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ローグワン/バイオハザード/ファンタビの感想

年末年始と忙しく休みが取れなかったのだが、ようやく休みが取れたので、三本連続通しで見て来た。今回は2016年も最後というところで立て続けに公開された、ビッグネームの映画たちの傾向など、簡単に感想程度に書いていこう。

スターウォーズといえば、もちろん1977年に公開されたエピソードⅣ、新たなる希望から連なる一連の壮大な物語だ。もはや知らない人はいないだろう。
二十台中盤の私は、学生時代に新三部作が徐々に公開されるという時間のなかで育ち、しかも私は割と原理主義的なところがあったので、旧三部作も後追いで勉強して、という人間だった。
そういう人間からして、主なる物語がすでにあるなかで、それを補完するような物語が出てくるのは、とてもうれしいものだ。日本では、冨野監督のガンダムシリーズなどが、そういう主なる歴史を補完する形でどんどん広がっていくという作品展開をしているが、まさしくそれと同じことである。
新三部作で育った私にはもちろんうれしい作品だった。いわんや、旧三部作を若い時代に見た、今の60前後の人達にとってはなおさらであろう。
ただ、ここまでの大作になってくると、なかなか現代人というのは、情報があふれすぎていて、ただでさえ作品の数も増えていることだし、いまからローグワンを見ます、そのために、旧三部作、新三部作、そして去年公開されたエピソード7、を勉強します、ということにはなかなかならないだろう。
私はもうすでに知識として知ってしまっているので、ジェダの町で、エピソード4ででてきた、オビワンに腕をきられてしまう二人組とか、反乱軍の評議会、モンモスマなど、最後のレイア姫などに、もう感極まってしまったところだったが、これをいきなり今の中高生に見せるとなると、なかなかその奥深さや感動が感じられないかもしれない。
その点、やはりこうしたシリーズ展開をしてしまった作品の強さでもあり、弱さをも感じる。強さとは、いままでのファンが一定見に来てくれるので興行収入が予測でき回収できるという点、弱点とは、新規参入者に厳しい、ハードルが高いという点である。

エピソード7が、戦う女性ということで、フェミニスティックな香りをそこにかいでしまった私であったが、今回も、女性の主人公が戦うという構図は同じであるが、とくにフェミニン的なものを感じることもなく、違和感なく鑑賞することができた。あまりイデオロギー、主義主張の強い作品ではなかったので、はなにつかなかったのかもしれない。

今回感じたのは三点。一つは組織の上下関係。二つ目、統率のとれた社会があるなかで、そうではないアンダーグラウンド的な社会。三つ目が人は希望のために命を賭す。
ひとつづつ見ていこう。
一つ目は上下関係。
私も社会人になって学生の時には見えていなかったものが見えてくるようになった。やはり社会というのは縦関係が重要(それが大切かどうかということではなく、厳然と存在しているという意味において)なのだ。
今回は皇帝は一度も姿をみせなかったが、ウィルハフ・ターキン総統をはじめ、ベイダー卿、クリニッツ長官、と高位の人間たちのやり取りがキャプチャアップされている。
帝国軍は皇帝をトップに置く、完全上下社会、縦社会の組織である。もとめるのは秩序だ。
それに対するのは、そうした右脳的な整理、秩序、といった右的なものに反対すべき左的な反乱軍、同盟軍である。
だが、今回みてておもしろかったのは、反乱軍側も反乱軍側で、最高評議会があり、そこに出席しているのも将軍だったり議員だったり、とけっこうちゃんとした上限関係があるなあということだった。
特に偉そうな上官も出てきていたりして、ルールにしばられている帝国軍ではそういう横暴なことはなかなかできそうにないような、昭和上司的な存在が反乱軍にはいたような描写がおもしろかった。

帝国軍、と、それとアンチの場所にいるかと思いきや、やはり組織であるからこそ上下関係の実はしっかりとある反乱軍。これは、アンチテーゼにはならないのである。では何がアンチテーゼになるのかというと、冒頭で破壊されてしまうジェダイの聖地ジェダだ。あれこそがアンチテーゼになりうる。
図式化すれば
帝国軍≠反乱軍←アンチテーゼ→ジェダの人々
1970年代のアメリかSF映画は、2017年にはその二作目が公開されるブレードランナーや、エピソード4のモスアイズリーの酒場などによってできた、ありとあらゆる種族がそこにいて、いろいろな言葉が飛び交っている、という雑居とした未来像を描いてくれた。(スターウォーズは厳密には遠い昔なんだけどね)
これはもちろん1960年代後半にベトナム戦争への反対から生まれたヒッピー文化や、草の根運動などから影響を受けた、映画製作者たちなりの、組織化、秩序化される社会への反対の意味を含めて描いたわけなのだと思うのだけれど。
もんだいは、どれがいいというわけではなく、秩序だった世界もあれば、それに反対する世界もある、さらにそれらともおかまいなしになんとなくごちゃごちゃしながらも生きている連中もいる、というそういう前提を認めることだ。
個人の幸福に限った話であれば、自分はそれらのなかでどれが自分にあっているのかということを探して、その世界で安寧して生きればいいのである。

