貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、1999) 感想とレビュー

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普段あまりミステリーや推理小説というものは読まないのであるが、今回はたまたま気になっていたので手に取って読んでみた。私も年間百冊以上は読んでいる人間であるが、それでもなかなか読書の世界は奥深くて、まったくしらない世界があまりにも広大にある。そのようななかで、すこしでも自分がいる場所がどんな場所なのか、読書の世界の地図というものを描こうとする。そうすると、これだけは読んでおけ、とか、これはおすすめ、といった本の案内書のようなものをネットなどでみることになる。こうした本との出会いは、そうした場所によって提供されているのではないかと私は思うのだ。こうした本を買う時はとりあえずBookoff等で、目についたかたっぱしからかごに入れていくのであるが、そこでびびっと来ると言うことは、おそらくどこかで一度その本を眼にしているということなのであろう。
私もこの本を購入してからずいぶんたち、どうして自分がこの本を購入したのか理由はわからないが、おそらくそれはどこかで一度目にしていたからなのだと思う。一度も読んだことはないし、知らない本なのだが、なぜかタイトルだけはどこかで聞いたことがある、という体験なのだ。

さて、ミステリや推理小説というのは、感想がじつに書きにくいもののひとつである。
内容に触れるとそれはネタバレになってしまうからである。
ここで筆者は悩まされるのだ。一つには、ネタバレにならないように書くという方法。それは、主にまだ読んだことがない読者にあてて書かれる感想である。またもうひとつの方法は、ネタバレありきで、どんどん深いところまでつっこんで感想を書くという方法である。これは、すでに読んだ人向けの方法である。私はいつも、この二つの方法の間で悩んでしまって身動きがとれなくなってしまう、優柔不断な人間なのである。

できるだけネタバレにならないように、中間をねらって書いてみよう。
この本は実際にとてもおもしろかった。それが、書読の感想である。ふたつの物語が交互に展開される。そしてそれら二つの物語はお互いに影響しあっているように思われるのである。当初私は、あ、これは村上春樹的だなと感じたものである。村上春樹以前からもちろんこうした構図はある。不勉強にも読書経験があまりにも少ないのでどこからそういうテクニックがうまれたのか、ちょっと確かなことは言えないが、別の物語りを意識的に交互に配置するというのは、夏目漱石もちょっとではあるがやっていることだし、漱石がやっているということは、それ以前にイギリス文学では当然あったと考えてよいだろう。
一つは、刑事の物語り。もうひとつは娘と仕事をうしなったうらぶれた人間の物語りなのである。今こうして書いてみたものの、実はこの二つの物語がそういう関係だったのか、と思うと、実に興味深い。両方々といってもいいわけなのである。
私はこの物語を読んだ際に、ナルトを思った。ラーメンにはいっているあのナルトである。この話は円状に回転しているように感じられるのだ。一度最後までいって、そこからまたもどってくる。しかし、またもどってきたその物語は最初の物語りにまっすぐつながるのではなく、そのちょっと上、あるいはちょっと下、を同じようにぐるぐるまわっていく。
この小説は一見すると二つの物語が提示されているのであるが、実はそれらの物語りというのは、ひとつの同じ線上の物語りであり、それを一度解体して再び構成しようとすれば、ナルトのようにうずまきを描いた物語になるのである。

内容として、ふたつの物語りのうちの一つである、完全に茫然自失となってしまった男性の物語り。ここにはだいぶ共感できた。私自身、うつになってしまい、たった二ヶ月で職場を後にせざるをえなかった人間とした、その後の静寂の、まったくなにもやることがない、やる気がおきないという状況を、貫井徳郎はよくとらえて、かけていると思ったものである。
ただ、やはりちょっとご都合主義的なのは、この人物が働かなくてもそれなりにお金のある存在だということである。普通、と呼ばれるような、一般人は、働かなくなったらもっと数か月。それ以上は食っていくことができなくなってしまう。私のようなニートでない限りは。その点で、この人物が誰にも邪魔されない、というのは家族と一緒に住んでいないのにもかかわらず、しかも働いておらず、それでいて自由が効く、というのはちょっと設定として恵まれすぎているなと思わなくもなかった。
もちろん、ミステリや推理小説というものは、そんな一般や普通の人間の普通のできごとを書いているわけではないのだから別にいいといったらいい話なのではあるが、単純にうらやましいということなのだろうか、自由でいいなとは思った。

