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マンガ「変人偏屈列伝」への試論 感想とレビュー 飽くなき人間賛歌

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-初めに-
仮にも「偏屈文化人」を名乗る私が、「変人偏屈列伝」を評しないでどうするのか、ということで今回は漫画を論じます。
荒木飛呂彦と鬼窪浩久の共同制作による日本の青年向け漫画作品。私は集英社文庫(コミック版)を読みました。このコミック版は2012年4月に刊行されました。
あまり漫画に明るいほうではない私ですが、荒木飛呂彦と聞けばジョジョの奇妙な冒険で有名ですね。いつかこれも読破してみたいと思いながら、あまりに膨大なのでどこから読んで良いのか一寸わかりません。だれか全巻貸してくれ。

-なぜ偏屈文化人なのか-
本書の設けられているハードルは3つ。
一、変人偏屈な人は、その行為が人々に「希望」と「安心」を与える魅力がなくてはならない。(たとえば犯罪者だとかはダメである)
二、変人偏屈な人は、その行為を一生やり続けていなくてはならない(一時の目立とう精神や、人生の途中でやめた人は本物ではなくニセ奇人なので、尊敬に値しない)。つまり彼(彼女)たちは自然体なのだ。
三、変人偏屈な人は、敵に勝利している。(勝利にはいろいろな解釈があるけれど、とにかく敵に勝っている事)

さて、人という根本的な問題を考えたときに、一体何が人を人たらしめているのかという問題が浮かびます。
よく若者が使うことばに「ふつう」というものがありますが、一体なにが普通なのでしょうか。普通の人間とはどういうことを言うのでしょう。通常平均を求める際には、両極端に位置する極端なことを見つめて、そこから真ん中を求めようとします。初めからここらへんが真ん中だろうと探してもだめなのです。
普通な人を知るためには普通でない人を知る必要があります。この作品はまさしくそうした人間を探る上でのすばらしい資料になるでしょう。ただ、作者も言っている通り、単なる奇人を集めればよいということではない。それらは何か精神的におかしい人であったり、意識して行っているということもありえるからです。
さらに、犯罪者ではいけない。いくらおかしいからといって、悪いことをしたらだめなのです。極めつけは、勝利。
この三点を見ると、作者の意図したところが見えてきます。この作品は変人偏屈を扱っていながら、非常に人間に対してあたたかい眼差しを持っているのです。漫画のタッチもはっきりいって、グロテスクだし怖いです。描かれている人物も狂っているのではと思われるところがしばしばある。そういう人物を描くことによって、それとは反対の境地を照らし出しているのだろうと私は思います。
それが宣言文にも如実に表れているのです。宣言文が付いている漫画というのは実に珍しいものです。普通であれば付かない。そこには漫画家の心情が絵ではなく、あえて言葉という形を取って、表現されているのです。これは、作者があらかじめこういう風に作品を解釈してくれということでもあると思います。内容だけを読めば、どうして変人偏屈な人を描くに至ったか、その条件はといったことがかかれていますが、それがないと一体なにがなんのことだか我々一般人にはわからないということがあるのでしょう。
いきない何の説明なしに、変人偏屈な人の人生を通じての奇行を見せ付けられても、私たちにはよくわからない。わからないどころか、嫌悪感を抱くひともあるかも知れません。
序文はそうした一般読者を導くための目印となっているのです。これからどのような人間に対するアプローチをかけるのかという設定を解説しているのです。

-それぞれの変人偏屈-
描かれる人物は、
タイ・カッブ
康芳夫
メアリー・マロン
サラ・パーディ・ウィンチェスター
ホーマー&ラングレー・コリヤー
ニコラ・テスラ

