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ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~6~ 感想とレビュー 最後に

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-最後に、胎内回帰と近親の戦い-
生命というテーマから翻って、最終的に私はこの作品は胎内回帰願望の物語として読めると解釈しました。黄川人が京の人間と神々に対して飽くまでも復讐することにこだわり続けた原因、あるいは要因はなんなのかということを考えてみますと、その原動力は自分が帰るところであった母を取り上げられた、殺されたということになると思います。
黄川人が母であるお業と離ればなれにならなければならなかったのは、まだ赤ちゃんのころです。ですから、彼は最後まで母親の愛情というものに触れることができなかったのです。ですから、心理学のエリクソンのライフサイクルを参考に考えれば、黄川人は人生の一定の時期に克服すべき課題を、両親の愛情が受けられず、あまりの不遇によってすべて達成できなかったということになります。乳児期においては不信感を獲得、幼児前期では恥辱感を獲得、幼児後期では罪悪感、児童期では劣等感などです。
黄川人が中性的なすがたのままであったのも、自分のあらゆるものを受け入れられず、自己を男性として認めることがないままであったからだと考えることもできます。

彼の復讐の動機は、常に母の愛情と、このあまりにもひどい運命のために現実逃避をし、最も安心できた場所と空間である母親の胎内に回帰したいという願望によるものなのです。ですから、最後のボス戦で、黄川人がお輪の胎内に入るというかなりえげつない行為にでるのも、自分の生命が究極的に脅かされた状況のために、最も実現したかったことを行動したということになります。もともとお輪とお業は双子ですから、自分の伯母にあたるお輪の胎内に入るということは、かなり近似的な胎内回帰をなし得たということになります。
お輪と黄川人の最終形態を討伐した際、黄川人が赤ちゃんの姿で復活しているのは、一つには討伐されることによって、今までの恨みや辛みを晴らす前の状態まで戻ったというようにも解釈できますし、直前に自分の母に近い人間の胎内回帰をしたので、自分の願望が満たされてなんの穢れもない状態まで戻ったと考えることもできます。

また、黄川人とのあまり関わり合いのないボスの存在などを考えると、近しい血縁での憎しみあいというテーマも浮上してくると私は思います。崇良親王は、ゲーム内時間の京より、およそ100年前の帝の時代の話です。その崇良親王と黄川人とは全く直接的な関係はありません。しいて関係性を求めるとしたら、おなじ皇族たる身分で生まれたということくらいでしょうか。
この作品に崇良親王という存在が登場するのは、彼が彼の兄の妬みによって殺されたからにほかなりません。近親によって殺されたという不幸が、彼を悪霊足らしめているのです。
この作品は、最後の場面で、今までに登場した鬼たちがどうしてあんなに強かったのかという謎解きが黄川人によってなされます。朱点童子以前に登場した鬼たちがどこから湧いて出て来たのかはわかりませんが、お輪が捉えられてからは、おそらく黄川人によってお輪は鬼たちを孕まされていたということになります。大変恐ろしいことではありますが、黄川人のこの行為は、胎内回帰願望をかなりゆがめた形で表出させていると考えることもできますし、また母犯し、近親相姦の禁と捉えることによって、近親での憎しみ合いという側面も現れてきます。
この物語は、見方によっては黄川人と昼子の壮絶な兄弟げんかと考えることもできると以前述べました。また、主人公初代当主は黄川人とは従兄弟にあたります。従兄弟同士の戦いと考えることもできます。あるいは、黄川人討伐までに行く手を阻んだ鬼たちは、お輪が生んだ鬼たちであり、異父兄弟の戦いと解釈することもできるのです。いずれをとっても、戦う相手はかなり近しい関係の存在であり、近親による悲しい悲劇の連鎖を映し出した作品とも考えることができます。
そうすると、もちろんこのゲームは1000年ほど前の京を舞台としたために、そうした歴史的背景による影響を受けていることは重々承知ですが、現代の家族の問題にも言及しているように思えてなりません。一方で、家族の繋がり、一族というものがテーマ化されるなかで、他方では戦い続けている相手もまた家族と言える関係であるという二面性があります。この二面性こそ、このゲームの最大の特徴であり、特色であり、神ゲーと呼ばれる所以であり、またこの作品を一層深く、暗いものにしているのです。
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ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~5~ 感想とレビュー ゲームのテーマを読み解く 

