ダン カイリー (著), 小此木 啓吾 (翻訳)『 ピーター・パンシンドローム―なぜ、彼らは大人になれないのか』 (祥伝社、1984) 感想とレビュー

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ピーターパン・シンドロームとは、この本の著者であるダン・カイリー博士が考案した、シンドローム、ひとつの症状である。
この本がかかれたのは、1980年代前半。アメリカでは、このような本をカイリー博士がかかなければならないほど、ピーターパンシンドロームの人間が話題となっていたのであろう。ちょうど十年ほど前に、我が国でもひきこもりなどが問題となったような感じなのではないだろうか。
この本を読むとさまざま、おもしろいことに気が付かされる。アメリカにはひきこもりはいないのだろうか。よくある典型的なネットでゲームをやっているゲーマーというのは、日本人よりもアメリカ人のイメージが強いが、そうした典型的な存在と言うのは、アメリカに多数存在するのであろうか。
先日香山リカと五木寛之氏の対談本である『鬱の力』という本を読んだ。五木寛之は鬱というものを、病気のうつとは切り離して、今現在日本はうつの時代であるというようなことを述べている。私もこの意見には賛成なのであるが、たとえばその本のなかでは、日本でも地域によって人間性が違う、どこどこの地方の人間は「これくってけ、こんなうまいもんほかにはないんだから」と明るくいってのけるのに対して、どこどこの地方の人間は「こんなものしかありませんが」といったように、卑下してものを出す、と。そういう部分から、地方によっても人間性のようなものが変わってくるのではないか、というようなことを述べていた。
私はこれを日本とアメリカにも大きく当てはめることができるのではないかと思う。それは、しばしば我々が外国人と接した時に感じるテンションの高さなどにも表れているのではないだろうか。もちろん、明るくないアメリカ人もいれば、明るい日本人もいることは十分承知である。いまここではそうした個別例はのぞいて、あくまでも全体的な雰囲気論をしているということだ。

ピーターパンシンドロームは、大人になりきれなかった大人の症状だ。私はこれは、日本におけるひきこもりと重ねてかんがえることができるのではないかと思う。つまり、この両者はまったく症状の例では反対の性格をしているのである。ピーターパンシンドロームの人間は、しばしば明るいそうである。何よりっも友人たちとのパーティーなどを愉しみ、人生を謳歌しているようなそぶりをする。すくなくともも外見上はそうするそうである。だが、いざ実際ふたをあけてみると、ひどく責任感がなかったり、自分のガールフレンドに母性を求めたり、しばしば男尊女卑的な言動をしたり、ということだそうだ。私はこれをあかるい引きこもりなのではないかと思う。外見上はむしろ外に向かっていく。そのかわりに、内面できちんと反省することができない。
一方日本のひきこもりは、外には出られないが、そのかわりにいつまでも内側に引きこもってぐじぐじしている。私自身もこのひきこもりの一員なのであるが。そうすると、このアメリカのピーターパンシンドロームと、日本のひきこもりとは、社会化できなかった人間という点では同じで、それが方向として、明るいアメリカではより外のほうに放出していき、鬱の国である日本では内側にはいりこんでいってしまった、ということなのではないか、と思うわけである。

それと、私がこの二つの症状を同じものとして捉えているのには、その発生の原因にある。ピーターパンシンドロームがなぜ発症するのか、というところで、このダン・カイリー博士は次のようなことを述べている。この病気はもっぱら男性に多いのであるが、それはなぜか。当時アメリカ社会ではウーマンリブ、フェミニズムの活動が活発になってきて、女性は、女性らしく家庭的に生きる方法と、男性らしく社会に出て生きる方法の、ふたつの生き方を獲得したというのである。それに対して男性はどうであったか。男性はそれまでに安住していた男性であること、そのことから男性的な女性が現れることによって脅かされるようになった。しかし、女性的な男性ということも許されない中で、男性は一方的に追い込まれていったのである。
これは日本における引きこもりとも構図は同じなのだ。男女雇用機会均等法等が制定されるようになって、女性には家事手伝いとして社会に出ないという選択肢と、働く女というように男性的な生き方もできるようになった。しかし、最近では少しは出てきているとはいえ、まだまだ家庭に入る男性というのは少ないわけである。そのような逃げ場のない中で、なんとか傷つかないように、という男性たちが取った行動がひきこもりだったわけだ。これは多分に私自身にも言えることである。
このような男女不平等な差が、男性を追い込み、アメリカでは無責任男に、日本では引きこもり男児にしたてあげているということができるのではないか、と思う。

この本がしっかりしていると思う点は、たんなる分析などで終わらずに、(しばしば最初はいいものの、だんだん歯切れが悪くなってきて、結局何をいいたかったのか、どうすればいいのかわからない、というような本が日本には多い。論理性の違いか)きちんとした対応策などについても書かれている。
ダン博士は、PPS(ピーターパンシンドローム)であるかどうかのチェックテストなども載せていて、かなり実践的な本になっている。最終章では、PPSの人に対してしてはいけない対応、たとえばヒステリックになって責め立てるなど、と同時に、ではどうすればいいのか、という対応などについて書いている。
だが、そうしたメソッドを使用してもどうしようもならなかった場合は、という最終的な局面においても書かれているところに、私は誠実さを感じるのである。
そもそもこのPPSは、病気ではないというところにダン博士の認識はある。それは非常に重要な認識なのだと思うが、こうした異端的な症状というのは、人々はしばしばそれを病気だ!というレッテルを張ることによって除外し、排除しようとする。そのことによって安定を得ようという気持ちになるのであるが、しかし、それらの症状というのは、もしかしたら変化してきた社会に対しての対応ではないか、と考えることもできるのである。むしろ、あと二十年、三十年にして、そちらのほうがスタンダードになったとしたら、むしろ責任感ある男のほうが、あまりにも生真面目だとして症状となってしまうかもしれないのである。すべては相対的な指標によってしかみることはできない。
ダン博士はもしもこれが改善しないようであれば、PPSのガールフレンドには二つの選択肢があるという。一つは別れること。どうしても改善しないのであれば、あなたが不幸になることはない。分かれてしまったらいいというのだ。もっともである。で、二つ目。これが重要な視点なのであるが、それならばそれで仕方がない、受け入れるほかない、というものなのである。そもそもこれは症状であって病気ではない。直さなくてはいけないものではないので、彼女がPPSの男性の、ウェンディ役、母親役になってしまうのもいいのではないか、というのである。なにも全員がティンカーになる必要はないのである。対等な関係をむすぶ必要はないのである。もし、二人にとって、男性的な男性と女性的な女性という構図が一番安定するのだとしたら、それでもいいではないか、というまっとうな感覚を提示しているのだ。
私はそうした感覚にこそ、重要なものがあると思っている。
もし、詳しくピーターパンシンドロームについて知りたければこの本を、読みやすい翻訳なので、手に取って見ることをおすすめする。

