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連想批評、コナンにみる恋愛模様から、ZARD,彼女への女性像まで

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批評は、もちろんそれ自体をできるだけそれだけで語ることもまたひとつの批評の在り方であるけれども、ロランバルトが言ったように、テクストは引用の織物であるから、いろいろなものを、一見つながっていないようなものをつなげてみることによって新しい視座を獲得するというのも、ひとつのやり方である。よくわかりやすい言葉を使えば、その作品や対象そのものを深く突き詰めていくのが、内向型、ほかの作品や事象と結び付けて話を広げていくのが外向型といえるかもしれない。
そして僕自身は、両刀使いではあるけれども、どちらかというと、ほかの人が、え、それって関係あるの?と思われるようなとっぴなところに、(しかし、なんの脈絡もないわけではなく、きちんとした関連性があり)飛びつくのだ。そういうスタイルを僕は自分のスタイルだと思っているし、そういう風に世の中を見たら、少しは面白く見えるんじゃないかな、僕たちのこの世界というのは。

今回は、ふとアニメ、マンガの名探偵コナンをもとに、そこから連想ゲームで考えたことを、私らしく、自由に、闊達に、切り開いて見せよう。
本日26歳となった私であるが、批評という行為において、テクスト論的な考え方を用いる際に、それを批評する批評者自身の感情、感覚、知識、その他、その鑑賞者が生きている環境や育ち時代や社会の影響はさけられない。まったくの無が作品を批評することなどできないのだ。やはりそこには人それぞれの色が反映される。作品の批評とは、すなわち、その作品自体を語っていながら、その反面、その作品を通じて反映された批評者自身が描かれているのである。

「『名探偵コナン』は、青山剛昌原作の推理漫画作品であり、本作を原作とした一連のメディアミックス作品の総称」である。
週刊少年サンデーに1994年5号から連載されている作品で、テレビアニメは、1996年1月8日から読売テレビ・日本テレビ系列で放送されており、2018年12月現在、900話を超える回数を放送している。劇場版シリーズも、マンガ連載から3年の97年、「時計じかけの摩天楼」から、ルパン三世とのコラボ映画を除いて、今度公開になる23作目の紺青の拳まで、毎年欠かすことなく、放送されている、日本の国民的なアニメだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E6%8E%A2%E5%81%B5%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3

日本の国民的なアニメ、長寿アニメといえば、サザエさん、ちびまる子ちゃんも浮かぶが、これらは劇場版はない。劇場版ありきで考えるのならば、コナン、テレビスペシャルではあるが、ルパン三世、ドラえもん、クレヨンしんちゃん、これらの主要な作品は、毎年一本は映画が公開されており、いずれも20から30作品近い作品になってきている。すなわちそれだけの年数、我々日本人の現代若者に対して影響を与えていると同時に、私たちの共通知識、教養にもなってきているのである。
今回はそんななかでも、コナンについて、私がふと感じ、考えたことを述べてみたいと思う。

なぜコナンがここまで現代の若者の共通の知識になるほど多くの読者を獲得できたのだろうか、というのが最初の疑問だった。そこから芋ずる式に答えが導き出されていく。
コナンの主要な要素は、もちろん推理を楽しむ、自分が想定にもしていなかったことが、どんどんと語られて行って、ああ、そういうことだったのか、というのは、アハ体験として、その事件の顛末をしれば、かなりの快感となることであろう。たしかに一面にはそういう楽しみ方があるだろうし、それを楽しみにしている読者もいるだろう。しかし、私はあまりそこには興味はない。もちろんそれもおもしろいと思うけれども。ただそれ以上にもっと、作者自身が「殺人ラブコメ漫画」と称しているように、ラブコメ的な要素もつよい。私はむしろ、推理が好きというマニアックなあまり広くない門からよりも、それをバックボーンとして成り立つ、登場人物たちの恋愛模様に、私たちは自己や自己の周囲、恋人との関係などを投影することによって、このマンガ、アニメに対して、共感、シンパシーを得ているのではないだろうか。それが、二十代半ばとなった私を中心に、上は30代、下は10代までの多くの日本人ならびに、コナンが放送された国々の人々にひろく受け入れられている要因ではないかと思うのだ。

