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五木寛之・香山リカ『鬱の力』(幻冬舎新書・2008) 感想とレビュー

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もともと鬱気味だったのが、嫌な仕事をしたために、本格的に鬱になってしまい、心療内科で、「抑うつ状態」とまで診断されるようになってしまった。なんとかこの現状を考えるためにも、さまざまな本などを読んで知識を増やしたいと思い、以前購入しておいたこの本を読むこととなった。
この本は五木寛之と香山リカの対談本である。対談本ほど手の抜かれた仕事はないな、こんなことであれば、私だって対談本を出せる、といつも思うのであるが。
しかし、この対談本、もちろん対談本として、そんなに深い話まで深化されていない、こんなのは誰でも言える、ということはさておき、おもしろかったのは確かである。だからこそ、普段対談本を読んでも、そのままである私が、一応はこうしてブログに書いているわけだ。
近年ではずっと鬱の時代だといいつづけている五木寛之氏。彼はそれまでの高度経済成長やバブルなどが躁の時代であり、これからは右肩下がりの時代、鬱の時代なのだから、それにあった生き方を模索しようということを言っている。下山の思想、ともいっている。それに対して、精神科医である香山リカ氏。彼女はどれだけきちんと精神科医をやっているのか私は知らないが、一応は精神科医なのであるから、うつびょうなどの臨床的な知識を持っているはずである。この二人の鬱が、どうクロスオーバーしてくるか、というところが本書の醍醐味なのであろう。それを話題作をつくるのが好きな幻冬舎はやってのけているわけである。

先日私は内田樹と竹宮恵子の対談本を読んだのであるが、これはなかなかひどかった。というのも、ほとんど内田樹がずっとしゃべって、自分の思いつきを述べているだけ、という本だったからである。今回の対談本は、二人ともなかなか話せる人間、同レベルのしゃべりたがる人間だったので、分量的にも互いに同じくらいになるようなバランスはとれていた。その点は一応きちんとした話し合いになっているのかな、とも思わなくもない。
話しは現代のうつ病から始まる。現代では、それまでとは違ってうつ病それ自体が変化してきたというのである。様々な点が指摘できるが、まずはその敷居が低くなってきたというのが挙げられる。かつてはうつ病とだけは診断しないでください、となんとかそれでも仕事に行こうとしていた人たちが、現在ではすぐにうつ病だと診断してください、といって仕事を休む。うつ病と診断できるものもどんどん敷居がひくくなってきている。一応抑うつ状態が二週間続いたらうつ病ということになるのであるが、そんなことをいったら、ほとんどがうつ病になってしまう。そういう問題があるというところから話は始まる。
対談本であるから、ではどうしたらいいのか、といった深い話までは立ち入らない。それを指摘して終わりということなのであるので、こういう本は、その後をきちんと読者が考えていかなければいけないのであろう。

五木寛之の鬱の思想の話もなかなかおもしろい。
例えばこんなものがある。老人ホームにいって、そこで彼等をはげまそうと元気のいいマーチなどを演奏する。すると老人たちがやめてくれという。彼等にはもう元気にやっていこう、というようなことはつらいのである。だから悲しい曲を演奏してくれ、というのだ。そしてそうしてみると、実際うまくいくという話などである。
これは重要な視点で、現在まではみんな元気よく、というような精神状態がスタンダードだったわけである。だが、現在ではすでにそういうわけにはいかなくなってきている。人々のこころのモチベーションのようなものが圧倒的にかつてと比べると下がっているのだ。だから高度経済成長期に生まれ育ち、なんとかやってきた団塊の世代の人々なんかをみていると、どうしてあんなに元気がいいのだろうと、私なんかは不思議に思うのである。
そして私自身この二ヶ月学校というところに出た身としては、どうして他の先生たちはあんなに元気でいられるのだろう、タフでいられるのだろう、と思うわけである。実際二ヶ月でうつになってしまった私にとっては、この社会が異常に見えて仕方がない。社会からしたら私のほうが異端児ということになるのだろうが、私の感覚としては社会全体が狂っているとしか思えないのである。社会のスタイルが、そうとうタフな人間を前提として設定されている。だから、そのような社会においては、子供たちは専ら保護される立場になるし、老人は邪魔な存在になるし、ニートたちはうとまれるのである。だが、諸外国と比べても、朝8時から夜8時まで、12時間ほども拘束されるような仕事の在り方を普通としている社会のほうがよっぽどおかしいのではないか、と思うのである。私なんて、どんなに遅くても2時には仕事は終わっていたのであるが、それでもうつ病になってしまったのである。私にはいわゆる普通の職業はできない。仕事をするというそれ自体があまりにも嫌なことすぎるからである。だから私は貧しいという選択肢を選ぶかわりに、仕事はしない、という選択をすることにした。

