朝井リョウ『何者』試論 感想とレビュー 「何者」から見る現代就活生の現状 ~2~
-何が問題なのか-
ここではっとさせられたのが、隆良のような自称クリエイターのような人間でなくても、隆良的な思考があるということです。私自身も、また私の友人にも、一斉に就活スーツを着て企業説明会に行ったり、インターンに行ったりしているのは何か違う、何かおかしいという考えがありました。おそらくこれは現在の多くの若者にある考えだと言ってもいいでしょう。右肩上がりの経済は終わり、今どこへ就職しても30年後、40年後が不透明な時代に、そこまでして一般企業に入らなければならないのだろうかと、価値観が変化してきています。また、エントリーシートを100枚、100社も出して、全部一次も受からなかったというような話があります。これも何かおかしいです。そもそもあんな紙一枚で人間を選定できるのかという点もありますし、100社も出さなければいけないという点もおかしいです。そうしてそれが全てはねのけられるというのは、聞いているだけでも、まるでその人物の全人格が否定されたような雰囲気を帯びてくるのが現状です。このこと自体がまずおかしいのですが、賢い人間は何とかこれを回避しようとします。それが今いっぱんで言われている「意識高い系」というやつです。この「意識高い系」という言葉は一体なんなのでしょうか。ここ数年で登場した言葉なことは確かです。この「意識高い系」というのは、常に自分は頑張っていますよ、ボランティアとかインターンとかたくさんやっていますよ、というようなアピールをしている人たちのことです。クラスでいいこちゃんぶっている子が、今までは委員長みたいだとか、教師にこびへつらっているとか考えられていましたが、この意識高い系というのは、会社にこびへつらっているというように、我々同年代は見ています。だから、この意識高い系の人間を見ると、私たちは腹立ちます。
何が悪いのかというのは、就活生側から考えてみるとやはり社会だとしか言いようがありません。私たちが悪いのかとは自分たちではなかなか思えないということもありますが、例えば「ゆとり世代だから」というような言葉をかけられると、私たちにはどうしようもありません。私たちが望んでゆとり教育をすすめたわけではありません。ゆとり教育をしたのは、当時の中等教育審議会や教育委員会、国家のお偉い歳たちです。責任を求めるとすればそこでしょう。何にもかかわらず、馬鹿だなんだと言われ、まるで役に立たないかのようなレッテルを張られているのが現状です。そうしてエントリーシートを一人が100枚も出すような時代は、やはりおかしいです。落とされる確率が高くなれば、できるだけたくさんのところに出そうとします。そうすればまた倍率が高くなるわけで、悪循環が発生しているのです。この悪循環はなんとか企業や社会がしなければなりません。学生たちにエントリーシートは一人何社までと制限はもうけられませんからね。
さらに言えば、今の日本では新卒でなければならないとか、有名企業に就職していなければ負け組だとか、絶対に就職しなければもう人生終わりだとかそうした考えが非常に色濃いということです。社会全体が、学生に対して急ぐことや焦ることを要求しているように私たちは感じています。就職活動の解禁は3年の12月からですか。私たちの次の代は4年の4月からになるそうで、本当に私たちは不幸だなと感じていますが、3年の12月ということは、ほぼ、大学での勉強は2年までしかできないということです。私は現在三年なのですが、就職する気はありません。教員一本で行くつもりなのですが、もしこれが仮に就活組だとすると、もうそろそろいろいろな対策をし始めなければならないことになります。やはり、大学という日本における最高の学問機関において、4年間勉強すべき場所であるのにもかかわらず、おちついて勉強できるのが2年間しかないというのは間違っているように思えます。私はこのように勉強というか、考えることが大好きなので、文学部では自分で言うとちゃんちゃらおかしいですが、一応学年でも優秀な成績を納めていますし、勉強に身を入れいるつもりです。しかし、この私でも、一般の就活をするとしたら、まず大問題なのは英語ができませんから、TOEFL・TOEICの点数を書けという時点で、落とされます。自分で言うと単なる傲慢になりますが、それでもTOEFL・TOEICの点数だけが良い学生よりは仕事はできると思ってしまいます。
何にしても、まず大学に入ったのだから、専門的な勉強をもう少し落ち着いてさせていただかないと、意味がないということです。大学は通常2年間で基礎・基本を学びます。発展的な学習・より専門的な分野に入っていくのは3年からなのです。ですからちょうど大学に入って右と左がわかってきたというタイミングで、すべてを就職活動に忙殺されてしまうというのが現状です。そうして日本の大学が特にだめだといわれているのは、企業が大学での勉強を評価しない→学生は評価されない大学での授業をおろそかにする→授業をきちんと受けてくれない学生たちにちゃんとした授業をする気がおきない教授→学生はつまらない授業を適当に受ける→企業が~というように、完全に負のスパイラルに陥っているというのが現状だと言われています。きちんと企業が大学での勉強の実態を評価する必要があります。それにはもちろん大学できちんとした授業をする必要があります。