 
-世襲制という概念-
 
 
この作品の本質は、「生きる、死ぬ、託す」。親や子、世代の問題です。私も後から知ったのですが、この作品のCMは、とても素晴らしいものになっていて、作品の本質を見事に表現、伝えています。この作品は1999年にプレイステーション用に販売されています。そうして、2011年にプレイステーションポータブル、PSPでリメイク発売されました。1999年のCMに出演した岸部一徳は、2011年のCMにも出演。この若い青年が同一人物なのかはわかりませんが、約12年という月日を同じ人物が演じるという構図は、それだけでもとても強い印象を与えます。2013年現在66歳ですから、2011年時には64歳で、1999年には52歳で出演していることになります。
このゲームの最大の特色、オリジナリティ、神ゲーと呼ばれる所以は、世代という概念をゲームに持ち込んだためでしょう。通常RPGというものは、主人公は主人公で、物語の最初から最後まで同じ人物をコントロールすることになります。小説でいえば、一人称小説でしかありえないのです。ドラクエ4では、それぞれの視点でプレイしたあと、次第に集まってくるという、群像劇的な展開をして、話題を呼びました。しかし、それもあくまで主人公という存在があっての話です。また、世代という概念は、ドラクエ5で色濃く導入され、成功を収めています。RPGは、自分の親はいても、子供はなかなか出てきません。ドラクエ5は、主人公の奥さんから、子供という概念までゲームに導入することに成功しました。それでも、やはり視点は主人公の一人称視点です。
これらのRPGは、すべて西洋思想に裏打ちされた世界での出来事でした。しかし、それが東洋的な思想によって裏打ちされるとどうなるのか、このシステムを考え出したゲームデザイナー桝田省治は素晴らしい才能を持っていると言わざるを得ません。
日本には古くから世襲制というものが制度として存在していました。もともとは、皇族などの一部の特権階級が一族や血族同士の争いなどを避け、安定化させるために行われたものと考えられます。それが、市民のレベルにおいては、職業や役職を引き継ぐことへと発展しました。現在でも世襲制、襲名制が残っているのは歌舞伎の世界です。例えば、市川団十郎、先日亡くなりました。この団十郎は12代目の団十郎でした。そうして、その団十郎は今度はかつて海老蔵と呼ばれ様々な問題を引き起こしたあの人物が団十郎という役職をもらいうけるということになります。
歌舞伎の世界においては、もともと役柄というものが先行して存在しているのです。その役職にあわせて、歌舞伎をおこなっている人間が割り振られていくことになります。現在の私たちが先にあって、そこに役職が割り振られていくという構造とは反対の構造なのです。平安時代は、職業は世襲制ですし、家族制度も言葉としては存在していなくともありましたから、一族において当主というものが襲名制になっていました。

このゲームが他のゲームと異なる点は、簡単に主人公たちが死んでしまうということです。これは圧倒的に他のゲームと比べ物にならないくらい死というものが明確にテーマ化されています。死んでしまったら本当に生き返らない。当然死んでしまえば一族のメンバーは減りますから、少ないメンバーで戦わなければならない。少ないメンバーで戦えばそのぶん戦いは不利になります。だからなかなか戦勝を得られずに、月が経過していく。月が経過していくと、歳をとり、寿命が近づいてくるというサイクルで、どんどん一族が弱まっていってしまうのです。通常のRPGならば、どんどん仲間が強くなっていくということは当たり前のことですが、このゲームにおいてはその当たり前は通用しません。下手をするとどんどん弱小化していってしまいます。ですので、細心の注意を払って一族の状態に配慮し、いつ神と交わって子供を授かるのかということを慎重に決定しなければならないのです。
一族がへいきでどんどん死んでいくなか、家長たる当主の存在がこのゲームでは際立っています。当主は、家の長であり、その他の家族に対して圧倒的な権限を有しています。その代わり、家族全員の面倒をきちんと見なければいけないという義務があるわけです。このゲームでは基本的には一人一人に名前がつきます。しかし、その名前を持った個人が当主となると、初代当主の名前を襲名することになるのです。その際には、個としての存在は消え、公の当主としての存在になりかわるわけです。
いわゆる没個の世界と考えることもできます。個人的な人間であった存在は、当主に襲名されるとともに、一族の長として家をまとめ、率いて行かなければなりません。ことに、この一族に課されたのは、朱点童子討伐というあまりにも重い使命です。この使命を遂行するためには、まさしく限りある命を賭して立ち向かわなければなりません。責任重大なのです。それは医療技術も発達し、経済も豊かになり、個人の自由をかなり発揮しても個人が生きていける生活環境がととのった現在であれば感じることができないことでしょう。しかし、昔は国も貧しく、決して一人では生きていけないような時代です。そのなかで家族全員を養っていかなければならない。当然娘は、家の安定を図るために良い家との婚約を当主が決定することもあったでしょう。しかし、そうしなければ一族を路頭に迷わせ、全員を没落や餓死させる危険性があったのです。


-命を伝える哲学のゲーム-
世襲制についてまったく知識がないながらにも少し論じてみました。このゲームは世襲制とともに重要なテーマがあります。それは世襲制という制度から切り離せないのですが、「継承」するということです。では、何を継承するのか、まずは名前、家族、命、使命、運命、技、武器、などなどです。
CMでのキャッチフレーズは「生きる、死ぬ、託す」。このゲームはゲームという虚構の空間で、生と死という非常に重要なテーマを扱いました。そうしてその死というものは、決して蘇生呪文などでごまかされるものではなく、ゲームといえども本当に死ぬのです。2000年を目前とした90年代最後の年に、社会の情勢はどのようであったのでしょうか。バブル経済が崩壊して後、自殺者の数が二倍程度にはねあがり、以後ずっと年間3万人の自殺者をだしつづけているのが現状です。現在も経済は冷え切っていて、雇用も不安定、このようなことを書いている私もきちんと職に就けるのか不明です。しかし、90年代はちょうどバブルという良い時期を見てしまったがために、冷え切った状態というものはより凄惨に人々の心に映ったのではないでしょうか。もちろんこれは当時を生きていない私にとっては憶測でしかすぎませんが、上げて落とすというのは、様々な作品においても最も効果的な裏切りの仕方です。
他にも様々な問題があったのでしょう。教育現場では80年代、90年代というのは、ある意味表面化しやすいという点では陰惨な現在よりわかりやすいという側面もあるかもしれませんが、暴力や非行などが横行した時代でした。生命というものが軽視されるなかで、私たちはどのように生き、そうしてそれを後世に伝えて行かなければならないのか、これを考えなければならなかったのだと思います。

