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映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想、批評、評価

ついに待望の京都アニメーション制作のアニメーション映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を観賞してきた。
一度見に行ったものの、休みの日であるにもかかわらず、普段の仕事の疲れが抜けきれず、最初の5分と最後の5分しか記憶がないという最悪なことをしてしまい、大変映画に対して失礼なことをしてしまったと痛感した。今度こそはそうならないようにと眠眠打破を飲んで、じっくりと鑑賞。
私はあまり感動系の映画とか、卒業式とかでも泣かない人間なのであるが、今回はスイッチが入ってしまって、もう最初から最後まで号泣。最後の方はもう涙が枯れてしまって、ただただ頭が痛いという状況だった。
(ちなみにであるが私が作品で号泣したのは、かつて、高校生の頃に恋人と一緒に見た恋空、風立ちぬ、レ・ミゼラブル、くらいか。風立ちぬは、そうだよな、戦争あったんだよなとなぜか勝手にスイッチが入ってしまって、そのなかで美しいものが作りたかったという男のかなしさや、完全に独りよがりの美学ではあるものの、奥さんの美しいところだけを見せたかった、裏返せば、美しいものしか見ようとしない主人公、さらにそれをわかっている妻、などに心奪われてしまった。レミゼラブルもなぜか心情移入というか、辛さや、この世界の無情さ、その中でも必死に生きる姿などを想像してしまい、感極まってしまった。ちなみになぜかグレイテストショーマンでは一粒も涙がでなかった)
なぜ、今回私はこんなに泣いてしまったのか。ただ、これはかなりお涙頂戴的な作り方になっているというのは、それはやはりやや商業的だなというところはあると言っておかないといけない。でないと、完全に批評ではなく、ただの個人の感想どまりだから。だがしかし、まあ二度会場に足を運んだが、二度とも、会場で観客のすすり泣く音が響き渡るくらいには、皆のこころに響いた作品であることは間違いない。
もちろん作品単体で泣ける、感動できる構成になっているのは間違いない。さらに、アニメーション作品1クール分を見た人間には(おそらく多くの観客がそうであろうが)、さらにそれまでのことを踏まえての映画の内容、展開であったので、さらに泣けてきたことであろう。
一応私は大学でテクスト論を学んできた人間ではあるが、しかし、テクストだけで論じる必要性も時にはあるが、この映画は、オンタイムで見ているのだから、個人的な観測範囲のなかで、作品外の情報や状況もかんがみて論じたほうがより、後日、この映画が当時どのような感覚で見られていたのかという時代考証に役立つだろうという勝手な思い込みから書くことにする。
というのもやはり、この映画を見る際には、ほとんどの、平均的な社会的活動を送っている観客からしたら外せようのない前提となる知識があるからだ。言うまでもなく、2019年に起きた京都アニメーション放火事件と、2020年のコロナの影響である。
また私は、この作品が言葉を通じてコミュニケーションをとるという点において、コミュニケーションが取れない人間は人間ではないという独自の論で障害者を大量に虐殺した障碍者施設大量殺人事件も頭の隅に入れておくべきだろうと思う。この障害者殺人事件と、京アニ放火事件の犯人、あるいは十年以上前の秋葉原事件を出してもいいけれども、そららの犯人に共通するのは、ディスコミュニケーションの問題があると思うからである。
簡単にディスコミュニケーションなんだ、という大きすぎるくくりを出しても雑な論ではあるが、しかし、これだけネット環境が整い、SNSが発達して、つながりやすく、コミュニケーションが一見すると取りやすくなったように思われた時代に、10年代の総決算として、こういうディスコミュニケーションが起こしたであろう事件が次々と起こってきてしまったのには、我々の社会の作り方がうまくいっていないことの証左があるように思われる。
ネットでのつながりは確かに、よいほうに転べば、それまで出会いもできなかったような人と出会えるという無限の可能性や、イノベーション。あるいはそれまでは一期一会であったはずの人と人との出会いが、その後も継続してできるようになる、「陽だまりの彼女」のように、かつて恋をした、元学友と再び出会えるチャンスができた、など、様々な良い側面があげられる。
しかし同時に、匿名だからこそ自由に発言できたはずのネットは、匿名だから何を言ってもいいにいつの間にか変容し、他人の誹謗中傷や、何か罪を犯したりして叩いてもいいと社会的に認められたら全員でたたいて血祭に挙げて、この閉塞した社会のなかで何とか留飲を下げたいといった、醜い人間の負の側面をこれでもかというほどにさらけ出した。それによって、芸能人たちはそれまでに見えなかった自分に対する負の感情に裸でさらされることになり、芸能人の自殺などが相次ぎ、またそうした匿名での誹謗中傷に対してプロバイダーがIPアドレスを公開、きちんと訴訟できるというところまではなんとかできるようになってきた。しかし、毎日多くの情報が、これまで人類史で見たこともないほどに毎日ネットに書き込まれていて、ちゃんと対応できるのはほんの一部の特例だけである。
そして前々から言われていたことではあるが、人々はよりネットで繋がりやすくなったと錯覚したことにより、きちんとした、生身の、あるいは文章だけではない、五感を駆使したコミュニケーションからはるか遠くに追いやられ、人々はますます孤独化が進んだように感じられる。SNSが当たり前となった現代において、学校などでは、秒でレスポンスをしなければならない、一日中スマホをもって即座に返信しなければならないといった状況も生まれた。あるいは自分だけを外したグループが無限に作られ、誰かをはぶりつづけるということが行われるようになった。そこからは疑心暗鬼しか生まれない。ツイッターでは人々は匿名性を盾に罵り合い、フェイスブックではまじめな社会人を演じ、インスタグラムでは、他人が羨むようなキラキラした日常を投稿しなければ気が済まない。そして他人がそうしたキラキラした日常を投稿しているのを見ると、嫉妬し、それに対して自分の日常はキラキラしていないと不安にかられる。まさしく資本主義的な、ショーウィンドーの世界になってきている。人々は自分の日常を生きるのではなく、キラキラした日常を探すために生きているように、本末が転倒してしまっている。

