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『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 4

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-なぜ世界の住人は全く行動しようとしないのか-
 世界の危機だというのにも拘わらず、一体その世界に存在する人間は町の同じ場所にいて、主人公が話しかければ同じことを繰り返して喋って、同じ動作を繰り返しているだけという、冷静に考えれば極めてそっちのほうが恐ろしい世界ですが、主人公以外誰も何もしようとしないのかということが、RPGゲームの本質的にはらんだ問題だと言えるでしょう。当然誰か他の主人公がいて、私たちがプレイしなくてもだれか他の人間が魔王を倒してくれるということでは、ゲーム自体が成り立ちませんからある程度は仕方のないことです。しかし、全部が全部主人公任せではあまりにも迫真性に欠けるということになります。
 ドラクエⅦはそうした部分をある点で克服した作品と言えるでしょう。それは、なんども短期間に仲間になる人間の存在です。ドラクエⅦは今まで他の人物は一体なにをしているのかというリアリティーの問題を解消するために、多くの人物が途中で仲間になるシステムになっています。彼らには彼らの生活があるわけですが、彼らの生活も脅かされている状況下において、主人公たちの目的と、彼らの目的が重なる場面がある。そこで、ある町の兵士だったり、きこりだったり、神官だったりが、ともに戦うという選択をするわけです。そうするとプレイヤーとしては、ああ、この人たちにも魔王に対して何かしら対抗する力を少なくとも有しているのだなと感じることが出来るのです。

 ドラクエ史上かなりシビアな状況が展開された作品で最も浮いた存在は、なによりも神様の存在でしょう。あれならまだオルゴデミーラが化けていた神様の方がいいよと私は思いましたが、あのとぼけたおじいさんの神様には、あまりにも威厳が欠けています。しかも、あれから鍛えたからなとか言っておいて、じゃあなぜ魔王を倒しに行かない、とつっこみたくなるところ満載です。唯一なぜ倒しにいかないというこちら側のつっこみを見事に跳ね返したのが、Ⅵのダークドレアムの存在です。明らかに強いのだからお前が何故魔王とかほざいているやつを倒さないという突っ込みを見事にひるがえしました。ダークドレアムは自らデスタムーアを倒しに行きます。
 神様が一体何をしたかったのかよくわかりませんが、人間は無限の可能性を秘めているとか、わかりきったことを述べて終わりです。全知全能の神様が本当に善なる存在なのかというのは極めてグレーゾンーンに近い状態にあると思えます。

-Ⅶのダメ出し-
 リメイク版ということもあり、ドラゴンクエストが迷走していることは、Ⅹのオンラインチャットの導入から騒がれていたことですが、特にⅨⅩは酷いと私は思います。Ⅸでは、ドラクエ初のポータブル機器進出ということで、すれちがい通信なるものによって、洞窟の地図を交換するということをやってみたはいいものの、数十階もある洞窟に辟易したことすさまじかった思い出があります。
 今回のⅦも、すれ違いを導入して石版の交換というものをやっていますが、それが別段楽しいわけでもなく、ゲームの世界観の崩壊を招く一つの要因となっています。特にゴールデンスライムとプラチナキングの世界観崩壊率ははんぱではなく、一体3000ゴールドのゴールデンスライムがかなり簡単に倒せることによって、銀行に行かなければすぐに手持ち金が満帆になるという大盤振る舞い振り。プラチナキングもひつじかぞえの歌で簡単に眠るうえに、ほとんど逃げ出さない。もはやメタルキングの方が倒しにくいほど。しかも、それだけが登場するような洞窟を石版でつくることができるのですから、ほとんどの人間が数時間やればレベル99というつまらなさが今回のなによりの欠点でしょう。石版も次のものがどこにあるのかということが簡単にわかるようになっていて、自由度の観点からみたら、非常につまらない。ドラクエⅥがやはりおもしかったのは自由度の高さです。ドラクエⅤの自由度が少なかったとしても面白かったのは、ストーリーが重厚だったからです。ドラクエⅦはストーリーもいまいち判然とせず、自由度も低い。ゲーム崩壊するモンスターが登場するし、なによりもすれ違いということが諸悪の根源になっていると私は思います。
 ゲームプレイヤーが一体何を求めているのか。少なくともドラゴンクエストに対しては、一人で楽しむものですから、通信面ではあまり求めていません。特にⅨの相手のところへいって戦うというわけのわからないシステムには度胆を抜かれましたが、終わった話はいいでしょう。

