「矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜」への試論 感想とレビュー 前代未聞のバラエティ番組の映画化

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-初めに-
矢島美容室といえば、数年前に一声を風靡した音楽ユニット。バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』から生まれました。この映画はバラエティ番組も映画になったっていいじゃないかという番組スタッフのもと、2010年に公開された映画です。
元から本気で作る必要性もなく、当然作品全体の完成度も低い。1500円というチケット代を払ってまでも見たいかといわれたらそうでもありません。しかし、私は矢島美容室が好きなのです。

-作品の性質-
全体的に残念な感じは拭えませんが、しかし最も残念なことは、公開が2010年と遅かったことです。矢島美容室がデビューしたときに、「ドリームガールズ」を彷彿とさせる黒人系のアメリカ人が三人で歌う姿には誰もが魅了されました。デビュー曲、ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-は当時大ヒット。誰もが毎週毎週矢島美容室が出ないかを楽しみに待っていたことでしょう。
なかなかこのデビュー曲からあたらしい楽曲が出なかったことは悲しいことです。誰もが待ちわびたのですが、その後のSAKURA -ハルヲウタワネバダ-、はまぐりボンバー共に、一曲目の、ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-ほどの作品ではありませんでした。
この期間に、我々矢島美容室のファンは熱が醒めていってしまったと言って良いでしょう。
この映画は矢島美容室が、日本に来る前の話ですが、当時矢島美容室とは一体何なのかという期待と感心が大きかったころに公開されればどんなにヒットしたかわかりません。デビューが2008年の10月で、映画が2010年の4月ですから、その間に二年という期間はないものも、急激に熱したものはそのぶん醒めやすいものです。遅くとも2009年には公開されていて欲しかったというのがファンの一人としての感想。
その期間までに、新しい曲が殆どなかったことも熱を急激に冷ました原因の一つにもなっていると私は感じます。いくらファンだといっても、一曲で何ヶ月も楽しめるものではありません。飽きが来るのは当然で、その対策が著しく乏しかったというのが残念な点です。
ですから、映画化が決定した時点で既に我々観客は、今頃かよという感覚があったのです。

そうして熱が醒めてしまってから見た映画は、内容も殆どなく、演技もぎこちなく、作品の完成度も低いとくれば、あまり評価は上がらないはず。そうして我々が最も知りたかったお父さんは一体だれなのかということは、なんということはなしに、最後にあっさり公開されてしまうのです。この脱力感がもはやその作品の全てを表しているのではないでしょうか。映画化に遅れたという意識があったのか、本来であれば、黙秘してよりひきつけておく部分をあっさり公開してしまったのです。

-さまざまなオマージュ-
ただ、本格的なコメディ映画としては評価できる点もあると私は考えています。最近ではこのようは言わば「ふざけた」コメディ映画は殆どなくなってしまいました。コメディ映画が売れないということが原因かも知れませんが、この映画の強みは、元々がコメディ番組ということから、基礎がしっかりしているということです。前提があるのです。
映画で初めて矢島をしるという人は恐らくいないでしょう。我々は既に矢島を知っていて、さらにとんねるずの皆さんのおかげでしたを知っているのです。だからそれを前提として成り立っている分、より深い笑いを提供できたということです。
映画の中では、それこそ数え切れないほどの多くのオマージュがありました。
警官がダンテ・カーヴァーだったのは、当時流行っていた、ドコモの携帯のCMからの起用ですし、「ドリームガールズ」を意識したであろう三人の女性ユニットはボーカルが柳原可奈子です。
また、矢島が本質的に内包している女装性、おかま性への言及か、謎の掃除係としてKABA.ちゃんも登場します。ミスコンMCは牧原俊幸がやる、審判には水谷豊がと枚挙に暇がありません。
最大級の笑いは、最後の矢島徳次郎こと本木雅弘と居酒屋の女将、宮沢りえのコンビです。伊藤園のCMでおなじみのコンビですから、それを狙ったことが何よりもおかしい。これが最大の見せ場でしょう。
全体的におやじギャグのような笑いが耐えない作品です。チープな感じがありますが、それもまたありという気持ちにさせられる構成になっているのです。ですから私は作品としては大変残念ではありますが、しかし評価できるのだという結論に達するのです。

-終わりに-
ファミリー層が温かくなるような映画にとミュージカルや笑いを交えながら、笑って泣けるエンターテインメントの王道を目指したということが、映画のテーマになっているようですが、確かに話形はあまりに典型的すぎて論じる必要もないくらいです。恋愛について、ナオミとマイケルが、或いはストロベリー、メアリー(アヤカ・ウィルソン)、ケン(佐野和真)がそれぞれ描かれています。おかしいのは、可愛いアヤカ。ウィルソンと中年のおやじ(に見える)ストロベリーが恋愛を真剣にしているように思えてくる点です。
よくこんなふざけた映画に子役たちが笑わずに撮れたなと感心します。
それから女同士の戦いですか。ラズベリー(黒木メイサ)は、狡猾な手段で恋愛と友情のどちらを選択するのかとメアリーに差し迫ります。結局は友情と恋愛の両方が勝つという不思議な展開。それもストロベリーが本当は何であるかということが私たちの意識のなかにあるからなのですが、黒木メイサの負けが描かれます。
くだらないなと思いながら見ると面白いです。

映画「雪国(1957)」への試論 感想とレビュー 人間関係から作品を解釈する

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-初めに-
雪国といえば、川端康成の小説、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」はあまりに有名。日本人であれば、読んではいなくとも必ず知ってはいるはずです。
もちろん私も文学をやる人間ですから、雪国は重要な作品のひとつ。今回はその雪国の映画を論じたいと思います。

-作品の概要・前提として-
前提として、雪国という話は大変エロいお話だということを踏まえてください。本を読んでもよくわからなかったという人もいるかも知れません。これは、当時、性的な描写を露骨にすると発禁になってしまうため、いかに上手く隠せるかということが問われた時代だから起こった表現のためです。川端康成と言えばノーベル文学賞をも受賞したほどの人物。文才も極めて秀でているため、真剣に読まない読者にとっては一体なにが書かれているのか分らないということになってしまいます。
映画ではこれをいかに表現するかということになりますが、私が今回見た1957年版の映画は、原作に忠実に再現するということで映像化されています。
ですから当然この映画にも、性的なニュアンスは上手く隠されてしまっているということになるのです。主人公は誰なのかという問題はこの作品では大変難しいことになると私は思いますが、主人公の一人である駒子は紛れも無く芸者です。主人公の一人である島村とは性的な関係があります。
冒頭の駒子との再開の場面で、この指が御前をよく覚えているというせりふがありますが、一見するとよくわからない。髪の感触を覚えているというようにしかとれません。ですが、これは性的な意味で、肌の感触や、最も深い意味で捉えれば性器の感触のことをも示唆しているのです。
こういう関係が成り立った上での話しですから、それを無視してしまうと全く話しが変わってしまいます。島村には奥さんと子どももいるのです。そのような売れない画家が、毎年一度雪国に来ては、駒子と情交を重ねていくという話なのです。もちろんそんな部分は巧みに隠されていますが。

映画として考えると、駒子には岸惠子が当てられているところからも、当時の気合の入れようが窺い知れます。すごい演技力です。迫真性といったものが感じられます。というのは、駒子は、この毎年やってくるしがない画家島村に恋というと簡単に片付いてしまいますが、複雑な感情を抱きます。
原作でも不明な点が多いのですが、行男(病床の男)と駒子は何かしらの関係(夫婦関係か)があります。ですから、旦那がいるのにも拘わらず、駒子は芸者として働いていて、さらにお客である島村を自宅へ連れてくるという行動もしているのですから、通常の感覚では理解しがたい人間関係、心情の変化があるのです。
映画ではそれを何とか解釈して、表現していますが、それでも謎が多いということはあります。

-作品を人めぐる人間関係・三角関係-
人間関係について、今までさまざまな解釈がなされてきました。この映画を見て感じたことには、あくまでこの作品は「雪国」であるということです。というには、舞台はどこまでいっても雪国から離れないのです。
冒頭では、列車がトンネルを通って雪国へと入ってきます。そこからは雪国からカメラがでるということはないのです。ここに主人公は一体誰なのかという問題も生じてくると思います。
島村は確かに主人公ですが、毎年のように来るということですから、一年の殆どはいないわけで、彼は一度作中で帰りますが、しかし、カメラは島村を追いはしないのです。主人公であったろう島村はそこから離れ、取り残された駒子を写し始めるのです。
人間関係の描写を整理してみると、島村が帰るまでが、駒子と島村の関係。島村が帰ってからが駒子と葉子の関係(義妹関係になるのか)。島村が再び帰ってきてからが、島村、駒子、葉子の関係というようになっていると私は考えます。
かなり変則的な三角関係ではありますが、それを二人ずつの関係を見ていくことによって、新しい視点でこの三角関係を構築しようとしていることがわかります。途中島村と葉子、二人の関係も描かれることになりますが、その関係は成立しないということが、駒子ならびに、絶対的な力である火事によって、証明されます。
しかし、葉子と島村の関係が成り立たないということは、翻って駒子と島村の関係もまた成立しないということになってしまうのです。何故かというと、葉子と駒子は繋がっているからです。駒子は行男という正体不明の病人と、その母と、葉子と共に暮らしています。どうしても最後まで葉子と駒子の関係が分らないのですが、恐らく葉子は行男の兄弟なのでしょうか。
物語内において、行男とその母は死んでしまいます。すると空になった家で、葉子と駒子が取り残され、枠組みだけが残ってしまうのです。それを島村は駒子を可哀想に思って、枠組みをはずそうと考えます。つまり葉子を東京へ連れて行ってしまうということです。そうすれば、一人になった駒子のもとに、再び戻ってくることができると考えたのです。
ところが、葉子と島村の関係が成立しないということになってしまった。そうして火事で葉子は外へ出られる状態ではなくなってしまったのです。だから駒子と葉子は切り離せない関係になってしまった。そのため最後に島村は駒子と別れざるを得ないという関係になってしまうのです。
こういう様に人間関係を見てみると、飽くまでも島村という男は雪国にいる駒子に会いに来るということでしか成立しない関係を望んでいるのではと考えられます。確かに彼には妻と子どもがあるわけですから、駒子を連れて帰るわけにはいかない。だから自分とはなんのやましい関係のない葉子を連れて帰って、駒子を一人にしたかったのです。
それと、何故駒子と葉子を切り離さなければならなかったのかという理由ですが、一つには、葉子のために駒子が芸者として多くのお客をとらなければならないということへの負担を軽減させようとしたためでしょう。島村にとっても駒子が他の男と関係を結ぶのは嬉しいことではないですから。それともう一つは、葉子が島村に恋をしていると知ったからです。島村が葉子に対してどのような気持ちを抱いていたか判然と分りませんが、しかしその関係が成立しないということは確かなのです。駒子か葉子かということになるのだと思います。三角関係から考えるとそうなります。そうして島村は葉子よりも駒子がいい。
結果からみれば、この複雑な人間関係は本来ぎりぎりのところで成り立っていましたが、時間の流れがそれを壊してしまったのです。だから最後、唐突だと評判のラストですが、人間関係の崩壊しきったところが終焉となっているわけで、そんなに唐突ではないのではと私は考えます。

-終わりに-
今考えると、奇妙な人間関係の上に成り立った作品なのでうす。当時の人にも不思議な作品だと思わせたことでしょうが、この1957年版の映画化では、原作に忠実にということがメーンになっています。
家族のために身を売って働かなければならないという、決して美しい仕事とは言えないことをしているなかで、純情に芽生えた島村への恋心。それを極寒で、白銀の世界である雪国を舞台とすることによって、強烈なコントラストをなしている作品だということが出来ます。
駒子の周囲の環境は極めて厳しいのです。でもそこに一度の春のようにおとづれる島村。熱い恋心は雪をも溶かすでしょう。けれどもそれは、はかない夢でしかなかった。決して白馬の王子様ではなかったのです。最後には島村は帰ってしまう。駒子は一人、雪国に取り残され、身を世に任すしかないのです。

映画『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』への試論 感想とレビュー 時間という概念を鮮やかに組み込む

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-初めに- 
(原題: Prince of Persia: The Sands of Time)は、2010年のアメリカ映画。2004年発売の同名ゲームの実写化作品です。ただし、ゲームとは全く異なった作品となっています。
プリンス・オブ・ペルシャ、名前は耳にしたことがあったのですが、先日観る機会があったので、今回はこれを論じます。
原作がゲームだということで、原作とは全くことなった物語になっているとはいえ、一体どのようなゲームなのか気になります。ゲームでも時間の砂は出てくるのでしょうか。
これを聞いてまず思い出すことはドラゴンクエストの時の砂です。これもまた同様に時間を戻すことが出来る砂。少し調べてみたのですが分りません。一体この時間と砂というのがどこで結びついたのでしょうか。どこから来た考えなのでしょう。どこで生まれたのかも分りません。
ただ、連想としては砂時計から来ているのかと推測できなくもない気がします。時間を計るために砂を用いれば、砂は時という意味を持つようになります。しかも砂時計ははかなさの象徴でもあり、それと対比して砂漠では広大な砂がある。その砂が時間的な意味を持てば、人間の所有できる砂の以下に小さいことか、いかに無力なことかが痛感できるというものです。

-古典的話形の抽出-
映画は成功していると思います。十分楽しめました。何故面白いのかということを考えてみます。
先ず念頭においておきたいことは、この物語は映画オリジナルの書き下ろしであるということです。さまざまなメディアの媒体のものを映画化することも多々ありますが、やはりそこはオリジナルとの比較が必然的に生じてしまうという運命に縛られています。これは原作こそゲームですが、全くオリジナルのものを作り直したという点で、大きく自由が利く作品となっています。やはり、もともと映画の為に作られた物語ですから無理が生じていなくて良いということです。
また、この物語は古典的な話形がかなり多く詰まっています。言い方を悪くすれたイミテーションということにもなりますが、さまざまな話形のよい部分を拝借しつつも、時間の砂という副題でもあるこのことによって、見事にまとめられているのです。そこが大きく評価できる部分です。
先ず、王族でないものが王族になるという話形。これは紛れもなく旧約聖書の出エジプト記から出て来た話形ですね。別に王様に子どもがいないというわけではないのですが、偶々通りかかったことによって、その勇気を認められ王族として迎え入れられたということです。この話形につき物なのは、王族の血を引く直系の兄弟たちとの争いです。もちろんこの作品も例外ではなく、兄弟の間に亀裂が入った原因が何であれ、そうした話形が展開されるのです。
次は、近しい人間の裏切り。この作品では、叔父であるニザムが裏切り者でした。これはさまざまな話系に見られますが、シェイクスピアの作品から多くそれが派生したのだと私は考えています。シェイクスピア以前からあったことは確かですが、それが有名で大衆に受ける話形となったのは、ということです。またニザムの視点からみれば兄殺しでもあります。権力に目がくらみ、兄を殺害してしまう。聖書的な話形が色濃く出ています。カインとアベルの話は有名です。
あとは強いて言うのならば、神に与えられた神聖な力を有する女性の王族ですか。神から力を与えられた一族が、その神聖な力が女性に宿るというのは良くある話形です。ハムナプトラのスコーピオンキングの作品にもそうした話が出てきていましたし、ドラゴンクエストの5ではデルパドールの女王がその役割を勤めています。一体どこから沸いた話形なのかが不明ですが、有名な話形であることは確かです。
見事なのは、これらの有名な話形、つまり我々観客が好き好む話形がふんだんに使用されていながらも、大衆へ迎合したいというだけの作品ではなく、その中心には一本の芯が通っているということです。つまり、時間の砂という、まあこれも有名といえば有名ですが、これが作品を上手く纏め上げているのです。
時間を扱った作品は数多くありますが、時間の砂というのは実に限られた時間の自由しか与えられていないのです。未来から来たという「時をかける少女」の時間を移動する能力のほかは、こちらのほうがより現実味があります。時間を移動することが出来ても実に有限で、限られたことしか出来ないのですから必然それに作品は縛られますが、めちゃくちゃな展開にはならないという安全性も保たれます。

-時間を扱う難しさ-
この作品は、時間という非常に一か八かのテーマを主題にした物語です。時間を扱った作品は数多くありますが、成功した例は実に少なく、あとの作品は皆がえーといってしまいそうな興ざめなものばかりです。この作品は時間という諸刃の剣をうまく使用できたということに成功があります。
物語が最終的に戻ってくる位置も絶妙。物語が大分前に戻ることは予想が付きましたが、一体どこへ戻るかということまでは予想が付きませんでした。なるほどここへ戻ってくるかと、実に納得のいく戻り方。すべてが全くなかったことにするのではなく、アラムートへ侵略はしてしまったというところに落ち着きました。
そうすると私たち観客はダスタンと共に冒険してきたわけですから彼と同じ記憶を所持していますが、時を題材にした作品上、他の人物たちは今までのことは知りません。そうすると実に私たちはもどかしい思いをするのです。ダスタンとタミーナが作り上げてきたもの、シーク・アマールやセッソという愉快な仲間、せっかくソルムを倒したのに、という感情があります。それは当然ダスタンもあるはずなのですが、彼はそのことを説明しようとはしません。タミーナであれば砂の事実を知っているのですから理解してもらえそうなものですが、彼女へもそうしたことを言おうとはしないのです。もちろんこの作品が終わってからのちに話しているという可能性は十分にありますが、その潔さが、逆に冒険に疲れた彼のこころと、もどかしいながらも結局はこれでよいという爽やかさに変化して作品は幕を閉じます。この潔さが実にすばらしい。作品に余白があるのです。全て出し切らない。ちょっと我慢してみるというところが作品に奥行きを出しています。
そのため叔父ニザムも大変な過ちを犯す前に諌められます。最終的には上手くまとまるのです。一体だれが脚本を書いたのかは知りませんが、実に上手い纏め方で、納得がいくのです。この作品のすばらしさは全てここに還元するといってよいでしょう。

-終わりに-
作品は全体としてアラビアンナイトや、アラビアのロレンスのような雰囲気が漂っています。砂漠の神秘という感じがしますね。
またこの作品は設定もしっかりしていて、最後にその種明かしがなされますが、アラムートとペルシャ帝国とは浅からぬ縁があることがわかります。アラムートが道具、ダガーを保管するとすれば、そこへ使ういわば燃料、砂をペルシャ帝国が保持しています。つまり、お互いに神の力を分散して使用できないようにしているという関係にあるのです。ペルシャ帝国がアラムートを聖都と呼んでいることからも、友好的な関係であることがうかがい知れます。この作品はそうした背後の設定もしっかりしているため、重厚な感じが失われていないのです。タミーナの演技がもう少し上品であればなおよかったのですが、全体としては大変満足できる映画です。是非オススメします。

映画『ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い 』への試論 感想とレビュー 作品の性質への言及

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-初めに-
(原題IO, DON GIOVANNI)は2009年にスペイン・イタリアの共同制作によって公開された映画です。
オペラ映画ですが、オペラを映画化したのではなく、オペラ『ドン・ジョバンニ』の製作過程を描いた作品です。
ドンジョバンニ自体を映画化した作品は既に存在していて、1978年製作のフランス映画があります。もちろん製作に当たってはこの作品を見たことでしょうが、今回は新解釈を加えての製作ということで、壮大なオペラ映画となっています。

-作品性-
華麗な18世紀、1700年代後半を描いた作品です。当時のローマでは、重大な罪の一つにローマからの追放ということがありました。ローマの権力は当時莫大なもので、市民という概念があったほどです。ローマの市民ということが一つの重大なステータスだったのです。そんなローマから追放されたのがロレンツォ、この物語の主人公です。
こうした史実を踏まえた作品を取り扱うのは私にとっては結構難しいことです。私は物語論を重視している人間ですから、それが史実となると、歴史に対してこれはいいとか悪いとか判断しなければならないこととなり、どこかそれはおかしいのではと思うのです。史実かどうかは別として作品を切り離して考えるのですが、それもまた一つの作品を狭めてしまう行為にならないかと考えもします。ちなみに、オペラに詳しい人の解説によると、だいぶ史実とは異なるらしいです。

