僕はやっぱり、働かない自由があってもいいと思う

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先日、5月7日にこんな番組が放送されていた。
「56歳ニート息子」
「あのニュースで得する人損する人」という有名番組で取り上げられたものだ。
内容は、56歳にもなって、仕事をまったくせず、年金暮らしの親、79歳母の年金、月8万円をつかって、生活している、というものである。本人は一日中働かずに、家でごろごろしているだけ、というもの。
さて、この番組の放送は、かなりの反響を呼んだようである。
番組の放送と同時に私はTwitterをひらいてみたのであるが、#ニート息子というキーワードがトレンドに乗っているくらい、Twitterでも反響があった。
おもしろいので、どのような反応をしているのかと思い、タグを追ってみる。

もぎ太 ‏@okui_mogita
今さあ56歳独身で母親にパラサイトしてるニート息子のやつ見てるんだけどこれさあやらせだとしても現実にこういうの絶対あるよ、見てたらくそ泣けてくるし死んでもこんな人間になりたくねえ。親孝行出来る人間になれんくらいなら自殺する方が何倍も楽って感じだ。

しばくぞおじさん ‏@shibakuzo123
56歳ニート息子、79歳の母親の毎月8万円のわずかな年金で暮らしてるのに、それをあてに生活して、おまけに母親の金でお菓子買ったり、母親の財布から1000円盗んだりしてる。しばくぞ、働け→

[殲滅姫]天使 紗路+ (CV.小倉唯) ‏@_Syaro
ニート息子くそごみじゃねぇか

ひいらぎ ‏@new_hiiragi
56歳のニート息子がトレンドだが40代後半のニート息子や娘はゴマンといるぜ。俺の周りにも居る。親の年金で生きてるクソはモットいる。56歳でニートで健康ってのも厄介だな。普通はそんな生活してたら成人病で早く死ぬのにな。

クロエ@メロディアスペンギン
‏@pyk01
損得見てたらニート息子拗らせすぎて笑えるとか腹立つとか通り越してワケわからん憎悪にも似た感情が…でもこんななる前に若いうちに親もどうにか出来たやろとも思うのよ…



いくつか引用をしてみた。
私はこれらの人の意見を一概に否定するつもりはない。そういう感情があるだろうな、ということは、私も流石に予想ができる。しかしである。
私がいいたいことは次の様なことなのだ。少しツイートしてみたので、それを引用してみる。


なんかテレビで、56歳のニート息子がうんぬんってやってるけど、なにがいけないのか、ちっとも僕にはわからなかった
経済的な自立こそ善だ!というような暴力的な前提がそこにはあるようだけれど、その思い込みさえなければ、働かなくても母親の年金でなんとかやっていけているのだからいいのでは?

働くか働かないかは本人の自由意志なので、むしろこの働くことが善で働かないことが悪みたいな意味の解らない社会で働かないという選択肢をとりつづけてきたその人には、上から目線で叱るなんてとんでもない、よくやったと褒め称えたいくらいだが

前提として、「経済的に自立しなければならない」という価値観があるのはわかる。そして、その価値観を信奉するのもいいだろう。しかし、だ。それを他人に押し付けるなかれ。その自分の価値観を他人にまで敷衍するな、経済的に自立しなくてもいい、という価値観もあることを認めなければなるまいよ

先ほどの56歳ニート息子。
もう少し正確に描写する必要があるようだ。
前提として、本人はあの状態に満足している(少なくとも不満ではない)。もし、本人が働きたい、とかもっといい暮らしをしたい、ということであれば、何らかのアクションを起こす必要があり、それを援助する必要がある

けれども、彼自身はあの生活でいい、と思っているのであって、本人がいいと思っていることを、なぜ他者がとやかくいうのか?というのが僕の論点なのだ。結論はいう必要はない。本人がいいのなら、それでいい、と。

そして親の年金にパラサイトしているぶん、彼は十二分にその制裁を受けている、と僕は思うのだ。
月8万円で二人分の生活を賄うのであるから、一日食費と合わせて2000円程度の生活をしている。すでに最低限の底辺に抵触した生活を送っている彼に、これ以上なんの制裁が必要だといえよう

僕が指摘したいのは、ああいう人を取り上げることはいいことだ。多様な社会の在り方、人生の生き方を知ることができるからね。
しかし、あれを取り上げて、番組全員でぶったたく、なんとかして制裁したい、というその感情があけすけに見えてしまっている、そこに日本人の問題があるのではないか、と

日本は十分に豊かな国なのである。働かなくても餓死しなくて済むほどには。
であれば、生活保護等の制度や、親にパラサイトして、最低限の生活で生きていく、ということになんの問題があろう。彼を叩きたくなる、その自分の心情を、一度きちんと精査して見る必要があるのではないか?

ここからは少し飛躍するが、つまり、働いていないで怠けている人のことを、許せない!それが問題なのではないだろうか?
自分が苦しい思いをして働いているのに何もしないで生きている人がいる。そういう人達への恨みから彼に対して「シネ」だの「クズ」だのという言葉が吐き出されているのではないか

できるだけ誠実にこういう認識の仕方もあるのだよ、ということを描写しているんだけど、あまり共感を得られなさそうだ。それは残念なことではあるが、できれば、そういう生き方もあるのだ、それに対して許せない!という感情がなぜでてくるのか、というところを考えてほしい

自分が働いていて、つまり、いい成績をとって、いい学校をでて、というコースに乗っている時は人は強いし、その強さを他人に強要するものなんだよね。でも、そこからドロップアウトしてみると、それがいかに厳しく、不寛容であることかと思われてくる。



