究した資料が多く、それらの結論からいうと、教育現場でオノマトペが使用される割合は実は通常の生活とそんなにかわらないということが明らかにされています。新聞、特にスポーツ新聞がオノマトペの使用が多いのではという視点から考察が始まっていますが、見出し語などの多くの注目を受ける箇所の使用は認められるものの、それ以外ではあまり見られません。他に教育現場での使用法なども紹介されており、オノマトペの教育的効果の実例があげられています。
オノマトペはイメージを最も明確に、的確に、単純に伝える言葉として、かなりの効果があることが示されています。小学生の運動測定で、握力と幅跳びの記録の際に、「ぎゅーと握る」とか「ぴょーんと跳ぶ」という言葉を説明として与えられた生徒のほうが記録が断然によいことが実験データからわかっています。ミスターこと長嶋茂雄がオノマトペの卓越した術者であったことは広くしられていることでしょう。ある人はそれでは全くわからないと言い、ある人はなるほどわかったといいます。ミスターのオノマトペはけっして普遍的で誰もがわかる使用方法ではなかったのだろうと思われますが、それでもある程度の人数に対してはいくら論理的に言葉を連ねて説明しても分からないものをすんなりと納得させたということになるのではないでしょうか。

『日本語オノマトペ辞典』(小学館)を編纂した小野正弘氏は著書『オノマトペがあるから日本語は楽しい』と辞典のはしがきでも触れていますが、オノマトペは千以上の言葉を連ねても伝わりにくいことをすんなりと納得させる効果があると述べています。
この「すんなり」もオノマトペに這入りますが、この「すんなり」をオノマトペを使用しないで説明せよといわれると、私もかなり窮することになります。詰っていたものが突然受け入れられることとでも言いましょうか。「すんなり」を考えたとき、「すっと」や「すっかり」を連想します。小野氏ははしがきで「すっかり」を説明するとどうなるだろうかと、オノマトペの効用を使用しないという条件をつけることによって説明しています。
言語において、まだあまり獲得語彙の少ない低年齢の子どもたちに対して何かを説明する際、あるいは大人であっても新しい概念の説明をする際など、オノマトペは非常に有効的な記号となります。
特に身体の動かし方では、その効果は最も発揮されるのでしょう。明確なイメージ、筋肉の動かし方やタイミングなどはいくらことばをつくしたところで頭で理解することはできても、身体で実感することはできないでしょう。その言葉の壁を乗りこえらられる一種言葉から離れた存在としてオノマトペは存在しているのではないでしょうか。オノマトペがそうした言葉では説明できない概念やイメージを伝達できるという側面がオノマトペを言葉から遠ざけているのかも知れません。
スイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールの記号論によれば、記号とはシニフィアン(音の連鎖。「記号表現」「能記」)とシニフィエ(言葉の意味、すなわち概念。「記号内容」「所記」)が表裏一体となって結びついたものであり、音の連鎖(シニフィアン)と音の連鎖の表す概念(シニフィエ)の結びつき方は恣意的なものであるとしています。そのことをオノマトペに当てはめてみると、オノマトペ例えば「すっかり」という言葉は、一体何を指し示すのか明確に意味を応えられません。そのことが、言語学、記号学的に低評価を受ける原因となったのではないでしょうか。意味との結びつきがあまりに脆弱であるために、広域な使われ方をしますが、正確性の面においては一難あるため、学術書など正確性の求められる場面では使用されることがないのです。
学術書や判例など、公式な文書にはオノマトペは完全に排除されているのはそのためです。そうしてそういう場面で使用されず、もっぱら口語や、幼稚との会話においての使用が目立つためにオノマトペは低い評価を受け続けてきました。しかし、オノマトペがなければ私たちは既に会話を成立させることが出来ません。オノマトペは極めて特殊な言語形態ですが、その重要性は計り知れないのです。

実例にみるオノマトペの使用
オノマトペが最も使用されるのは、主に言葉を用いた作品上のこと。オノマトペはその多様性とイメージ喚起力の鋭さから多くのメディア媒体に喜ばれ受け入れられています。例えば文学作品を見てみましょう。
オノマトペ研究者であれば誰もが注目する川端康成の『伊豆の踊子』。大正一年(1926)の作品です。
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出したかと思ふと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛下りさうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでゐる。手拭もない真裸だ。それが踊子だつた。若桐のやうに足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうつと深い息を吐いてから、ことこと笑つた。子供なんだ。
踊子という職業が当時どのような身分であったのか、それは作品からも窺えます。冒頭の茶屋の老婆も、あのような旅芸人はどこへでも泊まるような連中だと卑下し、或いは町の看板で旅芸人の入ることを禁ずるようなものも描写されています。踊子が性的なサービスもしているのではないかともんもんとする主人公が、踊子が子どもであったことを知り、今までの悩みからふと解放される一つのカタルシスの場面ですが、そこでカタルシスを感じた主人公は「ことこと」と笑うのです。
ことこと笑うという表現は、誰も明確に言葉にして表現することはできませんが、この作品のなかで彩色を放った言葉であると同時に、主人公のカタルシスをあらわす重要な表現となっています。笑いに使用されるオノマトペは
くすくす くつくつ けたけた けらけら げらげら ころころ からから がはがは げたげた いひひ うふふ わっはっは わはは あはは がはは うふっ あはっ くすっ えへっ にっ にこっ にたっ にたー にやっ ふにゃ くすり くすくす にこり にたり にやり にこにこ にやにや いひいひ ぐはは ぬはは あはあは へらへら うひゃひゃ うひょひょ うはうは げへへ
などどあげればきりがありませんが、このどれをとっても、「ことこと」に会うものはありません。時と場合により、以下の笑いが適用されることはいくらあっても、主人公の悩みから解放されてはっとカタルシスを感じたときの笑いは「ことこと」でなくてはいけないのです。その「ことこと」を使用した川端は、やはりノーベル文学賞を取るに値する人物であったということなのでしょう。
このようにオノマトペは非常に繊細な芸術の世界においても重要な働きをします。一瞬で全てのイメージを鮮やかに提示し、或いはオノマトペの使用方法が下手であれば、何とも陳腐な作品となってしまうことでしょう。オノマトペはいままで低級な言葉として考えらてきましたが、一流の芸術にも使用されるということを理解してください。

何もオノマトペは文学作品のなかだけで使用されるわけではありません。日本が世界に誇る漫画文化は、誰もが知るところでしょう。そこではオノマトペの天国とでも言うべき場所で、種主多様なオノマトペが存在し、その影響力は他のメディアを侵略する如き勢いです。漫画表現におけるオノマトペは四方田犬彦氏の『漫画原論』で詳しく触れられています。
氏は「当初、オノマトペは自然界に存在する音声、事物どうしが衝突してたてる音声を素朴に表象したものと考えられてきた。だが、今日ではそれは単に音声素(フオネーム)に還元されない、非音声論的な意義を担おうとしている。たとえば英語におけるpfffのように、文字表記としては可能だが、けっして人間の口では発音することのできないオノマトペの場合、pとfという子音の結合を超えた地点で、より緊急な閉鎖感が醸し出されることになる。~こうした事態を考えたとき、オノマトペを現実音の単純なる模写と見なすことが誤りであることが判明する。」と述べています。
氏はさらに漫画におけるオノマトペの歴史的変遷や、オノマトペ自体の表象性についても触れています。簡単に要約すると、当初オノマトペはそのまま音声の模写としての存在していましたが、次第にオノマトペ自体が主張を強めるに至ったというのです。手塚治虫の漫画では、最も基本的な音写としてのオノマトペの使用がされますが、時代とともに、上に挙げたように、人間の発音器官では発音できないようなオノマトペが登場します。
全国共通のような記号も存在し、例えば眠りの記号である「zzz・・・」という記号は、もともといびきの音写であったろうことは予測できますが、眠っている人間がずずずという音を立て続けることは不自然です。この表記はさらに、人間の発音器官から出ているという概念から離れ、多く眠っている存在の周りに浮かぶように表記されます。もし人間の発音器官から発音されたものであれば吹き出し、バルーンの内側に描かれることになります。こうした点からもオノマトペが独自の記号として漫画の内部において成長していることがわかるのです。
日本のオノマトペの豊かさの象徴として、氏は大友克弘の「AKIRA」を用いて英訳された漫画との対比をしています。ここでは「ドカン」という爆発の場面で、英語に翻訳された場合は「BLOOM」となっている点が指摘されています。ただ、私は諸外国の言語に翻訳された昨今の漫画においては、しばしば日本語のオノマトペがそのまま登場している場面を目にします。これは日本語のオノマトペに該当するオノマトペがその言語において存在しないことを表しているのです。こうしたことが日本語のオノマトペの種類の豊かさを証明していますし、オノマトペが言語的、文化的にも異なった存在であることがわかるのです。
漫画におけるオノマトペの存在の変容は次第に物理的存在としての側面を見せます。当然漫画のなかにおけるオノマトペは漫画の内部の何かの音を表すものとされてきました。しかし、その性質さえ乗り越えて、一つの物理的な存在にまで変容するというのがオノマトペの強さであり、メディアへの暴力であり、面白みでもあるのです。氏は赤塚不二夫の『おそ松くん』を例に挙げて論じています。大声を出す泥棒が声を武器に追ってくる老人に攻撃します。しかし、耳の遠い老人はその泥棒の「ワー」という声をもろともせず泥棒を追いかけるのです。その際、岩の様な硬質な材質で表現されていた「ワー」がぼろぼろと崩壊していきます。「ワー」はすでに音を表記しただけの存在ではなく、物理的な存在としての頭角を現しはじめたのです。
漫画という二次元の世界において、そこに描かれているものは、記号学的に言えば線だけです。実に平面的で全く動きのない紙面上で、線のみによって、動きが生まれ立体的な存在がうまれ、まるでいまそこで何かが起こっているかのごとく私たちを惑わすのです。そうしてその一端を担っているのがオノマトペです。本来ただの紙ですから音などないはずですが、私たちが漫画を読む際には、音が溢れてくるような錯覚まで受けるのは一重にこのオノマトペの豊かな種類とそれ自体を多様にせしめる文字表記の様態、フォントの種類のためなのです。
 
漫画を最上の本拠として数十年の間に飛躍的に成長したオノマトペはその後、インターネットにもその住処を見出します。例えば2ちゃんねるでは、「www」のようなもはや発音不可能な表記が見られます。さらに誰もが発信できる自由な世界となっために、それまではかなりの進歩をしたといっても漫画家による一方的な提示だったものが、誰もが作りうるものへと進化しました。そのためインターネット上でのオノマトペはもはや弁別不可能なレベルにまで達しているといっても良いでしょう。そこには単に言葉だけではなく、様々な記号も入ってきて、メディアミックスのような展開とした新しいオノマトペが存在しているのです。
ネット上でのオノマトペはあまりに変則的で、その流動もはやすぎることから論理的な試論はもはや不可能であると研究者たちもさじをなげています。そうして今のオノマトペを見ていくことも体系的には無理があると思われますので、ネット上でのオノマトペへの言及はこのあたりにとどめておきたいと思います。
ただ、ネットのような誰もが発言できる場所でオノマトペがこのように爆発的に増大した理由は一体どうしてなのでしょうか。それはオノマトペの性質の根源にその秘密が隠されているのではないでしょうか。先ほどオノマトペは造語することと述べました。元々音の模写であったオノマトペは、いわば言葉のデッサンのようなもの。それが誰にでも出来る時代となったために、一気にオノマトペが発達したのではないでしょうか。次にオノマトペの根源を巡る部分を論じましょう。

