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『トゥルーマン・ショー』(1998) 感想とレビュー 認識をめぐる冒険

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『トゥルーマン・ショー』は哲学や文芸批評の世界ではちょっと有名である。それは、人の認識の問題に深くかかわっているからだ。
 私自身は一度も見たことがなかったわけだが、文芸批評や哲学入門書などを読んでいると、しばしばいろいろな筆者がこの映画のことを紹介しているのに出会う。何度か私も、自分の人生がすべてつくられたもので、それがテレビ放送されている作品がある、ということを、そうした批評などを通じて知っていたのである。
 今回私は、そうした以前批評で出会っていた作品をじかに見ることができてよかった。感動の対面というわけである。
だが、もともとそうした批評で知り得たから見ようと意図的にしていたことではない。私はかなり感覚的なところがあり、映画をレンタルするのも、メジャーどころを数本抑えておこうというのと、感覚的にこれだ、という作品とをいくつか勝手に借りる方式を取っている。今回のこの作品とは、おそらく有名どころかなにかからひっぱってきたのであろう。
 この映画をみて、あ、あの批評にあったやつだ、と思い出したわけである。

 この作品は自分の人生が全て他人によって作り上げられた虚構だった、という話である。
 なぜこの作品が、文芸批評や哲学入門などで取り上げられるのかというと、それは先にも述べたが、認識の問題に深く関わってくるからである。
 哲学には、そもそもこの世界ってなに?という問いがある。それは、私達はこの世界をどう認識しているのか、あるいは私達と世界とのつながりはどうなっているのか、という根源的な問題である。あまりにも疑いまくって、最後の最後までたどりついたところで、「でもこの疑っている自分は確かだ」(コギトエルゴスム)ということを述べたのが、デカルトだというはなしは、高校の世界史の知識である。が、そこまでいかなくとも(というか、そういうふうに考え付くこと自体が西洋的であるが)、自分の認識している世界は、仮にあるとして、それが実際はどういうものなのか、というところはやはり謎に満ちたものなのである。
 普通こうした問いは子供が抱く。どうしてどうして?と大人に聞くも、大人は答えてくれない。いつの間にかそうした問いをすることをやめ、問いに答えてくれなかった大人になるのが、必定である。
 が、時として、哲学者のようにその「なぜ」を捨てられない人物がいる。そうした人達が、こういう映画をつくれるのだろう。
例えば哲学の世界では、人間の認識は、人間の脳内に小さなスクリーンがあって、そこに投影されたものを、脳内の小人が認識している、という認識論がある。これは不思議な認識論で、一見確かにそうとも言える、と感じてしまうところもあるが、ではその小人はどう認識しているのか、というと、その小人の中にも小人がいて、という鏡の中の鏡になってしまうのである。
 他にも、映画『マトリックス』のように、水槽に入った脳として哲学の世界では有名であるが、そもそも私たちは脳しかなく、そこに電子信号が送られて勝手な認識をしている、という説もあるくらいなのである。
 この作品は、きわめてこうした哲学の世界の認識論に近い世界の話をしているのである。我々の認識しうるこの現実というものが、一体どういうことなのか、ということなのだ。

 私自身の話をすれば、最近仕事を始めたのだが、辛くてしょうがない。そうして精神科医などにかかって、薬を出してもらうのだが、そうした薬の効果というものは、感覚を鈍らせ、辛い、という気持ちを麻痺させるようなものになるのだ。そうするとどういう状態になるかというと、なんだか一センチくらい浮いているような、浮遊感、世界から離れた感覚を味わうことになる。
 この私の前で繰り広げられている世界というのは、私とは直接関係はないのだ、これは私の眼前で繰り広げられている一つの演劇のようなものにすぎない。そうなると、辛い、という感覚をあまり味合わなくてもよくなる、という寸法なのだろう。
 だから、私はこの映画をみて、実にリアリティ強く鑑賞したものである。
 確かに、私の眼前で繰り広げられている世界というのは、すべて私のために用意された周到な芝居なのではないかと。
むしろ、現実があまりにも辛すぎる人は、こうした認識をすることによって、己を守ることができるかもしれない。私がこの映画を観ていて、一つ不安になることがあったのが、それは何かというと、実は本当は、すべて彼の思い込みなのではないか、というオチであった。
 この作品の中では、本当に撮影されていた、というオチがつくために、観客は安心してこの映画を観終わることができる。だが、現実世界においては、そうした意識というのは、人間だれにでも存在し得るわけで、その認識がもしも、虚構のものだったとしたら、つまり、すべては自分のために作られた周到なセットなのではないか?という認識が、思い込みだったとしたら、という恐怖があるのである。