どれも深い話にはなっていないが、おもしろい指摘はいくつかあった。例えばこんなものである。
現代はどんどん排除の構造が強くなってきているというのだ。例えば自警団をどんどんつくりましょう、というのがあるそうである。そうやってちょっとでも異端児を見付けると、それを排除しようとする。確かに、現在社会の生き辛さの中に、他の人と違っていてはいけない、といった脅迫的なものがあるように感じられる。それは、この社会全体がそういうものを赦さないような不寛容になってきているから、ということができるようなのである。五木は、それは関東大震災の時に暴走した日本人が韓国人を虐殺した時と同じ構造だと指摘している。
ほかにも、人間がさまざまなパーソナリティーを持つようになってきた、という話もしている。ここは二人の会話はややかみ合っておらず、五木は結局多数の人格を持つのがいいのか、それとも一つの人格であるのがいいのかはっきりとしていない。ただ、かつては一つの人格のほうがいい、と思われていた時代があり、さまざまな人格を持たなければ生きていけない時代になってきている、ということはできるだろう、ということになっている。

結局結論もなにもないただのお話合いの本なのであるが、その問題点などの提起には、いくつか目を見張るものがあり、そこを深めていけばなかなか面白い考察になり得るのではないか、という気がした。
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野村総一郎『「心の悩み」の精神医学』(PHP新書、1998) 感想とレビュー

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新書を読み始めてから何年にもなる。一体いままでにどれだけの親書を読んできただろうか。二百冊、いや三百冊くらいだろうか。おそらくそのくらいは読んできたと思われる。
そんななか、今回は野村総一郎の新書を読んでみた。自分がうつになってしまい、まったくなにもやる気が起きないということもあって、最近はそうした心理学系の本を読んでみようという気持ちが高まっている。この本の前に読んだ岩井寛の『森田療法』はかなり古い本だったが有用な本であったし、香山リカと五木寛之の『鬱の力』は話がかみあっていないことがしばしばだったが、それでもおもしろく読ませていただいた。その中でもこの本はとてもおもしろく、すばらしい本だったと思う。いつも五段階評価を新書にはつけているが、評価は4,5点である。十段階にすれば9点というところか。

この本の内容は、それぞれの章ごとに、それぞれ異なった精神病を発症している患者が登場し、それらの人をどのようにして回復へと導いていったのかということが、物語調で語られる。それがなかなかおもしろい物語となっていて、それぞれは短いが、いずれも、その短い間でこちらもふっとこころが軽くなるような、治療を疑似体験することができるようになっているのである。
それぞれ、パニック障害、うつ病患者、体調の不調を訴える患者、PTSDの患者、過食病の患者、やる気をなくした患者、なんとも名前のつけられない症状の患者、定年退職者のうつ、といったところである。
私の場合は、仕事ということそのものが嫌で嫌で仕方なく、うつ病になってしまったので、二章のうつ病患者のところが良く当てはまった。しかし、それだけでなく、そもそも私はうつ病になる以前からひどい無気力症候群だったのである。それを説明してくれたのが、六章の「偉大な父の息子」という章立てであった。ここではかなり有名な人間を父ともってしまったがために、まったくやる気をなくしてしまった息子の話が乗っていた。まさしく私と同じであり、これを早くも父に見せることによって、なんとかあなたが私をこうしたのだ、ということをわかってもらいたいな、と思う次第である。
あるいは、父にも読んでもらおうと思っているのだが、父にとっては定年退職を先月したばかりなので、今後のことも含めて、八章の定年退職をした人の章が役立つかもしれない。そういう意味で、野村先生にはずいぶん頭のさがる思いがする。こうしたケーススタディーと言うのは十分に役立つものなのだなと思われる次第である。しかも、野村先生文章力というか、物語り作りがうまくて、とてもおもしろく読めるのである。大体こうした本は理論だのなんだの、小難しく書いてあって、実につまらないというのが現状である。そんななか、この本は非常におもしろく、ぱっと読めてしまった。その点で、この本は誰におすすめしても問題の無い本として、私が自信をもって推薦できる本のひとつに加えておこう。

