映画蟲師 感想とレビュー

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 アニメ蟲師の一期を鑑賞したので、アニメ監督の大御所である大友克洋が監督した実写映画、蟲師を鑑賞してみた。
「そこで問題は、それをアニメで撮るのかそれとも実写作品とするのかということ・・・。その点、プレスシートによると、大友監督は「前作の『スチームボーイ』のアニメ製作にかなり時間がかかったので、次は実写映画を撮りたいと思い、いろいろと企画を探しました」と語っているから、『蟲師』をアニメで撮るかそれと実写で撮るかという選択肢はなく、実写で撮るという大前提で企画を練っていたところ、たまたま『蟲師』になったとのこと・・・?」
http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-07-31musisi.htm
 この映画は、すでに上記に引用したサイトによって詳しく見分されている。
 ほとんど私が書く必要がないかもしれないが、上記のサイトで触れられなかった点を中心に、感想を書いていきたいと思う。
 上記のサイトによれば、そもそもどうしてアニメ監督である大友克洋が、実写映画なんかを撮ったのか?という理由の原因が分かる。
 私は、スチームボーイは最高の駄作だと思っている。あれだけ時間とお金をかけた作品が、脚本のために、大コケをしていると思うからだ。
 さて、原作の「蟲師」がヒットした作品であるこの作品。2007年に実写映画公開時には、すでにアニメ一期の放送は終わっている。つまり、アニメを鑑賞してから当然この作品をつくっているはずなのである。
 とすれば、いまさらアニメで同じ作品を作ったとしても、2クールのアニメ作品のまとめにしかなりえない。あるいは、アニメで触れられなかった話を取り上げるか、または、まったく新しい、オリジナル作品にするか、のどちらかしかない。
 そこで大友監督は実写にしたかったという元来の願いもあって、実写化したのである。ヒット作品の実写化は、最近ではずいぶん多くなったように思う。それまでまったく新しい作品をつくっていた制作会社たちは、不況のあおりをうけて、すでにヒットしている作品の他媒体での作品化しかしなくなったからだ。これでは新しい作品が生まれなくなってしまうので、そういう気風はどうかと私はつねづね思っている。が、製作者側がコケたくない、という理由もわかる。しかし、それでも、前にすすんでいかなければならないのだよ、と私はいいたい。
 さて、そんなこんなで実写化したわけである。
 実写化にはさまざまなリスクが存在する。特に、原作やアニメ作品が成功している場合、それが実写化したときに、元来のファンたちにとって、アレルギー反応を起こされる可能性が高いからだ。
 その点はどうだったのだろう。
 映画評をみていると、アニメもマンガも大好きで、という人の批評よりも、この映画をみて批評したという映画好きの批評のほうが多かったように感じられた。
 とすれば、アニメ、原作ファンたちからは、あまり相手にされなかった、というところだろうか。しかし、その反面、アニメ、原作に触れていない人達に、門戸がひらかれたという点では成功したといえよう。