それに、それまで堅実な人間だったものが突如としてそうした精神世界にのめりこんでいってしまう、というのも、なかなかよくわかるはなしである。そうしたスピリチュアルなものへふとした瞬間人間は傾倒してしまうわけである。そんなことは90年代のオウム事件を考えればすぐにわかる。そうした人間の弱さのようなものが、表面上は強く見えるのではあるが、がよく描けていたと思う。
なによりもその物語の構図がよくできていた、と思う。が、それはそれ以上批評することもできないので、ここらへんで筆をおくとしよう。

重松清『流星ワゴン』(講談社文庫、2002) 感想とレビュー



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今回、重松清を初読書することとなった。『流星ワゴン』は以前からタイトルだけは知っていて、泣ける話であるという情報だけはあったのであるが、実際に読んだことはなかった。
物語りの解説はほぼ斉藤美奈子が要を得た解説をしてしまっているので、いまさら私が書くことはそうないかもしれない。が、斉藤美奈子が女性であり、本質的にはわからないといっているように、私自身は男であり、しかも父親との葛藤をかかえているという身から、この物語を感覚的に理解できるという強みはある。今回はその感覚的な部分をすこし明文化してみることによって、感想とさせていただくことにしよう。
私自身この本をこれから仲の悪い父に読ませるつもりである。私と父はさまざまな問題から、この物語の主人公、雄一とチュウさん、あるいは、雄一と広樹のように仲が悪くなってしまっている。今では一緒の家にすんでいても、夕食時にほんのすこし言葉を交わすだけ、というところにまでなってしまっている。私自身をこのような精神的に追い詰めてどうしようもなくなってしまったのは、すべてがすべてとは言わないが、しかし極めて大きな部分で父の影響であると思っている。それを何度も口にしているが、父自身も、開き直って、ああ、全部俺が悪いんだな、となってしまっている。きちんと反省してもらって、これからの対話をしていくうえでも父にはまだまだ学んでもらわなければならないことが多いと感じている。
斉藤美奈子が引用しているように、この資本主義社会においては、父は会社という公の場に出ることになり、子供との接点が極めて少なくなってしまっているという問題がある。これは社会的な構造の問題で、構造にこそ欠点があるというわけである。私自身も父との接点はすくなかったにもかかわらず、強権的な父によって無理やり中学受験をさせられ、あまつさえ高校三年生になってからも大学受験をさせられるということになった。結果として受験をしたことは私にとってはプラスになった。それはたとえ受験する前よりも偏差値の低い学校になったとしても、私は何も考えずに法学の道にすすもうとしていたのを本当に好きな文学の道に変化させられた、という点においてはそういうことはできる。しかし、やはり結果としてはよかったかもしれないが、それと嫌なことをさせられる、自分のことを勝手に決められたという経験とは別物であり、それは区別して考えなければならないことだと思う。結果としてはよかったかもしれないが、その課程で嫌なことは嫌なことであったわけであるし、それを赦せるかというとそういうわけにはいかないのである。
この物語の雄一も、チュウさんという極めて強権的な人間を父にしてしまったがために、人間として再起不能な場所にまで陥ってしまったと考えることができるだろう。もし、父とのディスコミュニケーションがなければ、きちんとコミュニケーションが取れていれば、父に助言をこうたり、援助をしてもらうなどして、妻の不倫と息子のグレと、リストラという問題からも立ち直れたはずなのである。そのような困難を目の前にした際に、強権的な父によって育てられた人間は押しつぶされてしまう。私自身がダメになってしまったのと同じように、雄一もダメになってしまったのである。

