ダン カイリー (著), 小此木 啓吾 (翻訳)『 ピーター・パンシンドローム―なぜ、彼らは大人になれないのか』 (祥伝社、1984) 感想とレビュー

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ピーターパン・シンドロームとは、この本の著者であるダン・カイリー博士が考案した、シンドローム、ひとつの症状である。
この本がかかれたのは、1980年代前半。アメリカでは、このような本をカイリー博士がかかなければならないほど、ピーターパンシンドロームの人間が話題となっていたのであろう。ちょうど十年ほど前に、我が国でもひきこもりなどが問題となったような感じなのではないだろうか。
この本を読むとさまざま、おもしろいことに気が付かされる。アメリカにはひきこもりはいないのだろうか。よくある典型的なネットでゲームをやっているゲーマーというのは、日本人よりもアメリカ人のイメージが強いが、そうした典型的な存在と言うのは、アメリカに多数存在するのであろうか。
先日香山リカと五木寛之氏の対談本である『鬱の力』という本を読んだ。五木寛之は鬱というものを、病気のうつとは切り離して、今現在日本はうつの時代であるというようなことを述べている。私もこの意見には賛成なのであるが、たとえばその本のなかでは、日本でも地域によって人間性が違う、どこどこの地方の人間は「これくってけ、こんなうまいもんほかにはないんだから」と明るくいってのけるのに対して、どこどこの地方の人間は「こんなものしかありませんが」といったように、卑下してものを出す、と。そういう部分から、地方によっても人間性のようなものが変わってくるのではないか、というようなことを述べていた。
私はこれを日本とアメリカにも大きく当てはめることができるのではないかと思う。それは、しばしば我々が外国人と接した時に感じるテンションの高さなどにも表れているのではないだろうか。もちろん、明るくないアメリカ人もいれば、明るい日本人もいることは十分承知である。いまここではそうした個別例はのぞいて、あくまでも全体的な雰囲気論をしているということだ。

ピーターパンシンドロームは、大人になりきれなかった大人の症状だ。私はこれは、日本におけるひきこもりと重ねてかんがえることができるのではないかと思う。つまり、この両者はまったく症状の例では反対の性格をしているのである。ピーターパンシンドロームの人間は、しばしば明るいそうである。何よりっも友人たちとのパーティーなどを愉しみ、人生を謳歌しているようなそぶりをする。すくなくともも外見上はそうするそうである。だが、いざ実際ふたをあけてみると、ひどく責任感がなかったり、自分のガールフレンドに母性を求めたり、しばしば男尊女卑的な言動をしたり、ということだそうだ。私はこれをあかるい引きこもりなのではないかと思う。外見上はむしろ外に向かっていく。そのかわりに、内面できちんと反省することができない。
一方日本のひきこもりは、外には出られないが、そのかわりにいつまでも内側に引きこもってぐじぐじしている。私自身もこのひきこもりの一員なのであるが。そうすると、このアメリカのピーターパンシンドロームと、日本のひきこもりとは、社会化できなかった人間という点では同じで、それが方向として、明るいアメリカではより外のほうに放出していき、鬱の国である日本では内側にはいりこんでいってしまった、ということなのではないか、と思うわけである。

それと、私がこの二つの症状を同じものとして捉えているのには、その発生の原因にある。ピーターパンシンドロームがなぜ発症するのか、というところで、このダン・カイリー博士は次のようなことを述べている。この病気はもっぱら男性に多いのであるが、それはなぜか。当時アメリカ社会ではウーマンリブ、フェミニズムの活動が活発になってきて、女性は、女性らしく家庭的に生きる方法と、男性らしく社会に出て生きる方法の、ふたつの生き方を獲得したというのである。それに対して男性はどうであったか。男性はそれまでに安住していた男性であること、そのことから男性的な女性が現れることによって脅かされるようになった。しかし、女性的な男性ということも許されない中で、男性は一方的に追い込まれていったのである。
これは日本における引きこもりとも構図は同じなのだ。男女雇用機会均等法等が制定されるようになって、女性には家事手伝いとして社会に出ないという選択肢と、働く女というように男性的な生き方もできるようになった。しかし、最近では少しは出てきているとはいえ、まだまだ家庭に入る男性というのは少ないわけである。そのような逃げ場のない中で、なんとか傷つかないように、という男性たちが取った行動がひきこもりだったわけだ。これは多分に私自身にも言えることである。
このような男女不平等な差が、男性を追い込み、アメリカでは無責任男に、日本では引きこもり男児にしたてあげているということができるのではないか、と思う。

