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有川浩『レインツリーの国』 感想とレビュー

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 僕は去年の夏、ある学校で教育実習をした。いくら教育実習といっても、そこで僕の授業を受けた生徒たちにとって、僕はまぎれもなく彼等、彼女らの先生である。そこに「実習」だから先生ではない、というような心構えは許されない。
 さて、僕は国語を教え、本を読むことを教えたのだが、そのなかのとある生徒が先生『レインツリーの国』を読んだことがあるか?ということを聞いてきた。有川浩の本は図書館戦争シリーズしか読んだことはない。あといくつかの本は自分の本棚にあるがまだ読んでいなかった。レインツリーも読んでいなかった。そこでその子は先生の感想を聞きたいと述べた。だから、僕は今回こうして、やや時間が経ってしまったのだけれども、本を読んで感想を書いているわけである。

 その子はものすごくこの本が好きなようである。人が好きなものに対して感想を述べるのは、正直大変むずかしいものがある。その子の「好き」という感覚は、その子だけのものであり、それは特権的なものなのであるが、やはりどうしても僕とその子の間には、教師と生徒という力関係が生じてしまう。そうした力関係のある場においては、僕の感想がその子の感想に影響しかねないのだ。何を恐れているかと言うと、僕の感想が彼女の感想を破壊したり、傷つけたりしないかということを恐れているのである。
 だから今回僕はいつものような好き勝手なことを言って、例えば「おまえが馬鹿だということがわかる」というようなコメントをいただいてしまうような書き方をしてはいけないということなのだ。やれやれ。

 前置きはこのくらいにして内容に入ろう。
 正直言って、図書館シリーズを読んだ際、当初はよく調べられているし、有川浩ってすごいなと感心したものである。が、図書館シリーズの外伝の二冊を読んだ際に、彼女のいわゆる「青春菌」みたいなものにあてられて、しばらく有川浩は読みたくないなと胸やけを起こした。だから、今回のレインツリーでも、冒頭のメールのやりとりで、「青春菌」をぶちまけたようなメールの応酬には、はっきりいってつらいものがあった。一度などは、読んでいた手を落として、「ああ」と空を仰いでしまったくらいである。
 そのベタベタな感じはいつまでも私は苦手であるが、それ以外のところでは割と真面目に読むことができたと思う。
 まず冒頭のメールのやりとりであるが、これを僕はある種のリアリティをもって読むことができた。というのは、僕もこのレインツリーの国のように、偏屈文化人のブログという一つの国を持って、好き勝手なことを書いているブロガーの1人だからである。そうして、そこにやってくる人達と、このような、とはいかないが、何かの本や映画の感想をめぐってメールのやり取りをしたこともある。だから、この感覚というのはよくわかるのだ。見たことも会ったこともない赤の他人と、その作品ひとつで交流する。その際の、もし解釈が違っていたら、感じ方が違っていたら、それでその縁が終わってしまうのではないか、というはらはらするような感覚の交流というのは、良く知っているのである。だから、その辺はとてもリアリティがあるなと思って読むことができた。
 ベタベタな展開を経て、この作品は中盤から後半にかけてかなりシリアスな展開になっていく。
 有川浩がうまいなあ、僕も小説を書いているけれども彼女のようになれないなあと思うのは、そこに登場する人物たちの生き生きとした様である。この小説は登場人物が二人。他にも端役はいるが、主に二人の人物しか登場してこない。その人物たちが本当にいるかのように、存在しているかのように感じられるのである。これは大した技量だなとうならずにはいられない。
 何がすごいって、彼、彼女の言葉の応酬がすごいのである。これは一人の人間から生み出せるとはなかなか考えられないものだ。本当に思考も感じ方も違う二人の人間がいるとしか思えない。だからきっと有川浩には二人の人格がいるのではないか、と思わせるほどである。
 まあ一つ文芸評論家的なことを言わせてもらえば、そうは言っても、やはり有川浩は登場人物の口調を一人は関西弁にしなければならなかったということに着目すると面白い。というのは、人間はそれぞれ文法を持っており、たとえば内気で日本ではとても異性に告白なんかできないような人間が、英語圏で英語で話していると英語で簡単に告白ができてしまったりするという例がある。これは言葉が変われば、それによって思考の変化も生じるということの事例である。だから、有川浩はこの二人の人物を描き出すために、1人は東京弁、1人は大阪弁にすることによって、自分のなかで思考を変化させていたのだろう。


