スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

現代を読み解く女性文学 綿矢りさ『大地のゲーム』試論 感想とレビュー 現代の震災から人間の本質を問う綿矢文学新たな地平

51mzzrqQOeL.jpg

-初めに-
 2013年3月号の雑誌新潮は、川端康成の未発表作品『星を盗んだ父』と綿矢りさの最新長編書下ろし『大地のゲーム』が同時掲載ということもあり、かなり力の入った雑誌になりました。文学の意味や意義というものが多少示されるような形になったと私は思います。
 未曽有の大震災から約2年。この間に私たちは何をしてきたのか。ふと立ち止まって考える必要があります。まず第一に大震災から何を学んだのかということ。原発の問題もあれば、津波の被害を過小評価していたという認識の問題もあります。帰宅難民が出たり、その他さまざまな震災への心持と対策の不備が露見しました。次に、震災から2年間で私たちは何を学んだのかということです。がれき撤去がまだちっともできていないのが現状です。「復興」「復幸」と言っても、何一つ前進していない。なぜなのか。「絆」や「つながり」を声高く上げてきれいなもので蓋をしていないだろうか。「がんばろうにっぽん」一体何をがんばるのだろうか。日本という文化はもともとから、できるだけ音便に、事なかれ主義が根強い文化です。ふと気が付くと、あの震災から二年しかたっていないのに、もうだいぶ前のような感覚がします。なぜでしょうか。すでに震災は前のこととなり、今のことではありません。みな何不自由なく生活しているし、今さら震災を蒸し返そうともしません。しかし、本当にそれでよいのか、確かにあの震災によって心に傷を負った人もいるでしょう。ですが、それを忘れてしまったふりをし続けていてもよいのでしょうか。デビューが早かったためにもはやベテランの域に居る綿矢りさですが、年齢的にはまだまだ若手としてのみずみずしい感性も有しています。その綿矢りさが、震災というものをフィクション化することによって、様々な側面を炙り出すことに成功したのがこの『大地のゲーム』です。

-綿矢文学を読み解く二つの指標 場所と関係-
 3・11後にその影響を受けた作品は俗に「3・11文学」として呼ばれています。あらゆる作家に影響を与えた大震災。小説はもちろん、文学という言葉の範囲には映画も、漫画も、アニメも大きな意味での「文学」になります。例えば『おやすみプンプン』では、震災が描かれることによって、作品の時間軸が現在であることが判明しました。桜庭一樹作品も、『傷痕』『無花果とムーン』などは震災の影響を受けていると考えられます。『あの日みた花の名を僕たちはまだ知らない』も、死者の霊との交流という面で、3・11文学作品と呼ぶことができるでしょう。こうした震災の影響を受けて、作品の内部に震災を多少なりとも入れたものは数多くあります。逆に全く震災を無視しているというものも、ある意味では3・11文学と言えるかもしれません。作家がわれ関せずという主義を保ち、あるいは沈黙することによって、震災に対する何らかのメッセージを逆説的に表出させていると考えることもできます。
 しかし、そうした3・11文学とよばれる作品群のなかで、真っ向から震災に立ち向かった作品というのはありませんでした。震災はすべての価値観を覆してしまいましたから、何が良いのか、悪いのかが誰にも判断できなくなってしまったのです。その中で、震災に対する何かしらの言説を述べると、批判されるおそれがありますから、作品の内部に多少組み込むことはあっても、震災そのものをテーマに、そのものから作品をつくるということはありませんでした。2年というインターバルを経て、もはや風化しそうになっているこの震災を「テーマ」として選択し、そこから構造した作品が今回の『大地のゲーム』です。

 一体いつの時間軸かは小説内からはわかりませんが、3・11と思われる震災が主人公たちの親の世代が若いころにおこったということがわかります。しかし、その震災も3・11とは断定できません。ですが、一般的に考えれば、西暦でいえば2000年代の後半にあたるであろうことがわかります。
 綿矢文学には、固有名詞が描かれる作品と排除される作品とに分かれますが、この作品は作品内から固有名詞がかなり削除された作品です。その点では、つい先日発表された『abさんご』に似ている側面もあります。主人公の名前もわかりません。作品は女子大生である「私」の語りによって進行します。主な登場人物は、「私」との「私の男」という彼氏。それから、大学内で「反宇宙派」というグループを立ち上げている「私」が「リーダー」と呼ぶ男。そうして、今までの綿矢文学の三角関係からは登場しなかったはずの第四番目の人物マリの四人です。
 小説の時間軸がいつかは明確にはわかりませんが、
人称と固有名詞の冒険―綿矢りさ「大地のゲーム」
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-7aa0.html
参考したブログではこのような指摘がされています。
―12ページ目のはじめに「大学創立二百周年記念タワー」という固有名詞を持っていることが不意に判明します。ここで日本における最初の大学の設立が、1877年の東京大学であったことを思い出しましょう。すなわち、「大学創立二百周年記念タワー」は、固有名詞が不明などんな大学であろうとも、2077年以降にしか存在しないことが判明するのです。―
 ここで重要な指摘がなされていますが、このタワーの形容から、少なくとも2077年以降の時間であることが判明します。
 場所はどこでしょうか。この大学には14号館と呼ばれる「私」たちが住み込んでいる会館があります。少なくとも14以上は会館があることから、かなり大きめの大学であることが判明します。また記念タワーなども鑑みると、作者である綿矢りさが卒業した早稲田大学を彷彿させます。おそらく作者レベルでは大学内の描写においては自分の記憶を頼ったことでしょう。しかし、作中では時間軸も異なりますし、現実の早稲田は都会にありますが、この小説内では舞台となる「大学」はかなり田舎にあることが判明しています。回りを運動神経のかなりある男でなければ飛び越えていけないほどの囲いがなされているような閉塞された空間であるということもわかります。
 