この本がしっかりしていると思う点は、たんなる分析などで終わらずに、(しばしば最初はいいものの、だんだん歯切れが悪くなってきて、結局何をいいたかったのか、どうすればいいのかわからない、というような本が日本には多い。論理性の違いか)きちんとした対応策などについても書かれている。
ダン博士は、PPS(ピーターパンシンドローム)であるかどうかのチェックテストなども載せていて、かなり実践的な本になっている。最終章では、PPSの人に対してしてはいけない対応、たとえばヒステリックになって責め立てるなど、と同時に、ではどうすればいいのか、という対応などについて書いている。
だが、そうしたメソッドを使用してもどうしようもならなかった場合は、という最終的な局面においても書かれているところに、私は誠実さを感じるのである。
そもそもこのPPSは、病気ではないというところにダン博士の認識はある。それは非常に重要な認識なのだと思うが、こうした異端的な症状というのは、人々はしばしばそれを病気だ!というレッテルを張ることによって除外し、排除しようとする。そのことによって安定を得ようという気持ちになるのであるが、しかし、それらの症状というのは、もしかしたら変化してきた社会に対しての対応ではないか、と考えることもできるのである。むしろ、あと二十年、三十年にして、そちらのほうがスタンダードになったとしたら、むしろ責任感ある男のほうが、あまりにも生真面目だとして症状となってしまうかもしれないのである。すべては相対的な指標によってしかみることはできない。
ダン博士はもしもこれが改善しないようであれば、PPSのガールフレンドには二つの選択肢があるという。一つは別れること。どうしても改善しないのであれば、あなたが不幸になることはない。分かれてしまったらいいというのだ。もっともである。で、二つ目。これが重要な視点なのであるが、それならばそれで仕方がない、受け入れるほかない、というものなのである。そもそもこれは症状であって病気ではない。直さなくてはいけないものではないので、彼女がPPSの男性の、ウェンディ役、母親役になってしまうのもいいのではないか、というのである。なにも全員がティンカーになる必要はないのである。対等な関係をむすぶ必要はないのである。もし、二人にとって、男性的な男性と女性的な女性という構図が一番安定するのだとしたら、それでもいいではないか、というまっとうな感覚を提示しているのだ。
私はそうした感覚にこそ、重要なものがあると思っている。
もし、詳しくピーターパンシンドロームについて知りたければこの本を、読みやすい翻訳なので、手に取って見ることをおすすめする。

五木寛之・香山リカ『鬱の力』(幻冬舎新書・2008) 感想とレビュー

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もともと鬱気味だったのが、嫌な仕事をしたために、本格的に鬱になってしまい、心療内科で、「抑うつ状態」とまで診断されるようになってしまった。なんとかこの現状を考えるためにも、さまざまな本などを読んで知識を増やしたいと思い、以前購入しておいたこの本を読むこととなった。
この本は五木寛之と香山リカの対談本である。対談本ほど手の抜かれた仕事はないな、こんなことであれば、私だって対談本を出せる、といつも思うのであるが。
しかし、この対談本、もちろん対談本として、そんなに深い話まで深化されていない、こんなのは誰でも言える、ということはさておき、おもしろかったのは確かである。だからこそ、普段対談本を読んでも、そのままである私が、一応はこうしてブログに書いているわけだ。
近年ではずっと鬱の時代だといいつづけている五木寛之氏。彼はそれまでの高度経済成長やバブルなどが躁の時代であり、これからは右肩下がりの時代、鬱の時代なのだから、それにあった生き方を模索しようということを言っている。下山の思想、ともいっている。それに対して、精神科医である香山リカ氏。彼女はどれだけきちんと精神科医をやっているのか私は知らないが、一応は精神科医なのであるから、うつびょうなどの臨床的な知識を持っているはずである。この二人の鬱が、どうクロスオーバーしてくるか、というところが本書の醍醐味なのであろう。それを話題作をつくるのが好きな幻冬舎はやってのけているわけである。