まあそうした世界観の異なる人々が、やはり広大な銀河であるからなんとなくすみわけをしていたり、そこが被ると戦争になったりしているわけである。
ここで話はさらに個人の生きる意味や生きる価値、目的、といったものにしぼっていきたいと思うが、今回のローグワンは、とにかく「希望」の物語だった。
私もまあ子供を持つことが可能な年齢などになってきて、いろいろ考えるようになってきたのであるが、ようはバトンタッチなわけで、いろいろなものを後世に残していかなければいけないと。
もし、自分さえよければという世界でいきていればわれの欲望のままにいきればいいだけであるが、ローグワンに登場する人物たちはそうではない。後ろ暗いこと、手を汚さなければならないことを、反乱軍の戦士たちも当然しなければならないのである。それをあまり描かなかった旧三部作は、よくもわるくも娯楽SFだった、それを描かなければいけなくなったローグワンはよくもわるくも現代的である。
みなその任務を、仲間が殺されたり、いつ自分の命が絶えるともしれない、あるいは仲間であるはずの人間を殺して自分は生き残らなければいけない、そんなことをしつづけて生きていられるのはやはり「大儀」があるからである。
「大儀」がある生き方がいいのか悪いのか。あれば、戦いになるし、なければモスアイズリーやジェダの町の人々のような生活になる。そこには正解はない。
しかし、その大儀に希望を託すということ、その希望を託し続けることによって、人、社会、というのは存続しているのかもしれない。人は人のそうした思いや情念によって、それを引き継いで生きているのかもしれない。
そういう意味で、結局は登場人物のほとんどは死ぬという、まったく希望もない映画だったが、なぜか感動的に、希望のためならば、という映画になっている。
この映画がもし不発に終わるとすれば、希望のためにならば、自分の命を賭してもいいという価値観、より崇高なものが自分の命よりも上にあるのかどうか、という点で、感じ方が変わってくることであろう。
この映画が示したのは、希望を持った生き方がどのようなものかということだった。それはそれで、数十年越しの希望を見せつけられた私としては感動にたるものだったが、それを簡単に感動していい、人命を軽視していないか?という疑問符と共に共有しておきたい映画ではあった。


バイオハザード・ザ・ファイナルの感想
奇遇なことに、バイオハザードでも、最後には、スターウォーズと同じ人はより多くの大きな使命の前には自分の命を捨てることができるか?ということがテーマになっていた。
まあさすがにこの状態、世界が全滅して残った人間は4000人程度、自分をも殺す抗ウイルスをばらまくかどうか、という選択肢だったら、さすがに僕でもばらまくので、これはそこまで難しい選択しではなかったようには思えたが・・・。
スターウォーズ、ハリポたは展開中のなかで、長年続いたバイオハザードはようやく、ファイナルということになり、回収を見せた。
ひろがっていく分には構わないけれども、それをいかに回収できるかで、後世の評価はだいぶ左右されることになるだろう。起承転結も、やはり結が一番難しいのだ。下手をすると、シンゴジラで去年話題になった庵野監督のように、エヴァンゲリオンとかのようになにがなんだかわからなくなって回収できません、ということになりかねない。それもまたそういうスタイルとしてあってもいいが、やはりものごとにはどこかでピリオドをうつ必要もあるし、終わらせる、片付けるという引き算の哲学も必要になってくる。今回はそれをなんとか無事にやり遂げたということで、私はこのシリーズの完結におめでとうといいたい。

さて、ではどのようにしてひろげていった話を回収するか、というこれはなかなか難しい話なんだけれども、あさっての方向にとんでいってしまって終わっちゃうという、投げやりな方法もある。猿の惑星なんかがそんな感じがしないだろうか(詳しく見てないのでしらないのだけれど)。
もう一つの方法としては、一応納得感の得られやすい、原点回帰型。ユニコーンガンダムでも、結局はもといた場所に全部あったんじゃねえか、いままでの中間の5話の旅はなんだよ、ってつっこみたくなるあれなんですけど。今回も結局ラクーンシティの最初の研究所に特効薬があって、それをばらまけば終わりみたいな、じゃあいままでの旅とかほんとなんだったの、ありす、最初から元の吉攻撃しつづければよかったやん、というなんともな感じになってしまってはいる。
まあそんなことをいったって、私がいざ作者になったらとてもじゃないけど、回収なんて無理だから他人のことをとやかくいうのははばかられるけれども。

最後にちょっとヒューマンスティックな話をしておけば、たんなるゾンビの話で戦って終わり、ということかと思っていたけれども、その戦っているアリス、彼女自身はというと、ゾンビ、それからコピー、それからオリジナル、などなどと対比されるなかで浮かんできたものは、人間を人間たらしめているもの、人間性、のようなものだったのには、ちょっとだけふーんと思った。まあ後付けと言えばそこまでなんだけれども。
レッドクイーンは最後にアリスにあなたは私達の予想を超えて、人間よりも人間らしくなった、人のために自分の命を捨てられる勇気を評価した。アンブレラの自己のことしか考えない人間たちは、浄化された新しい社会には必要ないということなのだ。
そして人間としてもうひとつ大事なこと、それは記憶。
人間を人間たらしめているのは、やはりそれまでの記憶なのだ。それが間違っていようが、ねじまがっていようが、とぎれていようが、それがやはり人の心を形成する重要なものになっている、そんなメッセージが最後に伝えられた。