アニーの幸福論 資本主義を越えて

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―本当のアニーがここにある―

 アニーと聞けば、「トゥモロー、トゥモロー」というリフレインが印象的な、古典的なミュージカル作品が思い浮かぶ。貧しかった少女が、世界一お金持ちウォーバックスの養子になる、ハッピーエンドの物語だ。
 今回私が読んだのは、2014年発売の、トーマス・ミーハン著、三辺律子訳の本だ。トーマス・ミーハンは、ハロルド・グレイの新聞連載漫画『小さな孤児アニー(Little Orphan Annie)』をミュージカル化する際の脚本家だった人物だ。1929年生まれ、と裏表紙に書いてあるが、そのミーハンが、脚本のための戯曲ではなく、小説として出したのがこの本である。あとがきは2013となっており、齢80を超えた往年の脚本家が書いたのかと思うと、それだけで感慨深いものがある。
 さて、ミーハン自身もあとがきで述べているように、アニーはミュージカル作品である。であるからして、どうしても時間に限りが出てきてしまうのだ。ミュージカルという限られた時間のなかで作品を終わらせなければならない。ミュージカル作品には、常にそのような制約がかかってしまう。ミーハンはアニーをどうしても小説化したかったのである。それは、ミュージカルで省かなければならなかった部分、しかし、本当のアニーを理解するうえでは必要不可欠な部分があったからなのである。
 私はアニーを1982年のコロムビア映画版でしか触れたことがない。その時には、単純に資本主義を批判的に見ているな、というくらいしか思わなかったが、小説版に触れてみると、さらにアニーの心理など、きめ細かいところまで作品を理解することができる。

 まずは映画版アニーにも受け継がれている、資本主義への眼差しについて。
 やはりアニーは、幸福論を語っていると私は思うのだ。そのなかでも、貧しさと裕福、という二つの両極端の状況が描かれる。一見するとこの作品は、貧しかったアニーが大金持ちのウォーバックの養子になり、お金持ちになる、という成功譚のように見えてしまう。しかし、アニーが幸せになったのは、お金持ちになったからなのだろうか。もちろん、アニーが貧しさから離れることによって幸せになったというのはありうる。だが、ウォーバックはどうであろう。彼は大金持ちであったが、幸せであったとは述べていない。それどころか、アニーに巡り合ってから彼は、常に「私には何かかけたものがあった、それはアニーだ」と述べているように、欠損を抱えて生きて来たことが受け取れる。
 『アニー』が提示するのは、単純な公式ではない。貧しい=不幸、豊か=幸せ、ではない。そして、貧しい=幸せ、豊か=不幸、という図式でもない。アニーが貧しい時の状況は、確かにアニーはその心の持ち方によって、明るく振る舞ってはいるが、幸せといえる状況ではないだろう。実際アニーもその苦痛から逃れるために、何度も脱走を図っているのである。ここには、わかりにくさがある。
 だが、一端豊か、貧しい、という二項対立から離れて見ると、わかりやすくなる。人間は貧しく辛い状況ではなく、ある程度の生活水準にあれば、金銭的な問題ではなく、いかに他者と生きていくかがその人の幸せにつながるのである。そういうことが描かれているのではないだろうか。だからこそ、本当の両親を探し続けるアニーは、いつまでも両親を欠いているために不幸せである。そしてウォーバックも、金銭的には恵まれているが、人間的に欠けているため不幸せである。
この二人が初めて出会い、そしてお互いの欠損を埋め合うことによって、二人は幸せになるのである。
 ある意味まっとうで中道的な幸福論である。だが、そんな幸福論なら、これほどのお金持ちを出さなくても、他者と居れば幸せ、ということを描けばよかったのではないか、という疑問も起こる。しかし、この作品ではそうではなくて、実際に世界一のお金持ちを引き合いに出しているのである。ということは、何故出したのか、ということを考えねばならない。やはりここには逆説があると考えたほうがいいだろう。すなわち、世界一のお金持ちでさえ、その状態では幸せになれない。家族、寄り添える他者あってこその幸せなんだ、ということを示したかったのであろう。だからこそ、世界一のお金持ちでも、幸せではない、ということを描写したかったのではないだろうか。そしてそれは、痛烈な資本主義批評になってはいないだろうか。

 さて、アニーだが、この作品を読むと、あるいは見ると、既視感のようなものを感じる。それは、この作品がある意味で王道、すなわち物語の定型をとっているからであろう。だからこそ、この作品は安定しておもしろい、ともいえる。だが、一方で、例えば『オリバー・ツウィスト』や、『メリー・ポピンズ』、あるいは、貧しいところから一転して豊かになる、という物語展開においては、『シンデレラ』と類似しているという問題もある。
 作者自身も、『オリバー・ツウィスト』の影響を受けていると述べている。この作品が作られた1900年代前半において、すでにディケンズは古典となっていたのであろう。だから、物語の内容は似ていても、新しく作り直すことの意味はあったように思う。
 では、シンデレラとの類似点はどうだろうか。シンデレラ並びに、ディズニー作品は昨今鋭い批評の眼差しを向けられている。そこには極めて歪められた、古典的な男女観というものが存在しており、しばしば、登場する女性は、王子様の到来を待っているだけ、自分からは何もせず、ただ耐えるだけ、それが美徳なのだ、と教えるようなイデオロギーが発生している。そうした歪められた価値観が、フェミニズムが広まった現代の価値観からすると、疑問符を抱かざるを得ない読後感をもたらすのだ。シンデレラを見ていて、なんだかすっきりとしないのは、シンデレラ自身が何も主体的な行動をしないからなのである。
 では今回はどうだろうか。貧しい少女がその美徳によって豊かな人物に救われる、という点において物語は類似している。しかし、私はこのアニーを観た際に、読んだ際に、不思議とさわやかな読後感を覚えずにはいられない。それはなぜなのだろうか。やはりそれは、アニーがシンデレラとは異なり、自ら考え、行動している、主体性に求められるのではないかと思う。
 映画版ではなかなかわかりづらかったのであるが、小説版では、きちんとアニーが孤児院を抜け出し、ウォーバックに出会うまで一年間も自分の力で生きていたことが克明に描かれている。ミュージカルや映画では残念なことにこの部分が大幅にカットされてしまっている。だが、本当のアニーをしるためには、まさしくここが必要なのである。アニーは自らの手で自らの人生を、運命を切り開こうとする主体的な人物なのだ。だからこそ、そうした努力が最後には報われる。そこに我々は、ああよかった、という安堵に似たようなものを感じるのではないだろうか。だからこそ、我々はシンデレラには感じられない開放感、勇気、明るさ、といったものをこの作品に感じられるのである。