 綿矢文学を考える場合は場所が特に重要だと私は感じてきました。綿矢文学は私が勝手につけた名称ですが、「ひきこもり文学」として読み解くことができます。「インストール」は押入れの中にひきこもりました。「蹴りたい背中」は教室と、にな川の家の二か所にひきこもります。「ひらいて」は教室の中にひきこもっているのです。この『大地のゲーム』では、登場する人物が大学生ということもあり、多少活動の幅が広がっていますが、意識的に大学が閉塞された空間であることが描かれており、大学にひきこもるという典型的な綿矢文学の特徴を引き継いでいます。この作品は、大地という命の温床、海と対比される大きな自然の世界を描いていながら、たったひとつの小さなキャンパスに閉じこもっているという二面性を有しているのです。
 また、綿矢文学を読み解く際の手掛かりが人間同士の関係性ですが、今まで綿矢文学で多用されてきたのは「三角関係」でした。今までの作品ではルネ・ジラールの「欲望の三角関係」の理論から、主人公は大抵の場合ルネ・ジラールのいうメディエーターというポジションに位置し、三角関係の中では恋愛に敗れる役を演じてきたと私は考察しています。
 以前綿矢りさ氏のインタビューを聞かせていただいた機会があったのですが、「ひらいて」執筆後で、彼女は「次は三角関係にもう一人足して四角関係を描きたい」というようなことを述べていたことを記憶しています。今までの作品がどれも三角関係の構図を含んでいたのに対して、今回の登場人物たちがどこか不思議で謎めいているのは、新たに今まで存在しなかったはずの四人目が登場したことに原因があると私は思います。

-三角関係から変化した四角関係を巡る物語-
主人公が女性であることから、便宜的に四人目はマリだろうということを述べましたが、それはあくまで主人公の「私」の主観から見た場合です。誰が四人目なのかということはあまり議論になりませんが、この作品では、「私」と「私の男」と「リーダー」と「マリ」という四人の関係性を巡る物語として読み解くことができます。
今までも固有名詞が謎めいた作品が多かったものの、今回の『大地のゲーム』では、「マリ」以外の主要人物が、「私」を含め、彼氏である男も、反宇宙派を率いて大学を統治しているリーダーの名前も一切描かれません。一体「私」と関係のある男たちがどのような存在であるのか、名前を奪われることによって、漠然としてきます。そうしてそれと同時に、「私」と二人の男の関係性もどこか明瞭としません。「私の男」とは当然「私」にとっては付き合いをしている彼ということになりますが、本当に好きなのかどうかが一向に描かれません。付き合って一年くらいであるということが震災後の冬の回想で描かれていますから、震災の半年ほど前から付き合っていたということになるでしょう。しかし、なぜ付き合っているのかはなぞですし、あまり好きなようでもありません。「私の男」の人物造形は、どこかがさつで言葉が少なく、語彙力も少ないために「私」に言い負かされて尻に敷かれているような人物です。しかし、プライドが高いため、尻に敷かれることは彼にとっては嫌なことで、怒鳴ることによって自分が上位にあることを知らしめているようなタイプの男です。それに対して、リーダーは大震災の中でグループをまとめ上げ、無法地帯となった大学内を自力で秩序だったものにするほどの能力の持ち主で、しばしばかぎ括弧を使用して演説の言葉が切り取られていることからも、弁舌の立つ有能な人物として描かれます。そうして肝心なのが、「私」はこのリーダーを「狙っている」のです。好きや愛しているという感情ではありません。そうした言葉も登場しませんし、リーダーとどのような関係になりたいのかは不明ですが、「狙っている」と言ったほうがしっくりくるような感情をリーダーに投げかけています。自分の彼氏のことを「私の男」という所有物として命名していることから、リーダーを自分の手中に入れたいという感情なのかもしれません。
今までの綿矢文学で登場したどこかなよなよした男というのは登場しません。攻撃を誘発させる弱弱しさというのは、今回「マリ」の存在に引き継がれています。男はたくましく描かれますが、その反面今までの弱弱しい存在は女性であるマリが請け負っています。このマリはしばしば綿矢文学で登場する「ハーフ」です。容姿が非常に美しいということが判明しますが、リーダーのファンである女子大学生三人のグループに大学中を追い回され、常にいじめられています。そうしてしばしば「私」のもとに逃げ込んでくることが判明します。