オノマトペへの試論 1 他者との理解~言葉を用いることの意味

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他者との理解
私たちが生きていくうえで、重要になるのは他者との理解です。「人は一人では生きられない」という命題は、あらゆる分野の学問においてすでに立証されていると私は思います。他者との理解。私の究極的な命題はこれに尽きると思っています。
例えば学問をとってみましょう。理数系の学問は我々人類が住む地球、宇宙この世界の神秘を何とか人間が理解できるように説明しようという試みではないでしょうか。人文系の学問はその言葉がすでに人と文という文字で表されているように、人の内面を理解しようとする学問です。理数系は我々の外に存在する宇宙へ、人文系は我々の内部に存在する宇宙へと視野が向けられているだけであって、学問をすることは私たち人類を理解しようという根源的なテーマにかかってくることなのです。
芸術も同じことです。芸術は私たち内面の宇宙、形のない情念、流動的なエナジーのようなものに、人類が考えうる全ての感情、理性をもって形を与えてこの世界に表出するという行為にほかなりません。芸術全般は、自分の中にある形のないものに形を与えて、そうしてそれを媒体とすることによって他者との理解を深めようという欲求によりおこることなのです。ですから、何かしら人の手によって作り出された、或いは生み出されたものはそこにそれぞれの想いが込められています。私はそれを物語だといいますが、その表出された物語が、人の感情や理性というものを通り越して、人そのものの理解へと繋がるのです。
人が人とコミュニケーションをとる。全てはそこから始まるのです。動物は人のように脳が大きくありませんから、言葉という極めて高度な記号を用いて意思を通じることは出来ません。イルカや類人猿のようないわゆる高知能な生物になると、独自のコミュニケーションツールを有するようになります。それは身体の動作を踏まえた意思表示であったり、超音波であったりするわけです。
私たち人類の最も偉大な発明は何か、それは紛れもなく言葉です。「はじめに言葉ありき」と旧約聖書にもあるように、私たち人類は言葉を用いることによって、他の生物にはない極めて高度な意思疎通がはかれるのです。
言葉以外の意思疎通の媒体は上で簡単に述べました。言葉を使った意思疎通はどのように展開されるのかを見て行きましょう。ごく簡単に言語の歴史を振り返りますと、何かを指し示してそれにある言葉を与えました。ある言葉はそのものを示す記号として存在したのです。それが徐々に高度化してくると、一つの言葉に二つ以上の意味が込められたりするようになります。そうして言葉とモノとの一対一の世界から解き放たれて大変多義的な世界に広がりました。外界に存在する以外のものにも言葉が与えられるようにもなります。それは感情など、人間の内面や、あるいは形のない概念・思想などです。それらの言葉がある程度成熟したときに、それを何とか残しておかなければならないということになり、文字が発明されます。その文字の発明によりさらに高度な記号が次々と編み出され、言葉という人類最強の武器が出来上がるのです。
こうした高度な記号を通じて、私たち人間は他の人間との意思疎通をはかります。そこには愛の言葉が生まれたり、或いは人を傷つけるための言葉も生まれます。そうした言葉を通じて、或いはその他全ての記号と通じて、私たちは結局他者との理解を行おうとしているのです。もし、そこに何かしらの障害が生じると、それは何らかの病気や精神障害となって、他者との理解ができなくなってしまいます。少年院に入る子どもたちは言葉の数が非常に貧しいといわれます。他者との理解をするための言葉があまりに少ないのです。だから自分の伝えたいことも伝えられず、また他者のことも理解できないのです。そうした理解できないという不安やもどかしさから、行為で自分の感情を伝える、表現するという方法しかとれなくなってしまうのではないでしょうか。
私たちが生きるということは、他者との理解を目指すことであり、その理解の媒体としてその人にあった記号を習得していくことではないでしょうか。ある人は言葉に注目し、言葉を鍛錬して他者を理解しようとする。ある人は芸術に注目し自分の感情を例えば絵の具で、例えば音階にあわせて表象し、そうして他の人の表象された作品を通じて他者を理解しようとしているのです。私たち人間が生きるということは、他者を理解しようとする行為そのものなのです。

言葉を用いることの意味
言葉を用いるとは一体どういう意味を持つのでしょうか。基本的な文字媒体である本と、人間の思考という側面からその本質に迫って行きたいと思います。
言葉を用いることは誰もが行うことですが、それを何かしらに記憶しておかなければなりません。私たちの言葉という記号が高度になればなるほど、それは多用になり難しいものとなります。そうしたものを覚えているために言葉が生まれ、その言葉をとどめておくための最も基本的な媒体が言葉の集積箱、本ということになるのです。
本を読むということは文字を読むということです。その文字は言葉です。従って本を読むということは言葉を読むということです。「読む」とは言葉と言葉の関係を組み立てながら、そこに描かれている情景や様子、感情や考えなどを自分でイメージしていく行為です。そこに何が描かれていたのかを理解できたときに、その本を読めたと言うことが出来ますし、その本に書かれてある人の感情を理解することが出来るのです。
また、理解と同時に、私たちは新しい言葉に接します。話し言葉が文字になり、その文字が書き言葉として作られたのが本です。その本を読むということは、言葉の獲得をも意味するのです。そうして多くの言葉を獲得することは、多くのことを理解することと同じになります。読書が好きな人もまた、他者を理解することが好きであるということになるのです。
言葉を獲得するとどうなるのでしょうか。多くの言葉を獲得すること、必要最低限の言葉しか獲得しないことと一体何の差があるというのでしょう。最も明白なことは、多くの言葉を獲得していると、コミュニケーションが豊かになるということです。上で少年院に送られる子どもの言葉の獲得数の少なさを指摘しました。では反対に言葉を多く獲得するとどのような利点があるのでしょう。
三重苦の中から立ち直り、奇跡の人と呼ばれたヘレン・ケラーはこのように言っています。「物には名前がある。言葉の獲得は、人生を豊かにする」眼も耳も不自由ななかで、多くの言葉を獲得し、感情溢れる豊かな人となった彼女は、まさしく言葉による力によってすくわれた人でもあり、真に言葉によって人に感情を伝えることが出来た人でした。
言葉を自分の表象手段として扱う人間のなかで、その最たるものが小説家や詩人、評論化などでしょう。彼らは言葉を通じて他者との理解を図ろうと苦心する人間です。時には言葉が全くの無力であることを感じて絶望したりしながら、それでも一縷の奇跡を信じて言葉を使わずには居られない人々なのです。
外国語を学ぶ意義もここにあるのではないでしょうか。日本という島国では、他文化、他宗教、他言語との関係が良くも悪くも遠い存在になっています。よいこととしては、他の存在に介入されることなく、独自の文化や言語を発達し、極めて高度な文化体形を有するになったことでしょう。その証拠として、日本語が難しいと言われるのです。それだけ高度な言語を使いこなす民族であるということは、それだけ高度な意思疎通をはかることが出来るということにもなります。
負の面としては、他の存在とあまりにも離れすぎたために他者理解が難しくなっていることでしょうか。外国人が日本の言葉、文化、思想などを容易く理解できないように、私たちもまた外国の文化、言語、宗教などの理解に多くの労力を要します。外国語を学ぶことは、自分たちとは異なった文化、宗教、人類を理解しようとする行為なのです。全く自分たちとは異質なものを理解したい。怖れて忌避するのではなく、好奇心、知的探究心をもって、他者を理解しようという根源的な欲求に突き動かされている、純粋な行為なのです。
さて、そのように多くの言葉を獲得する意義はなんでしょう。想像力と思考力という側面から理解してみましょう。
想像力とは、目の前にないものを視覚的に頭に思い浮かべる力で、思考力とは抽象的な言葉を通じて、意味や内容を考えることです。想像力と思考力は共通の行為で、それはそれらの基盤になるのが言葉だからなのです。想像力と思考力はそれぞれ関連していて互いに育つものなのです。
この想像力、思考力は現実の世界で先を予想して計画を立てたり、様々な人とのコミュニケーションをとったりする上で必要な力になり、それらは言葉の獲得、読書や人との会話によって育成されるのです。

オノマトペの概論・作り方 レジュメ

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オノマトペのレジュメを載せておきます。オノマトペの概論から、その作り方までは極めて端的にまとめたものですから、説明がないとわかりにくい部分が多々あります。説明文は近日上げますので、しばしお待ちを。美術部諸君に、オータムで作品の名前をつける際の一つのめじるしとしてお使いください。

オノマトペとは
擬音語・擬態語などと呼ばれてきた言葉の総称。「オノマトペ」というカタカナ言葉そのものの語源はフランス語で、onomatopèeとつづる。英語だとonomatopoeiaで、発音はオノマトピーアのような感じになる。おおもとは古代ギリシャ語までさかのぼり、「造語すること・名前を造ること」という意味があったとされる。
擬音語・擬態語というものの定義は、ものの音・声などを表した語、音のない仕草や動作を音に表した語、のように定義される。つまり、オノマトペには、その元となるものや事象に、音のあるものとないものとがある、ということが出来る。
オノマトペの最も典型的な用法は、何かの音声や、何かの様子を表すもので、文法的に言えば副詞と呼ばれる語群の働きになる。

オノマトペの三つの基準
・人間の発声器官以外から出た音を表した言葉
例 ニャーオ ゴーン ワンワン コケコッコー トントン カチカチ
・人間の発声器官から出した音声で、ひとつひとつの音に分解できない音を表した言葉
例 オギャーオギャー ワーン ウーム ガヤガヤ 
悪い例 おい やあ はい
・音のないもの、または聞こえないものに対して、その状況をある音そのものが持つ感覚で表現した言葉
 例 きらっ ひらひら バーン たらっ ぎくり

オノマトペの要素から、オノマトペを作る
典型的なオノマトペを考えていくと、形の上で特徴があることがわかる。
「り」「っ」「ん」「ー」「ら」のような要素が、時には最後に、時には途中に現れる。また畳語も要素の一つである。それぞれの性質を大まかに見る。
「り」音や動作・状況などをひとまとまりのものとして表現する
「っ」音や動作・状況などがあるところで瞬間的な区切りが付くということを表現する
「ん」音や動作・状況などがとりあえず終わりはするが、その結果が残存したり、余韻が残るということを表現する
「ー」音や動作・状況などがある程度続くことを表現する
畳語は音や動作・状況が継続したり繰り返されたりしていることを表現する
以上の「り」「っ」「ん」「ー」の関係を、その相互の結びつき方に注目してまとめると、表のようになる。
「ら」は古いオノマトペに使用されることが多く、変則的であるため割愛する。
オノマトペのもとを根本にすえて、このような整然とした造語が行われている。
オノマトペの命は生き生きとした表現が魅力、そのたのしみを得られればよい。

多義性を求める意義

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どうして人は多義性を求めるのでしょうか。ことに私の専門とする文学の道においては、多義的な解釈ができることを、尊ぶ傾向があります。ソシュールの記号学によれば、記号は恣意的な意味を有するはずです。当然作者が恣意的な記号として言葉をつむぎだしたとすれば、そこに何かしらの意味がやどるのは必然です。そうした人間の思いがつまっているものであれば、なおさら一義的なほうが我々にはわかりやすいし、だれもがそのほうが喜ばしいことのようにも思えます。しかし、学問の道においては、多義的な解釈ができるテクストのほうが深みのあるテクストだとして尊重されるのです。
私は、教職を学んでいるという立場がら、教育に関する本をいくらか読みます。先日読んだ「藤掛明著『非行カウンセリング 背伸びと行動化を行う心理臨床』金剛出版・2002」に多義性を巡る新しい視点が書かれていたのを発見し、大いに感動しました。その一文を載せます。
P125「ふつう私たちは一義性の世界に住んでいます。さまざまな現象や行動には、いくつもの意味が幾十にも重なって存在していますが、たいていはそのなかの一つふたつの意味をとりあえず見繕って決めることで納得しているのです。しかし、心の問題を考える場合には多義性の世界に身を置かなければなりません。いくつもの同時に存在している意味の中から、今、背伸びを和らげ、希望を持てる意味を探し、くみ出す作業をしていくことが必要になるのです。~多義性の世界に身を置き、肯定的な新しい意味を探すようになると、「比喩」の力の偉大さに気づくようになります。この比喩は、立ち止まって自分を直視したら絶望しかないと思っている少年にも、「現実」ではない話ですから余裕を持たせます。比喩であれば立ち止まることも、洞察することもそれほど怖いものではないのです。」
非行を考える上で、藤掛氏は非行を行う人間は一つのあまりに強固な観念に脅かされているのではという視点をもっています。一つの価値しかない世界で、ずっとがんばりつづけてしまう。だからストレスが生じてもその価値のなかで自分が上手くできないと、余計に頑張ろうとして、ストレスの発散場所を失ってしまうというのです。

一義性を私たちは求めるかもしれません。それは歴史が多くを語っています。世界の宗教を見てみたらよいでしょう。キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教、これらの宗教は一神教です。そうして残念なことではありますが、世界の戦争の3分の1は宗教を巡る戦争であるということは明らかになっています。
仏教はそれに比べて多義的な世界であると言うことができます。だから他の宗教より優れているということではありません。宗教に優劣はありません。そうではなくて、多義的であるからこそ、心に余裕をもつことができると考えることができるのです。八百万の神のおはします私たちの国日本では、その文字の示すとおりに、八百万にも及ぶ神様が存在しています。当然偉いのはだれだれと決めていく必要もなくなるわけです。そうしたなかで、この神を祀って戦争だということは殆どおこなわれてきませんでした。私たちの神もあれば、たしかに彼等にも神はあるよねという多義性が生まれるからだと私は考えています。
話が少しそれましたが、非行の少年は実に一義的な世界で生きているのです。一義性の世界は確かに魅力的です。やはり宗教がそれを教えてくれます。実にあやふやで、曖昧な世界ですから、私たちは一体なにを指標にして生きていけばよいのかわからなくなります。自分たちの行っていることが正しいのかも実際よくわかっていないのです。ですから、明確な指標、我々の目標となる存在が必要になります。最上のカリスマ性を有している存在はいうまでもなく、一神教の神さまなのです。それが存在するかどうかは別問題として、それを信じる信者にとっては唯一無二の存在になるわけで、その人のアイデンティティーにもなってきます。
そうした神を否定されるとどうなるか、戦争です。同じことが非行少年にも言えます。自分の内面があまりに不安定なのです。自分の弱さを認めることができないから、それを隠そうと必死になって、例えば日本であれば学歴社会の中で自分の地位を築こうとします。あるいは弱いものをいじめて、他者との関係性において優位に立とうとするのかもしれません。或いはタバコや薬をやって、社会的に認められないこと、犯罪などをおかすことによって、己の強さをアピールしたり、他者への影響力を自分で知るほかにないのです。彼らは実に一義的な世界で生きているのです。