そんな中、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが提示してくれたのは、もう一度原始的な言葉によるコミュニケーションの大切さであった。しかし、アニメ放送後に京アニ放火事件が起きてしまう。そのために大勢のスタッフや監督などが亡くなってしまうという、戦後最悪の放火事件が起きてしまった。
その犯人はやはり孤独にさいなまれた人間で、自信も全身大やけどを負いながらも、なんとか懸命な治療により一命をとりとめた。その長い治療期間の中で、初めて唯一一人の看護師にひとのぬくもりを感じたというのは、あまりにも哀しい話である。当然許されるべきことではないし、その犯した罪の重さはとても償えるものではない。しかし、彼はそこまで追い詰められたのには、社会的に、コミュニケーション至上主義の時代において、彼が最底辺のコミュニケーション弱者であったことが大きな要因になっているのではないだろうか。そうしたコミュニケーションを上手くとれない人を、努力が足りないとか、自己責任というふうに放っておくと、やがてこの社会は根底から崩壊していってしまうように思われる。

ただでさえこのあまりに凄惨な事件で公開が延期となった上、さらに新型コロナウイルスが発生。人々は互いに近づくことさえできないという、非常に現代に社会的な問題を提示する歴史的な事象が発生した。正確な情報は忘れたが、どこかの哲学者は、これは人と人とを人為的に離すものだという風に哲学的に捕えていた。私もその見方は間違っていないと思う。
やや眉唾的な話になってしまうが、最近関暁夫が語るような都市伝説的な未来図を想定すると、人と人とが直接会う、肉体を持って会うということが危ない、誰がウイルスをもっているかわからない、だからワクチンを打ったかどうかを一発でわかるように、口座からなにからすべての情報を一元化しよう、しない人間は何かやましいことをしているに違いないのだから、その両者の間で分断、選別が始まる、というような世界に向かっていくというのが、冗談ではなく来そうな未来で恐ろしい。そこには、プライバシーという価値観はあまり重要視されない世界になっているのであろう。こういうことをネットに書いておくということももしかすると、後々になって、この人間はそういうことに反発的な人間だ、反乱分子だ、危険だ、処罰しろということになるかもしれない。

その近未来がどのくらいのスピ―ドでやってくるのかはわかりかねるが、それは一旦おいておくとして、ここでは、もはや失われかけている最後のコミュニケーションの大切さについて、もう一度認識しておきたい。
この映画は、おそらく科学技術的には、我々の世界の20世紀初頭、第一次世界大戦あたりから、ガス灯が電気灯に変わり、電話や自動車が走り出すまでの時代を描いている。そのような中で、我々の社会もたどったように、手紙というものの価値、使用頻度は少なくなり、電話などにとってかわっていく、しかしその中で手紙の大切さ、ゆっくりと、じっくりと、相手のことを考えながら、自分の胸の中の気持ちを言葉に置き換えながら、大切な想いを形にしていくという、スローなコミュニケーションの大切さを再認識させる内容である。
これは現代のわれわれにおいても、メールやらSNSやらで簡単に文章が送れるという時代においても、敢えて、物質を持つ、紙にペンでインクの染みで言葉を書いていくということが、特別性を持つということを表しているだろう。私もすっかり、直筆で文章を書くということが少なくなってしまったけれども、やはりそこには、その人の文字のクセ、そこにはいろいろなその人の性格やクセ、個性などが見て取れ、しかもそれが実際にいつまでもモノとして残るという特殊性がある。
同じ文章をタイプして印刷して送ったとしても、やはり直筆のものとは、情報量が圧倒的に異なる。
それは相手の顔が見えないなかで音声だけでやり取りするのと、ビデオ通話で相手の表情などが見える中でするのと、さらには直接会って、相手のボディランゲージもすべて含めてコミュニケーションをするのと、まったく情報量が違うことと同義である。