 この小説は、「私」と兄の幼少のころの回想から始まる典型的な階層型の小説です。作品における主な現在は、未曽有の夏の震災から約半年たった冬です。夏の震災によって学園祭が延期になり、冬の学園祭からカウントした時間軸で回想がなされます。学園祭二週間前と一週間前。途中で夏の震災の記憶も回想されます。最後は夏の震災、冬の震災が来た後の時間が多少描かれます。その中で四人の関係が徐々に変化していくのがこの小説のメーンになっています。
 今までの作品よりもあらゆる面で規模が大きくなっています。閉塞された空間という縛りは、震災の後大学の周辺の治安が悪くなったこともあり、極めて緊迫した空気の中で強まっています。さらに、今までの攻撃性は「蹴りたい」やいじめたいレベルのものでしたが、閉塞感が強まったためか、手段リンチにより殺人までに強まっています。「私」の攻撃性は、今までの三角関係であれば、男であるリーダーか「私の男」に向かうはずでしたが、今回は同性であるマリに向かっています。そうして、四人に増えたことから、攻撃する人間が増えました。「私」はマリに。「私の男」とリーダーはお互いに攻撃しあっています。
 作中ではかなりおとなしくしていた四人ですが、夏の震災の後に必ず来ると政府が予測した同規模の地震が発生した瞬間に急にその攻撃性を発揮します。震災があって治安が悪くなったことから、この小説内においては、日本でも護身用に銃を持つことが許可された世界になっています。その点では多少ライトノベル的な要素があると言えるかも知れません。
 その攻撃力の極めて強い武器をただでさえ攻撃性のある登場人物たちが持ったらどうなるのか。冬の震災の時、「私」はマリを殺そうとします。地震に紛れて行えば、後々犯行がばれる可能性が少ないからです。「私」にとってマリは自分が所有したいリーダーを横から奪っていく人物でした。そのマリを自分しかしらない彼女が逃げ込んできた際にかくまう場所で殺してしまえば、リーダーを狙うのは自分だけになるという魂胆です。しかし、また男同士も壮絶な決闘を行います。「私の男」はリーダーを殺したがっていました。それは、自分の彼女である「私」をリーダーに奪われないための行動と考えることもできますし、もしかしたらマリを好きだったという可能性もなくはないと私は思います。リーダーが何故「私の男」を殺しに行ったのか謎ですが、もしかしたらリーダーもまた「私」を奪うためにその彼氏を殺したかったというラインが浮上してきます。三角関係では明確だった人間同士の関係性が、四人になったために重複し始めました。ある意味ではこの不明確さが作者が狙った小説上の技巧だったのかもしれません。そうした面でも作家綿矢りさに磨きがかかってきたという事ができます。

-終わりに、『大地のゲーム』とは何か-
 タイトルにある『大地のゲーム』が一体何を指しているのでしょうか。この小説は、3・11があったであろう世代の次の世代の物語です。そうして、作品内ではすでに夏に3・11レベルの震災が起こったという設定がなされています。政府の報告によれば、1年以内に夏の震災と同規模の震災が再び起こることが予測されて、その際には特別なサイレンがなるということが、ニュースを通じて日本国民全員が認識している世界です。
 作品内では、次におこる震災に怯えながらも、着々と学園祭の用意をする登場人物たち。小説では、学園祭の当日、中でも最も盛り上がっている部分、リーダーの演説中に大震災が訪れます。あまりにも都合がよすぎる震災という点ではリアリティーに欠けますが、リアリティーの排除というのは、ライトノベル的な設定にも表れていますし、また固有名詞が排除されているというのも具体性を無くすためと考えることもできます。ではなぜ、リアリズムを排除したのか。それは一つには、まだ日本人の心に3・11の影響があまりにも残りすぎているという点です。この作品は震災を真っ向から描いた作品です。ある意味不謹慎な作品と考えることもできるでしょう。ですから、これを3・11のこととして描くと、被災者の方やまだ立ち直っていない人たちにあの恐怖を思い起こさせることにもなります。ですので虚構性を強めたというのが現状だろうと私は思います。
 『大地のゲーム』というのはつまり、大地側がそのうえに住んでいる人間たちに対してゲームをしているということです。ゲームというのは、playではなく、末尾に表記されるように「bit(賭け)」です。大地がディーラーで、その上にいる私たち人間は賭けをしている存在です。その上では、様々な駆け引きも行われています。四人の関係は、その関係性を巡る賭け事だったのです。
 
通常ではありえないような設定の上で、極限の状態に置かれたらどうなるのかという「if」の世界を描いたというのが、この作品の最大のテーマではないでしょうか。それは、もしも大震災が起きて、さらにもう一度同じものがおこることが予想されていたならば、人々はどのようにそれに対して臨むのかということでもあります。現実でも、近いうちに再び地震が起きるということがわかっていますが、果たして私たちはあの震災から何を学んだのでしょうか。ほとんどの人間が震災を忘れ、次にいつ来るともわからない地震に対して何も準備をしていません。この作品では近いうちに地震が来るとわかっていれば人間がどのように動くのかというシミュレーションでもあります。
またifの世界を描くという点では、今まで三角関係がメーンだった綿矢文学にもしもう一人を持ち込んだらということもその一つではないでしょうか。もし、大学という場所に閉塞されたら人間はどう動くのか。今までも必死に動いてきた綿矢文学に登場する人物たち。しかし、その人物たちは平穏な日々の中では、その必死さはどこか滑稽味を帯びていました。だから、綿矢文学に登場する主人公は「ちょっと痛い子」というようなレッテルが張られていましたが、今回の極限の状況下においてはその必死さは生きるための必死さとして、まったく滑稽味をうしなっています。極めてシリアスで、みんなどこか神経が擦り切れている状況の中で、人はどう生きるのかということを真剣に問うた人間の本性を暴いた作品です。勿論それを操っているのは皮肉として大地というディーラーであるということもいう事ができると私は思います。
これこそ綿矢文学新たな地平と呼ぶにふさわしい、綿矢ファンならびに、現代の震災を考える人間が読むべき書物であると思います。

スポンサーサイト

綿矢りさ『夢を与える』試論 感想とレビュー 綿矢文学の特異点としての側面から綿矢文学を読み解く

09241.jpg

-初めに-
 『インストール』『蹴りたい背中』に続いた綿矢りさ三作目となった『夢を与える』は、今までの一人称小説の形式から変わり、三人称で描かれています。作品形態が大きく変化しているということもあり、綿矢文学を語るうえでは決して外すことのできない重要な作品です。今回はこの作品から綿矢文学を読み解いていこうと思います。