本書のなかで一番いいなと思った言葉に線を引いた。それはこんな部分である。
「現実はね、思いどおりにならないから・・・だから、現実なんですよね」
という部分だ。もちろんこの物語自身は、こんなことをいっていながらも、現実には反映されないとしても、やり直しをする機会がもうけられているのである。もちろんこれは小説なのだから、そんなことまでいちいちずるいといっていたら批評もなにも成り立たなくなってしまうので、それは認めたうえで話をすすめることになるが、小説内でそのように言及されながらも、そして現実には反映されないという条件付きではあるが、やり直す機会を与えられるのである。やはりそれは、誰もが夢見ていることなのであり、それを仮構のなかで示すのには意味があると私は思う。それこそ小説の役目であるのではないだろうか。
だからこそ、この小説は、現実には起こり得ない、とみんながそう思っているにもかかわらず、でも、そうであったらな、そんな機会があったらな、と誰もが思っていることを描いたからこそ、名作の仲間入りを果たしたのではないだろうか。とすればである。この社会構造的に父と子というのは分断されてしまったのであるが、それこそをもう一度見直す必要があるのではないだろうか、という問題性が浮かび上がってくる。私のような反資本主義人間は、すぐにヨーロッパの諸外国のように、一日の労働時間を6時間くらいに減らしてもっと家族といる時間を増やすようにすればいい、というような安易な解決方法を提出するわけであるが、みなさんはどうお考えになるだろうか。
ともかくも、この物語がこれだけ読まれるということは、父と子の問題が社会全体のテーマであり、なんとかそのディスコミュニケーションからのコミュニケーションを取り戻したい、というみんなの希望がそこにあるように感じられるのである。

「親子って、なんで同い歳になれないんだろうね」
これもまた心に響いた一文である。私ももし、自分の父親と同じ歳で会うことができたのならば、友達になれていたかもしれない。親子になってしまったがために、このような不仲になってしまった。本当は不仲になんかなりたくない、できることであれば分かり合いたい、そう思っているのにもかかわらず、男は不器用なもので、そしてへんな意地やプライドがあるために、うまくいかないのである。
物語りとして女性の視点が圧倒的に欠けている、と著者自身も斉藤美奈子も言っている。私も確かにそう思うが、敢えてそれを排除することによってテーマが明確になっているという斉藤美奈子の指摘も正しい。私はこれはこれで十分に完成された作品であり、訴えるところの明確な大衆小説にもかかわらず、きちんと批評にもたえられるだけの力を持った作品であると思われるのである。

高橋源一郎『悪と戦う』(河出書房新社、2010) 感想とレビュー

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高橋源一郎の『悪と戦う』という小説を読んだ。高橋源一郎体験は、他に『文学がこんなにわかっていいのかしら』という評論本以来である。
小説家としても文芸批評家としても活躍する高橋源一郎氏であるが、私はその評論家としての顔しかいままで知らなかった。評論家としての高橋源一郎は他の評論家に負けないくらいのするどい、理知的な評論家として、私のなかでは尊敬に値する人物として印象付けられていた。また近年では政治的発言も多く、その思想が私のものと一致していることからも、尊敬の念を抱いていた。

しかし、何人もの奥さんとその間に子供が何人もいることや、今回の小説を読んで、やや考えを変えなければならないと私は思ったのである。もちろんそれまでの尊敬の念が消えることはないが、しかし盲目的に尊敬しようという、私の青年的なヒロイシズムはやはり脱却しなければならないように感じられるのである。そうした盲目的な信仰ではなくて、ある程度距離を置いた尊敬の仕方というものを学ばなければだめなのだな、と今回この小説を読んで感じたわけである。それだけこの小説は、私の期待があまりにも大きかったこともあるが、私に一種の失望を感じさせた。

帯には「いまのぼくには、これ以上の小説は書けません」と書いてある。もしこれが高橋源一郎の小説家としての腕前なのだとしたら、小説家高橋源一郎の力はそんなに高いものではないといわざるをえない。書いている本人だからかもしれないが、この小説程度ならば、私が書いた小説のほうがよほどおもしろいと思えるのであるが。やはり小説も他の作品もそうであるが、その作品そのものより、つまり何が書かれているか、よりも、誰が書いているかのほうが重要視されてしまうのだな、というのは残念なことである。

この小説は分厚いわりに、紙が厚いので、二百五十ページほどしかなく、しかも一ページの文字がずいぶん大きく文字数も少ないことから、簡単に読めてしまう小説である。時間にして3時間ほどというところであろうか。
内容は作家高橋源一郎と思われる人物が登場人物として登場する。そのあたりは自分と非常に近い人間を主人公としてくる大江健三郎のような作風に似ているかもしれない。が、途中から高橋さん家の子供であるランちゃんと呼ばれる三歳児の子供が主人公となる。
なんと世界が崩壊しはじめているのだ、としてこのランちゃんが世界を救うための冒険に出るのである。

