映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想、批評、評価
ついに待望の京都アニメーション制作のアニメーション映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を観賞してきた。
一度見に行ったものの、休みの日であるにもかかわらず、普段の仕事の疲れが抜けきれず、最初の5分と最後の5分しか記憶がないという最悪なことをしてしまい、大変映画に対して失礼なことをしてしまったと痛感した。今度こそはそうならないようにと眠眠打破を飲んで、じっくりと鑑賞。
私はあまり感動系の映画とか、卒業式とかでも泣かない人間なのであるが、今回はスイッチが入ってしまって、もう最初から最後まで号泣。最後の方はもう涙が枯れてしまって、ただただ頭が痛いという状況だった。
(ちなみにであるが私が作品で号泣したのは、かつて、高校生の頃に恋人と一緒に見た恋空、風立ちぬ、レ・ミゼラブル、くらいか。風立ちぬは、そうだよな、戦争あったんだよなとなぜか勝手にスイッチが入ってしまって、そのなかで美しいものが作りたかったという男のかなしさや、完全に独りよがりの美学ではあるものの、奥さんの美しいところだけを見せたかった、裏返せば、美しいものしか見ようとしない主人公、さらにそれをわかっている妻、などに心奪われてしまった。レミゼラブルもなぜか心情移入というか、辛さや、この世界の無情さ、その中でも必死に生きる姿などを想像してしまい、感極まってしまった。ちなみになぜかグレイテストショーマンでは一粒も涙がでなかった)
なぜ、今回私はこんなに泣いてしまったのか。ただ、これはかなりお涙頂戴的な作り方になっているというのは、それはやはりやや商業的だなというところはあると言っておかないといけない。でないと、完全に批評ではなく、ただの個人の感想どまりだから。だがしかし、まあ二度会場に足を運んだが、二度とも、会場で観客のすすり泣く音が響き渡るくらいには、皆のこころに響いた作品であることは間違いない。
もちろん作品単体で泣ける、感動できる構成になっているのは間違いない。さらに、アニメーション作品1クール分を見た人間には(おそらく多くの観客がそうであろうが)、さらにそれまでのことを踏まえての映画の内容、展開であったので、さらに泣けてきたことであろう。
一応私は大学でテクスト論を学んできた人間ではあるが、しかし、テクストだけで論じる必要性も時にはあるが、この映画は、オンタイムで見ているのだから、個人的な観測範囲のなかで、作品外の情報や状況もかんがみて論じたほうがより、後日、この映画が当時どのような感覚で見られていたのかという時代考証に役立つだろうという勝手な思い込みから書くことにする。
というのもやはり、この映画を見る際には、ほとんどの、平均的な社会的活動を送っている観客からしたら外せようのない前提となる知識があるからだ。言うまでもなく、2019年に起きた京都アニメーション放火事件と、2020年のコロナの影響である。
また私は、この作品が言葉を通じてコミュニケーションをとるという点において、コミュニケーションが取れない人間は人間ではないという独自の論で障害者を大量に虐殺した障碍者施設大量殺人事件も頭の隅に入れておくべきだろうと思う。この障害者殺人事件と、京アニ放火事件の犯人、あるいは十年以上前の秋葉原事件を出してもいいけれども、そららの犯人に共通するのは、ディスコミュニケーションの問題があると思うからである。
簡単にディスコミュニケーションなんだ、という大きすぎるくくりを出しても雑な論ではあるが、しかし、これだけネット環境が整い、SNSが発達して、つながりやすく、コミュニケーションが一見すると取りやすくなったように思われた時代に、10年代の総決算として、こういうディスコミュニケーションが起こしたであろう事件が次々と起こってきてしまったのには、我々の社会の作り方がうまくいっていないことの証左があるように思われる。
ネットでのつながりは確かに、よいほうに転べば、それまで出会いもできなかったような人と出会えるという無限の可能性や、イノベーション。あるいはそれまでは一期一会であったはずの人と人との出会いが、その後も継続してできるようになる、「陽だまりの彼女」のように、かつて恋をした、元学友と再び出会えるチャンスができた、など、様々な良い側面があげられる。