巡って、私の専門とする学問の世界に戻ってきます。多義性を尊ぶ文学世界。一義的な作品ではなぜいけないのでしょうか。やはり一義的な作品では、100人が読んで100人とも同じ読みしかできないのです。それは作品というよりは、ある思想を教えるための伝道書のような存在になってくるのかもしれません。
夏目漱石がどうしてこれだけ多義的な作品を書いたのか、それはすでに彼が多義性の重要さを感得していたからかも知れません。どちらにも取れる、両義性からさらにもう一段階、第3の選択肢、第4の選択肢まで考えることのできる余裕を有しているのです。テクストの空白と文学用語では呼びますが、その空白が多いのです。これは日本の美学にも通じてくると思います。
美というのは当然宗教との関連性が強いものです。水墨画にしろ、中国の哲学の思想が反映されていますし、西洋絵画のほとんどは聖書やギリシャ神話などがモチーフとされています。全体として芸術から宗教色がなくなったのは、18世紀ごろからです。ごくごく最近のはなしなのです。
日本の美学は当然八百万の神に影響されていますから、多義性が強いのです。それは空白として存在する場合もあります。そうするとどうでしょう、日本の美術というものは、極めて空間的に空白が多いということに気がつきます。石庭を御覧なさい。小さな石を敷き詰めただけの無の世界があるではないですか。
日本がには、あまりに大きな何も描かれていない部分があります。これは西洋人からみると、どうも理解しがたり美のようです。彼らの美術は宗教的な、無駄のない秩序と平和が描かれていますから、構図的に空白がないのです。
西洋人やアメリカ人は私たち日本人のはっきりしない部分がよろしくないと言います。確かにはっきりしなければいけない場面は多く、日本人はそうした面になれていないことも確かです。ですからそれははっきりといえるようにならなければなりません。ただ、多義的な世界を忘れていはいけないのです。一つの強い思想に従うのは簡単なことです。むしろ安心するのかもしれません。かつてナチスドイツはヒットラーという史上稀な天才によって、見事に斡旋させられました。彼はまさしく一義的存在であったのです。皆大手をふるってかれの後に従いました。恐らく従ったかれらはとても安心したことでしょう。目に見える正しいことがすぐわかるのですから。
何も一義性が悪いというのではありません。優柔不断やはっきりしない人間はよろしいものではありません。それは多義性とは異なります。一つの信念をもって何かに挑戦しつづける必要も当然あります。そこに何か生まれてくるものもあるでしょう。
しかし、その一義性に捕らわれてしまって、自分で自分の首を絞めるようになってはいけないのです。そこに多義性の重要性が存在すると私は感じます。

映画『千年女優』への試論 感想とレビュー 女優の人生を巡る解釈の多義性

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-大アニメ映画解釈祭-
秋の夜長に楽しむのはアニメ映画に限る。アニメ映画は、アニメ表現を制約された時間のなかで、普段のアニメ製作時とはかけ離れた時間と金をしようすることによって作られる極めて高度な芸術作品である。00年代になり、CGの技術が導入され、物語自体もそのテーマとする内容が変容してきた。また、アニメはいままでごく一部の人間が見るものとされてきたが、秋葉文化が世界中でも見直され、評価されるようになり、アニメは広く開かれたものとなった。アニメの影響は強く他のメディアにも影響し、メディアミックス展開とよばれる言葉まで出来るようになる。アニメ映画を読み解くことは、まさしく現在を読み解くことと他ならない。00年代のアニメ映画を時代順に解釈していく。

-初めに-
『千年女優』(せんねんじょゆう)は、日本のアニメ映画。2002年9月14日日本公開。作品世界が、現在・過去・未来、と時空を越えた“入れ子構造”となっており、絢爛たる輪廻転生譚となっている。キャッチコピーは「その愛は狂気にも似ている」。
理論整然とした世界を破壊したようなその作風は、あまりに異色ですが、映画界のシュールレアリスムでもあると私は感じています。『千年女優』は今敏(こんさとし)監督の『PERFECT BLUE』の次の作品。二作目となります。00年代に入って初等の、すばらしい出発となるにふさわしい映画です。今監督がファンであった平沢進とのコンビを組んだ初めての作品でもあります。今監督と平沢進との関係はその後の『パプリカ』であまりに見事な完成を迎えますが、その後数年と経たずして今監督はこの世から去ってしまいました。
まだ今監督がなくなってから2年と経っていませんが、もう今監督の世界と、平沢さんの楽曲が組み合わさったパラレルワールドを見ることができないとなると、悲しくて仕方がありません。今回はそういうわけで、『千年女優』について論じます。

-めくるめく輪廻世界-
今監督の世界観と、平沢進の世界観はどこか共通するものがあると感じられます。この作品では二人の間にロータスをモチーフにして連携がなされたと私は考えています。テーマソングになるロタティオン・ロータス2。ロータスは蓮の花。仏教の世界においては輪廻、転生などに縁があるモチーフです。最初と最後に主人公である藤原千代子が宇宙へ飛び立つ場面。月の宇宙基地のロケット台は蓮の花の形をしていました。その蓮の花が開くさまは、この映画の根底になる美しい場面。
どちらかというと、この作品は今までの理論整然とした世界からの脱却を試みていると私は感じます。西洋流の物事を論理的に考えて、分解して分析してというような思考。それに対して、この作品は東洋的思想というか、糸がゆるやかに絡まっているような世界が展開されます。そこには一つの明確な論理は通用せず、切り離したり分裂させたりすることはできないのです。西洋流の思想できりはなされていた世界たちが、それぞれにつながってしまったという感じなのですが、それをさらに破壊して、変な部分で連結させているのです。ですから、あっちへいったりこっちへいったりと、今までの観客には少し分かりづらいぶぶんもあるかも知れません。
東洋の思想は一般にいって、物事をつなげていく考え方。究極的に何につなげるかというと、自然との調和を目指します。タイトルにある『千年女優』などは、まさしくそうした輪廻観からきたもの。当然一人の人間が千年生きるという意味ではないのです。輪廻を続けながら同じ魂のようなものが千年間繰り返しこの世に現れてはその人生を繰り返す。そうした意味なのです。
またこの世界観は平沢進の世界観とも共通するものがあります。平沢さんの楽曲は、多分に暗喩の歌詞が続きますが、それらは究極的に世の中の真理を表しているように私には感じられます。一千年という壮大な時間の流れを、何度も何度も生まれ変わっては繰り返す。その中で一体なにを見つけるのか、それがこの作品のテーマになってくるのだと思います。

また、この東洋的な世界観ですが、それは映画の細部にまで存在しています。例えば突然別の作中映画に変化する場面などは誰がみてもわかりやすいものです。他にも、立花源也やカメラマンの井田恭二が映画の中に出てきているというのも、非常に分かりやすい世界の混合、連結です。多少気がつきにくいのですが、この作品全体も、世界観の癒着が現れています。取材をしている世界が現実の世界だとすると、過去の映画の世界が流入してきて、二つの世界が混同されてきているのです。それが最後には完全な一致となって、女優藤原千代子は旅立ちます。
こうした言わば心象世界を描けるのは今監督の力です。今まで見てきたアニメーション映画の系譜のなかで、90年代にはすでにアニメーション映画の世界でも映画のシュールレアリスムが存在しています。今まで外の世界を写していたカメラが、心象世界を描くようになったのです。しかし、それらは絵画的なシュールレアリスムから離れられてはいません。この作品は、細かく見て考えると、論理が通っているのです。細切れの論理が通った世界が、それぞれ不思議に結びついている。その結び付け方が、巧みなのです。
例えば、はっと後ろを向くともう既にそこは別の世界であったりなどする場面は、見事だなと思います。こうした突然世界が急変する映画は、やはりアニメーションが向きます。どうしても実写だと、不自然さが強調されるからです。アニメーションは、もともと線と光の記号の世界ですから、そうした部分の変容が極めて柔軟にこなせるのです。

-女優の人生を巡る解釈の多義性-
この作品の評価を巡り、賛否両論が出ています。この作品のオチがよくわからない、あるいはあまりよくないということで、低評価をする人々と、この作品に共感し高評価する人々です。私は後者です。良作だと思います。
作品には三つのタイプがあります。一つはだれが見ても殆どがよくないと思うもの。二つ目が誰がみても殆どがよいと思うもの。当然一つ目の作品はあまりよろしいものではありません。何かしらの欠陥があるのでしょう。二つ目は作品として大いに成功しているものです。そうして三つ目が、この作品のように賛否両論に分かれる作品です。一般に、何か製品を扱う場合市場では、お客様が賛否両論に分かれる商品が売れるのだそうです。買わない人は買わないが、一度買ってよいと思った人はずっと買い続けるからだそうです。皆がいいと思う作品は、それほど買う人にリピーターが増えないのだそう。
そうしたことも鑑みて、この賛否両論にわかれる作品は、評価においても多義的に解釈できるために、良い作品だといえることができます。全員が全員よい作品だと言う作品は、まあよいことはよいのですが、解釈に余地がありません。しかし、この作品は否定する人々にもそれなりの論理を用意するだけの余地があり、多義的に解釈できるすばらしい作品でるということが出来るのです。

問題となっているのはオチの部分ですが、これは冒頭で既に出ています。ですから、初めにオチがあって、そうしてそれまでの過程を描いて、またオチに戻るというサンドイッチ構造になっているのです。ですから言いようによっては、はじめから終わっているとも言えます。
女優藤原千代子は、人生において、もののけの恨みを買います。この恨みが一体何の恨みであるのかが、もう少し明確になるとよりわかりやすい作品になったと思います。一体あの老婆が何の象徴であるのか私にもわかりませんが、敢えて言うのならば、人生そのもののようにも思われます。女優としての人生あるいは、女優として生きるがために妬まれたための恨みなどではないでしょうか。
この老婆の呪いによって、千年間生き続けなければならないことになります。それは現実に千年生きるということではなくて、最愛の人鍵の人を追掛ける人生をただひたすらに繰り返すという呪い。藤原千代子が今までに出演したであろう、作中作でもあるさまざまな映画が繰り広げられます。しかし、そのどの映画においても、彼女は同じ役柄で、同じ男を追い、その男を追っている悪役や、彼女を邪魔する存在との戦いが繰り返し描かれるのです。
映画界から引退した彼女は、三十年という時間を経て、ひとつの区切りを迎えます。ただ前だけを見て鍵の男を追っていた自分に、彼女は気づいてしまうのです。自分が既に老いていること、そうしてそれを彼に見せることができないということを。そうして大切な鍵をもなくしてしまった彼女は別の人生を歩み始めますが、この物語では、その無くなった鍵を彼女のファンでもあった立花が見つけてもっていくというはなし。何度も話が輪廻しているので何とも説明しづらいのですが、作品の内部においても輪廻が繰り返されているのです。
そうして、再び鍵を手に入れた彼女は、彼を追いかけることに新しい意義を見つけ出すのです。それが「彼を追掛けている自分が好き」ということ。
今まで彼のための人生だったのが、やっと女優という職業から解放されて、一人の女性として、人間として自分の人生をおくることができるようになったのです。だから彼女は女優の運命から解放されて、輪廻世界からの解脱を果たしたという、とてもすばらしい物語なのです。

-終りに-
この鍵が一体なにを開ける鍵であったのかが、最後まで明かされませんでした。一体一番大切なものとは何だったのか、そうして彼女は最後に何を見つけることによって、その鍵とともに旅立つことが出来たのか、ここの最も重要となる部分が、彼女の明確な意思とは裏腹に多義的な解釈の余地のある空間を生んでいます。そのために、はっきりしないという否定的な見方も可能になりますが、固定された観念を押し付けられることによって共感できる観客よりも、自分の解釈がフィットする観客に共感が得られるようなつくりになっています。
また、この作品の成功している点は、声優の演技力。映画のなかに映画がいくつも存在するわけですから、それぞれに応じて演技を変えなければいけない。そうしたことが出来るのはプロの声優しかいません。また、一人の女性の人生を巡る作品でもありますから、その深みが出ていなければなりません。それを今監督は、たった一人の女性に三人の声優をあてるということをして、見事に幅のある一人の女優像を作り上げているのです。荘司美代子(70代)、小山茉美(20~40代)、折笠富美子(10~20代)と、その以降のしかたもとても美しい。世界が移行する際、声優が移行する場面、そうした流れがアニメーション映画史上においても類を見ないほどの、美しさを有しています。
あなたは、一人の女性の人生に何を見るのか、是非その眼で確かめてください。

