憎愛 二十七

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千里は優也の祈願のためか、あるいは彼女の頑張りのためか、思っていたよりもよほどいい大学へ受かった。受験によって精神的に追い詰められてしまうこともなく、体調にも別段変化はなく乗り越えることができた。神経のか細かった優也とは全く正反対だ。優也は担任をしている関係上、クラスの全員の結果を一応待たなければならなかったが、彼にとってはもはやそんなことはどうでもよかった。彼は教師を辞めようと思っていたのだ。優也は自分のクラスではない千里の合格の情報をいまかいまかと待っていた。そして、二月になって、千里からは有名大学に合格したという連絡が来た。優也はこれで本当に安心することができた。メールのやり取りをして、湯島天神に御礼参りをしにいこうということになった。
「千里、おめでとう」
「えへ、ありがとう」
「これで千里は大学生だ」
「大学生なんて素敵な響き」
「大学の生活は明暗がうんと分かれるぞ。物凄い勉強して沢山恋をしてサークルも楽しんで、バイトなんかもしたりして充実した日々を送るんだぞ」
「ついこの間バイトはしなくてもいいって言ったのはどこのだれだよ」
「ああ、千里に限ってはバイトはしなくてもいい。一時間をわずか千円程度のお金に換えてしまうのならば、いくらともつかない小説を読んで人生を豊かにしたほうがいい」
「本当に優也さんバイトしたことないの」
「あはは、身体をつかった仕事はしない主義なのでね」
「高等遊民ね」
「千里はこれから新しい女性になるんだよ」
「ええ」
二月も下旬に差し掛かっていた。まだまだ寒さはちっとも和らがない。この時期が最も寒い時期だ。しかし、その冬にはすでに春の兆しが表れていたのである。千里は大学に合格し、これからその光をさらに輝かせ、遠くの人まで届くような存在になるだろう。
「湯島の白梅は知っているかい」
「何?知らない」
「泉鏡花の『婦系図』は知っているね」
「うん」
「あの作品は義理と人情が描かれているとして百年くらい前から大人気な小説だけど、あの作品はさらに演劇になってからも大ヒットしたんだ」
「ふーん、それで」
「うん、それで演劇や映画には必ずといっていいほどここ湯島の白梅が登場する。原作ではなかった場面なんだけれども、新派劇がその場面を独自に演劇に組み込んでからは、そのイメージが強くなってね。婦系図といったら湯島の白梅、湯島の白梅といったら婦系図という図式がなりたっているんだよ」
「そうなんだ」
「ああ、今の若い人にはわからない。そういう常識みたいなものが僕たちの一つ、二つ上の世代にはあるんだ」
「それでその湯島の白梅の場面っていうのは何なの」
「それはね・・・。主人公の早瀬主税という人と、その恋仲にあるお蔦という人とがね、ある事情から別れなければならない場面なんだ。二人の仲は他の人にばれてはいけないので、夜中に湯島をお参りにくるわけだ。それで、月明かりの差し込む中、白梅が煌々と光り輝くんだ。そこで主税は、お蔦に別れ話を切り出すんだ」
「そう・・・」
「そうなんだ・・・とても悲しいお話だよ・・・」
「うん」
「ほら、見て御覧。白梅が綺麗にさいているよ。まあ、でもその前に御礼参りをしないとね」
二人はお参りして、人がそれほどいない境内をぶらぶらと散策した。白梅に限らず、紅梅も鮮やかに咲いていた。
「どうしたんだい、さっきから黙って・・・」
「ううん、だって・・・さっき優也さんがそんな悲しいお話をするから・・・」
「文学をやる人間としての知識を教えたまでだよ、そんなに悲しまなくていい」
「本当?」
「本当さ」
「私の前から急にいなくなったりしない?」
「千里を置いてどこかへ行くものか」
「絶対だよ?」
「絶対さ」
「約束して」
「うん、約束しよう。僕は君を一人にしてどこかへ行きはしない。いつもずっと一緒にいるさ」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃないよ」
「そう・・・」
「うん」
「私なんだか不安で・・・優也さんがどこかへ行ってしまいそうな気がして・・・」
「ははは、馬鹿だな。いつもいっしょさ。これから君には明るい未来が待っているんだ。どうしてそんなに悲しむのかい。何があっても大丈夫さ。心配しなさるな。僕がついていてあげるから」
「嘘をついたら許さないからね」
「今日はやけに疑り深いね」
「だって心配なんだもの・・・」
優也はこの時どのような気持ちを抱いていたのだろうか。彼は紛れもなくこの時には教員を辞める手はずを整えていた。そして旅立つ準備も終えようとしていた。優也は嘘をつくことなどしない人間であった。ましてや千里のような恋人に嘘をつく人間では決してなかったのだ。彼の言葉が嘘ではないとすると、その意味はどのようなものなのだろうか。
しかし、時は来ていたのだ。優也はすでに自分にその時が来ていることを悟っていた。そのために、彼は急いで何とか間に合わせようと最後の著作に取り掛かっていたのである。彼はなんとか三学期、休みの間にその大半を書き記すことができた。そしてかなり粗削りではあったが、一応の完成をしていた。優也はそれをある友人の下へ送った。そのあまりにも意味のわからない小説とも言えない作品を送り付けられた友人は、すぐに優也に連絡をやったが、その時にはすでに彼はいなかった。
優也がどこへ行ったのかは誰にもわからなかった。哀しみに暮れる千里の下へ、彼が失踪する以前に書かれた手紙が何かの不都合がありようやく届いた。そこには「大学へ行って私よりよい良人(ひと)を見付けていらっしゃい」と認められていた。千里はやはりそういうことだったのか、自分の予想が外れていないことを恨んだ。こんなに鋭い洞察力を与えた優也が憎らしかった。
優也は再び生と死の境目、深淵の地へと降りて行った。彼には探さなければならないものがあった。

愛が彼を包んだのだ。孤独の中にあって死の淵まで落ち窪んでいた彼をある一筋の光が救った。それは紛れもなく希望の光だった。彼は本来行くべき場所へ行くことをしばらく先のばすことを赦された。何もなかった人生に、その最後に希望に満ち溢れた時が与えられた。愛がそこにはあったのだ。干からびてひび割れてしまった土地に、豊かな水が流れ始めた。それは惜しみなく与えられた天からの恵みであった。しかし、その天の恵みは、彼だけのものではなかった。それを願えば彼は天の恵みを一生自分のものにすることを赦された。だが、彼はそれを万人のために役立てるべきだとして手放したのである。彼はいつでも手放すことを考えて生きてきた。生命にしがみついていることをみっともないことだと思っていた。そしてその手放す時期というのをやっと見つけることができたのである。だが、すべてを手放した彼の手には沢山のものが残っていた。そこには、美しい花々、煌めく宝石があった。様々な原石、鉱石があり、彼の腰にはそれらを練磨する道具があった。薔薇を胸に差し、おしゃれをしている彼はパナマを被りステッキをついている。この花は詩人の花です。美人にあったらそれを贈るのですと彼は口にした。
彼は思った。私はいつでもお前のそばにいる。お前が私を思っていてくれば、私はいつでもお前のそばにいられるのだ。私は倖せだった。人生の最後に最大の倖せを得ることができた。これ以上の望みはない。お前は私の希望だった。しかし同時に世界の希望だった。私がいるかぎりお前を自由にしてやることはできない。だから私はお前を自由にするためにこの手段をとったまでだ。しかし、私はお前のそばにいることができる。それは形を変えてのことかもしれない。だけれども、私は常にお前のそばにいる。私はいく。しかしそれは悲しむべきことではない。自然の摂理に従ったまでだ。多少それをいじくることはあったが、取り返しのつかないような化け物を創っている人間に比べたら神様も許してくれるような程度のことだ。決して心配するな。お前の未来は希望の光に満ち溢れている。なぜならばお前がその光源だからだ。私はお前にその光を与えることができたのだ。そのため、私はお前の光によって救われた。ありがとう・・・。ありがとう・・・。

憎愛 二十六