抽象的なことを言っていててもしょうがない。少し具体例に入ろう。コナンには様々な人間関係がある。非常に多様に。であるからこそ、作品に深みがあるといえよう。私たちは、そのどこかに、あるいはいくつかの関係にわたって、自分自身の思いや、過去の記憶、あるいはこれからのことを託しているのかもしれない。
もちろん王道は、主人公コナンこと工藤新一と、毛利蘭の恋愛である。ワンピースは恋愛を避けている。ナルトも、恋愛はメインではなかった。クレしん、ドラえもんは子供すぎるし、ルパンは大人すぎる。ちょうど思春期の、10代後半から20代ぐらいまでの「恋愛」をきちんと描き切っているのは、コナンが最も強いのではないだろうか。慧眼なる上野千鶴子先生が『スカートの中の戦争』で指摘したことには、人はパンティに欲望すると。しかし、その下に隠されている本丸には興味は実はないのだと。隠されることによって、そこに秘匿性が付与され、そこに価値が生まれ、フェティシズムが生まれるのだ。コナンも同じである。ナルトのように、ヒナタと結婚できました、子供が生まれました、万歳では困るのだ。連載開始から20年間、同じ時間のなかを無限ループしつづけている工藤新一と毛利蘭は、ぎりぎりまでいくけれども、絶対にゴールインしてはいけないのである。それにまだ高校生だ。
(ふと、この作品を考えた時に、自分の印象のなかの工藤新一や毛利蘭の人間性を考えると、26の僕と同じくらいだなあと感じる。とても17くらいの高校生のパーソナリティーとは思えない。それは20年前には、17でもあれだけ成熟していたということの文化的な背景があるのか、あるいは、どうしても無理が生じてずいぶん大人な人格をもたざるをえないのか。アニメは、子供を主に視聴者としているので、けっこうはちゃめちゃな部分も多いが、劇場版や漫画のそれは、きわめてプラトニックで純愛な、20代くらいの大人の恋を描いているように私には思われる。)

王道はまさしくも工藤新一と毛利蘭との恋愛関係だ。工藤新一には、悪の組織によって子供に変えられてしまうというトークンが課せられたために、非常に近くにいるのに、一緒に生活しているのに、それが新一だとわからない、という、非常にもどかしい、アンビバレントな恋愛が描かれている。遠距離でありながら、近距離であるという、これほどまでにもどかしい、もう自分が手を出して、こいつが新一なんだよと教えてあげたくなってしまうようなむずがゆさがある。そのぎりぎり感がたまらないのだ。

だが、なにも王道だけがすべてではない。この作品のすばらしいところは、この王道をひとつ描けただけでも十分に立派な作品であるのに対して、ほかにも多種多様な人間関係のありかたが描かれているからである。だからこそ、この王道に感応しない人たちにも、自分を投影できる場所があるのだ。
例えば服部平治と遠山一葉。こちらの関係も、もう付き合ってるでしょ、というレベルの仲の良さなのにもかかわらずに、幼馴染だからという照れくささから、どうしても一歩を踏み出せないのだ。私は子供のころ、第7作「名探偵コナン 迷宮の十字路」(2003年)で、この二人が幼少のころから、思いあっていたのだなというあまりにも切ない、すばらしい恋愛の形をみて、作品の出来もよく、感動したことをよく覚えている。それが、ようやく、15年ぶりの、第21作「名探偵コナン から紅の恋歌」(2017年)にて、ようやく思いが通じ合ったという感じがして、非常に感動した。この関西カップルには、やはり京都を舞台とした作品でこそ、結ばれてほしいと思うし、実際にそれに十数年という年月をかけて答えてくれたことに対して、私たちは喜び涙するしかない。
工藤新一と毛利蘭がくっついてしまったら作品は終わってしまうので、その二人をくっつけることはまだかなわないが、さすがに25年も待たされていては読者も待ちきれない。ここらで、第二の主人公である服部平治と遠山一葉をくっつけておこうというのは、物語もいよいよ3分の2あたりまできたのかなというところで、作品完成、すなわち工藤新一の毛利蘭の恋愛成就を予感させる。

さて、こうしたストレートな恋愛。だけれどもまだ高校生で、はじらいや、いじっぱりがあり、なかなか素直になれなくて、というような純情な愛。これもまたいいことにはいいけれども、世の中それがすべてではない。何度も言うけれども。
例えば毛利蘭の両親を見てみれば、離婚こそしたものの、毛利小五郎と、妃 英理。この二人の大人な関係もまた、子供とともに劇場に足を運んだお父さんお母さんが投影できるような登場人物として描かれているのではないか。喧嘩をして別居中ではあるけれども、お互いに仕事をして、なんとなく相手のことをどこか頭のなかにあって、思っている。そして何か事件で二人が共闘しなければならないときは、見事に相手を思いやってやり遂げてくれる。そういう爽快感がある。