個人的に気になった章があった。それは、七章の「境目にいる人達」という不思議なタイトルの章である。この章に登場する女性。初めて野村先生が最終的にうまく治療できなかった患者としても登場する。しかし、それ以上に私が興味をひいたのが、その症状だ。
一応名づけとしては「精神病とノイローゼの境目にある病気」という意味でボーダーラインといってはいるが、これは当然ながら正式な名称ではない。私も野村先生のように上手く説明できればいいのだが、うまく物語を書けない私はどうやって説明してよいのやら。ともかく感情の起伏があまりにも激しすぎるのである。初対面でいきなり、「あなたはすばらしい先生です」といったかと思うと、二回目に会った時には態度が急変し、「あなたの言葉のせいでこんなにも傷つきました」と言う。それ以降は、言葉じりを捉えて、「あなたはまたそんなことばで私を傷つける」とか、たった一言を無理やり解釈して「あなたは私に仕事をするなといっているんですか、死ねといっているんですね」といったりするのである。
この症状、なぜ私が注目をしたかというと、こんな感じの人を何回か見たことがあるからである。この患者、結局二年の付き合いで野村先生は治療することができなかったと言っていた。おそらくこうした人は、たんなる病気ということを越えて、もっとなにか生まれ持っているものがあるのではないか、と思わずにはいられない。とすれば、治療は不可能なのではないか、完治は無理だろうと思えてしまうのである。そうすると、私があった二人のボーダーラインの人達も、これからも周囲をずっと巻き込んで生きていくのだな、周りの人が大変だな、と思わずにはいられない。

この本では、実戦的な治療の話が聞けるので、そのテクニカルな部分も、ほんのわずかではあるが、知ることができる。これはすばらしいと思った部分を囲繞しておく。
「このコトバは考えてみると、相手の言うことを肯定も否定もしていない。しかし相手の気持ちは認めたのである(少し話が横道にそれるが、だいたい精神科医が診察室で発する言葉にはこの手のものが多い。患者の言うことを現実レベルで否定すると拒絶されあっと受け止められるし、肯定すると相手に巻き込まれることになる。とにかく患者がつきあってくれなければ成り立たない商売であるだけに、相手の感情を受け止めることを武器にするしかないのである。その点、精神科医というのは人間好きでなければできない仕事であることは確かであろう)。」
相手の言葉を肯定も否定もしない。それはできることなのである。こうした技術論は非常に重要で、私達が生きていくうえでも利用できるすばらしいテクニックだと思う。

精神科医の役割を端的にあらわした部分を引用して筆をおくことにしたい。
「心の悩みという深遠な課題は精神科医の手に余る部分もどうしたって残る。その場合には精神科医は解決ではなく、ケアーとかサポートといった役割を担うことになろう。それを含めてお役にたてれば、これ生きがいなのである。」
精神科医がどのような立場にあるのかということを明確に示した部分だと思う。私も、精神科医の先生たちにカウンセリングをしてもらっているが、どこかで解決してくれるのではないか、だが、この人達に解決できるわけはない、と思っていたのも事実である。実際には先生方はサポーターなのであって、その問題はやはり本人の問題なのである。
私の問題は、やはり仕事は嫌なのだから、しないで生きていくという方法を見付けていくしかないような気がするのである。

