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日記ならぬ月記  ~時が私を味方している~


最近いろいろな出来事があって、しかもそれがいままでのマイナスの方向ではなく、よい方向のものであるというところをかんがみるにつれて、私に時の運勢、時勢が向いてきていると感じるようになった。
私は文学者で、非科学的なことも、半信半疑ではありながら、親しんでいる身ではある。妄信してどっぷりとつかることはない。そこにはやはり文学部で鍛えられた批判の精神が生かされている。それにしても、ここまでいろいろと、最近いろいろなことが調子がいいと、なんだかどうやら運が回ってきた、ツキがついてきた、といった言葉で表現できるような状況に今いるのではないかと思う。
私は現在25歳だ。
本厄が二年前、後厄が一年前だったと記憶している。たしかにその頃は、ちょうど社会に出たてで、みんながうまくいっているように見えるなかで、私だけが周りからおいてけぼりで、うまく就労できずに、ひきこもり、うつのなかにいた、非常につらい時期だった。いま考えても、かなりしんどい時期だったので、こういう慣例的なものにはあまり信ぴょう性を感じていない私ではあるが、こと今回に関しては、本当に災厄というものがふりかかってきていた、運が閉じていた、なにをやってもうまくいかない時期があるというのだなあと、振り返ってみれば思われる。
ここ一年程。それ以前と比べると、ふっと楽になった感じはしていた。身体的にも、いい整体、いい漢方がみつかり、徐々に元気、活力を取り戻せてきている。なんとなく働けている、日々を暮らしていける、つらく、くるしすぎることはない、という感じ。なんとなくできているぞ、という感じにはなっていた。

ここにきて、さらに運勢が増してきたのか、どうにもいろんないいことが起こる。特に人間関係において。
よもや、と思っていた。私はもう独りで生きて行く他ないのだと、誰も私のことを理解してくれる人はおらず、寂しい文学者として身を果てると思っていた。ところが、他店であるが同じ職場の女性に恋をし、しかもそれがなんということか実ろうとしているのである。こんなこと、誰が想像しただろうか。
しかもそこには、私がこつこつと、この苦しみのなかでも、なんとかやり続けて来た仕事、その仕事に対する姿勢、それから職場の人たちとのちゃんとしたコミュニケーションが功を奏して、周りのみんなが私をサポートしてくれるという、なんとも感慨深い一連の出来事だった。私の先輩でもあり、私のメンター的存在でもある職場の同僚は、「情けは人のためならずが証明されたね」と、私が周囲の人間に対して、常に情けをかけていたことがめぐりめぐって自分に戻ってきたのだということを指摘してくれた。そんなことを望んでもいなかったし、望めるとも思っていないほどに打ちひしがれていた私は、なんとありがたいことか。
特に一番大きな自分に運が向いてきたと思うのはそのことだ。だがそれ以外にもある。
私は同僚から「じじいキラー」の称号をほしいままにしているが、これは、私が大体自分の父から、祖父くらいの年代の男性、60代から80代くらいの男性に対して、非常に好感を持たれ、好かれるということから冠された称号である。その称号をくれた後輩は、「ばばあキラー」であり、おばさまの心を射止めるのが得意だ。人間にはそういう側面がある人が存在するようだ。職場の同僚で一番すごいのは、先日還暦を迎えたキャスト。このキャストは、人情味あふれる接客で、うちの店で誰よりも、エリアでも誰よりも顧客をもっているキャストだ。彼は誰にでも親しく、話しかけ、彼にしかできない雰囲気をだしているし、仕事をしている。そういう良い面に影響されて、私が所属している店舗は、その還暦のおじさんを筆頭に、みな、お客さんとのコミュニケーションをよくとる、すばらしい店だ。私はそのことにとても誇りをもっている。やはり接客業といっても、ドライな部分はあるし、なんといっても薄利多売の業態だ。そんななかでも、ふとしたところでやはり人と人の情が触れあうというのは、お金には代えられないほどのありがたいもので、こころがほっとする。人間の仕事というのは、やはりこうしたものでないといけないと思う。
ニワトリが先か卵が先かの話ではあるが、私に時勢が味方するようになったのか、あるいは、私がなんでもうまく行くと思い込み始めたので、そのように認識できているだけなのかはよくわからないが、しかし、負のスパイラルから脱出し、正のスパイラルに入れたことを感じずにはいられない。
私にも、何人かお得意のお客さんがいる。みな、60,70,80代くらいのおじさん、おじいさんたちである。それらのおじいさんたちが私のことを可愛がってくれるのだ。
しかもここ最近立て続けに目に見える形でそれがあった。
一つには、差し入れをしてくれるおじいさん、一つには、初めてであったけれども、食事をし終わった後、たこやきを買ってきてくれたおじいさん。名指しで、私へと。私が接客したのがよかったようだ。一つには休憩中に駅で出会った常連のおじいさん。何をしているのかと聞かれたので、お弁当を買いに来たといったら、俺が払ってやるよとお弁当を買ってくれた。なんとも、なんとも。どれも個人的に私に好意を向けてくれて、私はなんと幸せなことか。
まあ、あえて水を差すような、文学的な分析をすれば、私たちは幻想に生きているといえるかもしれない。これもまたあるマイルドなおじさんに、私はどうも、自分の父くらいの年齢の人に好かれるんですよねと言ったら、向こうが、こちらも自分の息子と話しているようでいいのかもしれないと。つまり、私たちは、ずっと近くにいれば、近くにいるからこそ嫌な面も見えてしまい、関係が冷え切ってしまった親子関係に蓋をして、ある程度距離があるから余裕があってふるまうことができる、理想の父を演じることができるし、こちらも一生懸命に仕事をしているから、一生懸命がんばっている息子を見ているような感じで、お互い幻想のなかで、相手を疑似的な父、疑似的な息子としての関係を愉しんでいるのかもしれない。だが、それの何が悪いというのだろうか。みんな幻想のなかにいきている。それが悪いことだとはだれもいえない。