 とまあ、ここまでは誰もが書けるようなことを書いてきたわけであるが、最後に追加するとしたら、私ならこう言うだろう。それでも物語が作られたのが古すぎたのか、やや勧善懲悪にすぎる、と。
 ほとんどの読者はアニーに感情移入するだろうか。私もある部分ではそうした部分もあった。努力をし、それが報われる、という点では、我々は否応なしに、アニーに勇気づけられるはずである。だが、アニーは明るすぎるように私には感じられてしまう。それは私自身が暗い人間なのだからであるが。むしろ、私は、アニーよりも孤児院を経営しているミス・ハニガンの方に肩入れしてしまう。私自身、このような時代に生きていたら、ハニガンのようになったであろう。そうして、何も面白いことがないなかで、自分達より弱い存在をいじめることしかできない、その感覚もよくわかるのである。
最後に近い場面で、ウォーバックの屋敷でクリスマスパーティーが開かれる。そこに招待する客をアニーとウォーバックは相談する。その際、ウォーバックは、ハニガンも呼ぶべきだ、彼女のことを許してやらなければねと言う。私はそこに救いが、この作品の余裕があるかと思っていた。ところが、最後になって、ダニエルたちが逮捕される場面で、ハニガンも共犯者として連行されてしまうのである。
 私はその点、ダニエルとよく似た登場人物である、『レ・ミゼラブル』のティナルディエ夫婦が、最後まで裁かれることがなかったのはまだ救いがあると感じる。貧しい世の中では、人間は生きるのに必死で、善悪の境があやふやになってしまっていることを捉えているとして、『レ・ミゼラブル』のほうに軍配をあげたい。『アニー』も爽快で悪くはないのだが、ついつい私のような人間にとっては、悪者がこてんぱんに断罪されてしまうのは、つらいところもある。そこは、許容できなかったこととして、この作品の狭さになってしまっているのではないかなと思う。

 だが、だからといってこの作品の価値が下がるかというとそんなことはない。
 作者も述べているように、この作品は時代のどん底で生まれた。だからこそ、これから先には必ずいいことが起こるはずだ、という明るい視点をもって、明るく生きていけるのだ。その勇気を人々に与える存在として、アニーは永遠に人々に記憶されるだろうし、人々を勇気づけるだろう。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 (ライ麦畑でつかまえて) 読後メモ 感想とレビュー

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 村上春樹は好きだけど嫌いだ。この屈折した村上への愛憎が僕を理解する手掛かりになるかもしれない。もし君が僕を理解したいとしたら、だけど。と、村上春樹っぽく書いてみる(笑)。
 村上春樹は好きだ。特に『風の歌を聴け』や『ダンス・ダンス・ダンス』なんかは、僕が一番好きな春樹の小説である。だが、春樹自身や、いわゆるハルキストと言われるやつらのことは僕は嫌いだ。村上春樹自身においては、あの嘘つきっぷりがなんとも嫌だ。まったく誠実でない。私は誠実なタイプの人間なのだろう。だから、彼のあのひょうひょうとした生き方というか、そういう主人公を書き続けることが嫌いだ。その主人公が嫌いであるということは言わずもがなであるが。
 で、何がきらかというと、春樹の翻訳ほど嫌いなものはない。一度小説では有名な『グレートギャッツビー』を村上春樹訳で読んだことがある。一体何が悪かったのかさっぱりわからなかったが、一度読んだだけで頭に入ったのはほんのわずかもなかった。おそろしいことに、まったく頭に何にも入ってこなかったのだ。私はギャッツビーを春樹訳で読んだ時に、これはもともとの小説が悪いのか、あるいは翻訳者が悪いのかわからなかった。今でもそれは謎につつまれているが、おそらくあの小説は何人かの翻訳者が翻訳をしている。他の本で読んだ方がもう少し頭に入ってくるのだろうと思う。それ以来、春樹の翻訳は本当に嫌いになった。たった一冊しか読んでいないのだけれど。
 だけど、例えば『おおきな木』という絵本界では有名な本があるけれども、それをまつわる逸話が僕は好きだ。この本は、ある小さな出版社が版権を有していたのだけれども、その会社がつぶれるということになり、版権が別の会社に移った。それまでの『おおきな木』は素朴な翻訳により、多くの子供たちに愛されていた。ところが、版権を有したその会社は、新しい翻訳者に村上春樹を起用。あたらしい『おおきな木』が誕生した。で、無名の翻訳者が翻訳した『おおきな木』と、ビッグネームが翻訳した『おおきな木』、どちらが売れたのかというと、前者なのだ。昔の『おおきな木』は、だ、である調で、文体が途切れている。そのぶん、余韻が残るような絵本になっていた。それに対して春樹の訳は、すべてです、ます体。これでは、文章が途切れてしまう。余韻が残らないのだ。
 だから、翻訳者がビッグネームだからといって、かならずしもいい作品だとは限らない。特に英語などの諸外国語が苦手な日本人にとって、翻訳本は決して小さくない意味を持つものである。きちんとした翻訳と、それを選ぶ目を有していなければならない。

 さて、今回のキャッチャー・イン・ザ・ライ。もちろんあの有名なJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』である。春樹の訳では、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルはなく、英語をカタカナに起こした「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という言葉が書かれている。
 以前から読もうと思っていたのだが、なかなか手が出なかった。春樹訳で手ひどい傷を負ったことがあるからかもしれない。だが、今月、私は攻殻機動隊を集中的に見ることがあった。そこでなんとこの『ライ麦畑でつかまえて』が登場したのである。作中の言葉が引用され、攻殻機動隊のストーリーを読み解くキーになっていた。そんなこともあって、ここは読んでおかなければなるまいと思って手に取った。
 春樹訳に悪いイメージのある私だったが、この本は素直に読めた。やはり前回のは事故だったのかもしれない。

 内容だが、一体なんなのかよくわからない。翻訳の文章はどうしてもいまひとつ信用が置けないのだ。僕が疑り深い性格だからかもしれない。なんだかモヤがかかっているように思われてしまうのである。日本語で書かれたものであれば、私は日本語を母語としている人間だから、その裏まで読むことができる。
 例えばこの言葉は、あの言葉の伏線になっているんだ、なんていうことも理解できる。だが、翻訳本ではそうはいかない。どうしたって翻訳者の限界を通しているのである。もしかしたら、原文ではこことあそこが言葉の響きなどによって影響関係にあったのかもしれないが、翻訳を通したことによって見えなくなってしまっているのかもしれない。そんな不安がどうしてもつきまとってしまう。
 だからかわからないが、内容がいまひとつ掴めないのだ。何を書いているのかがよくわからない。もちろん内容は前回と異なり、非常によくわかる。文章の意味が頭にはいってくる。だが、全体を見た時に、いったいこれはなんの小説だ?何を語りたかったのだ?ということは、よくわからないのである。おそらくこれは英語が母語である人が読んでもそうなのではないかなとは思うのだが・・・。
 内容も上手く要約できない。ホールディンという主人公が、この人物はこの物語の書き手でもあるわけだが、ずっと自分語りをするわけだ。書いているのは17歳の時。そこから数か月前の16歳の時のクリスマス前後に起こったことを一生懸命書いているわけだ。誰に向かって書いているのかというのはわからない。ただ「君」とだけ表記される。であるから、この小説は珍しい「二人称小説」と言えるかもしれない。
 通常「私は」という一人称小説と、いわゆる「神の視点」というものを持った三人称小説が小説の主流だ。「君よ」と呼びかける二人称小説はかなり数が少ない。もちろん、多くの場合は「僕」が主語になっていることは間違いない。だから書き方としては一人称小説であることは確かだ。だけれども、その小説が「君」に向けて書かれている点で、本質的に二人称小説なのである。