タイ・カッブ、私はあまりにスポーツ系に弱いので、全くわからないのですが、野球が好きなひとであれば知っているのだろうと思います。彼は勝利に固執し続けた人物として描かれています。勝利、人間の本能の欲求です。勝利というのは、恐らく自分の子孫を残すために、ほかのオスに勝ってメスを手に入れるための本能なのではないでしょうか。そういう点で、彼は本能的で野生的だと考えることも出来ます。
ただ、こういう勝負の世界では、確かに勝利に固執することも大切だと思いますが、負ける人間がいるということを考えなければならないと私は思うのです。このあいだのオリンピック、審判の不祥事など異例なことがかなりありましたが、それによって翻弄されるのはスポーツ選手です。勝ったと思った瞬間に今の判定は無効というようなことが起これば、勝利が何であるのかよくわからなくなってしまいます。勝利は人に左右されるようではだめなのかも知れません。人生の勝利者とは一体どういうことをさすのでしょうか。自分に打ち勝つということでしょうか。

康芳夫、あのオリバー君をしかけた張本人です。80年代に生きていた人はご存知ではないでしょうか。私は80年代という日本のゴールデンエイジに対して常に興味を持っています。アニメも80年代が最もすばらしい時期だと考えられますし、あらゆるメディア関係が今の基礎となるようなものが完成した時期だと思っています。戦争が終わり、もはや戦後ではないと言わしめるまでの経済発展を急速に成し遂げました。それは確かに立派でしたが、その反面経済、合理化により、人間としての価値が不明になった時期でもあると思います。そのため、宗教が流行ったり、終末思想があったり、オカルトな方面、神秘的な部分が表れたのでしょう。
それを目の当たりにしたのが康芳夫。彼は、それを商売に出来ないかと、興行師としての彼が生まれたのです。
幻想を売ることによって、ビジネスをしたのです。当時の日本人はそれに見事に食いついた。奇妙な時代です。一過性の夢を追い続けたのだろうと思います。不安でしょうがなかったため、その気持ちを過激的なもので一時的に抑え込もうとしていたのではないでしょうか。

メアリー・マロン。私はこの作品のなかで最もグロテスクな人物が彼女なのではないだろうかと感じました。彼女は腸チフスを体内に所持しているものの、自分は発症しないという稀有な体質の持ち主。しかし彼女が触れたものには腸チフスが付着します。彼女はメイドとしてさまざまな家で働くのですが、当然働き先では大勢の人が腸チフスとなって死ぬ。余談ですが、夏目漱石の「こころ」の「先生」の両親は腸チフスで亡くなっています。昔まで死病だったのです。今では技術の発展により生存率が大幅に上がっているようです。
彼女は言わば、全く罪がないけれども、存在自体が他人にとっては危険だというものです。神が与えた罰なのでしょうか。当時の医者は腸チフスの菌が溜まるとされている臓器を手術で取り出そうとしたそうです。そうすれば彼女も腸チフスではなくなって普通に生活できる。しかし彼女はそれを拒むのです。これにはもちろん彼女自身は全く悪くないのですから、勝手に手術される筋合いはないということなのでしょう。大衆を優先するのか、それとも個人の権利を尊重するのかという問題です。しかも本来その個人には何の罪もないのに、存在するだけで他人を傷つけてしまう。多くこうした人物は歴史の中で抹殺されてきたことでしょう。彼女は生涯を孤独で貫いて、個人の権利を守ったと考えることもできます。

サラ・パーディ・ウィンチェスターは、以前8時代の番組の何かで取り上げられたのを記憶しているので、皆さんもご存知かも知れませんが、あの生涯家を増築し続けた女性です。武器が好きな人であれば、ウィンチェスター銃というのはあまりに有名なのではないでしょうか、彼女の夫はそのウィンチェスター銃を製造した一家の党首。しかしこのウィンチェスター銃によって、大量になくなった人達の亡霊に取り付かれて一家は次々に死んでいきます。
このサラさんは、ウィンチェスター家の夫と結婚してしまったばっかりにということで、全く本人には罪はありません。しかし亡霊はそんなことを許さない。ウィンチェスター家の血が滅びるまで呪い続けるでしょう。彼女はその呪いから人生を通じて逃げおおせたのです。それは人間にとって、呪いに打ち勝つという勝利でもあります。