もちろんこの作品でも、最後にたまには電話というものもいい役割をするじゃないかという場面もあるように、SNSやインターネットにもいい面はある。しかし、それだけでは出し切れない、伝えきれないものというのが、例えば手紙にあったりするのだ。
評論家の宇野常寛が『遅いインターネット』という本を出したけれども、まさにこのどんどん濁流のごとく情報があふれ出てくる時代において、本当に大切な人に大切なことを伝えるときは、あえて遅いコミュニケーションの取り方をするのもいいのではないか。そうしないと、本当にあっという間にいろいろなものに流されてしまう。そんな世の中だから、この映画には、そうした人と人とのつながりというものをもう一度考え直す機会を我々にくれたのではないか、それが感動を生む要因となっているのではないかと私は考える。



7月、月記、心象目録

あれだけ未来が切り開かれるような感じがしていた2020年という年ももう残すところ半分以下となってしまった。
緊急事態宣言で一度はかなり終息し、一日の新規感染者は一桁や二桁くらいだったものが、やはりどんどんと感染を広げていき、ここ一二週間は毎日東京都も、全国も、感染者の数の、過去最高記録を更新し続けている。それはいいとして、では昨日までに発症した人たちはその後どうなっているのだろうか。ちゃんと回復して社会に戻れているのだろうか?毎日感染者の数ばかりが注目されるが、では感染して、症状がでて、その後回復した人たちはどうなったのだろうか。現在有症の人間はどれだけなのか。そういうところがよくわからない。
七月最後の一日は東京都は460人という数字をたたき出した。さすがにすごい数字だったので、小池都知事が何を言うのか、そしてそれのすぐあとに西村経済再生大臣と尾身さんが何を公式に発表するのか、休みだった私は、それらの会見を一部始終YouTubeで生で見た。

ほんとうにメディアリテラシーの試される時代だと思う。
戦争中は日本は自分の国が負けていないと最後まで大本営発表として言い続けた。もし、異論を唱える者がいれば、小林多喜二のようにリンチにして殺してしまえばいいだけのことである。では、情報は誰もが発信できる今はどうだろうか。玉石混交であり、また反対の意見のものも数多く、本当に全部見ているだけでもうそれだけで人生が終わってしまうようなほどの膨大な量の情報がまいにちアップロードされる。その中で、できるだけ信ぴょう性の高いものを見て、でもそれだけをうのみにするのでもなく、反対意見も見て、それもできるだけ信ぴょう性のあるものをいくつかかいつまんでみて、絶対や固定という概念はすてて、どれだけ信ぴょう性が高かろうが、真理のすべてを表しているものではないとつねに心がけ、こういう一理もある、こういう一理もある。おおよそこういう方向でいいのではないか、と常に冷静に、俯瞰的にものごとを見続けている。透き通った目で。

それは私が徹底して、大学の文学部でメディアリテラシーというものを学んできたからである。文学部だったのが大きい。文学部それ自体としても、メディアというものをどう取り扱ったらいいのかということを学んだし、文学研究では、作者に騙されるな、語り手を疑えと教えられてきた。それと同時に私は教職課程を修了したけれども、そのなかで、メディア教育であったりとか、情報リテラシー、そういう授業も多々受け、当時の最新の情報をかなり学んだつもりだ。だからこそ、こういう事態のなかで、え、それはちょっとどうなのかな?という情報をかぎ分ける嗅覚のようなものを得ることができた。そうでなければ、ネットで話題のある情報たちに惑わされ続けることであろう。
別にバカにしているわけではないが、しかし、知識やリテラシーといったものがないと、ちゃんとした行動をとれないときがある。コロナが始まる前には、ちょうどワクチン反対ママや自然はママなどいって、やけどをしたら温めるのがいいというような情報が錯そうしていた時代であり、そこには情報弱者としての人間の姿がありありと浮かんでいた。
まあこれを並列に考えていいのかはわからないが、しかしその一方で、都会や、大卒が当たり前という世界にいると、どんどん頭でっかちになり、比較対象も同じような社会層になるので、インテリたちの晩婚化は間逃れない。なぜなら人ひとりを作るのにかかるコストが膨大すぎるということが目に見えてわかってしまうからだ。それに対して現在の収入では、ということで、勇み足を踏んで、結婚もできず、子供も生めない。ところが、地方にいってみると、そういう情報を選ぶ能力はなくても、地元で、マイルドヤンキーとして、若くして結婚し、子供をつくり、家をもち、アルファードなんかにのって、週末には広い庭で友達の家族とバーベキューをしたりしている、という情報が散見される。
私は落ちぶれたインテリとして、そういう生活を今では素直に羨ましいと思う。私にはあまりにも多くのものが見えすぎたし、生きていく上でいろいろなものがのしかかってきてしまって、精神を悪くしてしまった。もう元気はつらつに生きていくということは難しい。やる気もなくなってしまった。いまからもう一度作品をばんばん書いてというほどのエネルギーも残っていない。アラサーになった。定職にはついていない。つくつもりもないし、気力もない。
東京でどこのだれがそのような男と結婚し、子供を産んであげてもいいよといってくれるだろうか。
まあ一応資産はある。東京に家がある。父の資産がある。私一人が静かに父が亡くなった後、やっていく分には十分にあるだろう。そういう意味で、私はアラサーになっても、逆シンデレラストーリーというか、ピーターパン症候群というか、王子様ではなく、私があなたを導いてあげるわという、日本のサブカルが作り出したオタクの幻想、母性愛のある彼女、ヒロインを今でも心待ちにしているのだ。
さんざん女友達には、ヒーローや王子さまは現れないのだから、自分で生きていくしかないんだよと言っておきながら。

