「そよかぜキャットナップ」靖子靖文 感想とレビュー 命の継承

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今年、しかも4月にデビューしたばかりの新人作家さんの本です。講談社BOXからですからライトノベルと小説の中間といったところでしょうか。帯には「ゆるミス」とあります。ではこの本を読み解いていこうと思います。
一人称小説で、忠弘と啓太の二人の登場人物によって語りが交替で展開されます。各章の間にはおそらく猫であろう語りが挿入され、物語を多層的に展開しています。
主人公は語り手である忠弘と啓太、それから玉井の三人で、男2と女1という三角関係ができます。しかしこの忠弘というのが難癖もある人物で、趣味はとにかく読書。三人で喫茶店に入っても飲み物が出されるまでに非効率だといって読書を始めようとする人間です。
啓太はお調子者、しかし玉井に一目ぼれしてしまい、この夏休みをいかに接近できるのかということに全てささげます。
玉井は啓太によればかわいい現代の女子大生。忠弘に対する突っ込みを兼ね備えながら天然のボケを連発する女性です。
さて、この三人が啓太の家の飼い猫のマコトを探すというひと夏のお話です。猫を探すというミステリー小説のなかではもっとも軽度なミステリー、本当にミステリーかとも思うような作品ですが、ジャンル分けはそこまで重要とは感じませんので、それは榎本教授と靖子さんの対談の記事に載せましょう。
作品全体を一貫しているのはまさしく現在の大学生同士の会話のやり取りです。これを読んでいてまったく違和感を感じません。著者が大学院を出た手ということもあるでしょう。ですが、よく観察されていると思いました。意味はとくにない大学生どうしの掛け合いが非常に上手い。リズムがあって会話を聞いているようにとんとん進む。そこには意味がほとんど無いながらも、軽い冗談や皮肉が飛びあい、その笑いが実によく説得力をもっているのです。
三人の若い大学生は謎をおって郷里の千葉で猫を探すわけですが、その謎解きの途中でであう老夫妻との対比が興味深いです。若者と老人、それぞれ違う生き方をしてきて違う考えをもつ、まったく別のコミュニティーの人々がコミュニケーションをとる、これがやはりこの作品の奥深さの一つではないでしょうか。よくライトノベルにみられるような軽薄さがないのです。老人はきちんと老人たらしめる人物として描かれており、この老人の描写もまた著者の技量のあることを物語っています。
このミステリの主題である猫に関してもやはりいのちの継承なのだなということが窺えます。老人から若者へ、親から子へ、青年から少女へとなにか語り継がれていくような、そんな大きな流れが根底にあるのです。
またいのちの継承ということは死も平行に存在するということです。いなくなった猫がもしかしたら保健所にいるかもしれないと思い日々通うのですが、保健所の猫は数日おきに処分される運命なのです。そこから一匹でも救おうとする忠弘でしたが、選ぶことが出来ない。一匹を助ければほかの猫を捨てるのか、それとも一匹も救わないのか、この大きな問題の前に忠弘はなす術なかったのです。
老夫婦が感じる死もまた大きなテーマです。年老いてくると自然と自分の死を覚悟するようになりますが、息子に急に先立たれるという衝撃を負ったこの老夫婦が抱える問題があるのです。この小説はミステリーを解いていくことによって、この生命の問題をもなんとかしようと四苦八苦する希望の物語でもあると感じます。
一見大学生の軽い小説にように見えますが、よく考察するといのちというテーマがその背後に脈々と流れているのです。
またこれは恋愛小説としても読めると思います。啓太と玉井はもちろんのこと、人間と関わるのが苦手な忠弘でさえ、高丸さんの孫娘、幼馴染で4つ下少女との恋愛の発展の予感をちらと見せて作品は幕を閉じます。この作品は続編が出るのかどうかわかりませんが、そこにあたらしい人間関係が出来、物語が生まれるのです。