 で、何が書かれているのかというと、ただひたすら彼の嫌悪するものを陳列しただけといった感じがある。ホールディンはやや変わった人物で、いろいろなものに対して異様なほどの嫌悪感を持つ。はなもちならない人間というのが僕にも沢山いるが、このホールディンは、僕にさらに輪をかけていろいろなものが嫌いな人間なのだ。
 最初はおもしろく、そうだよな、こういうインチキなやつらって腹立たしいよなと読んでいたのだが、次第にそれがあまりにもしつこいように感じられてきて、最後のあたりまで読み進めると、なかなかこのホールディンへ感情移入することが難しくなってきてしまった。
 まったく理解できないような場面で腹を立てて、どうしようもなくなってしまうような行動に出る。そういう部分にはいささか共感しかねた、というほかない。

 何がいいたかったのかわからないのはこの点にある。ただずっと、どうしようもなくなって飛び出した学校から、さまざまな場所であったもろもろの事に対して、ホールディンが嫌悪の示度とでもいうような測りで、嫌悪度数を計測していくというような話なのだ。彼が一体どんなものを嫌うのかということは、この本を一冊読めば大体傾向がわかってくるが、それでなんなのだ?という話なのだ。
 時に彼は上機嫌になる時がある。それがなぜなのかも、彼がなぜいらついたり、嫌に思ったりするのと同じくらいに意味がわからない。例えば、シスターへ突然、彼にしてはとびきりの好感を持ったりするわけであるが、なぜなのかがわからない。妹が登場する場面では、たんなるシスコンかと思わせるほど、ホールディンにしては異常な愛情を垣間見ることができる。が、それもこれもすべて、で、なんなのだ?という問題だ。

 私はこの小説が「君」という人物に向けて書かれたものであるという小説の構造が重要だと思っている。では、なぜこのホールディンは「君」に対してこの、どれだけ前かわからないが一年以内に起こった出来事を、自分の嫌悪の尺度でもって語りなおすのか?ということだ。なぜ語らなければならなかったのか?という問いと、なぜその語る相手が「君」でなければならなかったのか?というのが、語りの謎である。そしてその「君」が誰なのか?というのも一つの大きな謎である。

 仮説を立ててもいいが、なんだかチープだ。きっとこの小説には、私のような素朴な感想を抱いた研究者たちが、たくさん解釈を打ち立てていることだろう。謎解き本もいっぱいあるようだ。いずれそれを読んでみるかもしれないが、今は特にそれを読みたいほどこの小説に魅力を感じてはいない。
 ただ私のチープな発想を述べるとすれば、ホールディンはよくわからないところで、気絶をしたり、体調不良を訴えている。小説を読む際のルール、「小説に書かれている言葉で必要のないものはない」。もしほんとうに何かを描写するとしたら、例えば教室を描写するとしたら、その壁の染みひとつひとつまで言及しなければならないはずだ。しかし実際にはそのようにはなっていない。つまり取捨選択されているのである。とすると、小説に書かれていることばは選ばれて残った言葉であるから、そこに必要のないことはかかれていないという論理だ。
 このルールに従えば、彼の体調不良が大きな意味を持つのではないかと私は考える。
 つまり、ホールディンはこれを書いている時点で、そうとうのっぴきならない状況にあるのではないか、というのが僕の仮説だ。後半でなぜか癌という単語が出てくる。ホールディンの妄想癖の一つなのだが、自分は癌なのだと信じている場面がある。これがヒントで、実はホールディンは癌かなにかにかかって、余命があまりないのではないかと思うのだ。
 そして自分が嫌いなものを羅列していくなかで、自分の嫌悪の尺度を鮮明にし、そこから好意を見いだせるものと腑分けをしていく。そのなかで、死や死後の世界、神へと通じるシスターたちへ好意的な感情を抱いたり、自分の大好きな妹に対して、愛情を再認識したりしているのではないだろうか。そんなことが頭に浮かんだ。

 今回は、というか、今回も特にこれといった終わりやまとめがあるわけではない。ただの一読後のメモ程度のことである。が、もしそのメモ程度のものが他の人の読書経験に少しでも役に立てばと思い、自己満足もかなりあるが、ブログに掲載しておくものである。

デュマ・フィス『椿姫』 感想とレビュー 物語の構造と読み解く視点

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はじめに
 デュマ・フィスは、『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』などを書いたアレクサンドル・デュマの私生児。父のアレクサンドル・デュマと区別するために、父親を大デュマ、子を小デュマと呼び分けたりもします。ややこしいもので、デュマ・フィスも、本名はアレクサンドル・デュマなのです。フィスというのは子という意味だそうです。
 『椿姫』はデュマ・フィスの代表的な作品。フランス文学のなかでも有名な作品のうちの一つです。デュマは、『椿姫』をもとに様々な戯曲を書いたりと、戯曲で多く活躍したそうで、当時のフランスの文人たちは、小説家というくくりというよりは、戯曲や詩なども書くいろいろな分野に活動していた人が多いようです。
 ポスト構造主義や、記号論、言語学など1900年代後半を賑わせた新しい学問は、その多くがフランスの論客によってリードされてきました。フランスには、アカデミー・フランセーズといって、国立の学術団体が存在したり、国語教育にかなりの力を入れています。そうした土壌のうえでは、素晴らしい文人、知識人が生まれてくるわけで、フランス文学というのは文学を勉強するうえでは欠かせない重要な分野になっています。