さて、ロレンツォの女性遍歴というのは大変なもので、それが後のオペラ「ドン・ジョバンニ」に活かされてくるわけなのですが、その重要な視点が組み込まれているにも拘わらず、描写がすくないというのが感じたことです。女性遍歴に話題が移ったとき、あれ、そんなに女性徒付き合っていたっけというのが感想。殆ど女性との関係を描いていないという部分があまりにも不自然です。
ただ、それらを消し去ってしまった結果、アンネッタとの心情の変化に焦点が当てられています。オペラ歌手の女性とも恋愛をするロレンツォですが、彼女の大変嫉妬深い性格にあきれ、偶然数年前に出会った美しい女性アンネッタとの出会いによって、全てを投げ出してアンネッタにアタックしていきます。
この映画の見所はやはり、オペラとは総合芸術ですから、絵画的な美しさも含まれます。特に冒頭のアンネッタの、レースのカーテンを開けた先に眠る、光が差している情景は見事というほかありません。
この映画は、全てが舞台であるかのような演出がなされていて、ロレンツォの世界と、彼がモーツァルトと共に作り上げているドンジョバンニの世界との境界があやふやなのです。そのため、現実世界だと思っていても、しばしば、目を凝らすと舞台の背景であったりして、なんだか不思議な感覚がします。オペラを作っているオペラを見ているといったらよいでしょうか。
いわゆるメタオペラを見ているのです。作中作と言い換えても良いでしょう。

-二つの物語の差異化-
これはオペラドンジョバンニ自体への言及にもなることになりますが、ドンジョバンニは自分の悪行への反省が見られません。彼は最後の最後で、自分が殺した騎士長から自分の非を認めるように言われます。死んでいる人間が石造となって出現するのですから、考え方によってはドンジョバンニが相当な精神的な撹乱を起こしていると考えても良いかも知れません。
ただ、それでも彼は認めないと言い張るのです。この映画ではその製作をしているロレンツォは認めることに決心したのです。そこが唯一のこのオペラ映画を物語的に成立させている部分です。
もともと通常であればドンジョバンニの映画化か、ドンジョバンニの製作を映画化するのかということに分けられると思います。この映画はそれを両方採用するという構成的にかなりの無理をしているのです。しかも、製作者たちもオペラ調で描き、その二つの境界をあやふやなものとする。
さて、そうすると、ドンジョバンニのほうはもうストーリーがありますからそれを映像化すればよいだけですが、製作しているほうはどうしようかということになります。これが最後までドンジョバンニと同じだと、結局なんだったのかということになりますから、ここで何とかドンジョバンニとは別の道を歩むのだというところで、ドンジョンニとロレンツォとの差異が現れたのです。
ロレンツォは自分の非を認めることによって、放蕩生活から、堅実な道を選びとります。つまり、アンネッタとの愛に結ばれて、二人仲良く暮らすということになるのです。これがこの映画の救いですが、物語的に考えれば、もともと放蕩者に我々は共感しないのであり、その放蕩者がやっと誠実になりました、程度では納得しません。
放蕩者が誠実になって、その結果大事業を成し遂げるといった成功譚が皆みたいのではないでしょうか。その点で言えば、この物語は大衆向けしません。さらに言えば、作品の性質上、オペラに何らかの興味がない人にとっては縁のない作品といってもいいでしょう。
何故今ドンジョバンニなのか、それがいまいちはっきりしないという点では残念なことです。それから大衆に受けないという作品の性質上の問題もあり、これはなかなか解決には至らない難題であります。

-最後に-
オペラ映画の命はなんといってもやはり、歌と音楽。舞台は安く仕上げた感じがありましたが、その分音楽は相当な力が入っているようで、有名なオペラのナンバーの壮大な音楽が、余すところなく楽しめます。
全体を舞台と考えれば、光の使い方も非常に洗練されていて見るに耐える芸術作品となっています。まあ物語性は、ドンジョバンニに持ってかれてしまっているという印象がありますが、単に芸術作品を楽しむということに関して言えば、楽しめる作品であることは確かです。

豊田千代子教授の講義を受けて 私の考察 小論文 教育について考える

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豊田千代子教授の講義を受けて、小論文を書きました。教授は教育のことを考えるに当たって、職人制度を深く考察し、教育に対して新しい視点からアプローチをかけてくださいました。


「授業をとおして考えたこと」
-考えを放棄しない強さ-
私が先ず、この授業で学んだと言うか、得たもので最たるは、考えを放棄しないという事である。教育を考える、これは一体どういうことか。教育、とは人が生きる為に学ぶことであるか。こんなものは哲学と同じで一生結論の出ないことである。では、学者が研究しても答えが出ないことを私たち一回の大学生が考えて何になる。私たちはしばしばこうした短絡的な考え方に結びつくが、この授業では、教授も一緒になって考えていこうというスタンスに驚かされた。
初め、私は何時までも教授が「こうしたら良いのではないか」とか「このやり方は良くない」といったことを何故言わないのかじれったく感じた。今、授業が終わり考えることには、このすぐに答えを求めようとする態度の浅はかさよ。
私は今まで二種類の大人を見てきたように感じる。一つは我々をずっと教えてきて下さった教員や、親などである。そうしてもう一つは豊田教授を含め、映像でも観た職人、それに類する人たちである。
定まったスケジュール、それに沿って機械的に行われる授業、毎週何度もある小テスト。授業が一回でも何かしらの都合で潰れれば、すぐに補講だなんだと大忙し。五分前行動と耳にたこが出来るように言われ、課題が少しでも遅れれば催促が来る。電車の乗り換えでは2、3分が実に待ち遠しい。先日読んだ渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』ではエレベーターが閉まる約4秒の時間が待てないことが書かれていた。
国文学史の鈴木裕子教授の言葉に共感したものがあった。「そんなに急いで青年よ何処に行く」。講義の中でちらりと愚痴をこぼした教授であったが、ここにその人間性が凝縮している。竹細工職人の廣島一夫さんのあの悠然とした態度。宮大工西岡常一の言葉、泰然自若、得心が行くまで。
この二つの違いは何であろうか。まかり間違っても上に挙げたどちらかが良くて、どちらかが悪いと決定するつもりは毛頭ない。どちらにも一長一短がある。それに、二分化して考えることも本来は不可能な話で、なぜならこれは物事に対する人物の時間のもちようなのであるから五十歩百歩であり、程度の差でしかないからである。

-現在の教育の在り方と比較して-
この二つを教育の型として用いても強みと弱みがある。先ず一つ目であるが、これは大人数にある一定の知識を効率的に能率的に教え込むことが出来る。弱みは個人一人ひとりに合った勉強を提供出来ないことである。二つ目は、子どもの個性や特性に合わせて適切な支援が出来ることであり、弱みは時間がかかり、大勢を教えることは出来ない。
教育改革が必要だ。この言葉の軽薄さには心底うんざりさせられる。そもそも、教育とは古くは江戸時代の藩校や寺子屋から、近代で言えば明治5年の「学制」の制定によって体系化された教育機関などによって行われて来た。数百年は続いている教育を、どうしてそう簡単に改革できるのか。特に明治には、学制以外にも多くのことを決めるため、優秀な日本人が世界各地のすばらしい体制、体形を学んで持ち帰ってきた。今、教育改革などと唱えている人間は、教育が何であるかをろくに考えもせず、目先の学力向上の他目がない短絡的な人間の考えであり、教育自体が簡単に改革できるほどのものでしかないと考えている証拠である。
先人はどのようにしたら知識、技術、或いは言葉で表せないような人間の機微を伝えられるかと苦心してきた。現在の教育を考えることは、過去の教育を考えることど同義であり、先人たちから学ぶことは多い。現在は特に全国と比較した学力の低下が目下の問題となっている。学力ばかりを追って、受験戦争になった過去を忘れたか。そしてその結果生徒に心のゆとりをと言って行った教育が急激な学力低下を招いたと考えられることを忘れたのか。そうして今度はまた勉強に力を入れよう。一体何度同じことを繰り返せば学べるのだろうか。
これらは一重に勉強に力を入れれば、或いは心にゆとりを持たせれば、優秀な人物が生まれてくるだろうという実に根拠のない、しかも目前の目標のみを追い求めた結果である。教育は大概時間の掛かるものである。時間の掛からない覚えこむだけの知識は、結局はその程度のことでしかない。どうしてもっと長い期間で考えられないのだろうか。
しかし、これはただ悠長に考えて結論を先延ばしにすれば良いといっているのではない。私は先ほどから程度の問題だと言っている。だから、事を急ぐなかれ、しかし遅れるなかれであり、何度も何度も考え抜いた末に何か答えが見えてくるというのが最良だと言っている。考えることを放棄はしないのだ。

-私が考える理想の教育-
大前提として、先ほどから述べている通り考え続けることである。これが最も良いだろうと思っても、考え続けることである。もはやエンドレスと言ってもよい。それが人間であることの尊厳であると私は感じる。人と知識を共有することを無常の喜びとする、この高度な精神を持つ人間ができることである。
教育のことを考えるに当たって、私が読んだもののなかで特に共感できたものがあったので、それを引用し論じる。岸田秀『不惑の雑学』である。氏は「教育が生徒の個性を伸ばしてやることはできない。個性というものを、適当な日光と水と肥料を与えてやれば芽をふいて成長する植物の種子のようなもので、それが生徒に内在しているともなし、教育のやり方いかんによってそれを伸ばすことができるといった考えがあるように思われるが、個性とはそのようなものではない。~まじめな教育者がこれぞ個性主義教育の成果だと喜ぶことができるような個性なら、たいした個性ではないだあろう。」
他の展開には賛同できないものもあるが、ここは実に鮮やかに個性主義教育についての批判をしている部分だと感じた。現在の教育は、個性が重要だということに主眼が置かれている。個性を伸ばすための教育が一体どのようなもので、どうしたら個性が引き出されるのかそのメカニズムが全くわからないが、少なくともこの定められた時間、スケジュールの中で個性が現れたとしたら、その程度の個性は実にもろく、バックボーンのないものであることが容易に想像できる。

私は、画一的な知識の詰め込みも重要だと考える。それ一辺倒になってしまうのが行けないだけであって、それ自体が悪いわけではない。私たちが何かを考えようというときには、それまで生きてきた中で知っていること(それには知識や体験が含まれる)が必要である。だから、初めから個性だ個性だと言っても、何も詰まっていなかったら何も出てきはしない。個性を磨くために複雑な思考をしようにも、何の知識もなかったら思考さえ出来ない。
私は知識を教える場と共に、現在の教育にもう少しの知識を活かす場面を設ければ良いのだと言いたい。これは、まさしく今までこの授業で学んだ手仕事に関連するのである。手仕事は自分の知識と体験と経験の結晶である。授業時にある生徒が「お手本を見せているのも知識の詰め込みじゃないか」と言ったような内容のことを発言していたと思うが、その通りである。師匠のお手本は知識である。目指すべき目標である。これは教育現場で言えば詰め込み型の知識、問題はその後だ。職人職の修行は寧ろこれからの方に重点が置かれている。つまり、師匠のお手本や師匠が手取り足取り教えるのではなくて、どうしたらそのように出来るか実際に何度も繰り返して練習することである。
確かにマハトマ・ガンディーの言うように、手仕事をさせることは大変重要だと感じる。しかし、何も手仕事に限らなくても私は良いと考える。要は、得た知識をどのように使用するかの問題である。知識を教わったなら、どうしてそういうようになるのかということを考える。または、その知識を用いて別のことを考えてみる。その知識に近づこうとする。これが重要なのだ。そして職人たちは、こちらの方により重いウェイトが掛かっているということなのだと私は解釈する。
職人だって何も全く無からはじめるわけではない。師匠がいる。いなければ先人が残した知恵、知識を学ぶ。やはり知るということは必要である。現代の日本の教育に足りないのはその部分なのだ。大学では比較的こちらの、今まで習ってきた知識を用いて思考するということが必要となってくる。それでもまだ職人のそれとは程遠い。もっと主体的に、積極的に今まで学んできたことを使用する機会が必要なのだ。高校生くらいで現在の大学のような勉強方法を取り、大学ではもっと自分の学んだことを活かせる教育体制が整えられれば、より豊かな人間が育つだろう。

映画『ぼくのエリ 200歳の少女』への試論 感想とレビュー 他者性との関わり 救いを描く

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-初めに-
(原題Låt den rätte komma in、英: Let the Right One In)は、2008年のスウェーデン映画。ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストによる2004年の小説『MORSE -モールス-』を原作者自らが脚色した吸血鬼映画です。
私は物語性を非常に重視した人間ですから、あまりホラーは見ません。別に見れないわけではないのですが、まああまりみたいとは思いませんが、あれらにはストーリー性が全くといって良いほど欠如しています。唯一楽しめたのがスーパーナチュラルでした。あれは大変面白い。宗教観もするどいものがありました。
さて、今回見たのは『ぼくのエリ 200歳の少女』。Let the Right One Inを一体どのように訳したら日本語の題になるのか不思議でしょうがありませんが、タイトルからは全く内容を推し量ることが不可能となってしまっています。簡単に言えばバンパイアの少女と人間の少年が恋をするのです。このバンパイアと人間の恋というのは古くからある話形ですが、トワイライトがここ最近では最も有力な作品でしょうか。まだ見たことがないのですが、よく耳にします。

-通常の話形と珍しい話形-
この物語は異種族の恋愛を描いて、そこから出てくる成立しえない悲しさというようなものを描いたものだろうと考えていたのですが、どうやらそうではありませんでした。よくある話形、とくにトワイライトなどでは、ヴァンパイアと人間というのは共存できないというのが前提であります。トワイライトの話形でいけば、ヴァンパイアに恋をしてしまうのですが、人間の体ではその恋愛が成立しないということで、一種の悲しさと不条理を描こうというのが狙いですね。もし成立したとしても、ヴァンパイアの子を産むとなると体が耐えられない。さあどうしましょうということになるのだと思います。
結局こうした異種族同士の恋愛はどちらか、或いは両方が、所属している社会からの追放を食らうわけです。この点においてはこの作品でも最後に二人で旅に出るのですから合致します。
ただ、それ以外の通常の話形とは異なって、この作品では上のような、種族違いによって発生する乗り越えがたい壁というようなものはあまり描かれません。それが主題ではないのです。そうした点においてもこの作品はいままでのそれとは少し異なった新しい作品とも言えるでしょう。この作品の主題はあくまで他者性なのです。
この作品では殆ど種族による壁は出てきません。というのも、ヴァンパイアである少女が200年も人間の社会のなかで生きてきているためか、大変世渡り上手なのです。上手く溶け込んでいるため、また慣れているため、そんなに問題は生じないのです。冒頭では我慢が出来なかったのか、道端で人を襲って血をすって殺してしまったということがあり、それが不運にも他人に見つかってしまいましたが、そうしたことが主な問題になるだけであって、少年と少女との間にはそれほど問題は生じないのです。

-他者性について-
他者性について考えてみたいと思います。この作品では上で述べたような種族の壁ということではなくて、もっと人間的な部分、心理的な部分に焦点が当てられています。というのはこの作品はオスカーという少年が主人公となるのですが、彼はオカルト好きな少年で、クラスの悪がきからいじめを受けています。
まあ、一般的にこの少年はクラスでは浮いている少年です。いじめをする側というのは、こうした集団に合わない、ある意味で突出している存在というのを狙います。その突出の仕方はさまざまですが、例えば帰国子女であったり、転校生であったり、親が貧しかったり、このようなちょっと変わった子であったりするわけです。いじめというのはそれ自体が悪いことではなく、それをエスカレートさせることがいけないのだと私は思います。私自身いじめを受けたことがありますからよく考えるところですが、しかし、いじめというのは起こることなのです。それが軽いところであれば、仲間はずれです。これはしかし悪いことではありません。人間の生得的なものなのです。何か異質なものへの恐怖というのは常にあります。ちょっと変わった人というのは誰でも少しは自分から遠ざけたいもの。そうして人間というのは弱い生き物ですから味方、仲間が欲しい。その仲間を得るために、或いはより結束を強めるために、それぞればらばらだった集団から一人を外へ放りだすことによって、集団の目的が出て、まとまることが出来るのです。
ただ、その必然性も行き過ぎるとこれはよろしくない。オスカーは今の日本であれば通報すればいじめていた少年が逮捕されるくらいのいじめを行っているのです。
それを見ていたヴァンパイアの少女は、どおしてやり返さないのかと問います。これが面白い構成です。ヴァンパイアの少女が人間のいじめられている少年を励ましているのです。しかも、大抵の場合はこのいじめられている少年はなんやかやといって、自分では変わることがないのが定石ですが、この作品ではオスカー少年は自分から変わろうという意思が明確にあるのです。
オスカー少年は絵に描いたような真っ白な肌をしています。これは大変美しいと誰もが思うほどなのですが、そこにはもろく壊れてしまいそうな性質も含まれているのです。ただ、このヴァンパイアの少女の励ましによって、自らを律し、トレーニングを行って、反抗を試みます。
見事その試みは成功するのですが、作品の最後で、ラスボス的な存在、いじめっ子の兄が登場します。当然学年も中学生か高校生くらいですから敵うわけがありません。殆ど殺人もので、水のなかにオスカー少年を沈めてしまします。そこに登場するのがヴァンパイアの少女エリなのです。まあいくらいじめっ子がいけないからといって、何も食べちゃうことはないと思うのですが、一見すると大変衝撃的なエンディングですが、しかし、そこに救いがあるように思われるのです。

-終わりに-
こうして考えてみると、コミュニティーや他者性といったものを、ヴァンパイアという人間でないものを描くことによって、際立たせて描いているということが分ります。だからこの作品は珍しい構成でありながら、作品が成功しているのです。大抵人間性について深く洞察されている作品は成功しているのではないかと私は感じています。この作品もその一つであるといっても良いでしょう。
また、少し道徳的ではありますが勧善懲悪がテーマとなっている点も面白い。ヴァンパイアが悪者として描かれ、最後には退治されてしまうという話形は多々ありますが、この作品ではヴァンパイアが悪がきを退治するということになります。

作品全体として、オスカー少年とエリ少女の対比、コントラストが明確で美しいです。これもまた通常とは反対の構成ですが、オスカー少年が純白の美しさ、純潔さといったものがあります。いわゆる神聖さ。それに対してエリ少女は髪も黒く、どこかユダヤ系の少女が配役されています。白と黒が映像のなかで見事なコントラストを描いていて、エリが食べてしまった後の血みどろの姿なんかは、ちょっぴりグロテスクなのですが、どこか滑稽味があるのです。

全体的に詩的な美しさがあって、すばらしい作品だと思います。もう少し評価されても良いとは思いますが、大衆受けは難しいのかも知れません。ヴァンパイアが人を食べてしまうということはまぎれもなく描かれているのですから、これは大衆化しにくいでしょうね。ただ個人的には珍しい構成をしていて新しい感じがし、それが見事に成功していると感じています。夏の熱い夜に是非どうぞ。

渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」への試論 感想とレビュー 言葉の力 強く生きる

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-はじめに-
こういう作品は、論じるのが非常に難しいものです。詩であれば、詩を論じるための知識技術を当てはめればいいので、そこまで難しくありませんが、これは芸術作品といったものではなく、言葉。人に語りかける言葉なので、良し悪しなんてないのです。道徳のように、絶対的な価値がない。この言葉は人によっていくらでもかわるものなのです。
ですから、今回は、私が心に沁みたものを2つ紹介しようと思います。
その前に、こうした言葉の集まり。格言集のようなものを昨年いくつか読んだのですが、これを読んでも考えることは、皆にかよったことを言っているのだなと感じたことでした。
ゲーテの格言集、ニーチェの格言集、ブッダの格言集、菜根譚、それぞれ同じことをいっています。この「置かれた場所で咲きなさい」も言葉、表現は違うものの、何か本質的な部分でが共通するところが大変多いように感じられました。
そうすると、結局、人間が人間らしく生きていくところには、何かしら普遍的なものがあるのではないかと感じられてしょうがありません。実に相対的で定まった価値のないようなあやふやな世界が、我々が今住んでいるこの世界ですが、それでも心の持ちよう、考え方、身のなし方、これらにはある程度、数百年の流れでは変わらないようなものがあると気がついたのです。

私がこの本を読んでいるときに、何を読んでいるのかと尋ねた友人が居ましたので、「置かれた場所で咲きなさい」という本だと答えると、「要するに妥協しろってことだよね」と即断しました。しかし、妥協という言葉には、どこか仕方がない、諦め、諦念のような感覚があります。ですからそれはやはり違うのではないかと思うのです。
どの格言集もそうですが、ここにも、消極的になれなんてどこにも書いていないのです。現実をきちんと見て、それを認めた上で、きちんと生きる。強く生きるというバイタリティー溢れた言葉が詰まっているのです。だから、妥協ではありません。置かれた場所で咲くということは、現実から逃避せずにきちんと現状を見極め、それを認めること。そうして認めたうえでそこで出来る限りのことをして、自分という花を咲かせることなのです。
なかなか、現実には自分のことを認めることができないことがあります。どうして自分が、何故自分が。いつもいつも誰もが思うことなのです。恐らく、今まで読んできた格言家たちは、この認めることが出来た数少ない人間なのではないでしょうか。現実をきちんと受け止めることが出来た。それだけの心の余裕があったといえるかもしれません。それだけの余裕を作り出すだけの心の鍛錬を怠らなかったのです。

-ほほえみが相手の心を癒す-
シスターはこの短い説話の中である詩を紹介しています。「もしあなたが 誰かに期待した ほほえみが得られなかったなら 不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけて ごらんなさい ほほえみを忘れた人ほど それを必要とする人は いないのだから」
この詩とであってシスターは変わったといっています。「もう一つの発見は、自分自身との戦いの末に身についたほほえみには、他人の心を癒す力があるということです。とってつけたような笑顔でもなく、職業的スマイルでもなく、苦しみという土壌に咲いたほほえみは、お金を払う必要のないものながら、ほほえまれた相手にとっては大きな価値を持つのです。ほほえまれた相手を豊かにしながら、本人は何も失うどころか、心豊かになります。
不機嫌は立派な環境破壊だということを、忘れないでいましょう。私たちは時に、顔から、口から、態度から、ダイオキシンを出していないでしょうか。これらは大気を汚染し、環境を汚し、人の心をむしばむのです。笑顔で生きるということは立派なエコなのです。」
これを読んだとき、私はひどく心打たれました。私は人から不機嫌なのかと言われるほどしかめっ面をしていることが多い人間なのです。ほほえみなさいということだけでは恐らくあ、そうか程度で通りすぎていたでしょう。しかし、シスターは不機嫌そうな態度自体が他人に悪影響を及ぼすのだということを指摘しています。確かに、他人が不機嫌そうな顔、いやそうな顔をするとこちらも嫌な気持ちになりますね。不機嫌になってしまうことは仕方のないことです。人間ですからね。でもそこからもう一歩上を目指して、不機嫌を隠すことによって、不機嫌を他人に広めない努力。これを続ければ、いつかは他人の不機嫌さえもさらりと流せてしまえるような心持になるのではないでしょうか。

-2%の余地-
ここでシスターは人と人がわかりあうことは不可能だということを言っています。これは確かに実感することであります。私の専門は文学ですが、文学とは結局のところ、他人を完全に100パーセント理解することが出来ないから、それでもなんとか理解しようという飽くなき戦いなのです。文学を通じて人を理解することについて、私の師である高田知波教授は言っています。人を理解するということは、結局自分の中で作り出した他人の像を理解するに過ぎない。だから理解できてはいないのだと。そうして理解したつもりでいるからそこに誤差が生じ、上手く行かなくなると。
シスターは学生に対して「人間は決して完全にわかり合えない。だから、どれほど相手を信頼していても100%信頼しちゃだめよ、98%にしなさい。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておきなさいといっています」「人間は不完全なものです。それなのに100%信頼するから、許せなくなる。100%の信頼した出会いはかえって壊れやすいものと思います。「あなたは私を信頼してくれているけれども、私は神さまじゃないから間違う余地があることを忘れないでね」ということと、「私もあたなとほかの人よりもずっと信頼するけど、あなたは神さまじゃないと私は知っているから、間違ってもいいのよ」ということ・・・・・・。そういう「ゆとり」が、その2%にあるような気がします。」「信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく」
完璧主義者、完全主義者の私には耳が痛くなる話です。この程度のことも出来ないのかと相手を罵倒するとき、その前には、相手はこの程度の仕事ならば出来るだろうという私の勝手な予測と、信頼があるのです。そうしてそれが破られたときには、こんなにお前のことを思っていたのに裏切られたよといった思いが生じる。だから、他人への100パーセントの信頼というのは他人にとってだけでなく、自分にとっても悪いものなのです。100%の信頼関係が結べるのはきっと神なのだと思います。
決して他人を信頼するなということではありません。信頼しても、最後の2%だけは自分のために、相手の為に余地を持っておく。その余白のあることが、現在必要なことなのではないでしょうか。

-終わりに-
他にも、いくつも心癒されるような言葉がありました。すべて紹介すると本を買う必要がなくなってしまうので、そんなことは出来ませんが、平易で、読みやすい本です。普段本を読まないひとでもこれならというものですから、どうか色々な人に勧めてみてください。
シスターの生い立ちを見ると人一倍の苦労をしてきた方だということがわかります。そんなシスターだからこそこの言葉がつむげたわけです。私はまだ若いですから、はっきりいって頭でわかっても実感、体感としてなるほどと理解できることばは多くはありません。老いというものが実際どのようなものなのかも判然としません。具合ばか悪くてどうしようもない体ですが、老いてはいないのです。
ですが、そんな私でも認められたような心地になるのです。もちろん100%ではありません。ですが、ほんの数パーセントだとしても人から認められることは他ならないすばらしいものなのです。

映画『センター・オブ・ジ・アース』への試論 感想とレビュー 傑作の映像化への言及

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-初めに-
(原題: Journey to the Center of the Earth)は、2008年のアメリカ映画。デジタル上映によるフル3D実写映画としては、日本で初めての全国公開作品です。
誰もが知るSF作家のジュールヴェルヌ。彼の作品は多くの人々に影響を与え、彼の描く世界観に飲み込まれてしまう人も多いのではないでしょうか。ディズニーでは彼の作品をいくつも映像化しており、海底二万里などはその代表といえるでしょう。デズニーランドのアトラクションとしても有名なセンターオブジアース。原題ではJourney toがついていますから、地中への旅とでも訳したいところですが、日本では専らカタカナ文化が発達してしまっていて、Center of the Earthをそのままセンター・オブ・ジ・アースと訳してしまっているため、上手く訳せないということが発生しています。カタカナというのは大変便利であると同様、考えることを放棄してそのまま日本に取り込んでしまうので、そこから生じるさまざまな弊害があることは確かです。私は翻訳者でも語学に優れているわけでもないので、訳についての言及はここくらいでとどめて置きますが、カタカナで全てを取り込んでしまう前に、一度熟考する必要があると私は考えます。翻訳家という職業があるのですからそうした部分も彼等には対応していただきたいのです。

-メディアが違う作品の映像化-
さて、ストーリー性はあまり言及しても仕方がないでしょうが、この映画の全体の評価はかなり低いものだと私は感じています。というのも、ジューヌヴェルヌの作品をCGの技術を使用して映像化しているのにもかかわらず、余計なストーリーを組み込もうとするのがいけないのではないでしょうか。作中でも言及されていましたが、「ヴェルニアン」といわれるジューヌヴェルヌの書いたものが本当のことだと信じる人、現在で言えばもう少し広義に捉えてファンとしてでも通用するような気がしますが、には共感を得られない作品でしょう。
というのも、この作品を作ったのは紛れもない「ヴェルニアン」の人々でしょう。誰が作りたくて映画化したのかは知りませんが、製作者の中の誰かがジューヌヴェルヌの小説を映像化したいという強烈な衝動を起こしたのです。ですが、その純粋な情動のままであればよかったのを、そこはやはりお金が絡むことですから、売れるようにと勝手な小手入れが為されてしまったのです。これが作品を大変チープな、大衆向けの平易なものにしてしまったと私は感じます。
ジューヌヴェルヌの作品をそのまま映像化していればかなり高評価が得られたのではないでしょうか。しかし、この作品はいわば新訳とか超訳といったもの。飽くまでも現代版でしか過ぎないのです。そこに無理が生じているのです。何故態々現在にしたのかという理由が全く理解不能。そのままでいいじゃないかというのが誰もの考えでしょう。
そうして科学技術が大きく発展してしまった現在とヴェルヌの描く世界が合致するはずがありませんから、当然ちぐはぐとなってしまったというのが現実ではないでしょうか。
作品の中ではヴェルヌの小説は事実だったとして、過去に地底を訪れた人がいたということになっています。この作品の主人公であるトレバー・アンダーソン。それとその兄マックス、その友人でハンナ・アスゲリソンの父、シグビョルン・アスゲリソンは三人ともこのヴェルニアンといって良いでしょう。どこまでもヴェルニアン視点で描かれているのです。だから我々一般の観客には共感できない。この作品はヴェルニアンの中だけで楽しめるように作られた、いわば身内の作品なのです。広大な世界を描きつつも、実はごくごく狭い世界を描いているにすぎない。だから我々はこれを見終わった後に、スケールが大きい映画だと予想していたのに、そうでもなかったなと感じるのです。

-ヴェルニアンについて-
この作品はヴェルニアンによるヴェルニアンのための作品であるということを上で述べました。それは作品の性質からも窺えるのですが、トレバー自身のセリフからも受け取ることが出来ます。この作品のなかで我々と同じ、ヴェルニアンではない人々はショーンとハンナでしょう。彼らはヴェルニアンのことを頭のおかしいひとだと考えています。しかし、なんということはない、あっさりと地底の世界についてしまうと、トレバーはそれみろ本当のことだったろうといった感じで説得してしまうのです。これにはうんざりという感じが起こります。態々ヴェルニアンという考え方を出してきて、それだけでは平等じゃないからということでヴェルニアンでない我々と同じ現代人を出してきたのにも拘わらず、あっさりと改心させてしまう。初めから我々観客を納得させるためのいわばサクラとして登場してきたに過ぎないということがここで露見してしまいます。だから我々はあーあというため息にも似た不快感を得るのです。
だからどこまでいってもヴェルニアンによる作品なのです。そうして現代におけるヴェルニアンにとってはこの映画はどう映るのでしょうか。作品に対する全ての人間は、それぞれ異なった感情を受けるます。これは一般論を述べていますが、作品に対するそれぞれの印象は、70億通りあるわけです。ですからヴェルニアンだとしてもこの作品に共感できる人はそれほどいないというのが私の考えです。それよりかは寧ろ、現代版という無理な構図を押し付けたがために、私が愛している作品を汚すなという感情が強まるのではないかと考えられます。

3D作品としてはじめて日本で公開されたということがあり、興行収入はそれほど悪くはありません。世界的に見てもまだまだ全てが3Dという作品は珍しいことでしたから物珍しさがありました。3D製作が念頭にあるため、2Dで見ると、やたらとこちら側に飛んでくるものがあり、それもわざとらしさを感じずにはいられません。ここに3Dと2Dとの難しさがあるのですが、やはり何事もわざとらしさはいけない。技(業)というのは隠してこそ成り立つものであり、それがバレバレでは意味がありません。いくら3D製作だからといって、何でもかんでも手前に迫ってくるようなことはしなくて良いはずなのです。そうして点においても残念な部分は多々あります。
ただ、一つ評価できるのはCGを効果的に使用したために、幻想的な世界観が描けていることです。ラッセンの絵画のようなグラデーションがこの作品の質を何とか保っているという感じがしないではないですが。
ストーリー性も大変チープ。本来小手先だけのストーリーと付けられたということもあって、兄を亡くしトレバーと、父を亡くしたショーンの男としての成長を描いたつもりでしょうが、全く成功しているとはいえません。冒険を描くのか、成長を描くのか、それは二時間の中にはとても納まりきらないテーマですから、無理に何かを付随させようとすると自然とボロが出てきます。

-終わりに-
せめて三角関係を作って、女性の為に仲間をこのまま見殺しにするか助けるかとかいうようなことを描いてもよかったのではないかと私は感じていますが、それを描くにしてもやはり冒険が主流であれば、邪魔にならざるを得ないかとも思います。
とにかく現代版にするのであれば、もっと根幹からの変化が必要であり、この作品は実に中途半端というのが分析した結果得られた答えでしょう。ヴェルヌの作品を描くならば、できるだけそれに忠実に、違うものを描くなら、下敷きとしつつも違うものを描くのだという気持ちで作らないと作品は成立しません。これでは単にヴェルヌのファンが自己満足のために作成したとしか言いようがないのです。
トレバー・アンダーソン:ブレンダン・フレイザー
ショーン・アンダーソン:ジョシュ・ハッチャーソン
ハンナ・アスゲリソン:アニタ・ブリエム

池澤夏樹「氷山の南」への試論 感想とレビュー 人間の外向性と内向性について考える

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-はじめに-
あまりに分厚すぎて、たぶん多くの人が平積みになっていても手を伸ばさないのではないでしょうか。私も読み終えるのに少し時間がかかりました。しかし、かなり読みやすい本です。そこには、池澤夏樹の美しい文体があるからなのです。
私も小さな作家としていくらか文章を書きますが、まあ自分で読んでみても読みにくい。たぶん今書いているこの文章も非常にわかりにくいものでしょう。身に染み付いてしまっているものなのでなかなか直せないのですがね。
文体で言えば、大江健三郎は大変読みにくい文章を書きますよね。私はどちらかというとこちらの部類みたいです。
対して、池澤夏樹は元々詩から始めたということもあって、非常にわかりやすく、美しい文章を書きます。読んでいて綺麗な文章だなとずっと思っていました。
さて、この作品ですが、大長編です。話はそう遠くない未来、2016年が舞台。設定はスケールが大きい。水不足に困る人間の為に、南極の氷山をオーストラリアに持ってきて、そこで溶かすことによって発生した水を供給しようというもの。この話はジンカイザワという青年が、そのプロジェクトを行う船に乗り込み、その終末までを描いた作品です。

-宗教観-
この作品を語るに置いて絶対にはずせないことに宗教観があります。このプロジェクトを行っているシンディバードという船ですが、そこで働く人々は実に多国籍。主人公、語り手ともなるジンカイザワですが、漢字で表記すると、貝沢仁。日本人ですが、アイヌ人です。彼は日本人としてのアイデンティティーを獲得するのか、アイヌ人としてのアイデンティティーを獲得するのかと悩み続けている青年なのです。結論は私たちには教えられませんが、彼は確かに冒険の最後の神秘的な体験によって何かを見つけ、確信するのです。

アイシストと呼ばれる集団が出てきます。この集団は小説を読んでいく上で重要になってくるのですが、この思想に共感する人間は結構多いみたいですね。アイシストというのは池澤夏樹が考え出したものですから、実在するわけではありません。ネットで検索してみると、多くこのアイシストたちの考え方に賛同している人がいることがわかります。
このアイシスト、自身でも宗教じゃないといっているように、どちらかというと仏教に近いものです。神がいるわけでもなく、ただ自分の精神を見つめて改善していこうとする哲学的な思想の実行とでもいうのでしょうか。
彼等は陰陽でいったならば陰を好み、静動で言えば、静を好むのです。氷のように物体が静止した状態がすばらしいものと考えるとても消極的な思想の持ち主なのです。彼らの主張は、自然を苦しめてまで人間が生き残るのは傲慢ではないかというもの。自然を壊してきたのは人間で、その結果水が不足したのに、さらに南極の氷までをもひっぱってくるというようなことまでしていいのか。経済があまりにも熱し過ぎられていて、流動的すぎる。そのけっかがこういう状態を引き起こしたのではないか。別に経済活動を止めろというのではない。ただ、加熱しすぎているからそれを冷まして冷静になろう。自然を壊さないように生きようという考えなのです。
なるほど、いっていることもわかりますし、この小説でほアイシストが何人か出てきますし、ジンの恋人となるアイリーンという女性もまたこの考えに似ている思考を持っています。確かに、その通りだと感じるひともいるでしょう。この小説はしかし、それがいいからそうしようということにはならないところがすばらしいのです。もし最終的にジンがそのように判断したならば、この小説は大変つまらない道徳的な教義を教えるだけのものになってしまいました。ところが、この小説はとにかく多くの考え方を出す、出すだけ出してさあ君はどうするということを問うているのです。そこがすばらしい。

このプロジェクトの企画者でもあり、資本家でもある族長と呼ばれるアラブ人は、もちろんムスリム。何でもアブダビやドバイを拠点としているようで、私はアブダビに四年間住んでいたことがありますから、妙な親近感を持ってしまいました。
この船の名前もシンドバットからとったシンディバードですし、働いている人間にもムスリムは多いのです。アッラーの神をたたえるムスリムは、この小説では一神教としての敬虔な人間たちを描き出しています。

ジンの友人となるオーストラリアのアボリジニのジムも彼等の特別な世界を持っています。この小説を書くにあたって池澤夏樹は、参考文献としてアボリジニについての本をいくつか読んでいるようですが、よく勉強されていて、上手く小説に取り込めています。彼らの神や、彼らがいかにして成人になるのか、彼等のカントリーという独特の世界観、空間、これらが、小説が進むごとに上手くまとまってくるのです。このジムもアボリジニとしてのアイデンティティーと都会化してしまった町で住む少年としてのアイデンティティーとの間で揺れ動くのです。

とにもかくにも、多くの宗教観、思想が詰め込まれている作品です。ただ、新聞社によるこの本の書評では子どもに読ませたいというようなことが書かれていましたが、私はそうは思いません。こんなに複雑な思考をする18歳の少年はいません。しかも相当能動的。今現在どこかの船に密航するティーエイジャーがいますかね。やはり、ここには無理が生じると思います。『15少年漂流記』『宝島』がかつての青少年たちの冒険譚としての古典であれば、現代ではもう通用しなくなってきているのです。その流れにこの『氷山の南』もあります。だから現代の青少年が読んでもわからないのです。どうしてこんなに能動的に動かなくてはいけないのか当惑するのだと思います。


-宇宙観-
まあ、現代の青少年が読んでも仕方がないというのが私の考えですが、今能動的になれって大人が言ったってどうしようもないわけでですよ。実際能動的に動ける余地がないのですから。経済は停滞しっぱなし、親は働けど働けど暮らし豊かにならず。暗いですよね。子どもの数も少なくなってきています。今、一人の青年が冒険しようものならば、すぐに警察に捕まって家に送り返されるのがおち。つまらない世の中になりました。冒険はもう世界から消えてしまったのです。全てが機械によって管理されているため、まったく人間が遊ぶ余地がない。国を越えるためだけに一体どれだけの手続きが必要なのですか、そんなめんどくさい世の中で冒険なんて出来るはずがないし、しようとも思いません。