映画『ももへの手紙』 感想とレビュー 悲しみを乗り越えた親子の成長


監督、沖浦啓之
イタリア第14回フューチャーフィルム映画祭 最高賞プラテナグランプリ受賞
ニューヨーク国際児童映画祭 長編大賞受賞
文化庁メディア芸術祭アニメーション部門 優秀賞受賞
第36回トロント国際映画祭 正式出品
第27回ワルシャワ国際映画祭 正式出品
第44回シッチェス・カタロニア国際映画祭 正式出品
第16回釜山国際映画祭 正式出品
第31回ハワイ国際映画祭 正式出品
ベルリン映画祭で高い評価を受けた『人狼JIN-ROH』の沖浦啓之さんが、なんと年の歳月をかけて完成させた作品です。
色々と注目になっているなか、日本ではあまり話題になっていないのかなとも感じますが、大丈夫でしょうか。それとジブリ映画ではありませんよ。
どうして7年もかかったのかその理由を知りたいのですがよくわかりません。私の考えるところではとにかく絵がきれいなので、そこに時間がかかってしまったのかなとも思います。絵だけでいったらジブリより細かいかもわかりません。非常に精密に描かれていて、隙がないといった感覚があります。
ストーリーは日本の八百万の神の思想が重きを成しているのではないでしょうか。事故で父を失ったももとその母いく子の物語。夏にももといく子はおじおばのいる汐島へ引っ越してきます。ここでの物語りなのです。
こういう映画をみると本当に自分はなんてつまらない夏休みを過ごしているのだろうという自責の念に駆られてしまうわけですが、そんな青春の夏休みを描いた作品です。
そんな青春、できればもどりたいような夏休みですが、この作品は喪失にどう向き合い、それを乗り越えていくかというとても重要なテーマを抱えている作品です。いく子は突然の事故で自分の夫をなくしているわけです。幼い頃喘息でこの地で養生していた彼女はももという子を抱え、気丈に振舞わなければならない状態です。パートナー失うという非常事態に強いいく子は押しつぶされまいと自分を省みずに仕事に没頭するのです。これは自分がつぶれてしまわないようにとにかく内容のないものでもいっぱいに詰め込んでおこうという限界のラインだったわけです。
そしてももは、当日になって急に約束を破った父に対して「お父さんなんて嫌いだ。もう帰ってこなくていいよ」という言葉を言ってしまう。それが事実上の最後にかけた言葉になってしまったことを彼女は後悔するわけです。これは大人でも耐えられませんよね。喧嘩なんかをした後に死んじゃえばと軽くいったら本当に事故にあってなくなっちゃったなんていったらそりゃ気が気じゃないわけです。まして自分の父親に対してですからね、それはそうとう心に残る部分があるわけです。
当然ももは母ともっと話し合うべきなのですが、二人は少しずつずれていってしまいます。結局は喧嘩をしてしまう母子なのですが、それをこの妖怪たちがなんとかしてくれるのかどうかという話ですね。気になったら劇場に足を運んでくださいまし。
妖怪は日本の八百万の思想からきていると感じます。またこれは生死観の問題も入ってきていますからその点でも深い作品となっているわけです。
しかしこの妖怪たちは別段なにか出来るわけではないのです。昔のあらぶる神の時代に、あまりに乱暴を働いたために神通力を失ってしまったというのですからしょうがありません。妖怪三人組ともものぶつかりあいが非常におもしろく描かれております。
作品のすばらしい点は絵が非常にきれいなことから声優さんたちの豪華さにまで及びます。妖怪三人はベテランばかり。
イワには西田敏行、カワには山寺宏一、マメにはチョーさんとすごいことになっています。この三人は名演で作品に華を添えてくれます。ももは美山加恋、宮浦いく子は優香、この二人がどのような演技をしてくれるのかと思っていたのですが、上手くて正直びっくりしました。優香って声優さんなんだと感じられるほど上手だった。美山加恋ちゃんもアフレコ時は中2だったそうで、大したものです。96年生まれとか、若い。
ただ一部で評価されていないのも実態です。どうしてかと考えたのですが、七年かけて精密に精緻に作ったせいで、作品につっこむよちが無いからなのではと思います。完璧なものをみてしまうと感動はするのですが、ああそうかで終わってしまうということなんでしょう。絵も写実に近く、物語展開も期待通り、ですから優等生を見ているような感じがするわけです。私はそれでもいいかなとも思うわけですが、そうでない人もいますね。
丁寧すぎるのかな、沖浦監督、今度はちょっと気を抜いてみたらどうでしょう。

映画『みじかくも美しく燃え(Elvira Madigan)』 感想とレビュー 愛と死について

1967年スウェーデン映画
監督、ボー・ウィデルベルイ

あ、そういえば記事が二百を超えました。まだブログを始めてから一年も経ってなく、計算すると二日に一つは記事を書いている計算になりますが、やはり多くの人に知ってもらいたいことや共に論じたいことなどまだまだ山のようにあります。
よし頑張ってみますかね。お付き合いくださいまし。
ということで前回は暗い映画でしたので、今回は美しい映画を論じます。ですが、これもやはり美しさが内包する崩壊という暗さがありますが。