-終わりに-
 総括として、一体ドラゴンクエストⅦとはなんだったのかということをまとめます。見ての通り、ドラゴンクエストの主人公は、今までは筋肉強靭のごつごつした人間たちです。当然そうでなければモンスターと戦えるとはとても思えません。しかし、このドラゴンクエストⅦは、モンスターズの系譜を感じさせるように、主人公は子供です。16歳という設定だそうですが、どうもそれより小さく見えます。
 わけのわからない石版というものを探し集めて、過去にまでタイムスリップして現在を変えていく。途中で消えていく友人の存在感。
 ショートストーリーの集大ということだとすると、小説形式で言えばショートショートの寄せ集めがひとつの大きな作品になっていると考えることが出来るでしょう。Ⅳは群像劇。Ⅴは親子三代にわたる物語。Ⅵは4つの世界を巡る大横断。Ⅶはショートショートと考えることが出来ます。ただやはり、私が述べているのは、SFですら時間を扱うと痛い目にあうからできるだけよしておけばいいと思われるタイムスリップを導入したことが問題の一つでしょう。
 ドラクエの中でも異端となった作品。Ⅷが集大成だとすると、ⅨⅩは迷走を極めています。これからのドラクエシリーズがどのように展開するのかを考えて行くことが、ロールプレイングゲームをする現代の人間をも映し出す鏡になると思います。
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『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 3

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-キーファ=オルゴデミーラ説を考える-
 キーファの存在は、ドラクエ史上最大の問題です。パッケージにも描かれる人間がまさか途中で離脱するとはだれも考えないからです。プレステの時代は種泥棒と呼ばれていたそうな。命の木の実などの、限界値の上限を上げる使うとなくなる道具を多くのプレーヤーがキーファに使用したのでしょう。幸い私の場合は、種は記念として全部とっておく人間なので使わなかったので、離脱には驚きましたが、種に関しては大丈夫です。
 キーファは、まさしくドラクエの主人公が負うであろう条件を悉く有しています。王族の出、好奇心が旺盛、冒険が大好き、さらにはキーファはドラクエⅡの主人公である王子と同じく、完全なる戦士タイプだったのです。MPが0ですが、強力な攻撃力と豊かな攻撃力、守備力を有するタイプ。そのキーファが離脱とはやはり、あらゆる面から考えても納得できません。しかも、その後のグランエスタードでの父の王や、妹のイネスの言動は、何時までもキーファにこだわっていて、いつか別の大地を復活させるために戻った過去で、年月を経てでもキーファが再び仲間になるのではないかという可能性があるとしか考えられません。しかし、実際は最後まで出てこないのです。
 ここまできて、キーファの存在性の理由が一体なんだったのかという大問題に発展します。あれだけひきずっておいて一度も出てこないキーファ。このキーファの存在性を考えた際に登場してくるのが、ネット上で話題になっている、キーファ=オルゴ・デミーラ説です。こうしたゲームの解釈というのは、学問的にはまだ確立さえた分野ではありませんから、ゲームを解釈した文章というのは出版社から出ているものはほぼありません。やはり、私はそうしたいまだ光をあてられていない分野の解釈についても論じたいと思っています。

 キーファがオルゴデミーラではないかという説は、いくつもありますので、別段盗用ということではなくて、参考文献たるサイトも多くありますので一つにしぼって載せるということもせず述べます。ドラクエ初心者には新鮮な説ですが、わりとやりこんでいる人間には開かれた説です。
 第一にキーファが人間形態であるオルゴデミーラと酷似しているということが指摘されています。確かに赤い服を着て、割とどちらも美形の感じがするキャラクター。キーファが主人公たちと冒険していたのが18歳のときですが、そのまま30代40代まで年を取らせたらなりそうな感じがします。
 それ以外には確たる根拠はありません。この説が正しいとすると、ではなぜキーファが人間を恨み、魔王にまでなったのかという理由が不明確です。勿論予想することはできます。例えばユバールの民が、キーファが守りびととなったあとで何者かによって襲撃され(相手が人間だとなお論が通る)、ライラを守れずに殺されるなりしたこと。その結果、もっと自分に力があれば、という思いと人間への恨みがまざって魔物と化し、力を求めた結果、神と拮抗するまでの力を得るとかです。そうすれば、エスタード島のみが世界に残された理由は、自分の出身地だったため思い入れがあって消せなかったか、あるいはエスタード島を封印してしまうと、自分が消えることになって、タイムパラドクスが起きるのでできなかったというような理由が考えられます。
 キーファとライラの邂逅により奏者であるジャンはユバールの民を去ります。そうして、ジャンが再び主人公たちと会うのは、ジャンが老人になった状態の時です。このジャンが老人の時に魔物たちの活躍がピークに達するときです。すなわち、ジャンが若かった時代、キーファとライラがであった時代は、魔物たちはあまり活躍していなかった。神と魔王との決戦は、ジャンが老人の時に近いですから、まだジャンが若かった時にはそんなに問題になっていなかった、あるいは魔王がまだ誕生していなかったと考えられます。
 もし、ジャンがユバールを出てから例えばの話でライラを守れなかった→もっと力あれば+人間憎い→魔王だとすると、時間軸的にも論が通ります。
 思えばキーファと別れた後にすぐに書かれたであろう石版が、エンディングで登場しますが、この文面がなんともチープです。これだけ多くの人間が制作にかかわっているのですから、もっと何かしら名分を思いついたはずでしょう。しかし、もしキーファ=デミーラ説を考えると、オルゴデミーラを倒した後に「何があってもずっと友達だよな」というあまりにも当たり前のセリフが、当たり前でなくなってくるのです。かつての親友が、魔王と勇者という戦わなければいけない立場になり、そうして魔王を滅ぼした直後に、キーファが友情をおもって書いた石版が見つかるという構図は、魔王を倒すことが本当に善なる行為なのかという一元的な価値観をも揺さぶる可能性を有してきます。

