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ドゥークー伯爵にあこがれて  ドゥークー伯爵の強さの考察

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私はかつてから、作品鑑賞において、一般的には、大勢の人が感情移入するのは、主要な登場人物たちがメインであるなかで、私だけはひときわそうしたメインの俳優陣やキャラクター陣からは離れた存在で、孤高であるキャラクターなどに自分の感情を委託してきたのである。
大学時代には、そうしたことから、私は自分の人生でも主人公タイプになるのではなく、参謀や切れ者タイプでいたいのではないかと分析してきた。

例えば、エヴァンゲリオンだったら、冬月ゲンドウ先生。
ハリーポッターだったらスネイプ先生
ファンタスティックビーストだったら、グレイブス長官
ナルトだったら大蛇丸
マクロス7なら、マックス艦長かエキセドル参謀
ロードオブザリングだったら白の魔法使いサルマン。

そう、いずれにしても、主要なキャラクターには感情移入しないのだ。
普通エヴァンゲリオンだったら、親に愛されない子供たちや、あるいは親であることや責任者であることに苛むゲンドウやミサトのような存在に
ハリーポッターだったら、苦難な人生を負わされて虐げられてきたなかでもへたることなく頑張って強く生きるところに、ハリーポッターに対して感動の念を抱いたり、あるいはその旧友ロンなどに感情移入するかもしれない。
ファンタビだったら、かわりもので周囲に理解されないスキャマンダー。
ナルトだったら出来損ないでおちこぼれだったところから這い上がっていく、当然ナルト。
マクロス7なら、歌の力で敵をも無力化してしまうという超ハートの熱いバサラ。
ロードオブザリングならば、その小さな体で多くの困難を乗り越えて冒険をしていくフロドたちに対して、
通常なら感情移入して作品を鑑賞したり、作品に影響されたりして生きていくはずなのに、私はというと、やはり、日本人の多くの人格形成に影響を与える学生生活のなかなどで、私があまり主要なポジションにいず、いわゆる陰キャ、といわれるようなグループに属していたからこそ、あまり主人公っぽいキャラクターより、その陰にひっそりとたたずんでいるキャラクターたちに感情移入してきたのかもしれない。しかし、私も、ひとかどの人物になりたかった身。そういう野望も絶えない。では、完全にモブとはならずに、主人公たちのような熱血漢でも正義感でもない部分で、どう自己を発揮していくかというと、達観、自己の研鑽を積み続けるということをするのである。
クラスのスクールカースト上位の人間は、いい大学に行ったり、いい就職をしたり、結婚をしたり、リーダー的な役割を担っていったりというライフステージをとっていくなかで、私のような、主要で王道ではない部分において研ぎ澄ましていくしかない。すると、モブでもない、一角の人物が登場するというわけである。

ドゥークー伯爵は、スターウォーズエピソード2,3に登場する人物である。元ジェダイの騎士であり、ヨーダの最後のパダワンであった。彼はエピソード2から約10年前、作中時間においてエピソード1、の時期に、ジェダイと、そのジェダイが守ってきた共和体制に対しての疑念から、ジェダイを脱退。故郷に帰り、爵位をもらうと、自分の理想のために動き始めた。
作品を見ている人はわかることであるが、ドゥークー伯爵は、オビワンの師匠のクワイガンの師匠である。師弟関係でいえば、ヨーダ→ドゥークー→クワイガン→オビワン→アナキンということになる。エピソード2で何の前触れもなく登場したので、その役割がややわかりにくいが、作品において非常に重要なポジションに位置する。
エピソード2でアミダラ議員が冒頭、爆破テロにあう。作中では、その犯人を追っていくという流れが大まかなメインストーリーであるが、いまさらの作品なのでネタバレしてしまうと、冒頭、その直後、ジェダイたちがパルパティーン議長との会議の後、共和体制維持派の議員たちと入れ違いになる際に、アミダラは、背後にドゥークー伯爵がいるのでは、といきなり結論をつけている。まったくもって正しい。女性の暗殺者(名前忘れた)←ジャンゴフェット←ドゥークー伯爵という流れで雇用関係が成立している。ジャンゴフェットが黒幕だというところまでは、作中でわかるが、その後ろにドゥークーがいたというのは、ちょっとよく見ないとわからない。それを冒頭でいきなり、まだドゥークー伯爵が登場してもいない場面で指摘してのけるとは、さすがパドメアミダラである。だいたい最後のコロセウムでの戦闘の時も、フォースを身にまとっているのだから、周囲のことや、一瞬先の未来のことが見えているはずであるジェダイよりも早く、ヨーダの援軍に気が付いているのもまたパドメである。そこのところ、ジェダイたちはまったく何をしているのかわからない。
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冒頭でのドゥークーが黒幕では?という問いに対して、フォースノダークサイドに対して有効な第二の脳を持つセレアン種のキ=アディ=ムンディが、すぐさま「彼は理想主義者ですが、殺人者ではない」、それに続けて、メイス・ウィンドウも「それに彼も元はジェダイの騎士でした。暗殺という手段は彼らしくありません」などと言って、自分たちの元同僚を、まったく現実と照らし合わせることなく、擁護して、懸念をはねのけるのである。共和国最盛期、晩年期でもあり、ジェダイたちの目がくらんでいたとはいえ、冷静にものごとを判断することができず、元ジェダイだったから、元同僚だったからというだけで、客観的な、なにごとにもとらわれずに、クリアーな目でものごとを見ることができていないのである。ジョージルーカスがジェダイたちを、仏僧からイマジネーションを得ていたのだとしたら、仏教徒なら、ブッダがいったように、クリアーな目で、色眼鏡をかけることなく物事をみなければいけないのにもかかわらずである。
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しかし、裏返せば、である。実際には、旧知の仲、それも、シスの最後の試練、もっとも愛する者を殺害せよという試練を乗り越えるために、サイフォ・ディアスを殺害してしまうだけのドゥークーである。彼の剣術はジェダイの中でも屈指であり、その理想主義的すぎる、ジェダイらしからぬ思想から、評議員こそ勤めていないものの、相当な成果を上げてきて、ジェダイたちの中でかなりの存在感を放っていたジェダイマスターだったのだ。それが自分からジェダイを脱退して10年が経過して、元同僚たちが、ドゥークー伯爵のことを疑うことができないほどに、彼はジェダイとして成功しており、また信頼を勝ち得ていたということもできるかもしれない。その証拠に、削除されてしまったシーンではあるが、ジェダイ公文書館で、マダム・ジョカスタが、ジェダイを抜けた人物の像として、ドゥークーの銅像を見ているオビワンに彼のことを話す場面もあったほどだ。
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さて、では、肝心のドゥークー伯爵の強さであるが、いかほどのものだったのであろうか。
すでにエピソード1において、ヨーダは評議員のなかでも、「マスター・オブ・ジ・オーダー(ジェダイ評議会の長)」とジェダイ・オーダーの指導者である「グランド・マスター」を兼任しており、事実上、ジェダイの最高権力者はヨーダであったといって過言ではない。そして、唯一無二の力を手に入れた同じくマスターオブジオーダーのメイスが事実上の二位。この二人を頂点として、あとの10人の多数決といったレベルの組織でしかなかった。
だが、そうといっても、ジェダイは2万人を擁するフォースの研究集団である。もともとはフォースについての研究をする集団であるが、銀河の要請によって、星間同士のトラブルの解決など、共和国の平和を維持する活動をも担った、銀河の調停者であったわけだ。
フォースを操り、ライトセーバーという古代の武器を今でも扱うその集団は、まことに神秘につつまれており、銀河の誰もが一目置く存在だったわけである。そして確かに慢心していたとはいえ、かなり厳しい戒律のなかで、まるで少林寺の仏僧のような修行をしていたわけで、その2万人のなかから選ばれた頂点に立つ数十人レベルに、評議会のメンバーや、クワイガンジン、ドゥークー伯爵などは入っていたわけである。

