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村上春樹『風の歌を聴け』  僕がついた嘘は何か? レーゾン・デートゥルを巡る一考

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 今年度はずっと村上春樹について研究していました。いちおうその集大成として、学年末に提出した村上春樹『風の歌を聴け』のリポートを掲載します。まあ、面白いものではありません。

はじめに
 村上春樹の『風の歌を聴け』は、「群像」(1979年6月)、単行本(講談社 1979年 201P)、文庫(講談社文庫 1982年)に初出 (注1)。第22回群像新人文学賞受賞を受賞した。また、第81回芥川賞候補作となっている。本論では、村上春樹の処女作である『風の歌を聴け』を分析し、それまでの研究を踏まえた上で、私の新しい解釈を提示したいと思う。
 本論では、「僕はひとつしか嘘をつかなかった」という部分をメーンに読み解きたい。そのために、まずいくつかの前提を考察したい。
 『風の歌を聴け』は前田愛氏の「不連続な時間がモザイク状に継ぎ合わされているテレビの番組を視聴するように読みすすめるのがもっとも自然な読み方なのかもしれない (注2)」という比較的早い批評を受け、それ以降この前田氏の批評に沿った読み方がなされてきた。それぞれの研究者、読者はその不連続のつぎはぎを自分たちの内部においてもう一度切り分け、再接続することによって、この作品に向き合っている。本論でも、今迄の研究に加え、新しい視点から断片化された40からなる章を再接続させ、新しい『風の歌を聴け』の一面を提示したいと思う。


引用

今、僕は語ろうと思う
この小説は、語っている現在の「僕」が、「ある作家」の引用を踏まえながら、文章論を展開するところから始まる。そのなかで、29歳の「僕」が何故語らなければならなくなったのか、次のように述べている。


今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。

 この部分を引用し、小菅健一氏は氏の論文 (注3)において「いささか大げさ過ぎるとも思える描写」と指摘する。その上で、「つまり(自己)療養や(自己)救済を試みていかなければならないということは、現在の時点での僕の精神状態が一体どのような不安定な厳しい状況の下に置かれている」のだろうかと指摘している。私もこの点については早々から気がついた点ではあるが、先行研究にすでに指摘されていたのでそれを引用させていただいた。氏は、その疑問をもとに、「僕」は自分の不安定な状況に至った原因を書くことができたのにもかかわらず、それをしなかったと述べている。これは多くの研究者も述べるところで、このテクストにおいて核となるストーリイが欠如しているということと同じである。高田氏はこれを「ドーナツのように、中心部分が空白になっている」(注4) と表現している。私は、テクストにある「バウムクーヘン」という語を用い、バウムクーヘンのように中心部が空白になっていると表現しておきたい。
 本論とは関係ないが、「僕」の文章論には続きがあり、この自己療養がうまくいった「何年か何十年か先に」「美しい言葉で世界を語り始める」「僕」を発見できるはずだと推論している。この「僕」を作家村上春樹に重ね合わせて見れば、主人公から発問をすることが少なかった前期春樹作品と、積極的に対話をしようとする後期の春樹作品の関係を説明できるのではないかと考える。「僕」を春樹自身と重ねるのは乱暴なことではあるが、村上春樹にとって、主人公がべらべらと喋り出すようになったのは、彼の思い描いていた救済だったのかもしれない。その点、1988年10月 講談社より書き下ろしされた鼠四部作の最後を飾る『ダンス・ダンス・ダンス』などは、救済された「僕」の姿を描いたものだと言えるだろう。その救済によって多弁になった主人公を読者が好むと好まざるとに関わらず、ということである。

三人をつなげるもの
ケネディー/1963/フランス/ビーチ・ボーイズ
 このテクストにおいて、僕、鼠、小指のない女の子が一堂に会することは一度もない。という事実は周知の上だが、その三人を結ぶものが専攻研究において様々指摘されてきた。いくつか引用したい。まずは柿崎隆宏氏の論文 (注5)から。

  

引用

『風の歌を聴け』のテクスト上に「ケネディー」は全部で五回登場し、石原千秋、平野芳信両氏が指摘するように、この小説の主要な登場人物である「僕」「鼠」「小指のない女の子」「仏文科の女の子」を関連付ける記号となっている。だが、その役割はそれだけではない。もう一度確認する。ケネディーがテクサス州ダラスで暗殺されたのは一九六三年である。数字としてはっきり表記されるのは一回のみだが、「ケネディー」という固有名詞を結びつけることで「僕」は「一九六三年」という年を読者の意識に刻みつけようとしている。


 柿崎氏はこのように述べたうえで、本文から該当箇所の引用をしている。仏文科の彼女においては、彼女の写真の日付が「1963年8月となっている。ケネディー大統領は頭を撃ち抜かれた年だ」ったという箇所を挙げている。柿崎氏は石原・平野両氏も指摘していると述べながら、〈「小指のない女の子」の父親が脳腫瘍で亡くなったのは、「五年前」つまり一九六五年であるが、「丸二年苦しん」だということは一家離散に帰結する彼女の家庭的不幸が、一九六三年に始まったということになる〉と指摘している。鼠に関しても〈ケネディー・コインを持ち歩いているし、「人間は生まれつき不公平に作られている。」という彼の認識はケネディーの言葉によるもの〉であると指摘している。また鼠三(四)部作という視野で考えれば、『羊をめぐる冒険』に「一九五五年から一九六三年ごろまで、」「考えてみれば、あれは俺の人生ではいちばんまともな時代だったな」(注6) という箇所があると引用し、「一九六三年はそれぞれのターニングポイントとなっている」と柿崎氏は主張している。私もこの指摘を援用したい。
 またこのテクストに散りばめられた記号のなかで、フランスについて言及したのも柿崎氏である。氏はこの物語が語られている1960年代後半から1970年代前半の情勢に配慮したうえで読みを進めている。この時代には、ベトナム反戦運動が日本を問わず世界全体で盛んだったが、「こうした世界的な叛乱の火種となったのが一九六八年にフランスで起こった「五月革命」である」と言う。それを踏まえた上で、フランスについてテクストに眼を転じると、〈「小指のない女の子」と「仏文科の女の子」はともにフランスと関わりがある。「仏文科の女の子」は文字通り仏文学科に在籍しているだろうし、「小指のない女の子」はYWCAでフランス語を習っている。また、「鼠」がおそらく「小指のない女の子」に「僕」の自宅の電話番号を教え、誤解を解いたと見受けられる場面で読んでいるのはフランス作家のモリエールの作品である。さらに物語の冒頭第五章で「僕」が読んでいる本もフランスの作家フローベルの『感情教育』である。ここでもテクストに散りばめられた「フランス」に関連するものが主要な登場人物を結び付け〉ていると氏は指摘している。
 氏の論文はそこまでしか指摘していないが、私はさらにいくつかの「フランス」と結びつくものを指摘しておきたい。鼠が突然の読書家となって登場する16で、鼠はロジェ・ヴィディムというフランスの映画監督の『私は貧弱な真実より華麗な虚飾を愛する。』を知っているかと「僕」に聞く。「僕」は「いや」と言っているから知らないのであろう。この事実は重要だと私は考える。この作品では様々なモチーフが媒体となって、それぞれの人物をつなげていく。フランスもその例外ではない。だが、ここで示されたフランス関連の映画を「僕」は知らない。とすると、このフランス映画を鼠がどのような事情から鑑賞したのだろうか。当時はインターネットがないため、おすすめの作品をまとめたようなサイトなどはない。このテクストにおいてフランスの知識はそれぞれの登場人物がある程度有しているが、この映画に関しては完全に「僕」と鼠のラインは切断されている。「おそろしく本を読まない」鼠が映画をどの程度鑑賞したのかは不明だが、「この間あんたと話してから」「ずいぶん本を読んだ」という文脈で話しているかぎり、映画鑑賞も「僕」と話してから始めた習慣のようにも取ることができる。もし、鼠が本や映画の素人であるとすると、行き当たりばったりで作品に当たっていくというのもあるが、通常は知人や友人などでそうした方面に詳しい人間におすすめの作品を教えてもらうことが多いだろう。誰もが知っているとはとても言えないメジャーでない作品をなぜ鼠が鑑賞しているのかというと、そこにはフランスで繋がるもう一つのラインが浮かび上がってくるだろう。すなわち、鼠と小指のない女の子である。
 ほかのフランスの繋がりについても考察しておこう。三人目のガール・フレンドが死んだと聞かされた時に「僕」が読んでいたのは、ミシュレの「魔女」である。「僕」はフローベルの「感情教育」を読んでいる部分が描写されているので、比較的フランスの文学に詳しい人間であることが伺える。だが、大学で「生物学」を専攻する「僕」がなぜフランス文学について詳しいのだろうか。それはおそらく三番目の彼女による影響だっただろう。仏文科に所属していた三番目の彼女に「僕」はペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」だと言われたが、それから彼女の死を知らされる約8ヶ月間は「奇妙な性癖にとりつかれ」ていたのであるから、彼女との交際期間もおよそ8ヶ月と考えてよいだろう。その間、「僕」が彼女によってフランス文学への手ほどきを受けたのは言うまでもない。「僕」がフランスについてある程度知識があるのは三番目の彼女からの影響であり、ここにフランスというモチーフによって示されたラインが浮き彫りになったと思う。
 最後にフランスをめぐって浮かび上がる関係は、「僕」と小指のない女の子である。彼女の家で食事をする二人の会話に、「パスツール」が登場する。