現実がどうこういってもしょうがないので作品に戻ります。私が驚いたのはなんといってもやはり冒険も終末に近づいた宇宙の場面。ジムとジンは出来るだけアボリジニの因習に従って成人しようとします。彼らはこのたびを通じて、自分たちはもう一段階大きくならなければならないと感じたのでしょう。これは文化人類学の分野になると思いますが、私は日本の成人式というものはとてもよいものだと思います。年齢が18と20という二つバラバラになってしまっている部分が日本にはあるので、そこをなんとか統一しなければならないとは思うのですが、それは置いといて。成人式は20になった人間が大人になったというアイデンティティーを確立するために重要な間なのです。儀式は間です。子どもから大人への間。
このジムとジンもそうした儀式が殆どなくなってしまった世界にいたから子どもともおとなともなりきれないでいたのではないでしょうか。アボリジニの生活はイギリスが植民地化したことによって崩壊しました。アボリジニの因習はすべて取り払われました。だから、アボリジニはいつから大人になったかわからない。それまでの神、大地、自然との交わりが絶たれてしまったのです。
ジンも恋人アイリーンを前にするとどうしても自分が子どもであると感じざるを得ない。確かに7つも違うのですから当然といえば当然ですが、それでもしっくりこない。彼はそもそも、自分の殻を破るために密航したのです。今のままではいけない。何か新しいものに生まれ変わらなければ。そういう感覚が残っていたひとりなのです。

少年たちは断食をします。水もほとんどなし。しかも氷山の上で。そこで彼らは肉体を離れ、一種の精神的なものとして宇宙をさまようのです。ここの描写にはともかく驚かされました。とても映像的なのです。まるでSF映画の世界ですが、それでも美しすぎる世界。これはこれまでの積み重ねがあったからこそ感じられた世界なのです。つまり、ジムやジンとともに、読者も成長してきたからやっとここで宇宙に旅立つことが出来るのです。
この場面はこの上なく感動しました。

-終わりに-
冒険譚として描かれていますが、どうしてもワクワクできないというのがこの作品の現状です。私たちが感情移入できないのです。それは単に多くの思想的なものを詰め込みすぎてしまったということも一つあるでしょう。
また、現在の状況とあまりにもかけ離れた世界であるということ。実感、体感ができないのです。その点で言えばこの作品は、青少年には向かない本だといえます。
ただ、描かれていることはかなり普遍的な問題が多く、そのぶん重い内容が詰まっています。これは私はすごいことだと考えられます。最近のライトノベルのような内容のないものとは売ってかわって、噛めば噛むほど味が出てくるような本です。先ほども述べましたが、多くの価値観があり、それの提示が繰り返されています。
我々は考えなくてはいけません。自分で考えなければいけないのです。冒頭でジンが氷山をみて解釈できないといっています。これはこの作品に相対したときに私たちが言えることでもあり、これだけ多くの多用な価値観が現れて、一体何をどうしたらいいのか解釈など出来ないのです。してもいけないのです。これがいいとかあれがいいとかそうしたものは一切排除されるべきなのです。
無から考える。そうして作り出す。この冒険はそれをジンと共に行うものでもあります。
もう少しひきつけるものがあるとより面白みが増すでしょう。

偏屈文化人より残暑お見舞い申し挙げます

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毎日暑い日が続きます。ブログを訪問してくださる方々いかがお過ごしでしょうか。
今回は閲覧者が通算で2万人を突破したことのお祝いです。
あるときは榎本教授の授業で紹介され、あるときは本のレビューを書いたら靖子さんという作家さん本人から連絡が来たりと、ブログをはじめたことによって大変貴重な経験を得ることが出来ました。
私がこの解釈活動を行っている理由は以前から何度か申しているように、ブログが最終的な目的ではありません。日々作品と接し、そこで感じたこと、どうしてそう感じたのかを理解する、そうしてそれを文章化するということを通じて、更なる自己の鍛錬を行うのが目的なのです。音楽評論家の吉田秀和氏はあの名文を書くために相撲を実況中継するようにひたすら文章を書くことによって鍛錬しました。私もこの解釈と文章を書くことによって、自分に磨きをかけたいとおもっているのです。
そうしていつの日か自分の作品を出版したいと考えています。このブログはいわばそうした作品を制作するにあたいする能力を育成するための習作ということになるでしょう。ですが、せっかくそれなりの形になったものですから人様に見てもらい、何らかの影響を及ぼすことが出来るのなら願ったり叶ったりです。フィードバックすることによって自分にも良い刺激となります。
継続は力なりですが、力はまた継続なりとも私はおもうのです。

初めは一万人に到達することすら恐れ多い願いだったのですが、開設一年を待たずして通算二万人の方々が閲覧してくださったことを心より感謝いたします。皆さんの貴重な時間を少しでも割いてくれたことに感謝しつつ、その時間が有意義なものであるように、さらに鍛錬する所存です。
熱いのでくれぐれもお体にはご自愛ください。
石野幽玄

アニメ映画「スカイ・クロラ」への試論 感想とレビュー 若者の時間性について考える

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-初めに-
以前から見たいと思っていた作品、「スカイ・クロラ」。すばらしい作品であると感嘆し、全くけちの付け所のない奥行きの深いものだと感じました。原作は森博嗣の小説『スカイ・クロラ』を初めとする小説シリーズで、映画化当時は『ナ・バ・テア』と『スカイ・クロラ』の二巻までが出ていたとのこと。製作の過程の話を読んでみると、鬼才押井守が一度オファーを断ったとか、すごい話が満載です。
そうした製作の過程を細かく見ていくと、アニメ論としては大変充実したものになると思うのですが、それは私はには出来ないことなので、他の人に譲ります。私はあくまでも物語論としての視点から作品を切り開いていきます。
戦闘機などを研究していっても面白そうですね。ミリタリーオタクにしてみれば、欠かせない作品になるのではないでしょうか、現に私の戦闘機が好きな友人は何度も見直したとか言っていました。

-輪廻観-
この作品は監督が「若い人に、生きることの意味を伝えたい」といっているように、生を扱った重厚な作品です。生を取り扱うということは必然死が出てきます。生死観が非常に強い作品なのですね。その生死観ですが、ここでは仏教的な考え、輪廻観があるのだと私は気がつきました。何度も何度も繰り返される世界、そのなかで命がめぐりめぐる。しかし、ここで一つ新しい話形として、作品世界の全てが輪廻ではないのです。輪廻はキルドレの世界ですが、一方で大人の世界がこの作品には同時平行しています。そちらの世界は輪廻ではないのです。
この話はその大人の世界に憧れる少年少女たちのはなしといっても良いでしょう。輪廻の世界においては確かに人生は長いもので、老いることがないのですから人間の永遠の望みである不死を手に入れているのです。ところがいざそれを手に入れると、望んでもいないのにその不死を手に入れるとどうなるのか、ということの予想でもあるのです。彼らはその際限のない人生において、自己を喪失し、一体何のために生きているのかわからなくなってしまいます。ですからキルドレの多くはその不安に負けてしまわないように、忘却のかなたへと全てを追いやるのです。それが彼等がただぼんやりとした夢を見ているような感覚の中でいき続け、自分をきちんと見つめるだけの材料を失わせてしまっているのです。
もしそれに気がついてしまうとどうなるかというと、『クリタ・ジンロウ』になってしまうのです。彼は名前のみの登場で、確信性はあまり高くないですが、恐らくクサナギ・スイトによって殺されたのでしょう。永遠を止めるために已む無く自分の恋人に自分を殺させたのでしょう。それが輪廻から解き放たれることなのです。解脱といってもいいかも知れません。
その不安をまだはっきりとはわかっていなくても、それに気がつき、考え始めたのが三ツ矢 碧です。彼女は自分の存在に気がつき、その考えを函南 優一に言うことで、作中でもっとも重要な局面を迎えることになります。
もう一度輪廻から解放してみようとして、上官の草薙 水素をうとうとするのです。そこでどたばたがありますが、彼女は自分から命を絶とうとして輪廻からの脱出を試みようとします。それを優一は止めるのです。彼は彼女に生きて世界を変えろといいます。
その彼はその後すぐにティーチャによって殺されてしまいます。彼は何度も同じ道、輪廻の世界でいきてなにが悪いのだろうか、毎回同じ道を通るがそのときに見える風景はそれぞれ違う。その差でいいじゃないかと考え始めていたところなのです。結局それではだめだということが発覚しますが、優一が水素に与えた影響は計り知れなかったのです。それが結末での水素の言動に繋がっています。エンディングの後の水素は世界が変わったことを伝えているのです。

-時間性-
以前から思春期の少女の時間性について何度か述べてきました。それらは朝井リョウの『少女は卒業しない』や、『時をかける少女』のシリーズにおいて深く言及が為されています。少女は不思議な時間感覚を持っているということは、そのため理解していました。ところがここで新しく青年にも特別な時間性があることが発見されたのです。
実に特殊な場合ですが、青年からは老いることがなく、永遠の命を約束されると少年にもそのような時間感覚がはっきりと現れるのです。ただ、一旦目を離して考えると、この作品を作っているのは人間ですから、人間が知らないことは描けないわけで、現実世界にも少なからず、この少年の不思議な時間性はあるということが判明します。私はそのようなものは持ち合わせていませんが、過去の記憶がかなりなくなってしまうという点にのみは共感できるところがあります。たまに同級生とあって過去の話なんかをすると、相手が覚えていても自分は全くそのことについて知らないというようなことは誰にもあることだと思います。
そうした部分がこの作品を生み出す根源となったのではないかと考えているのですが、青年も不思議な時間感覚をもっているということの発見は極めて重要です。
このようにして考えると、不安のなかでいきている若者に対して何らかのメッセイージがあることが分ります。公開されたのが2008年、原作は2004年ですから00年代の作品です。2000年になったら何かしら時代は変化するのではないかという期待が皆にあり、それが悉く打ち砕かれてしまった時代と考えることも出来るでしょう。期待が消滅したことによって、その後には不安感や苛立ちが残ったのです。自ら人生に失望し命を絶つ人も多いこの現実で、そのことに対して深い言及を為した作品だといえるのではないでしょうか。
作品は最後に輪廻から何かしら新しい世界が切り開けたということを言って終えます。ですからこの作品の世界の人間は何らかの形ですくわれたのです。カタルシスがある。それを私たちは観客としてですが、享受することが出来る。
作品の構造において、我々が共感しやすくなっているのは、一人称の物語だからです。この世界とはほんの少し違った世界、かなり近い位置にある同時世界の中で、「僕」という一人称の主人公による語りがこの作品の根底です。一応優一という名前がついているものの、彼によって世界は見られ、感じられるのです。私たちは彼に感情移入が出来、その世界を共に享受します。

-終わりに-
この作品の全体の印象は美しいということです。戦争を描き、グロテスクな描写は少ないとは言え、ないわけではない。人間の生と死という壮大なテーマを描いているのに、すがすがしさが描けていることは大変珍しいことです。何の作品で同じことを述べたのか忘れてしまいましたが、ここには感覚的な余韻があるのです。例えば戦闘機のシーン。かなり長い時間を割いて、何もない、ただ空を飛んでいる場面がかなり多く挿入されています。ここに空間的にも、心理的にも大きな余白が出来ます。だから大変重要で、重いテーマを描いているのに、全く行き詰まった感じがしないのです。むしろこれらを描いてでさえこれだけのすがすがしさを感じられるのです。
これはえてして狙って獲得できるものではありません。それらを初めから狙っているのが現代の日本映画ですが、これは描くものをきちんと描いているために、これらの余白が無駄なものになるどころか、相乗効果でより作品を上質なものへと変化させているのです。
見事な作品といって良いでしょう。もっと評価されても良い作品です。これは他のアニメーション会社では不可能なものですし、まして実写では役者の影響が濃すぎて成立しない作品です。非常に繊細なガラス細工のような作品ですから、それを完成させたということは驚異だとしか思えません。

二条城展 感想とレビュー 徳川家に愛された芸術

-初めに-
先日二条城展に行ってきました。江戸東京博物館へは小学校の頃社会化見学で行った以来でしたから十何年ぶりですか、あの広い空中へ浮かんでいるような広場に出たときの懐かしさは大変心地よいものでした。
さて、電車の中の電光掲示板(なんていうのですかね、CMやっているやつ)ではなかなか粋な宣伝をやっています。どうして二条城へいかないのかという質問に対し、それぞれの将軍が言いそうなことをアンケート結果として提示しているもの。節約のためとか、遠いからとか、めんどくさいからとか、果てには興味がないというのもあったように記憶しています。
こちらは大変すいていて、これで大丈夫なのかしらと感じるほどですが、そのぶんゆったりと見学できる展示会となっています。

-作品内容-
二条城というと、日本史をとっていないと知りもしないという若者が増えているのではないでしょうか。徳川家康が作り、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行ったことで有名な城です。京都に建造された二条城は、京の江戸と呼ばれるほどで、京都においての徳川家そのものを象徴する重要な建造物となりました。
歴史はあまり詳しくないのでこのくらいにしておきますが、二条城が東京へきたからといって、それに興味をもって態々足を運ぶ人間がそう多くいるかといわれると、そうでもないように感じられて残念です。日本史が好きな人しか行かないというのが現状であろうと思いますし、来場客の足はなかなか増えないのではないかと私は懸念しています。ここに展示会の内容によって、来場客の性質が異なったりする難しい部分があるのでしょう。
実際、私は日本史は受験で使用しましたがそこまで好きだというわけでもなく、単に美術愛好家として狩野派の障壁画が見れるからという理由で行ったのです。ですがこれは二条城展ですから、障壁画ももちろんきていますが、それ以外にも城に使用されている瓦であったり、金具など、或いは彫像品などが展示されていました。そうした面で見ても、やはり美術好きという人間に対しても完全に満足させられる展示会ではないので、私は少しく無念な印象を持っています。日本史好きにはたまらないのでしょうが。

狩野派の困ったところは、その時代の権力者たちに癒着して製作をしているということです。もちろんそれら権力者にパトロンとなってもらって保護してもらわなければ、美術者一団が食っていけるほど楽な時代ではないことは確かです。しかし、そのため、興亡の多い権力社会においては、せっかくつくった作品がその勢力ごと駆逐されてしまうことがあるのです。織田にしても、豊臣にしても、それらの城には現存していれば国宝級の宝の山があったことでしょう。それがしかし、燃されてしまったのです。幸いなことに徳川家はその終末においても武力を用いて駆逐されるということはなく、二条城の宝物は何とか生き残りました。
ですが、これらの美術作品は元々美術のための美術ではなく、実用的美術作品なのです。そこには常に使用されるという意識が働いています。ですから製作者の内情をあらわにして製作するという西洋的な感じがない。しかも実際しようされていたのですから、数百年という歳月を食えば作品の状態も多少の悪化は避けられないことなのです。
数々の障壁画がありましたが、保存状態が良いとはいえ、ある程度の悪化は見られました。金箔は酸化し、重ねて貼った部分が明確に分るようになってしまい、顔料はところどころがはげ、全体的に色が褪せてしまっています。

『二の丸御殿 遠侍二の間 竹林群虎図』重要文化財 狩野甚之丞筆
当時はまだ動物学があまり日本に伝わっていませんから、しばしば見られることですが、豹は虎のメスだとして描かれています。形も今みれば大変いびつでおかしな格好をしています。それから実用面も考えられて、この虎の絵がある部屋は、来客者を初めに通す部屋だそうで、そこでこの虎を見せてあいてを威嚇しようというのです。色々なことを考えるようで、一つずつ見ていくと面白いのですが、純粋な美を求める美術とはすでに別の世界であるということだけは確かなのです。
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『二の丸御殿 大広間四の間 松鷹図』重要文化財 狩野山楽または探幽筆
山楽だとしても、探幽だとしても両人とも狩野派を代表する最高の絵描きであることには変わりありません。これは今回の展示の広告にも載っているように、最も優れた障壁画です。私がもっとも感動を覚えたのはこの作品で、ダイナミズムが狩野派の持ち味の全てを出し切っているように感じられます。松が左下から右斜め上へとうねりながら登っていく様は大変力強く、凝固したエネルギーを感じられます。しかし凝り固まったものではなく、雲を突き抜けた部分である程度の屈折があり、右で上から下へ降りてくるという構図をとっています。緊張した強力なエネルギーとそれを上手く逃がす術がここにはあるのです。そうして水面が清らかに横を一直線に貫いている。上昇する強力なエネルギーのみだと不安定なのが、これによって見事に平穏を手に入れているのです。そうして最後に目が行く突くのが鷹。ありえないほど足が大きいですが、その分力の象徴である鷹がより偉大で、足のすわった重みが出ます。ぎゅっと体をひねっているのもその力が流動的であることを表しているのです。眼差しは強烈です。
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『本丸御殿 御常御殿一の間 松鶴図』重要文化財 狩野永岳筆
離宮時代と呼ばれる二条城が徳川家から離れてから後の絵です。徳川家から離れた二条城はされど、進化を続けたのです。ですからこれはそんなに古い作品ではありません。色彩も大変鮮やかですし、作品も非常に美しい。
松、鶴という縁起の良いものを描いていますが、松、鷹といった力はそこにはもうありません。どちらかというと平穏な印象が強いです。モチーフは殆どが右に寄せられていて、その分右側に力が集まっている様。それが次第に左へと抜けていき、冷たい海が静寂を湛えています。ふっと息を吐ききったときのような力の逃げ道があり、構図も見事です。
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-終わりに-
図録が展示通りの順番で紹介されていないのが問題です。それから、展示場では、二条城の音を再現するためか、扉が開いたりしまったりするぎっこんばったんという音や、廊下を歩いた時のきいきいといった音がひっきりなしに流れている。何かしらのセンサーに反応して起こるのならまだ良いですが、ずっと流れているのですから、作品に集中できず大変迷惑をしました。
また、作品の数もそんなに多くなく、全体としてはあまり良い印象を受けません。私にとっては残念な展覧会となってしまいました。美術だけが好きな人にはあまりオススメできないのが実際です。
日本史が好きな方にはもちろんオススメしますが、もっと納得のいく展覧会を今後は期待します。

映画「恋はいつもアマンドピンク」への試論 感想とレビュー 80年代作品を考察

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-初めに-
今回はちょっと変わった映画を論じて見ましょう。赤星たみこ原作の同名漫画が原作。その映画化がこの作品。松竹から1988年に公開されました。80年代のアニメ映画を追ってきているうちに、他の80年代の作品も見ておきたくなり、偶々放送していたのを見てみたのです。映画を見ただけで原作がどうであるかはわかりませんが、恐らく面白いのだろうという予感がします。
痛快のコメディ映画としての側面があり、それらはどうして笑えるのかと考えると、人間についての深い洞察があるからなのだろうと私はおもっています。80年代という時代だからこそ現れ出る人間の側面というものを追って行きたいと思います。
ウィキペディアもないので、あまりメジャーではないのでしょうか。