パルパティーンこと、ダースシディアスは、周到に練られた計画によって共和国転覆をはかっていた。そんな彼が、熱心に、最初からすべてを手取り足取り指導したのは、皆さんご存知の通り、そのビジュアルでも世間をにぎわせたダースモールである。サイト、スターウォーズの鉄人や、スターウォーズの歴史を描いた本などによると、かつて最強と言われたシスもまたダブルブレードを使用していたり、また映画には直接出てこないが、アニメクローンウォーズだったり、ゲームなどで登場する、ジェダイテンプルガードもまた、ダブルブレードを使用している。
ダブルブレードは、ともすると自分をも傷つけかねない諸刃の剣であるのだが、その分、攻守ともにかなり強い武器であることは確かである。それを巧みに扱い、突如としてジェダイの前に1000年ぶりに姿を現したダースモールは、比較対象が少ないため、あまりその強さがわかりづらいが、シディアスが直々に育てたということもあり、また最終的にはクワイガンを破っているところからも、相当な手練れだったということがわかる。そしてクワイガンもまた、相当に強いジェダイマスターであったことも確かだ。
ヨーダ自身もまた、完璧とはいえなかった。未来ばかりを見ようとして、失敗したのだ。長く生きてきただけのことはあるかもしれないが、その強固な姿勢や、あまりにもライトサイドに生きていたために、その弟子になったドゥークーは疑念を抱くことになり、結果としてジェダイを離反、裏切ってしまう。
強すぎる光には、かならず濃い影ができるごとく、スターウォーズは、あまりにもライトサイド寄りだった、ヨーダ、オビワンというマスターから、シスが生み出されてしまった物語と捉えなおすこともまたできるのだ。光がいい、黒が悪いという単純な話ではない。バランスの話なのだ。
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ジェダイ最強のフォース、智慧、剣術を持つヨーダの元で修業したドゥークー。彼もまた、ヨーダとの対戦や、エピソード3の冒頭での戦闘で見るように、極めてフォースが強い。軽々と、ヨーダでもかなり集中が必要なほどの大きさのものをフォースで捻じ曲げたり、飛ばしたりすることができるほどである。そんな彼のもとで学んだクワイガンもまた、強いフォースの持ち主だった。彼はジェダイ全体が未来を見ることに傾いていることに対して、「今」「この瞬間」を見ることの重要性を、エピソード1の冒頭からオビワンに教えている。結果として「今」に集中することによって、フォースとの一体化をはかり、霊体となってこの世に戻ってくる、不死を手に入れることができた最初のジェダイであった。それはあまりにも固くなりすぎたヨーダのもとで学んで、理想を求めるようになったドゥークーの元で学び、体制に反発、自分の思うようにやるということを師匠から学んだクワイガンだからこそできた技であり、その点において、ドゥークーの理想主義すぎる面が、活かされたといえるだろう。当然そのようなクワイガンを育てたドゥークーであるから、彼は思想的にも、知識においても、前述したとおりフォースにおいて、また実際に映像で見られるように剣術においても、劇中5本の指に入るレベルである。

剣術やフォース、総合的な強さを見れば
メイス、シディアス、ヨーダは、ほぼ互角であり、またこの三人が作中最強である。
ダースベイダー・アナキンは、シディアスが「彼は我々より強くなる」と述べるものの、防御姿勢のオビワンに敗れ、大けがをしたために全身機械化されてフォースも弱体化してしまったために、結局シディアスを単体では乗りこえることができなかった。だからこそ、強いフォースを持つ自分の息子ルークとともにシディアスを倒し、自分たちの銀河をつくろうと、本気で息子を誘っていたのである。
であるからして、また劇中でドゥークーを倒していることからも、次に、アナキン・ダースベイダー、ドゥークー、オビワンが並ぶだろう。
その若干下に、ほぼ実力は変わらないだろうけれども、クワイガン、ダースモール、グリーバス将軍などが位置すると考えられる。
キットフィストーや、キアディムンディなどの評議会の中でも最強のメンバーはそのさらに下であろう。プロ・クーン、サシー・ティン、エージェン・コーラー、ルミナーラ・アンドゥリュ、シャアク・ティ。いずれも、ダースモールやドゥークーと対等に渡り合えるとは思いづらい。200人で突入したエピソード2のアリーナバトルで、最後に残ったのはやはり評議員レベルの人物だけであり、そこからもその実力はうかがい知ることができるのであるが、それでもやはり、その上まではいけなかったのではないかと思う。評議員、つまりジェダイ2万人のなかのトップ12人に選ばれる人物とあっても、コールマン・トレバーは、ジャンゴの早撃ちであっけなく殺されているし、映画では直接描写はないが、エピソード1時点の評議員たちは、エピソード2までの、戦争ではない、ただの紛争を解決しに行っただけでもかなりのメンバーが命を落としているのである。ヤドル、オポー・ランシセス、ヤレアル・プーフ、イーヴン・ピールなどは、2のクローン大戦がはじまる前に命を落としている。


