アニメ映画『AKIRA』アキラへの試論 感想とレビュー 80年代が到達した世界

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-はじめに-
『AKIRA』(アキラ)は大友克洋による漫画。映画化は1988年。
アキラは誰もが知っている国民的な漫画として、今なお多くの人に知られています。漫画研究をするときには、この『アキラ』は語るにはずせない重要な意味をもっています。スピード線が多用された80年代前半の風潮とは一変して、殆ど静止画のような絵しか描きません。しかし、それにも拘わらずとても写実的で、より動きに躍動感があるように見えるのです。
また、その画法もさることながら、描かれた内容が稀有なもので、映画化もかなりはやい時期に行われています。今回はこのアニメ映画を論じます。
何かと伝説の多い、このアニメ映画です。実際に、当時でも、また現在でも考えられないように、制作費に10億円かかっているとか、総セル画枚数約15万枚とか、です。また、制作手法としてアフレコではなくプレスコを採用し、人物の口の動きを通常3種類を5種類まで描きこんでいます。

-描かれた精神世界-
原作をまだ読んでいないので、どのような相違点があるか詳細にはわかりませんが、映画化に際して内容を圧縮、変更したようです。描かれるのは、超人的なパワーを持った人間たちです。しかし、アメリカのヒーローもののように、それを他人のためや、社会のために使用するという簡単なものではないのです。
ここに出てくる人間はその殆どが、自我というものを露骨に表す非常に人間くさい人物たちです。そのため、観客としての私たちは、極端に理解、共感できると同時に、今までそのような作品が少なかったことに驚かされます。しかし、また同時に露骨なまでの人間くささに嫌気を感じることもあります。自己嫌悪感にも似た、人間のエゴをきちんと向き合ったとき、そこにはやはり醜いものがあるのです。
この作品は、当時の若者の心境、社会のあり方を見つめ、それを仮想の世界ですが、全くリアルに描いたのです。それが共感されたのです。80年代は、経済があまりにも過熱的に発展して、生活は確かに豊かになりました。しかし、それと同時に、物質的に満たされていても、精神的に満たされることのないことに気がつき、そのコントラストがより際立って見えてしまったのです。現在でもまだ、精神的に満たされることはありません。ただ、加熱して燃えたものが今冷え始めていて、社会は停滞。お先真っ暗な状態なのです。そうすると、この作品の製作当時と全く反対のことが起きているということになります。しかし、今みてもその内容が切に伝わる部分を考慮すると、やはりそこには真実が描かれていたと考えざるを得ないのです。
その真実は、精神的に満たされないことへの欲求、欲望なのです。なので、この作品は一見外界のことを描いているように見えて、内面の世界を描いているのです。物質的にはあまりにあまってしまった世界。第三次世界大戦の荒廃から復興したのにもかかわらず、どこかで人間はまた道を誤ったのです。その弊害がこの世界には多く描かれています。
発展しつづける一方、巨大化した組織は内部腐敗がすすみ、まともな危機管理が出来ていない状態になっています。また、スラムと化した汚い世界、バイオレンス、や恐怖が支配する世界があるのです。宗教活動も活発になっています。

-現代への警鐘-
この作品の反対に位置するものは、『デスノート』ではないでしょうか。キラは自分が世界を救えるのだという一種のメシアコンプレックスによって、人を裁き始めます。根底ではどちらも超人的な力を持ったことから始まるのです。しかし、その使用方法が全く反対になるのです。腐敗しきった世の中を、これから破壊するのか、救済するのかということになるのです。
この作品では、超能力は全く良い方面には使用されません。突然の能力の開花によって、鉄雄は世界でもっとも強い男となったのです。ですが、薬物投与の影響もあり、精神的に非常に不安定。これは当時の日本をあらわしているのではないでしょうか。力をもったけれども、全くコントロールできずに不安定なもの。その結果がバブル崩壊です。
そうすると、この作品はその後すぐ起こってしまったバブル経済の破綻を予兆していたことにもなる、先見性のあった作品とも見て取れます。

確かに人間は力を求めます。しかし、求めたところでコントロールが出来ないということが多々あるのです。その結果が現在でいうならば原子力になるわけです。人中を越えた力。魅力的ですが、あまりに危険すぎます。この作品では、アキラという絶対的な力がすでに封印されているところから始まります。これはいわば日本がかつておこした戦争のようなものです。かつての危機をなんとか封じ込めたものの、しばらく経つと皆忘れてしまう。そうして再び力を求めた結果、また同じことが繰り返されてしまうのです。
映画では、敷島大佐のみがその恐ろしさをきちんと理解している存在で、口にこぼしています。結局博士もその力に目がくらんだ人物でした。作中では最も年長者となるドクターでさえ、力の誘惑に屈したのです。
そうして結末は、また崩壊が起きる。宇宙が精製されているような莫大なエネレギーとともに、再び破滅。人類はその力へ対する欲望をどこかで捨てなければいけないのです。そうでなければ、この作品と全く同じ運命を辿ります。
もし、原発が東京にあり、あの事故がおこったとしたら、この作品と同じようなことが起きていたのではないかと考えられます。この作品では超能力という、現実味のないものが世界を危機に陥れますが、しかし、その超能力は人がコントロールできない巨大な力という意味においては、原発然り、科学技術一般を指すのです。

-最後に-
このアニメ映画は80年代の最高、最終形態だと言い切っても良いと私は思います。アニメ映画に10億円を投入するというすさまじさは、類を見ません。その結果、全てが極限まで高められた作品が完成したのです。これだけ完成度の高い作品は他にはありません。音声を先に録音し、それに合わせて実際の人間と同じ口の動き方を描いてあわせる。そこまでして現実的に、写実的に描く理由はなんだったのか。それは先ほどから述べているように、現実を描いているということを私たちに教えるためだったのではないでしょうか。
この映画ではCGが全く使用されません。全て動きを持たせるために写実的に描きまくるのです。
社会的な精神病が絶妙に描きこまれているため、全体的に暗いですが、その分メッセージ性も強く、傑作といわざるを得ません。人類はまだこの映画から何も学ばないのでしょうか。

怒りの宣言 競技柔道の形骸化と死 オリンピックで「柔道」を行うのは止めよ、でなければ「柔道」と冠するのを止めよ

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-はじめに-
私は社会を批評する人間でないとともに、スポーツジャーナリストでもありません。ただ、一人の小さな文藝批評家、芸術家、作家として、あまりにも看過できない現実を見てしまった以上は、私のこの小さな宣言文も役に立たないことはないと感じ、ここにその怒りを表明します。
ここ数日、特に本日7月29日の柔道の試合を見て、私は怒り心頭です。ここまで考えなくとも、違和感くらいは覚えた方が多いと存じます。いままで学校などで習ってきた柔道との差、いままで見てきた柔道の試合との差。私のこの怒りは、今後の競技としての柔道の現実を見つめ、未来の展望へと活かされることを願って書くものであります。
もはや、柔道は死に絶えました。現在私たちがテレビで目にする世界は、もはや、世界的な質をはるかに低下させた、プロレスもどきのお遊戯です。「柔道」ではなく「JUDO」に成り下がったのです。
私の怒りは正当なものです。ただ風前のともし火の如く、感情に任せた怒りではありません。よきものが、わるきものへと移行しつつある。質の低下と、もはや権威の失墜してしまった審判の存在に対する怒りなのです。

-柔道の理念-

小さい者が大きい者を投げ飛ばす。「柔よく剛を制す」という思想が示すこのアクションこそが柔道の醍醐味です。創始者の嘉納治五郎が柔術を学び、それを独自に改良し、武道としての精神的な道を確立させ、柔道が誕生しました。理念は「精力善用(※1)」と「自他共栄(※2)」というもので、社会や周囲の人たちに対して、自らの心身がどうあるべきかを示したものです。それを柔道に打ち込むことによって学ぶことが大切だと考えられています。

現在では世界中に広まり、オリンピック競技としても発展し、日本が強さを誇れるスポーツとしても有名です。

※1精力善用・・・自分が持つ心身の力を最大限に使って、社会に対して善い方向に用いること。
※2自他共栄・・・相手に対し、敬い、感謝をすることで信頼し合い、助け合う心を育み、自分だけでなく他人と共に栄えある世の中にしようとすること。

http://iroha-japan.net/iroha/C02_sports/05_judo.html

現在の柔道では、このような理念が微塵も感じられません。仮にも「柔道」という名称を冠して競技を行っているのであれば、出来るだけその理念に従い、尊重するのが当然といえます。もちろん古典的なものにただ従順であればよいというものではありません。現状と合わなくなってきた思想、原理があれば、それは改訂されるべきでありますし、変化していくのが理念でもあります。
しかし、この柔道の最も根幹となる部分。嘉納治五郎が苦心して築き上げたものを踏みにじり、侮辱している現在の競技柔道には心底うんざりしました。「柔よく剛を制す」は、この「柔道」においては切り離すことは決してできません。
この理念に従っていたのは、あの谷亮子選手だったでしょう。彼女があの小さな体で、長身の外国人をばったばったとなぎたおし、体格さをもろともしない強い柔道を見た際に、日本人は感動をもって拍手を送りました。しかし、その谷選手も何をとち狂ったか、選手から議員へと転身しました。もはや、この時点で選手には現状把握能力や、先を見通す能力、周りにながされない自己を保つ精神などの欠如があると考えられます。
さて、話を元に戻しますが、現在の試合では、先ず組まない。これは次のルール改正の部分で触れますが、組もしないのですから、相手の力を利用するもなにもあったものではありません。初めから剛同士の戦いになっているのです。
もはや柔道という名を冠する必要はありません。どうしてもその理念とは全くことなることを行うのであれば、「柔道」という競技を止めて、新しい名称をつける必要があります。


-ルール改正-

改正案によると、「一本」「技あり」「有効」「効果」の4段階に分かれている技の判定基準のうち、「効果」のポイントを廃止する。また、最近はタックルなどでポイントを稼いで逃げ切る柔道が急増していることから、組み手を両手で持たないまま、タックルや朽ち木倒しなどの技で下半身に攻撃した場合は「反則」とする方針だ。
 日本サイドは、「柔道本来の攻防を復活させる」として基本的に受け入れる方針だが、現場では「いきなり北京からは早すぎないか。選手も混乱する」と心配する声も出ている。
 このほか、試合時間の短縮を目的に、5分間の試合が終了した時点で両者同ポイントの場合は最初に旗判定で優劣を決し、3―0の場合は終了、2―1と分かれた場合は、ゴールデンスコア方式の延長戦に入る案も提案される。

柔道の「効果」廃止、タックルは禁止…北京五輪から採用も : エトセトラ : スポーツ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

ルールとは確かに変化され、よりよいものへと生まれ変わるべきものであります。ところが、現在のルールのめまぐるしいような変化には、そのような概念は微塵も感じられません。変化の理由が、審判をする側の都合、委員会側の都合にしか思えてしょうがないのです。
さて、このことによって惑わされ、迷惑を被るのは、他でもない選手たちです。本来ルールはこの選手たちを保護し、公平、公正な競技を行うためのものです。それがいまとなっては本末も転倒し、ルールに選手が合わせていくという状態なのです。
このようなご都合主義で、しかも熟考されていない未熟なルールがころころと変われば、当然その抜け目が生じます。そのため、ルールによって全く試合が変わってしまうのです。これが最も、この柔道の質が低迷した原因であろうと考えられます。

このため、現在の試合では、殆ど組むということをしなくなりました。これは大きな変革です。今までの柔道は、組み方を何度か変えることはあったにしても、先ずは組んで、そこからどう技をかけていくかということになっていました。
ところが、現在は組むことをしない。組むために5分の殆どを使用して、ちょこまかと動き回っているさまは、大変醜いものです。このいわば猪口才(ちょこざい)な動きばかりが目立ってしまいます。
そこで登場するのが、もはや形骸化した審判による「指導」というものです。


-反則-
反則はその度合いにより「指導」「注意」「警告」「反則負け」に分けられます。「指導」は「効果」と、「注意」は「有効」と、「警告」は「技あり」と、「反則負け」は「一本」と同等の効果を持ちます。技の効果とは異なり、「指導」2回で「注意」、「注意」+「指導」もしくは「注意」で「有効」というように、積み重なると反則が重くなります。
http://www.sportsclick.jp/judo/facility/ SportsClick:柔道

正当な柔道を行わなくなった選手たちは(ルールによって出来なくなったという部分が強いが)、何に走ったかというと点取り合戦であります。精神と一体となった柔道はもはや完全に駆逐され、ポイント制の極めて単純で、全く内容のない質の悪いものへと変化しました。
組をしない選手たち。その原因はルール改正に重く影響されていますが、それでは試合が進むわけもなく、審判は度々「指導」という行為を繰り返すことになります。この「指導」というのは実に不思議なことであると私は感じます。どうして、試合の途中で、このように審判が試合を変えることが出来るのでしょうか。審判は、試合を行っている人物ではなく、試合を行っている人達の優劣や、勝敗を判定する存在です。試合はあくまでも選手によって行われているのです。
組がなかなかされないと、審判は即座に「指導」と称して、サッカーでいうところのイエローカードを出します。この時点で大分おかしいのですが、審判が全て試合の流れを変更できるのです。
もはや、競技を行う人間としての選手の存在は抹殺され、審判による出来レースが行われているといっても過言ではないでしょう。特に著しいのは、「一本」と判定したものが、即座に打ち消されることです。勝利を確定しておいて、即座にそれを否定する。これは過去にはありえないことでした。こんなことがあれば、会場は騒然となったことでしょう。しかし、現在では全く平然として、即座に判定を覆す。これは結局審判自身が自分の首を絞めていることに他なりません。自分たちが決定したことがらは、大変軽んじられるものであって、すぐに変更できます、といっているのと同義なのです。
審判自身がもはや審判されなければならない時代の到来を意味しています。

29日に行われた、柔道男子66キロ級準々決勝。5分経ったものの決着がつかず、審判は初め韓国選手に旗3本を挙げました。ところが、その判定に会場から大ブーイング。当惑した審判たちは、審判委員(ジュリー)から異議を申し受け、もう一度フラグ判定を行うことに。すると、今度は海老沼に旗が三本挙がるという事態になりました。
これは一体どういうことでしょう。審判はもはや審判ではなく、ただの上司の命令に従うだけのサラリーマンなのであります。上司の審判委員が実際に審判をしているのです。
もはや審判はいてもいなくても変わらない存在に成り下がったどころか、連発する「指導」と、すぐに打ち消す判定によって、選手たちに多大な迷惑をかけるどころか、試合を操り、酩酊の極みまで迷走しているのです。

-おわりに-
この愚かしく全く無駄であるどころか、人に尽くすための競技を人を不愉快にさせる競技として発展させた委員会の連中には、もはや辞めてもらうほかありません。これ以上、柔道という、仮にも「道」という高尚な言葉が冠されたものを、侮辱するのは止めていただきたい。もし嘉納先生が存命であったならば、ただごとではなかったでしょう。嘉納先生が居ないからといって、その理念、思想を軽んじるのは、歴史から何も学ぶことの出来ない無能な人間の所作であります。
早く、この柔道という競技の中止をするか、柔道という名を冠するのをやめていただきたい。もし柔道をこのまま継続して行うというのならば、ルールをきちんと制定し、審判にも徹底的にその職務を果たさせるべきです。
柔道は確かに競技という面が、国際化に伴って強くなりました。しかし、道という言葉が表す理念を忘れてはいけないのです。そのことを選手並びに、審判、委員会の皆様方には理解していただきたい。
現在の試合が本当に低俗の極みであるということを自覚しなさい。

アニメ映画『雲のむこう、約束の場所 -The place promised in our early days-』への試論 感想とレビュー 平行宇宙の存在

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-はじめに-
2004年公開の作品。毎回エンドロールをみて思うのですが、やたらと新海誠の名前が出てきます。それだけ多岐にわたって技術があり、それをやりきるだけの力があるということなのでしょう。新海監督は、監督というだけに留まらず、殆ど自分ひとりで仕上げてしまうという力をもっています。これは良い部分もあれば悪い部分もありますが、新海監督にしか出来ない一つの特色であることには間違いありません。
新海監督にとってはこの作品は3作目となるもので、それ以降の作品の根底となるものが作り上げられたという感じがします。なんといっても新海作品で目を惹くのは、あの空の表現です。これまでのどの作品にもなく、また真似できるようなものではない、宝石が散りばめられたような虹色の空。他はあまりにも写実的で、どうして実写でやらないでアニメーションなのか理解できないほどなのにもかかわらず、この空の表現だけでアニメである意義を徹底的に確定させる力強さです。

-世界観-
この作品は、途中まで現実の世界の話のように思われます。しかし、これは作品のなかでも語られますが、平行宇宙の世界を描いた作品なのです。超ひも理論によって、宇宙が膜のように存在し、そこにはおこりうることが全て起こる世界が展開されているという考え方があります。それを日本小説で初めて体系的に取り入れたのは『時をかける少女』で有名な筒井康隆先生です。これはご承知の通りだと思いますが、そのような平行宇宙、しかも極めてこの世界に近い、ものを描いた作品なのです。
そこでは、ユニオン政府というものが存在し、恐らくロシアなのでしょうが、北方、北海道がロシアに占領されているという話になります。ただ、そこでは科学技術がかなり発展していて、宇宙へとそびえたつ白いユニオンの塔というものが存在するのです。それはその世界と他の宇宙をつなぐ装置なのです。
物理的に考えると、たぶんあのような塔は立ちませんね。素材が自分の重みに耐えられないのです。この世界ではそれが出来る何らかの技術、或いは素材が開発されているのでしょう。

また、もう一つの作品の特色は夢です。私も小説を書くときに夢からアイデアを貰うことがあります。筒井康隆も夢については相当な重きをおいています。『パプリカ』などはその良い例です。それだけ人の夢には力があるのです。
何かを失ってしまうという観念がある少女、沢渡 佐由理。その失ってしまうものとは、今みていた夢の記憶なのです。その大切な記憶がなくなってしまうから、なかなか起きれないということにも繋がると思います。