私たちは紛れもなく今、生きています。しかしそれは同時に、疑いもなく死が待ち受けているということなのです。死がいいものなのか、わるいものなのかはわかりませんが、私たちは死んでしまいます。このゲームでは一族の人間は短命です。ものすごいスピードで成長するかわりにわずか2年もせずに寿命が尽きてしまいます。私たちは人生が70年、80年という長い時代ですから、すぐになにかを自分の子供たちに託しておかなければというような状況にはなりませんが、もし与えられた使命に対して寿命が短かったらという虚構のなかで、キャラクターをコントロールすることによって、考えさせられるものがあります。
そうしてこの命という壮大なテーマを扱った作品が3・11があった2011年にリメイクされて発売されるということには象徴的な意味があるだろうと私は感じます。3・11後、震災の影響を受けた作品はすべて3・11文学と呼ばれています。それだけあの震災が多くの作家や漫画家、演出家など様々なアーティストに影響を与えたのです。今、震災によって失われた3万人近いひとびとの死とどう向き合うのかということが問題となっています。
私たち生き残った人間、生者は、死者とどのようにして向き合っていくのかということが問題なのです。彼らのことを忘れないで、復興だと口々に言われています。たしかにそうでしょう。しかし、一方で震災で傷ついた人は今すぐにでも忘れたいと思っている人たちもいる。また、口には忘れないでといっておきながら、現在ほぼすべての人は、一日に一度あの震災のことを思い出すかどうかというのが現状でしょうし、今現在なにごともなかったかのように平然と生活しています。
このゲームはそうした点では、あまりにもわかりやくす明確です。彼らには朱点童子討伐という使命があります。当主が死ぬと同時に、新しく襲名される当主には、その使命が課されるのです。しかし、我々は違う。死者が私たちに残していった、あるいは託していったのはなんだったのか、まずこれがわかりません。私たちは何を残されたのか、何を託されたのか、これを考えなければならないのです。そうして、それはあと50年、60年経った際に、きちんと下の世代に引き継がれているのかを確認していかなければならないのだと思います。
このゲームはそうした命の重さや、生きることと死ぬこと、そうして死者は生者に使命を託しているということを象徴的に描いた作品です。これはもはやゲームというよりは、一種人生哲学の指南書のようなものでもあります。こんなにもゲームで命について考えさせられる作品は今までありませんでした。そうした通常であれば、重いテーマですから、プレイヤーも製作者も忌避してしまうことがらに対して、本気で向かい合った作品です。たいていの作品は、そうしたテーマを少しスパイス程度に加えるだけか、変に逃げ腰になって失敗するかのどちらかです。しかし、このゲームは真正面から立ち向かいました。ですから、作品全体はこのうえなく暗く、悲しい雰囲気に包まれています。それでもやる意義がある、プレイしなければならない、そうしたプレイヤーにも命というテーマにきちんと向き合わせる力がこのゲームには存在するのです。