 もしも、私が不安におもったオチこそが本当のものだったとしたら、この作品は強度の神経症者の映画に早変わりしてしまうわけで、ホラー映画の仲間入りである。
 最後まで本当に撮影されていた、というオチがあるために、なんとかコメディタッチな映画になってはいるが・・・。
それにしても、この映画が示すのは、いったいなんなのだろうか。
 私たちは他者の日常を消費するということに、なぜそこまで欲求するのだろう。
 それは、この近代が生み出した資本主義の、視る欲求なのかもしれない。そもそも日本では100年前のデパートが出来始めたころから、商品は陳列され、ショーウィンドーが立ち並び、私たちは視る、ということを覚えたのである。そしてその視るということは、次第に欲望となり、さまざまなものを欲求していった。サルトルなんかは、その視るが自分に向けられた時、視られる、ことになり、それが怖い、視線恐怖症の発祥だと述べているが、近代とは本質的に視るということを内包しているのである。
 だからこの作品は、作品のなかで視聴者たちがトゥルーマンのことを視るのは、資本主義的欲求といっていい。視聴者たちは、自分ではない他者の、ほんとうになんでもない日常を視ることによって、自分達の欲望を充たすのである。取り立ててなんということのない日常を視ることが、資本主義社会における人間の欲望なのである。それは、すぐさま、隣の家を望遠鏡でのぞく、というのぞき見、古代日本においては貴人が家の娘を見る垣間見、などに通底する、視ることへの欲望である。
 トゥルーマンは、自分が一方的に視られている存在だということに気が付くことができた特権的な人間である。だからこそ映画の主人公たりえたのである。しかし、この消費されるトゥルーマンを失った作品世界はどうであろうか。一度はトゥルーマンの本当の気づきに、涙しながら感動するものの、おそらくは、すぐに日常生活に空きて、他人の日常を欲望することになる。その自分の日常と他者の日常には本質的には差異などないはずなのに、他人の芝は青く見えるのが人間の必定、他者の日常をこそ人は希求してしまうのである。
 その世界では第二、第三のトゥルーマンが生まれることになるだろう。
 私達もまた、この映画から学べるのは、他者の眼を生きるのではなく、自分の思う世界の扉をひらいていこう、というやや教訓めいたことなのかもしれない。

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『わたしを離さないで』感想とレビュー

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 何かのレビューかなにかで情報と知っていたこの映画を、今回鑑賞してみた。この物語は哲学をちょっとかじったことのある人間ならだれでも知っている、「臓器くじ」を題材としたものだ。臓器くじというのは、ジョン・ハリスという哲学者が考案した考えであって、実に合理的なものである。Wikipediaから少し引用しておこう。

 《臓器くじ(ぞうきくじ、英: survival lottery)は、哲学者(倫理学者)のジョン・ハリス(w:John Harris (bioethicist))が提案した思考実験。日本語圏では「サバイバル・ロッタリー」とカタカナ表記されることも多い。
「人を殺してそれより多くの人を助けるのはよいことだろうか?」という問題について考えるための思考実験で、ハリスは功利主義の観点からこの思考実験を検討した。
「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。
公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。
臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。
ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。
くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。
移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。
人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。》