ファンタビの感想 ヘンな子たちの物語
もともとの正史扱いされる7部作からもその片鱗は見えていた、というかまさしくそれがテーマだったのだが、今回もそのテーマが色濃く引き継がれていると感じた。7部作のほうは子供時代に鑑賞したので、そんなことは意識もしなかったのだが。
テーマというのは、この作品が、弱者やコミュニティのなかにうちとけない子、風変わりな人、ちょっと変わった人、そうしたマジョリティーとは異なる性質を持った人々に対する暖かなまなざしである。
もともと人間という大多数のなかでの魔法を使える存在、ということで魔法使い、魔女たちは差別、偏見の対象であった。それはハリーポッターの初期からよくみてとれる。ダドリー家では、階段下にした部屋を与えられないなど、およそ常人とはあきらかにことなった差別を受けて来た。
物語後半では、魔法使いの世界の中でも変わり者であったスネイプ先生の少年時代の話とか、あるいはかなりあからさまではあるが、ルーナのようなキャラクターが登場し、それらの登場人物が物語の中で排除されるのではなく、むしろあたたかく迎えられているところに、この作品の、あるいは安易に作者の、思惑が意図されているように思われる。
そのテーマはこの作品にも引き継がれていると私は感じた。
というのも、この作品する四人の主なメンバーがそろいもそろって変人ばかりだからだ。
主人公のニュート・スキャマンダーは好奇心というか探求心旺盛なフィールド学者タイプ。一つ気になってしまうと周りのことが見えなくなり、とんでもない状態になってしまう。魔法で壊れたものが直せるからといって、あまりといえばあまりである。学級にいれば、ADHDや多動性と見誤られてもしかたがないレベルである。
ティナ・ゴールドスタインもまじめなタイプ。だがハーマイオニーのそれとはやや違う。実直すぎて規則にしばられているタイプだ。本当は融通を利かせたいのだけれどもというところでもでも規則は規則で、と規則にしばられてしまう、こうした原理主義的な人は、発達障害に多い。
物語の主軸はこの二人にかかってくるのだから、なんとも堅苦しい感じがする。お気楽を担当するのは、クイニー・ゴールドスタインとジェイコブ・コワルスキー。
クイニー・ゴールドスタインはフェミニンムンムンという感じのお色気お姉さん。ジェイコブ・コワルスキーは小太りで、フェミニンと双璧をなさなければならないイケメンとは相反するダメンズボーイ。
ところが、このファンタビがいいな、というかやや思想的にやりすぎなところはあると感じはしたが、作品の方向性となっているのは、ハリポタ7部のような、学生同士のイチャイチャラブラブではないというところだ。イケメンと美女がということではなく、美女が、イケメンではなく、小太りだけど優しくてユーモラスがある男性にひかれて恋に落ちるというところが、2010年代を生きているなという感じをさせてくれる。
ようはポリティカルコネクトネスのような思想がはいってきているわけである、物語りの舞台はおもいっきり1920年代なのではあるが。
アメリカの映画をけん引してきた、さらにはここ10年、20年少年少女たちの心に涵養を与えて来たハリポタシリーズが、このような恋愛観、美女でもイケメンに惚れるのではなく、むしろぶおとこであってもひかる個性があれば、それは十分に愛するに足る、チャームポイントであるということを大々的に広告してくれるのには、ぶおとこの私としては、ついに私達の時代も遠からずと思わなくもないところである。

ただ、総括として、スターウォーズ、バイオハザード、ハリポタと、ここ10数年で人々のコモンセンスとなってきた大衆作品の最新作、あるいは最終作としては、この三作品、それほどおもしろくはなかったなというのが感想だ。
2016年は夏ごろの、君の名はとシンゴジラの影響が強すぎた感がある。このふたつの作品は、その後もずっとニュース番組で取り上げられるなどし、話題を博した。ところが、この三作にいたっては、その後まったく音沙汰がない。音沙汰がないということはやはりおもしろくなかったのかな、ヒットしなかったのかなというところで見に行ったが、まあそこそこおもしろいものの、とてもおもしろいわけではなく、どれも評価は3といったところだ。全部で5000円近くの金を払ったのだけれども、ちょっと高すぎたかもしれない。




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『ブレイブリーセカンド』感想とレビュー

ブレイブリーセカンドを一通りクリアした。裏ダンジョンや裏ボスがあるのかは今の所知らないが、ひとまず、息をつきたいというところか。というのも、私は最近いろいろなものに体力を見出すのが好きで、世の中にはゲーム体力なるものも存在すると思うのであるが、私自身がそのゲーム体力が高校生くらいのときと比べるとかなり衰えて来たようにも思えるのだ。だから、かつてならば、よし裏ボスまでみっちりコンプリートしてやるぞと思ったところであったろうが、現在となっては、精神状態もあまりよくないということも影響し、ひとまずクリアしたから、もういいかな、という息も絶え絶えな感じなのである。