 しかし、これらはあくまで推測の域を出ません。なぜなら決定的な証拠が欠けるからです。もし、キーファ=オルゴデミーラという構図を明確にしてしまったらどうなるのか。多くのドラクエファンは、そうしたら普及の名作となるだろうと言っていますが、それだけの悲劇をつくってしまうと、ドラゴンクエストというシリーズもののゲームの世界観自体を崩壊させかねないことになります。私が考えているのは、キーファ=オルゴデミーラ挫折説です。これも別段新しい意見ではありませんが、やはりキーファ=オルゴデミーラで行くとあまりにも悲劇性が過ぎるということで、そのラインで進めていたものを急遽なかった方向、あるいは極端に隠すことになってしまったというのが現状だろうと私は考えています。
 魔王を倒したけれども、実はかつての親友で、しかも最後にその親友が友情をおもって書いたものが発見されるという構図では、あまりにバッドエンディングすぎることになってしまいます。今まで暗黙の条件で約束されていた、魔王=悪、神=善という構図を揺るがすことになります。ドラゴンクエストというのは、ドラゴン=魔物=悪であるからこそ、そのドラゴンと戦って討伐しなければいけないという理由ができるのです。ドラゴン=魔物=もしかしたらかつての親友では、それを倒すことが善ではなくなってしまいます。そうした暗黙の価値観を揺るがすことは、まだ2000年発売当時ではできなかったのだろうと私は思います。『まどか☆マギカ』が今まで信じられていた価値観を徹底的に破壊することに成功したのが10年代ですから、私はドラゴンクエストⅦは発売が10年早かったため挫折せざるを得なかった作品だと思います。