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その日は、千里に悩み事があって相談に乗っていたのだと他の教員には説明して、千里を車で駅まで送った。実際、生徒のなかにはかなりいろいろな問題を抱えているものが多い。そうした生徒に頼られた教師というのは、確かに大きな時間を割くことになるが、自分を頼ってくれたこと、生徒の相談に乗れることなど他の職場にはないより人間的な部分を感じることが多い。このようなことは日常によくあることなので、他の教員に怪しまれることはなかった。
二人は秘密を共有したのだ。それは二人が望んでいたことであった。文化祭は二日間ある。文化祭当日は、学内で二人が通りかかった時などは、二人とも実に優しい眼をお互い交わしたものであった。かわいそうなのは出来の良い男子生徒だ。彼は千里が自分に好意を寄せているのだろうと思っていたものだから、文化祭の当日になって二人で回ったらきっといいムードになるだろうなどと夢想していたら、どうしたことかすげない態度をされてしまった。自分が何かしたのだろうか、この間まで一緒に学校から帰ったりしていい雰囲気だったのにどうしたのだろうと、愉しい二日間を苦悩に費やした。
優也と千里は充足というものを感じていた。二人は大人であった。優也の精神は人間としてかなり円熟した人のそれと同等であった。千里はそのような優也に教えを受けていたので、当然社会人くらいの精神を有していた。二人は決して自分たちのことが周囲の人間にわからないように振る舞えるだけの演技力は有していたのだ。最初からかなり仲の良い先生と生徒であった。その印象が強い回りの人びとにとっては、二人の関係は以前とかわらないように映った。優也はやっと、今までずっと追い求めていた充足というものを感じることができた。もちろんそれは千里にとっても初めてのことであった。だが、優也はずっと失い続けて来た人生がある。それが千里という女性によって満たされたのである。優也は倖せという文字をふと自分の手記に書いた。
優也のひび割れたこころには、倖せや幸福ということばが染み渡った。千里の愛が、彼のこころのひびを埋め、癒したのである。それはまた、多感で不安定になる彼女にとってもそうであった。人生をこれほど苦悩しながら生きて来た人はいない。彼は自分の生にいつまでも自信を持てないけれども、そのために道を知っている。優也は彼女によって満たされたために、一時的に急速な回復を見せた。またノイローゼになってきたなと思われていた優也は、それまでとは見違えたように元気で、光あふれる眼をしていた。優也のこころからは、様々な言葉が飛び出してきた。彼はそれを取り零すまいと、毎日著作にかかった。千里は、不安で押しつぶされそうななか、満ち足りたことによって受験勉強に専念できるようになった。
二学期は文化祭が終わると、すぐに試験があり、そしてあっという間に過ぎて行った。三年生を受け持つ教員はここでやっと息がつける。大抵の場合、教員は三年のサイクルを持っている。優也もまた、次年度から新一年生とともに三年間を過ごすということになるだろう。多くの教員は学年と一緒に持ち上がるのだ。だが、中には様々な事情がある。私立と言えど、教員の移動はあるものだ。だから時にはあがったりさがったりということはあった。優也はこの三年間別段移動はなく、千里の代と一緒に持ち上がってきた。そして、やっと三学期になった。生徒はまだまだ息を抜けない。抜けないどころかこれからラストスパートになる。三学期は受験勉強のため三年生に授業はない。この期間、どれだけ頑張れるのか、それが教師の心配のもとであったが、しかし教員としてできることはここまでで終わりだ。やっと一段落あり、教員もしばらくは心静かに暮らすことができる。
優也はその期間、ずっと家に籠り本を書いていた。彼は、非常に満ち足りた充足感のなかで生活していた。だが、彼にはどこか急いでいるような様子が見られた。早く本を完成させなければならないという思いがあった。
千里は精神的に充足したことから受験勉強が捗った。いつもそばには優也がいると思って勉強に向かった。それでも、彼女は時に不安に駆られることもある。そんな時は優也にメールをして、会いたいということを伝えた。優也も、時には受験生と言えど息抜きが必要だと思って、そのようなメールがくるとどこかに誘い出したり、あるいは優也の家に呼んだりもした。生徒を自宅に入れるのは初めてだった。いや、生徒に関わらず、ほとんどの人間を優也は家にいれたことがなかった。だから生徒を入れるのはどこか気が引ける部分があった。だが、生徒としてではなく、恋人としてならばいいと自分に言い聞かせた。
優也の書斎を見て、千里は一驚した。普通の家のなかに図書館があると思った。優也の書斎は壁三面をすべて本に囲まれていた。
「うわ、すごい」
「すごいだろう」
「これ何冊くらいあるの」
「そうだな、数えたことがないけど。ここからここまででざっと百冊くらいか。とするとそうだねえ、この棚ひとつで千くらいか。かける、いち、に・・・・・・どうだろう、合計で二万弱くらいあるんじゃないかな」
「二万・・・」
「かなりアバウトだけどね」
「これ全部読んだの?」
「いいや、まさか。そんなことをしていたら人生が終わってしまう。半分も読んでいないさ」
「あー、びっくりした。全部読んでいたら私は絶対優也さんに勝てないと思ったもん」
「全部読んでいないとしても、僕に勝つためには大変だぞ。だって、千里がこれから沢山読むだろう。だけれども、その間に僕もまあ千里ほどでなくても読むだろう。すると、また千里は読まなければならない。その間に僕も読む。ほら、一生千里は勝てないよ」
「頑張るもの勝ってやる」
「いい心意気だ。そのくらいでなくちゃ」
優也は微笑んだ。この幸福がいつまでも続くといいと思った。
次第に寒さが強まってくる。例年にない暑さの続いたこの年の夏、優也は一度死の深淵まで降りて行った。その時には、酷暑と豪雨の連続によって大勢の人々が流されていくのをそこに見た。夏に殺された多くの人がその深淵をすすんでいった。優也はそれを見ていた。だが、優也がそこでぼんやりしているところ、後輩の導久が隣に立っていてくれた。そして、優也が帰るべき場所を指示してくれた。そこには導久の父や、優也の友人、生徒たち、そして千里が待っていた。再びこの世界に戻ってきた優也は、そこでこれからこの世に希望の光を与えるであろう少女によって救われた。それは彼が死の深淵に行く前から磨いていた宝石であった。彼は一時期、その宝石を忘れてでも死の深淵までに陥らなければならないほど深く傷ついていたのである。しかし、暗黒の世界に居た時、ふとこの世界から差し込む光があった。それは千里の希望の光であった。皮肉なことにその光り輝く宝石を磨いていたのはほかならぬ優也自身だったのである。彼は自分が磨いた宝石によって、自分が帰るべき場所に戻ることができた。そしてもう一度その宝石に触れることができた。今度は彼岸に行く以前よりもずっと深く、触れることができた。だが、自分のエゴを捨て去ろう捨て去ろうとしていた彼にとって、いつまでもその宝石を自分の手元においておくことは許されないことだとわかっていた。そして一度は手放そうとしたのだ。しかし、その宝石がいざ自分の手元から他の人間の手に渡ろうとしたときに、彼は自分でも予想しなかった感情が沸き起こり、それを阻止してしまった。だけれどもそれでいいと思った。エゴは完全に捨て去ることはできない。エゴのない人間などというものは精子の段階で他のものに負けているのだ。裏返して言えば、この世に生まれた人間はすべてエゴの塊だ。生まれる以前から何億という競争の勝者だ。その勝者ばかりが集まったこの世界でまた競争をする。果たしてその競争をする必要があるのだろうか。もし、またさらにこの世界での競争にかったら、別の世界にはまた、様々な世界の競争を勝ってきた存在があるのかもしれない。勝ち続けるということは最後まで終わりのないことなのかもしれない。優也はそれを考えた際に、もう自分は敗者でいいと思った。ここまでの人生は確かに辛かった。しかし、最後の最後になって美しい宝石を眺めることができた。しかも、一時的ではあるがその宝石は自分のものになった。このちっぽけな人間のエゴを満たすのには十分すぎるほどだ。自分はこれで満足だ。エゴを最初から捨てようとしたのには失敗したが、一端満たしてやれば、わずかな期間だけ満足になり、何もかもを手放すことができる瞬間がやってくる。この時に賭ければいい。その時までにすべてを用意しておけばいい。その時はもうすぐ来る。それまでに急いですべての用意をしなければならない。旅路はこれから始まるのだ。急がなくてはならない・・・。