-作品の欠陥-
作品として、全体を通して一貫したテーマを追い、絵と音の表現も大変すばらしいものになっています。特に平行宇宙のどこかこの世とは違う世界の不思議な感覚を上手く描けています。その反面新海流の写実的なタッチげ現実味を多分に帯びていて、説得力がある。
ただ、私はどうしてもこの作品には最初から成立しえない大きな欠陥があると感じます。そのためどうしても最後まで、作品の崩壊が起きないか心配していましたが、何とか逃げ切れたという感じがあります。この少女佐由理が眠り続ける理由があまりにも不明確です。平行宇宙の情報が流れてきているということはわかります。
ところがどうして流れてきているのかということがわからないのです。ユニオンの塔の設計者が佐由理のおじいさんだからということが明かされますが、だから何故となるわけです。祖父であるならば、孫に昏睡状態に陥るような負担を強いるのはあまりに不自然です。どれだけ家族を恨んでいたのかということになります。でもそんなことはないでしょう。
ユニオン政府に無理やり作らされたという説はありえます。ですから、この世界が他の世界と同化しないように、ユニオンの塔が発動しないような設定を設けた。それならばわかりますが、その設定が孫ではやはりおかしい。自分の子孫に影響がないように作らなければいけないはずなのです。
実際に藤沢浩紀が佐由理を助けたときに、ユニオンの塔は始動して、他の宇宙とつながりかけました。爆弾を積んでいなければ、この世界は他の世界と同化、或いは流れ出すか、取り込まれるかしていたわけなのです。
どうしてもここにプロットの欠落、構成の崩壊が起きています。作品の存在理由が成り立たないのです。

-おわりに-
最もすばらしいとされているのは『秒速5センチメートル』ですが、それは話が最も単純だからです。この作品ではプロットの限界を向かえ、冒険風に描いた『星を追うこども』ではジブリ臭だなんだと酷評されました。
仕事の大部分を一人で背負う新海監督。ただ、私はその仕事を他の人間と共にすることによって、作風に新しい風を送ることができるのではないかと考えます。新海監督は確かに、若手の最も有力なすばらしい監督です。技術は相当なものがあります。それこそ世界でもトップレベルです。ただ、一人ではどうしても限界がある。その弊害がこのように種種の作品の欠陥として現れているのです。ですから、弱点を補ってくれるような共同制作者が必要になるのだと私は思います。
また、新海作品の殆どは外面の話です。冒険であったり、人の行動によって話が進んでいく。こんどは内面、心象に目を向けるとより作品に奥行きが出るのではないかとおもいます。今後も活動を期待します。

OVA押井守『天使のたまご』への試論 感想とレビュー わからないものを解釈する

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1985年に制作された日本のOVAである。原案・監督・脚本は、押井守。71分
-はじめに-
当然のことですが、解釈するためには先ず、その作品を理解できなければなりません。そうして私は傲慢にも殆どの作品を何らかの形で解釈することは可能だろうと高を括っていたのです。しかし、今回この作品をみて、そのような自信は打ち砕かれ、何がなんだかわからない五里霧中の世界に取り込まれてしまいました。これから多くの人がこの作品と向き合うとき、そのようなことが起こるでしょう。ですから少しでもその人たちのために道しるべを作っておかなければならないと感じました。
あのアニメ界の天才宮崎駿も《本作に対し、「努力は評価するが、他人には通じない」と述べており、更に直接本人に「帰りのことなんて何も考えてない」「あんなものよく作れた」「頭がおかしい」と言ったという》らしいですから、恐るべし鬼才押井守。この作品をまともに評価できるのはサルバトール・ダリくらいでしょう。生前に見てもらいたかった。

-設定を設定する-
設定として、ノアの箱舟が陸地を見つけられなかった世界だそうです。ウィキペディアによります。私は聖書に明るいほうなので、そのことがわからなくてとても悔しい思いをしました。
作中では、登場人物が二人しかいないという大変異色な作品ですが、少年がノアの箱舟の話をする場面があります。聖書によれば、ハトを放して一度目に帰ってきて、二度目にオリーブの葉をくわえて帰ってきて、三度目は帰ってこなかったということになっています。ここから次第に水が引き始めていることが推測されたわけで、神の怒りが収まった証拠として、ハトとオリーブは国連のシンボル、平和の象徴となっているわけです。しかし、この作品では、放した鳥は帰ってこなかった。ノアは陸地を見つけられなかったということなのです。
だとすると、この少女と少年はいったいどうして存在するのかということになります。或いはこの町全体がです。ノアの洪水では地上のもの全てが流されてしまったということになります。まあ、そこは作品ですから、何らかの形でこの島が残ったとしましょう。しかし、それでもこの少女と少年の存在は説明不可能です。

恐らく人外の存在なのでしょう。天使としても良いかもそれません。少年は悪魔か何かでしょう。少女はずっとガラスビンを集めて卵がかえるのをまっているのです。水とガラス、真っ白な容貌、卵、全て純白、清純、純潔、処女といったイメージを連想させます。それに対して少年は、その天使の希望である卵を最終的には壊してしまうのですから、悪魔でしょう。悪魔というよりかは、存在としての負、絶望といった感じがします。本人には悪意があるようには感じられません。

-卵の中身-
押井監督自身も、内容よりかは、卵の中身が何であったか考えて欲しいというようなことを言っていますので、それほどストーリーには重要性は感じません。あえて言うのだとしたら、ある天使が守り続けてきた希望があり、恐らく何千何万年と旅を続けたノアの箱舟と思われるものが、その天使を回収しにきたのです。魚はキリスト教のシンボルでもあります。この魚を追い、最終的には天使も回収してしまうのですから、このノアの箱舟は反キリストなのです。神は安住の地を与えてくれなかった、そのためにノアは怒り、二度と許そうとはしなかったのでしょう。
このように解釈してみると、天使の卵の中身が何であったかわかるように思われます。それは、キリスト教的な意味合いの非常に強いものなのです。神自身でもあり、神の分身でもあり、天使でもあり、希望であるのです。それが悪魔によって破壊されてしまう。そのことによって、生きる意味を失った少女は自ら命を絶ってしまうのです。キリスト教では自殺は禁忌です。彼女もまたキリスト教から離脱していってしまったのです。

そうすると、最後のキリスト的な存在が死滅してしまったことになり、そのことに満足してノアの箱舟はまた旅に出ます。この世は再び暗黒に包まれるのです。

-おわりに-
宗教的、ダークファンタジーのような作品ですが、その内容はあまりこの際重要ではないように思われます。一体何が重要かというと、その表現方法なのでしょう。押井監督にあってもこの作品は初期にあたり、自分の表現への挑戦といった感じがします。特に殆どサイレント映画のような作風ですから、音はほとんどありません。そのなかでどうやって表現するのかというと必然視覚的に訴えなければなりません。80年代にしてはありえないほどの繊細なタッチに観客は驚かされることでしょう。ここまでCG無しで動かすことが出来るのか、と感動しました。
特に序盤の少女の動きは、大変すばらしいものです。後は水の表現。これはCGでやれば陳腐になり、実写でもない。アニメーションとしては極めて難しいものです。それを実によく、水の冷たさ、清涼とした空気感まで伝わるように描けているのです。
ただ、この作品は本人でさえも通してみるのは辛いらしいですから、やはりそれでは作品として成功しているとは言えません。芸術論では自分が絵を愛せるように、絵もまた自分を愛してくれなくては一流の作品とは言えないだろうと考えられます。映画と人間とが上手くいかないのであれば、やはり作品としてもう少し人間に優しくつくるべきでした。
ただ、描かれているものは人間の深層心理、内面といったものです。この時期はやはり内面の宇宙へ向かう傾向があります。

細田守特集 映画『おおかみこどもの雨と雪』への試論 感想とレビュー 人間と自然への飽くなき讃歌

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-はじめに-
現在公開されている『おおかみこどもの雨と雪』を見てきました。ネタバレになりますから気をつけてください。
先ず、これを見て感じたことはとにかく驚いたということです。『時をかける少女』『サマーウォーズ』とは全く異なる世界観が展開されます。この世界にはおおかみおとこが居て、おおかみと人間との間の存在もいるのだという設定のみをとればファンタジー、フィクションとなりますが、描かれているものはノンフィクションといっても良いのではないでしょうか。
数学の世界では一旦理想の現実にはありえなし世界を作ってそこで証明します(これを作品と考える)。その後で、実はその世界はこちらの世界と地続きであるということを証明できれば証明完了となり、その理想の世界も真実となるのです。この作品はまさしく、おおかみと人間という嘘を描くことによって真実を描いているのです。

-花、一人の人間として、一人の母として-
また細田監督の得意技というか執念でしょうか、現実世界が精緻に描かれています。「東京の外れの国立大学に」という台詞とその絵を見れば多くの人が一橋大学だと認知することが出来るでしょう。国立(くにたち)から一橋への大学街道を私は何度か通ったことがありますが、まさしくそのまま、一分の一の再現で描かれています。
映画の四分の一はこの国立付近、都会の世界が描かれます。

一生懸命探してもこの花という名前はわかるのですが、おおかみおとこの名前はどうしても見つかりません。意図的に隠されています。免許証ではかろうじて一文字の名前だということくらいはわかりますが、上手に潰されています。発見したのですが、有効期限が平成21年まで、国分寺市ですから、やはり中央線沿線の物語となっています。さて、こうなると『サマーウォーズ』も冒頭健二君は東京駅に向かう際に中央線を乗っていました。細田さんの家も中央線沿線なのでしょうか。ジブリも三鷹にありますし、何故か中央線はアニメ製作に関わる部分が多いですね。地盤ですかね。
話を元に戻しますと、おおかみおとこはおおかみおとこであって、名を与えられていないのです。これをどう解釈するかという問題ですが、おそらく彼はそのままの存在であるという実に抽象的で観念的な存在なのでしょう。現実でもあり、反現実でもある。一種矛盾した存在として描かれているのではないでしょうか。
ただ、その個性、キャラクターは非常に鮮烈であります。大沢たかおの演技はすばらしく、花がまだいたいけな少女という印象があるのに対して、一通り人間の道を歩んできた重み、安定感があります。大沢たかおの声があまり聞こえないのは残念ですが、しかし、この存在はこの声にしてありといったところ。声優が当てられてしまうとどうしても主役になってしまう。これはジブリと同じですが、声優より俳優のほうが少し控えめで役柄とすんなりフィットすることがあります。これもそうなのです。役柄としては『時をかける少女』の間宮千昭と似た雰囲気を持っています。

そんなおおかみおとこと恋に落ちる花ですが、この映画は全体を通して無声映画の要素がとても色濃く出ています。花とおおかみおとこの恋もそうですが、音楽と映像のみによって走馬灯のようにイメージの提示が繰り返され、我々は長い時間を一瞬に圧縮してその経過を体感することができるのです。
ここでは一人の女性としての花が描かれます。この作品は13年間にも渡る長い時間を描いた作品なのです。やがて、花は一人の女性から母として役割を演じるようになります。子どもがおおかみと人間の間のおおかみこどもですから、人に知られては大変な自体になってしまいます。ですから、都会から田舎へ、舞台となったのは黒部、へ引っ越すのです。この子どもをつれて逃げる、人にばれないようにするという構図は角田光代の「八日目の蝉」とも似ています。
さて、そのような隠遁生活を続けるのですが、もちろん全て独力ですから上手く行くはずもなく、大変苦労をいたします。その困難を乗り越えて一人の母へと成長していく様は多くの女性に勇気を与えてくれるのではないでしょうか。
この物語は花の母への成長の記録の物語でもあるのです。

-雨と雪、一人の人間として、一匹のおおかみとして-
この物語は母である花の物語としてみることが出来ると同時に子である雨と雪の成長の物語でもあります。細田監督自身言っている通り、この映画の主人公は三人なのです。さて、この雨と雪ですが、花が生まれたときに偶然庭に自然にコスモスの花が咲いていたから花という名前をつけられたのと同じ要領で、姉雪も雪の降っていた日に生まれたから、弟雨も雨の降っている日に生まれたからという非常に単純なものです。ただ、名はそのもの自体をあらわすという言の葉思想からきた影響が少なからずあるように感じます。それは雪がまさしく冬になり雪のシーンでとても魅力的に描かれているときとか、或いは雨はいつもぐじぐじしてはっきりしない性格であるとか、花がいつも花のように笑っているとかです。
この作品は一見おおかみと人間の子どもなんてとんでもファンタジー、フィクションだと感じる方もいるかも知れませんが、やはり細田監督の写実主義は貫かれます。実際におおかみと人間の子どもがいたらという前提で話を進めていくのですね。だから我々が思うように動く。子どもの頃は人間とおおかみとの境がまだあやふやですからすぐにおおかみになってしまったりする。それが見られたら大変だと、花は困ります。雪が誤って薬品を食べてしまって吐いたときには、目の前に動物病院と小児科があり、どちらに行こうか迷ってしまうという場面もサービスで付けられています。観客から笑いが起こりました。

この作品は一種の教養小説のようなビルドゥングスロマーン、自己形成が描かれています。この二人はおおかみなのか人間なのかということをずっと考えていくのです。この際の雨と雪のコントラストが実に鮮やかです。二人とも幼少期とは反対の性格へなっていく。この仮定が実によく描かれている。丁寧なんですね。
雪原のシーンは特に印象的。無声映画の特色を生かした最高の場面です。舞い上がる雪と共になるシンバルの音。心躍るような軽快さ、雪原の白さと晴れ渡った空の色。三人がなんの心配もなくただひたすらに楽しむ瞬間。この最高の場面を細田監督は映像の中に閉じ込め保存することができたのです。
また、小学校で年月が経ち、成長していく場面、これもすばらしい。長い長い廊下を効果的に用いて、右へ行ったり左へ行ったりとカメラが横にずれると共に、雨と雪はそれぞれ一学年ずつ成長していくのです。
とにかく通常の映画でも考え付かないような、映像メディアだからこそ出来るこのような手法を細田監督は実に上手く、効果的に使用することが出来るのです。その技量には感嘆します。

雨と雪は最終的には、自分の居場所を見つけることになります。しかし、そこには余韻が残っているのです。選択したところで映画は終わるのです。もちろんそこでわざと終わらせたからすばらしい作品なのです。私たちはその後の彼等がどうなったのか、想像せざるを得ない状況になります。これは恐らく多くの人間が見ることとなる作品ですから、ファンが二次創作を一生懸命やるといったことがこの後見られるのではないでしょうか。
つまり、雨と雪の思春期が描かれていないのです。細田監督は『時をかける少女』『サマーウォーズ』共に思春期の少年少女を描くことに卓越している人です。今回はあえてその部分が全くない。これは細田監督が新しい境地へ入ったとも考えられることができます。とにかく、その細田監督が今まで描いてきた雨と雪の思春期に当たる部分が空白になっているのです。ですから残り半分は白紙だよという提示がなされているのです。観客は、その白紙に何を想像し描くのでしょうか。

-終わりに-
この作品は、ある親子の一例をとって成長を観察したものです。そこにはなんのこれこれこうしろとか、こうするべきだといった教え諭すようなものはありません。あくまで事例の提示だけなのです。そうして観客に問うのです。これだけ深い作品はなかなかないように思われます。これはまれに見る佳作です。
雨と雪は偶々人間とおおかみという極端に対照的なことがらにはさまれて自己を画一していきましたが、実は我々も多かれ少なかれ、自分には選択肢があり、どうしたらよいのか迷い続けているのです。それが人生です。
この作品は、そんな究極な選択をした三人、とおおかみおとこの例を挙げて、貴方はどうするのかという問いかけなのです。しかし、私たちはこの作品を見たときに、自己を選択する際のこの上ない恐怖へ立ち向かう勇気を得るでしょう。
田舎に引っ越した先での周りの人達の親切。ちょっとおせっかいくらいな親切が実に牧歌的です。この作品は、成長を詩的に描いたものであります。そうして余白が十分に残っている。今までの作品はどちらかと言うと書き込みすぎていた感覚があります。この作品は、余白の美があるのです。
皆さんはそこに何を見るのか、自分の目で確かめてみてください。

アニメ映画「11人いる!」への試論 感想とレビュー 80年代のジェンダーとしての女性性

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-はじめに-
「11人いる!」は萩尾望都による日本の中篇SF漫画。初出は漫画『別冊少女コミック』1975年です。今回はそれをアニメ映画化した作品を取り扱います。この作品の公開は1986年です。また、80年代の作品ということになります。
さて、この作品は初出が少女マンガということもあって当時かなりの話題を集めました。本格的なSFを少女マンガで行うということは珍しいことだったのです。現在でも珍しいとは思いますが。しかも、主人公は男性。映画のなかには腫瘍メンバーに確固たる女性は一人も登場しません。唯一女性の容貌を兼ね備えたフロルというヴェネ人。しかし、この種族は雌雄未分化という特殊な性の状態をもっていて、成長とともにどちらになるかを決定するというものなのです。稀に魚の種族にもこのようなものがありますね。それと同じようなものだと思ってもらえればよいのではないでしょうか。
2011年の連続ドラマ『11人もいる!』とは異なりますから気をつけてくださいね。ですが、このタイトル、11人いる!というのはなかなか洗練されたタイトルですね。人を惹き付ける魅力があります。一体何が11人なんだ?と感じるわけです。全体を貫いたすばらしいタイトルです。ドラマは知りません。

-80年代ジェンダーとしての女性-
この作品はそうすると、主人公こそタダという少年ですが、少女マンガとして考えると、フロルへの感情移入が行われるのではないかとかんじます。女性性の獲得なのです。このフロルの所属するヴェネでは、人口の問題から、男子は長子しかなれないと決定されています。ただ、例外的に大学に合格するというような名誉の場合には、親の意志に反して自分でどちらになるかを決定することが出来るということなのです。すると、このフロルは当時の抑圧された女性性からの解放が先ず一つ目の大きな課題となることに気がつかされます。
女性はすでに生まれたときからその人生が定まってしまっているのです。同じく作中ではヴィドメニール・ヌームという雌雄同体の種族が出てきますが、この人物が口にする言葉は常に「定め」であります。この言葉の中には運命であるという概念も多かれ少なかれ含まれていることでしょう。このフロルはしかし、その定めからもがく、自己を画一しようとあがく人物として描かれるのです。
フロルは自分の星では一夫多妻制で、女性は確かに美人で、大切にされますが、しかしそれで終わりだといいます。兄の成人式を見て衝撃を受けたフロルは、生まれてきたからにはあのように皆からもてはやされたいと願うのです。ですから、80年代にはこのように、社会的に女性はこうであるべきだという観念があったのでしょう。そこからどのようにして、その社会の女性性、ジェンダーとしての女性と戦っていくのかという問題を突き詰めた非常にするどい眼差しがここにあるわけです。
様々な困難を越えていくわけですが、そのなかで、フロルはタダと惹かれて行きます。タダがフロルに惹かれたといったほうが良いかも知れません。結局はタダに告白されることによって、自分でも気がつかなかった女性としての自己を悟るのです。この状態ではまだ性は未分化でありますから、我々でいうところの思春期にも達していないものだと考えられます。すると、生殖というものもないわけですから好きになるということもあまりないのだろうと考えられます。しかし、フロルはそのタダの思いに答えてあげようと思い、決心するのです。