しかし同時に、匿名だからこそ自由に発言できたはずのネットは、匿名だから何を言ってもいいにいつの間にか変容し、他人の誹謗中傷や、何か罪を犯したりして叩いてもいいと社会的に認められたら全員でたたいて血祭に挙げて、この閉塞した社会のなかで何とか留飲を下げたいといった、醜い人間の負の側面をこれでもかというほどにさらけ出した。それによって、芸能人たちはそれまでに見えなかった自分に対する負の感情に裸でさらされることになり、芸能人の自殺などが相次ぎ、またそうした匿名での誹謗中傷に対してプロバイダーがIPアドレスを公開、きちんと訴訟できるというところまではなんとかできるようになってきた。しかし、毎日多くの情報が、これまで人類史で見たこともないほどに毎日ネットに書き込まれていて、ちゃんと対応できるのはほんの一部の特例だけである。
そして前々から言われていたことではあるが、人々はよりネットで繋がりやすくなったと錯覚したことにより、きちんとした、生身の、あるいは文章だけではない、五感を駆使したコミュニケーションからはるか遠くに追いやられ、人々はますます孤独化が進んだように感じられる。SNSが当たり前となった現代において、学校などでは、秒でレスポンスをしなければならない、一日中スマホをもって即座に返信しなければならないといった状況も生まれた。あるいは自分だけを外したグループが無限に作られ、誰かをはぶりつづけるということが行われるようになった。そこからは疑心暗鬼しか生まれない。ツイッターでは人々は匿名性を盾に罵り合い、フェイスブックではまじめな社会人を演じ、インスタグラムでは、他人が羨むようなキラキラした日常を投稿しなければ気が済まない。そして他人がそうしたキラキラした日常を投稿しているのを見ると、嫉妬し、それに対して自分の日常はキラキラしていないと不安にかられる。まさしく資本主義的な、ショーウィンドーの世界になってきている。人々は自分の日常を生きるのではなく、キラキラした日常を探すために生きているように、本末が転倒してしまっている。
そんな中、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが提示してくれたのは、もう一度原始的な言葉によるコミュニケーションの大切さであった。しかし、アニメ放送後に京アニ放火事件が起きてしまう。そのために大勢のスタッフや監督などが亡くなってしまうという、戦後最悪の放火事件が起きてしまった。
その犯人はやはり孤独にさいなまれた人間で、自信も全身大やけどを負いながらも、なんとか懸命な治療により一命をとりとめた。その長い治療期間の中で、初めて唯一一人の看護師にひとのぬくもりを感じたというのは、あまりにも哀しい話である。当然許されるべきことではないし、その犯した罪の重さはとても償えるものではない。しかし、彼はそこまで追い詰められたのには、社会的に、コミュニケーション至上主義の時代において、彼が最底辺のコミュニケーション弱者であったことが大きな要因になっているのではないだろうか。そうしたコミュニケーションを上手くとれない人を、努力が足りないとか、自己責任というふうに放っておくと、やがてこの社会は根底から崩壊していってしまうように思われる。
ただでさえこのあまりに凄惨な事件で公開が延期となった上、さらに新型コロナウイルスが発生。人々は互いに近づくことさえできないという、非常に現代に社会的な問題を提示する歴史的な事象が発生した。正確な情報は忘れたが、どこかの哲学者は、これは人と人とを人為的に離すものだという風に哲学的に捕えていた。私もその見方は間違っていないと思う。
やや眉唾的な話になってしまうが、最近関暁夫が語るような都市伝説的な未来図を想定すると、人と人とが直接会う、肉体を持って会うということが危ない、誰がウイルスをもっているかわからない、だからワクチンを打ったかどうかを一発でわかるように、口座からなにからすべての情報を一元化しよう、しない人間は何かやましいことをしているに違いないのだから、その両者の間で分断、選別が始まる、というような世界に向かっていくというのが、冗談ではなく来そうな未来で恐ろしい。そこには、プライバシーという価値観はあまり重要視されない世界になっているのであろう。こういうことをネットに書いておくということももしかすると、後々になって、この人間はそういうことに反発的な人間だ、反乱分子だ、危険だ、処罰しろということになるかもしれない。
その近未来がどのくらいのスピ―ドでやってくるのかはわかりかねるが、それは一旦おいておくとして、ここでは、もはや失われかけている最後のコミュニケーションの大切さについて、もう一度認識しておきたい。