 しかし、だ。そういう新しい客層を獲得することには成功したかもしれないが、映画そのものとしては成功しているか?といわれると微妙である。どの批評サイトも、大手で褒め称えているのはない。どれもかなり批判的である。
 実写映画としては、成功した部分もある。例えばこんな部分だ。
 「2006年第80回キネマ旬報ベスト・テンは、第1位が『フラガール』(06年)、第2位が『ゆれる』(06年)だったが、この2作品は、どの映画祭や映画賞でもトップを争った傑作。そして『蟲師』では、『ゆれる』のオダギリジョーと『フラガール』の蒼井優という夢の共演が実現!」
 あるいは
 「この映画の映像美のすばらしさは天下一品!冒頭のシーンは美しい山々を鳥瞰するシーンからだが、そこにポツンと動くものがあり、徐々にクローズアップされていくと、それは細い山道を歩いている母子連れ。このシーンを観ただけでも、この映画の重要な狙いが映像美にあることがすぐにわかるが、そのすばらしさはラストまで続くから、その点に要注目!」
http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-07-31musisi.htm
といった点である。
 どれもアニメは漫画では表現できない、実写ならではの強みはぞんぶんに活かせたようである。
 俳優陣も強固に固めてきているし、撮影場所も厳選された、いまだかつて日本の原風景を残している部分をきちんとおさえている。
 では、この作品がだめな理由は何か。それは、ストーリーの難解さであろう。
 アニメを見ていた私としては、それぞれのストーリーが前半では特に、忠実に原作をなぞっているなと感じられた。だからこそ理解できたのである。だが、アニメだと誇張されて描かれていたものが、実写だとなんだかわかりづらい。アニメだと蟲かそうでないか、というのは、表現でいっぱつでわかるようになっていた。しかし、実写だと、特に最初の阿吽などは、ただのカタツムリにしか見えず、どこが蟲なのか、とんとわかりづらかった。だから、アニメを見ていない人々にとっては、この作品はとてもわかりづらいのではないか、と思った。実際、映画を観た人々の多くはストーリーの難解さをこぼしており、ネットでこれだけの文章を書いているネット論壇の、かなりの頭脳の持ち主たちだからこそ、映画を解釈できたのであろう、という部分が大きい。おそらく、一般大衆的なこの映画を娯楽映画としか思って観ていない人達には、かなりハードルが高すぎたのではないかと予想される。
 そして、私自身も、もはやここまでサイトを経営していると、そのネット論壇の仲間入りなのだろうけれども、私ですらも、最後のぬいの登場が理解できなかった。
 そもそもアニメでは、ぬいはおそらく死んだか、消えたかしているのである。この作品では、沼の水を抜くというよくわからない装置を使用することによって、ぬいは生きながらえるが、原作、アニメのヌイは、そのような生に執着する存在ではなかったはずである。だから、ぬいは生き延びては本来ならないのである。ぬいは、同じ蟲師として、世界の道理をよく心得ているものであって、同時に固有の人生哲学を有しているはずなのであった。だからこそ、ぬいはかっこよかったのである。
 だが、この映画のぬいは違う。生への執着を諦められておらず、あのようなへどろまみれの姿になってでも生きながらえてしまうのだ。それはぬいではない。ここにこそ、私はこの作品の決定的な無茶が存在していると感じている。
 さて、しかし、実際映画はそうすすんでしまっているのだから、いまさらああだこうだいっても仕方ない。映画に合わせて解釈してみよう。結局生きながらえたとはいえ、ほとんどあの当時のかっこよかった蟲師としてのぬいは存在せず、蟲(トコヤミ)に身体を犯された存在として、ぬいは生きながらえるのである。
 最後にギンコはぬいから自分のなかに救っている「ギンコ」を駆使してトコヤミを追い払うわけであるが、しかし、もはや蟲に侵されたぬいは、蟲をうしなって、まともな人間でいられるはずはない。
 そこには、どうしてそうまでして生きながられなければならなかったのか、というぬいの必然性のようなものが感じられない。どうしても、ギンコに会いたかったのだろうか。だとすれば、一抹の悲しさはあるが、魂を抜かれたようなぬいは、それでもギンコを求める、というような描写もなく、どうも中途半端である。
 ラストの難解さは、どのサイトにも表れている。みな、意味が分からずに、ネットに書かずにはいられなかったのである。当然私もその1人であるが。
なかには
 「急ぎです。劇場版「蟲師」のストーリー???ネタバレ有りです。」と題して、Yahoo知恵袋でラストについて尋ねているものもある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115897906
あるいは、他にもラストのとつぜんさに驚きを隠せない評者もいたようだ。
http://www.eonet.ne.jp/~start/musisi-i.html

 ラストの難解さ、というか尻切れトンボというか、もやもやは、いいようもない。その点で、スチームボーイの
ストーリー展開と同時に、すでに大友克洋には、映画を面白く完成させる能力がないのではないか、と疑わざるを得ないのである。
 この作品は、アニメや原作をしらない人々が見て楽しめるものではない。むしろ、原作、アニメを鑑賞している者が補足的にたしなむというような方法でしか理解ができないからである。その点でこの映画は、映画として失敗しているというほかないのである。
 だが、先ほども述べたように、実写としての強い、媒体としての強みは成功している面もあり、その点において、この作品は十分に楽しめるのではない、というものである。