物語の構造
 父大デュマが壮大な物語を長大な分量で書いたのとは反対に、小デュマは小さな物語を小説一冊程度の分量で書きます。この物語もどこにでもあるといえば、どこにでもあるような話。ある一人の少年が、高級娼婦に恋をして、その娼婦と一時期同棲生活までするも、父や周囲の圧力によって非業なわかれを遂げるというもの。有り体といえば有り体です。
 また、訳者の新庄嘉章氏も述べているように、デュマ・フェスはモラリスト的な側面がぬぐえず、ややお説教小説のようになっていなくもないという点は重要な指摘です。しかし、新庄氏は、その面を踏まえた上でも、「作者の人間味豊かな情緒」がこの作品の欠点を補っていると述べています。私もそう思います。ちなみに、この新庄嘉章氏というのは、日本のフランス文学者で、多くの実績を残された研究者です。
 物語の内容は有り体ではありますが、しかし、私はこの小説を読んでいてページを繰るのが止められないほど夢中になりました。その原因は、新庄氏が述べたように、人間味豊かな情緒のためです。これだけそこに描かれている人たちが生き生きとして働きかけてくるというのは、そうあるものではありません。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』のようにおもしろく読めました。
 物語は1847年、書き手でもあり語り手でもある「わたし」がある売り出しを見付けるところから物語ははじまります。その競売にかけられた素晴らしい家具や宝石などの持ち主は、少し前ならだれもが知っていた高級娼婦のマルグリット・ゴーティエのものだったのです。
 「わたし」は、マルグリットの競売品から誰かからの贈り物らしい『マノン・レスコー』の本を購入します。それからしばらくして、死んだような顔をした若者、アルマン・デュヴァルが本を購入したという情報をもとに、「わたし」のもとを訪れます。この本をマルグリットに送ったのはこのアルマンだったのです。そして、アルマンはもうすでに死んでしまったマルグリットの死体をもう一度見るために、奔走します。この当時は、一度墓に埋めた死体でも、墓を変える際には遺族の申し出があればできたようで、アルマンは彼女の死に立ち会えなかったがために、また彼女への愛情のために、別の墓地を見付けだしそこに埋葬するために、彼女の遺体を移動させてもいいか彼女の遺族のもとに出向きます。
 そして、彼は彼女の遺体を移動させると、その後「わたし」とともに自宅に帰り、今迄何があったのか、自分とマルグリットがどのような関係だったのかを話し始めるのです。この物語は「わたし」が見て、聞いたものを「わたし」が書いているという構図のもと、その多くはアルマンの語りで構成されています。アルマン宅で、ずっとアルマンは「わたし」に対して、自分とマルグリットとの二年ほどの関係をずっと話し続けるのです。その語りが終わると、マルグリットのアルマンへの手紙が引用され、マルグリットの晩年の世話をしていたジュリー・デュプラの引用も少しされ、「わたし」のわずかなコメントがあり物語は幕を閉じます。常に「わたし」が見て聞いたものを「わたし」が書いているという構図になっているという点に注意しておきたいですね。

様々な要素。デュマの視点、「からだ」と「こころ」
 さて、この小説は、モラリストとしてデュマから読み解くこともできます。彼は、自分が私生児で生まれたということにずっとコンプレックスを感じていたらしく、まさしく文学者らしい文学、このように社会の悪によって虐げられた人々の代弁をする文学を書き上げました。当時は娼婦というのはひどく社会から嫌われたものだったようです。もちろん、金持ちの爵位を持った人々や社交界に出入りする若者たちはそのようなことを気にせずにマルグリットのような高級娼婦と交際をしたようですが、世間一般からみると娼婦というのは酷く迫害された存在であったようです。語り手の「わたし」は最初と最後に自分がなぜこの物語を書くのかということを示しています。
 「わたしはなにも悪徳の使徒ではないが、気高い心を持つ不幸な人びとがあげる祈りの声を聞けば、いつでも、みずからそのこだまとなって、それをそのまま世に伝えたいと思うのである」
 悪徳の使徒というのは、娼婦を美化したことによって、娼婦を認めていると糾弾されるおそれがあったからでしょう。現在ではフェミニズム、ジェンダー研究が発展してきましたから男女平等はまあ、ある程度はかなえられるようにはなってきてはいますが、まだそうした意識のない150年前のフランスでは、娼婦は悪であって、それを擁護すれば、周りの人間に糾弾されること必須だったわけです。
 ひとつにはこうした側面から、デュマが社会によって虐げられた人々を救いたいという気持ちがうかがい知れます。
他には、純粋な恋愛小説としても読めます。もちろん、それだけで消費されるものではないと新庄氏も述べているように、それだけで終わるものではありませんが、本編の多くはアルマンとマルグリットの身を燃やすような激しい純愛の物語です。
 思うに、西洋の身体論に支えられたこの小説に登場する人々は、よく「体」と「こころ」を切り離して喋っているように見受けられます。
 「あたしたちのからだは、もうあたしたちのものじゃないのよ。あたしたちはもう人間じゃなくて、品物なの。」といったマルグリットのセリフから、自分達の「からだ」が商品であり、それを売っていることがわかります。当たり前と言えば当たり前ですが。しかし、だからといって、「きもち」まで売っているのかというとそうではない。「からだ」を売っても「きもち」までは売らないということで、彼女たちは彼女たちなりのプライドを保っているのです。しかし、アルマンにとっては、マルグリットは娼婦ではありません。アルマンは、アルグリットを娼婦として金で買うのではなく、金という媒体を介さない恋愛をしようとしたのでした。そして、マルグリットにとってもそれは、こんな商売をしている人間にとってはもう人生で一度きりしか起こりえない本当の愛だということで、二人は恋に落ちて行きます。「からだ」と「こころ」を切り離した考えというのは、明治に日本にも導入されます。現在では、恋愛の対象、結婚の対象、性生活の対象は、一人のパートナーとするのが良いとされていますが、これはじつはここ数十年に作り上げられたロマンチック・ラブ・イデオロギーというイデオロギーなのです。明治時代の吉原を描いた小説などを読んでおりますと、とうじの見合い結婚は恋愛がありませんから、結婚していても、恋愛と性生活を求めに吉原へ行くということになり、それぞれ独立したものであったことがわかります。
 この小説にかぎっても、マルグリットは自分のからだは金にしばられているので、こころはアルマンにやるが、からだはしばしば伯爵などに売らなければならないと最初は述べます。しかし、それで許せるようなら男も楽ですが、現実はそうはいかない。女性は、「からだ」と「こころ」を別ものにして考えますが、男性はそれを一緒に考えます。「からだ」を売るということは、すなわちその人の「こころ」も売られてしまうということで、とてつもなく男性にとってはつらいことなのです。

まだまだ楽しめる沢山の視点
 他にもこの小説を読み解いていく視点はいくつもあります。
 なんといっても男と女の駆け引きを楽しむという読み方は、現在でも通用するものがあります。マルグリットはこの小説では玄人女ということで、恋愛にはかなりのエキスパートとして描かれます。しかし、その嘘の恋愛には慣れた彼女も、アルマンのひたむきな純粋な愛情に打ち負かされて、まるで処女のように恋愛をするのです。と、アルマンは自分の語りでそう述べているということになります。半面はたしかにそうでしょう。マルグリットにとっても、これは本当の愛なんだ、いままでとは違うのだということを意識していたことは読み取れます。しかし、半分はやはり恋を商売にしていた女性ですから、そこでの経験値があります。かなり論理的に恋愛論を述べるところなどから考えても、彼女は彼女なりの恋愛観を有していて、恋の駆け引きもかなりの術を知っているようです。押したり引いたり、二人の恋愛論の掛け合いというものは、恋愛の勉強になります。

