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アンパンマンのマーチへの試論 テクストとして新しい詩の解釈・弟へ向けて作られたというバイアスからの解放


-初めに-
アンパンマンは誰もが知っている日本のアニメのヒーローです。もはや説明すつ必要もないかと思われますが、一応基本的な知識を述べておきますと、やなせたかしによる絵本シリーズ、およびこれを原作とした派生作品の総称です。最も我々にとってポピュラーなのは、1988年より放送されているテレビアニメシリーズ『それいけ!アンパンマン』。
元々アンパンマンの原型作品は、1969年に「PHP」誌に連載されていた(大人向けの)読み物『こどもの絵本』(単行本のタイトルは『十二の真珠』)の第10回連載「アンパンマン」(10月号掲載)。アンパンマンは現在のような三頭身ではなく、八頭身の人間であったのです。最近ではテレビ番組での紹介もあり、そうした知識が広まってきていると感じます。物語の骨子として、貧しい人々にパンを届けるということは依然として共通したテーマになっています。

-バイアスとしてのアンパンマンのマーチ-
さて、今回論じるのはテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』のオープニングテーマ『アンパンマンのマーチ』です。
1988年の放送からずっと変わりませんから、優に20年以上は毎週放送されつづけているということになる、まさしく人口に膾炙した楽曲です。近年では、童謡としても親しまれるようになりました。このメロディーを聴けば誰もが歌を口ずさむことがほど、国民に定着した曲は他に類を見ません。しかし、またそれだけ多くの人々に知れ渡るということは、それだけ多くの解釈が生まれるということでもあり、ネット上では様々な尾ひれがついた伝説で溢れかえっています。今回この『アンパンマンのマーチ』の歌詞を論じるのは、そうしたバイアス(先入観・偏見)から解き放たれ、一つの詩としてみたときに何が描かれているのかを、もう一度見当する必要があると感じたからです。

アンパンマンのマーチの浅い解釈は、先ず小さいころに起こるでしょう。「愛と勇気だけが友達さ」という部分はあまりに有名。そのことば尻を捉えて、だけという言葉を嫌に拡大解釈して、「愛と勇気しか友達がいない」悲しいアンパンマンであるということを誰もが口にします。その後、アンパンマンのマーチは作詞をしたやなせたかし氏の境涯に重ねて論じられます。しかし、それは作者のものとしてしか詩を読んでいないわけで、実に狭い読みであり、しかもアンパンマンのマーチというタイトルを完全に無視していることに他ならないのです。
よくあるバイアスは、やなせたかし氏の弟の存在と絡めて論じているもの。やなせ氏自身も従軍体験があり、また弟は特攻隊として戦死しています。誰もがこの知識を知った後にこの詩を読むと、それとなく深いものが描かれているのだなと感じてしまいます。しかし、弟に向けて描かれたとはやなせ氏自身も公言しているわけでもなく、それはあくまで個人のこう解釈したいというバイアスにしか他ならないのです。
あくまでこの詩はアンパンマンのマーチであり、アンパンマンに向けて贈られた詩であると解釈します。

-アンパンマンのマーチ- 
作詞 やなせたかし 作曲 三木たかし
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為

何が君の幸せ 何をして喜ぶ
解らないまま終わる そんなのは嫌だ!

忘れないで夢を 零さないで涙
だから君は飛ぶんだ何処までも

そうだ!恐れないでみんなの為に
愛と勇気だけが友達さ

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為

時は早く過ぎる 光る星は消える
だから君は行くんだ微笑んで

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえどんな敵が相手でも

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為

-アンパンマンマーチの解釈-
あまりに突拍子もない始まり方です。そうだ!から始まる詩はそうあるものではありません。突然何かにはっと気がついたかのように、そうだと確信を持ちます。しかもその度合いは!(エクスクラメーションマーク)が使用されていて、極めて強調されていることがわかります。エクスクラメーションマークは合計で9つ使用されています。これだけの短い詩のなかに、9つもの強調があるということは、非常に力強い意思があることを感じさせます。
この詩の基本的なスタイルですが、一人称と二人称が混ざった文体となっています。
突然に何かしらのことが起こります。それは語り手を「そうだ!」と驚嘆させ、しかもその後に続く、一連の人生哲学とでも呼ぶべきものを一瞬にして理解させて位しまうほどのことです。あまりの衝撃に、語り手は「生きる喜び」が「嬉しい」ということを感じ取るのです。その後に続く「たとえ胸が痛んでも」は、何かのアクションがあり、それを行うことが胸を痛むことであるということをあらわしています。
何かのアクションがあり、語り手は「そうだ!」と「胸が痛んでも」「生きる喜び」を感じることが「嬉しい」ということに気がつくのです。

自問自答というか、この世に生を受けたことへの根本的な疑問を口にこぼします。「何の為に生まれて 何をして生きるのか」しかし、その答えを言う前に、「答えられないなんて そんなのは嫌だ!」と強く断言するのです。つまり、それまでは答えられなかったのかも知れないという予想が出来ます。それが何かしらのアクションがあったことにより、「そうだ!」といって、その答えに辿り着ける可能性を見つけたのでしょう。その答えは「今を生きることで 熱いこころ燃える」こと。
「の為に生まれて 何をして生きるのか」という問いの答えは「今を生きることで 熱いこころ燃える」ことなのです。こういうことがわかったために、「だから」という接続語を用いて「だから君は行くんだ微笑んで。」と自分なりの気づきを明言化します。その後に、また最初に二行のリフレイン。
ここで、何かしらのアクションが、「君が行く」ことだということがわかりました。ですから、整理すると、
「君が行く」ということは「今を生きることで 熱いこころ燃える」ということで、それは私にとって「たとえ胸の傷が痛」んでしまうことではあるが、「生きる喜び」を感じることが「嬉しい」ということをやっと理解することが出来たのです。
「嗚呼アンパンマン優しい君は 行け!皆の夢守る為」ここで初めて出てくるのが、烈しい命令形。これまでのエクスクラメーションマークの用法は、一つは自分の内部においての新しい事実の気づきへの驚き。もう一つは、答えが見つからないのは絶対に嫌だという強い意志。ところがここで、突然アンパンマンに対して行け!と極めて強い口調で命令をするのです。「君が行く」ことは「胸が痛む」ことであるはずなのに、その君=アンパンマンに対して行け!と心とは反対のことを言うのです。それまでは恐らくこういうことを語り手はいうことができなかったでしょう。しかし、いざアンパンマンが「行く」というアクションを起こしたときに、はっと生きることの意味について悟り、「皆の夢守る為」に「行け」と叱咤激励するのです。

今度は自問自答ではなく、アンパンマンへの問いかけ。「何が君の幸せ 何をして喜ぶ」しかし、その答えを聞く前に、「解らないまま終わる そんなのは嫌だ!」と断言します。「行け!」と送ることが出来た語り手は、次にアンパンマンへの要求を述べます。「忘れないで夢を 零さないで涙」。
「だから君は飛ぶんだ何処までも」この「だから」は少し解釈が難しいところですが、初めの部分の「だから」と同じ方法で使用していると考えると、「夢を忘れない」ため「涙を零さない」ために、「何処までも飛ぶ」という解釈が成立します。
次の「そうだ!」は、「夢を忘れない」ため「涙を零さない」ために、「何処までも飛ぶ」ことへの気づきとともに、強い応援のメッセージも含まれていると感じられます。「恐れないでみんなの為に」「何処までも飛」ばなければならないのです。そうして問題の「愛と勇気だけが友達さ」。最後まで読むとさらにわかりやすくなりますが、ここでも既に十分解釈が成り立ちます。飛んでいくのに「恐れないで」という条件がつきます。アンパンマンほどの優しい君が「恐れる」ほどの険しい道とは一体どのような道でしょうか。それはまた下でも説明がなされていますが、ここですでにアンパンマンがこれから行こうとしている道が大変厳しいものであるということがわかります。その困難の道のなかを飛んでいくためには「愛と勇気」が必要なのです。それ以外の恐怖や悲しみは必要ないという意志が「だけ」という言葉に表れているのではないでしょうか。
「嗚呼アンパンマン優しい君は 行け!皆の夢守る為」この短い詩の中に、「夢」という言葉は4回出てきます。この夢は三回目ですが、上の「忘れないで夢を」とはアンパンマンの「夢」のことを指していると考えられます。そうして「皆の夢を守」らなければいけないのですから、「アンパンマンの夢」というのは「皆の夢」を守ることであるということが判ります。

「時は早く過ぎる 光る星は消える」あまりに悲しい部分。アンパンマンの行先が諸行無常の世界であるということが窺えます。何も鴨は無常である世界にこれから行こうとしている。それを見送りながら、「だから君は行くんだ微笑んで」。微笑んでというのは、だからがあらわしているように、「時は早く過ぎる 光る星は消える」から「微笑んで」いるように感じられます。アンパンマンはこれから恐怖や悲しみの世界に突入しようとしています。皆の夢を守るためです。皆の夢を守るというアンパンマンの夢は、かなり厳しいものがあります。しかし、既に愛と勇気が友達となっているアンパンマンは、そんなこと考えもせずに、微笑んでその苦難に突入しようとしているのです。
「そうだ!嬉しいんだ生きる喜び」のリフレイン。再び生きる喜びを感じることの嬉しさを確認します。そうして「たとえどんな敵が相手でも」という、初めてアンパンマンがこれから行く先には敵が待ち受けていることがわかります。それを知っていてもなお、語り手は「嗚呼アンパンマン優しい君は」「行け!皆の夢守る為」とアンパンマンを送りだすのです。

-終わりに-
確かに戦地へ行こうとしている弟へ向けて贈ったといわれると、完全に当てはまってしまうのです。ですが、これは仮にやなせ氏が亡くなった弟を思っているという感情があったとしても、アンパンマンに向けて描かれたものであることには間違いないのです。
アンパンマンは正義とは何かということを、深く考えた作品であると作者自身も言っています。そのアンパンマンを戦地へ送るうたというのが、このアンパンマンのマーチなのではないでしょうか。皆の夢を守るために、これから敵と戦わなければならない。その敵というのは、もちろんバイキンマンではありません。皆の夢をおびやかす、過ぎ去る時や、星の光を消してしまうほどの、悲しみ、恐怖なのです。だから、例の「愛と勇気だけが友達」である必要があるのです。ですから、これは決して「愛と勇気だけ」しか友達がいない悲しい人物を描写しているのではなく、あらゆる負の観念に打ち勝つための最大の友達を持っていると考えることが出来るのです。
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アニメ映画「人狼 JIN-ROH」への試論 感想とレビュー 歴史的ifの描写による現代国家日本の愚直性の露見

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アニメ映画「人狼 JIN-ROH」への試論 感想とレビュー 歴史的ifの描写による現代国家日本の愚直性の露見
-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
2000年6月3日に公開された日本のアニメーション映画である。上映時間98分日本での映画公開時に映倫からPG-12指定となっている
古典童話『赤ずきん』の「赤ずきん」と「狼」を、左翼反体制の「アカ」及び、帝国主義的体制を指すスラング「狼」として対置させた寓話。
ケルベロス・サーガは、押井守原作による、「ケルベロス」シリーズの作品の総称。第二次世界大戦がドイツ・イタリア枢軸国と日本・イギリス同盟の戦いで、戦敗国となった日本はドイツ軍に占領された、という設定に基づく架空の歴史物語である。
以上がウィキペディアからの概要。今日は押井守監督の、「ケルベロス」シリーズから、「人狼 JIN-ROH」を論じます。
伏一貴、雨宮圭、辺見敦、半田元

-第二次世界大戦の作品への影響-
第二次世界大戦が日本にどのような影響を与えたのでしょうか。あまりに、人類史上類を見ない破壊が起こってしまった日本。唯一の原爆が投下された国だからこそ、完膚なきまでに破壊されてしまった国だからこそ、日本は他の国にはない、ある意味では貴重な経験のある国だといえます。
世界中の誰もが驚嘆するのは、日本人の復興への力。古来より大地震のために天災のために、日本は大きな被害を定期的に受けるという不幸がありました。しかし、そのなかで、天災にも負けない強さを養ってきたのかも知れません。第二次世界大戦という、完敗を迎えても、たったの11年、1956年の『経済白書』には「もはや戦後ではない」という有名な文句が謳われています。
国民所得倍増計画があり、後に高度経済成長へと続く一連の流れで、人々の心は拝金主義に傾きつつありました。恐らくそれが70年代、80年代の物質的には豊かになっても精神的には貧しいままだという焦燥感に繋がったのだと私は思います。
第二次世界大戦が持つ影響は、完全と復興が成し遂げられたと思われる時代まで、その尾を引いているのです。そのため、しばしば作品のなかには、もし戦争がおこらなかったら、もし戦争で勝っていたら、もし戦後別の道を歩んでいたら等々、戦争を一つの区切りとして、そこに視点をおいたものが多数製作されました。
『AKIRA』はその典型例。戦後さらに東京で原爆が爆発したら、という想定があります。00年代に公開された映画『怪人二十面相』でも、もし戦争が回避されたらという想定があります。この作品ももし、第二次世界大戦の同盟国が別で、ドイツに負けたらという想定のもとに成り立っているのです。

歴史にIFはないといわれます。しかし、第二次世界大戦という、あまりに大きな、人類の歴史上あまりに壮大な区切りがあるために、私たちはもしかしたら、別の世界があったのではと予想せずにはいられないのです。そうして、「もし」の世界を描くことは、そのまま翻って現在の日本、あるいは世界までをも見つめなおすという、壮絶な試論でもあると、私は思います。
戦後日本が行ってきたことは正しかったのか、あるいは間違っているのか。IFのない歴史において、そんなことがわかる人はいるはずがないのです。ですから、そこにIFの世界を構築する。もしこうなっていたら、ああだよねという例を提示することによって、現在を見つめていこうとしているのです。
この作品では、史上では同盟国であったドイツが日本の敵となり、それに負けてしまったという想定のもとに世界が構築されます。中高生でも、もし第二次世界大戦でドイツと日本が勝っていたら、世界共通語はドイツ語と日本語だ、だから英語勉強しなくてもよかったかも知れないのにと口にこぼすことがあるでしょう。しかし、この作品はそもそもドイツが同盟国ではないという地点から出発しています。
これは実に不思議な発想で、もし味方が敵だったらという想定は通常は少数派でしょう。敵がもし味方であれば、という方向で勝てたのではという良い方向へと持って行きたい気持ちはだれもが理解できるものだと思います。しかし、味方が敵であったなら、負け方がより悲惨であればどうなったのか、ということを描くことは、一体どういう意味なのでしょうか。通常とは全く反対の方角からアプローチをかけている時点で、この作品は異例であると同時に、また今までの描かれてきたIFの世界に対しても、そのIFの世界でよいのかという警鐘にもなっていると感じられます。

-政治的策略・翻弄される男、伏-
日本の自衛隊は警察予備隊から紆余曲折を経て現在に至ります。憲法9条に反しているだとか、何とかいろいろと問題がありますが、それほど暴動になったり、血が流れるような事件は、起きていません。ごく小さくあったとしても、海外の治安部隊と市民との戦いのようなものは少なくとも日本にはありませんでした。しかし、この作品では、セクトと呼ばれる過激派集団が日本に存在し、その力を抑えるために、「首都圏治安警察機構」通称「首都警」を設置したのです。この「首都警」、自治体警察の政府への進出を阻むと同時に、自衛隊の治安出動を回避するために、警察機関の管轄として設置しています。
かなり精密に作りこまれた社会派の作品であるため、「もし」が極めて説得力を持っているのです。
物語の視点は主人公である伏一貴に置かれます。彼は首都警の巡査。セクトの運び屋である「赤ずきん」を追跡中に、追い詰められた少女は、伏の目の前で自爆します。彼女を救えなかったことがわだかまりとなり、優秀だったはずの彼は全く使いもにならなくなってしまいます。彼女を自爆させてしまったこと、しかし自爆させなかったにしろ、撃ち殺さなければならなかったこと、こうした究極の選択を、結果として受け止めることができないのです。

この伏と少女との邂逅が全てを狂わせます。伏は首都警の特機隊であると同時に、一部では「人狼」という諜報組織の一員でもあると噂されます。首都警公安部の部長室戸文明は、もはや時代の流れから逸脱している烈しい戦闘行為を憂い、新たな組織の樹立のために、特機隊の粛清と、「人狼」の壊滅を同士にたくらみます。
その室戸の手下になるのが、伏の同期でもある辺見。伏は、沈黙の人として、描き続けられます。あらゆる戦闘技術に長けた人物である伏ですが、その人格はストイックなのか、全く人と交わるということをしません。辺見はそういう点で、伏とはまったく異なる性格の持ち主で、対外的には友好的で、策を弄する人物。主体的に人と人との陰謀の間を上手くすり抜けていくことの出来る男として描かれています。伏はそうしたことが苦手。よくも悪くも愚直なのです。ですから、自分から何かを考えて、行動に移そうということはしません。それが原因ともなって、彼は様々な人々の思惑にはめられて、身動きがとれなくなっていくのです。
半田元は、伏の上司。特機隊の副長ですが、裏の顔として、諜報部隊「人狼」を秘かに組織しています。この組織は首都警においても内部の敵のような存在になっており、もし、新たな体制を築くにあたってはどうしても邪魔になる存在ということで、特機隊と、「人狼」を同時に破滅に追い込もうというのが物語りの背景。こうした政治的なやりとりというものは、非常に難解であり、常識では理解しがたい部分があるため、一回見ただけては読み解けないかも知れません。

この作品は、そうした時代の流れ、政治的な流れに翻弄された一人の人間の物語と言えるでしょう。冒頭で死んだ「赤ずきん」の少女の姉と名乗る雨宮圭が翻弄された人物であるかは、少し判断の迷う部分ですが、彼女もまた伏を翻弄した人物であることから、彼女は被害者というよりかは、犠牲者、どちらかというと加害者のほうだと私は考えます。
というのも、最終的には彼女もまた邪魔になる存在として殺されてしまいますから、ある意味では翻弄されたとも見えるのです。ですが、それは自分でもわかっていたことですし、積極的に伏を騙していたことは事実ですから、やはり時代の犠牲者とまでしか言えないと思います。被害者は伏です。彼は全く悪くはないのです。
あまりに大きい時代、政治の流れに対して、一人の人間が如何に小さな存在であるか。組織の上の人間の判断一つで、どれだけ多くの人間が動き、そうしてその犠牲とならなければならないのか。理不尽な運命が降りかかったとき、人はどうするのか、こうしたことに対して一つの例を提示しているのが、この作品だと私は思うのです。
伏は、彼自身全く業があるわけではないのです。全て外界から影響が彼を苦しめるのです。彼はそれをただひたすらに耐え続ける人間として描かれます。政治の流れ、時代の流れに翻弄され、その中でも一生懸命訓練をして、人よりも優れた技術を有した。しかし、その強さがゆえに、「人狼」のリーダーでもあり、伏の上司でもある半田から勧誘を受け、結局「人狼」に属していることが、彼が狙われれう原因となる。
最後にあっても、彼は自らの意志で選択をするという余地が全く描かれないのです。特機隊滅亡を図る辺見達の襲撃には、その裏をかいて撃退。物語の最後は、転覆を図ろうとした公安部の部下の失敗に終わります。「人狼」は勝利するのです。しかし、その勝利とは裏腹に、公安部と「人狼」の二重スパイをしていた「赤ずきん」の雨宮圭は、その存在が邪魔になり、始末されることになります。
その始末を少女との恋のような関係を作りつつある伏に対して行わせるのです。上司であり、自分の面倒をずっと見てきてくれた恩人とは言え、伏は力があります。その場で仲間である「人狼」の全員を殺してでも少女を守ることは出来たのです。しかし、彼は上司の命令を全うするほかありません。そうした愚直さが、彼を最も不幸な人間として存在せしめるに至ったのです。

-終わりに-
私はこの伏という男を現代日本と置き換えることが出来ると感じています。ただひたすらに耐える。耐え続けて、命令を実行する。己の私情を一切挟まないで、愚直でありつづける。まさしく戦後日本と同じだと感じます。その姿に他人は他国はすばらしいと賞賛するでしょう。伏が確かに一流の技術を有して重宝されたように、経済成長を遂げ、GDPが世界トップレベルになって、確かに優秀な国家となりました。しかし、現実にはアメリカに原爆を落とされてもただ耐えるだけ、現在で言えばロシア・中国・韓国に領土を侵されてもただ耐えているだけの愚直な国家になりさがっているのです。
「人狼」と書いてじんろうと読む。伏は結局人にも狼にもなれなかった人間なのです。彼がもし人なら人、狼なら狼になりきることが出来ていたならば、割り切ることが出来ていたならば、他の人生もあったかも知れません。少女を「赤ずきん」の物語から解放し、命を救えたのかも知れません。
これは「赤ずきん」という古典童話を下敷きに、現代日本を別の視点から描きだすことによって、その愚直さを露見し、現代に警鐘を与える作品であると、私は解釈します。

アニメ・アニメ映画「機動戦艦ナデシコ」への試論 「戦艦もの」の系譜・名作の踏襲から、作品の性質と時代の流れ

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
『機動戦艦ナデシコ』(きどうせんかんナデシコ)はSF・ラブコメアニメ。1996年10月1日から1997年3月25日までテレビ東京系で放送された。1998年8月1日には続編に当たる劇場用アニメ『機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-』が公開された。
今回は戦艦ものの、集大成とでも言ってよい作品を論じます。

-戦艦ものの系譜-
戦艦もののアニメはどこから始まったのでしょうか。機動戦士ガンダムから、宇宙戦艦ヤマト、マクロスシリーズと戦艦ものの系譜があります。これらの戦艦が物語りの主流をなす作品は、70年代が多かったということがここからわかります。それぞれシリーズものとして、後々まで愛される作品となっていますが、戦艦ものが最も勢いあったのはやはり70年代でしょう。
00年代に入ると、コードギアスや新しいガンダムシリーズで再び機械類に着眼されますが、戦艦にはあまり注目されなくなってしまったのだと感じています。
門外漢の私が語るのはあまり好ましいことではありませんが、兵器として考えた際に、ガンダムでもそれは言及なされていますが、戦艦というものはすでに時代遅れの代物になってしまったのではないでしょうか。ファーストガンダムではミノフスキー粒子を撒布することによって、それまで主力であった戦艦が、いともかんたんにモビルスーツに破壊されてしまいます。モビルスーツ一機だけで、何百人もの軍人がのっている戦艦が簡単に落とされてしまう。歴史をひもとけば、これは第二次世界大戦の日本と同じであるといえます。世界最強の戦艦とよばれた「大和」は、しかし時代に見放されまいた。もはや空母が必要となった時代。戦艦同士の対決はほとんどなく、空中へ解き放たれた飛行機からの猛攻によって、戦艦はなす術もなく、いくつも撃沈されました。
これがアニメ会においても、やはり影響していると感じられるのです。言わば第二次世界大戦で飛行機の役割を果たしたのが、モビルスーツに変容しただけなのです。ですから、物語は戦艦からモビルスーツなり、人が搭乗する兵器へと視点が移されていきました。
ファーストガンダム並びに宇宙世紀シリーズでは、戦艦にモビルスーツと同様の重点が置かれています。ガンダムはそうした点で、他の兵器物語とは違うのです。戦艦がかなり重要な意味を作品の中で有しています。
宇宙戦艦ヤマトは、ガンダムより以前の作品ですから、モビルスーツという概念はまだありません。当然戦艦同士の戦いとなるわけで、戦艦だけを描いた作品として、これが最後の作品となっていると思います。
マクロスになると、戦艦といって良いのか少し疑問が残りますが、変形する戦艦としてマクロスが主体となっています。ただ、この作品ではガンダムのモビルスーツと同様、バルキリーに半分以上の重点が置かれてしまっているため、生粋の戦艦ものとは呼べません。マクロス7になると、戦艦としてバトル7への力点が割りと置かれていると感じられます。

さて、このような戦艦を物語のテーマとした物語。どうしてアニメでは戦艦を描くのでしょうか。戦艦とは一般的にいって、様々な人々が乗り込む場所になります。移動式の要塞であり、街なのです。小さな集合体として解釈することもできます。
戦艦ですから、その名の通り戦闘を行うのが主な目的です。ですが、長距離の移動をも兼ね備えている戦艦は、戦闘だけがメーンではありません。むしろいつ戦闘になるかというなかにおいて、日常があるのです。戦闘が非日常だとすると、メーンはやはり日常に置かれるのが筋ということにならないでしょうか。
ただ、この日常は、我々の日常とは多少異なります。いつ戦闘になるかわからないという常に緊張がある日常なのです。通常の人間であれば、神経が持ちません。そこでどうなるか、戦艦に搭乗している人々は、戦闘のことを考えないようにほかの搭乗人物とかかわるのです。戦艦は移動式の要塞ですから、当然戦艦のなかには病院があったり、食堂があったり、小さな町がそのまま移動しているという状態になります。ただし、あくまでも究極目的としての戦闘を念頭において、閉鎖された空間での長期の生活ですから、ストレスがたまります。そのストレスを打ち消そうと、人々は苦心し、そこに物語り・ロマンが生まれるのです。

-それぞれの名作から、戦艦ものの特徴の抽出-
『機動戦艦ナデシコ』は原作がありません。いきなりアニメとして展開された作品なのです。ですから、当然作者の所有物というよりかは、スタッフ一同のアニメに対するイメージがそのまま投影されているので、大変参考になる作品だと考えられます。
ちなみにアニメ放送に先駆けて「遊撃宇宙戦艦ナデシコ」が麻宮騎亜により発表されていますが、これは原作というわけではなく、他メディアでの展開ということで、あまりアニメとの連関性は見出せません。