さて、今回のセカンド。やはりセカンドとタイトルにも名前がばっちりと出てしまっていることであるから、それを購入する人というのは、デフォルトをすでにやったことのある人、に限られてしまうだろう。もちろん何かのミスでセカンドから始めてしまうような人もいるかもしれないが、それはごくごく限られた人数に過ぎない。まあデフォルトはかなりヒットした作品であるから、デフォルトをやった人達の半数でも購入してくれれば万々歳といった計算のもと制作されているのかもしれない。ラストには、ブレイブリーソードの謎が言及され、これは三部目もあるのか?と思わせる内容になっていた。今すぐにはちょっとやりたくないくらいには疲れているが、いずれまたあと一二年経過したあとにであれば、やってもいいかもしれない。

十年代に入ってからは、3・11があり、さまざまな価値観が崩壊してしまったり、今まであった価値観への反逆、まどかマギカのようなカウンターカルチャーが流行ったりした状況のなかで、この作品は、これぞ王道という、王政復古ではないけれども、かなり回帰主義的な部分がないわけではない。
もちろん、3DSのカメラを使用して、ゲームがゲーム内の狭い世界に閉じこもるのではなく、我々プレイヤー世界とも実はつながっているのだ、といったような、メディアを越境するようなおもしろく新しい試みも当然そこには含まれてはいるのであるが。

そうした新しい試みがある反面、いまとなっては、誰も口にしなくなった、くさいようなメッセージをこの作品はプレイヤーに届けようとしているのである。このゲームをプレイしているのが現代若者たちであるとしたら、その若者たちに対してのメッセージというものが、それだけでなくどのような意味を持ちうるのかということを少し考えてみたい。私たちは高度経済成長もバブルも経験していない世代であるから、まったくもって経済や社会に対して明るい未来を見出したことがない世代なのだ。産まれてこのかたいいことはちっともなかった世代といってもいい。そのような世代を生きる人たちは、きっと宮台真司のいうような、まったりとした生などそれぞれ独自な生き方を見付けて行ったことであろう。

私は社会に進出したものの、たった二ヶ月で嫌で嫌で仕方なく、抑うつ状態になってしまってニート、ひきこもりになるという、典型的な現代の挫折物語を体現した人物であるが、そのような人物が多いなか、このゲームはそのような人達にどのようなメッセージを与えるのか、ということが私の気になるところなのである。
というのも、なぜそういう図式が成り立つかというと、そもそもゲームをやる人種というのはかなり限られている。ゲームブームがあるわけでもないし、このようなゲームをやる人種というのは、それだけでかなり限られてしまっているのだ。つまり、必然的にゲームをやる若い世代の、さらにオタクに親和性のあるような人達がプレイすることが前提とされているはずであり、このゲームはそのような人達に少なからずメッセージをおくっているということができると思う。

で、そんないい未来もない、スレてしまった我々若者オタクたちに対して、いまさらそんなのねーよ、といいたいような、「勇気」というものをこの作品は再提示してくるのである。今回はブレイブリーセカンド、やり直す勇気というのがテーマであった。前作ブレイブリーデフォルトは、従わない勇気。いったい何に従わないのか、確かに、そういえば、私たちはなにものにも従っているつもりはなかったかもしれないが、何かに反逆していきていたわけでもなく、それすらも気づかされないような従順な生き方を強いられていたのかもしれない。だからこそ私たちは何かそうした漫然、漠然とした支配的なものからの反逆、自分らしく生きるということをしてもいいのではないか、という目覚めのゲームだったのだ。

しかし、そのように目覚め、自分の生き方を模索しようとするとかならず失敗する。あるいは、そのような模索がなかったとしても、現代の若者は疲れ果て、社会や家族といった、かつて人々を守っていたセーフティーネットはすでに崩壊し、守られるものなき世界において、一人で世界に立ち向かい、恐れおののき、失敗を恐れ、ひきこもりになってしまっている。そのようななかで、もう失敗したくないという想いのために、私たちは身動きが取れなくなってしまっているのである。だが、それでも、ブレイブリーセカンド、がんばリベンジ、諦めない限りはなんどでもやり直せるのだ、ということをこの作品はメッセージとして伝えてくれているのである。

90年代のエヴァ的発想は失敗するのがこわいからなにもしないという想像力であった。宇野常寛は、ゼロ年代の想像力はひきこもっていたら殺されてしまう、というサヴァイブ感と『ゼロ年代の想像力』のなかで見事に喝破した。しかし、それでも10年代の私たちはふたたびひきこもりになっていると思うのだ。ひきこもりは少数派かもしれない。どちらかというと、さとり世代といわれるように、無に近い感覚でこの世界を生き延びようとしている。十年代の私たちは、もはや失敗は最初からつきもので、織り込み済みなのだ。失敗するのはあたりまえ、その上で、さらにどのように生きていくかということを選択しなければならないのかもしれない。

追記として
今作では、ラスボスの存在が、唐突な感じがして、あまり思い入れもなく倒すこととなった。これはドラクエ5でも出た言説であって、ゲマがラスボスになるのかと思ったら、ゲマはラスボスの手下で、その後イブール、ミルドラースと、およそそれまで知らされもしなかった存在がボスになっていき、なんとなくなぜ倒さなければならないのかわからないままに倒すことになってしまった。
前作デフォルトでは、倒すべき敵と思われるのは、最初から最後まで一貫してひとつの存在であったのに対して、今作は、最初は帝国かと思ったら、実はそれをうらであやつっていた、妖精族エアリーであり、さらにそのエアリーを手下としていたプロビデンスという存在だったということになり、プロビデンスがいったい何なのかがよくわからないままにラスボスを倒すということになってしまった。