ドゥークーに話を戻そう。その強さは、シディアス、ヨーダ、メイスには届かないまでも、アナキンとともに同立4位と言ってもいいだろう。もともと最強のジェダイだった彼は、理想主義者であった。理想主義というのは、共和国の体制やジェダイの体制についてもそうであったのだろうが、よりよく、今よりもさらに、という原動力は当然自分自身への強さにも向けられるわけで、それが結果として、保守的なジェダイとその知恵だけでは飽き足らず、さらにフォースの深淵へと向かっていった結果、ダークサイドに落ちたというわけだ。だが、彼は確かに、盟友サイフォ・ディアスを自身で手にかけたとはいえ、キアディやメイスがいうように、無益な殺生はしないタイプに思われる。アミダラ議員の暗殺も、より大きな、共和体制を崩壊させ、よりよい銀河にするためには、という大義名分のもとに行われたことであり、しかも自分で手にかけるのが嫌だったため、殺し屋を雇ってまでやるという徹底ぶりである。エピソード2のアリーナバトルでも、直接は手を下していない。自身の逃亡を追いかけてきたオビワン、アナキンに対しても、特にアナキンに対しては、シディアスから彼の本当の素性を知らされていなかったのにもかかわらず、すなわちドゥークーにとっては命を助けてやる必要がなかったにもかかわらず、腕を切り落として戦意喪失させるだけで命は奪っていない。ダークサイドの力をシディアスに学びにいったとしても、やはり最終的には殺人はできる限りさけているのである。横たわっているオビワンを殺そうとする際も、かなり時間をかけて、まるでアナキンが飛んでくるのを待っているかのようなタイミングであった。エピソード3の冒頭で、グリーバスが、すべてドゥークー伯爵の予言通りだというセリフがあるが、未来を見ることに特化していたヨーダから直接の教えを受けているドゥークーである。その程度の近未来を読むことは彼には朝飯前だったのかもしれない。さらには、エピソード3でも、オビワンを殺せたのにもかかわらず、やはり気絶させるだけである。
そしてなんだかよくはわかっていないのだけれども、とりあえずアナキンをなんとかしろとシディアスに言われていたのであろう。アナキンと戦っている最中も、片手で受けている部分がかなりあるし、挙句の果てには、怒りと恐れを利用していないと、彼をダークサイドに誘いこむように、戦いながら相手を教育しているのである。ただ、これは、慢心のひとつで、ダースモールも油断したために、感情的になったオビワンに真っ二つにされてしまったように、ドゥークーもまた、自分でアナキンのダークサイドを引き出しておきながら、そのあまりの潜在能力の高さに油断し、両手を切られてしまう。
もちろんここには、剣術の型が影響しているという説もある。いわく、ドゥークーはフォーム2のマカーシ、対剣術用の古典的なフォームを使うのに対して、アナキンのフォーム5は、きわめて力強いと。だから、ドゥークーは、その攻撃の重さに耐えきれずに、剣をはじかれる場面が描かれたと。確かにそれもあるだろう。しかし、それでも、アナキンと戦っていた時の彼は、余裕の表情を見せており、やはり不手際のほうが大きかったのではないか、年齢を差し引いたらドゥークーのほうが経験も上だし、フォースの使い方も熟知しているし、と考えることができるかもしれない。ちなみに、エピソード5のベイダーとルークの戦いを見ていると、ルークに対して、怒りや恐れを使っていないと言ったり、フォースでものを飛ばしながら戦っているのを見ると、現実の時間軸で言えば、エピソード5にあわせてエピソード2をつくったといえるが、作中時間においては、ドゥークーとの闘いによって、相手の潜在能力を引き出す方法や、フォースを駆使しながらの戦い方などをドゥークーを通じて学んだということができるだろう。
また、ドゥークーとオビワンに関してであるが、やはりこれを見てもドゥークーの強さは折り紙付きである。クワイガンのフォーム4を見て、それがモールとの長期戦では、体力を損ない、最後にはフォースに集中していたというのもあるが、立っていられなくなるほど疲弊していたのを見て、オビワンは型をフォーム3、ソーレス、防御型に変更する。そのため、攻撃型のグリーバスや、フォーム5、シエンのアナキンには優位に立てたものの、フォースと剣術をきわめて巧みに使いこなすドゥークーの前では、その防御むなしく、エピソード2,3、どちらにおいても、軽くあしらわれている。この点を考えても、ドゥークーの強さは、圧倒的であることがわかるだろう。そして何よりも、剣術に関しては最強であるメイスに背後を取られても、笑って、「多勢に無勢だなともよ」と余裕を持っていられる、自分のマスターでもあり、メイスとともにジェダイ最強であるヨーダとも、互角に渡り合えるフォース、剣術をもっていることからしても、やはりドゥークーはスターウォーズのなかでほぼ最強といってもいいであろう。

なぜなら、ヨーダは900年間、フォースのライトサイドについて学んでいる。超、長寿命の種族であることのアドバンテージがある。メイスは、ダークサイドとの中間、グレーゾーンにまで、感情をある程度駆使することによって、結果的にシスに近い戦い方をしている。一緒に、同じ型ヴァーパッドを習得した仲間と弟子はダークサイドに落ちている。シディアスは、完全に悪にそまってしまっている。など、これらの常軌を逸した人物たちとはことなり、ドゥークーは最後まで理想主義者らしく、理性を保ち続けた人間であった。理性を保ったままであのレベルに達したというのはやはり、彼が極めて強かったからに他ならない。
あれだけ強かったメイスも、感情を武器にしていたために、アナキンの心をわかってやることもできなかったし、腕を切り落とされた時のあの悲鳴と言ったら、とても偉大なジェダイマスターであるとはいえなかった。ルークもうでを切られた際に、ひどい悲鳴を上げている。それに対してドゥークー伯爵は、両腕を不注意で切り落とされたときに、はっという驚きでしかなく、特に悲鳴を上げたりすることもなかった。シディアスの裏切りに対しても、命乞いをするでもなく、彼の宿命を最後は受け入れたのである。
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こうして考えると、ドゥークー伯爵というのは、オビワンやアナキン、あるいはヨーダやメイスと同等に、非常に魅力的なキャラクターということができるし、そういう生き方や姿勢、エレガンスに共感、共鳴する人は多いのではないかと思う。
結果として、より上手であり、より根源悪であるシディアスに利用される形となってはしまったが、ドゥークーは彼なりに、ヨーダという頑迷な師匠のもとで学び、ジェダイ並びに共和国の腐敗した実態を目のあたりにし、それに嫌気がさして、よりよい道を自分で切り開くべきだと思って行動できるだけの人物だったのである。そしてそれには実力も伴っていた。実際に戦うスキルだけではなく、ジェダイ時代から鍛錬してきたであろう交渉術をもって、反共和主義勢力たちを見事にまとめ上げたのはドゥークー伯爵である。
目的のためには旧友を殺すこともやむなしとはするが、しかし、そこには本当に残念だという気持ちもあり、できることならば、そうしたくないという、シスであっても、もっともシスではない存在であった。彼にとってのダークサイドの力というのは、自分の理想を実現するために、より力が必要だったからこそ学んだだけであって、彼の心は悪や闇にそまったわけではなかったのだ。シディアスが、闇の秘術によって、人間の寿命よりはるかに長生きしていたり、その師プレイガスが命をも救うフォースの秘術を生み出したり、完全に気がくるっているのに対して、またダースモールはジェダイに対する恨みしかないのに対して、ドゥークーはどこまでも、ジェダイの誰よりも大局を見て、理性的に生きた人物であった。シスであるならば、感情を爆発させてそれを利用して戦えばいいものを、ヨーダとの闘いにおいても、アナキンとの闘いにおいても、終始余裕の笑みを浮かべているだけで、そうした感情を利用することはなかった。もし、ドゥークーが怒りに任せて、ヨーダやアナキンに本気でふりかかっていったとしたら、状況は少し変わっていたかもしれない。
こうした彼の精神状況においても、彼はスターウォーズのなかで、極めてエレガンスな人物ということができるだろう。そんな彼に私は心惹かれ、彼のようにいきたいと思うのである。




本当の強さとはなにか

 本当の強さとはなんだろうか。「強い」と一言に言っても、様々な視点、様々な切り口から、いかようにもそれを語ることはできる。今回は、私にとっての強さというものを考えてみたい。そんなことを考えるきっかけがあったので。
強くなりたい、と思った。強く、なりたいと。
それは、僕自身が弱いから。弱いと思うから。