また、ニートやフリーターが増えている現状も見つめなければならないでしょう。企業側が求めているのは即戦力だとか、インターンシップや海外留学やボランティアをしてきた人物たち。私はこのいずれも経験していません。私はネット上でこのような評論活動めいたことをしていますが、これらは何も評価されないでしょう。だから結局私は何の強みもないまま就活をしなければならないことになります。私はまだ多少物事を考えることが得意ですからいいですけれども、そうした能力もない人々は何の武器、この作品で言えばカードを持たないまま就活をします。当然なんの武器もカードもない人間ははじかれつづけます。そうするとどうなるか、いくら強靭な精神を持った人でも、はじかれつづければ自分の全人格が否定されたような気がして、心がくじけてしまいます。結局自分はだめなんだ、社会には適応していないんだと自己判断し、就活を放棄、就職も放棄し、自宅に引きこもってしまうと言う構図なのです。
とかく私が感じることはこの社会全体が若者を焦らせ、すべての自信やプライドをずたずたにしているということです。その点では本当に個人の力ではなにも、どうしようもありませんから、極めて腹立たしいと感じています。こんな状態で就活なんかしたいとは思いません。馬鹿がやることではないかと思えてくるのも事実なのです。
-SNSの問題-
かなり激しい持論を展開しましたが、作者である浅井リョウ自身は執筆活動だけでも生活していけそうな気がしますが、就活をして見事に会社勤めをしています。そんな作者が、作品で示した一つの方向性は、物語最後に描かれますが、就活生の心持です。
物語中盤では、SNSに映し出される現状を拓人は見事に考察しています。SNS,ツイッターやフェイスブック、ブログなどでは、どの人間もなんだか立派に見えるのが現代にはびこる人間の闇の部分だと私は感じています。拓人自身もまたそれに気が付いていながら、どうしても毒を吐かなければならない状態に追い込まれているのです。ブログ、ツイッター、フェイスブックこれらのSNSでは、どうしても自分を必要以上に飾りたててしまいます。それをしていて、あるいは見ていて人間のそうした過度な装飾に疲れてくるのを「SNS疲れ」と言うそうですが、例えばツイッターなどでは、誰々さんとお話させていただいた、とても刺激になるお話だった、何々に向けて一歩前進だと言った書き込みがあるとします。ツイッターのもともとの概念は個人的なつぶやきですから、本来はこれは誰かに向けてというより自分だけで所有すべき情報なのです。しかし、こうしたつぶやきは、自分自身ががんばっているという事を誰かに知ってもらいたい、尊敬されたいという欲求の表れでしかないのです。こうしたことを言っている私もまた、自分のツイッターで少しでも人に良く見られようと、ごくごくささやかな部分で言わなくてもいいことを言ってみたり、物事を大きく言ってみたりするのです。この拓人もまた友人たちのそうした部分を常に「見て」、馬鹿にしています。現在のツイッター使用者は、多くが二つ以上のアカウントを有していると言われています。この作中に登場する人物も2人が裏のアカウントを持っているのですが、一つ目のアカウントで外聞きのよいツイートをしている反面、もう一つのアカウントではそのアカウントが自分のだとわからないようにしたうえで本音をこぼしているのです。
具体的にはこの作中では、たった一回あっただけで、名刺交換したくらいの交流のことを「人脈」と言ってみたり、ただのバイトを「仕事」と言ってみたりすることが指摘されています。
この作品が見事なのは、一つはギンジという友人が、重要な人物であるのに最後まで登場しないという、一種ミステリめいた手法がとられているのと、常に傍観者でありつづける語り手の拓人の自分自身の本音はどこにあるのかという問題です。この拓人の本音は、最後に裏アカウントにツイートしていたことが作中であぶりだされるため、そこで読者は初めて拓人の人間性を垣間見ることが出来るのですが、決して拓人を笑えないのは、実は多かれ少なかれ、現代の若者、ないしSNSを利用しているユーザーが抱えているものと同じであるということなのです。
-終にでる本音-
この作品はまた、話型としては最後に最大の盛り上げを持ってくると言う構図を取っています。最後を最大の盛り上げとした文学作品で有名なのは泉鏡花の「女系図」が挙げられます。泉鏡花もそうですが、最後に最大の山場を持ってくるのは、フィナーレという言葉がイタリア語であるように、西洋手な芸術の概念から来ています。オペラや歌劇などの影響だと考えられます。
この作品でも、ずっと淡々と就活の描写がなされていくのですが、物語、ストーリーというものはあまり浮かんできません。この物語はどこに落ち着くのだろうかと読者は全く見当が付きませんが、就職活動での人の成り、SNSの問題等から、衝撃的な終末がやってきます。
就職活動はいわばありもしないような人間になりきることに近いように、この作品を読むと感じられます。そのことが人間性、個性が失われているように隆良や主人公には見えたのでしょうが、自己分析というのは、自分が他人よりも少しでも優っている部分を探し、それを最大限に引き延ばして自分はこんなにも偉大だと見せなければならないのが就活の現状なのだろうと思います。それを「見て」、人間の愚かしい部分でも見た気になって辟易している拓人自信もまた、自分がそうやって企業や社会にこびへつらってでもやらないと現在の就活は乗り切れないと認められない弱い人間でもあるのです。そうしたことが、最後にすべてそれぞれの異なった考え方を持っていた5人の間で避けられない軋轢となって、激しい爆発が起こります。
