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旅行記 ~1~ はじめに・総括


実は去年(2014)の12月14日から、1月の16日までの約一か月間、南米縦断の旅をしていた。
なぜ晴読雨読、インテリ貧弱ひきこもり男の僕が、そんなアウトドアなことをしていたのか、話せば長くなる。
旅の直接のきっかけとなったことから話すことにしよう。私にはある友人がいる。この友人は中学、高校と同じ学校に通っていた友人であった。学生時代は特別仲がよかったということではなかったのだが、大学に入ってから、何度か遊ぶ機会があり、友好が結ばれていた。さて、この友人であるが、旅好きなのである。一昨年あたりは、一月くらい、インド、スリランカの旅をしてきたということであった。私の友人のなかでそんなことをした人は他にはいない。物珍しかったのもあって、いろいろと話を聞いたものである。そんな彼が、今度は三か月間、南米の旅をするという話になった。私も当初は、へえ、そんなんだと、他人事のように思っていたものである。
わざわざ羽田まで彼を送りにいったりもしたものである。彼が旅立ってから、私は卒業論文などで忙しさに追われていた。そんななかで、彼がTwitterやFacebookで投稿する写真は、ひときわ輝いて見えたのである。日本と違い、向こうは山間に街ができている。街が、都市が、斜面にひろがり、発展しているのである。その独特の都市像を初めて見た時に、これはなんということなのだろうか、是非自分の目で見てみたい!と思ったものである。

もう一つ、僕を精神的に旅へと向かわせた状況を説明しておかなければならない。
病気のことについてはもう書いたが、僕はその思考が悪い方向へ向かっているためなのかよくわからないが、とにかく生きていても楽しくないのである。これは本当に大問題だ。生きていて、何をしていても、あまり楽しいと思えることがないわけである。おそらくメタ的になりすぎているということもあるのだとおもう。何かを愉しんでいる時でも、それをはっと第三者的な冷たい自分が見ているのである。そんなことに喜んだり、楽しんだりしている自分、というものがもう一人、さらに一段階上の自分によって見つめられることによって、急激につまらなくなってしまう、というようなことなのだと思う。
そういえば僕って一体何が楽しいと思えていたんだっけ、何が僕の幸せなんだっけ。そんなことがよくわからない状況をこの数か月過ごしてきた。そんななかで、ある本に出合った。槙田スポーツという芸人が本名で書いた、槙田雄司『一億総ツッコミ時代』(星海社新書24、2012・9)である。引用してみよう。

「ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、非難―。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億そうツッコミ時代」だ。動くに動けない閉塞感の正体はこうした「ツッコミ方」にある。「ツッコミ」ではなく「ボケ」に転身せよ。「メタ」的に物事を見るのではなく「ベタ」に生きろ。この息苦しい空気を打倒し、面白い人生にするために!~~(略)~~「メタ」という言葉はご存知でしょうか。客観的に、朝刊的に、「ものごとを「引いて」見ること。それを「メタ」と言います。/日本人の最近の傾向としてメタ的な人が多すぎると思います。何事にも首を深く突っ込まず、冷静に事態を眺めている。ひいちゃっているというわけです。/一方で「ベタ」というのは、客観的にものごとを眺めるのではなくて、どんどん行動に移して人生を楽しむ姿勢です。正月に餅をつく。夏は海で泳ぐ。誕生日を祝う。クリスマスはイルミネーションを観に行く。なんとも「ベタ」じゃありませんか。結婚をする。子どもをつくる。子どもの写真を携帯の待ち受けにする。なんとも「ベタ」じゃありませんか!でもそのほうが絶対「面白い」。/なんでも「ベタ」に行動して、人生をグングン前に推し進めていく」

これが槙田スポーツのいうメタな生き方からベタな生き方へという提案である。だが、なぜ人々がメタ的になってきたのか、またメタはよくないのかということを考えれば、そうだとはいえないところがある。むしろメタというのは、物事を客観的に、鳥瞰的に見る視座であり、これはものごとを分析することが必要な場面では、絶対的に必要な視点になるのである。また昨今政治の情勢が不安になってきて、ナショナリズムが高揚したりしているが、ここでベタであるとそのまま右翼化してしまったりして、どうしてもものごとをメタ的に捉える視点というのは非常に重要なことなのである。だが、と槙田スポーツはいう。そうしたメタ的な視点を持ったうえで、さらにベタに徹しきることも重要なのではないかというのが槙田スポーツのいうところであろう。槙田スポーツはメタを排除してベタになれといっているのではない。メタになる視点も重要で、それを持ち合わせつつ、ベタに生きようといっているのである。
ものごとを常に分析し、冷静に見つめ、自分の感情をそこに投入してこなかった生き方。そんなつまらない生き方をいつの間にか僕はしてしまっていた。そうしてその結果、生きていても楽しいと思えない、幸せと思えない状況に陥ってしまっていたのであった。
そんな時に僕はこの本に出会い、ベタに生きてみようと思うようになった。そしてちょうどそれと前後して、僕の友人の旅の写真が僕にある何かを引き起こさせたのである。

僕は人生を楽しむなら今だ。南米にいくなら今だ!と思った。僕は英語もできないし、スペイン語も出来ない。一人で海外旅行もできない。であれば、今現在一人旅をしている彼のもとについていってしまえばいいのではないか?そう思ったのである。
そうして僕は卒論を提出して、口頭試問までの一か月間、空白があることを見付け、その期間、南米を旅することに決めたのである。南米の旅を決めてから二週間で旅に出た。反対から言えば、旅にでる二週間前に旅に出ることを決めたのである。