生きる。そのことについて考える。
嘱託殺人が起きた。ALDという筋肉がどんどん委縮してしまう、治療法の確定していない難病だ。それに対して、流石の石原慎太郎。福島地震並びに原子力発電爆発事故について、これはおごった人類への天災であると彼は言い放った。確かに当時、行き過ぎた資本主義社会や行き過ぎた科学主義社会に対してのアンチテーゼとして、オーバーテクノロジーといった概念は登場しており、その一連の流れにおいては、私も原発は人間が手を出していいレベルのものではないと、制御不能になったらこんなにも甚大な被害を起こし、福島の人々は故郷を失ってしまったではないかと、そういう文脈の中で原発はよくないと思っていた。
ところが今度は、その難病患者に対して、石原は業病であると断言したのである。昨日撤回すると謝罪したが、それは批判集中したからそういうポーズをとっただけであって、石原自身、あるいは大勢の人間がまだ、らい病やハンセン病、ALDでさえ業病、前世が悪いのだと、あまりにもすごすぎる、素朴すぎるアニミズム的な考えを出してしまっていてびっくりした。

数年前に西部進という日本の政治思想を引っ張ってきた大御所が死んだ。彼は自分が自分でなくなってしまうのが嫌であると、自分の意志で、すでに自分では死ぬことが叶わなかったので、彼の哲学思想の末に、番組で知り合ったスタッフの二人に自分を川に投げてくれと頼んだのである。私はこの、あまりにも死を遠ざけすぎた世界に対して、人がちゃんと死ぬことができない世の中になっているという意味で、西部進氏の自らの死を選んだという行為、自決はまことに立派な最期だったと思う。
そのほか、スイスなどでは、もう病気が治らないという状況になって、これ以上いろいろな措置をとっても苦しむだけであると担当主治医がちゃんと診断をすれば、合法的に安楽死が行える。そういう番組をいくつか見て見たりした。
確かに大義名分はいくらでもある。その中で確かにそうであると私も同感したのは、死にたいと思う世界ではなくて、その前にまず生きたいと思う世界にしなければならないということ。それはその通りだ。しかし、実際にそんな社会や世界にするのは簡単なことではない。だから、今回のように、来るしみに耐えかねている人たちがちゃんと、法律の上で死んでも大丈夫なように、安楽死自体は私は賛成である。これは今現在の、私が今まで体験、経験、知識などから導き出された価値観、考えである。
ただ、今回の事件は、これは違う。完全にこの医者は安楽死という名のもとに殺人を犯したいというような衝動が垣間見られる。これがこの人の主治医で、どうもこの患者が苦しむのが見るに堪えかねて、自殺ほう助をしてしまったということならばわかる。しかし、この医者はSNSで積極的に自分からアプローチをし、しかも報酬まで受け取っている。なんの報酬だろうか?ほんとうにその人のために、苦しみを終わらせてあげるためということであるならば、100万も200万も必要だろうか?
その点において、この事件を発端にして安楽死の議論をしてほしくないというのはわかる。
ただ、自分の生命を自分で意思決定していいだろうか、という生命倫理については、これはもっと話し合って、議論を深めていかなければいけないことだと思う。こういうことが頭の中で一緒になってしまう人のなんと多いことか。ちゃんと切り分けて考えるという作業がほとんどできないのだなということが、私は社会に出て痛切に感じたことである。