これまでずっと何かをしている人間になりきってきたそれぞれの人間が、それぞれに対してそれではだめだと本音をぶつけ始めるのです。
「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんあそれをわかっているから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままあがくんだよ。だから私だって、カッコ悪い自分のままインターンしたり、海外ボランティアしたり、名刺作ったりするんだよ」「それ以外に、私に残された道なんてないからだよ」これらはすべて拓人がさんざん馬鹿にしてきた理香という女性による言葉ですが、この理香という女性は他人の裏アカウントを調べたりする陰湿な側面を持っていながら、最後は鮮やかに拓人に対して、また自分自身の反省も含めてその人間性を隠すことなく、本音をぶつけてきます。
「思ったことを残したいなら、ノートにでも書けばいいのに、それじゃ足りないんだよね。自分の名前じゃ、自分の文字じゃ、ダメなんだよね。辞意ぶんじゃない誰かになれる場所がないと、もうどこにも立っていられないんだよね。」この一文は、非常に現在の若者の心理を突いた部分です。この一文だけでもこの作品が直木賞を取るに値すると思われるほどの鋭い分析です。この部分はこの作品のタイトルである「何者」という言葉ともリンクしてくるのですが、とかく現代の社会ではどうしてもネット上でいつもの自分ではない自分になるのです。そうして通常の無力で、誰にも相手にされなくて何の権限もない自分とは異なり、どこか強そうで、偉そうで、みんなに必要とされている自分を演じることによって、救われているのもまた事実ですし、反対のいいかたをすればそうしてでもいないとやっていけないのが現状なのです。SNSで自分のことを少しでもよく見せようとする人々は、やめたくてもやめられないのです。それは一種麻薬のようなものでもあるからですが、ではどうしてそうせざるを得ないのかという問題は、この社会が生み出しているのだと私は分析しています。つまり、若者はすべての自信、プライドというものを失ったのです。それは社会が自分たちを評価しないようになってしまったからということが大きいでしょう。だから、本当によく考えればちっぽけでうすっぺらいものであっても、SNS上だけでは何かとても重要な人物のように演じてしまうのです。
-最後に-
「カッコ悪い姿のままあがくことができないあんたの本当の姿は、誰にだって伝わってくるよ。そんな人、どの会社だって欲しいと思うわけないじゃん」「私だって、ツイッターで自分の努力を実況中継していないと、立っていられない」
この作品では、就活を通じて二つのタイプの人間が生じてくるということが如実にあらわされていると私は思います。物語の最後は意識高い系の理香と、高みの見物をしている拓人の二人による言葉の応酬になるのですが、極端に言えばこの二つのタイプに分かれるのだろうと思われます。あとの人々はこのどちらの属性が強いかということになるのでしょう。理香は、いくつか例を挙げましたが、学生なのに名刺を作ってみたり、それでOB訪問などをしてSNS上でもどんどん絡んでいくという、傍からみたら大変嫌な感じがする人物です。しかし、彼女もまた、それしか方法がないのだと必死なのです。その必死さが高みの見物をしている人々から見るとそんなにがっついてとひけて見えてしまうのです。そうしてもう一つは拓人の高みの見物をしているタイプ。これは自分が理香タイプのようにあくせくして、もがき苦しんでも就活をするのがどうしても耐えられないタイプです。あるいはもがいてでも就活をすることが出来ないとも言えます。いつまでも自分のやりたいことしかしたくないというタイプなのです。しかし、これはどちらも本質です。やはりここまで若者を追い詰めてまで就職活動というものをしなければならないのかと、ふと疑問を感じます。就職活動はなんのためにあるのでしょうか。企業側は人間性を見たいのでしょうか、しかしそれを強いている現状は、若者の人間性を大きくゆがめて、否定しているようにしか私には見えません。
唯一救いとなるのは、最後に拓人が本音と本音をぶつけあった後、素の自分を出すことを恐れなくなったということです。ただ、それだからといって内定が決定するわけではありません。おそらく彼はこれから内定を落とし続けるであろうことが予測されます。他の人間がめくるめくアピールをしているなかで、素の自分だけで戦う拓人は、いわばほとんどアピールしないのに等しいのです。それでもそれを選択した時点で拓人は人間として成長したと私たちは心洗われますが、現実ではそれを突き通してもきっとうまくいかないことでしょう。ですから、この作品は就活をした人が読んで過去を振り返り、今に生かすという読み方もできますし、私たちのようにこれから就活する人間にとって、就活をするとは何なのか、どこに本質があるのか、自分たちが行っていることは本当にそれでいいのだろうかと問いかける、考える本にもなりますし、また団塊の世代、今ちょうど会社の経営者である世代の人々が読んで、これからの就職活動をどのように変化させていくのかという考える材料にもなる作品です。
この作品は、現在の就職活動の現状を切り取っています。それを読み手である私はこの現状はおかしいと読み解いただけにすぎません。ただ、何が問題なのか、今現状がどなっているのか、それを是非多くの人々が考える必要があると私は思います。