 この小説には、珠玉の言葉がぎっしりとつまっている。
 伸:いろんな物事にフラットになるには、ハンデやコンプレックスがあるときついねん。聾の人も一緒やないかな。耳悪いのは一緒やのに君らは喋れる。ちょっとでも聞こえたり喋れるほうがずっとマシやのに、私も同じ苦労してます、仲間ですって顔されたら、虫の居所悪かったらむっとするんちゃうかな。だってしゃあないよ、人間て八つ当たりする生き物やもん。

 伸:理想の人なんかおれへんよ。単に条件が違う人間がいっぱいおるだけや。その中には人間できてる人もできてない人もおんなじようにいっぱいおるよ。ていうか、できてる部分とできてへん部分とそれぞれ持ってるんちゃうかな。みんな聾も中途失聴も軟調も、同じハンデ抱えてる分だけ「あの人は私よりマシ」とか「羨ましい」とか「妬ましい」とか余計にあるんちゃうかな

「見過ごしたくて見過ごしてるんじゃないんです。言ったじゃないですか、意味ないからって。無駄なんですよ」
ひとみの声は今まで聞いたこともないほど投げやりだった。
「ああいう人が私の障害知らされたからって、後からでも『知らないひどいことしちゃったね』なんて思うと思いますか? あいつらキレイごと押しつけてウザイ、むかつく、恥かかされたくらにしか思いませんよ。そんで『障害者はウザイ』しか記憶に残らないんですよ、どうせ」
「そんなこと分からへんやんか・・・・・・」
言いつつ伸行の声も歯切れが悪くなるのが正直なところだった。
「後で寝覚めの悪い思いくらいはするかもしれへんやろ」
「それでも『世の中には耳が悪い日ともいるから、後ろの気配に気づけない人がいてもイライラしたら駄目だね』なんてあの二人が思うと思いますか? みんながそこまで思ってくれるならその度に言う意味あるけど、そうじゃないならその度に私の障害をひけらかされたくないんです。だって『この人耳が悪いのね』って周りの知らない人に哀れるのは伸さんじゃなくて私なんだから」
その投げやりな声が、ひとみが今まで裏切られてきた回数だ。―世間から。
「だから私、ああいう人はもう同じ人間だとは思わないんです。同じ形しれるだけの別の生き物。だから理解したり気遣いあったりもできないの。あれは、私にとっては人間じゃないの、もう」
それは君からああいう奴らへの差別じゃないか、などというキレイごとはさすがに口に出す気になれない。差別されることに敏感で、常に差別されることに苦しんでいる君らが、ああいう連中を逆に見下すことで差別するのか、なんて理屈を言うのは簡単だ。しかし、ひとみがそう思うようになるまでどれだけのお逆風を受けたかを思えば。
だが、見下す『健聴者』の側に自分も入れられていることに気づいてしまったのがいけなかった。伸行はこの場合、ひとみという難聴者の苦悩を理解できない無神経な健聴者というカテゴリーに入れられているのだ。
特権みたいに傷ついた顔をされるのも癇に障った。
「・・・・・・そうやって世界で自分しか傷ついたことがないみたいな顔すんなや」
抑えようと思う前にもう吐き出していた。ひとみがどれだけ自分をタフで大人だと買ってくれているかは知らない、しかし伸行もまだ二十代半ばの若造で、その限界は厳然とあるのだ。
「いっつも自分の耳悪い苦労ばっかり言うよな。気遣いに行き届かへん俺を責めるよな。でも、君かてちょっとでも気遣ったことあるか? 俺にも君みたいに傷ついた昔があったかもしれんとか思ったことあるか? 伸さんはすごい、伸さんはえらいって都合がええときに都合のええところだけつまみ食いで誉めてもらっても、こっちかてたまらんときはあるんやで」
言っても仕方がない、だから言わなかった。そうした自分の弱さを人に投げつけるのは伸行のプライドに添わないが、もうそんなものに構っていられない程ひとみからの小さなトゲは限界だった。