この映画は1889年にスウェーデンで実際に起きた事件を映画化したようです。これを書くに当たって初めて知りました。名画として名高いですが、何分時間が経ちましたから現代ではほとんど忘れられてしまっているのではないでしょうか。
この映画に使用されたモーツァルトの『ピアノ協奏曲第21番』はこれがきっかけで広く知れ渡るようになったそうです。
さて、この作品は芸術のための芸術。美しさを追求したものです。そのため大衆には受け入れられないでしょうが、芸術をやる人間には是非見てもらいたい映画です。
美しさ、愛と死を端麗に描いた作品で、愛すれば愛するほどに破滅への道を進む二人の若い人間の悲劇です。この映画をみるとこんなにも人間は人を愛せるのものかと人間の可能性に改めて感じさせられる部分があります。こんなトゥルーラブを死ぬまでに一度は、(出来るだけ若いうちに)したいものです。
そして全てを投げ打ってまで手に入れた愛というものはこの世界で最も美しいものなのです。私は芸術は自然の美だと感じることが多々あるのですが、その人間にとっての最も自然な行為とは愛することではないでしょうか。だからこの二人の愛はとても美しく、きれいに見えるのです。
陸軍中尉で、伯爵の称号をもつ貴族トミー・ベルグレン演じるシクステン・スパーレと駆け落ちの相手サーカスの綱わたりのスターピア・デゲルマルク演じるエルヴィラ・マディガンの若い二人の悲恋。貴族と平民でも卑しい身分のサーカス団員との恋愛は当然身分違いのもので許されるはずもありません。ましてやシクステン・スパーレは妻子があるのです。絶対に叶うはずの無い恋愛。
この作品では二人がどのように出会い、駆け落ちるに至ったのかが説明されません。既に二人で逃走した時点から映画は始まるのです。エルヴィラ・マディガンを演じたピア・デゲルマルク、彼女は絶世の美女だと感じました。彼女は綱渡りのサーカス団員として、普通の女性に見られるか弱しさというものがあまりみられません。自立はできないものの、自分で考え行動できる強さをもっているのです。その女性にしては強い意志の力がこの悲劇を招いたのかもわかりませんが、どこか悲しさを含んだ美しく精白な顔は観ていると息を呑むほどです。風のつよく吹く場面では長いブロンドヘアーがなんとも言われぬ清楚さが深く心にしみこみます。
ただ、元々有り得ない恋愛を決行したのですから無理がたたり、二人はどんどん追い詰められていきます。新聞での記事にのり、宿泊先で身元がばれ、軍の友人が現れて、逃亡に逃亡を重ねた二人は食べるものもままならなくなります。
エルヴィラ・マディガンが空腹のために草を食べ、戻してしまう場面は哀れです。しかしそれほどまでしても欲しかった愛。まさしく愛よりお金という人間と正反対の行動をしたわけです。人間としてこの上なく正しいことに違いはありません。違いはありませんけれども、人間に生まれたからにはそういうわけにはいかないのです。
二人は次第に無言になり、いいようのない破滅の影を見てみぬ振りをしつづけるのです。それは最後の最後まで続いて、愛のために全てを失うのです。
愛はやっかいですね。この映画をみると愛のために結局はいのちまで失うのですから、私はこのしがらみの多き世を実に悲しく思うのです。愛する人とも愛しあえない。どうしてこんなに人間は生きづらくなってしまったのでしょうか。
自分をだまし続けてこの共同体でなんとかやっていくのか、嘘をつけないほど正直に忠実に生きて死ぬのかということだと思います。
そんな愛を経験できるのでしょうか。

映画『タクシードライバー( Taxi Driver)』 感想とレビュー デニーロの名演に惚れる

ネタバレ注意。伝説のラストシーン

テーマソング。バーナード・ハーマンの遺作となった。サックスのメロディーが映画を引き立てる。

1976年公開アメリカ映画
制作会社コロムビア映画
監督、マーティン・スコセッシ
脚本、ポール・シュレイダー
主演、ロバート・デ・ニーロ
第26回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品