90年代も終わりに差し掛かり、20世紀が終わろうとしていました。人々は何か世紀が変わることに意識を持っていたと思います。アニメにも、何かしらの区切りがあると考えられていたのか、実際に20世紀と00年代との作品とは大きな差があると私はおもいます。
このアニメはまさしく90年代の締めくくりとして、また戦艦ものの集大成としての側面がかなり色濃く出されています。
ガンダム・ヤマト・マクロスによって、戦艦のブリッジが舞台となる物語の展開が定着しました。物語は常に戦艦のブリッジのなかで起きてきたのです。そうして個性豊かなそれぞれの軍人がぶつかりあいながらも敵を倒して成長していく。これが基本となります。
この作品はそうした、戦艦ものの特徴を全て抽出して詰め込んだ作品です。作中でも言及されますが、艦長とはどういうものかという問いに対して、ナデシコのコンピュータは経験豊富で、確固とした意志の持ち主である、髭を生やした老人タイプが今までの主流だったと述べています。この作品が、そうした艦長を持ってきたアニメの後継であることを如実に表している部分だと私は感じますが、コンピュータの言及はさらに続き、現代では、艦長の役割が必要なくなったことを述べます。殆どがコンピュータ統御される時代となっては、戦闘においての優れた作戦指揮能力を有する必要がなくなり、専ら隊員たちをまとめるだけの役割としての側面しかないというのです。それが、現代の艦長で、若い人間である場合も、女性が艦長である場合もあるということになります。事実、00年代に入ってコードギアスや、新しいガンダムシリーズなどの艦長は、いままでのそれとは違い、若かったり、女性だったりします。この点において、唯一マクロスだけは古きよき艦長というようなものへの憧れがあるのか、髭のおじさんが搭乗しています。

この作品の参謀となる人物は、明らかにマクロス7のエキセドル参謀を意識していると感じられます。キノコ頭という外見的特長はそのまま。性格において、かなりの変更がなされていますが、作品自体もマクロス7の影響を受けているという印象があります。オペレータ等のブリッジの前方というか、下のほうで働いている女性たちは、まさしくマクロス7の踏襲。ヤマト並びにガンダムでは、そこまでブリッジに女性の人数が多いわけではありませんでした。ブリッジに女性が多く搭乗するのは、マクロスⅡ、マクロス7です。ここでは反対に男性が艦長と参謀だけというような、女性だけのブリッジというものが新しく作られました。この作品は、艦長も女性で、しかも20と若い。
軍ではなく、企業が独自に作った兵器という点で、ほかの作品との差異がありますが、若い艦長はガンダムから、女性が多いブリッジがマクロスから、参謀もマクロスから影響を受けているといえます。
この作品の唯一の新たな創造は、オペレーターであるホシノ・ルリです。11歳という驚異の年齢が、天才教育を受けているからという理由でオペレータを行います。ただ、この作品のなかで最も若いはずの彼女は、まわりの20歳前後の若者とは比べ物にならないくらい大人な精神をもった人物。常に冷静というより、無気力で、他人を評して馬鹿としか言いません。ジト目といわれるアニメ表現がなされたごく初期のキャラクターではないでしょうか。
南央美は、この作品で一躍有名になり、いわゆる現在でいうところの萌えキャラが生成されています。ちなみに萌えキャラのさらに初期の存在はガンダムZZのエルピー・プルだと私は考えています。彼女がげんきっ子だとすると、こちらは無気力な子です。

この作品の最も評価すべき点は、作中作を極めて高い完成度をもって、作成したということです。これまでに作中作をアニメのなかで表現するということ事態が非常に少ないことでした。それをこの作品は、作中作だけをつくるスタッフまで用意して、真剣に向かったのです。
作中作の内容は『ゲキ・ガンガー3』、70年代のロボットアニメを忠実に再現したもので、その精巧さから、ひとつの独立した作品として存在するに至ります。ウィキペディアでも、作中作ながら、一つの独立した記事として存在します。
70年代のロボットアニメを忠実に再現するという行為自体が、この作品全体が昔の作品へのオマージュであることを如実に語っていると思います。『ゲキ・ガンガー3』はあまりにも評価されたために、OVAとしても製作され、その主題歌をささきいさおが歌うまでの力の入れようとなっています。また、中間の12話では、『ゲキ・ガンガー3』の中で、登場人物たちが、本編であるナデシコのアニメを見ているという、作品と作中作の立場が逆転するということが起こっています。最後はさらに、そのアニメを見ていたナデシコのクルーということが明かされ、非常に複雑な世界、一種の多層的構造の遊びがみられます。アニメナデシコを見ているアニメゲキ・ガンガーをみているナデシコのクルーという構造になるのです。

-アニメ版とアニメ映画版の違い-
アニメ26話は、ガンダムで言うところのZZに位置づけられると思います。ガンダムシリーズでは、Zガンダムはかなり写実的というか、戦争の暗い部分に視点を置いて描きました。人がどんどん死んで、登場人物のほとんどが最後の数話で死んでしまうという破滅的な作品です。その反動からZZガンダムでは、そうした面は極力描かないようにして、日常の面白みというものを描きました。そのためファンからは軽いとかの痛烈な批判を浴びたのは事実です。
この作品はさ、作品背景としてマクロス7のような舞台設定がなされています。木星から攻めてきた兵器は、実はかつて地球から追放された人類の一部であったということ。この点に関してはファーストガンダムの宇宙移民の問題がかなり影響しているでしょう。その兵器が、ワープのようなものを使用して突然襲撃。これはマクロスの世界観に限りなく近いものがあります。
全体として、この作品は戦闘というよりも日常に視点が置かれています。ですから私個人としては、大変軽い作品として写りました。艦長がまず二十歳で、主人公となるテンカワ・アキトも、別に人間的に欠陥があるわけでもなく、悩みも大したものはない。笑いというより、ふざけですべてを動かしていっている感覚があります。きちんとストーリーを描かなかったこと、真剣にテンカワアキトの内面の描写をしなかったことが、この作品を軽いものにしているのです。それは残念なことですし、また製作者自身もその失敗を認めています。
ストーリーをきちんと描かなかったために、ダイゴウジ・ガイという初期の重要なキャラクターはあっさり、3話めで死にます。いきなり唐突に死んでしまうのです。それからフクベ・ジン提督も、全く意味不明の単独行動をとり、途中脱落。ムネタケ・サダアキ提督も、敵になりたいのか、味方になりたいのか意味のわからないまま自爆。
ことごとくこの作品に登場する大人は自ら死に、唐突に死にます。こうした部分は極力描かれないように意図されているのではと感じるほど。それに対して、エステバリスと呼ばれる機動兵器のパイロットたちは、極端に変人ばかり。全くこの作品からは、死のイメージが払拭されてしまっているのです。
さらに人物の内面を描こうとしないのに、クルー同士の色恋沙汰を描こうとしたために、作品に大きな亀裂が入ります。この作品では、通常の恋愛が展開されず、主人公アキトに、艦長であるユリカと通信士のメグミとの三角関係がつくりだされます。ただ、二人ともアキトへ夢中になって、そのことを公言していますが、アキト自身はそこから逃げ続けるという行動をとり続けます。どうしてこの女性二人がアキトを好きになるのかということを省略されていますし、逃げ続けるアキトに関してもその理由が描かれていないため、全く不明などたばたが繰り広げられるだけになってしまっています。
さらには、最後に突然明かされる重大な事実が、作品の根底としてもっと説明されなければならない時間の移動をするということが、あまりにもおろそかになっています。脚本家の首藤剛志は自分がこの物語を描いたら100話はかかるといわしめるほどの、壮大なことをテーマにしているにも拘わらず、それを全く何の説明もなしにいきなり展開、終了したために、アニメ版は極めて悲惨な完成度を有しているといわざるを得ません。古代火星文明は一体なんだったのか、時間を移動するということはどういうことか、あまりにも多くの戦艦ものの要素を無理に詰め込んだがために、作品として崩壊してしまったのです。

映画版になると、アニメでの失敗を反省し、シリアスで、より現実的な作品となります。アニメ版から3年後の世界を描いています。さすがに戦艦ものの決定版を作っているという意識があるために、描写は、どこかで見たことがあると思われる表現ですが、実によく描かれています。物語展開も、きちんと映画という時間の限られたなかで、かなり濃密なものに出来上がっています。
かつてのナデシコの登場人物、火星生まれの人間が、この作品では全員連れ去られてしまったというところから話が始まります。火星の人間には、時間の移動に耐えられる能力があるのです。木星の人間との戦争が終わったと思われていた時、三年の沈黙を破り、再び草壁春樹が地球に対して戦争を起こします。
ただ、今回はアニメ版のような甘いコメディ作品ではなく、明確に戦争とはどういうものかということを考えられて作られています。ですから、死というものをきちんと描いているのです。
主人公であったアキトは既に体を木星人たちにいじくられて、半分機械のような状態になってしまっています。しかも物語の後半まで姿を現しません。この作品は主人公たちの欠落を描いているのです。姿を現したと思っても、かつての人物とは完全に変化してしまっている。悲しみを負ったのです。表面上は戦争が終わって、平和な三年間が過ぎていました。しかし、その裏では、火星生まれの人間は人体実験の研究対象となり、ボソンジャンプという人類の夢を叶えるための道具として利用されてきたのです。
ヒロインであった、ユリカは石化。完全に道具として木星人たちの手のなかにありました。ただ、この作品も主人公の欠落という悲しみを背負うために、主になる視点が定められず、破綻しているようにも思えます。アキトは本当の自分を取り戻すためと言って、自分の妻であるユリカを救出したあとにどこかへ旅立ってしまいます。ですから、アニメ版で終了しなかったことを、映画版で終了させるかと思いきや、さらに多くの謎を残したかたちで強制終了してしまったのです。ですから、本来であれば、これから何十話かで、その後の世界を描かなければならないと私は感じます。

-終わりに-
この作品は、作品自体としては大変ひどいものであるといわざるを得ません。しかし、それまでの戦艦もののアニメの特徴を網羅して、それを反映させたということに、大変意義がある作品だと思います。いわゆる戦艦ものってこういうイメージだよなという、戦艦ものあるあるを研究して、その特徴を描いているのですから、作品自体がそうした先人たちへのオマージュになっているのです。
また上でも述べましたが、70年代のアニメとして製作されたゲキ・ガンガー。この作品は、そうした四角いロボットたちが活躍する時代から、戦艦が活躍する時代、それらが終わったことをあらわしていると私は感じます。それらの作品の鎮魂の意味も含まれていると思うのです。古きよき時代を懐かしむといってもいいです。
だが、あまりにそうしたことにこだわり続けたがために、作品が崩壊。全く内容のないものとなってしまいました。それに映画はアニメを見ていないと全く内容がわからないもの。そうした点でも、アニメ映画としても成功したとは言えない作品です。

アニメ映画「最臭兵器」への試論 感想とレビュー 大友作品に観る機械・兵器の描き方、人間の感覚としての嗅覚の存在

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
『MEMORIES』(メモリーズ、めもりーず)は大友克洋監修のアニメ映画。「彼女の想いで」、「最臭兵器」、「大砲の街」の3話のオムニバス形式である。1995年12月23日公開。計110分。短い数編の独立した作品(主に短編)または楽曲を集め、ひとつにまとめて一作品としたものである。
今回はその作品の「最臭兵器」のみを論じてみます。

-大友作品に観る、機械類の描き方-
以前の記事で、「迷宮物語」について論じました。さて、「迷宮物語」はそれぞれ3本の短編で構成されていましたが、そのなかの「工事中止命令」が今回監修をつとめた大友克洋氏です。「工事中止命令」では監督、脚本、キャラクターデザインを担当。あの短編は大友さんの魅力がいっぱいに詰っていた作品として考えれます。
「工事中止命令」の公開が1987年でしたから、それから約8年という時を経ての短編作品。オムニバス形式。
「彼女の想いで」は大友氏の友人の漫画が原作。ほかの二作品は今回の映画製作が原作となり、他のメディアに原作はありません。いきなり映像として生み出されたのです。
ですから、論じるとすれば「最臭兵器」と「大砲の街」になります。大友さんの感性がそこには詰っているのです。今回は「大砲の街」は論じません。ただ、しいて言えば、「スチームボーイ」の原点となったという指摘もあり、後々論じるつもりではあります。
ちなみに、「スチームボーイ」は、スチームパンク愛好家たちのバイブルとなるような作品でもあります。私の知り合いにスチームパンカーが居て、本も出しているほどのすごい人なのですが、その人でさえ好きな作品の一つに挙げるほどであります。
スチームパンク。蒸気機関の時代、真鍮と木を愛している人々。アンティーク好きとはまた違い、機械系のSF要素が入っているものだと私は解釈しております。

ですから、大友さんの作品には、スチームパンカーが喜びそうな仕掛けがあるのです。つまるところ、機械の動きです。アニメーションのスタジオを見ていると、なんといってもやはりジブリがあらゆる部門において突出しているのは確かです。私はアニメーションの技術については門外漢なので、感覚として実におぼろげな意見しか申し上げられませんが、ジブリは人物に動きにしても、機械の動きにしても、かなり高度な技術を有しています。
大友さんの作品の、特筆すべきは機械の動きです。無機物、あるいは兵器を描くのが極めてすばらしいのです。ですから、大砲の街では、そのまま大砲という兵器が緻密に描写されます。スチームボーイでは、蒸気で動く真鍮製のものが写実的に描かれるのです。
「工事中止命令」でさえ、既にその片鱗は垣間見れました。隙間がないほどの機械類、鉄パイプ、コードなどで埋め尽くされた世界は、大友作品における機械の描写の出発点に近いものがあります。
その後の『AKIRA』は以前にも記事にしましたが、80年代の代表だと私は考えている作品で、まさしくこの機械類の描写が甚だしいのです。大友さんの機械の描写は、コードや、チューブ状のものが複雑にからみあって、まるで触手のように活き活きとした感情があります。機械でありながら、生物のような動きをするのです。それが一種の恐ろしさを与えると同時に、新鮮さ、おぞましさを喚起させたのです。
今回の「最臭兵器」では、そうした生きたような機械を描くのを止めて、徹底的に写実的に仕上げたといえます。

-人間の感覚への試論・嗅覚の位置づけ-
話からして大変ふざけた作品だと考えることが出来ます。話の内容は、ある研究施設で薬の開発をしていた。それをこの作品の主人公たる田中信男という気の弱い男が誤飲してしまう。ただの薬だと思ったら、それはなんと会社が極秘に開発していた、最臭兵器だったのです。
このタイトルからして、ふざけています。最終兵器ということばは、我々が普段アニメ会や漫画の世界で目にする、耳にする言葉ですね。最も終わりにだすべき、一番の武器ということでしょう。それをもじって最も臭い兵器、それが最臭兵器なのです。ただ、この言葉遊びは当然通じるのが日本語だけですから、海外へ輸出したさいに、その面白みが失われてしまうのが惜しいところ。
映画の冒頭もふざけています。大変写実的に描かれているのですが、私はそこに一種のアイロニーを感じました。冒頭は山梨のCMから。実際にありそうな陽気なメロディーが皮肉めいているように感じられます。
そこからカメラが移動して、この主人公の男を追い始めます。風邪にやられてしまったために、製薬会社でまだ開発中のサンプルをどんどん飲んでしまいます。そのなかにカプセル状の兵器があったということ。

臭い、これは人間の感覚のなかでどのように位置づけられるでしょうか。人間は感覚の殆どを視覚に頼っています。現に、嗅覚がなくなってしまった人も、聴覚がなくなってしまった人も、不憫とはいえある程度の日常生活が出来ます。申請と訓練をすれば、車の運転も可能です。ただし、視覚に障害がある人は、運転できません。このように、五感といっても利用の頻度があることがわかります。
我々が嗅覚をしようするのは何時でしょうか。食事をする際、或いは何か匂いを嗅いで安全を確かめる時。ペンキなどは、塗り立てかどうかを視覚では判断しにくいために、嗅覚に訴えるような匂いをわざと混入させています。
ただ、食事を楽しむ際、香りを楽しむ際、或いは危険を認識する際くらいに使用するのであって、通常の生活の大半は使用していない、言葉を変えれば意識していないというのが現実でしょう。ただ、嗅覚をしようする際は、常に視覚では確認できないものを捉えています。視覚に惑わされないように嗅覚があるのかも知れません。
問題はその嗅覚にだけ極めて凶暴に訴えかける兵器があったとしたらということ。
視覚的に強力な攻撃は、やはり暗闇のなかで発せられた「バルス」の光線でしょう。ムスカ大佐は目をやられてしまいました。モンハンでいうところの閃光玉です。聴覚は音爆弾。巨大な音を鳴らすことによって、視覚よりも長時間聴覚を奪うことができます。
さて、嗅覚は。強烈な匂いで相手を圧倒するということでしょう。確かに視覚、聴覚は、損害を受けたとしても命に別状はありません。悪くすると眼や耳を駄目にしたりするかも知れませんが、急速な死因にはならなでしょう。そこで、嗅覚。嗅覚を極端に刺激する匂いというのは、つまり人間から呼吸を奪うということです。口でいきをしたとしても、当然鼻に少しは空気が通りますから、匂いを感じずには居られません。ハンカチで鼻を押さえたところで、匂いは防ぎきれるものではないのです。
呼吸が出来なくなれば、当然人間は死にます。それがこの兵器の狙いなのです。あまりに強烈な匂いの発生源を作ることによって、無敵な兵器を作り上げたのです。
しかもこの兵器、感情が高まると汗が出るようにして、匂いがより放出されます。さらにこの匂いのガスには電子機器をも狂わす磁場的なものがあり、それが現代兵器の電子制御を全て狂わせてしまうというもの。

この作品では日本が国家を挙げてこの男一人を殺しにかかります。しかし、ありとあらゆる武器は、既に電子制御されているものですから、その電子部分をやられてしまって当たらない。ミサイルも途中で軌道が変わってしまう。戦車もコントロールが利かず爆発。では電子的な装備をしようしていない単純なライフルではどうか。しかし、この強烈な匂いの幕は、生きた人間が近づくことのできないものですから、彼はあらゆる点において無敵として、仮想の日本を蹂躙します。
国家が全力を挙げて一人の男を殺しにかかる。しかしそれら悉く勝手に自滅していってしまうのです。あれくるう砲弾のあらしが、まるで彼だけをよけるようにして飛んでくる。物凄く真面目に、馬鹿げたことを描いているのです。

-終わりに-
真剣に馬鹿をする。どこか矛盾しているのかも知れません。ただ、くだらないこともとことん徹底してやると、面白いことになるという、まさしくオムニバスでできた、アニメーション表現への挑戦だと私は考えています。一言で言えば、くだらないで言い捨てることも出来るのです。内容もない、映像技術だけ。しかし、描いているものが馬鹿げているからこそ、逆にその力の入れようが際立ち、一種アイロニーのような表現となって、完成しています。
結局主人公は救われないのでしょうか。この男性のせいで確かに多くの人間が死にました。しかし、それは彼がいけないのでしょうか。薬を誤って飲んでしまったから?ですがこの男性、結局最後まで何がいけないのか、何がおこっているのかわかっていないのです。勝手に周りが騒いでいるだけで、彼にとっては何のことかわからない。意識のない罪は裁くことができるのかという皮肉もあると私は感じます。

アニメ映画「好色一代男」への試論 感想とレビュー アニメーションにおける性表現・アニメと実写、表現媒体の差異

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大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
製作年1990・劇場未公開53分 映倫R18。
どうもひょんなきっかけで鑑賞することになったので、少し記事が時代的に前後します。さて、今回は当然R18指定の作品を取り扱うため、性的な表現が含まれますので、その点ご留意ください。
OVAとして製作されていますが、日本での宣伝も殆ど行われていなく、劇場でも未公開なため、甚だ世に知られない作品として存在してきたようです。この記事がこの作品を多くの人に知れ渡るのに貢献できたらと思います。

-アニメーションにおける性表現-
さて、今まであまり実写とアニメーションの比較を真剣に行ってこなかったので、今回はそこから出発したいと思います。
一般論となりますが、アニメーションというのは、当然二次元的な世界、線だけで構成される世界になります。三次元、つまり実写は、線というよりも、奥行きが加わることになります。さて、この違いが一体映像媒体として何かを表現する際にどのような利点、欠点、あるいは長所、短所があるのかということを解析する必要があります。
実写のほうから。これは私たちに馴染みの深い、我々が普段眼を通して視覚として認知している映像に極めて近いものであります。ただ、映像として流れる際には、当然カメラの視点がありますから、どこに視点をもっていくのかということが大きな問題となります。AとBが話しているのなら、Aの視点からなのか、それともBの視点からなのか、或いは三人称的な視点、神の視点として、ABを同時に見る別の視点なのかということになります。カメラの視点はアニメーションでも殆ど同じです。
実写ということは、当然そこに映っている世界は、現実の世界になります。CGはまぎらわしいので後で説明します。
そこには、私たちと同じ人間がいて、実際に動いている。極めてわかりやすい世界なのです。視覚的な情報は、普段の私たちの眼の活動と殆ど変わらないのですから、そのまま頭の中に入ってくる。

次にアニメーション。アニメはいわば絵です。何かをそこに描かなければいけない。当然そこは、点と線の世界になるわけです。線がただ動いているだけと考えることも出来ます。記号論から考えを持ってくると、それを私たちは視覚で認知して、その線だけで構成されている世界を、あたかも我々の世界と同じように三次元に換算しているのです。
これが非常に面白いところで、絵を見ているのとは異なり、その絵が動き始めると、私たちはそれを三次元のこととして当然のごとく受け入れてしまうのです。絵画を見たときに、私たちはそれを現実だとは思いません。写実的な絵であればそれは現実に限りなく近いということになりますが、平面的な絵であれば、それを現実とは考えません。アニメの一部を制止させて取り上げればわかることで、誰もそれを現実とはおもいません。しかし、それがひとたび動き出せば、我々は何の疑いもなしに、その世界を私たちの世界と同一のものと見てしまう。これがアニメにおける映像表現の手法なのです。
さて、CGですが、これが少し厄介で、比較的新しい技術ですから、まだ何ともいえませんが、アニメと実写の中間に位置するものだと思います。アニメで描かれた映像をCGを使って動かす場合は、アニメに近いCGとして。完全に最初からCGで、スターウォーズにしようされるようなものは、限りなく実写に近いものとして表現されています。中間はポリゴンの世界でしょう。

アニメーションにおける性表現ですが、その前に実写の性表現を考える必要があります。実写で性交を表現しようとすると、当然そこには性交をしている人物たちがありますから、それを写すということになります。あまりここで男性、あるいは女性の視点になるということはありません。AVでは男性視点で撮影される場合が多いですが。
ただ、飽くまで実態と伴っているため、カメラはそれを写すということしか出来ません。表現としてはかなり狭まれた世界だと考えられます。それに対してアニメです。
アニメは三次元に対して非現実として存在します。線だけの表現で、それを私たちはなんということもなしに頭のなかで解釈して、理解しているに過ぎないのです。性表現というのは、日本ではあまり好まれるものではありません。日本は、生に関することを隠してきた文化を持っています。寝食、性、生活に関することはあまり表現しないのが日本の文化といえます。
元来が線だけの世界で、それを自由に描くことが出来ますから、性表現を中傷的に描くことが出来るのです。体だと思われていた線が、何時の間に水の流れの線になっていたり。例の枚挙に暇がありません。全く自由な、完全に三次元から解放された視点をもっていますから、写実に描くことも出来れば、抽象へと変換することも出来る。象徴的なもの、男根的な象徴物や、女性性の象徴物を描くことも出来ます。それを実写で入れればどうもちぐはぐな映像になります。それを自由自在に出来るというところが、アニメーションとしての最も強い武器となるのです。

-内容分析・性欲とは-
まさしく妖艶という言葉がその作品を表すのに適していると思われます。これは絶対に実写では出来なかった、そういう作品なのです。
好色一代男は井原西鶴による作品。浮世草子といわれるジャンルに属します。主人公世之介の色欲生活についての話です。
古語が使用されていますから、高校の古典の知識があればある程度読める作品です。今回はそのアニメーション版。
人生の全てを色恋沙汰に費やした男を描くということ。これはどういう意味があるでしょうか。人間は動物として生きています。生きるということは、必然として自分の子孫を残さなければならないという欲求があります。それが性欲です。
ただ、子どもを作らなくとも、その性欲だけを満たすことに邁進するという人間、これはどういうことでしょうか。自己の欲求を満足させたいという思いは万人にあり、なければいけないことです。その極端な例を作り出すことによって、人間とは一体なんなのか、性とは一体何なのかという試論でもあると、私は思います。
世之介は作中で「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」という事実が明かされています。女性3千742人と男性725人。当時からすでに男性との性的な関係は割りとあったそうです。
以前紹介した「ドン・ジョバンニ」ですが、彼もまた放蕩の生活を続け、何人もの女性と交わりました。
ただ、この作品は原作とは少し異なって、やはり50分のアニメにする必要がありますから、ある程度のストーリーがあります。原作は短編がいくつも連なっていくというもの。それに対して、このアニメでは、途中まで世之介ではなく、その下働きの気弱な男が主体となって話が展開されます。
吉原一の太夫を抱いて来い、そうすれば屋敷をやろうという駆け引きをしたというところから話は始まります。この気弱な男、調子者で、つい相手の口車にのってしまったのです。もしそれが叶わなかった場合は男性の大事な部分をとってしまうという賭け。簡単だと思い込んで引き受けたこの男は、しかしその上司である世之介にことがばれてしまいます。ところがこの賭けを仕掛けた男を世之介が嫌っていたことと、この気弱な男が可哀想なのとで、この色男世之介は50を過ぎた年なのにも拘わらず、吉原へ出かけます。
莫大な財産を有している彼ですから、色々な手を使用してこの男を太夫と抱かせようと苦心し、それが成功するというのが大まかな流れ。その後は彼世之介自身も太夫を抱いて、その太夫の器量のすばらしさを感じるという話。
ただこの話、そこでは終わらずに、さらに年をとった世之介は、他の色を好む男たちとともに、さらなる冒険へ、女ヶ島という、女性しかいない島を目指して出航するというところで話は終わります。
ここから何を解釈するかということですが、吉原一の女性ということは、つまり日本で一番の女性ということで、その一番の女性を抱いたのにも拘わらず、満足できなかった男の悲しさが描かれているのだと私は考えます。もはや性行為というのは、彼にとって遊びから、人生へと代わり、日本一の女性を抱いたとしても満足できる程度のものではなくなってしまったのです。ですから、一生若い女性がいる女ヶ島へ出かけずにはいられなかった。
欲望の赴くままに生きるのも確かに粋かも知れません。ただ、日本一で満足できないような大きすぎる欲望は、もはや個人の力では抑えることが出来ず、身を滅ぼすことになると教えられます。

