『ブレイブリーセカンド』感想とレビュー

ブレイブリーセカンドを一通りクリアした。裏ダンジョンや裏ボスがあるのかは今の所知らないが、ひとまず、息をつきたいというところか。というのも、私は最近いろいろなものに体力を見出すのが好きで、世の中にはゲーム体力なるものも存在すると思うのであるが、私自身がそのゲーム体力が高校生くらいのときと比べるとかなり衰えて来たようにも思えるのだ。だから、かつてならば、よし裏ボスまでみっちりコンプリートしてやるぞと思ったところであったろうが、現在となっては、精神状態もあまりよくないということも影響し、ひとまずクリアしたから、もういいかな、という息も絶え絶えな感じなのである。

さて、今回のセカンド。やはりセカンドとタイトルにも名前がばっちりと出てしまっていることであるから、それを購入する人というのは、デフォルトをすでにやったことのある人、に限られてしまうだろう。もちろん何かのミスでセカンドから始めてしまうような人もいるかもしれないが、それはごくごく限られた人数に過ぎない。まあデフォルトはかなりヒットした作品であるから、デフォルトをやった人達の半数でも購入してくれれば万々歳といった計算のもと制作されているのかもしれない。ラストには、ブレイブリーソードの謎が言及され、これは三部目もあるのか?と思わせる内容になっていた。今すぐにはちょっとやりたくないくらいには疲れているが、いずれまたあと一二年経過したあとにであれば、やってもいいかもしれない。

十年代に入ってからは、3・11があり、さまざまな価値観が崩壊してしまったり、今まであった価値観への反逆、まどかマギカのようなカウンターカルチャーが流行ったりした状況のなかで、この作品は、これぞ王道という、王政復古ではないけれども、かなり回帰主義的な部分がないわけではない。
もちろん、3DSのカメラを使用して、ゲームがゲーム内の狭い世界に閉じこもるのではなく、我々プレイヤー世界とも実はつながっているのだ、といったような、メディアを越境するようなおもしろく新しい試みも当然そこには含まれてはいるのであるが。

そうした新しい試みがある反面、いまとなっては、誰も口にしなくなった、くさいようなメッセージをこの作品はプレイヤーに届けようとしているのである。このゲームをプレイしているのが現代若者たちであるとしたら、その若者たちに対してのメッセージというものが、それだけでなくどのような意味を持ちうるのかということを少し考えてみたい。私たちは高度経済成長もバブルも経験していない世代であるから、まったくもって経済や社会に対して明るい未来を見出したことがない世代なのだ。産まれてこのかたいいことはちっともなかった世代といってもいい。そのような世代を生きる人たちは、きっと宮台真司のいうような、まったりとした生などそれぞれ独自な生き方を見付けて行ったことであろう。

私は社会に進出したものの、たった二ヶ月で嫌で嫌で仕方なく、抑うつ状態になってしまってニート、ひきこもりになるという、典型的な現代の挫折物語を体現した人物であるが、そのような人物が多いなか、このゲームはそのような人達にどのようなメッセージを与えるのか、ということが私の気になるところなのである。
というのも、なぜそういう図式が成り立つかというと、そもそもゲームをやる人種というのはかなり限られている。ゲームブームがあるわけでもないし、このようなゲームをやる人種というのは、それだけでかなり限られてしまっているのだ。つまり、必然的にゲームをやる若い世代の、さらにオタクに親和性のあるような人達がプレイすることが前提とされているはずであり、このゲームはそのような人達に少なからずメッセージをおくっているということができると思う。

で、そんないい未来もない、スレてしまった我々若者オタクたちに対して、いまさらそんなのねーよ、といいたいような、「勇気」というものをこの作品は再提示してくるのである。今回はブレイブリーセカンド、やり直す勇気というのがテーマであった。前作ブレイブリーデフォルトは、従わない勇気。いったい何に従わないのか、確かに、そういえば、私たちはなにものにも従っているつもりはなかったかもしれないが、何かに反逆していきていたわけでもなく、それすらも気づかされないような従順な生き方を強いられていたのかもしれない。だからこそ私たちは何かそうした漫然、漠然とした支配的なものからの反逆、自分らしく生きるということをしてもいいのではないか、という目覚めのゲームだったのだ。