  「ねえ、パスツールは科学的直観力を持っていたのよ。」
  「科学的直観力?」「……つまりね、通常の科学者はこんな風に考えるのよ。AイコールB,BイコールC、故にAイコールC、Q・E・D、そうでしょ?」
  僕は肯いた。

 この「僕」の肯きがどれに対する肯定なのかは漠然としているが、フランスの生化学者、細菌学者をモチーフに対話が為されていることは重要である。また小指のない女の子が「生物学者と科学者の討論会」を見ていたのには、「暇さえあれば一日中でも見ている」ほどテレビ好きだということが理由のように書かれている。彼女の言によれば、「何もかも」見ている自負があるわけだが、わけても「生物学者と科学者の討論会」を彼女が見ていたのには、その直前に、20で二人がジェイズ・バーで飲んだ際に「僕」の専攻が生物学であることを聞いたからであろう。ここから、小指のない女の子が、「ひどいことを言った」謝罪の気持ちもあるだろうが、それ以上に口数の少ない「僕」とコミュニケーションを積極的に取ろうとしている姿勢を感じとることができると思う。
 僕/鼠/小指のない女の子を繋ぐ媒体は他にもある。ケネディーとともにその三人の連続性を示唆しているのは、作中にたびたび登場する「カリフォルニア・ガールズ」であると、山根由美恵氏は指摘している。(注7)
 山根氏は、40の章段を「Ⅰ29歳、Ⅱ21歳(鼠・小指のない女の子・DJ)、Ⅲ過去(1996年8月15日~1970年4月4日、1967年、1963年)」の7つに分けた詳細な票を提示して考察をしている。「『カリフォルニア・ガールズ』は12,13,15,17,39章に現れ、最初の登場は12章におけるラジオ番組と「僕」の対話の場面である。」「最後の登場が39章であり、その直前の38章に8月26日という記述がある」ことから、「『この話』の始めと終わりに『カリフォルニア・ガールズ』が配置されているという推測が成り立つ」という。氏の主張を要約すると、11章はラジオ番組。12章は同ラジオ番組から「僕」に、かつて「コンタクト・レンズを捜してあげ」た女の子からのリクエストが伝えられる。13章は『カリフォルニア・ガールズ』の歌詞。15章は14章でもらったラジオ番組のTシャツを着て『カリフォルニア・ガールズ』のレコードを買い求めに行く。その際、レコード店で働いていたのは小指のない女の子である。16章では15章で購入したレコードを鼠に届ける。これらの断片化された章は、それまで「「僕」と「鼠」、「僕」と小指のない女の子、「僕」とDJという三つの世界が平行線のまま」だったが、『カリフォルニア・ガールズ』という媒体を得ることによって、「因果関係を持って繋がり」はじめると氏は指摘している。

キリストという媒体
 さらに私は今回新しい因果関係を示唆している装置を発見したと思っている。私が調べたところではまだどの論文にも記述はなかった。なのでおそらく私が最初に言及することになると思うが、私の狭見では見落としもあるかもしれないことを先に了承していただきたい
 断片化された断章にさらに因果関係を構築するものとして、「イエス・キリスト」が挙げられるだろう。「僕」の誕生日が、クリスマスイブで、「イエス・キリストと同じ」なのは35章に描かれている。ここで「イエス・キリストと同じだ」という言葉はもちろん、誕生日が同じという意味で使用されているが、この文字を文字通りにいったん受け取ってみると、「僕」というキリストをめぐるテクストであると言うことができるのではないだろうか。他、キリスト教に関する箇所を論証する。初めてキリスト教関係の言葉が登場するのは、21章である。21章は、小指のない女の子との食事が描かれている20、22という章に挟まれていて、明らかに不自然な挿入のされ方がなされている章である。「ミシュレ」がフランスの作家であり、そこにもまたフランスが関係していることは先の通りである。ここでは「魔女」という言葉が登場するが、この「魔女」とは、おそらく「魔女狩り」のことを示しているのであろう。私は「魔女」を読んでいないのでその内容はわからないが、テクストの「魔女を焼いた」という表現から魔女狩りについて書かれた本であることはわかる。そして、「三人目のガールフレンド」と「魔女」という言葉をこの21という短い章段のなかに並立させることによって、「三人目のガールフレンド」を「魔女」と同一視しようとしている語り手の意識が浮かび上がると思われる。「キリスト」に関連させて述べれば、「キリスト」である「僕」にとって異端の存在であった彼女が、ある意味「僕」の正義によって殺された(みずからくびれてしまった)ということであろう。この「魔女」という言葉によって、僕と三人目のガールフレンドに連続性が生まれている。
 26では、「僕が寝た三番目の女の子」について語られている。「彼女は真剣に(冗談ではなく)、私が大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ、と言った」という。また「それは天使の羽みたいにそらから降りてくる」ものだという。これに対して「僕」は、「天使の羽が大学の中庭に降りてくる光景を想像」しているが、「遠くらからみるとそれはまるでティッシュ・ペーパーのように見えた」と表現している。これは「僕」の三番目の彼女に対する批評と受け取れる。ティッシュ・ペーパーが何を意味するのかという問題はとても難しいが、ここからは大切なものや重要なものであるといった感覚を「僕」が持っていないことがわかるだろう。むしろ、「彼女」のいう「天の啓示」はティッシュ・ペーパーのように軽く、取るに足らないものと捉えているように思われる。
 少し戻って22。小指のない女の子の家で「僕」が一緒に食事をしている際の会話だ。「こんなに暑くなるとは思わなかったわ。まるで地獄ね。」「地獄はもっと暑い。」「見て来たみたいね」「人に聞いたんだ。」といった問答が続く。地獄と天国に関する知識を「僕」は誰から聞いたのかは明示されていないが、それはおそらくキリスト教(というより神学に近いか)に傾倒していた三人目のガールフレンドからであったろう。この推測を置いておくとしても、「僕」と小指のない彼女は「キリスト」を通じて繋がることになる。そして、その情報の入手ルートが三人目のガールフレンドだとした場合は、さらに「僕」と三人目のガールフレンドと小指のない彼女の三人が「キリスト」によって結ばれることになる。
 また小指のない女の子とキリストとの関係は33でYWCAに通っていることから関係を指摘できる。YWCAとは、広辞苑によれば「(young Women’s Christian Association)キリスト教主義に基づく女子の国際的青年運動団体」とあり、日本YWCAのウェブホームページでは「キリスト教を基盤に、世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進め、人権や健康や環境が守られる平和な世界を実現する国際NGO」(注8) であると表示されている。その活動の一環として、外国語教育をしている。この描写から作品の舞台となった場所はYWCAのある場所の近くということが想定され、神戸という場所がより有力となるだろう。小指のない女の子は、YWCAでフランス語を勉強していた。YWCAでの外国語教育がどのように行われるのかはわからないが、しかしキリスト教の教義を全面に押し出していることは明らかなので、授業やその他イベントで、キリスト教について何かしらの知識を得ていたことは確かであろう。
最後にキリストを媒体として「僕」と繋がるのは「鼠」である。「恐ろしく本を読まな」かったはずの鼠は、この作品内ではかなり読書熱心な登場人物として描かれている。27で「僕」が「会ってほしい」人がいるという「鼠」の依頼のために「ジェイズ・バー」に行くと、鼠は彼女と会ってもらうことを「止めた」という。その際に鼠が読んでいたのがカザンザキスの「再び十字架にかけられたキリスト」である。鼠の読書生活は「モリエール」に続き「再び十字架にかけられたキリスト」である。だが、「恐ろしく本を読まない」はずの鼠がどうしてこのような本をいきなり選んだのかという謎が生じるだろう。少なくとも「僕」が鼠に「この本を読んでみたらどうだろうといった助言をしている描写はない。とすると、鼠の読書体験の指導をしているのは誰かという問題になるが、私は後で詳しく検証するが、鼠の読書を指導していたのは小指のない女の子であると考えられる。この作品において、モリエールというフランスと、キリストの両方の知識を持ち合わせている人間は、「僕」か小指のない女の子であるからだ。
 「僕」と鼠が山の手のプールに行く31では、プールで泳いだ後デッキ・チェアで二人は戦争や古墳などの話題について話し合う。語り終えた後、「僕」は鼠に小説を書いたかどうか尋ねるが、それに対して鼠は「いや、一行も書いちゃいないよ。何も書けやしない。」と言ったあと、「僕」の「そう?」という疑問とも相槌とも取れない言葉を無視して「汝らは地の塩なり」「塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき」と言った。地の塩とは新約聖書のマタイ福音書第5章による有名な言葉で、日本国語大辞典によれば、「神を信じる者は、この世にあって塩のように、人の心の腐敗をとどめなければならないというイエスキリストの教え。転じて、「模範」とか、「手本」とかの場合に、そのたとえとしても用いられる」と記している。信者でなくとも有名な文句なので知ることの多い言葉であるが、この言葉を鼠が一体どこから入手したのかということもまた考えねばならないだろう。「再び十字架にかけらたキリスト」を私は読んでいないので、この文言をその本から鼠が得た可能性も捨てきれないが、私はYWCAに通っていた小指のない女の子から、この説教を聞いたのではないかと推測する。