一体私に何が起きているというのだろうか。
風水や中国系の卜占的に、いい運勢がめぐってきたと言うことができるけれども、それらはよくわからないし、勉強するのも、理解するのも難しそうだから、それを説明につかうことはできない。
一つには、これも若干怪しい感じはしているが、例えば苫米地英人先生などが言うような、脳科学的なアプローチをかければ、フロー効果だったり、ゾーンに突入したとか、コンフォートゾーンが外れたとか、そういういい方ができるかもしれない。認識の問題とすることもできる。
私のメンターである先輩は、日常の経験即から、例えば競馬で当たった人が嬉しくてニコニコしていたら、それが周りからよく見られて、どんどんいいことが起こった、というような事例を例に出してくれた。
いずれにせよ、私は今そのような状態にあるようである。

一度このような、なんでもうまく行くような万能感に襲われたことがある。それは大学四年の時だったと記憶している。成績優秀者に選ばれたり、奨学金というより、報奨金に近いお金が出たり、あるいは大学の雑誌に写真付きで紹介されたり、部活での存在意義があったりというような感じで、うまく物事がまわっているように感じられた時期があった。それから、就職の失敗による長い鬱時代に突入することになるが、それは後のお話。ただこの時のフロー効果はあまり長くは持続しなかった。鬱にはいってしまったというのもあったけれども、そう考えると一年ももたなかったのではないかと思う。今度のこの時勢が味方してくれているのも、いつまで続くかはわからない。
ただ、こうした運気というのは自分の意志でどうこうできるものではない。それが自分に向いていない凪の状態の時、あるいは逆風の時には、ひたすら、消耗しないように静かにじっと我慢して耐え忍んでやり過ごすのみである。そして、ようやく春の日差しが差し込んでくるように、時の運勢が自分に味方してくれるようになったならば、艱難辛苦であった状態から一気に力を開放して、自分のできる限りのこと、ベストを尽くすのみである。
私との将来を考えてくれる人ができた。その人のためにも、ずっとアルバイトの生活ではなくて、きちんと将来を考えてほしいと言われた。私はこの時運にのりながら、ようやく機が巡ってきたかという想いで、勢いをつけて、大学院に進学してみようと思う。
ずっと院にいって、いずれは大学講師、それから慣れて、落ち着いてきたら教授として就職という道を考えていた。けれどもそれを実行にうつすだけの、例えば院試の情報を取り寄せるということさえもやらなかったのである。それが、人によってではあるけれども、背中を押されて、やってみる、調べてみるというところまできた。

大学の終わりから、大学を卒業してからの4,5年ほど。高校の終わりから数えれば8,9年ほど、つらく苦しい時期を耐え忍んできたわけであるが、それがようやくこのような形で報われてくるのかと思うと、それまでの苦悩もまた無駄ではなかったと思えてくる。それだけの苦労があったからこそ、ありがたいことに対する感謝の気持ちも湧いてくるし、人間として、ただ、ずっとなんとなくうまく立ち回れてしまう人よりも、ずっと深みのある人間になれている気がする。

ただこればかりはどうしても個人が自由意志でなんとかできるものではない。やはり私は運というものは存在すると思うし、それも単発的なもの(もあるかもしれないが)ではなく、中、長期的なスパンで見なければならないものであるということもなんとなくわかった。
こんなアドバイスは誰にも必要ないかもしれないし、みんな自分の人生だから自分で切り開いていくしかないのであるし、自分の人生哲学は自分で作り出さなければ意味がないけれども、それでもあえて言うとするならば、やはり運はあるし、運が向いていないときはなんとか無理をしないでやり過ごせ、運が向いてくるまで辛抱しろ、運が向いてきたら一気に力を開放して、ベストを尽くせ、と後人に声をかけてあげたいと思うばかりだ。

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メガロボクス、銀河英雄伝説Die Neue These、を例題として―関テクスト性の問題からひらかれた作品制作文化へ―

ようやく録画しておいた冬アニメが全部見終わったというところで、息をつく暇もなく、ただひたすらに大量に生産されつづけられるアニメを、それでもいくつかはかいつまんでみておかなければならないという苦しい使命を感じながら日々アニメを消化している毎日であるが、そこで今期見ているアニメ、メガロボクスと、銀英伝の新しいものを見たときに感じたことを覚書程度に、ちょっと小難しく書いておこうと思う。