『オカンの嫁入り』(2010) 感想とレビュー



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 映画『オカンの嫁入り』を見た。
 日本人にとっての母親とは何か?ということを考えさせる映画だったと思う。明治政府は日本の婦女子に対して、良妻賢母になるように指導した。これが俗に言われている良妻賢母思想である。その後日本は第二次世界大戦を迎えた。そこで果たした母の役割は大きい。銃後の母はそこで、戦争に向かっていく夫や息子たちを懸命にはげまし、戦地へと送っていったのである。日本はまさに母によって支えられてきたといっても過言ではない。
 その後は亭主関白の思想によって母は第一線から追いやられ、高度経済成長では、稼ぐ夫、家を守る母といった役割分担に徹することになった。これによって男女差別が生じ、1993年に男女雇用機会均等法を成立させなければならないほどになってしまったのである。
 舞台は2000年代のある家庭。
 すでに森井月子の父、森井陽子の夫はなくなっている。そんな二人暮らしの一軒家に、突如として金髪のヤンキーのような男が転がり込んでくる。服部研二はそのままなんということはなしに、家に居ついてしまい、ついには、母陽子と結婚するのだという。
 この物語はタイトルからもわかるように、オカンを見ている月子の視点で描かれることになる。月子は、会社でストーカーに会い、それ以降電車に乗れないという精神障害をかかえ、一年程自宅にひきこもっている状態である。突然母との平穏な暮らしを壊された月子は、そのあまりの唐突さに驚くと同時に、亡き父を見捨てたのではないかという母の貞操観念への疑いや、自分の母が見知らぬ男に取られてしまうという不安から、研二の存在を認めることができない。
ふだん邦画映画を私は見ないのである。というのも、邦画映画は厳選されて日本に輸入された洋画と比べて、厳選されていないぶん、つまらない作品が多いからだ。だが、今回の作品は、邦画映画の良さのようなものがきちんと内包されていたように思われる。
 ふと、今回の映画をみていて思ったのは、やはり邦画映画というのは、日本人を描写しているなという点だ。だから、邦画映画を観続けることによって、そこから日本人のことが浮かび上がってくるのではないかと感じた。だからこそ、今回は記事の冒頭に、かなりあらっぽいものではあるが、少しだけ日本人にとっての母親像というものを描写してみたのである。
何が普通かはさておき、要するに平穏な暮らしであった二人の親子の間に、新しい若い父親が介入してくる物語なのである。むしろ、普通の物語であれば、月子のほうに恋人ができるはずであろう。しかし、月子には恋人はできない。それは、彼女が一年前にストーカーされたことからもわかる。この映画では、月子はまっとうな恋愛関係を結べない人間として描写されるのである。もちろん、それはストーカーの彼がいけないのだ、という論はわかるが、構造として、月子にはきちんとしたパートナーを選択する自由がない存在として描かれる。それに対して、月子の母陽子は、何事にも明るく、器用に生きることができる存在として描写される。月子がすでに25歳ほどであろうから、それを産んでいる陽子は50歳ほどであろう。にもかかわらず、20歳も年下の30の研二をつかまえられるほどには、すごい女性なのである。
 研二は自分の祖母と二人で店をしていたものの、その祖母を死なせてしまう。たまたま喧嘩した日に祖母が倒れてなくなってしまったという過去を持ち、研二はもしその日喧嘩などせずに、そばにいてあげられたなら、救えたのではないか、あるいは救えなかったとしても、最後を一人でいかせることなく、一緒にいてあげられたのではないか、と悔やんでいる。
 もちろん当初は陽子が病気だなどと知る由もなかったであろうが、病気が判明してからは、大切な人祖母を亡くした後悔からも、陽子のそばにいてあげようと思ったに違いない。それは、研二にとっても、自己療養だったことであろう。
命の時間がわずかになった陽子は、最後に月子にもう一度一人で生きていくための力をさずけなければならないと感じた。そのためにはどうしたらいいか。もういつまでも一緒にいられることはできない。とすれば、月子にまず、ストーカーから受けた精神的なショックを解放することからはじめなければならない。ということで、陽子は自分の白無垢のために電車に乗ろうと誘うのである。

 映画は終盤になって白無垢の衣装を着た陽子の口上によって盛り上がりを迎える。そこで陽子は限られた時間のなかで、自分らしく生きることによって、その姿を月子に見てもらうことによって、月子自身も自分らしき生きてほしい、という願いを託す。
 その後、一番重要な場面である研二との結婚式の場面があるかと思いきや、それは写真として過去に追いやられ、その後の日常の場面が挿入される。え?っと観客である私はおどろかされたが、やがてそうした非現実も去っていき、日常がふたたび彼等を取り囲んだのだな、というところでエンディングを向かるのである。
 そして一番重要な婚礼の義は、エンディングスクロールとともに流されることになる。これはうまいなと思った。
 私は泣かなかったが、きっとこの映画で泣く人も多いことだろう。
 やがて消えゆく命であるとはいえ、このように自分らしく生きていくことに何らかの、力を我々は得られることであろう。