高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書、2006) 感想とレビュー

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今回の新書の評価は五段階中4.
非常に知的に興奮できるおもしろい書籍であったと言える。
文章は現代思想や哲学をあつかったもののなかでは比較的わかりやすい、平易なものであったと思う。といっても、十分に難しい文章ではあるが。ふと注意せずに読み飛ばしているとまったく意味が分からなくなるというくらいには、密度の濃い文章であった。だからそうしたときは巻き戻して再び文章をじっくりと読まなければならない。
この本はアマゾンのレビューなどでは「最終的になにが世界をよくするのかわかなかった」といった批判を浴びていて、たしかにそういう側面はあるのだが、良くも悪くも、誠実に「世界をよくする」ことをつきつめて考えていった本である。
世界をよくするというのは、文字通り、どうしたら戦争や貧困などがなくなって平和になるのかな、といった表面上の問題ではない。この本では、そもそも〈よい〉状態とはなんぞや、〈世界〉とはなんぞや、というところに論点が集中される。結論からいえば、万人に共通する〈よい〉という状態はない、と言い切っているし、後半はやや私も読解が追い付いていなくてこころもとないのであるが、〈世界〉とは、人それぞれの、その人を中心とした半径何メートルの世界像ということになるらしい。
そういう意味で〈よい〉ということは論理的につきつめていくとどういう意味なのか、〈世界〉とはどのように認識されるものなのか、といったことを論理的にずっと考えていくわけである。だから、タイトルを安易に勝手に解釈して、現代思想はどうしたら戦争や貧困をなくすことができるのだろう、それに対する何か特効薬的なことが書いてあるのではないか、と思って読んだアマゾンの読者などは、しっぺ返しをくらってしまうわけである。

筆者の比喩表現はやや微妙なところもあるが、それでもなるほどと思わされる部分は多い。
この本の筆者は哲学と現代思想の違いをこのようにのべる。哲学がノミやカンナであるのに対して、現代思想は電動工具のようなものだと。哲学は基本的には誰でもが扱える素朴なものであるが、それをうまくつかうには職人技のような熟練の技術が必要になる。それに対して現代思想というのはそのものだけに対してならば誰でもが使用できる便利な道具なのだと。しかし、反面、うまく使えないことや、手の感覚で微妙なラインを出したりすることができない、といったものだと述べるのである。
現代思想とはなにを目的にしているのか。それは「幸せになること」である。これは哲学にも共通することだろう。本来我々は、なぜ学ぶのかというと、「幸せになる」ためだったはずなのである。だが、現在においては勉強はつらいものであり、それ自体が人を不幸にしていることも往々にしてあるのだから、本末転倒しているとしかいいようがない。
哲学との違いは、哲学がそのものの意味、形而上学を考えるのに対して、現代思想というのは、より実践的である点だと筆者はのべる。
①幸せとはどのような状態なのかを設定し、②現在はどのような状況なのかを確認し、③現状から幸せまでどのようにしたらいけるのかという方針を決定し、④それを実践し、トライアンドエラーを繰り返す、というのが現代思想の基本的なスタンスというわけである。
筆者は現代思想がなぜわかりにくいのかということを、これらを説明しながら、その目的や手法のためにかかれているということがきちんと理解できていないからだと言う。確かに、なぜ小難しい現代思想書を読んだ時に、一体なにについて書かれているのだろうか、と思うことは多い。それは基本的には人間はどうしたら幸せになれるのか、ということについて書いているのだということを認識するだけで、きっとずいぶんと読み方が変わることだろう。

本書には最後にかなりの分量で、読書案内が書かれている。それぞれの思想家たちへの道案内となっていて有効である。私は今回は初めての高田氏の本だったので、他の書籍をまだ読んでいないが、『難解な本を読む技術』(光文社新書)などを出していることから推察するに、こうした思想書へのよき導き手となってくれるような気がする。

斉藤環『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 (PHP新書、1998) 感想とレビュー ひきこもりが読むひきこもりの本

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この本は素晴らしかった。私が手放しでなにかを称賛することなんてほとんどない。にもかかわらず、この本は素晴らしかったのである。五段階評価で、滅多に出すことのない、5をこの本には送った。
ただ、これは臨床的な本であるから、普遍性があるとは言えないかもしれない。普通に働いて、普通に過ごしている人たちにとっては必要ないのかもしれない。そういう人たちに無条件で進められるのかというと、しばし沈黙しなくてはいけないかもしれないが、しかしそれでも、そういう人達がいるのだ、という理解のためには、是非とも読んでもらいたい本である。

この本はやや古い。斉藤環氏は1961年生まれであり、この本は、彼が臨床心理士として80年代後半に臨床にあたった患者たちをもとにして1998年に上梓されたものである。だから出版された時点ですでに、今現在から考えると、20年ちかくも経過してしまっているのである。ましてや、その対象となっていた80年代後半の人たちの状況を踏まえると、ここで書かれている内容は、25年から30年前の話になってしまう。
だがしかし、おそらく環境こそ変わったものの、社会的ひきこもりを生み出す文化的要因は変わっていないであろうし、この本は現代のひきこもりに対してもかなり有効な意味を持っているのではないかと私は思うのである。
この本は斉藤環氏が二十代後半での経験をいかして、それを三十代になって執筆したものである。ひきこもりの権威となった彼の、初期の本ということで、ここからも新進気鋭だったことが伺える。