-自己からの脱却-
恋愛がもちろんメーンテーマですが、どこか飄々とした人間への愛着と、それを小ばかにしたような印象があります。人間性といったものを愛していながらも、それを誇張して描いて面白おかしくしている感じ、人間が大好きすぎる製作者自身による照れでもあるのではないでしょうか。
主人公はよくある冴えない女性。その女性が恋に目覚め、その成功を追っていくというありふれた話形です。何が違うかというと、他の物語では全く考えられないような、主人公の取り巻きの状態があまりに異常だということです。自分の父親は自分より若い女と再婚し、家庭内がなんとも大変な状態。通常のこの形の話では、友人たちの熱い応援やサポートがあり、それらが時には失敗を招いたりして大変なのですが最後には意中の人と結ばれるという形です。周りの人間はあくまで主人公の見方であり、たまに悪役が出てくる程度なのです。ところがこの作品では周りに協力してくれる人がいないといっても良い。いないどころか家に帰れば自分より若い義母がまっていて、様々な問題がある。これはその閉鎖された空間からの脱出であると同時に、過去の自分からの脱却でもあるのです。
初めは恋に芽生えたことによって、大変地味で、社内ではオールドミスと悪口を叩かれていた樋口可南子演じる松本よき子が、女性らしく変化していきます。彼女自身もそれが楽しくて仕方がないよう。化粧を覚え、エステに通い、新しく洗練さらた服を買い揃える。言葉通り、全く別人となった外見を手に入れるまでになったのです。
映画ではこれが殆どを占めているように思えます。しかし、実はそれは本当の新しい自分になったということではなかったのです。恋人広野の自分たちのことを友人に話していてしまったことに幻滅し、二人は別れてしまいます。すると今までとは逆戻りで、冒頭の冴えないよき子に戻ってしまうのです。そうして最後には家族にも邪魔者扱いされ、アパートを持つことを決心します。
ここではっと気がつかされたことは、外見をいくら見繕っても人間の本性は変わらないということと、本当に変わるためには、困難を乗り越えて、自分をきちんと見つめた時に、自分によって導き出されるものなのだということなのです。そのような視点でみると、古巣からの飛び立ちを描いている一人の女性の成長を描いた作品としても解釈することが出来ます。

-心の通い-
ただ、面白いのですが、実際にこんな家庭があってたまるかよというのが正直なところ。でもそんなごてごてのフィクションなのにも拘わらず、どうもリアリティーを帯びているのです。自分より若い娘と結婚してしまう父によき子は一体どのような感情を抱いているのでしょうか。物語の中ではそこにはあまり触れられません。最後に自分より若い娘なんかと結婚するからよと非難する場面がありますが、それ以外では父を攻撃することはないのです。
よき子は主人公でありながら、その性格もあいまって一体なにを考えているのかを我々は知ることができないのです。これは最後のシーンまで貫徹されます。広野が再び追いかけてくる場面で映画は終わりますが、彼女は振り返っておしまいですから、やはりここでも彼女が何を考えているのか判然としません。どうも私はこの作品にはよき子の内証を黙殺しているような力が働いているように感じられるのです。それは社会的にもそうですし、家族との間でもそうなのです。一貫して、表面上では彼女と付き合いながらも、こころだけは隔てているという感じがあります。恐らくこの心の隔たりというのは双方向的なものでしょう。初めがどちらからかはわかりませんが、周囲の人間が彼女を煙たがるのと同時に、彼女もまた周囲の人間を煙たがっているのです。こころの交流がない世界なのです。これはもしかしたら80年代の社会性をあらわしているのかも知れません。
そうすると、どうして広野が友人に自分たちの関係のことを少しこぼしたくらいであそこまで立腹するのか謎だったのが、解けてきます。彼女は唯一広野とは心のやりとりが出来たのです。彼がはじめて自分が心を開けた人間だったのですが、しかし、彼は彼女に心を開かず、あろうことかよき子にとってはあっち側の世界である、広野の友人たちと心のやり取りをしていたのです。ですから自分だけが心を開いてしまって、相手側はそれを馬鹿にしているのだと感じるほどにはずかしくなってしまったのです。自尊心の問題でもあるでしょう。

-終わりに-
不思議な世界観だなと恐れ入ります。描かれていることはなんとな分るのですが、どうしてこんな世界になったのかという部分は私たちには知りかねるところです。私たちはもう完成された世界で動く主人公たちしか知りえないのですから、その世界がどうして構築されたのか興味がわくのです。
最後の大喧嘩があってからが描かれていないので、父と義母はその後仲良くやったのでしょうか。非常に突然すぱっとナイフで切られたような唐突な終わり方をされたので、私は大変驚きました。余韻が残るというより裁断されたことのショックのほうが大きいほどです。
相当濃密な世界観が強烈な印象となって残るのですが、よく考えるとミクロコスモスを描いた作品なのです。どうも80年代というのは極端に外界に向かっていくか、極端に内面に向かっていくかの二極が明確にあるようです。それが90年代になると、中間的な規模の作品が多く登場する。そうして00年代ではけいおんに代表されるような、近くの小さな世界が大人気になるのです。そうするとAKBが何故売れるのかが分るのですよね。親近感を覚えられるからです。
映画としては、まあまあの出来、変なのと思いながら楽しむのには十分です。樋口可南子の演技が大変シュールで面白い。

オランダ・フランドル絵画の至宝 マウリッツハイス美術館展 感想とレビュー フェルメール等巨匠たちの絵画に学ぶ

-初めに-
東京都美術館のホームページhttp://www.tobikan.jp/
さて、以前から武井咲さんがCMでフェルメールの真珠の耳飾の少女の衣装をきていることで皆さんもご存知のマウリッツハイス美術館展に行ってきました。フェルメールが生涯で手がけた作品は少なく、現存する作品は30点ほどでしかないということも大変有名なことであります。そのなかでも特に有名な「真珠の耳飾の少女」がくるとあって、会場は人でごった返していました。
上野には普段から足しげくかよっている私ですが、さすがにこれほどの混雑は稀なことです。それほど込み合っていました。
たまたまシルバーデイだというのを知らずに、65歳以上の肩が無料になるためということもあったのかも知れません。他に考えられるのはお盆休みということでしょう。まるでデズニーランドのアトラクションのような待ち時間のオンパレードでした。もしこの記事を読んだ方でまだ行かれていないかたがいれば、平日の午後に行くことをオススメします。会場時間の延長がなされましたから、夕方に滑り込めばまだすいているのではないかと思われます。
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さて、全体の概要ですが、マウリッツハイスとはオランダ語でマウリッツ邸という意味だそう。元々このマウリッツハイツ美術館というのは、ヨーハン・マウリッツ(1604-1679)の邸宅だったそうです。現在でも美術館として機能するほどの建築ですから、どれほどの金持ちかということがうかがい知れます。しかし、そうはいってもやはり個人宅として作られたもの。歴代の当主たちにより厳選された質の高い絵画がそのコレクションですが、一般に公開されてからは空間的な過大が残りました。
それが付近の建物が空き家になったということで、今回マウリッツハイス美術館の大々的なリフォームが始まるそうで、そのためにその珠玉の絵画たちが日本に貸し出されたということなのです。
赤レンガで有名な東京都美術館で展示が行われていますが、約80点にも登る優秀な作品のため、かなり大きな空間を裂いて展示が行われています。地下を通って殆ど東京と美術館の全体をぐるっと一周するような立派な展示です。
ただ、有名な作品がおおく来日しているため、来場客の数も半端ではなく、押し合い圧し合いのなかでの鑑賞となりますのでその覚悟と体力と時間をご用意の上で挑んでください。

-作品の考察-
展示は6つの分野から成り立っています。Ⅰ美術館の歴史、Ⅱ風景画、Ⅲ歴史画、Ⅳ肖像画「トローニー」、Ⅴ静物画、Ⅵ風景画。
どれも比率よく作品が集められていますから、まさしくマウリッツハイツのミニ展示会にきたようです。
Ⅰの美術館の歴史では、上で述べたようなことが学べることと、当主や美術館を描いた作品を見ることができます。私はあまり歴史的なことには興味や知識がないので、このことは他の人に譲りたいと思い、言及はしません。アントーン・フランソワ・ヘイリヘルスの『マウリッツハイスの「レンブラント」の間』という作品は、レンブラントの作品がいくつも展示されている美術館のなかの一室を描いた作品で、とても構造として面白い作品です。この画家は1828-1897の人ですが、その当時からすでにオールドマスター(過去の巨匠たち)への飽くなき羨望と敬意があったことを窺い知れます。メタ絵画とでも呼べばよいのでしょうか。すでにある作品のための作品なのです。この美術館の所蔵作品は、美術館の成立が深く関わっていますが、時代が時代なために、1600年代の作品が主です。1800年代であるこの作品は展示物のなかでは異端です。
殆どすべての作品が1600年代、新しくてやっと1700年を越えたというところですから、いわゆる巨匠時代の絵画しかないのです。ですから印象派もまだ登場していません。ほとんど写実的な絵画ばかりで、芸術が写実へと向けられていたころの作品ですから、素人目にもよくわかる展示となっていることは確かです。
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Ⅱ風景画
これらの絵を見ていると、人は何故絵をかくのかという哲学的な問題がふと頭をかすめます。オランダのハーグ、我々からしてみたら風景画の一場面ですね。でもそこに住んでいる人が風景画を集めているのです。人間はキャンバスのほんの限られた空間のなかにある土地の空気、自然を閉じ込めるのです。そうしてそれを家のなかで楽しむ。そこにいかなくとも、その土地の空気や風景を楽しむことが出来る。記憶の媒体、それも文章や映像とは全くベクトルの異なる、非常に高度な記憶媒体なのです。それは自分を表現するというよりかは、自分の自然とのつながりを意識して描かれたものなのでしょう。
中でも興味を引いたのはパウルス・ポッテル。28歳の若さでなくなったという天才的な画家で、生前に100点近い作品を残しています。彼の持ち味は写実性のなかでも、生命感を閉じ込めることでしょう。動物が生きているように見えるのです。特に牛の表現には圧倒されます。風景としては大して美しい景観ではありませんが、その迫真性にせまった点、それでいて高橋由一のようにバランスにかけるということもない完成されたバランスに感動を覚えました。『牧場の牛』
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もう一つはヤーコブ・ファン・ライスダール『ペントハイム城の眺望』
日本ではあまり有名ではないかも知れませんが、黄金時代の偉大な画家として美術界では欠かせない名前といってよいでしょう。風景画ではその緻密さにいつも驚かされますが、大抵の風景画には近景として何らかの木があることが多いのです。ところがこれはまったく新しい目を持っていることに気がつかされます。いままでのようなアングルとはうってかわって、ローアングルのような感じで城が描かれているのです。近景もあえて描かないことによって、より城に意識が集中され、偉大さが増します。近景がないためか、空間の奥行きが誇張されることなく自然と描かれているように感じられ、光がおくから差してくるためか、爽やかな風が今にも吹いてきそうな現実感を内包しているのです。
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Ⅲ歴史画(物語画)
以前いったエルミタージュ美術館ではこれらに分類されるであろう、数々の神話をモチーフにした作品が多くありました。こんかいの展示では6分の1ですから数量的にいってもそう多くはありません。私の場合ミッション系の学校に通っていたこともあって、人一倍キリスト教の知識はあるのですが、やはり素人となると、クリスチャン人口が1パーセントにも満たない日本では厳しいものがあるのかなと感じます。ほかにもギリシャ神話やローマ神話などに登場する神々がモチーフになって出てきますが、これらが向こうの人にとっての常識となっていても、私たち日本人にはわかりかねるところがある。やはり絵画は言語や文化を越えるといっても、モチーフが固定されてしまうとわからないということが生じるのだと感じました。
ヤン・ブリューゲル(父)、ヘンドリック・ファン・バーレン、『四季の精から贈り物を受け取るケレスと、それを取り巻く果実の花輪』
これはとにかく目を奪われる作品で、そのため多くの来場客が立ち止まって鑑賞するので大変な混雑となっていました。今回の展示作品のなかでは最も美しい作品だと私は感じています。風景画や静物を欠かせたらヤンブリューゲル父子の敵う画家はそういません。そのヤンブリューゲルと人物をバーレンが描いた共同制作です。アントワープには古くから専門分野が異なる画家が共同制作をする伝統があるようです。私も下手な画家の一人として言えば、しかし共同制作ほど厄介なものはないのです。先ずお互いが何を描きたがっているのかも分らないし、その作品はどちらが主体で進めていけばよいのかも決定するのに難儀です。
大巨匠が共同制作する姿を一目見てみたいですね。この作品はともかく精密な描写が目を奪います。ちょっと細かすぎて目がクラクラしてしまうという感じを受ける人もいるでしょう。恐らくそういう感情をもった画家たちが印象派などを開拓していったのだと私は思っているのですが、これは精密、精緻の極限まで突き詰めた作品です。一つ一つみるのに一体何時間かかるのかわからないよほど、細かくしかも沢山描かれています。よく見ると動物も沢山いて、植物も果物だけかと思っていたら野菜も結構ある。
全体が円を描くようにして、しかも上昇するように視点が動くような構図で、実に甘美な!という言葉が丁度当てはまるのではないでしょうか。
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数少ないフェルメールの作品も一つあります。ヨハネス・フェルメール『ディアナとニンフたち』
これは神話を題材にした作品ですからよく私にはわかりかねます。フェルメールにしては珍しい神話を題材とした作品です。何故彼がこうした作品を描いたのかという理由は解説では、17世紀の美術の手引書からわかるのではないかとしてます。かいつまんで説明すると、歴史画はそれ自体が非常に評価され、なぜなら画家が古典神話か聖書を自分でよんで、どこを描くか選択し、どう描くか選択し、慣習的な作法にも心を配らなければならないと、画家に最もおおくの事柄を要求するジャンルだったからだそう。
フェルメールが画家になりたてのころに描かれた作品らしいですが、なるほどそうすると室内の描写で神のごとき扱いを受けるに至った彼も、最初はそういうところから始めたのかとも考えられます。初々しいとでもいうのでしょうか。
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Ⅳ肖像画と「トローニー」
さて、ついに今回の展示会の目玉である「真珠の耳飾の少女」が展示されているスペースにやってきました。近くで見たい方は10分程度待つというアトラクションです。さて、この少女、一体だれがモデルなのかと誰もが疑問に思います。私も知らなかったのですが、「トローニー」と呼ばれるもので、これは特定できないモデルを描くということなのです。だから誰を描いたということに重点が置かれるのではなく、人物の表情や、性格のタイプの表現を探る習作として描かれたものなんだそうです。ですから絵画のジャンルにおいては低級なもの。あまり評価されてこなかったというのが歴史なようです。
フェルメールの画家として円熟期にあたる時期に描かれた作品、発見されたときの状態は大変悪く、世界的な人気が出たのもここ100年のことだそう。どうしてこんなに多くの人々がこの少女に魅了されてしまうのかと考えますと、あの目と口が原因ではないでしょうかと私は感じました。目はうつろ、(空ろ・虚ろ)なのです。無意識の状態からふっとこちらをみて、徐々に意識が登ってくるというまさにその瞬間を捉えたのです。口も半開き。とかく「微妙に」ということは我々人間の様々な感情をくすぐります。宝箱だって微妙に空いていたら見たくなるものです。部屋だってカーテンだって。この微妙な口の開き加減に我々は吸い寄せられ、様々な憶測を始めてしまうのです。だからこの作品は少女が絵のこちら側にまで強く影響を及ぼすだけでなく、引っ張り込む力も持っているのです。
ターバンは当時被られてはいないようです。フェルメールの想像によるもので、東洋的な性質を入れたかったのだろうと考えられています。そこにも何かしら東洋的な神秘が感じられますね。
説明文ではターバンの青がウルトラマリンで高価な絵の具が使われているという説明しかなされていません。何故ウルトラマリンが高いのかというとですね、(一応美術をやる人間として知識を披露したくなります)絵の具の材料に原因があるのです。絵の具はどうやって作るのかという話ですが、大抵は土を溶いたり、鉱石を焼いたりなんかして作られます。このウルトラマリンですが、なんと原料がラピスラズリという鉱石。宝石としても非常に好まれているあの青い鉱石を粉々にして溶いてしまうのです。だから法外に高い。絵の具の中でもっとも高価なものですが、様々な画家が言っているように、その青の美しさには誰もが魅了されてしまうのです。私の愛読書であるサルバトール・ダリの『ダリ私の50の秘宝』でもそのことが言及されています。超高いとダリも驚いています。
ヨハネス・フェルメール『真珠の耳飾の少女』
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Ⅴ静物画
誰もがはっと息を呑んでしまう巨匠時代の画家が描いた最高の静物画が沢山あります。静物画はやはりこの時代の画家が一番上手いということは変えられない事実でしょう。まだ写真もない時代ですから、画家たちの目は今の画家よりも何倍ももしくは何百倍も洗練されていたということは仕方がありません。物事をどうしたら写実的に描けるのかということを人生をかけて追求したのですから、到底写真の技術が発達してしまった私たちでは彼等の領域に踏み込むことは出来ないのです。
本当にそこにあるようなという言葉通りで、手を出したらつかめそうなほど迫真的なのです。
内心は全部の作品に何かしらのコメントをしたいのですが泣く泣く省略します。ヤン・ブリューゲル(父)の『万暦染付の花瓶に生けた花』も秀作です。はかなさをあらわしている作品です。
アーブラハム・ファン・ベイエレン『豪華な食卓』
静物画の専門ということで、その技術は巨匠たちの中でも最も優れているのではないでしょうか。花を描いた作品があればそちらも見たかったのですが、今回来日している作品は食卓の絵。様々な果実は水水しさが四百年近く経った現在でも残っています。氏銀食器の静かさや冷たさといったものが伝わってきて、ガラス製品が食器とあたったときの甲高い音が今にも聞こえてきそう。
静物画のよくもわるくもある点は道徳的なことが込められているということです。私は必要ないのではないかなと思っている人間ですが、この作品では豪華な食卓を描くことによって、節度をわきまえろということが示されているのだそうです。確かにそうしたものに金をふんだんに使っていてはいけないことかも知れませんが、せっかくの美しい美術作品にそうした副次的なものをつけてしまうのは作品の神聖さが失われるようで私は嫌いなのです。
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ピーテル・クラースゾーン『燃えるろうそくのある静物』
私が驚いたのは火がそこに描かれていることです。静物画というのはそう簡単に動くものは描くことはありません。静物なのですからね。今までではシャボンダマのようなはかなさをあらわすものは何度か目にしたことがあったのですが、静物画としてロウソクの火を見たのは初めてでした。
この絵のすばらしさはそのろうそくの火がそこで燃えているように感じられ程現実的であるということです。ほろうそくの火は結構ゆらゆらしたりして不安定な部分がありますよね。そうした不安定さが見事に表現されているのです。ガラスのカップに映った火も美しい。
この静物画も例外ではなく意味が込められているよう。二通りの解釈できるそうですが、彼のほかの作品等も鑑みると、知識のはかなさを描いているようです。本とめがねというのは、知識の永遠がないことを表していると同時に、それらがすたれていくことや、時間が経てば何ら意味のないものになってしまうはかなさなどを表しています。
17世紀に解釈されたもう一つには、肯定的なイメージがあります。暗闇のなかを知識という人間の叡智が照らしているということです。こちらのほうがいいような気もしますが、ピーテルは後年象徴的な意味合いは目立たなくなり、静謐な構図の詩的な性格を強めていったそうです。
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Ⅵ風俗画
芸術的な美しさよりも、日常の風景を描き出すことによって、人間のさまざまな部分を引き出すものです。自然を見ていた画家が、人間も見るようになったということでもあるでしょう。今回展示されている作品では、それらの人間を描くことによって、マイナスの人間性が強調され、道徳的な意味合いが強いものばかりが並んでいました。豪奢な振る舞いをしている人間たちを描き、そういうことはいけないという教えです。
どうしてもそうした人間の欲的なものは日本人の私には好まれないので、そうではない作品を取り扱っておきましょう。
ヤン・ステーン『恋わずらい』
子宮病といわれるいわゆる恋わずらいがテーマです。当時は命にまでかかわる重大な病気と考えられていたようですが、その原因は極端な禁欲。この病気をテーマに多くの喜劇などが生まれました。仮病をして頑固者の父親を説得して恋人と結婚するというものだそうです。ここでは医者は当時でもおかしなくらい古めかしい格好をしているようです。その医者は真剣にこの病に立ち向かっています。ですがそんなことせずとも、右上に描かれたキューピットの像が示すように、恋人と結婚させれば治ることが示唆されています。滑稽味を出した作品なのです。面白いですよね。
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ヘラルド・デル・ボルフ『手紙を書く女』
この情景をみて一体何が想像できるでしょうか。簡単に思いつくことはこの若い女性が恋文を書いているのだろうということです。確かに耳の青いリボンが若々しさを表しているようにも思えますし、絵の中心にきていることから軽くない意味があることがわかります。薄暗がりのなかで、ペン先が紙の上を滑るさらさらといった音が今にも聞こえてきそうなほど静寂につつまれています。
ところが専門家によると、そう考えられることもないが、恋文だと決定付けるものは書かれていないということだそうです。後ろに見えるベッドも必ずしも愛情を表すものではなく、当時はリビングにベッドがあり、寝室という概念がうまれてきたのが17世紀後半だそう。しかも、オランダは識字率が高く、暇さえあればみな手紙を書いていたという習慣があったようで、手紙が上手くかけないひとのために、手本もあり、その手本を参考にして書くこともよしとされていたようです。恋文の綴り方まで指導してあるものもあるとか。読んでみたいですね。
ですからそのように考えると、そう簡単に解釈できるものではないということが分ります。専門家でさえ明確なことをいっていないのです。この女性は一体何を書いているのか、何故書いているのか、こうしたことを考えられるのも芸術作品に向き合ったときの我々の豊かな喜びでもあります。
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-終わりに-
現在東京都美術館では、「東京都美術館ものがたり」展という無料の展示会も同時に行われており、東京都美術館がどのような歴史を辿ってきたのかということがダイジェストで楽しめます。これは無料ですので、是非多くの人に見ていただきたいと思います。その会場から吹き抜けが見えるのですが、「Arts&Life:生きるための家」展も同時開催です。
これは立体をやる人間にはかなりよい刺激となるのではないでしょうか。高校生以下無料ですから、高校生の美術をやる人には是非足を運んで欲しい(学生証を忘れずに)。
大人となってしまった私は有料なのです。ですから吹き抜けからしか見ていなかったのですが、中は建築の模型がいっぱいあるようで、とても気になります。500円以上とられるのはなかなか気が進まなくなってしまうものです。しかも人にもまれてへとへとになった身ですからね。疲れて今日はやめてしましました。
行く際には何度も言いますが、時間を見計らってください。展覧会としては大変充実して、美術とそんなに親しくないひとでも写実的な絵画ですからわかりやすいと思います。せっかくの夏ですから是非行ってみては。