ずっと逃げ続けてきた人生だった。自分の人生なのに、子供のころから癇癪持ちで、いやなことがあるとなんだかんだと言って、それらから目を背け、逃げてきた。嘘をたくさんついてきた。他人にも、なによりもまして自分に対しても。高校生ぐらいになっても、いつまでも子供の気分が抜けないで、受験も誰のためでもない、自分のためなのに、そういうのはカッコ悪いと斜に構えて(実はそれこそがかっこ悪いのだが)、ああいうベタな生き方は嫌だとシニカルに構えていた。大学を卒業する間際になっても、モラトリアム根性はずっと続いており、僕は就職なんてしないんだ、といってそれまでなんとか乗ってきていたコースから、自分で落ちた。落ちた後で気が付いたことには、一度コースをはみ出すと、戻るのには、何倍、何十倍もの苦労が必要だということ。もうもどることはかなわないということ。今更正社員でどこか大手に雇用してもらえる可能性もないし、なによりもそれをする気も起きないし、そしてもし仮にどこかに入れたとしても、日本式の上下関係に耐えられるだけの自信がない。
こんな逃げ続けてきた人生だけれども、それでも僕は、僕なりに強くなりたいと思った。それは、たとえ、正規雇用でなかったとしても、それを引け目に感じて、拗ねるようなことではなしに。まあ、いずれは、覚悟を決めて、正社員でどこかで働かなければならないかもしれないけれども、そういう覚悟を持つ強さも含めて。

僕が今回言いたいのは、人間としての強さということだ。
フィジカルな面ではない。僕はあまり強靭な肉体を持っていないので、武力では他人よりも劣っている。だが、今現在日本という国にいる限りにおいては、フィジカルな面での弱肉強食はそこまでないので、それはあまり念頭にはいれていない。もちろん、自己を防衛できる程度の、最低限の武術は学んでおくに越したことはないと思うけれども。

ひとまずは、精神面においての強さについてだ。
僕は非常に精神的に幼く、弱いと自分のことを思っている。それは生まれつきなのだろうか。半分、あるいはそれ以上はそのような気もする。思い出せる範囲で思い出しても子供のころから、情けない人間だった。子供のころは、知識もないし、自分のどうしようもない気持ちや感情に対して、コントロールする術も知らない。だけれども、偶然の積み重ねとはいえ、文学部を卒業し、文学、哲学、心理学、などを一通りマスターしてきた自分としては、それら、人文科学系の智慧を使えば、おのれのことをコントロールすることができるだろうということがだんだんと分かってきた。

まずは、自分が弱いということを認めることから。自分の弱さを認めることもまた、強さの一つなのだ。無知の知ではないけれども。自分が弱いということを知るところから、それは始まるように思われる。自分のことをきちんと冷静に、客観的に分析できるようになること。たとえそれが、自分にとっては厳しい現実であったとしても、それを見つめ、認めること。

私がここ数年で、読んでいて素晴らしいなと思う著者に、岡田尊司という人がいる。彼の、愛着シリーズを読んで、私がこのように情緒不安定であり、愛情を求めており、それが満たされないから、承認欲求の塊のようなことになってしまったりしているということが、それを読んでようやくわかった。
振り返ってみれば、私の母はそこまでひどい親ではなく、世間一般と比較してもよい親だったと思うのだけれども、それでもどこかの段階で、私は勝手に孤独を感じ、安全基地をつくることがうまくできなかったのだと思う。あるいは弟が生まれた際に、私は覚えていないのであるが、家に来た赤ん坊の弟の顔に、タオルを乗せて殺そうとしたというエピソードがあるくらい、私は生まれつき、愛情に飢えていたのかもしれない。そういう星の下に生まれたといってもいいし、愛情をかけられないで死んできた魂の生まれ変わりといってもいいかもしれない。
しかし私ももういい大人だ。26だ。私が好きな数々のアニメであれば、15歳前後の主人公をサポートする大人の役だ。それが、こんな、いつまでも被害者意識で、自分は勝手に親から、この苦しい世界に産み落とされたのだから、自分には何の非もないのにと、いつまでもいじけている暇はない。いつまでもそうして死んでもいいけれども、後味が悪い。そういうことに気が付けたのならば、遅すぎるということはないのだから、たった今からでも、それに対して何かアクションをしていけばいいだけのことだ。

岡田尊司の最新の著書『愛着アプローチ 医学モデルを超える新しい回復法』(角川選書、2018)を最近読んだ。情緒不安定な人間がどうして生まれるのか、といった問題提起から十数年。ようやくそれに対して、では実際どのように対処、対応、行動していけば、その愛着障害は克服されるのだろうか、というところに入ってきた著者の新境地である。
そこには、愛着、情緒が安定している人は、振り返る力、「リフレクティブ・ファンクション」が高いということが指摘されている。これは反省や振り返りのみに限らずに、ものごとを俯瞰的に、相手側から見たりもすることができるという、そういう能力である。

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そして最後の部分では、端的に次の5つの傾向が、愛着障害を克服する道であると書かれている。
これを私は、今回人間としての「強さ」と定義付けたい。

①振り返りの力を高めて、自分や相手を客観的にみられるようになる。
②自分を律する力を高めて、気持ちや行動が過剰反応しない冷静さを身につける。
③理想的な状態やこうあるべきだという基準や期待にとらわれすぎず、ありのままの相手やありのままの自分を肯定的に受け入れる心の柔軟性を手に入れる。
④愛着関係で自分の身に起きたことを整理し、自分なりの理解や納得を得ることで、未解決だった心の傷やそれによるとらわれから、少しずつ自由になる。
⑤自分のことは自分で決め、自分で行動する力を身につける。


岡田氏は、著書の中で、仏教徒の勤行なども、こうしたものに通じていると指摘している。仏教や禅などの瞑想を、より科学的にして、宗教色を抜いたのが、昨今のはやりであるマインドフルネスなどになっている。このことからも、また、仏教の最初の教えである、ブッダ自身の哲学、真理からも、人間がいかに、現世において苦しみを持って生きており、そこから抜け出すためには、少しでも軽減するためにはどうしたらよいのか、といった試行錯誤の英知が仏教という形で、ブッダが語った真理として伝わってきているのである。
そうした点において、心が乱されることなく、芯を強くもって、しかし、凝り固まるのではなく、竹のようにしなやかな柔軟性をもちつつ、というのが、人間として、現世を生きていく上においての、人間の強さなのではないか。そしてそうなれば、それ以前のように、自分の感情や、外界からの影響に敏感に反応してしまうのではなくて、自分をコントロールすることによって、平穏、自由が得られるのではないかと私は思うのである。

あまりに抽象的すぎるとわかりづらいだろうか。このブログも、この記事も、すべては自分のために書いているだけなので、他人にわかってもらおうという気持ちはあまりもうなくなってしまったのであるけれども、一つ、例として説明するのならば、映画スターウォーズに出てくるジェダイの騎士が、いいイメージモデルになるような気がする。
一応映画では、はるか彼方の銀河系の遠い昔の話ということにはなっているけれども、現実世界で考えれば、あれは、現代なりの、騎士、あるいはモチーフである仏教徒、僧侶の、アップデート版である。
多くの人間がスターウォーズが好きで、そしてあのジェダイの騎士にあこがれるのには、あそこには我々が求めている理想や強さ、カッコよさが描かれているからに他ならない。かくいう私も、ジェダイの騎士のようになりたいと希求している。