アニメ映画「ピアノの森」への試論 感想とレビュー 天才を巡る物語

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-大アニメ映画解釈祭-
秋の夜長に楽しむのはアニメ映画に限る。アニメ映画は、アニメ表現を制約された時間のなかで、普段のアニメ製作時とはかけ離れた時間と金をしようすることによって作られる極めて高度な芸術作品である。00年代になり、CGの技術が導入され、物語自体もそのテーマとする内容が変容してきた。また、アニメはいままでごく一部の人間が見るものとされてきたが、秋葉文化が世界中でも見直され、評価されるようになり、アニメは広く開かれたものとなった。アニメの影響は強く他のメディアにも影響し、メディアミックス展開とよばれる言葉まで出来るようになる。アニメ映画を読み解くことは、まさしく現在を読み解くことと他ならない。00年代のアニメ映画を時代順に解釈していく。

-初めに-
一色まことによる青年漫画。1998年より『ヤングマガジンアッパーズ』(講談社)にて連載。2007年にアニメーション映画化(製作:「ピアノの森」製作委員会、制作:NAS)された。
上戸彩が主演を勤めるということもあり、一時期注目された作品です。制作:NAS上映時間:101分。

-天才を巡る物語、歴史的変遷-
ある特定のジャンルで、活躍する青年たちを描いた物語の一つです。漫画が原作ですから、漫画によくある視点で描かれた作品とも言えます。丁度『テニスの王子様』『ひかるの碁』と同時期に開始されています。『テニスの王子様』が1998年の読みきり後、1999年から連載。『ひかるの碁』は1998年から連載。『ピアノの森』は1998年から連載されています。
こうしたある特定のジャンルのなかでの天才を巡る物語。この話形はその後広く漫画の世界で受け継がれます。90年代後半に出現し、一躍世間に認められたということも、時代の影響が多少窺えるところです。90年代になると、バブルが崩壊した後で、オウム真理教のもっとも痛ましい事件がおこった時代でもあります。80年代に流行したオカルトなどの影響も多少尾を引いており、無気力のようなものが全体にうっすらとかかっていたという側面はあると思います。そのなかで、一つのことを極めることの重要性を説いたのがこれらの作品だったのではないでしょうか。
この物語に描かれる人物たちは、どれも第一級の天才たちです。しかし、まだ90年代はそうした天才たちをみて憧れるという気持ちがのこっていた時代でした。ですから大ヒットしたのです。ただ、明らかにはじめから天才であった『テニスの王子様』と、天才の幽霊が憑いている『ひかるの碁』と違い、『ピアノの森』は隠れた才能が次第に開花してくるという物語だったので、ほかの作品にくらべてインパクトが弱かったため、同時代作品のなかでは下火になってしまったのではと考えることができます。
ただし00年代も後半にはいると、そうした私たちの手の届かない天才への純粋な憧れというものも薄れてきて、次第に天才は敬遠されるようになります。その点、比較的ありえそうな天才を描いていたこの作品が00年代の後半にアニメーション映画となって復活したのです。
また、音楽をテーマに使った漫画というのは、それだけて系譜がつくれますが、音楽を本格的に描くというのはこの作品がかなり他の作品に影響をおよぼしていると考えられます。それは2001年からの『のだめカンタービレ』がよい例として挙げられます。この二つの作品の比較は面白いのですが、その前に大別して時代の流れと、その時代に求められた漫画を指摘してみたいと思います。当然かなり粗い作業ですから、全く別の作風の作品があることは確かですが、あくまで全体を大雑把に見たときのことですので、ご了承ください。
70年代はロボット。地球や宇宙の存亡を巡るかなり壮大な物語が愛されました。人類の映画を極めたさきの世界が描かれていたのではないでしょうか。80年代は少し規模が小さくなって、超人が描かれます。それ以前の70年代の戦艦やロボットはあくまで通常の人間が操作をしていました。今度は人間個体自体が超人的なパワーを持つようになるのです。『北斗の拳』『キン肉マン』『ジョジョの奇妙な冒険』などが好例。90年代になると、そうした個人単体で超人的な力をもつものへの憧れは減退します。あくまで人間としての天才に憧れるようになるのです。今回の作品はましくこの位置に属し、他の作品にもそれは観られることです。00年代になると、天才すらも憧れの対象ではなくなります。アイドルの細別化にもみられますが、自分の世界との接点がないと共感できなくなってきます。いわゆる閉じた世界のような作品。多くの作品は日常を取り扱うことになります。00年代の初期においては、外からの来訪者、『かんなぎ』などの特異な力をもった存在がやってきて巻き起こる日常が描かれていましたが、『けいおん』になると、完全にそこには私たちと何の変わりも無い世界が描かれるようになります。
90年代最後の作品としての『ピアノの森』は天才たちの物語。そこに登場する人物たちは前に前に強く行き続けています。それに対して00年代に入った『のだめカンタービレ』は登場人物を冷静に考えれば天才と考えることも出来ますが、漫画を読んでいる限りにおいては、出来損ないというか馬鹿のようなゆるやかな空気が存在しています。すでに天才だけの物語では息が詰ってしまうというのが読者の状態なのではないでしょうか。

-天才を巡る物語、努力の敗北-
この物語はよくよく考えると一ノ瀬 海という少年が主人公になりますが、この人物は社会的にはかなり底辺の人間。この少年が他のピアニストたちの影響によって秘められた才能を開花するという話になります。しかし、これだけだとあまりにも天才賛美になりすぎるので、そのための相対化として努力の天才雨宮 修平や、精神の天才とでも呼ぶべき丸山 誉子を登場させます。
しかし、アニメーション映画のためにそうした相対化をした結果、主人公は一体だれなのかという疑問が生まれるまでに相対化されてしまいました。この点が失敗になります。努力を賛美するのであれば雨宮 修平を主人公にしてしまったほうが良かったし、あるいは潔く才能を賛美する一ノ瀬 海を主人公としてももっと前面に押し出しても良かったのではないかと思います。変に雨宮 修平の視線で物語られる天才一ノ瀬 海としたことによって、余計に努力の天才のむなしさというようなものが浮かび上がってしまい、映画を観た後の心持があまりよろしくないのは作品の欠陥であると私は思います。

冒頭から雨宮 修平の語りで始まりますから、どうしたってこの少年が主人公なのだろうと思います。しかし、次第に一ノ瀬 海が登場するようになり、最後には丸山 誉子とカイの交流が決して小さくない意味を持つようになり、誰に視点をおいているのか不明になるのです。
父親が世界的なピアニストで、母親も音大を出た教育熱心な人物。毎日何時間も有名な先生について習うという極めて過酷な努力を続けている雨宮。物語はその雨宮の祖母の容態が悪くなったために、ひと夏だけ田舎へと引っ越したときの転向先の小学校ではじまります。ピアニストは手が命といっても、まだ小学生なのに手を気にしなければならない。ピアニストとしてのすばらしい才能をカイに感じた雨宮は、喧嘩をするカイにそんなことをしてはいけないといいます。メガネをかけ、息子対しても修平さんと呼ぶ雨宮の母。それを多少なりとも変だとは感じていながらも、喧嘩をするカイに対して、喧嘩が悪いのではなくてカイの手になにかあったらいけないからという理由でストップをかける修平。どちらも通常の認識でいけば異状です。
そうしてカイの母親一ノ瀬 怜子も、15歳のときにカイを産み、現在も水商売を行っているという人物。この物語はどれもあまりに日常からかけ離れた、一般の社会からすればかなりかわった人物たちが織成す物語なのです。ですから天才だけの物語であると同時に、変人たちの物語でもあり、それが観客の共感を抱かせない理由となっています。

物語のキーパーソンとなる阿字野 壮介。かつての天才ピアニストですが、交通事故により婚約者と命である手の自由を失います。その天才ピアニストが落ちぶれて現在では小学校の音楽の教師。それをしった雨宮の母は、是非自分の息子を教えてくれるように懇願しますが、阿字野はそれを拒否。しかし、自分と同じ才能をもつカイには、みずから教えさせてくれというような言説をします。それを聞いた雨宮はカイが選ばれて自分が選ばれなかったことにショックを受けますが、同時にまたカイのことを認めている節もあります。
物語フィナーレとなる地方のコンクールでは、雨宮・カイ・丸山 誉子と三人が果敢に戦います。ただ、その結果は雨宮の優勝に終わります。カイは途中で自分のピアノを弾かなければいけないということに気づき、楽譜を無視した自由な演奏をしたからです。これで阿字野の言葉がなおさら優勝した雨宮の無残さを露呈してしまうのです。カイ君は世界にでなければいけない。こんな小さなところでは評価されないということを言います。ですから、努力の結晶でコンクールに優勝した雨宮は、もう立つ瀬がありません。そうして自分でもカイに負けたということを感じているのですから、やはりどうしても雨宮を通してカイを観なければいけなかったのかという部分に疑問がわきます。これではあまりにも雨宮が可哀想なのです。

-終りに-
.ですから、どうしたって雨宮を主人公にするのか、或いはカイを初めから主人公にするのか決定しなければいけなかったのです。そうしてこの作品をもうつくってしまったからには、続編を世に送り出さなければなりません。漫画はこの後の物語が展開されているようです。私はまだ原作を読んでいないのでわかりませんが、この後に、雨宮が努力で才能のカイに勝つか或いは世界を舞台にして戦うというところまで描かなければいけません。
天才を巡る物語で、しかも努力の敗北を描いてしまったために、大変見た後の心持が鬱屈になる映画です。ですから、お得意の相対化をするのであれば、次回作で上手くやらなければならないのです。こうした作品上の欠点が、同時代作品の下火になってしまった理由ともいえます。
上戸彩と神木隆之介は、舞台俳優であるにもかかわらず、大変よい仕事をしていました。特に上戸さんは、女優なのかアイドルなのかよくわかりませんが、すばらしい演技力です。それは評価できます。

アニメ映画「銀色の髪のアギト」への試論 感想とレビュー アギト思想の系譜

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-大アニメ映画解釈祭-
秋の夜長に楽しむのはアニメ映画に限る。アニメ映画は、アニメ表現を制約された時間のなかで、普段のアニメ製作時とはかけ離れた時間と金をしようすることによって作られる極めて高度な芸術作品である。00年代になり、CGの技術が導入され、物語自体もそのテーマとする内容が変容してきた。また、アニメはいままでごく一部の人間が見るものとされてきたが、秋葉文化が世界中でも見直され、評価されるようになり、アニメは広く開かれたものとなった。アニメの影響は強く他のメディアにも影響し、メディアミックス展開とよばれる言葉まで出来るようになる。アニメ映画を読み解くことは、まさしく現在を読み解くことと他ならない。00年代のアニメ映画を時代順に解釈していく。

-初めに-
『銀色の髪のアギト』(ぎんいろのかみのアギト)はGONZOによる長編劇場アニメ作品。2006年1月7日公開。日本の劇場アニメ作品として初めて中国で公開された。
アニメ製作会社は当時無名で、話題に上らず、興行収入は大変な失敗に終わりました。

-ヒロインと非共感性-
話は300年後の未来の世界。300年前に、人類は地球上の植物の遺伝子を組み替えて新たな生態系を作ろうとしました。しかし、その実験は失敗。月の研究所で生まれてしまった意志をもった植物は、ほんの数分の間に地球へと襲い掛かり、地上のあらゆるものをのみこんでしまいました。
そうして300年がたった後、我々人類は地上で植物とともに何とか共存、少数ですが人類は生き残っています。そこで300年前のカプセルから少女が目覚める。かつて人類の科学文明が最も発達していたころの人間です。この過去からの来訪者に、数年前に目覚めたシュナックという男も居ます。このシュナックという男は、この大失敗した研究の科学者。そうして目覚めた少女は、このシュナックの上司として、生物を研究していた博士の娘だったのです。もし、実験の果てに失敗し、生態系が壊れた場合、地球の生態系をもう一度とりもどすために、人類が住みやすい地上にするために大掛かりな兵器が残されました。この物語は、植物に支配されてしまった地上を巡り、かつての人間による、かつての人類至上の世界へと戻そうという人間たちと、現在のまま、自然との調和を目指す人間たちの戦いの物語なのです。
地上のどこであるかはわかりませんが、舞台となるのは、300年後の世界の少年、主人公のアギトが住む中立都市。この中立都市を挟み、一方に植物が支配する森。他方は武力によって森を支配しようと考える軍事都市ラグナ。この二つの対立のなかで、挟まれた中立都市の人間の苦悩が描かれています。

人類の科学技術により荒廃してしまった未来というのは、SFではあまりに王道なテーマ。過去の人間がタイムカプセルによって生き返り、現在の人間たちとの交わりのなかで一体どうするのかという物語です。シュナックという男は、研究の失敗に責任を負って、地球の植物を排除しようと考えます。当然、自分の失敗によって、多くの人間の命を奪ってしまったのですから、その責任たるや、とても一人ではつぐなえないもの。地上の森を排除することによって、何とか贖罪しようと考えたのです。トゥーラはシュナックの上司の娘。少女にとっては、右も左もわからない現在の世界において、唯一自分の父を知っている人間として、シュナックに近づいていきます。
ヒロインとしてのトゥーラは大変低い評価を受けています。主人公アギトによって、目覚めさせられ、伴に生活をするなかで、アギトたち中立都市の人間とは全く異なる考えのシュナックのもとへといってしまう。アギトがわから描かれた物語において、ヒロインとして主人公を裏切る部分が誰の理解をも得られないのです。
最終的には人類と森との関係性の新たな秩序を感得し、森の焼き払いを止めます。しかし、シュナックはこの少女がいなければ、この兵器を動かせなかったわけで、全ての事件の原因はこの少女の選択に帰結されてしまいます。行動を起こしたのはシュナックですが、その要因となるのは、あまりに優柔不断で、現実の何も見えていなかった少女トゥーラに帰結されてしまいます。この責任があまりに大きくて、観客はトゥーラを好きになることはできないのでうす。