鼠と小指のない彼女は破局寸前
 さて、ここまで断片化された章段のデータに関連性を持たせる作業をしてきた。ここからは、ではその関係を構築することによって何が見えてくるのかという部分を論じたい。
 私は平野芳信氏が引用した三浦雅士氏の要約はすばらしいと思い、またその要約に示される読みに賛成しているのでその部分を引用したい(注9) 。

  

引用

恋人に自殺された大学生が夏休みに帰省し、妊娠しているにもかかわらず男に捨てられたらしい若い女とふとしたことで知り合う。若い女はレコード店の店員である。男と女は互いの暗い体験を語り合うこともせず、何度か会う。女が中絶手術を受けた後のある夜、二人は何もせずに抱き合って眠る。二人にとってそれは最後の夜になる。


 同箇所を引用しさらに論を発展させた石原千秋氏の論(注10) もまた援用させていただき、その論に対する私の考えを論じたい。「僕」と鼠と小指のない女の子の関係が並々ならぬものであることは先の様々なモチーフの検証で示せたであろう。小指のない女の子は読み進めるうちに妊娠していることが判明する。小指のない女の子が身ごもった子供の父親は誰かという謎に対して、石原氏は鼠以外にありえないと断言している。私はおおむねこの主張には賛成だが、しかし断言までは出来ないと感じている。少なくともその可能性が高いというレベルでとどめておきたい。石原氏は「僕」が鼠にレコード渡す場面を次のように解釈している。「これは、レコード店で働いている彼女のところへ行けというサインだ。レコードの「包み」が、「小指のない女の子」の働いている店のものであることは、鼠にはすぐにわかるはずだからである。「君たちの関係はこじれている。だからハガキなどで済ますな。逃げていないで、レコード店に行け」という「僕」のアドバイスだ」。私もこの論に賛成である。石原氏はさらにホモソーシャルの問題を取り上げ、鼠を象徴的に殺し、「僕」が一方では鼠を励ましつつ、他方で鼠を出し抜き、小指のない女の子を奪おうとしていると論じている。この点に関して私はもう少し慎重になりたい。「僕」が鼠と小指のない彼女を取り持とうとしているのは私も賛成するところである。だが、「僕」が精神的に鼠を殺そうとしていたのかには疑問符が付くと思う。
 その後石原氏は論を進めていくなかで、「僕」が鼠と小指のない女の子に対して向ける視線を次のように説明している。「三人目に寝た女の子を妊娠させたまま自殺させてしまったばかりの「僕」は、それをものすごく後悔していた。そして、同じように身ごもって鼠と別れ話になっている「小指のない女の子」とジェイズ・バーで出会ってしまった。「僕」はこう思ったにちがいない。もしこのまま自分が帰れば、この「小指のない女の子」は自分の三番目の女の子のように自殺するかもしれない、と。だから、僕はあの晩彼女のアパートを帰らなかった。彼女を見守ったのだ」。私は石原氏の三番目の彼女妊娠説(後述するが、田中氏の妊娠説を取りたい)には懐疑的なのだが、「僕」が鼠と小指のない女の子の関係を取り持とうとしている点では石原氏の論に賛成である。
 9で「僕」が小指のない女の子に昨夜の出来事を話す場面がある。鼠のことを初対面の女の子に対して「奴」と表現しているのは石原氏の指摘通り不自然であり、鼠と女の子が知人であることを示唆していると私も思う。が、私はさらに、この「電話に出たのは女だった」っという部分にウエイトを置いて考えたい。それは鼠がこの女の子となぜ破局したのかという理由に繋がって来る。石原氏は妊娠と、金銭的な感覚の違いの両面から二人の仲は決定的になったと論じているが、私はここで「僕」がうっかり筆を滑らせて「手記」に記した「電話に出た」女に注目したい。⒑では、「ジェイズ・バー」に鼠がいないことが強調されたうえで、「グレープフルーツのような乳房をつけ派手なワンピースを着た30歳ばかりの女」がまるで鼠と入れ替わったように都合よく登場する。この女性は結局ここでしか登場しないのだが、電話と女という関係が9で語られた後すぐに登場する⒑での「長電話」の女が、9の電話の女と無関係と言うには不自然であろう。「僕」はジェイに「逃げ出すのかい?」と言われるように、バーを退出する。その際に「僕」は鼠について「とにかく鼠が来たらよろしくって伝えといて。」と言い残して行く。夏の短い期間に連日のように通っている「ジェイズ・バー」で鼠にわざわざ「よろしく」伝えておく必要があるのだろうか。それよりも、「僕」がジェイズ・バーを退散したのは、「長電話」をしている女の声が、鼠に電話した際に出た女の声と同じことに気が付いたからではないだろうか。そこで「僕」は電話をしたのが自分だと気が付かれないうちに早々に退散したのである。鼠に対してわざわざ言付けしたのも、「僕」がここで初めて鼠と小指のない女の子の関係が、この長電話の女によって危機的な状況にあることを知ったからで、「僕」は鼠が小指のない女の子と長電話の女で揺れ動いているのを知っているぞという念押しのため、ジェイに言付けしたのだろう。
 24で鼠が「一滴もビールを飲まなかった。これは決して良い徴候ではない」状態にあったのは、石原氏の指摘している通り、この時期がちょうど小指のない彼女が「旅」と称する堕胎の手術に出ている、あるいは出ようとしている時期だったからである。それは恐らく、鼠と彼女の関係が完全に終わったことを意味しているだろう。そうすると、24の最後で交わされる「人に会ってほしいんだ。」「……女?」という対話はどう解釈できるだろうか。石原氏はこの「女」というのを小指のない女の子として解釈しているがどうだろうか。私はすでにこの時には鼠と女の子の関係は終わっていると考えている。恐らく鼠と小指のない女の子は、「僕」のあずかり知らぬところで相当話し合ったはずであり、その結果として堕胎という道を決心したのであろう。とすれば、その時点ですでに決着はついているはずである。もし鼠の会ってほしい相手が小指のない女の子であれば、もはや手遅れである。小指のない女の子が「明日から旅行するの」と言った日と鼠が「会ってほしい人がいる」と言った「その夜」と、どちらが早いのかはわからない。だが、鼠が女性に会うための条件として提示した「スーツとネクタイ」で来いということも含めて考えると、やはり小指のない女の子と会うとは考えにくい。そもそも「スーツとネクタイ」が必要になる状況がどのようなものかわからないが、少なくとも二十歳未満である小指のない女の子と三人で会うとしても、「スーツにネクタイ」という格好はあまりにも形式的すぎるように思われる。と考えれば、「スーツとネクタイ」という服装で会わなければならないのは、社会人である「長電話」の女の方であろう。またその翌日に結局「女」と会うことを「止め」てしまった鼠だが、その短い言葉に含まれる「僕」へのメッセージは、何かと心配をかけて、仲を取りもとうとしてくれたが、「僕」の奮闘むなしく、鼠をめぐる女性の関係はすべて終わってしまったということだろう。恐らく「長電話」の女とも、小指のない彼女とも、どちらも修復不可能な関係になったのであろう。「長電話」の女の離婚にも、鼠が関わっているかもしれない。


〈小指のない彼女〉と〈三番目の彼女〉
 平野氏は田中実氏の論を引きあいに出しつつ、次のように述べる。

 田中実氏により、「三番目に寝た女の子」が「僕」の子を宿し、その命をこの世から葬り去った後、自らの生にもピリオドを打ったという解釈が出された。それはテクストの細部との整合性を持った、迷宮の脱出の第一歩を記す画期的な読みの出現といっていいだろう。しかし私が田中論を真に評価したいのは、八月八日に「僕」が出会った「小指の欠損した女の子」を、四月四日に死んだ恋人の再臨と捉えている点である。