ゴッドファーザーを観てからデニーロの演技に魅了されて、古典映画として名高いタクシードライバーを観ました。
今回はどうしてこの映画が名作だと呼ばれるのかそのわけを考えてみたいと思います。
全体を通して描かれるのはロバート・デ・ニーロ演じるトラヴィス・ビックルがみるニューヨークの社会悪です。ベトナム戦争からの帰還兵である彼は、戦争が原因か不眠症に悩まされます。トラヴィスが一体戦争を経てなにを経験したのかは語られませんが、不眠症のみに留まらず、その精神状態は異常です。そしてベトナム戦争という大きな戦争はニューヨークの社会をも変容させたのです。これを始終批判的な視点で描かれているので、この映画は非常に社会的な面が強いとも思われます。
この映画をみて感じることは何かが狂っているということです。トラヴィス自身も精神的に欠落があるらしく、時々変な行動にでるのですが、そのどこかずれた感覚というのはトラヴィスの視点のせいかもわかりませんが、社会全体がずれているように見えるのです。
同じまち、タクシーですぐのところに一方では清廉潔白としたオフィス街があり、他方にはスラムと化した悪がはびこる町がある。売春、麻薬、銃、ゴミ、様々な悪をトラヴィスはタクシードライバーをしながら目の当たりにするのです。
私は彼は清廉さと悪との両方をもつこの映画唯一の存在だと感じました。善と悪の世界のちょうど中間にいて、両方の性質をもっている。もともと彼は善のほうの人間だと思います。それは売春をしている少女を救出しようとしたところからもわかりますが、戦争という大きな事件が彼を悪をわからせてしまったのだと思います。次期大統領選の議員、それからその議員のサポーターであるアイリス、この二人は善の人間です。もともと善であったトラヴィスは映画の前半こちらへの歩み寄りを見せます。偶然タクシーに乗った議員に対しておくびもなく悪の根絶を頼み、浄化の願望を共有するのです。
ただし、議員一人が頑張ったところで何かが変わるとはどこかで信じきれていなかったのでしょう。アイリスとのデートの失敗もあり、善なる人間と思っていた人々はみんな偽善者だということに気がつくのです。ですが、悪に走るかというとそうではない。ベッツィーという13歳の家出娘との出会いによってやはり自分は悪ではないことを再認識し、彼女の救済、浄化を企てます。
銃を身にまとい、鏡を前にして、自分の計画のシミュレーションをするトラヴィス。「俺に用か? 俺に向かって話しているんだろう? どうなんだ?」はあまりに有名な台詞。
自分の理想を描いている彼、正常であるようにもみえるし、狂っているようにも見える、一体どっちなのかそのあやふやな感覚が作品の大きな魅力であり、魅了される部分であるのです。
最後のシーンは映画史上とても有名。トラヴィスがベッツィー救出のため3人の男たちを次々に殺していくという非常に凄惨なシーンではありますが、淡々とトラヴィスの視点から世界を写した後にこのような展開になるのは度肝を抜かれます。私はまったく違う結末を想定しながら見ていましたので、期待の地平が裏切られる面白い映画です。
このくらい映画がどうしてハッピーエンドになるのか、またこれは本当にハッピーエンドなのかという論争は多く展開されてきましたが、私は両方の部分があると思います。トラヴィスが3人の男を殺したのにも拘わらず、少女を助けたということで全く何の処罰も無いどころか、英雄視されもてはやされます。これはその当時の社会をあらわしたとても興味深い点だと思います。今考えたならばどうみてもおかしい。そのおかしな社会に対する痛烈な批判であったのだと私は感じるのです。そのおかしさがまかり通ってしまう。トラヴィスはそんなことはおかまいなしに、まるでなにも起きなかったかのように運転手を続けます。
チラヴィスの行為は確かに少女を救いましたが、それでも世界はちっとも変わらなかったということです。ただ、社会はトラヴィスを英雄としました。最後はトラヴィスのいやらしさに離れていったアイリスがタクシーに乗ってきます。ただ、私はこの事件をきっかけに、社会こそ全く変わらなかったものの、一人の少女とトラヴィスは救われた、浄化されたのだと感じるのです。
未だ変わらないアイリスや社会に対して冷めた皮肉と哀れみを感じながら、彼女を振るというのがトラヴィスの行動ではないでしょうか。このおかしな社会の中でおかしくされた二人の人間。しかし最後は回復するということが世に受けたのではないでしょうか。
最後に至ったときに汚いものが流されていくようなすがすがしさと、しかし今までと全く変わらない社会をみて冷笑する、なんともアイロニックな映画ではないですか。世の中を小ばかにしつつ、自分はどこか超然としている。このかっこよさに人々は理想の像を重ね合わせ楽しみを享受するのです。

