ダスティン・ホフマンになれなかったよ

文学者である私が言葉を失った日。あるいは、人生の生きる希望を失った日。
生きる気力がない。
さすがにずいぶんと苦しい経験をたくさんしてきもし、この人生にもうそこまで期待していないので、死ぬほどのショックはなかったけれども。また深く、私の人生が深淵に近づいたという感じがした。
2018年1月26日。
朝。私はふとFacebookを開くと、高校時代の男性の知人が結婚報告をしていた。さすがにこのとしになってくると、もうまわりでも、特に女性は結婚適齢期なのでしてきていて、時の流れの速さに私はついていけないと感じる日々であった。私のまわりでは、男性で、二、三人目の結婚だった。男性では少し早い。
そして特に日々の暮らしでは思い出さない高校時代のことをふと思い出したのである。私が高校最後の年に好きだった人。彼女よりも、美貌としても精神面としてもすぐれて美しい人などいないと、私は文学者によくありがちな崇拝をしつづけた彼女。しかし文学者らしいナイーヴさのために、『こころ』の「先生」のように、自分の彼女への想いを小説にして渡すことしかできなかった彼女。なんどか大学時代には、友達もまじえて遊んだ彼女。その彼女のことを思い出していたのである。彼女はうつくしかった。もしかしたらいつか、彼女が結婚するのではないかという予感が私の脳裏をよぎった。
そして寝て、起きて、中高の、毎年参加している定期演奏会に顔を出した。私が中高母校とのかかわりをまだもっているのは、母校が好きだったということもあり、文化祭とこの定期演奏会だけである。年に二日、かつての先生や、知人の数人と会えることができる機会。
そこには、私の同期がいた。そしてその人と帰りの方面が一緒だったので、その僕が恋した、愛した彼女の話になった。その知人は彼女とは仲が良かったので、彼女のことをよく知っていたのである。
その知人の口から出たのは、彼女が結婚するよという事実だった。しかももう籍はいれたとのこと。
私は、彼女への気持ちを、本人にも伝えていたし、まわりの人たちに対しても、特に隠すことなく何人かには言っていた。そんな彼女が結婚したとは。大学の同期らしい。

以前ツイッターか何かで読んで納得したことがあった。そう設計されたかどうかは別として、高校、大学までが、最後の相手を見つける場であると。もうそれ以降は職場などでみつけることしかできず、それは極めて難しい。大学というのが唯一最後取り残された砦であり、そこで将来の相手をみつけなければその後見つかる確率というのはうんとさがるというものであった。

私は大学時代に、確かに何人かの女性にいいなと思い、食事などにさそったものの、誰一人として、このぶおとこである私になびいてくれる女性はいなかった。
だから私は文学者らしくプラトニックに、妄想的に、他の大学にいってしまった、高校三年生の時に少し交流があった、彼女のことを、記憶を結晶化し、それを崇拝し、それを心のよりどころとしていきてきたのだ。その彼女が結婚したとは。

これを書いている今も、手の震えがとまらない。
あまりこの二日程度は考えないようにしていたのだが。やはり考え始めると、るつぼにはまってしまうので、医者からもらっているロラゼパムでやりすごしている。時が解決してくれるのではないかという希望を信じて。

彼女への想いをつづった小説を、かなり長い小説だったと思う、文庫本一冊にすればやや薄めの本ができるくらいの原稿量だったと思う、そこにはいろいろな彼女への文学青年だった当時の僕の言葉がちりばめられているはずだ。
いま、まさにそのラブレターだった小説のつづきを書く時かもしれない。