Obi-Wan is a great mentor. As wise as Master Yoda and as powerful as Master Windu. I am truly thankful to be his apprentice.
オビ=ワンは偉大な師だよ。マスター・ヨーダのように聡明で、マスター・ウィンドゥのように強い。あの人の弟子になれたことを本当に感謝してるんだ。

https://lolipop-teru.ssl-lolipop.jp/starwars/episode2.html

エピソード2で、アナキンがパドメに愚痴をこぼすシーンで、ジェダイマスターである、オビワン、ヨーダ、メイスの三人に言及するセリフがある。
確かにこの3人は、作中でも最強のジェダイだった。
オビワンも、ヨーダも、偉大な師であり、旧三部作においては、若者のルークに対して、忍耐や、自分をコントロールする術を伝授した。
しかし、オビワンにせよ、ヨーダにせよ、彼らはあまりにも完璧すぎたのである。アナキンが、予言にある通り、フォースに均衡をもたらすものというのはどういう意味かであるが、これは、共和体制が1000年も続き、確かに一見すると平和に見えるものの、その裏ではすでに、光が強ければ強いほど影は増すのと同じで、腐敗がどんどん進んでいたのである。オビワンにせよ、ヨーダにせよ、そのあまりにも明るすぎるライトフォースのために、彼らの弟子は、アナキン、ドゥークー、共に闇の世界、ダークフォースの世界に落ちて行ってしまったのだ。スターウォーズは、勧善懲悪の話ではない。そんな簡単な二分法で語れるチープな作品ではないのだ。善悪の二つに分かれているわけではない。善がかならずしも「善い」とは限らないのだ。

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その点、メイス・ウィンドウの存在は特筆すべき点がある。もちろん彼の設定を追っていくと、彼の弟子であるデパ・ビラバや、一緒にフォーム7を開発したソーラ・バルクは、ジェダイが禁忌としている感情をも使うこのヴァーパッドの型を制御しきれずに、ダークサイドに落ちてしまったということである。メイスは、本来、ジェダイがダークサイドに落ちないように、感情を封印していたのを、それさえも、強靭な精神力によってコントロールすることによって、ジェダイ最強、銀河系最強の剣士になりえたのである。
ライトフォースの権化であるようなヨーダでさえ、闇の力の頂点に達していたシディアスとの対決では引けを取らざるを得なかった。オビワンも相当な強さを持っていたとはいえ、師の師であるドゥークーには手も足も出ず、銀河最強の賞金稼ぎジャンゴ・フェットとの闘いにおいても(これは生け捕りにしなければならないという、ハンデを負ってはいたが)、五分五分の戦いしかできなかった。
その点、ジャンゴをもろともせず一刀両断したメイス。評議会最強のメンバーを瞬殺できるほどの力を持ったシディアスに対しても、一対一でシディアスを圧倒できるほどの強さを持ったのは、メイス・ウィンドウただ一人なのである。
彼のライトセイバーが紫色なのも、役者であるサミュエル・ジャクソンが望んだからというのもあるけれども、ここでは、よりシンボリックに、ライトサイドの青と、ダークサイドの赤との中間にいたからというほうがより理解が深まるであろう。

どんなに高潔で、マイナスとなる感情などに蓋をしてしまう、出家するような形をとっても我々は本当の強さは得られないだろう。境地まで達すればヨーダやオビワンのような存在になることもできるかもしれないが、そこらへんのジェダイ、僧侶と同じレベルだろう。それは真の強さとは言えないのではないか。誘惑などから逃げているだけに過ぎないのだから。
その点、それらを否定せずに、また肯定もせずに、使えるところだけ使うというように、清濁を飲み込んだウィンドウのようなスタイルのほうが強さは圧倒的だ。
それは怒りや憎悪といった、闇の力だけを結晶化させたようなダークサイドの達人をも上回る強さを手に入れることになる。

話を現実世界に戻そう。
私は強くなりたい。マスターウィンドウのように。この世の明るい部分だけを見つめて生きるのではなく、また闇に染まるのでもなく、清濁併せて、ものごとをありのままに見つめる力。そしてそれに対して自分はどのように働きかけていくのかと、自分で自分を統御する力。
外界からの刺激には過敏に反応せず、きちんと自分の意志を以てそれに対応する。
どんなことが起きても、慌てふためくことなく、楽観的になりすぎることもなく、悲観的になりすぎることもなく、ありのままを受け止める力。受け入れて、そして自分の行動を決めていく。決めていく芯、核となる部分がある。筋の通った人間。しかし、堅苦しいわけではなく、ジョークと柔軟性とやさしさにあふれている。
己を統御して、怒りなどにとらわれることなく、安定している。他者に対する共感力を以て、他者を援助する。
知識とは、ものごとをあからめるためにある。一体それがなんなのか。どのように理解したらいいのか。そのために、日々の研鑽は怠らず、曇りなき目、偏見なき目でものごとを正しく見つめる。
非常にニュートラルな状態で、動じない。なにごとかが起きても、即座に対応できるレジリエンスがある。

私は最近こんなことばかりを考えている。強い人間になるためにはどうしたらいいか。強い人間だったらこんなときどうするだろうか。
強さは自分を誇示するためのものではない。相手を力で屈服させるためのものでもない。自分と他者を守るためにあるものだ。少しでも強く。それは自分自身と周りの人間をよりよい状態へと導いていくため。それが私が思う強さなのだ。

2018年の振り返り、2019年、年頭の初心

すっかりご無沙汰になってしまった我がブログだけれども、機会飲酒ならぬ、機会ブログで、思いついた時に書いている。
まずは2018年の振り返りから。
去年は、そう、ここ数年にしてはかなり充実した一年であったように思える。
2,3月には、いまのところ僕の最長の文章作品であり、エッセイである『人生の小休止』というものを書き上げ、今現在での僕がたどり着いた哲学的な地点を書き記すことができた。後から読んだときには、その内容はもう古くなっていて、その時には役立たないかもしれないけれども、ああ、僕は2018年にその地点に立っていたのだという、道しるべになる作品となった。
それから夏までは、いつものアニメ、読書三昧。
そして夏から後半は、燃えるような恋をした。10年ぶりの恋。人生で二回目の恋。
もう後悔はしたくなかったから、オープンマインドで、心を開いて全力で恋をした。まあ、それはそれで問題があって、すべてをさらけ出してしまっているから、恋にはやはり、少しの秘密が必要で、そうでないと相手がときめかないのだということも学んだけれども。恋愛経験の少ない僕にしては、そういう反省もあるけれども、でもまじめにやったと思う。まじめすぎるのはトキメキには逆効果なのかもしれないけど。
まあ、最終的に、今は不思議な地点に着地してしまったけれども、それでもいいと思っている。僕ももう26だし、大人にはいろいろな人間の関係があるからね。