-魔王の存在とは一体なんなのか-
 思えば、魔王という存在は一体なんなのかという根源的な問題になります。ドラゴンクエストのⅠⅡはドラゴンや悪霊といった明確なる悪が存在していました。しかし、これらのラスボスたる存在は竜王であっても魔王ではなく、大神官ハーゴンや破壊神シドーであって魔王ではなかったのです。魔王が登場するのは、Ⅲから。魔王バラモスは実は裏で大魔王ゾーマに操られていただけの魔物のような存在であったことがわかります。では、大魔王ゾーマや、天空シリーズに登場してくる魔王とはなんだったのでしょうか。
 エスターク、デスピサロ、ミルドラース、デスタムーア、オルゴデミーラ名だたる魔王たちです。魔王というポジションは人間に対する神のように、魔物の最も頂点に君臨する存在と考えてよいのでしょうか。すると魔物とはそもそもなんなのかということも考える必要があります。
 魔物は概念としては、何か悪そうなものというイメージがあります。例えばドラキュラなどのように、西洋の神に対する悪魔的な存在としての認識もできます。ドラゴンクエストの魔物をみてみると、タチトルのドラゴンはそのまま西洋の伝説に登場する竜です。他にもいろいろなモンスターが登場しますが、どれもそこまで極悪な存在とはどうしても認識できない。スライムなんて倒すのが本当はかわいそうなくらいかわいいマスコットキャラクターではないですか。ドラゴンクエストのモンスターは、おそらく二つのルートからなると私は思います。スライムはおそらくドラクエ世界での、一般的な動物というような認識でよいのではないでしょうか。ドラクエにも一応猫や犬が登場しますが、例えばそうした動物に何か悪い影響があると、モンスターになると考えられると思います。中には物質に魂がやどったかのような、人食い箱やツボック、エビルバイブルなどの存在もあれば、一般的な動物から魔物になったと考えられるものがあります。それからどんどん進化していったなれの果てが、例えば高度な知能を持っているであろうヘルバトラーなんかになっているのではないでしょうか。
 しかし、説明できないのは、そうした動物、物体から登場したモンスターが本当に魔王になったのかということです。ヘルバトラーのような存在であっても、いくら頑張っても魔王になるとはどうしても考えられません。モンスターになるルートは一つはものや動物だとします。私は実はもう一つあるのではないかと考えています。くさった死体や、ナイトリッチなどの存在は、どう考えても人間のなれの果てとしか考えられません。今回のⅦでは、マチルダが実は魔物になってしまっていたということが判明します。ドラクエでは人間が魔物になってしまうということが、しばしばあるのです。エスタークとデスピサロは、進化の秘宝を使用したなれの果てでしょう。あれもおそらくはかなりの武芸者であった人間なのだろうと思います。ミルドラースの存在は謎ですが、第一形態は人間のようでもあります。ミルドラース自身は別として、Ⅴは、ゲマやイブールなど人間らしいボスが多く登場する作品でもあります。Ⅴだけは小説版を読んだことがあるのですが、そこではイブールはマーサと同じエルヘブンの人間だったということが記されていたと記憶しています。デスタムーアもおじいさんの姿をしていますから、もともとは人間だったのでしょう。そうして、オルゴデミーラもまた、人間だったのかもしれません。

 なぜ魔王になるのか。これは永遠の謎ですが、もし究極的な力を得られる世界があったのだとしたら、その世界のなかでは努力してしまう存在が登場してもおかしくはないということなのでしょうか。残念ながら人間が有している能力は非常に少ないですから、現実世界では誰が一人が圧倒的な力をもったりすることは、なかなかありません。どんなに強靭な肉体を鍛えたとしても、武器がありますから、その人物が中心となって何かやるということはないでしょう。ただ、力ある世界では、どうしても究極的な力を身に着けた存在が悪となって登場します。スター・ウォーズの皇帝や、ハリーポッターの闇の帝王。どうもへんなところで努力をする人間がいるようです。彼らは一体なにがしたいのか。おそらくは自分が一番頂点にいるヒエラルキーを作りたいということなのだろうと思います。
 そうすると、ドラゴンクエストに登場する数々の魔王は、世界で一番強い力の持ち主となって、全世界を自分の手中に入れたいということになるでしょう。
 ドラクエⅦのオルゴデミーラは、大地を切り離して封印することによって、人々を絶望に陥れていました。中にはマチルダのように魔物に心を売って人間ならざる力を得る代償に身体を魔物にしてしまったという存在も出てきます。オルゴデミーラはどうやら人々の絶望を糧に生きていた節がありますから、象徴的に、人間のこころの負の側面というのは、魔物なのではないかということが考えられます。魔物というのは、実は人間の負の面のなれの果てなのではないかということです。身を落とした人間が直接魔物になるというわかりやすいものがある一方、人間の負の感情全体が集まることによって、魔王を作り出していたということが言えるかもしれません。今回の作品はとかくドラクエ史上最も暗いストーリーの多い作品ですから、人間のこころの闇が、実は魔物を作り出してたということになるかもしれません。

『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 2

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-物語のおおすじ・タイムパラドクスの物語-
 神様と魔王オルゴデミーラの最終決戦の前の時間に舞い戻って、封印された大地で魔物を倒すことによって未来を変え、大地を封印から解放するということをしていきます。エスタード島の人間が復活した島の存在に対して、主人公たちと同じ記憶しか保有していないのに対して、復活した側は、前からエスタード島のことを知っているという、記憶の非対称性があり、その部分の説明がもう少し必要だったと思いました。
 過去の時間では、オルゴデミーラがそれぞれの大地を切り離して封印することによって、そこに住んでいる人々を絶望に陥れ、その負の感情を自分のエネルギーとして神様との戦いに備えたと考えられます。神様は恐らく過去の時間軸においては敗れたのでしょうが、一つの希望を残すことによって、未来を変化させようとします。主人公たちは神様が残した希望ということになるでしょう。その主人公たちが過去を変えることによって、現在をも変えていくという構図です。
 封印されてしまったそれぞれの地域を、そこに赴いて魔物たちの手から解放することによって、未来を変えて現実世界で復活させます。神と魔王の決戦は、おそらくほとんどの島が封印された時点での戦いだったのでしょうが、その決戦より前に主人公たちがもどって、解放をしていることから、神と魔王の決戦時には、封印したはずの大地が解放された状況で決戦を迎えたということになると思います。人々の絶望からエネルギーをもらっていたと思われる魔王は、当然封印した大地が解放されていれば、そこから得られるエネルギーを吸収できないはずですから、弱体化し、神を滅ぼすことができなくなるということになります。時間軸の問題を入れると非常にややこしくなりますし、論理的にできないことになっていますから、やっぱりどこか矛盾が生じますね。まあ、別の時間軸に移動したと考えればなんとかなります。