今回のコロナに関しても、確かに一部には非難されて仕方のないような行動をとっていた人もいたことは確かではあろうが、日本のムラ社会、監視社会、の悪い側面がふんだんに出ていて、ああ、やはり日本はこういうところが本当にダメだなと思った。自粛警察だとか、なんとか警察だとかいって、匿名であることをいいことに、営業をしている店にチラシを貼って脅迫したり、あるいはガラスを割って器物を損壊したり、これはあきらかに犯罪だ。ほかにも誹謗中傷や心無い言動行動。そういうものを自分たちで抑制していこうという自制心がないのだろうか。
誹謗中傷と言えば、テレビなどのメディアに出ている人たちが誹謗中傷されて自死を遂げてしまったという件が何件も続く。それに負けないほどの強い信念を持った春名風花さんは、相手を告訴して、示談というところで、数百万円を払わせることには成功した。告訴したらすぐに相手方の弁護士が出てきて示談を持ち掛けてきたというところで、春名風花さんのことを誹謗中傷していた人間が、かなりの社会的地位のある人間であることがわかるが、そういう人間がなぜそういうことをしているのか。まあ、それは置いておくとしても、ネットとはつねに開かれた世界であり、オフィシャルな場である。言ったことは責任を取らないといけないし、脅迫などをすれば犯罪となるのだ。
誹謗中傷などがどんどん蔓延している。
自分たちのメンタルをコントロールする術がないのだろうか?

人々よ、もっと理性的であれ、理知的であれ、自制的であれ
私は今そう伝えたい


しかし各いう私も、精神的にはかなり限界にきている。やはりコロナのせいで収入がなくなるかもしれないということ。完全になくなりはしないところで働いているからいいものの、人件費削減で、給与は減る可能性はある。
接客業務をしているけれども、お客も当然このストレスにさらされているわけで、以前よりイライラした人が増えているのがわかる。通常そうした人はやはり寒い時期に多いのであるが、この夏のなかで、こうした理不尽なことが営業中に起こると、私自身もイライラを受けてしまうし、他の従業員がそれを食らってしまった場合は、学生のアルバイトであったりすると、やめてしまうということもある。
事実このコロナ禍の中で、つねに感染のリスクがあるとして、学生たちはアルバイトをやめてしまっていった。だからこそ、前からいる従業員の収入が確保されたということは言えるが、しかし、ほとんど余裕や余力、備蓄のない戦いがこの数か月ずっと続いているのである。
文句は山ほど出てくる。特に同僚に対して。この同僚がどうしようもないバカでほとほとにつかれる。私よりも年上なのだが、普通に日常会話で使うような言葉がわからなかったり、もう何度も書くのも疲れたからやめるが、そうした中で現場の責任者として、何かあればクレーム対応だなんだとしなければならないのはほんとうに疲れたことだ。あまりにも疲れた疲れた言いすぎて、後輩から、つぎ疲れた言ったら100円ですよと、その子なりのユーモアでいってくれて、それで少しは救われたが、やはり心労はすさまじい。このコロナが始まってからの3月ぐらいからの五カ月くらいがんばってきたが、常に息をつめたような、神経をとがらせたような、気を張り詰めたような感じが続いたのに疲れてきた。それでも私はまだ、すでにうつ病を経験してきているから、いきつけの心療内科で自分をコントロールする薬などを処方してもらいながらなんとかやっている。これを素の状態でやっている人たちは大変だろうなと思う。

8月、9月は、週休二日にしようと思う。ほんとうに今まで働きすぎた。
想えば去年から、お客さんの入りがすごくて、どんどんどんどん店の売り上げも上がってきて、過去最高を記録していたのだった。そしてコロナ禍のせいで、お持ち帰りが増えた。それもすさまじかった。六月に緊急事態宣言が全面解除してから、徐々に人が戻り始めてきて七月は忙しかった。
去年からほとんど、二連休なんて一二回あったくらいで、ずっと週一くらいの休みで働いてきてしまった。実際それでいて楽しかったのだ。私はこの有事の時に、そうでなくてもそれ以前の時でも、社会を回しているみんなが、少しでも安くてうまくて温かい料理を、すばやく食べられて、それでまた明日もがんばってくれたらいいなと思って、半分くらいは慈善事業のつもりで、社会を回している人たちを下支えしているのだという、自分も社会に貢献しているのだという気持ちでやってきたから楽しかったのだ。
だがしかし、社会奉仕に力を入れすぎてしまったようだ。私には自分のMPを回復する必要があるようだ。だからこの二カ月は、もしかしたらその後も週休二日でやりつづけるかもしれないけれども、少し、本を読んだり、アニメを見たり、そして何よりも、自分にしかできないこと、小説を書くことを再び取り組んでいきたいと思う。



4月鑑賞目録

ロバート・ビスワス=ディーナー (著), トッド・カシュダン (著), 高橋由紀子 (翻訳)『ネガティブな感情が成功を呼ぶ』(草思社、2015)
勢古 浩爾『それでも読書はやめられない: 本読みの極意は「守・破・離」にあり』(NHK出版新書、2020)
丸山 ゴンザレス『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』(光文社新書、2019)
稲葉振一郎『ナウシカ解読 増補版』(勁草書房、2019)
向谷 匡史『ヤクザ式 最後に勝つ「危機回避術」』(光文社新書、2016)
高橋昌一郎『反オカルト論』(光文社新書、2016)


