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朝井リョウ『何者』試論 感想とレビュー 「何者」から見る現代就活生の現状 ~2~

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-何が問題なのか-
 ここではっとさせられたのが、隆良のような自称クリエイターのような人間でなくても、隆良的な思考があるということです。私自身も、また私の友人にも、一斉に就活スーツを着て企業説明会に行ったり、インターンに行ったりしているのは何か違う、何かおかしいという考えがありました。おそらくこれは現在の多くの若者にある考えだと言ってもいいでしょう。右肩上がりの経済は終わり、今どこへ就職しても30年後、40年後が不透明な時代に、そこまでして一般企業に入らなければならないのだろうかと、価値観が変化してきています。また、エントリーシートを100枚、100社も出して、全部一次も受からなかったというような話があります。これも何かおかしいです。そもそもあんな紙一枚で人間を選定できるのかという点もありますし、100社も出さなければいけないという点もおかしいです。そうしてそれが全てはねのけられるというのは、聞いているだけでも、まるでその人物の全人格が否定されたような雰囲気を帯びてくるのが現状です。このこと自体がまずおかしいのですが、賢い人間は何とかこれを回避しようとします。それが今いっぱんで言われている「意識高い系」というやつです。この「意識高い系」という言葉は一体なんなのでしょうか。ここ数年で登場した言葉なことは確かです。この「意識高い系」というのは、常に自分は頑張っていますよ、ボランティアとかインターンとかたくさんやっていますよ、というようなアピールをしている人たちのことです。クラスでいいこちゃんぶっている子が、今までは委員長みたいだとか、教師にこびへつらっているとか考えられていましたが、この意識高い系というのは、会社にこびへつらっているというように、我々同年代は見ています。だから、この意識高い系の人間を見ると、私たちは腹立ちます。
何が悪いのかというのは、就活生側から考えてみるとやはり社会だとしか言いようがありません。私たちが悪いのかとは自分たちではなかなか思えないということもありますが、例えば「ゆとり世代だから」というような言葉をかけられると、私たちにはどうしようもありません。私たちが望んでゆとり教育をすすめたわけではありません。ゆとり教育をしたのは、当時の中等教育審議会や教育委員会、国家のお偉い歳たちです。責任を求めるとすればそこでしょう。何にもかかわらず、馬鹿だなんだと言われ、まるで役に立たないかのようなレッテルを張られているのが現状です。そうしてエントリーシートを一人が100枚も出すような時代は、やはりおかしいです。落とされる確率が高くなれば、できるだけたくさんのところに出そうとします。そうすればまた倍率が高くなるわけで、悪循環が発生しているのです。この悪循環はなんとか企業や社会がしなければなりません。学生たちにエントリーシートは一人何社までと制限はもうけられませんからね。
 さらに言えば、今の日本では新卒でなければならないとか、有名企業に就職していなければ負け組だとか、絶対に就職しなければもう人生終わりだとかそうした考えが非常に色濃いということです。社会全体が、学生に対して急ぐことや焦ることを要求しているように私たちは感じています。就職活動の解禁は3年の12月からですか。私たちの次の代は4年の4月からになるそうで、本当に私たちは不幸だなと感じていますが、3年の12月ということは、ほぼ、大学での勉強は2年までしかできないということです。私は現在三年なのですが、就職する気はありません。教員一本で行くつもりなのですが、もしこれが仮に就活組だとすると、もうそろそろいろいろな対策をし始めなければならないことになります。やはり、大学という日本における最高の学問機関において、4年間勉強すべき場所であるのにもかかわらず、おちついて勉強できるのが2年間しかないというのは間違っているように思えます。私はこのように勉強というか、考えることが大好きなので、文学部では自分で言うとちゃんちゃらおかしいですが、一応学年でも優秀な成績を納めていますし、勉強に身を入れいるつもりです。しかし、この私でも、一般の就活をするとしたら、まず大問題なのは英語ができませんから、TOEFL・TOEICの点数を書けという時点で、落とされます。自分で言うと単なる傲慢になりますが、それでもTOEFL・TOEICの点数だけが良い学生よりは仕事はできると思ってしまいます。
 何にしても、まず大学に入ったのだから、専門的な勉強をもう少し落ち着いてさせていただかないと、意味がないということです。大学は通常2年間で基礎・基本を学びます。発展的な学習・より専門的な分野に入っていくのは3年からなのです。ですからちょうど大学に入って右と左がわかってきたというタイミングで、すべてを就職活動に忙殺されてしまうというのが現状です。そうして日本の大学が特にだめだといわれているのは、企業が大学での勉強を評価しない→学生は評価されない大学での授業をおろそかにする→授業をきちんと受けてくれない学生たちにちゃんとした授業をする気がおきない教授→学生はつまらない授業を適当に受ける→企業が~というように、完全に負のスパイラルに陥っているというのが現状だと言われています。きちんと企業が大学での勉強の実態を評価する必要があります。それにはもちろん大学できちんとした授業をする必要があります。