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~4~ ストーリーを追う、黄川人を中心として

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-黄川人の視点-
 この作品は、今までの西洋的なRPGから一変、日本的なRPGを一から作ったために、HPやMPとというものにもすべて日本語の名称をつけなければならなくなりました。HP,MPだったらば、体力と技術といった感じ。アイテムにもすべて日本的な名前が付けられています。このゲームの一つの側面としては、西洋的なRPGに対応するシステム、アイテムの日本名を比較対象して楽しむことができるというものです。
 このゲームはこうした面でも、名称や名前にこだわっている作品と言えるでしょう。また、ゲームのなかにリアリティを持ち込むために、神の名前や物語に、実際に伝わっている伝承や事実を織り交ぜています。
 この物語の重要な朱点童子、イツ川と黄川人は、二人合わせて「いつかきっと」というメッセージになるように作られています。いつかきっと、そのあとに何がくるのでしょうか。戦いがなくなる日に、憎しみがなくなる日に、あるいは救いが訪れるように、そうした未来性が込められた作品ということができるでしょう。
 黄川人が大江山を襲われた際にどうなったのかは謎です。お輪が子供を救うために身を挺しているあいだに、信者がどこかへ隠したのでしょう。捨丸が情けをかけて殺さなかったとは思えません。そうしてどこかへ捨てられた黄川人はまず、九尾吊りお紺に拾われます。黄川人を拾った九尾吊りお紺は、宝くじがあたったりと当初は幸福に恵まれますが、次第に不幸が重なり始め、しまいには夫に持ち逃げされた挙句、稲荷で自殺を図ります。何故幸運が舞い降りたのか、また不幸が重なったのかは黄川人の力によるものなのでしょうが、具体的になにによるものかはわかりません。
 子供にも手をかけたと黄川人は述べていますから、彼は一度殺されそうになったということです。しかし、結局赤子と無理心中できなかったお紺は、一人自殺し、地縛霊として稲荷に残りました。残された赤子は、どういう経緯かは不明ですが、天界から降りて人間に慈悲をかけていた氷ノ皇子に拾われます。
氷ノ皇子は天界屈指の実力者であり、美男子であったとの評判です。人間に対して慈悲をかけて自らの血を与えたいたようです。そうして、どんないきさつかは不明ですが、黄川人を拾いまだ赤ん坊だった彼に自分の残っていた血を吸わせます。ただでさえ朱点として生まれ、人間と神の力を持つ黄川人が、天界最強レベルの存在の血、すなわち力を吸い尽くしたらどうなるのか。黄川人は氷の皇子が自分の力の半分ほどであるということを述べています。力の根源たる血をすべて失ってその状態ですから、完全であればかなり強い力の持ち主でしょう。天界の神を馬鹿にしている黄川人も、彼だけは一目置いているようです。
 しゅてんどうじという言葉は、私もうわべの知識しかないのですが、平安時代に実在したとされる酒呑童子(これでしゅてんどうじと読む)からインスパイアを受けています。酒呑童子の伝説は、地方によっていくつも説があり、細部がことなっていたりして、収拾がついていないという状態もありますし、民俗学を専門にしている人に研究していただかないと何とも言えないのですが、古事記や日本書紀に登場する「八岐大蛇が、スサノオとの戦いに敗れ、出雲国から近江へと逃げ、そこで富豪の娘との間で子を作ったといわれ、その子供が酒呑童子という説もある」(カッコ内Wikipediaより)らしいです。諸説ありますが、俺屍に限りはここからインスパイアを受けていると思われます。
 朱点童子として赤い鬼に閉じ込められたの黄川人の封印を解放してしまってから、新しいダンジョンが登場しますが、その最後で待ち受けているボス(黄川人はそれを髪と表現している)は、それぞれ蛇をモチーフにした存在として登場します。また、黄川人が身に着けている服にも、蛇のがらが現れており、この神話をイメージしてキャラクターデザインをしたことがうかがえます。

-ちりばめられたストーリー2-
 赤子として拾われた黄川人は氷の皇子の血をすべて吸い尽くすと、まだ子供にも関わらず忘我流水道を飛び出し京の町へと繰り出します。一度出て行こうとする黄川人と氷の皇子は対峙しているようにも解釈できる言葉がちらと出てきたような気がします。(多少あやふやなので鵜呑みにしないでください)。ちなみに、朱点童子という言葉は、氷に囲まれた忘我流水道の奥底にあって、一点の朱い髪をした童子(こどもの意)から来ていると考えられます。氷の皇子は自分がかくまい、自分の血を飲ませて育てたと認識がありますから、黄川人のことを自分の息子だと考えています。もちろん直接の血は繋がっていませんが、血を飲ませたということもあり、より濃密な関係性が構築されていると考えられます。しかし、黄川人にとっては、氷の皇子もまた、憎むべき天界の神であるため、利用したにすぎないと思っているようです。
 赤子であった黄川人がどうして自分たち一族が滅亡させられた出来事を覚えていたのかはわかりませんが、彼は自分たちの家族を殺し、自分の命を奪おうとした京の人間と、天界の神々たちに対して復讐をしようと試みます。この時点ではまだ黄川人は中性的な人間の恰好をしていたことになります。また、部下である鬼や怪物をどのように生成したのかわかりませんが、人間に対する怨霊や、人間でありながら悪の道にそれていった者たちとうまくやりあって、再び大江山で鬼のコミュニティを構築。京に対して悪さを働いていたのだろうと推測されます。あるいはすでにこの時から、人間の娘をさらっては、その娘たちに怪物たちを産ませていた可能性すらあります。実際の伝説にある酒呑童子は、娘をさらっては食べていたそうです。
 どちらが先だったのかは不明ですが、この大江山であばれはじめた黄川人こと朱点童子を倒そうとした組織が二つありました。一つは、ちょうど天界にのぼって夕子の後ろ盾のもと天界の新たなリーダーとなりはじめた黄川人の実の姉である昼子です。そうしてもう一つは、時の帝です。この帝がお業一族を殺した時の帝と同一人物なのかはわかりませんが、その討伐対として討伐にむかったのは、どちらも大江ノ捨丸であったことがわかります。昼子たちが先か、大江ノ捨丸たちが先だったのかは不明です。ただ、大江ノ捨丸は、朱点童子を倒すことなく殺され、そうして朱点の呪いにより骸骨の姿となり人間に綽名す鬼の類になりました。実の弟をとめるために昼子率いる20の柱神が黄川人を止めに向かいます。ただ、すでに最強の力を手に入れていた黄川人相手に、神20柱でもかなり苦戦したようです。昼子はなんとか黄川人を赤い鬼の姿をした入れ物に封じ込めることに成功しました。しかし、黄川人は封印される前に、ほかの神たちをも道連れにします。昼子は黄川人の力があまりに強く、自分たちに何の損害もなく封印することは不可能だったため、他の神ごと黄川人を封印したと解釈することもできます。
 赤い姿をした、冒頭でお輪と源太と対峙した角の三つ生えた朱点童子は、封印された状態でした。しかし、あの赤い姿をした馬鹿で力だけが強い鬼のような姿でも、かなりの力を有していたことは確かです。瞬時に赤ん坊を町から移動させる術や、神でも解けない二つの強力な呪いなどを扱えていますから、封印といっても、力は半減できたところが良いところだったのではないでしょうか。
 ここは解釈がわかれるのですが、あの赤い鬼の朱点は、黄川人の自我なのか、それとも別の自我なのかという問題です。封印されている人物が黄川人であることにはかわりませんが、昼子の封印により新たな自我を上からかぶせた可能性、あるいは黄川人の自我の一部のみを残す方法などを行った可能性があります。どう考えても赤の朱点と黄川人の自我が同一だとは解釈しづらい部分があります。あるいは道化を演じるのが得意だった黄川人の身に合った演技だったという可能性も考えられますが。私は、封印された黄川人が霊体として物語の前半主人公の前に現れていたことを考えると、別の人格が上からかぶせられていたのではないかと考えています。霊体がこちらにでてきているときに、肉体はどうなっていたのかという謎がありますが、人格が別のものだったとすると、肉体のみ封印されていたということになり、つじつまがあいます。