ネットで失恋の時の対処法、といったのをいくつか見た。緊急的な応急処置である。
こんなものがあって、こころにひっかかっている。その相手は別の相手を選んだ。結婚なんてそんなに大きなものととらえる必要もない。もし自分と結婚たとして、その人を幸せにすることができたであろうか。その人を想い続けることによる苦痛から解放されたと考えよう、こんなところだ。
たしかに、精神的にも肉体的にも病弱で、フルタイムで働くことができず、うつ状態の私が、自分を生かすことが精一杯の私が、彼女をしあわせにできたとはとても思えない。文学者たる私の想像力をもってしても、そんな未来は描けなかった。彼女はまぎれもなく、私のような死の引力にひかれた男など気にもせず、自由に明るい場所を行く人だった。それでいいのかもしれない。もし今後、彼女と友達という関係ででも、会えたならば、それはそれでいい。
彼女の結婚をいまはまだ祝福できない。彼女がわかれればいいのに。職場の同僚からは、いがいと簡単に離婚する時代だからな、なんて言葉をかけてもらったりもした。

だが、私がそんなことをいったり、なにか積極的な行動をしたりするのはおこがましい。もしも彼女のことを本当に手に入れたかったのであれば、彼女に彼氏がいようがいまいが関係なく、密に連絡をとりつづけるべきだった。僕はそんなこともせずに、もしも彼女が、という妄想にひきこもっていただけの人間なのだから、彼女を呪うことも、祝福することもできる存在ではないのだ。

私はこれをもとに自分の創作力に還元する程度しかできない。人生で私は痛みをうけたぶんだけ、文学に力を転じることができる。

かなしい
こんな日には、大塚博堂の歌が合うではないか





幽玄先生、ついにユーチューバーデビュー!!応援お願いします

いぜんからやってみたかった、まあいつも乗り遅れ気味ではあるけれども、ユーチューバーなるものに、私もやってみようと思う。
ということで、二週間に一回くらいの割合で更新していきたいと思います。応援お願いします。




2017年を振り返って~2018年への抱負

本当ならば2017年のうちに書いておこうと思った文章であったが、やはりロングスリーパーの私には、一度睡眠に入ると起きることができずに、年末から年始にかけてを寝て過ごすということをやってしまった一年であった。
さて、私は総括というものは一応必要であると思っている。まとめるということは、もちろんそこからとりこぼれるものにも重要なものはあるけれども、しかしなにもまとめずにそのままというのもまたそれはそれで、わかりにくいという点から、ある程度のまとめというのは、個人的なレベルにおいても、そしてひいては国家間の歴史認識などにおいても、まとめをし、それを共有するという作業はどうしても必要になってくる重要な作業であると認識している。
という大仰な建前はさておき、私個人の2017年を振り返り、そこから2018年への飛躍をとげていきたいと思う。
2017年は後厄にあたるとしで、たしかにこの三年間、なかなかつらい思いをしてきた。心理的にはやはりうつ状態のまっただなかであり、2017年にはだいぶ回復したものの、それでもまだあとをひきずっていた感もあり、ようやくうつぬけできたかなという感じである。くしくも2017年には、田中恵一先生のうつぬけという漫画が話題になり、そのセンセーショナルな言葉によって多くの人にもうつぬけという言葉が共有された。私自身も2017年の年末に、やく一年ぶりに飲みをした大学の先生との間で、しばらくなかなか会えなくて、会う気になれなくて、どんな顔をしてあえばいいのかわからなかったけれども、いまになってようやくうつぬけをした感じで、相手に心配させずに会えるようになったから会ったというようなことを言った。
大学時代の時にうつを発症し、さらに社会人一年目、たった二ヶ月で精神をぼろぼろになるまでにされた初の職場を退職後のさらなるうつ。そこから就労はうまくいかずに、2017年もまた、あまりにも過酷なシフトを組む店長のもとで、私は転職を考え、一度正社員になってみるも、たった四日しかつづかないという、自分史上最も短い勤務日数を更新し、ああ、俺ってだめなんだな、というところに落ち込んでいた。しかし、ひらきなおるというか、あきらめる、あからめる、というか、ここでようやく、僕にはいわゆる「ふつう」の、週五日でフルタイムで働く正社員は無理なんだなということがわかり、僕には残念だけれども、そういうのは無理だから、父母からゆずりうける、土地、家、財産などを、私の代で食いつぶしながらも、私はなんとか生きられるだけ生きて行こうと、がんばるというのはできないのだなということを改めて、自分でもようやく納得できる境地に達せたのはよかったことである。これでいつまでもいや自分はこんなんじゃないんだと、無駄なあがきをつづけていれば、いつまでも傷つくことになる。私には無理なんだから、そういう性分にうまれついてしまったのだから仕方がないとあきらめて、自分ができることを自分ができる範囲でやっていこう、その過程において、自分の車を持つとか、家を建てるとか、結婚や子供を持つというような、「普通」の夢をあきらめることになったとしても、仕方のないことだ、というような、一歩引いた、達観した立場に、境地に至ったのは事実である。
そしてそれが6月のこと。それからはあまり落ち込みもせずに、いままでの飲食店の仕事も週5だとつかれるので週4にしてもらって、しかも契約を変えて、深夜は働かない、夕勤だけにしてもらって、だいぶ自分の時間もとれるようになって、精神的にも落ち着いてきた。
2017年を感じ一字で表すとしたら、というのを世間ではやっているけれども、自分でやるとしたら、病状も治まり、比較的安静な時を過ごせたことから、「静」、病気がいえたことから「癒」、いままでのことをひきつぎつつ、なんとか生き続けていることから「連」といった漢字が引き出せるような気がする。