しかし、そのように目覚め、自分の生き方を模索しようとするとかならず失敗する。あるいは、そのような模索がなかったとしても、現代の若者は疲れ果て、社会や家族といった、かつて人々を守っていたセーフティーネットはすでに崩壊し、守られるものなき世界において、一人で世界に立ち向かい、恐れおののき、失敗を恐れ、ひきこもりになってしまっている。そのようななかで、もう失敗したくないという想いのために、私たちは身動きが取れなくなってしまっているのである。だが、それでも、ブレイブリーセカンド、がんばリベンジ、諦めない限りはなんどでもやり直せるのだ、ということをこの作品はメッセージとして伝えてくれているのである。

90年代のエヴァ的発想は失敗するのがこわいからなにもしないという想像力であった。宇野常寛は、ゼロ年代の想像力はひきこもっていたら殺されてしまう、というサヴァイブ感と『ゼロ年代の想像力』のなかで見事に喝破した。しかし、それでも10年代の私たちはふたたびひきこもりになっていると思うのだ。ひきこもりは少数派かもしれない。どちらかというと、さとり世代といわれるように、無に近い感覚でこの世界を生き延びようとしている。十年代の私たちは、もはや失敗は最初からつきもので、織り込み済みなのだ。失敗するのはあたりまえ、その上で、さらにどのように生きていくかということを選択しなければならないのかもしれない。

追記として
今作では、ラスボスの存在が、唐突な感じがして、あまり思い入れもなく倒すこととなった。これはドラクエ5でも出た言説であって、ゲマがラスボスになるのかと思ったら、ゲマはラスボスの手下で、その後イブール、ミルドラースと、およそそれまで知らされもしなかった存在がボスになっていき、なんとなくなぜ倒さなければならないのかわからないままに倒すことになってしまった。
前作デフォルトでは、倒すべき敵と思われるのは、最初から最後まで一貫してひとつの存在であったのに対して、今作は、最初は帝国かと思ったら、実はそれをうらであやつっていた、妖精族エアリーであり、さらにそのエアリーを手下としていたプロビデンスという存在だったということになり、プロビデンスがいったい何なのかがよくわからないままにラスボスを倒すということになってしまった。

さらに言えば、ベガとアルタイルがいったいなんだったのか、というのも実は私のなかではちっとも納得がいっていないのである。ベガとアルタイルがそんなに重要な位置を占めるのであれば、もっと初めのほうから、伏線なりを仕込んでおいて説明をきちんとすべきであったろう。
ただ、今回はベガとアルタイルという何億年も前の存在の友人であるという人物が、これまで冒険者として、各地に存在していた謎の人物であったということが判明した。おそらく次の作品をつるくのであろうから、そこで伏線が回収されることを望む。

あとシステム上、どうしてもいっておきたいことがいくつか。
やはりブレイブリーセカンドの課金はどうしたってやめたほうがいいと私は思う。今作は、前作へのプレイヤーたちの意見などをもとに、改良を加えたシステムになったと説明があったが、それはいいとしても、どうしたって課金ゲームに近くなっていってしまっているのは残念で仕方がない。
課金ゲームはカンコレをほんの少しやってしまっただけで、ちっともおもしろくないなと思ってやめてしまったのであるが、ゲーム上必要となってくるなんちゃらストーンのために課金する、といった現代の風潮は、よろしくない、ともちろんそういうのがあってもいいけれども、と思うのである。
何よりも、きちんと料金をはらって購入しているゲームへの課金はやめたほうがよいと私は思う。課金ができる、という説明が作品冒頭のほうでなされたとき、ほんとにこのゲームをやめようかとも思ったくらいだったのである。これでは子供が安心してプレイできないではないか、というのが私の感想だ。子どもには昔のドラクエなどをやらせたいなと私は個人的に思うが、それは安心してゲームができるからだ。もしよくもわからないもののゲームができるといった、小学生くらいの子が、このゲームをやっているなかで、楽にできるからという理由でSPポイントを買いまくってごらん。それを誰が払うのかという問題になる。やはり子供がシステム上安心してプレイできないようには私はしないほうがいいと思う。何よりもそれによって垣根があがってしまうからだ。できることならば、親が安心して子どもに買い与えられるようなものになってほしいものである。