 この合理的な考えは、我々の「感覚」からすると一瞬のうちに一蹴できてしまいそうなものである。いや、そんなのはいかに頭のいい人間が考えたって、どこかおかしい。感覚的におかしい。そういう感情面、情緒的な面で我々はこの提案に反対することができる。
 しかし、それは我々が今この世界のこのような「感覚」を持ち合わせているからにすぎない。
 もし、教育の現場で、臓器提供をすることはいいことである。それに選ばれた人間は、選ばれた特別な人間で、多くの人になる、という教育をずっとつづけたとしよう。我々は戦争はいけない!と思い込んでいるかもしれないが、70年前、多くの日本人が、多くの世界中の人々が、戦争をすることはいいことだと教育によって思い込まされていたという現実があるのである。ナチスドイツは、教育によって、ユダヤ人を大量虐殺してのけたのである。これほど教育の力というのは強いのであって、我々が現在の感覚で、これはおかしいと思われるものが、いかに簡単にくつがえされてしまうのかということは、歴史が証明してくれている。残酷なまでにね。
 さて、この映画の世界もそういう世界観だ。一応年代としては西暦で1900年後半あたりが舞台となっているが、実はそんな西暦は作品にリアリティーを出すための装置でしかなく、必要ないといえば必要なのだ。この映画を未来に置き換えたのが、『アイランド』や『レポジッション・メン』などの映画だ。臓器提供というのは、日本よりも医療倫理が発達している欧米諸国で問題になっているらしい。臓器をテーマにした映画の製作具合からそれがわかるだろう。
 さて、そのような臓器提供のために人工的にクローンを作り出すということが、あまりおかしいと思わないように教育することは簡単だという前提に私は立っている。その上で話をすすめるので、ここがよくわからないというひとは、わからないままで終わってしまうが、それは私の責任ではない。わかるように努めてほしいものだ。この映画の世界では、完全に彼等は臓器を提供することをなんとも思っていない。それは死に対する恐怖等の感情はあるだろうが、臓器提供をしなければいけないと運命づけられていることに対して何ら彼等は疑問を抱かないのである。それはおかしいと意義不服を申し立てないのである。それがこの映画の怖さでもある。なぜそういう感情を発さないのかというのがある。もちろんそれはクローンだからそういうところは上手く教育されている、等々の理由がつけられるかもしれないが・・・。
 この映画で唯一といっていいほど、人間らしい感情を発するのが、愛し合っているので猶予が欲しいとマダムと呼ばれる人物に会いに行った帰り、猶予がないことを知って、トミーが車から降りて叫ぶ場面である。それは実質死を宣言されたも同じである。その死の宣告によって、ようやく人間らしく、「わー」と叫ぶのである。しかし、そこには人間の怒りや憤りというものよりも、激しい無力感しかただよってこない。この映画がすごいなと思うのは、こういう場面を実に淡々と、かなり冷たく描いている場面である。
 そしてトミーが死んだ後、キャシーにも臓器提供の通知が来るのであるが、彼女もまた、それに対する反感などというものもなく、「臓器提供される側の人間と、臓器提供する側の人間との違いはなにか」ということをつぶやいて終わるのである。
 これが、この映画の臓器くじに対する結論であろう。臓器くじをつくって、臓器提供をする。そうすれば、1人が死ぬことによって、多くの人間が助かるようになる。確かにそれは実に合理的で、そのほうが利益としても多いのかもしれない。しかし、そのような利益等々を差し引いても、人間の命そのものに優劣を付けることはできない。それは数の問題ではないのだ、ということがこの映画の結論なのだろう。臓器提供という場には、提供される側とする側が存在している。健康な人間を殺してまで臓器提供というものはやはり倫理的にできない、ということを一度そういう世界観を作り出すことによって描き出したというのがこの映画の魅力であり、見どころであり、評価されるべき部分なのであろう。
 臓器くじを感情的に、感覚的にそれはおかしいということは誰にでもできる、簡単なことである。しかし、その感覚が実は実にあやふやなものでしかなく、教育をすることによって、数十年で書き換えることが可能なものだったとしたならば。そして、臓器くじは、そうした感覚では揺らがない極めて論理的で、合理的なものだったとしたらどうするのか。それに感覚的に反論しても意味がない。論理には論理で、合理には合理で相対しなければならないのである。それならば、一度臓器くじが可能になった世界を描くことによって、そこで人命というものを問うてみるしかないのである。その結論が、提供する側とされる側の人間の違いとはなんだろうか?という問いに他ならなかったのである。
 映画を作ったことがないのでわからないが、これだけの労力を要して、やっと、臓器くじは論理的にも難しいということが、証明されたような感じになった。もちろんこれも実にまだまだ不安定な答えでしかないので、それが覆される可能性もまだ否定できない。しかし、それだけ臓器くじというのは、合理的で、論理的なものなのである。ともすると、現実になりかねないのである。我々はそれを危険だと認識するが、しかしそれも現在の感覚だからこそであって、臓器提供して多くの人が救われるのならばその方がいいのではないかという感覚に世界全体がなってしまったら、それを止める術はない。
 我々にはこのような課題が沢山つきつけられている。それを我々は知恵を以て、映画や小説などの藝術を通して、表現し、答えを模索していかなくてはならないのだということを、今回改めて感じさせられた。

