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桜庭一樹『無花果とムーン』への試論 感想とレビュー 2 異界訪問譚・成長譚として

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-夜のイメージ・生者の思い-
 この小説は、それぞれの段落に意味の不明な記号が付されています。「ΣξÅ」具体的に同じ記号を名前もわからないので探すことができないのですが、今挙げたような記号によってそれぞれの段落が始まるわけです。ここには、もはや意味をなさない、あるいは何らかの意味をなしているとしても、読者にはそれがわからない情報の提示がなされています。これは、ある意味では少女が自分だけがわかる世界に入り込んでしまっているというように考えることもできますし、また、UFOのような未知なるものが出てくる小説ですから、そうした未知なる情報の提示と考えることもできます。
 この作品は、少女の視点による一人称ですが、この少女は非常に人間ならざるものとしての存在感があります。それはまず、彼女がパープル・アイ、紫の眼を持った少女であるという点や、八重歯が発達したのか、「自慢の牙」があったりする点、さらにはその出生が不明で、「若いときのおとうさんが、修学旅行の引率先でうっかり拾って、さらにうっかり情がうつって引き取っちゃったとき、あたしはまだ三歳だった。入れ替わるようにおかあさんが急にいなくなって、それからずっと、四人家族」という部分からもわかります。
 主人公の少女は月夜という名前からも、このように月や、夜、どこか狼男の物語を彷彿させるようなイメージが重ね合わされています。この物語は突然の兄の死から始まります。その死の謎を解き明かすという一つのミステリとしても読むことができるのですが、彼女はその原因を知っているのです。ただ、激しい思い込みによって客観的な事実がゆがめられて読者には情報が提示されない。兄の名は奈落。奈落というのはそのまま奈落の底の奈落のことです。そうした死者の世界のイメージが関連づけられています。小説が始まった時点でこの奈落はすでに死んでいるのですが、その奈落がまさしく、奈落の底からよみがえってくるというのがこの物語の根幹なのです。
 
 突然の兄の死に納得できない月夜は、強い思いで兄を思い続けます。そのため、「魂を半分に裂かれて。死んでいる半分はごーごー焼かれてお骨になったのに、まだこの世に残っている半分は、水の中をゆっくりと、悲しむあたしの隣を流れているところ」と彼女は解釈し、兄の魂が残っているというように感じます。それが、兄としか思えない口笛が図書館で聞こえたりすることにつながるわけです。私は一つ指摘しておきたいのは、この図書館で流れた兄の口笛、「スタンド・バイ・ミーの曲」と月夜は言っていますが、これは原題は「死体」ですし、作品の内容も死んだ友人を探しに行くという物語ですから、そうした関連性もあると思います。
 こうした死者への以上の執着は、ほかの生者に対しては理解されません。月夜はほかにもう一人の兄と父との四人家族でした。その兄や父はこういいます。「―生者が死者に対してできる唯一のことは、”忘れること”だよ」と。しかし、そのように言われると余計に反感を感じる月夜はさらに奈落のことを思うわけです。そうして月夜は夢を見ます。「祈りがあんまり強いから、もどってこられたよ。おまえ、すげぇな。とんでもないパワーを持ってたんだな。生きているときは知らなかったよ。天使様もビックリって感じで、向こうでもなかなか注目を集めてた。」このように兄が夢の中で語りかけてきます。そうして月夜のおかげで少しだけこっちへ帰ってくることができるといい、夢は覚めてしまいます。
 この町はおそらく日本のどこかなのでしょうが、アメリカの田舎にある孤立した町というイメージを抱かせます。この町はほかの町から離れているため、一年に一度旅をする銀色のトレーラーがやってきてしばらく野宿をします。夢のあとに偶然遭遇したトレーラーに乗っていたのは、あまりにも奈落に似た少年でした。しかし、その少年は月夜のことをまったく知りませんし、さらにはほかの人間がみると奈落とは似ていないと言います。
 