あるいは一方的にあこがれる、まるでシンデレラのようなお嬢様、鈴木園子と、怪盗キッド。鈴木園子はその典型的なお嬢様キャラクターから、作中のトリックスター的な要素を含みつつも、怪盗キッドという、本来悪であるはずの人物に対して好意を寄せてしまっている。ルパンにも通ずる、偽悪というのに素直に反応してしまっている、直球な女子である。ところが最近私が知ったところによると、今度の劇場版の主人公でもあるが、実は園子には京極真という人物が彼氏としているのだ。アニメ、マンガをすべて読んでいない私としては、あれ、そんな人いつ出てきたのという感じだが、ふと、360度、全方位を囲まれて、警察官にBB弾を打たれているのをすべて素手で受け止める場面を見てしまった際には、そのシュールさに、コナンもここまで来たかと、ある意味で驚かされたものである。

さて、ここからは少しフィティッシュな話になってくるけれども、少なくない人数の人々が、少年探偵団の灰原哀と吉田歩美ちゃんに対して並々ならぬ思いを抱いていることだろう、と勝手に推測する。
まずはあゆみちゃんから。あゆみちゃんは正直かわいそうであると私は感じてしまう。どんなにコナン君のことを思っても、コナン君はペルソナであり、実際は毛利蘭を愛する工藤新一なのだ。だから、あゆみちゃんの恋は実らない。しかし、私は男性であるからこそよくわかるのだけれども、まだ性的に成熟していない、第二次成長期を迎えていない、いわゆる幼女、とよばれる存在から、一方的な、純粋な、性的なものが排除された、好意を寄せられるというのは、男性は好きなものなのである。大変気持ちの悪い話で申し訳ないと思うのではあるが。それは女性の場合はどうなのだろうか。やはりしかし、大同小異にしろ、幼稚園や小学校低学年の男の子に、20過ぎの女性が好かれるというのは、別に悪い気持ちはしないのではないだろうか。まるでクレヨンしんちゃんとななこお姉さんのように。
さて、しかし、ここでさらに倒錯した恋愛を望みたい人のために、灰原哀という、究極のエロティシズムが、この作品には、容姿を幼女として、さらに屈託させて隠ぺいしているのである。あゆみちゃんへ欲情するのはまずい。とりあえずのところ、現在の文化、社会においてはそれは禁忌とされている。蘭、一葉ルートは王道でいい。文句はない。ピュアでもどかしい。でもそれではちょっと物足りない。エヴァンゲリオンで、シンジが綾波でも、アスカあでもなくて、ミサトさんにある種の思いを抱いていたように、男性にはまた、自分よりもひとつ上の女を求めてしまうところがあるのだ。
それはまるでルパン三世に登場する峰不二子のように謎が多く、ミステリアスな女。灰原哀は、そんなお姉さん的なエロスを感じさせる人物として登場する。時々回想のシーンで出てくる大人だったころの美人の灰原哀の姿のそれは、赤城リツコのそれとそっくりである。そのまま登場させてもよかったようなものであるが、そこはどのような経緯があったかはわからないけれども、とりあえず組織から逃げ出すためにということで薬を飲み、子供になっている。円谷光彦が、当初あゆみちゃんオンリ―だったのが、灰原さんの登場によって、灰原さんにも浮気し始めたのは非常におもしろい。
コナンを見ている男性読者なんて、だいたい光彦と同じレベルの感情レベルだ。蘭=一葉か、あゆみちゃんか、あるいは灰原さんか。