-アギト思想-
最近のアニメ・ゲームなどいわゆるサブカルチャーのなかで「アギト」という言葉をよく耳にします。このアギトという言葉、しかしその意味はあまり明確ではありません。今回はこの「アギト」という言葉について、論じてみます。恐らく「アギト」について論じられるのは初めてのことではないかと思います。
先ず、アギトとは古語「顎」のことです。しかし、これだけでは現代の「アギト」に対応したものとは考えにくいものがあります。
仮面ライダーアギトで、そのアギトの意味は何かという問いに対してヤフー知恵袋での回答があります。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1035052380
『アギト:agitoはラテン語で「目覚め」「挑戦」。表記はαから始まってΩで終わるので「最初で最後、究極」という願いが込められている』のだそう。多くのアギト思想は、この平成ライダーとして登場した仮面ライダーアギトに由来するものだと感じます。
古くは高屋良樹による日本の漫画作品『強殖装甲ガイバー』に登場する巻島顎人からアギトは始まっています。1985からの漫画です。このときはまだ顎という意味のほうが強いです。
顎は、生物が生きていくなかで大切な部分となります。顎が強いという言葉は、そのまま生命力が強いという意味にもつながってきます。そのなかで、この漫画が最も早く、顎と力を結びつけました。読んでいないので詳しくはわかりませんが、この巻島顎人は力を求める人物として描かれているようです。そうしてアギトという名前は、1994年の『仮面ライダーJ』の登場人物として、00年代に入ってからは『エア・ギア』の登場人物、『魔法少女リリカルなのはシリーズ』の登場人物として受け継がれているようです。
ただし、これら固有名詞としてあたえられたアギトはおおきな意味を持ちません。やはり最もアギトという言葉に影響を与えたのは、仮面ライダーアギトです。2001年からの放送ですから、00年代のその後の作品に存在するアギトはこの仮面ライダーからの影響があるといってよいでしょう。何か究極的な意味を秘めた力がそこでは付加されました。
一方「顎」としての力の象徴は、モンスターハンターで、ティガレックスという凶暴なモンスターの素材として、顎が登場します。こちらからも、力と顎の関係性が生まれています。現在では、力と結びついた「アギト」がスクウェア・エニックスのゲームソフト『ファイナルファンタジー零式』に登場します。ここでは救世主として描かれているようです。
2011年の零式。その五年前となるこの作品『銀色の髪のアギト』は、力だけの存在から救世主という意味を付加するまでに至る重要なターニングポイントの一つになるのではないかというのが、私の論です。
仮面ライダーアギトでは、何か究極的なものでした。この作品では、強化体と呼ばれる存在があります。植物の力を貰うことによって、超人的な能力を身に付けることを意味します。この物語では強化体が重要な意味を持ち、中立都市は強化体になったアギトの父アガシとハジャン、ヨルダの三人が設立したものと言及されます。そうして何より主人公のアギトが、この植物の力を身につけてトゥーラを救うというところから、救世主的な力という意味が付加されたのだと思われます。

-終りに、評価できない点-
この作品の評価できない点は、やはりアニメのアフレコに一般の俳優を多く当てたこと。声優という仕事が独立していあるのは、それだけアニメーションに声を吹き込むということが難しいからなのです。俳優は俳優で舞台に立ちます。それは声優にはできないことでしょう。ですから、当然俳優たちが吹き込んだものは、声優よりも劣ることは紛れも無い事実なのです。
特にこの作品では、引き離された主人公同士がお互いに呼び合う場面がありますが、どうしても迫真性に欠けるのです。それが、この作品を不自然なものとさせている一つの要因です。
もう一つは映像技術。CGを使用した兵器に動きは、他の部分との調和が取れていません。どうしても兵器だけが別の存在のように浮かんで見えるのです。それから人物の動き。人物の動きを徹底して追っていったのは、他でもないスタジオジブリです。戦闘シーンは、あまりに不自然な動きが多く、その点でも迫真性にかけるのです。
脚本ですが、あまりに王道すぎて、何の新鮮味もないというのが残念な部分。はじめからシュナックが失敗することはわかりきった事実です。そうしてシュナック自体も、あらゆる悪役の典型といった人物。冷静を装って、知略を尽くし、最後は肉弾戦。天空の城ラピュタや風の谷のナウシカをそのまま踏襲したようなお話に、観客の予想どうりの展開。これが彩色にかけた作品を生み出しているのです。

アニメ映画『スチームボーイ』への試論 感想とレビュー 正義の排除、内容の欠如

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-大アニメ映画解釈祭-
秋の夜長に楽しむのはアニメ映画に限る。アニメ映画は、アニメ表現を制約された時間のなかで、普段のアニメ製作時とはかけ離れた時間と金をしようすることによって作られる極めて高度な芸術作品である。00年代になり、CGの技術が導入され、物語自体もそのテーマとする内容が変容してきた。また、アニメはいままでごく一部の人間が見るものとされてきたが、秋葉文化が世界中でも見直され、評価されるようになり、アニメは広く開かれたものとなった。アニメの影響は強く他のメディアにも影響し、メディアミックス展開とよばれる言葉まで出来るようになる。アニメ映画を読み解くことは、まさしく現在を読み解くことと他ならない。00年代のアニメ映画を時代順に解釈していく。

-初めに-
『スチームボーイ』(STEAMBOY)は、大友克洋が監督したSFアニメ映画作品。2004年公開
総製作費24億円、製作期間9年をかけた作品[1]である。 19世紀のロンドンを舞台に時代設定やメカデザインを徹底的に拘った作品である。総作画枚数18万枚でデジタルと手描きの共演による緻密な映像表現で描かれる
『AKIRA』を製作した大友克洋監督のアニメ映画。しかし、期待されていた割にはストーリー展開など、あまりにありきたりな作品だったために、高い評価を得られませんでした。一体何が問題だったのか、また評価すべき点はどこなのかを、もう一度検証してみたいと思います。

-作品の概要と構成-
機械技術が極めて高度になった現代。人力というもっとも根源的で、人間味あふれる労力が失われたのは何時ごろからだったのでしょうか。19世紀、スチーム、蒸気を使用して、蒸気機関というものが生み出されました。それまではすべて人力、あるいは馬の力を借りて馬力、そのほか自然の力に頼るほかありませんでした。当然人間や動物に出来る力は限りがあるもの。しかし、時代はそのような貧弱な力には満足できないほど膨張していました。その力の貧困をすくったのが、まさしく歴史の転換点ともなる蒸気の力です。近代科学技術は、この蒸気の力によって大いに発展したことでしょう。
物語は、蒸気機関が発明されてからまだ間もないころ。新たなる力を求めて、より強い蒸気の力への欲求が高まった人類の話です。天才科学者の家系、スチム家は、親子三代にわたって新しい蒸気の発明を行います。
冒頭で、レイの祖父のロイド博士と父のエドワード博士が新たな力を発明します。ただ、このときに父エドワード博士は事故で高熱の蒸気を全身に浴びてしまいます。生死も定かでない状況で、物語はレイへと以降します。
物語は力をめぐる関係の話、オハラ財団のもとで研究をしていたロイド博士とエドワード博士。しかし、オハラ財団との考えの違いからロイド博士は自分の息子とも決別、新たに発明したスチームボールをオハラ財団の手にわたすまいとします。そのロイド博士の協力者となるのが、ロバート・スチーブンスンとそのバックグラウンドとなるイギリスの軍。
物語はスチームボーイたるレイの視点で描かれます。いたいけな少年は、大人の力への欲望というものをまだ知りません。悪がきとして存在していたレイでさえ、大人の欲望という醜いもののまえには純粋な子どもでしかなかったのです。それが祖父がスチームボールを孫のレイに託したことから物語りは始まります。レイの前に突然の祖父からの贈り物。そうしてそれを追ってきた黒づくめの男たち。
こうして大人のつくった大きな欲望という名のはぐるまのなかに取り込まれていくレイ。祖父の思いを守ろうと、黒づくめの男たちからの逃亡を図ります。そうして優しく手を差し伸べてくれたのがロバートとその部下たち。
しかし、このロバートたちも最後にはその面の皮をはがして、本性を表します。オハラを押さえ込むために力を追い求めていただけなのです。この時点ではレイはそんなことを感じるいとまもなく、追ってきたオハラの男たちに再び連れ去られてしまいます。
そこで出会う少女。これがこの作品の最大の欠点であると私は思いますが、わがままな少女との出会い。しかし、誰もが感情移入できない少女に、何の感情も沸かず、守るべき対象というわけではありません。
その後レイはスチームボールを持って逃げ出します。それと同時して、動き出す父エドワード。何とかエドワードとオハラ財団の世界進出を防ぎたいイギリスの軍隊も動き出し、双方による戦争が勃発。レイはその戦争に巻き込まれ、自ら選択しなければいけない状態になるのです。

-作品の欠陥-
この作品の最も根源的な欠陥は、小西真奈美が演じたスカーレット・オハラ・セントジョーンズというオハラ財団の娘。ただの高飛車な女としての存在のみを許されているだけで、他の感情の悉くが欠落しています。それに最後までオハラ財団の一員ですから、彼女がレイの仲間になるわけではありません。最終的には敵味方もないくらいの大混乱にまで発展し、協力をしますが、レイの守るべき対象となるわけではありません。私から言わせれば、すでにこれはただのハチャメチャでしかありません。
このキャラクターは、今までにないヒロイン像を作ろうとしたのか、奇を衒ったために大失敗を起こしているのです。だれも感情移入が出来ず、わがままをいうだけの存在。そうしていつもキーキー甲高い声で文句をいっているのですから、寧ろ嫌悪感を感じざるを得ません。
こうしたキャラクターのアイデンティティーの崩壊は、他のキャラクターにも見られます。それはなんといっても今回の最も重要なテーマである親子三代による絆です。こうした巨大な組織、流れ、運命のようなものに組み込まれていく物語のなかにおいて、その流れに抗うべき力は、人間の絆、感情です。そうした非情な運命を乗り越えるための力が必要になるのです。しかし、この作品はその力が不明。それが欠点になっています。これは上で述べたスカーレットが守るべきヒロインとしての存在でないことにも起因しています。
仮にスカーレットはいいとしましょう。ですが、決して失ってはいけないのが家族の絆。しかし、この作品では家族三代の絆は悉く破壊されてしまっています。途中生死の不明だった父親と再会するレイ。しかしそこには変わりはてた父エドワードの姿が。大きな怪我を負った父は半分機械人間のようになっています。そうして心もまた機械のようになってしまったかのように、非情に冷徹で、息子を省みず、自らの欲望のままに研究を重ねる人物となってしまいました。
父と子の不和。しかも父は機械人間。一見スターウォーズの構図を彷彿させます。しかし、その父と子はぶつかり合わないのです。あくまでレイは子どもであり、まだ大人として父と戦える状態ではない。レイは父から逃げ、また父もレイを執拗に追うことはしない。ですから没交渉なのです。接点があるようで、全く噛み合っていない。当然そうすれば父を誤った道からつれもどすことは出来ません。最後になっても、父は変わらないまま。ですから何のカタルシスもありません。
ではこの父との不和をどうするか。ここで格好の存在が祖父であるロイド博士。この博士は中盤までこの作品において最も常識的な人間であろうと思われます。しかし、この祖父であるロイドも自分の息子と正面きっての対決が描かれません。言葉の応酬があるまでで、結果的に何もかわらないのです。最後は、上でもあげたハチャメチャによってかろうじて協力をすることになりますが、そこには全く心の通いがなく、その場限りの協力でしかありません。ですから、せっかく親子三代にもわたる絆が存在するのにもかかわらず、それを破壊して、全くそのまま放置してしまっているので、この作品は何の絆もないということになります。

この作品の問題の一つは、声優の選択です。何故か殆どプロの声優を配役せず、殆どが舞台で活躍する俳優です。しかし、プロとしての声優がいるということは、当然それだけ声優という職業が奥深く、他の職業の人間にそう簡単にできることではないということが証明されているのです。それをわざわざ俳優をもってくるのですから、どうしてもそこに無理が生じます。
ジブリの手法では、声優は主役になってしまうからということで、敢えて俳優であったり、全くの素人をしようすることがあります。この作品も、その手法を踏襲しているようですが、主役級の人物にまで俳優を当てています。やはり舞台とアニメーションへの吹き込みは違いますから、どうしても不自然さが拭えない。特に相手の名前を叫ぶのは、プロの声優でしか出来ないこと。俳優の舞台での声の出し方とはまた別のスキルが必要になるのです。
ですから、私はなにも舞台俳優が下手だというのではありません。舞台俳優は舞台で十分に活躍なされている方々が揃っています。実力のある人達です。ただし、アニメーションとなるとやはり違います。似ている分野なのでだれもが出来ると思いがちですが、水泳の選手が野球やサッカーをやっているようなものなのです。運動が出来るからといって、別の競技が出来るわけではありません。なるほど一般人よりかはよいとして、しかしその競技のプロには勝てるはずがないのです。
そうして主人公を俳優で配役したならば、せめて脇役は声優を起用しなければなりません。そうしないとバランスがとれないからです。しかしこの作品ではそれさえも無視して、全員が全員俳優がメーンの人々。何が悪いって配役を決めた人物が悪いのです。

