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現代を読み解く女性文学 角田光代『空の拳』への試論 感想とレビュー 内容空疎の物語に対する批判

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-初めに-
 2012年に発表された『空の拳』は角田光代氏の最新作。日本経済新聞夕刊での連載を経て、ハードカバー本で500ページに及ぶほどの文量のある長編小説です。実際に作者自身がボクシングを10年間続けていたということがあり、写実性に富んだ作品として紹介されていますが、私はこの作品を作者のこれからの向上と成長のために、この作品に対して批判的にならざるを得ません。単なる誹謗中傷ではなく、私個人としては角田さんの作品は好きですしすばらしいと思っていますが、この作品だけはいただけないと感じ、何がいけないのかを論理的に論じます。

-空の拳はからのこぶし-
 産経ニュースの書評にはこのようなことが書かれています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121125/bks12112511030013-n1.htm
物語は大手出版社に就職した青年がいきなりボクシング雑誌の編集部に配属になる場面から始まる。ボクシングなどに全く興味がなく、むしろ馬鹿にしていた青年が次第にのめりこみ、選手たちの試合に夢中になっていく。いわば青年がボクシングを通して成長するさまを描いた小説となるけれど、メインは同じジムの選手たちの試合にある。
 ふつうなら、ジムの経営やマッチメイクの不透明さを際立たせ、なおかつ友情や恋愛の脇筋を盛り込んで、大試合を終盤にもってきてカタルシスを与える物語にするのに、作者はそれを選択しない。波瀾(はらん)に富む物語ではなく、拳闘の肉体性と精神性を捉えた細部で読ませる。エンターテインメントの手法を駆使せず、作者の出自である純文学的な方法で拳闘の無垢(むく)の美しさを追求しているのである。
 すなわち「不思議なものだ。ボクシングというスポーツは、その人の、自分でも気づかないような特性を際立たせる」「強いやつが勝つんじゃないんです、勝ったやつが強いんです」「強さ弱さとは、試合内容とは、勝ち負けとはまったく関係ないところで評価される」といった思索がめぐらされ、青年の内面を鍛えていく。いわばジムでの経験と試合観戦が魂の成長を促す。さしずめ精神のロードノヴェルだ。きわめて清新で独創的な小説といえるだろう。(日本経済新聞出版社・1680円)


物語のあらすじは上に譲りますが、私が指摘したいのは、この物語の主人公は一体だれなのかという点です。この小説は三人称空也視点で描かれる小説です。編集者として記事を書いていることから、もしかしたらこの作品が空也自身が客観視して後年書いたものと考えることもできると私は思います。
ただこの作品は主人公たるべき空也がほとんど活躍しません。彼は主人公でありながら、貧弱で、どちらかというと私のように非力で文章ばかり扱っている人間ですし、どこかおかま的であります。その彼が自分の望んでいないスポーツ部門の配属となり、いやいやながらボクシングの観戦をしていく中で一体何が描かれるのかということがこの作品の根幹になってきますが、私はその中身が欠如しているのがこの作品の決して隠すことができない大きな欠陥になっていると思います。
空也の視点からジム内の三人のボクサーをメーンに描いていきます。それぞれ空也が通うこととなったジムの生徒です。一人は最後まで勝ち進んでいくことになり、この物語の主人公になりますが、それを見ている空也もまた主人公になってしまっているため、主人公同士邪魔しあって、何がメーンなのかを不明にしています。他の二人は、空也の友人たるべき存在ですが、空也が別段本気でボクシングをしているわけでもなく、またどこか自分は記者としてここにきているからという逃げの姿勢をとっているために、どうしてもこの二人との関係性が構築できません。二人のうちの一人は結局ジムのトレーナーによって才能をつぶされるという結果に終わります。しかし、そのことの不条理さを空也は見ていながらそれに対して何のアクションも取りません。もう一人のジムの同期の人間もあまり派手な活躍はせず、「だから?」の一言で終わってしまうという残念さです。