このようにしてみてみると、この作品がいかに、名探偵や、推理というのを枠組みとして使っていながら、その内実、恋愛模様を描いているかということがわかると思う。

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第二部
そしてここからは後半戦だ。作品を離れてもっと取り留めのない話をしよう。
コナンという作品には、様々な女性像、恋愛像が喚起されることがわかった。あくまでも男性側からの視点ではあるけれども。ただ、コナンは見ていても非常にジェンダーバランスの取れた作品なので、しかも、女性が好んで見ているということもあるから、女性視点からでも、様々な男性像が、受容の対象となるのだろう。
だが、男性視点の私からすると、コナンに付随する女性像は、その作品そのものを超えて、そのオープニングやエンディング、劇場版の主題歌などをうたった歌手にまで及ぶ。それらのイメージがどこかで連結しているのだ。
例えば先ほど指摘した、
第7作「名探偵コナン 迷宮の十字路」2003年では「Time after time〜花舞う街で〜」倉木麻衣
第21作「名探偵コナン から紅の恋歌」2017年「渡月橋 〜君 想ふ〜」倉木麻衣
ほかにも倉木麻衣はアニメ版のオープニング、エンディング、ともに多数の楽曲を提供している。特に記憶に新しい渡月橋の歌では、和服を崩した衣装でミュージックビデオや音楽番組に出演したために、彼女個人の女性像が、深く作品としてのコナンと結び付けられるようになった。
そしてそれは、ほかにも、女性側から見たらB’z、そしてなによりも、私が大好きなZARDとも、密接にかかわってきている。もはやこの三組の楽曲でまわしているのではないかというくらいに、この三組の楽曲は多く、その時々の音楽で、あのアニメを見ていた時期の自分、あの劇場にいったころのこと、という私たちの人生の1ページともまた密接につながってきているのだ。
そしてこれは非常に個人的なことであるが、私はZARDの坂井泉水が大好きだ。もう彼女がこの世に存在しないというのはあまりにも悲しすぎることであるけれども。私は職場への移動時間などには、彼女のミュージックビデオを見て、いつも元気をもらっている。本当に幸が薄そうな、化粧っけのない美人。
そしてこれもまた個人的なことであるけれども、今はちょっと関係が微妙になってしまっているのだけれども、私の愛する彼女もまた、坂井泉水に似ているのだ。そして彼女はコナンが好きで、暇な時にはコナンのアニメをみている。
私の彼女の白い肌、きりっとした目、淡白な感じ、横顔は坂井泉水に似ている。難しい時期も、坂井泉水の楽曲を聞いて、もちろん坂井泉水もきれいでかわいくて、うつくしくて、その笑顔があまりにもいとおしい映像だけれども、それを通じて、その背後に僕は彼女のことも考えるのだ。
コナンはこれからもまだ作品を展開していくことだろう。悪の組織が解明され、コナンが工藤新一に戻るその日まで。
そしてコナンを見るたびに、私は彼女のことを思い出すし、坂井泉水のことも思い出すのだ。
作品が人に与える影響は大きい。


11月鑑賞目録

倉成央 (著), 谷口祥子 (著)『クライアント満足を10倍にする カウンセリングとコーチングの合わせ技』(秀和システム (2017)
イルセ・サン (著), 枇谷 玲子 (翻訳)『敏感な人や内向的な人がラクに生きるヒント』(ディスカヴァー・トゥエンティワン (2018)
加藤諦三『対象喪失の乗りこえ方』(大和書房 、2014)
本田健『人生を変えるメンターと出会う法~自分の磨き方、高め方~』(大和書房 (2015)
大門正幸『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』(宝島社 (2015)
大泉りか『もっとセックスしたいあなたに』(イースト・プレス (2014)
原由加『子ども・パートナーの心をひらく「聴く力」』(秀和システム (2017)
村上世彰『いま君に伝えたいお金の話』(幻冬舎、2018)
中島義道『明るく死ぬための哲学』(文藝春秋 (2017)
斎藤勇『面白いほどよくわかる!「女」がわかる心理学』(西東社 (2014)

『ボヘミアン・ラプソディー』(2018)
『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』

所見
ようやく落ち着いた11月。月初めに悲しいお別れがあり、精神的にかなりきつく、味も感じられないほどになってしまったけれども、なんとか今、これを書いている時点で一か月というときが過ぎ、だいぶ精神的に落ち着いてきている。記憶にはおぼろげにしかないけれども、ついったーを見返すと、まだ元カノのことを夢に見たと寝ぼけながらツイートしているのが見受けられた。こころはまだ整理できていないのかもしれない。でもまあ、あれだけ性格というか、怒りに支配されてしまっている人とは、ちょっと付き合っていくことはできない。お互いに高めあうことはできない。僕が一方的にストレスが溜まってしまうだけだ。
後半は、かなり働いている中、その時間を潜り抜けて、本を何冊か読んだ。10冊ほどか。どれも難しくない、簡単な本ばかりだけれども。
本当は大学院の試験が終わったら、医者嫌いで心療内科になんか行ってくれない彼女のことを、僕自身がカウンセリングの技術を身に着けてカウンセリングしてあげることで、メンタルを少しでも良くしようと思って、そういう本を大量に11月の頭に購入していたのだ。まあこれは、僕自身がこれから人間として、エニアグラム2の性格として、生きていくうえで、ほかのことにも役に立つだろうから、少し読んでみる。「傾聴」。僕は自分で言うのもなんだし、それが弱さにもなってしまうけれども、やさしいからね。いろいろな人を支援、サポートするのは好きです。