一体何をそんなに急いでいたのか、それは優也以外の誰にも分らなかった。
異常な暑さが続いたその年は、人間には辛いことに異常な寒さをももたらした。夏には、酷暑と豪雨によって人間は弄ばれ、一年を通してみれば、暑さと寒さによって弄ばれた。人間はますます生きづらくなる。環境は人間につらく当たる。それはまるで人間のエゴを諌めるようにも解釈できる。地球や自然といったものが、思い上がった人間を懲らしめているのだ。文明と呼べない文明にかぶれ、科学の力に盲目した人間は、いつか自然から返り討ちを受ける。これはその始まりに過ぎないのだ。電子機器に囲まれて自然というものを忘れてしまった人間は、どうしてこんなに自分が辛い状況にあるのかわからない。それは自然を排除してしまったからだ。虫が生きていけない環境に、どうして人間が生きて行けようか。それを忘れてしまったのだ。
優也はこのことを誰かに伝えなければならないと思っていた・・・。そしてそれを本に書き記していたのである。
東京はしかし、そんなに寒くてもなかなか雪は降らなかった。初詣は身を切るような冷たさだった。優也は千里を誘って学問の神様が祀られている湯島天神へ初詣に出かけた。優也は相変わらずおしゃれをしてフロックコートなんかを羽織っている。カシミア生地の上等なものだ。優也がかつて世間を騒がせていた時代に馬鹿にされてはこまると購入したものだった。現地で待ち合わせなどできないので、二人に都合のよい駅で待ち合わせてから一緒に行った。千里は雪のように白いはだがしもやけで多少赤みがかっていた。優也は皮の手袋をはずして、その桃色をしたほほをつついた。千里はもうとかなんとか言って一寸ふてくされながらも優也の手を離さない。優也はそれをコートのポケットに入れる。
「わあ、このコートあったかいのね」
「ははは、カシミアの上等なコートだからね」
「格好いいな、私もこういうの欲しい」
「買ってあげようか」
「そういうわけじゃなかったの・・・」
「お金ならいくらでもある。いくらでもあるっていうことはないが、印税があるぜ」
「年上彼氏を持つと良いものを買ってもらえるのね」
「あ、千里、そういう魂胆だったのか」
「えへへ、冗談」
彼女はほほと同じく唇も真っ赤になっている。寒さに弱いのかもしれない。その真っ赤な唇から小漏れる息は真っ白くなる。
「それでは日本史の勉強です。湯島天神、正式名称湯島天満宮は誰を祀っていますか」
「馬鹿にしているわね。菅原道真公」
「正解。このくらいは解けると思っているよ。さらに難しくなるぞ。その菅原道真が左遷されて歌った歌を言えるかな」
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな?」
「素晴らしい。それを答えさせる問題はそうないと思うけどね。五句目の春を忘るなは、春な忘れそとも言い伝えられているんだよ」
「そのくらい知っている」
「じゃあ、こんなことは知っているかな。トリビアだけどね。左遷って言葉は、菅原道真が左大臣だったから、その左をとって左遷と云われるようになったという説があるよ。もし彼が右大臣にだったら右遷となっていたかもね。でも、これは他にもいろいろと説があるらしいからよくわからないんだけど」
湯島天神はひとでごったがえしていた。多くの受験生の親や本人が来ている。優也と千里もその類からは逃れられなかった。
「うわー、人がいっぱい」
「うん。いや、わかっていて来たんだけどね。敢えてこの人ごみが記憶に残るってこともあるわけだし」
「でも人ごみ嫌いなんじゃなかったの」
「あはは、違いない。鋭いな千里は。そんな細かいことまで覚えていたか。うん、嫌いには違いないが、今は千里がいるから大丈夫だ。一人だったら絶対に来ない」
 優也は実際、千里と一緒であればある程度どこへでも行けるまでに回復していたのだ。酷い神経衰弱から立ち直りつつあった。愛が人間の病を治したのである。
「髪、伸びたね」
「え、髪?そうだね」
「前は横から見たときに首筋が見えた」
「先生はそんなに熱心に生徒を見ているんですか?」
「な、千里だけだ。他の生徒はみない」
「そう・・・」千里は照れた。
「そういうことを言わせるなよ。こっちも照れる」
「ちょっとおいたが過ぎたようです」
「まったく、本当だ。反省しろ」
「はーい」
「しかしすごい並びだ。僕は大学受験の時なぜそう思い立ったかわからないが、明治神宮に行ったんだ」
「どうだった?」
「湯島とは比べものにならないくらいあっちは大きいからね。ほら、新年の番組でよくヘリから見ている映像があるだろう。あれだよ。きっと今頃やっているんじゃないかな。兎に角押し合いへし合いだったけどね。でも意外と整然と並んでいて、しかも結構流れるスピードは速かったよ。こっちも流れるだろう」
「そうか。みんな願い事短いのね」
「こんなにならんでね」
「形式だけよ日本人なんて」
「ほう、ずいぶんシニカルだね」
「全部先生の直伝です」
「いや、痛いところを突かれた」
二人はじゃれ合いながら順番を待った。やがて二人は本堂に近づいてくる。二礼二拍手一礼を済ませて横にずれようとした優也は、まだ熱心にお祈りをしている千里に躓きそうになった。やがて千里も一礼し、目を開けて優也を見る。
「あら、早かったね」
「千里こそ、ずいぶん熱心にお願いしていたじゃないか。お願いはシンプルじゃないと聞いてくれないぞ」
「えー、そんなに了見の狭い神様なのかな」
「何しろこれだけ沢山の人がいるからね」
「あはは、何それ」
「何をそんなにお願いしたんだい」
 千里はもぞもぞと優也に聞こえないくらいに呟いた。
「え」
「優也さんとずっと一緒にいられますようにって」
「お前、ここは恋愛の神様じゃないんだぞ。受験のお願いは」
「そっちは運任せじゃなくてもいいの。実力勝負よ」
「なんというロジック・・・。まあ、そんなことだろうと思って、きちんと千里が受かりますようにって僕がお祈りしておいたよ」
「あら、文学者さんなのに随分信心深いのね」
「なんだい、今日はやけにつっかかるね」
「違うの・・・なんだか恥ずかしいから、照れ隠しだ」
「そうか、悪かったな。さて、身体が冷えてきてしまったから、どこかに入ろう。何か食べるかい」
「うん。好きなもの食べさせてね」
「何が良い。そうだな。美味しい洋食の店を知っているよ」
「じゃあ、そこがいい」
「ちょっと歩くけどね。上野の美術館のレストランさ」
「おしゃれ!」
 二人は上野へと歩いていった。

憎愛 二十五

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文化祭の前日になった。学生たちも今までこつこつと積み重ねて来た成果を発揮するときが来た。文化祭は教員にも愉しみのイベントだ。普段授業や、教室だけでは見られない別の一面を垣間見ることができたり、生徒たちの自主性や独自性というものが遺憾なく発揮されるからである。それを見ることは、教員の愉しみの一つである。自分たちが育てて来た生徒たちがどんどん立派になっていく。大人になっていく。これは他の職業では味わえない特別な報酬であった。だが、今回の文化祭に限っては、優也の心は晴れなかった。自分の担当の教室は大した問題もなく順調に進んでいた。文藝部のほうも準備は左程遅れることなく進んでいた。それでも優也は、数日前に見てしまった千里と男子学生の一件以降、とても陰鬱な日々を送っていた。