まずこの本の読み方であるが、私自身が会社をうつになってやめてしまい、すでにひきこもりに入ってから二ヶ月経っているという現状からこの本を読むことになった。ひとつは私自身、このひきこもりがどのようになっていくのかということについて考えたかったからである。そしてもうひとつは、私のこの現状を両親にも理解してもらわなければ困るからである。
やはりなんといっても、両親はさまざまな意味で切り離せない存在なのである。様々な意味においてだ。それは悪い側面がほとんどであるが、時として良い側面もあるのかもしれない。
とにもかくにも私はこの本を読んで、改めて思ったことであるが、社会的ひきこもりというのは、決してその本人だけの問題ではないということだ。
後にサブカルチャー評論もすることになる斉藤環氏であるが、本書では文化的な解釈というのは、かなり抑制的になっている。この時点ですでに斉藤氏ならばかなりの文化的批評ができたはずであるが、この本では専ら臨床的な話題のみに終始しておいて、文化的解釈というものはあまり描かなかったようである。
だが、今ならばおそらく社会的引きこもりが、この歪んだ日本社会においてこれだけ発生するということについて、もっとかけたことであろう。
ほんのわずかではあるが、この本でも、日本のような文化がどうも社会的ひきこもりを生み出しているということを筆者は述べている。

ひきこもりには様々な要因があるが、私の場合は、スチューデントアパシーが一番の要因な気がする。もともと、大学、特に四年からかなり無気力な状態が続いていたのである。それにはいくつかの理由があって、ひとつは胃病がよろしくなく、それがずっと続いていたために、不快な刺激を受け続けたことによって、その不快に対する抵抗への意志がなくなっていくという悪い学習をしてしまったからである。
そしてもう一つは、父からは就職をしろという抑圧を、担当教授からは、あまりにも理不尽な卒論指導という名の罵倒をしつづけられたために、無気力になっていってしまったのである。
しかし、その上で私は、実際に働くという不快よりも、父親にああだこうだいわれる不快のほうをより大きなものと感じてしまい、働ける状況でもないのに働きにでてしまったのである。その結果、もともと働くということそのもの自体が嫌だったということもあり、その嫌を嫌々やらされていたために、二か月間んでうつ状態になってしまったのである。

私の病気は現在は抑うつ状態ということになっているが、その下にはスチューデントアパシーがあることであろう。
それは父親などによる過度な期待などが影響していると、本書にも書かれている。しかも、これにかかりやすいのは、圧倒的に長男が多いということである。私は父親の理不尽な欲求にずっと従ってきた。今でも思い出すのは、中学受験など嫌だったのにもかかわらず、無理やりやらされたことである。ある時私は中学受験などやりたくないと、きっぱりいったことがあった。その時には私は十発ほど、口から血がでるくらいに、父親に顔を殴り続けられたことがあった。私はこのことをおそらく一生忘れないし、一生恨み続けることであろう。そういうことの繰り返しが、私を無気力に、スチューデントアパシーへと追いやったのだ。
私は本当に父に死んでもらうか、反省してもらうかしないと気が済まない。

この本がすばらしいのは、後半が実践編として、比較的軽度なひきこもり患者を社会復帰させるための方法が描かれている点だ。
そこで重要なのは、いまとなってはあまりにも当たり前のようなことかもしれないが、しかし、我が父もそれを簡単に犯しているように、基本的人権を守れよということだと私は思う。
筆者はそれを「恥をかかせるな」とか「プライバシーを守れ」というような表現で表しているけれども、それらを総括していえば、簡単に人権を守れよということに他ならない。
特にひきこもり患者に対しては、社会のまだ無理解な部分が多く、「そんなのは甘えだ」とか「寮生活をすればなおる」といった、非常に暴力的な意見が多く散見されるのである。
しかし、と筆者はいう。そうした正論は、正論かもしれないが、決してこれらの治療には役立たないどころか、むしろ害悪である、と。