-綿矢文学の三角関係は幹子が負う-
 作者初の三人称小説ということもあり、その形態に慣れるのにかなり苦労したであろうことが察せられます。綿矢文学を読み解く指標としては三角関係があります。この小説にも三角関係が登場しますが、それは最初の夕子の母幹子の物語です。
 フランスと日本のハーフで、主人公夕子の父親である冬馬。この冬馬をどうやって獲得するのかという幹子の戦いからこの小説は始まります。綿矢りさのそのほかの作品を観ると、この三角関係こそ彼女が書きたがっているものだというのがわかりますから、『夢を与える』時点においてもやはりこちらの方が活き活きと描写されています。途中で主人公が幹子から夕子に変わる部分に違和感があるのは、書き手がこちらの幹子の方を描くのに入り込みすぎたからだと考えられます。ここは作家の未熟な部分と考えてもいいと私は思います。
 幹子がフランス人のハーフである冬馬を、フランス人で日本語の講師をしている女性と取り合うというのは、その後の『かわいそうだね?』に引き継がれる構図となっています。この小説のあとに『かわいそうだね?』を執筆していることからも、やはり綿矢文学においてはこの三角関係がテーマだということがわかります。
 
 やむなく主人公が夕子に引き継がれます。夕子は今までの綿矢文学には登場しない少女として存在します。綿矢文学の女性像はどこか攻撃性を持っていて、困窮した際にはちょっと常人では理解しがたい行動をとる、いわゆるいたい人として登場します。しかし、この夕子は、自分の母幹子がそのような性質を請け負っているためか、とても素直な少女として登場します。『インストール』の少女から、攻撃性を取り除いたような感じの少女です。この少女が成長していく様を、作中のチーズのCMのように、私たち読者は見ていくのです。衆人環視の中で成長する人間がどのような感覚であるのか、これが活き活きと描かれるのは、やはり作家である綿矢りさ自信が、17歳のデビューと同時にそうした生活を送ってきたからでしょう。
 また『夢を与える』というこちらから一方的に向かう方向性も、綿矢文学における攻撃性を考えるうえで重要なものだと私は思います。夢というのは本来貰ったと感じたとしても、与える側からしたらそんな意識はありません。アイドルやタレントから私たちが夢をもらったと感じることはあっても、本人たちは自分が誰かに与えたとは思っていないでしょう。ある意味では傲慢になるかもしれませんが、この夕子は夢を与えるという立場に立った数少ない人間として描かれます。幹子によって綿矢文学の攻撃性を奪われた夕子は、夢を与えるという攻撃にもにた方向性を有しています。
 ただ、夕子がそのような方向性を持っていても、受け取る側は今回それを拒否することになります。『蹴りたい背中』にしろ『ひらいて』にしろ、攻撃性の対象となるのは常に男でした。今回の作品でも、幹子は冬馬に対してかなり強くあたっています。これが綿矢文学の本質だと私は感じていますが、夕子にはその攻撃性を向ける相手がいないのです。物語後半から登場し、夕子をスキャンダルで貶める原因となったダンサーの正晃は、今までちやほやされて育てられてきた牙のない夕子からの攻撃を拒否するのです。ですから、夕子の攻撃性は今回正晃に拒否されるという初めての構図が浮かび上がります。これは象徴的に、夕子が与える夢を作中では登場もしない多くのファンが、現実レベルでは私たち読者が拒否するという構図を現していると私は思います。

-相互補完する幹子と夕子-
 この作品は今までの綿矢文学に登場する女性と共通する幹子の方が活き活きと描かれます。夕子が主人公となってからも幹子の存在感は偉大です。しかし、その幹子の生き方の限界を作者が悟ったためか、幹子を登場させることによって、今までの綿矢文学の攻撃性を幹子に負わせることによって、他の生き方を模索しているとも考えられます。夕子はまさしく、幹子の他の生き方と考えられることが出来るのです。それは、作家レベルで話をすれば、綿矢りさ自身の二面性ともいえるでしょう。
 ですから、この作品は幹子だけでも、夕子だけでも成立しないのです。二人がお互いに補完しあって成立しているという状況です。幹子一人では、冬馬をどうやって奪うかという話だけで終わってしましますし、夕子だけではまず芸能界には入れないでしょう。幹子と夕子は正反対の人間ですが、お互いの存在によって成り立っています。これは綿矢りさの内面にあるジレンマや葛藤とも考えることが出来ると私は思います。
 
 たった一つの恋によって、失墜していく様は多少強引とも感じられますが、ここでは丁度夕子が幹子からの脱却を図ろうとしている時期と重なります。二人で一人であった片方の人間からの脱却を図ろうとしているのですから、それはすなわち死を意味します。最後に病室で二人の親子がいる場面は、再びこの二人が一人になるということを象徴的にあらわしていると私は思いますが、そうすると、少女夕子の自我同一性はどこにあるのかという問題になります。おそらく母幹子からの脱却は、作家の二面性ということを考えてもできないでしょう。夕子は母から脱却できない存在として登場しているのです。一人になろうとして、失敗し死にそうになった彼女ですが、母と再び一つになることによって、死にながら生きるといった壮絶な状況になります。それが最後のやせ細って眼光だけがするどくなった夕子の姿です。
 夕子にとっての自我同一性は母と再び芸能界に殴り込みに行くということになりますから、ここで同一性が画一されます。だからここで物語が終わり、それまで夕子視点で書いていた語り手が突然夕子を離れて記者について行ってしまうのです。夕子の物語はここでおしまいということになります。

-終わりに-
 綿矢文学の指標の一つにラストの描き方があります。『ひらいて』ではオープンエンディングと言われるように、作品がひらいていくような感覚を与えました。この作品では、語り手が自己同一化を確立した少女から離れて行ってしまうという構図になります。この親子二人はこれからきっと芸能界に必死に抵抗なり、攻撃なりをしていくことでしょうが、その成果はおそらくないでしょう。しかし、それでも攻撃せざるを得ないというあまり良い未来は予想できません。記者たちがあの子はもう終わりだというのはまさしくその通りなのです。しかし、そのラストを描かずに、記者が離れると同時に逃げて行ってしまう語り手は、使うだけ使っておいて用が済んだら捨ててしまうという、芸能界そのものをも象徴的にあらわした視点になっている点が、この作品全体を通して今の芸能界に対する強い批判となっていると私は思います。
 この小説のテーマである、チャイルドモデルもまた、現代のアイドルへ対する批判と読み解くこともできます。この作品は綿矢りさ自身が経験したであろう苦労や悲運などを彷彿させる彼女の自伝的小説としての側面もあるのではないでしょうか。