この映画は、おそらく科学技術的には、我々の世界の20世紀初頭、第一次世界大戦あたりから、ガス灯が電気灯に変わり、電話や自動車が走り出すまでの時代を描いている。そのような中で、我々の社会もたどったように、手紙というものの価値、使用頻度は少なくなり、電話などにとってかわっていく、しかしその中で手紙の大切さ、ゆっくりと、じっくりと、相手のことを考えながら、自分の胸の中の気持ちを言葉に置き換えながら、大切な想いを形にしていくという、スローなコミュニケーションの大切さを再認識させる内容である。
これは現代のわれわれにおいても、メールやらSNSやらで簡単に文章が送れるという時代においても、敢えて、物質を持つ、紙にペンでインクの染みで言葉を書いていくということが、特別性を持つということを表しているだろう。私もすっかり、直筆で文章を書くということが少なくなってしまったけれども、やはりそこには、その人の文字のクセ、そこにはいろいろなその人の性格やクセ、個性などが見て取れ、しかもそれが実際にいつまでもモノとして残るという特殊性がある。
同じ文章をタイプして印刷して送ったとしても、やはり直筆のものとは、情報量が圧倒的に異なる。
それは相手の顔が見えないなかで音声だけでやり取りするのと、ビデオ通話で相手の表情などが見える中でするのと、さらには直接会って、相手のボディランゲージもすべて含めてコミュニケーションをするのと、まったく情報量が違うことと同義である。
もちろんこの作品でも、最後にたまには電話というものもいい役割をするじゃないかという場面もあるように、SNSやインターネットにもいい面はある。しかし、それだけでは出し切れない、伝えきれないものというのが、例えば手紙にあったりするのだ。
評論家の宇野常寛が『遅いインターネット』という本を出したけれども、まさにこのどんどん濁流のごとく情報があふれ出てくる時代において、本当に大切な人に大切なことを伝えるときは、あえて遅いコミュニケーションの取り方をするのもいいのではないか。そうしないと、本当にあっという間にいろいろなものに流されてしまう。そんな世の中だから、この映画には、そうした人と人とのつながりというものをもう一度考え直す機会を我々にくれたのではないか、それが感動を生む要因となっているのではないかと私は考える。
一度見に行ったものの、休みの日であるにもかかわらず、普段の仕事の疲れが抜けきれず、最初の5分と最後の5分しか記憶がないという最悪なことをしてしまい、大変映画に対して失礼なことをしてしまったと痛感した。今度こそはそうならないようにと眠眠打破を飲んで、じっくりと鑑賞。
私はあまり感動系の映画とか、卒業式とかでも泣かない人間なのであるが、今回はスイッチが入ってしまって、もう最初から最後まで号泣。最後の方はもう涙が枯れてしまって、ただただ頭が痛いという状況だった。
(ちなみにであるが私が作品で号泣したのは、かつて、高校生の頃に恋人と一緒に見た恋空、風立ちぬ、レ・ミゼラブル、くらいか。風立ちぬは、そうだよな、戦争あったんだよなとなぜか勝手にスイッチが入ってしまって、そのなかで美しいものが作りたかったという男のかなしさや、完全に独りよがりの美学ではあるものの、奥さんの美しいところだけを見せたかった、裏返せば、美しいものしか見ようとしない主人公、さらにそれをわかっている妻、などに心奪われてしまった。レミゼラブルもなぜか心情移入というか、辛さや、この世界の無情さ、その中でも必死に生きる姿などを想像してしまい、感極まってしまった。ちなみになぜかグレイテストショーマンでは一粒も涙がでなかった)
なぜ、今回私はこんなに泣いてしまったのか。ただ、これはかなりお涙頂戴的な作り方になっているというのは、それはやはりやや商業的だなというところはあると言っておかないといけない。でないと、完全に批評ではなく、ただの個人の感想どまりだから。だがしかし、まあ二度会場に足を運んだが、二度とも、会場で観客のすすり泣く音が響き渡るくらいには、皆のこころに響いた作品であることは間違いない。
もちろん作品単体で泣ける、感動できる構成になっているのは間違いない。さらに、アニメーション作品1クール分を見た人間には(おそらく多くの観客がそうであろうが)、さらにそれまでのことを踏まえての映画の内容、展開であったので、さらに泣けてきたことであろう。