2018年を迎え、この年をどんな年にしたいか。
急に仕事を減らすのは他の人にも迷惑かなと思い、12月の段階で、来年の3月には週3日勤務にしてくれという予告をした。だから、一月、二月はこのまま、といっても週4日で、「ふつう」の同期の社会人の皆と比べれば楽なのであるが、それをさらにつめて、3月からは週3日の勤務にし、「ふつう」の夢であった、車、家、結婚、子供、などをあきらめながら、それをわきにおきながら、自分のしたいことをする一年にしたいと思う。当然収入は少なくなるから、いままでのように、自分の好きなものをばんばん買うこともできないし、旅にもいくことはできないだろう。だが、それでいい。
すこし疲れたし、まあだいぶ回復してきたとはいえ、あまりにも長い間病に苦しめ続けられた。大学一年の時の発症からすれば、7-8年、うつやそれに付随する症状にさいなまれてつかれはてているのだ。
それにようやく精神的な力も回復してきたのか、なんとか文章をかけるまでに回復してきたので、今年は、仕事の時間は最低限のお金をかせぐための必要最低限の時間と割り切って、後の時間を、まだ見ていないアニメをみ、映画をみ、本を読み、そして創作活動、小説の執筆へと移っていきたいと思っている。
おそらくここから数年は、アルバイトを週3日やりつづけながら、ゆっくりと創作活動を続けていく、私の創作期にはいっていくことであろう。
大学時代から構想を練っていた、私の初期のマスターピースになるべき作品の準備のために、すでに本を30も40も購入している。これらを読んで、自分のなかで体系化した暁には、相当な小説を出せるのではないかと思っている。しかし、これはあまりにも規模が大きすぎるため、どこかの賞をねらうには、規格が大きすぎて入りきらない。だから、デビューしなければ本を売り出せないのであるから、デビューするための、入賞するための作品も又、いくつか書いていきたいと思っている。
すくなくとも私は就職しなければ、といった価値観に、昔から反対していたけれども、しかしこころのどこかでそういう価値観にあこがれていたし、コミットしたいと思っていたのだ。それが、前回の就労失敗で、ついぞ腑に落ちたというか、自分には無理なことなのだから、自分に向いていないところでがんばるより、自分のできることをがんばろうと思うに至ったのだ。
たった一度きりの人生なのであるから、他人が代わりにできる仕事はほかのだれかに任せればいい。自分には、自分にしかできないと思うことをやったらいいのである。
所信表明


クレーマーをぶっとばせ!