『機動戦士ガンダムSEED』(50話、2002-03) 感想とレビュー いかにして「毒親」と向き合うか

最近突如としてガンダム熱がはいってしまった。もとはといえば、私のサブカルの先生が富野信者で、キングゲイナーをうたっていたことから端を発し、隣接した作品である∀ガンダムを見た次に、では富野監督作品ではないけれども、ということでシードを鑑賞することとなった。
宇宙世紀主義者である私からすれば、同じガンダムを名乗っていいのは、やはり正史に属する作品であってほしい、という選民思想のようなものがあったので、この作品をきちんと見ることができるかどうか、というのが私のなかでの課題であった。

結論としては、まあまともに鑑賞することはできたのではないかと思う。登場人物が、2002年にもなり、富野監督でないために、やはり普通のアニメのような造詣になってしまうのは致し方なかった。私はやや苦手であるが、アニメっぽい登場人物たちの登場によって、これはこれで新しいガンダム像を提示できたのではないかと思う。それよりは、ロボットや戦艦といったものが、宇宙世紀のガンダム作品にかなり寄せられてつくられていたので、その点、かつてからのガンダムファンでも見ることができたのではないかと思う。事実私もそうであった。

さて、しかし50話も鑑賞していながら、なにを論じようかという段になると、かなりむずかしい。それはファーストガンダムにしろ、同じであろう。やはり大きすぎるというのもあるけれど、何を論じていいのかわからなくなってしまうという感じはある。
Wikipediaによれば「監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『非戦』というテーマを描いた」とのことである。」そうだ。しかし、この作品の直前に、∀ガンダムを鑑賞した私としてはこの作品を非戦というのはやや苦しいかなと思うところである。というのも、∀のほうがより真剣に非戦に関しては深く論じていると思うからである。

非戦といいながら結局は「守るもの」のために戦っているし、この作品は非戦と呼ぶにはつらいものがある。それよりかは、戦いたくないにもかかわらず、戦争という現実問題が目の前に展開されるなかで、否応なく守るもののために戦いを選ぶ、という決断主義として捉えたほうが正確であろう。
「加えて竹田は、「再選を果たしたアメリカ ブッシュ大統領がファルージャでの掃討作戦を展開し、ますます混迷を深めるイラク情勢」についても述べ、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を観ることで「視聴者が世界情勢を少しでも自分の身にひきつけて考えてもらえるようになれば」とも語っていた。」というところからも、この作品がゼロ年代の想像力において、戦わなければ殺される、という緊迫したサヴァイブ空間のなかで、それでも戦わなければならない、という決断主義のほうがより正しい気がするのである。

実際95年のエヴァでは、主人公は24,25話において戦いを放棄して自分の心理のなかに閉じこもってしまったわけであり、その点では、やはりこの作品は非戦というよりかは、決断主義のもとで戦わざるを得ないという選択肢しかとらざるをえない登場人物たちの戦いを描いた作品ということができるだろう。
それよりも私が気になったのは、この作品が、特に前半部において親との関係がテーマとなりうるのではないかという点だ。
最近では「毒親」という言葉がネット、特にTwitterなどで注目を集めている。それまでこのような自分の心情を吐露できるシステムがなかった時代においては、あるいは、知人以外の人間の、自分達と似たような境遇を持った人達のことを知る術がなかった時代は、それらの心情、経験というのは自分個人のものとして、抱え込んで生きていかなければならないことであった。

しかし、このように自分の心情を吐露することができるようになり、また同じような境遇の人を発見しやすくなったということもあり、自分達がいかに、「普通」とは違った育て方や受け方をしていたのかということが露呈し、「毒親」というセンセーショナルな言葉と共に、Twitterの世界などにおいて、その感情や経験の共有がなされてきているのである。
この作品もまた、目標となるべき大人の存在が欠如しており、主要な登場人物たちの親がひどく悪い人物のように描かれていることからも、一つの原初「毒親」作品ということができるだろう。