優也は芸術家であるということが多くの生徒にしられているから、生徒は文化祭になると優也に絵を描いてもらったり、デザインをしてもらったりしようと近寄ってくる。しかし、芸術家である反面、教師でもある優也は、確かに可愛い生徒たちが自分の芸術家としての才能を認め、慕ってくれるのは可愛らしい、それに自分が描けば生徒たちは大喜びしてくれるだろうと予測できても、それでは生徒たちのためにならないと思っていた。優也は自分が己の人生の主人公になれなかったからか、常に主人公は誰だ、誰が主役なんだということを念頭に置いていた。彼は様々な場、環境に今まで身を置いてきたが、それらを経験して考えたことは、上の重い組織はよろしくないということであった。特に教員になってからその思いは激しくなった。かつてから、若い頃に一生懸命頑張って、一財を成してきた人間に対して思うことはあった。文学の世界でも、芸術の世界でもそうだ。かつての苦労のために、今では立派となった巨匠と呼ばれるような人々。確かに偉大だ。しかし、そのような人たちがいつまでもその業界で幅を利かせていると、やがてその業界の流れは停滞し、若い人間が埋もれてしまうということにつながった。何時までも巨匠が出しゃばるのであるから、若い人間が出てくる余地がない。それは確かに彼等の功績ではあったが、しかし、だからといって何時までも自分たちの好きにやっていいわけではなかった。優也もまた、芸術の世界にしても文学の世界にしても、優也を認めて、そして陽の当たるところへ連れて行ってくれた師があったから良かったものの、本当に才能があってもそのような人間関係を持たない若者は、陽の目を見ずにつぶれて行くということがあった。それに、何時までも高齢の人間の常識でやっていると、時代錯誤になってくる。やはり平均年齢に合わせるべきだというのが優也の考えであった。四、五十代のまだ若さを失っていないくらいの人間に任せるほうが、流動的で良いと優也は思うようになっていた。
教育現場では、ややもするとすぐに教室という閉塞された空間は教師の独擅場、独裁政権になる。そのことを非常に恐れていた優也は、自分の部屋に「誰が主役かを考える」という張り紙を自分で書いて貼っているほどである。自分が主役になれなかった人間は、通常教員のように権力を持った環境になると、その権力を行使してかつて満たされなかった欲求を満たそうとする。すると、大変な独裁政権になってしまうわけである。優也は、極めて自制の力の強い男であった。これが彼の不幸のもとにもなっていたが、少なくともこの自制の力のために、彼の周りにいる人間は過ごしやすい環境に居られた。教室において主役は生徒だ。学校において主役は生徒だ。だから自分ができることであったとしても、それは自分からはやらない。どうすればいいか聞かれた時には、アドバイスとして考える力を付けさせるように指導する。教員の指導とはここまでが限界だと思っていた。これ以上をやるのは教員の仕事ではなく、宗教家や思想家のやることだと思っていた。そのため、優也は、生徒たちがやってきても、先生がやったらそれは芸術的にまあまあの価値がある作品ができるかもしれないけれども、でもそれは君たちの作品ではなくて僕の作品になってしまうよ。来てくれるお客さんは僕の作品が見たいのではなくて、君たちのがんばりや努力がみたいのではないかなと諭していた。
優也の勤めている学校は、生徒の自主性というものが全体的に高かった。そのため、必要最低限、教員が協力すれば自分たちで勝手にやっていくことができるくらいの自主性はあったのである。優也が担当している教室はその年には詩や短歌、あるいは短編小説などを好きな画材、書道であったり、絵具であったり、または立体的なものであったり、様々な画材で表現、展示するというものであった。三年生になると、勉強との兼ね合いがあるので、どのクラスも二年生までの規模よりは小さくなった。優也はクラスで、そのような企画が始まるころから、準備の段階、そして文化祭が翌日にせまるまでの間、殆ど何も手出しすることはなかった。それだけ、生徒たちが自分たちで考え、行動していたからである。
優也の教育の方針というものは常にこのようなものであった。相手ができるようになるまで待つ。千里に対してはかなり積極的に教え込んだが、それでも彼女が理解できるまで待つという基本的な姿勢は変わらなかった。文藝部の展示企画に関しても同様であった。これは、優也が休養している間に、優也によって自主性を引き出された千里が見事に指揮をして自分たちで企画していたということもある。展示の内容も、計画通りにほぼ進み、文化祭当日の朝になってまで準備をしなければならないということにはならなかった。文化祭前日の午後に終われば上出来である。優也はそのような点から、自分のクラスも、文藝部もほぼ問題なく進められているのに対していは安心を覚えていた。
学校全体では、まだ何かとあわただしい。文化祭の前日にもなると、いたるところに釘がころがっていたり、のこぎりが置きっぱなしになっていたりして、かなり危険だ。そのために、つまらない怪我をして保健室を訪れる生徒は激増する。優也は、自分の教室と部活は面倒を見なくても良いと判断してからは、そのような危機管理を見て回ることにした。生徒は意外と危なっかしいもので、大丈夫だと思い込んでいるからいろいろな危険を冒す。足場の不安定な場所に登って作業をしたりしていることがある。すると、優也の眼から見るといずれ怪我をすること間違いなしだ。たとえ上手くジャンプして着地したとしても、そこに危険なものが落ちていたりしたら洒落にならない。そのようにならないように、優也は学校全体を歩き回りながらそこは危険だから別なやり方にしなさいとか、こうやったら安全だよと教えて回ったりしていた。
学校は前々日から授業が無くなる。準備期間が二日もある。一日目で基本的な枠組みができて、二日目には装飾が施されるといったのが大まかな感じである。装飾が施され始めると、とたんにがらんとしていた教室は複雑な迷路ができたようになる。お化け屋敷だとか、アトラクションだとかが出来始めると、教室はジャングルになるのだ。そのような人目のつかなくなった教室のなかでは、生徒たちの密やかな人間関係が生まれることがある。いつの間にかいないと思っていた友人が、実は文化祭の準備期間中にある異性と結ばれたというようなことはあるものだ。優也は若いうちに沢山、良い恋をしなさいと穏やかな目で見守った。だが、あまりにも常軌を逸しているのには教師としていやいやながら注意せざるを得ない。教師はこのようなことまで仕事のうちにはいるのかと思うと、苦笑が漏れて来た。優也が気を付けていても、小さな怪我というものはどうしても起こるものだ。カッターで切ったとか、友達とふざけあっていてぶつかったとか、そういう怪我人がいくらか出た。しかし、それほど大きな問題は起こらずに、文化祭前日の準備は終わりに近づいていった。
十一月にもなるととたんに寒くなる。冬服の着用が丁度十一月からなので、今までカーディガンで凌いでいた生徒たちは、晴れてブレザーを着用することができた。十一月は、生徒たちの衣替えでもあり、文化祭という最大のイベントもあり、なかなか心浮き立つ季節である。文化祭の準備もいよいよ終わり、下校時刻が近づいてくる。すでに五時ごろには陽が沈みはじめ、異様な速さで暗くなってくる。ある時優也は職員室の自分の机で、茜色の西日の差し込むのを見ていた。いつもの優也の物思いである。最初西日が机の上の小説の端に当たっていたのが、しばらくして気が付いてみると、その端の側まで移動していた。たった数分の間のことである。陽が沈むのが早くなってきたと優也はさめざめと思った。
下校時刻が近づいてくる。他の教員たちも生徒を帰すべく催促に向かう。優也もまた、自分の教室の出来と文藝部の出来を確かめに行こうと席を立った。廊下には、まだ装飾が出来上がらないのだと半泣きになりそうな顔をして粘っている女子生徒や、何時までも出来ないことに苛立っている男子生徒たちが居る。その気持ちがわかる優也としては何とかしたいものの、仕方がない。何時までもそれを認めていれば全生徒が帰らなくなってしまう。そのためしぶしぶながら、帰れと言わざるを得ない。教員とはどこまでも嫌われ役なのだ。教員が回っているはずだが、なかなか生徒たちは帰らない。どこかではまだ金槌をたたいている音がしてくる。よく粘るなと優也は思った。
三階にある自分の教室へ行った。生徒たちはもう帰る準備をして、最後の数人だけが残っている状態であった。
「わーすごいのができたね」
「あ、先生。準備が早めに終わったので、みんなもう帰ってしまいました」
「うん。そうみたいだね。もうちょっと早くに来た方がよかったね」
「どうですか」
「素晴らしいじゃない。これだったら明日きてくださる方々も満足でしょう」
「じゃあ、先生、私たちはこれで帰ります」
「おう、寒いし暗いし夜道は大変ですので、お嬢様方お気をつけておかえりください」
「はい先生」
「気を付けて帰れよーじゃあなー」