先日私は内田樹と竹宮恵子の対談本を読んだのであるが、これはなかなかひどかった。というのも、ほとんど内田樹がずっとしゃべって、自分の思いつきを述べているだけ、という本だったからである。今回の対談本は、二人ともなかなか話せる人間、同レベルのしゃべりたがる人間だったので、分量的にも互いに同じくらいになるようなバランスはとれていた。その点は一応きちんとした話し合いになっているのかな、とも思わなくもない。
話しは現代のうつ病から始まる。現代では、それまでとは違ってうつ病それ自体が変化してきたというのである。様々な点が指摘できるが、まずはその敷居が低くなってきたというのが挙げられる。かつてはうつ病とだけは診断しないでください、となんとかそれでも仕事に行こうとしていた人たちが、現在ではすぐにうつ病だと診断してください、といって仕事を休む。うつ病と診断できるものもどんどん敷居がひくくなってきている。一応抑うつ状態が二週間続いたらうつ病ということになるのであるが、そんなことをいったら、ほとんどがうつ病になってしまう。そういう問題があるというところから話は始まる。
対談本であるから、ではどうしたらいいのか、といった深い話までは立ち入らない。それを指摘して終わりということなのであるので、こういう本は、その後をきちんと読者が考えていかなければいけないのであろう。

五木寛之の鬱の思想の話もなかなかおもしろい。
例えばこんなものがある。老人ホームにいって、そこで彼等をはげまそうと元気のいいマーチなどを演奏する。すると老人たちがやめてくれという。彼等にはもう元気にやっていこう、というようなことはつらいのである。だから悲しい曲を演奏してくれ、というのだ。そしてそうしてみると、実際うまくいくという話などである。
これは重要な視点で、現在まではみんな元気よく、というような精神状態がスタンダードだったわけである。だが、現在ではすでにそういうわけにはいかなくなってきている。人々のこころのモチベーションのようなものが圧倒的にかつてと比べると下がっているのだ。だから高度経済成長期に生まれ育ち、なんとかやってきた団塊の世代の人々なんかをみていると、どうしてあんなに元気がいいのだろうと、私なんかは不思議に思うのである。
そして私自身この二ヶ月学校というところに出た身としては、どうして他の先生たちはあんなに元気でいられるのだろう、タフでいられるのだろう、と思うわけである。実際二ヶ月でうつになってしまった私にとっては、この社会が異常に見えて仕方がない。社会からしたら私のほうが異端児ということになるのだろうが、私の感覚としては社会全体が狂っているとしか思えないのである。社会のスタイルが、そうとうタフな人間を前提として設定されている。だから、そのような社会においては、子供たちは専ら保護される立場になるし、老人は邪魔な存在になるし、ニートたちはうとまれるのである。だが、諸外国と比べても、朝8時から夜8時まで、12時間ほども拘束されるような仕事の在り方を普通としている社会のほうがよっぽどおかしいのではないか、と思うのである。私なんて、どんなに遅くても2時には仕事は終わっていたのであるが、それでもうつ病になってしまったのである。私にはいわゆる普通の職業はできない。仕事をするというそれ自体があまりにも嫌なことすぎるからである。だから私は貧しいという選択肢を選ぶかわりに、仕事はしない、という選択をすることにした。

どれも深い話にはなっていないが、おもしろい指摘はいくつかあった。例えばこんなものである。
現代はどんどん排除の構造が強くなってきているというのだ。例えば自警団をどんどんつくりましょう、というのがあるそうである。そうやってちょっとでも異端児を見付けると、それを排除しようとする。確かに、現在社会の生き辛さの中に、他の人と違っていてはいけない、といった脅迫的なものがあるように感じられる。それは、この社会全体がそういうものを赦さないような不寛容になってきているから、ということができるようなのである。五木は、それは関東大震災の時に暴走した日本人が韓国人を虐殺した時と同じ構造だと指摘している。
ほかにも、人間がさまざまなパーソナリティーを持つようになってきた、という話もしている。ここは二人の会話はややかみ合っておらず、五木は結局多数の人格を持つのがいいのか、それとも一つの人格であるのがいいのかはっきりとしていない。ただ、かつては一つの人格のほうがいい、と思われていた時代があり、さまざまな人格を持たなければ生きていけない時代になってきている、ということはできるだろう、ということになっている。