もちろんこの作品が、よくもわるくもあまりにも巨大な「機動戦士ガンダム」という一連の作品の子どもであるという構造的な問題もそこにはリンクしてくるであろう。この作品は、登場人物たちがそうであるように、すでに社会においては成功している、あまりにも巨大な父母からいかにして、自己というものを立ち上げていくのかというのが問題になってくるのだ。しばしば親が会社社長だったりどこかの議員だったりする子というのは、我々現実においてもかなり歪んだ、いびつな存在になっている。ダメな子どもになっていたり、あるいは完全にくじけてしまっていたり、あるいは親の権力の威を借りていたりと、とかく親の存在が巨大だと子どもというのが歪んで育つものなのである。

さらにこの種という言葉をも示すseedという作品では、親が子どもを自由自在に作れるようになった世界の話を前提としている。私たちはしばしば大人になると自分たちが子どもであったという過去を忘れてしまい、自分の子どもは自分の所有物であるかのような錯覚を思い起こしてしまう。だから、遺伝子操作によってそれが可能となった世界においては、まるで着せ替え人形をつくるかのように、自分の子供を自由自在に作り上げようとするのである。それはもはや子どもという絶対的な他者ではなく、自分の分身なのだ。

「近代」において突如として発生した「家」という概念、集合体は、きわめて歪んだシステムであるということが、もはや言論や思想の世界ではあたりまえのように批判されるようになってきた。しかし、多くの人々にとっては社会学の本を読むでもない限りは、そのようなことは知る術もないであろう。核家族化した家というのは、「他者」「他者の眼」というものが存在しない、きわめて閉じこもった組織である。そこではもはや公というものは存在しない。だからこそ、親と子は、人と人という関係ではなく、家族なんだから、とか親子なんだから、という理由で、意味もなく殴られたり、無視されたり、嫌なことをされたりと、およそ他人には絶対にしないことがまかり通ってしまうのである。私自身、巨大な親というものをもったために、もはや人としてどうしようもないような状況に落ち込んでしまっている経験から、やはり親子という関係においても、「家族だから」の論理ではなくて、「人として」の論理を通した方がいいと思う。

この作品は2002年においての巨大な親をもったがために歪められて育った人物たちを描いた作品なのだ。その存在はあまりにも大きいために、その影響から逃れることはできない。今自分がいる位置というのは、すくなからず親のためであり、アスラン、カガリ、フレイがいまいる場所は親によって提供された特権的な地位なのである。
しかし10年代になれば私たちは自分の経験を他者とわかちあうことができるようになるが、ゼロ年代もまだ初期においてはそういうわけにはいかない。ここに登場する人物たちは、それぞれ「毒親」を持ちながらも、その経験を決して他人と、同じ境遇の仲間と分かち合うことができなかったのである。

この作品の心理描写が少なく、主人公のキラでさえ、ほんのちょっとカガリやフレイになぐさめてもらう程度であり、人々は自分の苦悩を他者と分かち合えていない。その点で、この作品は仲間意識というものはきわめて弱く、本質的には孤独な戦いを強いられているといってもいいだろう。人々は皆、巨大な父や母とどう向き合い、その問題点をあぶりだし、それをどう克服するかを課題としているのである。


佐々木俊尚『ブログ論壇の誕生』(文藝春秋、2008) 感想とレビュー

昨日、わずかではあったが【ニコ生視聴中】佐々木俊尚×モーリー「戦後70年と、これからの“優しいリアリズム”」を視聴。以前から佐々木俊尚の名前は知っていたが、どんな人なのか、初めてみることとなった。とても知性的で、すごくいい印象だったので、自室にあった佐々木俊尚の本を手に取って読んでみることにした。
五段階中、評価は4.良質な本だったと感じた。
さすがはネットにつよいジャーナリストだなという感じ。付録として佐々木氏がおすすめするブログ論壇がまとめられているのがおもしろかった。

もともと討論や議論というのは、この本によれば、17世紀から18世紀にかけての西ヨーロッパ市民社会にさかのぼることができるそうだ。「イギリスのコーヒーハウスやフランスのカフェ、サロンで行われていた討論が、公論の場を生み出し、世論形成の場になった」のだという。
もちろん当時から、そうした議論をすることができたのは知的階級であろうから、それなりの階層の人間である。17,18世紀の服を着て、カフェやサロンで西洋人の男性たちが議論を戦わせていたのかと思うと、それなりに興奮してくる情景である。