-正義の排除、内容の欠如-
この作品は、大きな流れのなかで苦悩する少年の物語です。主人公レイは、オハラ財団とともに世界を征服しうる力を求める父と、それを阻止しようとする祖父ロイドの間に立って、悩みます。またロイドの協力者を装いながらも、結局はロイドの発明品を横から奪おうとしていたロバートたちとの間でも悩むのです。
この作品は、相対化どころか、全く正義というものを排除してしまっています。重要になるのは、当然機械がこれから人間をどう導いていくのかという部分。機械の発明が人類に及ぼす影響。これを考えなければいけないのです。
ロイド、エドワード、ロバート三者の科学の考え方。しかしそのどれもが正義ではありません。人類のためといっていながら、その人類のためになるまえに、多少の流血は必要だというのが、エドワードとロバートの考え方。ロイドはそれを阻止しようとはしていますが、彼の明確なビジョンというものは描かれません。それは途中で描かれた機械仕掛けの城の上部に位置する遊園地なのかも知れませんが、はなしをこれだけ大きくしておいて、今更そのようなものを提示されても誰も納得できるわけがなく、レイもその方向へすすもうとはしません。この三者が三様で正義ではない。レイは一人選択をしなければならないのです。
しかし、その選択において重要なのは守るべきものの存在。その不在がこの作品の欠点となります。ですから、一体レイが何を選んだのか、どうして選んだのかが描かれていないのです。ですから、最終的にハチャメチャな展開になり、その場限りの協力で何とか全員が集まって、そうしてわけのわからぬ終りになるのです。
そこには何も納得できるものもなく、何も描かれていません。空白が描かれているのです。なんだか壮大なのかなと思わせるくらいで、内容は全くない。スチームなのです。霧がなんだかもやもやしていて、何か存在してそうなのだけれども、中身がない。それがこの作品なのです。

-終りに-
評価できる点もあります。それはもちろんあの不朽の名作『AKIRA』を製作した大友克洋氏ですから、映像技術はやはりすばらしい。内容は大変酷いものです。『AKIRA』は大友さんのすばらしい原作を大友さん自身が脚本しているから成功したのです。製作に何年かかっていようが、漫画化されていない原作のない作品ですから、どうしても他者からの視点が欠如しているのです。
この映画の最大の魅力はやはり霧の描写力。実写ならばまだわかります。しかし、あの水蒸気をアニメーションで描くのは至難のわざです。真っ白なものにしてしまえば、何の新しさもありません。平々凡々の霧です。半透明にしても不自然さは残ります。だからといって、CGなどにより、実写の霧を張り合わせるのもちぐはぐなものになってしまいます。04年にこれだけの技術で、アニメーションのなかでの最高峰の霧の表現が出来たことは感嘆にあたいすることです。
また、大友氏の機械の描写は依然として納得のいくもの。『AKIRA』では機械が命を持っているように自由自在に動きました。今度は機械は機械として、スチームパンカーの人々が納得のいくようなスチールの質感や、19世紀の蒸気の機械の忠実な表現が輝きます。
内容がより明確で、絆や正義が描かれていればより高評価を得ることができるだろうと思われるだけに、残念な作品です。

映画「バオー来訪者」への試論 感想とレビュー 荒木作品に受け継がれる来訪者の存在

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
荒木飛呂彦による日本の少年向け漫画、およびそれを原作とするOVA作品。『週刊少年ジャンプ』に1984年45号から1985年11号まで17話が連載された。OVAは1989年に製作。
今回はOVAを論じます。最近荒木さんの作品を考察しています。このバオー来訪者は、荒木さんが、ジョジョの奇妙な冒険の連載を始める丁度前の作品になっています。デビューしてから、ジョジョに這入る前の大成した時期の作品になります。そうした点でも、この作品は荒木飛呂彦論においても重要な作品といえます。ジョジョにはいってからも、少しずつ試行錯誤を重ねて作品が変容していきますが、このバオー来訪者の作風は、パート1パート2に色濃く影響が出ているといえます。

-来訪者-
作品タイトルが先ず不思議です。バオーというのは何か固有名詞かなにかとわかりますが、来訪者という言葉がタイトルに入るのは珍しいです。この作品は、バオー来訪者というタイトルが表すように、何者かが外界からやってくるのです。外界からの来訪者という設定は、『ジョジョの奇妙な冒険』のパート1、2に踏襲されています。そのことはまたジョジョ論をやる際に詳しく述べますが、何かしら力を持った存在が外界から来訪してきて、そうして自分を巻き込んで話が展開するというスタイルなのです。
来訪者ということは、この作品の主人公、視点人物となる存在はこちらにいる人物です。この作品の主人公は橋沢育朗でもありますが、来訪されるがわ、スミレが一応主体なのです。
ジョジョに入る以前の作風がここで多少窺えます。それは超能力ということです。登場人物は何かしらの超能力を有しています。スミレは将来を描くことが出来る能力を持っています。そのスミレは、冒頭超能力を開発するために、秘密組織ドレスに捕まり輸送されている途中です。
このバオーということば。橋沢育朗も主人公の一人と考えられますが、育郎自身を示す言葉ではありません。バオーというのは、生物兵器、ドレスが開発した寄生する兵器なのです。この寄生虫を人間なり、いぬなりに寄生させると、その寄生された存在が危険にさらされると目覚めます。危害を加えられると覚醒して、その寄生された存在をのっとり、極めて凶暴な存在になって外敵の排除をしようとするのです。
この寄生虫も、何かしら脳に影響を及ぼしているということが判ります。これはジョジョの仮面とおなじ発想であると考えることが出来ます。生き物を急激に変容させるにはどうしたらよいのか。脳にないかしらの影響を与えればよいのではという考えが伺えます。人間の脳というのは、一般論ですが、普段その数パーセントしか使用していないといわれています。その脳を極限まで使用することができれば、何かしら現在の人類を越えた存在になれるのではないかという考えです。
このバオーという生物兵器。これに寄生された人物である育郎が、スミレのもとに訪問してくるということから、「バオー来訪者」というタイトルがついたのでしょう。ただ、この来訪者の意味のなかには、人類に対しての来訪であるとも考えられます。ドレスはこのバオーを開発しておいてそのコントロールを出来ていないのです。そのバオーがドレスのもとから解き放たれてしまった。バオーの開発者である霞の目博士によれば、このバオーはコントロールできれば核爆弾と同じくらいの驚異になるといっています。
バオーという言葉は、作者によれば「バイオテクノロジー」の「バイオ」からとったといわれています。ですからこの「バオー来訪者」というのは、生物科学技術の発展が人類にどのような危険をもたらすか知れたものではないぞという、警鐘として考えることもできると私は思っています。

-作品性、ジョジョとの類似点-
人間に対しての深い言及をしていると考えると、この育郎という主人公の一人である青年は、人類代表として考えることもできます。
スミレによって、ドレスのもとから逃げ出した育郎。当然ドレス側としても核弾頭レベルの兵器が逃げ出したとなれば、総力を挙げて育郎を取り戻しにかかります。しかし、とてもいうことを聞いて実験体に再びなるわけもなく、仕方なしに殺してしまえということになります。
育郎の運命はあるいみでは非情です。家族旅行中に車で事故をおこして、そのままでは死んでしまっていた存在なのです。それを良い実験体としてドレスが回収。バオーを寄生させることで生き延びるということになります。見方を変えれば、ねじれてはいますが、ドレスは育郎の命の恩人でもあるわけです。
ただ、育郎としてみれば、生かしてくれたのはありがたいが、生物兵器にされるのはごめんだというところ。当然殺しにかかる追っ手を殺していくほかありません。そうしてスミレとともに行動するなかで、ついに逃げ切れなくなります。しかもスミレはドレスがわに奪われてしまいます。育郎を呼び寄せるためのえさとするのです。
呼び寄せるはずのドレスは、しかし育郎の訪問を受けることになります。バオーとして覚醒した育郎は、まさしくドレスが自分でつくっておきながら、そのバオーの来訪を招かなければならなくなるのです。ドレスにはそれぞれ個性溢れる最強の殺しの達人がいます。
ドルドはサイボーグ人間。先行研究から『ジョジョの奇妙な冒険』第二部に登場するシュトロハイムとの類似性が指摘されています。
ウォーケンは架空のアメリカインディアンの部族・スクークム族の末裔。史上最強の戦士であり、超能力はバオーとして覚醒した育郎と互角に戦うほどの能力があります。この人物との戦いがラストのメーンとなります。またこの人物がはじめて育郎に「きたな来訪者め」と喋っていることからも、この人物の重要度が窺えます。またこのセリフにより、バオー来訪者が最後にドレスへの来訪者であったということがわかります。
このウォーケンはバンダナをしていて、それが超能力を抑制しているという言及がなされています。ですから、やはり後の『ジョジョの奇妙な冒険』にみられるように、超能力を使える点と、その超能力がどこに影響されるのかという点の共通が見られます。

この作品は他の多くの同時代の作品同様、技名に重きが置かれています。OVAでもわざわざ一旦画像を停止して、技名の紹介がなされるなど、いかにも80年代をおもわせる作風がのこっています。バオー・メルテッディン・パルム・フェノメノン/バオー・リスキニハーデン・セイバー・フェノメノンなど、仮面ライダーのような技名がいちいち説明されますから、その点今の人々が見ると不自然にうつると思います。
私などは、人間が真剣に戦うときに、いちいち技に名前なんて付けないでただ単純に殺しあうだけなのではないかと思いますが、確かにプロレスなどでも技名がついていますから、こうした技名というのもある程度わからないでもないです。ただ、不自然さはあります。

-終りに-
ある悲運な男の運命の、ほんの数日におよぶ戦いを描いた作品ですが、壮大な設定、緊張した戦いなどが展開されるすばらしい作品です。ウォーケンとの戦いに力つきた育郎は、海中で眠りにつきます。このまま上がってこないのかと心配になりますが、そこはスミレの予言がその後を明らかにしてくれます。スミレが育郎と同じ17才になったときに、再び自分の前に姿を現してくれるという希望を感じさせるエンディングとなっている点が、この作品の成功している点であると私は感じています。
どうしたってこうした戦いのあったあとに、育郎が無傷で帰ってきたらご都合主義になってしまいます。だからといって殺してしまっても可哀想。しばらく時間が経った後に再開できるという予言は、そうした陳腐なラストではなく、この作品に相応しいものにしています。

漫画「ジョジョの奇妙な冒険」への試論 ジョジョ論・ファントム・ブラッド編 象徴性と相対化・善悪を超えた人間の力への欲望

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-初めに-
「ジョジョの奇妙な冒険」は荒木飛呂彦による日本の漫画作品。『週刊少年ジャンプ』に1987年から2004年まで、ウルトラジャンプ』に2005年から長期連載されている。ジョースター一族と、邪悪な吸血鬼と化したディオやその後継者たちが、2世紀以上に渡り繰り広げる戦いを描く大河群像劇。
ジョジョ展も開催され、10月からはアニメ放送がされるなど、メディアミックス的展開を成し遂げるに至った『ジョジョの奇妙な冒険』。今回は、それぞれのパートごとに、一体そこに何が描かれているのか、どのように表現されているのかを、考えて行きたいと思います。