トラヴィス・ビックル ロバート・デ・ニーロ
ベッツィー シビル・シェパード
アイリス ジョディ・フォスター

映画『アーティスト(The Artist)』 感想とレビュー 最高のサイレント映画 古典への回帰 


監督、ミシェル・アザナヴィシウス
主演、ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ
2011年製作フランス
第84回アカデミー賞では作品賞、監督賞(ミシェル・アザナヴィシウス)、主演男優賞(ジャン・デュジャルダン)など5部門を受賞。
コマーシャルを見たときからいよいよそういう流れが出来てきたなと一人わくわくしていた映画『アーティスト』を観てきました。今ごろサイレント白黒映画なんてだれも見に行きません。というかそんな形態の映画があることすら知らないような若者が多いでしょう。
少し映画や芸術に関して語りますと、20世紀はまさに変革の時代でした。例えば美術でいえば、圧倒的な力を持っていた写実主義が前衛的な画家たちによって見事に取り壊されていきます。映画もサイレント白黒からトーキー、カラーへと変わっていきました。
現在小説も古典とよばれるような夏目漱石や森鴎外はどこかへ忘れさられ、全くストーリー性のない作品が溢れています。
大いなる変革ののち、一時は発達した芸術もやがては有象無象の物量に飲み込まれ、現在では見るも無残な状態だと感じます。
そんななか最近の流れとして未だごく一部の作品にしか見られませんが、古典への回帰が現れているのではないでしょうか。古きよき時代へと戻りたいという衝動が日増しに芸術家たちの間で強まっているのをひしひしと感じます。
今世界がどのように見えているのかをお話しますと、私にはマジョリティーである前衛的な芸術と、マイノリティーと化した古典芸術との戦いが始まろうとしているように見えるのです。そして私は古典を愛する一人の小さな芸術家としてこの戦いに身を投じようとしているのです。
最終的な目的地は古典と前衛のよいところをとった世界へと昇華することです。私が生きている間にそこまで辿り着けるか心配ですが、長い目でみましょう。

さて、この『アーティスト』についてですが、舞台は1927年から1932年までのハリウッド。サイレント映画のトップスタージャン・デュジャルダン演じるジョージ・ヴァレンティンの栄光とその没落、回復を描いた作品です。サイレントからトーキー映画へと以降するときに落ちぶれるヴァレンティンと反比例して栄光への道を歩むベレニス・ベジョ演じるペピー・ミラー。彼女はどこかマリリン・モンローを髣髴させます。この二人の鮮やかな対比が台詞がない映画を単純明解にするのです。
ヴァレンティンはどこかチャップリンを彷彿させられるような感覚がありました。サイレント映画は全てが演技でよしあしが決まるわけですからこれは大変なことだと思います。トップスターとなって映画界の頂点へと上り詰めたヴァレンティン、しかしそんな彼も映画がトーキーへと変化すると、誇張した演技は観客に飽きられ、大衆が求めるものは俳優の声だといわれます。
ここで出てくるプロデューサーは「大衆が常に正しいのだ」と彼に言い、彼は「私は芸術家だ」と独自で映画を作り始めます。
一方ヴァレンティンとの出会いがきっかけで徐々に駆け上り始めたペピー・ミラー、彼女が主演の映画とヴァレンティンが作った映画が同日公開となってしまいました。結果は言うまでもなく。
株の大暴落により破産したヴァレンティン、数年の後にかつてとは比べられないほどの貧しい生活を送っていました。彼は自殺を決意します。ところがそれを察したペピー・ミラーが寸でのところで駆けつけて「私が救ってあげる」というのです。
クライマックスは21世紀に残る映画の名シーンになるのではないでしょうか。声を出すことをためらうヴァレンティンにペピー・ミラーはタップダンスを一緒にやろうというのです。
過去と現在の大スターがそれぞれのよい点を持ち合わせ止揚(アウフベーヘン)した最高のダンス。軽やかに躍る二人と晴れやかな顔、これがまさしくアートなのだと魅了されました。
また、言葉のない世界ですからあるのは音楽のみ。この音楽が古典的なものを踏襲していてとてもよい。二時間クラシックのコンサートに行ってきたかのようにも感じられるほどですが、それだけが目立つのでなく、映画を上手く引き立てる。
ただ、これは先ほども述べたように保守的な作品でありますから、CGのみによって迫力のあるもの等に慣れてしまっている人には面白くないかも。こういう芸術のための芸術はどうしても大衆受けしないのです。それは高い芸術度を内包した作品の運命なのでしょうか。

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