舞台としての都市
 「都会の喧騒から遠く離れていますと、人目をさけて、恥も恐れもなしに、思うさま愛することができるのでした。そこでは娼婦の面影は次第に薄れていきました。今わたしのそばにいるのは、ひとりの若い美しい女です。マルグリットと呼ぶその女をわたしは愛し、わたしも彼女から愛されていました。過去はもはや影も形もなく、未来には一片の雲もありません」
 文学研究において、「舞台としての都市」という概念があります。都市というのは、例えば原宿の奇抜なファッションをする人がいる。そういう人がいわゆる舞台の上の人であって、観客はそれを見ることによって、真似をしたりするということです。この小説も、この理論を応用できます。パリというのは、この小説では「うわさの都」と呼ばれていますが、華々しい社交の世界です。その都市にいる間はマルグリットは自分の生命をけずるような不摂生や、乱れた生活を送るのです。パリでは彼女は一番の美人、花形の高級娼婦。彼女が役者となって、パリの文化をけん引していきます。しかし、それは同時に彼女の生命をけずるものでもあるわけです。本当の恋愛をしたマルグリットとアルマンは、舞台としての都市パリを離れ田舎に離れます。残念なことにパリに戻らなくならなければならなくなりますが、しかし、田舎でくらした数か月の二人は非常に落ち着いた環境の中で健康も回復し、お互いに愛を深め合うのです。

様々な端役 現実家のプリュダンス 社会としての父
 この小説が「人情味豊かな情緒」と言われたいくつかの理由として、個性的なキャラクターが挙げられるでしょう。キャラクターが個性的というか、それぞれの役割を担っていると言った方がいいかもしれません。マルグリットの友というか、同僚として登場するプリュダンスという年増の娼婦は、現実家として登場します。マルグリットもそうとうな手練れのはずでしたが、まだ彼女は若かった。その若さゆえに、自分が本当の恋に落ちればどのような未来がくるかわかっているにもかかわらず、その恋に猛進しなければならなかったのです。そんな若い二人を見て、それをやめるように助言するのがプリュダンスの役割。彼女は自分もかつては娼婦として第一線に立っていたからこそ言える助言を二人にします。二人の恋は、金銭的なバックがついていてのみ成り立つのであって、二人で田舎に引っこんでしまったらそれは成り立たない。いずれは不幸に陥ると注意するのです。プリュダンスは、自分の経験と、また飽くまでも二人の事をおもって述べている点が彼女を独立したキャラクターとして際立たせています。
 この二人の恋を邪魔する存在としては、もう一人。アルマンの父です。このアルマンの父は、「社会」といったものを体現化したような存在で、自分の息子がパリの高級娼婦に肩入れしているという噂を聞いてアルマンを田舎に連れ戻しにきます。
 後にわかることですが、この父は、アルマンに内緒でマルグリットと会い、そして、自分の娘が結婚する、そのためには兄のアルマンが娼婦と関係していてはいけないのだという理由でどうか手を引いてくれるように懇願したことがわかります。この父は、「わたし」も最後に会い父性性の象徴のような人だとして、評価しています。この父は前半は「社会」のルールとしてアルマンを取り戻しに来て、後半では優しい、息子想いの父として描かれます。こうした、キャラクターが存在するからこそ、この物語が単なる恋愛小説で終わらず、社会性を持ち、人間の深い心理を描いた小説として成功しているのです。

終わりに、愛すること
 「あたしが愛したのは、ありのままのあなたじゃなくて、実は、こうあってほしいと思ったあなただったのね」
この小説のもっとも素晴らしい点は、この小説自体が一つの恋愛論になっているという点です。マルグリットやアルマンの口を通して語られる恋愛についての様々な言葉は、恋愛の深い真理をついた名言としていずれもはっとさせられるものばかり。
 特にマルグリットの口から出る恋愛論はすばらしい。彼女は自分がアルマンのことを自分の中に抱いていたイメージで愛していたと告白し、あやまります。他にも、男性たちがなぜ自分達高級娼婦を買うのかというと、それは見栄のためだというのです。けっしてマルグリットのためではない。もしかしたら、自分達は相手のためだと思い込んでいるかもしれないけれども、結局は自分のためなのです。このような美しい女の旦那になっているという、見栄があります。他にも、娼婦を養っている自分というものに酔っているものもいます。金を出して誰かを生活させるというのは、かなり人間にとって、プライドを慰めてくれるものらしいようです。人は常に幻想を抱いています。その人を愛しているといっても、その人のある一面や、自分のなかのその人のイメージを愛しているにすぎません。そのなかで、いかに本当の相手に近づけるのか、自分のためではなく、相手のために愛せるのか、そうした部分が問われるのだと思います。
 特に嘘の恋ばかりをしてきたマルグリットから本当の愛が芽生えた時、我々読者は本当に美しいものを見ることができるのです。

時間をめぐる一考察。 『あなたはどれだけ待てますか : せっかち文化とのんびり文化の徹底比較 』/ ロバート・レヴィーン著 ;をメインに

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 前々から徐々に興味が出始めて、今年は沢山の本を読むぞというのが私の目標の一つなのですが、なかでも、社会心理学系の本を沢山読もうというのが大きな目標になっています。
 私の専門は近現代の文学ですが、やはり文学を論じるためには、文学だけの知見では読み解けないことが多々あると感じています。ある人は心理学の分野の知見を活かしたり、哲学の知見を活かしたりしています。その中で私は社会心理学の知見を獲得しておきたいなと思って、いろいろと読んでいます。
 今回読んで感銘を受けたのは、ロバーと・レヴィーンという社会心理学者の『あなたはどれだけ待てますか』(草思社・2002)という本。
 原本は1997年に発売された本で、訳本が2002年です。この本は是非皆さんにも読んでほしい。社会心理学系の学術書は、いずれも同分野の研究者による訳本が多いのですが、学者が訳してよかったことなんて一度もありません。もう、ほんと日本語として意味がわからないものばかり。しかし、この本は、原文も平易だったのか、ものすごく読みやすい本で、別に社会心理学について何か知っていなくても、十分楽しめる内容となっております。
 冒頭では、著者がブラジルの大学に初めて勤務した際、授業が始まっても学生がほとんど来ず、授業終わりに近づいてからぼつぼつと学生が現れたというカルチャーショックのコラムから始まります。なぜだか、私は数年前の受験勉強の際にその原文を読んだことがあったらしく、あれ、前に読んだことがあるぞと妙な懐かしさを感じたものです。こういう文から受験の試験って出るんですね。