 痛みにも悩みにも貴賤はない。周りにどれだけ陳腐に見えようと、苦しむ本人にはそれが世界で一番重大な悩みだ。救急車で病院に担ぎこまれるような重病人が近くにいても、自分が指を切ったことが一番痛くて辛い、それが人間だ。

 「レインツリーの国」には、このような心に刺さるような名言がちりばめられている。これだけ理屈っぽい登場人物たちを描けるのだから、おそらく有川浩自身もかなり理屈っぽいのだろう。そこは例えば江國香織とか川上弘美などに代表されるような感覚的な作品とは異なってくる。特に最後に引用した、自分のささいな痛みと他人の重大な痛み、どちらが優先されるのかといえば、当然自分のささいな痛みであるということは、僕もつねづねそう思っていたので、僕は共感できた。
 おそらくこうした理屈に共感できない読者もいることだろう。それは理屈にも種類があるように、理屈のなかでも別の理屈を持つ人や、あるいは感覚的な人もいるかもしれない。だから、全員がこの小説を納得、共感できるわけではないだろうと僕は思う。たまたま僕はこの小説と、というかこの作家と、理屈面においてはそりが合ったということなのだ。

 最後に。この小説はほんとうに「ことば」を大事にしているな、と思える作品であった。主人公の女の子が中途難聴者であり、言語に不自由なこと。主人公の男の子は大阪弁という方言を駆使していること。メールのやりとりに始まり、書き言葉や話し言葉の応酬が絶妙であること、などなど。この作品がありとあらゆる「ことば」をテーマに、それを大切に扱っていることは、作品のいたるところからひしひしと伝わってきた。僕も文学部の人間であるのだから、本来はこのくらい「ことば」に対して敬意を払って接しなければならないのかもしれない。普段は手抜きをして、適当な言葉を使ってしまっているのだけれども。
 もちろん娯楽小説としても読むことはできる。この小説の主軸は男女の恋愛だ。だが、私は通常の娯楽小説では得られない読書体験をこの本からは受け取ることができると思う。それは作者の言葉にたいする慎重な姿勢だったり、障害や差別と言うことに対する鋭い視線だったりするのだ。私はこの作品で改めて障害とは何かということを考えさせられた。そしてまた自分はどこまでいっても自分でしかなく、他人のことまで考えられないのが人間だということも。障害を持つ相手をいくらおもんぱかっていても、それは結局その人の障害ではないのだから、本質的には分かり合えないのだと。しかしだからといって諦めるのではなく、その先を行こうとするこの主人公二人の姿に、僕は人間にはそういう可能性もあるのだなという明るい未来を見ることができた。
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現代を読み解く女性文学 有川浩『阪急電車』試論 感想とレビュー 群像劇からみる多義性の重要性

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-初めに-
 『図書館戦争』シリーズで一躍有名となった有川浩。ライトノベルのジャンルで活躍してからは、『旅猫リポート』や今回論じる『阪急電車』などの大衆文学へも進出してその才能を発揮しています。部類の本好きで、紛れもなく現代の本のソムリエの中でも最高の眼を持っていた児玉清に絶賛され、もはや彼が手放しで評価するレベルの信頼を得たのが有川浩です。有川浩の小説の解説には、いつも児玉清の解説か、対談がのります。しかし、児玉さんの死去によってそれもかなわなくなってしまったことが残念でなりません。
 児玉清が評価したのは、読みやすさと面白さという二点だと私は感じています。おそらく児玉清なら『abさんご』は評価しなかったのではないかと予想していますが、読みやすさや面白さを評価して大衆文学をより多くの人々に広めることに尽力した人間といっていいでしょう。私は文学を専門にしていますから、そうした一義的な価値観はいけないと言っているのですが、児玉清が行ったことはある意味すばらしいことだと思います。