綿矢りさ『勝手にふるえてろ』試論 感想とレビュー 綿矢文学を読み解く指標

1231 (1)

-はじめに-
他の作家に比べて比較的遅筆な綿矢りさですが、この作品も数年の空白の後に書かれて登場しました。「勝手にふるえてろ」という一瞬相当強い言葉にも感じられるタイトル。この作品は、江藤良香(よしか)という主人公の一人称小説です。

-綿矢文学を読み解くキーワード-
綿矢文学には、今のところ二つの段階があると私は感じています。一つは主人公の年齢が学生であること。ティーネイジャーと言ってもいいかも知れません。いまのところ大学生がモデルとなった作品がないのでこの大学生がかかれた場合は、学生小説に入れるのか、どうするか議論が分かれるところでもあると思います。もう一つは、OL小説。これはどちらかというと、作家レベルで考えれば綿矢りさ自身とほぼ同年代の女性がモデルになっている小説です。
大別すると、綿矢文学は、学生小説と、OL小説の二つに分かれると考えることが出来ます。そうして、この二つにはさらに、胎内回帰願望と、外界へ向かおうとするリビドー(情動)という二つの相反する概念が付加されていると私は思います。
今まで見た『インストール』と『蹴りたい背中』は内向の小説であったと考えられます。そうして、昨年出版された『かわいそうだね?』は完全な外向の作品。以前この『かわいそうだね?』を論じましたが、私はこの作品がどうして大江健三郎賞を受賞したのかまったくわかりません。私はこの作品は綿矢作品のなかで最もよくない作品だと考えているからです。それは、初めて完全な外向をしたために作品が大きく失敗していると感じたからです。それをある意味では、作者も感じていたのかもしれません。その次の作品となった、去年刊行の『ひらいて』は、再び内向作品となり、私はこの作品に大変感銘を受けました。
今回論じる『勝手にふるえてろ』は、内向から外向へうつろうとしていることが感じられます。この作品はちょうど『蹴りたい背中』から『かいわいそうだね?』の中間で書かれたのです。

また、綿矢文学を読み解いていく上で重要なキーワードは、三角関係と、ヴァルネラビリティです。ヴァルネラビリティ(vulnerability)とは、人類学では、攻撃を招きやすい性格のことををいいます。「攻撃誘発性」とか「被撃性」と訳される概念です。社会学や現代思想の分野では「可傷性・暴力誘発性・傷つきやすさ」などと訳されます。(広辞苑より引用)
綿矢文学のヒーローは、しばしばこのヴァルネラビリティを付加された造形になります。簡単に言えば、クラスのなかのいじられっこ、いじめられっこということです。この攻撃誘発性は、『蹴りたい背中』が最も顕著に現れました。にな川は、まさしく初実にとって攻撃を誘発させる存在だったのです。ところが、ここではまだにな川は、初実だけに誘発させる存在でした。それが、『勝手にふるえてろ』では、クラスの全員から攻撃を誘発させる人物へと変化します。このヴァルネラビリティを有したヒーロー像は、『ひらいて』にも継承されています。
三角関係については、『かわいそうだね?』と『ひらいて』に顕著でした。この『勝手にふるえてろ』は、妄想して三角関係を擬似的に作り上げるということをしています。

-三角関係から、理想と現実の問題-
三角関係がこの作品でも主題となりますが、この作品の三角関係はほかの作品とは異なり、現実的には三角関係ではないということになります。妄想で、自分は三角関係である、三角関係になりたいと考えているだけなのです。綿矢文学でこれだけ妄想が烈しかった作品も珍しいともいえます。妄想だったという作品は、森見登美彦の『太陽の塔』の系譜があるとも考えることができます。
この作品では、彼氏が1彼と2彼というように分別されています。現代の女性にはこのような思考があるかわかりませんが、これは理想と現実という意味でも、深い試論になっていると思います。
この作品では、1彼が自分の理想。だけれども決して手に入らない(と思い込んでいる)。そうして、2彼が、現実。いいかなと思ったりするのだけれど、やはり気持ちわるいという嫌悪感を抱いてしまう(と思い込んでいる)。あえて、私がどちらの最後にも思い込んでいると書いたのは、やはりこれだけ妄想の強いヒロインだと、書いてあることが客観的に見たら本当のことであるか不明だからです。彼女にとっては、もちろん真実でしょう。しかし、真実と事実は=では結ばれません。事実は一つしかありません。しかし、それは真実となった際に、いくつもの真実が生まれるのです。