 また、ニートやフリーターが増えている現状も見つめなければならないでしょう。企業側が求めているのは即戦力だとか、インターンシップや海外留学やボランティアをしてきた人物たち。私はこのいずれも経験していません。私はネット上でこのような評論活動めいたことをしていますが、これらは何も評価されないでしょう。だから結局私は何の強みもないまま就活をしなければならないことになります。私はまだ多少物事を考えることが得意ですからいいですけれども、そうした能力もない人々は何の武器、この作品で言えばカードを持たないまま就活をします。当然なんの武器もカードもない人間ははじかれつづけます。そうするとどうなるか、いくら強靭な精神を持った人でも、はじかれつづければ自分の全人格が否定されたような気がして、心がくじけてしまいます。結局自分はだめなんだ、社会には適応していないんだと自己判断し、就活を放棄、就職も放棄し、自宅に引きこもってしまうと言う構図なのです。
 とかく私が感じることはこの社会全体が若者を焦らせ、すべての自信やプライドをずたずたにしているということです。その点では本当に個人の力ではなにも、どうしようもありませんから、極めて腹立たしいと感じています。こんな状態で就活なんかしたいとは思いません。馬鹿がやることではないかと思えてくるのも事実なのです。

-SNSの問題-
 かなり激しい持論を展開しましたが、作者である浅井リョウ自身は執筆活動だけでも生活していけそうな気がしますが、就活をして見事に会社勤めをしています。そんな作者が、作品で示した一つの方向性は、物語最後に描かれますが、就活生の心持です。
 物語中盤では、SNSに映し出される現状を拓人は見事に考察しています。SNS,ツイッターやフェイスブック、ブログなどでは、どの人間もなんだか立派に見えるのが現代にはびこる人間の闇の部分だと私は感じています。拓人自身もまたそれに気が付いていながら、どうしても毒を吐かなければならない状態に追い込まれているのです。ブログ、ツイッター、フェイスブックこれらのSNSでは、どうしても自分を必要以上に飾りたててしまいます。それをしていて、あるいは見ていて人間のそうした過度な装飾に疲れてくるのを「SNS疲れ」と言うそうですが、例えばツイッターなどでは、誰々さんとお話させていただいた、とても刺激になるお話だった、何々に向けて一歩前進だと言った書き込みがあるとします。ツイッターのもともとの概念は個人的なつぶやきですから、本来はこれは誰かに向けてというより自分だけで所有すべき情報なのです。しかし、こうしたつぶやきは、自分自身ががんばっているという事を誰かに知ってもらいたい、尊敬されたいという欲求の表れでしかないのです。こうしたことを言っている私もまた、自分のツイッターで少しでも人に良く見られようと、ごくごくささやかな部分で言わなくてもいいことを言ってみたり、物事を大きく言ってみたりするのです。この拓人もまた友人たちのそうした部分を常に「見て」、馬鹿にしています。現在のツイッター使用者は、多くが二つ以上のアカウントを有していると言われています。この作中に登場する人物も2人が裏のアカウントを持っているのですが、一つ目のアカウントで外聞きのよいツイートをしている反面、もう一つのアカウントではそのアカウントが自分のだとわからないようにしたうえで本音をこぼしているのです。
 具体的にはこの作中では、たった一回あっただけで、名刺交換したくらいの交流のことを「人脈」と言ってみたり、ただのバイトを「仕事」と言ってみたりすることが指摘されています。
 この作品が見事なのは、一つはギンジという友人が、重要な人物であるのに最後まで登場しないという、一種ミステリめいた手法がとられているのと、常に傍観者でありつづける語り手の拓人の自分自身の本音はどこにあるのかという問題です。この拓人の本音は、最後に裏アカウントにツイートしていたことが作中であぶりだされるため、そこで読者は初めて拓人の人間性を垣間見ることが出来るのですが、決して拓人を笑えないのは、実は多かれ少なかれ、現代の若者、ないしSNSを利用しているユーザーが抱えているものと同じであるということなのです。