時間
 我々はとかく現在の日本の中で息苦しさを感じていないでしょうか。この本は、時間をめぐって書かれた本で、それぞれの文化にはそれぞれの時間のリズム、テンポがあると書かれています。何よりもこの本が素晴らしいのは、学生の協力も得て、世界30か国で、歩く速さや店員にものを頼んでそれができる速さなどを測った、テンポの図表。そのテンポの図表からは、様々なことがわかってきます。
 この本はアメリカの学者が書いた本ですが、日本についてかなりの項が割かれています。日本を別の文化で育った人間の視点を通じて見直すと様々なことが見えてきます。
 我々が非常に現在のテンポに窮屈を感じているとしたら、それはそのはず。世界30か国で観測したデータをもとにすれば、何に置いてもほぼ最高の速度を有しているのです。そりゃ疲れますわな。

 著者は、文化にはせっかち文化、テンポの速い文化(タイプAと命名しています)と、のんびり文化、テンポのゆったりとした文化(タイプB)に分かれていると述べています。
 近年では、日本でも過労死が問題となり、週40時間労働制が導入されるなど、自分達の時間に対する考えが深まってきたように思われます。しかし、それでもまだ忙しい。最近ではブラック企業という言葉も登場し、日本人が今迄にもまして忙しい時代を迎えているように感じられます。そんようななか、「スローライフ」や「スローフード」といった言葉とともに、ゆっくりとした人生を歩むことの重要性を説いた本も沢山発売されています。私は去年辻信一著の『「ゆっくり」でいいんだよ』(ちくまプリマー新書・2006)を読んで大変感銘を受けました。同時に読んだサティシュ・クマール『君あり故に我あり』(講談社学術文庫・2005)(この本は辻先生の本の中でも紹介されています。辻先生とサティシュ・クマールさんは交流があるそうです)も感銘をうけ、何度も記事にしようと思ったのですが、あまりにも膨大になりそうだったため、終にやめてしまいました。
 本当に素晴らしい本なので、この二つも是非皆様に読んでいただけると幸いです。
『「ゆっくり」でいいんだよ』(ちくまプリマー新書・2006)
サティシュ・クマール『君あり故に我あり』(講談社学術文庫・2005)

 なぜ今この本を引用したかというと、この本でも時間のことについて書かれているのです。クマール先生の本は時間についてはそれほど書かれていませんが、辻先生の本は、今の日本はあまりにも忙しすぎるとしてナマケモノに学ぶべきだと述べています。私もそう思っています。
 ただ、いきなりお前たちは忙しすぎるからナマケモノを見習えといっても、それはなかなか難しいものがあります。辻先生の本はちくまプリマー新書といって、中高生向けに書かれた非常にわかりやすい本ですから、それはそれでいいのですが、そのぶん真面目な大人たちは取り扱わない可能性もある。きちんとした研究で、真面目な大人たちも無視できないのが、この『あなたはどれだけ待てますか』という本です。
 この本は何も日本の読者に読まれることを想定して書かれたものではありませんが、それでも日本は著者にとっては特別な例外として映ったようで、日本のことについてかなりの項が割かれています。
 この筆者はなにもゆっくりとしたテンポが素晴らしいとタイプBの文化をただ賞賛するということではありません。タイプAもきちんと精査したうえで、どちらがいいと単純に述べることはできないとしています。それぞれの文化ですから、それを否定、肯定することはできません。しかし、文化にタイプABが存在するように、人間それぞれにもタイプAよりの人、Bよりの人がいると述べています。その人たちにとって一番しあわせなのは、自分のテンポにあった文化に行くことです。
どんなにテンポが速いAの国、場所、例えば東京やニューヨークでも、そのなかにはテンポBしか適応できない人間もいるわけです。そうすると、周りが物凄いスピードで回転していくわけですから、その人は周りに合わせることができません。その中で無理をしていると、例えば過労死とか、ストレスにつながるわけですが、そもそも完全についていくことができないとなると、その文化圏のなかでは落伍者、無能者としてのレッテルが貼られてしまうわけです。そういう人は確かによくいます。何時まで経っても課題が終わらなかったり、いつも授業に遅刻してきたりする人。しかしその人達は、テンポAのなかでこそ異端者として迫害されますが、テンポBのなかに行けば、普通の人として扱われるわけです。
 日本に住んでいるとなかなかそういう考えには達しません。特に東京などの都会に住んでいる人は。反対のことでいい例が書かれているので紹介しますが、この著者も自分の時間を持ちたいと考えて大学教員になったと述べていますが、それでもやはりアメリかの人間。テンポは速い方です。その著者がブラジルで教鞭をとった際には、いつも周りから、「落ち着け」「焦るな」と言われたそうです。
 日本やアメリカ、西洋などの比較的工業が発達した文化ではタイプAのテンポで時間が進んでいきます。その文化のなかでは遅刻は大体5分から15分までが許容範囲です。それを越えると何故待たせるのかと、待たされた方は怒り始めます。また、この文化では時間通りであることが美徳とされています。我々にとっては当たり前ですよね。会議にでも遅刻したものであれば、もう昇進はできないとあきらめたほうがいい。やれやれ。
 しかし、時間通りに行動することが、我々が時間通りに行動しない人に対する感情くらい、悪いことだとみなされる文化は往々にしてあるわけです。そうした文化の中では、時計は「邪悪な野望と結びついた非礼」と非難され、時間通りに行動する人は小物として扱われます。ブラジルなどでは、いかに待つこと、待たせることがその人の人間的な大きさに繋がるらしく、約束した30分程度の時間で待ち合わせ場所に来ようものならとんだ小物ということになります。平均して1時間ほど、酷い時には2時間程待つ、あるいは待たせるのだと言います。
 ブラジルまで顕著な例でなくとも、我々が時計に従った「時計時間」の文化の中で生きているのと同じように、タイプBの文化ではものごとを大切にするように「出来事時間」に基づいて生活しているのです。我々は、例えば何時に人と会う約束があるとすると、今行っていることを中断してでもそちらを優先させようとします。例えば、3時から会議があるとする。すると2時30に友人が訪ねてこようものなら、せっかく来た友人を拒んで会議に向かうのです。これが我々の文化です。ところが、出来事時間の文化のなかでは、訪問してきてくれた友人が最優先されることになる。一時間か二時間ほど友人と楽しく会話をした後に、会議に出席するわけです。
 こういう例を聞くと、つい私たちは自分たちの生まれ育った文化の尺度でものを言いたくなります。それは、その人たちの怠慢だ、惰性だ、時間を守らないのはいけないことだ、と。しかし、と世界中を研究し、なおかつきちんとした学問的な基礎を踏まえた著者はいいます。文化を観察し、学ぶ際の最も避けたり逃れたりするのが難しい罠は、自分の文化の意味でそれを推し量ってしまうことだということです。
 彼等にとってみれば、時間通りに行動する人間は、せっかくの友人の訪問などを無視するのですから、見方によってはかなり冷徹な人間に思われるはずです。