優也は教室を点検してから、電気を消し教室を後にした。次に文藝部の展示が行われる教室へ向かう。文藝部は特別、部活動をする個室を与えられていないので、普段あまり使用しない教室を宛がわれている。そのため、文化祭の時には教室から少し離れた場所にある化学室やら物理室などで展示することになる。今年は社会科室であった。社会科室は教室のある棟から渡り廊下を隔てて少し距離がある。
社会科室に行くとまだ電気が点いていた。しかし、生徒は帰ったのか物音は全くせず、人気もなかった。学校全体から生徒たちが居なくなり、あたりは大分しんとしていた。廊下には、節電のためいくつか抜かれた蛍光灯がうすら寒く光っている。廊下を歩く足音は優也のスリッパの音が反響した。
「おーい、誰かいるのか・・・」
教室に入った優也はパネルボードで仕切られて全体を見渡せない教室を一瞥して言った。だが、生徒たちはもうすでにいないようであった。最後の生徒が電気を消すのを忘れただけなのだろうと思い、電気を消そうとした。優也は教室の全体が見えていなかったが、どこか寂しさや孤独感に襲われて、ここに長居したくなかったのである。教室の奥には生徒が隠れている気配はなかった。なかったと思おうとした。それで早めに職員室に戻ろうと思ったのである。ぱちんという音とともに電気が消える。すると、外の窓から街灯の明かりが差し込んできた。教室から出ようとして優也は微かに物音がしたように思った。
「ん?誰かいるのか」
 怪訝そうに覗き込んで、右手でもう一度スイッチに触れようとして、それを察知したかのように声がかかった。
「つけないで・・・」
 その声の主は、優也にはすぐにわかった。千里のものだ。だが、いつもの明るい、春風のような声とは違い、どこかくぐもった湿気た声をしていた。泣いているのかもしれないと思い、彼は彼女の要望を聞き入れた。
「ああ・・・千里か?」
返事はない。
「そっちへ行っても大丈夫か」
これまた沈黙である。優也は躊躇った。こういう時どうしたらいいのか男は知らない。もしかしたら何か部活内で、あるいは考えるが嫌ではあるがあの男子生徒と何かあったのかもしれない。優也は千里が泣いているのを、二学期に入ってからの例の面談時の一件で初めて見た。それ以来いつも彼女の泣いているイメージが優也の頭を離れなかった。今もきっと千里は独りで泣いているのではないかというイメージが頭をよぎった。優也はどのように接したらいいのかわからない。こういう状況になると、言葉を操る芸術家であった優也も、全く何を言っていいのかわからない。時には沈黙がものを語るということもあったが、優也にはなにが語られているのか、また自分の沈黙が相手に対して何を語るのか、知るところではなかった。慰めていいものでもないだろう。そんな簡単に慰められるものであるはずがない。学校で、他人が居るかもしれない場所で泣かざるを得ないということは、相当な精神的な、心理的な危機にあるのだと優也は思った。それでも、黙ったまま一緒にいることはできた。優也が失った大切なもの。その大切なものがなくなる際、優也はずっとそばにいて黙っていた。そのことがつと思い出されてくる。だが、返事がない。近づいていいのかもわからない。こういう時は放っておいてもらいたいという思いと、一緒にいてもらいたいという思いと入れ混ざっているものだ。近づけば一人にしてと突き放される。身を引けばどうして一人にしたと責められる。男はこういう時無力だ。仕方がない、優也は自分のことをずっと救ってくれてきた千里を置いていくわけにはいかなかった。もし、一人にしてと云われても一緒にいる覚悟で一歩を踏み出していった。
街灯の白い明かりが窓から差し込んでいる。その白さが余計に肌寒く感じられた。パネルの裏に、白い光線を浴びてうずくまっている少女が居た。
「どうした・・・」
優也は微笑みかけながら千里のもとへ行った。千里の表情は、豊かな髪と、影によって見えない。これは時間がかかるなと覚悟して、優也は千里の横に一緒に座った。隣にいても、千里から漏れてくる暖かな息が感じられる。やはりあの時と同じだ、泣いているのだ。あの時には、優也は教師という理性から彼女を突き放してしまったが、同じ誤りはしない。教師であるまえに、自分は人間だ、人間として千里に接するのだと心に決めていた。
「ちさと・・・」と言って優也は彼女を見た。差し込む光が彼女の黒々とした髪を照らし、そこには光輪があるように見えた。優也は勇気を振り絞り、その光輪に触れてみた。サテンのように滑らかな髪、かといって弱すぎるのではなく芯の通っている美しい髪だ。その髪に触れてしまって、優也ははっとした。一度触れてしまったらもう終わりだ。そのすばらしい感触から逃れることはできない。優也の手は、猫を撫でるように、生地の触り心地を確かめる人のように、彼女の頭に触れた。すると、今まで静かだった千里が、ぐずぐずと鳴き声を上げ始めた。何かをずっと我慢していたのだろう、かわいそうにと思い、優也は丹念に彼女の頭を撫でた。すこしすると、頭を撫でている優也の手を千里が捉えた。やめてくれというサインかと思ってひっこめようとした手を、千里が離さないのを見て不思議に思った。千里は優也のか細い手を自分の両手で捉えると、その手を摩ったり握ったりして遊び始めた。優也はどうしたらいいのかわからなかったので、千里の好きなようにさせておいた。次第に叩いたり、つまんだりしはじめたので、
「痛いよ」と呟いた。
「私のほうがもっと辛いのに・・・」
優也には返す言葉がなかった。千里は優也の手を彼女の胸元の方へ押しあてた。手の甲が彼女の体温で温まる。優也は驚いた。さらに驚いたことには、千里がそれからぐるりと体勢を変えて優也に向かってきたことだった。左手を彼女に取られていた優也は右手で体重を支えるため地面についていた。咄嗟のことに何もできないまま、千里は優也の唇に彼女の唇を重ねた。いつの間にか優也の手は自由になっている。千里は両手で優也の背中に伸ばしていた。優也は逃げなかった。彼は自分の両腕も彼女の背中に回すと、より強く抱き寄せて接吻した。優也の行為に驚いたのはむしろ彼女の方であった。彼女はすべての勇気を振り絞って優也に向かった。しかし、それは優也が拒否するだろうと思ったからであった。いざ優也がそれに応えると拍子抜けしてなんだかよくわからなくなってしまった。最初はびっくりした彼女であったが、すぐに硬直を解き彼に身を任せた。二人はいつまでも裏寒い中抱き合っていた。

憎愛 二十四

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優也は文藝批評家として、文藝を批評する様々な技を伝授していた。そのなかにはこのようなものも含まれた。ルネ・ジラールが明確にした「欲望の三角形」というものだ。フランス出身で、アメリカで活躍したジラールは、『欲望の現象学』という著作のなかで「ドン・キ・ホーテ」を題材にして「欲望の三角形」という考えを明示した。それは、通常恋愛というものは、主体と客体の二者の間で行われるものと考えられていたが実は異なり、「一見、直線的に見える欲望の上には、主体と対象に同時に光を放射している媒体が存在するのである。こうした三重の関係を表現するにふさわしい立体的な譬喩といえば、あきらかに三角形である」とした。つまり、恋人同士の間には、必ずその二つをつなげるためのもう一つの点、三人目の存在があるということだ。
漱石研究でよく言われるのは、『こころ』における三角関係だ。実はあの小説には不思議な部分がある。それは、Kがお嬢さんのいる下宿にやってくるまでの期間が、一年以上あるということだ。もし、本当に先生がお嬢さんを好きだったのならば、その一年間、同じ屋根の下に住んでいながら何もしなかったことになる。実は先生はお嬢さんを最初、好きではなかったのだ。しかし、Kを同じ下宿に誘ってからというもの、Kがお嬢さんに恋をしているのを見て、自分もお嬢さんが好きなのだという錯覚を抱いたのである。それは、遺書を認めている現在において、先生はきちんと理解してこのように記している。「その男が私の生活の行路を横切らなかったならば、恐らくこういう長いものを貴方に書き残す必要も起こらなかったでしょう」。これは一見すると、Kという友人を失わずに、お嬢さんと幸せに結婚できたとも取れるが、実はそうではないのではないかと考えられている。すなわち、Kが来なかったならばお嬢さんとは結婚しなかったろうということである。一年間、若い男女が一つ同じ屋根の下で一年以上も過ごしているというのはやはり機会としては絶好である。その期間に全く関係が発展しないということは、最初から先生はお嬢さんを好きではなかったのだ。しかし、Kが来たことによって、自分もお嬢さんが好きだと思い込み、結果としてKを失い、お嬢さんを得た。『こころ』とはそういう物語でもあるのだ。