『BanG Dream!』(第一期、13話+OVA、2017)
『Spirit of Wonder』(OVA、5話、1992-2004)
『レベルE』(13話、2011)
『映像研には手を出すな!』(12話、2020)
『異種族レビュアーズ』(12話、2020)
『Dr.STONE』(1期、24話、2019)
『ぬらりひょんの孫』(1期、2010)
『ぬらりひょんの孫〜千年魔京〜』(2期、2011)



『Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow』(2018)
『虐殺器官』(2017)
『ハーモニー』(2015)
『屍者の帝国』(2015)
『劇場版 薄桜鬼 第一章 京都乱舞』(第一章、2013)


4月に読んだ本はどれもかなり面白かった。まあ、最近自分の興味のある本しか読まなくなってきているというのがその理由の半分ではあるが。

4月は、稼ごうと思って、かなり仕事をしていたので、そのなかでのこれだけの作品鑑賞読了はかなり多かったのではないかと我ながら思う。やはり全盛期ほどというわけにはいかず、歳も27になり、仕事中の時間が経過するのが大変早くなった。まだ、作品を観賞している間の時間はそんなに昔とかわらないのでそこはなんとかなっているが、これで、作品を観賞していたり、自分の余暇の時間まで加速度的になったのでは、いよいよ、死ぬまでに何も残せないままということになってしまう。
このコロナの大変な状況のなかで、なんとか職場は営業を継続しているが、しかし、これを書いている4月30日、昨日には非常事態宣言の延期が、実質一カ月ほど伸びるということが決まったようだ。この5月はかなり厳しい戦いになるだろう。どこも自粛自粛で金が回っていないので、店に来る人も少なければ、弁当やウーバーなども減ってくる。当然人員を減らさなければならないわけで、私の収入も減るかもしれない。
まあ、本当のことを言えば、私は、父が社会的に成功してくれたおかげで、東京に戸建て、ローンもなし、土地もアパート経営もあり、貯金もかなりあるようなので、本当は別にそんなに心配しなくてもいいのではあるが。まあ、今のところは父とは経済的には独立して自分でやっているので、お金のやり取りはない。父がいずれ年老いて、私が壮年になるころには、引継ぎが行われることになるだろう。そうしたら、私は、いままでの社会貢献と思っていたこの飲食の仕事をやめるか、時間を減らすかして、あとは父の遺産を食いつぶしていくだけの人生にシフトチェンジする。作品や、新しい考え方、哲学などを学びながら、本当に大切なものとは何かを追求し、それを文章というかたちで残し、後世の人間たちのはげみになればと思い、遺していく。それだけが、ちっぽけでなにもできなかった私が唯一、この世に残していける功績ではないかと思い、もうすでに、そういうものを残していくだけの消化試合のような雰囲気になってきてはいる。
非正規でもうすぐ三十路。正社員になるつもりも毛頭なく。彼女もおらず。誰か私の子どもを産んでくれないかと思うものの。非正規で、主夫というのを許してくれる人がいるだろうかどうか・・・。少し年上の人達にいうと、女性の主婦さんなんか、人生何が起こるかわからないよ、まだまだ全然若いじゃない、といってくれるけれどもね。


ところで、四月、問題はコロナ禍だ。
本当に大変なことになってしまった。アメリカでは、あんなに広大な大地で、ただでさえニューヨークなどの一部都市を除き、電車もなく、車社会で、そんなに濃厚な接触があろうとは思われないほど、ソ^シャルディスタンスの広い国であるにもかかわらず、死者がすでに5万人。
我が国日本は、2月の時点から、クルーズ船への対応のあまりのひどさに、国民総がっかりしていたのに、なんだかかんだかやっている間に、日本は大したことにならずに、イタリア、フランス、イギリス、スペイン、イラン、アメリカなどが大変なことに。しかし、それでこんな遅くになって、日本もこれだけやばいやばいという空気になってきたけれども、それでも感染者はまだ二万人もいってないし、死者も400名程度。これはいったいどういうことなのだろうか。
手前みそになってしまうけれども、これはやはり、日本人という民族はすごいもんだなあと思わずにはいられない。こんなことを経験してしまうと、ニチユ同祖論とか、日本だけは特別なんだということを感じたくなってしまうのも仕方のないことではあるかもしれないけれども、まあそこは冷静にいよう。
実際問題は山積している。まず現段階でPCR検査をしてくれという要請が125万件ほどあるのにもかかわらず、そのうち実施されたのはたったの9パーセント、10万件程度。これはいったいどういうことか。お隣韓国では、一日に何千件とやって、隔離し、当初は大変な拡大を見せたが、今は小康状態になっている。なぜあれだけの検査ができたのか。韓国には徴兵制があるから、そのなかから衛生部隊に所属し、医療技術を学んだ人間がいるというのは、なるほどと思わないでもない。一応メディアでは、日本では、臨床検査技師が足りないという言い訳をしているが、ほんとだろうか?まあ、韓国とは仲が悪いにせよ、こんな時なのだから、韓国からその衛生兵を呼んで、助けてもらったらどうだろうか?
まあ、しかし、できることをやらないというのは、明らかに何かがあるということだろう。政治的決定だ。日本はPCRをあまりやらないことによって、検査する数、母体を減らすことによって、出てくる数も減らすという戦略をとったと、そう見るべきなのではないだろうか。
それはつまり、トリアージだ。日本は超高齢化社会になって、もううまくいかないということになってしまっていた。そんな折の、この高齢者だけが重症になるという特殊なウイルスだ。もちろんエクモなどの、社会的リソースをどっぷりと使えば、死者の数は減らせるかもしれないが、それでは、今後のこの経済の死滅は間逃れない。
それは参議院予算案からも推測できる。現状の医療現場への資金組が6000憶円程度なのに対して、コロナ後のV字回復に使おうとしているお金がその二倍以上というわけだ。
当然人間というのは目先のこと、特に人を見殺しにしてしまうということに対して、命の価値が大変重くなった現代の価値観に基づいて、感情的になってしまうけれども、より合理的に、社会をスリムにして、若返らせるためには、この政策でまったく間違いはないと私は思う。それは私が今現在若者で、わりをくっているからであるが。