さらに言えば、ベガとアルタイルがいったいなんだったのか、というのも実は私のなかではちっとも納得がいっていないのである。ベガとアルタイルがそんなに重要な位置を占めるのであれば、もっと初めのほうから、伏線なりを仕込んでおいて説明をきちんとすべきであったろう。
ただ、今回はベガとアルタイルという何億年も前の存在の友人であるという人物が、これまで冒険者として、各地に存在していた謎の人物であったということが判明した。おそらく次の作品をつるくのであろうから、そこで伏線が回収されることを望む。

あとシステム上、どうしてもいっておきたいことがいくつか。
やはりブレイブリーセカンドの課金はどうしたってやめたほうがいいと私は思う。今作は、前作へのプレイヤーたちの意見などをもとに、改良を加えたシステムになったと説明があったが、それはいいとしても、どうしたって課金ゲームに近くなっていってしまっているのは残念で仕方がない。
課金ゲームはカンコレをほんの少しやってしまっただけで、ちっともおもしろくないなと思ってやめてしまったのであるが、ゲーム上必要となってくるなんちゃらストーンのために課金する、といった現代の風潮は、よろしくない、ともちろんそういうのがあってもいいけれども、と思うのである。
何よりも、きちんと料金をはらって購入しているゲームへの課金はやめたほうがよいと私は思う。課金ができる、という説明が作品冒頭のほうでなされたとき、ほんとにこのゲームをやめようかとも思ったくらいだったのである。これでは子供が安心してプレイできないではないか、というのが私の感想だ。子どもには昔のドラクエなどをやらせたいなと私は個人的に思うが、それは安心してゲームができるからだ。もしよくもわからないもののゲームができるといった、小学生くらいの子が、このゲームをやっているなかで、楽にできるからという理由でSPポイントを買いまくってごらん。それを誰が払うのかという問題になる。やはり子供がシステム上安心してプレイできないようには私はしないほうがいいと思う。何よりもそれによって垣根があがってしまうからだ。できることならば、親が安心して子どもに買い与えられるようなものになってほしいものである。



『機動戦士ガンダムSEED』(50話、2002-03) 感想とレビュー いかにして「毒親」と向き合うか

最近突如としてガンダム熱がはいってしまった。もとはといえば、私のサブカルの先生が富野信者で、キングゲイナーをうたっていたことから端を発し、隣接した作品である∀ガンダムを見た次に、では富野監督作品ではないけれども、ということでシードを鑑賞することとなった。
宇宙世紀主義者である私からすれば、同じガンダムを名乗っていいのは、やはり正史に属する作品であってほしい、という選民思想のようなものがあったので、この作品をきちんと見ることができるかどうか、というのが私のなかでの課題であった。

結論としては、まあまともに鑑賞することはできたのではないかと思う。登場人物が、2002年にもなり、富野監督でないために、やはり普通のアニメのような造詣になってしまうのは致し方なかった。私はやや苦手であるが、アニメっぽい登場人物たちの登場によって、これはこれで新しいガンダム像を提示できたのではないかと思う。それよりは、ロボットや戦艦といったものが、宇宙世紀のガンダム作品にかなり寄せられてつくられていたので、その点、かつてからのガンダムファンでも見ることができたのではないかと思う。事実私もそうであった。

さて、しかし50話も鑑賞していながら、なにを論じようかという段になると、かなりむずかしい。それはファーストガンダムにしろ、同じであろう。やはり大きすぎるというのもあるけれど、何を論じていいのかわからなくなってしまうという感じはある。
Wikipediaによれば「監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『非戦』というテーマを描いた」とのことである。」そうだ。しかし、この作品の直前に、∀ガンダムを鑑賞した私としてはこの作品を非戦というのはやや苦しいかなと思うところである。というのも、∀のほうがより真剣に非戦に関しては深く論じていると思うからである。

非戦といいながら結局は「守るもの」のために戦っているし、この作品は非戦と呼ぶにはつらいものがある。それよりかは、戦いたくないにもかかわらず、戦争という現実問題が目の前に展開されるなかで、否応なく守るもののために戦いを選ぶ、という決断主義として捉えたほうが正確であろう。
「加えて竹田は、「再選を果たしたアメリカ ブッシュ大統領がファルージャでの掃討作戦を展開し、ますます混迷を深めるイラク情勢」についても述べ、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を観ることで「視聴者が世界情勢を少しでも自分の身にひきつけて考えてもらえるようになれば」とも語っていた。」というところからも、この作品がゼロ年代の想像力において、戦わなければ殺される、という緊迫したサヴァイブ空間のなかで、それでも戦わなければならない、という決断主義のほうがより正しい気がするのである。