こんなところが、僕の意見だ。
結論から言えば、働かない自由があってもいいじゃないか、ということだ。
当人がそれでいいのなら、それをとやかくいう資格は他者にはないだろう、むしろそういう生き方を認めて上げることが必要なのではないか?というのが僕の意見だ。それと同時に、こういう人たちをみて、死ね、クズ、等の言葉が出てきてしまう、それをTwitterに呟いてしまう、そういう人達の暴力性というものが問題なのではないか?それがいったいどこから出てきているのかをキチンと一度改めて見ることが必要なのではないか?というのが僕の問題意識なのだ。

この番組では、結局この取材されていた人は、吉本のお笑い芸人であることが判明、ネットでは「やらせ」だと、批難殺到している。
しかし、私はそこには特に問題はないと思う。もちろん、これはテレビの演出上のものなのだろう。だから「やらせ」ということはわかる。しかし、たとえここで放送されたものが「やらせ」であったとしても、こういう生活をしている人たちは世の中にたくさんいるのであって、私はその点において、こういう人たちをやや誇張的ではあったが、取り上げたことの意味は大きいと思う。
しかし、問題なのは、番組に出演していた全員が全員、この人物を叩き上げていたことである。
私は、なぜ働かない自由をみとめてあげることができないのか?と不思議に思う。
この人物はすでに、働かないという選択を通じて、それなりの制裁を受けているのだ。いわば極貧生活をしているわけであり、すでに制裁は受けている。それでも本人はいい。極貧でもいいから、働かずに静かに生活をしていたい、そういうことなのだろう。それをダメだなんだと叩くのは、ひどいではないか。
障害者を取り上げて、だからだめだ、なんだと言っているのと構造として同じなのではないか?
今のはやや言い過ぎたかもしれないが、つまり私がいいたいのは、働ける強い人が働けない弱い人を、だからだめなんだというのは、あまりにも暴力的なことではないか?ということなのである。

人はみな、強いわけではない
が、我々はそれをしばしば忘れてしまう。
いい成績を取り、いい学校に入り、いい会社に入り、いい給料をもらい、いい相手をもらい、そういういわばコース、のようなものは、強いひとたちのものである。
みんながみんなそれに耐えられるだけの精神や肉体や状況、環境をもっているわけではない。
彼のように、働けない、働く意思がなくなってしまう人間だって、ごく一部ではあるが、いるのである。そういう人たちに、自分達ができるから、といって、それを押し付けてしまうのは、暴力以外のなにものでもないのである。
我々はまず働かなくても生きている人達のことを、認めるところからはじめなければならない。そういう生き方もあるのだ、ということを知り、それを受け入れること。
人間を働いているか働いていないか、という二択で、いいと悪いにわけることの暴力性。誰もが働けるわけではないし、誰もが働きたいわけでもない。そのようななかで、働かない、という選択肢を選んだ人達を誰がさばけるというのだろうか。
もし、これでもまだ、働かない人間はクズだ、ダメだ、社会のゴミだ、と考える人があれば、そう考え冴える原因は何かを一度きちんと見つめてもらいたい。
少しヒントをつけくわえておけば、それは「社会」によって作り出された「幻想」の「価値」なのかもしれない

黒い雨の感想を読んだ感想

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 今回私はとある学校で教育実習を行わせていただいた。全10回の授業を持ち、導入として、山之口貘の『存在』を取扱い、〈僕〉とは何なのかということを考えた上で、井伏鱒二の『黒い雨』を9回にわけて読んでいった。今回のテーマは、いかに今我々が住んでいる現在が平和であるのかといったことだけではなく、いかに自分達の世界とはかけ離れた世界を読んで、それを自分達と結びつけることができるかということにあると私は思っている。
 生徒たちには宿題として『黒い雨』の感想を書いてもらった。個人情報には十分に配慮している。生徒たちの感想は、大人である我々が読んでも、はっとさせられるほど鋭い指摘や考えがつまっており、これを私の手中に収めておくにはもったいなく、多くの人の考える材料になると判断したため、ウェブ上にこのような形で掲載させていただくことにする。
 生徒に対しては個別にフィードバックをしているが、全体としてのフィードバックは分量の都合上できなかった。これを以てそれとしたい。



 感想を書き終えたら終わり、ということにしないでほしい。感想は飽くまでも途中の段階での報告に過ぎない。一通り10回分の授業が終わり、それを受けて感じたこと、考えたことを書いてもらった。そのなかで見つけた視点や、問題点をこれから君たちが持ち続け、9月の研修旅行でより深めて行ってもらわなければ意味がない。
 そのためにも、個別にはそれぞれ考えを深めてほしい点などを書いて返却したが、全体評を述べておきたい。

 今回の感想文では、私は次のようなポイントを高く評価した。
・戦争や原爆といった私達からかけ離れたものをなんとか自分とつながりのあることがらとして捉えようとしている。過去の ものではなく、現代にも通じるものとして、捉えようとしている。
・また、それに対して自分は何ができるのか、何をしなければならないのかを考え、具体的に提示できている。
・描かれていた登場人物に感情移入することができている。少年に感情移入していることも重要だが、父の立場に立ってみたり、おばあさんの立場に立ってみたりすることができている。

 10回の授業を受けて、どんなことを感じたか、考えたか、またどんな意見を持ったか、感じ、考えたことに対してどう自分はアクションするのか、そういう部分を評価の基準にしている。
 単に授業の内容の要約や、物語に書かれてあったことをさらっただけの感想はあまり評価できない。それは誰でもが書けるものだからである。〈僕〉は〈僕〉何だという通り、〈自分〉の考えや意見を書いてほしかった。