-最後に-
この作品、何がすばらしいかと言うと、やはり映像美。男女の交わりを妖艶に描ききっている様が大変評価できると私には思えます。あからさまではないのです。極めて象徴的に描きつつ、観客の想像を誘う巧みな表現がなされています。アニメを見る上でおいて、どうしてアニメでないといけないのかと考える必要があると、私は思います。もし実写で撮ってみたらどうなるだろうと想像して、実写で撮れそうであれば、その作品はあまり優れていないのかも知れません。アニメと実写、それぞれ短所と長所がありますから、どちらがいいとはいえません。しかし、アニメでしか出来ない作品、実写でしか出来ない作品と思われるものは、すばらしいものだと思うのです。
日本の美というのは、様々な言葉で表すことが出来ますが、この作品ではそれを凝縮して映像化してします。紅の真っ赤な色。自然の景物に託して感情を寄せる。余白の美。これらが見事に演出されているのです。これは抽象的な表現が出来るアニメでしか為しえなかった作品です。是非多くの人にこれを見てもらいたいです。

偏屈文化人より、秋分の御挨拶

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いつも多くの方にご訪問いただき、誠に感謝しております。最近までこの暑さは一体どうしてしまったのだろうか、日本の四季というものが根本から破壊されてしまうような、季節感の崩壊がありました。しかし、秋分の日を含め、突然の寒気に包まれて、皆さん御体に不調ありませんでしょうか。一年の半分が過ぎ、後半が始まったばかりです。季節の変わり目でもありますから、どうぞ御体にはご注意ください。
さて、この度Facebookとツイッターのアカウントを取得することと相成りましたので、その報告をさせていただきます。
やはりネット上の情報というものは信憑性が低いですから、多少なりとも誰がこういうことを言ったのかということを、明確にしておかなければならないと感じます。また、自分の名を明かすことによって、当然全世界に発信するという意識をもつことで、単なる誹謗中傷などを行わないということにも繋がります。
多少てこずりましたが、何とか模索中ですので、ブログとの連関をしていきたいと思います。御用の方はお気軽にFacebookなりツイッターなりに連絡してください。
皆様とのより深い交流、より高度な文化論の追及を目指して行きたいと思います。
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アニメ映画「究極超人R」への試論 感想とレビュー 80年代の総決算としての笑い

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
「究極超人R」はゆうきまさみによる日本の漫画作品、およびそれを原作としたOVA作品。1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて連載された。春風高校は普通の学校だがどこか変な人が集っており、中でも光画部は(OBも含めて)特に変な人々の集まりである。(一応)主人公であるR・田中一郎。
舞台は都立板橋高校の光画部をモデルにしている
OVA究極超人あ〜るは1991年の制作。原作終了後の光画部撮影旅行を描くオリジナルストーリー。
作中で描かれているJR東海の飯田線は、本作のファンの間では聖地となっており、特に田切駅や、下山村-伊那上郷間のΩ(オメガ)カーブでの、電車との競争(地元では主に学生の間で「下山ダッシュ」と呼ばれている行為)などは語り草にもなっている
以上がウィキペディアからの引用。今回はそのOVA作品にのみ着眼して論じます。

-作品の基本設定-
今まで見てきた作品のなかでは、もっとも自由度が高い作品だと考えることが出来ます。社会的な影響もあまり受けていなく、プロットもなにもあったものではない。いわゆるストーリーが主となる漫画ではなく、学園物、日常を描いた作品なのです。
ただ、原作では時代の流れに沿って作中でも時間が変容しており、何年度入学という詳細な設定があります。作者自身が馴染みの高校をモデルとしていますが、作品の雰囲気は、現代でいうところの大学のサークルののり。一体普段なにをして生活しているのだろうかと不思議になるようなOBがいる、そんな世界です。
現在の高校はあまり自由な雰囲気がありませんから、OBやOGがふらふらやってくるという雰囲気はあまりないでしょう。そういう雰囲気があるのは、もっぱら大学のサークルののりですね。
一応この作品の主人公はR・田中一郎ということになっています。これが全くのはちゃめちゃな設定で、彼自信は機械なのです。ただ、それが何の変哲もなしに受け入れられている世界。現実に忠実に依存しながら、あらたに作られた空想ということです。
漫画では、一定の時間軸があるとしても、普段は日常のささいな風景を描いていくという作品なので、ストーリー性というものはあまり生まれません。そのことが今回のアニメ製作に大きく影響しています。
一般論ですが、通常ストーリー展開が重要な作品の場合、その映画化というのはかなり無理があります。登場人物は原作の一体どの時点での時間軸に合わせるのか、敵をつくるにしても全く新しい、原作には出てこない敵を作らなければ倒せません。そうすると、必然原作からどんどん遠ざかってしまいます。
反対に、このようなそれぞれの小さな話が短編として完結している場合、新たなストーリーは非常に作りやすいです。欠点としては、大きな流れがありませんから、話しが壮大にはならないということ。ただ、多分に自由が利きますから、どのようなストーリーにするのかをもう一度製作者たちが自由に作ることが出来るのです。
今回の映画では、時間軸で言うと漫画連載の後の話ということになっています。この光画部が旅行をするというストーリー。

-作品の笑い-
私はこのアニメ映画しか見ていませんから、漫画のことをあまり深く言及できないのですが、声優も豪華ですし、光画部を邪魔する存在は一体何なのかわからないまでも面白く鑑賞することが出来ました。作品の性質からか非常に多彩な、ありとあらゆるジャンルの笑いが込められています。当然私も理解でき面白いと感じる部分もあれば、わからない部分もあります。しかし、分らないなりにも、場の雰囲気でなんとなく面白いのだなと理解させる努力がなされているように感じられます。
完全な身内ネタで終わらないということなのかも知れません。ある程度初心者に対しても理解が促せるように情報が提示されているという笑いが、優しいわらいとして展開されます。
ただ、OBたち人物の性格はほぼ崩壊しており、それが作中ではまかりとおってしまっているという面白味は一貫されたテーマであると私は思います。
会社でもそうですが、上の連中が思い会社にろくなことはありません。この漫画は、その構図を使って、さらなる面白みを演出しているのです。この光画部、現実的に考えたらこのOBたちは一体普段なにをして生活しているのでしょうか。そのOBたちが我が物顔でもはや後輩の部活である部活を牛耳っています。はっきりいって、後輩たちからはお荷物としか考えられていません。しかし、どこか抜けたところがあるOBたち。自分たちが何とかしなければという部への熱い思いが伝わってきます。それが大抵から周りして後輩の邪魔になるのですが、それでもその愛情がわかるために後輩も後輩でOBの面子を立てるようにしている。
恐らく通常の部活でこのようなことが起これば、OBと部員たちの間で何かしらのいざこざが起こるでしょう。しかし、自分たちより大人なのに子どもであるOBたちを暖かく迎えているという包括的な部活ですから、それが面白みに変化しているのです。
また、それぞれのネタですが、今回は電車系のネタなので私には全くわかりません。マニアの間ではかなり伝説的な面白みをもつそうですが、ただ素人の私にも大変面白いことをやっているのはわかるのです。そういう点も考えると、この作品は最も観客に優しい作品であると言うこともできるでしょう。観客への笑い、フォローを意識しているのです。
ストーリーを追う必要がないぶん、こちらへまで力を回せるのです。

-最後に-
アニメ映画のなかで、これだけ真剣に笑いについてだけを追い求めた作品というのは、これがかなり重要な位置づけになると私は思います。一時間を越える時間をすべて笑いだけに費やすというのは、なかなか他の作品ではみられないことです。
それと、エンドロールでは、以前に延べた「11人いる」のように、そのエンドロール自体が楽しめるように配慮されています。こういう部分が抜かりないのです。ただ映画でしようされた風景画を持ってくるのも良いですが、この作品のように、それぞれの部員の撮った写真が、いわば作中作という形で提示されていますから、より深みが出ます。活き活きと動いていた登場人物たちが、一体どのような作品を撮るのか、それがなるほどと思えるように作られている。エンドロールに手を入れない作品が多い中で、この作品はこうした新しい視点を用いているすばらしい作品だといえます。
原作者ゆうきまさみ氏は「鉄腕バーディー」でも有名。バーディーの最初の連載の時期とこの作品との連載時期が重なっていますから、その比較をしても面白そうです。

アニメ映画「迷宮物語」への試論 感想とレビュー アニメ映画におけるシュールレアリス

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
『迷宮物語』(めいきゅうものがたり、Manie-Manie)は、眉村卓の小説、およびそれを元にしたアニメ映画。「ラビリンス*ラビリントス」、「走る男」、「工事中止命令」の全3話、オムニバス形式で構成されている。上映時間50分。制作期間1年。
1987年に東京国際ファンタスティック映画祭にて先行公開、1989年に劇場公開。オムニバス-短い数編の独立した作品(主に短編)または楽曲を集め、ひとつにまとめて一作品としたものである。

-アニメの流れ・歴史背景-
この作品は、後に記事にする大友克洋監修のアニメ映画『MEMORIES』と比較できると思うのですが、世界観というものが、極めて重要視されています。一般に短編というのは、成功することが多いです。それは端的に、表現したいことを、ぎゅっと圧縮して作られるからで、小説にしろ、映画にしろ、短編というのは極めて質が高いものが多いのです。
このアニメ映画も、独自の世界観を描いたという点に関して、すばらしい成功をしていると感じます。
世界観は、美術の用語を用いるとすれば、シュールレアリスム的です。人間の内面をそのまま表出したというような、独特の雰囲気が作品全体にあります。ですから、この作品のそうした部分がわからないと、実につまらない作品と感じる人も出てくるのだろうと思います。
描かれている世界は、混沌としています。80年代の終わりになって、そうした部分が強く出てきました。今までの現実主義、リアリティーの追及とはまったく正反対の方向へ向かう作品が出て来たということで、大きく時代の流れが変化したという重大な転換期になると私は思います。
一つには、リアリティーを追求しすぎる全体の流れに、対抗するために出て来たのかも知れません。敢えて皆がよいと思って突き進んでいる方向とは別の方向へすすむことによって、新たな価値観を発見、現在の価値観にまったをかける。
或いは、リアリティーへの限界があったのかもしれません。CGがようやく、ごく一部のアニメ業界で使われ始めたという時期ですから、アニメ表現としてのリアリティーは丁度停滞していた頃です。ですから、全く反対の方向へ向かったとも考えられます。
社会的な問題も多く影響していると考えることも出来ます。バブルがはじけて社会が不安になっていること、一体何が真実なのだろうか、今まで我々がおこなってきたことは間違いだったのかと、だれもが指針とする確たるものを失った時代でした。オカルトチックなものも流行、精神的なものに何か価値を見出そうという風潮が強まった時代です。

-ラビリンス*ラビリントス-
この作品は、最もシュールな作品と考えることが出来ます。空想の世界と考えることも出来ますが、主人公となる少女の内面の世界を具現化したものと考えることも出来ると私は思います。
どこか果てしない地にあるサーカス小屋の中で、少女と猫は冒険をするわけですが、途中少女と猫は、その異世界に鏡を通して移動しているような場面がありますから、ここで何か内面的なもの、私のわけ方で言えばミクロの世界に入っていっているわけです。
赤と黒が激しくひしめき合う色彩、ガラスの球をとおして見ているように物体が大きくなったり小さくなったりします。
ラビリンスもラビリントスも迷宮という意味。ラビリンスはダイダロスが作った迷宮という固有名詞ですが、神話との関連性は薄そうです。
心的世界は、実に不明で漠然としています。その中を少女と猫が駆け巡るという物語。子どものころに感じた夕暮れ時のあの長い時間間隔。時を刻む時計の音。未知なるものでつまった少女の内面。これらが渾然一体となり、そうして唯一少女に近づける他者としての猫。大人はすでに彼女の世界には入れないのです。ですから、傍観者としての目線をももった猫が我々観客と等しい存在となり、彼女の付いて、内面の世界を旅するというもの。
作品全体には不安と緊張が張り巡らされています。いつその世界が崩壊してしまうのか、或いはピエロらしき人物も恐怖を覚えさせるような側面もあります。最後は彼女たちはもとの世界に帰れたのでしょうか。そこもはっきりせず、最も怖い終わり方として想像できるのは、異世界に閉じ込められてしまったということ。しかし、多分にそうした想像ができるように余韻があるのです。

-工事中止命令-
この作品は、最もこの中で我々の世界に近く、理解しやすい作品です。空想世界というよりは、近未来という感じが強い。テクノロジーが進化した世の中はどうなるのかということへの試論でもあると私はおもいます。
舞台はアマゾンのような湿地の植物の旺盛な地域。南米あたりとも考えられますし、シンガポールあたり一体がモデルになっているとも感じられるような雰囲気です。ある会社がそこで、未開の地を開拓しているのですが、国にクーデターが起こり、工事を中止せざるを得なくなった。そこで会社側から連絡するも、現地の監視員と連絡が付かない。本社から新たな監視員として主人公が派遣されるわけです。
あまりにも自然の力が強く描かれている点。少しほって置くだけで人間が作ったものは全て飲み込まれてしまうといいます。この世界では何かすべてが異常なのです。我々のすんでいる世界よりももっと厳しい、力がありあまっている世界。
それに対抗するために、機械も一生懸命働きます。この世界では機械が機械を動かしているため、人間はいらない。ですから、監視員一人さえいれば人間はそれでことたりるのです。ただ、この監視員を出迎えた機械がすでにおかしい。そこがこの世界観の根底になっていると思いますが、機械はもう壊れてしまっているのです。正常ではない。だから前の監視員も行方不明になってしまった。
機械が機械で独立してしまっていて、人間の命令を一応聞く様子を見せながら、しかし中止命令だけは絶対に聞かないのです。機械が人間より優位になってしまった、そういう世界が描かれています。ごくごく小さな地域の話ですが、それが広まればという危険が言及されていると私は感じます。
最後には何とか人間の勝利を描いているところが優しいところ。ただ、機械の中枢を破壊するのと同時に、会社からの中止命令の中止が出されます。クーデターは終わったと。全てがどこか狂った世界なのです。

-走る男-
これはどこか別の宇宙の話という雰囲気。時速でいうといくらになるのか分りませんが、あまりに早く走りすぎるレースを続ける男の話です。ここでも上でみた世界観同様、何かを極限に突き詰めたらどうなるのかという予想が描かれているのです。
人間とは少しことなった存在のような人物が主人公です。主人公は一言も作中では喋らないのですが、ただレーサーとして耐える男として描かれます。公開が87年ですから、あくまで私の予想ですが、マクロスプラスのガルド・ゴア・ボーマンに多少影響を受けているのではないかと感じます。
レースというスピードのなかで生きる世界のなかで、一体人はなにを見るのだろうか。レーサーとして、その極限に達したときに、何をみることが出来るのだろうか。全てはこの疑問から作られた作品だと思います。語り手は記者です。長年あまりに危険な世界第一のレースで20年近く優勝し続けている人物を追ったドキュメンタリー調の作品です。
記者が取材している際なのか、走ってもいない車のなかで、主人公の男がレースをします。精神世界においてレースをしているのです。しかし、それが段々と実際のレースとオーバーラップしてくる。現実的に考えたら、この精神世界のレースのあとに、現実のレースを行ったと考えるのが無難でしょうが、どうもそう簡単には切り離せそうにはないのです。というのも、この男は想像でレースをしていながら、速さに耐えられなくてじょじょに車が壊れてくるという事象が彼の周りで現実に起こっているからです。それを記者は目撃することになります。段々とその想像と、現実のレースが重なってきて、最後には男は車とともに大破してしまう。
車が早さに耐えられない極限に達したときに、今まで亡くなったレーサーの亡霊か、彼の車を追い越していく青白い光が出てきます。それに驚いて、そうしてその車たちを追い抜こうと男はさらに走り続けるのです。何か勝負というものの、極限において、それを行うということに取り付かれてしまったということを描きたかったのだと思います。
最後はその光の亡霊の世界へ行ってしまうということでしょう。

-最後に-
この三つの作品を総称して迷宮物語ですから、そう名づけるには当然理由が生じます。最も迷宮という単語に近しい作品は、もちろんラビリンス*ラビリントス。迷宮という意味です。しかし、それだけにかかわらず、工事中止命令も走る男も、迷宮に捕らわれた人物を描いているという点では同じなのです。工事の主人公である男性社員は、最後にそこから何とか機械の中枢を破壊することによって抜け出せたのだと感じます。走る男は、むずかしいですが、レースという迷宮にとらえられたがために、死んでしまったと考えることも出来れば、亡霊たちとともにレースから解放されたと考えることも出来ます。これは解釈の分かれる難しいところだと思います。
迷宮という不可思議なもの。出口がみつからないもの。そうした世界観というのは、多分に社会から影響されるものだと思えないでしょうか。社会全体に出口が見当たらない不安があり、先行きが見えない。精神の世界を描いたために、そうした社会の影響がより色濃く出てしまったと私は考えます。

アニメ映画「ファイブスター物語」への試論 感想とレビュー 80年代・歴史的様式美をたたえる

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
「ファイブスター物語」は永野護による日本の漫画作品、永野自身は「おとぎ話」であると公言。1986年4月号から、休載を何度か挟んで連載されている。また、1989年には第1話を基にした劇場用アニメーション映画が公開。今回はこの映画を論じます。
80年代の中期にあたる作品として、この作品も見逃せない一つであります。前回に引き続き、この作品にも他の作品からの影響を色濃く反映し、しかもそれを作者が認めているという点でも、ある傾向がつかめると私は思います。

-作品設定-
舞台設定として、超科学技術と歴史的様式美とが共存する世界観というのが評価の理由。「フォース」と呼ばれる超能力、ジェダイのような存在の「騎士」、ライトセーバーに似た光剣「スパッド」など、作品の設定の多くにも『スター・ウォーズ』の影響が見られます。
アニメ映画は、全13話中の第1話(単行本第1巻)のストーリーを元にアニメ化。1989年3月11日に東宝系で公開されました。ですから、私は今回13分の一の内容しか見ていない状態で論じますから、多分に無茶な部分がありますが、歴史的な流れのなかでのアニメ映画として、論じさせていただきます。一つの「ファイブスター物語論」ということになると、また異なったアプローチが必要になると思っています。
歴史的様式美という点で極めて高い評価を得ている作品です。歴史的様式美とは何かというと、これもスターウォーズからの影響だと考えられていますが、初めに歴史的な年表が公開されるのです。もちろん製作中に多少変更があったり、随時詳細が書き足されたりということはありましたが、最初から完成したものとして、殆どプランが出た状態で作品が始まるのです。
プロット主義という言葉があります。物語を描いていく際に、基本となる作品の軸をあらかじめ決めておいて、それにあわせて書いていくという製作の手法です。この作品は、そのプロットを全面的に押し出した作品といえることが出来るでしょう。あらかじめ決められた歴史的流れが提示され、その詳細が随時語られていく、それが作品となる。
我々読者としては、初めからいつ何が起こるのか知ることが出来ます。一体その詳細はどうなるのだろうかと、あらかじめ歴史を知っているだけに、余計に引き込まれるのです。

スターウォーズも同じで、当時は今でいう旧三部作が公開されていました。スターウォーズの主人公が誰かわからない人もいるかも知れないので、そちらにも言及しておきますと、旧三部作を見た人は、ルーク・スカイウォーカーが主人公だと思ったのです。しかし、あらかじめ歴史的な流れが設定としてあり、主人公は違った。ただ、旧三部作の作品の中の時代の流れでは、自然とルークに視点がいってしまう。それで困ったルーカスたちは、新三部作というものをつくり、あらためて歴史を語るに至ったわけです。主人公はアナキン、ダースベイダーです。
スターウォーズは、スターウォーズ全史という本も出ているほどに、歴史的な側面が極端に強い作品です。これに匹敵するほどの作品はそうありません。映画として描かれたスターウォーズは、その歴史のなかのごくごく一部、誇張でもなく氷山の一角に過ぎないのです。歴史は、映画で描かれた何万年も前の話から始まります。ジェダイの誕生から、シスとの戦い、そうして映画で描かれた部分も少しあり、その後ユージャンボングという未知の生命体が攻めてくるというところまでが描かれているのです。完全に一つの世界史のような形になっている壮大な作品なのです。

それに影響されたのが、今回の作品。スターウォーズまでの精密さはないものの、最初から歴史的な流れが提示されるというのは、極めてセンセーショナルな手法であります。語り手は、全てが終わった後の人物であろうことが予測され、しばしば、これが暗黒の時代の幕開けだったというような、神の視点を持っているのです。

-通常の作品からの逸脱とその理由-
敢えて批判するとすれば、プロット主義のもつ欠点があるということです。プロットを前面に押し出しているということは、安定があるということです。初めから骨組みが決まっているから、変に転ぶということもなく、順々に話が展開されている。あらかじめ転換期となる部分では、いよいよ何かが起こるなと予想して読むことも出来ます。ただ、そのぶん、アンチプロットのような、いきいきとした、作品の中の主人公たちが自由に動き回れるということがないのです。ある程度の自由は許されるとしても、あらかじめ運命を定めれられてしまっている主人公たちですから、生身の人間としての自由さ、いきいきさがなくなっているというのは、紛れもない事実です。ですから、見方によっては、息苦しさ、宿命付けられた運命というようなものを感じられます。それは壮大な物語を設定としたこの作品では、よくもわるくも活きているといえます。

カテゴライズは本来あまり意味のないことだと私は思っていますが、敢えてそれをすると、SFに入るのだろうと誰もが思います。しかし、作者自身は「おとぎばなし」だといいます。作者として、歴史的な物語の流れを強く意識して、この作品に向かったがために、そういうことを考えるに至ったのだと私は思います。
SFとして考えたとき、これまた前回同様、非常に緻密に設計された作品であることが分ります。用語説明だけでも相当な分量が割かれています。単純に説明すると、この作品では、他のロボットアニメに見られるロボットとは、あきらかに大きさが異なります。極めて巨大な、戦艦のような大きさのモビルスーツにのっていると言ってよいでしょう。その大きな乗り物を操るためには、パイロットだけではだめなのです。ここが他の作品と極端にことなる部分。一人で動かせていたマシーンという今までの流れからは異なった流れが生まれます。マクロスⅡの歌で見方をコントロールするような存在に近いともいえますが、この作品では、機械の頭脳となる女性が必要になるのです。ただ、一般的なファティマと呼ばれる女性の存在は、遺伝子操作や精神を安定させる加工がなされており、機械と人間の中間のような存在になっています。
またこのファティマと呼ばれる存在と、パイロットの存在も面白く、半分結婚するような側面があります。主人公は以前にファティマを戦闘でなくしていることが語られ、新しいファティマとして、主人公の友人であり、ファティマを製造することを職業としていた男の、ファティマを得ることになるのです。ただ、この男は、自分の命の最後を知り、出来るだけ人間に近いファティマをつくりたいと望み、精神加工をしていないファティマをつくるのです。ですから、殆ど人間に近い存在となります。その人間に近い、か弱い少女の精神が戦闘に耐えられるのか、ということでまた物語が展開していきます。
ファティマはこうした大変手のかかる、人間のような存在でありますから、当然もっと戦闘兵器としてのコストを安く仕上げるために、機械のファティマを作ることを目指す人々も居ます。映画版では、敵方のファティマが、寄生虫のような、戦闘だけを目的として作られた生物が乗っています。
ここで面白いのが、主人公がそうした寄生虫のようなファティマの動かしている機械に対して、優美さがないと評したことです。
この作品では、騎士という存在が多分に強調され、人間として極限に高められた精神や、武術を備えていることで他人に畏怖されています。戦闘一つとあっても、美しさが必要となる、礼節、美の世界、様式の世界が必要になる物語なのです。ですから、昔の騎士物語と同様で、実務的な殺し合いというようなものではない世界を描こうというのがこの作品の思想にあるのです。