『あずみ』、『あずみ2 Death or Love』 感想とレビュー

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 映画「あずみ」を鑑賞した。
 こういうアクション映画というものは、どれも批評がしづらい。私自身は小説が専門であり、物語構造分析の手法を用いる評論家であるから、このようにストーリーが一番重要ではない作品の分析というのは、どうにも性分に合わないのである。
 こうしたアクション映画の楽しみ方、というものも、そもそも私はわかっていない。ただ単にアクションを愉しめばいいのだろうか。しかし、内容がないようで、なにをどう分析したらいいのかよくわからない。
 一応内容というものはある。小幡月斎によって拾われ、育てられたあずみ、他9名の子は、たがいに武術の腕を磨き、暗殺集団として成長させられる。暗殺集団が目的とするのは、浅野長政、加藤清正、真田幸村の三武将を倒すことにある。これらの三武将は関ヶ原の決戦で生き延びた武将であり、それぞれ豊臣秀吉をこそ、主君と思っている武将である。彼等は打倒徳川を掲げており、ふたたび天下をとろうとしているのである。関ヶ原の戦いを生き抜いた南光坊天海と爺(小幡月斎)は、その戦場を見て、二度と戦いの起きない世界を誓う。そのためには、徳川の世を乱そうとするものを暗殺しなければならない、という結論に達するのである。
 いずれの人物も、よくもそこまで信念を貫けるな、というのが感想である。
 私のような意志薄弱な人間は、人を殺さなければならないのだったら、何もしない、という選択肢を選ぶにきまっているのである。爺の執念と、その意志を受け継いだ10名の暗殺者たちは、よくもまあ二度と戦を起こさない、というためだけに、命を捨てることができるものだと思う。しかも、暗殺者の最後の試練は、鋼の心を持たなければならない、という爺の命によって、もっとも仲良かった仲間を殺すというところから始まる。
 私はあずみ、他登場人物たちの生き方に反対せざるをえない。そこには選択肢がないからである。自分の腕を磨いたのならば、自分の頭で行動しなければならない。いくら命を救われたからといって、爺の命令通りに仲間まで殺すのはどうしたものか。そんなことならば、現世利益的な私は、美女丸のように欲望に付き従う生き方のほうがまだいいと思う。
このあざみたちには最初から選択肢がないという点は、やはり注意して読み解かなければならないだろう。そこには、例えば宇野常寛が指摘したように、この世の中のゲームに参加しないという選択肢がないからである。このような選択肢がない作品がヒットし、それがある程度メディアで大きく取り上げられるということは、少なからずの人々も選択肢の無さを感じているわけであり、社会の幅の狭さを体現しているといわずにはいられない。
 もちろん、途中であざみには何度か選択肢が示される。一作目では、旅芸人のやえとの出会いによって、それまで戦士として育てられてきたあずみに、初めて女性としての生き方を発見するのである。あながちそれも悪くはないと、あずみは、やえに借りた女ものの着物を着て一時をすごす。しかし、そんな二人を、野盗が襲う。あずみは、自分は望んでいないのに、周りが私に剣を振るわせるとして、ふたたび修羅の道へもどってしまう。
 二作目でも、あずみは再び人間としての生を選択する機会に恵まれる。それは、なちによく似ている銀閣との出会いである。銀閣等はその日暮らしの享楽的な生き方をしており、あずみの生に対して疑問を抱かせる。それまでのあずみは、自分の生について疑問すらもったことがなかったのである。悩まなかったのだ。だからこそ、この作品は深さが足りなかったのかもしれない。あずみは、葛藤しない。それは戦うこと、人を殺すことへの葛藤である。葛藤したのは最初のなちと戦う場面くらい。これは、明らかに、ガンダム以降、苦悶する主人公、心理をえがいた作品、以前へと退化していると指摘できるのではないだろうか。
 その点、あずみという作品自体が抱える脆弱さというものが、ここに現れているのかもしれない。

 作品の構造や、ストーリーの稀薄さ、薄さという点については、いくつか欠点を述べなければならないだろう。しかし、映画をみていて、確かにある程度の面白さは感じたのである。それは一体なんなのだろうか。原作を読んでいないのでわからないのだが、この映画の実写化は成功しているのだろうか、どうなのだろうか。映画だけを見た者としては、この実写映画は成功しているのではないかと感じる。
 というのも、先日観た蟲師でも同じことを論じたのであるが、実写には実写の強みがあるからである。この作品でも、主人公のあずみを演じる上戸彩は、見事にきらめいている。画面のなかをすっと切るように、上戸彩の魅力が作品を冴えさせているのがよくわかる。
 よくあれだけの大立ち回りを行ったなと思う。あれだけの殺陣を行うのは大変であったろう。また、あずみ以外の配役にもかなりの大御所が使われていて、その点は安心していられる。一作目では、冒頭20分ほどで、仲間同士の切り合いで死んでしまう登場人物にも瑛太などの役者が割り当てられており、丁寧な配役になっているなと感じた。
 そういう点で、この実写映画は、実写映画ならではの楽しみというものがあり、それが成功しているのだと感じる。