結局結論もなにもないただのお話合いの本なのであるが、その問題点などの提起には、いくつか目を見張るものがあり、そこを深めていけばなかなか面白い考察になり得るのではないか、という気がした。

貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、1999) 感想とレビュー

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普段あまりミステリーや推理小説というものは読まないのであるが、今回はたまたま気になっていたので手に取って読んでみた。私も年間百冊以上は読んでいる人間であるが、それでもなかなか読書の世界は奥深くて、まったくしらない世界があまりにも広大にある。そのようななかで、すこしでも自分がいる場所がどんな場所なのか、読書の世界の地図というものを描こうとする。そうすると、これだけは読んでおけ、とか、これはおすすめ、といった本の案内書のようなものをネットなどでみることになる。こうした本との出会いは、そうした場所によって提供されているのではないかと私は思うのだ。こうした本を買う時はとりあえずBookoff等で、目についたかたっぱしからかごに入れていくのであるが、そこでびびっと来ると言うことは、おそらくどこかで一度その本を眼にしているということなのであろう。
私もこの本を購入してからずいぶんたち、どうして自分がこの本を購入したのか理由はわからないが、おそらくそれはどこかで一度目にしていたからなのだと思う。一度も読んだことはないし、知らない本なのだが、なぜかタイトルだけはどこかで聞いたことがある、という体験なのだ。

さて、ミステリや推理小説というのは、感想がじつに書きにくいもののひとつである。
内容に触れるとそれはネタバレになってしまうからである。
ここで筆者は悩まされるのだ。一つには、ネタバレにならないように書くという方法。それは、主にまだ読んだことがない読者にあてて書かれる感想である。またもうひとつの方法は、ネタバレありきで、どんどん深いところまでつっこんで感想を書くという方法である。これは、すでに読んだ人向けの方法である。私はいつも、この二つの方法の間で悩んでしまって身動きがとれなくなってしまう、優柔不断な人間なのである。

できるだけネタバレにならないように、中間をねらって書いてみよう。
この本は実際にとてもおもしろかった。それが、書読の感想である。ふたつの物語が交互に展開される。そしてそれら二つの物語はお互いに影響しあっているように思われるのである。当初私は、あ、これは村上春樹的だなと感じたものである。村上春樹以前からもちろんこうした構図はある。不勉強にも読書経験があまりにも少ないのでどこからそういうテクニックがうまれたのか、ちょっと確かなことは言えないが、別の物語りを意識的に交互に配置するというのは、夏目漱石もちょっとではあるがやっていることだし、漱石がやっているということは、それ以前にイギリス文学では当然あったと考えてよいだろう。
一つは、刑事の物語り。もうひとつは娘と仕事をうしなったうらぶれた人間の物語りなのである。今こうして書いてみたものの、実はこの二つの物語がそういう関係だったのか、と思うと、実に興味深い。両方々といってもいいわけなのである。
私はこの物語を読んだ際に、ナルトを思った。ラーメンにはいっているあのナルトである。この話は円状に回転しているように感じられるのだ。一度最後までいって、そこからまたもどってくる。しかし、またもどってきたその物語は最初の物語りにまっすぐつながるのではなく、そのちょっと上、あるいはちょっと下、を同じようにぐるぐるまわっていく。
この小説は一見すると二つの物語が提示されているのであるが、実はそれらの物語りというのは、ひとつの同じ線上の物語りであり、それを一度解体して再び構成しようとすれば、ナルトのようにうずまきを描いた物語になるのである。

内容として、ふたつの物語りのうちの一つである、完全に茫然自失となってしまった男性の物語り。ここにはだいぶ共感できた。私自身、うつになってしまい、たった二ヶ月で職場を後にせざるをえなかった人間とした、その後の静寂の、まったくなにもやることがない、やる気がおきないという状況を、貫井徳郎はよくとらえて、かけていると思ったものである。
ただ、やはりちょっとご都合主義的なのは、この人物が働かなくてもそれなりにお金のある存在だということである。普通、と呼ばれるような、一般人は、働かなくなったらもっと数か月。それ以上は食っていくことができなくなってしまう。私のようなニートでない限りは。その点で、この人物が誰にも邪魔されない、というのは家族と一緒に住んでいないのにもかかわらず、しかも働いておらず、それでいて自由が効く、というのはちょっと設定として恵まれすぎているなと思わなくもなかった。
もちろん、ミステリや推理小説というものは、そんな一般や普通の人間の普通のできごとを書いているわけではないのだから別にいいといったらいい話なのではあるが、単純にうらやましいということなのだろうか、自由でいいなとは思った。