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 私はあんまりそんな柄ではないのだけれど、最近イライラしていたからか(いや、一応イライラをコントロールするために、心療内科で抗不安薬や精神安定剤は出してもらって飲んでいるけれども)、それよりも僕の思想、思考的な分野において、これはちょっと許せぬと思ったので、普段行わないような行為に出てしまった。
 というのは、本日、駅前の西友でのことだが。この店の前には無断駐輪が多い。一時期徹底的に排除したこともあったが、それも時と共に風化して、いまではふたたび違法駐車の無法地帯となっている。そんななか、店にクレームをつけた人でもいるのだろう。まさしくクレーマー社会だ。こんなところに自転車を駐車させていて、それを何も管理していない、管理監督責任はどうなっているのだ?といったクレームだろう。自主的に店がなにかをすることもないだろうから。そうすると、当然大手チェーンとしては、こういうクレームがありました、対処をしなければなりません、ということになる。そこで、声優のパートなのか、あるいは社員なのかはよくわからないけれども、かわいそうに、おばさんが矢面に立たされて、西友の駅前の広場で、ここに自転車を置かないでくださいという声かけを行っていた。なんてことはない、普通の風景だし、普通の出来事だ。私はこれにカッとしたわけではない。まあ、ここについては、そりゃ本当はだめだけれども、なんとなくなしくずしにグレーで行われているものに白黒つけるべきではないとは本心では思う。つまり、みんな自転車で来るし、まあそこまで迷惑にならない範囲でちょっとの間駐輪するくらいいいじゃないか、と思うのだ。だから私の第一の本心としては、そういうところにクレームをつけるクレーマーが悪い、となる。
 私が話したいのはこのことではない。これから私が話すことについて、私が行ったことについて、私はこんなことを自慢げに話すのはよくないなとも思った。そして同時にそれを話したい、誰かにいいたい、という想いも自分の中に認めた。私はブログをやるくらいの人間だから、当然目立ちたがり屋だし、承認欲求の塊である。私に対する批判は一切受け付けないし、わたしは称賛のみをもとめている。そういうエピキュリタニズム的な自分をどう思うの?といわれれば、はずかしながら、そういう現状であるとしかお答えできない。まあだからこれから書くことは実際にあった出来事だけれども、武勇伝武勇伝、俺の武勇伝を聞いてくれってな感じで軽く聞き流してくれ。
 どんなことがあったかというと、ああ、おばさんが立って、ついにここに自転車を置いてはいけませんと言い始めたなあとおもった後である。ちょっと駅前で買い物をすませて再びその場を通ると、いい年をした、60代くらいかな、のおやじが、大声をあげてそのおばさんに食って掛かっている。大声ではあったけれども、また私のアドレナリンが放出されていてあまり理性が働いていなかったのもあいまって、そいつがどんな主張をおばさんにしていたのかはよくわからない。だが、まあろくでもない、意味のないクレームであることは確かであった。
 自称文学者であり、ブロガーでもあり、そして飲食店従業員でもあるところの私は、これをみてカッとなってしまった。飲食店従業員の立場として、クレーマーほど死すに値するものはない。もちろんよっぽど店員がなにか間違ったことをやっててその反省も見られないというようなことだったらば別だけれども。しかしほとんどの場合においてクレーマーというのは、そいつがおかしい。
飲食店従業員として、私も普段、まるで天災のごとくふりかかってくるクレームの嵐に対して、やなみあぐねている。この業界で仕事を始めたときには、とにかくそれが嫌で嫌で、自称文学者なくらいだから、私はもともと敏感な人、HSP(Highly Senetive Person)なのだ。だから、なにかクレームをもらうようなことがあると、こちらが悪いわけではないのに、しばらく、数時間、あるいは翌日くらいまで、ずっと気分が落ち込んでいるというようなことが常態だった。これは経験である。いまとなっては、だいぶ、今回のことが起きても、まあそんなにその後気分の浮き沈みがあったり、心拍数があがりっぱなしということはなくなったので、経験、人生経験をしていくことが、メンタルをタフネスにしていくのだと思う。心臓に毛が生えたともいえるかもしれないし、あるいはしかし、反対に、そういう経験をしていくからこそ、厚顔無恥な老害が出来上がるのかもしれないが・・・そういう人間にはならないように気を付けるとして。