-恋をめぐる物語として-
 このトレーラーに乗っているのは、二人の少年「密」と「約」です。この二人の会話は、少女には判別できなような、あの記号の羅列が続くことがあります。これがいったいなにを意味しているのか、現実的に考えたなら、月夜が使用している言語とは全く異なる言葉を使用しているということでしょう。またもう一つはこの世ならざるもの、異世界の言語を用いている、月夜には判別できない、言語化できない言葉を発していると考えることができます。この二人には、その名前があらわすように、一つの密約があります。この二人は旅をし続ける同性愛者なのです。
 この物語のもう一つの恋愛は、月夜と兄奈落の禁断の恋です。奈落がなぜ死んだのかというと、それはそれとなくほのめかされているのですが、アーモンドバーを食べた月夜にキスをしたからです。奈落は極度のアーモンドアレルギーでした。だから気を付けていたはずなのですが、不意にキスした妹が、アーモンドバーを食べていたために、死んでしまったのです。それを自分の責任だと感じている月夜はこのことを隠してしまいます。それが罪悪感となって、兄を呼び寄せることにつながるわけです。また奈落も、言いたいことがあったんだと言ってそのままショック死してしまうので、メッセージが残された状態で死んでいきます。死者のメッセージを聞きたいという願望、あるいは奈落側から伝えたいという願望が、この物語の交流の根源なのです。
 拾われてきた月夜は、奈落とは血縁関係がありません。ですから、法律上は結婚できるはずですが、ずっと一緒に育ってきたということもあり、近親相姦としても読み解けます。また、この小説の舞台となる町は、非常に閉塞された空間です。そこに入り込んでくるトレーラーというのは、外界からの訪問者であり、異界訪問譚としても読み解けます。この閉塞された空間のなかでの禁忌というのが、奈落を殺したとも考えられます。奈落がアレルギーをもっているということは、この町では誰もが知っていることなのです。そうした、濃密な人間関係のなかで、禁忌を起こそうとしたということが奈落を殺したとも考えられます。
 
-成長譚としての側面-
 この小説のカタルシスになっているのは、少女の成長譚としての側面のためでしょう。この小説は、月夜の激しい妄想によるひとり語りと考えることができます。すべて月夜の言っていることが本当だと考えてもそれはそれでいいですが、私は妄想だと解釈しています。
 奈落と思ってかかわったトレーラーの若者。しかし、町の人間たちはこの外からの来訪者に対して非常に冷たくあしらいます。中には、町の少女をたぶらかして連れて行ってしまうものもいると月夜を脅します。ただ、これらの回りの人間の助言はすべて、奈落のあとを追いかけて死者の世界に行こうとしていた月夜をとどめようとしていたとも考えられるのです。テクストの最後で、奈落と二人で旅立とうとするのを、かろうじてほかの人間たちが救出します。そうして、奈落の語りが挿入されます。死者になろうとしてしまった月夜をみて、兄も父も、また残された人々も、考えがかわります。死者を忘れるのではなくて、自分の中に存在を見つけて、共生していくこと、死者を生きた者たちで覚えていて、ともに悲しむことが必要だというように変化するのです。
 そうして、月夜は奈落を追いかけることをやめ、またこの閉塞された空間としての町から旅立つことを決心します。月夜は「十八歳は制服の夏服。十九歳はみんな喪服。一歳違いなのによくわからない一線がビシッとひかれているみたいだった」と冒頭で述べていて、そこからずっとこの一歳の壁というものを考えていました。奈落は十九歳です。そうして奈落の友人たちも十九歳です。月夜はこの一つの年齢が、自分にとって大きな意味を持つと考えていました。拾われっこである彼女は、自分が十八歳というこどもであり、庇護の対象となる存在から、十九歳となりこどもとして扱われなくなることに対して異常に恐怖を感じています。それは十九歳になったら、自分は家を出ていかなければいけなくなると考えていたからです。その根拠がどこからきているのかは不明ですが、このような閉塞された空間のなかで、彼女が町中の人間に拾われた子として位置づけられていることから、社会的な抑圧やまなざしを感じているのは確かでした。だから、その世界から抜け出すために、一種自殺願望にも似た、奈落との交流もありました。ただ、それは結果としては外界からやってきたトレーラーの若者、ある意味では奈落によって、死者の世界に旅立つことよりも、町から出てほかの世界を知ることの必要性を感じさせたのです。これは少女が大人の女性へと成長していく成長譚としての側面もあるのです。