そうして、この作品では、便宜的に理想と現実という対比がなされ、非常に明確化されています。結論は、理想を切り離して現実に目を向けるという穏当な方向へ向かうことによって作品は幕を閉じます。しかし、この二人の彼氏の脳内対比は、我々現実世界のある一面を捉えていると私は感じました。
この作品では、理想の彼と、現実の彼はどちらも実体として存在しており、別の人物です。しかし、もしこれが二人は別の人物ではなかったらと考えると非常に面白い考えができると思います。そうしてこの作品には、それを考えさせるテクストの空白があると私はかんじました。
私たちは彼氏、彼女と付き合っている際、本当に彼氏彼女を理解することはできません。本当の理解というのは、例えばエヴァで言えばATフィールドが無くなった世界、固体と固体の境界性が分からない世界にならないと得られないのです。そうして、私たちが普段他者を理解しているのは、自分のなかに作り出した他者のイメージを理解していることに過ぎません。
ですから、付き合っている人がいるとして、その付き合っている人を理解するということは、自分のなかに抱いた彼氏彼女のイメージを理解しているだけなのです。この作品は、その自己のなかのイメージと、物理的、現実的な彼との折り合いをどうつけるかという問題でもあると思います。ただ、それをそのまま描くのは非常にややこしく難しいことですから、あえて便宜上二人を別人としたのです。
だから、本質的には1彼と2彼は一緒だということもできると私は思います。自己のなかの他者のイメージと、客観的な彼。この二つがもしだんだんと離れていってしまったらどうするのか、それを問題にしているのです。

他者理解というのが、この作品の根底には含まれているのです。会社を辞めるというところで、すでに一から二、つまり理想から現実へ移行したことがわかります。そこから、ではどうやって現実を受け止めていくのかという問題です。ここで両親が電話で登場するというのは、親子の関係性が他者理解の根底にあるという意味を含んでいると私は指摘しておきます。
そうして、ヨシカを理解するにはどうしたらよいのかということで、ヨシカは二彼にアニメイトに2時間一緒にいたらわかるということを述べます。ただ、そのようなことをしても決して全て、完全に100パーセント分かり合えるわけではありません。それはヨシカも分かっているのです。ですから、理想からはなれて現実をとったとしても、その現実もやはり理想でしかないのです。100パーセント現実はないのです。最後の「二」という表象が、「霧島」という固有名詞に変わったのは、現実も1パーセントの理想が含まれているということに気が付いたからなのではないでしょうか。
完璧、完全から離れて、ある程度の現実でしかないということを認めることが出来たというのが、この作品の最後に繋がっている問題ではないかと私は思います。

-最後に-
一つ残る疑問は、この一彼が一体なんだったのかということです。一彼はヨシカが現実に目を向けるようになってから消えていってしまいます。この攻撃を誘発させるような、脆弱な少年の存在は一体なんなのか。どうして、綿矢文学に出てくる彼らはそのような引力を有しているのか、それがまだ分かりません。
また、この作品には短編『仲良くしようか』が同時掲載されています。この短編は、いくつかの場面が交錯しているために、非常にわかりにくい小説になっています。いずれこれを精読してみようとも思っていますが、ここではこの作品は少女マンガ的作品と指摘しておきます。特に80年代90年代の少女マンガは、内向が極限まで極められた時代です。いくつもの心理的な階層の言葉が同時並行的に羅列される。そのため、最後は読者もわからなくなってしまったくらいです。
そうした、自分の内面、記憶、心理的階層が幾重にも重なって出来ているため、わかりにくいのです。これはそれぞれ解きほぐして分別すると、そこから見えてくるものがあると思っています。

綿矢りさ『蹴りたい背中』試論 感想とレビュー 弱者の文学から攻撃性と攻撃誘発性

4309015700.jpg

-はじめに-
2001年の華々しい文学界デビューから3年。2004年に発表した今作『蹴りたい背中』で綿矢りさは芥川賞を史上最年少で受賞します。同時受賞となった金原ひとみの『蛇とピアス』とともに、日本の純文学会が若手の力で最ももりあがった時代といえるでしょう。
私はこの作品が綿矢文学の最高傑作であると思っています。それ以降の作品が、残念なことに作家レベルで質が落ちてきていると思われるからです。しかし、このように批判するのも、綿矢りさがまだ若く、作家としての力をさらに伸ばすことができると信じてのことです。

-綿矢文学の記号性-
「さびしさは鳴る」から始まるこの作品は、特に冒頭の数ページがすばらしいとの賞賛を受けています。私はそこまで感銘をうけはしませんでした。ですから私はマジョリティーの意見とは異なる感想を持ちました。さびしさは鳴るとは、あまりに文学的であるとも言えます。これは記号性の問題になると私は思います。
さびしさという言葉が、私たちが通常用いる用法とは異なった使われ方をしている。それは純文学でしか出来ない芸当です。これを翻訳することは出来ないでしょう。おそらく翻訳したとして外人が理解できるはずもありません。
綿矢文学の一つの大きな特色は、このように、記号が持っている意味を、ぶちこわしていくことにあるのです。そのぶちこわしかたは、宮沢賢治に似ていると私は思います。最も日本文学者のなかでオノマトペの使用に長けていたのは、間違いなく宮沢賢治だったでしょう。詳しくは宮沢賢治のオノマトペを研究した本がありますからそれを読んでいただきたいのですが、彼は人には想像できなかったオノマトペを使用しました。しかし、これは実はオノマトペを最初から作り出したのではなくて、今まで用いられていたものを再構築しただけだったのです。
太宰治も最もパロディのうまかった作家として位置づけられます。彼は、殆ど今で言ったら盗用、盗作、コピペといわれても仕方のないようなものを書いています。しかし、ほんのちょっと太宰がいじるだけで、立派な文学性を持つことになるのです。
太宰の文学性を否定する研究者もいます。やはりそのまま写しているだけだから創作性を認められないということです。しかし、現在では一般に、作家が独自の記号そのものを創作することはできないのだから、再構築した太宰は、そこに創作性があるとして認められています。
綿矢りさは、このような再構築に長けた作家であると私は思います。この通常とは異なった言葉の用い方が、当時の人々の感性を刺激したのでしょう。ただ、記号性を重んじている私としては、読みづらいというのはあります。さびしさが鳴ると聴いて、意味が理解できるかと言われたら、なんとなくはわからないでもないですが、咄嗟には理解できない。私はこの冒頭は特に何が書いてあるのかわかりませんでした。
しかし、言葉の芸術として考えた際には、やはりこれほど美しく言葉を紡ぎだすことは誰にもできないとも感じられます。綿矢文学の文学性を求めるとしたら、この記号性の問題があると私は思います。