 そんな日々を過ごしていた私としては、クレームをつけてくる人間は正当性がないかぎり(いや、たとえあったとしても、冷静に、理性的に、ここは間違っているでしょ?→謝罪→許し、という大人のやりとりがなされるべきで)、すべて死すべしと思っている。
そんな思考ができあがっていたからこそ、かわいそうに、損な役回りを押し付けられたおばさん従業員に対して、何がひっかかったのか、大声でわめきちらしている老害がいたのである。
 それを見かねた僕は、一気にバーストして、老害につかつかと歩み寄り、まずはバシンと一撃、そして「おい」と恫喝。ほんとうはやっちゃあいけないんだけど、もう相手がおばさん従業員相手にやっているので、よしとしましょう。暴力をふるってはいけないというのが大原則だけれども、すでに暴力をふるっているあいてに対してはそれを止めるのに例外的に使用を許可するということで。
お前はなにをいっているのか。大声でわめきちらして。ここは自転車をとめちゃいけないところなんだよ。このおばさんが何か間違ったこといっているのか?
 ほんとうにこういう時ってアドレナリンがでているもので、ぜんぜん相手の言うことがはいってこないものだね。それは自分も気を付けようと思ったのだけれども。とにかく老人につめよる僕。老人はなにかをまだごちゃごちゃいってたけど、私もよくわからないので、大声で応戦。私は必死に、リベラルですけれども、国家権力を有効な時は使いたい派の僕としては、即座に、警察呼ぼうか?え?警察、とこちらも大声で言っていたら、ほんとうにすぐ目の前にある交番から、警察と呼ばれて三人の警官がずらずらとでてきたので、まあそれで老害もわめくことができずに鎮静化というようなことでした。
私はその場ですぐに、警察にありがとうございましたと解放されたのでその場を警察に任せて、仕事だったので向かいましたけれども。まあこんなこともあるもんですね。
 なんか老害の言では、西友のおばさんが、となりのてんやさんでのご利用でない方の駐輪はご遠慮しています、というような説明の仕方にかちんときたようなのであるけれども、たとえそうだとしても、それを大声で大衆の面前でおばさんを攻めるようなことは到底必要のない暴力で、それを僕は暴力をもってとめてしまった、というのが今回の話。
 老人も、なんでてんやの利用はいいんだ、というようなことをごちゃごちゃいっていて、それがおかしいだろ、というようなことをいっていたけれども、お前働いたことあるのか。なかったとして、想像力を働かせろ、といいたい。おそらく西友にクレームが来た。だから西友として自分の店の利用者の無断駐車に対処しなければならない。しかし、場所が悪いことに、そこはてんやを利用する人も駐車をする場所なのである。西友の従業員として、無差別に、ここは駐輪禁止ですとはいえない。そんなことをいえば、てんやの利用者からクレームがくるし、なによりてんやからもクレームがくるだろう。だから、てんやをご利用でない方は自転車をとめないでくれ、といういい方になったのだろうと思われるが、それのなににひっかかったのであろうか。それにひっかかって、大声でおばさんをいじめているようなクレーマーはおしなべて死すべしである。
 私もだいぶ歳をとってきて、度胸がついたのか、老人にたいしてはそういう風にいえるようになった。まだもちろん若くて強そうなやつには言えないけれども。そして言う必要もないと思うけれども。電車のなかなどで若者にマナーを注意したら逆切れされて暴力を受けて死んじゃった、なんて話も前にあったような気がする。だから私もこの話を同僚にしたときに、それは危険だよといわれて、ああそうかとも思った。最近では90歳の老人が60の息子をハンマーかなにかで殴り殺す時代である。老人といえど、なにか武器をもっていたらあぶないかもしれない。
 だからまあ、私はあくまでも、みんなにそういうクレーマーをぶっとばせ、とはいわない。自分の身の危険があるからだ。だけれどももし、うまくやれそうで、クレーマーがあきらかにクレーマーであり、正当性にかけた主張をしているのであれば、店員は同じように大声をだしたりすることはできない立場なので、助け舟をだしてあげよう。僕がいいたいのはそんなところだ。年の瀬になんんてこった。