-有川浩という作家、どこにカメラを置くのか-
 有川浩にしては珍しい群像劇的な小説です。阪急宝塚線を舞台として、一駅ごとに乗客のある一人の眼を借りて物語が進むというショートショートの形式でもあります。しかし、それらの短い話同士は、おなじ車内にいた人間が少しずつ絡んでいて、映画『マジックアワー』の映像の切り替えにも似た、ある人間の視点でみえていた人間に視点が移っていくというような手法を採用しています。ですから、読者はさっきあの人の視点でああいうふうに見えていた人の視点に変更したんだと理解することが出来、物語を別の角度から眺めることができるため、感情移入もしやすいですし、なによりも物語を楽しむことができると思います。
 図書館戦争もある意味あの長大な物語のなかで、笠原郁、堂上篤、柴崎麻子、手塚光などの主要な登場人物たちの視点を巡る物語として様々な視点を取り入れるということには成功していました。有川浩は、児玉清との対談でも話していますが、プロットをつくる作家ではないということを本人は言っています。ですから、そうした点においては、今回の『阪急電車』は最初から一駅分のお話と細切れにされた枠組みがすでに決まっていたのですから、作家としてはプロットに本格挑戦したということになるのではないでしょうか。そのためかわかりませんが、前半では、一度電車を降りたはずの人間が電車に乗り続けていた人間と後で会うという矛盾が生じていますが、物語の面白さには傷をつけてはいないと思います。

 小説という不思議な生き物にも似た存在を分析するとき、最も大きく考えられる二つの糸は、人物という視点の糸と、場所という糸です。人物が横の糸だとすると、場所は縦の糸です。小説はこの二つの糸が複雑に絡み合ってできた布のようなものと考えることもできます。通常の小説はこの横の糸、人間の視点がほとんどです。ですから、人間の視点に合わせて移動しますから、場所はとぎれとぎれになるのが当たり前です。ところが、この小説は縦の糸、場所をつたっていく物語です。ですから、その縦の糸にぶつかる範囲でしか人間は描かれません。語り手はそれぞれのカメラをどこにおくかを考慮するものですが、例えば作家が主人公の後をつけていくような感覚であれば、三人称小説になります。ある人物の眼をカメラに見立てた場合は一人称小説になります。この小説は、場所にカメラを設置した小説と考えることができるでしょう。阪急電車の中にカメラを持った語り手がいます。この語り手は阪急電車から遠くへは離れることができないのですが、ある車両で注目した人物の後ろからカメラを回します。そうしてその人物が電車から降りるなりなんなりして小さな物語が終わると、今移していた中で次にその人の目線からカメラを回すためにちょっとだけポジションを変更するのです。通常小説の語り手というものは概念的で一体なんなのかまだよくわかっていないものですが、この小説では作家の眼というか、語り手の視線というものが、あぶりだされる格好になっているとも考えることが出来ます。
 ある意味ではカメラをどこにおくのかということを認識するのはノンフィクションライターの手法でもあります。もし自分がその場所に立っていたらという前提で事実であろうことを描こうとする。当然その場にいたことはないのですから、ノンフィクションというのは突き詰めればフィクションなのですが、それは置いておいて、そうした手法に似ていると考えることもできます。とにかくものすごい資料を入念に調べ、その精緻な知識からリアリティーを創造していた作者が、別の手法を用いてリアリティーを創造しようとしているという点は、作家の研究としてはおもしろいかもしれません。