 いくつか生徒たちの感想を引用しながらみんなももう一度考えてみよう。
〈私は戦争とかは自分には関係ないし、知りたくもないと思っていました。しかも、自分は戦争なんて経験なんてしていないし、本も読んだ所で分かったふりをするのが面どうだったからです〉
 これはある生徒の感想だ。衝撃的な内容ではあるが、自分の気持ちを正直に書いていてよろしい。当初このような感想を抱いていた生徒は多かったのではないか? 私だってもちろん、面白おかしく授業をやりたいという気持ちはある。何もこんなに暗くて悲しい物語を取り上げなくてもいいじゃないかとも思ったものだ。だが、そうではない。私自身授業を進めていくうちに、これは伝えなければならないというものが見えてきたりした。それは生徒たちにも伝わったようだ。他の生徒は〈しかし、だんだんと読んでいくうちに「何故こんなことに」など深い悲しみを感じ〉たという。他の生徒からも「興味深い」といった意見が出た。

 ただ一つ気になる点がある。多くの人が「伝えていなかければならないと思った」、「伝えて行きたい」といった言葉を使うのに対して、一部の生徒からは「伝えて行ってほしい」「二度とおこらないでほしい」といった消極的な態度が見られることだ。もちろんまだ中学三年生だ。社会に出たこともない。自分が何を出来るのかということもまだよくわかっていないだろう。わからないなかで、なんとかそうして欲しいという願いをしたくなるのはよくわかる。だが、いつまでも「~してほしい」という態度ではどこかに無理がくるのではないかと私は思うのだ。是非「~してほしい」から「~したい」に変わることを願う。

 もう一つ気になる点がある。それは、戦争反対に対して利益になるものが何もなく、害しか生まないから戦争をしてはいけないという感想があることだ。一見非常に論理的に思われるのだが、この論理だと、たくさんの利益を生みだして、害をほとんど生み出さない戦争というものができるようになると、戦争を反対する理由がなくなってしまう。
どうやら損得でものごとを考えていると、戦争に進んでしまう危険性は取り除けないようだ。戦争に反対するならするなりに、もう少し損得以外の尺度で考えて行かなければならないようである。

内容別にまとめて感想を見てみよう。

研修旅行に向けての心構え
・〈平和について教えてもらってきます。原爆ドームもしっかり目に焼き付けてきたいと思っています。楽しむだけでなく、この「黒い雨」の文章と(省略)授業を思い出しながら広島の人の話を聞きたいと思います。〉

生き方が変わった生徒
・〈これを読んで平和な時に生まれて本当によかったと思っています。昔の戦争の時代に生まれた人は、着てみたい服を自由に着れなかったり、食べたい物を好きなように食べられなかったり、みんなが不自由な生活をすごしていたと思いました。だから僕は平和な時そして平和な国に生まれてこられたので、これからの人生でできることは全力でやっていきたいと思います。〉
・〈ボロボロになりながらも前向きに生きようとしている所、私も見習いたい〉
・〈どこか自分の身の上には起こるはずも無いと他人事のように考えている自分に気づき、少し情けなくなりました〉

存在の大切さ
・〈人間一人一人にちゃんとした人生があることを考えてほしいです。〉
・〈私はたまたま平成という時代に生まれて、私はたまたま東京で生まれました。原爆がおちたその時に広島に居て、生きていたらたぶん私は死んでいると思います〉
・〈そう考えると自分が今、存在していることが奇跡のように思えてくる。これから人生を歩んでいくうえでこの幸せをかみしめて生きていこうと思う〉

戦争批判
・〈原爆とは日本の負の歴史なのである。日本人はそれを背負っていきているわけである。日本国民はこの負の歴史を永遠に背負わなければならないのである〉
→これはまさしくその通りなんだ。すべてのことは無駄ではない。「失敗は成功のもと」という言葉もあるように、確かにこれだけを切り取れば「負」でしかないわけだが、それを今、それから未来の平和に結び付けられた時、その「負」は「負」ではなく、「正」を作り出すためのプラスに変わっていくのだ。

・〈自分の国の負けた話など、知りたくもありません。ただ、戦争によって引き起こされた悲劇には目を反けてはいけないと思います。嫌いでも何でも体験した方の本などは、僕らが大人になってから戦争を引き起こさないために必ず、読んだ方がいいと思います。〉
→ただ、心が繊細でどうしても背けなければならない時には背けるのも仕方ないとも思う

・〈戦争を始めたのは、総理大臣や政治界の大きな権力を持っていた人達ですが、その人達に何も言えなかった人達も責任があると思います。そのとき国民全員で戦争をやめさせる様に言えば戦争はとめられていたかも、しれません〉
→その通りだ。これは他のことにも言える普遍的な問題かもしれない。例えば身近なところで言えばいじめ問題だ。もちろんいじめをした人間が一番悪いことには悪いのだが、それを知りながら放っておいた側にも責任がないとは言えないのだ。このように、いかに自分は関係ないと澄まして、現状を悪化させるよりは、いかに自分にも責任があるのだと考え行動したほうが世界はよりよくなるだろう。
 またこの生徒はするどい視線の持ち主で、〈日本も中国や朝鮮などの人々をつかまえ、人間とは思えぬあつかいをしていた様です。なので戦争には誰がいけないとかはないと思います〉と述べている。
 これは大人でもなかなか持つことのできない視点だ。テレビを見てみれば、真っ赤な顔をして、どこどこが悪いと怒鳴り散らしている大人たちの姿が見える。しかし、どちらかが一方的に完全に悪いという場合はそうない。ケンカを考えてみればわかるはずだ。どちらかがケンカをふっかけたとしても、それをふっかけさせる原因をその人もつくっていたはずなのだ。原爆を落としたことは確かにアメリカが悪いのだが、だからといって戦争すべての責任がアメリカにあると、一方的に憎むことは事実を曇らせるおそれがある。自分達もひどいことをしていたという視点を忘れないことが、これからの多様な世界を可能にしていく視点だろう。