-最後に-
地球上の歴史では、そうした戦闘行為においての様式美というようなものは、近代に入ってからなくなってしまいます。人と人との戦いというよりかは、国家と国家の戦いになり、武器と武器の戦いということになってしまったからです。そこに人間としての性質は必要とされなくなり、いかに強い武器か、いかに効率のよい殺人道具かということのみが追求されるようになってしまいました。
この作品では、全体の序章になる部分しか映像化されておらず、それしか見ていないので確かなことはいえませんが、そうした様式美の戦いの終わりを描いているのではないかと、予想できると私は思います。映画は、これから混沌の世界、世界的な戦争がはじまってしまうということを予告して終わります。ですから、そのよくもわるくも、古き時代の終わりの告げる作品ということになるのだと思います。それが如実に歴史的な構成を強めたことにも表れています。そうした古き良き時代の終わりを、悲しみながらも、なんとか保存しようとした衝動がこの作品になっているのではないでしょうか。

アニメ映画「エリア88」への試論 感想とレビュー 細緻に描かれた多層的世界・プロット主義への流れ

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
「エリア88」(はちじゅうはち・エイティーエイトどちらも)は新谷かおるによる傭兵戦記漫画、およびそれを原作としたアニメ・ゲーム作品。1979年から1986年までの8年間にわたり連載。作者によると『巌窟王』がベースであり、友に裏切られ、恋人を奪われ、エルバ島に流されたモンテ・クリスト伯がモデル。『巌窟王』-アレクサンドル・デュマ・ペールによる小説。
ミリタリー好きには、ミリタリーアニメを語るにおいてこれを無視できないような作品なのではないかと推察します。私にはよくわからないのですが、この作品では、登場する武器、戦闘機などの詳細な研究が熱心にされています。翻って言えば、ミリタリー好きの人々をも満足させるような、詳細な軍事的な事柄が描かれているということもできます。
一般論ではありますが、こうした言わばマクロの世界を描くには、細かな部分が描かれていなければなりません。大きな世界を描くには小さな部分を詰めておかないといけないのです。この作品はそうした軍事オタクの人にも納得できるほど、緻密に描かれた軍事的部分があるために、成功したといっても良いでしょう。

-アニメーションの歴史的流れ-
私が観たのは、1985年から1986年にかけて、全3話のオリジナルビデオアニメシリーズとしてスタジオぴえろにて製作された映画版。これも複雑な経緯を辿っているらしく、放送業界についてあかるくない私にはよくわからないのですが、一部と二部は、製作当時のままで見ることは出来ず、二つを合体した映画版としてしか観ることが出来ないそう。
上でも述べましたが、この作品のベースとなっているのは、『巌窟王』。あまりに有名ですが、この時代にはこうした古典的名作のストーリーを踏襲して、そこから新しい作品を作り上げようという意思がかなり強くあったように私には感じられます。後で記事にするつもりですが、「ファイブスター物語」にもそうした影響、当時ヒットしていた「スターウォーズ」から発想を受けたということを作者自身が公言しています。
物語論を展開しようという私にとって、こうした作者の感情はよくわかるのですが、残念なことに時代がさらにすすむにつれて、こうしたストーリー性が重要視されなくなったことから、物語の廃頽が起こります。80年代付近の作品が今でも、現在の手本となっていることは、誰もが感じているところだろうと思いますが、翻って考えれば、当時の作品もこうした名ストーリーを踏襲しているのです。そのがあまりにも露骨だったために、パクリではないかという批判が起こり、よく知れたストーリーがチープなものとなり、ストーリーを軽視する方向へと向かっていったというのが、ここのところの作品の物語の流れなのではないでしょうか。
よくも悪くも、この時代がそうした名作の踏襲をしているということは確かです。
まだCGが出来ていなく、技術的にかなり煮詰まっていた時代です。これ以上の表現がアニメーションでは出来ないのかと、誰もが苦しんでいた時代。しかしまだコンピュータによる技術が確立されていなかったため、製作者たちは悔しいながらも奮闘し、作者はストーリーへ力を注ぎ、製作者たちは手書きに極限まで力を入れたのです。
現在での評価としては、緻密な軍事的設定と相まって、その描写力が高く評価されています。リアリティーの追及とでも呼べる事象です。この点、80年代付近の作品は、非現実へ突っ走るもの(前の記事で紹介した綿の国星が好例)と、現実を徹底的に描くもの(この作品など)に二分化されているということが出来るでしょう。
ですから、80年代付近というのは、アニメーションの最も発達した時期であり、研究が極限までされたということになるのです。
流れとしては、その後CGによる技術が確立し、良くも悪くも皆そちらへ興味を全てもっていかれてしまいました。ですから、ストーリー性が軽視され、映像技術・CG技術のみが追及されたのです。ストーリー性が重視されなくなったということもあり、その後の作品は、中途半端、どっちつかず、というような内容になってしまったのは仕方のないことです。マクロの世界を描くとしても、ミクロが描かれていない。世界はほとんどミクロの世界、小さなコミュニティーの世界のなかでの、外的なものというよりかは、内的な、人間同士のやりとりによる変化に着眼されました。

-さまざまな視点で物語りを切り開く-
さて、少し歴史的な部分が長くなりすぎましたが、この作品はそういう流れのなかにおいて、転換期に位置しているのです。
どこかはわかりませんが、架空の国にクーデターが起こります。ここからしてかなり説得力のある設定があるのです。それを語るとそれだけで終わってしまうので言及しません。主人公風間真は、航空機のパイロット。しかし、親友でありライバルであった神崎に裏切られ、一人厳しい軍隊のパイロットに転属されてしまいます。悲しい運命を恨みながら、それを忘れてしまったかのように戦闘に明け暮れ、人を殺すことに快感を覚えつつある自分と激しくぶつかり、悩みます。
この神埼という男は、会社の転覆を図り、社長令嬢でもあり、風間の恋人でもあった津雲涼子を奪おうとします。最後になって神崎は無理な転覆を図っていたために、その弊害のために逮捕されます。軍事的な部分を描かなかったとしても、成立するほどしっかりと構成されたストーリーがあるのです。

舞台の分け方も明瞭で、分りやすい。風間が所属する軍でのこと。当然これには戦闘シーンを含め、男と男の世界が構成されます。この風間の世界のなかでも静・動があるので、そうした面においても、流れがあり、観客を飽きさせない要素があります。
一つには戦闘時の世界。当然銃弾が飛び交いあい、ついさっきまで話し合っていた仲間が死んでいく世界。命が散っていく世界です。それともう一つが、戦闘時以外の世界。男たちは戦いの中を生きつつ、この時間の大切さをかみ締めているのです。それぞれ個性的なパイロット。世界各国の腕だけが自慢のパイロットたちですから、当然個性豊か。声優も豪華な顔ぶれ。主役級の声優がふんだんに使用されています。声優ファンとしても必見です。
この風間の男の世界が一つ。男のハードボイルドな世界が多くの人々を魅了するのです。
それともう一つが神埼、涼子の世界。神崎の視点では、友を戦地に送り込み、その恋人を自分のものとし、会社の転覆を図り自分が社長となるという、非暴力的でありながら、極めて人間的に暴力的である行為が描かれます。実に静かななかに、人間の思い、情念の深い部分が描かれるのです。こちらも、命と命が直接ぶつかりあうような緊張とは別の緊張があり、静かな場面であっても油断できないというメリハリがあります。一方涼子の世界では、神崎におびえつつも、世界の平和な部分がここに全て託されています。この世界のなかで言えば、もっとも我々現実に近い場所といってもよいかもしれません。

ただ、主人公である風間とは最終的に会うことが出来ません。このヒロインの視点で考えると、恋人をその友人に欺かれたことによって戦地へ送られ、その恋人を救うために友人であった神崎に頼るも、関係を迫られる。一貫して悲劇のヒロインなのですが、風間はすでに人が変わってしまい、一旦はこちらの、涼子の世界にもどるものの、最後の最後に戦地へ戻ってしまうのです。
自分で変わった風間とは違い、涼子はもしかすると、この作品で最も悲劇的な人物かも知れません。最後には結局恋人に捨てられてしまうのですから。
さて、風間ですがこの男は、数多くの戦闘のなかで、ずっと悩み続けます。腕が立つだけに、人を殺してしまう。三部で、人殺しが楽しくて病み付きになってしまった熟練のパイロットとの出会いがあって、それを否定しますが、最後は自分もそれを否定できないということに気がつくのです。上手い口車に乗せられて、間違って戦争が始まろうとする国の軍隊に入ってしまった日本人のある男との出会いも彼に大きく影響します。死にたくない死にたくないと思って、軍を脱走しようとするもつかまり、戦時中のため死刑が既にきまったようなもの。同郷である日本人の男は、自分の情けなさを語りながらも、風間を激しく罵倒します。死が怖くないのか、人を殺すことがどういうことなのか。
そこで何とか一旦平和な世界へ戻る風間ですが、やはりその現実は彼にとっての現実とはかけ離れた世界。あまりに刺激の多い世界にいたためか、酷く現実味のない感情を抱き、そうして最終的には何かに取り付かれたように、戦地へと戻ってしまうのです。映画の最後で、戦地へ駆けるかれの戦闘機が映されて終わりですから、その後どうなったのかという余韻が残ります。
風間は果たして死んでしまったのでしょうか、あるいは生き延びることができたのでしょうか。作品にそうした余韻を残すということは、逆に言えば、残せるだけ観客になにかを感じさせることが出来たという証拠でもあります。現在の作品では、あまり余韻を残すということは少なく、どちらかというと、全部描ききってしまう。そのその余韻を残すほど壮大なことを描いていないということもあるかも知れません。

-最後に-
ともかく、軍事オタクでもない私が、ここまで興奮し、感激したほど、この作品は優れていると言えるのです。どうして優れていると感じるのかを、今論じましたが、まとめると、ストーリー、緻密な設定・絵、余韻ということになります。
風間は塩沢さんがやっていますから、やはり深みがあるのです。戦地で生きる自分、恋人の待っている世界、この狭間で迷いながらも、最終的に自己の欲求に従うほかなかった男の悲しい人生。悩みつかれてしまった男という、暗い人間を演じられた塩沢さんの技量には大変感激します。私は塩沢さんのファンですから。
この作品は、壮大なスケールで描かれていますが、一面一人の男の悲しい人生の選択を描くためだけに、作られた世界といっても過言ではありません。そうした多重的な面で作品を論じることが出来るということが既に、作品のすばらしさを物語っているのです。

アニメ映画「綿の国星」への試論 感想とレビュー 擬人化と多重的構造

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
綿の国星は大島弓子による日本の漫画作品。また、それを原作としたアニメーション映画作品。漫画作品は1978年から1987年に、『LaLa』(白泉社)に連載。アニメーション映画は、1984年に公開された。『猫耳』文化の起源であるとも言われている。
漫画は70年代の後半からやく十年にも及ぶ作品です。途中なんどかの休載を挟んでいますから、そのため長い期間にまたがけて連載されました。当時のファンとしては大変迷惑なことでしょうが、その漫画を紐解いていくことによって、70年代の「色」と80年代の「色」を考察することもできるかも知れません。
アニメ映画版では、ごく小さくですが、80年代の社会問題にも言及している側面があると私は感じています。

-擬人化についての試論-
擬人化。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E4%BA%BA%E5%8C%96
擬人化というのは、簡単に言えば、人でないものを人に擬して表現すること(広辞苑)ですが、ウィキペディアにはもう少し詳細な情報が記載されています。古くは古代ギリシャ時代からみられるそうで、古典的な名作にも、表現としての擬人化はおおくあります。神話も一種の擬人化と考えることもできると私は思います。自然現象を神に喩えて表現したものですからね。
擬人化には二種類のパターンがあり、一つは無生物の擬人化、もう一つは人でない生物の擬人化。
擬人化の一般的な効用を考えると、そこには人間の理想が詰まっていると考えることが出来ます。例えばネットで擬人化の画像などを探してみると、ポケンモンの擬人化だったり、植物、機械の擬人化した画像が出てきます。これらは、普段私たち人間が、最も愛するべき対象が人間であるということを、如実に語っていると私には感じられるのです。というのも、ポケモンは人間ではありません。まあ、いわば仮想上のペットとして認識しているのだと思いますが、ペット以上に手軽に、自分が育て、自分の命令を忠実に守る、存在ですね。だからそれだけ思い入れが強い。現実のペットよりも仮想上の存在ですから、現実味も薄く、そのため感情移入がなされやすい。そうするとどういうことが起こるかというと、ポケモンを擬人化して、自分の愛すべき対象にしようということになるのです。
ポケモンを絵本に出てくるようなかわいらしい少女に変化させることによって、自分の愛玩的な存在へと変容するのです。他の場合もそうでしょう。以前キノコを全て擬人化したサイトを見たことがあります。非常によくできていて面白かったのですが、これはキノコという生物に、人間的な側面を当てて、いつくしむという行為に他ならないのです。第一義的には、そこまで考えずに、ただ自分の趣味、楽しみというものが衝動でしょうが、その奥深くに潜む人間的な欲求というのは、人間でないものを自分の想像によって人間化し、そうすることによって、対話を計ろうということになるのです。だから、結論をいうと、人間は自分の話し相手としての人間を求めているということもできるのです。
ただ、こうした擬人化、確かなことはいえませんが、アニメ・漫画の発達した日本が最もすすんでいるのではないかと私は感じています。イギリスでは言葉としての擬人化が発達しているのではないでしょうか。完全に主観の域を抜けませんが。
そうして、今回の「綿の国星」は、そういう意味でいうと、最も日本的な擬人化がなされている作品だと考えることが出来ます。
今回の作品では、子猫の目線で物語が語られますが、その子猫は、観客としての私たちからは、小さな女の子に見えるわけです。複雑な視点が考えられます。ここに80年代のアニメ技法が洗練されてきたことを見出すことも出来ると思います。私たちから見れば、少女として存在する語り手は、その漫画の世界のなかでは子猫としてほかの登場人物に認識されているのです。

-さまざまな視点で物語りを切り開く-
時代を色濃く反映している部分から考察してみましょう。当時は受験戦争という言葉がはやったほど、受験勉強は過熱を極めていました。ですから、この主人公というのもなかなか難しい存在ですが、チビ猫の最も親しい人間である須和野 時夫は、そうした時代を反映した人物として描かれます。彼は物語が始まった時点で、すでに大学受験を失敗して浪人生になっています。この時夫ですが、今で言うところの軽いうつ状態になっています。そこからチビ猫との出会いがあり、じょじょに回復していくという面でも作品を見ることが出来ます。
時夫の父は作家、母は専業主婦。いかにもありがちな家族で、母親は一人息子の時夫のことを過剰なまでに愛しています。父は昭和の父親といった感じて、少し無愛想。ナイーブになっていた時夫が一匹の猫を拾うというところからこの作品は始まるのです。
ところがこの母親は猫アレルギー。一つ家のしたでは暮らせない状態なのですが、うつになっている息子のためにも、我慢して飼おうとします。その無理をする母親と父親の会話で、「じゃあこんなの聞いたことがあるか、いつも時夫は、今なら少年Aですむ、今なら、ということを言っているぞ」という会話が登場します。「今なら少年Aですむ」という言葉を時夫は発するほどに、極限においつめられていたと考えられるのです。

本来の視点はチビ猫ですが、この作品は多くの視点から物語を切り開くことが出来ます。今時代から見ました。次は時夫とガールフレンドとの視点から。物語後半ではまったく登場しなくなってしまうのですが、時夫は大学生の女性美津子と恋におちます。この出会いのきっかけとなるのがチビ猫、物語の語り手なのですが、それは置いておいて。彼女は現役の一年生ですから、年は同じ。
当初時夫に恋をしているチビ猫にとっては恋の敵でしたが、ラファエルという猫(これも擬人化されている)との出会いによって、その心情が変化していきます。物語の後半出てこないところをみると、チビ猫に新しい視点を入れるための存在としてしか描かれなかったような感じもします。ここだけ少し不自然なので、時夫と美津子を最後まで描いて、くっつけてもよかったのかなと私は思います。
チビ猫は冒頭にも語っている通り、「人間へは二種類のなり方があって、一つは人間から生まれるもの。もう一つは猫が人間になったもの」と信じて疑いません。そういう物語設定なのかと、一瞬観客も信じてしまうのですが、それは後に出てくるこのラファエルという猫の証言によって、チビ猫の勝手な妄想だったということがわかります。
ラファエルというのはこの作品のなかで最も不思議な存在です。全身真っ白な服をきて、髪も真っ白な聖人のような姿。彼を人間の姿としてみているチビ猫の視点で物語は語られていますから、当然私たちもラファエルは人間としての姿でしか見ることが出来ません。これはチビ猫にもいえたことですが、我々はチビ猫やラファエルが、作品のなかではどのような猫なのかを見ることが出来ないのです。
さて、ラファエルですが、最後は不明な部分が多いので、よくわからない部分があるのですが、最終的には消えてしまいます。チビ猫をめぐって、時夫と三角関係のような関係になるのですが、それに敗れたと自ら認めたためか、姿を消してしまいます。事故かなにかにあって、死んでしまったのかとも考えられなくはない流れなのですが、恐らく生きてはいるのだろうと私は考えたいです。若しくは精神体としての存在になってしまって、綿の国星にいってしまったのかも知れません。

この物語は、チビ猫が起こす行動によって物語がすすんでいきますが、最後には人間になれないことを知ったショックから立ち直り、新しい自己の存在意義を見つけるにいたるという少女の成長が一つできたという部分で終わります。ただ、視点が実に狭く、チビ猫と、少しだけ時夫とその家族のものでしか語られないので、謎が多いのです。ラファエルも最終的には謎になってしまい、途中ラファエルによって語られる「綿の国星」というこの物語のタイトルであることに関しても謎が解明されないまま終わってしまいます。
猫の世界のような「綿の国星」。そこには絶世の美女がいるそうで、ラファエルは成長したらチビ猫がその美女になれるといいます。これ以上の情報提供がなされないので、「綿の国星」が現実に存在する箇所なのか、或いは死後の世界、猫の天国のようなものなのか、猫に語り継がれる御伽噺なのか、はっきりしません。
それを描かないということで完結しているため、物語としてはよいのです。恐らくそれを描こうとすると、映画では収まりきりません。漫画でそのことが判明したのかは、私はまだ未確認なので何ともいえませんが、今回は映画だけを論じるという形をとっているので、それ以上は言及しません。

-最後に-
アニメ映画でこれだけ不思議な擬人化を行った作品は、おそらくこれが最初だろうと思います。またこの作品はその影響力が大きかった性もあり、「猫耳」文化の発祥になったとも言われています。人間で言えば5歳にもなっていないような少女の語りですから、幼くて、可愛らしい作品になっています。一旦チビ猫のフィルターを潜り抜けていますから、世界全体がゆりかごのなかのような雰囲気をまだ持っているのです。絵本、あるいは御伽噺のような雰囲気が全体として保たれているので、そうした点でもこの作品は成功していると思います。

アニメ映画「風と木の詩」への試論 感想とレビュー 抑圧された世界の性を考える

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
風と木の詩は竹宮惠子による日本の漫画作品で、1976年、『週刊少女コミック』(小学館)第10号から連載開始。1982年7月号から、連載誌を『プチフラワー』(小学館)に変えて1984年6月号まで連載された。全2部構成
19世紀末のフランス、アルルのラコンブラード学院の寄宿舎が舞台。
今回はそのOVAとして製作された『風と木の詩 SANCTUS -聖なるかな-』(OVAタイトル)、1987年11月6日よりポニーキャニオン発売された作品を論じます。

-歴史的背景、作品背景-
さて、漫画の初出年代ですが、なんと70年代。漫画以外でも、文学などメディア系の研究をしてきた人なら分かるかも知れませんが、作者竹宮氏も言っている通り、「当時はベッドで男女の足が絡まっているのを描いただけで作者が警察に呼び出されていましたが、私は作品を描く上で愛やセックスもきちんと描きたかったの。男×女がダメなら男×男でいけばイイと思ったの」
この時代、メディアに対して極めて厳しい規制がなされていました。今でも東京都が何とか条例とか言って表現を規制しようとしています。歴史を見ていくと、こうした規制の次の自由、そうしてまた規制という波があるように思われます。
規制することによって、作者たちは困窮のなかで頑張って作品を作る。そうするとすばらしい作品が多く生まれ、作家の技量が上がる。それと平行して自由への衝動が強まる。自由になると、一気に解放されたこともあって、さまざまな表現の作品が生まれる。しかし、自由を手に入れたことによって、何でもありになり、技術、技量の面が次第に衰えてくる。刺激重視になる。そうすると、過剰な表現が際立ってきてまた規制が始まる。この繰り返しなのだと私は思っています。
丁度この時代は規制の時代。そろそろまた規制の時代がくるだろうと思いますが。悪いことばかりではないことは確かです。
この抑圧された時代のなかで、男女の交わりが極端に認められなかった時、一体何をもってそれを表現するのかということが問題となります。後の時代に高く評価されているように、竹宮さんは、男性同士の愛を描くことによって、男女とは何か、愛とは、性とはなにかということを表現しようとしました。ですから非常に禁欲的でありながら、極めて明確なことを描いているのです。
少年愛の金字塔となったという評価もあれば、少年少女の愛を如実に表しているという評価もあります。
男女の愛を描くことが出来なければ、男同士でというのはかなりとっぴな発想ではありますが、そこまで表現者が追い詰められていたということでもあると思います。まるで法の抜け目をかいくぐるような事態ではありますが、規制する側にとっても度肝を抜かれたことでしょう。結局これを規制できなかったばっかりに、そうした方面は大丈夫なんだという認識が広まり、そこから全体の自由へと向かったという流れがあります。

-性とはなにか-
作品自体がすでにかなり閉塞された空間でのことであります。これは言外にこの時代の背景を含めているのだろうと私は思います。19世紀の官舎のなかで、一体人はどのようになるのか。私は共学しか通学したことがない人間ですから、その点少し弱い部分があるかも知れません。男子校、或いは女子校というのは、少しことなった雰囲気を帯びていると一般に言われています。
例えば、これは私の男子校に行った友人の話なのですが、割と中性的な男子、女性的な面をもった男子に、皆が集まるということが起こるそうです。確かに共学でも中性的な人はいました。一般に弱弱しく、静かな感じ、男子のもつ荒々しさがないといった感じでしょうか。そういう人物というのは、確かに男女ともに好かれることが多いです。
主人公となる二人の男子。ジルベール・コクトーとセルジュ・バトゥール。ジルベールという男子がこの宿舎のなかでは、言わば娼婦のような存在になっています。さまざまな男子学生が彼に歩み寄り、交わる。ここが勢力の集中している点でもあります。
上級生が彼を取れば、当然彼は上級生のもの。この官舎のなかに、唯一の存在だからこそ、だれもが彼を奪おうとするのです。そのなかにあって、ジルベールはそれを楽しんでいるよう。自分を目当てに男どもが争っているのを眺めるのが好きなのでしょう。
これに対して、新しく入ってきたセルジュは心優しい男子。彼はジルベールと一所の部屋にされてしまいます。そこでやっと何が起きているのか理解する。彼は同室のジルベールがそのような行為に励み、人格を崩壊させていくのを見ていられません。通常ならば、ジルベールを見捨てて別の部屋に移動してもよかったのです。しかし心優しく、彼の気持ちが分かってしまうセルジュは、彼を何とか救おうと努力します。映画版では大きな物語の前半部分が描かれたことになるのだと思います。
後半もあるらしいですが、竹宮氏自身も書くつもりはなく、友人に託したということらしいです。
物語はセルジュの語りによって始まりますが、回想型。セルジュが大きくなって官舎に帰ってきたとき、昔のことを思い出すという形式で始まります。そのためその後のことをセルジュはしっているのです。ですからたまに、神の視点として、その後に起こる悲劇を予兆するようなセリフが挟まれます。最終的にこのジルベールとセルジュを襲う悲劇がなんであったのかOVAでは描かれません。漫画によると、ジルベールの実父であり、親子の間の近親相姦をして関係を強めている存在があり、これが諸悪の根源となっているように描かれているそうです。
セルジュはしかし、ジルベールに対して肉体的な関係を持とうとはしません。最後それがあったのか少し曖昧に濁している部分がありますが、あくまでもセルジュとしてはジルベールを守りたいという気持ちで一杯なのです。これは同じ性でありながら、好きな人へ対する感情を持ってしまったセルジュの葛藤の物語であると私は考えます。ジルベールは間違いなくほおって置けば自滅する存在です。もうそれほどに彼は傷ついて崩壊しかかっている。セルジュは彼をその暗闇から引き出すことが出来るのでしょうか、或いはという部分で作品は終わります。
ジルベールは紛れもなく、閉鎖された空間における、性の対象です。女性に置き換えてもよかったものを、それが出来ないが為に男性になりました。しかしその結果、別の要素も含まれて、非常に高度な作品になったのです。

-終わりに-
少年同士の愛が漫画では恐らく初めて真剣に描かれた作品です。当時他の作品、メディア等に与えた影響はかなり強烈なものだったろうと推察します。ただ、作品全体としては、タイトルにあるように「風と木の誌(うた)」ですから、詩的な美しさを湛えています。決して性的な描写があるわけでありません。もちろんそれを推測することは出来ますが。極限に抑圧された世界から生まれた、実に禁欲的な作品なのです。ですから常に緊張している。これを単なる少年同士の愛の物語だと決め付けて軽んじた人間も数多くいます。しかし、当人にとってそう感じられたとしても、真剣にこれを見つめる必要があると私はおもいます。