-密閉された空間・古典的話形-
この作品はそのようなジェンダーとしての女性像からの脱却と、新しい自己としての女性性の構築を描いた作品であると同時に、またSFの古典的な話形も使用しています。密閉された空間の中で集団がどのようにして生活していくのかという問題です。集団心理学の専門分野になるのだろうと思います。
このような考えが出てくるのは、先ず船による航海が始めでしょう。その長い航海の中でどのような心情変化が生じるのか。それが、宇宙へと目を向けられたとき、より圧迫感のある宇宙船の内部での生活はどのようなものになるのかと誰もが考え始めたわけです。この作風は先ず手塚治虫の「火の鳥 宇宙編」に見られる構図ではないかと思います。恐らくそれ以前からもアメリカのSFでは取り上げられるような話形だったのでしょうが、日本の漫画はこれが割りと早かったのではないでしょうか。漫画を専門で研究しているわけではないので、情報の正確さに欠けますからそこは了承してください。
ある密閉された空間で、実際起こってはいけないことが起こる。自分たちの中に犯人がいる、紛れ込んでいる。疑心暗鬼と自己との戦いですね。味方がいない、誰も信じられなくなると、信じられるのは自分だけということになります。しかし、実際人間は自分ひとりで何でもできるわけでもない。精神的にも一人ではいられない弱い存在なのです。だから、どこかでその疑心暗鬼から脱却して、他人を信頼するということになります。しかし、信頼するということは同時に自分の命を預けるということになるのです。もしも預けた相手がこの作品でいうならば、11人目ならば、それはつまり死と同義になるかも知れないのです。
この話形は少し異なりますが、小野不由美の「くらのかみ」にも似ています。いてはいけない人間が存在する。
この作品はしかし、実際かなりやさしい話です。嫌な終わり方をしない。きちんと終わりをつけて、しかもハッピーエンドにする。後味が非常に爽やかなものになるようになっています。80年代の風潮ですかね。わざわざエンドロールでは、その後の11人がどうなったのかまで詳しく解説してくれているのですから、細やかな気が配られています。

-おわりに-
テラ思想というものがあるのではないかとこの作品を見て感じてきました。この作品は他の種族とのコンタクトの後、戦乱が続いたけれども和解をしたあとの話です。その多種族とのコンタクト戦いを描いた作品は多くありますね。前回見た「地球へ・・・」もそうですし、「幻魔大戦」もそれに類するでしょう。「宇宙戦艦ヤマト」「マクロスシリーズ」はまさしくこの異種族との激しい戦いを描いたものです。そうしたものが描かれる一方、この作品はその後の世界を描いているのです。和解できたと仮定するのです。だからそこには多種多様な種族が存在して、個性的であり、それらの人々が同時に生活するとどのようなことが起こるかということを精緻に書き上げられた作品のため、評価が高かったのです。
アニメ映画では声優の当てられ方に不満を持つファンが多くいたらしいですが、性別がない種族の声なんてそもそも人間では当てられませんよね。

アニメ映画「地球へ…」への試論 感想とレビュー 80年代の映画、そこに描かれているものを読み解く

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-はじめに-
「地球へ(テラ)・・・」は竹宮惠子による日本のSF漫画作品が原作。この作品もまた派生が多く、それらとの比較研究も深くなされているようです。アニメ映画はこの作品の最初の映像化。1980年公開。
この表題ですが、単に「地球へ」ではなく、「地球へ・・・」としているところがまたいいですね。三点リーダーを表題に使用するということはかなり珍しいものです。そうすると、タイトルから余韻が既に生じている。我々はタイトルを見ただけで。地球へ何をしに行くのだろうか、では現在私たちはどこにいるのであろうか、われわれは地球人ではないのかなど想像が膨らみます。地球という規模の大きなタイトル、そして余韻。タイトルが非常に洗練されています。また、近年リメイクされたことでも有名になりました。

-世界観-
内容は、地球で人が住めなくなったため、人類はコンピュータの完全な支配化の下に理性のみの生活をして、地球の自然の力の回復をまっている状態です。その機械化された人類とは別に、主人公が属するようになるミュウという種族があります。これは新人類といって、人類とは兄弟のようなものなのですが、人類より肉体的に不具が多く、そのかわりテレパシー等の超能力に卓越した種族です。この二つの種族が共に地球での生存権を争うという話。
地球の周辺で、完全に機械によって管理、支配されている人類というのは手塚治虫のマンガ「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」と非常によく似ている設定です。しかもこの作品の公開も1980年。二つの似通った作品が殆ど同時上映されているのです。そうすると、どちらかが影響を与えたということよりかは、このような思想になっていく社会の流れがあったと案がえられるのではないでしょうか。
人類は理性のみのよって暮らすことができる。出来るというよりかは、むしろその方が理想的であるということなのです。人間は自然には生まれないのです。それはこの作品「地球へ・・・」でも大きく取り扱われていますが、自然出産ということが重要になってきます。この二つの作品の出発点は、もう人間は人間を産まないということなのです。お腹を痛めて生む必要がない。しかも、試験管ベビーだから優秀な人間のみを選んで作ることが出来るのです。
生まれたと同時に殆どの人間の将来は既に決まっているのです。ある年齢になるとテストを受け、定まったコースにそって、定まった人格を作られ、社会の歯車として作られる。
これは機械が極端に発展した結果どういうことが起こるのかということを当時の人間が色々考えた上での究極の形になるのでしょう。そこには、争いや諍いはないのです。皆理性によって生きているのですから、そのような感情は生まれない。恋愛でさえも、元からコンピュータによって配偶者が決められている。しかも何のために我々人間が恋愛をするのかというと、子孫を残すからです。その子孫を残す必要がない、人間が子どもを生まなくても機械が全てコントロールして作ってくれる。作中でも言及されていますが、自然出産は常識では考えられないといったほど非合理的なことなんだそうです。
この作品では、はじめて人間が機械に支配されてからの人口出産によって生まれた子どもたちが重要になってくるのですがね。

-類似作品との比較・人間愛-
この作品が、そっくりの設定の「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」と違うのは、もう一つミュウという超能力の種族がいることです。この種族はしかし、人類からうまれるのです。それは人類を支配しているグランドマザーというコンピュータに初めから地球の意思として組み込まれていた機能だということが最後に明かされます。人類とミュウは敵対しています。では何故ミュウが人類から生まれてくるのか、全てを管理しているコンピュータであればミュウが生まれてくる因子を取り除けばいいじゃないかということなのです。しかし、それは地球の意思である。
最後にその地球の意思が、人類の代表であるキース・アニアンとミュウの代表であるジョミー・マーキス・シンへ語るのです。人類からミュウが生まれるように仕向けていたのは自分であると。そうして人類とミュウのどちらが勝って地球にすむのか競争させたと。これは端的に言えば、二元論なのです。この状態の人類は超合理化主義、理性のみの生物。対してミュウは体は不具ですが、そのため精神が極端に鍛錬されて生物。今の我々は合理化と精神、感情という両方を持ち合わせています。次第にこのどちらかが邪魔だということになるのが大抵のSFの話なのだと思いますが、この作品ではそれが最後に共存するというところに落ち着いています。
人間は人間らしくないといけないと最後にジョミーは言うのです。これは機械主義、合理主義への警鐘とともに、深い人間愛の両方が含まれていると感じます。機械は確かに便利です。便利ですが、それがいきすぎると我々が機械に使われている状態になってしまうのです。人間は自分たちでできることさえもめんどくさがって機械にやらせてしまう。確かに楽です。しかし、それを推し進めていくと、結局人間はいらなくなってしまうのです。存在する理由がなくなってしまう。それでは本末転倒なのです。ですから人類は自分たちで出来ることは極力自分たちの力でやらなければいけないのだと私は思います。
それからやはり人間愛。この年代の作品は実に様々な視点から人類へ対する大変深い愛情が篭っていると気がつき始めました。経済へのあまりの過信、そのためのバブル、それをみこして、人間とはという本質を深く考えていたのでしょう。
人間らしさの条件として愛が必要だとジョニーも述べています。愛があれば憎しみも生まれます。しかし、だからといって、憎しみが生まれるからといって愛までも消してしまうことはしてはいけないのです。
様々な困難があり、非合理的であっても我々は生きていかなければならない。つまるところ強く生きていくことになるのだと思います。だから80年代の作品にはそのことが色濃く描かれているため、感動的で、どこか奥が深いのです。人間のもっている温かみというものが前面に押し出されるからです。

-おわりに-
この作品は、人類とミュウの自然の子が第三の種族として生まれたことを示唆しています。最終的な和解までには多くの人類とミュウが滅んでしまいました。しかし、最後にはそれを土壌にして新しい生命が生まれる。ニーチェのいうような超人が生まれるのでしょう。
私たち人類は、昔から何も変わってはいないように思われて仕方がありません。これだけ先人に学ぼうとして歴史を発達させて、多くのことを学んでいるはずなのに、まるでそれがなかったかのような愚かなミスを犯します。前進してるどころか、昔のほうがよかったのではと思われてしまうほど。ですが、やはりこの作品に習えば、私たちは前進し続けなければいけないのでしょう。その先に何がまっているかはわかりません。その間には多くの苦難と困難の連続。人類の殆どが消滅してしまうほどのことだってあるかも知れないのです。ですが、それでも希望を持つこと、それをこの作品は私たちに提示してくれているのだと思います。

アニメ映画「HARMAGEDON 幻魔大戦」への試論 感想とレビュー 80年代の映画、そこに描かれているものとは


-はじめに-
幻魔大戦はSF作家平井和正と漫画家石森章太郎両者による共同作品で、原作は漫画です。ただ、あまりにも壮大すぎるテーマのためか、たびたび連載が中止になるという作品でもあります。1967年から描き始めていますから、相当古い、漫画の古典のような作品です。また、その世界観からガンダム的展開、派生が多くありますが、しかしそれらも何らかの理由により連載が中断してしまっています。
私はオンタイムで生きてきた人間ではないのであまりよくメディアの存在の様子がわかりませんが、当時のマンガは結構中断したり、主人公が変わっちゃったりと、言うことが多かったようです。この作品も多くの派生を残していながらまともにまとめられなかった作品です。その始めての映像化ということで1983年にアニメ映画として公開されました。

-内容・主人公の心的成長-
1980年代というとどのようなイメージがありますかね。バブルを目前として経済は活気付いていた世の中。しかし、一方ではオカルト的なものが非常に横行した時期でもあります。石森章太郎の漫画は超能力者が多く登場しますね。次回はアキラを取り上げてみようと思っているのですが、この幻魔大戦は彼にとってもマスターピースとなりえるような重要な作品ではないでしょうか。現在でいうところのエヴァンゲリオンのように、結末が異なる様々な話形を展開する。その変わり行く展開の中に何を描こうとしたのでしょうか。
映画版ではもちろん結末がつかなければいけませんから、幻魔一族を滅ぼすということで終了します。
この作品を見て、まったく古めかしいという感情は抱きませんでしたね。確かに80年代のどこかオカルトチックな雰囲気は感じました。しかし、古典的だとは全く思いません。現在では超能力的なものがあまり流行らなくなりましたね。ですが、当時と現在とで、描き方自体は異なっても、描かれていることは全く変わらないことを発見したのです。
つまり、この作品は自己のアイデンティティーの確立と豊かな人間愛が語られているのです。

突然超能力を手に入れてしまった主人公東 丈。声優の古谷徹が実にマッチしますね。どこかアムロのような人間的な欠落を持っているのです。そうして自分の心の中に自分だけの絶対安心の世界を作り出してそこに閉じこもる。現実がどうしても自分の思うようにいかない。どこかずれているという感覚がある。
そんなとき超能力を手に入れる。気が強くなって傲慢になる。力を使いまくる。しかし、その力が決してすばらしいものであるだけでなくて、いつか人を傷つけてしまうことに気がついて、コントロールできるように成長していくのです。

どうも、この頃から地球滅亡といった漠然とした不安があるようですね。現在でもまだ、そう弱くない力をもってそうした言い伝えがテレビ番組に登場したりします。当時のオカルティシズムはこの地球滅亡がかなり色濃く認識にあったのでしょう。だからそこから人類が生き延びるのはどうしたらよいかということになったのだと思います。
しかし、どうしてそこまでして人類は滅亡したがるのでしょうね。人類全体をまとめようとするときに何かしらの恐怖が必要になってくるからでしょうか。この漠然とした不安は一体どこから来るのでしょう。そんな簡単に滅亡しませんて。
でも、その滅亡がついぞ迫ったときに、ヒーローが現れて世界を救済してくれる。その救済が何時の世も必要になっていることは確かでしょう。イエスキリストは確かに実在した人ですが、彼の救いは当時の人々にとって、それからキリスト教を信じる人にとって、心の救いとなっているのです。メシア願望とでも言いますか、私たちはいつの世でも何かに絶望し、不安があり、そこから救済されることを願っているのです。その心の表象がこの作品を生み出したのでしょう。

-ベガ・テーマソング-
この作品では、地球に滅亡をもたらすのは宇宙のある種の生命体、幻魔一族という破壊をその性として生まれもつ存在です。この宇宙には多用な生命体で満ち溢れているという思想。これは確かにSFから来ているのでしょう。しかし、滅亡、破壊の生命体がいるという思想は実に興味深いものです。科学が発展する前は、それは人間たちの心のうちの暗黒の部分であり、或いは自然であったのです。それが、より外的なものに入れ替わったといってもいいでしょう。マクロス7なんかもこの考えを色濃く反映していますね。
さて、そのような一族と戦ってきた種族の生き残り、サイボーグのベガが居ますが、この役割は非常に重要です。この作品で唯一の地球外生命体で、しかも地球の味方なのです。それぞれの超能力者たちのよき指導者となり、リーダーとなり、協力者となるのです。また、声優がすばらしいですね。江守徹ですから、あの安定感のある重厚な声。チェロを聞いているような低くなだらかな温かみは、俳優として鍛えあがられてきた実績を物語っています。80年代、90年代のアニメーションはいまから考えると、そうとうなキャストによるものが多いですよね。現在ではどの人も大御所となっているような方ばかり。豊かな時代だったのでしょう。

もう一つ取り上げておきたいのはこのテーマソング。ローズマリー・バトラーの「光の天使(CHILDREN OF THE LIGHT)」。当時は相当流行ったそうですね。何故か日本ではかなり人気の名曲となっていますが、外国では全く知られていないとか。私も子どものころどこかで聞いたのを覚えていました。
現代のアニメーションだとエンディングは結構はっきりしているものが多いですね。ただ、この80年代のアニメは結構余韻の残るような終わりが多い。この作品も印象的なメロディーのテーマソングと共に地球を救った超能力者たちが環になって空へ空へと飛んでいきます。荒涼として滅亡しかかってしまった地球とのコントラスト。彼は死んでしまったのでしょうか。私にはなにか精神体のようなものになったのではないかと思われました。一方最後は丈が助けたであろうあのシカが緑の多い森林の中にいます。こちらを向いて終わるという印象を強い。

-おわりに-
結局この映画は人間愛について語っているのです。ガールフレンドとの関係、能力を使用した性的なイタズラ、ポルノ映画に断られる場面などは、漫画にはなく、当時の社会現象を表現した映画だけの場面だとか。そうした心のすさみがあるなかで、人間はどんどん不安にかられていきます。そうした心が作り出したのが幻魔一族であり、地球滅亡の思想なのです。ですが、最後には人類は手を取り合って、協力してそれらに打ち勝つことが出来るというメッセージが描かれているのです。
丈のお姉さんの言葉は今でも通用するすばらしい言葉です。「結局人は愛によって生きていられる」という言葉は当時その愛が感じられなくなっていたことの裏返しであるとともに、現在もまた必要となるものです。
最後のベガ、江守さんの人類に対する希望を持てというあたたかさは作品を見終わっても心の沁みるものです。

当時の吉祥寺が写実的に描かれていて、近所なのでとても親近感を覚えました。当時のアニメではこうした実際のものを写実的描くことは珍しかったとか。サンロードは今とあまり変わりませんね。

名画鑑賞チャップリン特集 『ライムライト』への試論 感想とレビュー 人間のどん底からのリベンジ


-はじめに-
『ライムライト』(Limelight)は1952年公開のアメリカ映画。この作品はチャップリン晩年の作品であると同時に、内容がまた極めて印象的で、チャップリンの人生を彷彿させるような感動の作品です。
ライムライトという言葉の意味は何かと調べてみると、「タイトルのライムライトとは電球が普及する以前に舞台照明に用いられた照明器具で、名声の代名詞でもある。」とウィキペディアに出ていました。
この名声ですが、チャップリンはこの2時間強の映画に人の人生を何とか閉じ込めたのです。
この映画は、かつてイギリス一と言われた道化師のカルヴェロの落ちぶれた日々を描き出します。既に映画が始まったときにはこのカルヴェロは落ち目に合っているのです。そこからどうやってかつての栄光を取り戻すのかという映画になります。たぶん今更モノクロ映画ということで話題になった『アーティスト』はこの影響を受けているのではいでしょうか。話の筋が大分似ていますからね。
とすると、このかつての栄光から落ちぶれた人間、その人間がもう一度立ち上がろうとするときに何か皆共感を得るのでしょう。人間が立ち上がる。しかも人生のどん底から。これはいってみればイエスキリストと同じ構成です。イエスキリストは馬小屋の飼葉桶で生まれました。教義的に解釈すれば、人間の底辺に生まれたことになります。そこからの立ち上がり、これに皆感動するのでしょう。イエスキリストとまで行かなくとも、一人の道化師が再び立ち上がる姿に皆勇気をもらうのです。

-どん底から立ち上がる話形-
この映画は『アーティスト』が同じ構成だと私は考えますが、女性が男性の落ちぶれた芸術家を救うのです。
ここには、もがいてもがいて何とか栄光を掴み取るといった暑苦しさや、英雄伝説、成功譚のようなものは描かれません。言わば、自力本願の世界から他力本願の世界へと移行しているのです。
頑張って一生懸命になっている人、確かにこういう人物から勇気を貰ったりすることはあります。しかし、ずっとそういうものばかりみていると、いくらがんばっても上手くいかない人間にとってはプレッシャーとなってきます。そうして皆が上手く行くはずのない世の中ですから、やはり暑苦しい、重苦しいものと感じることも多いわけです。
そこで、かつては名声もあったが、現在は落ちぶれてしまったという人物が登場する。栄光がそのまま続いていたら観客は見向きもしません。また同様に落ちぶれ続けてきた人間にも興味を持ちません。一度栄光を味わったことがあるから、その分挫折も大きくなるというものです。そこに私たちは共感というより同情を寄せるのです。