旅の全行程はこうだ。
当初はおぼろげに、ペルー、ボリビア、チリとしか考えていなかったが、いざ実際現地についてみて、次どうやって次の目的地までいこうか、どこを見て行こうか、と考えるうちに、細かく決まって行った。
僕は先ず南米のペルーに入った。マチュピチュで有名な国である。
標高三千メートルを超える、世界一高い場所にある飛行場、クスコ航空がクスコの玄関口である。僕はアメリカのロサンゼルスを経由して、ペルーの首都リマで乗り換え、小さな飛行機に乗って約一時間ちょっとのフライトでクスコまで行った。合計で二十数時間の旅である。
高山病と時差ボケを直すためにクスコで数日使った僕たちは、その後今回の旅の大きな目的の一つであるマチュピチュへと向かった。標高三千メートルに慣れたあととあっては、マチュピチュの二千六百ほどの高さはなんということはなかった。
そうしてマチュピチュから帰り、今度はボリビアのラ・パスへと向かった。ラ・パスは本当に大きな町であった。ラ・パスに二三日滞在したあと、僕たちは本当にひどい悪路を越えて、今回の旅の目的の最大目標であるウユニ塩湖へと向かった。
ウユニを満喫した後は、大分南下してきていたので、アルゼンチンのサルタに入ることに。このサルタまでのバスは一筋縄ではいかずに、何度か乗り換えがあったのであるが、なかでもウユニから途中のヴィジャソンまでのローカルバスは最悪だった。悪路であることもそうであるし、振動で窓が開いてきて、冷気が流れ込んでくるし、夜中だというのに民族的な音楽がガンガンに流れていて、僕は此の時初めて、「これは修行なんだ」と思わずにはいられなかったほどである。
サルタへ向かったのは、新年を大きな町で迎えたかったからという理由であった。サンペドロ・デ・アタカマが次の目的地だったのであるが、アタカマの新年はしょぼいという情報があったので、サルタに行ったわけである。ペルー、ボリビアとは異なり、アルゼンチンのサルタは非常に洗練された場所であった。それまでの腐臭が漂っていた町が嘘のようになくなり、まるで日本にいるかのような先進国ぶりであった。
サルタで新年を迎えた僕たちはその後、アタカマへ向かった。アタカマを二三日楽しんだ後、今度は旅の四か国目、最後の国であるチリに入った。チリは最北端アリカである。ここも当初行く予定はなかった。サルタまで南下してきたのであるから、そのままサンティアゴまで行っても良かったのであるが、どうしても旅のパートナーがラウカ国立公園が見たいということで、ラウカまで再び北上していったわけである。
そうして今度は友人が大学一年生時の留学で友達になった人がいるというコピアポへ。本来はここを一泊でふっとばす予定だったものの、その友人にもっといろと言われ、その後行こうとしていたラ・セレナを止めてコピアポに三日泊まり遊びほうけた。そうして最後の場所、サンティアゴへと向かい、そこで数日をすごしたのちに日本に帰ってきたのである。
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旅行記  太宰治ゆかりの地を巡って 

画像 067

安田屋旅館のホームページ
http://mitoyasudaya.com/
静岡は沼津市、三津浜にて、太宰治ゆかりの地を巡る旅行をしてきました。三津浜は、みとはまと読みます。ここの旅館、安田屋旅館は、太宰治が『斜陽』を執筆した宿屋として有名で、太宰治が『斜陽』を執筆した部屋が現在でも見られます。
『斜陽』は昭和25年に出版された、太宰治戦後作品の代表作の一つです。この作品が流行し、没落していく人々のことを示す「斜陽族」という言葉さえできたほどです。
『斜陽』は、太宰作品の中でも、多くの換骨奪胎を行った作品です。この作品は、太田静子という女性がモデルになっていますが、この太田静子の『斜陽日記』というものが、発表され、ほとんど太宰がその日記そのままを写している部分があることがわかりました。太宰文学における換骨奪胎を巡る議論は一応は落ち着いたものの、はじめて知る人にとっては驚くことでしょう。このような換骨奪胎を行った作品の一つに、中篇の『女生徒』があります。これも有明淑という文学好きで太宰ファンの少女の日記からほとんどを引用し、手を加えただけの作品です。
この換骨奪胎の問題は、はじめこれは創作ではないという意見が多く出され、剽窃だと非難されましたが、ほんの僅かの手を加えることによって、極めて高度な文学性を帯びていることや、作家が新しい独自の記号を作ることは不可能で、今ある記号を使用せざるを得ないという記号論的な立場からも、太宰治のパロディであるとして文学性が認められています。

さて、この『斜陽』のモデルとなった太田静子という女性。太宰治の編集者の野原一夫によれば、「決して美人ではなかったが、育ちのよさからくるやわらかな気品があり、たえずなにかを夢見ているようなあどけなさと、まるで童女を思わせるようなおさなさが、およそ肉感を伴わない不思議な魅力となっていた」と記されています。
太田静子は『斜陽』のモデルといわれていますが、貴族ではありません。裕福な医者の娘だったそうです。太宰を語る上で欠かせない、太宰治の最初の妻である小山初世、二度目の妻である石原美知子よりも一歳年下でした。ですから、太宰よりは四歳年下ということになります。彼女は22歳の時に歌集『衣裳の冬』を刊行しているなど、文学好きな人だったようです。
一度太宰とは違う男性と結婚していますが、出産した子が生後間もなく死に、どうやらそれが原因の一つとなって翌々年には離婚したようです。太宰と初めてであったのはこの後です。