ホーマー&ラングレー・コリヤー。人は時として引きこもります。この引きこもるということ、私は心が繊細な人が自分の心を守るために行う自己防衛の一つだと思っているのですが、この兄弟は、一般のそれとの比ではありません。
人生の後半の全てを自宅のなかですごしたそうです。弟のほうは買出しに行ったりしたそうですが。それから家に数々のトラップを仕掛けること。これも不思議な心理です。外国では以外と自分が家にかけておいたトラップによって死亡するという事故が多いそうですよ。なぜそうまでしてトラップを自宅にかけなければならないのでしょうか。他人は絶対的な悪者であるという脅迫観念があることは間違いありませんが、それが一体どうしてその人物に生まれたのかということが問題になるのではないでしょうか。
結局弟も自分の罠にかかって死亡。体を動かすことのできなくなっていた兄は、弟が死んだことによって餓死します。あまりに自己を守りすぎようとすると、結局は崩壊するということなのでしょうか。

ニコラ・テスラ。この人は割りと有名ですよね。エジソンと並立した天才科学者。しかし、エジソンとの不和や、天才的奇行のために、生涯はけっして幸福といわれるものではなかったようです。今の科学力をもってしても完全に理解することが出来ないといわれる彼の発明の数々。そのエネルギーは確かに、あまりに人間として不完全だったために生じたものだとも考えられます。一般論ですが、何かを創造するには人間的に不完全でなければできないのではないでしょうか。芸術家を見てみると、かなり精神的には危ないですし、幸福な人生かときかれればそうではないという人は多いでしょう。私の大好きな夏目漱石も、その子どもが語ったところによれば、一体いつ怒るか分らないのでいつも警戒していたと言わしめています。人間としてのぶれが、何かそうした創造的なエネルギーを生み出す根源となっているように私には感じられるのです。
彼もまた、あまりに人間としてぶれがあったために、偉大な功績を残したのではないでしょうか。人間として完成し、幸福に平々凡々と生きていくのと、人間として不完全で、幸福とはいえないながらも、偉大な功績を残すのと、どちらがよいかなんて決められません。完全に後者の生き方をした人間を見つめることによって、何かしらの試論が生まれるのではないでしょうか。

-終わりに-
概していえば、これは人間賛歌です。決して人には理解できなくとも、幸福な人生とは思われなくとも、人間としての性(サガ)を通した生き方をした6人の人物。このいわば人生の極端な例を考えることによって、私たちはそれぞれ思うところがあるのです。人生はその人にとって一回限りというのが、この世の定め。本来であれば、輪廻転生の以前の記憶も持ち合わせて、より高度な人生を歩みたいですし、もっと長く生きることによって、他人の人生を理解する時間、機会があってもよいようなもの。私たちに与えられた人生は実に短く、しかもたったの一回限り。それをどうやって全うするのかという問題になってくると思います。ですから、この作品には、それを考える手助けとなるものが隠されているのです。それは人によって、異なる意味を持つでしょうから一概には言えません。人間として生まれたからには、自分の人生を考えるという偉大な機会が与えられるのです。考えること、それが重要だと私は思います。
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マンガ「宇宙兄弟」への試論 感想とレビュー 何故売れるのか考察する

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-はじめに-
「宇宙兄弟」は小山宙哉による日本の漫画作品。
講談社の漫画雑誌「モーニング」にて2008年1号から連載中。

小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワから採取、帰還したのは2010年6月13日である。この出来事に日本は空前絶後のはやぶさブームが巻き起こった。連日、報道では「はやぶさ」の数々の困難や、そこから何とか復旧し無事帰還したことを伝えた。だれもが成しえなかったことを、日本の宇宙科学研究所が成功させたことを皆が誇りと感じたのはつい最近のことである。はやぶさ/HAYABUSA - 2011年公開・はやぶさ 遥かなる帰還 - 2012年公開・おかえり、はやぶさ - 2012年公開と、同じことを題材にした映画が3本も連続して製作されたことからも、その人気ぶりが伺える。
宇宙へ対する日本人の興味はそのままでは終わらなかった。池井戸潤の「下町ロケット」が第145回直木賞を受賞した。これは宇宙へ対する感心が高まっていたこともあると考えられる。そうして大衆文学へも宇宙の魅力は浸透してきた。2011年8月にはテレビドラマ化、2012年3月TBSラジオにてラジオドラマ化され放送された。
2008年から連載されていた「宇宙兄弟」であるが、この未曾有の宇宙ブームの影響を受けて、その作品が脚光を浴びることとなった。そして、その作品の物語が大変うけたのである。