それに、それまで堅実な人間だったものが突如としてそうした精神世界にのめりこんでいってしまう、というのも、なかなかよくわかるはなしである。そうしたスピリチュアルなものへふとした瞬間人間は傾倒してしまうわけである。そんなことは90年代のオウム事件を考えればすぐにわかる。そうした人間の弱さのようなものが、表面上は強く見えるのではあるが、がよく描けていたと思う。
なによりもその物語の構図がよくできていた、と思う。が、それはそれ以上批評することもできないので、ここらへんで筆をおくとしよう。

重松清『流星ワゴン』(講談社文庫、2002) 感想とレビュー



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今回、重松清を初読書することとなった。『流星ワゴン』は以前からタイトルだけは知っていて、泣ける話であるという情報だけはあったのであるが、実際に読んだことはなかった。
物語りの解説はほぼ斉藤美奈子が要を得た解説をしてしまっているので、いまさら私が書くことはそうないかもしれない。が、斉藤美奈子が女性であり、本質的にはわからないといっているように、私自身は男であり、しかも父親との葛藤をかかえているという身から、この物語を感覚的に理解できるという強みはある。今回はその感覚的な部分をすこし明文化してみることによって、感想とさせていただくことにしよう。
私自身この本をこれから仲の悪い父に読ませるつもりである。私と父はさまざまな問題から、この物語の主人公、雄一とチュウさん、あるいは、雄一と広樹のように仲が悪くなってしまっている。今では一緒の家にすんでいても、夕食時にほんのすこし言葉を交わすだけ、というところにまでなってしまっている。私自身をこのような精神的に追い詰めてどうしようもなくなってしまったのは、すべてがすべてとは言わないが、しかし極めて大きな部分で父の影響であると思っている。それを何度も口にしているが、父自身も、開き直って、ああ、全部俺が悪いんだな、となってしまっている。きちんと反省してもらって、これからの対話をしていくうえでも父にはまだまだ学んでもらわなければならないことが多いと感じている。
斉藤美奈子が引用しているように、この資本主義社会においては、父は会社という公の場に出ることになり、子供との接点が極めて少なくなってしまっているという問題がある。これは社会的な構造の問題で、構造にこそ欠点があるというわけである。私自身も父との接点はすくなかったにもかかわらず、強権的な父によって無理やり中学受験をさせられ、あまつさえ高校三年生になってからも大学受験をさせられるということになった。結果として受験をしたことは私にとってはプラスになった。それはたとえ受験する前よりも偏差値の低い学校になったとしても、私は何も考えずに法学の道にすすもうとしていたのを本当に好きな文学の道に変化させられた、という点においてはそういうことはできる。しかし、やはり結果としてはよかったかもしれないが、それと嫌なことをさせられる、自分のことを勝手に決められたという経験とは別物であり、それは区別して考えなければならないことだと思う。結果としてはよかったかもしれないが、その課程で嫌なことは嫌なことであったわけであるし、それを赦せるかというとそういうわけにはいかないのである。
この物語の雄一も、チュウさんという極めて強権的な人間を父にしてしまったがために、人間として再起不能な場所にまで陥ってしまったと考えることができるだろう。もし、父とのディスコミュニケーションがなければ、きちんとコミュニケーションが取れていれば、父に助言をこうたり、援助をしてもらうなどして、妻の不倫と息子のグレと、リストラという問題からも立ち直れたはずなのである。そのような困難を目の前にした際に、強権的な父によって育てられた人間は押しつぶされてしまう。私自身がダメになってしまったのと同じように、雄一もダメになってしまったのである。