今後の自分の行動
・〈日本は世界の国で唯一、原爆の被害をうけました。このことを、きちんと伝えて行きたいと思います。〉
・〈唯一原爆を落とされた国として原爆の悲惨さを伝えていくべきだと思いました。〉
・〈これから自分は原爆の事を勉強して、二度と戦争が起こらないような世界をつくっていきたいと思いました。〉
・〈多くの人が亡くなっています。私たちは、戦争を体験した年代ではありません。だからこそ、私たちがしっかり理解し、学び、語り伝えなければなりません〉
・〈当時の人たちが何を思って生きたのかなんて、どんなに戦争について書かれた本や資料を読んだところで、きっと経験していない人には分からないだろう。それでも、それらの本を読むことは戦争の知識や同情の心は芽生えるだろう。それがたとえ戦争の半分も分かっていなくても、わたしたちにとってとても必要なことだし、もっと人々に話して継げていくべきことなんだな、と思う〉
・〈もし、『黒い雨』などの戦争のことをかいた本がなかったら、戦争の恐ろしさを知らない人達が、また戦争を起こすかもしれません〉
・〈僕はその人たちの死をむだにしないで、継続的に国内にも海外にも、平和を訴え続けなければ、戦争で死んでしまった死がむだとなってしまうと思いました〉
・〈この作品は僕たちの世代だけでなく僕たちの孫の世代、さらにその孫の世代と語り継いでいかなければならない作品だと思いました。なので僕はこの作品を色々な人に広めたいと思います〉
・〈あれだけの教訓を後世(前の世代の間違いか)から伝えてもらったのに、また戦争・原爆という惨禍をしようとしているのが不思議でならない。僕は、この平和主義という絶対的な盾をみずから手離したくはない〉
・〈平和を維持するためには原爆や戦争を怖がっているだけではダメなんだと、たとえ小さな事でも出来ることがあるならしてみようと思いました〉

「今」の問題として
やはりこれだけ自分達の住んでいる世界とはかけ離れているものを、自分達や今の問題として捉えることができているのはすばらしいことだと思う。こういう想像力をみんなには身に付けてもらいたい。

・〈原爆のかわりにもなってしまう原発も一見便利であるが、事故が起こると原爆のようになってしまいます〉
・〈今、私たちが戦争の話を直接、体験した人に教えてもらわなければならないと思いました〉
・〈今、現代の戦争を知らない人達ができることは忘れないこと。二度とくり返さないことだと思います〉
・〈昔の人は戦争を嫌がることすら許されない世界だったけれど、今の私たちには発言する権利があります。だから、この広島にあったことをみんなが忘れてはならないし、そのことをたくさんの人に伝えられたらいいなと思います〉
・〈僕たちは昔こういうことがあったと考えるんじゃなくて二度とこういうことが起きない為にはどうすればいいかを考えていくことが自分たちが今すべきことだと思います〉
・〈今も戦争を続けている国や爆弾やミサイルなどを所持している国がある。だから私たちはそれらの国に、原爆のもたらす被害、また実際に原爆をうけた先人たちの思いを語り続けなければならないと思った〉
・〈原爆や戦争反対の意識がうすれていっている今、祖母たち(この生徒の祖母は被爆者だそうだ)の体験が無駄にならないように、原爆と何らかの関わりがある私のような人が先陣をきって、うったえねばならないと思う〉
・〈東日本大震災という想像が出来ないことなども経験して、今僕たちはなにが出来るのかということを考えていきたいなと思います〉
・〈私たちは、戦争を起こしたくない。この悲劇をくり返さないことが、今の私達のできることだと思う〉
・〈東日本大震災で原発の放射能がもれた時と同じように、今もなおこの後遺症に苦しめられているんだと思う〉
・〈戦争の悲しみはもう取り戻せるものではないので、再び同じことが起こらないようにしなければならない。(中略〉今は再び戦争が起こることのないように務めたいと思います)

日常と異常と幸せ
・〈今の日常の大切さがわかりました。(中略)勉強や遊びを普通にできていることを尊く思い、一日一日を大事に過ごしていきたいと思いました。〉
・〈自分が今平和な世界に生きられていることが幸せなことなのだと気付きました〉
・〈人類が二度と侵してはならない戦争によって私たちが今平和に生きれているということに気付かされました〉
→私はキャリアガイダンスの時にも「幸せになってほしい」と述べたが、その幸せについては何も言及していなかった。もし、幸せというものがどこか遠くにあり、ごくわずかなトップの人間しか得ることのできないものだと考えている人がいたら、少し考えを変えてみよう。幸せというのは、本当に自分から遠いものなのだろうか。もちろん、ある側面では自らが勝ち取っていくものもあるだろう。しかし、今自分があたりまえのように置かれている環境、状況を一度考えて欲しい。それらは本当に「当たり前」なのだろうか。私達は幸いにも、文学や歴史といったものを学ぶことができる。そこから私たちは私達の当たり前とは違った世界を覗くことができる。そして自分を振り返ってみた時に、自分たちの当たり前がいかに当たり前でなかったかに気が付くことだろう。そうしたものが本当に見えてきたとき、あなたは幸せの別の側面をも発見できるだろう。

・〈自分の幸せのために、他人の幸せを奪うなんて、あってはならない事だ〉
→これが幸せの基本ルールなのかもしれない

最後にこの感想をまとめるにあたって、とても美しい祈りにも似た言葉でしめくくりたい。

・〈今日こうして透明で美しい雨がふり、白い雲が浮かんでいる青い空の下で生きていることが当たり前になっている平和が、永久に続きますように〉

哲学、究極の問いに対する僕の答え

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 忘れもしない、4月30日の深夜、つまり29日をすぎてから二時間ほど経った時のこと。私は夜寝る前にトイレにいくのですが、そのトイレに入ったところで、はっと今までこの二年間ほど悩み続けてきた一連と問いに対する答えがひらめいたのです。
 まずその問いというのは、哲学の世界では「第一の問い」とか「究極の問い」とか言われるもので、どんな問いなのかというと、「なぜ私は存在しているのか」「なぜ私は生まれたのか」「なぜ私は生きているのか」といったものです。
これは根源的な問いで、いままで多くの哲学者が挑んできた問いです。いまだこれといった答えもない。またこれらの問いは、そのあまりのむずかしさや危険さから、「混乱を呼ぶ悪名高き問い」、「解答不可能な奇問」、「愚かな問い」、「問うことが危険な問い」などと言われて、敬遠されてきたというのも事実です。
 こうした問いは「形而上」であるとして、カントなんかは問うこと自体がいけないんだ、なんて断罪しているのですから、おもしろいものです。
 私も一時期この問いの魅惑というか、なんというか、この問いから離れられなくなっていた時期があって、もしかしたら自分は意味がないのではないか、生きることに意味はないのではないかとだんだん鬱的になってきていた時期もあったのです。ですが、それがなんとつい先日、ふっとわかったような気がしました。