しかし冒険に出るというのであれば、もっときちんと出てほしかったのは言うまでもない。せめてモリエトのカラフルくらいの冒険の描写は必要だったのではないだろうか。その点を宮部みゆきなどと比べてしまうと、あまりにも力の差が歴然としてしまう。
ともかくこのランちゃんという少年は13歳ほどになり、なんどもなんども、状況、場面の異なった場所で、お友達のミアちゃんという少女と対峙することになる。
最終的にはミアちゃんを後ろであやつっていた悪の根源である存在と対峙し、世界は救われるということなのである。

この小説における「悪」とは、産まれてこれなかった子供の魂のような存在である。その存在が生まれてこれなかった悲しみや恨みといったもので世界を自分のものにしようとしてしまっているということなのだそうだ。この世界においては、なんどもそうした悪との戦いが子供たちによって防がれているという。
その結果、ランちゃんの弟のキイちゃんは、戦いのために言葉を置いてきてしまって、現実世界ではしゃべることができない状態になってしまった。お友達のミアちゃんは戦いのために顔を残してきてしまい、現実世界では奇形と思われる顔になってしまった、という説明がなされる。

この小説では、ミアちゃんのお母さんが大声を出すという場面があるが、その場面のなかで、一度自分も大声を出したことがあると高橋は言う。おそらくそれは小説内においては、産まれてくることができなかったランちゃんの姉であるマホさんが生まれてこられなかったときのことなのだろう。この小説は、作家高橋源一郎が、自分の生まれてこられなかった娘と、産まれて来たものの障害を持って言葉がしゃべれない息子のために、その理解不能性をなんとか理解しようとして生まれた小説なのではないだろうか。

一度高橋源一郎氏と同じく明治学院で教鞭を取っているエコロジストの辻信一氏の講演会に出たことがある。その際確か、高橋源一郎は自分の息子が障害を持って生まれて来たということを語っていたと記憶している。あまり作者のことを作品に持ち込むのは、テクスト理論を学んできた身としては気が引ける思いもあるが、しかし登場人物の小説家がタカハシと呼ばれていることからも想像すると、この小説はむしろそうやって自己療養のために高橋氏が納得できない理不尽さをなんとか自分の中で言語化しようとした際に生じた作品と読むことが可能だと思う。事実そうしたほうがこの小説の価値というものは出ると思うし、1人の人間の、あれだけ文芸批評のできる理知的な人間が、その理知では納得できない現状を目の前にした際にどのように言語化していくのかという点において、貴重な資料となりうるものである。

私も失恋しては小説を書き、ということを大学時代にやっていた。実際そうしてできた作品は自己療養のたまものでしかない。太宰治の小説だって、人間失格にしたって自己療養のたまものでしかないと私は思う。多くの小説が純粋な想像力によって生まれたものではないように、いくつかの小説は自己療養から生まれた物であり、それがまた作品とないうるのが文学のいいところなのである。
この作品はひとつのエンターテイメントとしてはちっともおもしろくないしつまらない小説である。しかし、これが作家高橋源一郎の、産まれなかった娘と障害をもった息子をどう考えるかという一つの考えの軌跡なのだとしたら、そこに一見の価値はあるのではないだろうか。