そうして、鶴の恩返しや、蜘蛛の糸のように、美しいバレリーナテリーが現れます。このバレリーナ、実は自分のバレエ代を払うのに、姉が娼婦として金を稼いでいたことを知り、ショックを受け躍れなくなってしまうのです。
精神的に、自分が踊ることがイコール姉が性を売ることに繋がってしまったのです。そうして自殺をしようとしたところをカルヴェロに救われる。さすがにカルヴェロのように歳をとると、若く少壮気鋭、新進気鋭の若者の自殺を救おうと考えるのです。これが一種の老いの美徳かも知れません。この物語は、バレリーナテリーがカルヴェロを救うという印象が強いですが、一方序盤ではカルヴェロがテリーを救っているのです。
そうすると、ここには人は人と助け合って生きているという道徳的な観念が生じますが、それがさりげなく描かれている。しかも、こうしなさいという脅迫的なものはない。ここにはその一例が提示されているだけで、しかも美しいのです。それがすばらしい。

-恋と方向性-
救い救われの関係が最後には結ばれる二人ですが、テリーは自分が救われたことに対して感謝を抱いています。しかも、老練の芸術家。深みのあるやさしさと、安心感。彼女は彼に恋をするのです。しかし、カルヴェロは歳が離れているとか、経済的にどうだとか、つりあわないとかなんとかいってとにかく逃げまくる。逃げるから余計に女性としては追掛けたくなるような構図になると思うのですが、この恋はつねに一方通行なのです。
実際にはカルヴェロも彼女のことが好きですので、双方向とも考えることが出来ますが、彼の今までの知識と経験、それから彼女のためを思えば思うほど、彼女を手放さなければいけないと感じるわけです。
そうして、もう一人重要な人物が作曲家のネヴィル。彼もまたテリーに恋をした一人でした。しかしテリーはカルヴェロを忘れられない。ネヴィル→テリー→カルヴェロという関係なのです。
追い続ける美しさがここにはあります。恋とは~をこふということですから、一方向でなければいけません。そこに憐憫の情を感じたり、はかなさを感じたりするのです。現在であれば、年の差カップル、年の差婚なんていうものが平気になってしまいましたから、そういう点では現代では通用しない映画になるかも知れません。しかし、まだ多くの人がそういうのは特殊な例と思っているでしょうから、例えば年の差があるパートナーがいる人が見ると、この映画はそうした人達への一つの指針となるかも知れません。

ライムライトの魅力は、チャップリンの落ち着きある演技です。今までの喜劇王と呼ばれた姿はあまりありません。気力が少なくなってしまったものの、人間としての深みが増した老人がいるのです。チャップリンが化粧を殆どしないでそのまま出て来たのですから、当時見た人はどう思ったのでしょうか。私はこれをみて衝撃を受けました。いつのまにか、チャップリンが老人になってしまっている。
しかし、その老いは決して醜いものではないのです。詩的な美しさがあります。ライムライトを有名にしたひとつの要因にあのメロディーがあると思います。川の流れのまだ速い、水がくくっていくような滑らかさ。そうして少し広くなり緩やかに流れるようなあのメロディー。一度聞いたら忘れられないような印象的なメロディーがこの映画を詩的にしているのです。

-最後に-
この映画は、カルヴェロという道化師が再び栄光に帰り咲いたところで、死を迎えてしまいます。これはバッドエンドなのかハッピーエンドなのか、誰にもわからないものです。悲しくもあり、それでいて感動的な終わり方なのです。舞台の袖で踊るテリーを見ながら死ねたカルヴェロは最後に彼女の美しい踊りを見て何を感じたのか。
あのメロディーとともにゆっくりと死んでいく様は実に美しいのです。彼の人生は、そのままチャップリンの人生といってもいいような壮大さがあります。
後身に道を譲る。単にそれだけではなく、カルヴェロは最後の最後まで道化師なのでした。自分の死さえも笑いに変えようとする姿に、観客は涙するのです。
チャップリンという男の一生をカルヴェロという道化師に置き換えて、2時間の中に保存する。それが成功したから我々はここに共感し、涙するのです。名画をどうか夏の間に御覧になっては。

名画鑑賞チャップリン特集 『独裁者』への試論 感想とレビュー ヒトラーへのメッセージ


-はじめに-
チャールズ・チャップリンを知らない日本人は先ず殆どいないことでしょう。1977年に逝ったのですから、もう35年は経っています。それでもなおこれだけの人気があり、現在見ても十分に通用する内容、笑い、これはどうしてでしょうか。今、チャップリンの映画を見たって古いと思うどころか、現在の映画より面白いじゃないかと感じる人が多いと感じます。チャップリンは監督、脚本、製作、出演、と何でもこなす人でした。裏を返して言えば、全て自分で作ったのです。ですから、そこには彼の面影がはっきりと残っています。我々はそこに共感するのです。ですから、彼の面影は現在においても色褪せるどころか、CGの駆使や映像だけでごり押しする映画の中にあってより磨きがかかり、光って見えてくるのです。
今回は、1940年公開の『独裁者』を論じます。見たことがない人でもこのような映画があることはどうしてか知っている。それくらい有名な映画です。また名シーンとして語り継がれるものも多く、チャップリンの初のトーキー映画としても有名です。殆ど多くの当時の観客はこの映画で始めてチャップリンの声を聞いたのでしょう。その声が聞けたという衝撃と共に、この映画の内容のどぎついことにも度肝を抜かれたのではないでしょうか。

-笑いの要素-
時代背景やなんかと絡めて論じるのはあまり私の得意とするところではなく、またよく研究されたものが多く存在しますから私が行う仕事ではありませんが、一つ確認しておきたいのは、公開が1940年ということです。これからいよいよ第二次世界大戦が始まろうという時に、一体どうしてこの映画が公開できたのか、これは今考えても実に不思議なことです。
見た方はわかると思いますが、この映画は非常に痛烈なナチス批判をしています。いくら当時平和であったアメリカだからといってなかなか公開できるとは思えません。明らかにナチスのヒトラーを意識したチャップリンの演じるヒルケンという男。ユダヤ人の床屋チャーリーは迫害を受けます。
内容は非常に重いものであります。しかも現在見るならまだしも、当時は現実問題として実際にユダヤ人たちが大変な迫害を受けて虐殺されようとしていたのですから。ですが、チャップリンはこの映画でそのような思い雰囲気を完全に払拭しています。それどころか大変コミカルに演じきり、最後の演説のシーンでは昇華するような詩的な美しさまであふれ出します。
最初から笑いの連続です。床屋チャーリーの従軍で始まるこの映画は、彼のおっちょこちょいが巧みに描かれています。大砲をぐるぐるにまわしてしまったり、不発弾があろうことかチャーリーを狙ったり、気がついたら敵陣にいたり、逃げ去る際の飛行機では知らぬ間に上下が反転してしまっていたりと、笑い転げそうになる場面の連続です。
ヒルケンのほうでも暑苦しく演説するのですが、タモリのようなむちゃくちゃドイツ語らしきものを喋っていて面白いのです。なんとなくドイツ語に聞こえなくもないという言葉の羅列をただひたすら感情に任せて訴える。それを字幕が上手いこと修正するという面白みがあります。
笑いはこの作品の最後まで貫かれるもので、チャーリーと恋人のハンナがドイツ軍をこてんぱんにやっつけてしまう場面や、ヒルケンが他の国の人物とあったときのいざこざなど、当人にしてみれば命が掛かるような重大な問題でも、おもしろおかしく描かれています。

-名シーン-
この映画の名シーンと呼ばれているものは二つあります。先ずは独裁者ヒルケンが風船の地球儀と戯れる場面。
全世界を支配しようともくろむヒルケンは部下が居なくなったのち、自分の部屋で一人風船の地球儀と戯れます。ヒルケン
の浮かべる不適な笑顔には、虚構がこびりついているのです。風船ですから、大変軽いわけで、机の上にのっかっちゃったりしてポンポンと地球儀を弄びます。
一体何が始まったのだろうかと、何の知識もなかった私は驚きましたが、突然パンといって風船が割れてしまい、ヒルケンは泣き崩れるのです。このメッセージ性。どんな言葉や、どんなしぐさよりもストレートに私たちの心に入ってきます。地球儀が割れてしまう。
一体このことが何を示しているのでしょうか。ヒルケンの野望がはかない風船のようであり、それが割れてなくなってしまった。或いは地球はヒルケンのことを拒絶した。寧ろ攻撃したといってもいいかも知れません。所詮この世は風船のようにはかないものであります。最後のヒルケンのあっけなさを見ると、これはヒルケンのその後の未来を描いていたのではないでしょうか。

もう一つはなんといってもやはり、ヒルケンと間違えられて演説台に立たされてしまった床屋のチャーリーの演説でしょう。6分にも及ぶ長い長いスピーチをします。何でもチャップリンはぶっつけ本番で何を話すのか原稿も書いていなかったというようなまことしやかな噂もありますが、実際どうなのでしょうね。しかし、どの道、これは一人の人間チャップリンとしての心の内をそのまま表現したことには変わりはありません。彼の言葉は実に誠実で、真摯なのです。
そこにはフィクションであったということを忘れさせるだけの力があります。切実な言葉なのです。
そこでは「独裁者になりたくない」という台詞が心を打ちます。「出来れば民主主義がいい」と。これは確かにチャーリーの演説ではありますが、同時にこれを見ている人間への熱いメッセージであり、またヒトラーへ対するメッセージでもあるのです。
伝説によれば、この映画をヒトラーは部下と共に三回見たと言い伝えられています。本当かどうかはわかりませんが、もし見ていたとしたならば、一体何を感じたのでしょうか。
最後には、今現在苦しめられているハンナへのメッセージで締めくくられています。「ご覧 暗い雲が消え去った 太陽が輝いてる。明るい光がさし始めた。新しい世界が開けてきた。人類は貧欲と憎悪と暴力を克服したのだ人間の魂は翼を与えられていた やっと飛び始めた。虹の中に飛び始めた 希望に輝く未来に向かって。輝かしい未来が君にも私にもやって来る 我々すべてに!ハンナ 元気をお出し!」

-最後に-
結論からいうと、チャップリンのこのメッセージは結局ドイツには届かなくて、人間が犯してはいけない大罪を止めることはできませんでした。ユダヤ人大虐殺です。戦争が始まる前に、チャップリンはヒトラーに向けて、戦争を始めないで、別の方法もあることを提示しました。しかし、それは伝わらなかった。チャップリンはどのような気持ちでこの戦争を見つめたのでしょうか。戦後はチャップリンの晩年にもなります。次の記事では最晩年の映画『ライムライト』を論じます。戦争を通してチャップリンが何を感じたのか、その一片が伺えるのではないでしょうか。

細田守特集 映画『サマーウォーズ』(SUMMER WARS)への試論 感想とレビュー 空間と人間性 現代への警鐘 

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-はじめに-
現在『おおかみこどもの雨と雪』が公開されています。それに先立ち先日の金曜日には金曜ロードショーとして2009年公開の『サマーウォーズ』が地上波放送されました。
現在アニメ映画というと巨頭はもちろんジブリアニメーション。何かとアニメ映画はこのジブリの作品と比較研究されることが多いです。それは確かにジブリが日本におけるアニメ映画という一つの確固たる地盤を築き上げたからでしょう。しかし、その反面そのあまりに大きな影響力のため、後身が育たない、或いは影響されてしまうという弊害もあります。私が研究し追い続けているアニメーション映画には、ジブリとともに、『秒速5センチメートル』『星を追うこども』の新海誠、それから今回取り上げる細田守監督の作品があります。新海誠監督は、洗練された写実的な美とともに、思春期特有の繊細な心情変化を効果的に表したすばらしい作品をつりあげましたが、前作の『星を追うこども』では「ジブリ臭がやばい」等厳しい批判をされました。
今回は細田守監督の『サマーウォーズ』についてジブリ作品や新海誠作品と絡めて論じます。

-空想世界OZ-
2006年公開の『時をかける少女』の映像化は当初小規模で行われたものの、大ヒットとりました。これは同筒井康隆の作品が原作です。余談ですが、私は大変筒井先生の作品が好きです。この映像化を見たときの衝撃は今でも覚えています。70年代の島田淳子のドラマが頭に残っている人達も多いのではないでしょうか。この作品はそうしたドラマとは趣が大分異なり、時間の概念が非常にビジュアル的にも洗練され、より異世界、異空間といった印象がありました。
この作品も、舞台の半分はバーチャル世界のOZという創造の空間になるわけです。しかし、ここではそのOZの世界が現実世界と非常に密接に絡んでおり、OZの危機は現実的な意味を持つという設定なのです。ですが、ツイッターやネット上でオリジナルのアイコンをつくり仮想空間で遊んだことがある人などは、大してフィクションであるという印象をもたなかったのではないでしょうか。つまり、これは近い未来に起こってもなんらおかしいことがない実に現実味を帯びたフィクションなのです。ですから、我々も全く無関心ではいられない。ここに一種の共感を持つのではないでしょうか。

また、現実世界として描かれる小磯健二や篠原夏希のいる世界は、『時をかける少女』とは変わって、非常に写実的に描かれています。この点では新海誠監督の作風と似ている部分もあります。ただ、おどろくのはただ写実的なのではない。徹底的に描きつくすという手法をとっています。金曜ロードショーでは大分色々なシーンがカットされていて、監督これで怒らないのかなと心配もしたのですが、そのカットされてしまったシーンの中に健二が東京の駅に行くまでに中央線に乗っている姿があります。ちょうど列車が新しいものに変わってそうたっていないころで、私は中央線利用者なので、とても親近感を感じました。
舞台となった土地も長野県上田市と実際にあるもの。この作品は、現実世界は本当にそのまま我々が住んでいるこの世界を描いたものなのです。それとバーチャルの世界とのコントラストがあるわけです。

冒頭のOZの世界へ入っていく様は、『時をかける少女』の黒と赤いストライプの時間軸のような仮想の世界を思わせ、観客は興奮を覚えたでしょう。私は小説も読んで比較研究をしてみたのですが、やはり小説ではあまり視覚的に訴えるものがなかったので、たいして面白くはありませんでした。ここは、細田守監督が得意なCGの効果を上手に利用できている部分であります。きちんとバーチャルの世界と現実の世界の描き方を書き分けているところがよいのです。やはりCGにも一長一短がありますから、これを上田市の風景とくっつけようものならせっかくの世界観が壊れてしまいます。楽をしようとして現実世界もCGで描かなかったところがこの作品が成功した一つの要因でもあるでしょう。

-家族の絆-
ちょうど今度の震災があったため、絆ということばが盛んに叫ばれるようになりました。私はこの絆という言葉が嫌いです。そもそも絆ということばを言わなければいけないほどに現代日本人は人と人とのつながりが薄まっていたということに気づかされましたが、だからといってこの絆という言葉を叫べば絆は出来るのでしょうか。否、絆絆と叫んでいる人間には毛頭被災者と絆を持とうなんて考えている人間は殆ど皆無に等しいのです。なんとなく絆って大事だよねと自分と他人に絆という言葉を用いてその陰に潜もうとしているだけなのです。
この作品には絆という言葉は出てきません。しかし、そこには明らかに我々が今失っていて、気づかされたつながりがあるのです。
大家族ともなれば、それをまとめていくのは容易なことではありません。栄おばあちゃんが言っている通り、中途半端な人間は必要ないのです。そのようなものをのさばらしておけば秩序がなくなる。現代ではこの中途半端さが主流になってしまっているから秩序もへったくれもなくなっていると言えるでしょう。
また、侘助と家族との軋轢は大変溝が深いものです。愛人の子というレッテルは彼と彼の家族、そしてなにより栄おばあちゃんを苦しめました。しかし、それでも栄おばあちゃんは自分の信念に従って侘助を迎え入れ、ご飯を食べさせようとしたのです。
絆なんて綺麗なわけがないのです。人間ですから嫌いなものがいれば、殺してやりたいと思うものもいる。それをわかった上で築き上げていくものです。それは陣内家が何百年もの間に築いてきたものなのです。それを絆だなんだと叫んだとしてもそんなに簡単に出来るものではありません。よしんば出来たとしてもそれはその程度のものでしかありません。
そうした意味でここには古典的な人と人との交わり、つながりが描かれています。そうすると、バーチャルという仮想空間内での人間関係と、現実での人間関係というコントラストが見えてきます。

-終わりに-
さて、ツイッターやフェイスブック、ソーシャルネットワーク、これらを利用している人に聞きたいのは人とのコミュニケーション取れていますかとうことであります。私はブログしかやりません。これは人と繋がるという目的ではやっていないからで、目的は書き続けること、論じ続けることによって自己を鍛錬しようとしているのです。
この世界では携帯やパソコンを持っている人間は殆どがOZという世界で多くのことを済ましてしまいます。買い物から家を買うこと、株、納税、その他諸々。さて、仮想の世界で繋がっていても、実際にその人間が向かっているのは携帯の画面かパソコンの画面に他なりません。マトリックスのように意識ごとその世界にもっていけるのであれば別ですが。
それに対して陣内家では面とむかって会話をしている。そこには他愛のないものもあれば、親戚同士の裏話、内輪もめもあるのです。仮想空間にはあらしのようなものはあっても実際に喧嘩など起こることはありません。人間は人間として人間と合対することはないのです。全て偽り、虚構、偶像、仮想。
この作品は、アメリカ軍のウイルスによるOZの暴走ということで現実的な危機が生まれます。そこには、仮想空間の危機が現実世界の危機に直結してしまう異常な事態への警鐘と、人間同士のつながりをもう一度見つめてみようという反省の念が込められているのです。
皆さんはこの作品を見て、いい夏だなと思い自分もこんななつを送れたらと思うだけかも知れません。それも結構ですが、我々が今人と繋がるためには携帯がなければ繋がれないという状態は異常ではないでしょうか、それを考えてみてください。