最後の大地を復活させる時点では、神と魔王の決戦の直後であることが示唆されています。神を完全には滅ぼせなかったものの、なんとか勝利を得られたオルゴデミーラは力を使い果たし、かなり弱った状態で自分の居城に舞い戻ります。そこに未来からやってきた主人公たちが丁度その弱り目に祟り目のごとく来訪し、弱っている魔王にとどめをさすことによって、物語は終わったかに思えます。
ところがどっこい、その後に復活させた神様が、実は魔王との決戦で敗れた神様ではなくて、オルゴデミーラだったということになります。一体オルゴデミーラがどこで何をしたためにこうしたことが出来たのかはまったく不明ですが、倒したはずのオルゴデミーラが実は神様の姿をして復活していたということになります。
本物の神様が敗北するまえに残した精霊たちの復活によって、魔王が化けていた神様は正体が暴かれます。神様の姿で偽って人心を惑わしていた間に養生したのか、だいぶパワーアップしたオルゴデミーラ。物語はそのデミーラの現実の世界での居城に侵入し、討伐するということで終わります。

-なぜ人はRPGのゲームをするのか-
 この年にもなると、今までただの娯楽でやってきたRPGのゲームがふと、どうしてそうなるのだろうかという研究の対象になります。それが年を取ったということなのでしょうか。久しぶりにゲームをやって、そこまで熱中することにならなかったので、少し感慨深い思いを抱いています。
 RPGというのはもちろんロールプレイングゲーム(role-playing game)の略称です。ウィキペディアには-参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。-と定義づけられています。
 人が何故ゲームをやるのかということを考えたとき、私は「疑似体験」が最も大きな原因だろうと思います。例えば、あらゆる特技を使ってモンスターと戦ったり、あるいは人間と戦ったりする。こうしたことは現実ではできないことです。そうした現実ではできないことをゲームという媒体によって、主人公という自分がコントロールできる存在を通じて疑似体験する、これがゲームをやる最も根源的な理由ではないかと思います。
 疑似体験というのは、まさしく文学そのものです。文学というものは一体どこから文学なのかというのは、文学史の研究分野ですが、神話からが文学だと大体考えられています。日本では古事記が一応文学のはじまりのように考えられています。こうした神話というのは、どうして生まれたのか。これもまた疑似体験だと私は思います。
 こうした神話が何故必要だったのかというと、そこに登場する主人公たる神的な存在が、様々な苦難や困難を通じて成長し、時には克服し、あるいは死ぬということもあります。神話の中で登場する主人公たちに多いのが、どこかを旅して苦難を克服するという話型です。これを民俗学者の折口信夫が彼が造った「貴種流離譚」という概念によって紹介しています。

貴種流離譚とは、折口信夫の造語で古伝承や物語等の発想の一類型。若い神や男女主人公が何かの事情で所属する社会を離れ、異郷に流離し、多くの艱難を経験した後に、尊い地位に到達する。または悲惨な死に逢うもののやがては神にまつられる場合もあった。このような類型は世界的に偏在するが、日本の古来の文学の趣向・筋立ての基本的な話形として一つの伝統を形成している。以下略  
【参考文献】折口信夫「日本文学の発生序説」(折口信夫全集7 昭和30年)