太宰との出会いは、1941年(昭和16)で、静子が28歳の時です。28歳というのは、数え年で29、斜陽のなかでヒロインは29だといっています。友人たちと一緒に、三鷹の太宰宅を訪問したのが最初。その後妻に内緒で密会しています。これは明らかに、妻美知子との結婚を周旋してくれた太宰の師の井伏鱒二との誓約書に違反しています。
静子は43年に母とともに現在の小田原市に編入されている土地の大雄山荘で二人暮らしをはじめます。翌44年には、太宰がやってきて山荘に一泊しています。これは紛れも無く不倫です。
45年の終戦四ヵ月後には静子の母が病死します。金木の実家に疎開している太宰宛に手紙を出しています。その返書として、太宰からは46年の一月に、「一ばんいいひととしてひっそり生きていて下さい コイシイ」という文面が送れらています。このようなものを返されたら、女性はたまったものじゃありません。太宰も罪な男です。妻美知子には内緒で変名して文通を行っていたようです。

『斜陽』と静子と安田屋旅館
46年11月に太宰一家が青森から三鷹に戻ります。そうして、チェーホフの戯曲「『桜の園』の日本版を書きたい」と言って、その作品の「題名は『斜陽』だ」と述べています。47年1月に三鷹で静子と会い、静子の「日記が欲しい」と言ったところ、「山荘に来てくれたら」ということで、『斜陽』の材料としての静子の日記を得るために行きます。
2月21日には、太宰が山荘に静子を訪れています。ここで五泊した太宰ですが、このときに静子は懐妊します。『斜陽』の末尾のかず子の手紙の日付には、「昭和二十二年二月二十日」となっていますが、これは太宰が太田静子の山荘を訪ねる前日の日付です。
26日から3月の7日まで、三津浜安田屋旅館、当時の「松の弐番」に滞在して静子から借りたノートを材料にして『斜陽』を執筆します。安田屋旅館は、太宰の弟子の田中英光という作家が紹介しました。この田中英光は、オリンピックにも選手として出場した経験を持つ、体育会系の作家で、太宰の猛烈なファンだったようです。この田中が借りて住んでいた桜井書店の別荘の前にあったのが安田屋旅館ということで、これはいい宿屋だと思った田中が太宰に勧めたようです。ちなみに、この田中は太宰が自殺した翌年に、太宰の墓の前で自殺をしています。
3月6日には、安田屋旅館で『斜陽』連載第一回分(1章、2章)を新潮社編集部員に手渡しています。3月30日には、妻美知子との間に次女の里子が生まれています。この人は後の作家津島佑子です。しかし、そのめでたいことと前後して、3月20日過ぎに、山荘に立ち寄った際に、静子から妊娠を告げられています。自分の妻との間に子どもが生まれているのに、愛人の妊娠を告げられ、それが井伏鱒二の誓約書に反していることですから、太宰は戦々恐々としていたことでしょう。しかし、静子との面会はこれが最後になりました。太宰はこの年の翌年の6月に自殺しています。ですから、太宰は静子の子どもとは直接顔を合わせないまま新でしまったのです。
5月には静子が弟と三鷹に来ています。静子は自分のお腹の子の父が太宰だということを認知してもらいたかったようです。6月には『斜陽』の原稿が完成。7月から10月にかけて『斜陽』が『新潮』にて連載されました。

「斜陽の娘」太田治子
11月12日に、静子は女児を出産します。この年、太宰は母の違う娘を二人もち、二人とも作家になりました。15日には、静子の弟が「認知と命名」を求めて三鷹に来ます。山崎富栄(太宰の愛人)の部屋で認知と命名の文書を渡します。「治子(はるこ)」には、太宰治の「治」の字がつけられました。これは本名の津島修治の「治」でもあります。太宰は美知子夫人との間の子どもには自分の名前をつけてはいません。ここから何を受け取ることが出来るのでしょうか。
作家太田治子は、「たえず何かを夢見ているようなあどけない」母が幼い娘を抱えて、戦後を二人だけで生きることの大変な苦労を経験し、父太宰のことを快く思っていないようです。

太田静子の『斜陽日記』
太宰が大雄山荘で静子から借りた日記(ノート)は、太宰没後に太田静子著『斜陽日記』として刊行されました。太宰は換骨奪胎の名人(見方を変えれば「パクリ」の天才)ですが、特に『斜陽』は静子の日記の文章をほとんどそのまま使っている箇所が多いのです。このようなわずかな書き換えで、剽窃ではなく太宰の作品にしてしまえる点が太宰の天才性だと高田教授は言っています。


安田屋旅館
安田屋旅館には、太宰縁(ゆかり)のものが多くあります。宿屋の玄関の前で出迎えてくれる石には、『斜陽』から「海は、かうしてお座敷坐ってゐると、ちやうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらゐの高さに見えた。」という文字が刻まれています。
宿屋には、太宰が見た景色を、見てインスピレーションを得た画家たちが描いた富士の風景画が沢山飾られていて、それを見るのも一つの楽しみです。はなれのようになっている資料室があります。ここでは、太宰に関する本や、古い書籍などが集められています。部屋には、それぞれ太宰の作品からとった名称がつけられています。温泉にも、『思い出』や『満願』という名称がつけられていました。しかし、流石に『人間失格』や『HUMANLOST』や『グッド・バイ』などはありませんでした。
今回は、折角三島まで来たということで、そのまま電車にのって、修善寺にも行きました。修善寺は、私が最も好きな作家夏目漱石が、養生しに行ったにもかかわらず、吐血して往生しそうになった場所です。その際の体験を漱石は後に短編集で描いています。漱石先生が、担架に担がれて電車で東京まで帰ったという描写は少し滑稽でもあります。さらに、修善寺は、『伊豆の踊子』などにも地名として登場しますし、なんといっても石川さゆりの『天城越え』の天城もすぐ近くにあります。
修善寺自体はあまり観光する場所はありません。さびれた温泉街というイメージでしたが、こうした場所であれば、小説に静かに向き合って製作することができそうだと感じました。やはり、太宰がとまった部屋の眺めはすばらしく、そうしたするどい感性があったことが窺えます。山、海、富士山を一度に一望できる場所というのは限られていますから、太宰が気に入るのもわかります。小説を書いて疲れたら景色を眺める。そうしたすばらしい環境でした。