映画「25年目のキス」への試論 感想とレビュー もういちど高校生活を送りなおす

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原題はNever Been Kissed。1999年のアメリカ映画。
-初めに-
久しぶりに面白くて、楽しい映画を見ました。日本語版のタイトルは「25年目のキス」原題は「Never Been Kissed」。まずはこのタイトル表記の問題から論じます。この作品を知らない人が見たら、一体どうしたらこのような訳になるのか当惑するでしょう。あまりにニュアンスがかけ離れすぎてもやはなんのこっちゃわかりません。種明かしをすると、この映画の主人公ジョジー・ゲラーはブサイクだと呼ばれ続けた高校生活を送り、25歳になった現在でも一度もキスをしたことがないということなのです。だから今まで一度もないということでNever Been Kissed。日本語では主人公の年齢から考えて「25年目のキス」。
でもこれはいくらなんでもと私は考えます。私は文学者ですから翻訳は門外漢ですが、しかしこれじゃ意訳しすぎて意味が通じません。ちょっとやりすぎだと考えます。私なら「はじめてのキス」とかにしますね。ただ、これだとあまりに平凡すぎて他の作品に埋もれてしまうという欠点もあります。様々な試行錯誤の後にこのタイトルに決まったということはわかります。

-もう一度高校生活を-
さて、皆さんんはどのような高校生生活を送ってこられたことでしょうか。私は何年も付き合った彼女を親友と思っていた人間に奪われ、友人たちはぐるになって私をはめ、大変な目に合いました。その結果一方で芸術的な方面に力を全て注いだこともあって高校生のコンテストでは、絵画や写真で入賞するなど、それなりに名はありました。やり直せたらな、今ならあんなへまをしないのに。そんなことは誰だって感じることであります。特に高校生のときに何かしら失敗をした人ならばなおさらであります。また花の高校生生活を送っていた人でも、楽しい記憶にもう一度浸りたいということはあるでしょう。ですから、高校生のときの過ごし方がどちらにころんでも結局もう一度高校生の生活を送ってみたくなるというのが一般的な心情ではないでしょうかね。

この作品の主人公ジョジー・ゲラーは自分の送った高校生生活に非常なコンプレックスを抱えた一人でした。彼女はしかし、聡明すぎることもあり、現在では敏腕編集者として新聞会社に勤めています。ある日、社長の勝手な思い付きから、現代の高校生生活の現状はどうなっているかこれを記事にしたいといわれ、覆面記者をするように任命されます。彼女は編集者ですから記者ではありません。しかし、同僚たちの反対を押し切ってまでも彼女はもう一度高校生生活をやり直したかったのです。
しばしばフラッシュバックされる彼女の高校生時、彼女は現代で言えば大変極悪ないじめを受けていました。ですが、彼女自身それを真剣に受け止めるという性格でもなかったのでなんとかやってこれたのでしょう。ですが、キャリアウーマンとなった今でも過去の恐怖は忘れられずたびたび戻してしまいます。
しかし、それでもなお彼女はもう一度高校生にもどるのです。彼女は彼女自身の過去と立ち向かい、やり直したいと切に願っているのです。

-今も変わらない高校生の人間関係-
高校生のなかには必ずイケているグループがあります。女子であればファッションの最先端を知り、モデルや化粧などのガールズトークに花を咲かせ、男子からはモテ、他の女子からは羨望の眼差しで見られる。男子にはクラス、学校のヒーローのような存在があります。どこか神秘的なものを秘め、それでいて力強く、その人がなすことは全て美しく見え、周りには自然と人が集まってくる。
これは何処の国、何処の学校でも同じことです。そうしてイケていない人間はクラスで一人ぽっちになるような人もいれば、イケていないグループを作って周りから自分を守るかのどちらかです。
ジョジー・ゲラーは、クラスの全員から馬鹿にされ、いじめられました。これは日本ではあまり見られるものではありませんが、日本ではわりと内向的なため、クラスのイケているグループが表立ってイケていないグループの人間を攻撃することはありません。どちらかというと割りと陰気なやりかたで、まわりが気がつかないこともあります。ところが割りと外向的なアメリカではイケているグループの人間がリーダーとなってクラス一丸で特定の子をいじめるのです。ジョジーは昔、かばんに色々な汚いものを詰められたり、何かをかけられたり、馬鹿にされました。

この作品の魅力は、そんなイケていない女子高生ジョジーが、イケているグループへと変貌する変身譚だからです。これをみると、イケているグループに憧れてきたかつての自分と彼女とが重なり、そこに自分を投影してすばらしい体験をできるからです。
私もどのようにしたらイケているグループに入れるようになるのかなと思って熱心に見ていたのですが、これといった妙技は教えてくれませんでしたね。ただ、弟のロブもまた覆面入学してきて、彼のおかげで姉であるジョージは一躍トップへと踊り出ます。
ロブは何故かイケているのです。派手さが理由なのでしょうか。自分の他人に誇れる部分を入学するや否や男子のヒーローであるガスに認めさせます。イケている人間になるには、イケているグループの人間に認めてもらうことが重要なのです。そうして彼等と一緒にいることがイケている条件になるのです。
ロブは姉を何とかイケている女子高生に仕立て上げようとして、ないことばかり皆に吹き込みます。やはり人気者ロブのいうことは自分が考えていることと違ってもそちらが優先されます。心理学用語で論理誤差といいますが、例えば明らかにストライクと思われる球でもイチローが見逃せばボールかなと疑ってしまうようなことです。
人間は実に弱いもので、自己主張が強いアメリカでも他人に流されてしまうということはあるのです。

-ラストシーン-
彼女は最終的には学校のトップまで登りつめ、プロムと呼ばれるダンスパーティーではクイーンの称号まで手に入れます。ですが、その会場でキングとして共に踊ったガイが、イケていない女子、数学(計算だっかな)クラブの女の子を皆でわなにかけようとします。それに気がついたとき、彼女は最初自分がまだイケていなかった時にやさしくしてくれたことを思い出し、はっと悟ったのです。自分の姿、イケているグループの頂点にまでのぼりつめたことがなんであろうか。だからといってイケていない人間を皆でいじめわらって楽しむとはどういうことか。
彼女はそれを妨害します。そのため飛び散った犬のエサはイケているグループの女子の仲間の顔面に命中。彼女たちは憤慨します。それに対してジョジーは「自分たちが偉いということを感じたいがためにそんなことをしていいのか」と問います。「彼女はいいひとだ。自分が最初学校に入ってきたとき、彼女は何も聞かずに私と仲良くしてくれた、心のきれいで優しい子だ」といいます。
この作品のもっともいわんとする部分はここではないでしょうかね。結局はこころの問題ではないかというまあ、いってみれば道徳的な観念ですが、それではっとする観客は多いと思います。いままでいじめられてきた側の人間であれば、自分が肯定されたようになり、いじめてきた人間にとっては回訓となるのです。

また、この作品は高校生生活には欠かせない恋の物語でもあります。彼女はやはりヒーローのガイとくっつくのではなくて、先生のサム・コールソンとめでたく一所になります。作中では生徒と教師のいけない恋愛を記事にしろと上司からは迫られ、彼女はそんなことしたくない、彼に恋しているということでダブルバインドに挟まれますが、結局は上手くいくのです。これもなかなか感動的なラストでした。
この先生の講義の場面では、シェイクスピアの「お気に召すまま」が取り上げられています。そこで彼はこういうのです。「ロザリンドは男装することによって告白することが出来た。ここでは男装するということによってその人物の内面までが変わるのだ。それをシェイクスピアは書いた」。これはそのままこの作品自体にも跳ね返って、彼女は女子高生という服装をすることによって、こころもそうなるということです。

ラストシーンは特に、こういう作品にありがちな回顧主義だけで終わってしまうということから一転して、新しい希望、人間関係の再構築といったものが描かれています。当時アメリカでも大ヒットした作品。夏にみるお勧め映画の一つです。
この記事を書くに当たってインターネットで情報を探したのですが、その際に、文字候補のなかにガイという男子のヒーローの名があって、すこし検索してみると、ガイを演じたジェレミー・ジョーダンに恋をしてしまった観客が結構いるようですね。確かに男の私が見てもかっこいいとは思いました。

映画「ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜」への試論 感想とレビュー 日本人の宗教観を感じる

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-はじめに-
2009年公開のCGアニメーション映画。先日のベルセルクを観てから、CGのもつ質量について、あまりCGも有効ではないのかも知れないと感じるようになっていました。今回の作品もやはり、CGのため質感がうまくつかめません。どうしても軽いという印象があります。
ですが、今回の作品はベルセルクのような殺伐とした感じはなく、それこそ鏡の中の世界、別次元の世界、精神上の世界、現実とは別の世界を描いていますから、その独特の御伽噺のなかにいるような雰囲気はCGによって多少高められた部分も感じられました。

-宗教観-
宗教観といっても、もう日本土着のものですから、われわれは宗教とも思わないほど体になじんでしまっているものはいくらでもあります。この作品には、ずばり依り神、アニミズム信仰があると私は解釈しました。
詳しいことはウィキペディアで調べて欲しいのですが、簡単に言うと、依り神は長年使用してきたモノには魂が宿るという感覚です。アニミズムが凡心論ともいい、万物に心があると考えるものです。学習心理学なんかを少しかじりますと、ピアジェの認知発達理論で言えば、前操作期(2~8歳)にこの象徴的思考段階が現れます。ちょうど、我々が親からものを大切にするとことを教えられるときに、「そんなに乱暴にしたら○○がかわいそうでしょ」とか「痛いでしょ」といわれることによってそうした感覚が植えつけられてくるように思われます。
大人になるにつれ、物に心があるなんていう感情は薄れてしまって完全に忘れてしまいますが、小さいころは自分の大切にしていた人形やなにかにそうした特別な感情を抱いたのも確かなのです。

この作品では、それらのものをとっていってしまう狐が描かれています。冒頭の絵本では完全な狐だったのですが、ホッタラケの世界にいるあの生き物は狐といってよいのかちょっと判断に迷うところもあります。どうしてあのような豚鼻になったのかを探求してみても面白そうです。ただ、古来より人は狐に化かされたといったような言葉があるように、狐を一種の神的な扱いをしてきました。伏見稲荷なんかはそのよりどころをさらに強くしているのではないでしょうか。その狐の世界はどうなっているのか、そんな人間の面白い想像の世界が見事に描かれているのです。

-着眼点-
この作品は、ほったらけにしているとものがなくなってしまうということを描いています。これもよくあることです。今思い出してみると、私はあんなものを大切にしていたな、こんなものもあったな。しかし、どこにいってしまったのだろうか。引越しや大掃除をしてしまうと、そのたびに人は大量にものをすてます。そんな大切な品物もまた誤って捨ててしまうこともあります。そうでなくても、いつの間にかあれがないこれがない。我々の記憶能力の薄弱さ、またその御蔭で生きていけるともいえますが、このはかない記憶の中から失われていってしまうものたち、それらが行き着いた先は?そうした我々の日常のひょっとしたことに着目された作品です。

一般論を言いますと、物語創作は大変難しいものであります。それは悪質なものを作るのは簡単ですが、良質なものを作り出すのは大変な困難であります。私はこの作品をみて、今まで気がつかなかった些細なことを教えられ、意表を突きました。新しい、新鮮だと思うと同時に、なるほどなと感心したのです。
この作品の着眼点は先ほども言ったように日常の些細な思いです。それをつきつめていくと、日本の信仰心のようなものと絡まり新しい世界が作られたのです。ファンタジーであって、そのなかに心の温かい交流がある。すばらしいですね。
特にこれは大人がみても面白いですが、子どもがみるとよい影響があるのではないでしょうか。ものにも心がある。こういう嘘はついてもいい嘘なのではないでしょうか。しかも嘘と決まったわけでもない。私はこれをみてそのことをもう一度考えてみるという機会を与えられたと感じています。

作中では、母親の形見である手鏡を探しに冒険をします。でもこれは不思議の国のアリスのようなあっちへいったりこっちへいったりする乱暴な展開があるわけではなく、世界観はファンタジーそのものですが、そこには暖かい心の交流があるのです。それは遥とテオとの異文化、異種族との交流でもあるし、遥とコットンの持ち主と人形という一方的な関係が双方向的になることでもあり、そしてなにより、親と子との関係の再構築になっているのです。

-終わりに-
この作品の主人公は女子高生です。さて、以前紹介した朝井リョウの『少女は卒業しない』もそうですが、『時をかける少女』『猫の恩返し』など、女子高生が主人公となるファンタジーは非常に多く、しかも良質なものが沢山あります。どれも共通しているのが、女子高生という名前がもつ二次的な意味です。不思議な空間、不思議な時間間隔、思い悩むこと、あらゆるものとの関係・交流のありかた。こうしたものはもう割りと古典的な話形となりつつあると私は感じています。
私は男なので女子高生がどのような感覚をもっているのかは体感としては知りえませんが、この作品の主人公である遥もまた、現実から乖離している部分があったり、親子関係が上手くいかなかったりしている女子高生の一人なのです。
物語を終えて、冒頭と同じ時間に現実世界に戻ってきますが、現実ではたった数分かそこらの間に、彼女は大きく変化するのです。それは冒険のなかで彼女が手に入れて母との思い出のためかも知れません。
結果彼女は母が亡くなったことをなんとかカヴァーしようとしている健気な父の姿を発見し、今まで目を瞑っていた自分自身と、父親の姿をしっかりと捉えることが出来るようになったのです。

遥という主人公の名前ですが、原作があるかわかりませんが、これにあわせて綾瀬はるかを起用したのか、綾瀬はるかにあわせて遥にしたのかちょっと気になるところです。声優さんもよくこの世界観にあっているのですよね。綾瀬はるかは元々グラビアとしてデビューしたわけですが、女優としての演技も上手いですし、声もとてもすばらしいですね。はつらつとしたなかにどこか丸みを帯びたやわらかいものがある。彼女の女性性はなかなかない美しいものです。今後も頑張って欲しいですね。

ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」への試論 感想とレビュー 今若者に最も読んでもらいたい小説 心理学的視点から読み解く

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-はじめに-
以前から書こう書こうと思っていたのですが、とてもすばらしく論じるのが困難なため、つい先延ばしになっていまっていました。今回はダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」を論じます。
この作品はとにかく、出来るだけ多くの人に読んでもらいたい作品です。というのも、実に様々なことを私たちに考えさせてくれるからです。恐らくこれらにことは、一人ひとりによって意味も価値も異なるとは思いますが、しかし、何かしらを考え学ぶことのできる大変稀有なテキストとなります。
ダニエル・キイスは1928年生まれで、ご存命の作家です。さて、私が読んだのはダニエル・キイス文庫から出たものですが、そこには日本語版文庫への序文としてキイス本人からのメッセージが記されています。初めは作品の内容も知らないのですから、一体何をイワンとしているのかちょっと分りかねますが、一読した後もう一度読むと、そこにはキイスの人間性が垣間見えるように私は感じました。彼の人間への暖かさ、それと同時に知能の遅れた人間に対する周囲の冷たい反応への正当な憤り。大変正義感の強く、そうして人間愛の豊かな人なのだと、ここから読み解くことが出来ます。

さて、心理学というものは、フロイトの精神分析が有名であり、実際19世紀ごろから徐々に発展してきた学問です。私は専門化ではありませんから、一般論になりますが、しかし、精緻な研究がなされているのは割りと現在からそう遠くない時期です。つまり、1900年代の後半から様々な実験様式や、体系化がなされています。
この作品を見てみると、初出が1959年です。この「アルジャーノンに花束を」はキイスの代表作であると共に処女作であり、中篇を出した後、長編にしたという経緯があります。長編でも1966年ですから、そうすると、現在大学で学べるような体系的な心理学はまだ完全に整ってはいないであろう時期に出た本なのです。
ここから考えてみると、現在心理学で学べる様々な学習に関することなどが、いっぱい詰まっているということは、一重にダニエル・キイスの先見性と、その学術的にも価値ある作品であることを証明し、作品のすばらしさをそのまま表すことになるのです。

-主人公の心情変化-
この作品は、チャーリイ・ゴードンという青年の一人称物語です。始めて読み始めるとき、読者は必ず驚くでしょう。殆どひらがなの低学年が書いたような文章、というより言葉の羅列が続きます。読みにくいことこの上ありません。一体これはどういうことなのか、しかし、その疑問は彼の語りと、レポートによって徐々に明かされていきます。
チャーリイは知能が遅れた人でした。彼は、当時の精神学の権威たちによってある手術をすることになります。それは脳を手術すること。知能の遅れを人間の手によって何とか改善できないかという壮大なプロジェクトの被験者となることを契約したのです。
実際どのような手術が行われたのかという詳しい記載はありませんが、彼は遅れていた知能を物凄い速さで取り戻していきます。
これは彼自身の目によっても見えると同時に、我々は彼が書く文章が次第に大変上手なものになっていくという過程で体感することが出来ます。

この際の心情変化が実にすばらしい。まさしくこれは人間の成長を一瞬の間に書き留めたといえるもので、これが一体どのようにして他の人間が書けようかと疑問になります。チャーリイが書いているのですから読者は納得しますが、しかし、一旦作品から離れてみると、書いたのはキイスに他ならないのですから、どうしてこのような変化がわかるのか、実に不思議です。
次第に我々よりも頭が良くなっていくチャーリイ。彼は自分が今まで知能が遅れていたことを馬鹿にされていたということに気がつきます。この発見は大変衝撃的なものでした。皆いい人だと思っていた人間が、実は自分を笑っていたというのは、彼にとって辛いことです。しかし、それでもどこか許してしまうという一面も彼は見せます。人間がこんなに悪いものだろうとは考えないのです。このとき、読者はどうしてチャーリイはそんな風に思ってしまうのと心を痛めます。
しかし、取り巻きの人間のいじめよりもさらに、実は母親がチャーリイに行ってきたことの実態に気がつくと、チャーリイは自分の行動を規制せざるを得なくなるほど怖い体験をしていたのです。これはまさしく、刷り込みの話に繋がってくると思いますが、それは後で話します。この母親は、チャーリイのみがいたときは、自分の息子が知能遅れなはずはないと、頑なにチャーリイを認めることをしませんでした。これは彼女の理想像をチャーリイに押し付けるという形で、本当の彼、現実から逃避していたのです。それだけ理想が高いわけですか、チャーリイが何か出来ないと大変叩いたという記載があります。そのヒステリックとバイオレンスを彼の父は止めようとします。
この母親のバイオレンスと父親のストップという構成は、「Itと呼ばれた子ども」にも通じるもので、キイスは今からやく半世紀前にすでにそれをずばりと見抜いていたのです。

-チャーリイと対人-
チャーリイは一方で、知的には成人よりもはるかに上になりましたが、精神的な発達はまだできていませんでした。知能ばかりが先行すると一体どのようになるのか。キイスはこの作品でその例を一つ提示してくれました。チャーリイは大学の教授がたいそう馬鹿に見えるほどにまで知能があがりました。恐らく知能だけで言ったならば、世界中の誰よりも頭がよかったことでしょう。そうすると、今まで自分のことをみてくれていた先生たちが極めておろかな人間に見えてくるのです。しかも、それを指摘すると、彼らは怒り出す。チャーリイは自然と人間を馬鹿にするようになりました。頭が悪いということを隠そうとしかしていないからです。
そうして、チャーリイは自然と人間から離れ、同じ知能があがる実験を受けたねずみアルジャーノンと仲良くなるのでした。