-終にでる本音-
 この作品はまた、話型としては最後に最大の盛り上げを持ってくると言う構図を取っています。最後を最大の盛り上げとした文学作品で有名なのは泉鏡花の「女系図」が挙げられます。泉鏡花もそうですが、最後に最大の山場を持ってくるのは、フィナーレという言葉がイタリア語であるように、西洋手な芸術の概念から来ています。オペラや歌劇などの影響だと考えられます。
 この作品でも、ずっと淡々と就活の描写がなされていくのですが、物語、ストーリーというものはあまり浮かんできません。この物語はどこに落ち着くのだろうかと読者は全く見当が付きませんが、就職活動での人の成り、SNSの問題等から、衝撃的な終末がやってきます。
 就職活動はいわばありもしないような人間になりきることに近いように、この作品を読むと感じられます。そのことが人間性、個性が失われているように隆良や主人公には見えたのでしょうが、自己分析というのは、自分が他人よりも少しでも優っている部分を探し、それを最大限に引き延ばして自分はこんなにも偉大だと見せなければならないのが就活の現状なのだろうと思います。それを「見て」、人間の愚かしい部分でも見た気になって辟易している拓人自信もまた、自分がそうやって企業や社会にこびへつらってでもやらないと現在の就活は乗り切れないと認められない弱い人間でもあるのです。そうしたことが、最後にすべてそれぞれの異なった考え方を持っていた5人の間で避けられない軋轢となって、激しい爆発が起こります。
 これまでずっと何かをしている人間になりきってきたそれぞれの人間が、それぞれに対してそれではだめだと本音をぶつけ始めるのです。
 「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんあそれをわかっているから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままあがくんだよ。だから私だって、カッコ悪い自分のままインターンしたり、海外ボランティアしたり、名刺作ったりするんだよ」「それ以外に、私に残された道なんてないからだよ」これらはすべて拓人がさんざん馬鹿にしてきた理香という女性による言葉ですが、この理香という女性は他人の裏アカウントを調べたりする陰湿な側面を持っていながら、最後は鮮やかに拓人に対して、また自分自身の反省も含めてその人間性を隠すことなく、本音をぶつけてきます。
 「思ったことを残したいなら、ノートにでも書けばいいのに、それじゃ足りないんだよね。自分の名前じゃ、自分の文字じゃ、ダメなんだよね。辞意ぶんじゃない誰かになれる場所がないと、もうどこにも立っていられないんだよね。」この一文は、非常に現在の若者の心理を突いた部分です。この一文だけでもこの作品が直木賞を取るに値すると思われるほどの鋭い分析です。この部分はこの作品のタイトルである「何者」という言葉ともリンクしてくるのですが、とかく現代の社会ではどうしてもネット上でいつもの自分ではない自分になるのです。そうして通常の無力で、誰にも相手にされなくて何の権限もない自分とは異なり、どこか強そうで、偉そうで、みんなに必要とされている自分を演じることによって、救われているのもまた事実ですし、反対のいいかたをすればそうしてでもいないとやっていけないのが現状なのです。SNSで自分のことを少しでもよく見せようとする人々は、やめたくてもやめられないのです。それは一種麻薬のようなものでもあるからですが、ではどうしてそうせざるを得ないのかという問題は、この社会が生み出しているのだと私は分析しています。つまり、若者はすべての自信、プライドというものを失ったのです。それは社会が自分たちを評価しないようになってしまったからということが大きいでしょう。だから、本当によく考えればちっぽけでうすっぺらいものであっても、SNS上だけでは何かとても重要な人物のように演じてしまうのです。

-最後に-
 「カッコ悪い姿のままあがくことができないあんたの本当の姿は、誰にだって伝わってくるよ。そんな人、どの会社だって欲しいと思うわけないじゃん」「私だって、ツイッターで自分の努力を実況中継していないと、立っていられない」
 この作品では、就活を通じて二つのタイプの人間が生じてくるということが如実にあらわされていると私は思います。物語の最後は意識高い系の理香と、高みの見物をしている拓人の二人による言葉の応酬になるのですが、極端に言えばこの二つのタイプに分かれるのだろうと思われます。あとの人々はこのどちらの属性が強いかということになるのでしょう。理香は、いくつか例を挙げましたが、学生なのに名刺を作ってみたり、それでOB訪問などをしてSNS上でもどんどん絡んでいくという、傍からみたら大変嫌な感じがする人物です。しかし、彼女もまた、それしか方法がないのだと必死なのです。その必死さが高みの見物をしている人々から見るとそんなにがっついてとひけて見えてしまうのです。そうしてもう一つは拓人の高みの見物をしているタイプ。これは自分が理香タイプのようにあくせくして、もがき苦しんでも就活をするのがどうしても耐えられないタイプです。あるいはもがいてでも就活をすることが出来ないとも言えます。いつまでも自分のやりたいことしかしたくないというタイプなのです。しかし、これはどちらも本質です。やはりここまで若者を追い詰めてまで就職活動というものをしなければならないのかと、ふと疑問を感じます。就職活動はなんのためにあるのでしょうか。企業側は人間性を見たいのでしょうか、しかしそれを強いている現状は、若者の人間性を大きくゆがめて、否定しているようにしか私には見えません。
 唯一救いとなるのは、最後に拓人が本音と本音をぶつけあった後、素の自分を出すことを恐れなくなったということです。ただ、それだからといって内定が決定するわけではありません。おそらく彼はこれから内定を落とし続けるであろうことが予測されます。他の人間がめくるめくアピールをしているなかで、素の自分だけで戦う拓人は、いわばほとんどアピールしないのに等しいのです。それでもそれを選択した時点で拓人は人間として成長したと私たちは心洗われますが、現実ではそれを突き通してもきっとうまくいかないことでしょう。ですから、この作品は就活をした人が読んで過去を振り返り、今に生かすという読み方もできますし、私たちのようにこれから就活する人間にとって、就活をするとは何なのか、どこに本質があるのか、自分たちが行っていることは本当にそれでいいのだろうかと問いかける、考える本にもなりますし、また団塊の世代、今ちょうど会社の経営者である世代の人々が読んで、これからの就職活動をどのように変化させていくのかという考える材料にもなる作品です。
 この作品は、現在の就職活動の現状を切り取っています。それを読み手である私はこの現状はおかしいと読み解いただけにすぎません。ただ、何が問題なのか、今現状がどなっているのか、それを是非多くの人々が考える必要があると私は思います。
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朝井リョウ『何者』試論 感想とレビュー 「何者」から見る現代就活生の現状 ~1~