今年の抱負。
今年はどんな一年にしようかな。
去年の後半から、年末、年始、みなが休んだので、がんばって働きすぎて、ついに体調を崩すまでに至ってしまった。今これを書いている現在、胃腸の調子が壊滅的に悪く、胃腸があれているから、アレルギーで皮膚もかゆく、そしてそういう炎症が起きているから、生きているのはつらく、気分も落ち込んできてしまう。
心療内科で8年間も、胃腸の不調と戦ってきたけれども、どうしてもだめだということで、総合病院を紹介してもらって、一度きちんと検査をすることにした。もし過敏性腸症候群であったならば、特効薬があると医者がいるので、内視鏡、胃カメラやって、特になにもなければおそらく過敏性腸症候群であろう。
8年間。そう、長い時間だった。26だから、約3分の1の時間。僕はずっと、この胃腸の不調、それに付随する体の不調、心の不調と戦ってきた。
闘病ではなく、共病という思想も途中で学んだ。戦うのではなく、共に生きていくということ。
最近では岡田尊司の愛着問題の理論も手に入れた。少しずつ体調をよくしていきたい。
とにかく病に対して、エネルギーを奪われすぎた。体調が悪いというだけで、いったいどれだけ私が心身ともに疲れ、生きることにつかれてきたのか。
根幹の問題がようやくわかった。私は人に愛されたいのだと。無条件に。僕には愛される価値がないのではないかという不安が常にある。僕は無条件に愛されたい。
その満たされない心が、不安になって、買い物依存症などに走る。買い物をしすぎるせいで、いつも慢性的にお金が足りなくて、そのために仕事をいっぱいしなくてはならなくて、それで疲れて体を壊す。悪い循環だ。これをよい循環に。
とりあえず、シフトを少し減らして、また昔のように。買い物をしないで、つつましく過ごそう。そして空いた時間と体力で、小説を書こう。僕がこの世に生まれてきた意味。僕にしかできないこと。それは僕が、僕自身の言葉で、小説をつづっていくこと。それはほかの誰もできない、僕だけにしかできないこと。今年はそれをやろうと思う。
ゆっくりと、お金を返しつつ、小説を書いて、僕の気持ちを言葉にして、ナラティブによって心をいやそう。幸い、恋人関係にはなれなくても、人として愛し合えている人もできたことだし。ゆるされることならば、もう一度抱擁を。僕はそれで満たされるから。

これを書いているのは成人の日だ。
6年前の成人の日は、あの記録的な大雪の降った年であった。それはそれは大変なことで、ただでさえなれていない晴れ着に、げたに、20センチも30センチも積もった雪。あれは大変だったよ。
時は流れていく。20だった僕も、20代後半になった。みんな一緒に歳をとっていく。
ああ、かつてあんなに大人に見えた人のその場所に、今僕は立っているのだなと。僕より下の子たちが、かつての僕のいた場所にいる。僕はあまり先輩面をしたいわけではないけれども、必要最低限の、年上としての務めを果たすだけだ。
流れていくときのなかで、僕はどれだけのことができるだろうか。
小説を世間に認めてもらって作家デビューしたい。そのためにもがんばっていいものを書かなければ。

連想批評、コナンにみる恋愛模様から、ZARD,彼女への女性像まで

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批評は、もちろんそれ自体をできるだけそれだけで語ることもまたひとつの批評の在り方であるけれども、ロランバルトが言ったように、テクストは引用の織物であるから、いろいろなものを、一見つながっていないようなものをつなげてみることによって新しい視座を獲得するというのも、ひとつのやり方である。よくわかりやすい言葉を使えば、その作品や対象そのものを深く突き詰めていくのが、内向型、ほかの作品や事象と結び付けて話を広げていくのが外向型といえるかもしれない。
そして僕自身は、両刀使いではあるけれども、どちらかというと、ほかの人が、え、それって関係あるの?と思われるようなとっぴなところに、(しかし、なんの脈絡もないわけではなく、きちんとした関連性があり)飛びつくのだ。そういうスタイルを僕は自分のスタイルだと思っているし、そういう風に世の中を見たら、少しは面白く見えるんじゃないかな、僕たちのこの世界というのは。

今回は、ふとアニメ、マンガの名探偵コナンをもとに、そこから連想ゲームで考えたことを、私らしく、自由に、闊達に、切り開いて見せよう。
本日26歳となった私であるが、批評という行為において、テクスト論的な考え方を用いる際に、それを批評する批評者自身の感情、感覚、知識、その他、その鑑賞者が生きている環境や育ち時代や社会の影響はさけられない。まったくの無が作品を批評することなどできないのだ。やはりそこには人それぞれの色が反映される。作品の批評とは、すなわち、その作品自体を語っていながら、その反面、その作品を通じて反映された批評者自身が描かれているのである。

「『名探偵コナン』は、青山剛昌原作の推理漫画作品であり、本作を原作とした一連のメディアミックス作品の総称」である。
週刊少年サンデーに1994年5号から連載されている作品で、テレビアニメは、1996年1月8日から読売テレビ・日本テレビ系列で放送されており、2018年12月現在、900話を超える回数を放送している。劇場版シリーズも、マンガ連載から3年の97年、「時計じかけの摩天楼」から、ルパン三世とのコラボ映画を除いて、今度公開になる23作目の紺青の拳まで、毎年欠かすことなく、放送されている、日本の国民的なアニメだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E6%8E%A2%E5%81%B5%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3

日本の国民的なアニメ、長寿アニメといえば、サザエさん、ちびまる子ちゃんも浮かぶが、これらは劇場版はない。劇場版ありきで考えるのならば、コナン、テレビスペシャルではあるが、ルパン三世、ドラえもん、クレヨンしんちゃん、これらの主要な作品は、毎年一本は映画が公開されており、いずれも20から30作品近い作品になってきている。すなわちそれだけの年数、我々日本人の現代若者に対して影響を与えていると同時に、私たちの共通知識、教養にもなってきているのである。
今回はそんななかでも、コナンについて、私がふと感じ、考えたことを述べてみたいと思う。

なぜコナンがここまで現代の若者の共通の知識になるほど多くの読者を獲得できたのだろうか、というのが最初の疑問だった。そこから芋ずる式に答えが導き出されていく。
コナンの主要な要素は、もちろん推理を楽しむ、自分が想定にもしていなかったことが、どんどんと語られて行って、ああ、そういうことだったのか、というのは、アハ体験として、その事件の顛末をしれば、かなりの快感となることであろう。たしかに一面にはそういう楽しみ方があるだろうし、それを楽しみにしている読者もいるだろう。しかし、私はあまりそこには興味はない。もちろんそれもおもしろいと思うけれども。ただそれ以上にもっと、作者自身が「殺人ラブコメ漫画」と称しているように、ラブコメ的な要素もつよい。私はむしろ、推理が好きというマニアックなあまり広くない門からよりも、それをバックボーンとして成り立つ、登場人物たちの恋愛模様に、私たちは自己や自己の周囲、恋人との関係などを投影することによって、このマンガ、アニメに対して、共感、シンパシーを得ているのではないだろうか。それが、二十代半ばとなった私を中心に、上は30代、下は10代までの多くの日本人ならびに、コナンが放送された国々の人々にひろく受け入れられている要因ではないかと思うのだ。