連載、旅行記「神津島にて」 石野幽玄 -4- 終

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三日目
一人身内が危険だということで、急遽東京へ帰る人間が二日目に出た。それから、三日目には、東京で国家試験があるといって帰る予定の先輩がいた。
三日目の朝は、昨日の不幸を克服せんとして、攻略法を変えた。先ず朝の5時では遅いとして、4時に出た。5時がかなりあかるかったことに気がついた。4時はまだうす明るくもなっていない。暗闇が完全に包んでいる。波止場の先には、小さな赤い灯台がある。そこの周りだけがかろうじてライトがついているが、後は、街灯が申しわけ程度についているほか光源がない。車で波止場に入っていくのはかなり怖いことであった。
こうしたとき、私の豊かな発想が逆効果となる。もし車ごと海に落ちてしまったらどうしようという、途方もない考えが浮かんでくる。車のライトが確かにコンクリートの地面を照らしているが、しかしそれは本当のことなのだろうか、まだ目覚めてからそんなに時間も経っていない、ぼんやりとした頭のなかで、現実と空想の境目がはっきりしていない。
まだ誰に来ていなかった。波止場の先端にいって、昨日得た要領で、セットし終えると、針を海にたらした。今度は生のえびを針に刺している。すると、驚くべきことに、昨日はまったく手ごたえがなかったのに、すぐに食いついた。なるほどこれが食いつくという意味なのか。魚がひっぱる強さというものに、驚いた。私が一番に釣った記憶がある。釣れたぞと皆に声をかけた。初めこのしましまの魚が何か全くわからなかった。
熱帯魚だろうかと思ったが、とりあえずクーラーボックスに入れておくことにした。
現代の科学技術というのは、生活を便利にするものである。いままでであれば、魚についての知識が必要であったのが、この極端に東京からはなれた島であっても、携帯の端末でネットにつなげる。先輩の一人が、何のアプリだかわからないが、魚の図鑑のようなものを見ていた。そこから、この魚が石鯛の子どもである、シマダイであるということがわかった。白と黒のしましまが、その名前の由来である。これが大きく成長すると、海の王者だか、王子だかなんだか忘れたが、立派な魚になるらしい。シマダイはまだ小さい。熱帯魚と間違えるほどであるから、手のひらサイズである。これが食えるのだろうかと思ったが、何とか食べられるようである。
それから私たちは続けざまにこのシマダイを獲った。別に狙ってやっているわけではない。他の魚の影も見えるのだが、どうもこのシマダイというのが、馬鹿なのか、よくエサに食らいついた。
結局、私が一匹だけ全体が抹茶色をした魚を釣ったのが、唯一の別の種類の魚である。海のなかには、ふぐらしきものもいれば、もっと全長50センチほどの魚の影も見えた。それを釣って、一躍今日の主役に躍り出ようという心持はあったが、私たちの釣り針では、それに耐えられるようなものは持っていなかった。
私たちが釣りをしていると、他の人々もちらほらと現れた。なかに本島の人間と思われるおじさんがいた。私たちに話しかけてきて、それはなんですかと聞いた。私たちがシマダイだというと、釣れますかといった。入れ食い状態だというと、大変驚いた様子である。私は初心者なんですと言うと、そのおじさんもまた私もですと言った。こういう部分、島民との違いだといえるだろう。
ふと気がつくと、昨日の私を馬鹿呼ばわりした老人も着ていた。私は彼が憎かったから、なるべく離れていたが、他の仲間たちはそれに気がつかず、老人に絡まれていた。皆初心者であるから、なかなか上手くいかない。魚をとっても、このシマダイ、ひれがとげとげしていて痛いのである。だから釣り針の抜く際に、ビニールで抑えて抜くのであるが、それを見て、そんなものは手でやるんだとやってみせた。そんなこと分っているが、我々には何もかもはじめてのことで、そんなに要領よく行くわけではない。こんなに釣っちゃって可哀想にとか言う。悪かったなと心の中で思った。
しかし、先輩の言った言葉に、食うことは弔いだというものがあるから、きちんと食べればよいでしょうと思った。
この老人、他の仲間一人と、二人して話している。そうして釣りをしているほかの中年の男性にも罵声を浴びせるのだから嫌になってしまう。私の隣の中年の男性が、釣り糸が切れたのか、ルアーがぼちゃんといって海に勢いよく入ってしまった。それをみて、糸が切れたね、とかなんとか言って、例の馬鹿が出て来た。その中年の男性は、なるほど流石に長生きしてきたことはある、全く何事も無かったかのように平然としている。こうすればよいのかと思った。
宿に帰って、釣った魚を調理してくれるように頼んだ。唐揚げにすれば、食べられるだろうと、釣り場にいた本島からの人間の助言もあって、そうしてくれと頼んだ。そのシマダイの唐揚げが出てきたのは夜のことである。皆美味いとおどろいた。骨が多くあることと、身が少ないことが欠点であったが、白身の美味い魚であった。
朝が早かったので、午前中は寝た。はっと起きたときには、12時丁度であった。私は、午後から海に行く人間の輸送を12時に任されていた。起きるや否や、すぐに海に行く人を集めて、行動を開始した。
皆赤崎で泳いだ。赤崎には砂浜はない。岩場であり、そのため海中が楽園と化している。
飛び込み台であるが、意外と飛び込めない人がいる。私は飛び込めたので、皆に飛び込んでみろと無理強いをした。少し意地悪な人間である。
後輩の女子に跳んで見せろといったら、すぐに飛び込んだ。女性ができないよとかなんとかいって、もじもじするのと見て楽しもうと思ったら、意表を付かれた。私は単にすばらしいと思ったが、飛び込めない男子にとってみたら、大変なプレッシャーになったようだ。私はそのことを挙げて、女子でも飛べたんだから、何故貴様が飛べぬといじめた。
売店でカレーを食った。少し高かったが、美味い。今回の旅行を通じて得た感想は、飯が美味いということである。疲労のためとも思えない。父はあしたばの不味いということを言ったが、それほどでもなかった。
民宿とは思えない美味さであった。昼食も、いくらかの店に入って食べてみたが、どれも美味かった。特に一番美味かったのは、波止場の近くにある、よっちゃーれセンターという場所で食った、漬け丼である。これほど美味なものはなかった。
海で遊んだ後は、途中にある温泉に入った。ここは露天風呂があり、水着で入ることとなっている。露天風呂は混浴である。内風呂は通常の温泉と同じである。
後で話したところ、先輩の持論では、海では入るときも女性は、カーディガンや何かを羽織っていて、なかなか肌を見せない。しかし、銭湯になると何故か気を許してビキニになる。これは不公平であるとのことであった。だからたくさんビキニ姿が見れましたよと自慢した。
問題なのは、この風呂の水である。なんだか海の匂いがするなと不思議に思っていると、仲間の一人がしょっぱいといった。なめてみると、本当にしょっぱかった。銭湯だろとおどろいた。内風呂もどうかというと、やはりしょっぱかった。わけが分らない。
後でカウンターのあたりの掲示板を見ると、温泉であることは温泉なのだが、その温度が熱すぎるために、海水を入れて冷ましているという。何故海水で冷ますのだばか者と思った。
内風呂のほうが濃度が高く、2割の海水がはいっているのだという。これでは海にはいっているのか風呂に入っているのか分らない。
露天風呂では、展望風呂というものがあった。高台に設置されていて、あたりが眺望できる。ただし、こじんまりしていて、屋根も付いているため、どうにもカップルが寄り付きやすいようである。それで私たちは、大挙してそこを占領しにいこうぜということになった。大勢の学生が、いやあ眺めがいいな、とかきれいですね、とか言いながらがやがや入っていった。アベックが逃げましたぜとかいっている。ここもしょっぱかった。
夏の夜といえば、肝試しはもうやったので、残るは花火である。合宿係が旅行会社に頼んで花火を買ってもらったらしい。一日目にもやったのであるが、何十人もいるこの集団でも全く使いきれなかったほどの量である。
戦時中の火薬の輸送かと思われるほどの花火である。打ち上げ花火も多数あり、私がこれを点火する役を承った。
二時間近く、打ち上げ続けてやっと終わるくらいの量があった。それでもまだ、手持ちの花火がなくならない。終いには一人何十本も持って一気につけた。
特に線香花火をいっぺんにやることほど美しくないものはない。火薬が一つの大きなだまとなって、ちっともパチパチそとへ飛び出さない。はかなさもないのだから酷いものである。
飲み会は深夜遅くまで続いた。私は無理をしたくない人間であるから一時過ぎに寝た。さすがに旅行も三日目となり、疲労困憊になってきているので、徹夜組みも4時ごろには寝たらしい。