実際95年のエヴァでは、主人公は24,25話において戦いを放棄して自分の心理のなかに閉じこもってしまったわけであり、その点では、やはりこの作品は非戦というよりかは、決断主義のもとで戦わざるを得ないという選択肢しかとらざるをえない登場人物たちの戦いを描いた作品ということができるだろう。
それよりも私が気になったのは、この作品が、特に前半部において親との関係がテーマとなりうるのではないかという点だ。
最近では「毒親」という言葉がネット、特にTwitterなどで注目を集めている。それまでこのような自分の心情を吐露できるシステムがなかった時代においては、あるいは、知人以外の人間の、自分達と似たような境遇を持った人達のことを知る術がなかった時代は、それらの心情、経験というのは自分個人のものとして、抱え込んで生きていかなければならないことであった。

しかし、このように自分の心情を吐露することができるようになり、また同じような境遇の人を発見しやすくなったということもあり、自分達がいかに、「普通」とは違った育て方や受け方をしていたのかということが露呈し、「毒親」というセンセーショナルな言葉と共に、Twitterの世界などにおいて、その感情や経験の共有がなされてきているのである。
この作品もまた、目標となるべき大人の存在が欠如しており、主要な登場人物たちの親がひどく悪い人物のように描かれていることからも、一つの原初「毒親」作品ということができるだろう。

もちろんこの作品が、よくもわるくもあまりにも巨大な「機動戦士ガンダム」という一連の作品の子どもであるという構造的な問題もそこにはリンクしてくるであろう。この作品は、登場人物たちがそうであるように、すでに社会においては成功している、あまりにも巨大な父母からいかにして、自己というものを立ち上げていくのかというのが問題になってくるのだ。しばしば親が会社社長だったりどこかの議員だったりする子というのは、我々現実においてもかなり歪んだ、いびつな存在になっている。ダメな子どもになっていたり、あるいは完全にくじけてしまっていたり、あるいは親の権力の威を借りていたりと、とかく親の存在が巨大だと子どもというのが歪んで育つものなのである。

さらにこの種という言葉をも示すseedという作品では、親が子どもを自由自在に作れるようになった世界の話を前提としている。私たちはしばしば大人になると自分たちが子どもであったという過去を忘れてしまい、自分の子どもは自分の所有物であるかのような錯覚を思い起こしてしまう。だから、遺伝子操作によってそれが可能となった世界においては、まるで着せ替え人形をつくるかのように、自分の子供を自由自在に作り上げようとするのである。それはもはや子どもという絶対的な他者ではなく、自分の分身なのだ。

「近代」において突如として発生した「家」という概念、集合体は、きわめて歪んだシステムであるということが、もはや言論や思想の世界ではあたりまえのように批判されるようになってきた。しかし、多くの人々にとっては社会学の本を読むでもない限りは、そのようなことは知る術もないであろう。核家族化した家というのは、「他者」「他者の眼」というものが存在しない、きわめて閉じこもった組織である。そこではもはや公というものは存在しない。だからこそ、親と子は、人と人という関係ではなく、家族なんだから、とか親子なんだから、という理由で、意味もなく殴られたり、無視されたり、嫌なことをされたりと、およそ他人には絶対にしないことがまかり通ってしまうのである。私自身、巨大な親というものをもったために、もはや人としてどうしようもないような状況に落ち込んでしまっている経験から、やはり親子という関係においても、「家族だから」の論理ではなくて、「人として」の論理を通した方がいいと思う。

この作品は2002年においての巨大な親をもったがために歪められて育った人物たちを描いた作品なのだ。その存在はあまりにも大きいために、その影響から逃れることはできない。今自分がいる位置というのは、すくなからず親のためであり、アスラン、カガリ、フレイがいまいる場所は親によって提供された特権的な地位なのである。
しかし10年代になれば私たちは自分の経験を他者とわかちあうことができるようになるが、ゼロ年代もまだ初期においてはそういうわけにはいかない。ここに登場する人物たちは、それぞれ「毒親」を持ちながらも、その経験を決して他人と、同じ境遇の仲間と分かち合うことができなかったのである。

この作品の心理描写が少なく、主人公のキラでさえ、ほんのちょっとカガリやフレイになぐさめてもらう程度であり、人々は自分の苦悩を他者と分かち合えていない。その点で、この作品は仲間意識というものはきわめて弱く、本質的には孤独な戦いを強いられているといってもいいだろう。人々は皆、巨大な父や母とどう向き合い、その問題点をあぶりだし、それをどう克服するかを課題としているのである。


佐々木俊尚『ブログ論壇の誕生』(文藝春秋、2008) 感想とレビュー

昨日、わずかではあったが【ニコ生視聴中】佐々木俊尚×モーリー「戦後70年と、これからの“優しいリアリズム”」を視聴。以前から佐々木俊尚の名前は知っていたが、どんな人なのか、初めてみることとなった。とても知性的で、すごくいい印象だったので、自室にあった佐々木俊尚の本を手に取って読んでみることにした。
五段階中、評価は4.良質な本だったと感じた。
さすがはネットにつよいジャーナリストだなという感じ。付録として佐々木氏がおすすめするブログ論壇がまとめられているのがおもしろかった。

もともと討論や議論というのは、この本によれば、17世紀から18世紀にかけての西ヨーロッパ市民社会にさかのぼることができるそうだ。「イギリスのコーヒーハウスやフランスのカフェ、サロンで行われていた討論が、公論の場を生み出し、世論形成の場になった」のだという。
もちろん当時から、そうした議論をすることができたのは知的階級であろうから、それなりの階層の人間である。17,18世紀の服を着て、カフェやサロンで西洋人の男性たちが議論を戦わせていたのかと思うと、それなりに興奮してくる情景である。