-宇宙兄弟への共感-
ここでは何故うけたのかを考察する。先ず指摘しておきたいのが、現在のことではないということである。近未来を舞台にしている。これは一種SFの典型的な話型であり、近未来だからこそこんなことがあってもいいよねと皆納得できるのである。私は科学分野に広くない人間であるが、理系の人間にとっても、恐らく近未来であれば実現してもいいだろうと納得できるような技術等があるのではないだろうか。
そうして、物語展開であるが、最近人気がある型、主人公が何か専門的なことに一生懸命専念して、様々な困難があってもそれにめげずにクリアしていくというものである。これは池井戸潤の「下町ロケット」と同じ話型と言える。主人公の南波 六太という男が宇宙飛行士という極めて異例で、極めて極端な職業を目指すというもの珍しさがあった。

この宇宙飛行士というテーマであるが、これは一般論で言って少年ならば誰もが一度は夢見る職業である。そのことは作品の中でも言及されているが、まさしくヒーローというものの実例であると考えられる。映画「アルマゲドン」を見た人であれば、ヒーロー像はますます強まったことであろう。しかし、実際に多くの人間が一度はなりたいと思いながら、宇宙飛行士へなるための課程などは殆どの人間が知らないところである。ここに着眼して描かれているから、かつて夢見た宇宙飛行士になるということを、他人がその試練を受けるのを見て共感することができるのである。
共感ということについてだが、テーマ自体にも既に共感させる部分があるということを今説明した。しかし、より共感度が強いところは、やはり南波 六太という男の像である。一般論であるが、兄弟がある人間ならば必ず兄弟に対してコンプレックスがあるということは自明の理ではないだろうか。兄にしても弟にしても、自分のもっていないものをどこかしら兄弟のうちに感じているのである。一人っ子の場合は親との間にそういう感情が生まれるかも知れない。
私が言いたいところは、この兄弟に対してコンプレックスを抱いているという男の像である。そうしてしかも、兄でありながら、非常に強いコンプレックスを弟に対して持っているという部分が今までの漫画になく、新鮮でなおかつ共感できる部分なのである。

兄(姉)がエリートで、弟(妹)の私が引け目を感じているという物語はよくある。だからこそ、それとは全く正反対の立ち居地に居る物語を読んで私たちは新鮮味を感じ、更なる共感、自己投影をするのである。
ここまでは人間関係においての共感を論じた。今度はその人物像である。南波 六太という男は今まで漫画の主役になったことのないような男である。弟が宇宙飛行士として活躍するなか、自分は特にこれといった特技もなく、会社も首になるしと、ちっともうだつのあがらない人物である。しばしば、漫画には六太の心情が現れるが、これらの多くはどちらかというとコンプレックスだったり、マイナスな物が多い。このあまりにもマイナス志向な部分に読者は、どうしてそんなに落ち込むんだよ、もっと頑張れよと応援してみたくなったり、どうしてそう考えちゃうんだよ、俺ならこうするぞと対話することが出来るのである。
漫画の主人公というものは今まで我々一般人が介入できることのない強靭な肉体、精神、能力、意志等をもった人物であった。時には悩んだりするものの、その悩みでさえ自分で解決してしまうほどの強さを持っているのが常であった。この六太はそれとは対極の位置にいる人物である。普通の漫画ならば、弟の南波 日々人が主人公である。つまり、私たちはほぼ初めてといってよいほどに、主人公に共感し、対話をすることが可能となったのである。この魅力が読者を漫画にひきつけて止まないのでないだろうか。