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-初めに-
 第148回直木賞を受賞した朝井リョウの「何者」。同時受賞は、安部龍太郎氏の「等伯」と、芥川賞では話題を呼んだ黒田夏子の「abサンゴ」です。メディアでは75歳の黒田夏子と、直木賞は戦後で最年少、平成生まれ初の朝井リョウという見出しで話題を呼びました。
 年齢が近しいということもあり、また今回の作品は現代の就職活動の現状を見事にあらわしていることから、今回は私個人の大学生としての感覚も取り入れての作品紹介、考察文にさせていただきたいと思います。
 私もこのような評論めいたものを書くような活動をしていますから、どうして朝井リョウのような私とほとんど歳のかわらない人間が直木賞を取るのだろうかと最初は驚きというよりも、多少嫉妬ににた感覚を持っていましたが、この作品を読んで直木賞を受賞した意味が理解できました。私の文学部での教授は、彼はこの作品を超える作品はもうかけないのではないかなと感想を述べられていたのですが、その点私も同意したくなるほど、すばらしい作品です。
 直木賞の概要だけ説明しますと、直木賞は芥川賞とおなじく、上半期、下半期に出版、発表された作品のなかからそれぞれ日本文学振興会というところが勝手に選ぶ日本で最も有名な文藝賞です。芥川賞が新人・純文学の作品に贈られるのに対して直木賞は著名・大衆的な作品に贈られる文芸賞です。ですから、私個人としては、何故浅井リョウに芥川賞をあげないのかなと思っていたのですが、ある意味与えそびれたのかなとも思えましたが、直木賞を与えるために時間的に稼いでいたのが実際だと思われます。この二つの賞はご存知の方も多いとは思いますが、応募できるものではありません。出版・発表されている作品のなかから、よさそうだなと思われるものが、選考会の委員のもとへおくられてきて、そこで決定するという、うがった見方をすれば、かなり厚かましい賞です。
 一般的に芥川賞は一発屋と言われているのが現状です。もちろん芥川賞をとってからも作家として活躍している人も多いですが、それだけで消えてしまう人も多いのもまた事実です。それに対して直木賞は、著名で、現在売れている作家、中堅作家に与えられる賞ですから、これははずれがないと言われているのが実情です。また文壇の世界でも、直木賞を与えるのは文壇全体が残しておきたい人間というようなまことしやかな噂があったりもします。どちらにせよプロパガンダですから、文学を学んでいる人間はそこまでシリアスには考えていませんが、文学作品を普段読まない多くの人たちにとっては有効な手段であることは確かです。

-作品紹介-
 この作品、若くない世代が読み進めて行った場合どのような感覚を持つのかまだこの本を読んだ別の世代の人に聞いていないのでわからないのですが、同じ世代にとっては本当に腹立たしい、神経を逆なでしてくるような感覚におちいりました。
 先ず装丁から見てみましょう。現代文学を評論する際には、ハードカバー本の装丁も見る必要があります。文學部での専門的な評論ではそのような点には触れることはできませんが、ここは自由に読み解いていく私個人のブログなので、そうした点にも注意して読んでいきたいと思っています。表紙は、タイトルの他、目だけ書かれていない証明写真の絵が羅列されています。この時点から、証明写真であるということと、事前知識として就活の話だという情報がありますので、就活をする若者が登場するのだろうということが予想されます。また、目だけ描かれていない人々の写真の絵は、タイトルの「何物」が示す通り、その人物が一体「何者」であるのか見当が付きません。
本のもくじにあたる部分には、ツイッターのアカウントらしきものが6つ掲載されています。この6つのアカウントは、この物語に登場する人物たちのプロフィールでもあります。ツイッターの自己紹介の部分が掲載されていることになります。もしこのブログ記事をお読みの方で、どのようなものかわからなければ、左上の私のツイッターを見ていただくと、私の写真とともに簡単な自己紹介がされていますから、それが掲載されていると考えていただくと良いです。
 このプロフィールの時点ですでに、若い世代の私としてはイラッとくるところがあります。いわゆる大二病と言われるものがありますが、それを満開にしたような感じがします。大二病とは、ネットスラングで、中二病の大学バージョンと認識しています。中二病の特徴は、自分の世界に入り込んでいたり、北欧神話系の名前をやたら使用したり、血とか、契約とか神とかそうしたものを日常にとりこんでしまっている痛い感じの人たちのことです。大二病はそれの大学バージョン。大二病で特徴的といわれるのは、例えばやたらインターンシップやボランティア活動をしているアピールとか、すぐに自分たちの学生団体をつくるとか、クリエイティブな仕事をしていることをやたら主張するなどです。アジア圏に一人で旅に出たりするのも大二病だとか。中二病にしろ、大二病にしろ、これらは基本的に自分は他人とは異なっている、自分は今の生活を充実して送っているという他人への優越感や差異化を図ろうとする心理から生まれるのだろうと私は感じています。