-終わりに-
 桜庭一樹の作品を二つ論じてみました。いずれも少女が主人公になりますが、『八犬伝』のほうでは、14歳なのに立派な大人としての少女が、他方『無花果』では18歳なのに子供のような少女が登場しました。どちらにも共通しているのは、多義性を重んじているという点です。どのようにも解釈できる。読者の自由な読みが可能なのです。それがやはり桜庭作品の文学性なのではないでしょうか。
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桜庭一樹『無花果とムーン』への試論 感想とレビュー 1 桜庭一樹文学を読み解く指標

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-初めに-
 装丁からどこか引き寄せられるものをすでに秘めている作品です。黒地にピンクの光沢の文字。どこを見ているかまなざしのはっきりしない怪しげな少女。白いワンピースに紫の瞳。細長く投げ出された手足。装画は有名な酒井駒子さんです。以前論じた川上弘美の「七夜物語」も酒井さんが担当でした。
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-250.html
そうして帯には、「月夜(あたし)は、奈落(お兄ちゃん)がだぁい好き―。」とあり、いよいよ怪しい雰囲気が漂ってきます。現代文学を読む際には、こうした装丁からもすでに文学性のうちに入っていますから、そうした視点を持って本を読むということも大切です。こうした視点が最も鋭い評論家は子供たちです。この本を読みたいと思わなければ読まないというとてつもなく厳しい批評家たちです。私たちは次第に大人になるにつれてそうした視点を失ってしまいます。この小説にもそうした大人になるということの意味とはなんだろうかと考えさせられるものも描かれます。

-桜庭文学への視座-
 この小説は月夜という少女による一人称小説です。ただ、一人称という構造を用いて、うまく客観性を隠すという技を使用しているので、そのまま鵜呑みにしてはいけません。さらに月夜という主人公は、明らかにだれかに対して語っているのですが、何を語っているのかわからせないようにしている部分があります。それは彼女の意図でもあり、また無意識でおこなわれているものであもあるのです。というのは、彼女は常に大人になろうとする自分をだましていますから、このようなことが生じるわけです。
 夏目漱石の『三四郎』は、どうも感覚の鈍い大学生の視点を借りた三人称小説ですから、多義性が生まれるのです。この作品は自分にウソをついている少女の一人称独白のため、自分の理想をも織り交ぜての語りになります。読者はそこに気を付けないと、月夜ワールドに引きずり込まれてしまいますから、気を付けなければいけません。

 この作品は去年公開された桜庭一樹の最新作ですが、そこにはまず作家レベルで桜庭一樹が考えている一つの視座を考えなければいけません。2012年には、桜庭一樹はもう一作『傷痕』を公開しています。この二つの作品には一つの大きな重要な共通点があります。それは、評論家の榎本先生が言うところの3・11文学です。これは2011年に起きた大震災の影響を受けて作られた文学作品や映画、漫画、アニメなどを指します。桜庭一樹は『傷痕』でちょうど世界的なポップスターマイケルジャクソンの死をモチーフに取扱いました。ですが、ちょうどその執筆最中に大震災が起き、大きな存在の喪失というテーマをもとに最後まで書き上げています。その後、この『無花果とムーン』が執筆されますが、これは死者と生者がどのように交流していくのかという非常に重要な問題をテーマにしています。
 角川文庫の『無花果とムーン』特設サイト
http://www.kadokawa.co.jp/sp/201210-01/
下のスペシャルインタビューに注目

あらすじや内容の一部は、上のリンクから作者である桜庭一樹本人の映像でお楽しみください。
死者との交流というテーマですが、その死者とは震災で亡くなった人のように、突然の死によってこの世から旅立った人間に対しての交流がここで描かれるわけです。誰もが予想していなかった突然の死。病気であったり、長生きした人間の死というものは、ある程度覚悟もできていますし、納得がいくものです。ただ、若者の突然の死というのは誰も慣れないし、納得ができない。私たち生きている人間というのは、ある意味置いて行かれた人間なのです。この置いて行かれた人間がどのようにして、死者と交流するのか、これがこの作品だけに限らず、震災後の文学が取り組んでいかなければいけないテーマとして浮上しています。