実写版『魔女の宅急便』 感想とレビュー いまこの映画を実写化する意義とは

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はじめに
 実写版の映画『魔女の宅急便』を見てきました。平日に映画館に行き、比較的小さな劇場ではありましたが、そこそこ入っているところをみると、大ヒットこそはしなかったものの、大きく外したということでもなさそうです。
 私は角野栄子氏の原作も読んでいます。ジブリ映画の『魔女の宅急便』はほとんどこの原作通りに描いているので、今この時期にこの映画を実写化する意味はなんだろうと不思議に思っていました。ジブリの『魔女の宅急便は』多くの人々が見ています。そして、その映画は原作にかなり忠実なのです。ですから、今この時期に同じ原作を実写化する意味というのは実に不思議で、私にはわかりませんでした。新しい解釈でもしたのかな、とも思って劇場に足を運んだのですが、特に新しい要素もなく、私は本当に不快な映画を見せられたと感じました。

原作、アニメ版との違い
 作品の世界観は少しアニメ版とは異なっています。主人公のキキが住んでいる町は、山間に作られた町で、どこかイランとか中東系の雰囲気が漂う街です。アニメ版が平地に住んでいたのと違って、どこか秘境に住んでいるという感じがしました。
 ジブリ映画では大きな時計塔のある町に住むことになるキキですが、実写版でキキが住むことになるのは瀬戸内海を彷彿とさせる島の一つです。
 そこからは、アニメ版と同じように配達をしはじめたりします。けれども、アニメと異なるのは、原作にあって、アニメになかった洗濯物を乾す場面。原作には、比較的初期の依頼で洗濯物を乾すのを手伝うという物語があります。これをアニメでは省いたわけですが、実写版ではアニメが省いた部分をうまくつなげたという感じです。
その後は原作やアニメ映画とは徐々に話が変わってきます。カバの子供との話がこちらの実写版ではメインになるのですが、これがじつにチープな話で、ちっともお面白くない。
 最初にキキは島の動物園に降り立ちます。そこで、カバの子供と仲良くなるのです。ところが中盤にこのカバの尻尾がライオンにかじられるという事件が発生します。時を同じくして、キキも魔女として人に呪いを届けると噂されたり自信がなくなってきて、魔法が使えなくなってきます。カバも徐々に衰退していき、作品の最後、フィナーレへむけて突き進みます。
 作品の最後は、大雨、大嵐がやってきて、大変な天候のなか飛べなくなっていたキキが、友達であるカバの子供を他の医者のいるところへ連れて行くという手に汗握る場面へと移ります。
 なんとかカバを他の島にいる行方不明になっていた動物医に届けるということで話は終わるのですが、その場面もなんだかチープなにおいを拭えません。これは個人的な問題ですが、私はどうも浅野忠信という男が好きになれません。役者ですから、イメージを作るというのは彼らの仕事なのですが、どうにも彼のちゃらんぽらんとした雰囲気が私の性に会いません。そんなちゃらんぽらんな雰囲気を持った彼が、偉そうに哲学を語るのですから、閉口ものです。
 カバの尻尾に時計を結びつけるという意味不明の治療をしただけで治ったという展開にも私はちっとも納得できませんでしたが、ひどいのはおあつらえ向きに付け足したかのようなメッセージ性とでもいうべき、説教です。キキが一体なんの病気だったのかと聞くと、浅野演じる動物医は、「中心喪失病とでもいう病気だ」と言い始め、自分のこころとからだの中心を見失ってしまう大変な病気だと言い始めるのです。そして、なんとなく自分もそうだったのかなと反省するようなキキ。一体こんなチープな説教がこれまでの映画史においてあったのかというくらい、記念的なお説教です。