抽象的なことを言っていててもしょうがない。少し具体例に入ろう。コナンには様々な人間関係がある。非常に多様に。であるからこそ、作品に深みがあるといえよう。私たちは、そのどこかに、あるいはいくつかの関係にわたって、自分自身の思いや、過去の記憶、あるいはこれからのことを託しているのかもしれない。
もちろん王道は、主人公コナンこと工藤新一と、毛利蘭の恋愛である。ワンピースは恋愛を避けている。ナルトも、恋愛はメインではなかった。クレしん、ドラえもんは子供すぎるし、ルパンは大人すぎる。ちょうど思春期の、10代後半から20代ぐらいまでの「恋愛」をきちんと描き切っているのは、コナンが最も強いのではないだろうか。慧眼なる上野千鶴子先生が『スカートの中の戦争』で指摘したことには、人はパンティに欲望すると。しかし、その下に隠されている本丸には興味は実はないのだと。隠されることによって、そこに秘匿性が付与され、そこに価値が生まれ、フェティシズムが生まれるのだ。コナンも同じである。ナルトのように、ヒナタと結婚できました、子供が生まれました、万歳では困るのだ。連載開始から20年間、同じ時間のなかを無限ループしつづけている工藤新一と毛利蘭は、ぎりぎりまでいくけれども、絶対にゴールインしてはいけないのである。それにまだ高校生だ。
(ふと、この作品を考えた時に、自分の印象のなかの工藤新一や毛利蘭の人間性を考えると、26の僕と同じくらいだなあと感じる。とても17くらいの高校生のパーソナリティーとは思えない。それは20年前には、17でもあれだけ成熟していたということの文化的な背景があるのか、あるいは、どうしても無理が生じてずいぶん大人な人格をもたざるをえないのか。アニメは、子供を主に視聴者としているので、けっこうはちゃめちゃな部分も多いが、劇場版や漫画のそれは、きわめてプラトニックで純愛な、20代くらいの大人の恋を描いているように私には思われる。)

王道はまさしくも工藤新一と毛利蘭との恋愛関係だ。工藤新一には、悪の組織によって子供に変えられてしまうというトークンが課せられたために、非常に近くにいるのに、一緒に生活しているのに、それが新一だとわからない、という、非常にもどかしい、アンビバレントな恋愛が描かれている。遠距離でありながら、近距離であるという、これほどまでにもどかしい、もう自分が手を出して、こいつが新一なんだよと教えてあげたくなってしまうようなむずがゆさがある。そのぎりぎり感がたまらないのだ。

だが、なにも王道だけがすべてではない。この作品のすばらしいところは、この王道をひとつ描けただけでも十分に立派な作品であるのに対して、ほかにも多種多様な人間関係のありかたが描かれているからである。だからこそ、この王道に感応しない人たちにも、自分を投影できる場所があるのだ。
例えば服部平治と遠山一葉。こちらの関係も、もう付き合ってるでしょ、というレベルの仲の良さなのにもかかわらずに、幼馴染だからという照れくささから、どうしても一歩を踏み出せないのだ。私は子供のころ、第7作「名探偵コナン 迷宮の十字路」(2003年)で、この二人が幼少のころから、思いあっていたのだなというあまりにも切ない、すばらしい恋愛の形をみて、作品の出来もよく、感動したことをよく覚えている。それが、ようやく、15年ぶりの、第21作「名探偵コナン から紅の恋歌」(2017年)にて、ようやく思いが通じ合ったという感じがして、非常に感動した。この関西カップルには、やはり京都を舞台とした作品でこそ、結ばれてほしいと思うし、実際にそれに十数年という年月をかけて答えてくれたことに対して、私たちは喜び涙するしかない。
工藤新一と毛利蘭がくっついてしまったら作品は終わってしまうので、その二人をくっつけることはまだかなわないが、さすがに25年も待たされていては読者も待ちきれない。ここらで、第二の主人公である服部平治と遠山一葉をくっつけておこうというのは、物語もいよいよ3分の2あたりまできたのかなというところで、作品完成、すなわち工藤新一の毛利蘭の恋愛成就を予感させる。

さて、こうしたストレートな恋愛。だけれどもまだ高校生で、はじらいや、いじっぱりがあり、なかなか素直になれなくて、というような純情な愛。これもまたいいことにはいいけれども、世の中それがすべてではない。何度も言うけれども。
例えば毛利蘭の両親を見てみれば、離婚こそしたものの、毛利小五郎と、妃 英理。この二人の大人な関係もまた、子供とともに劇場に足を運んだお父さんお母さんが投影できるような登場人物として描かれているのではないか。喧嘩をして別居中ではあるけれども、お互いに仕事をして、なんとなく相手のことをどこか頭のなかにあって、思っている。そして何か事件で二人が共闘しなければならないときは、見事に相手を思いやってやり遂げてくれる。そういう爽快感がある。

あるいは一方的にあこがれる、まるでシンデレラのようなお嬢様、鈴木園子と、怪盗キッド。鈴木園子はその典型的なお嬢様キャラクターから、作中のトリックスター的な要素を含みつつも、怪盗キッドという、本来悪であるはずの人物に対して好意を寄せてしまっている。ルパンにも通ずる、偽悪というのに素直に反応してしまっている、直球な女子である。ところが最近私が知ったところによると、今度の劇場版の主人公でもあるが、実は園子には京極真という人物が彼氏としているのだ。アニメ、マンガをすべて読んでいない私としては、あれ、そんな人いつ出てきたのという感じだが、ふと、360度、全方位を囲まれて、警察官にBB弾を打たれているのをすべて素手で受け止める場面を見てしまった際には、そのシュールさに、コナンもここまで来たかと、ある意味で驚かされたものである。

さて、ここからは少しフィティッシュな話になってくるけれども、少なくない人数の人々が、少年探偵団の灰原哀と吉田歩美ちゃんに対して並々ならぬ思いを抱いていることだろう、と勝手に推測する。
まずはあゆみちゃんから。あゆみちゃんは正直かわいそうであると私は感じてしまう。どんなにコナン君のことを思っても、コナン君はペルソナであり、実際は毛利蘭を愛する工藤新一なのだ。だから、あゆみちゃんの恋は実らない。しかし、私は男性であるからこそよくわかるのだけれども、まだ性的に成熟していない、第二次成長期を迎えていない、いわゆる幼女、とよばれる存在から、一方的な、純粋な、性的なものが排除された、好意を寄せられるというのは、男性は好きなものなのである。大変気持ちの悪い話で申し訳ないと思うのではあるが。それは女性の場合はどうなのだろうか。やはりしかし、大同小異にしろ、幼稚園や小学校低学年の男の子に、20過ぎの女性が好かれるというのは、別に悪い気持ちはしないのではないだろうか。まるでクレヨンしんちゃんとななこお姉さんのように。
さて、しかし、ここでさらに倒錯した恋愛を望みたい人のために、灰原哀という、究極のエロティシズムが、この作品には、容姿を幼女として、さらに屈託させて隠ぺいしているのである。あゆみちゃんへ欲情するのはまずい。とりあえずのところ、現在の文化、社会においてはそれは禁忌とされている。蘭、一葉ルートは王道でいい。文句はない。ピュアでもどかしい。でもそれではちょっと物足りない。エヴァンゲリオンで、シンジが綾波でも、アスカあでもなくて、ミサトさんにある種の思いを抱いていたように、男性にはまた、自分よりもひとつ上の女を求めてしまうところがあるのだ。
それはまるでルパン三世に登場する峰不二子のように謎が多く、ミステリアスな女。灰原哀は、そんなお姉さん的なエロスを感じさせる人物として登場する。時々回想のシーンで出てくる大人だったころの美人の灰原哀の姿のそれは、赤城リツコのそれとそっくりである。そのまま登場させてもよかったようなものであるが、そこはどのような経緯があったかはわからないけれども、とりあえず組織から逃げ出すためにということで薬を飲み、子供になっている。円谷光彦が、当初あゆみちゃんオンリ―だったのが、灰原さんの登場によって、灰原さんにも浮気し始めたのは非常におもしろい。
コナンを見ている男性読者なんて、だいたい光彦と同じレベルの感情レベルだ。蘭=一葉か、あゆみちゃんか、あるいは灰原さんか。