四日目
四日目は、朝すぐに出航となる。民宿には、いままで泊まった団体の寄せ書きが並べてある。色々な大学の色々の部が遊びに来ているのだ。我が大学のものもあった。一体何年前に来たのであろうか。少なくとも四年以上前であることは、四年生の先輩が知らないことでわかった。かつて若かった人間もまた歳をとり、今の我々もまたいずれ歳をとる。時間の流れというものを感じた旅であった。
そうして私たちもまた寄せ書きを書いた。
赤崎が 飛び込む姿 眺むれば 若気心地の 愉しさを知る
皆横書きのなか、私だけ和歌を縦書きで書いた。面白がられた。
船が東京に着いたのは5時半ごろであった。その間、他の仲間は殆どが寝むっていた。私はそれを面白がって写真にとった。私はきちんと休んでいたのであまり船のなかで眠るには至らなかったのである。本を読んでいた。
東京は浜松、夜はオフィスビルのなかで夕食を食べた。どうやら長かった旅も終わったらしい。今回は珍しく、大きな事故も、けが人も出なかった。それではそろそろ筆を置くことにしよう。

連載、旅行記「神津島にて」 石野幽玄 -3-

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二日目
二日目となると、私の定位置はすでにドライバーとなっていた。別に私はそれを望んでいたし、運転も楽しければ、皆を乗せて往復するのも楽しかった。
そこに縛られていたといえばそうなるかも知れない。海で泳ぐことをあまりしない人々は、それぞれ自由な行動が出来た。もし次回行くことがあれば、そちらのグループで活動をしてみたいとも思う。
海があまり好きでない人は、島の郷土資料館へ勉強に行ったり、神社の参拝をしたり、天上山のトレッキングをしていたらしい。後ほど、皆に話を聞いて回った。
二日目は早朝に起きることから始まった。一日目の夜は、皆体力のまだ有り余っているところであろうから、大宴会が続いていたらしい。私は明朝の釣りを約束していたので、すぐに布団に入っていた。釣りを約束していた先輩が、本来の自分の場所がすでに他人で埋まっていたために、仕方なく私の部屋へ来ていた。一度私は寝ぼけ様に、隣の人物が、私のルームメイトではないということを、感覚的に覚えて確認しようとした。しかし暗がりのなか、意識もはっきりしていなかったので、確認しようというところまではよかったが、結局誰かわからずにもう一度寝た。そうして朝の五時、その先輩の携帯が何度も鳴った。
そうして起きると、そこで隣に居たのが先輩であることに気がついたのである。他に釣りにいく連中を誘い、私たちは初めに舟が着いた波止場まで行った。
私は釣りが初めてである。東京に住んでいると、釣りという機会は殆どない。それに父は釣りを趣味とする人間ではなかった。であるから、20年近く生きてきて、私は釣りをしたことが今まで一度も無かったのである。
経験者が少ない。であるから、波止場に着いたはいいものの、準備までに何十分もかかるという始末である。既に波止場には、島の住民たちがつりをしに着ていた。
私たちは現代の若者に代表されるような、一種の倦怠に似た感情を持っているのかも知れない。それらの島民たちとあまり交わりたくないという消極的な感情があった。だから、皆がやっているところからはなれた場所で釣りをした。それが一つの不漁の原因かも知れないが、その日自体があまり好ましくない日だったのだろうと私は思っている。その日は全くつれなかった。一匹もである。宿に帰って他の仲間に島に来て坊主というのは初めてのことだと馬鹿にされた。
ともかく右も左も分らないままに、何とか釣り糸をたらしてみるというところまでは行った。疑似餌というのもよくなかったかも知れない。私は先ほどの先輩に釣り道具を借りていいたのだが、これは網のなかにエサを入れてばら撒いて、その上にいくつも針があるというものであった。魚の影さえ見えなかった。
こんなものだろうかと、少し不愉快になっていたところで、島民の一人が私に話しかけてきた。場所が悪いのだと思って波止場の先、他の釣りをしている人々に近すぎたのである。
既に還暦を迎えているオヤジであるが、自然の中で育ってきたためか、人間的に荒々しさがある。色はたいそう黒く、皺がきざまれている。それで居て目は光っているように見えて、口には不気味な笑みをこぼしている。世を捨てたという感じがある。
対して私は都会育ちの、神経の弱い男である。全く相容れない性格だろう。
この老人が、滑舌が悪いため殆ど聞き取れないのであるが、内容を要約するところによると、そんなことは馬鹿のやることだ、そんなんじゃ意味がない、意味がないのをやるのは馬鹿しかいないというようなことを頻りに私にぶちまけてきた。
馬鹿という単語しかはっきりと聞き取れないが、私はそれ以外を聞き取ろうともしなかった。大変腹が立った。朝から不快な感情が私の腹を満たした。
だからこういう人間と関わるのは嫌いなのである。確かに釣りだけで見れば、その老人のほうが、よっぽど経験もあるだろうし、私たちの行動が馬鹿に見えてもおかしくないだろう。それは分る。しかし、だからといって、人を馬鹿にしてよいのかということになると、それは違うだろう。そんなことを許すのならば、私は即座に攻撃に転化して、その老人の文化的素養、芸術的素養のないことを大変愚劣なまでに罵倒するだろう。
こうした老人というのは、もはや仕方がない。凝り固まった頭の持ち主で、しかもこうした自然のなかで生き抜いてきた男である。考え方も短絡的だろう。その一つをもって人を馬鹿呼ばわりするのは、それ自体が己の馬鹿を露呈している。そう解釈して私は黙っていた。その黙っていたのが彼の攻撃を延々と続けさせた原因かも知れないが、しかし、ずっと無視していると、やがてその老人は去っていった。