 言葉で書くといかにもチープですが、私が達した答えはこうです。
 この問いが問えるようになった時点ですでに答えは出ている、というもの。
 補足説明しますと、「なぜ私は生きているのか」「なぜ私は存在するのか」といった問いは、その問いが生まれた時点で完結しているということなのです。
 手塚治虫が書いた有名な漫画『鉄腕アトム』にはこんな場面があります。アトムが人間のこころを持ちたいと願う場面なのですけれども、しかし、実はその人間のこころを持ちたいと思った時点で、すでにこころを持っているのです。
 私はこの一連の問いも、この問いが生まれた時点で完結しているのではないかと思うわけです。つまり、なぜ私が存在するのか、なぜ私が生きているのかという問いが生まれたということは、究極的な「私」の存在に気が付いたからなのです。
 もし、自分が他人とかわらずに、自分は歯車だ、自分が死んでも何もかわらない、他人と交換可能だという考えであったならば、おそらくこれらの問いは生まれてこないのだろうと思います。私は、この問いが自分のなかで生まれたというときにすでに、私は私であって、それ以外のなにものでもないということに気が付いているわけです。
 実にシンプルでありますが、しかし真実というものはこのくらいシンプルなものなのでしょう。私は私であって、代替不可能で、オリジナルでユニーク(かわりがないということ)な存在なのだということにやっと気が付けたのです。こんなことは、今迄ずっと言葉では聞かされて、頭ではなんとなくわかってきたことです。しかし、これが心のレベルではっとわかる。この感覚がきっとこの問いの答えなのだろうと思います。
 この数か月、私は自分は自分以外のなにものでもなくて、本当にユニークなものなんだ。こんなにすばらしいことはないと次第に気が付いてきていたのですけれども、それがやっと地についたというのか、翻って、この一連の問いと結びついたのです。

 なぜ私は存在するのか、なぜ私は生きるのか。これらの問いというのは、おそらく、その問いを問い続けていくことにはあまり意味がないのではないかと思います。もちろん、きっとこの問いを問い続けていっても、何かしらあるとは思います。もしかしたら、やはりまだ発見されていない何かがあるのかもしれない。
 しかし、私が数日前に体感したのは、これらの問いが問えるようになったその時点で、すでに自分は自分であって他人ではない、このあまりにも当たり前で、しかしそのためにみんな忘れてしまっている事実が、この問いの発生であるこの事実が、一番重要なのではないかということなのです。
 今回の体験は、言葉にすればこんな感じです。はっと頭のもやもやがゆっくりと晴れて行った感じ。こころのなかから少しずつ少しずつ湧いてくる、充足感、幸せのようなもの。
 私たちは、なぜ「なぜ」と問うのかということなのです。どうして、なぜ?と思うのか。実はこのなぜ?と問えるということ自体にかなり意味があるのではないでしょうか。
 どの授業でもそうですが、先生に質問出来る子というのは、自分の頭で考えている子です。ところが、自分の頭で考えている結果、なぜ?そうなるのかがわからない、というところがでてくる。自分の頭で考えることをせずに、ただ聞いてノートを書いているだけでは、なぜ?という疑問は湧いてきません。
 哲学の問い、とくにこの一連の問いについては、なぜ?と問える状態になった時点で、私は私であるということが本質的にわかったということなのではないでしょうか。
 もちろん、これは私にとっての私の答えなのです。ですから、これが全員に通用するなんてことは思っていません。おそらくこの文章を読んだからと言って、誰もが、ああそうかと納得するとは思えません。無理でしょう。ただ、この答えというのは、私にだけ意味を成すことであり、他の人に意味をなすとはとても思えません。ですが、まあ他人の思考の痕跡を見るということもまた、何かにはなるのではないかと思い、またこの感動を誰かと共有したく(おそらく無理ですが)、今回記事にした通りです。

ベジタリアンとまではいかないけれど、できるだけ暴力的でないものを食べる生活

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 最近は私もようやく資本主義の幻想から抜け出すことができまして、自然に帰らねばならないと思うようになりました。そして、革命は下から、一番弱いと思われているところから行うものです。自分が変えられない人間が何故他人を変えることができるでしょう。
 私は最近ガンジーに代表されるインドの思想などに触れ、いいなあと心から思いそれらを受け入れています。このブログでもよく登場するサティシュ先生もその代表ですね。
 そしてやはり私たちは「生きている」のです。言葉で書いてしまうとなんということもありませんが、私はここ数か月、やっとこのことに何か本質的に気が付けたような気がします。ああ、私は紛れもなく、この世界に生を受けたのだ。こんな奇跡的なことってないじゃないかと思い始めました。
 それ以来、自分はなによりにもまして特別な存在であり、代替不可能であり、ユニーク(ほかにかわるものがない)な存在であるということに気が付かされたのです。この自分がかけがえのない大切なものだと思うのと同時に、周りにいる人達もみな大切な、かけがえのない存在だということにも気が付きます。自分だけが大切というのは、エゴであって、それは本当の大切さをわかったとは言えないでしょう。