『ペイ フォワード』感想とレビュー

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 今回は映画『ペイ フォワード』についての記事だ。普段近所にあるTSUTAYAで借りている私だが、TSUTAYAで行っている、ランキングというのは結構役に立つ。なんかの映画何選みたいなのをやってくれているので、そこで上位に入っている作品をいくつか借りてくるのだ。さすがにそういうランキングにはいってくるだけのことはあって、なかなか面白く、楽しめる。今回の『ペイ フォワード』もそのようにしてであった。
 この映画を観て、久しぶりに「こういう映画をみたなあ」という感慨にふけってしまった。
 この映画は実に単純なストーリーで、何かアクションがあったり、ものすごいストーリーがあったりという、意外性などはない。しかし、それでいて、観終わった後にはうーむとうならせるような力があるのである。
 物語は簡単で、中学生に進学した主人公ハーレイ・ジョエル・オスメント扮するトレヴァー・マッキニーがケヴィン・スペイシー演じるユージーン・シモネット先生の授業で「世界を変えて見ろ」という課題に対して、あるアクションを起こしたことからはじまる。その課題をオリヴァーはこう解釈したのだ。すなわち、世界を変えるには、善意を人に渡すという方法がいいのではないかと。彼の考えは、善意を三人に渡す、こうすることによって、ネズミ算式に、善意が広がっていくのではないかという、極めてシンプルなものだった。このシンプルな発想が、この映画をシンプルにしていると言える。
 まあこの物語は当然作り物であるから、ここでは上手くいくように描かれるのであるが、現実にはそうはいかないであろう。しかし、そういうつまらないことは置いておこう。
 オリヴァーは善意を三人の人に施そうとする。一人目は浮浪者に。もう一人はお母さんに。そうしてもう一人は自分の友人に。
 1人目の浮浪者は、最初成功したかのように見えた。彼は麻薬をやっており、破滅的な人生を送っていたのだけれども、そこにたまたま通りかかったオリヴァーの善意によって、更生する意欲に目覚める。しかし、その後オリヴァーが彼のもとを訪ねるも、前後不覚の常態になっていた彼はオリヴァーの呼びかけに答えることはなかった。おそらく麻薬をがまんできずにやってしまったということなのだろう。
 1人目の善意が駄目だったと自分のノートに×をつけるオリヴァー。観客もやはりそう上手くはいかないとオリヴァーと同じようにしょげてしまう。
 そうしてこの物語の本筋とも言える、自分の両親の問題へと向かっていく。母親は子供を育てるために二つの水商売のような仕事をしているのでが、彼女には問題があって、アルコール依存症なのだ。『男が女を愛するとき』のように、彼女にはアルコールを断ち切るための何らかの方法が必要なのである。
 オリヴァーは子供ながらに母親のアルコール依存症をやめさせようとお酒を捨てたりする。しかし、母はどこかに隠しておいた酒を呑んでしまい、そうしてそれがオリヴァーにばれて、二人の仲は険悪になってしまうという繰り返しの日々を送っている。
 この母親をなんとかしようというのがオリヴァーの第二の善意であった。新しい中学で社会科の先生となったユージーン先生を母と会わせようとする。ユージーン先生は、何があったのかはわからないが、顔がやけどによってケロイド状になってしまっている。そのために一般的な感覚で言えば、やや近寄りがたい印象を与えてしまう。なんだかんだ言っても人間は第一に容姿を気にしてしまうから、女性からしたら、このユージーンは恋愛の対象になかなかなりづらいということになろう。
 それをなぜか、オリヴァーは自分の母親にくっつけようとするのである。そこには、一つには、子供だからそのようなケロイドをなんとも思わなかったという感覚も存在しているであろう。彼は善意を三つ他人に施せば世界が変わるという、善意に働きかけることができるように、そうした恋愛についても、善意によって人が動くだろうという予測のもとに行動しているのである。だから、おそらく自分の母親は、ケロイドのことをなんとも思わないだろうという善意と、先生も自分の母親とだったらうまくいくだろうという善意によっての行動だったのであろう。