 この貴種流離譚という話型、お話のパターンというものは、最も根源的な神話から、現代の小説、映画、アニメ、マンガ、ゲームなどに多く影響を与えています。この話型を知っておくとそれだけで多くの発見があります。例えば現在公開している『ベルセルク』もまたこの話型です。柔道を描いた漫画『姿三四郎』もまた、この話型で読み解くことができます。RPGのゲームは多くのこの貴種流離譚の物語で読み解けるのです。
 人間は本質的にこの貴種流離譚の物語が好きなようです。神話に登場するぐらいですからね。このもともと高貴な身分、あるいは何か特別な出生をした人間が、彼らの属するコミュニティーから離れ、あるいは追放され、様々な土地を旅、流離することで、多くの苦難とぶつかり、立ち向かい、克服し、時には死をもって物語を終えるという話の形は、人間が好むようです。文学は疑似体験です。詰まる所、こうした一人のヒーローが背負いきれない運命を負い、それに立ち向かうという話を読む、または聞くことによって擬似体験していたということなのでしょう。その疑似体験を通じて何を得るか、最も大きいところはそれによって、自分の人生では経験できないことを体験することによって、ストレスの発散をしていたのだろうと思います。古くから社会はありましたから、そこから抜け出すことは通常できない。今のように便利な時代ではないですから、社会から出ていく、追放されることは、一人で生きることを意味します。自然の中で生きることはできませんから、それはすなわたち死です。ただ、やはり昔の人間もストレスは当然あったはずです。どんなストレスかはわかりませんが、娯楽施設もありませんから、発散する場所がない。だから、自分たちができないことをするヒーローをお話としてつくることによって、そこに感情を移入し、それを読むことによって自分ができないことを疑似体験し、ストレスを発散したということなのだと思います。
 もちろんストレスの発散という言葉のなかには、感動した、怒った、悲しかったというような感情の悲喜こもごもがあるでしょう。それを総括してストレスの発散とここでは便宜上述べておきます。

-貴種流離譚の物語としてのドラゴンクエスト・隠された『レ・ミゼラブル』の文学性-
 ドラゴンクエストはまさしくこの貴種流離譚の典型的な例です。Ⅶも、謎の出生が関わってきます。大海賊シャークアイと同様水の精霊と何かしらの関係があることが示唆されています。四つの精霊の血なり力なりを分けているであろう一族の出なのです。シャークアイの妻であるアニエスは、自分の夫が魔王と戦って封印されたことに対して、自分の子供を未来に贈って父親と再会できるようにしたことと、自分の身も人魚になりながら長い年月夫の封印が解かれるのを待つために海底王に援助されます。シャークアイは、本当の主人公の父親ということになるでしょう。そうした特別な生まれ、運命を持った存在が、仲間とともにそのコミュニティ、楽園と呼ばれたエスタード島から離れることによって、世界を救い、魔の根源であるオルゴデミーラとの戦いに挑むということになります。
 本来であれば、このようなわかりにくい出生の人間よりも、王族であるキーファの方が貴種流離譚としては話が締まります。Ⅰの主人公は出生が謎ですが、Ⅱでは、まぎれもなくかつての伝説であるⅠの主人公の血筋の人間、しかも王族です。Ⅲは知りません。Ⅳは例外的に群像劇ですので、貴種流離譚の話型は薄いです。Ⅴは典型例。パパスという王と、不思議な力を持つマーサによって生まれた主人公は、王族の出身です。ほとんどが王族と何かしらの関係があるのです。それは、王族への憧れとも考えることができますし、そうした高貴な身分の人間が、自分たちの階級におりてきて、そこで苦労をするという共感性を求めているとも考えられます。
 また、一つ指摘しておきたいのが、今映画が大ヒットしている『レ・ミゼラブル』も貴種流離譚の話型に似ていますが、ドラクエⅦはこの『レ・ミゼラブル』の文学性をも反映していると私は思います。ビクトル・ユゴーの大著作『レ・ミゼラブル』は、その後の文学に大きな影響を与えています。主人公たるジャン・バルジャンではなくて、脇役ながらガブローシュというテナルディエ夫妻の子供がいるのですが、この子供は小生意気で、元気いっぱいで、やんちゃな人物として造形されています。この小説が大ヒットしてから、ガブローシュという登場人物は、主人公のジャン・バルジャン以上に、物語の典型的な登場人物としての立場を獲得しました。ガブローシュというユゴーの創造の人物は、文学辞典に乗るほどです。主人公の仲間となるガボは、いつもなにかを食べているような、野性的で元気いっぱいの存在として登場します。ガボという名前がまずガブローシュに似ていますし、その性格や小さい子供であるということも鑑みると、『レ・ミゼラブル』から発展した典型的な登場人物であるガブローシュの性格がガボには受け継がれているのではないでしょうか。また、所属するユバールの民から半ば追放されたような演奏者であるジャンも、名前が名前だけに、どこかやはり『レ・ミゼラブル』と関連があるように思えてなりません。これを言っているのは恐らく私だけではないでしょうか。みなさんのご賢察をお願いします。