そこでは次のような前提があったようだ。
①討論への参加者がどのような社会的地位を持っているのかは、度外視されていたこと。
②それまでの教会や国家によって当然のことだとされていた問題も、タブーなしに自由に討議すること。
③誰もが自由に、討論に参加できること。
こうした土壌があったからこそ、西洋社会は発展していったのだと言える。

しかし、日本では議論を戦わせるよりも、場をわきまえ、おかみの言うことに従うということをよしとする文化体系であったために、議論をあつく戦わせるというような文化は生まれにくかった。それが、現在においても日本人の討論があまり水準として高くないことの原因にもなっているだろう。
しかし、そんななかで、現れたのがこのブログ論壇ということなのである。それまで発言権を持てなかった一般市民がその声を発言できる場が提供されたことにより、玉石混交ある中ではあるが、その玉の部分が相対的に多くなり、ネットの世界に現れて来たというのである。

本書は、ネットに詳しい佐々木俊尚氏が、2000年中盤に話題となったネットでのそれぞれの事例について紹介し、それに対してネット論壇がどのように反応したのかということを、いくつかの例にわけて紹介している。
紹介されたのは以下の通り。
1、毎日新聞低俗生地事件
2、あらたにす
3、Wikipedia
4、チベット問題で激突するウヨとサヨ
5、「小沢の走狗」となったニコニコ動画
6、志位和夫の国会質問
7、安倍の窮地に暗躍した広告ロボット
8、辛抱を説く団塊への猛反発
9、トリアージ
10、承認という問題
11、ケータイが生み出す新たなネット論壇世界
12、『JJ』モデルブログ
13、光市「1・5人」発言
14、青少年ネット規制法
15、「ブログ限界論」を超えて

いずれもおもしろい問題であった。
例えば6の志位和夫の問題では、志位和夫の国会答弁が、非常に論理的であり、検証を重ねた結果出たものだったとして、その親和性からブログ論壇で取り上げられ、ニコニコ動画などでも取りざたされ話題になった問題。1時間もある国会答弁にそれまで多くの人間は見向きもしなかったわけであるが、ネットの普及によって、ニコニコ動画などでコメントをかきながら参加するというような手段を通じて、それがひろまっていったというのが21世紀の政治へのかかわり方なのである。ここでは、より詳しく学びたければブログ論壇を覗けばいいということもあり、そうした政治への関心というものが少なからずよい方向に向かっているということが考えられる。

佐々木の分析によれば、ブログ論壇を形成しているのは、その多くは70年代生まれのロストジェネレーションと言われる世代だという。彼等は団塊世代への不満を持ちながら、条件のよくない仕事をせずにはいられず、そのうっぷんをネットでこぼしているのである。
団塊世代はネットを覗かないので、ネットで当たり前のこととなっているようなことに気が付かない。8では辛抱が必要だというような団塊の世代に対して、ブログ論壇を含め、大きな反発があった。しかし、団塊の世代はネットでそんな反発があるのを知らないので、いつまでたっても二つの溝はなかなか埋まらないのが問題である。

私自身も、そうしたブログ論壇を目指してブログを運営してきた経緯がある。
この本では佐々木俊尚氏が参照するブログ論壇が300ほど付録として最後についている。いずれはそういう場所で紹介されるくらいのブログになりたいものである。
そのためにもより勉強して、もっとブラッシュアップしたものをアップできるようにしなければならないし、また、どのようにかして話題となるようにならなければならない。
目指すは一日に専任単位の人がおとずれてくれるブログではあるが、いまのところは、毎日300人程度の中堅のブログとしてなんとかほそぼそとやっている。閲覧数が増えれば、それだけつっかかってくる人も増えることだし、面倒なことは増えそうである。
だが目標とするのは、編集者なりの目にとまり、書籍化することだ。


『ああっ女神さまっ』感想とレビュー オタク男はいかにして救われるのか

藤島康介原作と『ああっ女神さまっ』のアニメ化されている作品を一気観した。鑑賞したのは以下の通り。
OVA『ああっ女神さまっ』(5話、1993-4)
『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』(48話、1998-99)
劇場版『ああっ女神さまっ』(2000)
『ああっ女神さまっ』(第一期)(26話、2005)
『ああっ女神さまっ それぞれの翼』(第二期)(24話、2006)
『ああっ女神さまっ 闘う翼』(2話、2007)

藤島康介といえば他に『逮捕しちゃうぞ』が代表作である。二つの作品には、女神様のほうには「他力本願寺」というのが出て、「逮捕しちゃうぞ」には「自力本願寺」という寺が出てくる。これは最初単なるジョークかと思っていたのであるが、主人公たちの行動を見ていると、他力本願なのか、自力本願なのかということで、大きくわけられることに気が付いたので、ここに記しておこうと思う。
やはり逮捕しちゃうぞの主人公二人は、自力でぐいぐいやっていく強い女なので、そこに登場するのは、自力本願寺ということになるのであろう。それに対して、やはりオタク少年は自ら主体的に動くことはなく、すべて外側からの影響によって動くという性格付けがあるので、他力本願時ということになるのだ。