本書のなかで一番いいなと思った言葉に線を引いた。それはこんな部分である。
「現実はね、思いどおりにならないから・・・だから、現実なんですよね」
という部分だ。もちろんこの物語自身は、こんなことをいっていながらも、現実には反映されないとしても、やり直しをする機会がもうけられているのである。もちろんこれは小説なのだから、そんなことまでいちいちずるいといっていたら批評もなにも成り立たなくなってしまうので、それは認めたうえで話をすすめることになるが、小説内でそのように言及されながらも、そして現実には反映されないという条件付きではあるが、やり直す機会を与えられるのである。やはりそれは、誰もが夢見ていることなのであり、それを仮構のなかで示すのには意味があると私は思う。それこそ小説の役目であるのではないだろうか。
だからこそ、この小説は、現実には起こり得ない、とみんながそう思っているにもかかわらず、でも、そうであったらな、そんな機会があったらな、と誰もが思っていることを描いたからこそ、名作の仲間入りを果たしたのではないだろうか。とすればである。この社会構造的に父と子というのは分断されてしまったのであるが、それこそをもう一度見直す必要があるのではないだろうか、という問題性が浮かび上がってくる。私のような反資本主義人間は、すぐにヨーロッパの諸外国のように、一日の労働時間を6時間くらいに減らしてもっと家族といる時間を増やすようにすればいい、というような安易な解決方法を提出するわけであるが、みなさんはどうお考えになるだろうか。
ともかくも、この物語がこれだけ読まれるということは、父と子の問題が社会全体のテーマであり、なんとかそのディスコミュニケーションからのコミュニケーションを取り戻したい、というみんなの希望がそこにあるように感じられるのである。

「親子って、なんで同い歳になれないんだろうね」
これもまた心に響いた一文である。私ももし、自分の父親と同じ歳で会うことができたのならば、友達になれていたかもしれない。親子になってしまったがために、このような不仲になってしまった。本当は不仲になんかなりたくない、できることであれば分かり合いたい、そう思っているのにもかかわらず、男は不器用なもので、そしてへんな意地やプライドがあるために、うまくいかないのである。
物語りとして女性の視点が圧倒的に欠けている、と著者自身も斉藤美奈子も言っている。私も確かにそう思うが、敢えてそれを排除することによってテーマが明確になっているという斉藤美奈子の指摘も正しい。私はこれはこれで十分に完成された作品であり、訴えるところの明確な大衆小説にもかかわらず、きちんと批評にもたえられるだけの力を持った作品であると思われるのである。

野村総一郎『「心の悩み」の精神医学』(PHP新書、1998) 感想とレビュー

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新書を読み始めてから何年にもなる。一体いままでにどれだけの親書を読んできただろうか。二百冊、いや三百冊くらいだろうか。おそらくそのくらいは読んできたと思われる。
そんななか、今回は野村総一郎の新書を読んでみた。自分がうつになってしまい、まったくなにもやる気が起きないということもあって、最近はそうした心理学系の本を読んでみようという気持ちが高まっている。この本の前に読んだ岩井寛の『森田療法』はかなり古い本だったが有用な本であったし、香山リカと五木寛之の『鬱の力』は話がかみあっていないことがしばしばだったが、それでもおもしろく読ませていただいた。その中でもこの本はとてもおもしろく、すばらしい本だったと思う。いつも五段階評価を新書にはつけているが、評価は4,5点である。十段階にすれば9点というところか。