まあしかし、そういう全体の方向性はいいにせよ、ほんとにアベノマスクだの、たった一つのマスク受注でどうしてここまで無茶苦茶なことになってしまうのかということは、もう本当に意味が分からない。安倍さんも麻生さんも、家はとても立派で、はっきりいって大金持ちで、これ以上お金が必要とは思えない。ああいう政治家家系に生まれると、どのような環境で、どのような教育をうけて、帝王学を身に着け、国を導いていきたいという、謎の、私にはまったくわからない感情、モチベーションになるのか不思議でならないが、安倍さんは何をしたいのだろうか。どさくさに紛れて憲法改正までこぎつけたいくらいだろうか。



3月鑑賞目録

ロルフ・ドベリ (著), 安原実津 (翻訳)『Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法』(サンマーク出版、2019)
ロバート・フリッツ (著), ウェイン・S・アンダーセン (著), 田村 洋一(監訳) (翻訳), 武富 敏章 (翻訳)『自意識(アイデンティティ)と創り出す思考』(Evolving、2018)
ダニエル ネトル (著), 金森 重樹 (監修), 山岡 万里子 (翻訳)『幸福の意外な正体 ~なぜ私たちは「幸せ」を求めるのか』(きずな出版、2020)
宇野常寛『遅いインターネット』(幻冬舎、2020)
内藤 理恵子『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』(日本実業出版社 、2019)
ロバート・ビスワス=ディーナー (著), トッド・カシュダン (著), 高橋由紀子 (翻訳)『ネガティブな感情が成功を呼ぶ』(草思社 、2015)

『怪物王女』(25話、2007)
『荒野のコトブキ飛行隊』(12話、2019)
『虚構推理』(12話、2020)
『ナイツ&マジック』(13話、2017)

『ミッドサマー』(2020)


びみょうな月であった。コロナへの恐怖はだんだんと近づいてきており、皆不安の中で生活をしていた。そして四月に入り緊急事態宣言が発令される。
読書体験としては『Think clearly』は大衆書としては先のサードドアや一兆ドルなんかよりかはよかったけれども、しかし、(私は重要だとおもったところに線を引きながら読書するのだが)そんなに線を多く引いた痕跡はない。いずれも、ああ、そうだなあ、私も自分の経験上常識的に考えてそう思うなあという程度のものでしかなかった。
それよりかは、やはり『幸福の意外な正体』や『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』『自意識(アイデンティティ)と創り出す思考』『ネガティブな感情が成功を呼ぶ』などのほうがおもしろかった。
まあこれは多分に私の趣味、興味のある分野が人文系、特に文学、哲学、心理学、社会学らへんにあるということが原因であろう。
私は常に、生とはどういうことなのか、という形而上的な哲学的、宗教的である根本のことを中心に置きながら、しかしそれは人類が誕生して以来いまだにきちんととらえられているものではないので、あくまでもそれへのアプローチ、外堀埋として、心理学や社会学らへんの知見を導入して、よりよく生きる、快適に生きる、不快や不安を少なくして生きるということを念頭においている。だから必然それにかかわるような本の選択が多くなる。その点において、かなり読書や自分の経験から、だいたいこういうことなんだろうなあと、三十路を前にして、おぼろげながら、また自分の人生の最後の部分も遠くにではあるけれども見つめるなかで、ある程度は生き方というものの指針がきまっているとはいえ、微調整だったり、なるほど、そういう考え方、発想、ものの見方があったか、と新しい学びのある本たちであった。
知は力なり。知識、論理的に考える力、もちろん感性も。それらはこの弱肉強食の世界をよりよく、少しでも不快を減らして生きるために役立つ。自分のことを守ることにも、時として悪用すれば相手への攻撃への力ともなりうる。
これを書いている6月の終わりに思うことは、例えば感染症がどのようなものなのか、その拡大を防ぐためにはどうしたらいいのか、人種差別の問題、資本主義の問題、都知事選、ひいてはどのような社会のありかたがいいのか、コロナなどに対するあまりにも低知能な人々の行動。例えば感染者をワイドショーで一時間もしゃくをしいて、ミヤネなどがいかにも深刻そうな顔で、これは大問題ですよと毎日垂れ流す。そしてそれを見て信じてしまう視聴者たち。感染者のことを社会的においつめるような、醜い民族性。自粛警察。他県からくる車に張り紙をするなど、あるいは営業をしている店の窓を割るなんていう、完全に器物損壊、営業妨害。それからSNSでの誹謗中傷により、女子プロレスラーが亡くなってしまったこと。それに対してあまりにも早くにSNS規制の法案をまっていましたとばかりに打ち立てる政府。様々な政府の不祥事。他人の不倫などの問題をずっとおいかけまわして楽しんでいる下劣な精神。
これらはきちんとした知の力を身に着ければ、流れてくる情報に飲み込まれることなく、また完全にシャットアウトして何もわからないまま生きるということもなく、なるほどと受け流しながら身をこなしていく。本当にリテラシー、論理的、常識的、道徳的、倫理的、などといった、こういうふうに書くとなんとも旧態依然としたような感じがしてしまって嫌だけれども、まあ普通そういう軽薄で軽率な言動、行動、判断はしないよねといったところで、自分の操を握るのは自分自身であると、自分の行動を理性的に理知的にコントロールするためには、知の力が必要なのではないかと思う次第。