視姦される身体
 物語の内容は広く人口に膾炙していますし、今さら何を描くのかと思ってみましたが、まったく内容がなかった。ぺらっぺらな作品であったのにはひどく残念に思いました。ところが、私はその程度ではなくて、この映画が本当は何をしようとしたのかということが垣間見れたような気がしたので、ひどく腹を立てています。
 というのは、今さらこの映画を実写化したところで、売れないことくらい誰にだってわかるはずです。私程度の文藝批評家きどりにわかるレベルですから、映画を制作している人間にはもっとよくわかることでしょう。物語の内容を売るのでもない。新しい解釈をするのでもない。とすると、何を売りにするのかということになります。
 この映画の売りは、まさしく主人公キキ役の小芝風花さんを見世物にしてお金を稼ごうということなのです。アニメ版でも、オソノさんの夫であるフクオという無口な亭主が登場し、ことあるごとにキキを見つめるという場面がありました。これは、魔女へ対する好奇な目線のようにアニメ版では感じられました。ところが、この映画は、魔女に対する珍しいという目であるというよりは、彼女の肢体をなめまわすような非常にエロチックな目線なのです。
 私達観客は一体どのようにこの映画を観るのかというと、このフクオ視点を借りて、あるいはそれに誘導されて、幼い少女の身体を見るのです。事実この映画では、これでもかというくらい、小芝風花さんのなまめかしい肢体が描写されます。部屋にいるときには、アニメ版でもそうではありましたが、まだアニメ版ではエロチックな感じはしなかった。ところが、この映画では、実際にキキが白い下着だけをきている場面など、とてもエロチックに描写されるのです。それに、黒い魔女の服をきている時でも、けっこうスカートの下が見えるような描写が多々ありましたし、この映画は小芝風花さんの少女の身体を視姦するための映画なのです。
 私は普段から資本主義との関係でさまざまな事象を分析しているのですが、そのなかでも資本主義が行った一番いけないことというのは、人間の身体性までをも資本にしてしまったことだと考えています。現代では、性のサービスも実に簡単に「購入」することができます。少女たちも自分の身体を一時的に売ることによって、援助交際といったものをするわけです。この映画も、合法的なレベルで、少女の身体を「売り」に出したわけです。
 ただ、私も全部が全部悪いというわけではありません。自分の意志で身体を売って、お金に換えている人を否定する気もありませんし、してはいけないでしょう。ところが、小芝風花さんは97年生まれ。この映画の撮影時には、15か16歳のころのことでしょう。とても、15,6歳の人間が自分の判断に責任を持てるとは思いません。彼女は未成年なのです。その身体性を勝手に売りものにして、それでお金を稼ごうとしている製作者たちの傲慢さが見え透くからこの映画は非常に不快感を観客に与えるのです。

おわりに
 私はだからといって小芝さんを否定するのではありません。彼女はとてもチャーミングでかわいいですし、元気をもらいました。彼女は役者として十分に自分の仕事を全うしたと思います。しかし、それを売りものにしようとした製作者たちの思惑がぷんぷん匂って来るのです。ですから、この映画に私は反対しなければなりません。
 作品自体をとっても面白くない。そして、その売り方があまりにも汚すぎる。だから、この映画を評価するわけにはいかないというのが私の結論です。

映画『陽だまりの彼女』 感想とレビュー 原作との比較を通じて見えてくるもの・映像表現の美しさ

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―はじめに―
 越谷オサム原作、『陽だまりの彼女』(新潮社)の映画が、先日10月12日公開されました。映画公開が近づくにつれ、私のブログでも、原作を読んだ際のレビューの記事が多く検索されていたようです。
 映画は本当に素晴らしかった。今回の記事では、映画の素晴らしい点や、原作との相違、メディアを超えて見えてくるものなどについて論じたいと思います。(ネタバレ注意)


―陽=日であるということ―
 今回劇場に足を運んで、ああ、素晴らしいと感じたのは、まず光の表現です。『陽だまりの彼女』を読んだ際に、私は郷愁・ノスタルジーを感じました。原作の素晴らしかった点は、この物語が「かつての憧れの人との再会」だったからです。そして、それが現在丁度私たちの社会においても、珍しいことではなくなっているということで、時期を同じくした作品だったからです。作中でも、真緒は浩介のことをウェブ上で検索したということを述べていますが、現在、私たちがかつてのクラスメートと再びつながることが容易になってきています。それは、本名登録が基本であるFacebookなどの影響により、今迄であればどんなに好きでも、中学、高校、大学への進級、あるいは転地によって別れ、その時の思い出は美しいままになっていたはずの関係が、再び連絡手段を取ることが可能になったことによって、昔好きだった人と再び会える可能性が格段にアップしたからです。
 浩介と真緒は25歳。ちょうどそのようなツールを通して再び出会うことができた最初の世代といっていいでしょう。それ以上の年代の方になると、もう他の人と結婚してしまった、などという悲しい知らなくてもよかったことを知ってしまう人が増えてきてしまいます。このようなことから、この物語の主人公たちはちょうど今の20代、30代の世代を中心にとても共感が得られたことだろうと考えられます。また、映画では真緒がいろいろと調べたということができるだけ伏せられて語られていますから、ネットで検索をして、出会いを画策していたという「計画的な女」の像はなくなり、「運命の再会」という極めて普遍的なテーマに変質していたことが多くの観客から感動を誘ったことでしょう。