私も孫引きであるがこの田中論の女の子再臨論を援用したい。
 8で朝目覚めた「僕」は「隣に寝ている女を眺め」るが、「僕」にはその女が「まるで腐敗しかけているように見えた」という。つづく9においても、「苛立たせる何か」を別にすれば、「彼女は僕を少しばかり懐かしい気分にさせた」と述べている。
 19の最後で「僕」は三人目の女の子のことを次のように説明している。「彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれずに、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた」。彼女が自殺したのが四月四日であるから、この時期に二週間吹きさらしになっているという状況はかなりシビアなものがある。法医学的な知識を私はまったくもたないので何とも言えないが、特殊清掃者が経営するウェブの情報 (注11)によれば、夏場であれば首を吊って亡くなった死体は二週間を持たずに地上に落ちてしまうらしい。春とはいえ、二週間室外で吹きさらしになっていた仏文科の女の子の死体は、恐らくそのまま空中にあったろうが、相当腐敗が進んでいたと予想される。仏文科の女の子の葬儀には当然「僕」も出席していたはずである。遺体を直接みることはなかっただろう。だが、生物学を専攻し、猫などの動物を普段から殺していた「僕」は、人体が二週間吹きさらしになっていたらどのような状態になるのかという予想はかなりできたはずである。その想像がまた「僕」を苦しめていたことは言うまでもないだろう。8で小指のない女の子を初めて見た際に思い出した懐かしさは、「腐敗」と共にやってきている。そこには「僕」が小指のない女の子を三人目の女の子と同一視している視点が見られる。
 小指のない女の子が自分の家族の話をした際に、「双子の妹」のことを 「三万光年くらい遠く」に住んでいると表現している。これは前田愛氏が指摘(注12) しているように、「死のアナロジー」であろう。ここからも、死んだ三人目の彼女と小指のない女の子の重ね合わせがみてとれる。
 田中氏も指摘しているように、小指がないということは欠損をあらわす。恐らく子供という欠損であろう。私は田中氏のいうように「「三番目に寝た女の子」が「僕」の子を宿し、その命をこの世から葬り去った後、自らの生ニモピリオドを打った」という説を取りたい。石原氏も同じく三人目の彼女妊娠説を唱えているが、石原氏の見解は身ごもったまま首を吊ったのだという点で田中氏とは異なっている。石原氏の論には「僕」が妊娠を気づいたのは今回のテーマの箇所である、「嘘つき」の部分であるとしている。がそれだと、「僕」が最後にセックスをしたのは4月3日だという石原氏自身の見解と矛盾してしまう。「僕」が他の女性と寝ていないのはその語りからも明らかであるから、石原氏のこの論は自己矛盾している。妊娠はしていないという解釈も当然なりたつが、妊娠をしていると考えた場合は、田中氏の指摘のように、どの時期かは不明だが堕胎してからしばらくの後の自殺ということになるだろう。
 語られている現在の時間軸となっている1970年の8月は「1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、(中略)そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた」という部分から、彼女の死からたった四ヶ月程度しか経っていないことがわかる。「僕」の子を妊娠し、堕胎し、そして自殺をした彼女の記憶は「僕」にとっては、完璧ではないと否定しなければならないほど、強烈な絶望だっただろう。そのため、「僕」は鼠と小指のない女の子をかつての自分に見立てて、その二人を救済することによって、自分の救済にしようとしたのである。


完璧な絶望
 しかし、「僕」の救済行為は成功したとは言えなかった。臨床心理の分野では、治療行為の一つに物語論(ナラトロジー)を応用した治療がある。そこでは、患者が自らの衝撃的な体験、(例えば3,11など)を語るという行為を通じて客観視できるようにする。自分の体験を一人称で語ることから、三人称で語れるようになることが治療が進んだということになるそうだ。「僕」はどうだろうか。「僕」は彼女の自殺という絶望を上手く書けない。
 冒頭では「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない」と自分のここのうちを言語化できないことを語っている。「僕」が三番目の彼女の死を客観視し、語れるようになるのには8年間の歳月が必要だった。
 勝原晴希氏は論文「あらゆるものは通り過ぎる―村上春樹『風の歌を聴け』の終わらない〈終わり〉」(国文学 : 解釈と鑑賞 75(9), 167-174, 2010-09)で、〈「あらゆるものは通り過ぎる」と語る『風の歌を聴け』には〈終わり〉がなく、〈始まり〉もない〉と述べている。確かに氏の指摘するように、この作品はデレク・ハートフィールドという架空の作家の引用に始まり引用に終わることからも、この作品の始まりと終わりが「一応」というかぎ括弧つきのものでしかないことは確かであろう。ただ、私はこの一応のはじまりと終わりしか持たない作品が、それでも原動力になった何かがあるだろうと考えた方が自然だと感じる。この作品は「ハートフィールド、再び……」(あとがきにかえて)という章段で、「村上春樹」という作家がハートフィールドという架空の作家の墓を訪れた際のことが書かれているが、そこでは次のような文章がある。

  

引用

たっぷり一時間かけて僕はハートフィールドの墓を捜し出した。まわりの草原で摘んだ埃っぽい野バラを捧げてから墓にむかって手を合わせ、腰を下ろして煙草を吸った。五月の柔らかな日ざしの下では、生も死も同じくらい安らかなように感じられた。僕は仰向けになって目を閉じ、何時間も雲雀の歌を聴き続けた。
この小説はそういった場所から始まった。そして何処にたどり着いたのかは僕にもわからない。
 

 「そういった場所」というのが前の文章の具体的にはどこを指示しているのかは明確にはわからないが、この「あとがきにかえて」にウエイトを置いて読みに反映させる限り、この作品の始まりは墓の前ということになる。「高校生の頃」「ハートフィールドのペーパー・バックスを何冊かまとめて買ったことがある」「僕」はその「何年か後」にアメリカに「ハートフィールドの墓を尋ねるだけの短い旅」をしたことになる。「何年か後」という言葉は、2年から3年、4年から5年、と人によって範囲が変化する。高校生の頃という表現も、高校一年、二年、三年とで変化してくるのだが、この出会いから「何年か後」というのは、ちょうど21歳の「僕」が語られている現在の時間とほぼ一致する。では、「僕」がハートフィールドの墓に行ったのは、語られている現在よりも前だろうか。。私はそうは思わない。なぜなら、「この小説はそういった場所」(傍点引用者)から始まっているからであって、「そこから」始まったわけではないからである。では具体的には「そういった場所」とはどこなのか。「あとがきにかえて」で墓参りをしている「僕」のイメージが読者に喚起するのは、墓参りをしている状況から物語を書き始めようとしている「僕」の姿である。「仏文科の彼女」「三番目の彼女」の死がこの作品に隠された大きな出来事だと指摘した研究者は多い。が私はさらに、この「あとがきにかえて」の読みを作品全体に反映させることによって、「三番目の彼女」が亡くなり、その墓の前で自分の物語を書き始めようと決心する「僕」の姿を提示することができると思う。この点からも、「三番目の彼女」が「僕」にとってどれだけ大きな存在であったかが判明するだろう。またそのことを踏まえた上で、有名な冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な文章が存在しないようにね。」というハートフィールドの引用は、この文章を引用しないわけにはいかなかった「僕」の姿を喚起させる。自分が傾倒する作家、あるいは妄想に「完璧な絶望は存在しない」と定義づけられないと「完璧な絶望」に打ちひしがれてしまう心の危機でもいう状況にあったことが浮かび上がるのではないだろうか。


レーゾン・デートゥル
 今論じた絶望についても関係してくるところであるが、このテクストは、レーゾン・デートゥルをめぐる物語として読み解くことができる。23において、〈僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ〉と書いてある。このレーゾン・デートゥルがこのテクストにおいてどのような意味を有するのか。また、それを考察することによって、導かれる「嘘つき」の解釈を提示したい。
 日本国語大辞典によれば、〈レーゾン‐デートル({フランス}raison d’être )《レゾンデートル》あるものの存在を正当化する根拠。存在にとっての理性的根拠。存在理由。〉と書いてある。仏文科に所属していた彼女だからこそ出て来た表現であろう。
 三人目の彼女にペニスのことをレーゾン・デートゥルと呼ばれた「僕」は、そのために「奇妙な性癖にとりつかれることになった」と23で説明している。「全ての物事を数値に置き換えずにはいられない癖」がついてしまったと言う。
 だが、そのようにすべてを数値に変換していった結果「僕はレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになっ」てしまったのである。「そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた」と続く。ここではいかにも、その数値化が「僕」のレーゾン・デートゥルを見失わせた原因のように語られているが、今迄の考察を踏まえた上で考えれば、これは「僕」の隠ぺいになるだろう。もちろんこの説明も一面では正しい。石原氏はヴィトゲンシュタインに始まった言語論的転回を踏まえて、「僕」が14歳のときに医者とのやり取りを通じて言語論的転回に傾倒したことを指摘している。「ものさし」を使用して世界を認識することは「落とし穴」だったと後に「僕」は気が付く。1で言及されている「落とし穴」は、語られている21歳の時の「僕」のレーゾン・デートゥルの喪失を指示しているのだろう。しかし、認識の問題だけで8年間も筆をとれない状況になるものだろうか。もちろん中にはそういう例もあるだろうが、私は「僕」が8年間の「ジレンマを抱き続けた」根本の原因は三番目の女の子の自殺にウエイトを置いて考えたい。
 対話という形式を持って三番目の彼女が登場するのは34が最初で最後である。他の部分にも彼女の言葉はかぎ括弧付きで再現はされるが、対話にはなっていない。34は、彼女との対話が始まる前に、「嘘と沈黙は現在の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だ」とめずらしく「僕」が社会について語る部分がある。だが、ここで重要なのはもちろん社会について語ったということではなく、社会について語っている体裁を採りながら、「僕」が嘘と沈黙はいけないと主張していることである。ここから自分が嘘をついてしまい、またしばしば沈黙をしてしまい、その結果が引き起こしたことを省みて反省をしている「僕」の姿を考えることができる。その失敗の例が☆印の後の対話である。

「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか……もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「……子供は何人欲しい?」
「3人」
「男? 女?」
「女が2人に男が1人。」
   彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。
  