 そんな大二病満開なプロフィールを持った人々が登場します。物語は俺という語り手の二宮拓人という人物の一人称で語られます。学年は後々わかるのですが、ここに登場する人物はいずれも大学5年生。それぞれに理由があり、4年生で就職できなかった人々が登場します。語り手でもある二宮拓人は物語最後に明かされますが、一年間就活をして失敗し、内定をひとつももらえなかっためにもう一年就活をしているという状態です。こうした情報は開示されないまま、ルームシェアをしている友人光太郎との日常から物語は始まります。御山大学という(二年からキャンパスが変わることや発音が似ていることからも青山大学がモデルかとも思われますが、ちなみに作者は早稲田卒です)大学に通っている拓人と光太郎は、ルームシェアをしています。そうしてひょんなことから光太郎の彼女であった瑞月という女性を通して、おなじアパートの上の階で恋人同士で同居していた宮本隆良とその彼女理香と出会います。物語はこの5人を主軸として進んでいきます。
 物語初盤は、就活へ向けて準備をすることになります。語り手でもある拓人は、のちに自分でもそれを鼻にかけていたことが描かれますが、分析力に優れていると思い込んでいます。その彼は、面接の準備をする理香と瑞月をみて、「就活がつらいものだと言われる理由は~そんなにたいしたものではない時分を、たいしたもののように話さなくてはならないことだ。自分を騙し続けることになるスタート地点が早くなる分、面接を受けることにはもうその点のつらさに麻痺することができるかもしれない」と感じ、「心のどこかがもやもやと黒ずむのを感じた」とあります。就活に向けて一生懸命準備している就活一年目の彼女たちをみて、彼は自分が去年も就活をしたということもあり、「こんな、自分の未来を信じて疑わない目が、日本全国そこらじゅうにある。それだけで、きゅっと心臓が小さくなる気がした」と述べています。この時点から、既に語り手である拓人は、ともに就活をする仲間である二人の女性に対して批判的な眼差しを向けていることが描写されます。

-隆良にみる現代学生にありがちな思考-
 着々と就活の準備を始める友人の女子たちをみて、「海外留学にインターンに、両手が武器でいっぱいのその姿は、開戦が待ち遠しくてしょうがない兵士」のように感じている拓人は、そのどこから湧いてくるのか不明なプライドをただ見つめています。拓人は一貫して「見ている」人間であって、彼もまた就活生であるということが一人称の語りですから、見事に隠されています。
 また、この作品を貫くもう一つの大きなことは、SNSの問題です。「アドレス教えて、という言葉に含まれるどこか疑わしいニュアンスは、『ツイッターやってる?』『フェイスブック』やってる?という言葉によって過去のものとなった。アドレス以上の情報がこれでもかと詰まっているものなのに、俺たちは、誰かと知り合ったらまずSNSのアカウント名を教えあう」と指摘されています。また、この作品でしばしば登場するのが、先にもくじの部分で挙げられたアカウントのツイートです。このツイートの内容が作品内で重要な意味を持ってくるのですが、ツイートの内容をそのまま描写して、それに対する拓人の分析というものが、また痛烈な友人批判になってきます。こうしたツイートをそのまま描写するという手法は、作家柳美里の手法に似ている部分があると私は感じています。物語内での手紙の全文を掲載したりする手法はありましたが、00年代あたりからは、携帯小説が流行したこともあり、そこに掲載される作品内作品(メタフィクション)的なものが、手紙の内容からメールや、ツイッターになったということが、注目すべき点だと私は思います。

