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現代を読み解く女性文学 三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』 感想とレビュー 心に損失を抱えた人間るはいかにして立ち直るのか

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-初めに-
 前回の有川浩の『阪急電車』では小説を構成する二つの糸、横の糸=人物の視点と縦の糸=場所に注目して、場所に視点を置いた小説であるということを述べました。今回論じる『まほろ駅前多田便利軒』は、カメラという点では主人公である多田を追いかける格好になりますが、場所という視点も意識された小説だと私は思います。
 映画化されたことで、この作品は普段から小説を読まない人にも親しめる作品となりましたが、私の個人的な感想を述べさせていただくと映画はひどいの一言に尽きました。http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-275.html
 映画では一体何が描きたかったのかまったく不明でした。原作はきっと面白いのだろうと思っていたのですが、とにかく映画は「間」の取り方が異常にながく、内容がないのを時間をとってごまかしているようにしか見えませんでした。しかし、小説ではもっと物語があり、余計にこれだけ描くものがあるのに何故内容を少なくしたうえで変な間を入れて引き延ばしたという製作者たちの謎が浮き彫りになったように思えます。
 こうした文学と映像というメディア媒体の壁や差異をどのように考えていくかが、今後の文藝を見つめていくうえでの重要な視点になると思います。

-閉塞された空間、まほろ市-
 読み進めていくと一見ふつうの小説のようにも思えますが、私にはどうしても閉塞感というものが感じられてなりませんでした。どこか息詰まる感覚、主人公たちが動いているのですが、ある小さな箱庭でしか動けていない感じがします。それがまさしく「まほろ」という架空の町から出ることができないという象徴的なことがらを現しているのではないでしょうか。
 まほろのモデルは実際にあります。町田市がモデルとされているようですが、まほろ市というのはまぼろしと掛けた言葉で実際には存在しないことを現しています。この部分を強調して考えると、架空の場所でおこっていること、つまりこの小説の内容自体も架空のことという面が強まり、フィクション性、虚構性を強めているとも考えられます。そう考えて行くと、有川浩の『阪急電車』がリアリティーを追求していったのに対して反対の効果を演出する方向に向かっているということが出来ると思います。

 また、まほろ市という架空の町での出来事を描いていますが、登場人物たちがこのまほろから出られないことが象徴的に描かれています。文庫版60ページから描かれるまほろ市の描写が端的に表現しています。
まほろ市はどっちつかずだ。まほろ市は東京の南西部に、神奈川へつ出すような形で存在する。東京の区部から遊びにきた友人は、まほろ市に都知事選のポスターが貼ってあるのを見て、「まほろって東京だったのか!」と驚く。~まほろ市の縁をなぞるように、国道16号とJR八王子線が走っている。~おおげさに言えば、まほろ市は国境地帯だ。まほろ市民は、二つの国に心を引き裂かれた人々なのだ。外部からの侵入者に苛立たされ、しかし、中心を目指すものの渇望もよく理解できる。まほろ市民なら、だれしも一度は経験したことのある感情だ。それで、まほろ市民がどうしたかというと、自閉した。外圧にも内圧にも乱されない心を希求し、結局、まほろしないで自給自足ができる環境を築いて落ち着いた。~まほろ市民として生まれたものは、なかなかまほろ市から出て行かない。一度出て行ったものも、また戻ってくる割合が高い。~外部からの異物を受け入れながら、とざされつづける楽園。文化と人間が流れ着く最果ての場所。その泥っこい磁場にとらわれたら、二度と逃れられない。

 東京のへき地にあるため、そこに住んでいる人々の感覚としても東京であるという感覚はせず、かと言って小さくない町であるため隣の神奈川からは東京に出るという名目でまほろ市にあつまってくる人間が居る。都会と田舎のちょうど中間地にあり、中間的な存在になってしまったためにアイデンティティーが喪失されてしまっているのです。だから、自閉します。まほろ市ハアイデンティティーを確立するために縁にそって見えないバリアのようなものを張り巡らしているのです。だから、行天も多田もまほろ市から出ないのです。
 実は自由に見えていながらも閉塞された空間であるということが判明します。そうしてよくよく読んでみると、この小説にはホモセクシャル、同性愛的な側面も浮かび上がってきます。むしろホモセクシャル的な側面を浮きだたせるために、敢えて閉塞された空間であるということを隠しながら表現したとも考えられます。