親しき仲にも礼儀ありというが、まさしくこれはそれであって、たとえ両親といえども、ひきこもり患者のプライバシーを侵害したり、あるいは、恥をかかせたりするということが、害悪にしかならないということを、この本ではきちんと描かれている。そうした記述のために、どれだけ多くのひきこもり患者が救われたことだろうかということを考えると、この本の業績というのはままならないことだと私は思うのである。
ほかにも必要最低限の暮らしはさせる。たとえば、斉藤環は、きちんと必要十分なおこづかいをあげるということを書いている。それは、ひきこもりができるだけ社会との接点を持つためということなのだ。ひきこもりにそんなお金をあげたら、よけいにひきこもって出てこなくなるではないかと親はいうかもしれない。たしかにそうかもしれない。しかし、だからといってお金を一切渡さないという非人道的な環境では、直ってやろうという気持ちも現れてこないことはあまりにも明白である。ひきこもりなんだからと、さまざまな援助を断る親がいるし、実際私の父もどんどん私から自由を奪っているが、それがまったくの無意味であるどころか、むしろ害悪にしかなっていないということを、きちんとおやは理解しなければならないのである。
なんといってもひきこもりは、1人では発症しえないのである。斉藤環の述べているように、ひきこもりになるのは長男が圧倒的に多い。その原因を考えるに、両親の存在がこの病に少なからず影響しているからなのである。それをわからなければならないのだ。

橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』

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 ヴィトゲンシュタインとの出会いは、大学三年生の時、言葉とはなんだ?という国語を教える立場の人間として、最低限のことは知っておこうという勉強会のようなもので始めて出会った。そのときは、ソシュールの言語論なども一緒に勉強したものだったが、大学三年生で、そうした言語の哲学をまったくやったことのない私には、なんとなくわかったような気がして、なんとなくわからなかったものである。
 大学ももう卒業間近となり、やや時間に余裕ができてきた私は、もう一度哲学や社会学について、きちんとゆっくりと腰を据えて勉強してみようと思う。かつて背伸びして原典をいきなり借りて読んでいた。しかし、原典にあたってもちっとも理解することができない私は、きちんと入門書を読むことも必要だろうと考えなおした。そんな経緯があって、私はこの本を手に取って見た。

 この本はなかなかおもしろかった。私は新書には、その本がどれだけ役に立ったか、あるいはおもしろかったか、等で、五段階評価をつけている。5は本当におもしろかった。記憶がなくなったときに、もう一度読み返す価値のある本というような付け方で、1は二度と読みたくない、というような感じだ。ふつうは3。この本は4の評価をつけた。ヴィトゲンシュタイン入門としては、十分よく出来ているし、満足のいくものだと思う。人にも薦められるレベルの本だ、ということだ。
 いちおう『はじめての言語ゲーム』というタイトル通り、入門書になっている。ヴィトゲンシュタインの考えだけでなく、どうしてそういう考えに至ったのだろうか、という人間ヴィトゲンシュタインの歴史的な側面もあり、どちらかというと、ヴィトゲンシュタインの入門書というべきだろう。おびにはきちんとその旨が書かれている。

 こうして人間ヴィトゲンシュタインに触れあってみると、よくもまあきちんと生き延びることが出来たなと思わずにはいられない。ウィーンでも有数の貴族の家に生まれたヴィトゲンシュタインであるが、お金があるからといって、幸せとは限らない。それは、比較的裕福な家に生まれた私にもいえることである。大学では、あまり金銭的に豊かではない家庭の人達にかこまれたために、その裕福さをずっと羨ましがられてきた私であったが、ほんの少し裕福だからといって、ちっとも幸せではないのだということなど、だれも理解してくれなかった。ヴィトゲンシュタインもそうした思いが当然あったであろう。それよりも、むしろ、兄たちはつぎつぎに自殺をするし、第一次世界大戦は勃発するし、この本を読んでいるだけでも、うっと息苦しくなるような閉塞感を感じずにはいられなかった。常人であれば、兄たちに従って自殺しているところであろう。
 しかし、ヴィトゲンシュタインは最後、病死するまで自殺しなかったのである。私でもおそらく自殺していただろうこの雰囲気のなかで、彼はなぜ生きることが出来たのか。
 誰かが言っていた名言を思い出す。「ソクラテスは哲学のために死に、ヴィトゲンシュタインは哲学のために生きた」と。どんな文脈でだれが言っていたのかも忘れてしまったが、たしかにこの言葉は真をついていると思う。ヴィトゲンシュタインの哲学は、生の哲学、まさに生きようという意志そのものなのだ、と私は感じた。