-作品主題とパート1の性質-
この作品全体の初めにして、原点。最初のジョジョはファントムブラッドから始まります。ジャンルわけでは、ホラーアドベンチャーということになります。ファントムブラッドにおいて、主人公は二人であると考えたほうが良いでしょう。一見するとタイトルからの影響もあり、ジョジョ(ジョナサン・ジョースター)が主人公に思われますが、冒頭からディオ・ブランドーの視点で描かれている点など、主人公は全く正反対の二人になっています。
全体のテーマは「人間賛歌」と作者自身が言っている通りです。パート1、2にいたっては、人間は何処まで強くなれるのかというテーマにも言及されています。
パート1に関しては、力を得るために、二人の全く正反対なアプローチが描かれます。ディオは明確です。仮面の能力を手にして、史上最強の力を得る。ただ、この仮面の能力は人体改造を行い、肉体、精神ともに「人間ではなくなる」のです。ですから、人間としての存在を諦めた上での、力を得るという目的を達成するのです。
一方ジョジョは、人間として力を得る。若いころは裕福な家庭に生まれたという理由もあり、本当の紳士になろうとしていたジョジョ。貴族主義の思想がここには描かれています。貴族というのは、確かに金と権力があるが、平民の上にたつ人物でなくてはならない。そのための鍛錬を怠ってはいけないという思想です。支配者は、支配者なりの努力を行わなければならないという考えです。
ジョジョは精神的紳士になろうと勤めます。そこに、来訪者。これは後に論じるつもりですが荒木さんの『バオー来訪者』と同じ構図が窺えます。外界からやってきた、圧倒的な力を持つ存在。しかも、ジョジョにおいては、それは自分の存在を否定する、アンチテーゼとしての存在なのです。ですから、ここでジョジョは大いに悩むのです。
今まで支配者階級から紳士になろうとしていたジョジョ。しかし、その階級ごと奪おうとしている存在がやってきたことにより、支配者階級からの紳士ではなく、人間としての紳士になろうと変化するのです。
来訪者であろうと同時に、略奪者であるディオ。ジョジョから全てのものを奪おうとします。愛犬、恋人、父親。この冷静な判断力があり、野望のためならどんな非情な手段をも躊躇しない冷徹な男が、どうしてジョジョのようなか弱い男を早く葬りさることができなかったのか。その原因はやはりディオにあるでしょう。技を小出しにしすぎたというのが私の考えです。もちろん物語上ジョジョが死んでしまえばそれで終わってしまうのですが、ジョジョが耐えられる限界すれすれのあたりを攻め続けたために、ジョジョをより精神的に強くしてしまったというのが、ディオの失敗です。そういう意味で、人間を滅ぼすことのできなかったディオは、仮面を被るまでは人間であったのです。そのディオが人間をやめる。それが仮面を被るということなのです。

-仮面と象徴性-
仮面がモチーフになっていることはとても興味深いことです。仮面がその人物に与える影響というのは心理学でも大いに研究されています。人間はそれぞれ多かれ、少なかれ、何某かの仮面を被って生きているもの。仮面はその人物の顔となりますが、また同時にその人物の嘘偽りでもあるのです。仮面を主題とした作品は、三島由紀夫の『仮面の告白』や、映画『マスク』シリーズ。これらの作品に共通するテーマは、己とは違う、別の己を手に入れること。仮面を被るということで、今まで出来なかったことが出来るようになるのです。仮面は、一つの人格です。宗教的なトランス状態にも用いられました。
ベニスを題材とした作品のなかには、あの有名な祭りで仮面を被る男女が描かれますが、常にそこには怪しい雰囲気がただよいます。決してプラスの正の存在としては描かれないのです。どこか不気味な、不敵さがある。特にあの仮面の笑いというものは、恐怖とすでに結びついています。
仮面の存在は、多くの作品のなかで、自己を隠すものという原点からはなれ、理性と感情を配した、恐怖と結びついてしまったのです。
この作品においての、仮面には宗教的な意味が強く残っています。何か知らの宗教的儀式があり、そこで怪人的な力を得ることに成功した人物が描かれます。ただ、この力は諸刃の剣。人間として生きるのを放棄した結果、どのような結末が待ち受けるのかは誰が予想しても同じこと。究極的には破滅が待っています。
破滅が待っていると知りながら、ただの人間として過ごし死んでいくことは出来ないのです。人間は眼前の欲望に負けてしまう。そこを突いたために、この仮面という存在は魅力があるのです。ですから、翻って考えれば、眼前の力を追い求めたディオは、ある意味最も人間的であったとも言えるのではないでしょうか。眼前の力よりも、長い期間の辛い努力の結晶による力を得ようと考えたジョジョは、ある意味人間的でないとも言えますし、それだけ強靭な精神の持ち主であるともいえます。
だから、ディオも決して完全な悪というわけではないのです。寧ろ、人間としての弱みに付け入られた被害者であるとも考えることができます。そうしてまたジョジョもただの正義というわけでもない。この作品は、勧善懲悪という道徳的テーマからはなれ、人間の善、悪というものをともに肯定した、相対的な作品であるといえます。

-ジョジョをつなぐもの-
ホラーアクションというジャンルにわけられるように、『ジョジョの奇妙な冒険』のはじめは、ホラー的要素が強いのです。
先ずは舞台設定から。19世紀という時代はどのような雰囲気があるでしょうか。産業革命が起こってから、人間の社会は、工業などが発達し、物量の時代となりました。その半面、物質に圧倒された人間は、人間性というものを失っていきます。物質的には豊かになったが、精神的には貧しくなったということです。今まで人間が行っていたことが、機械に変わってしまうと、人間は次第にその存在意義に疑問を感じ始めます。経済格差が開き、下層の人間は雑巾のようにこき使われる。この病理的な精神の状態が、全体としてあったのです。それが切り裂きジャックのような狂気的な殺人を犯すような社会現象として表れたのでしょう。
またこの時期、科学工業による人体への影響も表出します。特に有名な「霧のロンドン」などは、実際霧ではなく、工場から吐き出される煙の影響だったというのが現在の一般的な見解です。そのような環境で、人間が心身ともに健康であるはずがありません。ですから、感染病という恐怖が今までよりも、さらに色濃く出てくるわけです。
この作品では、仮面という宗教的な事物からはじまっていますが、いつの間にか吸血鬼的な感染力を持つ恐怖へと変容されています。そのつなぎが上手いといえば上手いのです。何時の間にか仮面を被った人間が、人間ではなくなり、吸血鬼のような存在になっている。このように論理的に考えれば、仮面は結局吸血鬼製造マシンだったのかということになり、なんだか少し不自然なようですが、漫画を読んでいるかぎりでは、その流れは説得力を持っています。

また、この作品のモチーフの一つに血があります。それは血のつながりでもあります。血というのは、人間のどのような側面をもつでしょうか。神聖なものとする文化もあれば、不浄のものとする文化もあります。副題にもあるように、ファントム・ブラッドですから、血の仮面なわけです。この仮面は人間の血を吸うことによって、仮面をつけた人間を吸血鬼、血を吸う人間へと変化させる。血つながりでこの作品はまとめられているのです。
血のつながりといえば、ジョースター家の血統もまた血のつながりになります。ジョースター家は一般に背が高く(皆195cm)頑強な身体をしていて、社会的に認められている。しかし、家族は薄倖で、短命であるというのが、ジョースター家のジンクスです。
血のつながりというものは、運命的な思想からきているものでしょう。一族を結ぶ血の流れ。血にかけられたのろいのようなものが、ここには描かれているのです。ですから、ジョースター家からはなれることはできないし、ジョースター家からはなれないことが、この作品の根幹にもなっているのです。
そうした意味で、この作品は一族の物語として読むことが出来ます。家系図を書きながら読むのも一つの楽しみです。
それぞれのパートのつなぎ方は、その作品の本質を表します。例えばガンダム。ガンダムのつながりは、その名の通り、ガンダムと名が冠された機動戦士を巡る物語。私は以前アムロを巡っているのかと、勘違いしていましたが、主題はアムロではなく、ガンダムにあるということです。この作品も、タイトルにあるように、ジョジョを巡る物語。それぞれの時代のジョジョが主人公となるのです。

-最後に-
この作品は、物語のはじまりであり、これからジョジョのたびが始まるということで、外界からの訪問者が多く訪れます。ジョジョは、運命の歯車に巻き込まれるようにして、冒険をせざるを得なくなったのです。それは仮面の呪いでもあり、必然の運命だったのかもしれません。しかし、このパート1にかぎって、ジョジョには主体性のようなものがあまり描かれていない。ディオにしても、向こうからやってきた存在であり、ツェペリも向こうからやってきた存在なのです。皆がジョジョをひきこんで、奇妙な世界へと連れ出していくという構図になっています。
外界からの来訪者が、ジョジョを次第に強くしていく。パート1の冒険の最後では、ハッピーエンドになるかと思いきや、最後の最後にどんでん返し。ジョジョはなんと命を落としてしまうのです。ここでも先ほど述べた相対化がなされています。完全な悪、完全な善というものは存在していないのです。
この作品の成功している点は、どんでん返しがそこまでないという点。よくあるアクションものでは、どんでん返しの連続によって、読者が辟易してしまうことがあります。しかし、この作品ではどんでん返しはある程度抑えられ、それが成功していると感じられます。絵自体が完成されているぶん、技名や、最終奥義などのかっこつけが少なかったという点が成功したのです。

映画「うなぎ」への試論  感想とレビュー 作品と象徴性

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-初めに~殻に閉じこもる人間-
『うなぎ』は1997年公開の日本映画。制作・配給会社は松竹。監督・脚本今村昌平。
第50回カンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。
この作品は、先ず冒頭の妻を殺害する場面から二通りの対極する解釈ができるということがわかる。突然役所広司演じる山下拓郎が、自分の妻が不倫しているのを目撃し、怒りに任せて殺害してしまう。この場面では、一つには不倫をしている男のほうを殺害するのと、妻のほうを殺害するのとで二通りの解釈ができる。
前者は、至極常識的な解釈である。通常であれば、自分の妻と不倫している男がいえば、その男のほうを殺害する。もし、自分の妻を愛しているのだとすれば、その愛している妻を殺害など出来るはずがないという、極めて正当な理由である。
後者の見方は、愛しているが故に殺してしまうという解釈である。通常この愛しているから殺すという行為は、一見矛盾をはらんでいるように見える。だが、愛ゆえに殺すということは、どうにも他の作品にも出てくることであり、またそうした歌詞もあることから、マイノリティーであったとしても、存在することは確かである。すると、この作品はその愛ゆえに殺してしまうという、ごくごく少数派の人物を描いたとして考えることも出来ると私は思う。
その理由であるが、学生の意見から、愛しているがゆえに、何の理由も言い訳も聞きたくなく、口を封じてしまうために殺してしまうという見解が出た。これは純白の保存をしたいという衝動の表れであると考えたい。自分の中にある、愛すべき妻の像をそのまま保存するために、妻を殺したというのである。妻の口から何かしらの理由を聞けば、そのために自分の中の完璧な妻像が破壊されてしまうからである。自分の中の妻像を守るためには、たとえ現実の世界の妻であっても、その破壊を許さないという衝動なのである。
すると、そこからこの男の性格、精神的な側面が見えてくると私は思う。この山下という男は、自己の内部に強固な殻をつくり、そこに安住の地を見つけようとする男ではないだろうか。その自分の殻が、手紙から始まり、妻の不倫を見てしまうということによって、危機に瀕した。それを何とか守るために、防衛本能として彼女を殺さずにはいられなかったのだと、解釈できないだろうか。
しかし、当然一度危機に瀕した彼の殻は、当然相当なダメージを負い、そのことによって作中の大半の部分は、自分の殻に閉じこもるという人間になったのである。清水美砂演じる服部桂子は、閉じこもってしまった彼の心の殻をもう一度開こうとする外界からの刺激であり、最終的には山下の殻は再び破られるということになったのである。

-作品と象徴性-
この作品は山下をめぐる物語であるが、それと同時にしばしば象徴性のある事物が登場する作品であると私は思う。
先ずは自転車の男。この作品では、後半近くまで自転車がしばしば登場する。初めは妻を殺害した後に、警察に出頭するために山下が自転車に乗っている。この場面、私はしかし疑念を持たざるを得ない。実際に人を殺したことがないためなんとも言えないが、妻を殺しておいてあれだけ冷静でいられるのだろうかという疑問が浮かぶ。しかも、『夜霧よ今夜も有難う』を鼻歌交じりに歌いながら、自転車で颯爽と出頭する。そうして今、妻を殺しましたと平然と言う。これはいくらなんでも不自然だと思うが、多分に苦しい解釈ではあるが好意的に解釈すれば、自己の殻を守ることが出来て安心したからと考えられないこともない。
出所後の山下は、しばしば自転車に乗る男として描かれている。通常移動手段や、移動している最中というのは、別に何の重要性もなく、省かれるものである。ところが、この作品では一生懸命に自転車を漕いでいる姿が、何度も描写されるのである。その姿から、自分の罪から逃れようとしている男と見て取れることが可能だと私は思う。特に、服部桂子の怪我を知って病院へと急ぐ場面では、彼の行為は自分の罪の逃れだということが露見しいてる。
というのは、この作品は刃物を巡る物語でもあるからだ。この作品の象徴物の一つには、刃物の存在がある。山下が初めに妻を殺すのも包丁である。何故外側に位置している棚らしき場所に包丁が用意されているのか、不明な点はある。また、包丁を使って妻を殺したのにも拘わらず、刃物を用いる職業をこなしているのも不自然である。ただ、作品の要所要所に刃物のもつ緊張性が描かれているのは確かである。
妻殺しも刃物で行ったことから、刃物は山下の罪とも結びついているのではないだろうか。だからその自分の罪から逃れようとして自転車での逃亡を図る。しかし、皮肉にも彼は床屋という職業を何故か選んでしまった。当然日々刃物に接しなくてはならず、そのことが、彼は己の罪から逃れられないことを暗示しているのではないかと私は思う。桂子の怪我は、ガラスによるものだという説明がなされたが、刃物による傷と拡大解釈すると、まだ自分の殻に籠もっていた山下からすれば、再び罪が襲ってくるという恐怖を感じ、自転車にのって逃亡をしようとしていたと、考えることが出来る。また、最後に堂島英次らがやってきて、乱闘が続くが、その場面で山下が再び刃物を攻撃の道具として使用してしまったことは、彼が罪をまた犯してしまったということを意味している。