百田尚樹 『永遠の0』 感想とレビュー 特攻隊とテロリスト

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 「今、百田尚樹」という帯のキャッチコピーに対して、「今更、百田尚樹」
 いかんせん、私自身が左翼的な人間なので、どうしても安倍晋三と仲の良い、右翼的な作家である百田尚樹のことは、嫌厭してきてしまったという点がある。1人の人間であればそれもまあ別になんということもなかろうが、仮にも文藝批評家を自認する私である。そういう人間が、特定の偏った思想を持ち、また特定の偏った思想を持っている人たちのことを忌避していてはいけないのではないか、と思わずにはいられなかった。というのも、きちんとどんなに名作と呼ばれていようが、あるいはいいものとされていようが、自分で確かめなければだめだよ、ということを授業で私自身が教えているからである。ちなみに、川上未映子の『ぐうぜん、うたがう、読書のすすめ』という教材で、である。
 今回は原作に触れてみた。
 まず私が『永遠の0』と触れ合ったのは、映画版であった。劇場ではなく、確かレンタルか、地上波で観た記憶があるので、2014年ごろだったと思う。
 その当時みんながみんな、『永遠の0』と言っていて、一つのブームとなっていた。私は常にブームには乗っからない人間で、いつも少し離れた立場からものごとを見ている人間である。だから、この時も、劇場に足を運ばす、少し熱が冷めてから見たという感じがあった。友人のなかにも、この映画に感動した、というのが何人かいた。ほぼ同時期に公開されたジブリ映画の『風立ぬ』で号泣してしまった私は、感動ものと聞いて、またこの映画でも泣けるのではないかと期待していた。ところが、実際に映画を観てみると、ちっとも感動しなかったのである。
 原作を読んでみて、改めて私はまったくこの作品に感動することがなく、不感症なのではないかと、自分のことを疑ってしまうくらいである。だが、感動しなかったものはしかたがない。他の作品に感動することはあるので、私自身が不感症ということではなく、単に相性が悪かったということなのだろうと考えておく。

 ただ、発見もあった。
 私がこの本を購入したのは映画がブームになっている最中のことであったろうと思う。この本自体は2006年に発売されているので、かなり古い本ではあるが、それがブームになったのは、ここ二三年の話であろうと思う。私もブームにのって買うことには買ったのである。ところが、しばらく寝かせておいた。
 私には、仲の良い研究者の飲み仲間の先生がいるのだが、この先生が、先日この作品を、私と同様忌避していたのだが、あるきっかけがあって読んだといっていた。ふと、私も先生とこの作品について語りたくなったので、読んでみた、ということである。
 実際に読んでみて、私自身は百田尚樹のことが、どうにも好きになれなかったのであるが、これを読んで、まあまともな作品を作っているな、という感じは受けた。それまでの百田尚樹のイメージはひどいもので、安倍晋三のことが好きすぎる右翼作家としか思っていなかった。そういう人間が書いた作品なのだから、当然作品にも、それなりの思想的に気持ちが悪いと反応せずにはいられないところがもっとあるだろうと思っていたのである。
 だが、実際に読んでみて、嫌悪感とよべるようなものはそう感じることはなかった。あくまで全体に対しては、ということであるが。
 本筋であるゼロ戦で戦った人間、特に特攻をした人達の心理描写、という点においては、非常に決然とした態度を作家がとっており、中道的な立場からの物言いになっていたのではないかと思う。この点に関しては、見事だと思った。私自身小説を書いたりするが、なかなかこのような書き方は難しい。私ならば、もっと感情があらわになってしまうような文章になっていただろう。百田尚樹は、人間百田尚樹としては、かなり右翼的な人間に見えるのに対して、作家百田尚樹は、作品のなかでは、そうした思想上のものはあまり開陳してこなかったのである。その点に関しては少し共感を覚えることができた。
 ただし、だ。もちろんこの作品に欠点はある。本筋がしっかりしているので、許してあげたいところではあるが、しかし、それでも欠点はある。
 1つめの欠点は、やはり姉慶子の仕事先の上司であり、後に結婚するのどうのともめる高山隆二の存在である。彼がどこに勤めているのかは、本文中のなかには明示されないが、おそらくは朝日新聞社であろうということが判明する。
 その前に私自身の立場を示しておくと、私は左派的な人間であるし、左翼を自認するが、しかし朝日新聞社は嫌いである。のみならず、新聞自体が嫌いである。当然テレビも嫌いである。そういう立場であることを先に断っておく。だから、私は自分が好きな朝日新聞社が攻撃されているから、という理由で憤るのではない、ということだ。
 それにしても、である。いくら百田尚樹が朝日新聞を嫌おうがなんだろうが、この高山の描写にはあきれ果てるものがある。陰湿な女子中学生が書いた嫌がらせ文のようである。高山は特攻隊員は現在のテロリストと同じである、と豪語する。確かに天皇や神を信じ、それに対して自らの命をよろこんでささげる、という点において構造は同じのように見える。実際私もこの作品を読む前は、そんなに区別がつかなかったのであるが、それは違う、と作者はあるいは、特攻隊だった人々は言うのである。
 そこの論理は明確で、誰もが自らよろこんで特攻をしていたわけではなかった。軍部の人間がいけないのだ。途中から特攻はなんということもなく、命令として行われていた、ということが陳述される。だから、特攻隊を現在のテロリストと一緒に考えるのは、特攻隊員に対して失礼であるということは、この作品を読めばよくわかるのである。そして、この作品のテーマは何かというと、まさにこの部分、特攻隊員は取れリストたちとはまったく違う、ということなのである。
 私もこの部分に関しては共感する。彼等がテロリストと一緒にされてしまうのは、あまりにも悔しい。その点では、確かに私は左翼の人間だし、反戦主義者であるし、戦争を嫌っているが、彼等の精神性がテロリズムのそれとは一緒であるとは、思わない。この点において私はこの作品がまともであり、すごいなと思ったのである。文庫本で600頁に近い小説としては長い方に属するこの本であるが、この本であらわしたかったことはといえば、まさにこのことに尽きるのではないかと思う。