-ライトノベル的要素-
 桜庭一樹文学が今再び彼女の出発点であったライトノベルに回帰しつつあります。桜庭一樹文学の面白いところは、ライトノベルから入って純文学をも書くことによって多様な文学の幅を見せることです。今回の『無花果とムーン』がライトノベルにまた近づいているというのは彼女の文学においてどのような意味があるのでしょうか。
 ライトノベルというのは、今でも明確には定義づけられていませんし、また明確に定義づける必要もありません。ラベリング理論というものがありますから、ジャンル分けは大まか便宜的に使用される範囲でいいものだろうと私は思っています。ただ、それだけではあまりに漠然として論の立てようがありませんから、要素を検討してみましょう。ライトノベル的な要素を取り上げてみると、いくつかあります。一つは、もともとライトノベルが歴史的にどのような文学ジャンルにあったかという歴史的な側面から見ていきます。ライトノベルは、もともと70年代80年代で流行したジュブナイル小説から始まっていると言われています。それが次第に90年代あたりにヤングアダルトと呼ばれるようになり、現在ではライトノベルというように呼ばれるようになりました。この三つはそれぞれ異なっているのだという論を唱える人もいれば、明確な差はないという論もあります。ただ、これらに共通するのはSF的な要素があるということでしょう。本格的なSFは、またライトノベルとは別にSFそれ自体として確立されています。ライトノベルはそれぞれのいいとこどりですから、SF的な要素を含むということに限られるでしょう。この作品でも、「荒野のど真ん中にぽつんとあるちいさな町」が舞台になり、その町にはUFOが多くみられることで町おこしをしているというどこか不思議な町です。こうした宇宙的、未知なるものとのつながりのある場所が舞台となっているのです。
 また、ライトノベル的要素ですが、二つ目は名前によって主人公たちの性格や動機付けがなされるという点でしょう。純文学にはあまり名前によって、すぐにこの人物はこのようなキャラクターだと判断できるものはありません。ライトノベルは明確にわかりやすくするために、こうしたイメージの連関性を持たせるのです。それは、一人称小説でありながら、誰かに向かって突然自分の名前を明言するこの主人公の様子からもうかがえます。「あたし、前嶋月夜っていう。」
 ひらがなと、一人称が「あたし」を使用するということがあり、どこか幼さを感じさせます。

つづく

桜庭一樹『伏 贋作・里見八犬伝』への試論 感想とレビュー 多義的テクストから因果の物語を俯瞰する

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-初めに-
 最近アニメでも八犬伝をモチーフにしたものが公開し、今なぜか滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のブームが到来しています。その火付け役となったのが、桜庭一樹の『伏 贋作・里見八犬伝』でしょう。2010年に発表したこの作品は、その後アニメ映画化され、先日まで東京ではテアトル新宿をはじめとして公開されていました。残念ながら私は映画を見損なったのですが、この原作をどのように映画化したのかが非常に気になっていたぶん、悔しいです。
 
-桜庭作品の文学性-
 今、力のある作家のひとりに数えられる桜庭一樹が、どうしてこのような古典文学を基礎にした作品を書いたのでしょうか。私は原作の滝沢馬琴『南総里見八犬伝』を読んでいないので、本来であれば批評できないのですが、あくまでこの作品にみを論じるという点から考察していきたいと思います。
 桜庭一樹の最近の小説は、彼女がデビューしたジャンルであるライトノベルに多少近づいている感じがします。あとで桜庭さんの最新作『無花果とムーン』も論じますが、いずれも純文学の分野からライトノベルに近づきつつあると感じました。その存在意義性を考えると、純文学という、今出版業界が厳しく、活字離れが進行しているなかでもっとも読まれにくい分野を、ライトノベルの要素を取り込むことによって活性化させようということになると私は思います。人気作家がジャンルという壁に立ち向かっているといえるでしょう。
 古典文学作品を下敷きにした作品を残した作家は、まず思い当たるのが三島由紀夫や芥川龍之介でしょう。いずれも当時の流行作家でした。桜庭一樹のこの作品は、ライトノベルという要素を入れ込みつつ、歴史小説調の作品に仕立て上げられています。江戸時代の市民の生活をいきいきと描写しながら、視点が14歳の少女の眼からのため、だれでもわかる娯楽小説になっています。