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まずはわかりやすい銀英伝から。銀英伝はもちろん田中芳樹の小説が原作であるが、私が眼中においているのは、OVA本伝110話である。外伝や映画などもあるし、私も一応それらは鑑賞したが、ここでは別段必要のないことなので割愛させていただく。もちろん、アニメオタクたちにとっては一般教養、オタクの必須科目であることはいうまでもないが、セル画全盛期の1988年から110話完結の97年までに、当時の映像技術や声優陣などを古今東西見たことがないスケールでやってのけたのが銀英伝である。そのため、銀河声優伝説とも呼ばれるほど、ただでさえ多い登場人物たちに、それぞれ当時の、いまなお、第一級の人々が声を当てているのは圧巻としかいいようがない。さらには、外伝まで作られたこの作品において、もはやこれ以上なにかを付け加えることはできないと思われるほどの完成度であったが、今回なぜか、唐突に、なんの必然性も私たちには感じられないままに、あたらしく、しかも今の婦女子に人気がでるようなイメージキャラクターで、そしてイケメンボイスの女子たちに人気がありそうな声優陣で組んで、マーチャンダイジング的な、非常に商業的な作品としてこの作品は平成も終わろうとしている2018年に、最初から数えれば約30年から20年ぶりに現代に翻案されたのである。
銀英伝のかつてのアニメを見たことがない、本編をしらない人たちにとっては、1クールやるのか2クールやるのかはわからないが、それこそ有象無象の、他のぱっと出のアニメと大差はないと感じることだろう。いや、それでも、銀英伝というタイトルをかかげているだけあって、この当たらなければ終わるという極めてシビアな現代アニメ業界において、ある程度のかつてのファンの購買力、それから、作品をイケメン化、婦女子好みにすることによって、そちらの購買力も狙うという意味で、ある程度の回収が想定しやすいということから、商業的にやらざるをえないのはわかる。あたらしい視聴者にとってはどうでもいいことだろうし、なんとなくイケメンたち、今を活躍する声優たちがでているからというので消費的に見るぶんには別段何か新しい批評を付け加えることもないが、しかし、これを本編を知っているオタクたちがどのように享受すればいいのか、という段階になると、少し難しいことを考え、話さなければならないような気がしてくるのである。

いまのところ4話か5話まで見たが、一応はかつての作品のあらすじを追っている感じではある。しかし、描いている部分が異なる。視点が異なる。本編では、アスターテ会戦からはじまり、そこで戦死したヤンウェンリーの親友であるラップが戦死し、その妻であったジェシカが国会議事堂に乗り込んでいって首相に文句をつけ、変な組織に命を狙われるという部分から物語は始まったが、今回は、それを踏まえたうえで、あるいは、それをみないでも独立して見られるように工夫して、別の視点から、本編では描かれなかった士官学校時代の話などが丁寧に描写されるのである。すなわち、このあたらしい銀英伝は、すこぶる古参のファンにとっては、そのセル画を愛していたファンにとっては、このビジュアルはあまりにも納得のいくものではなかったけれども、その描かれている内容においては、本編を補完する作用を持つ物語となっており、それによって、なるほど、昔ああいうふうに話を愉しんでいたけれども、その裏ではこのような物語りがあったのか、といったように楽しむことがでできるのである。もちろん新しい視聴者にとっては、それだけでも楽しめるように作られているところがすごい。その点でこの作品は、非常に、巨大な本編があり、それを補完する物語としての作用があるなかで、しかし補完するだけの補欠的なものではなく、それだけでも独立しうる力を持った作品として今のところは順調に作成されているのである。これは極めてアクロバティックな曲芸的な技としか言いようがない。古参と新規のファンを同時に回収し得る力を持ち得ているのである。

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さて銀英伝の話はこのくらいにして、総括はあとでメガロボクスとまとめてするとしよう。
メガロボクスの問題点を語ろうと思う。こちらは銀英伝を、まったく同じ世界線のなかで補完的に描くのとはまったくことなり、翻案をしているという点で、非常にややこしい議論が生じる作品である。
2018年4月より突如としてはじまったメガロボクスであるが、これはオープニングにも、もちろんサイトにも、エンディングにも、すべての場面において「原作ちばてつや『あしたのジョー』」と記されている。私は作品を見るまえに原作が明日のジょーであるということをしらなかったのだが、いざ実際鑑賞してみて、はてさて、このあしたのジョーが原作であるところのメガロボクスというのは、いったいどのように解釈したらいいのだろうか、と思ったのである。
これもまた、現代の視聴者と、古参の(漫画原作を読んだことのある視聴者、1970-71の原作アニメ、80-81の原作アニメ2の)視聴者との間で、この作品への向き合い方、解釈の違いがでてくるのではないかと思われるのだ。
エリートオタクである私は、いまだ四半世紀しか生きていないが、やはり過去の名作は見ておかなければならないという勝手な使命感に燃えて、当然銀英伝も、あしたのジョー(1も2)も鑑賞をし終えている。いわば、今の30代から60代くらいのオタクの先輩たちと知識的には同じ水準に達しているのである。そのような状況の私から見ると、なるほど、あしたのジョーを、もし今2018年、平成も終わろうという年に、最新のアニメーション技術、セル画のように見えるCGグラフィックスを使用した最近のアニメーションで、どこまでの表現が可能なのか?という可能性の問題としてとらえることができる。