 タイトルにあるように、「陽だまり」ということがこの作品の重要なポイントになってきます。真緒がなぜ陽だまりが好きなのかということは、真緒が猫なのかもしれないという伏線として本作では挿入されていますが、小説で読んだ際にはどうしても陽の光の表現というものは限定されていたように感じられました。陽の光には様々な言語では表現しきれない幅があり、小説では残念ながらその表現に達せていなかったと私は感じました。今回、私がなによりもこの映画が素晴らしいと感じたのは、まさしくこの光の表現です。
 もう、光の表現だけを見るための映画と言ってもいいくらい、極めて洗練された光の映像美がこれでもかというくらい上映されます。これはあたりが真っ暗ななか、迫力のあるスクリーンで見るからこそ意味があると私は感じました。
 私たちの網膜は一般的に、生まれてから歳を取ればとるほど、光を見続ければ見続けるほど衰退して、実際に子供のころのほうが、青みがかったように、色鮮やかに物事を見ていたということが言われます。ノスタルジー・郷愁が作品全体を覆っているなか、その雰囲気を光だけで見事に描きだした技術は、日本映画史に残っても良いくらいだと思います。大抵の恋愛映画や、御涙ちょうだいの映画は、オルゴールなどのありきたりな哀しみを誘うような音楽やメロディーなどを使用しますが、この作品は光の表現だけでそれをやってのけたのです。そのことから、この作品は光の表現を観に行くだけでも十分に足を運ぶ価値のある映画だと言えるでしょう。

―構図と広告―
 光の表現のほかに私が驚嘆したのは、映像の構図の絶妙さです。ここ近年、映画業界は不況のあおりから、小説を原作とした作品(小説である程度人気が出た作品を映像化することによって、観客を動員しようということ)をただ映像化するということに終始するだけでした。そして、それは大抵原作を越えることができない、駄作に過ぎない作品の連発に繋がっていました。
 私もこの作品がまた小説を原作にした作品の一つに過ぎない、すぐに埋もれてしまう作品になるのかなと心配していたのですが、この作品はある点において原作をはるかに越えた真に優秀な作品に仕上がっています。
というのは、メディアの違いを十分に捉え、メディアの良し悪しをきちんと利用していたからだと私は感じました。小説と映像というメディアの違いは、そこに圧倒的な隔たりがあることは、少し考えれば誰にでもわかることだと思います。小説は、例えば登場人物の心理描写などが得意です。映像では登場人物が何を考えているのか、独白でもないかぎりいくら頑張っても伝わりません。その反面、いくら小説で描写を重ねても、ひかりの表現などをするのには限界がある。それを映像はずばっと艶やかに見せてくれるのです。
 この作品、とくに前半に目覚ましかったのは、構図の素晴らしさです。この作品では「広告」が前半のテーマになります。広告を通じて主人公と真緒が出会うからです。小説では、そこまで難しく考えずに広告の話ができましたが、映像となると適当に済ませるわけにはいきません。やはり全国ロードショーをする映画ですから、前半の二人の関係を結びつける重要な媒体である広告が適当だと、二人の関係も適当になってしまいます。この作品からは、広告に対する異様な執着を感じられることができると思います。恐らく監督がそちらの分野にもともと詳しかったのか、あるいは相当強力なアドバイザーを何人かかかえていたのではないかと私は感じました。特に映画前半は、どこのどのシーンをカットしても、たちまち絵になる。壁紙にしたくなるような見事な構図です。これは、広告に相当詳しく、美術的な構図を熟知した人間がいなければ決してできないことだったろうと思います。
今回の映画の見どころは、一つは光の表現、もう一つは画面の構図という事ができるでしょう。
公式ホームページからは、ごく一部ですが映画の舞台となった場所の素敵な写真がダウンロードできるようになっています。ページの一番下にあります。

公式ホームページ
http://www.hidamari-movie.com/

―原作との違い。メディアを越える代償―
 ここまでべた褒めに褒めてきたのですが、それでもひとつ、今迄様々な作品を評論してきた私としては、作品を愛するがゆえに一つだけ指摘しておきたいことがあります。それは、原作にはない、真緒が部屋から出て行ってからの部分です。時間で言うとどのくらいでしたでしょうか。時計を見ながら見ていたわけではないので、正確なことは言えませんが、ラスト10分から20分は、私は敢えてなかった方がよかったのではないかと考えています。
原作では、真緒は最後まで猫であるのかどうかわかりません。最終的には猫であるとも、猫でないとも解釈できるように、空白が作られているのです。その点に関しては、私は実は猫ではないのではないかという可能性を以前指摘しました。
越谷オサム『陽だまりの彼女』試論 感想とレビュー 真緒は本当に猫なのか、擬人化とリアリズム
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-437.html