 人格がどうなのかは永遠の謎ですが、多くの神も同時に封印するという昼子の行為により黄川人の力は弱まりました。しかし、完全に封印できなかったうえに、結構つよい。ちっとも懲りた様子もなく、京の町を再び荒らし始めます。あんまり封印した意味がないことになってしまったので、完全に黄川人の息の根を止めるために、策士昼子は第三の朱点童子育成計画を立案します。
 第三の朱点童子は、紛れもなくプレイヤーがプレイすることになる主人公たちです。お業の双子の姉であった、お輪に昼子は計画を持ち掛けます。下界におりて人間の男性との間に子供をもうけよということです。お輪の気持ちを察すると、双子の妹は天界の掟を破り、愛する男のため下界まで下りて行ったのに、夫や子供を殺され、お業もさんざん人間にいたぶられたあと(一応不死身の身体を持っていても、限界はあるようです)、殺されてしまいました。そんなあまりにもかわいそうな妹や、不運から道をはずれてしまった自分の甥にあたる黄川人をせめて少しでもはやく楽にしてあげるために地上に降りたことでしょう。
 この作品の最大の謎は、お輪は昼子に作戦をきかされてすべてを知っていた存在なのにもかかわらず、なぜ自ら朱点童子討伐に向かったのかという問題です。昼子の計画では、黄川人はすでに神々の力を終結しても勝てないほどに強力なものになりました。弱めるための封印でさえかなりの神々を道連れにしなければならなかっため、天界の勢力はガタ落ち。これ以上の損害がでないためにも、お輪に第三の朱点童子を産ませ、それを持って第二の朱点を打つはずでした。それをわかっていたはずのお輪は、何故第三の朱点たる息子を生んだのにも拘わらず、その教育をほったらかして自ら黄川人討伐に向かったのかということです。本来であれば、当然息子が黄川人を倒すはずでした。ですから、その教育を第一に優先して行わなければならないはずです。
 考えられる可能性としては、親と子という理屈ではない愛情の問題です。いくら朱点討伐のためだと割り切っても、初めからあまりにも重い運命を背負わされた自分の息子を見て、母親たるお輪が指をくわえて自分の息子が成長するまでの20年近い年月を待っているかということです。わかっていても、自分の息子を死地においやることが出来る親なんていないのでしょう。私はまだ自分の子供をみたことがありませんからわかりませんが、きっとそういうものでしょう。1999年版のCMと2011年版のCMの両方に出演した岸部一徳は、「そのうちお前にもわかるさ」という言葉を残しています。子を持つとわかるものがあるのでしょう。
 それに、お輪は男のために天界の掟までやぶって地上へと降りて行ってしまったお業の双子の姉です。そうした思い立ったら何をしでかすかわからないという攻撃性、血は争えないということでしょう。また、お輪が結婚した相手は、人間では最強のレベルの人物。剣士として奥義を創作するほどの力量のあった源太は、紛れもなくかなり腕の立つ人間でした。そうして、お輪自信も天界の神であり、その身は不老不死です。それなりに武術にも自信があったのでしょう。そんな状態で、自分の息子には危険を冒させたくない、自分たちでももしかしたら倒せるかもしれないと錯覚してしまった二人は、黄川人の討伐へと向かってしまったのではないでしょうか。よかれと思って行ったことではありますが、結果としては自分の息子一族に二つの呪いをかけられてしまうという、より悪い方へと展開してしまいました。
 黄川人が主人公たち第三の朱点童子をその場で殺さなかったのは何故でしょうか。おそらく、本来の自分を取り戻すために、赤い鬼の形相を一度倒して貰いたかったからだと思います。封印をといてもらおうとしたのです。昼子たちの思惑は、封印を解いた後、さらに封印を解かれた黄川人まで討伐してもらうことで、黄川人の思惑は、封印のみ解いてもらう事です。ですので、短命の呪いによって、自分の封印を解いてもらう程度で強くなってほしかったということになるでしょう。そうして、物語はここから始まるのです。
 