 私はガンジーの言った「非暴力、不服従」の精神が大切だと思っています。最近では、その思想がどんどん自分のなかに根付いてきて、食に対する考え方も変わりました。
 サティシュ先生は「全体食」ということを言っています。全体食というのは、たべものをそのままの形で食べることです。全体食というのは、仏教の「一物全体(いちぶつぜんたい)」という考えに拠っています。Wikipediaから引用すると、「生物が生きているというのは、丸ごと全体で様々なバランスが取れているということであり、そのバランスのまま人体に摂取することが人体内のバランスを取るのにも望ましいという考え方から、人間が食物を摂取する際、穀物を精白したり、野菜の皮をむいたり、動物の肉や魚を部分的に食用にするのではなく、できるだけ丸ごと食べるのが健康に良いとする考え方。 栄養学の観点からも、植物の皮や葉、小魚の骨は栄養が豊富である」というわけです。
 私はまだこの「全体食」にまではたどり着けていないのですが、しかし最近ではできるだけ暴力的につくられていないものを食べるように心がけようと思うようにはなりました。

 一時期ネットでフォアグラを作る際の過程が映された動画が話題になりました。かなり暴力的で、精神的な衝撃を与える動画なので、心の準備がない方は御覧にならないでください。
http://www.hopeforanimals.org/animals/foiegras/00/id=224
 私はこうした動画を見て、やはりこれは違うと思いました。何が違うって、動画が違うんじゃありませんよ。動物をこのようにして暴力的に、食べることだけに育成して食べるというのは間違っていると思うようになりました。
 フォアグラなんてなくたって私たちは生きていけるわけです。だからフォアグラにはノーを突きつけていく。みんなが食べなくなれば、必然、売れなくなるのですから作るのをやめざるをえない。暴力は少なくなります。
 そんなことを言ったら何も食えなくなるじゃないかと、多くの方は言うかもしれません。しかし、そんなことはない。
まず、私たちは穀物だけを食べて生きていくことなんて十分にできるのです。しかし、反対に肉ばかり食べるとなると、それは地球全体で考えても無理だということになります。現在地球には70億という、あまりにも増えすぎてしまった人間が住んでいます。しかし、なんとも地球は偉大なもので、これだけの人間が食べるだけの食料を大地はつくってくれるのです。ところが、これに足して肉をつくるとなると状況がかわります。1キロの肉をつくるのには、10キロの穀物と、水20トンになると言われています。世界中の人々が肉を食べるようになれば、あっという間に地球の資源は枯渇しますから、やはりどう考えても全体的にはどんどん肉から離れて行かなければならないということになるのでしょう。
 まあ、しかしそんな理論的な、あるいは壮大な話はやめましょう。こういう話をすると、どうしてすぐに地球と考えてものごとを考えるんだと人から言われるのですが・・・。私は地球と結びつけて考えないからこんなに乱暴なことを人間はしてきてしまったんでしょうといいたいのですがねえ、まあ喧嘩になるからやめておきます。

 それとは別に、もっとパーソナルな部分で、半径数メートルの話をしましょう。
 もし、心の準備が整った方はフォアグラの動画を見て頂ければより理解が深まるのですが、食用のための家畜というのは、本当に乱暴で暴力的につくられたものなのですね。できるだけ少ない餌で太らせようとするわけですから、運動もさせられなければ、満足な場所も与えられない。効率的でないからですね。
 さて、食用のための家畜を生産している現場では暴力に満ち満ちています。記憶というものが脳以外にも残るということが判明して久しい今日、そんなに乱暴に、暴力的に育てられたものを食べている人間がおかしくならないとはっきりと言い切れるでしょうか。
 現在社会というのは「科学教」という宗教が蔓延している世界です。この世界では、科学的に「正しい」ことが、すべてにおいて「正しい」のであって、仏教的に「正しい」とか、心理的に「正しい」とか、日常的に「正しい」とかいったことは、すべて「非科学的だ」といって軽んじられてしまいます。しかし、私は科学教の皆さんにとっては残念なことに、科学教の信者ではないのです。ですから、科学的に「正しい」と言われたことが、「正しい」ことだとは私は盲目的に信じません。科学的に正しいからといって、それがどうして私にとって正しいことになるのでしょうか。私はそれゆえ、非科学的なことは正しくないことだと軽んじることもありません。私は自分がよく理解できない数字上のことが正しいからといって、それを盲目的に信じるのではなく、より広い視野からものを見たいと考えています。いくら科学的に「正しい」からといって、それが間違っていたということが歴史を振り返ればいくらでもでてくるわけで、経験的にも、日常的にも、心理的にも照らし合わせてみて総合的に「正しい」ものを見出していきたいと思っています。
 科学においては、暴力的に作り出された食品を取り続けることによって出る影響というものを計測することは、仮に出来たとしてもまずこの数十年では無理でしょう。おそらく計測できないと思いますが。
 私はアニミズム的な感覚を持っているし、それが悪いことだとは、ナンセンスなことだとはちっとも思っていません。やはりモノにさえもこころは宿るものだと信じていますし、植物にも当然こころがある、ましてや動物にはもっとこころがあると思います。そうしたこころあるものを乱暴に、暴力的に扱ってできた食べ物を食べて、そして私たちが幸せになるはずがないと思うのです。
 多分影響は出てくると思いますよ。こんな話をいくつかの本で読んだことがあります。ネズミか何かだったかな、ある光を出して、その後に電撃を与えるという条件付けを行ったそうです。そうすると、そのネズミは光を浴びると痛い目にあうのをわかっているから、怯えた行動を取るようになる。そのネズミを殺して、もう一匹のネズミにエサとして与えたところ、条件づけ、光を浴びた後に電撃をくらったことがないネズミでさえ、光を当てたところ怯えるようになったという実験があるそうです。
 これは大変乱暴な実験ですし、またあまりにもよく出来すぎているお話なので、そんなにうまくいくわけはないだろうと思いますが、しかし、記憶が脳以外にもあるということはもう今日では自明の理なのではないでしょうか。骨にも記憶があるそうですし、内臓器官にも何かしらの記憶があるらしいということがわかりはじめています。それだけではない、きっと筋肉からなにからなにまで、おそらく記憶とまでいかなくとも、何かしらのものが残っているでしょう。それを私たちは毎日毎日体内に摂取するのです。
 本当に私たちは口にするものと身に付けるものだけは注意しなければなりません。
 そのような暴力によって生み出された動物たちが、自分の身体にどのような記憶を残しているかわかったものではありません。それを常日頃食べ続けることによって、私はきっと何かしら人間は罰を食らうとおもうのですね。