人間としての試論・作品へ対する態度 私の情熱

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「触れなければならない作品はいくつもあるが、触れなくてよい作品は一つもない。なぜなら作品はすべてユニーク(世界に一つしかないもの)だから」石野幽玄
端的に言えば、私の作品に対する態度はこの一文に表されています。
人間には、それぞれ内側にある生命力、エネルギーというようなものがあり、それが常に流動しています。最終的には固まること、死が待ち受けていると思いますが、そのエネルギーは人が生きていくうえで常に何かしらの方向へ発散されていると私は思います。
そのエネルギーというのは、一見なんの形ももたない実にあやふやなものです。それに形をつけて目に見えるものにするのが、例えば、芸術、美術、音楽、文学、スポーツなどの。究極的に言えば、これら全ての事象は、人間とは何かという哲学的な問題を解決する糸口になります。
ただ、人のエネルギーの形にはそれぞれ少しことなった部分があります。ですから私はスポーツのことは分かりませんし、分かるのもごくごく小さな分野に限られます。
作品とは、さまざまな形を取っているにしろ、作者の何かしらのエネルギーが形になったものです。そこにはその人の考えていること、感じていること、感覚というもの全てが集結しているのです。そうして作者はまた自分の感情をそこに込める。我々は作品に向き合うとき、一体どんなものが込められたのだろうかと考え、引き出すことが出来ます。作品を媒体として、私たちは人間の深なる感情を共感することができるのです。これは人間のみができる尊厳に関わる行為、極めて高度で複雑な精神作用なのです。
ですから、私たちはもっと作品と触れ合わなければなりません。それは人を知ろうという行為と同義でもあるからです。また人を知るということには、自分も知らなければなりません。翻って考えれば、先ず自己とは何かというところから、我々人間は考えなくてはならないのです。
私が考えてきたことのなかで、考えを続けることの重要性があります。今もその考えることとは何かということを考えています。人間には考えることができ、しかも考え続けることが出来るのです。私はこれを人間に出来るすばらしいことだと思っています。
自己を考え、他人を考え、作品を考える。
これは人類全てに課された永遠の課題です。ですから、人間はこの考えることを諦めてはいけないのです。そうしてこの問題を自分の問題として考えることが重要なのです。あまりにスケールの大きいことでありますから、だれか他の人がやればいいやという気持ちになりがちです。しかし、そこを何とか己の力で、意志の力で自分の問題だと感じ、考えることをしなければなりません。
ただ、やはりあまりに壮大な問題ですから、一人の人間に出来ることは限られてしまいます。ある人間はある分野を、また他の人間はある分野を熱心に研究する。そうした狭く深く研究する人間もいれば、浅く広く研究する人もいるでしょう。そうやって狭く深く研究されたことを、浅く広く研究した人が関連性を見つけてつなぎあわすこともできる。
或いは別の視点をもって研究する人も現れるかもしれません。縦に割るのか、横に割るのか、あるいは斜めなのかも知れませんし、まったく別の割り方かも知れません。割らないかもしれません。
そのなかで、私にできることは何かとひたすらに考える必要があります。これがその人物の作品に対する態度になるのです。
私に関して言えば、物語の類型という視点から、作品を解釈することに力を入れています。私は人が何かを作ろうとしたときに、自然と時間的なもの、他者との関係、その他もろもろのことが付着してしまうと考えています。それがどうしてそのような形になったのかを研究することによって、最終的な目的では、人を理解するということに繋がると思います。
物語論の展開では、さまざまな作品を対象にすることが出来ます。私の専門は小説ではありますが、物語はどこにでも存在するものです。そこに物語が存在すれば、私はそれを読み解こうと考えることが出来るのです。例えば、映画、アニメ、漫画、ゲーム、劇、これらのものは全て物語りが存在します。私は映画の研究者でなければアニメの、漫画の、ゲームの、劇の研究者でもありません。しかし、物語論の研究者として、これらの対象も研究することが出来るのです。
今、何かに熱中するとか、夢中になるということが、軽んじられる時代になりました。物事は全て合理化され、時間との戦いの日々、じっくりと思考する余裕も与えられません。しかし、多少無理をしてでも、そうした時間を作り、人間に対する眼差しをもう一度向けなければ、我々の未来に待っているものは破滅でしかありません。極端に言えば、世の中は機械だけで成立してしまうのです。そういうことではなくて、我々は人間として生まれたからには、人間にしか出来ないことを、より高度な精神的な面を鍛えなければならないと私は思うのです。

サラ・ブライトマン ウィーンコンサート 私の好きな歌手 心ときめかせ


Sarah Brightman - Live In Vienna(サラ・ブライトマン ウィーンにて)
1. Pie Jesu
2. Fleurs du Mal
3. Symphony
4. Sanvean
5. Canto della Terra (With Alessandro Safina)
6: Sarai Qui (With Alessandro Safina)
7. Attesa
8. I Will Be With You (With Chris Thompson)
9. Storia d'Amore
10. Pasión (With Fernando Lima)
11. Running
12. Let it Rain
13. The Phantom of The Opera (With Chris Thompson)
14. Time To Say Goodbye
15. Ave Maria

-初めに-
今回は気楽に行きましょう。私にはこの歌手、という人がいるでしょうか。先日偶々原宿に用があって行ったら、丁度ヤマピーのコンサートだったらしくて、大変な混雑に巻き込まれてしまいました。
人間には色々なエネルギーが詰っていると思いますが、社会が不安定ななか、日本全体が右肩下がりしているように感じられていた今、若者にはまだこれだけの衝動があるのだと、感心しました。そういえば、AKBの前田敦子が引退するときも、大変な盛況ぶりだったことは記憶に新しいです。アイドルの細分化が起きていると考えている私ですが、それでも今のアイドル像はあっちゃんが相応しいのかも知れません。これだけの人と力と金が動くのですから、やはり影響力は相当なもの。まだ日本にもそうしたエネルギーがあるのだと実感します。
そうしたこの人になら、お金も時間も割けるというような人がいるでしょうか。別に人じゃなくてもよいのです。音楽にしろ、美術にしろ、文学にしろ、スポーツにしろ、やはり何かに熱中できるというのは、私は良いことなのだと思います。
仏教的な考えでは、執着というのは、すでに心がよろしくない状態であると考えます。でも全員が全員無我の境地に達したら世界は成り立たないですよね、現実問題として。確かに執着は、あまりに度が過ぎると他人に不快感を与えます。私だけのものという占有観が強くなると、他のその事物が好きな人へ対して否定的になってしまうのです。ですから、そこまで我を押し通すことも考え物ですが、何かに熱中し、その楽しさを他人と共有できるという喜びは、人間の尊厳だと私は思います。

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三年ほど前になるかも知れません。NHKのドラマ『坂の上の雲』のエンディングを美しい声で閉めたのは、もちろんサラ・ブライトマン。坂の上の雲の余談をしますと、先日やっとこさ司馬遼太郎の坂の上の雲を読み終えました。それについての論文もまた書くつもりです。私の友人は「坂の上の雲は、年々エンディングが悪化している」と言っていましたが、私は森さんも好きです。
さて、それ以前から私はサラ・ブライトマンが大好きでした。丁度タイムトゥセイグッバイが何かで大ヒットした際に知ったと記憶しています。それ以降彼女のCDをいくつか買って楽しみました。
「世界でいちばん美しい歌がある」というフレーズのもと、日本でも一大ブームになったのではないでしょうか。コンサートの映像がアップされていたので、今回は知らない人もコンサートを見ることによってその良さがわかるのではないかと思い、この記事を書きました。知っている人は、私と一所に楽しみましょう。
1.Pie Jesuから始まるコンサート。いきなりこの広い聖堂のなかを、彼女の美しく高い声が響き渡ります。はっと、私たちは心を掴まれてしまうのです。途中で浮かび上がる石造がちょっと怖い。
よくわからないですが、日本の何かしらのテレビ番組で放送されたものでしょう。日本語の字幕が付いていて大変わかりやすい。
2. Fleurs du Mal、一曲めの静寂を破るようにして始まった情熱的な曲。クラシックとロックを掛け合わせたような曲は、やはり彼女以外に歌える歌手はいません。狭い聖堂がコンサート会場になっていますから、彼女も色々歩き回らなくてはいけない。ちょっと変則的ですが、それなりに面白い演出をしています。
3. Symphony私の大好きな曲です。晴れやかに伸び上がるすがすがしさがすばらしいです。
4. Sanvean、朝もやのなかの静かな湖水にたたずんでいる空気がふっと流れてくるような曲です。こうした声が美しい歌手はそういませんから、彼女だけが歌えるような曲といってもいいでしょう。
5. Canto della Terra (With Alessandro Safina)アレクサンドロ・サッフィーニとともに歌うCanto della Terra 。さすがにサラが選ぶだけあって、物凄く明朗な声のテノールです。二人向き合って声を張り上げる部分はすさまじい。それでいて全く無理をしているという感じはしない。余裕のうちにこの声量。歌手という職業のなんたるかを教えてくれます。仮にも歌い手という名が冠されているのですから。
6: Sarai Qui (With Alessandro Safina)私の大好きな曲。静かに始まりますが、次第に熱くなってきます。男女の恋のように、それぞれがあいてへ心を投げかけ、それが次第に熱くなっていく。実に感動的な歌です。歌のなかに一つの完成した物語がある。
7. Attesa、恋のように熱く燃え上がる歌を歌い上げた後は、名曲をしめやかに歌います。彼女の高域の歌声が堪能できる綺麗な曲です。
8. I Will Be With You (With Chris Thompson)クリス・トンプソンとともに。クリスはロックの出身ですかね。アレクサンドロとはまったく歌い方が異なります。しかし、クリスもサラと相性がよいのですよね。この曲も恋を描いたもの。重なるように男女の歌がお互いの言葉をつないでいくのが何とも美しい。伸びやかさがまた、若い恋の気持ちを代弁しているようです。
9. Storia d'Amore、50歳を超えているとはとても信じられない清涼な歌声。天使のように高く響きわたる、ことの旋律のような声とともに、フルートのような滑らかさをもっている彼女の歌声は、こういう静かで伸びやかな曲に向いています。
10. Pasión (With Fernando Lima)フェルナンド・ライムとともに。高域が得意な歌手です。二人の高い音域の歌声は、それ自体がなにか神秘的な力を有しているような感じがします。
11. Running木星の有名なメロディーから始まる曲。ライトがオレンジに一変し、情熱的なビートが始まります。曲の始まりを合図するかのような彼女の叫び声は人間の声とは思えないほどです。彼女のすばらしいところは、クラシックのような曲ばかりではなく、こうしたポップスの要素が多分にある曲も歌い上げることができる部分だと思います。クラシックは私も大好きなのですが、やはりそれだけでは面白くない。さまざまな分野を歌いこなすことが出来る彼女は、ライブにおいて最も全体の流れというものを劇的に変化させ続けることが出来るのです。だから観客は飽きない。次にどんな曲を歌うのかと期待するのです。
12. Let it Rain、有名な曲だと思います。熱い曲を歌った後はきちんと冷ます。ただ完全に冷ましてしまうのではなくて、しめやかさのなかでも割とテンポの速い曲です。
13. The Phantom of The Opera (With Chris Thompson)そろそろフィナーレということもあって、CDでもトップを飾るオペラ座の怪人の曲を、クリスとともに熱唱。最初から力強い曲ですが、最後にちかづくにつれ二人とも大変なことになります。特に最後のサラがこれまでかと叫び続けるのは怖いです。この高さを維持しつづけ、さらにさらに高域へと突入していく。大丈夫なのかと観客が心配になってしまうほど。あまりの興奮に、私たちも曲が終わるとはっと息をつけます。
14. Time To Say Goodbye最後を飾るに相応しい、彼女の代表曲。タイムトゥセイグッバイ。もとから彼女の曲ですから、やはり彼女以外にこの歌が相応しい歌手はいません。一時間以上歌ってきて、最後にこの曲をもってくるというのは、やはり彼女も思うところが多いのでしょう。
15. Ave Mariaもう一曲歌って欲しいという観客の心をよくわかっていらっしゃる。聖堂で歌わせてもらったお礼かも知れません。ほとんど音楽がいらないほどに、彼女の歌声はそれだけで完成されています。有終の美を飾るに適した曲です。

一時間ちょっとも長いと感じているようでは、大分忙しさがあなたを襲っているかもしれません。たまにはゆっくりと、パソコンですが、音楽を鑑賞してみるのもよいのではないでしょうか。

連載、旅行記「神津島にて」 石野幽玄 -4- 終

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三日目
一人身内が危険だということで、急遽東京へ帰る人間が二日目に出た。それから、三日目には、東京で国家試験があるといって帰る予定の先輩がいた。
三日目の朝は、昨日の不幸を克服せんとして、攻略法を変えた。先ず朝の5時では遅いとして、4時に出た。5時がかなりあかるかったことに気がついた。4時はまだうす明るくもなっていない。暗闇が完全に包んでいる。波止場の先には、小さな赤い灯台がある。そこの周りだけがかろうじてライトがついているが、後は、街灯が申しわけ程度についているほか光源がない。車で波止場に入っていくのはかなり怖いことであった。
こうしたとき、私の豊かな発想が逆効果となる。もし車ごと海に落ちてしまったらどうしようという、途方もない考えが浮かんでくる。車のライトが確かにコンクリートの地面を照らしているが、しかしそれは本当のことなのだろうか、まだ目覚めてからそんなに時間も経っていない、ぼんやりとした頭のなかで、現実と空想の境目がはっきりしていない。
まだ誰に来ていなかった。波止場の先端にいって、昨日得た要領で、セットし終えると、針を海にたらした。今度は生のえびを針に刺している。すると、驚くべきことに、昨日はまったく手ごたえがなかったのに、すぐに食いついた。なるほどこれが食いつくという意味なのか。魚がひっぱる強さというものに、驚いた。私が一番に釣った記憶がある。釣れたぞと皆に声をかけた。初めこのしましまの魚が何か全くわからなかった。
熱帯魚だろうかと思ったが、とりあえずクーラーボックスに入れておくことにした。
現代の科学技術というのは、生活を便利にするものである。いままでであれば、魚についての知識が必要であったのが、この極端に東京からはなれた島であっても、携帯の端末でネットにつなげる。先輩の一人が、何のアプリだかわからないが、魚の図鑑のようなものを見ていた。そこから、この魚が石鯛の子どもである、シマダイであるということがわかった。白と黒のしましまが、その名前の由来である。これが大きく成長すると、海の王者だか、王子だかなんだか忘れたが、立派な魚になるらしい。シマダイはまだ小さい。熱帯魚と間違えるほどであるから、手のひらサイズである。これが食えるのだろうかと思ったが、何とか食べられるようである。
それから私たちは続けざまにこのシマダイを獲った。別に狙ってやっているわけではない。他の魚の影も見えるのだが、どうもこのシマダイというのが、馬鹿なのか、よくエサに食らいついた。
結局、私が一匹だけ全体が抹茶色をした魚を釣ったのが、唯一の別の種類の魚である。海のなかには、ふぐらしきものもいれば、もっと全長50センチほどの魚の影も見えた。それを釣って、一躍今日の主役に躍り出ようという心持はあったが、私たちの釣り針では、それに耐えられるようなものは持っていなかった。
私たちが釣りをしていると、他の人々もちらほらと現れた。なかに本島の人間と思われるおじさんがいた。私たちに話しかけてきて、それはなんですかと聞いた。私たちがシマダイだというと、釣れますかといった。入れ食い状態だというと、大変驚いた様子である。私は初心者なんですと言うと、そのおじさんもまた私もですと言った。こういう部分、島民との違いだといえるだろう。
ふと気がつくと、昨日の私を馬鹿呼ばわりした老人も着ていた。私は彼が憎かったから、なるべく離れていたが、他の仲間たちはそれに気がつかず、老人に絡まれていた。皆初心者であるから、なかなか上手くいかない。魚をとっても、このシマダイ、ひれがとげとげしていて痛いのである。だから釣り針の抜く際に、ビニールで抑えて抜くのであるが、それを見て、そんなものは手でやるんだとやってみせた。そんなこと分っているが、我々には何もかもはじめてのことで、そんなに要領よく行くわけではない。こんなに釣っちゃって可哀想にとか言う。悪かったなと心の中で思った。
しかし、先輩の言った言葉に、食うことは弔いだというものがあるから、きちんと食べればよいでしょうと思った。
この老人、他の仲間一人と、二人して話している。そうして釣りをしているほかの中年の男性にも罵声を浴びせるのだから嫌になってしまう。私の隣の中年の男性が、釣り糸が切れたのか、ルアーがぼちゃんといって海に勢いよく入ってしまった。それをみて、糸が切れたね、とかなんとか言って、例の馬鹿が出て来た。その中年の男性は、なるほど流石に長生きしてきたことはある、全く何事も無かったかのように平然としている。こうすればよいのかと思った。
宿に帰って、釣った魚を調理してくれるように頼んだ。唐揚げにすれば、食べられるだろうと、釣り場にいた本島からの人間の助言もあって、そうしてくれと頼んだ。そのシマダイの唐揚げが出てきたのは夜のことである。皆美味いとおどろいた。骨が多くあることと、身が少ないことが欠点であったが、白身の美味い魚であった。
朝が早かったので、午前中は寝た。はっと起きたときには、12時丁度であった。私は、午後から海に行く人間の輸送を12時に任されていた。起きるや否や、すぐに海に行く人を集めて、行動を開始した。
皆赤崎で泳いだ。赤崎には砂浜はない。岩場であり、そのため海中が楽園と化している。
飛び込み台であるが、意外と飛び込めない人がいる。私は飛び込めたので、皆に飛び込んでみろと無理強いをした。少し意地悪な人間である。
後輩の女子に跳んで見せろといったら、すぐに飛び込んだ。女性ができないよとかなんとかいって、もじもじするのと見て楽しもうと思ったら、意表を付かれた。私は単にすばらしいと思ったが、飛び込めない男子にとってみたら、大変なプレッシャーになったようだ。私はそのことを挙げて、女子でも飛べたんだから、何故貴様が飛べぬといじめた。
売店でカレーを食った。少し高かったが、美味い。今回の旅行を通じて得た感想は、飯が美味いということである。疲労のためとも思えない。父はあしたばの不味いということを言ったが、それほどでもなかった。
民宿とは思えない美味さであった。昼食も、いくらかの店に入って食べてみたが、どれも美味かった。特に一番美味かったのは、波止場の近くにある、よっちゃーれセンターという場所で食った、漬け丼である。これほど美味なものはなかった。
海で遊んだ後は、途中にある温泉に入った。ここは露天風呂があり、水着で入ることとなっている。露天風呂は混浴である。内風呂は通常の温泉と同じである。
後で話したところ、先輩の持論では、海では入るときも女性は、カーディガンや何かを羽織っていて、なかなか肌を見せない。しかし、銭湯になると何故か気を許してビキニになる。これは不公平であるとのことであった。だからたくさんビキニ姿が見れましたよと自慢した。
問題なのは、この風呂の水である。なんだか海の匂いがするなと不思議に思っていると、仲間の一人がしょっぱいといった。なめてみると、本当にしょっぱかった。銭湯だろとおどろいた。内風呂もどうかというと、やはりしょっぱかった。わけが分らない。
後でカウンターのあたりの掲示板を見ると、温泉であることは温泉なのだが、その温度が熱すぎるために、海水を入れて冷ましているという。何故海水で冷ますのだばか者と思った。
内風呂のほうが濃度が高く、2割の海水がはいっているのだという。これでは海にはいっているのか風呂に入っているのか分らない。
露天風呂では、展望風呂というものがあった。高台に設置されていて、あたりが眺望できる。ただし、こじんまりしていて、屋根も付いているため、どうにもカップルが寄り付きやすいようである。それで私たちは、大挙してそこを占領しにいこうぜということになった。大勢の学生が、いやあ眺めがいいな、とかきれいですね、とか言いながらがやがや入っていった。アベックが逃げましたぜとかいっている。ここもしょっぱかった。
夏の夜といえば、肝試しはもうやったので、残るは花火である。合宿係が旅行会社に頼んで花火を買ってもらったらしい。一日目にもやったのであるが、何十人もいるこの集団でも全く使いきれなかったほどの量である。
戦時中の火薬の輸送かと思われるほどの花火である。打ち上げ花火も多数あり、私がこれを点火する役を承った。
二時間近く、打ち上げ続けてやっと終わるくらいの量があった。それでもまだ、手持ちの花火がなくならない。終いには一人何十本も持って一気につけた。
特に線香花火をいっぺんにやることほど美しくないものはない。火薬が一つの大きなだまとなって、ちっともパチパチそとへ飛び出さない。はかなさもないのだから酷いものである。
飲み会は深夜遅くまで続いた。私は無理をしたくない人間であるから一時過ぎに寝た。さすがに旅行も三日目となり、疲労困憊になってきているので、徹夜組みも4時ごろには寝たらしい。

四日目
四日目は、朝すぐに出航となる。民宿には、いままで泊まった団体の寄せ書きが並べてある。色々な大学の色々の部が遊びに来ているのだ。我が大学のものもあった。一体何年前に来たのであろうか。少なくとも四年以上前であることは、四年生の先輩が知らないことでわかった。かつて若かった人間もまた歳をとり、今の我々もまたいずれ歳をとる。時間の流れというものを感じた旅であった。
そうして私たちもまた寄せ書きを書いた。
赤崎が 飛び込む姿 眺むれば 若気心地の 愉しさを知る
皆横書きのなか、私だけ和歌を縦書きで書いた。面白がられた。
船が東京に着いたのは5時半ごろであった。その間、他の仲間は殆どが寝むっていた。私はそれを面白がって写真にとった。私はきちんと休んでいたのであまり船のなかで眠るには至らなかったのである。本を読んでいた。
東京は浜松、夜はオフィスビルのなかで夕食を食べた。どうやら長かった旅も終わったらしい。今回は珍しく、大きな事故も、けが人も出なかった。それではそろそろ筆を置くことにしよう。