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~3~ ストーリーを追う、昼子を中心として

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-ちりばめられたストーリーを追う-
私も一度プレイしただけでは判然としなかったのですが、ストーリーのネタバレをしているサイトはたくさんありますので、ストーリーを知りたいと言うかたはそちらをご覧ください。簡単に追っていきますと、物語冒頭で語られる一人の恋におちた天女というのは片羽のお業のことです。このお業が、天界から下界におりて人間の男と子供をもうけました。ちなみに天界と下界を分け隔てたのは、不老不死の術を持ちえたかどうかという問題です。ゲーム内で言及されますが、かつての人間で、不老不死の術を何らかの方法で獲得した人間が天界に上がったと言うことが述べられています。ですから、天界にいる神と呼ばれる存在たちは、もともとは人間とそうかわらない存在と考えることもできます。もちろん長い時間の末に人間をはるかに超える技や術、生命を獲得しているわけですが。
このお業と男の間に生まれたのが後の太照天昼子と黄川人です。この作品をプレイする上でもっとも重要なのが「朱点童子」というキーワードですが、この「朱点童子」、このゲームのなかでは黄川人が定義づけしています。このゲームをプレイすると「朱点童子」はすなわち黄川人が入れられていたあの赤い鬼かなとも思われるのですが、実はそうではないのです。朱点童子とは、黄川人の定義によれば、神と人間の間に生まれた子のことを指します。
ですから、間違いなく黄川人は朱点童子です。すると、実は表面化されてはきませんが、黄川人がちらりと発した言葉のなかで、一番目の朱点童子というものは、ほかでもない太照天昼子のことをさします。ですから、最初の朱点童子は太照天昼子ということになります。朱点童子と特別に名前が付くのにはわけがあり、人間と神との間に子供が生まれると、なぜか神を超える強い存在が誕生するという設定があります。もともと不老不死の術をみつけた人間が神になったのですから、その神と人間が交合するとどうして神よりも強い存在になるのか少し解釈がむずかしいですが、こう考えることができます。不老不死とは、種としては完全になることを指します。死ぬことがなくなるということは、生殖機能が必要ではなくなるということです。死ななければ子孫を残さなくてもよいということに論理的に考えればなります。しかし、それが人間と交わると、(ここで生殖機能を失ったはずの神がなぜ人間との間に子供をもうけられるのかという問題が最大の矛盾ですが)ただでさえ最強の存在が生殖によって増えることが可能ということになってしまいます。当然神たちはそれぞれ単体ですから、一族レベルの神と同等の集団ができてくれば、そちらのほうが強くなるわけであります。
なぜ個体レベルで神よりも強くなるのかという問題は謎ですが、そういう設定なのだと飲み込んでおきましょう。両方の遺伝子をもらうことができるためということでしょうか。

さて、物語も終盤になると二番目の朱点童子であった黄川人も、生命の危機を感じてか次第に言動に余裕がなくなってきて、物語の本質をさらけだすようになります。黄川人は、天界の神々が自分を討伐させるために、三番目の朱点童子を造った、それがお前たち主人公一族だといいます。黄川人の「朱点童子」という定義によれば、主人公一族は、お輪と源太の子供の一族で、お輪は実は天女でしかも黄川人の母お業の双子の姉ですから、朱点童子ということになります。
そうして、この第三の朱点童子を第二朱点童子討伐のために意図的につくらせたのが、第一の朱点童子であった昼子ということになるのです。見方によっては、スターウォーズが壮大な親子喧嘩であるように、この作品も、昼子と黄川人という姉弟の壮大な喧嘩であるということもできます。少しフォーカスを広くすれば、昼子と黄川人と主人公は従姉弟ということになりますから、壮絶な家族ぐるみの戦いと考えることもできます。