『ドラゴンクエストⅦ エデンの戦士たち』を文学理論を駆使して考察する 1

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-初めに-
 先日、2月7日に発売された3DS版のドラクエⅦを購入し、裏ボスまで攻略して大体やりこんだと思ったので、その覚え書きとしてこれを記します。一般的に言われているのは、まず大別してドラクエ派とFF派というわかりやすい構図でしょう。面白いのが、大体ドラクエ派というのは、FFをやったことが無いのでドラクエ派で、FF派というのはドラクエもやったことがあるけどFFの方がより好きというグループが多いことです。これはあくまで私の身近な人間を見ていて感じたことですから、もちろん何の根拠もありませんけれども。
 かくいう私も典型的なドラクエ派の人間です。FFはPSPで出た零式とDS版のⅣしかやったことがありません。それに対して、モンスターシリーズと名作と呼ばれるⅢを除いてほとんどドラクエはやっています。なぜⅢをやっていないのかというと、DSでリメイクされていないから出来ないというのが現状です。
 最近ではテイルズシリーズもかなりの人気と知名度を誇ってきましたから、日本のRPGの大御所はドラゴンクエストとファイナルファンタジーとテイルズシリーズの三つということになるのではないでしょうか。

-ドラクエシリーズの系譜-
 『ドラゴンクエストⅦエデンの戦士たち』は特にドラゴンクエストシリーズのなかでも異色を放っています。プレイステーションで初めに発売されたときには、データが多すぎて一つに入りきらなかったとか。途中でディスクを変えるということをしなければならなかったようで、プレイステーション版ではやったことはないのですが、やったことのある友人の話を聞いていて一体どういうシステムになっているのかよくわかりませんでした。今回のDS版では特別なことは必要なく、快適にゲームが出来ました。
 先ず、普段のドラクエと異なったのが、モンスターが出てくるのに1時間以上かかるという点。大体のドラクエは、いったんフィールドでスライムなり、そこらへんの最弱モンスターを数匹相手にするところから始まったり、あるいはフィールドにでることが割と早くにあります。しかし、今回のドラクエ7は最初の島でしばらく冒険をしないと、モンスターさえ出てこないという異色の作品です。ドラクエ史上クリアするのに最も時間がかかると言われるほどの作品です。平均して大体クリアする時間が100時間ほどということのようです。ドラクエはかなりやってきたほうですから、町の人間全員と話したり、すべてのタンスやツボ、タルなどをチェックするのは当たり前、サブストーリーも確認するためある程度冒険が進んだらもう一度今までの町を訪れてみるといったことをしていた私も、かなり早くやったとは言え、100時間くらいになりました。

 今回のドラクエ7は、DS版でリメイクされてきた他のドラクエ作品の技術をさらに高めて導入しています。ドラクエ8が技術的に最も完成した作品だと私は思っているのですが、8に劣るとはいえ、全体を見渡せる360度の視野というのは、冒険を楽しませてくれる一つであります。DS版の7は、ドラクエモンスターズシリーズの要素である、モンスターのシンボルがフィールドに現れるという方法を採用しています。モンスターズシリーズに対して、今までのローマ数字が付されてきたシリーズをなんと呼ぶのかしりませんが、まあヒストリーシリーズとでも冠しておきましょうか。今までのローマ数字が付されてきたヒストリーシリーズは、フィールドにはモンスターが現れませんでした。かなりグラフィックの力があった8でさえ、スカウトできるモンスター以外は、フィールドを歩いていると突然エンカウントするという方式をとっていました。こちらの方が、ファミコンからドラクエをやってきた人間にはなじみ深いのですが、今回の8は、モンスターズシリーズの方式をとっています。ですから、うまいことモンスターのシンボルをよけ続けていれば戦わずして冒険を進めることができるということです。今思えば、ドラクエ5で仲間にしたいモンスターが出る地域ににおい袋をたくさん購入して赴いたことが懐かしく感じられます。歴代のドラクエファンの人間は、私を含めてですが、あまりこのシンボルに対してはいい印象を持っていないようです。突然戦闘になって、何が出てくるのかというのも一つの愉しみでもありますしね。さらに、シンボルの欠点としては、メタル系の珍しいモンスターの登場をどうするかという問題があって、かなりの速さでシンボルに走らせるのですが、それをいちいち追いかけたりするのも面倒くさければ、洞窟などの狭い場所では意外と簡単にエンカウントすることができるなどの側面があります。また、もう一つは、戦いの際に、多くの種類のモンスターが出にくくなったという点です。あるシンボルとぶるかるわけですから、当然そのシンボルのモンスターが登場しなければいけない。だから、ある種類のモンスターにぶつかったら、それ以外が出にくいということになります。反対から言えば、自分の戦いたいモンスターを選別することが出来るようになったとも言えます。