連載、旅行記「神津島にて」 石野幽玄 -3-

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二日目
二日目となると、私の定位置はすでにドライバーとなっていた。別に私はそれを望んでいたし、運転も楽しければ、皆を乗せて往復するのも楽しかった。
そこに縛られていたといえばそうなるかも知れない。海で泳ぐことをあまりしない人々は、それぞれ自由な行動が出来た。もし次回行くことがあれば、そちらのグループで活動をしてみたいとも思う。
海があまり好きでない人は、島の郷土資料館へ勉強に行ったり、神社の参拝をしたり、天上山のトレッキングをしていたらしい。後ほど、皆に話を聞いて回った。
二日目は早朝に起きることから始まった。一日目の夜は、皆体力のまだ有り余っているところであろうから、大宴会が続いていたらしい。私は明朝の釣りを約束していたので、すぐに布団に入っていた。釣りを約束していた先輩が、本来の自分の場所がすでに他人で埋まっていたために、仕方なく私の部屋へ来ていた。一度私は寝ぼけ様に、隣の人物が、私のルームメイトではないということを、感覚的に覚えて確認しようとした。しかし暗がりのなか、意識もはっきりしていなかったので、確認しようというところまではよかったが、結局誰かわからずにもう一度寝た。そうして朝の五時、その先輩の携帯が何度も鳴った。
そうして起きると、そこで隣に居たのが先輩であることに気がついたのである。他に釣りにいく連中を誘い、私たちは初めに舟が着いた波止場まで行った。
私は釣りが初めてである。東京に住んでいると、釣りという機会は殆どない。それに父は釣りを趣味とする人間ではなかった。であるから、20年近く生きてきて、私は釣りをしたことが今まで一度も無かったのである。
経験者が少ない。であるから、波止場に着いたはいいものの、準備までに何十分もかかるという始末である。既に波止場には、島の住民たちがつりをしに着ていた。
私たちは現代の若者に代表されるような、一種の倦怠に似た感情を持っているのかも知れない。それらの島民たちとあまり交わりたくないという消極的な感情があった。だから、皆がやっているところからはなれた場所で釣りをした。それが一つの不漁の原因かも知れないが、その日自体があまり好ましくない日だったのだろうと私は思っている。その日は全くつれなかった。一匹もである。宿に帰って他の仲間に島に来て坊主というのは初めてのことだと馬鹿にされた。
ともかく右も左も分らないままに、何とか釣り糸をたらしてみるというところまでは行った。疑似餌というのもよくなかったかも知れない。私は先ほどの先輩に釣り道具を借りていいたのだが、これは網のなかにエサを入れてばら撒いて、その上にいくつも針があるというものであった。魚の影さえ見えなかった。
こんなものだろうかと、少し不愉快になっていたところで、島民の一人が私に話しかけてきた。場所が悪いのだと思って波止場の先、他の釣りをしている人々に近すぎたのである。
既に還暦を迎えているオヤジであるが、自然の中で育ってきたためか、人間的に荒々しさがある。色はたいそう黒く、皺がきざまれている。それで居て目は光っているように見えて、口には不気味な笑みをこぼしている。世を捨てたという感じがある。
対して私は都会育ちの、神経の弱い男である。全く相容れない性格だろう。
この老人が、滑舌が悪いため殆ど聞き取れないのであるが、内容を要約するところによると、そんなことは馬鹿のやることだ、そんなんじゃ意味がない、意味がないのをやるのは馬鹿しかいないというようなことを頻りに私にぶちまけてきた。
馬鹿という単語しかはっきりと聞き取れないが、私はそれ以外を聞き取ろうともしなかった。大変腹が立った。朝から不快な感情が私の腹を満たした。
だからこういう人間と関わるのは嫌いなのである。確かに釣りだけで見れば、その老人のほうが、よっぽど経験もあるだろうし、私たちの行動が馬鹿に見えてもおかしくないだろう。それは分る。しかし、だからといって、人を馬鹿にしてよいのかということになると、それは違うだろう。そんなことを許すのならば、私は即座に攻撃に転化して、その老人の文化的素養、芸術的素養のないことを大変愚劣なまでに罵倒するだろう。
こうした老人というのは、もはや仕方がない。凝り固まった頭の持ち主で、しかもこうした自然のなかで生き抜いてきた男である。考え方も短絡的だろう。その一つをもって人を馬鹿呼ばわりするのは、それ自体が己の馬鹿を露呈している。そう解釈して私は黙っていた。その黙っていたのが彼の攻撃を延々と続けさせた原因かも知れないが、しかし、ずっと無視していると、やがてその老人は去っていった。
ともかく一匹も釣れなかった。
島民の人間性について少し見てみたい。東京都とは名ばかりで、カテゴライズされた島民も可哀想だろうと思いながら、この辺境の地で、彼らは生きてきたのである。この島には高校までは一応あるらしいが、しかし、ここで学べることといえば、一体どれほど東京の社会で役に立つものであろうか。
島全体が山になっているため、傾斜がある。宿へ登るのも大変なことである。その宿からさらに上に行くと、おもちゃやさんがある。昨日の昼に車で通ったときに発見したものであった。私はそのとき、大きなバンでその細い民家の間の道へ迷い込んでしまったため、車をぶつけないか戦々恐々としていた。
ともかく、そのおもちゃやに大挙して遊びにいった。後で宿に帰って、OBに聞くと、この島の名物であるらしい。そんなことは知らずに、おもちゃやに入った。
先ず目に付いたのが、お菓子類である。梅のお菓子であったが、どうも私が認識しているものと比べていろが黒い。不思議に思って賞味期限を見てみると、やはり一年以上切れていた。こうしたものを商品として出してはいけないだろう。それをもし誰かが買おうとすれば、店主のおばあさんはなんの確認もなしに売ることだろう。これは危険だ。
店に入るや否や、すぐに奥からおばあさんが出て来た。このおばあさんも色が黒く、精神が自然にもまれて出来ているため豪傑というような感じである。
どこから来たの、高校生?、宿はどこ、質問の嵐である。と思えば、今度は自分ひとりではなしている。私は普段話術の得意な人間として他人に認知されているほどの人物であるが、全くこのおばあさんのペースには着いていくことが出来ない。
私いま80よ。同級生は天皇陛下。だって歳が同じだからさと、聞いてもいないのに弾丸トークでまくしあげる。80と聞いて流石に驚いたが、まったくそれを感じさせないほどの頭の回転のはやさである。
私たちは45人でおもちゃやの見学に来ていたのであるが、一人の先輩がつかまって、先ほどした質問をもう一度、あんた高校生、ときた。いやだから大学生とこちらも少し妬きが回っている。
あんた白いね、大学生ならもっとしっかりしなくちゃ、それじゃ高校生だよ、と独自の理論を展開なさって、先輩を責めている。と思えば、来年はこの店もうないよ、もう店をやる気がなくなっちゃったといきなり悲しい宣告をされた。もう疲れちゃったもんというのが原因らしい。確かにこれだけの品物をそろえて、それを管理していくのはなかなか面倒くさいことであろう。80歳の人には荷が重過ぎる。
80歳という、私たち4人を合わせて何とか辿り着く時間を感じ、店の荒廃を見、来年にはもうないという訃報をきき、さすがに私たちも悲しくなった。このおばあさんは、80年間もこの島で過ごしてきたのであろう。何の娯楽施設もない、テレビをみたって、政治のことやら芸能のことなど全く実感として分らないだろう。新宿、渋谷、原宿と東京の都会を見たことがあるだろうか。上野にはさまざまな美術館がある。それらとは何の関わりを持たない人生。島の自然と、住人全員を覚えられるほどの人間との付き合い、一年に何度かくる観光客。私には耐えられぬ。
宿に帰り、この島を以前にも訪れたことのあるOBさんにこの話をした。止めると聞いて、大変悲しがっていた。さて、そこでルームメイトの一人が帰ってきた。おもちゃやにいってトミカを買ってきたらしい。あのおもちゃやで大丈夫かと私は漠然とした不安に襲われた。そうして彼がトミカを空けると、中は空であった。
トミカがディスプレイで並べてあるのを私は見た。しかし、プレートと飾られている車がまったく異なっていた。私は車が昔から好きであったから、この無茶苦茶ぶりに大分心痛めた。おばあさんいわく、私は車は全くわからないから適当に入れているということだそうだ。
そうして私の友人は殻のトミカ箱を3百50円で買ってきた。もとからそういうおっちょこちょいなところのある友人であったが、いくらなんでも空を見抜けないとはということになった。バイクを買ったのが悪かった。トミカのバイクは比較的軽い。それに惑わされて空を持ってきてしまった。しかし、そのおばあさんとの別れ方が非常にあっさりしていたらしい。また島に来ますとかなんとか言ってわかれたそうであるから、今更中身がなかったといいに行くのも辛いらしかった。終生かれのお笑いの一つとなるだろう。それにトミカの箱はそれだけの小さな置物になるという利点がある。
どうにも風土としかいいようがない。島の自然に囲まれて時間的に制約を受けず、細かいことを気にするような人物も生まれない。東京の都会が、細やかで繊細であるとすれば、こちらは太く豪快というところだろうか。そんなことを思ってみた。
夜は学生の本分であろうか、もちろん肝試しである。私は生まれてこのかたこうした肝試しというものをやったことがなかった。小学生のときに、ぞろぞろと一列になって行動するというようなものはあったが、二人きりで行うというのは初めてである。しかも、男女ペアになる。これが本当の肝試しというものかと私は思った。私とペアになった女性も始めてだといった。結構島の夜は暗いものである。東京の夜になれている私たちにとっては、本格的に暗く、そうして静まった島というのは、意外と怖いものである。森を抜けろという命令であったので、真っ暗闇をライト一つで歩くのは、なかなか面白かった。
おばけが出るのだろうかと予想していたが、おばけはないらしい。途中の神社で写真を撮られてそのまま帰ってきた。

連載、旅行記「神津島にて」 石野幽玄 -2-

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一日目
二等客室の薄暗い中で、私は何時の間にか眠りについていた。瞬光、私が日のまぶしさに目を覚まされたのは、日の出のことであった。しかし、この直接の私を起こした光は、艦内の蛍光灯が一斉に点灯されたことである。
船上から拝む日光というのはどういうものだろうかと楽しみにしていたために、それを逃したのは、残念なことであった。
甲板に出てみると、船の進行方向には島が見えた。その島は、私が降りるでき島ではなかったので、荷を降ろす準備をする必要もなく、ただ船が島の波止場へ吸い寄せられていくのを見つめていた。そういえば、どのようにして船を止めるのだろうと思っていると、今の船はよく出来ているもので、丁度船頭を軸にして、それまで島へつっこもうとしていた体勢から、にわかに大回転をしてみせたのである。船の尻をぐるっと前へふるようであった。そうして180度回倒して、静かに波止場に寄せ付ける。船を待っていた島の住民が、一斉にロープを引っ掛けたり、タラップを押し付けたりしている。慣れたものである。荷物をクレーンで引き下ろしたり、小さな荷物は手で投げたりしている。それを見ていて、もし船と波止場の間に荷物が落ちたらどうするのだろうなんて不吉なことを考えてみた。
用が済んでしまうと、島民はすぐに引き上げてしまった。特になんという感情もないのだろう。私はそれを見ていた。船もそのまま何事も無かったかのように航海を続けた。
それからしばらく、私はまた眠った。はっとして、心地よい眠気から醒めると、船内のアナウンスが、我々の目的の島へ着いたことを知らせた。私と仲間は荷をつくり、タラップの掛けられる部分の前へ並んだ。これだけの辺境の地というのに、乗客数は多かった。皆、私たちのような若者ばかりである。観光にきたのであろう。舟が移動しているのが、振動によって伝わる。また転換をやっているのであろうと予測しながら、上陸の時を待った。
神津島は、神のおはします島にて、神聖なる島である。なるほど、これだけの辺境の地にあって、かつて火山であった山があり、島全体が岩で出来ている。日本特有の自然の美がある。これをして外人であれば、だたの岩の多い島と考えるであろうが、神の多くおはする日本にとっては、その雄大さが神的な力を所有するように考えられたのであろう。
海岸に突き出すようにして屹立と存在している岩山は、一種近寄りがたい感じもある。大分黒に近い灰色であり、とても人が登れるような優しいものではない。海にけづられたという感じが全くしない、ごつごつとした岩である。これをアジア的な植物が覆っている。松のような、これも西洋的な上に伸びるような木ではなく、平べったくはえるものである。色彩も西洋より墨を多く足したように、黒に近い色だろう。
島の形は拳を握り締めたときのような、力強い格好をしている。元々火山の噴火によって出来た島であろうから、島の中央に火山がそびえ立っている。実によく均衡のとれた形である。
舟が島に着いたのは、朝である。私は期を逸したために、朝食をとらず仕舞いだった。別段舟に酔ったということもなかったが、かといって腹もすかなかった。
大挙して宿に向かった。宿といっても、もちろん学生の集団であるから、民宿である。茶と、神津島特産のあしたばのクッキーを食わされた。あしたばとは、今日摘み取っても、明日には葉が出ていると言わしめるほどの、旺盛な発育力をもつ植物である。
私の父は、余談ながらどうにも生命力の強すぎる植物が嫌いであった。一つには彼の生命力があまり強靭ではないということもあるだろう。また、そうした強すぎる生命は、マイナスに捉えれば、意地汚い地を這ってでも生き抜くという限界の様子を呈している。そういうことが要因かも知れない。ともかく、父はオシロイバナを嫌うような人であった。私の神津島に行くのを聞いて、あそこではなんでもかんでもあしたばが出るぞと教えてくれた。そうして、あしたばは何にでも形を変えて、てんぷら、煮物、漬物等々で出てくるが、別に美味いというわけでもないと言った。果たして父のいうことは現実となった。島に到着して一時間と立たぬうちにあしたばのクッキーでもてなされた。
車で移動して、海岸は沢尻で遊ぶこととなった。レンタカーを借りて、それを私が運転した。大分運転になれてきたこともあって、運転は苦にならなかった。それどころか、普段とはことなった場所を走り、大勢の仲間を乗せて走ることも新鮮であった。なおかつ、運転が楽しくてやっているのに、皆に感謝されることも大変嬉しかった。一石二鳥である。
沢尻、この海岸は、丁度陸地がへこんでいて、小さな湾といえるようになっている。右方には大きな岩山がそびえたち、木々が緑に染めている。この海岸を望むように廃墟のホテルが蒼然と建っている。砂浜に立つと、海とこのホテルに挟まれる格好になる。
お化け屋敷としても使えるような面持ちがあり、元来白かったであろう壁が、潮風にさらされて、灰色になっている。水と地球の重力によって、おりなされた、上から下へ流れるようについた模様は、それ自体が時間の流れや、人が見捨てた悲しさ、ホラー的要素が詰まっていた。
沢尻の海は、山の川の水が流れ込んでいるため、海水は必然、外の海からの水と川の水とが混ざることになる。一寸信じられないようなことではあるが、水という溶液が混じりあわないということが、どうにも現実としてあるらしい。海面を見て一目瞭然で分ることもある。色の全くことなる部分が、線を引くようにして分かれているのを、誰もが見たことがあるだろう。この沢尻の海では、そのように見た目で分るということはないが、海中を泳いでいると、突然海水のかなり冷たいのに包まれる。
塩分の濃度が違うということが、あまり混じりあわなくするのかも知れない。熱いうちにはその急激な冷たさも心地よいが、夕刻となり、空気が肌寒く感じる頃には、全く好ましいものではない。
沢尻に居たのは日の最も高い時間帯であったから、その冷たさは気持ちがよかった。バッグに入れていたお茶が、直射日光を受けたことによって、まるで淹れたてのお茶のような熱さになっていることには驚かされた。皆こぞって川の中にペットボトルを入れた。
海は綺麗であった。人が汚すという人工的な汚さも無く、自然が自然として美しかった。
ただ、後に行く赤崎という場所の彩色美しいのとは異なり、写真でいえば、カラーとモノクロの差のようにものが、海中の生物にも表れているようであった。つまり、ほとんど単色といっていいような風景が広がっていたのである。岩も黒、魚も銀色のものが多かった。
ここでは小さな魚が居た。色もあまり多くはない。我々は砂浜もあると言うこともあり、海に体を慣らすという目的もあり、ここに幾ばくかの時間を割いた。
その後の赤碕で、私は真に驚かされた。
色煌くこと甚だしい。沢尻から車でたったの十数分先のところとは思えない。それほど美しかった。
極彩色という言葉を具現化したような世界が、そこには広まっている。赤、青、緑、黄、その他無数の色がひしめき合っている。もちろんそれはよく見れば一つ一つの小さな生命である。珊瑚というものは何千、何万の種類があると聞く。一見するとそれが珊瑚なのかどうかよく見分けがつかない。7色に岩の表面を覆い尽くすしているそれは、何かしら、珊瑚の仲間であろうということが分る。その珊瑚を住処として、これまた色とりどりの魚が集まっている。己の体を珊瑚に合わせて、身を守る家に集まってくる。ここには、そうした極彩色の魚の敵となるものはなく、熱帯魚の楽園が広がっていた。
我々は赤崎で、そうした豊かな自然の織成す美しいハーモニーを眺めることができ、他に飛び込み台のあることで、また別の楽しみを味わった。よく印象のあるのが、田舎の海や川に少年少女たちが飛び込んでいる姿である。瀬戸内海の島々で、橋の上から小学生や中学生が肌を真っ黒にして飛び込んでいる。そんなイメージがある。
ここにはいくつかの飛び込み台があった。少しずつ難易度の低いものも用意されている。ただ、最も高いものもそんなに恐ろしいものではなく、殆どの人がそれから飛び降りているものであった。それで飽き足らぬ人は、橋の上から飛び降りたり、或いは私が見た最たるものは、それら飛び込み台の高さから何倍も上にある、展望台の柵を越えて、水中に飛び込むものである。これは誇張なしに、10メートル以上はあったであろう。
通常の飛び込み台は、2メートルあるかないかというくらいである。
他団体の若者がいた。いかにも女性目当てのたびの旅行者で、若々しいととこが6、7人のフループであった。彼らは、自分たちの格好をよく見せようとするためか、あるいはただの怖いもの知らずか、愚かものか、橋の上に全員が並んで一斉に飛び込み、他の観光客の目を奪った。自由勝手なことをしている。
中でも三人の猛者たちは、先ほど述べた展望台の、建物で言えば4階くらいの高さから飛び降りた。さすがにここまでくると、単なる若気の至りということよりかは、少しの尊敬の念も出てくるというものである。

連載、旅行記「神津島にて」 石野幽玄 

見る見るうちに来観者が減ってきてびっくりしました。帰ってきましたよ。写真は私のトイカメラで撮影したものです。
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神津島にて
石野幽玄


これから旅行記を書くに当たって、私は先ず己の感じた、一種の感傷にも似た心持から書きたいと思う。
神津島へは船で行く。21世紀の現代において、私は船という移動手段を用いたことが殆どなかった。東京は浜松、サラリーマンの街として知られるオフィス街から、私は夜、舟に乗る。
舟にのる前に、私は新幹線を電車のまどから見た。浜松も近くなっていた山手線の途中である。その悠々として細長く、夜の暗闇の中で、ヘッドライト、テールライトのぼんやりと浮かび上がっている様は、一つの景色であった。9月5日、本日曇り、そのためライトの光がぼんやりと映ったのである。
光はテールライトが美しい。横長の目が、真っ赤に光っている。しかし、それは伝説に出てくるような恐怖を与える赤ではなかった。新幹線にも性格があるだろう。私は新幹線の、余裕をもった、自信がにじみ出てくるような、偉大さを感じた。なるほど人間のつくったものも大したものである。
客船ターミナルでは、これから舟にのって、旅に出る人々が集まっている。皆、それぞれ行き先も目的も違うだろう。しかし、天井のライトがオレンジ色でほのやかに照らし、静まったターミナルで、時間を待ち続けている人々は、どこか似た雰囲気を持っている。初老の紳士は読書をし、これからキャンプでもできそうなほどの荷物を積んでいる若者は一人眠っている。観光を目的としたおばさまたちは、小さく喋っている。
浜松の客船ターミナルは、入り口にマストのオブジェがある。私が着いたのは、既に日が沈んでからであった。マストはオレンジ色の電球でライトアップされ、美しかった。よるだというのに、社会人は忙しいのだろうか、オフィスビルの明かりはこの時間でも高校と眩しかった。幸い、マストのある広場では、周りの木々がそれらのひかりをさえぎり、場はマストの光だけによって照らされている。うす暗がりが包む中、旅を目前とした男女たちが、これからの時間を楽しみに嬉々としてひしめきあっている。
森鴎外が書いた『舞姫』では、かの太田豊太郎が客室にて、ドイツ国で起こったことを記述している。彼は失意のうちに日本に帰る汽船のなかで、一人過去を振り返っているのだ。それに対して、私はこれからの旅を楽しみにしている。この旅行記が終わったときに、一体どのような心情の変化があるのだろうか、今回のこの書記は、そうした自己を客観的に後で眺むることも出来るものとなるだろう。
夜の海はウンディーネの女神が我々航海者を蠱惑する。海が人を引き込む力、これは一体何の作用によるものだろうか。古来より、航海者の間では、夜の海に取り込まれてしまう人間がいる。そうした人々の言い伝えが、人魚伝説になったり、ウンディーネになったりする。海の性格を考えてみると、海は女性であり受動的である。全ての生命は海から生まれた。我々は元来の故郷に帰ろうというのだろうか。人として、生命をして生まれた場所に戻りたいという不可抗力的な欲望があるのだろうか。
私も豊太郎然り、二等客室にて、雑魚寝を強いられながら今これを書いている。東京湾の光線の中を抜け、走り出した舟の名は、「さるびあ」という。花の名を冠した可憐な船であるが、丸という余計なものが付いている。
舟は性格で捉えると、古来より人は船を彼女といっていることからも分るとおり、助成である。さるびあ、あでじゃ米国的な女性の印象があるが、丸は如何にも日本男子的である。そんなことを少しくおかしいと思う。
東京湾、夜の舟から望むのははじめてのことである。人工的な美しさ、私は以前からこれを肯定するべきか否か迷っていたが、確かに青色に染まった橋の容貌は美しくあった。
橋は性格で考えれば男性であろう。出航するとオフィス街からすぐに工場地帯に入る。さまざまな工業的な用品が集まっている。それらのライトは大概オレンジである。黄色といってもよい。そのなかに、一つ真っ青に光る橋が架かっている。青は美しいと思ったが、しかし、全てが青になれば美しくはないだろう。一つだからよい。
大きな船に乗ること自体初めてと言ってよいことであったが、その多重的な構造は、一種の男性的興味をさそう。はじめ迷ってしまったが、よく地図を見てみると、6、7階層になっていることが分った。それぞれデッキがあり、そこから見える景色の違いがまた面白い。船は私が思っていたのとは裏腹に、全体がとても安定している。立つと地上に居ないことが感覚として分る程度である。
昔読んだ何某かの本に、生まれてからずっと海上、船の中で生活した子どもが、地上に上がったとき、しばらく陸地のために酔ったという。人間のそうした均衡をとるような器官を調べることもまた面白そうなことである。
東京湾から外へ出るまでは、私はデッキの上に出て友と酒を酌み交わした。豊太郎は誰と話すのも億劫だったようだ。私はまだ旅の始まりと言う事もあって、気分は良い。私は普段から体が弱い。気分が悪くなることを極度に恐れている節がある。だから、本当はこの旅もあまり気がすすまなかったのである。現地で具合が悪くなっても嫌だったのと、なによりも、半日ほど乗っている船の中でよってしまったら、というのが念頭にあった。だから、客船が私の思ったより安定していて、飛行機よりもよいくらいであるから、実に安心して、一つの不安が解消されたのである。そのため心持が晴れやかになった。
今、日の変わったところである。
少しく眠りが私を誘っている。外洋に出て、あたりに何もなくなってから、私は客室に戻った。和室という名の冠されている、言わば雑魚寝をする部屋で、若い人間しか使用しないようなところである。赤いカーペットはかたく、申し訳程度にまくらがそれぞれ配置されている。となりの人との境が、ガムテープであるというのも、どこか滑稽の趣がある。一人の神経が過敏な人間にはあまりに厳しい状況でもあった。幸いとなりに寝る予定の人物は、私たちの仲間であり、まだ甲板で誰かと話している。これが全く知らない人であれば、ということは全く嫌になってしまう。
周りには、旅の仲間がいて、雑談をしている。女性たちは、ストレッチなどをして楽しんでいる。頻りに私に話しかけてくるのでなかなか筆がすすまない。だが、私もそれを面白がって聞いている。
瞼が重い。デッキではまだ煌々と蛍光灯が光り、人々は話をしているのだろうか。何をはなしているのだろう。夜の海を眺めて、人は感傷的になる。日のある頃は熱さの続く夏の終わりであるが、夜の海上は少しく涼しい。風の強さが一寸うっとうしいが、海の湿気を感じずに済む。昔は石炭を燃やす、ごうごうとした音があっただろうが、今スクリューを動かす動力は電気であるから、静かである。この低い音は、一種の安心を与える。しっかりと、力強く舟が生きている証拠、我々を運んでいっている証拠。眠くなってきた。身を任すことにしよう。

ブログ開設一年を記念して、偏屈文化人より祝辞

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いつからこのブログをはじめたのだろうと思い、最古の記事を確認してみると、さる9月2日でした。
初めはただ、自分が見たり聞いたりした作品の備忘録兼コメントを載せるだけでありました。初めのほうの記事なんて、ひどい文章ですよ。消してもいいのですが、それではせっかくの成長も目に見えませんから、恥をしのいで載せておきます。
最近ではある程度の方向性も生まれ、文章も少しはよくなったかなと思っています。ただ、まだ読みにくいですね。昔から悪文なんです。どうも小説を書いていても読みにくいという感じがある。
逆にそれを利用して、徹底的に難解な文章にしても面白いかもしれませんけどね。

さて、文学が専門だといっておきながら、最近では専ら映画の評論ブログになってしまっていますが、「物語」に主眼を置く私には、それも必要なことだと思っています。最終的な段階は、私において実作ですから、それまでの下積みとでもいうような感じで評論活動を続けていきます。
良き芸術家は良き批評家という言葉がありますが、それは裏返して言えば、良き評論家もまた良き芸術家なのだと思います。
ですから、評論、実作ともに頑張っていきます。作品はブログにのってけてしまうと賞に応募できなくなるのが多いので、出版という形をとって、皆さんに読んでいただけたらというのが、今の夢であります。

毎日これだけ大勢の人が足を運んでくださって、忙しい世の中の、ほんの数分でも時間を割いてくださるということは、非常に暖かい励みになります。ブログ開設からたったの一年で、来訪者が延べ2万人というのも、相当多いのではないでしょうか。
どうぞどんどん意見をしてください。そうすることによって、私も独りよがりの見解にならなくて済みます。
なかなか先行きの不安定な社会で、日本は大丈夫なのかと思いますが、ただ現状を受け止め、考え抜くことが重要だと感じます。考えるということは、人間に与えられた尊厳だと私は思っております。考え続けましょう。

ちょっと旅行に行ってきますので、数日お休みします。あらかじめ記事を多めにアップしておいたので、その期間はそれを見てください。海に行ってきます。そうして私は貝になりたい。

和辻哲郎「風土 人間学的考察」への試論 感想とレビュー ないよう分析と批判 

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-初めに-
日本民俗学の創始者はもちろん柳田国男ですが、彼と並立するといっても良いのではないかと思われる、近代評論家はやはり和辻哲郎氏でしょう。彼の代表作は『古寺巡礼』『面とペルソナ』などがありますが、最も有名なものは『風土』です。
国語の文学史などをやると、一度は目にしたことがある『風土』。私も小説が専門ですが、こうした論理的に構築された文章を読むことも必要となります。そういうわけで、今回は『風土』を論じます。

-内容分析-
簡単にまとめると、
風土と人間は相互性であるというところから議論は始まります。
スンスーンとインド宗教観を論じ、インド人的人間とはどういうものかをわかりやすく表現。
砂漠について、砂漠をしらない我々の感覚をまず正し、そうして砂漠と非砂漠的なものの対比をします。そこからアラビア的人間の性質を浮かび上がらせます。
牧歌的、代表としてイタリア、ギリシア、フランス、ローマ。それぞれの土地的条件に言及し、それぞれの差異を明らかにしていきます。イタリアでは、太陽と緩やかな自然が人間を自由にする。ギリシャでは、ちょうどイタリアとローマ的自然の中間において、多用な性格をもたらすと解釈、フランスも同じ。ローマはその文化が統一をもっていることから、秩序立った文化を所有します。
他にイギリス、ドイツについても言及。

モンスーン的風土の特殊形態
シナ(中国)はモンスーン的風土+砂漠的風土
日本は「間」と家族性
日本の珍しさは西洋との建築の違いにある。

それから彼は、芸術への試論を行います。文化からみた芸術の違いです。
ギリシャは合理的であり、その最たるものはシンメトリーにみられる。
日本は非合理的、気合いの文化。

風土学の歴史的考察
ヘンデルの精神科学的に風土を考察したことから始まることに言及、カント、ヘーゲルへ繋がります。

-私の反論-
ただ、彼自身もいっていますが、この本は完成されたものではありません。特に歴史的考察では、当時の外国の風土学について調べる時間と労力が無く、大分古い資料をもとにして研究が行われていたため、すでに時期に乗り遅れている感があります。
あと、もう一つ私が批判しておきたいのは、芸術へ対する考察です。元々が哲学、風土を評論するひとですが、やはり芸術はまたことなった性質が必要だと私は思います。ですから、本来書かなくてよい人が書いたという印象があります。
芸術にたいして、風土的な視点から論じようとした試みは大変感心できますが、内容は分りにくく、あまり明確に分析できているとは思えません。芸術は芸術を主な評論とする人物が行えばよいのではないでしょうか。