また、この小説にはチャーリイの恋愛も語られています。知能が遅れた人間の教育をする機関で働いていた、プロジェクトの一員でもあるアリスという女性と、チャーリイが逃げ出した後借りたアパートの向かい側に住むフェイという女性です。
このアリスが彼は本当は好きなのですが、彼はアリスに近づこうとすると上手くいかなくなってしまうのです。一つには、母のかつてのすり込みがあると考えられます。何か失敗をしたり、へまをしたり、或いはやってはいけないことをやるとこっぴどく怒られて叩かれるという意識が働いてしまうのです。彼はどこかで、自分の先生でもあったアリスと関係を持つことは大変悪いことなんだと感じてしまうのです。知能では、彼女が好きで、何をすればよいかわかっている。しかし、いざというと体が動かない。この自家撞着は多かれ少なかれ私たちにもあることで、それをずばりと表現しているのです。
もう一つは、チャーリイの分裂です。これは多重人格にも似ているとも考えられますが、私はチャーリイが自分を認めないためにかつての自分が出てきてしまったのだろうと思います。チャーリイは母親との問題をクリアしていこうとしますが、そうすると、もう一人のチャーリイが自分を見ていることに気がつきます。そのチャーリイは現在のチャーリイとアリスがくっつくことを異常に嫌うのです。
知能が発達したチャーリイは、かつての愚かだった自分を認めなかったのではないでしょうか。それがコンプレックスとなって表出したという感があります。

フェイは自由奔放なアパートの住人。芸術をやる人間ですが、どこか酒やドラッグをやっていそうで、もろくてこわれそうな感じがします。私はこの雰囲気はカポーティの「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーを連想させます。共にアメリカニューヨークしかも、「ティファニーで朝食を」は1958年刊行ですから、影響がないとはいえないのかも知れません。勝手な推測ですが。
それで、チャーリイはこのフェイとは関係をすることが出来るのです。それはアリスと親密になれないことへの裏返しであり、憂さ晴らしであったのです。しかし、次第に彼女は彼を怖がるようになります。それこそ知能が徐々に上がっていったとき、周りの人間が大変怖がったように。

-チャーリイとアルジャーノン-
アルジャーノンはチャーリイの親友であり、ライバルであり、そうして彼の鏡でもあったのです。アルジャーノンはチャーリイに先立ち、知能があがる手術をしました。チャーリイはアルジャーノンが自分が馬鹿であることをひた隠しにしようとしている教授たちとは異なって、純粋であることに引かれました。そうして、彼はアルジャーノンをつれて教授たちの下から逃げ出したのですが、アルジャーノンは、チャーリイの先輩ともあって、彼はアルジャーノンの異変に気がついたとき、即座にそれと同じことが自分の身にもおこることを予感したのです。
アルジャーノンは、共に逃げ出してから一所に住んでいましたが、あるときから自傷行為や、暴力的になったりしました。それをチャーリイは、今まで出来ていたことが出来なくなっていく自分にいらだっているようだと書いています。
チャーリイははっきりとアルジャーノンに起こったことが自分に起きるだろうとは書いていません。しかし、書いていないからといって考えていないとは限りません。チャーリイはそのことをわかった上で書かなかったのだろうと思います。
フェイがチャーリイを恐れるようになったのは、チャーリイが次第に暴力的になったり、今までできていたことが嫌に遅くなったりしたことです。物忘れも激しくなり、彼女との約束も忘れてしまいました。
次第に弱っていくチャーリイをアリスたちが発見して、最後は何とか連れ戻すのですが、その過程がこの小説の命といってもよいと思います。この一人の人間のあまりに早すぎる衰退を目の当たりにして、読者は一体何を感じるのか。これほど深い問いかけをしている作品はそうはありません。

-終わり-
チャーリイが先に死んでしまったアルジャーノンに花束を添える場面があります。まさしくこれがチャーリイにとっての始まりであり、終わりであったわけです。彼は次第に弱まっていき、以前の状態、或いはそれ以上に悪い状態になります。
作中時間をきちんと調べていないので、ちょっとあやふやですが、一年も経過していなかったと記憶しています。ですから、この一年間のなかで、チャーリイは子ども同然だったのが、人類の叡智を手に入れ、そうして精神的に死んでいったということになるのです。
我々が一生をかけて変化するようなことを彼はたったの一年そこらで行ってしまったのです。この作品はまさしく文学そのものです。というのは、文学とは人生を切り取ったものだとすると、これは余すことなく切り取り、圧縮した作品なのです。これを読むときは、それぞれがもっている経験と照らし合わせながら、解凍していくのです。
また、この作品が問うといる問題の複雑さと、人間の性といった哲学的な思想にも驚かされます。先ずは自己の問題です。それから自己と他者。親子の問題も大変重要です。恋の問題。そうして友の死。そこから連想される自分の死。老い行く自分。人生なのです。この作品は人生が詰まっています。
これを読んだとき、一体皆さんは何を感じ取り、そうして考え、行動に移せるのか。こういうことになってくるのだと思います。文学が人を変えるということではないでしょうか。

太宰治 三鷹文学散歩 太宰の地を歩く

太宰治は三鷹に住んだ作家として知られています。「ヴィヨンの妻」や「斜陽」には、現在の中央線の駅名が度々出てきます。今回は太宰縁の地である三鷹を散策し、昭和の文豪太宰に迫っていきます。
先ずはJR三鷹駅
いわゆる駅中が非常に綺麗になり、おいしいパンやお惣菜が買えます。三鷹は吉祥寺の若者の元気溢れる町とは異なり、少し静まったのどかな町です。太宰はここに最後の居を構えたのでした。

『斜陽』文学碑
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太宰の作品の中でも有名な『斜陽』。この作品にはモデルがいます。
太田静子。貴族ではありませんが、裕福な医者の娘です。人物像は、太宰の編集者の野原一夫によると、「決して美人ではなかったが、育ちのよさからくるやわらかな気品があり、たえずなにかを夢見ているようなあどけなさと、まるで童女を思わせるようなおさなさが、およそ肉感を伴わない不思議な魅力となっていた」
年齢は小山初代(おやまはつよ)(太宰の最初の妻。作中にでてくるHは彼女か)、石原美知子(二度目の妻)より一歳年下。太宰より4歳年下です。22歳の時には歌集『衣裳の冬』を刊行している文学好きな人です。
一度結婚していますが、出産した子がすぐに死に、翌々年離婚。太宰とはこの後の出会いとなります。
太宰との出会いは1941(昭和16)年、数え年29歳のとき、友人と共に三鷹の太宰宅を訪問したのが最初で、その後に妻に内緒で密会しています。
1946年、太宰は「『桜の園(チェーホフの戯曲)』の日本版を書きたい」「題名は『斜陽』だ」といい、その材料として、太田静子の日記を求めます。日記を貰いに行った静子の山荘で五泊します。このとき静子は懐妊しました。
「斜陽」末尾のかず子の手紙の日付は「昭和二十二年二月二十日」で、これは太宰が太田静子の山荘を訪れる前日の日付になっています。
この日記を材料にして書き始めたのが、三津浜安田屋旅館「松の弐番」という部屋で、現在も太宰が宿泊したことがあるということを売りにしています。この安田屋旅館で太宰は3月6日に1、2章分を新潮社編集部員に渡します。
3月30日には次女里子(作家の津島佑子)が誕生しました。
11月12日には、静子が女児を出産。静子の弟が「認知と命名」を求めて三鷹に来ます。太宰はその女児に会うことなく、ペンネームからとって、「治子」という名前をつけました。
太宰が斜陽を書くにあたり、静子から借りた日記は、太宰没後、太田静子著『斜陽日記』として刊行されました。太宰は換骨奪胎の名人であり、『走れメロス』『御伽草紙』に見られるように書き換えが大変上手いのです。(悪く言えば「パクリ」です)ところが、この「斜陽」は静子の日記の文章を殆ど使用しています。9割に近い割合で彼女の日記をそのまま書き、ほんの少しの書き換えで、剽窃から太宰作品へと変えてしまっているのです。
この碑では、『斜陽』の本文と、太宰の原稿の復元が為されていて、太宰の直筆が伺えます。

禅林寺
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太宰治は見たが禅林寺に埋葬されました。翌年には墓碑が建立し、「太宰治」三文字が彫られます。この「太宰治」の字は、本人が署名したものを復元して彫られたものです。ペンネームだけの墓碑というのは大変珍しいものです。
さて、太宰は青森の名家津島家の人間ですから、死後は青森の立派な墓に埋葬されても良いはずです。ではなぜ三鷹なのでしょうか。その理由は、小説『花吹雪』(1944)にあります。
「すぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想など雲散霧消した。私にはそんな資格が無い。~お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。」
ここに書かれた願いの為に、わざわざ鴎外の斜め向かいに太宰の墓が立てられました。
また、この願いのほかにも、津軽の津島家は太宰の津軽埋葬を拒否しました。生前から離縁だなんだで散々もめた末、死後も太宰は本家から許されることはありませんでした。
また、実際には禅林寺の檀家も寺内に太宰の墓が建つことを反対しました。太宰は自殺、しかも愛人としたひとですから、当然といえば当然です。また、当時は自殺にあたり、青酸カリを使用したといわれていました。住民の飲み水として大切な玉川上水ですから、それは大変な騒ぎになったそうです。それをなんとか住職が押し切るという形で埋葬されました。

さて、森鴎外の墓がどうしてここにあるかという理由ですが、1922年鴎外が死んだ時、墓は向島の弘福寺(黄檗宗)にありました。鴎外は日本で少ない黄檗宗なのです。ところがこれが、翌年の関東大震災で被害を受け、1926年に宗派の同じ禅林寺に墓を移転したということになるのです。ですから禅林寺も黄檗宗です。
端然たる黒い墓碑には、森林太郎の五文字だけが記されています。これは鴎外の遺書に従ったからで、遺書には「墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可カラス」とあります。この遺書は禅林寺を入ってすぐのところに前文が彫られた碑がありますからそこで確認することが出来ます。また、この遺書は鴎外が伝えたのを、絵と書画で有名な中村不折が書きました。

田辺肉店跡
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現在は三鷹の森書店となっています。太宰はここで「斜陽」の三章以降を書きました。三章以降は、静子の妊娠を知ったあとになります。これは、妻石原美知子さんと結婚するさいに師である井伏鱒二とかわした誓約書の重大な違反になります。
また、このとき丁度、太宰が最後を共にする山崎富栄と出会いました。妻美知子は女児を出産しています。(作家津島佑子)
当時の太宰は、妻の目を気にしながら、愛人静子の妊娠に悩み、師井伏との誓約書におびえ、富栄とも交際を深め、多数の小説原稿の依頼をこなし、胸の結核も悪くなってきているという状態でした。その憂さ晴らしなのか、太宰は連日連夜取り巻きの編集者や弟子たちとともに酒を飲み煙草を吸いという生活が一年半続きます。

太宰治文学サロン
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http://mitaka.jpn.org/dazai/
三鷹市が運営している太宰治の文学サロンです。資料館といった感じで、入場は無料。太宰の直筆の原稿や、太宰にまつわる重要な品々が展示されています。私は、太宰が写真で着ているフロックコートを着せてもらいました。右は袖を通すのですが、左は通さないでそのままはおるといった感じです。和服と洋服を合わせたため、大変御洒落なコートになっています。館内は太宰ファンのボランティアが説明をしてくださって、楽しいひと時を過ごせます。

山崎富栄下宿跡
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野川家。ここは塚本サキという女性の知り合いの場所で、山崎に斡旋してくれました。当時は一階がパン屋、永塚葬儀店がテナントで入っていました。現在ではこの永塚葬儀店のビルになっています。
山崎富栄は太宰と最後をともにした人です。その彼女の三鷹の住居です。太宰より10歳下となります。高い教養を持つと共に、父親は美容洋裁学校の創立者でもあり、本人も日本トップレベルのスキルを持った美容師でした。彼女の写真が残っていますが、日本髪からパーマまで、父親の会社の広告になっています。生き残っていれば、そうとうな指導者として名を残していた可能性もあります。
彼女は「キャバレー勤めの女」という伝説がありますが、これは全くの嘘で、彼女はアメリカ兵ようのダンスホール兼キャバレー「ニュー・キャッスル」内の美容院の主任として働いていたのです。これが水商売をしているという伝説が広がる一因となったようです。また彼女は三鷹のミタカ美容院で人気美容師として働いていました。旦那を戦争で亡くして、滋賀県に疎開していた彼女をこのミタカ美容院へ招いたのは、富栄の父の教え子の塚本サキです。
この塚本サキの墓は、なんと鴎外の墓の隣にあります。太宰の斜め向かいとも言えます。
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小料理店千草跡
太宰治は我々読者が勝手に描くイメージとは大分異なり、朝方の人間でした。彼は午前中から夕方まで小説を執筆しました。しかし、専ら太宰は小説を家で書くということはせず、いくつもの仕事場を持ち、そこで書いていました。その一つにこの小料理屋千草の二階があります。この千草はなんと、山崎富栄の下宿地の向かいでした。太宰がここをよく利用するようになったのは富栄と知り合ってからのようですが、山崎を三鷹へ呼んだ塚本サキもまさかこのような結末になるとはと露にも思わなかったことでしょう。

玉川上水・心中場所推定地点
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1948年6月13日深夜(或いは14日未明、目撃者がいるわけではないため、正確にはわからない)に、太宰治は山崎富栄と共に玉川上水に入水しました。現在の玉川上水からはとても想像ができませんが、当時の玉川上水は水に溢れ、人が溺れるには十分な水かさがありました。太宰は富栄の自宅からここまで歩いてきて、そして入水したのです。これは下駄の跡があったことから推測されています。

太宰自宅跡
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現在は一般人のお宅になっているため、個人情報ですので出すわけには行きませんが、近くには三鷹市が運営しているみたか井心亭があります。この庭には、太宰治の家にあり、小説にも出て来た百日紅(さるすべり)の木があります。この百日紅の木は太宰宅から直接こちらへ植え替えしたものなので、太宰本人が眼にしたものと同じものを触ることができます。つるつるしています。
http://mitaka.jpn.org/seishin/

玉川上水新橋
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太宰と富栄は5、6日かけて玉川上水を漂った後、19日に現在のジブリ美術館の近くの新橋という橋付近で発見されました。二人は物理的に赤い糸で結ばれていたという伝説もあります。
6月19日というのは太宰の39歳の誕生日でした。当時は自殺に青酸カリを使用したといわれたり、泥酔して自殺したといったような噂が立ちました。しかし、妻の美知子さんは太宰の資料をずっと廃棄せずに保管していました。美知子夫人がなくなった後に公開された太宰の遺品の中に、遺書があり、これが泥酔していたという推定を否定するものにもなりました。
文学散歩をしたとき、私はプロボクサーの輪島功一さんに偶然出会いました。大きな犬を連れていましたが、本人も負けず劣らず大きな人でした。おはようと挨拶してくれました。

映画「ベルセルク 黄金時代編Ⅱ ドルドレイ攻略」への試論 感想とレビュー エロスとバイオレンスの刺激 人間性を描く

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公式ホームページhttp://www.berserkfilm.com/index.php
-はじめに-
今回は現在公開中の映画「ベルセルク 黄金時代編Ⅱ ドルドレイ攻略」を論じます。
「ベルセルク」は、三浦建太郎による漫画で、22年間連載が続いている作品です。現在35巻まで出ていて、今回の映画化は、ベルセルクの中から3-14巻に当たる、黄金時代編の映像化を主としたプロジェクトです。
こういう作品を論じるときは、先ずその原作を読まなければいけないと思いますが、あえて私は原作の情報なしで、映画のみで論じてみたいと思います。第一作を予習してから観ました。

-なぜおもしろい-
私はゴア(残酷)とエロスを映像化するということに些か抵抗があります。やはり映像というものはメディアのなかで最も影響力の強いものですから、よく考えて使わないと大変なことになります。まだ漫画なら静止画ですからそのぶん、こちらがそれ以上入り込まなければ、シャットダウンできます。しかし、映像は向こうからの提示ですから、映像を見ている人間に対してはいやおうなく同等の情報が提供されるのです。
映像化云々はよいとして、やはりこのゴアとエロスの強烈な刺激が快感になるのでしょう。ゴア(残酷)をここまで表面に出してきた作品はそうありません。アメリカのホラーなどでみられるグロとはまた違います。グロくしようとしてしたものでないぶん、こちらにはまだ見ることができるだけの余地は残されています。しかし、それでも非常にグロいことは確かです。一体どうしてこのグロさを押し出してくるのでしょうか。
私はこのグロさをとにかく全面的に出すことに、その世界観を構築する要素があるのだと考えました。ともかくもういいじゃないかというくらい死ぬ。どんどん肢体はバラバラになっていく。あっとおもったら首が飛んでくる。これらはすべて、生命の薄弱さ、無常さを表しているのです。戦争は、人間のあらゆる感情を炎のように燃やした熱いものです。しかし、そんな風に熱く燃えている命の炎も、熱いようで簡単に死んでしまいます。ここに冷たさがあります。つまり、この作品で描かれている多くの人間の争いは、矛盾なのです。一方で熱く燃えていて、一方で非常に冷たいのです。
それがよく現れているのは、使徒ゾッドとの戦いで見えた異常な冷えです。生命が全ていてついてしまう、そんな寒さを持っているのが圧倒的な死のイメージをもったゾッドです。ここでは命の炎が熱い男ガッツとグリフィスとの対比が美しいのです。