日本の時間
 さて、アメリカ人の著者にとって日本は相当目を引いたのか、わざわざ章を一つ割いて日本のことを分析してくれています。「日本の矛盾」という章では、日本人は世界のどの国に比べてもトップレベルのテンポを有する国ですが、そこには矛盾が生じているというのです。
 著者はAの文化もBの文化も単純に肯定否定はできないと述べていますが、タイプAの文化ではストレスが余計に感じられることは述べています。タイプAの文化のなかではストレスが多く発生しますから、そのストレスによって冠状動脈心疾患の発生率が上昇すると述べています。事実タイプAに属するアメリカや多くのヨーロッパの国々では、こうした病気にかかる人がタイプBの文化圏に比べて格段に多いそう。
 ところが、世界トップレベルの忙しさを誇るはずの日本では、こうしたタイプの病気は極めて少ないというのです。
日本がアメリカやヨーロッパと違う点は、アメリカの有能な社員にとってのごほうびが、有給休暇であるのに対して、日本ではその会社の強制的な定年退職年齢の免除だと言います。日本は仕事中毒なのです。著者は日本にはブルーマンデーはあまり存在せず、反対に日曜日になると休日病(休日になると身体が痛み出したりする)が見られるといいます。この部分はこの本が書かれた当時はそうだったでしょうが、訳者も2002年の段階で述べている通り、通用しなくなってきている部分はあります。
 ただ、それだけ忙しく、テンポの速いアメリカ、ヨーロッパに比べても勤労時間の長い日本は、アメリカ・ヨーロッパと比べてそこまで生産力が高いわけでもないということが指摘されています。もちろん日本の生産力は、アメリカ・ヨーロッパよりも高いですが、これらの国より働いている時間を考えると、その時間ほどではないということです。そこには、日本人の仕事観があると言います。アメリカでは、プライベートと仕事はきっちりとわけます。しかし、日本はそれよりも職場の人間関係や会社全体の「和」を考えるので、そこが曖昧だというのです。日本人は会社をひとつの有機体とみなしており、そこに所属することはプライベートの一部でもあるわけです。すると、職場での時間というのは、生産性だけを求めている仕事だけではなく、その中で同僚と話したり、仕事後の食事など、単なる仕事とは別の人間関係を円滑にするための時間も含まれるというのです。そして、自分の生活をそこに割り当てることができることの要因としては、日本の「終身雇用」の概念が働いているとしています。
 だから、日本人にとって会社とは、単なる生産性を求める場ではなく、もう一つの自分の居場所なのです。そしてそれはしばしば、自分の家よりも自分が居るべき場所になっているのです。だから、職場にいることが同じタイプAのアメリカ人や西洋人と異なり、ストレスにならない。その場に属することがストレスを和らげるのだとしています。
 ですが、この本が書かれたのは、1997年のこと。この著者が日本でしばらく滞在していたのはそれ以前のことです。バブルが崩壊し、リーマンショックのあったあと、日本の終身雇用制はもはや形骸化しているように思われます。定年退職を延長するのも、会社にいたいからというよりも、そうしないとまだ家族たちを養わなければならない義務があるからといったほうが近いようにも思われます。さらに、ポストモダン化し、西洋式の個人主義が強くなってきた現在となっては、私を含め、私の世代の人間は、会社は奉仕するものではなく、自分の人生を豊かにするための道具にすぎません。そのような場で、自分の日常の時間を束縛されることは苦痛以外の何物でもありません。
 大学の友人でさえ、飲み会は面倒だから行かないといった人間が多く居る中、会社では上司の食事の誘いは、職場環境を円滑にするための一貫とは認識さえず、単なる仕事外の仕事になるだけなのです。だから、会社でも若手の社員が飲み会などは断り、すぐに帰宅するというのも、何に価値を置くのかということが変化してきたからなのです。
 もはや会社に属することがアイデンティティーの時代は終わり、自分の人生、生活をいかにゆとりを持って生きるかということが日本人にも求められるようになりました。それが、スローライフを主張する本などが多く出て来た証拠にもなります。

終わりに
 著者は、のんびり文化がいいとは言いません。その代わりに、自分の属する文化とは異なった文化、特に別の時間を持つ文化に触れることが大切だと言います。我々タイプAの文化圏の人間は、ブラジル、メキシコ、インド、インドネシアなどのタイプBの文化に触れたほうがいいわけです。触れるといっても、一週間程度の旅行ではあまり意味がありません。もちろん、それだけでもかなりのカルチャーショックを受けるとは思いますが、自分たちの文化を省みるまでには至りません。その文化に慣れ、自分の文化を省みはじめるためには、3カ月は必要だと著者は述べます。3か月ごろから、その文化に慣れてくるというわけです。ですから、一年くらいはその文化に浸っていないと本来はいけないわけです。
 忙しい日本にとって一年とか、三か月でもかなり難しい問題があるとは思いますが、しかし、私は日本人はこうしたタイプBの文化にいったん触れる必要があると思います。著者は、異なった文化の時間に触れることによって、自分の時間を省みるきっかけになると言います。著述家エヴァ・ホフマンの言葉を引用しながら、中庸の時間がいいのだと結論付けています。タイプAならば、タイプBを見て、そして自分にあったAとBの間の時間を見極めていくということです。あまりに何もしなさすぎると、人間は無気力になると著者は指摘しています。ブラジルに二年いると、自分がそこで成し遂げなければいけない研究などどうでもよくなってしまったそうです。ですから、自分にあった、適度な刺激のある時間のテンポがいいわけです。
 日本は、いくらなんでも速すぎます。それでいいという時代はあったかもしれませんが、現状と照らし合わせて、よく考えてみてください。ブラック企業、過労死という言葉がこれだけ叫ばれているということは、限界が生じているのです。流石にいくら自分の時間を大切にしろといっても、その前に殺されてしまいます。日本はもう少し時間のテンポを抑えなければなりません。
 それから、自分の時間を人に押し付けないこと。私はどうしても、日本の今のテンポに合わないなと感じてきました。大学のゆったりとしたテンポでもなかなかついていくのが大変です。そして、仕事なんてとてもではありませんが、出来そうもない。大学に入りたてのころも、少し鬱ぎみになったのですが、恐らく私が仕事をしたら一週間で鬱になるでしょう。それくらい、私のリズムは日本に合わないのです。なんでだろうなと考えて思い当たったことがあります。私は、小学生のころを5年弱、アラブで過ごしたのです。そしてアラブはタイプBの文化。のんびり文化です。3時には仕事は終わります。お昼も長いですしね。そうした文化で人間が形成される時期を過ごした私が、その後いくら日本にいようとそれに合わせることができるわけがないのです(ちなみにこの本のなかでは、タイプAB両方に順応できる人とそうでない人がいると指摘されています)。
 だから、私は東京に住んでいますが、職場はよほど東京でのんびりしたところか、田舎にいかないといけないわけです。
 皆さんも、このテンポAの中で、もみくちゃにされて終には自殺というところに達する前に、きちんと自分のテンポを見極めてそれに見合った場所、職場に変えることをお勧めします。人それぞれのテンポは違いがあるということをよく考えなくてはいけないと思います。
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