  「嘘つき!」
 
  と彼女は言った。しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。

 ここで注目したいのはまず、他の質問がイエスオアノーで答えられる質問なのに対して、唯一子供に関する質問だけ、イエスオアノーで答えられる問題ではないということである。「……子供は何人欲しい?」という問いの仕方は、子供は欲しくないというノーの答えを受けつける余地がない。「僕」は、無理やりに子供が欲しいという前提の上で、何人ほしいのかと、彼女質問されているのである。また、この対話を通じて「……」六点リーダーが二回使用されていることにも注目すべきである。その二回の使用はどちらも彼女のものである。ここで三番目の女の子が、「僕」との対話にかなり神経を集中させて質問をしていることがわかる。「……子供は何人欲しい?」という問いのリーダーは、「子供は欲しい?」というイエスオアノーの問題を変化させるための時間であろう。
 彼女はこの時、すでに〈僕〉の子を身ごもっていた可能性がある。この問答を通じて、〈僕〉は子供を欲しがっていないことを知った彼女は、子供を堕胎する方向へと決心したのである。可能性としては、この時にはまだ身ごもっておらず、春休み中に〈僕〉の子どもを宿したことを知った彼女が、〈僕〉の子どもと共に自殺したということもある。ただ、石原氏の言うように、この時点で妊娠していた彼女が、「僕」の子を身ごもったまま自殺したとは考えられない。この対話は10月の出来事であることが書かれているが、この時点ですでに妊娠していたとして、4月に自殺した際にまだ胎内にいたとすれば、妊娠6か月以上である。その期間まったく彼女と会っていなかったということは考えにくい。それに石原氏の論では、4月3日に最後のセックスをしているとしているので、やはり石原氏の論には矛盾がある。石原氏の論を通そうとすれば、可能性として「僕」がこの半年近く彼女とまったく会わずに、妊娠六か月以上で彼女が胎児とともに自殺したパターンが考えられる。あるいはさらに石原氏の論を越えて、「僕」と彼女は妊娠をお互い共有した情報としており、産むことを決意していたのに突然彼女が自殺してしまったというパターンである。もしそうだとすれば、本当に「何故彼女が死んだのかは誰にもわからない」ことになる。
 話しをもとに戻し、ゴチックの「嘘つき!」についての論証をしていこう。多くの研究者が指摘しているように、「嘘つき!」が彼女の自殺につながっていることは確かである。ではなぜ彼女は自殺してしまったのだろうか。私はそれを彼女のレーゾン・デートゥルという視点から考えてみたい。彼女は、「僕」のペニスをレーゾン・デートィルと名付けた。ここにはあるモノに命や存在を吹き込む神話的な感覚が見て取れるだろう。例えばのはなしであるが、自分を愛せない人間は他人を愛せないといったことがよく言われる。だが、果たしてそうだろうか。たとえ自分を愛せないとしても、他人を愛することはできるかもしれないし、他人を愛することによって、他人を愛している自分を愛せるようになるかもしれない。自分を救うというのは案外むずかしいもので、自分を救えなかったとしても、他人を救えるということはある。彼女にとってのレーゾン・デートゥルもそのようなものだったのではないだろうか。
 彼女は「僕」のペニスにレーゾン・デートゥルを授けた。それは彼女にレーゾン・デートゥルが無かったからである。彼女が授けたその「僕」のレーゾン・デートィルによって授かる命こそ、彼女のレーゾン・デートゥルになり得た可能性がある。すなわち、一端「僕」にレーゾン・デートゥルを与え、そこから自分にもレーゾン・デートゥルを生み出そうとしたのである。見方を変えれば、「僕」と三番目の彼女は、彼女から「僕」へ、「僕」から彼女へという相互関係を結ぶことによって相互依存的にレーゾン・デートゥルを築き上げようとしていたのではないか。
 しかし、彼女が「僕」のレーゾン・デートゥルによって授かった胎児は、「僕」に承認されることはなかった。「僕」は彼女のレーゾン・デートゥルを作ることを拒否してしまったのである。そのため、彼女は自分のレーゾン・デートゥルを無くして、自殺しなければならなくなったと解釈できるのではないか。
 「嘘つき!」に話を戻そう。彼女は「僕」に「嘘つき!」と言い放ったわけだが、「僕」はそれに対して奇妙なことを書いている。「しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった」。だが、通常「嘘つき!」は一つしか嘘をつかなかった場合でも、使用できる言葉である。もちろん一般的には、いつも嘘をついている人間に対して使うことが多いが。そうすると、「僕」は自分では一つしか嘘をついていないという認識を持っているので、「嘘つき」という言葉はいつも嘘をついている人間に対して使用する言葉だと認識していることになる。それを踏まえて考えれば、「僕」は、彼女の「嘘つき」という発言は、「僕」の発言がすべて「嘘」だと言ったのだなと思っていることになる。彼女が本当に「僕」の問答のすべてを嘘だと思っていたのか、それとも一部が嘘だと思ったのかはテクストからはわからない。ただ、「僕」の「ひとつしか嘘はつ」いていないという主張を信じれば、その箇所は具体的には「3人」という部分になるだろうと私は解釈する。
 それは、この質問にだけ彼女の策略が特に大きく働いたということも関係している。「ねえ、私を愛している?」に対する「もちろん」は、あまりにも簡単すぎる返答ではないかと考えられるかもしれない。が、春樹文学には「もちろん」が多用されているため、単に作家が好きな言葉ということもあるし、特別な思いが込められている可能性もある。続く「結婚したい?」という質問にも「もちろん結婚したい」と「もちろん」を使用している。この「もちろん」と「もちろん結婚したい」は、「僕」の現実の心情に近いのではないだろうか。
 次の「言い忘れていたんだ」という部分が、そのように大事なことを言い忘れることがあるだろうかと考える余地はある。だが、この対話のあった4か月後に小指のない女の子との対話で、「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの?」「さあね、癖なんだよ。いつも肝心なことだけ言い忘れる」と述べていることからも、本心でなかったから言わなかったのだということではなく、本当に言い忘れていたと考えるほうがより自然だろう。
 とすると、「3人」の部分が嘘になる可能性が一番高まるわけだが、質問を変えられなかった場合を想定したい。すなわち「子供は欲しい?」と彼女がもし聞いた場合に「僕」がどう答えたかだ。この質問に対してならば、「子供は欲しくない」「欲しい」の二択が考えられる。そして、どちらか真の答えを述べれば嘘をつかなくて良いことになる。だが、質問を変容させて、子供は欲しいとした上で聞いた。「欲しくない」という選択肢はふさがれたのである。ここで、彼女は「僕」の対応を見たのだろう。そして、それを嘘だと確信した。彼女は「僕」に嘘を言わせるためにこの質問をしたのではなく、嘘を見極めるためにこの質問をしたのである。もし、「もちろん」「もちろん結婚したいよ」「言い忘れていたんだ」のいずれかで、嘘だと判断がついたならば、その時点で彼女は「嘘つき!」と言うはずである。
 この「嘘つき!」が問題を困難にしているのは、彼女の認識と「僕」の認識で嘘の数が異なることである。彼女にとっては、嘘をついているかいないかを見極める質問であった。「僕」の「もちろん」「もちろん結婚したい」「言い忘れていたんだ」までの返答では、彼女は「僕」が嘘をついているかどうかわからなかった。だが、質問を変容させて答えさせた子供については、彼女は何か思うところがあったのだろう。単純に「3人」と書かれているが、そのニュアンスは彼女にとって特別な物であったに違いない。そこから彼女は「僕」が子供を欲しがっていないことを悟ったのだろう。妊娠している女性が彼氏が子供を欲しがっていないことを知ったらどうだろうか。恐らく彼女にとって「僕」が子供を欲しくないそぶりを見せたことは、彼女にとっては全てを否定されたことだったに違いない。彼女にとっては、子供が欲しくないというのは、子供だけ欲しくないという意味に留まらなかったはずであり、結婚したいということも、愛しているということも嘘だということになったのだろう。それは彼女の質問が、枝分かれ式で展開していることからもわかる。「愛している」という項目をクリアした上で「結婚」という項目があり、その上で「子供」という項目がある。しばしば男性に見られるのは、愛していても結婚したくないとか、結婚しても愛していないとか、子供は欲しくないが愛しているとか、それぞれが別の事柄だと考える思考である。この思考のずれが二人に悲劇を招いたのだろう。
 「僕」も「愛」「結婚」「子供」は段階的なものではなく、それぞれ別のものとして考えていたとすると、「嘘」はどれでも良いことになってしまうのだが、彼女が「3人」で嘘だと判断したことや、さらに小指のない女の子が堕胎したことに関して感情的にならないことなどからも、やはり「僕」は子供が欲しくなかったのではないかと考えられる。また、「僕」にとっての子供がどのような存在かはわからないが、「僕」は生物学を専攻にしていて、猫などの小動物、小さな生命を平気で殺めることができる。もちろん動物と人間、しかも自分の子供となれば話は別になるが、意識の底に、子供や小さな生命に対する認識が通常と異なっている可能性がある。
 あるいは、「僕」は質問を立て続けにされると腹が立つ傾向がみられる。9で昨夜何があったのか小指のない彼女に問い続けられた際には「苛立」っているし、12でディスク・ジョッキーに質問攻めにされた時にも、「腹が立ち始めた」とある。クールに生きることを目指してきた「僕」にとって、それはあらゆるものからの「逃げ」の姿勢だったのではないだろうか。質問に答えることを強要されるのは、そこに答えなければならないという義務と、その返答に対する責任を問われることになる。村上春樹の初期の文学はコミットメントではなく、デタッチメント であると言われた。あらゆるものから逃げてきた責任を負わずにきた生き方であった。子供を持つという責任は彼女をつくる責任や結婚する責任とは重さが異なる。これから未来何十年と子供を養っていかなければならない責任は、通常の人間でもそう取れるものではない。ましてや責任から逃れ続けてきた「僕」にとっては、子供ができたと言われるのは一番の重苦になったのではないだろうか。
 これを安易に現実の村上春樹氏に重ね合わせて考えることはテクスト論的な視点から考えてよろしいこととは言えないだろうが、作家論的な視野を含めると、乱暴なものいいには違いないが、村上春樹がなぜ子供を作らないのかということに繋がるかも知れない。