偉大な評論家に牙を向くのは大変勇気がいることです。私の論など実に幼い。論理的でもありません。
そういう点になると、この和辻哲郎氏というのは、一種の天才的な論理性と、真を付いた哲学的な視点をもっていたといえるでしょう。前半のそれぞれの国を風土的に解釈するてんにおいては、すばらしい評論となっています。しかも初めての試みであったのにも限らず、あまりにも的確に、あまりにも分りやすく解釈しています。
地球という自然の環境のこの上なく豊かな青い星の上で、どのような自然の体形があるのでしょうか。彼はそうした自然の類型をもとめることによって、その特色を発見し、そこで暮らす民俗の性質がどのように異なるかを発見したのです。
ただ、文化相対性という概念がまだあまり出ていない時期に書かれた文章ですから、ずばっとしていて爽快ではありますが、決め付けに近いものがあります。私はそんなふうに決定していっても大丈夫なのだろうかと思いました。
文化相対性というのは、お互いの文化を尊重しましょうねというようなもので、何よりもフィールドワークを大切にするものです。私はまだ、どうもいい加減な民俗学者にしかあったことがないので、実感として少し疑念があるのですが、しかし和辻さんは、明確に言い当てているのです。そうした批判を恐れないような勇敢な論は、大変読んでいて気持ちが良い。
和辻さんの文章には、明解さと、それを納得させる裏づけがあり、実に論理的かつ哲学的な考察があるのです。

一つの側面としては、科学的な根拠はないという欠点はあります。彼が旅団として他の学者とともに現地へ赴いたときに考え、考察した際の文章ですから、主観が強いといっても間違いではないでしょう。それに全体としての風土を捉えているので、どこか一つ、例えば日本に絞ってということではないので、細かい部分まで言及されてはいないという感じがあります。
もちろんこうした試みは当時はじめてだったわけで、それ以降の研究の発展に大いに寄与したということは事実ですから、その布石としての功績は絶大なものです。
彼のいうところでは、人間の性質というものは、自然と相互的に関連し、そうして作られるものです。ただ、一つ注意したいのは、全体的な傾向がそうであったとしても、個人のレベルでみると、性格なんて種種さまざまで、取り止めがないですよね。日本でも、西洋的な性格を持つ人もいれば、ほかの性格を持つ人もいるわけです。

-終わりに-
個人の読み物としては、とても面白く、わかりやすいのです。ただ、現在の民俗学から考えると少し甘い部分が出てきます。上でも述べましたが、民俗学の初期の、基礎を作るに至ったものですから、学問の発展に大きく寄与したことは確かです。ですから、そうした面では多分に評価してもしすぎることはないでしょう。
人はこうした、学問の初期にあたる本を読むことがもうなくなってしまうのでしょうか。学問は確かにここ百年代で相当な進歩をしました。研究も多分にされ、研究され尽くしてしまったというような印象もあります。私たち現代人は、こうした学問がこれから発達していく境目というものをもう見ることができないのでしょうか。少し悲しくもあります。
こうした新たな眼差しをもつために、彼は一体どのような訓練をしたのでしょうか。あるいは才能でしょうか。「風土」という作品を生み出した、個人の「風土」が私には気になるのです。

マンガ「変人偏屈列伝」への試論 感想とレビュー 飽くなき人間賛歌

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-初めに-
仮にも「偏屈文化人」を名乗る私が、「変人偏屈列伝」を評しないでどうするのか、ということで今回は漫画を論じます。
荒木飛呂彦と鬼窪浩久の共同制作による日本の青年向け漫画作品。私は集英社文庫(コミック版)を読みました。このコミック版は2012年4月に刊行されました。
あまり漫画に明るいほうではない私ですが、荒木飛呂彦と聞けばジョジョの奇妙な冒険で有名ですね。いつかこれも読破してみたいと思いながら、あまりに膨大なのでどこから読んで良いのか一寸わかりません。だれか全巻貸してくれ。

-なぜ偏屈文化人なのか-
本書の設けられているハードルは3つ。
一、変人偏屈な人は、その行為が人々に「希望」と「安心」を与える魅力がなくてはならない。(たとえば犯罪者だとかはダメである)
二、変人偏屈な人は、その行為を一生やり続けていなくてはならない(一時の目立とう精神や、人生の途中でやめた人は本物ではなくニセ奇人なので、尊敬に値しない)。つまり彼(彼女)たちは自然体なのだ。
三、変人偏屈な人は、敵に勝利している。(勝利にはいろいろな解釈があるけれど、とにかく敵に勝っている事)

さて、人という根本的な問題を考えたときに、一体何が人を人たらしめているのかという問題が浮かびます。
よく若者が使うことばに「ふつう」というものがありますが、一体なにが普通なのでしょうか。普通の人間とはどういうことを言うのでしょう。通常平均を求める際には、両極端に位置する極端なことを見つめて、そこから真ん中を求めようとします。初めからここらへんが真ん中だろうと探してもだめなのです。
普通な人を知るためには普通でない人を知る必要があります。この作品はまさしくそうした人間を探る上でのすばらしい資料になるでしょう。ただ、作者も言っている通り、単なる奇人を集めればよいということではない。それらは何か精神的におかしい人であったり、意識して行っているということもありえるからです。
さらに、犯罪者ではいけない。いくらおかしいからといって、悪いことをしたらだめなのです。極めつけは、勝利。
この三点を見ると、作者の意図したところが見えてきます。この作品は変人偏屈を扱っていながら、非常に人間に対してあたたかい眼差しを持っているのです。漫画のタッチもはっきりいって、グロテスクだし怖いです。描かれている人物も狂っているのではと思われるところがしばしばある。そういう人物を描くことによって、それとは反対の境地を照らし出しているのだろうと私は思います。
それが宣言文にも如実に表れているのです。宣言文が付いている漫画というのは実に珍しいものです。普通であれば付かない。そこには漫画家の心情が絵ではなく、あえて言葉という形を取って、表現されているのです。これは、作者があらかじめこういう風に作品を解釈してくれということでもあると思います。内容だけを読めば、どうして変人偏屈な人を描くに至ったか、その条件はといったことがかかれていますが、それがないと一体なにがなんのことだか我々一般人にはわからないということがあるのでしょう。
いきない何の説明なしに、変人偏屈な人の人生を通じての奇行を見せ付けられても、私たちにはよくわからない。わからないどころか、嫌悪感を抱くひともあるかも知れません。
序文はそうした一般読者を導くための目印となっているのです。これからどのような人間に対するアプローチをかけるのかという設定を解説しているのです。

-それぞれの変人偏屈-
描かれる人物は、
タイ・カッブ
康芳夫
メアリー・マロン
サラ・パーディ・ウィンチェスター
ホーマー&ラングレー・コリヤー
ニコラ・テスラ

タイ・カッブ、私はあまりにスポーツ系に弱いので、全くわからないのですが、野球が好きなひとであれば知っているのだろうと思います。彼は勝利に固執し続けた人物として描かれています。勝利、人間の本能の欲求です。勝利というのは、恐らく自分の子孫を残すために、ほかのオスに勝ってメスを手に入れるための本能なのではないでしょうか。そういう点で、彼は本能的で野生的だと考えることも出来ます。
ただ、こういう勝負の世界では、確かに勝利に固執することも大切だと思いますが、負ける人間がいるということを考えなければならないと私は思うのです。このあいだのオリンピック、審判の不祥事など異例なことがかなりありましたが、それによって翻弄されるのはスポーツ選手です。勝ったと思った瞬間に今の判定は無効というようなことが起これば、勝利が何であるのかよくわからなくなってしまいます。勝利は人に左右されるようではだめなのかも知れません。人生の勝利者とは一体どういうことをさすのでしょうか。自分に打ち勝つということでしょうか。

康芳夫、あのオリバー君をしかけた張本人です。80年代に生きていた人はご存知ではないでしょうか。私は80年代という日本のゴールデンエイジに対して常に興味を持っています。アニメも80年代が最もすばらしい時期だと考えられますし、あらゆるメディア関係が今の基礎となるようなものが完成した時期だと思っています。戦争が終わり、もはや戦後ではないと言わしめるまでの経済発展を急速に成し遂げました。それは確かに立派でしたが、その反面経済、合理化により、人間としての価値が不明になった時期でもあると思います。そのため、宗教が流行ったり、終末思想があったり、オカルトな方面、神秘的な部分が表れたのでしょう。
それを目の当たりにしたのが康芳夫。彼は、それを商売に出来ないかと、興行師としての彼が生まれたのです。
幻想を売ることによって、ビジネスをしたのです。当時の日本人はそれに見事に食いついた。奇妙な時代です。一過性の夢を追い続けたのだろうと思います。不安でしょうがなかったため、その気持ちを過激的なもので一時的に抑え込もうとしていたのではないでしょうか。

メアリー・マロン。私はこの作品のなかで最もグロテスクな人物が彼女なのではないだろうかと感じました。彼女は腸チフスを体内に所持しているものの、自分は発症しないという稀有な体質の持ち主。しかし彼女が触れたものには腸チフスが付着します。彼女はメイドとしてさまざまな家で働くのですが、当然働き先では大勢の人が腸チフスとなって死ぬ。余談ですが、夏目漱石の「こころ」の「先生」の両親は腸チフスで亡くなっています。昔まで死病だったのです。今では技術の発展により生存率が大幅に上がっているようです。
彼女は言わば、全く罪がないけれども、存在自体が他人にとっては危険だというものです。神が与えた罰なのでしょうか。当時の医者は腸チフスの菌が溜まるとされている臓器を手術で取り出そうとしたそうです。そうすれば彼女も腸チフスではなくなって普通に生活できる。しかし彼女はそれを拒むのです。これにはもちろん彼女自身は全く悪くないのですから、勝手に手術される筋合いはないということなのでしょう。大衆を優先するのか、それとも個人の権利を尊重するのかという問題です。しかも本来その個人には何の罪もないのに、存在するだけで他人を傷つけてしまう。多くこうした人物は歴史の中で抹殺されてきたことでしょう。彼女は生涯を孤独で貫いて、個人の権利を守ったと考えることもできます。

サラ・パーディ・ウィンチェスターは、以前8時代の番組の何かで取り上げられたのを記憶しているので、皆さんもご存知かも知れませんが、あの生涯家を増築し続けた女性です。武器が好きな人であれば、ウィンチェスター銃というのはあまりに有名なのではないでしょうか、彼女の夫はそのウィンチェスター銃を製造した一家の党首。しかしこのウィンチェスター銃によって、大量になくなった人達の亡霊に取り付かれて一家は次々に死んでいきます。
このサラさんは、ウィンチェスター家の夫と結婚してしまったばっかりにということで、全く本人には罪はありません。しかし亡霊はそんなことを許さない。ウィンチェスター家の血が滅びるまで呪い続けるでしょう。彼女はその呪いから人生を通じて逃げおおせたのです。それは人間にとって、呪いに打ち勝つという勝利でもあります。

ホーマー&ラングレー・コリヤー。人は時として引きこもります。この引きこもるということ、私は心が繊細な人が自分の心を守るために行う自己防衛の一つだと思っているのですが、この兄弟は、一般のそれとの比ではありません。
人生の後半の全てを自宅のなかですごしたそうです。弟のほうは買出しに行ったりしたそうですが。それから家に数々のトラップを仕掛けること。これも不思議な心理です。外国では以外と自分が家にかけておいたトラップによって死亡するという事故が多いそうですよ。なぜそうまでしてトラップを自宅にかけなければならないのでしょうか。他人は絶対的な悪者であるという脅迫観念があることは間違いありませんが、それが一体どうしてその人物に生まれたのかということが問題になるのではないでしょうか。
結局弟も自分の罠にかかって死亡。体を動かすことのできなくなっていた兄は、弟が死んだことによって餓死します。あまりに自己を守りすぎようとすると、結局は崩壊するということなのでしょうか。

ニコラ・テスラ。この人は割りと有名ですよね。エジソンと並立した天才科学者。しかし、エジソンとの不和や、天才的奇行のために、生涯はけっして幸福といわれるものではなかったようです。今の科学力をもってしても完全に理解することが出来ないといわれる彼の発明の数々。そのエネルギーは確かに、あまりに人間として不完全だったために生じたものだとも考えられます。一般論ですが、何かを創造するには人間的に不完全でなければできないのではないでしょうか。芸術家を見てみると、かなり精神的には危ないですし、幸福な人生かときかれればそうではないという人は多いでしょう。私の大好きな夏目漱石も、その子どもが語ったところによれば、一体いつ怒るか分らないのでいつも警戒していたと言わしめています。人間としてのぶれが、何かそうした創造的なエネルギーを生み出す根源となっているように私には感じられるのです。
彼もまた、あまりに人間としてぶれがあったために、偉大な功績を残したのではないでしょうか。人間として完成し、幸福に平々凡々と生きていくのと、人間として不完全で、幸福とはいえないながらも、偉大な功績を残すのと、どちらがよいかなんて決められません。完全に後者の生き方をした人間を見つめることによって、何かしらの試論が生まれるのではないでしょうか。

-終わりに-
概していえば、これは人間賛歌です。決して人には理解できなくとも、幸福な人生とは思われなくとも、人間としての性(サガ)を通した生き方をした6人の人物。このいわば人生の極端な例を考えることによって、私たちはそれぞれ思うところがあるのです。人生はその人にとって一回限りというのが、この世の定め。本来であれば、輪廻転生の以前の記憶も持ち合わせて、より高度な人生を歩みたいですし、もっと長く生きることによって、他人の人生を理解する時間、機会があってもよいようなもの。私たちに与えられた人生は実に短く、しかもたったの一回限り。それをどうやって全うするのかという問題になってくると思います。ですから、この作品には、それを考える手助けとなるものが隠されているのです。それは人によって、異なる意味を持つでしょうから一概には言えません。人間として生まれたからには、自分の人生を考えるという偉大な機会が与えられるのです。考えること、それが重要だと私は思います。

L,T,ディキンソン・上野直蔵訳「文学の学び方」への試論 感想とレビュー 文学入門書として

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-初めに-
自分の文章力向上のためということで、暗中模索でやってきましたが、やはりネット上に公開するからには、きちんとした訓練が必要だと感じていました。近代文学研究をやる上で、もちろん講義でもある程度の基礎的なことはやるのですが、それぞれの教授のくせもあれば、アプローチの仕方も違う。そうした部分をどうやって考えたらよいのだろうかということで、今更ですが入門書を読みました。
それによって、今まで行ってきたことが正しかったのだと裏づけされることもあれば、新しい発見もあり、根幹となる基礎的な考え方などを学ぶことが出来ました。
今回は、L,T,ディキンソン・上野直蔵訳「文学の学び方」を論じます。

-基本として、文学への向き合い方-
この本は、1959年にアメリカで出版されたものです。ですから、当然アメリカの文学生徒、英語でかかれているものが対象として書かれた入門書です。日本語訳されているとはいえ、例に挙げられる作品は全て外国のもの。しかし、本書の役者上野さんは、卓越した翻訳者で、まるで初めから日本語で書かれている文章を読んでいるような、すばらしい訳文を載せてくれています。
ですから、例を除けばあとは全て日本の文学にも応用が出来ます。1959年ということで、現在では主流となったテクスト論がまだ、それほど認知されていない時期ですが、本書にもあるとおり「まずテクストからはじめよ」ですから、先見性をもっていたことが窺えます。それが確かに根幹になるものですし、以前から基本中の基本だとも言えます。それを少し忘れていただけなのでしょう。

文学へのアプローチには、人それぞれのやり方があります。それは教授のくせにもなるものですし、どこからとっかかっていくのかという突破口にもなります。別にどれが良いとか、悪いとかいうのではありません。ただ、根幹となるのは、テクストからはじめるということ。その後のアプローチの仕方は、我々読者、或いは評論家たちの自由であり、創造的な活動なのです。
一、背景の面から文学作品を見る
二、作家の面から文学作品を見る
三、読者の面から文学作品を見る
四、他の文学作品との関係から作品を見る
五、それ自身実在(一つの世界)としての文学作品

さて、文学を評論するということはどういうことなのでしょうか。私たちは仕事をするのに、なぜ仕事をするのか、仕事をするとはどういうことなのかという、前提となる部分を考えるという機会があるでしょうか。もちろんそのようなことを考えてから行動するという哲学的な人もあるでしょうが、殆どの人はその前提を考えてはいません。私自身、大変お恥ずかしいことですが、どうして文学を学ぶの、どうして評論をするのかということについて、あまり考えたことがありませんでした。研究することばかりに目をとられ、どうして研究するのという大切なものを見失っていたのです。それを今回気づかされました。
「批評は単なるアラ探しではない。そうではなくて、ある文学作品を説明し、分析し、または評価する議論である。その目的は他の読者のために作品を照しだしてみせることなので、これは大切な目的である。」
この本は、読者は皆優れた批評家ではないため、他人の批評を聞かなくてもよいとは言い切れないということも書いています。さて、日本ではあまり堅い話というのは喜ばれませんね。熱心になって、自分の考え、意見を他人とぶつけるということが、なんだか恥ずかしいというようなイメージがあります。確かに何でもかんでも、自分の意見を言って、他人の意見を聞かないというようなことはよくありません。ですが、自分の意見をしっかりいい、他人の意見もしっかりきく、こうした姿勢はもっと日本人がもつべきことなのではないかと、私は思うのです。
私はこんなブログをやっている人間ですから、かなり周りの人間にはうるさい人だと思われています。恐らく、文学にしろ何にしろ、私の周囲に己の意見をしっかり持って、議論を戦わせてくるような人間があれば、私はこのブログをやってはいないと思うのです。
結局は、自分の意見を言うことの大切さもさることながら、他人の批評を聞くことも重要ということです。皆がよい批評家ではないのですから、他人の批評をまずは聞いて、そうして自分の意見を出すということが必要ではないでしょうか。

-文学の学び方-
文学と対峙したときに、どのようにその作品を分解するのか。当然初心者にはわからないわけです。本書が言うところでは、「何を表しているのか、からどのようにあらわしているのか」を言えるようにしなさいと指導しています。
ただ、私はまず「何」が描かれているのかということをとる必要があると思います。現代小説は別にいいのです。難解なものでなければ、誰が読んでも大体こんなことが書いてあるのだなということが分ります。しかし、近代くらいになってくると、文学作品と普段から接していない人にはちょっとわかりにくいものが出てきます。それを分るようにするのが、批評の役割でもあるのです。だから、まずは「何」が描かれているのかを分って、その上で「どのように表されているのか」を学ぶのです。
では実際にどのようにして小説を分析していくのか、それをヒントとして書きます。
人物
一、他の人物の反応による性格描写
二、外見による性格づけ
三、会話
四、行動による性格づけ
五、作者の陳述による性格づけ
六、人物の思考を述べて性格づけする方法
人物の理解
プロット
葛藤としてのプロット
一、葛藤の種類
二、葛藤の過程
筋の運びの蓋然性
一、時の扱い方
二、動機付け
三、伏線(ホアシヤドーイング)
背景
背景とプロット
背景と雰囲気
背景と思想
視点(ポイント・オブ・ビュー)
本書では、これらが細かく、分りやすく解説されているのです。是非、文学作品をあまりよまないという人にも読んで欲しいです。それくらい平易な文章であり、分りやすい内容になっています。そうして私のように、国文科の生徒でも新しい発見、基礎の再認識と、実りの多い本になっています。

本書の内容は、今まで述べた小説の解説が三分の一で、ほかに、劇に関しての学び方と、詩歌に関しての学び方とが書かれています。日本ではあまり隣接しているという感じはありませんが、アメリカでは密接した分野としてともに学ぶそうです。
確かに日本でも、詩歌、演劇も、国文で学ぶことになります。ただ、メディア関係も入ってきているため、あんまりそちらに時間が割かれていないという感覚があります。アニメや漫画、映画などが多く入ってきたせいもあるでしょう。特に、漫画、アニメは日本が最も進んでいる国ですから、そこは確かにそちらの研究も大切になってくるのです。

-終わりに-
本書でも言及されていうるのですが、J、ミルトンの名著アレオパジティカ(言論の自由)には「すべての自由にもまして、良心に従って思う通りに知り、発言し、論ずる自由を我に与えよ」が何かしらのものを批判する上で必要なのだと言います。
この言葉、じっくり何度も読んでもらいたいのですが、何よりもまして論ずることは自由なのです。それが人間としての尊厳でもあると私は感じます。
この本を読んで、私の文学への一つの道が出来ましたので、ここに記しておきたいと思います。
「読まなければならない作品はいくつもあるが、読まなくてよい作品は一つもない。なぜなら作品は全てユニーク(世界に一つだけしかないもの)だから」石野幽玄

高田知波著「〈名作〉の壁を超えて 『舞姫』から『人間失格』まで」への試論 感想とレビュー 一人の評論家として

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-私の教授として-
今回は私の先生である高田知波教授について少し紹介してみたいと思います。
男性です。著者略歴によれば1946年生まれですから現在66歳でしょうか。以前書いた三鷹文学散歩の記事は、高田教授に従って行ったものです。昨年、一昨年と病気のために休校なされていたそうですが、全くその様子がないほどの活力に溢れた人物です。
近代文学が専門ですが、彼はあえて自分の固定化するということをしない人物であると私は感じています。
今、大学の文学研究は、ほとんどがテクスト論によって、成り立っています。これは専門的なので文学部の人でないとわからないかも知れませんが、いったん作品を著者と切り離して作品を論じるのです。
作品を、作者という絶対的な権力者から切り離した上で、作品を分解し、解釈し、そうして再び構築する。これが我々研究者の行うことになり、それは想像的な行為だといわれています。
しかし、高田教授は、そのテクスト論が主流となる以前からの研究者であると同時に、テクスト論が全てではないと考えているようで、作者を抹殺する必要はないと考えておられます。
本著のあとがきを読めば分ることですが、新しい研究者が、ことごとく作者の存在を否定するのに対して、まったをかけているような感じがあります。作品論と同時に、作家論としての視点をも持ち合わせているのでしょう。
私はそこに強く共感を得るのです。絶対的な作者を切り離すことによって、確かに私たち研究者は新しい文学へのアプローチを見つけました。しかし、それが全てというわけではないのです。作品を作者から切り離すということまではいいですが、作者を抹殺してしまうというのは、確かに斬新ですが、無理があるのではないかと感じる部分もあります。一旦切り離した後に、再び作者への視点を持つ必要があるのではないかと私は思うのです。ですから高田教授の考え方、文学へのアプローチの仕方は、お手本になります。

先生の言うところでは、「バイアスの解放」と「不易流行」の二点が彼の研究のテーマとなっているのではないでしょうか。バイアスというのは、偏見や先入観という意味です。彼はある作品に対する人々の印象から、作品を解放することを研究のメーンとしているのだと私は考えています。有名になればなるほど、作品は尾ひれが付いてきます。ありもしない伝説が生まれたり、あるいは最初事実であったことが、ゆがめられて伝わるということがあります。そうしたイメージをもった人間が作品を読むと、そのイメージに引きずられて異なった印象を受けてしまう。そのことに関して、彼は文学をそのままの状態、先入観、偏見のない状態で読み進めたいということなのです。
そうしたバイアスから解放するためには、まずバイアスを知らなければなりません。一体この作品にはどのようなイメージあるのか、どんな風に、一般の読者に理解されているのか、そうした面を知らなければそこからの解放はありえません。もちろん高田先生は古参の研究者ですから、個人の読書体験としてバイアスはかなりうすいでしょう。ではどうやってバイアスを知るか。ここに先生の若さの秘訣があるように思えますが、多く人と交わることだと思います。
良くありがちな研究者気質、これが教授にはないと私は感じます。とても若い。そうして友好的な印象があるのです。そこには常に、文学から人の理解という眼差しを持った教授の根幹となるテーマがあるのではないでしょうか。人を理解するということは、結局自分の中に作り出した他人の像を理解するに過ぎないと先生は仰いました。しかし、だからといって他者の理解を諦めるのではないのです。彼にはそうした力があります。他人を理解しようという絶え間ない努力が感じられます。

私は人間のエネルギーは限界があると思う人間ですが、教授のエネルギーには感嘆します。学生が数人係でも止められないようなエネルギーがあるのです。最も簡単な体力から見ても、三鷹文学散歩の時に思い知らされました。私たち学生に対しておよそ3時間ほどの文学散歩中ずっと解説をし続けたのにも拘わらず、散歩が終わったときに最も元気だったのは教授でした。とても学生たちは体力面では彼に適いません。病気していたのなんて嘘だとしか思えません。
知力。物事に対する探究心とでもいうものも、誰も彼には及ばないでしょう。文学の研究の執拗さは、重箱の隅をつつくような激しさがあります。しかし、狭い世界に閉じこもっているのかと思えばそうではない。彼のモットーは、文藝研究の分野において、文藝研究者が研究しなくてよい分野などないと明言しきった人ですから、エヴァンゲリオンという単語も飛び出すし、お笑いの番組についての感想も出てくるのです。
結論としては、誰も彼に勝てないということです。私程度ではまず無理ですね。私も学生の中では指折りの人間なんですけどね。
三鷹文学散歩の記事http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-252.html