 多田と行天の関係ほど謎な関係はありませんが、この小説が一部のファンの間ではホモセクシャル的な読み方をされるのはあながち間違いではないと私は考えています。ここに登場する人物たちは、どこか以前論じた窪美澄の『ふがいない僕は空を見た』に登場するような「ふがいなさ」があります。そのふがいなさが一体どこから生じているのか、この小説の中では、この二人の男性がそれぞれ心に癒えない傷を持っていたことが明かされています。人間というものが一体なんなのかということを考えた際に、ある程度パートナーという言葉からも理解できるように、一対の夫婦になるということは安定することのようであります。私は結婚していないのでよくわかりませんが。ここに登場する多田と行天は、それぞれパートナーを無くしてしまった人間なのです。人間として完成というか安定しないそれぞれの損失を抱えた男が自分と同じ境涯にある人間を見つけて、その欠損を補い合う、あるいは傷の舐め合いをしているというのがこの小説に登場する人物たちの現状なのではないでしょうか。

-心の欠損、小指と親と子-
 行天という人物は小指が一度切断されるという読んでいて目をそらしたくなるような事件を少年時代に経験しています。そうしてその原因をつくったのは、子供心の特に理由もない意地悪してやろうという文学的な表現をしてみれば悪意のない悪意を差し向けた多田にありました。多田はそのことが常に気がかりで、行天に対して負い目を感じています。行天にしろ多田にしろ、二人の本質は、次に引用する状態だと思います。
一度肉体から切り離されたものを、また縫い合わせて生きているとはどういう気分だろう。どれだけ熱源にかざしても、なお温度の低い部分を抱えて生きるとは。
 二人はこころに欠損を負った人物だと私は述べましたが、もしその欠損のありかたが上のようであったらどうしたらよいのでしょうか。むしろ小指が無くなっていたほうが良いのかもしれません。変に付けてしまったために、不完全ながらも損失が補われている。それはまさしくまほろ市の説明でもあった「どっちつかず」の状態なのです。傷を負ったと言えば負っているし、治ったと言えば治っているとも言えなくはない。しかし、変な治り方をしたために、それが余計に問題を引き起こしているのです。壊れたなら壊れたままの方がどうしたらよいのかわかりやすいものです。完全に治ったのならそれで終わりです。しかし、変に治ってしまった。もう一度小指をはずすわけにはいきませんし、これから違和感を常に抱えながら生きていかなければいけない。ではその中でどうやって生きるのか。これを探すのが二人の目的なのだろうと私は思います。

 またもう一つのこの作品の重要なテーマは、「子供が親を選び直すことができるのかどうかを。できるとしたら。なにを基準にするのか」という部分に集約されています。情報のソースが確証できないので余談程度で流しておいていただきたいのですが、作家レベルでどうも三浦しをん氏は父親との関係に何かしら問題があるということを聞いたことがあります。もしかしたら彼女のそうした部分が多少表れているのかも知れません。
 それは置いておいて、行天は自分の両親から、多田は自分の子に対して酷い行い、償えない行いを受け、または与えてしまったということが、この二人の心の欠損になっています。行天からすれば、自分が親を選ぶ直すことができたならばという問いになりますし、多田からしたら自分の子がもし他の親のもとに生まれることが出来たのならばという問いになります。この問題は急に後半になって浮上しますが、途中でちょっと不自然さがありますが、今の時代に病院で取り換えられてしまった人間が登場します。自分の親が実の親ではないとDNA鑑定の結果わかってしまった子供が、取り換えられたもう一人の家族、つまり本当の自分の家族をそっと見つめるという場面があります。少し不自然さがありましたが、これが多田と行天が望んでいたIFが実際に起きてしまった場合として象徴的に描かれています。
 
-終わりに-
 親と子の問題というのは生物が親から生まれる限り永遠に続く課題の一つになります。誰だってお金持ちの家庭に生まれて自分の好きなものが欲しいだけ手に入るような家庭、有名人のいる家庭、優しい父母のいる家庭に生まれていたらどんなによかったかと思うものです。特に両親との確執があって、まだそれが解決できていない人は今でも大きな問題となっているでしょう。私は自我同一性の問題をよく考えるのですが、思えば自分の両親がこの人で良かったと感じられることもまた自我同一性の確立の一つなのではないでしょうか。お金がなく、厳しい親であっても、自分はこの家に生まれてよかったと思えたなら生まれて来た意味があったと言えるような気がします。もしそれがかなわなかったとしても、この小説の最後には「幸福は再生する」と描かれています。
 多田と行天はなんとか自分たちが幸福になる道筋のかけらを見つけたようにも思える場面で物語は終わりますから、開かれたエンディングであるという事ができるでしょう。続編やドラマ化などがされていますが、それはきっと二人が希望を見つける道中の描写になることだろうと思います。
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