ゆるせなかった「僕」
 彼女の死という衝撃的な出来事の後、「僕」は一夏を故郷でおくる。そしてその自己療養には、8年の歳月がかかった。そして、現在の「僕」は、かつての21歳の「僕」が彼女の死の原因を自分の嘘にあるとは思っていなかった過去に目を向け始めたのではないだろうか。だが、8年のブランクをかかえ、「貧弱な真実よりも華麗虚偽を愛する」精神の抜けていない「僕」は、「バウムクーヘン」のように真実を抜きにしてしか語れないのである。だが、それでいいと思っている現在の「僕」もいることだろう。「彼女は真剣に(冗談ではなく)、私が大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ」と言った部分や「何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う」という部分を21歳の「僕」に語らせており、かつて「僕」は彼女の死を人知を超えた神なるものの仕業であると考えて誤魔化そうとしていたことを描いているのである。あるいは、そう考えないと完璧な絶望に陥ってしまったための防御策だったのだとも描いているように私には思われる。。
 鼠が本を読む「僕」に対して「何故本ばかり読む?」という問いに「僕」は「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」と答える。「生きてる作家の本は読まない?」「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」「何故?」「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」と語っており、ここから「僕」の死についての考えが伺える。

「ねえ、生身の人間はどう?大抵のことは許せない?」
「どうかな?そんな風に真剣に考えたことはないね。でもそういった切羽詰まった状況に追い込まれたら、そうなるかもしれない。許せなくなるかもしれない。」
(中略)
「許せなかったらどうする?」
「枕でも抱いて寝ちまうよ。」

 この会話で「僕」がこの時すでに亡くなっている「彼女」のことを念頭に置いて話しているのは明らかだと考えられる。とすると、「僕」は数少ない他者との接点であった「彼女」のことは生前許せなかったことが伺える。具体的に何について許せなかったのかはテクストからは読み取れないが、死んでしまった今となって、「僕」は生前の彼女のことを赦せるようになったのであろう。また、許せなかった時期をどのように過ごしていたのかというと、「枕でも抱いて寝」るという消極的な行為しかできなかったこともここから判明する。すなわち、「僕」が彼女の死を知らされた際、「僕」は魔女を読んでいたと21で描かれているが、おそらくその前後の「僕」のライフスタイルは寝るか、ほぼ寝たような状況で本を読む程度のひどく消極的な生活を送っていたであろうことが伺える。
 ほぼ寝たきりという点においては、ベッドの上で寝たきりの状況にある少女ともイメージが重なる。この少女が本当に存在するのかという点で、高田氏は論文において疑問を呈しているが、その論を応用すれば、この少女は書き手である「僕」の創造、「僕」の過去の状況を示した存在であるということもできるのではないだろうか。
 「今、僕は語ろうと思う」と言って語り始めるのは、そうした過去の「僕」を書き起こすことによって、そこから過去の「僕」と向き合い、これから「美しい言葉で世界を語」るようになれるための、最初の一歩だったのである。




1 羊泉社MOOK 村上春樹全小説ガイドブック(2010 羊泉社) 
2 前田愛「僕と鼠の記号論」(『国文学』S60・3)
3 小菅健一「風の歌を聴け」論への作業仮説 : <文章>・"空向"・<リスト>「日本文芸論集」 28, 40-58, 1995-12-20
4 高田 知波「新人投手がジャイアンツを相手にノーヒット・ノーランをやるよりは簡単だけど、完封するよりは少し難しい程度--村上春樹研究のための微視的ノート」『駒澤國文』 (42), 357-371, 2005-02
5 柿崎 隆宏「村上春樹『風の歌を聴け』論--過去へと向かう語りをめぐって」九大日文 (15), 55-71, 2010-03-31
6 村上春樹『羊をめぐる冒険』著講談社 1982
7 山根 由美恵〈村上春樹「風の歌を聴け」論--物語の構成と〈影〉の存在〉『国文学攷』 (163), 19-31, 1999-09
8 日本YWCA http://www.ywca.or.jp/aboutus/mission.html アクセス日2004/01/22
9 平野芳信「凪の風景、あるいはもう一つの物語―『風の歌を聴け』論―」日本文芸論集 23・24, 162-181, 1991-12-10
10 石原千秋「謎とき 村上春樹」光文社 2007
11 特殊清掃管理人 ~今日の現場~ http://tokusou24.jp/scene/ アクセス日2004/01/22
12 注ⅱに同じ





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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』試論 ~2~ 感想とレビュー 作品を読み解く

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-つくるの人物造形-
 少し無理な読み方をしましたが、次に作品内に入っていきましょう。この小説は、三人称多崎視点で物語られる作品です。主人公は多崎つくるという男性。この作品で何度も登場するのが人物と色のモチーフです。多崎つくるは、中学高校時代に、一生に一度得られるか得られないかというくらい運命的な共同体を気づきあげます。そこのメンバーは赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒栞恵理と多崎つくるの五人です。今までガールフレンドと二人きりだとか、共同経営者だとかで春樹作品に登場する主要人物はそこまで多くありませんでした。多くて3人くらいでした。それが一度に56人の主要な人物が登場したということからも、春樹作品の例外的な作品であることがわかります。
 この作品で印象的なのは、そこに登場する人物がそれぞれの色(カラー)を持っていることです。ガールフレンドの木元沙羅だけは例外的に色を有していません。それ以外に登場する人物たち、五人のグループではつくるを除いて、アカ、アオ、シロ、クロとそれぞれの名前に色が含まれていて、学生だったころのつくるはそのことを羨み、みなそれぞれ特有の個性を持っていることがとても素敵で、そうして自分にはそうした色や、特徴がないことに引け目を感じていました。
 つくるが、五人のグループから突然切り捨てられてしまったことから、彼は生に対する興味関心を失います。死の深淵まで自然に向かっていったということが、この作品の冒頭で語られることですが、彼は一度死を間近に見たのです。
 この作品は体の一部のようにも思えた共同体から切り捨てられたショックをずっと隠し、忘れようとしてきたつくるが、16年という歳月を経て、どうして自分が切り捨てられなければならなかったのか、その理由を探す旅になります。それが象徴的にはリストの『巡礼の年』ということになります。この物語の形は、自分が触れられなかったものにもう一度挑戦し、人間として成長していくという教養小説(ビルドゥングスロマーン)としても読めますし、自分を切り捨てた理由を探し求めるというミステリー小説としての側面からも読むことができます。

 多崎つくるの性格付けはこの作品内記号を用いて説明するとすれば、駅になるでしょう。彼はエンジニアとして駅を名の通り「つくる」仕事をしていますが、その駅という性質が彼を苦しめたのです。つくるが駅だとすると、他の登場人物、特にメンバーたちは何にたとえられるでしょうか。一つには駅を利用する人々、もうひとは駅に到着する電車たち。このどちらの解釈でも通用するのですが、それぞれ人々は自分の目的地があり、そこに向かって常に動いています。しかし、つくるはそんな人々が利用する駅のような性質を持った人物だから、自分が動いていないのがひどく不安でならないのです。回りの人物たちがそれぞれに自分たちんの進みたい道、目的地を歩いているなかで、自分だけが停滞しているように見えたのです。
 全く理由を聞かされないまま切り捨てられたつくるは、自分には色がなく、特徴がないからだと彼は解釈します。そのために、常に自分は色彩がないので、価値がない人間だと思い、現在において沙羅という年上のガールフレンドを相手にしていても、どこかうつつを抜かした感じがしてしまうのです。そうしてそれを女の観で見抜いた沙羅は、過去の未解決の問題と向き合うように差し向けるのです。