https://twitter.com/hazuma/status/992678166857576448
閑話休題。銀英伝にしても、メガロボクスにしても、こうした過去の名作のリメイク、リテイクの作品がかならず毎クール何作品か入ってくるのは、それだけ新しい作品、ジャンル、想像力を生み出すだけの力がサブカル文化にもはや残っていないことの表れでもあり、それ自体は危惧すべき事態ではあるが、しかし、私自身も年齢的には若いとはいえ、つねに量産される、量産型の、消費型の類似的なアニメの垂れ流しには正直辟易しており、つかれてきている。それならば、きちんとお金と時間をかけて、かつての80年代90年代、アニメの全盛期のように、4クール、1年は継続してやるというような作品を見たいものだ。いまではあまりにも多数の作品が、それこそ1クール、3カ月ごとに40も50もの作品が、しかも対して質の高くないものまで、大量に湧いてくる時代においては、情報は文字通り洪水のように否応なしにやってきており、それを完全に無視すればするでいいが、完全に世間からはおいてけぼりになってしまうし、かといって全部観ようと思ったら、すべての時間と労力をそこにそそながなければならない状態、中途半端に、自分がおもしろそうと思うものを少しかいつまんでみる程度しか現実問題としてできないのが実情である。

さて、メガロボクスに話を戻すが、この作品は先に挙げた銀英伝の、リメイク、リテイクとは違って、あしたのジョーを原作としながら、まったく新しい物語を展開している。時代も違うし、そもそも同じ世界線なのかさえあやしい。あしたのジョーは紛れもなく等時性を持った、我々が住んでいる世界のどこかで起こっているであろうことを描いた現実の物語であったが、メガロボクスは設定が未来であるという時点でSFであるし、未来であるというからには我々がまだもっていない技術などがあり、それによって拡張した感覚によって彼らは生きているはずなのである。
一応主人公の名前がジョーになったり、師匠の丹下らしき人物や、白取の令嬢に似た人物などが登場し、あしたのジョーと構造は似ているが、舞台がまったくことなるということになっている。
私は一応文学部出身なのでこういう、ある作品の設定、これいいからこの設定を使って新しい作品をつくっちゃおう、というのを専門用語で「換骨奪胎」という言葉があるのは知っているが、それにしてはやや、いままでに見て来た換骨奪胎のような作品とは異なった、かなり新しいものをここに感じるのである。

はっきり言ってしまえば、あしたのジョーから影響を受けました、というだけにとどめておいて、まったく新しい作品として銘打ってもいいレベルの作品ではある。あしたのジョーに出てきたような登場人物を出さなければ、なるほど、これが近未来の格闘なんだなと読者もあしたのジョーなど忘れて視聴できたはずである。それをなぜ原作「あしたのジョー」とわざわざ、しかもかなり強調して出したのか、出さなければならなかったのか、そこには理由が、あるいは意図があるはずである。
もちろんのことであるが、50周年だからその記念に、あしたのジょーというタイトルを出しておけばある程度の商業的なリスク回避ができるという下卑たことはあるだろう。だが本当にそれだけの話なのだろうか。
私はこれに対して明確な答えは今のところ見出していない。この文章を書いているうちにそれを見つけられないかと思考の実験をしてみたが、とくにこれといって、どうだ納得できるだろうというようなすばらしい見方は見つけられなかった。ただ、それでは意味がないので、私が大学で文学を学んできた過去の知識、経験に照らし合わせて、多少の文学的な戦略地図を作ることはしておく。