一応私は大学でテクスト論を学んできた人間ではあるが、しかし、テクストだけで論じる必要性も時にはあるが、この映画は、オンタイムで見ているのだから、個人的な観測範囲のなかで、作品外の情報や状況もかんがみて論じたほうがより、後日、この映画が当時どのような感覚で見られていたのかという時代考証に役立つだろうという勝手な思い込みから書くことにする。
というのもやはり、この映画を見る際には、ほとんどの、平均的な社会的活動を送っている観客からしたら外せようのない前提となる知識があるからだ。言うまでもなく、2019年に起きた京都アニメーション放火事件と、2020年のコロナの影響である。
また私は、この作品が言葉を通じてコミュニケーションをとるという点において、コミュニケーションが取れない人間は人間ではないという独自の論で障害者を大量に虐殺した障碍者施設大量殺人事件も頭の隅に入れておくべきだろうと思う。この障害者殺人事件と、京アニ放火事件の犯人、あるいは十年以上前の秋葉原事件を出してもいいけれども、そららの犯人に共通するのは、ディスコミュニケーションの問題があると思うからである。
簡単にディスコミュニケーションなんだ、という大きすぎるくくりを出しても雑な論ではあるが、しかし、これだけネット環境が整い、SNSが発達して、つながりやすく、コミュニケーションが一見すると取りやすくなったように思われた時代に、10年代の総決算として、こういうディスコミュニケーションが起こしたであろう事件が次々と起こってきてしまったのには、我々の社会の作り方がうまくいっていないことの証左があるように思われる。
ネットでのつながりは確かに、よいほうに転べば、それまで出会いもできなかったような人と出会えるという無限の可能性や、イノベーション。あるいはそれまでは一期一会であったはずの人と人との出会いが、その後も継続してできるようになる、「陽だまりの彼女」のように、かつて恋をした、元学友と再び出会えるチャンスができた、など、様々な良い側面があげられる。
しかし同時に、匿名だからこそ自由に発言できたはずのネットは、匿名だから何を言ってもいいにいつの間にか変容し、他人の誹謗中傷や、何か罪を犯したりして叩いてもいいと社会的に認められたら全員でたたいて血祭に挙げて、この閉塞した社会のなかで何とか留飲を下げたいといった、醜い人間の負の側面をこれでもかというほどにさらけ出した。それによって、芸能人たちはそれまでに見えなかった自分に対する負の感情に裸でさらされることになり、芸能人の自殺などが相次ぎ、またそうした匿名での誹謗中傷に対してプロバイダーがIPアドレスを公開、きちんと訴訟できるというところまではなんとかできるようになってきた。しかし、毎日多くの情報が、これまで人類史で見たこともないほどに毎日ネットに書き込まれていて、ちゃんと対応できるのはほんの一部の特例だけである。
そして前々から言われていたことではあるが、人々はよりネットで繋がりやすくなったと錯覚したことにより、きちんとした、生身の、あるいは文章だけではない、五感を駆使したコミュニケーションからはるか遠くに追いやられ、人々はますます孤独化が進んだように感じられる。SNSが当たり前となった現代において、学校などでは、秒でレスポンスをしなければならない、一日中スマホをもって即座に返信しなければならないといった状況も生まれた。あるいは自分だけを外したグループが無限に作られ、誰かをはぶりつづけるということが行われるようになった。そこからは疑心暗鬼しか生まれない。ツイッターでは人々は匿名性を盾に罵り合い、フェイスブックではまじめな社会人を演じ、インスタグラムでは、他人が羨むようなキラキラした日常を投稿しなければ気が済まない。そして他人がそうしたキラキラした日常を投稿しているのを見ると、嫉妬し、それに対して自分の日常はキラキラしていないと不安にかられる。まさしく資本主義的な、ショーウィンドーの世界になってきている。人々は自分の日常を生きるのではなく、キラキラした日常を探すために生きているように、本末が転倒してしまっている。
そんな中、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが提示してくれたのは、もう一度原始的な言葉によるコミュニケーションの大切さであった。しかし、アニメ放送後に京アニ放火事件が起きてしまう。そのために大勢のスタッフや監督などが亡くなってしまうという、戦後最悪の放火事件が起きてしまった。