そこでは次のような前提があったようだ。
①討論への参加者がどのような社会的地位を持っているのかは、度外視されていたこと。
②それまでの教会や国家によって当然のことだとされていた問題も、タブーなしに自由に討議すること。
③誰もが自由に、討論に参加できること。
こうした土壌があったからこそ、西洋社会は発展していったのだと言える。

しかし、日本では議論を戦わせるよりも、場をわきまえ、おかみの言うことに従うということをよしとする文化体系であったために、議論をあつく戦わせるというような文化は生まれにくかった。それが、現在においても日本人の討論があまり水準として高くないことの原因にもなっているだろう。
しかし、そんななかで、現れたのがこのブログ論壇ということなのである。それまで発言権を持てなかった一般市民がその声を発言できる場が提供されたことにより、玉石混交ある中ではあるが、その玉の部分が相対的に多くなり、ネットの世界に現れて来たというのである。

本書は、ネットに詳しい佐々木俊尚氏が、2000年中盤に話題となったネットでのそれぞれの事例について紹介し、それに対してネット論壇がどのように反応したのかということを、いくつかの例にわけて紹介している。
紹介されたのは以下の通り。
1、毎日新聞低俗生地事件
2、あらたにす
3、Wikipedia
4、チベット問題で激突するウヨとサヨ
5、「小沢の走狗」となったニコニコ動画
6、志位和夫の国会質問
7、安倍の窮地に暗躍した広告ロボット
8、辛抱を説く団塊への猛反発
9、トリアージ
10、承認という問題
11、ケータイが生み出す新たなネット論壇世界
12、『JJ』モデルブログ
13、光市「1・5人」発言
14、青少年ネット規制法
15、「ブログ限界論」を超えて

いずれもおもしろい問題であった。
例えば6の志位和夫の問題では、志位和夫の国会答弁が、非常に論理的であり、検証を重ねた結果出たものだったとして、その親和性からブログ論壇で取り上げられ、ニコニコ動画などでも取りざたされ話題になった問題。1時間もある国会答弁にそれまで多くの人間は見向きもしなかったわけであるが、ネットの普及によって、ニコニコ動画などでコメントをかきながら参加するというような手段を通じて、それがひろまっていったというのが21世紀の政治へのかかわり方なのである。ここでは、より詳しく学びたければブログ論壇を覗けばいいということもあり、そうした政治への関心というものが少なからずよい方向に向かっているということが考えられる。

佐々木の分析によれば、ブログ論壇を形成しているのは、その多くは70年代生まれのロストジェネレーションと言われる世代だという。彼等は団塊世代への不満を持ちながら、条件のよくない仕事をせずにはいられず、そのうっぷんをネットでこぼしているのである。
団塊世代はネットを覗かないので、ネットで当たり前のこととなっているようなことに気が付かない。8では辛抱が必要だというような団塊の世代に対して、ブログ論壇を含め、大きな反発があった。しかし、団塊の世代はネットでそんな反発があるのを知らないので、いつまでたっても二つの溝はなかなか埋まらないのが問題である。

私自身も、そうしたブログ論壇を目指してブログを運営してきた経緯がある。
この本では佐々木俊尚氏が参照するブログ論壇が300ほど付録として最後についている。いずれはそういう場所で紹介されるくらいのブログになりたいものである。
そのためにもより勉強して、もっとブラッシュアップしたものをアップできるようにしなければならないし、また、どのようにかして話題となるようにならなければならない。
目指すは一日に専任単位の人がおとずれてくれるブログではあるが、いまのところは、毎日300人程度の中堅のブログとしてなんとかほそぼそとやっている。閲覧数が増えれば、それだけつっかかってくる人も増えることだし、面倒なことは増えそうである。
だが目標とするのは、編集者なりの目にとまり、書籍化することだ。


『ああっ女神さまっ』感想とレビュー オタク男はいかにして救われるのか

藤島康介原作と『ああっ女神さまっ』のアニメ化されている作品を一気観した。鑑賞したのは以下の通り。
OVA『ああっ女神さまっ』(5話、1993-4)
『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』(48話、1998-99)
劇場版『ああっ女神さまっ』(2000)
『ああっ女神さまっ』(第一期)(26話、2005)
『ああっ女神さまっ それぞれの翼』(第二期)(24話、2006)
『ああっ女神さまっ 闘う翼』(2話、2007)