-群像劇からみる多義性の重要性-
 小説の構造としては最初と最後の従志という人物だけ一人称と三人称がまざった形式で描かれ、後の登場人物はすべて三人称で描かれるという手法になっています。この形式であれば、ネズミ算式に登場人物を増やすこともできますが、敢えてそれはせず、途中で登場人物を制限しています。後半は反対方面を走る電車にカメラが移りかわりますが、そこでは約半年ほど経った後の話になっています。前半ではじまったそれぞれの物語がどのように変容したのかというものを楽しめる形になっています。
 それぞれの視点で描かれるということが一体どのようなことを浮き彫りにするのでしょうか。こうした群像劇は映像化すると非常に細切れ的な映像になっていまいますから、映画版はどのようにその点をクリアしたのか確認してみたいです。ある主人公の視点で物語を追っていくとその主人公の主観でしかものを判断できなくなります。その主人公と作家の考えがことなれば、作家が語り手として登場して、主人公はこう思ったが、実際は違ったというような説明を入れることでしょう。しかし、こうした群像劇ではある登場人物はその登場人物のままかなり強い断定的なものの見方をすることができます。なぜなら、その断定的な見方も別の視点の価値観によって相対化されるからです。恋をする若い男性、恋を捨てる女子大生、元教師の正論を付く老婆、寝取られたOL、恋が始まる男子大学生、これらの人物が代わり登場しますが、それぞれがそれぞれの考えを持っていて、それらが視点が変わるごとに相対化されます。ですから、ことなった考えの持ち主たちが生き生きと動いているように見えるのです。
 
ここに文学的な意味を見出すとしたら、相対化された価値観の重要性だろうと私は思います。単にそれぞれの登場人物が個性的で、それらの人物は主に恋愛に関係した話が多いですのでただ単に面白い。しかしそうではなくて、恋愛もより大きな視野で捉えれば人間と人間の関係ですから、この小説の本質は、人間同士の関係性を巡る物語であると考えることもできます。ある主人公がいると、関係性はその主人公の回りにしか展開されません。その主人公の視点からしか関係性を見ることはできないのです。しかし、場所にカメラを設置したことによって、人間同士の関係性というものが浮き彫りになります。本来ならば、主人公の眼を通していったほうが人間同士の関係が浮き彫りになりそうなものですが、敢えて場所に設置することによって逆に人間の関係が浮き彫りになるというのは面白いことです。その結果としてはその後その関係がどうなったのかということを追うことが出来ないという欠点はありますが、折り返しによって半年後の関係をも描くことによって、この点を見事にクリアしています。場所に視点を置くというのは、少し形がことなりますが、三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』にも採用されている手法です。あの小説は地域という場所にカメラを設置しています。
まったく同じことがらが起こったとしても、観る人間、観る立場によって見え方が違う、解釈が異なるという点がこの小説の極めて重要なテーマではないでしょうか。中にはある一定の同じ考えが生まれることもあります。しかし、立場によってそう考えてはいてもなかなか行動に移せないというようなこともあるわけです。事実は一つです。しかし真実は一つではありません。歴史は一つです。しかし、それを様々な立場からみたら解釈は異なります。事実と真実が一緒ではないということを深く認識させられる小説だと思います。

-終わりに-
 3・11もあり、今までの価値観がすべて崩れてしまったのが10年代、現在の状態だと私は思います。今まで信じていたもの、良いと思っていたものはすべて崩れました。綿矢りさの『大地のゲーム』に登場するリーダーという男は、すべてを疑えという価値観を示しています。大きな価値観がなくなった現在、それは例えば今まで存在していた大きなアイドルがいなくなって、グループ化されたアイドル、細分化されて個別化されたアイドルの台頭が象徴的ですが、そうした個人主義の時代になっています。私もこうしたブログを書いて、自分の見方考え方を示していますが、これを他人に話すと価値観を押し付けるなと言われてしまいます。本当は価値観をぶつける必要があるのですが、相手にぶつけるだけの価値観がないと私の押し付けという形になってしまうようです。
一元的なものは安心できます。神は一元的です。だからやはり人間はそうしたものに憧れます。しかしその一元制が崩れたなかで、多元的な価値観が今の価値観ですが、そこからどうやっていくのかということが誰にもわかりません。作家たちも多元的な世界を描いて、そこからどうするのか試行錯誤している状況でしょう。誰も自分の見方を持たないからいけないのです。それが悪い見方でも、何かあればそれに対抗する見方が出てくる。ですから、常に何かの見方考え方が出ることはたぶん必要なことなのだろうと私は思っています。私の見方、考え方が間違っていたとしても、それはある取っ掛かりになるのでいいのだろうと思います。多義性の世界の中でどう生き抜くのか、この問題が小説を通じて、また震災を通じて考えるべきことだと私は思います。