映画「プリティーウーマン」への試論 感想とレビュー さまざまな話形から考察する

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-初めに-
『プリティ・ウーマン』(原題: Pretty Woman)。1990年公開のアメリカ映画。リチャード・ギアとジュリア・ロバーツが主演するロマンティック・コメディ。ロイ・オービソンの『オー・プリティ・ウーマン』が主題歌がとくに有名ですね。
今からもう20年以上も前の作品になってしまいましたが、作品はまだ色褪せていません。見ていて何ともたまらなかったのが、リチャードギアが若くて格好よかったことです。今でも格好いいですが、日本ではなんだか『ハチ』やオレンジーナ?のCMでチープな役回りがおおかったため、かつての栄光が・・・。
大変面白い映画です。何故面白く感じられるのかを分析してみたいと思います。

-社会的地位-
この物語には実におおくの話形が散りばめられていて、それをひとつひとつ取り上げていると大変な労力になってしまいますから、私が出来る範囲のことしか論じません。例を挙げてみると、これから書く他者性と理解の問題と身分違いの恋の話形、シンデレラストーリー、娼婦の問題、人間性について、外見と社会的地位とか様々であります。
それらが渾然一体となっている点、それらを押し付けがましく露呈しない点が我々に道徳的な感情を引き起こさせることなく、作品を楽しめる理由なのだろうと思います。
この作品は実にさりげなくですが、身分についての大変深い問いかけが為されています。主人公たるジュリアロバーツ演じるビビアンは娼婦です。娼婦が主人公になるという作品は多々ありますが、この作品ではいわゆる社会的地位の低い世界はあまり描かれません。冒頭でいくらか描かれましが、汚い部分をこれでもかと見せるような作品ではありません。お上品なのです。
最もこの作品の全体はかなり高い地位にいる世界が舞台です。そのせいもあるでしょう。リチャードギア演じるエドワードは会社の社長ですから、社会的に言えば最上にいる人間です。ホテルも最上階が舞台。
ですから、ビビアンの視点でみればシンデレラストーリーとなるわけです。ところが、シンデレラではこの高い地位に上がった瞬間に全てが上手くゆきますが、このビビアンはあがってからが試練。ホテルの中では彼女が普段着ている身なりでは白い目でみられ、皆に忌み嫌われます。服を買うことにしても、店員がお前にあうものはないから出て行けといいます。これですっかりまいってしまうビビアンですが、エドワードの苦心によりなんとか洗練されるようになるのです。
彼女自身が後半、友人であった娼婦のキット・デ・ルカにもこぼしているように、お金で洗練されただけだといっています。これは心理を突いた言葉だなと私は感じました。結局は社会的地位が高い人間は、自分の経済力によってのみでしか、自分を保つことができないのです。ですから彼らは自分たちの身分が犯されないように、高級なものを使い、高級なホテルに泊まり、社会的地位の高い人間としか交わらず、社会的地位の低い人間に対しては目の敵にするのです。
この作品ではエドワードが一種の無頓着からそうした社会的地位のある人間の性質をもっていません。ですからビビアンとの関係が成立したのです。
こうして考えると、社会的地位が高い人間に対する警鐘とも見て取ることが出来ます。本当にお前たちは偉いのか。どうして偉いのか、人を見下すことが人間に出来るのかということです。

-他者理解性-
この映画でもう一つ見られる重要な事柄は、他者を理解するということです。他人を理解するというのは、結局は自分の中に作り出した相手の理想の像を理解するということに過ぎません。自分のなかに勝手につくったものを理解するのですから、当然本人とはずれが生じます。そのずれがどうしてだ、こんなはずではという不和の元になるのです。
この映画では、人が人を理解することの難しさについて言及されています。社会的に身分が全く違う両人ですから、当然普段の生活や対人関係が全くことなります。そんな二人が、何とかお互いのことを理解しようとする姿に心打たれるのです。
ところが、このエドワードという男、相当理解能力に欠けた男で、過去二度も妻と別れています。彼は父のために、自分の心に強い殻をつくってしまい、そのために他人との深い関係をもつことが出来ないのです。心の交流がないから、相手のこともよくわからない。だから度々出てくるのですが、じれったいほどビビアンの望みがわからないのです。どうしたいのか直接聞かなければならないのです。
一見すると、ビビアンがエドワードのことを一生懸命理解しようと彼に合わせているようにも思えます。事実彼女は献身的に、それはお金の関係がじょじょに崩れてきて、彼に恋をしてしまったビビアンの心情変化にもよるものですが、彼を理解しようと努めています。ですが、最後のくだりを見ると、やはりエドワードもビビアンを理解できたということなのではないでしょうか。彼女のことを理解できないまでは、何を求めているのかわからない。だから別れるほかない。ですが、彼女とわかれてはじめて彼女を理解できたとき、それは心の殻が丁度われたときと同じ時なのですが、彼女の望みを理解でき、ハッピーエンドへと向かうのです。
このように見てみると、この男は相応嫌な男に思われます。過去のことから自分に殻を作って閉じこもり、相手を理解しようとしない。彼の会社は他の会社を買収して解体してしまうことを職にしている。娼婦の女を自分の愛人にする。
それが何故かこの作品では爽やかな風のように描かれています。何故かと考えたのですが、これはリチャードギアの演技力と、彼の持つイメージが原因でしょう。ハンサムで、爽快といったようなイメージを持つリチャードだからこそ成し遂げたことなのです。ですからこれは彼にとっても自分のイメージとマッチした、またこれによってそのイメージが増強されたマスターピースとなった作品ではないでしょうか。完全なフクションで全くリアリティのない話ですが、自然と我々はこの作品を享受できるのです。それは役柄が我々のもつ俳優のイメージと合わさっていたからなのです。

-最後に-
これはエドワードの成長を描いた作品としても読み解くことが出来ます。いわば、彼はまだ未成熟だったのです。心理学的に考えると、エリクソンの発達段階によれば、彼は父の不義のために基本的信頼感を失っているわけです。ですから人との交流が上手くできない。それがビビアンという女性によって次第に信頼感を獲得する。今まで自己吸収的な存在だったのが、生産性を身に付けて、会社の買い叩き、解体といった破壊的な行為ではなくて、共同で仕事を行うという生産的なものへと転化したのです。
エドワードも立場が逆ではありますが、シンデレラストーリによってすくわれた一人なのです。双方が救われる、この映画はそうした心地よさがあります。ですから大変面白く、爽快感が満ち溢れているのです。夏の映画に是非どうぞ。

映画「時をかける少女2010」への試論 感想とレビュー 多くのメディア展開を為した作品のまとめ

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-初めに-
映画「時をかける少女」といっても。一体どの作品のことをさすのか分らないほどにあらゆるメディア媒体で何度も作りかえられ続けている作品は真に稀有だと思います。原作はいわずもがな、筒井康隆の小説。時を扱った作品は数多くこの世に存在するとも、この作品ほど完成されたものはありません。
この小説が与えた影響は計り知れないもので、時というこの世で最も難しい概念のひとつをあつかったこともあり、多くの解釈がおこなわれたのです。その結果が、映像化にしても映画が4本、ドラマが4本、漫画や楽曲にまで展開したことでわかります。その解釈のつど、新しい「時をかける少女」が精製され、これら全ての作品自体が「時をかける少女」を構成しているのです。
作品と派生作品が結合して一つの大きな作品となっているのです。これだけすばらしい作品は他にはありません。その原作者となったという意味でも私は筒井康隆さんを師と考えたいのです。
今回は、2010年公開の映画「時をかける少女」について論じます。

-物語構造の平凡化-
最初に映画自体のすばらしさは期待していたほどでもなかったということを述べておきます。ただ、そこに描かれてい内容は評価できると考えています。また、こうした多角的に発達したメディアにある新しい形を見出すことも出来ると思います。
主演が仲里依紗ということで、2006年公開のアニメ映画「時をかける少女」の声優も勤めていたので、大変期待していました。アニメ版の声優では、その演技力もかなりあり、作品の世界観を見事に構成していたました。その点ですごい女優さんだなと思っていたのですが、その本人が今度は実演ですから、どのような「時をかける少女」像が生まれるのか楽しみにしていました。
作品としては、小さな時を何度もかけるという今までからの時間の扱いからは異なり、タイムトラベルは物語中一回しか行われません。そうすると、ありふれた話形のパターンにはまってしまうので、あまり芳しくないことだとは感じました。内容も、現代の少女が昭和の世界に飛び込んで、そこで様々なことを体験し、恋愛もするというごくありふれたもの。物語構造としては残念です。
そのため、せっかく起用した仲里依紗も、新しい「時をかける少女」像を構築できずに、単なるタイムスリップしてしまった少女の驚きと恋愛と悲しみを描くのみとなってしまいました。これは完全に脚本家のせいですね。
また、この少女は過去において力を持たないのです。今までのように主体的に自分から過去に戻って行動するということではありませんから、半ば事故のような形で過去に連れ込まれ、そこで受動的に動くという面が強まりました。
過去を変えることは出来ないという点では新しい「時をかける少女」像ですが、それではあまりにも非力で、我々が求めるものとは違います。
絶対的な力をもった未来人として、かつての母の思い人である深町一夫が登場しますが、これも何かプラスになるようなことをしてくれうるわけでもなく、むしろ観客としてはマイナスとなることしかしてくれません。記憶を消すということしかしてくれないわけです。
ですから、この作品は見終わった後に、無常さを感じさせるのです。時を積極的に変える少女から、変えられない少女へと変化してしまったのです。自分の好きになった恋人も救うことは許されず、記憶まで消されてしまう。ただ、最後に溝呂木涼太の作った映画をみて、そこで涙するという場面がカタルシスとなって作品を昇華してくれています。物語構造として評価できるのはここだけとなってしまいます。

-保存の概念-
ただ一つこの映画のおいて重要なことは、保存という概念です。時も記憶も移り変わるものです。だからどうしてもそれを恒久的に保存したくなる。その衝動がこの映画だったのだと私は思うのです。
それは作中でも映画を撮っていることからもうかがい知れます。どうして映画をとるに至ったかは製作者に聞かなければ分りませんが、記憶、時間の保存への衝動としてみると、それを目的としているこの作品とも重なってくるのだとも解釈できるのです。
『記憶は消えても、この想いは消えない』というのがこの作品のキャッチコピーですから、やはりそれが鮮烈に意識されているのだろうと思います。こうした観点でみると、母の芳山和子は過去の記憶を奪われていたはずなのに、覚えていたということと、主人公の芳山あかりが記憶を消されていたのにも拘わらず、映画をみることによって涙することと繋がるのです。
これは記憶の保存とともに、記憶をたとえ失っても残るものはあるという強いメッセージにもなっているのです。記憶の保存に向かっている作品が、そのような面をも描いているのは大変面白いことです。結局はそこに皆カタルシスを感じて、感動するわけでしょう。

-最後に-
物語構造としてはあまり面白くないものとなってしまいましたが、過去の「時をかける少女」と現在の「時をかける少女」をつなぐ、架け橋となる作品としてその役割は重要であると感じます。ただ、こうした多角的に展開した作品のまとめのようなつもりで作られた節がどこかにあり、その分今までの作品を知っている人にとっては感動が増すものではありますが、これが初めて見る作品であると、なかなか理解し難いのではないかと思います。
要は過去の作品に依存しすぎているのです。これ自体で一つの自立した作品でないという点にこの作品の長所と短所があるのです。なかなか難しいことですが、今後の「時をかける少女」にも期待しましょう。

映画『まほろ駅前多田便利軒』への試論 感想とレビュー 現代日本映画の一辺を見る

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-初めに-
この『まほろ駅前多田便利軒』は三浦しをんによる日本の小説が原作です。それが様々なメディア展開をして、漫画化、映画化されています。今回はその映画作品についてのみ論じたいと思います。原作を読んでいないので、本当は比較研究の視点からこの映像化作品を批評したいのですが、時間の都合上この映画作品のみで、日本の現在の映画についても論じてみようと思います。

-内容の空虚-
2011年キネマ旬報日本映画ベストテン第4位ということもあり、私は大変関心と興味をもってこの作品を見ました。三浦しをんの小説は面白いものが多くあります。そのような期待もありました。
ところがこの映画を見ていて極めて不愉快になりました。何故これがそんなに多くの人々に評価されたのか理解が全くできません。ここに私は現在の日本の映画事情を読み取りました。
先ず、なにがいけないといって、感情論では論理性がありませんから正確に分析しますと、一言で言えば長上であるということです。とにかく長い。長いだけであれば全くなんの問題もありませんが、内容がない上に長いのですから、通常よりも数倍の長さ、つまらなさのよって観客の失望を招きます。
つまらないという言葉には、「詰まらない」という字が当てられますが、その言葉通りで、全く中身が詰まっていないスカスカの映画なのです。
というのも私はここに文章作品と映像作品の越えられない壁があるためだと感じています。ですから結論を言えば、元々成立しようのないことをやったためにどうしようもないものが出来てしまったということなのです。読んでいませんからわかりませんが、恐らく三浦しをんが書いたこの小説は、心象表現がかなり豊かなのだろうと予想します。主人公となる多田啓介の内心が鮮やかに描かれる。行天春彦との男同士の濃密さと淡白さが合矛盾しつつ成立している関係性にも文章では上手く表現できていたのだろうと思います。
その心象によってでしか表現できないものを、無理に映像化したということにこの作品の不幸はあるのです。漫画媒体ならまだ心の声を描写することはできますから、読者は主人公たちの内面の声を聞くことができ、そこに共感することが出来るのです。ところが映像化すると、本人たちがいまこんな気持ちだということを言葉によって表現することは不可能ですから、大変内容が薄くなる。
全ては役者に懸かっていますが、恐らく大物俳優でも不可能なレベルの内容ではないでしょうか。それを本当の苦難をしらない俳優として成功している人間が演じたところでなんの共感も得られないどころか、不快感を覚えるのです。
何故この作品がヒットしたのか私はわかりませんが、恐らくキャッチコピーと宣伝の手法がたくみだったのと、男性俳優が女性に受けたためだろうと考えられます。

-描こうとしているものの不在-
どこか浮きよばられした感じが二人の俳優の演技力の高さによって表現されていましたが、どうにも二人の内心というものは伝わってはきません。行天春彦という人物はとにかく不明。やっていることおこなっていることが全く理解不可能となってしまっています。そんな不可解な行動をとっている男性二人を見ても、感動も何もあったものではないのです。
そうして理解不可能な作品であったとしても成功する例としては、ある重大なものを実によく描けているということです。例えば非常に美しいものが描かれているとか、極めて残酷なものが描かれているとかです。
ところがこの物語が描こうとしているのは、社会の底辺のあたりに存在する人間たちの性(さが)といったもの。それを薄汚い男性二人が演じるのですから、女性にとっては男性俳優の違った一面を見られて良いかも知れませんが、作品としてこれを冷静に見つめたとき、そこに感じるものはただの薄汚さだけです。
そうしてどこか二人とも飄々(ひょうひょう)として生きているのですから、薄汚さから不快感、果しては苛立ちへと変化します。その程度に人間の交わりを描いてなにを言いたいのかがわからない。
最後の最後にカタルシスがあればまだ作品として成立しますが、そのようなカタルシスもない。描こうとしているのかなと思われる部分はいくつかありましたが、どれも成功しているとはいえません。
とにかく見終わった後に残る不快感と、空虚感は筆舌に尽くし難いものがあります。

-終わりに-
現代の日本映画は、内容がないことをとても上手く隠す手法を身に付けたようで、他の作品にも見られることですが、とにかく何の意味もない場面をやたらと流して、詩的な余韻を含ませようとしています。だから余計に時間的にも長くなる。しかも静寂ですから、写真をいくつか挿入しているような感覚があります。
もちろん元からそういうスタイルを決めて詩的な美しい作品をつくるのであれば何の問題もないのですが、こうした人間性を描こうとしいる作品をむやみやたらに伸ばしてしまうのはよろしくない。
大変残念な作品であります。どうしてこれが売れたのか、やはり実感として理解することが出来ません。

映画「愛人/ラマン」への試論 感想とレビュー 物語構造から、少女の解放性

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-はじめに-
『愛人/ラマン』(L' Amant)は1992年に製作されたフランス、イギリス合作の恋愛映画。ジャン=ジャック・アノー監督。1984年に出版されたマルグリット・デュラスの自伝的小説が原作です。
タイトルのラマンという名前の愛人が出てくるのかと思ったらそうではありませんでした。ラマンというのはフランス語で愛人や恋人といった意味だそうです。ですから、このタイトルはラマンだけでは分りにくいだろうからという日本の映画広告部が愛人というタイトルもつけてくれたのでしょう。ただ。そうした結果余計に分りつらくなった部分があることも確かです。翻訳とは実に難しい分野です。
ロリータ映画の最高峰なんていう太鼓押しがあったものですから、ひねくれたもので、実はつまらなかったりしてという反抗的な感情が多少ありましたが、見ているうちに引き込まれてしまいました。今回はその人を引き込む内容、構造を分析してみたいと思います。