これだけ多くの文章が書かれていながら、内容は実は何も無いというのがこの作品の正体なのです。空也がいやいやボクシングの観戦を続け、それに熱中するも、その部署がなくなることとなって、最終的に自分が行きたかった文芸部へ入ることができます。この作品では空也の存在がまったく不明確ですし、自己同一化が出来ていないというのが最大の欠点です。結局空也がなにをしたかったのか、作中の長い時間の中でそれが明確にならないままに終わってしまいます。空也はボクサーとしての自己同一化もできなければ、スポーツ部門の記者としての自己同一化もできない。最終的に自分が行きたかった文芸部に入ることができたものの、そこに自己同一化ができるはずがないのです。作品上9,9割をボクシングを観ることをしてきた空也が突然最後の最後に文芸部で自己同一化が出来たらこの作品は消えてなくなります。結果文芸部にも自己同一化ができなくなる。空也はその名前が現す通り、内容空疎な存在なのです。無です。だから、この作品のタイトルの『空の拳』は恐らく空也の拳という意味に読むことができますが、私が指摘したいのは、からの拳という側面です。実際は何にもないということがこの作品の本質なのです。

-内容空疎の物語を一体だれが読むのか-
 描かれている内容が無であることがわかりました。ではこの小説は何を描いているのか。そのほとんどはただ単にボクシングを写実的に描くというだけです。作者レベルではフィクションとノンフィクションの中間を書いたというようなことを述べていますが、今回の作品はそれが見事に失敗してしまったということになると私は思います。フィクションとノンフィクションの間でものを書くことの意義とは一体なんでしょうか。これ自体は決して否定できるものではありません。フィクションという作り物のなかに、どれだけリアリティーを求めるのかという、ものづくりをする人間が求める心情はごく当然のものです。しかし、今回の作品に限っては、この長大なボクシングの描写と、それに不釣り合いな空也の内面。ただボクシングをしている描写を描いただけで終わりというものになっています。その部分ばかり肥大し、内容「空也」になってしまっているのです。

 私個人としては運動が大の苦手で、スポーツをほとんどやりませんから、この小説を読んでも一体何が起きているのか読んでいて全く想像できませんでした。おそらくボクシングというスポーツを題材とした時点で、ファンの方には誤解を与える可能性がありますが、一般的にそこまでメジャーなスポーツでないことからも、多くの読者にこの描写を想像することはできないでしょう。この小説は一体だれが読むのか、誰のための小説なのかということが完全に不明になっています。ボクシングをしている人間であれば、読むことによって描写の内容を想像することができるでしょう。しかし、想像できたところで内容空疎ですから、読んでもなんにもなりません。特にボクシングをしている人間がこの小説を読むとも限りませんし、読んだとしてもその本人に対して何かフィードバックされるものがあるかというと、私が読んだ限りないだろうと思われます。

-終わりに-
 スポーツを描写するという作家としての試みはすばらしいものです。音楽評論家であり先日亡くなった吉田秀和は、彼の評論よりも多いかもしれないと本人がいうほどの量を相撲を描写するということにささげています。彼は相撲を文章化することを通じて文章力を向上したのです。しかし、それは自分の文章を鍛えるためであって、それ自体は作品にはなりません。やはりこの作品も、その試み自体は大変すばらしいものですが、本来であればこれを練習としてなにか別のことを書くべきだったのです。その練習をそのまま出版してしまったために、内容のない、ただ空想のボクシングを描写しただけの作品になってしまっています。
 精神的に向上しなかった空也の視点で描いたというのもまったく理解に苦しむことです。通常であれば物語の主人公になる立花という唯一きちんとボクシングに打ち込んだ人間を描くはずです。彼は実際に精神的な向上も見られますが、ボクシングを嫌っている空也の眼を通して見られるので、それがよくわからない。なぜ立花視点で描かなかったのかというと、フィクションとノンフィクションの間で描こうとしたからです。立花の視点になると物語が狭まってしまいます。私はその方がひとりの人間の成長を描けて良いと思っていますが、空也の視点を選択した時点でその可能性は消えました。何もかも失敗した挙句に内容空疎になってしまっているというのがこの作品の本質だと私は思います。
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現代を読み解く女性文学 角田光代『八日目の蝉』への試論 感想とレビュー 現代家族の在り方への厳しい批判としての小説