 一応映画だから、そう簡単には上手くいかない。暴力を振るうオリヴァーの本当の父が登場したり、二人の仲はうまくいったりいかなかったりする。
 オリヴァーの父の登場によって物語は急速に展開する。実は、ユージーン先生の火傷は、オリヴァーの父のように、妻に暴力を振るっていたユージーンの父からのものだったのだ。ユージーンは母に暴力を振るう父をなんとかしようとして、その父によって焼かれたのである。そういう経験を持つユージーンだったからこそ、自分はそうはなるまいと、良き人間、良き教師になろうと厳格につとめていたわけである。当然暴力を振るうオリヴァーの父を許せないユージーンであるが、改心したという言葉に再びよりをもどそうとしてしまう母も、そこには存在してしまう。そういう人間の心の弱さみたいなものがここにはあるのだ。
 結局のところその父とは再び上手くいかずに、父は家を出てしまう。
 さて、そんなころ、都会では、善意を人に施すというのが一大ブームになっていた。それは細いながらも連綿とつづいていった善意を渡すゲームの延長だったのである。オリヴァーが最初に助けた浮浪者が、自殺願望者を救ったり、あるいは母親からその母親へ、オリヴァーの祖母へ伝わった善意が他の人の善意へ。その善意がまわりまわって、ある記者のもとへとたどり着いていた。その記者は、この善意のゲームがだれから始まったものなのかということを辿り当てて、ようやくオリヴァーのもとへたどり着いたのである。
 取材を受けるオリヴァー。彼はそこでスピーチをする。オリヴァーがスピーチをするのはこの映画で二回。冒頭でこのゲームを簡単に説明することと、最後のインタビューでこのゲームをどうしてやろうと思ったのか。最後のインタビューでは、善意を与えられているのに与えられない人は、人生に負けているのだ、自分はそうなろうとしていた、けれども自分は人生に勝ったんだ、というようなことを話す。それは、おそらく彼なりの、これ以上発展しそうにない母とユージーン先生に向けてのメッセージだったのだろう。そのことにはっとした二人は、その後再び付き合うことに合意する。
 そのような感動的な場面で、この映画で悪ガキたちにいじめられている子供が再びいじめられるという場面が発生する。それを発見してしまったオリヴァーは悪ガキたちを退治しに。そこでオリヴァーは悪ガキたちともみくちゃになり、最後には刺されてしまう。まさかこの程度の傷で、と私は見ていて思ったのであるが、なんとこの映画は、オリヴァーを殺してしまうのである。
 これにはおどろいた。さすがにこのすばらしい心温まる物語で、主人公のオリヴァーを殺してしまう必要があったのだろうかと何度も考えた。結論は半々だ。殺す必要はなかったというまっとうな答えは、やはりいつまでも出てきてしまう。母と先生とオリヴァーと、三人でなかよくくらしましたとさ、というハッピーエンドでもよかったのではないだろうか。しかし、一方で、確かに臭すぎるという感覚はあるにはあるのだ。この物語はあまりにも人の善意によりすぎていて、ユートピアすぎるのである。だからこそ、こんなことは現実には起きませんよということを証明するために、オリヴァーを殺さなければならなかったのである。こんなことがもし現実に起こるとしたら、それはその善意の発信者であるオリヴァーを犠牲にしなければならないくらいのことですよという意味が込められているのだ。
 最後の最後にオリヴァーが死んでしまうことによって観客はかなりのショックを受ける。これまでなんて心温まるいい話なんだと安心しきっていた読者は、突然物語側から裏切られてしまうのである。
 オリヴァーを殺さなくても、予定調和だったとしても、この作品は人の善意を信じさせてくれるような心温まる物語として、ある程度映画史に残ったであろう。しかし、オリヴァーを殺してしまうことによって、それは現実には起こりませんよ、という厳しい自己反省をすることによって、さらに印象深くさせ、名作と呼ばれる作品になったとも言えるだろう。
 とにかくこの作品を見ると、久しぶりに人を信じることや、人の可能性について明るい考えになれる。そういう力を持った作品であると言うことは確かだ。是非見てもらいたいと思う。