 この作品は最初に6つのアカウントが登場しますが、そのなかの一人だけが作品内では直接登場しないという構造を持っています。まるで「桐島~」を読んでいるかのようにも感じられます。浅井リョウの作品で最も有名になったのは、「桐島、部活やめるってよ」ですが、この作品の中で主人公たるべき桐島は登場しません。主人公たるべき存在が直接登場せず、飽くまでその周りにいた人物による語りで外堀をずっと埋め続けるという不思議な小説だったのです。この作品でも、主人公拓人の友人であり、また劇団で一緒に活躍していたギンジという男は、直接は登場しません。しかし、拓人は、ツイッターでギンジのつぶやきを「見る」という行為をしていて、それに対して「寒い」と判断しています。
 ギンジは自分がやりたいのはこんなことではないと、大学とサークルをやめ、自分一人で劇団【毒とビスケット】を創立します。そこに書かれている内容は、「~新しい劇団を創りました。そのために今、自分にしかできない表現方法を模索しています。舞台は無限に続いています。俺はそれをどこまでも追い続けたい」と確かに一般的に見ても少々何を調子のってしまっているのだろうかという冷たい批判をしたくなるような文章が掲載されています。このギンジのブログやツイッターを「見て」、拓人はその批判を自分の第二のアカウントや2チャンネルで誹謗中傷するのです。

 また、この物語を巡り登場する人物は誰もが拓人からみたら痛々しい人間。特に中盤の痛々しさの大部分を引き受けている上の階に住む、隆良理香のカップルは、彼の目を通してかなり痛々しく思えます。中でも隆良は「俺は就活しないよ。去年、一年間休学してて、自分は就活とか就職とかそういうのに向いていないって分かったから。いま?いまは、いろいろな人と出会って、いろんな人と話して、たくさん本を読んでモノを見て。会社に入らなくても生きていけるようになるための準備期間、ってとこかな。原発があんなことになって、この国にずっと住み続けられるのかもわからないし、どんな大きな会社だっていつどうなるのかわからない。そんな中で、不安定なこの国の、いつ崩れ落ちるかわからないような仕組みの上にある企業に身を委ねてるって、どういう感覚なんだろうって俺なんかは思っちゃうんだよね。いまちょうどコラムの依頼とかもらえるようになって、人脈も広がってきたところ。ていうか逆に聞きたいんだけど、いまこの時代で団体に所属するメリットって何?」と持論を展開する人間です。しかし、これは私自身こうした考えには、多少賛成すべきところもあり、また現代のちょっとうがった若者に多くありがちな思想です。この人物は傍から見ると「痛く」描かれていますが、こうした人物はかなり多くいるし、またそうしたリアリティーを作品内に持ち込めたということがこの作家の強み、若さと鋭敏な感性なのです。
この隆良の持論はさらに続きます。「突き詰めて考えると、俺は、就活自体に意味を見いだせない。何で全員同じタイミングで自己分析なんかはじめなきゃいけないんだ?ていうか、自己分析って何?誰のためにするもの?俺なんかちょっと色々引っ掛かっちゃうんだよね」「数うかつするタイミングも自分の人生のモットーも何もかも、会社のほうに合わせていくなんて、そんなの俺には耐えられない」「俺は流されてたくないんだよね、就職活動っていう、なんていうの?見えない社会の流れみたいなものに」
 ここで堪り兼ねたのか、ただ傍観して批判するだけの拓人が、語りの内部においてですが、これに対して自分の意見を表明しています。「就職サイトがオープンする十二月一日が近づいてくると、就職活動は個人の意思のない世間の流れだと言い始める人が出てくる。自分は就職サイトに登録しなかった、というさりげない一言を利用して、自分は就職活動に興味がないちょっと変わった人間です、というアピールをしてくる人が出てくる。まるで、興味、関心がないことが優位であるというような話しぶりで、『企業に入るのではなく、何者かである個人として生きていく決断をした』という主張をし始める人が出てくる。~やっぱり想像力が無い人間は苦手だ。どうして、就職活動をしている人は何かに流されていると思うのだろう。みんな同じようなスーツを着るからだろうか。何万人という学生が集まる合同説明会の映像がニュース番組などで流されるからだろうか。どうして、就職活動をしないと決めた自分だけが何か知らの決断を下した人間なのだと思えるのだろう。~たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、『就職活動をする』という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分はアーティストや企業家にはきっともうなれない。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の『何者か』になれるかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。『就活をしない』と同じ重さの『就活をする』決断を創造できないのはなぜなのだろう。」