この本の内容は、それぞれの章ごとに、それぞれ異なった精神病を発症している患者が登場し、それらの人をどのようにして回復へと導いていったのかということが、物語調で語られる。それがなかなかおもしろい物語となっていて、それぞれは短いが、いずれも、その短い間でこちらもふっとこころが軽くなるような、治療を疑似体験することができるようになっているのである。
それぞれ、パニック障害、うつ病患者、体調の不調を訴える患者、PTSDの患者、過食病の患者、やる気をなくした患者、なんとも名前のつけられない症状の患者、定年退職者のうつ、といったところである。
私の場合は、仕事ということそのものが嫌で嫌で仕方なく、うつ病になってしまったので、二章のうつ病患者のところが良く当てはまった。しかし、それだけでなく、そもそも私はうつ病になる以前からひどい無気力症候群だったのである。それを説明してくれたのが、六章の「偉大な父の息子」という章立てであった。ここではかなり有名な人間を父ともってしまったがために、まったくやる気をなくしてしまった息子の話が乗っていた。まさしく私と同じであり、これを早くも父に見せることによって、なんとかあなたが私をこうしたのだ、ということをわかってもらいたいな、と思う次第である。
あるいは、父にも読んでもらおうと思っているのだが、父にとっては定年退職を先月したばかりなので、今後のことも含めて、八章の定年退職をした人の章が役立つかもしれない。そういう意味で、野村先生にはずいぶん頭のさがる思いがする。こうしたケーススタディーと言うのは十分に役立つものなのだなと思われる次第である。しかも、野村先生文章力というか、物語り作りがうまくて、とてもおもしろく読めるのである。大体こうした本は理論だのなんだの、小難しく書いてあって、実につまらないというのが現状である。そんななか、この本は非常におもしろく、ぱっと読めてしまった。その点で、この本は誰におすすめしても問題の無い本として、私が自信をもって推薦できる本のひとつに加えておこう。

個人的に気になった章があった。それは、七章の「境目にいる人達」という不思議なタイトルの章である。この章に登場する女性。初めて野村先生が最終的にうまく治療できなかった患者としても登場する。しかし、それ以上に私が興味をひいたのが、その症状だ。
一応名づけとしては「精神病とノイローゼの境目にある病気」という意味でボーダーラインといってはいるが、これは当然ながら正式な名称ではない。私も野村先生のように上手く説明できればいいのだが、うまく物語を書けない私はどうやって説明してよいのやら。ともかく感情の起伏があまりにも激しすぎるのである。初対面でいきなり、「あなたはすばらしい先生です」といったかと思うと、二回目に会った時には態度が急変し、「あなたの言葉のせいでこんなにも傷つきました」と言う。それ以降は、言葉じりを捉えて、「あなたはまたそんなことばで私を傷つける」とか、たった一言を無理やり解釈して「あなたは私に仕事をするなといっているんですか、死ねといっているんですね」といったりするのである。
この症状、なぜ私が注目をしたかというと、こんな感じの人を何回か見たことがあるからである。この患者、結局二年の付き合いで野村先生は治療することができなかったと言っていた。おそらくこうした人は、たんなる病気ということを越えて、もっとなにか生まれ持っているものがあるのではないか、と思わずにはいられない。とすれば、治療は不可能なのではないか、完治は無理だろうと思えてしまうのである。そうすると、私があった二人のボーダーラインの人達も、これからも周囲をずっと巻き込んで生きていくのだな、周りの人が大変だな、と思わずにはいられない。

この本では、実戦的な治療の話が聞けるので、そのテクニカルな部分も、ほんのわずかではあるが、知ることができる。これはすばらしいと思った部分を囲繞しておく。
「このコトバは考えてみると、相手の言うことを肯定も否定もしていない。しかし相手の気持ちは認めたのである(少し話が横道にそれるが、だいたい精神科医が診察室で発する言葉にはこの手のものが多い。患者の言うことを現実レベルで否定すると拒絶されあっと受け止められるし、肯定すると相手に巻き込まれることになる。とにかく患者がつきあってくれなければ成り立たない商売であるだけに、相手の感情を受け止めることを武器にするしかないのである。その点、精神科医というのは人間好きでなければできない仕事であることは確かであろう)。」
相手の言葉を肯定も否定もしない。それはできることなのである。こうした技術論は非常に重要で、私達が生きていくうえでも利用できるすばらしいテクニックだと思う。

精神科医の役割を端的にあらわした部分を引用して筆をおくことにしたい。
「心の悩みという深遠な課題は精神科医の手に余る部分もどうしたって残る。その場合には精神科医は解決ではなく、ケアーとかサポートといった役割を担うことになろう。それを含めてお役にたてれば、これ生きがいなのである。」
精神科医がどのような立場にあるのかということを明確に示した部分だと思う。私も、精神科医の先生たちにカウンセリングをしてもらっているが、どこかで解決してくれるのではないか、だが、この人達に解決できるわけはない、と思っていたのも事実である。実際には先生方はサポーターなのであって、その問題はやはり本人の問題なのである。
私の問題は、やはり仕事は嫌なのだから、しないで生きていくという方法を見付けていくしかないような気がするのである。
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