山下の殻の問題と関わってくるが、この作品はお弁当をめぐる物語でもあると感じる。この作品において、お弁当は小さくない意味をもっている。お弁当で始まり、お弁当で終わる作品であるからだ。冒頭で、妻のお弁当を受け取る山下の姿が描かれている。これは殻がない状態の話。その後、桂子が何度かお弁当を渡そうとするが、それを悉く拒否する山下。最後には桂子からお弁当を受け取ることがげきたということで、山下の殻が再びなくなったということがわかる。
この作品がどうして評価されたのかということを解明しなければならないが、それは多分にこうした象徴性にあると私は感じる。様々な事物に何かしらの関連付けをして、様々なメッセージを織り込み、暗示しているのである。これが作品に多層的な深みを持たせ、評価に繋がったのだろうと感じる。ただ、私はこの象徴物にも多大な欠陥があると感じている。自転車と刃物はまだ良い。ただ、お弁当が一体なにを表すのか、またタイトルともなっている「うなぎ」が一体何の象徴物であるのか、それがはっきりしない。

-うなぎとは何か-
この作品の最大のテーマである「うなぎ」。しかし、私はその「うなぎ」のために、大きな欠陥がこの作品にはあるといわざるを得ない。そもそも原作は吉村昭の小説『闇にひらめく』というものである。原作を読んでいない状態では何とも評論しづらいが、少なくとも「うなぎ」というタイトルではない。別にうなぎにする必要はなかったのではないかというのが私の見解だ。
そもそもどうして山下がうなぎを飼っていたのかがわからない。妻の殺害より前から飼っていたという描写はないし、刑務所に服役中の男がうなぎなどを飼えるはずがない。歩き方が身に染み付いてしまうほどの生活をしていながら、どうして刑務所の係員たちがたかが一人の男のペットのうなぎの面倒を見るのだろうか。
また中盤まで山下は、うなぎがどういう生物か知らずに飼っている。観客への説明のためか、漁師の男が山下にうなぎの生態を教える場面がある。しかし、これを入れたことにより余計に山下がうなぎを何故かっていたのかが不明になる。うなぎは何万キロと旅をした南の海で出産をする。卵を一体にばらまいて、そうしてオスはそれに精子を降りかける。だからだれがだれの子かわからないというのが、この物語の重要なポイントらしいが、全くそれらの関連性は理解できない。少なくともこの山下の親が本当の親ではないというような描写があれば、ある程度の説得はあったかも知れない。しかし、そのうなぎの説明と、最後の山下のつぶやき、自分の子ではない子を授かるから(うなぎに向かって)お前と一緒だというセリフには、何の関連もない。
むしろうなぎを描かなかったほうが良かったのではないかと思われるほど、この作品とうなぎの象徴性というものは合わないものである。うなぎの説明が圧倒的に足りないのと、その説明が全くほかのものと繋がらない点。特に山下とうなぎの接点は、本人こそ同じと言っているが、そのような連関性は皆無である。これがこの作品の大いなる欠点であると私は言いたい。

-終わりに-
多義的に解釈できる作品はすばらしい作品であるが、この作品は好意的に解釈していっても、途中で頓挫してしまうという欠陥品であると私は感じる。山下がたとえ愛のために妻を殺す男だとしても、どうしてそのような性格の持ち主になったのかを描く必要があるし、他にも登場人物の内面の描写が非常に粗いと感じた。唯一桂子だけはある程度その背景が理解できるように描写されていたと思うが、他の大物俳優は、ただ顔だけの出演になっていて、それらの人物の背景が全く描かれないというのは残念なことである。桂子の母の一原悦子も、どうしてああいう精神病を患ったのかを描く必要がある。常田富士男や倍賞美津子などの俳優を出しておきながら、それらの人物像が粗いということは紛れもない事実である。特に『日本むかしばなし』の一原悦子と常田富士男を同時に出しておいて、何もしないというのは理解に苦しむ。
この作品は山下の心理を描けなかったという部分に大きな欠陥がある。

テレビコマーシャルに見る、機械の擬人化。コミュニケーションツールの発達による人間の孤独への試論








-初めに-
最近よくコマーシャルで機械が人間になったという設定のものを見ます。携帯端末が擬人化されているのです。この現象が多く見られるようになったのは、特にスマートフォンが流通しはじめてからだろうと私は感じています。
これまでの携帯端末とは明らかに異なる能力を持つタブレット機器。その表現として、機械が擬人化するのはとても面白い表現であります。スマートフォンの流行より少し前からそうした傾向はありました。なにか便利なアプリケーションがその役割を果たすのです。4つめの木村カエラは携帯というよりは、携帯のアプリですね。他にもいくつかあったと思います。見つけられなかったのですが、執事とひつじを掛け合わせたアプリのCMがあったと記憶しています。あれも擬人化されて、主人である携帯の持ち主をサポートするという内容になっていたと記憶しています。
決定的になったのが、渡辺兼が演じるスマートフォンでしょう。それ以前から堀北真希などが演じています。そうしてそのようなCMの多くは、携帯の持ち主となる主人と、その携帯の間に強い絆があり、対話式の暖かな交流があるように描かれています。

-CMとは-
CMとはまず何かということから考えなければならなりません。CM、コマーシャル。これらはある販売したい商品をいかにわかりやすく、そうして買いたいという意欲をそそるかが重要になってきます。先ずその商品が一体どういう性質のものであるのか、具体的にわかるようにしなければなりません。イメージを植えつけるのです。ですから、優秀なアプリケーションであれば、こんな便利なことが出来るということをアピールするのです。
4つ目の木村カエラのCMでは、彼女は携帯の健康を管理するアプリとして登場します。携帯アプリが携帯の持ち主の健康状態を管理してくれるというもの。それを例えばこのようなグラフになって表れますとか、このような数値になってサポートしてくれますとかいっても味気ないわけです。木村カエラが登場して、携帯の持ち主と対話をする。そんなものを食べても大丈夫なのかと質問するのです。
その次に購買力をそそらなければなりません。渡辺兼やダースベイダーなどの社会的に地位があるというか、存在感があり、いかにもしっかりした人物が、タブレットとして擬人化します。こうしたタブレット機器というものは、しっかりしていて、それでいて有能で、一所にいると安心するものなのでしょう。そうした性質がよくCMに表れています。
渡辺兼が出てきて主人と対話する。もちろん本当はそんなはずはないのです。しかし、自分だけの言うことを聞いてくれる、優秀な秘書のような存在。或いは友のような存在。時には自分を導いてくれる存在として描かれるのです。
この世界では対話がなされています。それが重要な視点であると私は考えます。

-コミュニケーションツールの流通による孤独感-
コミュニケーションツールを皆さんはどのようにお考えでしょうか。私が所属する部のOBで、携帯がなかった時代の話をしてくれたことがあります。好きな人に連絡をするのが楽でない時代、黒電話の前で電話をしようかしまいか悩む時間はよかったぞと語ります。
以前は大変でした。例えばポケベルは当時大変な発明だと誰もが思いました。それ以前には固定式の電話しかなかったからです。携帯ようの電話が開発されても何十万もするようなもの。やがてポケベルが開発され、一大ブームとなった。さらに電子端末の発展は進み、今では携帯の所有率は中高生限りなく100パーセントに近い数字に達しています。
携帯があれば、いつでもどこでも簡単に連絡が取れます。ちょっとしたメールから、大切な告白まで、なんでも簡単に、思い立ったら今すぐにでも出来るのです。ただ、初めから携帯に慣れてしまっている人は、その連絡があまりに簡単にできるために、内容などが軽くなってきているのが現状だと私は感じています。以前は手紙を書いていました。手紙は先ず何を書くのかを決めて、それから文にして起こしていく。当然筆跡もその人柄を表す重要なメッセージの一つとなっていました。
ところが、早い人であればほんの数秒でメールが打ててしまう。言葉の乱れも横行し、省略、簡素化の道を辿りました。それがスピード社会、高度な情報化社会の弊害だと私は考えています。内容をしっかり考えて打つということが非常に少なくなっているのです。
また、そうした短い言葉には感情がなかなかこもりません。ですから、例えば「ばか」と書いただけでも、冗談でばかといっているのか、或いは本気でばかといっているのか全く判らないのです。そのため発達したのは絵文字。日本の絵文字は外国の人が見ても驚くべき種類の量があると聞きます。それだけ、日本語が複雑な感情を含んだ言語であるということをあらわしていると私は思うのですが、それはさておいて。省略、簡素化した後は、絵文字を多用して、何とか自分の気持ちを伝えようとするのです。
しかし、まあそんなことをするのなら直接会えよと私は思うのですが、なかなか現在の忙しい社会のなかではそれができない。しかも悪いことに、コミュニケーションツールの発達は、人を孤独にするのです。
先ず、極めて高速で情報のやり取りがなされるようになると、時間が命になります。ですから、当然時間の存在、時間の制約が強くなり、人間の持てる時間が少なくなります。それから二つ目。コミュニケーションツールが発達したおかげで、簡単に人と繋がることが出来ました。しかし、物事は簡単なものはあまり尊重されなくなります。高級なものは、貴重だから高級なのです。貴重はなかなか手に入りにくいものだから貴重なのです。ですから、コミュニケーションが簡単になったということは、コミュニケーションのデフレをそのまま意味し、価値の低いものとしてしまいました。
内容のない、安いコミュニケーションをするものだから、余計に人は寂しくなるのです。現実には会っているわけではない。ただ、繋がってはいる。でも、その繋がりは非常に弱いものであるし、内容の薄いものであるから、余計に不安になり、また連絡をせずには居られない。そうしてコミュニケーションツールを使えば使うほど、人間は薄弱のコミュニケーションの不安の中に取り込まれていくのです。これがコミュニケーションツールの発達による孤独感です。

-コミュニケーションツールの危険性-
そうした孤独感が私たちの世界を覆っていました。コミュニケーションツールに対するこのような批判も一時期流行っていたようです。その不安感に付け入ったのが、この機械の擬人化するCMです。ですから、上手いことやったともいえますが、同時に私は人の弱みをわかっていながらそれを利用したという汚い手法でもあるということを、考えて欲しいのです。
今までのガラパゴス式の携帯では、擬人化はあまり見られませんでした。そこで、この擬人化です。人々は、携帯が自分の話し相手になってくれるのではないかというような妄想を生みます。それだけ優秀なタブレットであれば、自分とのコミュニケーションを満たしてくれる存在になるだろうと考えたのです。
以前はこのようなことはありませんでした。繋がっている相手が身近にいるようなCMばかりでした。それが機械自体が擬人化してしまった。人間として対等な或いは執事的な、或いは指導者としての側面を持つ人物が、それぞれの状況に応じて私たちの目の前に現れる。
人々はもう寂しいのです。それを携帯会社もよくわかった上でこうしたCMをやっているのですから、私はいずれコミュニケーションの崩壊がくると予想します。いくら科学技術が進歩したからといって、機械が人間の対話相手になったら、人類は終わりです。コミュニケーションという、極めて高度な生物の持つ特性を、たかが人間が作り出したおもちゃごときがこなせるわけがないのです。こういう言い回しをすると差別的に聞こえるかも知れませんが、私は敢えて、機械が人類の対話相手になる危険性を考えてこう宣言しているのです。
こうした携帯型端末の中毒になってしまった人の話などをよく聞きます。そうでなくても、駅で町で、歩きながら使用する危険性。あるいは恋人や友人といるのに平気でほかの人間と連絡を取り始めたり、アプリで遊び始めたり。そうしたことでよろしいのかと、私は問いたい。

-終わりに-
私個人としては、こうした携帯端末を持っていないので、イメージとしては小さな図書館を片手に持ち歩いているという感覚があります。いつでもなんでも調べることが出来る。私はこうした機械を通じたコミュニケーションを好まない人間です。よく周りからはどうしてそれで生きていけるのかとか、古風な人間とか言われます。しかし、携帯を携帯しなくとも、私は現に生きていますし、同僚のなかではコミュニケーション能力に長けた人物として評価されています。多少驕りですが。私は人と対話をすることが大好きです。人と直接話すこと。その人の動作、表情、言葉の使い方、声色、そうしたもの全てを、私たちのコミュニケーションは必要としているのです。とても短文のメールや音声だけでは対話は成り立ちません。
私はコミュニケーションを大切にする人間だからこそ、直接人と話したいと思っています。もちろん科学技術を否定しているわけではありません。現にこうしてブログをやっているのもパソコンですし、友人と電話をしたり、メールをしたりします。ただ、それを使用して普段のコミュニケーションをするなよと私は言いたいのです。日常的にメールで対話をする人がいるようですが、そうした偏りは、いずれコミュニケーションの崩壊となって人類を破滅に導くと感じています。そうした危険性を、私はこのCMから受け取ることが出来るのです。

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