藤島康介といえば他に『逮捕しちゃうぞ』が代表作である。二つの作品には、女神様のほうには「他力本願寺」というのが出て、「逮捕しちゃうぞ」には「自力本願寺」という寺が出てくる。これは最初単なるジョークかと思っていたのであるが、主人公たちの行動を見ていると、他力本願なのか、自力本願なのかということで、大きくわけられることに気が付いたので、ここに記しておこうと思う。
やはり逮捕しちゃうぞの主人公二人は、自力でぐいぐいやっていく強い女なので、そこに登場するのは、自力本願寺ということになるのであろう。それに対して、やはりオタク少年は自ら主体的に動くことはなく、すべて外側からの影響によって動くという性格付けがあるので、他力本願時ということになるのだ。

ある日突然女の子(神聖を持った)が落ちてくる、という日本人の発想は、かぐや姫にさかのぼることができると思う。小さいころにそのような幻想を聞かされた男たちは、一方でいつか美男子が自分のことを助けにきてくれるのだというディズニーが量産しつづけた幻想に浸る女子を片目に、それを批判しながら、しかしどこかで自分の目の前にも、いつか自分を救いうる彼女が降ってくるのではないか、という幻想を抱き続けるのである。

それが、86年のラピュタで王族であるシータが空から落ちてくるという、アニメ界にとって衝撃的なインパクトある登場のしかたを見せるのである。もちろんそれ以前にも、当然かぐや姫があったように、空から女の子が落ちてくるという想像力はあったろう、が私は管見にしてラピュタ以前のものを知り得ない。88年の『ああっ女神さまっ』も当然ラピュタのあのセンセーショナルな落ちてくる女神像を踏襲していることは明らかであり、しかも女神であるという点も、オタク的想像力ということができるだろう。

空から女の子が落ちてきて、冴えない持てない自分の人生を一変してくれるのではないか、という想像力は、日本のオタくたちの間ではかなり根強い幻想となった。2007年から連載の水無月すうの漫画作品『そらのおとしもの』は、落ちてくるのが女神であり、しかも三姉妹というところから、ほろんどこの『ああっ女神さま』のオマージュとも言える作品である。2004年から刊行の鎌池和馬による日本のライトノベルシリーズ『とある魔術の禁書目録』も、ある日突然特殊な能力を持った女の子が空から降って来て、自分の家の物干しざおにぶらさがっていたという想像力である。類似した作品を探せば、一つの系譜として研究対象になり得るであろう。

オタクのことを一分の一の描写で克明に描いた『げんしけん』では、オタクというのはなろうとしてなるのではなく、気がついたらなっていたものというオタク定義がある。自分の努力でオタクになったのであれば、非オタクになりたい時にまた同じ努力を費やせばいいのであるが、気がついたらなっているという自然発生的なものだとすると、脱オタクというのは非常に難しいものとなってしまう。
オタクが世間からうとまれ、キモイものとされてきた80年代90年代においてオタクという人種は非常に救いがたい立場にいたのではないだろうか。そうした自分の努力ではどうしようもならないというところで、オタクたちが安易に求めたのは、いつかそんな自分でも絶対的に承認してくれる、お母さんのような彼女だったのである。

オタク学生である森里 螢一は、ある日先輩の電話番をしており、そこで間違い電話をしてしまうことから、女神であるヴェルダンディーを召喚してしまう。90年代生まれの私からしたら、黒電話の前で電話番をしなければならないというのが、すでに時代を表しており、今現在となっては考えられない設定である。
なにかよくわからないが、願い事をひとつだけ叶えてくれるということで、「君のような女神に、ずっとそばにいてほしい」といったところ、その願いが叶ってしまうというラブコメであるが、この願いにこそ、80年代、90年代、いや、今においてさえも、オタクたちの幻想の最も重要なものが現れていると思われる。

オタクたちというのは、何も大金持ちになったり、いい会社に入ったり、いい給料を貰ったり、いい車に乗ったりというような社会的な承認は求めていないのである。2008年(平成20年)6月8日におきた秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大(1982年9月 - )も、ネット上に書き込んでいたのは、ひたすら自分の容姿が悪く、彼女ができないことであった。それはなによりも、母親のように無条件で自分のことを愛してくれる存在を求めていたからである。