 現在文学界では、この作品のように一つの世界観を構築できるいわゆる「大きな作品」が出てきていません。私はそうした「大きな作品」、つまり一つの世界観を構築できたのは、小野不由美の『十二国記』が今のところ最新であると思っています。それに続くライトノベルの作品はいくつもありますが、いかんせんライトノベルだけという小さなジャンルのなかでしか成立しえない作品の普遍性のなさを考えると、やはりそれらの作品には一つの世界を構築できていないと考えるのが妥当だろうと私は思っています。
 この作品も、ひとつの世界観を構築しているとは言え、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を下敷きにしているので、すでにある一つの世界に便乗したということになります。それがいけないというわけではありません。芥川にしろ太宰にしろそうしたコラージュでもあり、オマージュでもあるパロディの文学性を極めた人間ですから、ここにももちろん文学性はあります。問題となるのは、私たちがそのような状況にあるということを認識することだろうと考えています。

-テクストの多義性-
 この作品は、三人称浜路視点の物語です。それぞれの段落ごとに、巻名がついていて、まるで巻物を読んでいるような雰囲気が出ています。これがこの作品の一つの世界観を作り上げている要素の一つでもあります。さらに、この作品は、作品自体が滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』という古典を下敷きにして、インターテクスチュアリティとしているのに、さらに作品内にもう一つの滝沢冥土の『贋作・里見八犬伝』というテクストを組み込むことによって、メタテクストの構造をつくりあげるという、非常に複雑で多重的なテクスト構成になっています。
 ひとつは三人称浜路視点の物語、一つは滝沢馬琴の息子という設定の滝沢冥土の『贋作・里見八犬伝』、そうしてもう一つが犬人間である信乃の語りという三つのテクストが展開されています。さらにこれに、テクスト外として『南総里見八犬伝』があるという構成です。
 ですから、いくつもの異なった視点のテクストを三つないし、四つならべることによって、私たち読者は客観的に状況を眺めることができ、それぞれの語り手には知りえなかった情報を統合することによって、ひとつの物語を紡ぎだすことができるのです。作家レベルで桜庭さんの作家としての態度がよく表れていると思います。つまり、作品は作者のものではなくて、読者がそれぞれに構築していくものであるということです。それを成し遂げることができたというのは桜庭さんの作家としてのレベルが高いからでしょう。