-余計なもの、欠いたもの-
 村上春樹文学に登場し重要な役割を果たすのは、どこかしら余計なものを持った人物か、ある欠損を抱えた人物です。過去の作品では、片腕がない人物が登場したり、片手、片指、片足がなかったり欠損がある人物が印象的でした。また、どこか「夢(春樹作品においての夢は重要なモチーフ)」を現実レベルまで引き下げてそのなかで影響を与えることができるような超能力ににた力を持った人物も多く登場しています。
 そうした登場人物の特徴はこの作品でも現れます。この物語のなかで最も印象に残るのは、6本指の話でしょう。作品内の情報によれば、P212から数ページにわたり、6本指自体はそれほど珍しいものではないらしいということが述べられています。その人よりも多いもの、余計なものを持ってしまった人物がこの作品では超能力的な何かを持っている可能性があります。過去②において、大学三年生であった多崎つくるは、一人の友人を持ちます。P55「灰田文紹(ふみあき)」という二歳下の友達です。この人物は345章と、灰田の父の語りを含めて78章と合計で5章分しか登場しませんが、この謎の人物が私には象徴的な意味があると感じています。
 灰田の父親は、灰田の語りによれば60年代の後半にP112「九州の山中の温泉でであった、緑川というジャズ・ピアニスト」という人物と交友を持っています。この緑川という色を持ったピアニストは、灰田の父に対してある不思議な話をします。「悪魔」という言葉が登場するのもこの話のくだりです。緑川自身は悪魔のようなものと解釈し、「トークン」だと言います。そのトークンとはP89「死を引き受けることに同意した時点で、~普通ではない資質を手に入れる」ことができる「特別な能力」です。「人々の発するそれぞれの色を読み取れるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にあるのは、~知覚そのものを拡大できるということだ」そうで、「知覚は混じり気のない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして~普通では見られ逢い情景を俯瞰すること」ができる能力です。そのトークンが一体どんなシステムなのか、もし人に譲らないで死んだ場合はその死んだ者と同時に消えてなくなるのか、あるいは他の誰かに引き継がれるのか、全く謎ですが、この命を代償に短期間するどい知覚の能力を手に入れることができるものが存在するのだというはなしが登場します。この話は、過去②の灰田が、さらに自分の父親が若いころの過去の物語を語っているという構図になりますが、語り手である灰田が、その人物造形のなかから信頼にたる人物かどうかが判断の難しいところです。
 少なくとも、感のようなものには優れていないと自覚している多崎でさえも、P113「ミスター・グレイ・灰色は白と黒を混ぜて作り出される。そして濃さを変え、様々な段階の闇の中に容易に溶け込むことができる」人物だと感じています。

 灰田の父がであった緑川というジャズ・ピアニストはトークンを有しており、そうして灰田父の前で演奏した際に、P77「緑川はショルダーバックから小さな布の袋を取り出し、それを注意深くピアノの上に置いた。上等な布地でできた袋で、口のところを紐で縛るようになっていた。誰かの遺骨なのかもしれないと灰田青年は思った。」とあり、この緑川が置いた袋には、もしかしたら六本目の指が入っていたのではないかと、話を聞いてから15年ほど経った現在において多崎は解釈しています。この緑川というピアニストが実際に六本指だったのか、それを切ってその袋に入れていたのかは全くの謎ですし、テクストからはわかりませんが、特別な能力を手に入れるにあたって、そうした人とは異なった部分があったと象徴的に考えられうると私は思います。そうして、この話は灰田によって、60年代が舞台となっていますが、灰田はその行動の謎の多さからいっても信頼にたる人物ではありません。そうしてそれを多崎もまた感じており、もしかしたら灰田は自分のことを父に仮託して話しているのではないかと疑っている部分もあります。多崎の疑いが正しいとするならば、灰田はおそらくここで自分の経験を語っていたのかもしれません。そうして、灰田の話では緑川とうピアニストはそのままトークンを渡さずに消え去りましたが、灰田は実はこのトークンを引き継いでいたのかも知れないと解釈できると思います。

-何故シロは死んだ-
 この小説が最もミステリ要素を帯びてくるのは、友人たちを巡っていくなかで、かつてグループ内で最も美人だったシロことユジが殺されていたという事実です。その答えを求めて多崎はシロの女友達であったクロのもとへはるばるフィンランドまで行きます。結論から言えば、このテクストのなかからは、だれにシロがレイプされたのか、なぜシロが殺されたのか、誰に殺されたのかはわかりません。
 ただし、そこを埋めていくような解釈をすると、恐ろしい解釈ができるのではないかと私は考えています。友人たちから切り捨てられたから、つくるは夢のなかで、シロとクロが二人出てくる性夢を見ます。その中ではつくるは二人を平等に扱っていたはずなのにも拘わらず、彼の意志とは反対に必ず射精はシロの中でします。この性夢を見ていたことが、シロがつくるにレイプされたと言う嘘を流していたことを知った際に、多少心にひっかかるものを感じさせます。
 春樹作品の特徴は、夢が現実にも少なからず影響を持つ可能性があるという点です。この作品でも、つくるが夢のなかでみたことは、現実と区別がつきにくいことがあったりと、ある程度夢と現実がどこかしらの領域でつながっている可能性が示唆されています。自分がシロをレイプした記憶や事実などは全くないとおもっていながらも、どこか自分の夢と彼女の夢がつながっていて、夢のなかでレイプしたということが彼女に伝わってしまったのかもしれないと悩みます。
 また、灰田という謎の人物の夢か現実かわからないことが起こったこともつくるにすくなからぬ影響を与えています。灰田は男性ですが、夢か現実か区別がつかないなかで、シロとクロを相手にしている最中に、射精したら、じつはそれは灰田の口のなかであったということがP118で描かれています。灰田という存在を象徴的に考えるとしたら、シロとクロを混ぜたものということから、灰田はシロとクロ両方が作り出した幻覚(それはつくるが作り出したとも考えらえますし、シロとクロの二人が作り出したとも考えらえます)だと解釈することもできます。あるいは灰田という人物は実際にいたのかもしれません。

シロが突然自分がつくるにレイプされたと言い始めた原因をクロとつくるは考えますが、明確なこたえはでてきません。つくるはこれに対して、完全調和が保たれていた関係性にひびが入っていくのをあまりにも繊細な感覚を持っていたシロが見るに堪えなかったのではないかと解釈しています。
P304ではエリがユズ(シロ)のことを「あの子には悪霊がとりついていた」と言っています。この悪霊は、どこか悪魔と似たイメージがあります。そうすると、もしかしたらユズ(シロ)もまた、緑川と同じように、「トークン」を持っていたのかもしれません。彼女は自分の欲しい能力をいくら頑張っても手に入れられない状況のなかで、悪魔的な契約をかわし、だれよりもするどい感性をトークンとして所有していた可能性があると私は思います。ですから、そのするどすぎる感性によって、調和が保たれていた友人たちのグループが壊れていくのを見ていることができなくなり、先にシロの方が耐えられなくなって壊れてしまったのです。緑川の場合は2か月でしたが、シロに残された時間は3年ほどだったのでしょう。シロが殺されたのは、そのトークンを誰にも渡せずに、最後の期限まできてしまったからです。そうして誰が殺したのかという問題は、ト-クンという言葉とともに登場した最も謎な人物灰田ではないでしょうか。
トークンは死と引き換えに能力を得られるものだと解釈すると、トークンの売買をしている悪魔的な存在が、死の深淵までやってきたつくるに対して交渉するのはなんの不思議もありません。もし、灰田が悪魔的なトークンセールスマンだったとすると、つくるにトークンを売りに来たものの売れなかったので帰って行った、その前にはシロにトークンを売っていたというようにも解釈できます。ですから、そのトークンの有効期限が切れ、回収しにきた灰田的な存在にシロは殺されたのだと私は考えています。
 
-終わりに-
 つくるが作っていた駅は、象徴的にはつくる自身だったのです。つくる以外の色彩を持った人物たちは、駅を利用する人々や列車にたとえられます。つくるは、人々が駅で重大な事故が起きて危険にまきこまれないように常にチェックし、問題があれば修正している存在です。つくるは、こんどは沙羅という人を向かい入れるために、沙羅に対して問題のある部分をつくりなおしていたというのがこの物語のストーリーではないでしょうか。
 震災やサリンという事件を絡め、またつくる自身が感じているように人生の警句や省察に対してはあまり良い意味を見出していないのにも拘わらず、最後の章でずいぶんメッセージ性の強い部分が現れているのには、少し違和感がありますが、それだけ作家レベルで話をすれば村上春樹は過去と向き合えと言っているのかもしれません。

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』試論 ~1~ 感想とレビュー 春樹文学を読み解く

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ちょっとしばらく更新を怠ってしまい、申し訳ありません。忙しいと言う言葉は使いたくないのですが(人が亡くなると書いて忙しいですからね)、ちょっと優先すべき事項がいくつかありましたので、滞りました。前回の記事にはたくさんのコメントありがとうございます。これから返事をさせていただきます。今回は新鮮なネタを用意してきました。お楽しみください。