そもそもなぜオタクがモテないのかといえば、それは社会的な要因が大きいからであろう。社会全体がオタクという人種に対して、ネガティブなレッテルを、例えばマスメディア等で流布しているのが原因である。秋葉原事件もその恰好の的であるが、宮崎勤事件などにより、オタク=犯罪者予備軍というのは、マスメディアによってつくられた幻想であった。一方で日本の女性は、戦後入ってきたディズニーアニメによって、女子は受動態であり、いつか超絶美男子が自分のことを救ってくれるという幻想を強固なものとした。また近年に至っては純愛志向であり、マスメディアが流しているのは、ありえもしない超絶美男子と美女との恋愛である。

こうした情報を普段あびるように見せられた人間たちは、その目標自体がきわめて高く設定され、美男子、美女でなければ付き合いたくないということになってしまう。そのために、全く冴えないオタク男子たちあるいは腐女子たちはイケメンたちのことを恨みながらいつか自分のことをすくってくれる人がくるのではないか、というあり得もしない幻想に余計にひたるようになり、最低限のところで妥協していれば、不細工かもしれないけれども、彼女、彼氏ができるという、小さな承認をより求め辛くなっているのである。

不幸にもまだそれだけの批評性のない時代であった。『ああっ女神さまっ』が男子オタクたちにさらなる幻想を抱かせてしまったのは仕方がないと言えるだろう。一方で突然降ってくる少女像は、完全にロボットになってしまったり、ロリになってしまったりと、まだ単なる美少女であったほうがその欲望としては純粋だった気がするは、屈折してきていることは、今後のオタク的発想がどうなるのかという点に関して興味深い疑問符を投げかけている。


『OVERMANキングゲイナー』(26話、2002)感想とレビュー ゼロ年代にニューフロンティアはあったのか


今回、富野由悠季が好きな僕と親しい先生が、カラオケにいくとよく歌う、キングゲイナーについて、どんな内容の作品なのかと鑑賞してみることにした。
通して鑑賞してみたが、なるほど、なかなかむずかしい、というかなんといっていいのかよくわからない作品である。

Wikipediaによれば、Zガンダム、イデオンなどに代表されるように、登場人物の大半を殺してしまうという「殺しの富野」と言われる富野監督であるが、この作品ではかつての「黒富野」とは対比され、「白富野」、人をほとんど殺さずに描くというところで、白富野の代表作となっているようである。

富野監督のアニメは、たとえばイデオンにしろ、この作品にしろ、何か一つの目的のためへの旅がしばしばそのテーマになることが多い。それは銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトと同じアニメ文法をたどっており、目的地への旅というたったそれだけの物語構造によって、40話なり、26話なりを持たせることができるのである。日常系と、バトルものが蔓延してきたために、アニメの文法というのはかわり、イスカンダルにいくだけに50話も見ていられないというのが、現代の若者の感覚であろう。実際最近イデオンを見た私は、いったいいつまで地球にたどり着かないんだい、とアニメをかなり見る耐性のついている私でさえ、その展開の遅さにいらいらしたものである。

ガンダムにしろ、イデオンにしろ、冨野監督というのは、このどこか目的地までの旅を描くというのが彼の得意な手法なのだなということが今回よくわかった。
で、今回の「キングゲイナー」はどういう作品なのかというと、これまた不思議な作品であったというほかない。宇宙を舞台としてきた富野監督にしては、規模が小さく、地球上の、しかもある地点での話になっている。ほかのゼロ年代の富野監督の作品を鑑賞していないからよくわからないが、他のゼロ年代の作品にしても、冨野監督の物語舞台の規模縮小というのは傾向としてあるのだろうか。

今回の目的は、北極点に近いドームポリスという場所からのエクソダスであり、その目的地は日本と思われるヤーパンである。設定では、近未来、地球の環境が悪化し、人間が住める土地というのはほとんど残っておらず、数か所に点在する場所においてドームポリスという都市型の船を利用して生活をしていた。そこで人々は管理された生活を送っていたわけである。だがすでにこの時代には、この物語に登場するようにヤーパンのように、いくつかの土地では人々が住めるような土地にもどっているらしいということで、物語は始まるのである。