三角関係の構図を使用すると、このように名作も面白く、また深く分析、解釈できる。優也はこれを大学で学んだ時に驚嘆した。そしてそれ以降、この分析方法は優也のお気に入りの一つである。評論家とはこのような文藝を読み解く技をいくつも持っているものだ。そのなかから自分のお得意なものを選び、作品を分析、評価する。優也はこの三角形の構図を千里に教えていた。千里は図らずも、これを実践したということになった。優也も千里も、これを学問として扱っている際は、まったくこれが現実になろうとは露ほどにも思わなかったことだろう。
だが、『こころ』にはさらに裏の読み方がある。それはお嬢さんが、いつまで経っても自分に言いよってきてくれない先生を、Kという第三者を利用することによって得たというお嬢さん悪人説である。だが、本当に悪人なのかというと、そうでもない。実際このような恋の駆け引きというものは日常では普通に行われていることなのだ。千里が、何時までも煮え切らない優也を振り向かせるために、ある男子生徒を媒介としたというように。人間は誰しも、喪失というものが耐えられないようにできているらしい。特に優也にはその傾向が強かった。それは彼があまりにも短い人生のなかで、多くのものを失ってきたからだろう。ここまで運命というものに大切なものを奪われ続けると、人間は非常に憶病になるものだ。優也にとっては、これ以上何か大切なものが自分のもとから失われてしまうということが一番の恐怖であった。喪失を失う人間は、何かを得るということすらも恐怖になってしまう。何かを得れば、必ずそれとの別れというものが来てしまうということに眼が行ってしまうのである。それとともに生み出すことができることには目を向けずに。
喪失を恐れた優也は、千里がいよいよ自分のもとにやってくる、得られるという段になって異常に恐怖を感じたのはこのためでもあった。いずれ失う日がくるに違いない。とすると、これ以上千里の存在が大きくなってから失われるのは、すなわち死を意味する。どうせ失われてしまうのであるならば、傷が小さくて済む今の内がいい。こういう思考であった。しかし、いざ実際に、今失われてしまうとなると、それにも耐えられなかったのである。時に人は、好きでない人であっても、誰かがその人を好きだということを聞くと、突然自分も好きになったり、その気持ちを明かしてくれた人間に奪われるのが嫌だと思うようになる。特になにも思っていないような女性が居たとして、ある友人が、「俺、あいつのこと好きなんだよね」と云うのを聞いたりすると、とたんにその女性が価値あるものに見えてきてしまい、自分も彼女を奪ってみたくなるものなのだ。何もない状態でさえ、人間は奪われたり、失われたりすることをひどく悲しむ。自分と全く関係のない女性でさえ、なんだか自分にとって大変価値のある存在のように思えてきてしまう。人間は最初からリスク主義者なのだ。何かが失われてしまうのではないかという恐怖が常に先行し、それと戦って生きているのである。優也のような不幸な人間は、こちらの面ばかりが強くなって、最終的には生きていけなくなってしまう。
女性というものは、このことを良く知っている。もしくは本能が知っているのかもしれない。千里は男子生徒を引き出すことによって優也を嗾(けしか)けようとした。しかし、ここで大きな誤算が生じたのである。それは彼女にとって恋は初めての経験であったということだ。間違って千里はその男子生徒を好きなのではないかと思ってしまったのである。そして千里は尚悪いことに二人の男性に引き裂かれる自分というものに酔ってしまった。師が師なら、弟子も弟子だ。悪い部分まで優也にそっくりだった。しばらくの間、千里はその悲運な自分に酔いしれていたのである。そして、そのような状況から、千里と男子生徒は接近していった。男子生徒にとってみれば、彼女は自分に好意を寄せているのだという表面上のことしかわからない。それしかわからないから、どんどん邁進できる。よって千里とその生徒の仲はいつの間にか並々ならぬものになっていた。
そうして、千里の小さな行動から始まった大きな因果はまわりまわって大変な結果を生んだ。日も暮れて、肌寒くなる一方の夜。文化祭前は教師たちも、最終下校時刻には少し緩やかになる。カーディガンをだらしなく着る学生たち。蛍光灯が煌々と光る職員室からは正門に向かう学生たちがだらだらと歩いているのが見えた。職員室の端のほうにある優也の机。優也はそこから最終下校時刻を過ぎたので、生徒を早めに帰すために教室の見回りを始めようとしていた。職員室が一階にある関係上、生徒たちの下駄箱は二階にある。生徒たちにとっては二階が正面玄関になる。優也は職員室から、各階の教室をみて、そして最後に下駄箱のところへ来て、生徒の帰宅を促そうとした。節電のため、以前よりも絞られた照明。不気味に照らされている木の下駄箱。もう殆どの生徒が帰ったとあって、学校は閑散とていた。廊下を歩く他の教員のスリッパの音が時に響いてくる。下駄箱を見回って職員室に帰ろうとしていた優也は、下駄箱に差し掛かった廊下で、ある聞きなれた声を聴いた。声は下駄箱からだ。どうやら帰るらしい。そして、その声に反応して笑った男のくぐもった声。その瞬間、想像力にかけてはかなり秀でている優也の頭を最悪の想像がよぎった。優也は足音を立てまいと、じりじりと声のするほうに近づいていく。下駄箱はいくつも並立しているから、影をひそめやすい。下駄箱の閉じられる音。靴がアスファルトの部分に落とされる音。履く音、つま先を地面にたたき、履きつぶれた靴に足を入れる音。楽しそうに話していく二人の男女。二人が玄関口から出て行くくらいの頃合いになって、優也は気が付かれないようにして、下駄箱の陰から後ろ姿を見た。暗闇に紛れてあまりよくわからないが、それを優也の記憶が補正する。あのシルエット、髪型は千里に違いないように思われる・・・。そして、さらに良すぎる眼を持った優也は目を細めて凝視した。天井から降り注ぐ光線。正面玄関を照らす照明の一つの光が、二人の上に降り注いだ。はっとした。やはりそこには、黄色い光線を浴びながらも、そのなかで白い肌の透き通るような美しさが際立つ千里が居たのだ。もう一人はあの男子学生に違いなかった。二人は仲良く話し合いながら帰っていく。正面玄関からの大きな階段を降りていく二人。優也は追いかけた。正面玄関にある柱の陰にそっと忍び寄って、そこから階段を降りて行く二人を見た。何を話しているのかまでは判別できなかったが、声に張りがあって楽しそうなのには変わりはない。しばらく聞いていなかった千里の軽やかな声だ。あんなに楽しそうに話す千里の声を、しばらく聴いていなかったのだなと優也は思った。そして、思った瞬間に様々な感情が押し寄せてきて、涙が止まらなくなった。階段を降りて、すでに玄関に歩いて行っている二人。時に二人は近寄って、何かちょっかいを出したりしている。優也はその二人の後姿を見て泣いた。もはや生きる気力を失った人間には、歩いていく二人の若者は二度と手の届かないところへ行ってしまうように見えた。暗闇に紛れてシルエットがどんどんとぼやけて行く。声も聞こえなくなってくる。時に笑い声がまだ飛んできたが、やがてそれも聞こえなくなる。玄関を越えて見えなくなる姿。優也はしばらくそこに立ちつくしさめざめと泣いた。優也はすでに二人は恋人なのだと即断した。そして、絶望に打ちひしがれて、呟いた「若者には未来を・・・老人には過去を・・・・・・」
しばらく優也はまたノイローゼのような状況で過ごした。だが、文化祭が終われば、すぐに試験。そして二学期が終わる。そうすれば、三年を受け持ちである優也には次年度まで休むことができる。他の教員もそれを思って、優也がまたノイローゼになっているのを知りながらそのまま放っておいた。