ジャッキー映画 『笑拳』 鑑賞メモ 感想とレビュー

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 ジャッキーのカンフー映画が好きなのだが、いまひとつ、どれがどのような作品なのか、自分の中で整理がついていないし、かいつまんでみてしかいないので、ここらへんできちんと鑑賞しておこうと思った、レンタルしはじめた。
 ありがたいことに、このDVDには、他のジャッキーの映画の紹介もあった。そこでは前回に観た『天中拳』の紹介もあり、あの作品とこの作品が全体のなかでどのような位置づけにあるのかわかってきた。この『笑拳』は、ジャッキー初監督作品であり、ジャッキーのカンフー映画の根幹をなすものである。ジャッキーの映画は大別して二つにわけられると感じた。
1つは、この『笑拳』や『天中拳』のように、喜劇的な作品である。これらはもっぱらジャッキーのユーモラスな部分が遺憾なく発揮されている。では、ジャッキーはただおもしろさを追求するだけの人なのかというと、そうではない。ジャッキーの中には二人のジャッキーがいて、おもしろさを追求する一方、かなり深刻な面、シリアスな面をも持っている。『笑拳』は、途中まで喜劇的な作品であったが、おじいさんが殺されてしまうあたりから作風ががらっとかわった。
 ジャッキー映画で殺されるのは、基本的には適役ばかりであり、敵に殺される人々もジャッキーとは直接は関係のない人が多いように感じられる。よく、冒頭で殺されている人たちが描写されるが、彼等はジャッキーとは遠く離れた人物たちであるし、私達観客も、まだそれらの人物に対して感情移入できていないから、さほどその死というのは哀しいものにはならない。ところが、このおじいさんは違う。ジャッキー演じる男の祖父という設定でもあるし、カンフーの達人でもある。よきおじいさんである陳が殺されてしまう場面は、流石につらいものがあった。

 この映画はジャッキーの初監督作品だそうであるが、ここにすでに、山田洋二的な、古典的な枠組みを使用しようとした試みが垣間見られる。敵が登場する。自分の身内や仲間が殺される。復讐を誓う。(ここで実際に復讐を試みてもいい。その場合は力の圧倒的な差を見せつけられることによって、大きな絶望感を味わう)。よく師が見つかる。修行をする。敵を倒す。このような簡単なパターンに分けて考えることができる。
 大同小異この敵に負ける、修行をする、敵を倒す、のパターンを彼の映画はずっと使用することになる。

 こうしたアクション映画というのは、評論しづらい。戦闘についてなんやかやと言えるような知識もないし、私は娯楽映画としてしかこの映画を観ていないし、観られないからである。カンフーに対して何らかの知識があれば、あれはこうで、といった解説も可能かもしれないが、私は文藝批評家なので、この程度のことしかいえない。
 ただ、純粋な疑問として思うのは、ジャッキーは映画での演技を差し引いたとしても、相当の武術の達人なのではないか?ということだ。本当にジャッキーが肉弾戦をしたら、現実世界でも相当強いのではないかと思わせられてしまう。もちろん今となってはもう寄る年波に勝てないとは思うが。
 現実世界では、カンフー映画のように、達人の老人が出てくるわけではない。本当に達人だったとしても、やはり肉体は衰えるもので、映画のようにはいかないだろう。