その犯人はやはり孤独にさいなまれた人間で、自信も全身大やけどを負いながらも、なんとか懸命な治療により一命をとりとめた。その長い治療期間の中で、初めて唯一一人の看護師にひとのぬくもりを感じたというのは、あまりにも哀しい話である。当然許されるべきことではないし、その犯した罪の重さはとても償えるものではない。しかし、彼はそこまで追い詰められたのには、社会的に、コミュニケーション至上主義の時代において、彼が最底辺のコミュニケーション弱者であったことが大きな要因になっているのではないだろうか。そうしたコミュニケーションを上手くとれない人を、努力が足りないとか、自己責任というふうに放っておくと、やがてこの社会は根底から崩壊していってしまうように思われる。
ただでさえこのあまりに凄惨な事件で公開が延期となった上、さらに新型コロナウイルスが発生。人々は互いに近づくことさえできないという、非常に現代に社会的な問題を提示する歴史的な事象が発生した。正確な情報は忘れたが、どこかの哲学者は、これは人と人とを人為的に離すものだという風に哲学的に捕えていた。私もその見方は間違っていないと思う。
やや眉唾的な話になってしまうが、最近関暁夫が語るような都市伝説的な未来図を想定すると、人と人とが直接会う、肉体を持って会うということが危ない、誰がウイルスをもっているかわからない、だからワクチンを打ったかどうかを一発でわかるように、口座からなにからすべての情報を一元化しよう、しない人間は何かやましいことをしているに違いないのだから、その両者の間で分断、選別が始まる、というような世界に向かっていくというのが、冗談ではなく来そうな未来で恐ろしい。そこには、プライバシーという価値観はあまり重要視されない世界になっているのであろう。こういうことをネットに書いておくということももしかすると、後々になって、この人間はそういうことに反発的な人間だ、反乱分子だ、危険だ、処罰しろということになるかもしれない。
その近未来がどのくらいのスピ―ドでやってくるのかはわかりかねるが、それは一旦おいておくとして、ここでは、もはや失われかけている最後のコミュニケーションの大切さについて、もう一度認識しておきたい。
この映画は、おそらく科学技術的には、我々の世界の20世紀初頭、第一次世界大戦あたりから、ガス灯が電気灯に変わり、電話や自動車が走り出すまでの時代を描いている。そのような中で、我々の社会もたどったように、手紙というものの価値、使用頻度は少なくなり、電話などにとってかわっていく、しかしその中で手紙の大切さ、ゆっくりと、じっくりと、相手のことを考えながら、自分の胸の中の気持ちを言葉に置き換えながら、大切な想いを形にしていくという、スローなコミュニケーションの大切さを再認識させる内容である。
これは現代のわれわれにおいても、メールやらSNSやらで簡単に文章が送れるという時代においても、敢えて、物質を持つ、紙にペンでインクの染みで言葉を書いていくということが、特別性を持つということを表しているだろう。私もすっかり、直筆で文章を書くということが少なくなってしまったけれども、やはりそこには、その人の文字のクセ、そこにはいろいろなその人の性格やクセ、個性などが見て取れ、しかもそれが実際にいつまでもモノとして残るという特殊性がある。
同じ文章をタイプして印刷して送ったとしても、やはり直筆のものとは、情報量が圧倒的に異なる。
それは相手の顔が見えないなかで音声だけでやり取りするのと、ビデオ通話で相手の表情などが見える中でするのと、さらには直接会って、相手のボディランゲージもすべて含めてコミュニケーションをするのと、まったく情報量が違うことと同義である。
もちろんこの作品でも、最後にたまには電話というものもいい役割をするじゃないかという場面もあるように、SNSやインターネットにもいい面はある。しかし、それだけでは出し切れない、伝えきれないものというのが、例えば手紙にあったりするのだ。
評論家の宇野常寛が『遅いインターネット』という本を出したけれども、まさにこのどんどん濁流のごとく情報があふれ出てくる時代において、本当に大切な人に大切なことを伝えるときは、あえて遅いコミュニケーションの取り方をするのもいいのではないか。そうしないと、本当にあっという間にいろいろなものに流されてしまう。そんな世の中だから、この映画には、そうした人と人とのつながりというものをもう一度考え直す機会を我々にくれたのではないか、それが感動を生む要因となっているのではないかと私は考える。