 ですから、最近ではできるだけ私はそうして暴力によって生み出された食べ物は食べないようにしています。もちろん、できるだけですから、出てきたら食べます。出されてしまったのに食べないということは、さらにその動物に対して失礼だと思うからです。でも、できることならあまり食べたくない。
 しかしベジタリアンというわけではありません。自然の世界を泳いでいてたまたまつかまってしまったお魚は食べさせていただくことにしています。これも養殖のものはあまり食べる気になりませんね。
 ベジタリアンといっても、何もそんなにおどろくものじゃありません。私たちはベジタリアンと聞くと、野菜しか食べてはいけないのかと思いますが、そんなことはなく、要は肉を食べないということだけなのです。ですから、ラーメンだって食べられるし、そば、うどん、パスタ、パン、御飯、いくらだっておいしいものはあります。今まで食べていた肉を減らすだけ。ぜんぜん難しいことじゃありません。別にこれを強要しているわけではありませんよ。ただ、私は最近そういう考えになってきているというのを書いているだけであって、みなさんにそうしなさいなんておこがましいことを言うつもりはありません。
 あとは、あまり科学的なものも口にしたくありませんね。科学的というのは、ひとつは農薬などです。もう一つは遺伝子組み換えという、あまりにも生命に対して乱暴なこと。これだけは私は許せませんね。そうしてもう一つは、自然的でない食べ物です。コンビニにいけばいくらでも売っている、一体なにからつくったのかわからないような食品。
 やはり食べることというのは、生きることの根本になると思うのですね。だから、生きているものを食べるということが、自分の生に直結する。ああ、自分はこうして、動物なり、植物なり、生きているものを食べて生かされているのだなと感じる。だから「いただきます」なのですよね。でも、それが何によって生み出されたかわからない、化学調味料をふんだんにつかったゼリーとかなんとかだと、ちっとも命を頂いている気にならない。ある意味気楽なのです。命を頂いているという罪を背負わなくていいので。しかし、それは一見すると気楽でいいですが、自分が生命を頂いて生かされているという、一番大事なことを忘れてしまうことになるのではないでしょうか。だから、なんで生きているのかわからなくなる。どんどん生命から見放されていくのです。
 きちんと食事をする際には、自分が食べなければ生き続けられたかもしれない生命をいただいているという感覚を持って、それをありがたいことだと感謝しながら、食べなければ失礼だと思います。最近はそういう基本的なことからどんどん遠ざかっているために、自分の生きている意味がわからなくなったりしてきているのではないかと考えたりしていました。

5・3 「特定秘密保護法に反対する学生デモ」に参加して

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写真は毎日新聞社のウェブ記事より。私が左下に映っています。ちょうど水を飲んでいるところですね(笑)

はじめに
 去る5月3日、憲法の日に私は東京・新宿で催された「特定秘密保護法に反対する学生デモ」に参加しました。
 Facebookには、デモ参加からそれほど時間の経たない、まだ感情的にもデモの中にいる時に書いた一文があります。
 「法律のことも政治のこともよくわからないこのちっぽけな僕には何ができるだろうか。僕には何ができるのか、何を していいのかさえもわからない。わからないから、僕はこのデモに参加してみた。何をしたらいいのかわからないからという消極的な理由でしか参加できなかったことを残念に思うが、しかしこれしか僕には僕の考えを主張する方法がない。」
 これが、正直な私の声です。
 冷静にならぬうちに出た言葉ですが、一日時間を置いた今でもこの気持ちになんら変わりはありません。


 今回の記事は、別に難しい法律や憲法のお話をしようというわけではありません。そうした法律や憲法の難しいお話は、専門家が沢山していますし、研究者たちがいろいろ書いてありますからそちらを読んだら良いでしょう。もちろん、そうした勉強をすることも重要なのですが、私はそれとは別の次元で、私が主張できることをしていかなければならないと思います。

 このデモの内容については、毎日新聞社がウェブ上に記事として掲載していますから、そちらを参照してください。
憲法12条は警告する 「権利守るため努力必要」学生ら400人デモ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014050402000112.html


まずは感想から
 Facebookに投稿した文章の通り、私は法律についても憲法についても、政治などまったく知らない平凡な一市民です。ですから、これまで国が政府がどんどん、私の、私たちのやってほしくないことをやっていくのをただ指をくわえてみていることしかできませんでした。
 せいぜいTwitterで自分の考えをちょっとつぶやいてみたり、そうした内容のツイートをリツイートしてみたりするのが関の山です。やはりTwitterには友人もいますから、そうした人に政治的意見を見られるのが、なんとはなしに歯がゆいというか、にが苦しい思いがどこかにある。日本人は政治の話を日常でできないとは、よく言われることですが、これだけ政治的な局面にきているときに、やはりそれは文化だからとか言っている場合ではなくて、何度も議論していかなければならないのだということにようやく気が付きました。
 私も未だに友人に向かってそういう議論をふきかけようなどとは思いませんし、そうした発言をするために、すこしくうるさがられてはいます。ですが、それでもいい。仕方ないと、踏み切れるようになりました。
 こんな臆病な私ですから、これまでにこうした実行を伴う行為は何も行ってきませんでした。ですから、今回のデモは私にとって人生初のデモでもあったわけです。