欅坂46の文学性

欅坂46は2015年8月21日に誕生した、アイドルユニットである。2016年4月6日サイレントマジョリティーを筆頭に、いままでに4作アルバムを発表。先日、2017年4月5日には第四作目となる新作、不協和音を発表し、NHKの歌番組SONGSでも特集がくまれたり、今話題沸騰のグループである。
最近めっきり記事をかかなくなった僕だけれども、このグループについては、なんか感想めいたものを少し書いておきたいなと、ひさしぶりに思わせるものだった。それはなぜかというと、そこになにかしらの「何か」を感じたからである、それをタイトルでは文学性と表現したけれども、そんなものは音楽性でもなんでもいい。

自分の言葉で表現してもよかったけれど、Wikipediaに端的にのっているのでそれを引用しよう。
「アイドルソングとしては珍しい低音寄りの構成で[41]、軍隊のような衣装と[注 1]、統率されたダンス[37]、メッセージ性の強い歌詞を[44]、女性アイドルグループらしからぬ出立ちでクールに表現し[45]、「システマティックに作られた社会を象徴するシーン」と「若者の力強さと勢いを表したシーン」の2つの情景が取り入れられている」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC
サイレントマジョリティーとはどんな作品かと聞かれたら、このような要素を取り上げることができるだろう。
それまで、古くまでさかのぼれば、アイドル全盛期時代から、アイドルユニット、おニャン子、モーニング娘。それから00年代にはいってからの圧倒的だったAKB。乃木坂などの流れがある中で、このユニットはあきらかにそれらの系譜からは逸脱していく流れである。
それまでのを踏襲して、それを補完しているといってもいいかもしれない。
とにかく、センター平手友梨奈15歳を筆頭にしたこの数あるグループのなかでも特に平均年齢の低いグループは、通常の流れであれば、「かわいさ」を一番に押し出してくるようなところを、あえて直球ではなく変化球で投げたというのがおもしろかった。それさえも、秋元康の思惑にからめとられているところを思うと、なんともいえないところがあるが。

いまのところ、けやき坂の4つの表題作は、二つに分類することができる。
すなわち、システム化された社会に対する若者の抵抗という社会的メッセージのある『サイレントマジョリティー』『不協和音』と、もうひとつは、季節を描写したような『世界には愛しかない』『二人セゾン』である。
サイレントマジョリティーのほうが、世間ではどうも人気があるようなので、あのセンセーショナルな、尾崎豊のようなアンチ現代社会の批評が、意外と現代のわかものにはいいらしい。
大卒で批評を専門として勉強してきてしまった、20代半ばくらいの人間になると、あの若者の痛切な叫び、みたいなのは純粋にそのままではなくて、秋元康が言わせているものだしなあ、といううがったみかたをしてしまうので、私にとってはこちらのふたつの作品はなかなかつらいものがある。
特に最新作の不協和音は、途中で二度さけばれる「僕は嫌だ!」という叫びが挟まれるが、うーん、いきすぎじゃないかなあと思わなくもない。また個人的に好きでない、ロボットのような不自然なダンスがこの二曲にはあるので、この二つの曲は、その政治性(批判している大人、社会の代表格ともいえる秋元がいわせている、「マッチポンプ」)と、そのダンスにおいて私はあまり好きになることができない。
それを現代の高校生くらいは、わあすごいなあ、僕もこのうっくつして、出口のない日本社会においてそう思っていたんだ!と素直に思えるのだとしたら、それはとても純粋だが、私からしてみたら、ちゃんと大学にいってそういうものに対する批評性をみにつけないと、あなたこそ「サイレントマジョリティー」に結局なっちゃうのよ、なるのならせめて「サイレントマイノリティー」か「ノイジーマイノリティー」になろうね、といいたい。