加藤諦三『対象喪失の乗りこえ方』はとても参考になった。これを失恋後すぐに読んだので、いいカウンセラーと話している感じのようになり、こころがだいぶ癒された。とっておこうと思う。
本田健『人生を変えるメンターと出会う法』もいい本だった。メンターという言葉が日本にだいぶひろがってきた。まあ簡単に言えば、人生の師匠的なことではあるが。
大門正幸『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』これもとてもよかった。これはまあ、僕自身信じているのかといわれると、はいともいいえとも言い難い、半信半疑の状態で結論は保留であるけれども。まあ、その結論を肯定すると仮定して、ちょっと今、壮大な小説を書いているので、これを来年中には完成させたい。そのために、神秘的な本をかなり買ったし、かなり読んでいる。だがまだまだ時間が足りない。世界の宗教をあらかたざっと見通さないと。
原由加『子ども・パートナーの心をひらく「聴く力」』この本もよかった。カウンセリングって、本来はお金をもらってやるものだし、医者と患者という立場に明確にわかれなければならないから、近親者にはタブーとされていると書いてあって初めて知った。でも、著者も、自分の家族に対してカウンセリングをやったように、僕もそれを彼女にやってあげたかった。次、次があるのかわからないけれども、もし次があるのだとしたら、彼女のことをやさしく包み込んであげられるだけの人間になっておきたい。
村上世彰『いま君に伝えたいお金の話』これも話題になっていた本。お金の考え方についての本。これと似た本を12月も読んだ。僕はあまりにもお金とか数字とか、そういうものに疎いから、せめてこういう本を読んで、ある程度の知識と考え方を身につけておかないと。



10月鑑賞目録

田中 智志 (著, 編集), 今井 康雄 (編集)『キーワード 現代の教育学』(東京大学出版会2009)
田近 洵一 (著, 編集), 鳴島 甫 (著, 編集)『中学校・高等学校 国語科教育法研究』(東洋館出版社 2013)
町口 哲生『教養としての10年代アニメ』(ポプラ社2017)
山田奨治 (編集)『マンガ・アニメで論文・レポートを書く:「好き」を学問にする方法』(ミネルヴァ書房 2017)
橋本 美保 (監修), 田中 智志 (監修), 千田 洋幸 (その他), 中村 和弘 (その他)『国語科教育 (教科教育学シリーズ 第1巻)』(一藝社2015)
藤森 裕治 (著)『学力観を問い直す 国語科の資質・能力と見方・考え方』(明治図書出版2018)
中村 和弘 (著, 編集), 東京学芸大学附属小学校国語研究会 (著)『 見方・考え方[国語科編]』(東洋館出版社2018)

『キングスマン』(2015)(再)
『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997)
『マンマ・ミーア ヒアウィーゴーアゲイン』(2018)

所見
10月は、大学院試験があったため、国語教育に関する本を読み漁っていた。やはり勉強をしないといけないというプレッシャーから、あまり気が進まなくても、それをやらざるをえず、映画を見れたのも試験が終わってからだし、あまり楽しい月ではなかったかな。
「キーワード現代の教育学」と『国語科教育』はとてもおもしろい本だった。この二冊は残して、あとは捨ててしまってかまわないな


9月鑑賞目録

東畑 開人 (著)『野の医者は笑う: 心の治療とは何か?』(誠信書房2015)


所見
何をしていたのかよく思い出せない。完全に彼女のことにすべての力、労力を傾注させていたので、アニメ、読書、執筆、なにもできなく、すべてを彼女に費やすことに。
やはり男児たるもの、一事を成すには、女などにかまっているひまはないのか。
でも、精神的にも安定したいし、パートナーは欲しい。もちろん相手も精神的に安定していてくれないと困るけれどもね。相手の時間を奪うタイプではなくて、相手の時間を尊重し、お互いに支えあう関係、依存ではなく、になりたい。まあ、そんないいひとが僕に現れるのは、一発小説でも当てて、メディアに出るくらいの天変地異がないと起きないから、今は静かに、ひたすら小説を書くか。
ちなみに「野の医者は笑う」は最高にすばらしい本だった。僕もツイッターで回ってきたので知って、おもしろそうだったから購入して読んでみたが、なんともおもしろかった。文化人類学の本。


8月鑑賞目録

アダム 徳永 (著) 『男は女を知らない 新・スローセックス実践入門』(講談社 2017)
トイアンナ (著)『モテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門』(イースト・プレス 2018)

所見
この月も何をしていたのかよくわからない。
本もアニメもまったく見れていない。すべての力と労力と時間と金を、女の子に使っていた。
おかげで体調も崩すし、お金もどんどん出ていくし大変だった。
しかしまあ、終わってみた結果として、10年間恋人がいなかった私が、平成最後の年の夏にいい思い出ができたのは、ありがたいことだ。

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Author:幽玄

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