70年代前後にフランスで起きた哲学圏、思想圏の構造主義によって、文学の分野もまた、その理論が大きく変わることになった。ロランバルトなどは、作者の死をたからかに謳い、テクスト論とよばれるものが文学理論の主流になった。それまでの作者がいいたかったことをどれだけ正確に、作者の手記や伝記を参考にしながら読むスタイルとは決別したのである。
テクスト論が万能であるわけではなく、その欠点は批判されているし、テクスト論によって失われたものもある。しかしそれと同時に得たものもあるだろう。作品はひとりの作者の独占物ではなく、読者が積極的に、読解、分析、再構築して、あたらしい織物(テクスチャ―)として作り上げる、主体的な読みがなされるようになったのである。いままで閉じていた作品が、一般読者に開かれていったというわけである。
そんな思想的な変遷を意識してかしないでか、我が日本では、二次創作というものが最近のサブカルチャーでは流行だ。ある作品を、自分の好きな登場人物たちの、原作にはない物語を自分で、小説なり、漫画なりにして、それを販売して、同じ作品が好きな人達と共有するという現象が起きている。ここではすでに、特権的な作者が、一方的に享受するしかない消費者に向けて一方向的に作品を提供するということではなく、双方向的なやり取りがなされるようになったのだ。庵野秀明のエヴァンゲリオンなどは、視聴者の意見や感想をそのまま作品内に取り込んだりといった、きわめてメタ的な構造が取られた点も95年の段階で評価されるべきであろう。それからさらに20年以上が経過した現在となっては、もはやだれが作者なのかよくわからないというような状況にまで到達している。ある作品は産まれた瞬間から、引用の織物のように、そこにさまざまな、作者と読者という二項対立的な概念さえももっていない人達によって、一人の作者の手元を離れた物語は即座に、即自的にさまざまな物語を、矛盾もかかえつつ、多数の人によって網羅的に、包括的に追加、編纂されていく。まるでWikipediaの編集合戦のようである。そしてある程度のところに落ち着くというわけである。現代においては、もはや作者と読者という二極的な対立はなく、それはあまりにもあいまいとした、連続性の一環なのである。
で、メガロボクスに話は戻るわけであるが、メガロボクスは、当然70年代80年代にアニメあしたのジョーを作ったスタッフたちが作っているわけではない。むしろそれを視聴していた当時の子供たちが大人になって、二次創作的に作っているのである。本来の二次創作は、コミックマーケットや、あるいはネットの同人サイトに投稿されるレベルにとどまるが、この作品においては、二次創作が、極めて資金的にも商業的にも、原作と同じレベル、それ以上にかけられているのである。つまり二次創作であったものが一時創作になってしまうという転倒がここに起こっているわけである。
メガロボクスが、本気でアニメをつくっているのはその作画や、それまでの宣伝の仕方からでも一目瞭然である。あたらしいジャンルがここに生まれるのは間違いない。
あしたのジョーのスピリット、貧しく、貧困の中にある人間が、屈強ですべてにめぐまれている立場の人間に対して、泥水をすすりながらでも、はいつくばってでも向かっていく。その野良犬根性を、原作から50年という歳月を経てなお、今の時代にもってきても通用するかという壮大な実験なのである。

大きな物語が消失した現代にあっては、かつてのような、ジャンプにしても、大きな物語はもはやつくることが不可能であろう。商業的にもそのようなシステムになってしまっている。とすれば、このあまりにもあやふやでたゆたっていくしかない現代において、作品を作り続けるにはどうしたらいいかといったら、有象無象のなかにまぎれることなく、どこかで確固としたものをもつのであれば、かつての名作を翻案することなどによって、二次創作を一時創作的にすることなどが、技法のひとつとして考えられるのである。一時創作も二次創作も、その隔たりさえもなくなっていくなかで、もちろん著作権法も見直されなければならず、そうした方面にも影響はあるだろうが、私たちはよくわからないままにも、記号的な作品をなんとなく享受しながら、しかしそれは如実に時代の風を受けており、時代を感じながら生きることになるのである。我々が、新規視聴者が、古参視聴者がアニメを見るときにはそのような事象が発生しているのではないだろうか。

過酷でつらい現代社会を生きる人たちへ―心の外殻をつくるという方法―

今日はこんなことがあった。
あろうことか、ベテランであるはずの僕がお弁当に入れ忘れをするという凡ミスをしでかしたのだ。これはよく新人アルバイトの子にありがちなミスで、これが結構やっかいなのだ。対応としては、後日来られた時にその入れ忘れたものを返金するというのが一番楽ではあるのだが、お客さんが起こっていたり、「どうしてくれるんだ」となってしまった場合は仕方がない。ただでさえ人件費削減で、店が回らないような状態の人数で営業を行っている中、一人がお届けに参るというわけである。で、今日私が入れ忘れをし、私がお届けに行ってきた。平謝りである。
私がこんな凡ミスをするのには理由があった。当時急にお客さんが一気にはいってきてしまって、さすがに私でもキャパを少し超えていたというのもあったが、それ以上に、うちにたまにくる、本当に最悪の客の1人が来店していたのである。これがまた無理難題をいってくる。うちはチェーン店なので、基本的にはマニュアル以外のことをやってはいけないのだ。なぜならば、同じものを同じように提供することが求められているなかで、なにかひとつ例外をどこかの店舗で許すと、なんで他の店ではやってくれたのに、ここではやってくれないんだ、ということになり、おさまりがつかなくなるし、なにもかもがOKという、アナーキーな事態になってしまうからである。
だから、そういうのを他のところではやらないと、特に常連のお客さんのなかでもものわかりのいい人には、融通を利かせることもあるが、基本的には全部NOなわけだ。で、そいつも、ほかのところではやってくれたからやってくれ、というわけである。当然NOである。ただでさえ気持ちがわるいのだが、本当に無理難題をいってくるところも腹立たしいし、なにもかもありえないような客なのだ。だからこちらも融通なんて一つも利かすつもりもない。マニュアル対応しかできないとすべてお断りするまでである。そんなクソみたいなやつを相手にしていて、しかも新人の外人の女の子がいるなかで、いつ、どんな問題、クレームが生じてもおかしくないなかで、すべてに気を張っていなければならなかった私は、そこで自分が担当をしたお弁当で入れ忘れをしてしまったのである。
お弁当をとどけて平謝りをしたのはこの後の話だ。時系列てきには、クソなやつの対応、お弁当お届け謝りだ。
さて、この二点において、ほかにもいろんなことが日常で起こってくる飲食店であるが、やはり人と接する仕事をつづけて3年が経つ私でも、こういう客やこういう出来事に対しては、こころが沈んで、うつっぽくならざるをえない。お守りとして、頓服で飲むロラゼパムという薬をもっているし、今日はそれを使用せざるをえなかったけれども、やはりなんど経験しても嫌なものは嫌なものだ。
まあ、とはいってもさすがに3年間もこのようなこと、なんども経験してきたので、さすがに経験値としてたまってはきているので、昔ほど、もうその次の日も、2,3日も落ち込み続けるというほどのことではなくなったし、別に何度も起こることであるし、どうでもいいやという気分がだいぶないわけえではない。そういう点で、私も四半世紀生きて来たことによって、敏感すぎる人間HSP(Highly Sensitive Person=非常に敏感な人々)(参考『「敏感すぎる自分」を好きになる本』)である私でさえも、まあなんとか薬をうまく使いながら日常を生きて行けるだけにはなってきたということだ。