-物語り構造の斬新性-
この映画は一貫して現在から遠い過去を振り返るという一人称回顧型の作品です。大抵の場合、先ず初めに現在があり、そうして回想、現在といったサンドウィッチ構造をしていますが、この作品では珍しく、過去の回想だということはわかりますが、最後になるまで現在は描写されません。
結論からいうと、この主人公である少女が老婆となった状態で回顧しているのですが、作品の内容からいって、かなり激しい性描写がありますが、その少女が実はあの老婆の昔だったのだという不快感を与えないための配慮なのかと私は感じました。これは少女をその時間、空間に押し込めて保存しようとする運動のひとつなのでしょう。
しばしば見られるのは、純潔、処女の少女の保管です。ただ、この作品はそのような純白性はすぐに失われてしまいます。この作品が保存、保管に向かったのは、愛人との性愛、濃密な体と心の関係なのです。そうした面からみてもこの作品は今までのよくあるパターンから大きく逸脱している作品として考えてもよいでしょう。
さらに私が驚いたのは、通常こうしたロリータ物語は、保存したい主体である男性側が主人公となって描かれるということに対して、この作品ではその反対の少女の側から描かれているという点です。これはもちろん語り手が老婆なわけですから当然といえば当然ですが、老婆が語るということにやはり意味があるのでしょう。通常ならば老人となったおじいさんが語ってもよいわけで、むしろ老婆が自分のかつての性交など語りたくないのが一般的でしょう。
さらに、人種の問題がありますが、これもまた他の作品では考えられないような構造です。普通は金持ちの男と貧しい女ですが、圧倒的に男性のほうが有利であります。ところがこの作品では、この構造こそ同じものの、フランス領支配下での中国人青年とフランス人少女なのです。フランスが支配している地においての話ですから、いくらこの青年が裕福であっても中国人というだけで馬鹿にされるのです。
ここで明らかとなるのが、男性からの圧倒的な力による支配、保管ではなく、少女の視点からの物語を構成することによって、少女の自由性の確保、男性からの解放を描いているということです。

-物語りの下敷き-
映画「オーケストラ」で散々批判したのは、物語の下敷きです。これを観客にあからさまに見せ付けていたから私は酷い映画だと酷評したのです。ところがこの映画を見てみると、大変重要なことがらを下敷きとしていながらも、それを殆ど感じさせないように、映像のみの力によってさらりと写し取ることに成功しているのです。
例えば、人種についての問題。上で通常とは正反対の立場にあると述べました。フランス人のほうが圧倒的な力をもっているのですから、この中国人の青年を警察にでもなんでも売ることだって出来たわけです。そのくらい有利な立場に少女は立っているのです。
中国人の青年がいくら金持ちだと言えど、平等すら保てて居ません。少女の家族と共に食事をする場面が後半にありますが、この青年は完全に無視され、あざ笑われます。
では何故この少女は青年との性交を続けるのかという問いになってきます。これが最大のテーマであり、この物語のメーンでもある金と愛に繋がるわけです。この流れの作り方が極めて鮮やかです。最後の最後になってようやくあれ、もしかしたらお金のためではなかったのかもと気がつき始めるのですが、それまでの映画殆どにおいて、この物語の登場人物は全員この二人の関係をお金のための関係だと割り切っています。当の本人たちもお金のためにやっているんだと出来るだけ納得しようとしているのですから、最後にやっと自分たちの本性に気がつくことが出来る場目は、我々観客のもっとも心奪われる部分となります。
他にも周囲の関係性があります。青年は金持ちですが、父親の財産のために力があるだけであって、本人は自覚しているように無力です。彼は父親には決して逆らえないのです。父は少女との関係を絶てといいます。逆らってもいいものですが、そうするとお金がありません。お金のための関係だと思い込もうとしている二人には、金がなくなれば関係性を保持できなくなるということになります。ここにこの作品の描いた大変複雑なジレンマが隠されているのです。
青年は地の縁といった慣わしや、慣習に縛られている人間です。社会にはりつけにされているといっも良いでしょう。自由はあるようでないのです。一方少女は行き詰りつつある家庭ですが、まだ一つ自由の道が残されています。それは本国フランスへの帰還です。
もちろんお金のない状態ですからそんなことは出来ませんが、しかし、少女と青年との関係は、この問題を解決してしまうのです。要はお金を貰うことによって、かえることが出来るようになってしまうのです。
ですから、この物語は根本的に成立するはずのない人間同士がくっついてしまったがために生まれたストーリーなのです。この最初から破滅が分りきっている関係性を何とか保持しようとして、保存が試みられた、それが我々が見ているこの映画だということになるのです。
この初めから破滅が約束されているものには、はかなさ、無常といった憐憫の感があります。それを何とかという人間の非常に強い力、性愛によってとりつなごうとしているのです。ですからはかなさのなかに濃密さがある。激しさのなかにむなしさがある。
こうしたジレンマが我々の心を揺さぶり、引き込ませてしまうのです。

-おわりに-
以上のことらか考えてみると、ロリータ物語の話形に組み込むには無理があるのではないかなと思います。そもそも主人公は少女の側ですし、ロリータ物語は男性による少女保管なので、反対ですね。
分類なんていうものはこの際大して意味を持ちませんが、この作品は、上で論じたようにこの上なく難しい問題をさらりと組み込んでみせています。この技術のすばらしさは脱帽ものです。
また、少女を演じたジェーン・マーチ、青年レオン・カーフェイ等の俳優がとても演技が上手いのです。性描写はかなり激しいですが、よく撮ったなと思います。実際にこの映画を撮影するにあたって、関係上愛人になるのですから、必然そこにリアリティが現れてきます。
是非これは多くの人に見てもらいたいすばらしい作品であると、自信を持って推薦します。

映画「オーケストラ!」への試論 感想とレビュー 物語構造から映画を批評する

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-初めに-
「オーケストラ!」(原題: Le Concert)は、2009年のフランス映画。日本では2010年公開でした。公開前のコマーシャルでは、とてもコメディタッチの面白そうな映画のように編集されていたので、大変期待を寄せていた作品でした。コマーシャルを見た限りでは、オーケストラの団員が集まるのですが、どんちゃんさわぎで全くまとまらないというようなコメディ映画のように思えました。
ところが、実際映画を見てみると、過去に縛られた暗い、陰惨な映画でありました。今回は何がいけないのかそれを感情論だけでは済まさずに、解析して論じます。

-構造と不和-
私が予想、期待していた映画は、「ブルースブラザーズ」のようなハチャメチャで行っていることは犯罪に近いことなのだけれども、そこはかとなく面白おかしく、晴れやかな気分になれる映画でした。
ところが、この映画はコマーシャルではそのような雰囲気をかもし出していたのにも拘わらず、ある意味全く反対の映画でした。それはそれで、そちらの方面で面白い映画であればよかっただけの話ですが、そういうわけでもなく、はっきり言って全編を通してみるのが億劫なほどつまらない映画でした。
ここで一つ注意しておかなければならないのは、やはりコマーシャルというのはその商品の「宣伝」なわけですから、多少の過大広告は許せても、性質の違うものを見せてはいけないだろうということです。だれだって食品サンプルを見て注文した料理が、それとは全くことなるものだったならば腹を立てるはずです。この映画にも同じことが言えます。コマーシャルが一つの悪い要因ではありました。
さて、この映画の構造ですが、主人公となるアンドレイは過去において共産主義政府によるユダヤ人排斥政策に従わなかったため、偉大な指揮者だという身分を追放され清掃員に成り下がっていました。このアンドレイがあるチャンスをきっかけにして、以前追放されたオーケストラのメンバーを集めてコンサートを行うというものです。
映画はコンサートを行った後、何故アンドレイが現在までに至ったのかを過去を回想する形で種明かしされます。ですから、冒頭ではアンドレイが何故清掃員になっているのか、周囲の人の言葉でかすかに判る程度です。
扱っている内容な先ずよろしくいのだと私は思います。共産主義政府だった過去を持つフランスは、確かにユダヤ人排斥をしました。現在でもそのために犠牲となったユダヤ人たちのための碑もあります。しかし、大概にしてこうした暗く陰惨で重いテーマを扱った映画は失敗します。こうしたテーマはあまりにも壮大で、これを本軸にすえない限り、描くのは不可能なのです。
ですから、この映画の場合は、このテーマを下敷きとして今の主人公があるのだよという設定にしたため、映画全体に不和が生じてしまったのです。アンドレイを主役にするのなら、彼の過去はもっと小さくて、彼個人の問題にしなければなりません。
そうして、そのようなテーマを扱った映画なのにも拘わらず、まったくカタルシスが見えてこない。
彼と浅からぬ関係にあったアンヌ=マリー・ジャケが言っているように、アンドレイは精神的に病んでいるのです。病院にいったほうがいいとまで言われています。そうした性質をもつ主人公を描いているのですから、当然映画自体も精神的に病んでいるのです。

-しつこい共産主義-
まだまだ駄目だしは続きます。オーケストラのメンバーを集めて、最終的には公演をするというのが映画約7割の目標です。この大きな目標のために皆が頑張るのですが、様々なトラブルが起こるというありふれたパターン。
ありふれたパターンは別になんの問題もなく、安心してみていられるという点でよいのですが、その問題はあまり解決されているようには思えない。しかもいちいち取り扱うものがどうもずれている感じがするのです。
大きな問題の一つに共産主義の仲間の問題があります。この仲間は、公演の行われるイギリスで、コンサートと同じ日に共産主義の大会が重なってしまい、この大会を成功させるためにも、コンサートを邪魔せざるを得なくなるのです。だからいちいち共産主義を持ち出すなと私は言いたい。それを描くならそれ、違うものを描くならそんなものを持ってくるなということです。どうしてこの作品gあ様々な賞にノミネートされたのかもよくわかりません。
最後の3割はというと、先ほど述べたアンドレイの過去の回想。そこでアンドレイと彼の友人たちの過去と、今回のために特別に演奏を依頼したマリージャケというバイオリニストとの関係性が明らかにされます。しかし、それも共産主義が絡む。
この回想を見ても、ちっとも我々は共感も出来なければ、感情移入も出来ません。ですから全く感動もせず、悲しんだり、喜んだりするはずがないのです。我々はこの作品に入り込む余地がない状態なのです。ですから、蚊帳の外にいる我々はこの作品に向き合っても、そこから何も得られないのです。

-終わりに-
下敷きを暗くしたら、当然作品全体が暗くなるのは当たり前です。初めからそうなるとわかっているのに、この作品はそれを何とかうわべの笑いで覆い隠してしまおうとしているような感じがするのです。その見え透いた嘘、しかも上手くない嘘が、我々観客の反感を買い、全く面白くない作品へと感じさせるのです。
ただ、インターネットのレビューなんかを見てみると、何故か星が高い。この結果に私は納得できないのです。一体だれがどのような見方をしたらそのような評価になるのか、私は知りたい。どうか、皆さんも自分の目で確認してみてください。

映画「百万長者と結婚する方法」 感想とレビュー 古典的映画の物語・女優を観る

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-初めに-
(原題:How to Marry a Millionaire)は、1953年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画です。今から半世紀以上も前に公開された古典と呼ばれるような作品です。かなり古く、なんとかカラーにはなっているものの、映像はあまり綺麗ではありません。
ですが、今見ても十分楽しめるような映画となっています。古典的なパロディが描かれているのです。今回はこの映画について論じます。

-女優として、物語構図-
女優としての視点から見てみると、豪華な女優がどのように演じているのかを考えることが出来ます。先ずはマリリンモンロー。1953年公開ですから、彼女の女優人生の中では中盤に当たるのではないでしょうか。彼女が一躍トップスターとして躍り出てから、安定期に入ったところであります。この映画ではなんと、モンローはおとぼけ役を演じています。せっかくなのでもっとセクシーな役柄を当ててもよかったのではないかと思うのですが、この映画は全体的にそうした人間の性(サガ)のようなものには触れようとはしないのです。
モンローは極端な近眼の役を演じていて、その目の悪さが彼女を不幸せにして、ハプニングに引き込まれるという役割をもっています。ところが同時に、最後にはこの近眼のせいで幸せを掴むことになるのです。この映画では、あのモンローといえども主役ではないのです。主役は名優ローレン・バコール。
バコールはモンローより2歳年上。1924年生まれ。この映画に出てくる女優3人のなかで唯一現在も生きている方です。モンローのおとぼけキャラが彼女を引き立たせているように、バコールはこの映画では相当のキレものを演じています。この物語を動かす主体的な人物であり、主役であります。また三人のリーダー的な性格をも持っているのです。
なんといってもバコールの男らしい格好よさが冴えています。モンローとベティ・グレイブルのお間抜けな感じも手伝って、出来る女、キレる女として、彼女が動き回っている姿はとても見ていて爽快です。
最後はベティ・グレイブル。1916年生まれですから、このなかでは最年長となります。しかし、映画の中ではモンローとは少し異なったおとぼけ、どちらかというとお間抜けな感じがするキャラクターを演じています。たいへん子どもらしく、おつむの弱い役で、その役柄も相まってか、印象ではもっとも若く見えました。
さて、こうしてみると、三人中二人が笑いを提供する人物となっています。唯一の私たちと同じような常識をもっているのはバコールですから、つっこみ一人、ボケ二人。ぼけまくる二人にツッコミつづけるという構図が出来上がっています。

-古典的内容-
タイトルにもあるように百万長者と結婚する方法ですから、随分打算的な行動で、いわゆる玉の輿を計画的にやりましょうということになります。そうすると、これを真面目に描いてしまうと結構笑えないダークなものになってしまいます。笑いを少し入れたとしてもブラクジョークのような、冷笑になりかねません。このいかにして玉の輿という女性の腹黒い部分を描くかという点で、映画全体をおもしろおかしく、楽しい雰囲気にしているのは、先ほど考えた役割の分担です。
百万長者と結婚するにはどうしたらよいのか。三人の女性は一緒になって考えて良かれと思うことをやるのですが、それがなかなか上手く行きません。バコールは積極的に、合理的にそれを行うのですが、ほかの二人があらぬ方向へと進んでいってしまいます。そうすると、バコールが一緒にいる場面では彼女がツッコんでくれるのですが、どこか男と二人で別の場所へ出かけていると、観客の私たちが、おいおいそうじゃないだろ、とツッコめるのです。
ここに笑いの余地があります。それも技巧的な雰囲気の笑いではなく、現在でいうなれば天然の成す行為へのツッコミなのです。
このように自然な笑いを多く取り入れることによって、一見すると腹黒で、合理的で打算的な、玉の輿という行為が、男の私からみても非常にかわいらしいものに思えてくるのです。
しかも、バコールもキレる女を演じていながら、とんだ勘違いをしているのです。ですから、この映画には、我々観客がつっこめる余地があります。余白のある笑いなのです。それが古典的な笑いの一つなのではないでしょうか。
しかも、最後にはきちんとオチがついています。全体を総括したオチですから相当な力があります。そのオチをみて、我々もやっぱりそうだろうと納得と感心をするのです。

-最後に-
非常にわかりやすいお題とともに、それを新しい視点から描いた作品であります。ですから、現在みても共通するこの玉の輿というテーマをめぐって、おもしろおかしい笑いを享受することができます。
テーマ、物語ともによく出来ています。映像技術が発展していない時期でしから、どうしたら売れるかという真剣な考えが、そのまま努力となってこれに反映されたためでしょう。また、内容もすばらしいながら、女優としての三人の名優の演技にも魅了されます。
キレのあるかっこいい女、おとぼけの不思議ちゃん、おまぬけのかわいこちゃん。それぞれがどのようにして自分に相応しい百万長者たるパートナーを発見するのか、是非名画鑑賞としてお楽しみください。

映画『リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い』への試論 感想とレビュー ヒーロー性について

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-はじめに-
ある作品には超人的な人物、ヒーローが登場するという話形が多々あります。これらに登場してくるヒーローは大抵孤高な戦士であります。いわば、絶対的な存在・揺るがない存在であるのです。他に比較するものがないから一元的な世界が構築できていたことになります。それに悪役の登場により、より際立ってそのヒーロー性が誇張、強調されるのです。
善悪の対決となっても二元的な世界でしかありません。さて、果たしてそれらのヒーローは本当にヒーローなのかという疑問が生まれてきます。
テクスト論的に考えれば、筆者の絶対性を疑って掛かるという構造であります。ヒーローを他のヒーローと比較することによって、本当にヒーローなのかという疑問から、ヒーローとは何かという定義までを考察できるようになるのです。こうした観点からみても、相対化・比較をして研究するという意義も生まれてきます。
ですから、この作品自体が、すでにヒーローを研究するための解釈媒体でもあるわけなのです。私たちはそれをさらに解釈できるのですから、これは嬉しいことだと思います。

-ヒーロー性-
しかし、実際この映画を見てみると、ヒーローなのかこいつという感情がすぐに芽生えてくることでしょう。そもそも原作をしっていたならば、大抵ヒーローとは思えないようなキャラクターが登場しています。
アラン・クォーターメイン/H.R.ハガード作『ソロモン王の洞窟』などの主人公
ミナ・ハーカー/ブラム・ストーカー作『吸血鬼ドラキュラ』のヒロイン
ドリアン・グレイ/オスカー・ワイルド作『ドリアン・グレイの肖像』の主人公
トム・ソーヤー/マーク・トゥエイン作『トム・ソーヤーの冒険』の主人公
ヘンリー・ジキル博士&エドワード・ハイド氏/スティーブンソン作『ジキル博士とハイド氏』の主人公
ロドニー・スキナー/H.G.ウエルズ作『透明人間』からの翻案キャラクター
ネモ船長/ジュール・ヴェルヌ作『海底二万里』、『神秘の島』の主人公
確かに、タイトルもヒーローという文字はなく、伝説を築いた怪人の物語であることは間違いありません。ですから、ヒーローかどうかといわれるとヒーローではないのです。ヒーローに近い、善なる力を持つものとしてはクォーターメインやトム・ソーヤくらいでしょうが、これらの人物もある作品の主人公であるというだけで、ヒーロー性は薄いように思われます。
ただ、ここに怪人たちが集まることによって、相乗効果が生まれることは確かです。一人の人間には出来ることの限界があります。ですからいくら怪人と呼ばれるようなある作品の主人公であっても、出来ることは限られるのです。
ただし、この怪人たちが集まったらとなると話は少し違ってきます。怪人同士が戦うことになってしまえば別ですが、協力という選択をしたならば、相乗的にその力は強まるのです。
作品の中では、雑魚と化した一般人たちがこれらのヒーローによって簡単になぎ払われていくのを見て、観客は一種の爽快感を覚えるでしょう。圧倒的な力をみて、それに押しはねられていく雑魚を見たとき、私たち人間は、自分が出来ないことであっても、感情移入をすることによって、その痛快感を享受するのです。
ただ、いくらなんでもスーパーマンのようなのが何人も出てきてしまったらお話になりませんから、一応人間からそうはなれていない程度の怪人が集結したというところでしょう。

-内容の欠如-
話の内容も相当幼稚といえば幼稚で、大してエキサイティングな展開とはいえません。ストーリー性は全くないといっても良いでしょう。ですからどこが見せ場かというと、やはりヒーローが集まって、戦うということになります。
トムソーヤのことをクォーターメインが師となって、成長を促すような話をなんとか組み込もうとした感がありますが、私から言わせてもらえば、単なる茶番に過ぎません。かつて伝説と呼ばれた怪人の時代は終わり、新しい伝説の誕生が始まるめいたことを言いたかったのでしょうが、それはなかったほうがよかったのではないでしょうか。そんな小手先の道徳的観念を入れてもらわないほうが、チープにならなくてよかったのだと私は思います。
話形としてはマクロコスモスを描いた作品です。外へ外へと向かっていく。外に敵を作り、偉人たちが集結する。しかしやはりそうした作品に多く見られる、中身が伴わない、スカスカの状態になってしまっているという感じが否めません。
内容をもっと充実させるべきでした。それぞれの作品から怪人を引っ張り出してきたのなら、その作品の背景となる部分にも言及したり、それぞれの作品と関連のある敵を出したり、協力者を出したりするべきでした。
よく、日本では戦隊物のヒーローが大集結したり、プリキュアの戦士が全員集合したりといったことがありますが、あまりに拡散的になってしまうのです。全体としての収集が着かない。ましてや集まっているメンバーはもともとヒーローですから、誰かと協力する必要も今までなかった人物ですし、チーム性というものは悉くかけているのです。
だからヒーローだったのです。ですから、そのそもヒーローが集まって集団になっしまうということ自体がヒーロー性を殺すことに他ならないのです。