自分から未来ある彼女を自分のもとにとどめておくのはいけないことだと決めておきながら、いざ自分よりも若く、未来ある少年によって彼女が奪われるともはや理屈も論理も、知性もなにもあったものではなかった。感情が全てのかと思わざるを得ないほどであった。今まで如何に手放すかと思考してきた優也だが、この時にはどうしても取り戻したいという気持ちに支配された。
千里・・・、私の可愛い千里。私が愛情を込めて育てた千里・・・、美しい千里・・・。私は君のことを手放してやりたいと思っていた。美しい鳥、これからいくらでも自由の空を飛ぶことができる鳥。しかし、いざその鳥が、他の若く美しい鳥とともに飛び立とうとしているのを見て、私にはどうしてもそれが赦せないことに思えてしまった。飛び立たせてあげたいと思っていたが、それができなかった。こういう人間がいるから、若く有能な人間がつぶれて行くのだ。私のような人間はいなかったほうがどれだけよかったか知れない。短い人生だが、苦悩の連続だった。生きていくのはつらい。そのなかで、唯一君だけが生きる希望となった。その希望は私のもとを離れて、これから多くの人間の希望になる。いくらその光を磨いたからといって、それを固有するのはいけないことだ。光は平等に降り注がれるべきだ。さようならを言おうとしていた。しかし、だめだった。千里・・・私はお前に触れたい。もう一度その笑顔を振り向けてほしい。その軽やかで春風のように香る美しい声で、もう一度私の名を読んでほしい。その神秘的な瞳で私を見透かしてほしい。手放さなければならない。手放さなければならない。しかし、手放したくない。いっそのこと、この苦しさから解放されたい。そうすれば苦しむことなく、君を解放することができる。だが、何も今、飛び立たなくてもいいのだ。君はきっとどこまでも、いつまでも飛んでいくだろう。だから、もう少し私のもとに居てもいいのだ。それは許されることだろうか。これだけ誰にも認められず、辛い中を歩いてきた。失うものは多すぎた。長く生きれば恥多しだ。自分の人生の主人公には結局なれなかった。これからもなれそうにない。私が最後に残した希望。その希望ともう少し、もう少しだけ時をともにすることは許されるだろうか。許されなくてもいい。神は死に、作者は死んだのだ。そのようなアナーキーの世界では、どれだけ自分を制御して、理性的に生きられるかが人間の尊厳だと思ってきたが、それはもうやめだ。やりたいことをして、それで満足できればいいじゃないか。いや、それではいけない。自分のエゴを千里に押し付けてはいけない・・・。だが、お互いに了解のあることならばいいだろう。私はもう少し千里を手元に置いておこう。そうだ、それがいい。そして満足したら、その時は彼女をとびたたすのだ。だが、その時は覚悟を決めなければならない。どうせ手放すことなど生きているうちにはできない。手放すためには、最後の手段を講じるほかないだろう。だが、それでいいのだ。それが私の望みだ。この世には私は長居しすぎたようだ。生まれた時からずっといつ、この世と御暇(おいとま)しようかとずっと考えてきた人生だった。今最後に残った希望がある。それと最後の時をしばし共有し、そして私は去るとしよう。ずっと探していたものがやっとみつかった。ここにあったのだ・・・。

憎愛 二十三

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千里は、自分が行った行為が決して人間として善なるものに従うものではないとわかっていた。これではまるで、有島の描いた葉子、漱石の描いた藤尾、谷崎の描いたナオミじゃないかと思い悩んだ。千里にとってはそれは初めての本格的な恋だった。幼稚園や小学生では、平気でだれだれ君と結婚すると言ったものである。それは誰だって結婚というものがどういうことかを知らなかったからだ。恋というものを文学から学んだ千里は今、はじめて恋をしたのだ。自分に恋がどのようなものであるのかを教えてくれた人に恋したのである。しかし、千里とその人との間にはいくつもの壁があった。それは不幸なことだった。そして、その壁を破壊するのには自分一人の力では足りない。是非とも二人で力を合わせなければ越えられないと思った。にもかかわらず、その相手は壁を見るや否や、それを壊すことではなく、それに隠れようとしたのだ。
壁の向こう側に隠れてしまったその人を引きずりだし、一緒に超えて行かなければいけない。しかし、その人は壁を越えること、壊すことを望んでいないのだ。だから、千里はしかたなく、こうした女のもつ密やかな技というものを使用せざるを得なかったのだ。
優也と千里の関係は、千里がそのような技を使ったことによってより凄惨さを増した。優也のなかで、相対する力と力が今まで以上に激しくぶつかり合ったからだ。もはや二重人格といってもいいくらいに明確に分かれた二つの優也は、一つの身体のなかで激しくやりあった。その結果、肉体も精神もぼろぼろになった優也が残った。
優也の惨憺たる姿を見て、千里は自分のやったことが間違いだったのかもしれないとは思った。しかし、今まで少女だった人間が、女の技をどのように、どの程度使ったらいいかなど知る由もない。初めてのことだったのだ。だからそのさじ加減というものも上手く操れなかったし、また分量もわからなかった。そのことが優也をより追い込むこととなる。
文化祭が近づくと、生徒たちは放課後も残ることが増える。三年生は受験勉強も差し迫ってくるので、できる範囲での活動ということになるが、やはり人間は愉しいものの誘惑には勝てない。すぐに帰って受験勉強をやるのだという少し強硬な人間もいるには居たが、ほとんどの生徒は学校に残り、みんなで楽しく文化祭の準備をしていた。文化祭の準備に燃える放課後というのは一種並々ならぬ雰囲気を醸し出す。暑かった夏が過ぎ去ろうとして、少し秋が顔をのぞかせている。西日が強く鮮やかに差し込む中、ふっと吹き去る風は涼しい。夏の余韻が残るとはいえ、そこにはどこか物寂しさがある。蝉が鳴かなくなってしまったことが、うら淋しさを覚えさせるのだろう。
陽が沈む。教室から漏れてくる蛍光灯の明かり。教室の外、芝生の上で作業をしている生徒たちは寒くなってきたのか、体操服のジャージを羽織り始める。だんだんと薄暗くなっていくなか、お互いに頑張っている生徒というのは掛け替えのない存在になるのだ。力仕事をする男子、ペンキ塗りなどをしている女子、人間がここまでなんの魂胆もなく、人と分かち合えるのはこれが最初で最後の期間かも知れない。若いとはいいことだ。過ちもある。行き過ぎることもある。劣ることもある。だがそれでも決して傷つくことを恐れずに、相手を理解しようとする意志に溢れている。クラスの枠を超え、学年の枠を超え、一つの学校が一体となる。そこで生まれた絆というのは、部活でもなく、クラスでもなく、特別な関係としてまた一つ、心に残るものなのだ。
放課後、暗いなか頑張っている生徒たちを見ていると、優也はなんだか泣けてくる。彼は歳を取るにつれて琴線に触れることが多くなり困っていた。ふとしたニュース、例えばどこかで人が救出されたといったニュースでさえ、気が付くと一筋の涙が伝っているのである。優也はそこに生を感じるのだ。私は確かに人が救われるということを聞いて涙を流した。その涙はまさしく自分にひととしてのこころがあるからに他ならない。自分はこれだけだめな人間だと思っていたけれど、まだ人の心を有していたのだ、と感じられるのだ。暗くなっても頑張っている生徒を見ていると、そこには若い生が垣間見え、優也は感極まってしまう。私はかつて、あそこにいたのだ。しかし、実につまらない人間関係から、思い出したくもない記憶になってしまった。その高校時代の欠損を補うために、今こうして教師になって再び同じ学校へ戻ってきている。だが、一度取り損なったものというのは二度と取り戻すことはできないのだ。人生はすべて不可逆的だ。人は失ったものにしばられ、いつまでもそこから進むことができない。強い人間は、それでも前を向くことができる。しかし、前を向くことができなくなってしまった自分にはそれができない。いつまでも、いつまでも後ろ髪をひかれ続ける人生だ。懺悔と後悔の人生だ。そのつまらない人生に、若く、未来のある千里は道連れにしてはいけない。だが、そう頭ではわかっていても、紛れもなく自分は彼女を抱きしめたいのだ。あのきめの細やかな肌、触れたらどんなに心地の良いことだろう。竪琴のように繊細な髪、きっと奏でたら素晴らしい音色を聞かせてくれることだろう。甘い香りが漂うに違いない。