さて、このなんとかそこまでの深手を負わずに生きていけるようになってきた、という現象について、どのように考えるか、というのが今日の後半である。
二つの視点から考えることができる。
一つ目は単純に慣れたということ。
もう一つは、ペルソナといえばかっこいいが、自分の外側にヴェールを覆うように外殻が一つできたというような感覚、である。

慣れたというほうについて解説をすると、たとえば同じようないい方で「大人になった」というような言葉がある。ある程度社会にもまれた結果、敏感で純粋だったものが、ピンクのお肉の塊だったようなものが、どんどんどす黒くて堅いものに変容してしまったというようなイメージで私はとらえている。慣れるというと、いい意味に思えるかもしれないが、しかし私のようなイメージではとてもいいとは思えない。それは精神が汚染されて、硬直化してしまった結果ということだからだ。
もちろんでは、純粋だけれども敏感な若々しいほうがいい、というとそう一概にもいえない。そんな状態では些細なことでも、皮をはがれたような状態でいるので、とても苦痛に感じるし、まともに社会生活を送っていくことはできない。実際にそのような精神状態だった私は、社会に放り込まれて2カ月でうつ病になってしまった過去がある。(過去のブログ記事を参照)
ではやはり慣れたほうがいいのか。うーむ、といったところである。私が想定するような、社会にもまれた結果、まったく動じない大人というのは、感覚が鈍感になってしまっており、感受性といわれるようなものが磨滅してしまっているように思えるからだ。
子どもはいつでも笑っている。しかし、大人になると、笑う機会のなんと少ないことか。大人は大概のことでは感動しない。それがいい状態なのだろうか。日々ストレスフルな社会で過ごすために仕方なくそのような状態になったのはわかるが、それによって、たとえば日々の日常の何気ないすばらしさや、四季折々のさまざまな生命の躍動、なんとも言葉にしがたいような人生の機微、幸せ、といったものから遠ざかっているのではないか、それに気が付けないのではないかと思うのだ。
まあそれでも、この社会で、フルタイムでサラリーマンをしていくためには心を殺していかなければいけないので、もうこんなことをいってもいまさら仕方がない、むしろそんなものにいちいち気を付けていたら社会生活送っていけないよ、という花より団子なことをいわれてしまっては仕方がないし、現に日本人の多くはそのようにして過ごしているのであろう。これに対して社会批評家であるところの私は、やはりそういう社会はおかしいと、人々が心をそこまで閉じて生きなくてもいい世界になることを望む、とだけ言っておこう。

さて、まあ大勢の人がそのように心をかたくなにして生きているのは判ったところで、しかし、文学者たる私はそのような生き方を嫌だ!と思っているし、また多くの大学生や、新社会人(我が弟よ)たちもそう思っていることであろうし、なによりも社会をそうではない方向に変えていかなければと運動家としての私は思うところであるし、といった結果、慣れてしまうのではない別の方法によって、純粋な気持ち、こころというのを持ったまま、なんとか現代社会のなかで生き延びる方法というものを考え付かなければいけないのだ。そこで私が最近考えていたのは、私が実際そのようにして生きているのではないかなと思っているのは、自分の外に外殻を作るという方法である。
だが、この外殻をつくるという方法だが、全体を堅い殻で覆いつくしてしまっては仕方がない。それは慣れと同じことである。そうではなく、オンとオフ。つまり殻を開け閉めすることができるかにポイントがあるのだ。私はこの感覚をイメージしたときにどんなイメージが近いかなと思ったが、それは我々ポケモン世代でいうところの、パルシェンというポケモンだ。
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このパルシェンというのは、真珠をつくるあこや貝がモデルとなっていると思われるポケモンであるが、その内部は黒々とした本体であるが、どうやらこれは、貝の中身のようにふにゃふにゃとしていそうで弱そうである。ここに攻撃を食らったらひとたまりもない。死んでしまうだろう。だが、それを守るために、開閉自由な外殻がいくつもその本体を覆っているのだ。この殻によって、そのまま突進をすれば攻撃にもなるし、なによりも堅い殻なので、そのまま閉じていれば防御になるというわけである。我々が目指すのはこれではないか。少なくとも21世紀を生きる我々には、ポケモン、パルシェンというイメージが存在するのだから、それを念頭に想像力を働かせることは我々の時代性の特権なのだ。
仕事中、または嫌なことをやらなければいけないときは、自分の感覚を閉じて、無為になることができるように心を訓練するのである。
これは書いていて思い出したが、例えばハリーポッターでも、閉心術というのがあって、ポッターはこれを(我があこがれの)スネイプ教授とともに行うのだ(たしか5巻か6巻くらいの話だったと思うが)。
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しかし、こころの純粋さは失わないままでいることがなによりも大切だ。こころが完全にかたくなになってしまうと、その堅くなったこころで生きることになる。相対的にそうした人が多くなると、こころが堅い、石のような人達ばかりの社会ができるから、そんななかで生きるためには若い人も石にならざるをえない。そのような社会が継続してしまうのである。そうではなくて、純粋なこころを、あ、これはいけない、相手を傷つけているのではないか、と思えるその純粋な柔和な、若々しい心を失わないままに生きなければならない。そのためには、まだ完全に無防備では生きていけない今においては、外殻をとりあえず緊急的に身にまとう必要があるのである。いずれはそんな外殻も必要としない世界が到来するのを待ち、促進しつづけながら。