 私には哲学的センスというものがないらしい。論理力もないし、まったくもってわからない。ただ、私に理解できるレベルの、中学生レベルの話をすれば、ヴィトゲンシュタインは、彼自身もいっているように、空り得ぬものについてを限界まで、彼なりに語ったということなのだろうと思うのだ。私たちは普段からこうやって言葉を使っているが、なぜ使っているの?どうやって使うの?ともし、面と向かって、言葉を使うことができない人達、たとえば宇宙人から言われたとしたら、それを説明することは不可能なのではないだろうか。りんご、というひとつの言葉にしても、なぞそれをそもそもりんごと言えるのか、というところから、果てしなく問いは続き、明確な答えは出てこない。出てくるとしたら、りんごはりんごだから、りんごなんだというものだけであろう。しかしヴィトゲンシュタインはその、類まれなる頭脳と論理力をもって、りんごはなぜりんごと言えるのかということを、徹底的に西洋的な論理力をもって、考え抜き、それを言葉にしたのであろう。しかし、最後までそれをやって、やはり、そうはいってもやはりすべてを言葉に書きつくすことはできぬ、と判断し、最後の有名な一文、「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という言葉を付け加えたのではないかと思うのだ。
 これを、仏教的とか、東洋的と、これまた誰がいったのか忘れてしまったが表現されていたのを覚えている。つまり、まるのようなものを、メスをもって、四角にきりおとしているような行為なのだ。西洋の論理をつかうということは。当然つかみきれない微妙なニュアンスのような部分もでてくる。所詮言葉は、私達人間が開発した、不完全なものである、それですべてが表現できると思い込んではいけないのだろう。

 しかし、おもしろいのは、このヴィトゲンシュタインが生み出した言語ゲームという普遍性の高い概念は、私達の生活にもひるがえっていえ、自分達のこれからを考える上で役に立つものなのである、という点だ。言語ゲームというのは、誰が始めたのかもわからずに、いつ終わるのかもわからない、そんなものだ。ただ私たちはそこに来たときにはすでに、ゲームは始められており、そのゲームに参加するほかはない。私たちは私たちのこの言葉の体系を、気に食わないからといって破壊することも、やめることもできない。いや、正確にはできないこともないのだが、それをやれるだけの精神力は凡人には備わっていないといえよう。
 私はしばしば、この自分の生に対して疑問を持たずにはいられない。なぜ?といつも問いかける。なぜ働かなければならないの?食わなければならないから?なぜ食わなければならないの?生きなければならないから。なぜ生きなければならないの?大体の人間は、僕のこの質問に、甘ったれているんじゃない!と起こる。困ったものだ。あまったれているんじゃなくて、私は本当にわからないのに。
 私は最終的なことをいってしまえば、生きる必要なんかないと思ってしまっている。だから、働く必要もないと思ってしまっている。社会からみたら、バカ、か、社会不適合者か、なんとかだろう。だが、仕方ないのだ。私は言語ゲームのように、すでにはじめられていた、この社会ゲームというのが、どうしようもなく嫌いなのだ。私はそれをいい、よし、わかったと言っていない。なのにもかかわらず、どうして私は勝手に、強制的に国民年金に入らされていて、年金を払わなければならないのだろう。私には本当に年金をどうして払わなければならないのか、なぜ強制的にここに入らされているのか納得できないから、払っていない。しかし、払っていなかったら、取り立てると、脅しの文句がくるようになった。私はただ、払いたくない、といっているだけなのに、なぜ取られなければならないのだろうか。
 国のやることは、間違いだらけである。それは人間と同レベルのものだ。しかし、国は、国であるために、国がいくらまちがったことをやっていようと、それが罰せられることはない。国民年金を個人から取り立てて、なんら罰をうけないのだ。それでこちらのほうは、払わなければ罰則だというのだ。こんな不公平があろうか。
 この本では、言語ゲームはわずかではあるが、働きかけることによって、自分の思うように変えることができると、最後に結んである。私も社会ゲームに働きかけることによって、ただ生きているのが許されるような社会に変わってほしいものだ。
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