時にはひがみさえ見せてしまう六太であるが、様々な困難に向かい合い、過去の思い出や、弟とのやり取りや、或いは周りの影響を受けてそれらを解決し、より一層高みへと移る。この一つ一つの課題解決に、我々が本当によかったと、すがすがしい感動を覚えるのは、私たちと同じ立場、同じ人間である六太に自己投影しているからに他ならない。
また、登場人物はどれも個性的な面々が多いが、その中でも六太の助けになる数々の中年親父の姿が印象的ある。
宇宙飛行士選抜試験時には、おなじカプセルで共に戦った福田 直人から始まり、JAXAの研究員たちもそれぞれ中年のメンバーが目立つ。物語がさらに進むと、吾妻 滝生の存在が大きい。日々人とのやりとりで次第に南波兄弟に心を開いてくれる吾妻は、少ない日本人宇宙飛行士の最もよき先輩である。彼の寡黙でストイック、しかし時に見せる情の温かみに南波兄弟のみならず、我々も感嘆されてしまうのである。
NASAではブライアン・ジェイ、ジェーソン・バトラー、ビンセント・ボールド等々の強烈な印象を与えた人物たちが南波兄弟を成長させる。特にビンセント・ボールドと六太との関係が最も師弟関係に近く、人生の先輩との対話を我々は目の当たりとすることとなる。

-映画が何故売れなかったか-
ここまで説明した通りの理由で我々が六太に感情移入できるということがわかった。そこで次に何故漫画でヒットしたこの作品が映画でヒットしなかったのかということについて考えてみたい。私は映画を見ていないのでわからない部分が多いのであるが、多くの人間が見に行かなかったということから、つまらないということとは別に何かが存在しているのではと考えて話を進める。
これまで六太と日々人の人間像について話した。そこで映画のキャストと比較してみる。南波 六太=小栗旬、南波 日々人=岡田将生。ここで既に印象にずれがある。我々はどうしようもない人間六太だからこそ、その弱さを共有して愛すことができたのである。ところが小栗旬はどうであろうか。殆どの女性は嬉しがるであろう。しかし、それは実に表面的な部分の感情に過ぎず、このような完璧な男性像は誰も共感できないのである。男ならば、小栗旬に共感が持てるという人間は殆どいないであろう。そうして、弟日々人であるが、岡田将生。彼の印象は私個人の見解で真にそのファンの方には申し訳ないが、自信に満ち溢れているというタイプではないだろう。日々人は意識しないでもやることなすこと全て兄にはナルシストっぽく見えてしまうほど自信に満ち満ちたタイプの人間でなければだめなのである。
だから、六太は大泉 洋のような俳優がよいのである。水曜どうでしょうのようなイメージが強ければ、どうしようもない兄というところに共感を持てた人間は多いはずである。彼がいつもの少し高めの声でひがんでくれればよかったのである。これは完全にキャストを女性の客目当てで起用したためのミスである。
我々はかっこいいヒーローが見たいのではなく、かっこ悪い凡人を見たいのである。

-今後の展開の予想-
物語は主に、課題をこなすということによって進行してきた。だが、そこでは個人の力のみによって成功していくという話はなく、必ずライバルであったり、或いは先輩たちとの交流によって進展するのである。そんななかで、目立つのが、ライバルあるいは先輩たちとの約束である。課題にクリアするとライバルは落とされ、先輩たちは彼等に希望を託す。ここで何かしらの約束が生ずるのである。すでにいくつかの約束が交わされ、果たされている。
この作品のなかでもっとも大きな約束は二つあると考える。一つはもちろん六太と日々人との間での約束である。兄弟二人で月に立つという夢実現である。ブライアン兄弟の話も度々でてくることから、この物語の終末、もっとも重要な場面は兄弟二人で月に立つということであろう。そうしてもう一つは六太とシャロンの約束である。17巻にて、シャロンの方から企画が採用されなかったという連絡があったことにはおどろいたが、すぐに別のプランを考えるという方向になった。六太は恐らくこの約束を果たすということが彼個人での一番大きな使命となるだろう。
この二つを叶えるときに、この物語は終わるであろうと私は予想する。ただし、これだけ人気になってしまうと周りの影響によって、終了させることが難しくなり、続けさせられるということも起こりかねない。
今後注目の期待の作品である。

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幽玄

Author:幽玄

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