このようにしてみてみると、この作品がいかに、名探偵や、推理というのを枠組みとして使っていながら、その内実、恋愛模様を描いているかということがわかると思う。

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第二部
そしてここからは後半戦だ。作品を離れてもっと取り留めのない話をしよう。
コナンという作品には、様々な女性像、恋愛像が喚起されることがわかった。あくまでも男性側からの視点ではあるけれども。ただ、コナンは見ていても非常にジェンダーバランスの取れた作品なので、しかも、女性が好んで見ているということもあるから、女性視点からでも、様々な男性像が、受容の対象となるのだろう。
だが、男性視点の私からすると、コナンに付随する女性像は、その作品そのものを超えて、そのオープニングやエンディング、劇場版の主題歌などをうたった歌手にまで及ぶ。それらのイメージがどこかで連結しているのだ。
例えば先ほど指摘した、
第7作「名探偵コナン 迷宮の十字路」2003年では「Time after time〜花舞う街で〜」倉木麻衣
第21作「名探偵コナン から紅の恋歌」2017年「渡月橋 〜君 想ふ〜」倉木麻衣
ほかにも倉木麻衣はアニメ版のオープニング、エンディング、ともに多数の楽曲を提供している。特に記憶に新しい渡月橋の歌では、和服を崩した衣装でミュージックビデオや音楽番組に出演したために、彼女個人の女性像が、深く作品としてのコナンと結び付けられるようになった。
そしてそれは、ほかにも、女性側から見たらB’z、そしてなによりも、私が大好きなZARDとも、密接にかかわってきている。もはやこの三組の楽曲でまわしているのではないかというくらいに、この三組の楽曲は多く、その時々の音楽で、あのアニメを見ていた時期の自分、あの劇場にいったころのこと、という私たちの人生の1ページともまた密接につながってきているのだ。
そしてこれは非常に個人的なことであるが、私はZARDの坂井泉水が大好きだ。もう彼女がこの世に存在しないというのはあまりにも悲しすぎることであるけれども。私は職場への移動時間などには、彼女のミュージックビデオを見て、いつも元気をもらっている。本当に幸が薄そうな、化粧っけのない美人。
そしてこれもまた個人的なことであるけれども、今はちょっと関係が微妙になってしまっているのだけれども、私の愛する彼女もまた、坂井泉水に似ているのだ。そして彼女はコナンが好きで、暇な時にはコナンのアニメをみている。
私の彼女の白い肌、きりっとした目、淡白な感じ、横顔は坂井泉水に似ている。難しい時期も、坂井泉水の楽曲を聞いて、もちろん坂井泉水もきれいでかわいくて、うつくしくて、その笑顔があまりにもいとおしい映像だけれども、それを通じて、その背後に僕は彼女のことも考えるのだ。
コナンはこれからもまだ作品を展開していくことだろう。悪の組織が解明され、コナンが工藤新一に戻るその日まで。
そしてコナンを見るたびに、私は彼女のことを思い出すし、坂井泉水のことも思い出すのだ。
作品が人に与える影響は大きい。


11月鑑賞目録

倉成央 (著), 谷口祥子 (著)『クライアント満足を10倍にする カウンセリングとコーチングの合わせ技』(秀和システム (2017)
イルセ・サン (著), 枇谷 玲子 (翻訳)『敏感な人や内向的な人がラクに生きるヒント』(ディスカヴァー・トゥエンティワン (2018)
加藤諦三『対象喪失の乗りこえ方』(大和書房 、2014)
本田健『人生を変えるメンターと出会う法~自分の磨き方、高め方~』(大和書房 (2015)
大門正幸『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』(宝島社 (2015)
大泉りか『もっとセックスしたいあなたに』(イースト・プレス (2014)
原由加『子ども・パートナーの心をひらく「聴く力」』(秀和システム (2017)
村上世彰『いま君に伝えたいお金の話』(幻冬舎、2018)
中島義道『明るく死ぬための哲学』(文藝春秋 (2017)
斎藤勇『面白いほどよくわかる!「女」がわかる心理学』(西東社 (2014)

『ボヘミアン・ラプソディー』(2018)
『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』

所見
ようやく落ち着いた11月。月初めに悲しいお別れがあり、精神的にかなりきつく、味も感じられないほどになってしまったけれども、なんとか今、これを書いている時点で一か月というときが過ぎ、だいぶ精神的に落ち着いてきている。記憶にはおぼろげにしかないけれども、ついったーを見返すと、まだ元カノのことを夢に見たと寝ぼけながらツイートしているのが見受けられた。こころはまだ整理できていないのかもしれない。でもまあ、あれだけ性格というか、怒りに支配されてしまっている人とは、ちょっと付き合っていくことはできない。お互いに高めあうことはできない。僕が一方的にストレスが溜まってしまうだけだ。
後半は、かなり働いている中、その時間を潜り抜けて、本を何冊か読んだ。10冊ほどか。どれも難しくない、簡単な本ばかりだけれども。
本当は大学院の試験が終わったら、医者嫌いで心療内科になんか行ってくれない彼女のことを、僕自身がカウンセリングの技術を身に着けてカウンセリングしてあげることで、メンタルを少しでも良くしようと思って、そういう本を大量に11月の頭に購入していたのだ。まあこれは、僕自身がこれから人間として、エニアグラム2の性格として、生きていくうえで、ほかのことにも役に立つだろうから、少し読んでみる。「傾聴」。僕は自分で言うのもなんだし、それが弱さにもなってしまうけれども、やさしいからね。いろいろな人を支援、サポートするのは好きです。

加藤諦三『対象喪失の乗りこえ方』はとても参考になった。これを失恋後すぐに読んだので、いいカウンセラーと話している感じのようになり、こころがだいぶ癒された。とっておこうと思う。
本田健『人生を変えるメンターと出会う法』もいい本だった。メンターという言葉が日本にだいぶひろがってきた。まあ簡単に言えば、人生の師匠的なことではあるが。
大門正幸『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』これもとてもよかった。これはまあ、僕自身信じているのかといわれると、はいともいいえとも言い難い、半信半疑の状態で結論は保留であるけれども。まあ、その結論を肯定すると仮定して、ちょっと今、壮大な小説を書いているので、これを来年中には完成させたい。そのために、神秘的な本をかなり買ったし、かなり読んでいる。だがまだまだ時間が足りない。世界の宗教をあらかたざっと見通さないと。
原由加『子ども・パートナーの心をひらく「聴く力」』この本もよかった。カウンセリングって、本来はお金をもらってやるものだし、医者と患者という立場に明確にわかれなければならないから、近親者にはタブーとされていると書いてあって初めて知った。でも、著者も、自分の家族に対してカウンセリングをやったように、僕もそれを彼女にやってあげたかった。次、次があるのかわからないけれども、もし次があるのだとしたら、彼女のことをやさしく包み込んであげられるだけの人間になっておきたい。
村上世彰『いま君に伝えたいお金の話』これも話題になっていた本。お金の考え方についての本。これと似た本を12月も読んだ。僕はあまりにもお金とか数字とか、そういうものに疎いから、せめてこういう本を読んで、ある程度の知識と考え方を身につけておかないと。



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