ジャッキー映画『天中拳』 感想メモ

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 ジャッキーの映画自体、それほど見ていない。金曜ロードショーでやっていたのを見ていたくらいだ。今回はジャッキーの『天中拳』というのを借りてきて観た。酔拳や、蛇拳などは繰り返しみた記憶があるので、聞いたことが無い作品を見てみようと思ってのこと。
 副題なのか、本タイトルなのかわからないが、「カンニングモンキー」というのもタイトルにある。
 どういう意味なのかわからなかったが、最後のラスボスとの戦闘においても、ジャッキーが型が書いてある紙切れをカンニングしながら戦うという、あるいみふざけた作品であった。

 全体的に軽い拳法シリーズであったのではないかと思う。
 こういうジャッキーの映画をどう捉えたらいいのかよくわからない。映画の専門的な勉強を受けていないというのもあるが、もし映画の勉強をしていたとしても、ジャッキーの映画にはまた別の文法が存在するような気がするからだ。
日本におきかえて考えてみたのだが、例えば山田洋二の「寅さん」シリーズがこれに相当するのではないかと比較対象を立てて見る。今回の作品においては、なんだか寅さんの渥美清に似た師匠が登場する。もちろんただの余談であるが。
さて、このジャッキーのカンフーシリーズ。大体大きな枠組みはいつも一緒である。半人前だったり、まったく強くない主人公が、老人役の師匠から秘伝の拳法を学び、敵を倒すという、単純と言えば単純な話なのだ。だが、なぜ単純な作品であるはずの、寅さんや、カンフー映画が今みても楽しいのかというと、そこにはこんな理論が働いているからではないかと思う。

 こんなとはこんなだ。例えば漫画の話。両不二子が作り出した「ドラえもん」。普及の名作となったことは言うに及ばない。さて、このドラえもんであるが、なぜ今でも残っているのか。両不二子は、デビュー当時から「古い」と言われ続けてきた。それは彼等の画風が、リアル志向であった60年代70年代において、丸みを帯びたあの独特な、これ以上簡素化できないような表現だったからである。しかし、その当時の最先端を行っていたリアリティーを追求した作品はどうしたのかというと、時代の波に残酷にも呑み込まれてしまったというわけなのである。
 私の教授が述べていたことであるが、例えばスーパーファミコンのドット画の作品は今プレイすることが可能で、比較的たのしく受容することができる。しかし、時代の最先端を行っていたはずの、プレイステーションの作品などは、ポリゴンがすごくてとてもできたものではないと。とすると、ポリゴンよりも、あのドットのほうが現在でも楽しめる、というのには、これ 以上簡素化できない、きわめて記号化された部分においては、普遍性を持つのではないだろうか。
 そうすると、寅さん映画や、ジャッキー映画のおもしろみが分かってくるような気がする。というのは、これらの映画はあまりにも簡素化しすぎていて、パターンが簡単でわかりやすく決まっていて、それゆえに反転しておもしろく、今現在にいたっても見るに堪える映画になっているということなのである。

 さて、今回もまたほぼお決まりのパターンである。ただ、今回の映画は、最後に何十人も登場して、敵のボスも3,4、名も登場するという、大団円を迎える。これがなかなか壮観であり、ずいぶん力をいれたのがわかる。
 それまでの展開がずいぶんテキトーというか、おふざけにすぎたというのもあるかもしれない。その反動だろう。
今回の話は、秘薬を護送する主人公サイドと、それをつけねらう盗賊たちの大戦闘というもの。実際には秘薬というのはただのハッタリで、盗賊たちを一度に集結させて、一気に討伐してしまおうという作戦だったことがわかる。

 ふと疑問に思ったことなのだが、一体このジャッキーのカンフー映画というのは、舞台設定はいつなのだろうか。日本におきかえた場合、これらの映画はどんなものになるのだろう。忍者映画にでもなるのだろうか。そもそも中国において本当にこんなにカンフーの達人たちが戦っていた時代があったのだろうか。そしてもしあった、というかカンフーが盛んな時代があったとして、それが一体いつごろだったのか。よくよく考えれば、私たちはそれらに対して何の知識もないし、説明も与えられていない。
 例えば1900年ごろが舞台であるとか、そういうことが一切わからない。中国のどこらへんの話なのかもよくわからない。あんな作務衣のような服を着て生活していた時代や地域があるのだろうか。おそらくあるのだろうけれども、どうなんだろう。これは誰か詳しい人に是非教えてもらいたいものである。

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