ともかく一匹も釣れなかった。
島民の人間性について少し見てみたい。東京都とは名ばかりで、カテゴライズされた島民も可哀想だろうと思いながら、この辺境の地で、彼らは生きてきたのである。この島には高校までは一応あるらしいが、しかし、ここで学べることといえば、一体どれほど東京の社会で役に立つものであろうか。
島全体が山になっているため、傾斜がある。宿へ登るのも大変なことである。その宿からさらに上に行くと、おもちゃやさんがある。昨日の昼に車で通ったときに発見したものであった。私はそのとき、大きなバンでその細い民家の間の道へ迷い込んでしまったため、車をぶつけないか戦々恐々としていた。
ともかく、そのおもちゃやに大挙して遊びにいった。後で宿に帰って、OBに聞くと、この島の名物であるらしい。そんなことは知らずに、おもちゃやに入った。
先ず目に付いたのが、お菓子類である。梅のお菓子であったが、どうも私が認識しているものと比べていろが黒い。不思議に思って賞味期限を見てみると、やはり一年以上切れていた。こうしたものを商品として出してはいけないだろう。それをもし誰かが買おうとすれば、店主のおばあさんはなんの確認もなしに売ることだろう。これは危険だ。
店に入るや否や、すぐに奥からおばあさんが出て来た。このおばあさんも色が黒く、精神が自然にもまれて出来ているため豪傑というような感じである。
どこから来たの、高校生?、宿はどこ、質問の嵐である。と思えば、今度は自分ひとりではなしている。私は普段話術の得意な人間として他人に認知されているほどの人物であるが、全くこのおばあさんのペースには着いていくことが出来ない。
私いま80よ。同級生は天皇陛下。だって歳が同じだからさと、聞いてもいないのに弾丸トークでまくしあげる。80と聞いて流石に驚いたが、まったくそれを感じさせないほどの頭の回転のはやさである。
私たちは45人でおもちゃやの見学に来ていたのであるが、一人の先輩がつかまって、先ほどした質問をもう一度、あんた高校生、ときた。いやだから大学生とこちらも少し妬きが回っている。
あんた白いね、大学生ならもっとしっかりしなくちゃ、それじゃ高校生だよ、と独自の理論を展開なさって、先輩を責めている。と思えば、来年はこの店もうないよ、もう店をやる気がなくなっちゃったといきなり悲しい宣告をされた。もう疲れちゃったもんというのが原因らしい。確かにこれだけの品物をそろえて、それを管理していくのはなかなか面倒くさいことであろう。80歳の人には荷が重過ぎる。
80歳という、私たち4人を合わせて何とか辿り着く時間を感じ、店の荒廃を見、来年にはもうないという訃報をきき、さすがに私たちも悲しくなった。このおばあさんは、80年間もこの島で過ごしてきたのであろう。何の娯楽施設もない、テレビをみたって、政治のことやら芸能のことなど全く実感として分らないだろう。新宿、渋谷、原宿と東京の都会を見たことがあるだろうか。上野にはさまざまな美術館がある。それらとは何の関わりを持たない人生。島の自然と、住人全員を覚えられるほどの人間との付き合い、一年に何度かくる観光客。私には耐えられぬ。
宿に帰り、この島を以前にも訪れたことのあるOBさんにこの話をした。止めると聞いて、大変悲しがっていた。さて、そこでルームメイトの一人が帰ってきた。おもちゃやにいってトミカを買ってきたらしい。あのおもちゃやで大丈夫かと私は漠然とした不安に襲われた。そうして彼がトミカを空けると、中は空であった。
トミカがディスプレイで並べてあるのを私は見た。しかし、プレートと飾られている車がまったく異なっていた。私は車が昔から好きであったから、この無茶苦茶ぶりに大分心痛めた。おばあさんいわく、私は車は全くわからないから適当に入れているということだそうだ。
そうして私の友人は殻のトミカ箱を3百50円で買ってきた。もとからそういうおっちょこちょいなところのある友人であったが、いくらなんでも空を見抜けないとはということになった。バイクを買ったのが悪かった。トミカのバイクは比較的軽い。それに惑わされて空を持ってきてしまった。しかし、そのおばあさんとの別れ方が非常にあっさりしていたらしい。また島に来ますとかなんとか言ってわかれたそうであるから、今更中身がなかったといいに行くのも辛いらしかった。終生かれのお笑いの一つとなるだろう。それにトミカの箱はそれだけの小さな置物になるという利点がある。
どうにも風土としかいいようがない。島の自然に囲まれて時間的に制約を受けず、細かいことを気にするような人物も生まれない。東京の都会が、細やかで繊細であるとすれば、こちらは太く豪快というところだろうか。そんなことを思ってみた。
夜は学生の本分であろうか、もちろん肝試しである。私は生まれてこのかたこうした肝試しというものをやったことがなかった。小学生のときに、ぞろぞろと一列になって行動するというようなものはあったが、二人きりで行うというのは初めてである。しかも、男女ペアになる。これが本当の肝試しというものかと私は思った。私とペアになった女性も始めてだといった。結構島の夜は暗いものである。東京の夜になれている私たちにとっては、本格的に暗く、そうして静まった島というのは、意外と怖いものである。森を抜けろという命令であったので、真っ暗闇をライト一つで歩くのは、なかなか面白かった。
おばけが出るのだろうかと予想していたが、おばけはないらしい。途中の神社で写真を撮られてそのまま帰ってきた。