朝井リョウ 少女は卒業しない 感想とレビュー 女子高生の不思議な時間感覚

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『桐島部活やめるってよ』でデビューした朝井リョウさんの『少女は卒業しない』を読みました。現在桐島が映画化ということで注目されています。本も平積みになり、今後の活躍が期待できる作家さんです。今回はそんな朝井さんが丹精を込めて書いたであろう7つの少女の物語です。
この『少女は卒業しない』はある廃校が決定した学校の卒業式、3月25日を舞台とした物語です。7つの短編を全て別の少女が語るという多視点小説で、物語られる内容は異なりながらも少しずつ重なります。ですからある短編でなぞだったことがあとになって判明するというように一種のミステリーとしても読むことが出来ます。若手にしては随分挑戦的で、多義的な作品です。
一つずつ見ていきましょう。1、古典の先生と少女の物語です。描写が実に映像的で、イメージが頭の中で簡単に再生されるのですが、そこに依存していない。映像的でありながら文学、少女の語りとして言葉の大切さを、華麗さを読み取ることができます。先生と生徒という関係は結局変わらないのですが、少女の内面が面白い。過去のものは言える。こういう側面は確かに女子にあるかも知れません。
2、孝子という真面目な少女と、対照的な尚輝の物語。前回の東棟を受けて、幽霊の存在が判明します。屋上という学校でしか存在しえないごく限られた空間での二人の幼馴染は廃校ということで関係が変化してしまいます。学校が一つの箱であることに卒業する間際になってこの二人は気がついたのです。その箱がなくなってしまったら、今まで当然と思っていたことが消えてしまう。二人はそれぞれ別の道を歩まねばならない。この卒業が別れとなってしまうことに涙するのです。
尚輝が涙を流しながらダンスを披露する姿は印象的です。そしてそれを見て、一生懸命その時間を忘れまいと記憶に残そうとする孝子。高校最後の時間を箱にしてなんとかとどめようとするのです。彼女はその箱を一生大事にしてゆくのでしょう。
3、今度は高校2年生の送辞です。廃校になってしまって、明日からは別の学校へ通うこととなる後輩たち。彼女の送辞は読み上げたら何分くらいかかるのでしょうね。この後輩は田所という先輩への少女の憧れを持っています。しかしまたその田所も先輩へと憧れをもっているのです。高校という限られた世界の中で、指針となるのは先生もそうですが、やはり大きいのは先輩の後姿。箱の中身はすこしずつ変わっていくものの、生徒はずっと先輩と繋がっているのです。
4、バスケ部公認のカップル後藤と寺田の物語。どうして別れなければならないのか、私は純情な人間ですから遠距離でもといいたくなってしまいます。ですが、この二人は実に強い。そしてお互いのことを本当に思っているからこそ別れを決心するのですね。
「ずっとこういう日々が続けばいいって思っている時点で続かないってわかっていること」という言葉がこの作品の根幹ではないでしょうか。ただ、この作品は続かないから終わりではなくして、その後何か開かれた世界があるということが伝わってくるんですね。
表紙にも見える少女はどこか遠くを見つめていて、それでいて強い意志の力を目に宿している。二人はその未来へ、全身を奮い立たせて今あるものとさらばするのです。悲しいなあ。
5、これは時間軸でいったら送辞のあとの体育館でライブの直前。ヘブンズドアという中2病じみたバンドの森崎という男子をめぐる物語です。語りは神田というけいおん部の部長。そしてもう一人氷川というどことなくクールな女子がキーパーソンです。氷川さんのボールペンをノックする音、これがまた一つのミステリをなしているのです。小道具の使い方が上手いですね。
これは一般に宝物を自分ひとりのものとしていたいか、多くの人に知ってもらいたいかという別の考えをもった二人の女子の戦いでもあるわけです。実際は自分のなかに両方の感情があったりするわけですが、ここでは結局氷川さんの勝ちとなるのです。
6、高原あすかという帰国子女の少女の物語。とかく高校という小さなコミュニティは異質なものを浮き立たせます。大学に入るとあまりにも様々な人がいて大して気にも留めないようなことでも高校では大問題なのです。帰国子女というだけでその子は女子生徒の上のグループに属することができるのです。でもそんな虚勢から解放されたかったあすかはクラスの人気者との間に軋轢を生んでしまうのですね。高校はとにかく息が詰まる、そんな感情があります。
そしてそういう思惑やめんどくさい人間関係からもっとも離れたところに存在するのがH組みの障害を持った子たちです。彼らは発達が遅いということで、他の生徒からは目障りな存在ですが、より自然に、より人間的だといえば彼らのほうがよっぽどそうなのです。純粋でピュアで無垢で、「僕は不思議なんだ」と楠木君がその思いを口に出す姿はこの世のものとは思えない美しさがあります。どうして自分の好きな人は自分から離れていってしまうのか、これはこの作品全体に対する問いです。どうして少女は卒業しなければならないのか、ということへの問いなのです。
7、卒業式の後、深夜26日の朝です。まなみと香川は深夜に忍び込んだ学校で偶然出会います。二人は共通する痛みを抱えているのです。それはまなみにとっては彼氏であり、香川にとってはライバルであった駿の死です。高校でこんな事件は滅多におこらないけれども、別にそれは喪失という意味ではどんなことにも共通することであると感じます。これは駿という人間の死として具体的に話が進められているのだけれども、卒業はつまり今までの生活の喪失だという点で全く同じなのです。
この二人は故人を思い出しつつ、それでも未来へと歩んでいくのです。
少女は卒業するのです。でも少女は卒業しないというタイトル。心のなかでは既にお別れが来ることはみんなわかっているのです。それをわかっていながら隠す。隠してもにじみ出てきてしまう。彼女たちはその失われる時間をどうにかとどめようとして記憶するのです。ですから彼女たちの記憶の中では少女は卒業しないのです。たとえ何年の月日が流れようとも。