-因果をめぐる物語-
 作品はこのようにいくつものテクストから織りなされていますが、その根底にあるのは、一つは仏教的な因果の物語です。前世に悪い行いを行ったから、現世に禍が起こる。だから仏教に帰依して徳をつもうというような思想です。この作品は非常に明確な二つの力の対比が描かれます。一つはもちろん主人公である浜路側、人間です。そうしてもう一つは人間ならざるもの、つまり犬と人の間のもの、犬人間になります。この対比は、さらに人間が犬人間を狩るという対比になります。犬人間は身体能力を高く、非力な市民を次々に殺していくのですが、狩人である浜路とその兄は、彼らを狩るというこういう対比になります。これは非常に明確でわかりやすいのですが、この対比が確定しているのは、一つ目のテクストまで。
 ひたすら暗躍して犬人間のことをくまなく調べている浜路たちと接触のある滝沢冥土は、父馬琴の『里見八犬伝』の完成を間近にして、ひそかに自分の『八犬伝』すなわち『贋作・里見八犬伝』の筆を急いでいます。父が記した『八犬伝』がいわゆる正史のようなものであるとすると、子冥土が書いた『八犬伝』はその裏を記しているような構図になるのです。すなわち見られなかった視点に光を当てる。まさしくこの作品全体がそのような構図になっているのと、ここでも対比がなされています。
 いったいどうして犬人間が生まれたのか、この生き物は何なのか、何が目的なのか、そうした原因を突き止めるための書物なのです。そうして、今まで語るすべもなく、光も当てられてこなかった部分に冥土がメスを投入した際に、その作品が狩人である浜路のこころに深くしみます。この明確であった狩るものと狩られるものという二項対比が揺るぐのです。
 そうして、最後のテクスト、犬人間である信乃の語りによって、さらにその対比は揺らぎます。狩るために信乃を追っていた浜路は、ひょんなことから江戸の地下に位置するという洞窟に落ちてしまいます。仕方がないので、敵同士であった二人が、協力してここからの脱出を図るのですが、その際に信乃は自らの一族の悲運な因果を語り始めます。
 一つ前のテクスト『贋作・八犬伝』で、犬人間の生まれが分かった読者は、その後彼らがどのようになったのかということを、信乃の語りによって知ることができます。そうすると、本当に彼らは殺され、狩られるべき存在なのかという疑問が生まれます。そうしてこの小説の最後も、一つとした明確な答えを出していません。浜路は、それでも狩る旅はおわらないと旅に出ますが、もしかしたら、彼ら犬人間との共存もできるかもしれないという可能性をも秘めています。そうした狩る、狩られるもまた、生まれという因果によって決まります。その因果を断ち切ることができるのかというのが、この作品の根底に流れているものだと私は思います。ある意味では、その因果はみっつの視点から支えられることによって断ち切ることができているとも思えます。

-終わりに-
 桜庭作品の文学性は多義性と、読者の読みの自由さがポイントになると私は思います。浜路が多様する「ん」というセリフ。これはうんともすんとも判断が付きません。はい、なのかいいえなのかはっきりしないのです。どちらにも解釈できる。一応狩りをして育ってきたために、勉強などはしていませんから、彼女はあまり頭が良い人間としては描かれません。そうして、「ん」という言葉で判断を濁す。この作品は浜路の成長物語としても読めます。彼女は最初からずっと悩み続けて判断を遅らせているのです。それがいくつもの人間や犬人間、話をきくことによって一つの答えを見つけていく。こうした面が、一種ミステリの要素も含みすばらしい作品を構成しているということになっているのです。

桜庭一樹 『傷痕』 感想とレビュー 大きな喪失と向き合う

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桜庭一樹さんの傷痕を読みました。先ず読んで思ったことは、これは小説なのかということです。
私はこれは今までの小説と同じものとしてみるととてもつまらないものだと思います。なぜなら物語性、ストーリーがないからです。
ストーリーがない作品として私がもっとも面白いと感じるのものは夏目漱石の『吾輩は猫である』が挙げられると思います。これはストーリーはありません。ただ登場人物たちによる話、掛け合いが淡々と続いていくというものです。ただ、そこには様々な古典的なものに基づいたジョークやアイロニーがあるから娯楽小説して十分に、いや普通の小説以上に楽しめるのです。
今回の『傷痕』はストーリーもなければ登場人物たちによる掛け合いもありません。だから全く面白くない。ファニーとか楽しいとかわくわくするとかそういう感情は一切生まれないのです。
ではこの作品をどう読み解いていくかということです。『傷痕』はもしも日本にキング・オブ・ポップ、マイケルジャクソンのような存在がいたらという前提の物語です。ただ誰が読んでもマイケルだと思うのですが、これはそのマイケルの話とはまた違うのです。
作品が始まった時点でキングオブポップたる「彼」は死んでいます。この物語はその「彼」の周りの人物が全6章にわたって語りついでいくという構成になっています。