図書館戦争 シリーズ全巻 感想とレビュー 広大で精緻な作品 これはライトノベルとはいえない

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私本が大好きでたくさん読むのですが、最近読み終わって最高に楽しかったのが「図書館戦争」です。
有川浩さんが書かれたものですが、彼女の圧倒的なスケールの大きさ、そして近未来SFなのにどこも無理を感じさせない程に精細に描かれた社会背景や法律など、いつもはどこか粗探しをしてけちをつけたくなる人間なのですが、これはまったくそんな隙をみせない。
「図書館戦争」からはじまり、「図書館内乱」「図書館危機」「図書館革命」「別冊図書館戦争Ⅰ」「別冊図書館戦争Ⅱ」と現代作家にしてはかなりの量です。


図書館の自由に関する宣言
一、図書館は資料収集の自由を有する。
二、図書館は資料提供の自由を有する。
三、図書館名は利用者の秘密を守る。
四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。

図書館の自由が侵されるとき、我々は団結して、あくまで自由を守る。


本編はこの宣言から始まるのですね。はじめに読んだときなんだこれはって思ったんです。勝手に作られたものだと勘違いしたんです。でもこの間図書館にいったら少し目に付き辛い場所でしたが、本当にありました。驚き。
本編は戦争から革命までの四冊、登場人物のその後の日常が書かれたのが別冊の二冊。私この本に本屋で出会ったとき、どうせオタクのような方々が読むものだろうなんて不覚にも思ってしまったんです。読んで外見だけで判断してはいけない、食わず嫌いはよくないということをひしひしと感じまいした。
物語は本をめぐり本の規制をしようとする良化委員会とその不当な規制にたいして戦う図書館を描いたものです。なんだそんなの実現しないよなんて考える方も多いかもしれませんが、そう決め付けるのは軽率かもしれません。
東京都で青少年健全育成条例というようなものが罷り通るこの世では、近いうちに本の内容や表現に対してまで規制がかからないと思うのは考えにくい事態です。しかし、一体大人は何を考えているのでしょうか。子供達に純粋無垢のまま二十歳にまでなってほしいのですかね。じゃあ仮に性的なものに対して何も知識も興味のない人間がめでたく育ったとしましょう。二十歳になったらさあどうぞでしょうか。その後一体何になるというのでしょうね。表現は自由を約束されているはずです、それを都や国、絶対的な権力を持って上から規制するというのはどういうことでしょう。
この小説はそういうことも考えさせるような内容の深い話です。ほかにも差別用語の話など非常にためになる話も出てきます。小説の中に出てくるのですが、「床屋」という言葉は軽度の差別用語らしいです。何故でしょう。私にはこの言葉を差別用語に指定する人間の心がまったくわかりませんね。それから、何年か前のことですが看護婦という言葉も差別用語だとされました。私なんかは看護婦さんなんて聞くと、なんだか暖かいお母さんのような優しさをもった印象を受けるのですが、男女差別だとか言うんですね。表現は国などが勝手にこれはだめこれはよいなんて決められるものですかね。言葉は生きています。文脈によって存在の仕方はいかようにも変化します。皆さんもどうぞ差別用語のあり方について考えてみてください。
さて、話がそれましたが、図書館戦争の魅力はまだまだ終わりません。なんといってももどかしい程の恋愛小説でもあるということですね。私も恋に破れて久しくなりましたが、こんなもじもじして尚且つすがすがしい恋愛小説は久しぶりに読みました。この本外では読めませんね。口元がニヤニヤしてしまって、きっと他人が見たら何だこの変体はってなるからですね。表紙にもありますが、恋愛成分の苦手な方は、十分に体調を整えてお読みくださいとあります。有川さんはただまじめなだけでなく非常にユニークな方だと端々に伺えました。また、図書館戦争、あの児玉清さんも読んでいたんですね。対談がそれぞれ文庫本の最後に掲載されています。
今あなたに勧めたい現代小説は図書館戦争に決まりですね。
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