-おわりに-
単に面白いのですが、些か内容がない。B級映画を抜け出せていない感じがあります。ですから、これから目指す方向としては、いかにこうした作品の内容を深めて、重厚な作品にするかということだと思います。
外へ向かう作品はどうしてもそのスケールから中身をつめることが難しいのです。そこには絶え間ない努力と、緻密な設定などが必要になることでしょう。
作品としては一応完結していて、爽快感がありますから、まあ成功しているといって良いでしょう。疲れていてどうもすかっとしたいといった時に見るのはオススメできます。ネモ船長すげえなと感心できることでしょう。あのインド風の格好といい、ストイックな性格、口ひげ、船長としての腕前もさることながら、かなり強い武芸者でもあります。こういうのにはまってしまう人は多いのではないでしょうか。

映画「やさしい嘘とおくりもの」への試論 感想とレビュー 描かれるミクロの世界・濃密な世界

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-はじめに-
今回は『やさしい嘘と贈り物』(原題:Lovely, Still)について論じます。
毎回思うことは、洋画の原題と日本語タイトルとの乖離が甚だしいことです。もちろんイラストレイターがいるように、言葉にもコピーライターがいて考えているのですが、私はどちらかというとなるべく原作に忠実にという保守的な人間であります。まあ実際このLovely, Stillをどうやって日本語にもどすんだよという問題になってきますが、しかし、もう少しタイトルを工夫することは出来なかったのかと思います。とかくタイトルというのは、その作品に与える影響が大きいです。
作品を見る前にはこのタイトルを見て、見ようかどうかを決めるわけです。しかも見ている最中も、嘘と贈り物って一体何を指すんだろうかと、観客は頭の中で想定しています。だから、タイトルというのは既に作品の一部であるということがわかります。そこに影響される部分が大きいため、タイトルに日本語化というのは、細心の注意を払って行われるべきなのです。

-描かれているもの-
度々外なる宇宙と内なる宇宙という二項対比で分析をしてきましたが、この作品もそのように分けることができます。この作品はもちろんミクロの宇宙へと向かう作品です。非常に小さなコミュニティーを描いています。「スケールの大きな」という文句を売りにしている作品の多くは大抵大きすぎるあまりに、内容がすかすかになってしまっている作品が多いです。
しかし、この作品では、そのような壮大なものを描くつもりも全くなく、濃密した時間と空間が流れています。その点において、この作品は大変成功していると感じます。
『君によむものがたり』同様、老人が主人公となる珍しい物語です。ただ、『君によむものがたり』と全くことなる点は、恋をするのが、若いころではなく、現在だということです。つまり老人が老人と恋をするのです。
老人同士の恋を描いた作品は他にも多く存在しますが、作品全体が老人同士の恋愛で貫徹されている作品というのはとても珍しいのではないでしょうか。聞いてびっくり製作当時24歳だったニック・ファクラーの初監督作品ということですから。この弱冠の青年がどれだけ今後活躍するか、大変興味がわきます。
さて、この作品のもう一つの特徴は、小さなコミュニティーと共に、描かれている期間が非常に短いということです。クリスマスを前後して、数週間の話です。ここにも、作品を濃密にして、さらにそれを漉しているような感覚があります。
事件はこの小さな世界、時間軸の中で起こるのです。
さらに、この作品は、単に恋愛の物語が描かれているだけでなく、夢についてもするどい言及が為されているではないかと思います。夢と記憶といったほうが的確かも知れません。どちらも大変あやふやなものなのです。何故夢にうなされるのか、最初私たち観客にはわかりません。物語が終わったときにやっとその理由がわかるのです。このトリックは巧妙でした。
記憶と老いという面で解釈することも可能でしょう。老化と共に失っていくものは多くあります。初め、私はその老いの醜さからの脱却、老いることの美しさを描いたものなのかと思いました。しかし、実際はそれ以上に深い、考えもしなかったようなトリックが隠されているのです。ここで、私たちの期待の地平は見事に良い意味で切り崩されるのです。ここに作品のすばらしさがあります。

-プロットの崩壊-
作品が大変優秀であることは既に述べました。実際そのテクニックもさることながら、感動できる作品であることに変わりはありません。しかし、冷静になって分析、解釈してみると、先ず、この話自体が成り立たないように思えて仕方ありません。
結論を言えば、この老人マーティン・ランドー演じるロバートは認知症かアルツハイマーか分りませんが、記憶を失っています。しかも、何故か今まで孤独で生きてきたという記憶があるのです。我々はそこから物語が始まるので、そうなんだろうとしか考えられません。でも実際は、違うのです。
ここで、どうしてロバートは記憶を失った状態で、平然と一人で生活が出来ていたのかという疑問が起こります。元々家族だったのならば、どうして一緒にいなかったのでしょう。しかも妻メアリーと娘のアレックスは引っ越してきています。
ここがどうしても説明がつかないのです。記憶がなくなったというところまでは良いでしょう。しかし、その状態でどうして一人暮らしが出来たのでしょうか。元々家族と一緒に暮らしていて、それで記憶をなくし始めたのですから、家族と共に生活している状態から、ロバート一人が家を持ち、生活するにいたるまでの過程がどうしても説明不可能となってしまいます。
ここにプロットの崩壊、とまではいかなくとも、無理が生じているように思われるのです。息子のマイクが父の面倒を他人の振りをしてみつつ、一人暮らしをさせていたという説明も出来なくはありませんが、再びかつての夫婦が老人同士の恋に至る、通常の人間では思いも着かないことです。

-終わりに-
ただ、単純にこの映画は感動できる物語です。観終わった際には、すがすがしさが心を満たしてくれます。最後は家族揃って冬の落ち葉しきつまった街路に立っています。そうしてエンドロールとともにハラハラと落ちる真紅のバラは大変美しい。全体的に詩的の叙情があります。老人の恋を描いたからといって、それを極端なまでに美化することもせず、小さな面白みを織り交ぜることによって、老人の恋愛を上手く描いています。
記憶がなくなっても、家族愛、夫婦愛の無限の力を信じた、正の力が働いた作品です。だから、爽快感、ここちよさが余韻として残るわけです。
マーティン・ランドーは名演です。

映画『卒業』への試論 感想とレビュー 青春の傑作・話形の抽出



-はじめに-
卒業(原題:The Graduate)は、1967年にアメリカ合衆国で制作された青春映画、恋愛映画。原作はチャールズ・ウェッブによる同名小説です。言わずと知れた名作ですから、今更私が解説する必要性もないように思われます。しかし、今この時代にもう一度解釈を試みることによって、何らかの生産的な行為が為されるのではないかと思い、今回はこれを論じます。
ただ、名作中の名作、古典となってしまった今、この映画がもはや省みられなくなっているのではないかという恐れもあります。この映画とオンタイムで生きていた人々は、もう還暦の付近にいるわけです。そうすると、この映画が、現在の10代20代に見られていることは恐らくないでしょう。
確かに現在見てみると、そんなことがあってたまるかといった内容があります。不自然さがあるとしても、しかし、現在でも通用する内容が含まれているのではと私は思います。

-現在で見る不自然さと通じるもの-
不自然なものというのは、公開当時は不自然ではなかったのかどうか気になるところです。先ず初めに、主人公ベンジャミンとミセス・ロビンソンとの関係です。大学卒業後、帰ってきてすぐにお隣さんの奥さんとそういう関係になりますか、ということですよね。ましてや、自分と同い年の幼馴染の親ですからね。年齢的に考えても自分の親とそう変わらないわけです。確かに昨今の歳の差カップルとか歳の差婚といったものはあります。しかし、それはあくまで独身と独身の間で行われる健全な関係です。ただでさえ不倫というのは道徳的にも倫理的にもよろしくない。しかも年もかなり離れている。
いくら無気力感に襲われているからといって、それを受動的に受け入れてしまうベンジャミンはやはりどこかおかしいようです。
二つ目は、けちつけるようで悪いですが、最後の名シーン。教会に押しかけて、花嫁をかっさらっていくという場面です。とっても感動的で、ドラマティックで良いのですが、現在若者が見たときに、そんなことあるかいと一蹴されてしまう可能性があります。通常であれば、カップルの間で三角関係になるとか、取り合いになるとかそういうことなんだろうと思います。結婚式でどうこうというのは、実に象徴的な行為です。アメリカでは確かに日本と違って、婚姻届を出すという行為よりも、結婚式で神父に認められるということのほうが重要性はかなり高いです。ですから当時のアメリカ人がみたら、そこまで違和感を感じなかったのかも知れません。

現在でも通用するものとしては、先ずベンジャミンの不安感です。これは芥川の「ぼんやりとした不安」によく似ているのではないでしょうか。大学では相当優秀だったベンジャミン。大学ではスター扱いされてきたのだろうと思います。しかし、そんな彼がどうしていきなり不安に襲われて、消極的、受動的になってしまうのでしょう。今までの積極的、能動的な部分(映画では描かれていませんが)、は一体どこに消えたというのか。これは大きな謎であります。
私は尾崎豊の作品、特に「17才」のような作品のなかに、この不安の答えが潜んでいるような心持がしています。大学はモラトリアムだということはよく言われますが、このベンジャミンはそのモラトリアムの中で、一生懸命目下のことばかりをしすぎてしまったのでしょう。そのため、長い目で先を見つめてこなかったので、突然不安に襲われる。ちょうど、子どもと大人の間なのです。そこで、新しいアイデンティティーを発見しなければいけない。もし失敗したら、でもまだ見つからないという強迫観念があるように思われます。
これは現在でも通じることであります。二つ目としては、話形としての結婚式からの彼女奪還です。これは不自然、ありえないことだとしても、物語としてはやはり人気があるのではないでしょうか。この作品は多くのそのような作品において、おそらく原点に近いものだと思います。つまり、結婚式、しかも誓いのキスの直前、土壇場で逆転するという話形です。
土壇場逆転劇は多くありますが、婚姻を取り扱って、ここまで鮮やかに描ききったのはこの作品が最初ではないかと私は思います。

-音楽性-
アメリカ映画は全体を通して見てみると、内容として・物語としてはあまり成熟していないように思われます。それは風土的な問題もあるかと思いますが、しかし重厚な物語というものはあまり存在しないし、好まれない傾向にあるように感じます。
ただ、そのためもあってか、たびたびアメリカ映画には、映像メディアの最大の利点を活かした、音楽との融合というすばらしい技を極めた作品がちらほら出てきます。戦闘ものとのコラボの原点は「トップガン」でしょう。
青春物の原点はこの「卒業」です。サイモン&ガーファンクルの名曲の数々が、完璧といっていいように、映像とマッチングするのです。この爽快感はそう味わえるものではありません。
事実、この映画の公開の後に、サイモン&ガーファンクルは全世界的に一躍有名になりました。このことが、映画全体を見たことがない人でも、結婚式で花嫁を連れ出すラストや、サイモン&ガーファンクルの名曲のみを知るということに繋がったのです。音楽性がこの上なく極まると、その影響だけで、映画の印象が全て決まるといっても良いのです。
これは日本の映画界もこれからもっと極めていく部分だと思います。もちろんそうねらったからといって簡単に体得できることではありませんし、音楽と映像をマッチさせるという土壌がもともとありませんでしたから、実際には大変難しいことです。

-終わりに-
この映画には、二つの解釈が存在します。一つはハッピーエンドだという説と、バッドとまではいかなくとも、これからの二人の未来は明るくないという説です。どうやら、監督は後者のほうを描きたかったらしく、バスにのってからなかなかカットを言わないで、二人を不安にさせて、それを撮ろうとしていたことを打ち明けています。
バスの中は老人ばかりだという指摘もあるように、二人の表情もまた、完全に晴れやかなものではありません。下地に不安を塗った笑いのような感じがいたします。
もうこの二人がその後どうなったのかを教えてもいい年代になったと私は思います。この二人が生きているとしたら、二人とも還暦近くなのです。バスのなかの人間全員が二人をいぶかしげに見ている場面は特に印象的。おそらくこの後の二人の人生は、他人に絶えず監視される目が付きまとう人生だったのだろうと思います。
幸せとはなにかを問うている作品なのです。しかも、それが非常に多重的に解釈できる終わり方で終わっている。だから、この作品を見た後で、ベンジャミンの不安が感じられる人もいれば、愛の力の勝利だと感じるひともいるわけです。
作品として、ここまで多重的で深いのですから、やはり今の若者にも見て欲しい作品の一つです。

NHKを見学して 感想・エッセイ 

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現在、NHKスタジオパークでは無料で見学が出来るように公開されています。こちらはある程度撮影も可能となっていて、どちらかというとお子様向けの体験型アトラクションなどが豊富な見学となっています。
今回私が見学したのは、このスタジオパークではなく、通常では立ち入り禁止のNHK放送センターです。ごくごく小さな窓口しか設けられておらず、私もある人づてで今回の見学に参加させてもらったので、どのような経緯で見学できたのかよくわかっていないのです。社員の家族でさえも会社の中には入れない状態ですので、(家族に社員を持つ人の話によると、かつてはそこまで厳しくなかったようです)今回は大変貴重な経験であり、滅多に体験できないことでした。この記事では、その体験を元に、エッセイ風に感想を書いていきたいと思います。

正面玄関から入ると(スタジオパークの入り口と間違えやすい)、すぐにゲートが立ちはばかります。漆黒のゲートとよこにたつ警備員、緊張した空気が流れます。今回は特別にパスで通らしてもらいました。そうして先ずは、説明の為にお客さんのための接遇室へ通されました。プラスチック製の机に対して、車輪のついた椅子が妙に大きく、アンバランスの感がありましたが、そのあまり大きくないこじんまりとした部屋で、係りの人がこれからの見学についての注意事項を説明してくれました。
そもそも見学のないことが前提ですから、私たちのような客は大変迷惑なのだろうと思いましたが、全体で20名が上限として設定されているようです。それ以上は入れないということなのでしょう。仕事に影響が及んでしまいますからね。
さて、再びロビーに集まってから、見学のスタートです。ロビーはしかし、一旦入ってしまうと、天井も高く、広々として伸びやかな空間となっています。上質なソファ、大きく鮮やかなテレビ、もちろん放送されているのはNHKの番組だけですが、まるで空港のターミナルを彷彿させるような一面です。
渋谷からのバスで着いたなりに来ていたので、ここが一階だろうとてっきり思い込んでいたら、実は4階だそう。NHKはちょうど岸体育館の近くなのですが(山手線の代々木と原宿の間で列車の中から見ることが出来ますね)、あの地はどうも平らではないのです。結構な勾配のある、坂の上に建っているのです。先ずは1階へ降りるとのこと。
さて、エレベータで1階まで着くと、いきなり鼻をかすめる強い匂いがします。長細い、2人でもすれ違うのに大分苦労する廊下を通っていきます。そこで不図右側の部屋に目が行きます。衣装室、道具室。匂いの原因はこれらの衣装や、道具そのた小物を管理するための虫除けの薬のにおいでした。もちろん特殊な衣装の匂いや、小物の匂いも含まれて、複合的な匂いになっていたので一概にはいえませんが、スタジオならではの雰囲気が匂いとなって、嗅覚的にも漂っています。
廊下を歩いていると、束帯を着た貴族たちが歩いていたり、自動販売機で飲み物を買っていたりする光景が見られました。
さて、いよいよ撮影現場へと乗り込みます。大河ドラマ平清盛のスタジオです。テストと言って、リハーサルをしているところを見せていただきました。

柿澤勇人演じる以仁王(もちひとおう)の宅の場面です。この以仁王は、松田翔太演じる後白河上皇の息子、次男、二条天皇の弟に当たります。中庭では他の貴族たちがチャボを持って遊んでいます。このチャボは、きちんと事務所に所属したチャボさんだそうで、訓練を積んだ役者さんなんだそうです。犬や猫にそのような事務所があるのは知っていましたが、いやはやチャボもタレントさんなこの御時世、チャボも出世しました。
そんなチャボで遊んでいる貴族をみて、この以仁王は妻である暲子(あきこ)内親王に何かを言うという場面です。ただ、何を言っているのかは、私たちがいる場所からでは聞き取れませんでした。私がみたのはテストだったので、本番ではありませんでしたから、本番がどのようにとられたのか気になります。この場面が放送されるのは9月の30日だそうです。
係りの人の話によれば、平清盛の9割はこのスタジオで撮影を行うのだそうです。凡そ200坪あるというスタジオですが、それでもそこまで広いわけではありません。大変セットが大きいですから、ぎゅうぎゅうになって撮影をしているのです。しかも驚いたのですが、多くの撮影に携わる人々、カメラマンだったり、メイクさんだったり、特殊効果だったりといった人々が、かなり役者の近くにいるのです。撮影が始まってもいるのですから、カメラもよく映しこまないなと感じると同時に、そんな衆人環視のなかでよく演技が出来るなとも感心しました。
ただ、この撮影というのはこの上なく労力と、時間がかかるようで、一日フルでスタジオを使用しても撮影できるのは僅か10分足らずだそうです。係りの人の同僚にメイクさんがいたようなのですが、昨日も夜が長引いて、眠いと一言こぼしていました。テストと二回目のテスト、それから本番と大体この手順で行われるようですが、この間が随分長い。一旦役者をセットから出して、色々な調整を済ませた上でもう一度入ってもらうということの繰り返しですから、手間も掛かるし時間もかかるのです。もっと大きなスタジオでスペースに余裕を持ってやったらよいものをと思いますがね。
スタジオ全体の雰囲気は、この長い時間がかかるということもあってか、伸びやかでした。よく素人の想像しがちな、ピリピリして罵声が飛び交うような戦々恐々とした雰囲気ではありません。もちろん張り詰めた空気感はありますが、それでも和やかといえば和やかでした。

場所を変えて、今度はNHKのオリンピックのニュースを生放送しているところにお邪魔させていただきました。あのボールがたくさんあるスタジオです。スタジオ内では、常に他の番組、スポーツの実況が流れています。それが終わりに近づいて、いよいよ撮影となると緊張感がぐっとあがります。サーモンピンクの服を着たアナウンサーが立石選手の銀メダルを放送していました。
横ではマスコットキャラクターのどーもくんともう一匹?狐のような狸のような黄色の人形が躍っていました。シュールだったのは、アナウンサーが原稿を読み上げてから、競技の映像に切り替わると、スタッフの人が一生懸命うちわを扇いで風を送っていたことです。
ただ、この会場はすぐにセットが解体されて、他の番組のセットがすぐに組み立てられるという大変なことを行っているのです。
次は、毎日放送されていることから、セットの移動がないアサイチのスタジオ。今まで二つの場面がありましたが、実は向かい合うようにして作ってありました。ここでは、セットの見学をしました。いつもいのっちや有働アナウンサー、柳沢解説委員などが座っている席を使用してもよいということだったので、お言葉に甘えて私もキャスターの一人になってみました。
このスタジオのセットでは、やはりテレビ上で放送されると平面的になってしまうということから、立体的な印象ができるように工夫されていました。緩やかな凹凸をつけることでもライトの当て方によって二種類のコントラストの出来る壁や、色鮮やかな食器、調理機器などが極近くで観察できました。でも、出来るだけローコストにしているようです。結構ほこりでよごれていました。内緒ですよ。

見学はこれにて終了です。NHK放送センター特別見学記念として色々なグッズを貰いました。今回の見学は、スタジオの中がどのようになっているかといった知識的なものに限らずに、そこで働いている人間たちのかもし出す雰囲気を体感できたことが非常に嬉しいことでした。やはり、本や作品による知識は大切なことに変わりありませんが、私たちは生きているのですから、体を移動することによって、その場に直接いるということ、このすばらしさを再認識することに至りました。
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