だが、26話が終わるなかにおいては、主人公たちは目的地であるヤーパンへは到達していない。とすると、本当にヤーパンが人の住める土地になっているのかは、本当のところはわからないのである。オーバーマンのような戦闘ロボットを作り出せるような技術があるのだったら、すでに地球のどこが住める土地になっているかくらいの情報ははいってきそうではあるが、しかしこの世界においては、そうした情報というははいってこないのである。あるいは政府などが管理しているのかもしれない。

物語り構造としては、北極地点から日本へ、途中ロシアのいろいろな土地を巡りながら南下するというそれだけを描いた物語なのである。イスカンダルや地球に行くためだけに、40話も50話もつくってきたかつてのアニメの歴史をたどれば、それだけのためにというのは珍しくもないと感じることもできるが、しかし、ゼロ年代においてこのような日本へ目指すというそれだけを描いた作品というのは、やはり珍しさが残るだろう。

途中までは、エクソダスというのは、当然政府にとっては大変困る話なので、重罪であり、エクソダスする人々をシベリア鉄道警備隊、通称シベ鉄の人間が追うということで物語が進展した。これも富野監督のやりくちであるが、かならず全力で敵は追ってこないのである。逃げるがわである主人公たちには、ほとんど武力はない。キングゲイナーがあるとしても、しかし本当に物量のあるシベ鉄が最初から全力を投資していれば勝てないわけである。だが、それでは物語が終わってしまうから当然戦力を小分けにする。ただ、今回の作品では、イデオンのような小分けではなく、本当に物量が少ないために兵がそんなにいなかったようにも感じられた。そこらへんは上手いなと思った。

途中からはそうした逃げるエクソダス、追うシベリア警備隊という構図がすっとんで、最後の5話くらいは、未知の能力であるオーバーマンのなかでも、特別なオーバーデビルという機械が登場し、シンシアがそれに取り込まれ、世界はオーバーヒートの反対である、オーバークールによって氷漬けにされてしまうという世界の破滅をどう阻止するのかという話になってしまう。二つの勢力が争っていたら、それらがどうでもよくなってしまうような世界崩壊の危機が訪れることによって、なんだかうやむやの混戦のなかにおいて、人々はどうやって世界崩壊を阻止するのかという方向に向かっていく。
真面目な視聴者である私は、エクソダスの行方がどうなるのか、きちんとヤーパンにたどり着けるのか、ヤーパンはどのような場所なのかということが気になっていたので、なんだか逃げられたような気分である。

さて、それにしても論じにくい作品である。むしろなぜ、ゼロ年代において日本という土地を求めなければならなかったのか、というところにこそ、この作品の表象的な意義があると思われるのであるが、それがなんとも見いだせないのである。
確かにマクロスにしろ、ヤマトにしろ、もちろんガンダムにしろ、地球がどうしようもなくなって人々が住めない状況になってしまったという大前提があった。それは進む核兵器の製造や冷戦などから、世界の危機が実際に当時の人達には共有されていたからである。だからこそ、その抑圧された人間達は想像力をSFという形で放出したのだ。

しかしハルマゲドンの予言もはずれ、人々は世界の終わりなどなかったのだ、というまったりとした日常をいきなければならなくなる。宮台真司が述べた「終わりなき日常」である。それに耐えられなかった人々が、オウム真理教の地下鉄サリン事件などを起こしてしまうのであるが、多くの人々にとっては、それが起こってさえも終わりのない日常を生きなければならなかったのである。そのような閉塞感きわまる21世紀、ゼロ年代において、マクロスフロンティアへもきちんと継承されていく、ここではないどこか、への新天地を求めたくなるそのフロンティア精神というのは、この作品にも見て取れることができると思う。

どこに新天地を求めるかというのが、ここからの世界では重要になってくるだろう。それを今多くの国々は、ちゅうごくやインドの市場などに、経済的な観点から求めているのである。しかし、すでに開拓されつくしたこの地球上において、有限の資源から無限の力を引き出そうとしている我々人類はどうしたって行き詰まりを迎えるわけで、私個人としては、今あるもののなかでどう生きていくのかということをまじめに考えなければならないと思うし、そうした想像力の作品が生まれてこなければならないと思う。
反面、もとめるべき新天地を間違うと、ISISのような武装集団にもなってしまうのであるから、気を付けなければならない思想でもあるということは、心に留めておきたいものである。


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