 一番最初に感じたことは、何よりもまず「デモって楽しい!」ということでした。
 近現代の文学が専門なので、村上春樹の本などを読んでいると、60年代70年代の学生運動の描写などがあり、一通りそうした知識は得ています。ですから、デモなんていうと、催涙ガスとか、警官隊とのぶつかりあいとか、そういう大変な、とても「楽しい」とはかけ離れた場所でおこなわれている、非日常だと思っていたのです。
 ところが、今回参加してみて、そのような勝手な思い込みから解放されました。そこには、時代的な違いというものがあると思います。ただ、それを論じる前に、ただ単に今どきのデモというのはとても楽しいものなんだ、この感覚を少しでも多くの人に知ってもらい、そして一度デモに参加してもらいたいと、心から思います。

時代的差異
 今回のデモは、60年代70年代の学生運動を間接的に知る私にとっては、かなり異色でした。反原発のデモが行われた時、ひたすらそのデモの仕方が報道されていたのを思い出しました。いまどきのデモは、正当なことを正当な手段で主張するだけ、極めて穏当で、実に正統的、まったく何一つも悪いことをしないというつつましやかさ。私はここに共感を得ます。かつての学生運動には、敵がフェアでないことをしているのだから、こちらもフェアでなくてもいいじゃないかという論理があったと思います。しかし、いまどきのデモはそうではない。相手がフェアでないことをしているのにもかかわらず、こちらはせめてフェアでやりましょうという、こういう実に大人なデモなのですね。そうして考えると、フェアでないかなり暴力的な法律を通すまでのやり方や、既成事実をつくっていこうとする政府のやり方は、実に幼稚で、子供子供しい行為のように思われてきます。
 今回のデモは、学生デモということで、一応若者が中心となるデモでした。しかし、きちんと説明もされましたが、大人も参加可能。けっして学生デモだからといって学生だけと排他的になるのではない。ただ、今回は学生が主役なので、大人の方も参加していただいてよろしいのですが、大人の方は後ろの方でお願いしますというやり方なのです。
 そしてデモ行進のやりかたも実にユニーク。まあ、今から約130年前に幕府ができるとかなんとか騒いでいた時には、自由民権運動だとかなんだとかで、お囃子や演劇を使ってデモのようなことをしていたわけですから、回帰しているといえばそうなのです。今回のデモはいまどきらしい、なんとラップに乗りながら「特定、秘密、保護法、反対」「民主主義ってなんだ、なんだ」とこういうノリだったわけですね。
 ですから、憎しみ敵意むき出しで大声でどなり散らすというようなやり方ではない。実に「ゆとり」的ですね。主催者の1人も皮肉ですが言っていました。「僕たちはゆとりと馬鹿にされているけれども、ゆとりがあるおかげでデモができました」って。おもしろいことを言うものです。私達には精神的にも「ゆとり」があります。大人たちは馬鹿にしますけれどもね。それに対してなにくそと目には目をせず、受け流しているこの「ゆとり」さ、「よゆう」さ。誇らしく思います。
 私たちのデモは怒りに任せたものではなく、音楽にあわせながら、ノリながらのデモ。主催者の人は、これはデモではなくて、イベントだと言っていたのは、言い当て妙だと思いました。

今後の課題
 私たちが何をしなければならないかということについて、私はこう思います。つまり雰囲気づくりなんだということです。
 これは敵、すなわち政府や政府の息のかかったメディアが用いた手法ですが、今度は逆にそれを利用してやりましょう。私たちはなんだか、憲法を改憲するのが当たり前、そうしなければ中国が今にも攻めてきそうだ、そのためには特定秘密保護法を通さなくてはいけない。それから経済発展のためには、原発も再稼働しなければならない、そうでなければとんでもないことが起こる。このように少しずつ少しずつ洗脳されてきています。そうしなければならないと思わせるような雰囲気をつくっているのですね。
 ですから、これからは反対に、実はそれは作り出された幻想で、そうした雰囲気を打破すると同時に、国民が主権であるということや、一政党が勝手に憲法を変えたり、多くの国民がやめてほしいと思っていることをやる権利なんてものはないんだという雰囲気をつくっていかなければならないと思います。
 そうした雰囲気づくりが成功すれば、かならず今の政府は方向をかえざるをえませんし、次の選挙のときに彼らを当選させないようにさせればいいのです。まずは、多くの、選挙に行っていない人達の興味関心を惹き、私たちからしあわせを奪う政権を取らせないという雰囲気を広めることが重要です。

 そして、私から多くのブログの仲間たちに伝えたいことは、そうした雰囲気を広めるのを手伝ってくださいということです。私はできるだけブログの仲間たちのもとを訪問するようにしています。私が訪問するのは、偉そうでなんなんですが、とてもすばらしいと思っているブログばかりです。数行の日記とか、そういうくだらないところには訪問していません。
 私が訪問するブログの皆さんは、実に聡明な方が多く私も毎日勉強の連続です。そして、そのようなよい記事をかける、そもそもものを書ける人というのは、それなりに中身があり、頭も良い人達です。ブロガーの人というのは、基本的に他の人と比べれば頭が良くて、意見も持った人が多いように感じられます。ですから、そうしたブロガーの方には、この問題を実に詳しく考えたり、論じたりしている人もいます。そうした仲間たちとともに、どんどんこうした知識の共有や、危機感だったり、感覚の共有をしていかなければならないと思います。
 私たちがそうした記事を書き続け、ひろめていくことによって、普段ブログをかかないような人達にすこしでも興味、関心を持ってもらうように、危機感を強めていってもらえるようにしていかなければならないと思います。
 私が今回デモに行って感じ、考えたことはこのようなことです。
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