なによりも生きるのが辛いと思っていた私が、いまでもつらいことにはつらいし、今日もこんなことがあって、仕方なしに感覚を鈍らせるためにロラゼパムを口にする日々ではあるけれども、そんな辛さを分かる私だからこそ書かなければ、伝えなければいけないことだと思って、今日はこんな文章を書いてみた。現代社会で生きるのが辛い人は、とりあえず外殻をつくろう。こころ全体がかたくなってしまうのではなくて。そして自分の時間の時はからをのびのびと開けて、自分の好きなことに打ち込もう。現代を生き抜くにはこのやりかたはだいぶ理にかなっているのではないかと思い、提案するものである。

颯爽と現代を切っていけ  ~魚心あれば水心あり~

今日はこんなことがあった。それをもとに少し考えたことがあるので記してみよう。
わが店には、店の中で一番偉い人がいる。とても仕事熱心な方だし、仕事も正確で丁寧だし、彼いなくして店はまわりはしない。キャリアも高校生の時からやっているということであるから、25年以上。私が生まれる以前から働いているベテラン中のベテランなのだ。
性格は、もちろん人間完全な人はいないから完璧というわけにはいかないけれども、ジョークをいったり、比較的接しやすい人ではある。他の同僚もそうだが、しかし、この職場で私は二年半つづけていることになるが、いままでももちろん感じたことではあるが、今日もまた、あ、この人のトリガーポイントをひいてしまったな、という出来事が起きた。
私がひいたのではない。他の店舗から応援に来てくれた方であるが、この人に対してそのベテランの人はどうも気が合わないらしい。
一番最初に店に応援に来てくれた時に、休憩室をわが物顔で使ってしまったり、といったいくつかの出来事が、最初からベテランの彼に、応援の人に対して悪いイメージを持たせてしまったようなのだ。こうなると、どうしようもない。なかなか人間、最初に信じてしまった、インプリンティングされてしまった感情やものの見方というのは変えることができないようだ。この文章は自分にも言い聞かせなければならないなと思って書いている。まあ私的ないい方をすれば、私の大学時代の教授がいっていた「バイアス」から解放されろということだ。
人間はそのままで「ありのまま」を見ることはできない。それぞれの過去の経験や生まれ育ってきた環境、思想的背景など、(日本人は島国だし、どこへいっても同じ教育がなされているので、比較的にかよった、あまりにもかけ離れたことはない、類似した見方ができるようになってはいるが)によって影響されて、それぞれの色眼鏡をもって、世間や社会を見ている。
大学にいくことや、学ぶことの一つの意義は、この自分が知らぬ間につけていた色眼鏡を意識することと、さらに上達すれば、別の色眼鏡をもって世間をみたりすることをできるようにするためである。世界の見方、考え方というのは、自分一つのものがすべてではないのだなということに気が付くことが出発点だ。

また大ぶろしきを広げてしまったが、話しをケーススタディに戻すとすると、ちょっと違うことではあるが、一端人間こうだと思ったらなかなか変わらないということだ。
これは私自身もそうであるから、つねづね人というのは、「初心を忘るべからず」という言葉の通りに、ニュートラルな場所に戻る必要がある。それは時として、それまで積み重ねて来た経験や過去が邪魔をしてしまうかもしれないのだ。それは悲しいことではある。私たちは年を取って生きやすくなるはずであるが、その年をとって経たものによって、逆にそれまでの自分の経験や過去からくる考えや思想とは異なったものに対する柔軟性を失ってしまうのだ。
私はベテランの先輩を尊敬していたが、その人の応援者への評価は最低なものであった。半分は私に話しかけていたが、半分は独り言のように、「自分は楽なほうにいこうとする。できもしないくせにできるような顔しやがって、ほんとにしねばいい」とつぶやいたのである。
これで私のその人への評価もまた同じであれば、なんとも思わなかったかもしれない。それにしても言い過ぎな感はあるが。しかしだ。残念なことに私のその人に対する評価はもう少し異なったものなのである。
私も二年半も働いていればそこそこのもので、人頭に数えられるし、そこそこ仕事もできるほうなのであるが、そんな私でも、おっ!これは、と思うようなことをその人がやってのけたりして、私の知らなかったような知識を披露してみせたり、普通新人や、外国の方はできないよなあと思われるようなことも、平気でしれっとやってのけるのである。そのようなことが何度か一緒に働いているなかであったので、私は他の外国人のキャストと比べて、能力は決して低くないほうではないかと思っていたのだ。だから、そういう部分をみずに、だめだと一刀両断してしまうのはやや早計な気がするし、意外といいところも持ち合わせているよ、と本当ならば言ってあげたいところだった。一応私はできる限りの範囲で、その人のことをやんわりとフォローするような言説をとって、肯定も否定もしなかったのであるが。