 もちろん真緒は猫であるとイコールで結ぶ読み方が一般的であることは重々承知していますが、可能性の話をすれば、猫でない可能性もあり得るように越谷オサムは書いているのです。
 小説を読む読者となると、一般的に小説を読まない人間に比べれば、小説慣れしていますし、想像力や論理力も普通に考えれば高いでしょう。となると、小説はある程度テクストに余白を残しても、読者が補ってくれるということを頼りにすることができるのです。すなわち、敢えて余白を残すことによって、読者に自由に解釈してもらおうと、比較的自由に作者は作品を終わらせることができます。
 しかし、普段から小説を読まない人間も見る映画でこれをやるとどうなるでしょうか。おそらくは村上春樹の処女作『風の歌を聴け』が、物語がない、何を言いたいのかわからない、といったように批判されたことと同じことになることでしょう。原作では猫ではないかもしれないという可能性があるまま、あるいは真緒は本当に猫なのだろうかと疑える余地のあるまま終わっていました。しかし、それを映画でやってしまうと、尻切れトンボのようになって、観終わった際に観客が、え、どうなったの、真緒は猫だったの、猫じゃないの?と路頭に迷ってしまうことになります。
 原作から入った私には、やはり映画のラストも真緒が家から飛び出して帰ってこないというある意味謎めいた終わり方をしたほうが区切れがいいと思っていたのですが、映画では監督の解釈が入った、原作にはない場面がしばらく展開されます。そこでは、飛び出した真緒と再会して、お互いが正体をわかったうえで、最後の時を過ごすという場面が続きます。そうすると、やはり真緒は猫であったのだという解釈しかできないようになってしまうので、観客としてはそうか、真緒は猫だったのかと納得するわけです。
 しかも原作では、その後真緒と再び会えるのかどうかも謎のままであったのに対して、映画では、再び主人公のまえに真緒が現れるという極めてご都合主義なエンディングになっています。音楽という観点からみても、ビーチボーイズの『素敵じゃないか』で終わらせればいいものを、最後の別れの時間にその曲を使用してしまったがために、仕方なしに山下達郎の『光の君へのレクイエム』を入れたという感じがする(もちろん達郎の曲は最高でしたが)。ラストがどうしても間延びしてしまったと私には感じられました。

 もう一つ最後にダメ出しをするとしたら、配役について。私が個人的に上野樹里が好きだということが多分に客観的な評価を狂わせている可能性が十分にあるのですが、しかし、真緒を演じた上野樹里は本当に最高でした。私がこれだけ手放しで評価することはまずないのですが、これは本当によかった。上野樹里にも得意不得意がありますから、大河ドラマの『江』などは惨々たるものでしたが、この作品においては彼女の良い部分が遺憾なく発揮されています。先ほどこの映画は光と構図を見るための映画だと言いましたが、上野樹里の魅力を観に行くだけでもいい。むしろ上野樹里のためだけにあと数回は劇場に行ける作品です。
 ただ、この作品が原作では、「男子に読んでほしい作品」というキャッチコピーで売られていたのにはあるわけがあります。それは、主人公がオタクで、格好悪くて全然持てない男性だという点です。そうです、この作品は『美女と野獣』あるいは、『電車男』のようにモテない男性が、何故かわからないが、逆シンデレラ的に何の苦労もせず、特別な才能も持ち合わせないのに素敵な女性と一緒になるお話だったのです。だから、モテない男性の一人である私としては、恰好良いジャニーズの俳優に奥田を演じてもらいたくなかったというのはあります。しかし、映画は男女ともにみるもの。いくら美女と野獣だからといって、本当に上野樹里の相手をどうしようもないような俳優にやらせたら商業的に成り立ちません。それに、男性が見る分にはいいかもしれませんが、女性が2時間という長時間、格好良くもない俳優を見続けるには厳しいものがあります。そうした事情から、モテないはずの奥田が松潤という、どう考えてもモテる配役だったのには、甘んじて溜飲を下げましょう。

―終わりに―
 しかし、この映画が私のなかで今年度邦画トップ3に入る出来栄えであることに変わりはありません。小説と映画というメディアの差異を乗り越えて、それぞれの得意な点を存分に活用した素晴らしい作品になったと思っています。
 曇りの土曜日に映画館に足を運んだのですが(通常天気の悪い土曜日はものすごく映画が込みます)、劇場がけっこう空いていて驚きました。チケットも予約していなかったので、取れないかなとも思ったのですが、びっくりです。是非素敵な作品なので、大切な人と一緒に行くことをお勧めします。
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