-初めに-
 今最もノーベル文学賞に近い作家としてその動向が注目される作家村上春樹の3年ぶりの長編書下ろしが発売されて話題になりました。前作の『1Q84』から3年が経ち、前作と同様発売前にはその内容がほとんど知らされないということが話題になりました。通常本を買う際には、一般の読者は物語(ストーリー)を求めて購入していると感じるかもしれません。ですから、本の紹介にはその本がどのような内容なのか、あるいはどのような感情をもたらせてくれるのか、例えば「涙なしには読めません」という文句が帯に入っていれば感動できるのだなと思って購入する場合もあるでしょう。しかし、この本が証明しているように、実は本というのは物語がメインで購入の動機が決定するわけではないのです。
 一つにはもちろん現在の日本の小説家の中で最も有名なのは村上春樹だという認識があります。これは日本人の良い面でもあり悪い面でもあるのですが、とにかく有名な人のものはいいものだろうと認識するところがあります。しかし、これは非常に危険なことで、村上春樹は確かにビッグネームになってしまいましたが、だからと言って本当に彼が書くものが全ていいものだとは限らないということです。私が言いたいのは、他人の意見に追随しているだけで考えを放棄するのはやめて、自分でこれが良いものなのかどうかを判断する力を個人個人が身に着けて行かなければならないということです。
 二つ目に、これが私の言いたいことなのですが、実はストーリーというものはあまり重要ではないということがあります。例えば男女の物語だとすると、誰がどのように書いたとしても基本的には6通りのお話しかできないということがよく言われています。1、めでたく結ばれる。2、別れる。3、男が死ぬ(消える、その他)。4、女が死ぬ(消える、その他)。5、両方死ぬ(例、ロミオをジュリエット)。6、よくわからない(消息不明)。途中でどのようなことが起ころうとも、男女の物語は大体この6種類ほどに集約されます。これがいくつか重なって複合的になっているので私たちは物語を読んでいるんだと考えがちですが、実は物語の数は意外と少なく、私たちが読んでいるのは物語の種類というよりも、文体だと言うほうが近いのかもしれません。文体という言葉には、もちろん物語の運び方も含まれるし、何人称の語り手だとか、言葉遣いや書き方、例えば論理的な一般論が多いとか、が含まれています。
 物語内容が公開される以前から、何万部もの予約が殺到したり、購入のために並んだりと初版の50万部がすぐに売り切れるほどの大盛況だったのには、私たち読者は村上春樹の文体を読みたいという思いが反映されているのだと思います。中には村上春樹は肌に合わないという人もいますが、それは自分が好きな文体と村上春樹の書く文体が異なっていたということなのでしょう。村上春樹の文体は確かに何かを翻訳したかのように非常に読みやすく、淡々とした文体です。それは別の側面からみれば、重厚さに欠けているとも飄々としているとも言えます。私自身は、村上春樹の文体は好きですが、あの不思議な言い回しは読んでいて奇妙な感覚を得るものです。

-春樹文学を読み解く三つの視点・あるいは・無口↔多弁・音楽-
 村上春樹の作品を読み解く際にどのようにして読むのか、どこに注目して読むのかということが問題になります。生きている作家のなかで、現在最も多くの研究者が論文を書き、研究されているのは村上春樹です。私は学科柄そうした論文を目にするところにいるのですが、近現代の小説を研究している学者であればかならず村上春樹の作品の論文を提出しているような状態です。何故ここまで研究が熱心にされるのかというと、一つは作品のもつ多義性だと考えられます。読みやすいのだけれど、どこか核心を隠しているような感じがするのが春樹文学の特徴です。あそこはどうなったの?あの謎が解決されたようには思えないけれどという作品の隙間(いい意味での)がそこかしこに散りばめられています。ですから、研究者にとって俄然やる気がでるテクストなのですが、一般の読者からしたら肩透かしを食らったように感じられるかもしれません。
 今回の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(以下「多崎~」)』はどこに注目して読んだら良いのでしょうか。少し私の読み方を紹介してみたいと思います。
 まず最初に、村上春樹の文体の特徴である「あるいは」の使い方から。あるいはという言葉には、文法的に考えれば二つの使い方があります。一つは副詞として、一方や、ひょっとしたらとして、もう一つは接続詞としてもしくはの意味でも使われています。ここに文学的な意味を見出すとしたら、多数ある選択肢の中で、あるひとつのことを選んできたという意味にも解釈できます。人生は選択の連続です。そのことを作中ではアカがP207で爪を剥ぐたとえ話をして、「おれたちはみんなそれぞれの自由を手にしている」と述べています。ここには、アカが自分で道化を演じているとわかっていながらも、新興宗教じみた育成プログラムを行わなければならないという、自由を手にしていながらも不自由をも同時に手にしているという人生の省察が含まれていると解釈できます。
 作中で何度も対話をしている際に「あるいは」が登場するのは、あるいはもし、あそこで違った選択肢を選んでいたらという、人生におけるifの話をしているということになります。シロことユズが無残な最期を遂げたことを多崎とクロことエリが話している最中では、エリはもし自分がユズのそばにいてあげられたならというifを語ります。しかし、その時点でユズのそばにいてあげられたとしても、P312「またいつかどこか別の場所で、同じようなことは起こっていたかもしれない。君はユズの保護者じゃないんだ。二十四時間付き添っているわけにはいかない。君には君の人生がある。できることには限りがある」と多崎はのべ、また他の部分からも推測できるように、多崎は人生というもののある程度の収束性を意識しています。誰が何をやっても、どのような形であれ結果として引き起こされることは類似してくるということを多崎はさとっているのです。
 
 村上春樹文学は、大別して二種類の主人公に分けられます。主人公無口タイプと主人公多弁タイプです。前者は春樹自身が若かったころの初期作品に多く、後期の作品には多弁な主人公が多く登場しています。一般的に、村上春樹が若くして活躍している時代からのハルキスト(村上春樹文学のファンのこと)たちは、無口タイプが肌にあっているようで、割と年齢の高いハルキストの方の話を聞いていると、多弁なタイプ(1Q84など)はあまり肌に合わないようです。私のように若くして、後から春樹の文学を追っていったような世代には、『1Q84』の影響もあり多弁タイプのほうが親しみを感じているようです。今回の「多崎~」に登場する多崎つくるは無口タイプですから、これからこの本を購入した人たちの動向が気になります。評価していれば、無口タイプでもOKな人だということが考えられますし、つまらなかったとか否定的な感想を述べている方は、きっと無口タイプがだめな多弁タイプが好きなハルキストたちでしょう。

 また、春樹文学の特徴はなんといっても文章中に登場する音楽。村上春樹の文学は常に音楽と切りはなして考えることはできません。小説というものは、一般的に考えれば文章という言葉の羅列のなかにどのようにして生き生きとしたものを組み込むかが作家の模索するところになりますが、春樹はそれを音楽を文章に内包することによって、独自の文学を形成させたと言えるでしょう。初期の作品には料理をする主人公の姿がよく表れましたが、今回はほとんど主人公は料理をしませんでした。
 今回登場した音楽はフランツ・リストの『巡礼の年』。Années de pèlerinageはウィキペディアによると「《第1年:スイス》《第2年:イタリア》《ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)》《第3年》の4集から」なり、「20代から60代までに断続的に作曲したものを集めたもので、彼が訪れた地の印象や経験、目にしたものを書きとめた形をとっている」ようです。風景描写の音楽というわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E3%81%AE%E5%B9%B4

P202「シロがよく弾いていたピアノの曲~リストの『ル・マル・デュ・ペイ』という短い曲だけど」と多崎が述べたシロが弾いていたであろう曲をYouTubeから引用しておきます。


-作品内時間に仕組まれた巧妙なトリック-
 この作品の物語内時間がいつなのかという問題があります。その前に、読みの面白さですが主人公がどこに住んでいるかはこの物語では明らかにはなりませんが、何の沿線かはわかります。P42には多崎が日比谷線に乗って帰ることが書かれています。
 さて、物語内時間ですが、P45で、ここは現在の時間軸から、過去のことを省みているという構図ですが、死にかけて7キロも体重を落とした彼が自分の姿を見た際に感じたものは、「巨大な自信家、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離さなくなってしまった人のように」自分の姿を見ていたと述べています。もちろん、当時はそのように思ったはずはありませんから、回想している現在において、鏡を見た時点以降の記憶によりどころを見つけているということになります。このことから、回想している現在は、恐らくあの震災の後ということがわかりますから、2011年、2012年か2013年ということになるでしょう。2011年か2012か2013年の現在において、主人公の多崎つくるは36歳という設定です。
 この作品は三つの時間軸が重なり合って構成されています。
一つ目は2011・2・3年の現在。36歳
 二つ目は現在から16年前の大学二年生、1995・6・7年。過去①
 三つめは、過去①の翌年、灰田との思いで。1996・7・8年、過去②

 この作品で唯一登場する西暦は1995という数字です。P349で「悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」という部分がありますが、これは作家である村上春樹のことを含めて考えると、地下鉄サリン事件のことを述べていることは間違いありません。村上春樹は彼の著書『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件のインタビューをノンフィクション化した作品を執筆しています。
 1995年という数字を重要視するならば、その時点で多崎つくるは、地下鉄サリン事件で多くの人間の尊い命が奪われるなかで、彼もまた自分の身体の一部であった友人をなくしたということになります。そうして1995年に多崎つくるが20歳だと仮定すると、36歳である現在は、2011年という数字になるのです。ここに震災の影響がうかがえると私は考えています。この多崎つくるという存在は、1995年には地下鉄サリンとともに友人を無くすという象徴的な出来事があり、2011年の現在において、かつてなくしたものを再び見つめなおすという行為をしようとしているのです。
 ここにメッセージ性を見出すとしたら、この作品もまた、3・11以降続いている3・11文学と捉えることができるかもしれません。多崎つくるのガールフレンドである沙羅はP287「記憶に蓋をすることはできる。でも歴史を隠すことはできない」と述べています。ここに重点を置くとすれば、地下鉄サリンにしても、震災にしても、忘れることで解決しようとするのではなくて、時間がかかってもいいからそれらの問題と向き合わなければならないというメッセージだとも解釈できます。
 さらに多崎つくるという人物を象徴的に日本と捉えた場合は、今まではずっとサリンにしても震災にしてもずっと蓋してみようとしていなかったけれども、どうしてもそれではおかしな部分が生じてきている、それを見つめなおす時に来ているのではないかとこの作品は述べているようにも考えられます。多崎つくるが日本だとすると、沙羅は村上春樹と言ったところでしょうか。

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