連載、旅行記「神津島にて」 石野幽玄 -2-

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一日目
二等客室の薄暗い中で、私は何時の間にか眠りについていた。瞬光、私が日のまぶしさに目を覚まされたのは、日の出のことであった。しかし、この直接の私を起こした光は、艦内の蛍光灯が一斉に点灯されたことである。
船上から拝む日光というのはどういうものだろうかと楽しみにしていたために、それを逃したのは、残念なことであった。
甲板に出てみると、船の進行方向には島が見えた。その島は、私が降りるでき島ではなかったので、荷を降ろす準備をする必要もなく、ただ船が島の波止場へ吸い寄せられていくのを見つめていた。そういえば、どのようにして船を止めるのだろうと思っていると、今の船はよく出来ているもので、丁度船頭を軸にして、それまで島へつっこもうとしていた体勢から、にわかに大回転をしてみせたのである。船の尻をぐるっと前へふるようであった。そうして180度回倒して、静かに波止場に寄せ付ける。船を待っていた島の住民が、一斉にロープを引っ掛けたり、タラップを押し付けたりしている。慣れたものである。荷物をクレーンで引き下ろしたり、小さな荷物は手で投げたりしている。それを見ていて、もし船と波止場の間に荷物が落ちたらどうするのだろうなんて不吉なことを考えてみた。
用が済んでしまうと、島民はすぐに引き上げてしまった。特になんという感情もないのだろう。私はそれを見ていた。船もそのまま何事も無かったかのように航海を続けた。
それからしばらく、私はまた眠った。はっとして、心地よい眠気から醒めると、船内のアナウンスが、我々の目的の島へ着いたことを知らせた。私と仲間は荷をつくり、タラップの掛けられる部分の前へ並んだ。これだけの辺境の地というのに、乗客数は多かった。皆、私たちのような若者ばかりである。観光にきたのであろう。舟が移動しているのが、振動によって伝わる。また転換をやっているのであろうと予測しながら、上陸の時を待った。
神津島は、神のおはします島にて、神聖なる島である。なるほど、これだけの辺境の地にあって、かつて火山であった山があり、島全体が岩で出来ている。日本特有の自然の美がある。これをして外人であれば、だたの岩の多い島と考えるであろうが、神の多くおはする日本にとっては、その雄大さが神的な力を所有するように考えられたのであろう。
海岸に突き出すようにして屹立と存在している岩山は、一種近寄りがたい感じもある。大分黒に近い灰色であり、とても人が登れるような優しいものではない。海にけづられたという感じが全くしない、ごつごつとした岩である。これをアジア的な植物が覆っている。松のような、これも西洋的な上に伸びるような木ではなく、平べったくはえるものである。色彩も西洋より墨を多く足したように、黒に近い色だろう。
島の形は拳を握り締めたときのような、力強い格好をしている。元々火山の噴火によって出来た島であろうから、島の中央に火山がそびえ立っている。実によく均衡のとれた形である。
舟が島に着いたのは、朝である。私は期を逸したために、朝食をとらず仕舞いだった。別段舟に酔ったということもなかったが、かといって腹もすかなかった。
大挙して宿に向かった。宿といっても、もちろん学生の集団であるから、民宿である。茶と、神津島特産のあしたばのクッキーを食わされた。あしたばとは、今日摘み取っても、明日には葉が出ていると言わしめるほどの、旺盛な発育力をもつ植物である。
私の父は、余談ながらどうにも生命力の強すぎる植物が嫌いであった。一つには彼の生命力があまり強靭ではないということもあるだろう。また、そうした強すぎる生命は、マイナスに捉えれば、意地汚い地を這ってでも生き抜くという限界の様子を呈している。そういうことが要因かも知れない。ともかく、父はオシロイバナを嫌うような人であった。私の神津島に行くのを聞いて、あそこではなんでもかんでもあしたばが出るぞと教えてくれた。そうして、あしたばは何にでも形を変えて、てんぷら、煮物、漬物等々で出てくるが、別に美味いというわけでもないと言った。果たして父のいうことは現実となった。島に到着して一時間と立たぬうちにあしたばのクッキーでもてなされた。
車で移動して、海岸は沢尻で遊ぶこととなった。レンタカーを借りて、それを私が運転した。大分運転になれてきたこともあって、運転は苦にならなかった。それどころか、普段とはことなった場所を走り、大勢の仲間を乗せて走ることも新鮮であった。なおかつ、運転が楽しくてやっているのに、皆に感謝されることも大変嬉しかった。一石二鳥である。