千里は廊下での一件以降、さらによそよそしい態度になった。授業では、他の学生が笑うようなことを言っても、千里はふんと澄ましている。文藝部の活動に、先輩として参加しても、優也がくると事務的な態度になる。これ以上傷つくのが怖かった優也は、そのような機械みたいな態度をとられるとどうしても腰が引けてしまった。廊下では、稀にあの男子生徒と一緒に話していることもあった。やはり二人の仲はもう、恋仲なのではないかという恐ろしい想像が優也を支配した。私の美しい千里、彼女が他の男に触れられ、穢されてしまう。想像するにも耐えられない。
つい先日まで暑くてやっていられなかった日々も、カーディガンがないと寒くて凍えそうになる。ひと肌が次第に恋しくなり、文化祭への気持ちの高揚はますます高まる。いよいよ文化祭が近づいてい来ると、学生間の言いえぬ雰囲気はずいぶんとしっとりとしたものになる。体育祭よりもむしろ文化祭のほうが、恋人が生まれる可能性が多かった。体育祭では、確かに団長や恰好良い先輩、かわいい先輩との間で、恋が生まれなくもなかった。しかし、それらは若さという今ある価値観に裏付けされているだけのものにすぎない。確かに筋肉隆々で大声をあげ、一団を率いている団長は恰好いいかもしれぬ。しかし、もし仮にその団長と恋をしたとして、その後がどうなるのかはわからない。体育会系の人間が通用するのは高校生くらいまでだ。それに比べ、文化祭は、意外な一面が垣間見られることがある。活動する時期も次第と暗くなってくる時期であるし、また肌さみしくもなる。次第と人と人とが恋をしたくなる季節なのだ。普段クラスで大人しい男子が、意外と絵のセンスがあったり、企画力があったりと、いつもの学級生活では見えてこない部分が露見してくる。そうした差異に人は惹かれるのかもしれない。このような一面を持っていたのか、もっとこの人を知りたいという欲求が現れてくる。
千里は、三か月余りの空白や、自分の満たされない欲求を埋めるため、密やかな女性の小技を披露した。しかし、悲しいから涙が流れるのではなくて、涙が流れたから悲しくなるといったように、感情を伴わずに使用したその技は、技のために感情もまた付加せざるを得なくなってしまったのかもしれない。千里は最初、優也を振り向かせるため、一人の女として見てもらうために小技を使用した。しかし、それでも優也が地団太を踏んでいる間、千里のこころには、わずかながら変化があった。それまで自分のこころは、知的でユーモアにあふれ、少し悲観的な人間だけれども人間味あふれている優也のことが好きだと思っていた。その心にはなんの偽りもなく、疑う余地はないと思っていた。私はあの文学者でもあり、芸術家でもあり、思想家でもある先生が好きなのだ。それは全く正しいことのように思われていた。しかし、小技を使用し、状況が変わったことによって少なからず心の持ちよう、あるいは心の置かれていた場所が変わったのである。人はだれも、突然今までの価値観を変えるということはできない。しかし、物理的にでも環境、置く場所を変えるとそれに従って動き出すものがあるのは確かだ。いきなり詩人になれと言われたところで、なれるものではない。雪をみて、美しいと思っても、それを表現するには至らない。しかし、雪の観方を変えてみると何か変わるものがある。雪をたったまま観るのではない。どこかに寝転んで、上からふってくる雪を真下から見上げてみる。すると、今まで知っていた雪というのは、こんなにもおもしろい、不思議な動きをするのかという発見をするのだ。それがすなわち詩人の始まりである。
千里も、暗中模索しながらも一つの行為をした。これによって彼女の心の環境が、心の置き場所がかわったのだろう。寸分疑う余地なしの絶対的な自分の心にふと陰りが刺した。優也のことを好きなのには変わりはないが、明らかに別の感情がそこから湧きだしつつある。初めての心の変化に戸惑った千里は、自分でもそれがなんなのかよくわからなかった。何かが湧き水のように、じんわりと心のなかから溢れてくる。それはとても、なんだか興味を惹くものなのだ。わくわくするような、それでいてちょっぴり怖いような。このわくわくは本当に喜んで良いわくわくなのだろうか。わくわくのなかには、背徳のなかのわくわく、いけないことをやっている際に沸き起こる興奮というものも含まれる。果たして初めてのこのわくわくは、善良なわくわくなのだろうか。千里には一寸判断しかねた。そのわくわくとは、年上の知的な男性に憧れるという文学少女から生まれた新しい千里のこころであった。千里は新しい女性として、健康的な女性として、同年代の肉体の若い男性にも視野が広がったのである。今まではただの筋肉バカ、人間として錬磨されておらず、ただの性欲に支配されているだけのお子ちゃまと考えていた。しかし、いざ自分がその性欲に訴えかけるような動作をちらりとしてみたら、とたんに今まで秘められていた人間の欲求というものがふと頭を擡げたのである。千里にはその感覚は初めてだった。だから、戸惑ったのである。確かに優也という人間に対して私は好意を持っているという文学少女の千里にとっては、それは自分の心の忠義を失う背徳のわくわくだった。そして、新たな女性としての千里にとっては、そのわくわくとは新しい生命をこの世に育むための善良なわくわくだった。
千里は使用したことのない自分の動作をしてみて、自分でも驚くほど肉感的で奥ゆかしいものだと恐怖した。私にはこんなことが出来たのか、こんな思わしげな動作ができたのかと。初めは怖い火も、何度か使用しているうちになんだか楽しくなってくる。それとおなじで、恋というのも秘められた小技を使用して、一度は自分にびっくりするものではあるが、次第とそれが楽しくなってきてしまうものなのである。だが、気を付けなければならない。火遊びは愉しくなり始めた時が最も危険だ。それは火の恐ろしさを分かっておらず、楽しさだけで火を弄ぶからである。そのような人間には必ずしっぺ返しが来る。
恋も同じだ。最初に愉しみを覚えてしまうと、調子に乗ってどこまでいけるのか限界を試してみようとする。大概の人間はここで失敗するのだ。望まぬ子を宿してしまったりというのは最悪のパターンだ。恋と火遊びとは似たようなものなのである。下手をすると自分の手元が燃えている。
千里も自分の行為によって、新しい感情が生まれてきてしまった。ふと、優也という心に決めた人がいながら、その人とは結ばれずに、その人を思いつつも他の男性と付き合うという薄倖の少女をイメージしてしまったのである。それは紛れもなく物語であった。小説であった。愛する人が居ながらも、積み重なる様々な理由によって他の男性と付き合わざるを得ない。そこに少女としての葛藤や悩み、苦悩とともに、心だけは美しくという純白の想念といったものが内在しているのだ。優也もまた、そのような妄想の激しい人間であった。友人と恋人に裏切られたために、人を信じられなくなったかわいそうな人間。可愛い教え子との禁断の関係になろうとする寸前のところで理性が打ち勝ってしまった人間の苦悩。そういうものを客観的にみた時に自分の上に認めて、そしてそれでかわいそうな自分を慰撫していたのだ。言い方を変えれば可哀想な自分に酔っていたのである。だが、それは優也だけに言えたことではない。確かに彼は人以上に辛い経験はしてきたのだ。人間は誰しも自分に酔っているものである。それは優也や千里のように可哀想な自分に酔っていることもあれば、できる自分、立派な自分、恋をする自分、さまざまな自分に酔っているものなのだ。
千里は引き裂かれる少女としての自分に酔っていた。そしてその感情がまだ千里にはわからなかったのである。そのわからないものを何とか解明しようとして、彼女は判断を急いだ。その結果、彼女はその新しい感情が、実は出来の良い少年を好いているのだという錯覚に陥らせたのだ。半分はだが、本当だっただろう。若い女性が、自分と同い年くらいで肉体的にも健康で、他の男子生徒に比べれば余程理知的な人間に恋をしないはずはない。そして、出来の良い生徒のほうも、自分が好意を寄せられているものと解釈していた。
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