-昼子の視点-
少し話がそれました。ストーリーを追うと、お業、男、昼子、黄川人の家族は、天界にとっての大問題となりました。神たちが何故神と人間の間に生まれた子供にとてつもない力が宿ることを知っていたのかは謎ですが、昼子と黄川人をこのまま野放しにしておけばいずれ自分たちをも超える存在となるだろうと予測した神々たちは意見がわれました。これは出典が不明なので憶測にすぎませんが、いろいろなサイトを見ていると、神のなかには革新派と保守派ができたそうです。昼子に追放された神々たちが保守派だったということが根拠らしいですが、この保守派は二人が若いうちに殺してしまうべきだと主張したらしいです。この時まだ昼子は人間として地上にいますから、天界にはいません。革新派が唱えたのは、新しい力をもったこの二人を人間の王として、人間をまとめる存在にしようとしたということになります。ただ、どちらがおこなったかはわかりませんが、結局は朱点童子たちは人間によって滅ぼされてしまいます。
神の御神託がどちらの派閥によるものかわかりませんが、神の子だという評判がひろがったこの家族は、大江山にひとつのコミュニティを形成して生活していました。多くの人間がその信託を信じて、彼らを神だと祭り上げていたようです。しかし、時の帝は当然自分たちよりも大きくなっていくおそれのあるこのコミュニティが気に食いません。帝が勝手に動いたのか、それとも帝のほうにも神の信託があったのかはテクストからはうかがい知れませんが、帝は大江ノ捨丸らに討伐対を組ませてお業一族を滅亡させます。この際に、大江ノ捨丸はお業の夫を殺し、お業を捕獲。昼子を殺します。昼子はまだこの時は、イツ川です。その魂が天界に上り、神になった際に、人間として死んだはずの肉体に神の力によって魂の一部が残り、それがイツ川として独立した存在になったようです。イツ川の肉体が、死んだときの肉体そのものなのか、それとも生まれ変わった別の肉体であるかは不明です。
当時の展開は夕子が天界のリーダー的存在で、彼女は昼子を後見人として立てることからも革新派だったようですから、おそらくお業一族が神の子であり、まつるようにと信託を出したのは革新派でしょう。お業一族を無きものとしたい保守派が、革新派に内緒で帝に殺すようにと信託をだしたとするとつじつまがあいます。
朱点童子として生まれているので力が相当ある昼子は、殺されると神として天界に上がりました。ここで、突然やってきた昼子を嫌ったのが保守派の神たちでしょう。昼子は、夕子の娘ではありません。あくまで後見人という形式なので、そこに惑わされる人が多いようです。突然神となった昼子、しかし、当然ながら新参者に対して保守的な神の多い天界は彼女に対してつめたかったことでしょう。おそらく昼子が殺された朱点だと知っていたのは夕子くらいなのではないでしょうか。昼子が朱点だということがばれると、保守的な神はきっと昼子を封印なりしようとたくらむはずです。夕子は昼子に自分の名字である太照天を授けます。夕子はおそらく昼子を不憫におもい、人間のリーダーとなりえなかった彼女を天界のリーダーにするために自分の地位を譲ったのだと考えられます。
赤猫お夏は、もともと由緒正しい天界の神の一族。おそらくこれもまた保守的な神の一員だったのでしょう。いきなりでしゃばってきた昼子をよく思わなかったのは、お夏に原因があるのか、それとも保守的な神によって殺されたことを許しきれていない昼子がお夏たちを無碍にしたのかは、卵と鶏の論でしょう。昼子は実質の天界のリーダーとなると自分たちを殺させた保守的な神を天界から追放します。もちろん自分を殺したからとは言えませんから、いろいろな理由を付けてです。お夏はその荒々しい気性を利用して放火させ、追放。雷電五郎と太刀風五郎は人間に神の術である火と風の操り方を教えたため幽閉とありますが、これも革新派の夕子であれば許していたはず。やはり彼らもまた保守的な神の一員だったため、昼子によって封印されたのではないでしょうか。

ゲーム『俺の屍を越えてゆけ』考察 ~2~ RPGを支える西洋思想と東洋思想

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-RPGを支える西洋思想と東洋思想-
 このゲームがRPGゲームのなかでも特に「神ゲー」と呼ばれるわけは一体なんなのでしょうか。ちなみに「神ゲー」とは、ネット用語で素晴らしい作品のことを指す用語ですが、神とは、すごい、すばらしい、これ以上ないなどの意味として付加されたものだと思います。人間業ではないすごいプレイをした動画などを、神プレイなどとも呼ぶようです。
 このゲームがRPGであって、今までのRPGと異なる点はなんでしょうか。例えば今までのRPG、特に顕著なのがドラゴンクエスト、これは完全に西洋思想に影響された作品です。例えば作品をみても、Ⅴはトールキンの指輪物語の影響をうけていたりと、ストーリー自体が西洋的であると考えることもできますし、セーブをするさいに教会に行ってお祈りするという点は、特に西洋的な考えがそのまま表れている部分です。
 タイトルにあるドラゴン自体が、西洋の怪物です。それを討伐するということは、西洋神話のような、騎士の物語になります。ファイナルファンタジーには教会はありませんが、クリスタルという西洋的なものをめぐる物語になっています。これがもし日本的であったのならば、水晶などを出して来ればいいわけですが、RPGゲームのほとんどは西洋的な思想の影響を受けた作品になっています。
 なぜRPGが西洋的なのか、その理由は定かではありませんが、ゲームというのは根本的には疑似体験です。プレイヤーがどんな疑似体験をしたいのかというと、自分がヒーローになって悪者を倒すという勧善懲悪の騎士物語です。だから、多くのゲームは西洋的なモンスター、怪物を倒すということが基本のスタイルとなったのではないでしょうか。
 そんななか、このゲームが1999年に登場したというのは、まさしく画期的で革新的なことだったろうと思います。このゲームはRPGが全体として西洋的な思想のなかにあるのに対して、初めてと言っても過言ではないくらい日本的な思想を下敷きにした作品です。確かに、ヒーローが倒すべき存在はモンスターでなければなりません。いきなり倒す相手が人間というのは、ちょっと一般的なゲームではハードすぎます。人間を殺す、倒すゲームというのはその後たくさん出てきますが、やはりドラクエやFFほどの普遍性は保てないでしょう。子供や女子が行うには内容がハードすぎるからです。
 この倒すべき相手となる悪者、モンスターとして最初に考えられるのが、日本から離れたためにより空想で、ファンタジー要素を帯びた西洋の魔物だったということなのでしょう。しかし、灯台下暗しと言いますか、日本にも考え方によっては、鬼などの怪物がいたことを我々は忘れていたのです。このゲームは、日本の古事記や日本書紀に登場するような鬼が悪者として描かれます。ここに視点が持ってこられただけでも、このゲームは素晴らしい存在価値を持ちます。しかし、それ以上にこのゲームには、深い内容が付加されます。