-弱者の文学-
綿矢文学の全てに反映されているエッセンスがこの作品には濃縮してあります。ですから、このエッセンスを読み解くことが綿矢文学を読み解くことにもなると私は思います。
先ずは、「いたい子」としての文学。綿矢文学は、なぜか主人公や登場人物が「いたい」。この「いたい」というのは、俗な表現のようなもので、物理的に痛いのではなくて、説明がとても難しいのですが、精神的に見ていてこちらが辛くなるというような感じのことを言います。この作品の主人公長谷川初実とにな川は、クラスから除外されてしまった人物です。この作品は、そうした面で見ると、朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』のように、教室のヒエラルキーの敗北者たちに視点を当てた文学であるとも読み解くことができると思います。
強者の論理はもう終わったのです。作家が特に描いてきたのは常に発言することを抑圧されてきた弱者のことです。弱者の言葉を代弁することが作家の一つの大きな役割でした。00年代に入ってから、特にその弱者が若者のなかに存在していたことに、多くの作家が気が付いたということだと私は思います。
これが、綿矢文学で描かれる登場人物が、一般社会ではマイノリティーとされている弱者の言になっているのです。これは私の論ですが、綿矢文学を論じるうえでもう一つ考えたいのは、ルネ・ジラールの提唱した『欲望の三角関係』です。
ルネ・ジラールは今まで三角関係を扱った作品を新たな枠組みで捉えなおすという偉業を成し遂げました。ジラールは「欲望する主体と欲望される対象の間に、主体にそれを指し示して欲望させる、媒体となる第三者の存在」を発見しました。これがメディエーター(媒介者)です。つまり、主体と対象の間に、媒介者があるという指摘です。夏目漱石の『こころ』もKがメディエーターであったと読めることが出来ますが、今までの作品同様、「私」と「あの人」の関係のライバルとしてのメディエーターが登場しているだけでした。綿矢文学は弱者の言の代弁であると言ったように、ここでも、メディエーターとして片付けられてしまう、通常は恋が成就しない人間が主人公になっているということができないでしょうか。だから、綿矢文学で三角関係を描いた作品は、ことごとく主人公が破局するということになるのです。

-攻撃性と攻撃誘発性-
弱者を描いた作品ですが、その弱者たる主人公初実とにな川の間にも上下関係があります。自分がクラスののけ者であることを認識している二人ですが、そのなかでも初実は自分のさらに下ににな川を位置づけようとしているのが、この少女のモチベートであると私は感じます。これが不思議なタイトルである『蹴りたい背中』に繋がってくるのです。
この少女もまた、綿矢文学に登場するほかの多くの少女と同様、エネルギーの有り余った少女です。突発的な情動が起こるのがこれらの少女の共通した特徴です。
この初実に関しては、そのエネルギーの発散される対象はにな川に向けられます。にな川は、悪く言えば確かにアイドルオタクで引きこもっていて一般人が見ても気持ち悪がるような男ですが、もちろん彼に罪はありません。しかし、初実は、彼の部屋まで入れてもらって、突然彼に暴力行為をしたくなる衝動に駆られるのです。
ここから、先ずひとつ少女の突発的な情動の攻撃性が窺えます。これは先ほども述べました。しかし、それと同時に、少年の側から見ると、少年にはヴァルネラヴィリティー(攻撃誘導性)という珍しい性質が備わっているとも考えられます。これが綿矢文学の男性の持つ性質なのです。これは『ひらいて』で特に顕著になり、私は綿矢文学がその出発点に帰ってきたのだと考えています。
突然接吻したりというのは、最も少女の攻撃性と、少年の攻撃誘発性が引き起こした行為の大きなものでしょう。しかし、綿矢文学を読み解くもう一つの視点、関係性から見ると、この少女はにな川を自分の方へ振り向かせたかったのだとも考えられます。にな川は、宗教的な崇拝に近い感覚でオリちゃんというアイドルの熱狂的なファンでした。そんなオリちゃんに思いを寄せるにな川を見て、初実はどうしても暴力の衝動が出てくるのです。それはつまり、最終的な行為であり、また根源的な行為でもある暴力によって、にな川をオリちゃんから引き離して自分に振り向かせようという行為なのだろうと私は思います。
この物語は、最後ベランダで二人の会話の場面で終わります。特にとりとめのない終わり方なので、多少このエンディングがハッピーなのかどうか不明な点がのこりますが、関係性から読み解くと、オリちゃんへの気持ちが遠のいて、初実に向けられ始めたと考えることができます。そうすると、これは関係性が新しく変動したということになりますから、一応初実の願望は叶えられつつあるというエンディングになっているのです。

-終りに-
この作品は、夏という限定された季節、さらに主人公たちが場所を移動しているとは言え、どうしても閉塞感を感じます。それは、おそらく描かれる場所が、教室、にな川の部屋、ライブ会場と、どれも閉塞された空間だからです。暑い夏に、このような場所にいたらどのように感じるか、暑苦しくてかなり辛い状態だと思います。この作品は、こうした意味でも全体的に引きこもる文学であると言うことができるのではないでしょうか。
この「引きこもる」意味について、綿矢文学は、これから社会に出たOLとして「引きこもる」ことをやめてしまいます。しかし、それはやはり綿矢文学から離れてしまったことなので、読者には受け入れられないことがあるでしょう。ただ、だからといってまた引きこもればいいのかということにもなりません。新たな空間を、作家が見つける必要があるのかも知れません。