だが、秋元康のそうしたマッチポンプ的、あまりにもうますぎる商業的精神がかいまみられるこれらの作品はおいておいて、彼の季節や自然を切り取る文学性においては、やはり一目を置かねばならない。私はいままでずっと文学に政治を持ち込むなと思ってきているが、やはりそれをやられるとだめだ。
その点、それがない季節を描写した二つの作品『世界には愛しかない』『二人セゾン』は、とても美しい作品だと思う。
『世界には愛しかない』が、春から夏にかけて、『二人セゾン』が秋から冬にかけてを表現している。
『世界には愛しかない』は、学園生活の風物詩でもありそうな、もはやそんなものはもうあまり行われていないのかもしれないけれども、学園祭なんかでだされそうな、朗読劇調で、朗読がはいる。やや過剰な演出だなと私は思うけれども。
私が最も好きで、もっとも自然だと感じるのは、『二人セゾン』
二人セゾンは本当にすばらしいと私は感じた。なんといってもメッセージ性があるにしても、政治的ではないし、あるとしたら、それは今という一瞬を大事に生きろ、といったような毒のないメッセージだからだ。そしてダンスも作品のなかで、もっとも「キレイ」である。『サイレントマジョリティー』にしても『不協和音』にしても、まさに不協和音など、タイトルがしめすように、もとから調和を目指していない。調和をたっとぶ、どちらかというとキレイ目好きな私からは、違和感を覚えざるを得ない。それに対して『二人セゾン』のあのうつくしい、整ったダンスはなんとも形容しがたい。
途中間奏中に平手がうでをふりまわしながら踊る場面があるが、若者の熱い生命力を表現するとしたら、ああいうほうが私はとても自然だと感じる。

しかし、この4作で出し尽くしてしまった感はある。
これから秋元先生が、けやき坂のためにどんなテーマの楽曲を書き下ろしてくれるのか、今後が気になる。

一点私が気になるのは、あまりにすごいとはいえ、この四作すべてセンターを平手が勤めさせられていることだ。そもそも15歳の段階で、まだ人間としてはあまりに未熟すぎる、彼女には極めて大役であるといえよう。それにSONGSでも見られたように、彼女はもともとあまりアイドルが向いているような子ではない。どちらかというと奥手で、マイナス思考なくらい女の子だ。その点は、秋元プロデュースのAKBの前田敦子とも共通するものを感じないではないが。まあああいうくらい感じの子が日の目を見れるというのを体現してくれている秋元は、私はなんだかんだいって彼のことが嫌いだけれども、そういうことを体現してくれているのは、若者にとって希望となり得ていることは確かだと思う。
AKBは、いまのところ、卒業した彼女たちは、それぞれ自分の仕事を、AKBに所属していた時よりかは減っているとはいえ、それぞれが独立した、少女から大人の女性になっていっているのを見て、私は安心をしている。
だが、これまで日本の芸能界が、かずかずの子役をすりつぶしてきたのと同じように、他のメンバーが17,18,19くらいであるなかで、1人だけ15歳である平手が、根を挙げはしないかと私は思う。
根を挙げなかったにしても、彼女の一回性の大事な人生を、極めて困難な青春時代にしないかと心配になる。彼女がこれから秋元の加護があるとはいえ、大人のダークな芸能界の世界のなかで、その純粋性を保って無事に大人になれるのか、擦り減らないか、息詰まらないか、大人が少女の純粋性を利用してお金にしていることがどんなことか、考えなければならないと思う。
そこは見守っていきたい。それが大人の責任だと思う。

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