 もちろん、テロリストたちとの違いを明確にするためには、高山のような人間を引き合いに出さなければならなかったのはわかる。しかし、それでももう少し書きようがあったのではないか、と感じ、この部分は欠点ではないかと、指摘して置く。
さて、さらにだが、この小説は、過去をめぐっての物語である。各章、それぞれの登場人物が宮部久蔵についての思い出を語り合う。小説の8、9割は宮部久蔵に関する、過去の陳述なのである。残りの、1,2割がその過去の物語を聴いている現在、2004年現在なのである。
 過去の物語に比重が置かれているのはいいが、その反面、現在があまりにもおろそかになっている、という点はいなめないと思う。
 ここまで過去をしっかりと書いた作者なら、もう少し現在に配慮してもよかったのではないかと思ってしまうわけである。この作品において、「現在」は極めて微妙に描写されてしまっている。中途半端なのである。
 この小説は、宮部久蔵の真実の物語が解き明かされていくのと同時に、現在における、主人公二人、司法試験に落ち続けてうらぶれたニートになっている佐伯健太郎と、結婚相手をどうするかで悩んでいる佐伯慶子の問題が解決の方向にすすむようになっている。
 だが、である。会ったこともない祖父の話を聞き続けるということを通じて、そんなに人間が簡単にかわってしまっていいものなのだろうか?という疑念が残る。実際この小説では、見事に万人が「よかったね」と思えるような恰好で、健太郎はもう一度司法試験をめざし、慶子は結婚相手に高山ではなく藤木という男を選ぶのであるが、それはあまりにも軽薄すぎないか、と思われるのである。そういうことを描くのだとしたら、もう少し描写をしなければならなかったのではないかと私は思うのである。あまりにもこの部分がご都合主義的な感じがして、薄さ、軽さを感じてしまうのだ。
 私が指摘したのはこの部分である。どうせこんな風に適当な感じになってしまうのであれば、いっそ何も書かなかった方がすっきりし、作品に軽さも生じなかったのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 最後に、やはりこれだけは指摘しておかなければならないのは、そうはいっても、この作品は戦争をやや美化してはいないか?ということだ。
 特攻隊員がテロリストたちとは違う、ということはよくわかった。それが仕方なかったことであり、そのなかで男たちは見事に死んでいったのもよくわかる。しかし、それがこの作品を通じて、まるでよかったことのように見えはしないか、そういう日本人の精神性が素晴らしかった、過去を見習え、みたいなことにならないか、という思想上の問題が残るような気がするのである。
 2014年は特に、2012年最後から発足した安倍内閣の隆盛期であり、ナショナリズムが高まってきている時にあった。そのなかで、もう一度日本という枠組みを強化させ、融和ではなく、対立を以て諸外国と向き合おうという流れのなかに組み込まれているのではないか、あるいはこうした作品がそういう流れを作り出しているのではないか、ということが心残りである。