-評論を評論する-
さて、著者にならって、私も人物論を少ししてみたつもりであります。他者の理解というのは、決して完全に出来るものではありませんが、私が少しでも論じることによって、さらに深まるのであれば、それは研究者としても本望であるところです。
ただ、私は最近読んでいる司馬遼太郎の「坂の上の雲」において、人間をある側面一つに絞ればある程度論じることができるのではないかと考えています。司馬さんの卓越した人物評というものは、そうした希望を与えるものでもあります。
話がそれましたが、評論というものは評論できます。何か作品を評論したものがあるとすれば、それをまた評論することは可能です。研究者たちはそうしてお互いに意見を深め合っていくということをしています。簡単に言えばですけどね。
ただ、私のレベルにおいては、彼の評論に評論するだけの力がないので、評論できないのです。無理です。とてもけちをつけられるものではありません。完璧主義者ではないですが、研究の精緻さは驚くべきものです。
本書は評論集です。所蔵されている作品評論は、
バイリンガルの手記―森鴎外『舞姫』
少女と娼婦―一葉『たけくらべ』
「無鉄砲」と「玄関」―夏目漱石『坊ちゃん』
「名刺」の女/「標札」の男―夏目漱石『三四郎』
他者の言葉―夏目漱石『こヽろ』
「皆」から排除されるものたち―志賀直哉『和解』
除外のステラテジー―太宰治『お伽草紙』
省線電車中央線の物語―太宰治『ヴィヨンの妻』
変貌する語り手―太宰治『斜陽』
写真・手記・あとがき―太宰治『人間失格』

バイリンガルの手記―森鴎外『舞姫』では、太田豊太郎という男が、バイリンガルであるという当然の事実に気がつかされます。その豊太郎が、ドイツ語で喋っていたころのエリスの記憶を部屋の中で回顧して、しかも雅文体で書いているということへの言及に、納得しました。
『坊ちゃん』が以外に無鉄砲ではないという論は、新鮮です。
『三四郎』では最大の謎である美禰子の兄についての言及がなされていました。彼女が名刺を持つ意味についても、なるほどそうかと思えます。
『ヴィヨンの妻』では、教授が得意げに話していた「井上章一氏の『愛の空間』」を挙げて、男女の性愛の空間として井の頭公園があったことを述べて、作品の解釈を新たにしています。これは彼も相当な自身があるらしく、私に自慢してくださったこともあります。

-終わりに-
これだけのエネルギーがある人ですが、やはりその偏りがあるのか、どうにも話に熱中すると他のものが見えていないような感じがあります。先生は、信号機を殆ど無視して歩いていってしまうのですから、面白いことには面白いのですが、やはり危険です。そのことを指摘したのですが、昔からこれで生きてきたんだからといわれてしまいました。お願いですから気をつけてください。
先生の評論の評論をしようと書き始めたのですが、評論家論になってしまいました。

映画「アラビアのロレンス」への試論 感想とレビュー 壮大な歴史映画を楽しむ

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かの有名なテーマ、広大な砂漠をイメージしてお楽しみください。

ピーター・オトゥール特集として
-初めに-
(Lawrence of Arabia)は、1962年のイギリス映画。歴史映画。デーヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。
名画と聞いて、何を思い出すでしょうか。名画という言葉には、絵画のなかで有名なものという意味も含まれますが、良い映画という意味でも使用されます。
私はもちろん、『アラビアのロレンス』。今、若い人は知らないかも知れません。上映時間は227分と長大ですし、時間にしばられた現在では、過去を振り返る余裕はないのかも。そもそも正直なところを言って、だれもアラブに興味関心などないでしょう。
私事ですが、私はアラブに四年強滞在していたことがあります。アラブ首長国連邦の首都アブダビにです。もうバブルがはじけてしまいましたが、ドバイが有名になったことでご存知の方も多いのではないでしょうか。ドバイは確かにアラブ首長国連邦(UAE)最大の都市ですが、首都はアブダビです。ここがよく勘違いされるので困るのですが、首長制なので、一応アブダビのザーイド家が首長のなかでも代表ということになっています。
こんな経験が無ければとてもアラブに興味を持ったとは自分でも思いません。他人に無理にこれを見せても仕方がないですから、映画好きな人か、歴史に興味のある人に読んでもらえれば光栄です。

-歴史からはなれて作品として-
アラブ首長国連邦とは殆ど関係がありません。全くないといえば、歴史上の嘘になりますからそんなことは言いませんが、あまり関係はありませんね。
視野を広くして、アラビア半島の歴史を描いた作品です。1910年代後半が舞台となります。この映画は歴史映画で、それもかなり歴史に忠実に再現していますから、歴史的な知識については、ウィキペディアを御覧ください。高校の世界史でも少し触れますが、ここまで深くは触れません。だれも興味がありませんから、仕方のないことではありますが。
歴史については、私の語るところではありませんから、それについては興味のあるかただけ調べてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E5%8F%8D%E4%B9%B1

映画の構造として、昔の映画はよく出来ています。
序曲、休憩、終曲、映画の途中で音楽だけが流れる部分があります。どうやら1960年代では一般的なことだったそう。もちろん音楽はモーリス・ジャール。2009年に亡くなったことが大変悔やまれます。
打楽器を使用したダイナミックな音楽は、誰もがこころに残るもの。ダンダンダンと鳴り響く太鼓の音は、これから始まる物語への興奮を誘い、何か巨大なものに対する恐怖も同時に感じさせられます。音楽が既に物語を如実に言いあらわしている。そうしたすばらしい映画は数限られていますが、これはその筆頭でしょう。
舞台仕掛けとでも言いますか、構成が実にしっかりしている。演劇を見ているようにも思われます。だから心の準備もできるわけです。ところがいざ物語が始まると、急に主人公が死んでしまう。これも上手いですよね。アラブのことなんか、きっと昔の人も興味ありませんから、つかみが重要。いきなりのことで観客はえっとなるわけです。そこから主人公のアラビアでの旅、そこからの帰還が語られていきます。

私にはピーター・オトゥール=『アラビアのロレンス』のような印象が強いので、ピーターがまだ生きていると知ってびっくりしました。どうも冒頭で死んでしまうというインパクトが強すぎて、実際の世界でもなくなってしまったんだという変な記憶が残ってしまっています。現在80歳。映画が人に与える影響の強さを知りました。それほどまでに、『アラビアのロレンス』としてピーターが活き活きとした存在だったということでもあります。

-一人の男としてのロレンス-
この映画はまさしく、一人の人間を描いた作品ですが、必ずしもハッピーエンドというわけではない。ロレンスは風変わりな男性として描かれていますが、それは上手く社会に適応できなかった一人の人間の悲しい側面の一つなのかも知れません。
このロレンスの飄々とした印象が、先に述べた『おしゃれ泥棒』のピーターの役どころに重なってくると私は思っています。
ロレンスはアラブの民族を解放しようとした人物です。当時、アラブはまだ近代国家という概念がなく、当時の近代国家の代表であった、オスマン帝国に侵略されています。そこからいかに、アラブの部族が連なって、アラブ解放へと向かうのかということなのです。アラブは元々部族、民族の国ですから、集団としての大きさに限界がある。しかも部族同士の争いが絶えないのですから、オスマン帝国など相手に出来るわけがないのです。現在では部族がある程度集まって、国家を形成していますが、やはりヨーロッパやアジア的な国家とは異なります。
それは風土に関係があるのだと私はおもいます。あまりに過酷な大地、砂漠ですから、永住という概念がない。ふと油断すれば、人間は自然に簡単に負けてしまいます。だから水を求めて争うし、力強い連帯が必要なため、小さな部族社会が出来る。
それを如何にしてロレンスというイギリスの軍人が、西洋的な思想をもって、束ねるのかという問題になります。まあ、しかし考えてみれば、そうした部族社会に西洋的な思想を持ち込んだところで、上手くいくはずがありません。部族社会は部族社会なりに、長い年月をかけて積み上げてきたものがありますから、上塗りした思想など崩壊するのは当然です。余談ですが、日本はその点奇妙に上手くいったというような側面があります。弊害が出ているにせよ、上手く西洋を取り入れた感じがあります。
話は戻りますが、ロレンスは途中まで上手くいくのです。アラブの民族をまとめ、オスマンという敵を作ることによって、なんとか戦う。しかし、イギリス本国側の、アラブ民族に対する軽蔑の感情からか、三枚舌の交渉が混乱を呼びます。
アラブ民族も、オスマンを追放したまではよかったものの、部族同士の意見が食い違い、新たな国家を建築するまでには至らなかった。そうして二度と砂漠を見たくないとまで言わせるように、ロレンスのこころを追いやったのです。傷心のロレンスは、1935年にバイクの事故でなくなります。彼は歴史や国家に翻弄された悲しい男なのかも知れません。

-終わりに-
上映時間も長いですが、その気合の入れようは20世紀最高と言っても良いくらい。CGなんてあるはずのない時代ですから、砂漠を舞台にしたアラビア部族たちの騎馬隊は全て本物。どれだけの時間と金が掛かったか知れません。
映像の迫力で驚く現在とは違った感動がそこにはあります。どれだけの人の労力が掛かっているのだろうかと想像するだけで、壮大な感情になります。
総合的に判断すると馬のほうが良いのかも知れませんが、砂漠ではラクダのほうが断然強いです。まず水を飲まなくても一月はいけるという点でもそのすごさがわかるのではないでしょうか。気性もけっこう激しいですし、速さもかなりあります。当然アラブの部族はラクダにのって、砂漠をかけるわけで、何千頭のラクダと、それにまたがっいる騎士たちの姿は、壮大というほかありません。
昔は、最もお金のかかた映画でギネスブックに乗っていた気がするのですが、違いましたかね。名画中の名画です。

映画「おしゃれ泥棒」への試論 感想とレビュー 恋も泥棒

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ピーター・オトゥール特集として
-はじめに-
(How to Steal a Million)は1966年のアメリカ映画。ウィリアム・ワイラー監督のコメディ映画です。もはや名作としての不動の名を関されているのではないでしょうか。見たことがなくとも、耳にしたことくらいあるでしょう。
ところが、この記事を書くにあたって、調べてみると、この名作の名にあやかってモバゲーの同名のゲームばっかりがヒットしました。こうしたビックネームにあやかるというのは、戦術的にも正しいことですし、また誰もがやりたいことですが、評論家として考えると、紛らわしいほかありません。
ただ、原題を見てみると、もはや翻訳って何というところまで行ってしまっているので、そもそも「おしゃれ泥棒」ってなんだろうかということになってしまいます。何なのでしょう、よくわかりません。恐らく、当時の日本人がオードリー・ヘップバーンの鮮やかなスクリーン上の光景を目にして、彼女の連想からおしゃれという言葉を使用したのではないかと考えています。確かに彼女はファッションの先端といった部分がありましたから、彼女の美しさも相まって、おしゃれという言葉を使用することによって、映画へのお客の関心を高めようとしたのではないでしょうか。

-作品性と役者のイメージ-
そもそも「おしゃれ泥棒」って何なのかという不明があまりにも大きい作品ですが、これはやはり翻訳に無理があります。How to Steal a Millionですからね、直訳すれば、どのようにして100万ドル(の宝)を盗むか、ですから、一寸意訳して、100万ドルのお宝の盗み方とかしておけばよかったのではないでしょうか。
さて、この作品一体だれが泥棒なのという問題が起こると思います。だれも泥棒ではないといえばないのです。
ニコル・ボネ(オードリー・ヘップバーン)は、父(贋作画家)の作品が贋作でないか、常におびえているのですが、その父、シャル・ボネの作品が疑われたことから物語りは始まります。探偵のシモン・デルモット(ピーター・オトゥール)はこっそりボネ家へ進入して真相を調べますが、そこでニコルに見つかってしまう。とっさに私は泥棒だと嘘をつくシモン。それを信じてしまうところがオードリーらしいのです。そこから二人で、自分の家の作品を盗みに行くという不思議な展開が起こるのです。

オードリーのイメージというのは、どのようなものがあるのでしょうか。完全に私の父の世代の話のことになってしまいますから、私自身実感としてあまりないのですが、さまざまな作品を見ていると、どこか今で言う「天然」があるようです。オードリー自身が本当に天然だったのかは分りませんが、少なくともスクリーン上では天然性が求められ、彼女はそれに答えているように思えます。
『ローマの休日』でのあまりのおとぼけが強すぎたのかも知れません。他には『ティファニーで朝食を』の天真爛漫さ、自由奔放な女性というイメージも相まっているかもしれません。

さて、そのような天然を求められるオードリーは、今回もシモンに騙されて、二人で泥棒を働く。このシモンのピーター・オトゥールのイメージがあるように思えます。今回は彼の特集ということで、『アラビアのロレンス』とも比較して考えたいと思っていますから、彼のことを論じます。
彼の代表作である『アラビアのロレンス』。しかし、後々このときのイメージがあまりに強すぎるという印象が伺えるのではないでしょうか。ここでは、どこかつかみどころのない役を演じています。飄々(ひょうひょう)としている感じ、地に足をつけていないような、そんなイメージがあります。
作中では、天然のオードリーと飄々としたピーターという異色のコンビが笑いを誘います。どっちもおかしいのです。ツッコミがいない笑いなのですね。自分勝手な二人がそれぞれ自由に動き回る。それが何とかまとまっていくというところに面白さと、作品の展開が用意されています。

最後はピーターの正体をばらすことによって、天然がオードリーだけに取り残されます。それが物語りのオチになるわけですが、しっかりオチをつくっている点、時代を感じられます。最近の作品は、結構オチから逃げることが多い。上手く落とせないとまったく面白いものでなくなってしまうというプレッシャーから逃げに入ることが多いのだと思います。ただ、昔の映画やアニメにしろ、結構このオチを大切にしていたという面があるのだと私は感じます。オチを大切にしすぎた結果、オチが定型化してきて、新鮮味がなくなったから、あえておとさないということにも繋がったとも考えられますが。

-騙し騙されは恋の心理-
この作品はお互い色々なことを隠している、わけアリの人々が描かれています。父が贋作画家ということで、本来ならば犯罪です。それを知りながらしかし、とめることが出来ないオードリーも、共犯者でしょう。それで巨万の富を得ているのですからしかたがありません。
対してピーターのほうも、正体がばれてはいけないと、泥棒だと偽ります。探偵であった彼が、オードリーに恋をしてしまうことによって、彼女に手を貸してしまう。あろうことか、探偵が泥棒をしてしまうのです。そうしてその作品を、どうしても欲しいというコレクターに渡す。そのコレクターはもう二度とその作品を公開することが出来ない。そういう関係で全て物語りは収まるのです。
ジェットコースターやお化け屋敷で、カップルが生まれるというのは、遊園地のジンクスですが、心理学の用語で言えば“帰属理論”となるでしょう。つり橋の上の、不安定な状態で、異性が好きになってしまうということがあります。これは不安定なための精神的興奮を、異性への興奮だと誤って認識してしまうからだと言われていますね。
この作品も、男女が泥棒という極端に興奮状態に陥る状況が設定されています。美術館の倉庫の中で、警報が鳴り響いたり、警備員の足音が聞こえたりと、その興奮状態に加えて、密室ですから、これは恋に落ちざるを得ないのです。

それから、お互いに自分の正体を隠しているということ。
あんまりあけっぴろげな異性は確かに安心できて、信頼に足る人物ですが、しかし魅力は感じませんよね。少しミステリアスな、全てを語っているようで、実はまったくわからないというような素性の分らないほうが、我々人間は興奮するのです。
最後にはお互いの正体がわかってハッピーエンドとなるのですが、それまではこちらとしても、どのようになるのかハラハラします。もしピーターが裏切ればオードリーとその父は刑務所行きですからね、最期の判断をどうするのかということになります。
結果としては、恋の勝利。もちろん娯楽映画ですから、人間の身分や芸術界の裏のこととは関係なく、それに恋という純粋な人間の感情が勝つのです。

-終わりに-
こうしたコメディ映画というものは、段々少なくなってきてしまいました。CG技術が発達したこともあるでしょうが、世の中が作品に対して求めるものが異なってきたのかなと私は感じています。リアリティーとでも言うのでしょうか。CG技術はある意味で言えば、全くこの世に存在しないものを、極端にリアルに描く技術です。地球が崩壊しようが、宇宙で戦闘が起ころうが、それらは全て映像技術によって、リアリティーを確保されているのです。
この作品のような、現実のことを描いていて、それで全く現実味のない作品というのは、もう飽きられてしまったという印象があります。そんなのうそだよの一言で一蹴されてしまうような感覚があるのではないでしょうか。私は技術主義ではなく、こうした人間の持つ面白味のほうが、より深く掘り下げることができ、しかもそこには人間の真理が隠されているような気がするので、こちらのほうが良いのですが、なかなか難しいのかも知れません。名画鑑賞としてお楽しみください。

映画「セブンティーン・アゲイン」への試論 感想とレビュー 人間について、様々な視点から描く

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-初めに-
(原題:17 Again)は、2009年にアメリカで製作されたコメディ映画。『ハイスクール・ミュージカル』シリーズのザック・エフロンが主演した。全米では2009年4月17日に公開され全米初登場1位を記録。
さて、今回はあのザック・エフロンも登場ということで、ハイスクールミュージカルでファンになってしまった女性にとっても注目すべき作品なのではないでしょうか。公開が2009年ですから丁度、ハイスクールミュージカルと前後しています。
様々な作品を取り扱うことによって、感じたことなのですが、ハイスクールミュージカルにしろ、今回のセブンティーン・アゲインにしろ、かつて取り扱った「25年目のキス」にしろ、アメリカ映画というのはハイスクールが取り扱われることが多いです。これが日本とアメリカの高校の雰囲気の違いではないでしょうか。
日本では高校が取り扱われるとき、大抵恋愛が主題となります。このあいだの桐島にしてもそうでしょう。あれは高校の部活を取り扱ったものですが、高校の部活というテーマも日本では好まれる話形です。けいおんにしろ、ちはやふるにしろ、高校の部活動と恋愛というのは日本人好みする話形なのです。
対してアメリカはどうでしょうか。アメリカのハイスクールは、舞踏会があったり、卒業のパーティがあったりと、日本人の高校生とは少し赴きが異なります。日本人が部活動と恋愛にエネルギーを消費するのに対して、アメリカではパーティと恋愛にエネルギーをしようするのです。そのため、アメリカのハイスクールの物語では、学校の中のヒーロー、ヒロインがテーマになりやすい。パーティというのは主要なメンバーがいるもので、それは同時に学校のヒーローヒロインなのです。だからバスケット部のキャプテンがヒーローになり、チアリーダーがヒロインになるのです。
今回はヒーローのお話。

-ヒーロー性といじめ-
高校時代はヒーローであった、マイク・オドネルは、しかし彼女の妊娠をきっかけに重要な試合の途中で抜け出し、別の人生を歩み始めます。そうして30代の現在、彼は負け組みとしてうだつの上がらないサラリーマンをしていますが、それも首になってしまいます。
傷心の彼は自分の娘と息子が通い、かつての栄光が詰まっている高校へ訪れます。そこで白髪の清掃員にであい、その後不思議な変身をするのです。彼はなんと17才の体に戻るのです。
私は最初この映画は、タイムスリップで、自分の17才のときに戻って、もう一度他の道を歩むことによって新しい何かが見えてくるのではないかという映画を予想していました。ところが、この映画では体だけが17才に戻る。
さて、現実の世界でそんなことが起これば、一体どうやって生活していくのでしょうか。そんな色々な事情を一挙に解決してくれるのが、高校時代からの友人ネッド・ゴールド。ネッドは高校の時、いわゆるオタクでいじめを受けていました。しかし、心の優しいマイクは学校のヒーロー的な存在であるのにもかかわらず、いじめる側ではなく、努めてネッドと仲良くしたのです。
そのネッドは何故か大金持ち。プログラムを作ったか何かで当てたというような感じのことを言っています。
そのネッドが昔から仲良くしてくれたということもあって、マイクの手伝いをするのです。保護者を装うことによって、マイクは再び高校に入学します。そこではもちろん彼の息子と娘がいるのですが、そこで彼が目にすることは。

私はこの映画は、性の問題であったり、いじめの問題であったり、人生の問題を深く考えさせる作品だと感じます。ただ、それを実に巧みに隠している。コメディ映画というのが全体のスタンスですから、それは崩すことはなく、深い言及がなされている大変すばらしい映画です。しかも、ストーリーも納得がいく構成。これは皆さんに見てもらいたいさくひんですね。

ヒーローといじめについてですが、学校では、どうしても主要なメンバー(桐島では上と書かれている)、と底辺にいるメンバーとが生まれてしまいます。これは仕方がないことで、いじめもまた発生することなのです。私は苛められたという経験を持つ人間ですから分るのですが、いじめは絶対になくなりません。あって当たり前なのです。むしろいじめがない世界のほうが不健全かも知れないくらいでし。そのいじめの程度が重要になってくるのだと私は考えているのですが、この作品でもそういうことが描かれています。
マイクは高校の時ヒーローでした。そうしていじめられていたネッドに対して、通常ではありえない、ヒーローであるマイクがネッドに対して積極的に働きかけ、救済しようとしていたのです。
しかし、今度は彼が再び学校へ入ってみると、自分の息子がいじめられています。そうしていじめているのはバスケ部のキャプテンなのです。そのキャプテンの彼女はなんと自分の娘。随分奇妙な人間関係ですが、マギー・オドネルにしてみれば、自分の彼氏が弟をいじめているのです。これを止めないのはやはりおかしい。すでに家族関係が崩壊してしまっているオドネル家では、そうした家族間の没交渉性もあるということが描かれています。
これを再びマイクが学校のヒーローとなって自分の娘、息子、それから自分自身の妻との関係をも回復していくというお話。

-性についての言及とオタクへの寛容-
高校という時期は、丁度二次成長期の終わりか、終わった時期に当たります。ですからもう性交渉も出来るし、殆ど大人なのです。そうして大概高校生というのは、自分の大人である証明が欲しくて、しばしば無益な性交渉をしてしまう。その結果、子どもが出来て人生を棒にふるということも少なくないのです。この作品ではそのことについても触れられています。
性の問題です。マイクは人のことをいえないのですが、(というのは、彼自身が高校生の時に彼女のスカーレットと子どもを作ってしまったという経験があるため)、いざ学校へ来てみると、自分の娘がバスケ部のゴリラのような男とキスをしまくっている。授業中にも拘わらず自分の前で娘がゴリラ男とキスをしているのです。
自分の娘が頭脳のない男にそのような行為をされていれば、だれであっても平常ではいられないもの。
作中では性についての授業があるのですが、そこでマイクは大演説をし始めるのです。保健の先生が高校生にセックスを止めるのとは言えないから安全な仕方を教えますというのに対し、マイクは、だめだといって、性交渉は結婚するまでしないほうがいい、大切なパートナーとめぐり合って、赤ちゃんのためにどんなことがあっても守ろうという決心がついてからのほうがいいんだと熱く語ります。そこはコメディ映画ですから、それを聞いてすぐに他の生徒は私もやらないといいだすのです。
ここにはそうした間違いが多いために言及された部分でしょう。それがコメディ仕立てになっているので隠されていますが、しかし重要なことです。
ただ、それに対して自分の息子には、チアリーダーの女の子との恋路が上手くいくように手助けしたりするのです。これは恋愛と性交渉の分別した考えからでしょうか。一寸矛盾しているのではという感じがします。
全体の流れとしても、恋愛はよしとされているよう。息子の恋愛も然りですが、同時に友人のネッド・ゴールドと、ジェイン・マスターソン校長との恋愛も描かれます。

ネッドとジェインの恋愛についてでも最終的に言及されていることなのですが、作品全体として、オタク文化への暖かい眼差しがあります。私の大好きなスターウォーズ、ロードオブザリングなど、古典的な名作へのオマージュがいくつもあるのです。
17才の体になってしまったマイクは当初ネッドに勘違いされて、戦いますが、そのなかで、ライトセーバーを使って戦う場面がある。これは大変面白いです。それにネッドが寝ているのは、エピソード4でルークののっているスピーダーです。
そうして何故かジェイン校長もオタクなのです。二人でロードオブザリングのエルフ語を喋るだす場面は爆笑。二人とも真剣なのです。どこで覚えたのかと校長の質問に、ネッドは通信でならったといいます。私も是非習いたい。
ガンダルフの杖に1万ドル払った馬鹿だという彼のつぶやきも、またこうした作品をしっている私からしてみたら笑いになるのです。

-最後に-
笑いについて少し言っておきたいのですが、こうしたある知識を踏まえた笑いには、当然それを知らない人は全く笑えないわけです。スターウォーズ、ロードオブザリングを見たことがある人でないと、一体何が言われているのかさえわからない。確かにそうした笑いは皆に寛容ではありません。しかし、また万人に分るような笑いになると、その分普遍的なものになり、大概程度の低い笑いになるのです。
ものまねで例えるとわかりやすいのですが、例えばだれだれもものまね。このだれだれを知っていればなるほどすごいなとか、似てないとか思えるわけです。しかし、ものまねされている人物がわからなければ全く面白くもなんともない。ここにものまねをする人間の葛藤があると思うのですが、それは置いておいて。
では誰もがわかるものまね。中川家や次長課長のような、タクシーの運転手や、大阪のおばちゃん、駅員などは誰もがわかるものまねです。しかし、その分、だれかのモノマネよりも、極めて広範囲な対象になるため、正確性や、すごみについても低減してしまうのです。

なかなか解決のしない問題ではありますが、今回の笑いについて、そういった面があったので、少し論じておきました。
映画としては大変すばらしい。是非見てください。最後に上手く収まるハッピーエンドとなっています。女性にとってはザック・エフロンが見れるという特典つきです。
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

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