2月鑑賞目録

サトミ『亡くなった人と話しませんか』(幻冬舎、2020)
エリック・シュミット (著), ジョナサン・ローゼンバーグ (著), アラン・イーグル (著), 櫻井 祐子 (翻訳)『1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え』(ダイヤモンド社 、2019)
杉浦 正和『幸運学 不確実な世界を賢明に進む「今、ここ」の人生の運び方』(日経BP、2020)
長谷川 和夫 (著), 猪熊 律子 (著)『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(KADOKAWA、2019)
ベンジャミン・ハーディ (著), 松丸さとみ (翻訳)『FULL POWER 科学が証明した自分を変える最強戦略』(サンマーク出版、2020)
田中 泰延『読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術』(ダイヤモンド社、2019)
中見 利男『『ロスト・シンボル』の謎 フリーメイソンの正体』(KADOKAWA、2011)
橘 玲『事実 vs 本能 目を背けたいファクトにも理由がある』(集英社、2019)
ジュリア・ショウ (著), 服部 由美 (翻訳)『悪について誰もが知るべき10の事実』(講談社、2019)


『パラサイト』(2019)

ほとんど読書をしていた月。これを書いている2020年6月終わり、コロナ禍の中で。この時はまだ世界がこんな状況になるとは思ってもいなかった。今現在はアニメをとりあえずかたっぱしから多読する日々を送っている。やはり時間的に、アニメ作品のほうが多くの作品に触れられるのでいい。読書は好きだけれども、いかんせん私は遅読家なので、時間がかかってしまうのが難点。最近ますます時間が経つのが早くなってきていると感じ、これを書こうと思っていたのがすでにもう半年もブログ記事の更新をできていなかったことに驚きである。
前月、1月にはサードドア、2月には1兆ドルコーチ、とそれぞれ資本主義の権化から産み落とされたような自己啓発本?というような二冊を読んだが、まあつまらなかった。どちらもかなりの文量があり、月に10冊レベルは読める私からしたら、やれやれ、ちょっとやっかいだな、といって三日くらいで読み終えるが、普段読書をしないという人には、これはひと月、二月かけて取り組むような本になることだろう。なおさらあのように本やで平積みされていたり、メディアなどで紹介されていたりしたらそうなることだろう。
しかし私は同時に他の本を読んでいたのだけれども、それらのほうがどれだけ面白く、まあ内容がより普遍的、当たり障りのないものではなく、コアなものだったから私自身にかなり重要な情報であったということで、その差は考えなくてはいけないとしても、杉浦正和氏の『幸運学』や『FULLPOWER化学が証明した自分を変える最強戦術』。田中 泰延『読みたいことを、書けばいい。』『悪について誰もが知るべき10の事実』、これらの本の方がよほど面白かった。
私の恩師がFBで今月読んだ三冊といった紹介のなかで、サードドアか一兆ドルかをあげていたけれども、教職の場からは退いた身でありながらも、そうしたくだらない、当たり障りのない、なんとなく読んで、あ、僕もこんな風にがんばろう!と思わされつつも、特に何の具体例も有効性もない、お気持ちだけの本とは違い、これらのより専門性があり、一癖も二癖もある作品に触れてほしいと思うものである。


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