恩田陸『ライオンハート』 感想とレビュー

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 本との出会いは不思議なものだ。一年に百冊程度は読む私であるが、しかし、読めば読むほど、世の中では、もっと早いペースで本が発売され、とてもその全貌を、何年生きようとも掴むことはできないな、とあまりにも大きなものに対した時のような、軽い絶望感を覚える。
 そんな私であるが、ここしばらくは新書をずっと読んできた。いずれ書こうと思っているのであるが、私の進退に著しい変化が起こり、現在では横浜よりもさらに南のとある学校で教鞭をとることになっている。それはいいとして、問題なのが、その遠さなのである。片道2時間弱、往復で3時間以上はかかっているこの通勤の時間。私はこれが最初苦痛でしょうがなかったのであるが、そこは割り切って、というか発想をかえて、それだけ読書する時間が与えられたのだという風に解釈するようにした。
 さて、そんななかでずっと新書ばかり読んでいたのであるが、しばらく新書が読みたい!と思って読んでいると、流石にそれも疲れてくるものなのである。何か時にはあんまり頭を使わないで、楽しめるものが読みたくなる。そんなときに、ふと古本屋で手に取り、そして積本のなかに置いていたこの本に、ふと手が伸びたのである。

 この本は、私がこの本に何かしらのシンパシーや運命といったものを感じたように、まさしく「運命」について書かれた本である。
 これは、読んだ時にはっとしてしまったのであるが、実は私も、輪廻する時間のなかで巡り合う男女、というものを書こうと小説の構想をねっていたのである。だから、本書を読んだ時には、やられた!と思わずにはいられなかった。だが、私には私なりの良さがあると思うので、そこは恩田先生に負けないようになんとか、将来書いてみたいと思っている。
 さて、それはいいとして、この本がおもしろいのは、時間系列がめちゃくちゃな点である。
 私自身、輪廻する時間のなかで男女が何度も巡り合い、恋愛をするという小説を書こうと思っていたのであるが、それはこんな風に展開する予定だった。神代の時代の恋愛、平安時代の恋愛、武士時代の恋愛、江戸時代の恋愛、明治時代の恋愛、昭和時代の恋愛、平成時代の恋愛、こんな風に時系列順で、なんども巡り合う男女を描こうと思っていたのである。まあ、ある意味平凡といえば平凡なのだ。誰もが発想できる展開である。
 ところが、そこは流石は恩田先生である。なんとこの小説では、時系列は無視されている。1978年が舞台となったかと思うと、1932年に飛び、ついで1871年、その次はちょっと戻って1905年、そしてついには1603年にまでさかのぼってしまうのである。
 通常過去の記憶を持っている、というのは考えられることではあるが、この小説では、1603年時におけるエドワードとエリザベスは、1978年の現在にまで起こった、さまざまな邂逅、出会いの記憶を共有することができるのである。そういう意味で、この小説は、時間軸や、タイムリープものの、常識、というか概念のようなものを無視してしまっているということが出来よう。
 私は、タイムリープものを評論するときに、その整合性についてああだこうだというのはあまり好きではない。現実にタイムリープが存在しないことにおいては、いくら論理で行っても意味がない、というのも一つだし、そもそも作品なんだから、という感覚もある。そういう一面を持っているものの、しかし、あまりにも整合性が取れていない作品などがあれば、それは矛盾していると糾弾せずにはおられないのではあるが。
 だが、この作品は、最初から一直線に伸びるような時間軸の前提に立っていない。時間軸は、歪曲し、ねじれ、線上ではとらえられなくなっている。そのような前提に立てば、未来から過去に、過去から未来に縦横無尽に駆け巡ったとしても、その記憶を保有することができるのかもしれない。この小説にはそういう意味で、いままでのSFの「常識」のようになってきたものを、破壊し、再生産するだけの力があったということができるだろう。

 また、この小説について評論するうえで特筆したいのは、この作品の絵画性である。私は文庫本を読んだのであるが、紙が一般の文庫本と比べて、厚く、上質なのである。なぜなのかな、と思ったら、それは途中、それぞれの章立てで、絵画の写真を入れたからであった。通常のぺらぺらの紙だと、上手く印刷できなかったのだろう。それゆえ、この小説は、他の作品と異なり、上質な紙が使用されている。
 通常の小説に、このように絵画などが引用されることはあまりない。それゆえに、ここで引用されているそれぞれの名画は、実にこの小説に彩を豊かに与えてくれる。

 恩田陸の作品は、『夜のピクニック』しか他に読んだことがないが、これから少しずつ彼女の作品を読み解いていきたいと思う。
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