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-初めに-
 角田光代文学最高峰とまで呼ばれる『八日目の蝉』。まずドラマ化がされ、大ヒット。その後映画化もされました。原作、ドラマ、映画と、それぞれのラストが異なっている点なども本当は論じていきたいのですが、ドラマ、映画を全部見ていないのでそれはほかの研究者に譲ります。
 一つ私が言えることは、そのようにラストが変化するということは、いずれも解釈が自由である点と、それぞれの製作者が、新たに物語を構築できるという多義性があるということでしょう。

-罪の問題-
 赤ちゃん泥棒というのが、一時期話題になったことがありました。この作品もそれをモチーフにして書かれていることは確かです。赤ちゃんというのは人間の神秘です。私は男ですので、子供を産むことは当然できません。子供を産むという行為がどういうことなのかも実感としてわかってはいません。
 この作品は、0章、1章が希和子の物語、2章が薫ことリカちゃんこと恵理菜の物語です。さらに正確にわければ0章は三人称、1章は希和子の日記体の文章です。
 秋山丈博という恵理菜の父親が、不倫した相手が希和子でした。そうして希和子との間に子供ができたのですが、丈博は自分の本妻との間に恵理菜ができたばかりで、希和子の子供も認知することができなかったので降ろすように頼みます。
 丈博の妻であり、恵理菜の母である秋山恵津子は、夫の浮気相手である希和子に対して執拗なまでの攻撃をします。電話をかけ、時には夫との性生活を自慢し、時には別れろと怒り、時にはなく、このような精神攻撃と同時に、希和子は子供を降ろすことによって二度と子供を産めないからだになってしまいました。それを恵津子は「がらんどう」と希和子のことを指して攻撃しました。
 一体だれが悪いのか、1章と2章とで共通しているのは、優男です。1章では丈博が、2章では岸田という男が、諸悪の根源でしょう。しかし、そのような男が悪いとはいえ、一種のヒステリーを持った恵津子もなんの責任もないと言えばウソですし、また丈博と関係をもった希和子も責任がないと言えばウソになります。すなわち、この三角関係は全員が何がしかの罪を負っているのです。その中から生まれた恵理菜は、激しい人生に翻弄されます。
 
 「がらんどう」と言われ、自分の存在自体を否定された希和子は、窮鼠猫を噛むごとく、秋山夫妻の赤ちゃんを奪って自分の子供として育ててしまいます。もちろん法律上裁かれるのは希和子だけです。ただ、それは法律の話であって、文学は裁かれない人間の罪をも描き出すのです。希和子をそこまで追い詰めた秋山夫妻になんの責任もないとは言えません。
 2章で明かされる恵理菜自身の語りには、希和子のほうが優しい母として記憶に残っています。この二人の母を持つという経験をした恵理菜が見て、そうして考え、これからをどのように生きていくのかということが問題なのです。
 ある意味で言えば、これは文学作品ですから非常に異端な例を取り上げていますが、これだけ広く読まれヒットしたということを考えると、普遍性があることになります。それはやはり現代の家族のありかたでしょう。核家族化などに、ある意味では非常に厳しいメスを入れた作品でもあります。