戦闘システムから言及すれば、例えばFFやドラクエはエンカウントした敵すべてを倒さなければ戦闘は終わりませんでした。これは、考え方によってはとても恐ろしいことです。中国的な子孫まで根絶やしにするといった極めて強烈な破壊思想がうかがえます。レベル99の存在が冒険初期にであった雑魚モンスターを根絶やしにするのは、もはや虐殺以外の何物でもありません。それに対して、俺屍では、日本的と言いますか、それぞれエンカウントした敵のなかに大将が存在します。でてきた魔物が4匹なら4匹、5匹なら5匹の集団を一応率いるリーダーがいるのです。戦闘はこの大将を倒せばほかに魔物が残っていても戦闘は強制的に終了します。
ここには、根絶やしにするといった破壊衝動は見られません。大将を討ち取ればその部下は魔物といえど殺す必要はないのです。現実的に考えれば、大将が打たれて残った魔物はそのままどこかに逃げていくのかどうか謎ですが、魔物にもリーダー制があるというシステムを導入したのは斬新です。その代わり、こちらも隊長を殺されるとその場で敗北が決定し、強制的に京(京の都が主人公たちの拠点)に戻されます。
このゲームで面白いのは、死んだ人間が決して生き返らないという点です。ドラクエやFFでは仲間のHP(ヒットポイント、ライフポイント)が0になったとしても、蘇生呪文によって復活することが簡単にできました。現実的に考えると大変恐ろしいことですが、無理を通して考えれば、0になって倒れるということは、気絶するくらいかと解釈することもできました。
しかし、このゲームにはそもそも蘇生呪文が存在しません。それに戦闘でHPが0になった場合は、そのほとんどが京に戻ると死んでしまいます。外へ出ている場合は、一応死地を脱したとして、健康度とよばれるこのゲーム独自のメーターが1になって行動は可能になりますが、健康度が低い状態で京にもどると亡き人になってしまい、二度と復活しません。
このゲームでは、ライフポイントのほかに健康度というものがあります。新しい概念ですし、ほかのゲームにはないので説明しづらいのですが、例えばライフポイントが8割程度になると健康度が注意になり、すばやくフィールドを走ることが出来なくなったりします。このゲームではHPが0になれば取り返しがつかなくなりますから、今までのゲーム以上にHPには気を付けなければなりません。そのため、ドラクエやFFではHPが半分くらいでも特に気にしなかったのが、ここでは常に8割以上を保っていなければならないことになります。かなりリアリティをゲームのなかに持ち込んだシビアなゲームになっているということができるでしょう。ゲームとは本質的に虚構、フィクションの世界ですが、そこへリアリティを持ち込むというのは、ゲームという概念を越えようとしている試行だと思います。

-ゲームの時代性-
今年の春にプレイし、考察したドラクエⅦは、発売が2000年。ドラクエⅦは私が考える限り、キーファ=オルゴ・デミーラ説をしようとしたものの、あまりの鬱展開に何らかの圧力がかかり、直前で有耶無耶にして挫折してしまったということだと思います。ドラクエ史上最も鬱展開な作品となり、それは同時に神ゲーになるチャンスだったものを、ドラクエという大きなブランドの規制によってなし得なかった時代性というものを考えてみたいと思います。
2010年付近を境に、まどか☆マギカなど今までの概念を覆す作品が登場しました。広い意味での文学に大きな革新がおこった10年前後から約10年前、2000年前後でも大きな革新があったと私は感じています。
当然1000年代が、2000年代に変化するということもあり、コンピュータが正常に作動しなくなるのではないかなど、終末的な思想がはやりました。何か終わるのではないか、バブルがはじけて右肩下がりの状態であった90年代後半は、社会的な状況や状態からも、文学に大きく影響を及ぼす時期にあたったのだと思われます。このあまりにも異色なRPG『俺の屍を越えてゆけ』が登場したのは、そうした時代性があったからだと私は感じました。俺屍は、冒頭で自分の父が殺され、母が鬼の手に落ちるという事実からはじまります。いきなりこんな鬱展開のゲームはそうありません。そうして、主人公は、ここはオリジナリティーが高くよく創造することができたと感心しますが、二つの特殊な呪いをかけられます。一つは短命の呪い。おそろしく早く成長するかわりに、二年たらずで寿命を迎えてしまうというものです。ゲームの設定上では舞台は平安の京となっていますから、当時の人間の平均寿命が50以下だったとしても、2年という寿命はあまりに短すぎる。常人の20倍以上の速さでおいていくという呪いです。
そうしてもう一つが種絶の呪い。人間とは交われないようにして、徹底的に主人公一族を根絶やしにするという魂胆です。ここで一つ浮かびあがる疑問は、なぜ朱点童子はこの時初代主人公を殺さなかったのかという点ですが、これは、ある程度成長して「入れ物」である赤い姿の朱点童子を倒してもらうためにわざと残したということでしょう。
このゲームの問題点は、複雑で重厚なストーリーがあるのにもかかわらず、プレイ時間が長くかかってしまう点と、それぞれの重要な人物によってそれぞれの視点から語られるため、プレイヤーが断片化されたストーリーを自分のなかで構築できないという問題です。
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