-ドラクエシリーズとⅦの関係性-
 Ⅲをやっていないので、何とも言えないのですが、ドラゴンクエストはⅠⅡⅢがロトシリーズ、ⅣⅤⅥが天空シリーズとしてひとつまとまった世界であることがわかっています。ではⅠⅡⅢとⅣⅤⅥの二つの世界軸の関係性はどうなっているのかということが問題になりますが、ネット上でいろいろな説が上がっています。例えば実はこれらもつながっているというように言う意見もあれば、SFの並行世界的な感覚で捉える見方もあります。私は後者です。Ⅷで登場したレティスは、別の世界ではラーミアと呼ばれていたとのことを述べているので、この神の鳥レベルであれば、異世界、あるいは並行世界を横断する力があるのかもしれません。
 唯一例外的な存在となったⅦはどこに属するのか。私は冒頭の島が一つ孤立して存在していることを象徴的にとらえると、ドラクエシリーズのなかでも一つだけ孤立しているのではないだろうかと考えることができると思っています。ただ、天空に浮かぶ島や、神様の存在などから、天空シリーズの一番前、Ⅵよりも前の時間軸にあっても良い気がします。天空シリーズでは、夢の世界の一部が残って天空の城となり、Ⅳまでの間に神様が魔王との戦いの末なくなり、後をマスタードラゴンが引きついだ。それがⅤで主人公と再び出会うという大きな流れになっていると思います。ⅦはさらにⅥよりもまえ、夢の世界もできる前と考えることもできるのではないでしょうか。あるいは別次元の話で片づけた方が楽かも知れませんが。
 クリアするまでに100時間もかかる長大なストーリーにしては、最後がいまいちよくわからないという認識が多くのプレイヤーに共通したことのようです。私もこれだけ長くやってきて、??という感想になりました。

 Ⅶの世界は、魔王オルゴ・デミーラが島を闇の世界に封印しているという状況から始まります。現実の世界に残されたたった一つの島、それがこのタイトルになるエデンという意味なのだろうと思いますが、物語の大筋はそこから封印された島々を復活させていくというもの。最大の謎である、どうしてこの主人公たちが住んでいる島だけがこの世界に残されていたのかという問題は、また後でも述べますが、神様側の力のみを考えると、ここでは神様の庭という意味での楽園が何とか神様の力と、また水の精霊の力によって封印から間のがれたということだと思います。
 ドラゴンクエストというタイトルは、直訳すればドラゴン討伐のようになります。これはドラゴンクエストⅠのボスが竜王というドラゴンだったからだと思われますが、Ⅱでは、その物語の直系にもかかわらず、ドラゴンはどこかに消え去って、悪霊の神々が登場し始めます。ドラゴンの討伐という神話的物語から、悪霊の神々が登場するという伝説的な物語に移行してきたと考えることができると思います。その後ドラゴンクエストと名が冠されているにも拘わらず、実際に登場するドラゴンは、モンスターレベルでしかなく、ボス級の存在は大体ドラゴンではないという状態が続きます。唯一Ⅷは裏ボスが竜の形態だったので、原点回帰した感じがしました。
 ⅠⅡⅢの後に続いた天空シリーズⅣⅤⅥは、別の世界を行き来するということに重点が置かれています。Ⅴは親、自分、子供という三世代の絆と、指輪を巡る物語としてJ・R・R・トールキンの『指輪物語』の影響を受けたストーリーという二つの視点があるため、そこまで異世界は強調されませんでした。魔王ミルドラースが存在する魔の世界が申し訳程度につけられています。Ⅳは、ゲームに群像劇的な視点を持ち込んだことによって、今までのRPGとは異なった視点を導入しました。それまで主人公の一つの視点しか描かれなかった物語が、主人公以外の人間がその世界のなかでどのように生きているのかという側面をあぶりだすことに成功しています。進化の秘宝や、ダークヒーローといった幾重にも重なるストーリーが楽しめます。Ⅵが最も世界感としては大きかったように感じられます。現実の世界と、人々の夢が作り出した上の世界、さらにデスタムーアが作り上げた狭間の世界に、船で行くことができる海底の世界。四つの世界を渡り歩くということで、非常に大きな世界感を感じさせました。Ⅶは、ドラクエ初のSF的な概念、時間移動の概念を入れていきました。そのせいで大分論理的に破たんしている部分があるようにも感じますが、現在の世界と、過去の世界という二つの時間軸の世界を移動することによって、世界感に深みを持たせています。
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