エロスについて。この作品では、最後のエロスが非常に重要な意味を持ちます。その意味については後に述べますが、ここではグリフィスとシャルロットの交合について考えます。スタッフがこの上なく考え抜いて作られた場面だそうで、あえぎ声から、体の動き、カメラアイをどこにするか等々がよく検討されていました。それは映像を見れば大変精緻に作られているなと実感できるほどです。
この作品の一つ欠点となる部分はCGを使ったことによる、人間の硬度が崩壊してしまっていることです。ガッツがあまりにも簡単に切ってしまうのが原因でもありますが、そのきられる人間がCGで描かれているため、まるでスポンジや紙を切っているようなやわらかさの印象を与えます。
敵の大将ほどになると、手書き部分が多くなりますからそのぶん硬度が密になるように感じられます。ですから、大将クラスの人間やモンスターが出てくれば安心してみていられるのですが、大勢の遣られ役は近づくと同時に吹っ飛んでいくといった感じに描かれていて、明らかにガッツとの硬度の違いが甚だしいという部分が欠点であります。
そうすると、このグリフィスとシャルロットの交合は全て手書きでしたから、硬度もしっかりしていてとてもすばらしかったです。
特にグリフィスはよく描かれていました。普段ガッツが筋肉の塊のようで、グリフィスはひょろひょろっとした印象を与えますが、実際は非常に筋肉質で、しかもガッツのような無駄とも思えるような筋肉ではなく、引き締まった筋肉が見られます。私は男ですから興奮しませんが、ここでは女性のファンが楽しめる場面にもなっているのではないでしょうか。

-古典的な話形の使用-
この作品は古典的な貴種流離譚の物語です。
貴種流離譚とは、折口信夫の造語で古伝承や物語等の発想の一類型。若い神や男女主人公が何かの事情で所属する社会を離れ、異郷に流離し、多くの艱難を経験した後に、尊い地位に到達する。または悲惨な死に逢うもののやがては神にまつられる場合もあった。このような類型は世界的に偏在するが、日本の古来の文学の趣向・筋立ての基本的な話形として一つの伝統を形成している。以下略  
【参考文献】折口信夫「日本文学の発生序説」(折口信夫全集7 昭和30年)

あらぶる神といった人の力をはるかに超えた存在。これがガッツなのです。身元もよくわからない、やたらと人を殺す、まさしく神が描かれているのです。この典型的な話形も前にしたとき、誰でも共感が出来ます。これもこの作品が売れる理由の一つにはいると感じます。しかし、面白いのは通常貴種流離譚といえば一人のあらぶる神が主人公ですが、この作品はグリフィスもこのあらぶる力を持った一人として考えることが出来ないでしょうか。
グリフィスも身元はよくわかりません。そうしてガッツのようなあらあらしさが殆ど垣間見れないのにガッツより強い。女性かと思われるような容姿。異常な強さ。中性的な神秘さ。しかし、内に秘められた大いなる野望は、実際ガッツのような恐ろしさよりももっと怖いものがあります。
ガッツがあらぶる力を外へ出すのに対して、グリフィスは内に蓄える。だからガッツは観たとおりの破壊の権化で我々の何かを破壊したいという欲求をそのまま表してくれます。そこですかっとした気持ちになるのですが、我々はグリフィスのあまりに禍々しいうちに秘めた野望を垣間見るとき、ぞっとするのです。

それから、ミッドランド王国の国王は最後にグリフィスを散々痛めつけますが、ここであらわとなったのが、国王から娘シャルロットに対するいけない感情です。そうすると近親相姦、エディプスコンプレックスのようなものもこの作品には隠されていることが判ります。この作品の根底には古今東西の冒険譚の話形が組み込まれているのです。

-人間関係について-
前作で、グリフィスは今まで誰にも言わなかったといわれる「お前が欲しい」と言う言葉を発し、ガッツを仲間に迎えます。
グリフィスはその容姿が非常に女性的であり、中性的であります。だから女性がこのグリフィスに夢中になるのもよくわかります。だから、ここではグリフィスとガッツとのゲイが描かれていると解釈できるのです。
実際グリフィスは軍資金のためということで、チューダーのゲノンと関係を持っています。前作での「お前が欲しい」という台詞はまさしくグリフィスがガッツを自分の愛玩として手に入れたということに他ならないのです。グリフィスはガッツを手に入れたということで満足します。なので、グリフィスにとってガッツが親友ではないのです。
しかし、ガッツは自分より強く魅力的な人物(しかも中性的)にであい、その親友になりたいと思います。ここで互いに矛盾が生じるのです。ガッツがあくまでも同等の立場にいたいと願うのです。
それがはっきりとガッツの眼前に違っていたとわからせるのが、ユリウス暗殺の後のグリフィスの台詞です。ここで、自分はグリフィスのことをずっと見てきたのに、グリフィスは自分のことを見ずにどこか他のところを見ていると気がつきました。

一方キャスカは女であることを恨み恥らいながらも、どこかでもグリフィスに対して女性として感情を持っています。ですから、そのグリフィスがどうしてガッツと仲良くするのか、あるいはガッツの面倒も見させるのかと反目するわけです。ここではグリフィス、ガッツ、キャスカという三角関係が出来ていました。
しかし、ガッツがグリフィスは自分のことを見ていないと気がついたとき別れを決心します。そうして鷹の団から去ろうとします。自分の大事な愛玩が自分から離れようとするのですからグリフィスは大怒りです。ですが、ずっとグリフィスを見つめ続けてきたガッツと、自分のことしか考えていなかったグリフィスではかつての力関係はもう存在しませんでした。ガッツは以前より強くなり、グリフィスは現状維持か弱まっているでしょう。ですから最後はああいう結末になったのです。
グリフィスはこれによって自分の大事な愛玩を失いました。その喪失感と、満たされなさによってグリフィスはシャルロットに手を出します。シャルロットという自分が本来手に入れてはならない力を強引に我が物にすることによって、自分を満たそうとしたのです。
まあしかし、交合後のあの後ろ姿を見れば満たされなかったということはわかりますね。

先ほどのグリフィス、ガッツ、キャスカの三角関係はくずれました。キャスカはグリフィスをめぐってガッツと対決していたということから、グリフィスとガッツの両方がすきだということに関係が変わったと考えることも出来ます。私は話を知りませんからこの後どうなるか楽しみです。

-最後に-
私は相変わらずこんなに人を簡単に殺していいものかなとも感じますが、観ていて色々な話形が組み込まれているなとその解釈に勤しんでおりました。CGの表現が残念ですからそこを何とかして欲しいですね。
これからパックという妖精と共に旅をするようですが、このパックという名は明らかにシェイクスピアの「真夏の夜の夢」に出てくる妖精からとったものでしょう。
黄金編のみで3部ですから、一体これからどれだけ映像化するのでしょうか。映画だけで10本くらいになると、これはなかなか金銭的にも着いていくのが難しくなりますからね。今後が楽しみであると同時に少し心配でもあります。
久しぶりの平沢進の楽曲に興奮しました。ダークファンタジーと呼ばれるこのベルセルクの世界観とよくあっています。あの不安感、高い音のはもりがそそりますね。

川上弘美「七夜物語」への試論 感想とレビュー 児童文学の典型的な話形を描く

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-はじめに-
1994年「神様」でデビューした川上弘美さん。昨年は「神様2011」という作品を発表し、注目を集めました。この二つのテクストの比較も実に面白い研究材料となります。今回は、川上さんの、長編にして児童文学、「七夜物語」(ななよものがたり)を論じます。
児童文学というと、ミヒャエル・エンデの「モモ」「果てしない物語」、J・R・R・トールキンの「指輪物語」、ライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、等々が有名です。
いわゆるこれらは、ビルドゥングスロマーン(教養小説)の一つと考えることができると思います。今回の「七夜物語」は、作者も言っている通り、世界のありとあらゆる児童文学の話形を集めて、それに当てはめるようにして作られた作品です。川上さんは、自分が勝手に話形を作るのではなくて、既存の話形を使用したいといっています。

-世界観-
この作品は、夢と現実の世界の行き来によって、二人の少年と少女が成長するという作品です。七つの夜、主人公であるさよと仄田くんは夢の世界へ行き、そこで様々な困難にあたり、それらを解決します。七夜ですが、連続したものではなく、作中時間ですと、数ヶ月越しです。
設定となっているのは、随分昔の話です。現在のヒカリエがかつて東急文化会館であったころ、1970年代が舞台となります。作中では8階にあった五島プラネタリウムに父親と行くという重要な場面が挿入されています。
そうして舞台となる場所ですが、欅区という架空の町です。作者はこのモデルとなったのは杉並区だといっていますが、これはあくまでモデルであり、欅区と混合してはいけません。さよと仄田くんが存在する世界は、我々の住んでいる世界とは似通っていますが、ほんの少しずれているという感覚があるのです。

この作品は、最後まで読むとわかるのですが、筒井康隆の多元宇宙、同時存在という考え方が根底にあるとわかります。
夢の世界は、二元論的な存在の仕方をしています。それはグリクレルとその影ミエルの存在であったり、あるいは、終末では光と闇という対比が非常に明確に為されています。この二元論的な世界のあり方は、作中でも触れられている通り、良い面ももちろんあるのです。美しいものが存在することができる。完全な善が存在することができる。
しかし、それではいけないんだ、二分化してはいけない。分かれていってしまう世界を何とか一つにまとめようというのがこの二人の主人公に課せられた任務なのです。この作品のすばらしいところは、二元論や一元論などの難しい言葉を使わずに、これらの世界をさりげなく教えてくれるということです。これを児童が読んだときに、溢れる世界観に驚くのではないでしょうか。
さて、しかし、一元的にまとめようとするさよたちに対して、光や影の存在は、ぐちゃぐちゃにこんがらがった混沌に戻りたくないといいます。これは特に印象に残った部分です。なるほどそういう考え方もある。
最後の解釈は多義的になると思いますが、私は多元宇宙的な世界の存在のあり方を、はざまの世界の動物から教えられることによって、世界は一元的なものではなく、多元的なものだということに気がつかされたのだと考えます。
その点、他の児童文学、特に西洋的な思想からは生まれてこない多元論の世界観をもってくるということは、東洋的な思想がある日本だから生まれてきたのではないかと考えることも出来ます。

-夜の世界の住人-
この作品の読者を魅了する部分に夜の世界の住人が挙げられます。大ねずみグリクレルを筆頭に、夜の世界は個性溢れる愉快な仲間たちがいっぱいです。そうして皆で仲良く、ということにはならないところがこの作品の新しいところで、回りくどい言い方をしましたが、夜の住人は結構容赦なくさよと仄田君に厳しくします。さよと仄田君は、小学校4年生ですから、まだまだ子どもです。
しかし、そんな小学生にも容赦がないのがこの世界なのです。さよと仄田くんも作中で気がついていますが、ほかの児童文学のお話はハッピーエンドになるけれど、自分たちの場合はミスをしたらもう二度と帰れなくなるかも知れないといっています。
この作品は、ハッピーエンドと呼んでもいいものかどうか、それさえ解釈が分かれるような判然としないものです。そうして、全体を通して、どこかくらいイメージが漂っています。
最後の対決場面の直前には、マンタ・レイというこの夜の世界が始まる前から存在していた生き物と会話します。このマンタ・レイがいくらかこの世界について話してくれますが、この世界はあらゆる動物の夢、とくに人間がつくった世界であるということが判明します。
そうしてその夢のなかで、二分化が進み、或いはウバのような存在が、現実世界のものを夜の世界に引き込もうとするのです。夜の世界は、人間の世界の鏡のようなものでもあり、人間社会で生まれたひずみは夜の世界へも影響を及ぼします。
夜の世界のひずみが、人間世界のひずみであるということまではこの作品でわかりますが、そのひずみが具体的にどうしたものかははっきりとしません。ただ、さよのお父さんとお母さんの関係性などを見ると、そこには人間同士の関係のひずみがあることはわかります。この作品の作中時は1970年代です。そうすると、これから経済が右肩上がりになろうとしているなかで、ひずみが徐々に強まったということになります。そこには物質主義、合理主義によって、便利にはなっていくが、一向精神的に豊かにならないというあせりがあったのかも知れません。
そうした点で、決して児童文学を意識して書かれたからといって平易な内容ではなく、大人がよんでも十分読み応えがある作品です。

-終末-
この作品は、2009年から2011年にかけて朝日新聞で連載された作品です。そうして児童向けということを考えて、連載時の挿絵を工夫して左下に入れるという未だかつてない努力と工夫が見られます。ただ、単行本化にあたり、大幅に加筆修正したと作者が書いています。そのため、連載時とは異なる部分が多いということが予想できます。この二つの比較をしても面白そうですが、途方もない大研究になりそうなので私はやめておきます。大幅な変更のため、何ページも挿絵がないところがあります。作者はどうしてそこを変更するにいたったのでしょうか。
この作品を読むとき、先ず最初にインプリンティングされるのは、この作品が作中でさよたちが発見する「七夜物語」というものがたりそのものであるということです。作中のさよが読んでいる作品を現在我々も読んでいるという構図です。この構図はミヒャエルエンデの「はてしない物語」と同じ構図です。
そうして、この作品は読み終えると内容を忘れてしまうこと、第二夜では、ともかく眠くなってしまうことなどが読者の頭に刷り込まれます。無意識のうちに頭がこの作品は思い出せない、眠くなるということを意識してしまうのか、私はこの作品を読んでいるとすごい睡魔に襲われました。別につまらないという問題ではありません。読み終わっても狐につままれたような感情になります。
作品に書かれていることも不可思議という言葉が良く似合いますが、この本自体もどこか不可思議なベールを纏っていて、取りとめのないといった感情を与えます。
二巻で4000円近くしてしまうという大長編ですから、なかなか手にとってみるということはいかないかも知れませんが、それこそ、さよたちのように図書館で見つけて読んでみてください。新しい物語が始まります。

「かわいそうだね?」綿矢りさへの試論 感想とレビュー 2つの女性視点の中篇小説を読んで見えてくるものとは

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-はじめに-
2004年、「蹴りたい背中」により19歳で芥川賞受賞という偉業を成し遂げたことが今でも印象的な、綿矢りささん。今回は彼女の最新作、「かわいそうだね?」を論じます。
私としては、正直どうしてこの作品が大江健三郎賞を受賞したのか、いまいち理由がわかりません。初めに駄目だしをしておきますが、分量の少なさと、文章の軽さ、「亜美ちゃんは美人」においての三人称視点の描き方はまだ改善の余地があります。
他の問題はいいとして、私が特に問題だと感じるのは「亜美ちゃんは美人」においての三人称視点での描き方の破綻です。一人称と三人称の中間のような感じになってしまっています。もし、これが作者の意図するところならば、それで構いませんが、純粋に文学研究の対象としたときには、やはり、完全に三人称にはなっていない点は不自然さを感じます。

-惹きつけるもの-
では、作品を見ていきますが、先ず目を引くのはカバーです。色鮮やかなドライフラワーや。中間でまっぷたつにおられてしまった靴が、綺麗にちりばめられています。とびら、(中をめくって一枚目)も、ピンクの飴玉模様がかわいらしい女の子のイメージを想起させます。綿矢さんのイメージは人それぞれあると思いますが、私にとっては美少女作家といったところです。かわいらしい女の子という感じですよね、そのイメージを持っている人は多いと感じます。今回は、そんなイメージと重なるような、若い女性性を全面的に押し出したカバーとなっています。書店で並んでいるのを見れば、必ず眼を留めてしまうのでしょう。
それからこの作品と大きく関わってきますが、タイトルも奇抜です。「かわいそうだね?」というタイトル。「かわいそうだね」であれば、誰でも納得します。しかし最後の「?」に出会ったときに、我々もまた?を喚起するのです。

主人公の女性は28歳ですから、それなりに仕事が安定してきて、結婚適齢期を迎えようという年代ではないでしょうか。これは、作者の年齢とも非常に近しいですね。そのこともあって、非常にこの年代の女性が何をどう考えているか、ということがよくわかるのでしょう。男性である私が読むと、なるほどそういうような見方もあるのかと感心します。
しかし、この樹理恵は比較的安定期である年代とは裏腹に、大変な苦悩を抱えているのです。私はこの最後にいたるまでの彼女の心境の変化を通して、初めから彼女は自分に嘘をついていたのだと感じました。初めから何か事件があったとき、通常ではそんな解釈しないだろうというようなへんてこな解釈を続けていました。どうもおかしいなという感じはあったのですが、それもそのはず、これは彼女自身が無理して、物事を全て好意的に解釈していたからなのです。しかし、それは実際彼女が彼女自身に嘘をついていることに違いありませんでした。それさえも彼女は隠蔽しようとしたのです。
英会話の教員との会話も、突然はじまったので、どうも唐突な展開だなと感じました、この無理な解釈も樹理恵の好意的な解釈に他ならないのです。勘違いしていけないのは、樹理恵と綿矢さんは同一人物ではないということ。綿矢さんは、この樹理恵というとんだお人よしを描いて、自己を認めること、自己を肯定し、嘘をつかないことの重要性を描きたかったのではないでしょうか。

この樹理恵という人物は、反面出来るOLといった印象も受けます。しかし、よくよく見ていくと、それは全て彼女の独自の解釈によって描かれているからに他ならず、その解釈の内容を見てみると、本当に正常な判断かと疑いたくなるような物事が多く出てきます。彼女の解釈の幼稚さ、それから思考のもって行き方、行動、表現力、これらを総合してみていくと、随分幼い内面であることが露呈します。28歳になって、この安定感のなさ。これはどうもおかしいですね。どうしてこの樹理恵がここまで愚かな人間として描かれているのか、その理由がわかりません。恐らく上で述べた、自分のことを認めていない人間の愚かさのようなものに繋がってくると思います。

-かわいそうだね?-
結局、この作品の根底にはかわいそうだねという言葉、概念が横たわっているのですが、一体これは誰から誰へ向けた感情、言葉なのでしょうか。作中に何度か樹理恵の小学校時代にあった「かわいそうだね」をめぐる物語や、彼女が感じていることがらがこの「かわいそうだね」という言葉の説明になっています。しかし、それらは、やはり彼女の独自の見解ですから、説得力がいやに少なく、彼女自身が本当にそう思っているかも疑わしいです。最後の場面になると、全ての種明かしのように、アキヨと隆大とのメールのやりとりが公開されます。ここにきて、読者はなんだこいつと反感を抱き、それによって樹理恵との共感を抱くことができるのです。
そうすると、これは樹理恵からアキヨ・隆大への「かわいそうだね」ということと、読者から樹理恵への「かわいそうだね」という二つが浮上します。樹理恵からアキヨ・隆大へは、私に隠れてそんなことをやっていやがって、かわいそうな人間だといった、軽蔑、失笑、あざけり、或いは嫉妬、恨みのような感情が主になるでしょう。二つ目の私たちから、樹理恵への「かわいそうだね」は樹理恵がそのような愚かしい人間たちに騙されていたことへの同情と慰めの感情だと考えられます。
しかし、それらはあくまで「かわいそうだね」であって「かわいそうだね?」ではないのです。この?は一体何か。私は、これは作者からこの登場人物、ないしは現代社会に生きる、自己を肯定しない人間、認めない人間、嘘偽りをついている人間に対して、君たちは「かわいそうではないの?」という問いかけなのではないかと考えます。
ですから、これは現在アイデンティティーなんて言葉をよくわからずに使用していて、実際なにもわかっていない、我々への警鐘ではないかと考えます。ですが、決してだからお前たちはだめなんだよということではありません。それは作中で樹理恵がとうとう自己を認め、それを露呈し、自分が傷つくのを恐れずに自己のこころのままに行動したことからも伺えます。私たちは、こういう人物がいるのかという一例を通して、これからどうするかを考える機会を得たということなのです。