昨日ひさしぶりに、本当にひさしぶりにブログにオリジナルの文章を書いたことによって、なんだか、いままでは作品ひとつや、社会現象ひとつに対してとても深く、重厚に考えて文章にしようとしてきた私であるけれども、それをやっていると結局疲れてしまい、ブログの更新も億劫になってしまうと思ったので、これも思考の発想を変えて、もっと軽妙洒脱に、日々思ったことなどをきっかけに、現代を評していこうではないかと思った。それが、颯爽と、軽やかに現代をきっていく、評論家としての石野幽玄である。



4月鑑賞目録


かなり充実した一月だった。これでもかなり借金返済のために仕事を無理にいれているので、それがなければさらなる鑑賞ができたことであろう。仕事の合間を縫って鑑賞した割にはすこぶる上出来である。忙しい時ほど、自分の時間を持ちたいと思うからか、作品鑑賞もはかどる。
まずは自分はブディストだといっておきながらブッダの教えを何もしらなかったので、入門書として、中村元先生と、駒澤の先輩にあたる田上太秀先生の本に学んだ。それから、本屋で平積みしてあった、宇野常寛先生と大澤真幸先生のどちらも講義録を読書。ひさびさに大学にもどったような心持がしてとてもおもしろかった。
アニメでは先月から引き続き、物語りシリーズを完全読破。なるほどこういう話だったのか。
それから平成も終わろうとしているこの時に、平成ガンダムにとりかかり、とりあえず、Vガン、Gガンを観賞。合間に世界名作劇場のロミオと青い空も鑑賞した。来月以降はガンダムW,X,世界名作劇場ではハイジなどを見ていくつもりである。
3月までの冬アニメを消化しなければと、ほとんど消化することに成功。一カ月の遅れはとったが仕方ない。即時性は難しい。しかもかなりタイトルもしぼらなければいけないし。それでも、世間で話題になった作品を二三作品取りこぼす日々である。
最近はテレビも一応鑑賞録に書いておこうと思って書いている。政治番組が多い。もちろん娯楽もたまにはみるが。

中村元『原始仏典』(2011、筑摩書房(原本1987))
田上太秀『ブッダの人生哲学「正しく生きる」ということ』(講談社、2002)
宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(2018、朝日新聞出版)
大澤真幸『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(角川書店、2018)
山登敬之『新版 子どもの精神科』(筑摩書房、2010(2005))


『囮物語』(4話、2013)
『鬼物語』(4話、2013)
『恋物語』(6話、2013)
『憑物語』(4話、2014)
『暦物語』(12話、2016)
『終物語』(上、中、下、20話、2015-17)
『傷物語』「I 鉄血篇:2016年」
「II 熱血篇:2016」
「III 冷血篇:2017」

『宇宙よりも遠い場所』(13話、2018)
『だがしかし2』(12話、2018、十五分枠)
『たくのみ』(12話、2018、十五分枠)
『デスマーチから始まる異世界物語』(12話、2018)
『続 刀剣乱舞-花丸-』(第2期)(12話、2018)
『citrus』(12話、2018)
『魔法使いの嫁』(24話、2017-18)
『スロウスタート』(12話、2018)
『サンリオ男子』(12話、2018)」
『伊藤順二コレクション』(12話、2018)
『博多豚骨ラーメンズ』(12話、2018)
『ハクメイとミコチ』(12話、2018)
『牙狼-GARO- -VANISHING LINE-』(24話、2017-18)

『ロミオの青い空』(35話、1995)
『機動戦士Vガンダム』(51話、1993-94)
『機動武闘伝Gガンダム』(49話、1994-95)

『BLAME!』(2017)

朝まで生テレビ! 2018年3月31日
池上彰のニュースそうだったのか!! 2018年3月31日 2時間スペシャル
池上彰と宇宙の旅 2018年3月28日 井ノ原快彦も参戦!身近な宇宙を徹底解説
めちゃ2イケてるッ! 最終回 5時間SP
土曜プレミアム・ENGEIグランドスラム 2018
池上彰のニュースそうだったのか!! 2018年4月14日
林修の今でしょ!講座 イノッチも波瑠も驚き春の豪華二大講座SP
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朝まで生テレビ! 4月27日:激論!安倍政権と官僚



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