綿矢りさ『インストール』への試論 感想とレビュー 母体回帰小説として

200510-06.jpg

-はじめに-
平成の文学を研究する上で、最も若い純文学の女性作家、綿矢りさは決してはずせない存在であると私は思います。作家という稀有な存在のなかでも、最も若い人間が、一体今何を見て、考え、それを書いているのかという問題があると思うのです。『インストール』を17歳で執筆し、一躍有名となった綿矢りさの、処女作品から作品順に綿矢文学を読み解いてみたいと思います。

-インストールされる少女・おしいれから新たな関係性の構築-
2001年に『インストール』でデビューした綿矢りさ。2001年といえば、もう10年以上も経過してしまいました。2001年では、まだコンピュータがそこまで普及している時代ではなかったと記憶しています。学校には、もうPCルームが作られていたとは思いますが、今のような携帯型のタブレットはなく、専ら今で言うガラケーが主流の時代でした。そうした時代に、時代の最先端を行くかのように表れた『インストール』。ここで問題となっているのは、やはり「わかさ」だと私は思います。
「若さ」を持て余した主人公の朝子は、そのエネルギーをどこに向けるのか、これがこの作品の主題となっているのです。若さというのは、最先端というイメージをも連想させます。しかし、この作品で登場するパソコンは最初ポンコツとして描かれるのです。それは丁度朝子と同じ。最先端であるはずの、朝子。つまりこれは高校生であることの若さのイメージ。しかし、変にいじくったためにポンコツになってしまったパソコンと、若さを持て余した朝子が見事に一致する造形となっていると私は思います。

この若さを持て余してしまった存在、ポンコツをどうしたらよいのか。この作品で、この少女を更新するのはさらに若い小学生の少年かずよしです。かずよしは、非常に不思議な存在として登場します。家族、特に母親の描写はありますが、ほとんど生活感の感じられない描写になっていると私は思います。ですから、ある意味外界から来た来訪者としての位置づけがされているとも言えるのではないでしょうか。
かずよしは、ただでさえ若いけれども、その若さを持て余してしまった少女を更新、インストールする役割を負うのです。この少女が若さを持て余してしまった原因は、大学受験という存在。自分の力を外界からの欲求に合わせることが、ふと正しいことなのか疑問に思ったことによって、この少女は力をそこに使うことをやめてしまったのだろうと思います。だから、外界からの自分を切り離して孤独になってしまった存在なのです。
この少女は、その社会との関係をどうするのかという問題に、かずよしの力を得て、母体回帰をしているのだと私は考えます。母体回帰は全ての存在が望んでいる一つの願望だといわれますが、時間と空間を超え、母親の胎内に戻ることがこの上なく幸せな世界であるのは納得のいく話です。
この小説では、朝子の母親の造形が実に母親らしくなく描かれています。ですから、ここには根本的に母親の不在が横たわっているのです。それが母胎回帰にも繋がっていると思われるのですが、ここでは直接自分の母親に向かうよりか、かずよしという外界からの来訪者の力を得て、おしいれの中に入り込みます。
これは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の井戸に篭る、引きこもり文学との共通性も感じられます。ここでは擬似化された胎内、おしいれに篭ることによって、一旦彼女は原点回帰するわけです。そうして、その母胎のなかで、彼女はパソコンというコミュニケーションツールを使用して、新たな関係性の構築を目指します。今までの関係性を破壊して、それから胎内に戻り、再び別の関係性を構築しなおすという作業をするのです。しかし、その胎内で構築した関係は、とても高校生や小学生が手を出すようなものではなく、大人の世界なのです。

暗闇のもつイメージが、エロティシズムと関連していると感じられます。胎内というのも、ある意味ではエロティックです。生命というのは、そもそもエロスそのものです。ですから、そうした意味でもおしいれの中で築き上げる関係性が非常にエロティックなものであるということは、理解できます。
しかし、彼女がこの小説の最後で選ぶ関係性は、この大人の関係でもありません。今までの関係でもなく、大人の関係でもない。大人の関係を構築してみたことによって、今まで一元的だった彼女の関係性が多様的になったと私は考えます。ですから、一元的で自意識のどん詰まりから抜け出せなかったのが、新しい世界、価値観に触れることによって脱却することが出来たという構図がこのテクストの構造だと思います。

-終りに-
綿矢りさの最初の作品から、その根底には関係性の問題が横たわっていると私は思います。それは、新潮文庫版で塀録されている『You can keep it.』にも見られます。綿矢りさの短編は非常に読みにくいと私は感じます。それは、おそらく主語が不明確になっているのと、綿矢文学の独自性でもある、言葉の使い方の問題だと思います。
この短編も非常に読みにくいと私は感じますが、これを関係性で読み解くことが出来ると思います。他人との関係をどうむすぶのか、これは社会的動物である人間にとって最も根源的な問いであります。この短編では、城島という男が、他者との関係を結ぶのに、何かものをプレゼントして、あげるものともらうものという簡単でわかりやすい構図を作ることを多様している部分から物語が展開します。ここでも、結局はそんな安易な「モノ」による関係性の構築の否定と、「イツワリ」への厳しい指摘がなされていると感じます。物語最後で、好きな女の子綾香に話のきっかけを作るためについた嘘がばれて、今までの関係性の構築がすべて否定されます。今までの関係が「モノ」による関係から、「モノ=イツワリ」という意味を持ち出します。それが、結局は彼の破滅を導き、そうして本音をこぼすというところから、新たな関係性が生まれるかもしれないという場面で物語りは終わります。
他者との関係という、もっとも根源的で、それでいてあまり普段意識されない問題に綿矢文学は試論をしているのだと私は思います。
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
156位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
12位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。