ある日突然女の子(神聖を持った)が落ちてくる、という日本人の発想は、かぐや姫にさかのぼることができると思う。小さいころにそのような幻想を聞かされた男たちは、一方でいつか美男子が自分のことを助けにきてくれるのだというディズニーが量産しつづけた幻想に浸る女子を片目に、それを批判しながら、しかしどこかで自分の目の前にも、いつか自分を救いうる彼女が降ってくるのではないか、という幻想を抱き続けるのである。

それが、86年のラピュタで王族であるシータが空から落ちてくるという、アニメ界にとって衝撃的なインパクトある登場のしかたを見せるのである。もちろんそれ以前にも、当然かぐや姫があったように、空から女の子が落ちてくるという想像力はあったろう、が私は管見にしてラピュタ以前のものを知り得ない。88年の『ああっ女神さまっ』も当然ラピュタのあのセンセーショナルな落ちてくる女神像を踏襲していることは明らかであり、しかも女神であるという点も、オタク的想像力ということができるだろう。

空から女の子が落ちてきて、冴えない持てない自分の人生を一変してくれるのではないか、という想像力は、日本のオタくたちの間ではかなり根強い幻想となった。2007年から連載の水無月すうの漫画作品『そらのおとしもの』は、落ちてくるのが女神であり、しかも三姉妹というところから、ほろんどこの『ああっ女神さま』のオマージュとも言える作品である。2004年から刊行の鎌池和馬による日本のライトノベルシリーズ『とある魔術の禁書目録』も、ある日突然特殊な能力を持った女の子が空から降って来て、自分の家の物干しざおにぶらさがっていたという想像力である。類似した作品を探せば、一つの系譜として研究対象になり得るであろう。

オタクのことを一分の一の描写で克明に描いた『げんしけん』では、オタクというのはなろうとしてなるのではなく、気がついたらなっていたものというオタク定義がある。自分の努力でオタクになったのであれば、非オタクになりたい時にまた同じ努力を費やせばいいのであるが、気がついたらなっているという自然発生的なものだとすると、脱オタクというのは非常に難しいものとなってしまう。
オタクが世間からうとまれ、キモイものとされてきた80年代90年代においてオタクという人種は非常に救いがたい立場にいたのではないだろうか。そうした自分の努力ではどうしようもならないというところで、オタクたちが安易に求めたのは、いつかそんな自分でも絶対的に承認してくれる、お母さんのような彼女だったのである。

オタク学生である森里 螢一は、ある日先輩の電話番をしており、そこで間違い電話をしてしまうことから、女神であるヴェルダンディーを召喚してしまう。90年代生まれの私からしたら、黒電話の前で電話番をしなければならないというのが、すでに時代を表しており、今現在となっては考えられない設定である。
なにかよくわからないが、願い事をひとつだけ叶えてくれるということで、「君のような女神に、ずっとそばにいてほしい」といったところ、その願いが叶ってしまうというラブコメであるが、この願いにこそ、80年代、90年代、いや、今においてさえも、オタクたちの幻想の最も重要なものが現れていると思われる。

オタクたちというのは、何も大金持ちになったり、いい会社に入ったり、いい給料を貰ったり、いい車に乗ったりというような社会的な承認は求めていないのである。2008年(平成20年)6月8日におきた秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大(1982年9月 - )も、ネット上に書き込んでいたのは、ひたすら自分の容姿が悪く、彼女ができないことであった。それはなによりも、母親のように無条件で自分のことを愛してくれる存在を求めていたからである。

そもそもなぜオタクがモテないのかといえば、それは社会的な要因が大きいからであろう。社会全体がオタクという人種に対して、ネガティブなレッテルを、例えばマスメディア等で流布しているのが原因である。秋葉原事件もその恰好の的であるが、宮崎勤事件などにより、オタク=犯罪者予備軍というのは、マスメディアによってつくられた幻想であった。一方で日本の女性は、戦後入ってきたディズニーアニメによって、女子は受動態であり、いつか超絶美男子が自分のことを救ってくれるという幻想を強固なものとした。また近年に至っては純愛志向であり、マスメディアが流しているのは、ありえもしない超絶美男子と美女との恋愛である。

こうした情報を普段あびるように見せられた人間たちは、その目標自体がきわめて高く設定され、美男子、美女でなければ付き合いたくないということになってしまう。そのために、全く冴えないオタク男子たちあるいは腐女子たちはイケメンたちのことを恨みながらいつか自分のことをすくってくれる人がくるのではないか、というあり得もしない幻想に余計にひたるようになり、最低限のところで妥協していれば、不細工かもしれないけれども、彼女、彼氏ができるという、小さな承認をより求め辛くなっているのである。

不幸にもまだそれだけの批評性のない時代であった。『ああっ女神さまっ』が男子オタクたちにさらなる幻想を抱かせてしまったのは仕方がないと言えるだろう。一方で突然降ってくる少女像は、完全にロボットになってしまったり、ロリになってしまったりと、まだ単なる美少女であったほうがその欲望としては純粋だった気がするは、屈折してきていることは、今後のオタク的発想がどうなるのかという点に関して興味深い疑問符を投げかけている。


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