-過去と向き合う-
 1章は、希和子による一人称の日記体の物語です。あとで裁判の証言として2章で1章の内容が客観化されるのですが、1章ではなかった部分が2章で明らかにされたりと、ミステリーの要素も一部あります。希和子自身は赤ちゃんを取り去ったあとに、火をつけたということは全く記憶していないのですが、どうやら秋山宅は火災が発生しています。2章では裁判の記録として、もしかしたら赤ちゃんを取り去ったときにストーブを倒したかも知れないとして、希和子が実は放火していたというように考えることもできます。希和子は「がらんどう」だったのですから、それを埋めるために恵理菜を連れ去らなければいけないことになりました。そうして自分の証拠を残さないため、あるいは事件の発覚をかく乱するため、あるいは恨みのために放火したとも考えられます。私はさらに、家に戻ってきた恵津子が、動転して自宅に放火したとも考えることが可能だということを指摘しておきます。
 しかし、この三角関係と赤ちゃんの奪取、これで得をするのは誰かというと、実は誰もいないということに気が付きます。希和子との一時的な母子関係が構築できるということはありますが、逮捕されるのが前提で行っていることですから、やはり誰も徳をしないのです。みんな損をするという関係がここに浮かんできます。1章は希和子の日記のような物語ですから、私たち読者は希和子の逃亡劇の一部始終を資料として読むという格好になります。
 もしかしたら、これは2章で登場するマロンことフリージャーナリストの安藤千草が集めた資料の一部かも知れません。それをもしかしたら恵理菜は読んでいるのかもしれません。
 
 15年という年月を経て、かつて犯罪者によって連れ去られ、育てられたという過去を持った恵理菜というひとりの人間がどのようにその人生に向き合っていくのか、これは、私たち核家族された家族の問題をもつ現代人と共通する問題なのです。だから、この小説には普遍性があり、恵理菜の追体験を読むことによって読者もまた救われるということがこの作品の共感性でしょう。
 なかでも面白いのが、エンジェルホームの存在。これは、作品の時代性を強調するために、すこしいかがわしい新興宗教てきな要素としてももちろん考えられますが、それ以上に、そこでの関係性が問題になるのではないでしょうか。赤ちゃんを連れ去ってしまうという心の荒廃した人間、しかし、その人間だけが悪いわけではないかもしれないという示唆が一つ。それから、時代性を強調するように見せておいて、実はエンジェルホーム内の人間の関係性が現代への批判になっているというのが、重要だと私は思います。
 男性を排除した、一種キリスト教的な修道院を彷彿とさせる修行団体。しかし、ここで青年期を育った安藤千草は男性恐怖症と戦っています。そうして、そのような場所につれていった母もまた、自分の娘を巻き込んだことに後悔し、娘の自由にさせているのです。こうした破壊された関係性とどうむきあうのか。
 恵理菜にとっては、自分の母親が二人いることになります。優しし母は犯罪者、怖い母は実の母。どうしようもない父、唯一まともに話すことができるものの、一人暮らしをしてからはめんどくさくなってほとんど接点を持たないようにしている妹。はっきり言って彼女は何も悪くないはずなのに、こうした不運に見舞われたために、人間との関係をうまく構築できないようになってしまいました。しかし、では誰を恨むのか、そういう問題にはならないのです。
 自分が子供のころ希和子とともにたどったルートを再び大人になった今追体験するということを通じて、過去と向き合う姿勢を見せます。そうしてこれは血なのでしょうか、父とにた優男、本妻のある岸田という男の子を授かります。しかし、「がらんどう」にならないためにも、シングルマザーになることを決意するのです。

-終わりに、八日目の蝉-
 八日目の蝉とは、誰のことでしょうか。誰も経験しなかった、みんないなくなってしまった世界にひとりでいることです。それは希和子でもあり、恵理菜でもあります。恵理菜はだれも経験しなかったことを経験することによって、それは確かに不幸ではありますが、それを見つめて向き合うということが重要なのだと気が付きます。これが、やはり現代の家族の問題にも共通していえることなのではないでしょうか。
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Author:幽玄

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