桐島、部活やめるってよ 朝井リョウ 感想とレビュー 高校生物語を読み解く

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第22回小説すばる新人賞受賞作にして、映画化、コミック化が決定。今注目の朝井リョウ著の『桐島、部活やめるってよ』を読みました。
平成生まれの作家ということが一つ大きく取り上げられています。ですから当然とても若いわけです。今回の作品はタイトルからしてとても興味をそそるものです。桐島、部活やめるってよ。こんなの帯に書いているものとか、本文からの一部抜粋とかですよね。それがタイトルなんですから当然注目を浴び、作品も良かったから今回の映画化、コミック化が決定したのも理解できます。
文庫本が4月25日に発売されました。私はこちらを読んだのですが、この文庫化にあたって朝井さんは最後に14歳の東原かすみの章を新たに描いたそうです。ですからハードカバー版にはないのかな。これはこの本を読むに当たってどうしても重要になるところです。どうしても足したかったのですからそれがもつ意味は大きいと考えるべきです。
それから映画の公式サイトを見たのですが、http://www.kirishima-movie.com/index.html「全員、桐島に振り回される」という文言が出てきます。これは映画ではそういう風に描かれるのですかね。少なくとも小説では振り回されるという言葉が持つニュアンスはでていないと思います。これは一つ注目ですよ。もしかしたらただの宣伝のための誇張かもわかりませんから注意が必要です。
この作品はタイトルからしても桐島というのが主人公なんだろうと考えるのが普通ですが、なんと桐島は殆ど出てきません。本編6章+番外編1章はそれぞれ桐島のクラスメイトからの視点で、少しずつ重なりながらも別のことを語り始めるのです。
確かに2章の小泉風助というバレーボール部の少年が語るところでは桐島がその部長でしたので、割と多く登場するのですが、それも回想する表現方法。どれも一貫として現在の桐島を知る手がかりが残されていないのです。そういう点で一種のミステリーと考えられないこともありません。
またこの主要人物である人間を敢えて書かない。こういう主役欠如型の小説は前々回書いた桜庭一樹さんの『傷痕』と似た構図をみることができます。主役の欠如。これはヒーロー、カリスマの欠如。引っ張るものが消えてしまった現在をどう生き抜いたら良いのかということに繋がってくると私は思うのです。今までの強きリーダーのいる世界から抜け出したかった人々はいざそのリーダーを失ってみると忽ちどうしてよいかわからなくなる。それでも歯車は回りつづけ、有用感というものを感じないままただひたすらに生きるほかないというなんとも無常な世界観。これが今広く社会に浸透していると感じるのです。

高校生活の小説ですが、著者が若いゆえかまさしく映像を見ているかのように鮮明にイメージができ、また説得力にたる作品であります。これを読めば現在の高校生はとても納得するというか、実際にいるクラスメイトに重ね合わせて読むことができるほどリアルな作品です。大学生や社会人になりたての人々には数年前の楽しくも辛かった青春時代を思い起こされるでしょう。そこになにを感じるか、これを一人ひとり聞いてみるだけでもまた小説が何冊かかけそうな感じがします。ちなみに私はこの小説で描かれているいわゆる下の住人でしたから(派手なグループに憧れつつも)、腹立たしく思い小説を投げ飛ばしそうになりましたよ。心穏やかでなければいけませんね。
また大人が読むとこれはまた違った読みになるのだと思います。映画化に際し、監督の吉田さんが解説を最後に行っていますが、高校生の現状、空気がかつてとは異なってきていると感じたそうです。上とか下とか自分の場所を読む、空気を読むということがかなりシビアにおこなわれるようになっていることは現役生でも感じるところでしょう。
やはりストーリー性はあまりないというほうがいいのですかね。これは古典的な小説に比べてという意味です。ある事柄、これでは桐島というなぞの人物が部活をやめるという事件を通してその前後のことを関係者が語っていくというドキュメンタリーめいた小説。やはり小説のありようが変わってきていると感じます。ドキュメンタリーを通して高校生を見る。徹底したリアリティーの追及は名前にも及びます。なにか歯がゆくなるような変な名前ではなく、クラスにいる友人の名前そのままです。
青春というものがなんなのか未だ具体的に理解できていない私ですが、その青春を思い起こすためこの本を読んでみたらいかがでしょうか。 

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