詳細は全く謎に包まれている「彼」の娘である「傷痕(という名前の少女)」、中年の男性、ルポルライター滋田夏生、「彼」を訴えた復讐(ベンデッダ)、「彼」の姉孔雀、孔雀の運転手・セキュリティスタッフの一人・一ファンの女性、によって語られていきます。
物語ではなくなにを描きたかったのか、そして何をここから読み取らなければならないのか、これが論点になると思います。
先ずは大きな喪失をどう受け止めるのかということ。物語の最初の時点でこの物語の主たる存在は欠如しています。それはマイケルがなくなったのと同じことが日本で起こったと考えればいいわけです。この大きな存在、日本で言えば天皇のような存在がなくなってしまった。するとその周りにいて、存在に依存していた、或いは存在と共存、共有していた人々はどうなるのかということです。
大きな損失は、今度の震災を連想させます。ただ、桜庭さんは震災以前にこの小説の殆どを書き終えていたのでそれをこじつけるのはよくありませんが、それでも私たちは心に大きな損失を受けたわけです。この物語は娘である「傷痕」が最終的に人間性を取り戻すという構成になっています。これは私たちに置き換えられたとき具体的にどうしたら人間性を回復、失われたものからの脱却が出来るのかという問題を考えさせられます。

「傷痕」の人間性の回復にも関連していますが、この物語に一貫しているテーマは子供時代です。この「彼」は幼少期をきちんと子供として過ごせなかったため、その弊害によって大人になりきれなかったのだということが繰り返し描かれています。これはマイケルと重なる部分です。自宅にネバーランドなるものをつくり子供を招待し、一緒に遊ぶ。幼児への愛の表れが他人からみたら虐待になってしまう。自分というものを常に整形により変化さえてしまう、等々。
この子供時代をきちんとすごせなかったため大人になれなかったということはこの作品のいたるところに現れてくるわけです。「復讐(ベンデッダ)」という「彼」の楽園に遊びに行っていた少女もまた、少女のときに裁判によって大きな時間を奪われ、家族は崩壊しきちんと子供時代を送れなかった一人なのです。そして「傷痕」も特殊な環境におかれ、きちんと子供時代をすごせていません。この物語は、最後に「傷痕」が一般人になることによって人間性の復活を描いているのです。
この子供時代と密接に繋がりあって親の問題も深く言及されていると感じます。「彼」は幼い頃スパルタ式で父親から音楽のレッスンを受けたことを死ぬまで引きずります。父はどうしても愛情の表現が素直にできない人でした。その偏った愛の表れがスパルタになってしまったのですが、幼い頃の純粋で繊細な「彼」はそれを愛と受け取ることができずに、一種のネグレクトや虐待のような形で受け取り、人間性の欠如を引き起こすのです。
ルポルライターの滋田という男も、幼い頃の父が乱暴で、いつもお母さんと自分を殴っていたことを根に持ち、自分はそうなるまいと思えば思うほど自分の息子に対してなりたくなかった父親と同じことをしていることに気がつきます。妻とも上手くいかず、どんどん破滅の道を歩んでいく滋田。やはり彼も親の愛情を受けることができなくて少年時代を送れなかった人物の一人なのです。
「復讐(ベンデッダ)」も両親の愛は受けられませんでした。父は俳優でしたが家にいることはあまりなく、「彼」の家に招待されるようになって有名になったため、金銭目的のために本当に父親に利用されるという被害者なのです。
ここで私が思うことは芦田愛ちゃん問題です。現在どのテレビにも引っ張りだこの彼女ですが、子供なのにもかかわらず大人と一緒に働いてお金を稼いでいる。今まで多くの子役の行く末は決していいものばかりとは言えませんでした。結局は大人たちがいいように愛ちゃんを使用しているに過ぎないのではないか。大人になったときにはもう用済みで、きちんと子供時代をすごせなかったためにでる障害は無視する。これがモーニング娘などで非行に走る人間が出てきてしまう原因の一つだと考えられるのです。

この小説はマイケルのような謎多きポップスターが登場するにもかかわらず、その謎はまったく解明されません。物語展開もなし。面白くありません。ただ、そこに描かれていることにバックグラウンドが重要なのではないか、様々な現代に起こっている問題を提起、そこから回復するにはどうしたらいいのか、そうしたメッセージが読み取れるのではないかと感じます。
そのメッセージももちろん重要だと思いますが、メッセージをはらまざる終えない状態というのが重要なのではないかと考えます。このカリスマなき時代にどう生きていけばよいのか、これを考えさせられる作品です。
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