-亜美ちゃんは美人・二つを比較して-
「亜美ちゃんは美人」は先ほど述べたように、人称をはっきりと定めないといけません。やはり、しっかりした自己をもったさかきちゃんにひっぱられてしまっています。このさかきちゃんも、亜美ちゃんという人物との対比のなかで、自己を保てなかった人物でした。それが最後には一旦離れて、亜美の変貌をみたことによって自己を再認識するという構造になっています。
そして、亜美自信も、意識はしていないでしょうが、さかきちゃんと離れて自分の好きな人を見つけたことによって、今までの嘘偽りの自己から解放されて自己同一性を確保したといえるでしょう。
最後が写真を撮ることによって締めくくられていますが、一見するとどうしてそんな終わり方をするのかと考えます。しかし、こうして考えてくると、最後の場面は、さかきちゃんが自分と亜美との両人のアイデンティティーを認識し、肯定しているのです。それをそのよい状態のまま保蔵する。これが写真をとるという行為に隠された心象表象ではないでしょうか。
二つの短編テクストは、それぞれ異なった女性の視点から描いていながら、同じことを描いているのです。だから、長編一本ではなくて、短編二本ということになったのでしょう。ただ、大江健三郎賞を取るかといわれると、実際どうしてそうなのかということが不思議と思う部分は残ります。

映画「蒲田行進曲」への試論 感想とレビュー 嘘の中の真・お上と平民の関係性


-はじめに-
この作品は元々つかこうへいが劇作品として作ったものを、本人が映画用に書き換えるという面白い経歴がある。今回は映画だけを論じるが、いずれは劇作品と映画の比較研究をしてみたいとも思う。
さて、この作品であるが、とても現実にはありえないと思わざるを得ないようなフィクション、嘘の連続だと言って良いだろう。大衆娯楽映画である。その点で、前回見た『裸の島』とは両極端に位置する作品である。
しかし、フィクションだからといって全てが嘘かと言えば、そうでもない。私はこの作品で最も重要なのは、小夏・銀四郎・ヤスの三人をめぐる人間関係だと考える。嘘から生まれた真という言葉があるが、まさしくここの人間関係は、日本の人間関係の制度と全く同じなのである。

-人間関係について-
私はこの作品を見て、以前見た『女衒(ZEGEN)』と非常に近しいものを感じた。ヤスと村岡伊平治が重なったのである。伊平治に対する天皇は、ヤスの銀四郎である。これは、日本の主従関係、お上と私の関係である。
日本には未だに大部屋というものが残っている。それが畢竟時代遅れだとかそういうことは関係ない。一長一短があるからその制度に対して軽い気持ちで何か言うことは憚られるが、この映画はまさにその大部屋の一人と、スターとの交流を描いたものである。
次にヤスと銀四郎との関係であるが、これははるかに伊平治と天皇よりも強いものと考えられるのではないか。ヤスと銀四郎を繋げているものは、この現代において殆ど意味を成さない、義理とか、主従関係とかのみである。では何故銀四郎に、あそこまで無下に扱われていながら、ヤスは彼の元を離れないのかという疑問が浮かぶ。確かに、現実的に考えれば、大部屋やめてどこかへ出て行けばいいだけである。それを映画が成り立たなくなるからと考えることもできなくはないが、それはいささかつまらない見解である。

私は、ここに小夏が大いに影響していると見る。小夏は銀四郎から与えられたものである。渡され方はあまりにも酷い状態であったが、それでも形式的には、銀四郎から宝物を授かったような図式になる。だからヤスはその宝物、銀四郎の形見でもある小夏を大事にしたのだ。そこには、もちろん銀四郎から貰ったから大事にしなければいけないという強制的な感情も働くが、私はここに別の感情もあると考える。一つは常識的に考えて、貰ったものが人なのだから、いくらなんでもその女性のことを守りたくなる、或いは好きになるといったような自然な感情である。それはいいとして、もう一つ、小夏は銀四郎の子どもを身ごもっている点から、また彼女自身が、銀四郎の形見であるということである。だから、ヤスにしてみれば、銀四郎の一部を自分の中に取り入れて、支配することが出来るのである。
ヤスは非常に従順な銀四郎の部下である。銀四郎を神のように崇めている。しかし、心のどこかでは銀四郎に近づきたい、同じ立場にいたい、それから銀四郎の上に立ちたいと思っているのである。無意識のうちに、小夏を貰えば、銀四郎の一部を自分が支配することができると彼は考えた。
だから、ヤスは小夏に対して、初めと終わりのほうでは態度が極端に異なるのである。
仮に、ヤスと小夏が、小夏が身ごもっていない状態で付き合ったならば、ヤスの態度はここまで変わらないと考えることができるだろう。それはヤスの母親の、やさしいだけがとりえという言葉にも表れている。ヤスは自分よりはるかに大きい力である銀四郎を何とかコントロールして手中に収めようと、形見である小夏に強く当たるようになるのである。
だから、小夏とヤスとの関係は、常にこの二人だけの関係ではなく、ヤスと銀四郎・小夏という関係になる。

-階段落ち-
上で、人間関係についてみてきたが、ヤスは小夏を銀四郎の一部と考えそれを支配しようとした。しかし、いくら小夏を支配しようと、恐らく彼には銀四郎の一部でも自分の配下にしたという気持ちは得られなかっただろう。彼はどこかで小夏を支配しても、結局銀四郎を支配することにはなりえないということを感じていた。これがはっきりと判ったのは、階段落ち前日である。小夏が小夏でしかないことを悟ったのである。そこに銀四郎との関係は無意味だということに、小夏に教えられたのである。だから、成り行きのように描かれていたが、ヤスが階段落ちを引き受けた、決心した理由はきちんとあるのだ。
映画撮影所では、この階段落ちが何よりも目立つ、主役だなんだと騒ぎ立てていた。ヤスはこの階段落ちを行うことによって、自分が一時的ではあるが、銀四郎をも上回ることが出来ることに気がついたのである。ヤスはなんとしてでも、銀四郎へ対する劣等感を拭いたかったという気持ちがこころのどこかにあった。これが表出したのが、この階段落ち決心である。

-最後に-
この作品の最後は、今まで見てきたものも実は撮影されたものでしたというネタバレで終わる。メタフィクションの構造である。作品内の作品。佐藤教授は、つかこうへいの照れではないかと指摘した。私はそれに付け加えて、嘘でしたという嘘をつかなければならなかった理由を模索した。
そうすると、人の命が関わるだけに、内容が過激だと非難されるのを回避しようとしたとも考えられる。或いは、映画界の裏を描いているから、実際にはこんなことはないのだよと観客に断っておく必要性に駆られたのかも知れない。
ただ、嘘からでた真を描こうとしていたならば、「嘘でした」という嘘をつくことによって、やっぱり真実だよとどこかで知らせているように解釈することも出来ると思う。
最後まで嘘だよということは、結局、嘘を積み重ねていく内に、本当があるよと語っていることに他ならないのではないか。だから、この作品は表面上は嘘であるが、中身は真実だと訴えたかったのである。

小夏 - 松坂慶子
銀四郎 - 風間杜夫
ヤス ‐ 平田満

夏目漱石 「心・こヽろ・こころ」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 最後(その十五)

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・「欲望の三角形」理論 (ルネ・ジラール)
ルネ・ジラール(1923~)という文芸批評家の有名な理論、欲望の三角形を用いると、この小説は実にピッタリこれに合うのです。
この理論は1960年代からおこったものですが、欲望には「主体」(だれが)と「対象」(何を)の二者関係ではなく、そのほかに「メディエーター(媒介者)」という存在が必要であると考えます。
メディエーターはモデル(手本)であり、ライバルでもあるのです。
メディエーターの欲望を模倣することによって欲望が発生すします。
〈彼(彼女)が欲している物が欲しくなる〉
この構図がよく「こころ」に当てはまります。先生は一人の時には動かなかったのです。

先生におけるメディエーターとしてのK
(「もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならば」)
ここは、もしそうであれば、先生は御嬢さんとは結婚しなかっただろうと読むことが出来るのです。

Kにとっても先生がメディエーターであった可能性
先生がいなかったらKは「道」を放棄するほど御嬢さんに恋をしただろうかという疑問です。
先生の御嬢さんに対する欲望を見て、Kもそれを欲したのではないかと考えられるのです。
最近になって、ようやくKが何故御嬢さんを好きになったのかということが注目されるようになりました。

「先生」のKに対するコンプレックス(嫉妬)
これは既に考えました。先生はKに対して、ルックル・学力・性格で負けていると自覚しています。
Kのコンプレックス(嫉妬)
「金がない」
当時、堅気で働く女性がほとんどいませんでした。OLもありません。女性が働ける場としたら、学校の先生・ナース・電話交換婦、等々です。女性が女性だけで生活していくのには非常に困難な時代でした。
Kの恋愛がもし成就したと考えた場合、Kは御嬢さんとその母の奥さんを養わなければなりません。
昔から文学部全体が就職しにくいと言われてきました。作品の中には明記されていませんが、おそらくKは哲学科の学生だと考えられます。文学部の中でも哲学科は特に、就職口のない、一生貧乏学者というイメージの強い科でした。ですから自分一人でさえ大変な状態なのに、それに御嬢さん、奥さん、そして子どもが生まれればその子をも養わなければならないのです。
先生の下宿に移ってきてから「食費」は「先生」が負担していました。
お金についてKは、全く考える必要もない先生にコンプレクスを感じていたと思われます。
P221ℓ4「道のためなら」。Kは養父母に、医学部に行くように見せかけておいて文学部に入りました。入ってからもばれないように学費を送り続けさせました。この詐欺にも似た行為が、誠実な男であるKにどうして出来たのでしょうか。それは道追求のためでした。Kは道のためならなんでも出来たのです。しかし、道を追求すると貧乏になります。それでは御嬢さんとは結婚できません。または、御嬢さんをとると、道追求が出来ないともいえます。Kはこの両立できない二つの問題でダブルバインドを感じていたのです。

歌留多事件
こんなことでは先生のライバルにはなれないのではないか、そう考えていたKに転機が訪れたのは、この歌留多事件でした。
御嬢さんのあからさまな行為を目の当たりにして、貧しくても、御嬢さんは自分と結婚を望んでいるのではないか、とKが考えた可能性は十分に考えられます。金では勝てないけれども、ハートの勝負なら勝てるかも知れないと考えたとすると、先生への告白の可能性を考えることが出来ます。

食糧依存と「独立心」
P301ℓ1「金がないから」というKの台詞。これは、やはり結婚の資格は「金」かという言葉に解釈できます。
ところで、学生専用の大型の下宿施設ではなく、素人下宿というこの小説の舞台となった一般家庭に下宿するという方法は、一般的に他の下宿方法よりも高くつきました。Kが前にいた下宿より高いのは当たり前です。そんな金Kが払えたのかというと、払えるはずもなく、ではどうしていたのかというとP231ℓ15「彼はそれ程独立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅に置いて、二人前の食料を彼の知らない間にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。」から判るとおり、全額先生が払っていました。
家族でも親戚でもない人間がただで家に住まわせてもらうことを居候といいます。つまりKはこの居候の身分であったわけです。しかし、自尊心の高いKがそんな身分に甘んじるでしょうか。Kはどのようにして自尊心を保ったのかを見ていきます。
P230ℓ3「(Kは)なるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。~私は仕方がないから、彼に向かって至極同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向かって、人生を進む積りだったと遂には明言しました。~最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿って行きたいと発議しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まずく事を敢てしたのです。」
ここから、先生がKに対して取った対応がわかります。先生はKの下に出て、俺のために来てくれ、居候でなく、コーチをしてくれ、という具合に頼んだのです。ですからKにとっては、先生に頼まれて住んでやっているという構図になるのです。そうすると、Kが旅行先で先生に対して、「精神的向上心のないやつは馬鹿だ」といったのにも、先生のコーチとしての役割からではないかと考えていた可能性が出てきます。
それに対して先生のKに対する「精神的向上心のないやつは馬鹿だ」という台詞は、二つの意味を持つ可能性が生まれます。一つは、君は僕の先輩だからしっかりしてくれなくては困る、というものです。これならば、Kのコーチとしての役割は守られ、居候の正当性は守られます。二つ目は、Kの恋路をふさぐ策略です。これは、先生のコーチをしてくれという頼みが嘘ということになり、Kはただの居候であるということが露呈してしまいます。奥さんからKへの告白は、ほかならぬ二つ目であったということをKに知らせたということに変わりなく、Kは自分がただの居候であることを発見してしまったのです。だから「金がないから」という台詞が出てくるとも考えられます。

義父母を欺いて学費を出させていた正当性
これが、先生と同宿したために、御嬢さんに恋をしてしまい、崩れ去りました。それと同時にKは、居候ということを発見し、独立心とプライドを失い、勉強に身が入っていないため、大学に行く自身を失い、故郷は以前から失い、恋も破れ、親友にも裏切られたということになってしまったと考えられます。
Kはありとあらゆるものを失ってしまった可能性があるのです。だから「もっと早くに死ぬべきだったのに何故今まで生きてきたのだろう」という台詞が遺書に書かれたのかも知れません。

・Kの自殺理由についての「先生」の解釈の三段階
P317ℓ14「同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただの恋の一字で支配されていた所為でもありましょうが、私の観察は寧ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向かって見ると、そう容易く解決が着かないように思われてきました。現実と理想の衝突、―それでもまだ不十分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑がい出しました。」
第一段階―失恋
第二段階―理想と現実の衝突
第三段階―私のようにたった一人で淋しくって仕方なくなった結果
と図式かすることが出来ますが、最後の私のようにという部分だけが気がかりです。淋しさはわかるとしても、どこが先生と一緒なのでしょうか。Kは親友に裏切られました。先生はKを裏切りました。これのどこが一所なのでしょうか、違うのではないでしょうか。
先生の淋しさとKの淋しさの共通点
百人一首事件のすぐあとのKの告白は、先生の行く手をふさごうとした策略ではないかと以前読みました。そこに先生は、Kの醜さをみたのだと考えると、自分もまたKの行先をふさいだという点で共通だと考えることが出来ます。ここに先生は共通点を見出したのではないでしょうか。
若い「私」の存在
先生はたった一人で死ぬのが怖かったのです。そうすると、若い「私」という唯一信じることの出来る人間がたった一人できたため、先生は一人ぽっちではなく、自殺することができたのではないでしょうか。
たった一人で死んだK、遺書を渡す相手のいた先生。Kよりは少しは幸せだった生涯なのかも知れません。

本記事は、高田知波教授の見解による

夏目漱石 「心・こヽろ・こころ」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十四

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4、Kの自殺について
「こころ」は文学部の学生の卒業論文のトップ3に入るくらいに人気度を誇ります。高校で勉強して、大学でもう一度勉強する、これがその原因でしょう。ただ、念頭においておかなければならないのは、その中でもKの自殺についての論文を書く人が居ますが、これは不可能だということです。
確かにKの自殺は、遺書が手がかりになりますが、それは引用でしかなく、Kの自殺原因、Kの内面劇を特定することは不可能なのです。しかし、文学者は、どんな可能性が考えられるか、さまざまな可能性を探るということは出来ます。

・Kは「先生」の御嬢さんに対する恋心に気づいていなかったのか?
どんな鈍い人でも、恋をすれば親友がその人に恋をしているかどうか気になるはずです。
元々勉学を大一とする人間で、恋愛には興味がなかったことでしょう。しかし、いざ自分の問題となってみると、それでも「先生」と御嬢さんとの関係を考えないというのは些か無理があると考えられます。
P247ℓ9「不思議にも彼は私の御嬢さんを愛している素振に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると鈍い人なのです。」
先生の遺書というものは、先生の独断の意見がずばずば展開されるという特徴がありました。しかし、ここでは「先生」妙に遠慮深い書き方をしています。Kは鈍いでしょう。ですが、いくら鈍くても、自分の問題です。「先生」のずばずば自分の解釈を押し付ける普段の形から逸脱していることも鑑みると、もしかしたら「先生」はKが自分の御嬢さんへの感情を気づいているのでは、と思っている可能性があります。しかし、そう書くことは、Kが自殺してしまったのでできないのです。

・突然告白された時
P268ℓ16「恐らくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に判然りした字で貼り付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでも其所に気の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。」
ここで「先生」はまた大変歯切れの悪い説明をしています。が、の後の文章は実際こんなことはないだろうと、先生自身も感じながら書いています。説得力のない説明です。それを先生自身分かっているのです。
P272ℓ4「どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又どうして打ち明けなければならない程に、彼の恋が募って来たのか、そうして平生の彼は何処に吹き飛ばされてしまったのっか、凡て私には解しにくい問題でした。」
先生はモノローグ型の人間ですから、自問自答法を使用します。しかし、いつもは自分で出した疑問に対してそれの説明を始める先生が、ここでは疑問について追求していません。普段することをしない、追求しないということ自体が、突然打ち明けたことを、Kの策略ではないかと秘かに思っていると考えることが出来るのです。

・「先生」が自分の恋心を抑圧して親友の恋の応援者となるか、親友を裏切って自分の恋に進むエゴイストとなるかという二者択一状況に追い込まれたのは、果たして偶然か、Kの策略か
この二者択一問題は、先生がもし、Kの告白時に告白返し、つまり俺も実は好きなんだという文言をいえていれば成立しないはずです。告白返しをすれば二人はフェアな状態で恋のライバルとして戦えたはずなのです。
ですから、この告白返しをさせずに、この状況に追い込んだのはKの策略ではないか、という疑問が生まれます。「先生」の御嬢さんに対する恋心を知っていて、「先生」を止めようとしたのではないかと考えるのです。
P282ℓ4『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』は「先生」がKを止めようとしたのではないかと読むことが出来ます。ここには秘かにではありますが。Kも「先生」を止めるための策略をしたという示唆も含まれています。
「先生」は「先を越された」。Kは「先を越した」という感情があり、Kは「先生」に恋をとるか、友情をとるかどちらだといい迫っているという状態なのです。もちろん御嬢さんは、「御嬢さんの笑い」から、「先生」の恋心を知っています。

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

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