沢尻、この海岸は、丁度陸地がへこんでいて、小さな湾といえるようになっている。右方には大きな岩山がそびえたち、木々が緑に染めている。この海岸を望むように廃墟のホテルが蒼然と建っている。砂浜に立つと、海とこのホテルに挟まれる格好になる。
お化け屋敷としても使えるような面持ちがあり、元来白かったであろう壁が、潮風にさらされて、灰色になっている。水と地球の重力によって、おりなされた、上から下へ流れるようについた模様は、それ自体が時間の流れや、人が見捨てた悲しさ、ホラー的要素が詰まっていた。
沢尻の海は、山の川の水が流れ込んでいるため、海水は必然、外の海からの水と川の水とが混ざることになる。一寸信じられないようなことではあるが、水という溶液が混じりあわないということが、どうにも現実としてあるらしい。海面を見て一目瞭然で分ることもある。色の全くことなる部分が、線を引くようにして分かれているのを、誰もが見たことがあるだろう。この沢尻の海では、そのように見た目で分るということはないが、海中を泳いでいると、突然海水のかなり冷たいのに包まれる。
塩分の濃度が違うということが、あまり混じりあわなくするのかも知れない。熱いうちにはその急激な冷たさも心地よいが、夕刻となり、空気が肌寒く感じる頃には、全く好ましいものではない。
沢尻に居たのは日の最も高い時間帯であったから、その冷たさは気持ちがよかった。バッグに入れていたお茶が、直射日光を受けたことによって、まるで淹れたてのお茶のような熱さになっていることには驚かされた。皆こぞって川の中にペットボトルを入れた。
海は綺麗であった。人が汚すという人工的な汚さも無く、自然が自然として美しかった。
ただ、後に行く赤崎という場所の彩色美しいのとは異なり、写真でいえば、カラーとモノクロの差のようにものが、海中の生物にも表れているようであった。つまり、ほとんど単色といっていいような風景が広がっていたのである。岩も黒、魚も銀色のものが多かった。
ここでは小さな魚が居た。色もあまり多くはない。我々は砂浜もあると言うこともあり、海に体を慣らすという目的もあり、ここに幾ばくかの時間を割いた。
その後の赤碕で、私は真に驚かされた。
色煌くこと甚だしい。沢尻から車でたったの十数分先のところとは思えない。それほど美しかった。
極彩色という言葉を具現化したような世界が、そこには広まっている。赤、青、緑、黄、その他無数の色がひしめき合っている。もちろんそれはよく見れば一つ一つの小さな生命である。珊瑚というものは何千、何万の種類があると聞く。一見するとそれが珊瑚なのかどうかよく見分けがつかない。7色に岩の表面を覆い尽くすしているそれは、何かしら、珊瑚の仲間であろうということが分る。その珊瑚を住処として、これまた色とりどりの魚が集まっている。己の体を珊瑚に合わせて、身を守る家に集まってくる。ここには、そうした極彩色の魚の敵となるものはなく、熱帯魚の楽園が広がっていた。
我々は赤崎で、そうした豊かな自然の織成す美しいハーモニーを眺めることができ、他に飛び込み台のあることで、また別の楽しみを味わった。よく印象のあるのが、田舎の海や川に少年少女たちが飛び込んでいる姿である。瀬戸内海の島々で、橋の上から小学生や中学生が肌を真っ黒にして飛び込んでいる。そんなイメージがある。
ここにはいくつかの飛び込み台があった。少しずつ難易度の低いものも用意されている。ただ、最も高いものもそんなに恐ろしいものではなく、殆どの人がそれから飛び降りているものであった。それで飽き足らぬ人は、橋の上から飛び降りたり、或いは私が見た最たるものは、それら飛び込み台の高さから何倍も上にある、展望台の柵を越えて、水中に飛び込むものである。これは誇張なしに、10メートル以上はあったであろう。
通常の飛び込み台は、2メートルあるかないかというくらいである。
他団体の若者がいた。いかにも女性目当てのたびの旅行者で、若々しいととこが6、7人のフループであった。彼らは、自分たちの格好をよく見せようとするためか、あるいはただの怖いもの知らずか、愚かものか、橋の上に全員が並んで一斉に飛び込み、他の観光客の目を奪った。自由勝手なことをしている。
中でも三人の猛者たちは、先ほど述べた展望台の、建物で言えば4階くらいの高さから飛び降りた。さすがにここまでくると、単なる若気の至りということよりかは、少しの尊敬の念も出てくるというものである。
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